山の人生
柳田国男
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山の人生と題する短い研究を、昨年『朝日グラフ』に連載した時には、一番親切だと思った友人の批評が、面白そうだがよく解らぬというのであった。ああして胡麻かすのだろうという類の酷評も、少しはあったように感じられた。もちろん甚だむつかしくして、明晰に書いてみようもないのではあったが、もしまだ出さなかった材料を出し、簡略に失した説明を少し詳しくしてみたら、あれほどにはあるまいというのが、この書の刊行にあせった真実の動機であった。ところが書いているうちに、自分にも一層解釈しにくくなった点が現れたと同時に、二十年も前から考えていた問題なるにもかかわらず、今になって突然として心づくようなことも大分あった。従ってこの一書の、自分の書斎生活の記念としての価値は少し加わったが、いよいよ以て前に作った荒筋の間々へ、切れ切れの追加をする方法の、不適当であることが顕著になった。しかしこれを書き改めるがために費すべき時間は、もうここにはないのである。そのうえに資料の新供給を外部の同情者に仰ぐためにも、一応はこの形をもって世に問う必要があるのである。なるほどこの本には賛否の意見を学者に求めるだけの、纏まった結論というものはないかも知れぬが、それでも自分たち一派の主張として、新しい知識を求めることばかりが学問であることと、これを求める手段には、これまで一向に人に顧みられなかった方面が多々であって、それに今われわれが手を着けているのだということと、天然の現象の最も大切なる一部分、すなわち同胞国民の多数者の数千年間の行為と感想と経験とが、かつて観察し記録しまた攻究せられなかったのは不当だということと、今後の社会改造の準備にはそれが痛切に必要であるということとは、少なくとも実地をもってこれを例証しているつもりである。学問をもって文雅の士の修養とし、ないしは職業捜索の方便と解して怪まなかった人々は、このいわゆる小題大做に対して果していかなる態度を取るであろうか。それも問題でありまた現象である故に、最も精細に観測してみようと思う。
今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞で斫り殺したことがあった。
女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰ってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手で戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。
眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、頻りに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧を磨いでいた。阿爺、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢に入れられた。
この親爺がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細あってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕ばみ朽ちつつあるであろう。
また同じ頃、美濃とは遙かに隔たった九州の或る町の囚獄に、謀殺罪で十二年の刑に服していた三十あまりの女性が、同じような悲しい運命のもとに活きていた。ある山奥の村に生まれ、男を持ったが親たちが許さぬので逃げた。子供ができて後に生活が苦しくなり、恥を忍んで郷里に還ってみると、身寄りの者は知らぬうちに死んでいて、笑い嘲ける人ばかり多かった。すごすごと再び浮世に出て行こうとしたが、男の方は病身者で、とても働ける見込みはなかった。
大きな滝の上の小路を、親子三人で通るときに、もう死のうじゃないかと、三人の身体を、帯で一つに縛りつけて、高い樹の隙間から、淵を目がけて飛びこんだ。数時間ののちに、女房が自然と正気に復った時には、夫も死ねなかったものとみえて、濡れた衣服で岸に上って、傍の老樹の枝に首を吊って自ら縊れており、赤ん坊は滝壺の上の梢に引懸って死んでいたという話である。
こうして女一人だけが、意味もなしに生き残ってしまった。死ぬ考えもない子を殺したから謀殺で、それでも十二年までの宥恕があったのである。このあわれな女も牢を出てから、すでに年久しく消息が絶えている。多分はどこかの村の隅に、まだ抜け殻のような存在を続けていることであろう。
我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遙かに物深い。また我々をして考えしめる。これは今自分の説こうとする問題と直接の関係はないのだが、こんな機会でないと思い出すこともなく、また何ぴとも耳を貸そうとはしまいから、序文の代りに書き残して置くのである。
黙って山へ入って還って来なかった人間の数も、なかなか少ないものではないようである。十二三年前に、尾張瀬戸町にある感化院に、不思議な身元の少年が二人まで入っていた。その一人は例のサンカの児で、相州の足柄で親に棄てられ、甲州から木曾の山を通って、名古屋まできて警察の保護を受けることになった。
今一人の少年はまる三年の間、父とただ二人で深山の中に住んでいた。どうして出てきたのかは、この話をした二宮徳君も知らなかったが、とにかくに三年の間は、火というものを用いなかったと語ったそうである。食物はことごとく生で食べた。小さな弓を造って鳥や魚を射て捕えることを、父から教えられた。
春が来ると、いろいろの樹の芽を摘んでそのまま食べ、冬は草の根を掘って食べたが、その中には至って味の佳いものもあり、年中食物にはいささかの不自由もしなかった。衣服は寒くなると小さな獣の皮に、木の葉などを綴って着たという。
ただ一つ難儀であったのは、冬の雨雪の時であった。岩の窪みや大木のうつろの中に隠れていても、火がないために非常に辛かった。そこでこういう場合のために、川の岸にあるカワヤナギの類の、髯根のきわめて多い樹木を抜いてきて、その根をよく水で洗い、それを寄せ集めて蒲団のかわりにしたそうである。
話が又聞きで、これ以上の事は何も分らない。この事を聴いた時には、すぐにも瀬戸へ出かけて、も少し前後の様子を尋ねたいと思ったが、何分にも暇がなかった。かの感化院には記録でも残ってはいないであろうか。この少年がいろいろの身の上話をしたということだが、何かよくよくの理由があって、彼の父も中年から、山に入ってこんな生活をしたものと思われる。
サンカと称する者の生活については、永い間にいろいろな話を聴いている。我々平地の住民との一番大きな相違は、穀物果樹家畜を当てにしておらぬ点、次には定まった場処に家のないという点であるかと思う。山野自然の産物を利用する技術が事のほか発達していたようであるが、その多くは話としても我々には伝わっておらぬ。
冬になると暖かい海辺の砂浜などに出てくるのから察すると、彼らの夏の住居は山の中らしい。伊豆へは奥州から、遠州へは信濃から、伊勢の海岸へは飛騨の奥から、寒い季節にばかり出てくるということも聴いたが、サンカの社会には特別の交通路があって、渓の中腹や林の片端、堤の外などの人に逢わぬところを縫うている故に、移動の跡が明らかでないのである。
磐城の相馬地方などでは、彼らをテンバと呼んでいる。山の中腹の南に面した処に、いくつかの岩屋がある。秋もやや末になって、里の人たちが朝起きて山の方を見ると、この岩屋から細々と煙が揚がっている。ああもうテンバがきているなどという中に、子を負うた女がささらや竹籠を売りにくる。箕などの損じたのを引き受けて、山の岩屋に持って帰って修繕してくる。
土地の人とはまるまる疎遠でもなかった。若狭・越前などでは河原に風呂敷油紙の小屋を掛けてしばらく住み、断りをいってその辺の竹や藤葛を伐ってわずかの工作をした。河川改修が河原を整理してしまってからは、金を払って材料の竹を買う者さえあった。しかも土着する者は至って稀で、多くは程なくいずれへか去ってしまう。路の辻などに樹の枝または竹をさし、しるしを残して行く者は彼らであった。小枝に由って先へ行った者の数や方角を、後から来る者に知らしめる符号があるらしい。
仲間から出て常人に交わる者、ことに素性と内情とを談ることを甚だしく悪むが、外から紛れてきてサンカの群に投ずる常人は次第に多いようである。そうでなくとも人に問われると、遠い国郡を名乗るのが普通で、その身の上話から真の身元を知ることはむつかしい。大体においおい世間なみの衣食を愛好する風を生じ、中には町に入って混同してしまおうとする者も多くなった。それが正業を得にくい故に、おりおりは悪いこともするのだが、彼らの悪事は法外に荒いために、かえって容易にサンカの所業なることが知れるという。
しかも世の中とこれだけの妥協すらも敢てせぬ者が、まだ少しは残っているかと思われた。大正四年の京都の御大典の時は、諸国から出てきた拝観人で、街道も宿屋も一杯になった。十一月七日の車駕御到着の日などは、雲もない青空に日がよく照って、御苑も大通りも早天から、人をもって埋めてしまったのに、なお遠く若王子の山の松林の中腹を望むと、一筋二筋の白い煙が細々と立っていた。ははあサンカが話をしているなと思うようであった。もちろん彼らはわざとそうするのではなかった。
かつて羽前の尾花沢附近において、一人の土木の工夫が、道を迷うて山の奥に入り人の住みそうにもない谷底に、はからず親子三人の一家族を見たことがある。これは粗末ながら小屋を建てて住んではいたが、三人ともに丸裸であったという。
女房がひどく人を懐しがって、いろいろと工夫に向かって里の話を尋ねた。なんでもその亭主という者は、世の中に対してよほど大きな憤懣があったらしく、再び平地へは下らぬという決心をして、こんな山の中へ入ってきたのだといった。
工夫は一旦その処を立ち去ったのち、再び引き返して同じ小屋に行ってみると、女房が彼と話をしたのを責めるといって、縛り上げて折檻をしているところであったので、もう詳しい話も聞きえずに、早々に帰ってきて、その後の事は一切不明になっている。
この話は山方石之助君から十数年前に聴いた。山に住む者の無口になり、一見無愛想になってしまうことは、多くの人が知っている。必ずしも世を憤って去った者でなくとも、木曾の山奥で岩魚を釣っている親爺でも、たまたま里の人に出くわしても何の好奇心もなく見向きもせずに路を横ぎって行くことがある。文字に現わせない寂寞の威圧が、久しうして人の心理を変化せしめることは想像することができる。
そうしてこんな人にわずかな思索力、ないしはわずかな信心があれば、すなわち行者であり、或いは仙人であり得るかと思われる。また天狗と称する山の霊が眼の色怖ろしくやや気むつかしくかつ意地悪いものと考えられているのも、一部分はこの種山中の人に逢った経験が、根をなしているのかも知れぬ。
近世の武人などは、主君長上に対して不満のある場合に、無謀に生命を軽んじ死を急ぎ、さらば討死をして殿様に御損を掛け申すべしと、いったような話が多かった。戦乱の打ち続いた時世としては、それも自然なる決意でありえたが、人間の死ぬ機会はそう常にあったわけでもない。死なずに世の中に背くという方法は必ずしも時節を待つという趣意でなくとも、やはり山寺にでも入って法師とともに生活するのほかはなかった。のちにはそれを出離の因縁とし、菩提の種と名づけて悦喜した者もあるが、古来の遁世者の全部をもって、仏道勝利の跡と見るのは当をえないと思う。
その上に山に入り旅に出れば、必ずそこに頃合の御寺があるというわけでもなかった。旅僧の生活をしようと思えば、少しは学問なり智慧なりがなければならなかった。なんの頼むところもない弱い人間の、ただいかにしても以前の群とともにおられぬ者には、死ぬか今一つは山に入るという方法しかなかった。従って生活の全く単調であった前代の田舎には、存外に跡の少しも残らぬ遁世が多かったはずで、後世の我々にこそこれは珍しいが、じつは昔は普通の生存の一様式であったと思う。
それだけならよいが、人にはなおこれという理由がなくてふらふらと山に入って行く癖のようなものがあった。少なくとも今日の学問と推理だけでは説明することのできぬ人間の消滅、ことにはこの世の執着の多そうな若い人たちが、突如として山野に紛れこんでしまって、何をしているかも知れなくなることがあった。自分がこの小さな書物で説いて見たいと思うのは主としてこうした方面の出来事である。これが遠い近いいろいろの民族の中にもおりおりは経験せられる現象であるのか。はたまた日本人にばかり特に、かつ頻繁に繰り返されねばならぬ事情があったのか。それすらも現在はなお明瞭でないのである。しかも我々の間には言わず語らず、時代時代に行われていた解釈があった。それがある程度まで人の平常の行為と考え方とを、左右していたことは立証することができる。我々の親たちの信仰生活にも、これと交渉する部分が若干はあった。しかも結局は今なお不可思議である以上、将来いずれかの学問がこの問題を管轄すべきことは確かである。棄てて顧みられなかったのはむしろ不当であると思う。
これは以前新渡戸博士から聴いたことで、やはり少しも作り事らしくない話である。陸中二戸郡の深山で、猟人が猟に入って野宿をしていると、不意に奥から出てきた人があった。
よく見ると数年前に、行方不明になっていた村の小学教員であった。ふとした事から山へ入りたくなって家を飛び出し、まるきり平地の人とちがった生活をして、ほとんと仙人になりかけていたのだが、或る時この辺でマタギの者の昼弁当を見つけて喰ったところが急に穀物の味が恋しくなって、次第に山の中に住むことがいやになり、人が懐かしくてとうとう出てきたといったそうである。それから里に戻って如何したか。その後の様子は今ではもう何ぴとにも問うことができぬ。
マタギは東北人およびアイヌの語で、猟人のことであるが、奥羽の山村には別に小さな部落をなして、狩猟本位の古風な生活をしている者にこの名がある。例えば十和田の湖水から南祖坊に逐われてきて、秋田の八郎潟の主になっているという八郎おとこなども、大蛇になる前は国境の山の、マタギ村の住民であった。
マタギは冬分は山に入って、雪の中を幾日となく旅行し、熊を捕ればその肉を食い、皮と熊胆を附近の里へ持って出て、穀物に交易してまた山の小屋へ還る。時には峰づたいに上州・信州の辺まで、下りてくることがあるという。
こんな連中でも用が済めばわが村へ戻り、また山の中でも火を焚き米を煮て食うのに、教員までもしたという人が、友もなくして何年かの間、このような忍苦の生活をなしえたのは、少なくとも精神の異状であった。しかもそれが単なる偶発の事件でなく、遠く離れた国中の山村に、往々にして聞くところの不思議であったのである。
マタギの根原に関しては、現在まだ何ぴとも説明を下しえた者はないが、岩手・秋田・青森の諸県において、平地に住む農民たちが、ややこれを異種族視していたことは確かである。津軽の人が百二三十年前に書いた『奥民図彙』には、一二彼らが奇習を記し、菅江真澄の『遊覧記』の中にも、北秋田の山村のマタギの言葉には、犬をセタ、水をワッカ、大きいをポロというの類、アイヌの単語のたくさんに用いられていることを説いてある。
もちろんこれに由って彼らをアイヌの血筋と見ることは早計である。彼らの平地人との交通には、言語風習その他になんの障碍もなかったのみならず、少なくとも近世においては、彼らも村にいる限りは附近の地を耕し、一方にはまた農民も山家に住む者は、傍ら狩猟に因って生計を補うた故に、名称以外には明白に二者を差別すべきものはないのである。
ただ関東以西には猟を主業とする者が、一部落をなすほどに多く集まっておらぬに反して奥羽の果に行くとマタギの村という者がおりおりある。熊野・高野を始めとして霊山開基の口碑には猟師が案内をしたといい、または地を献上したという例少なからず、それを目して異人仙人と称していて、通例の農夫はかつてこの物語に参与しておらぬのを見ると、彼ら山民の土着が一期だけ早かったか、または土着の条件が後世普通の耕作者とは、別であったかということだけは察せられる。
しかも猟に関する彼らの儀式、また信仰には特殊なるものが多い。万次万三郎の兄弟が、山の神を助けて神敵を退治し、褒美に狩猟の作法を授けられたなどという古伝もその一例である。東北ではシナの木のことをマダといい、山民は多くその樹皮を利用する。マタギ村でも盛んにこれを採取しまた周囲にこれを栽培するが、そのマダとは関係がないといっている。或いは二股の木の枝を杖にして、山中を行くような宗教上の習慣でもあって、こんな名称を生じたのではないかとも思うが、彼ら自身は何と自ら呼ぶかを知らぬから、いまだこれを断定することができぬのである。
八郎という類の人が山中に入り、奇魚を食って身を蛇体に変じたという話は、広く分布しているいわゆる低級神話の類であるが、津軽・秋田で彼をマタギであったと伝えたのには、何か考うべき理由があったろうと思う。
天野信景翁の『塩尻』には、尾州小木村の百姓の妻の、産後に発狂して山に入り、十八年を経てのち一たび戻ってきた者があったことを伝えている。裸形にしてただ腰のまわりに、草の葉を纏うていたとある。山姥の話の通りであるが、しかも当時の事実譚であった。
この女も或る猟人に逢って、身の上話をしたという。飢を感ずるままに始めは虫を捕って喰っていたが、それでは事足らぬように覚えて、のちには狐や狸、見るに随い引裂いて食とし、次第に力づいて、寒いとも物ほしいとも思わぬようになったと語る。一旦は昔の家に還ってみたが、身内の者までが元の自分であることを知らず、怖れて騒ぐのでせん方もなく、再び山中の生活に復ってしまったというのは哀れである。
明治の末頃にも、作州那岐山の麓、日本原の広戸の滝を中心として、処々に山姫が出没するという評判が高かった。裸にして腰のまわりだけに襤褸を引き纏い、髪の毛は赤く眼は青くして光っていた。或る時も人里近くに現われ、木こりの小屋を覗いているところを見つかり、ついにそこの人夫どもに打ち殺された。しかるにそれをよく調べてみると、附近の村の女であって、ずっと以前に発狂して、家出をしてしまった者であることが分った。
女にはもちろん不平や厭世のために、山に隠れるということがない。気が狂った結果であることは、その挙動を見れば誰にでも分った。羽後と津軽の境の田代岳の麓の村でも、若い女が山へ遁げて入ろうとするのを、近隣の者が多勢追いかけて、連れて戻ろうと引き留めているうちに、えらい力を出して振り切って、走り込んでしまったという話を狩野亨吉先生から承ったことがある。
山に走り込んだという里の女が、しばしば産後の発狂であったことは、事によると非常に大切な問題の端緒かも知れぬ。古来の日本の神社に従属した女性には、大神の指命を受けて神の御子を産み奉りし物語が多い。すなわち巫女は若宮の御母なるが故に、ことに霊ある者として崇敬せられたことは、すこぶるキリスト教などの童貞受胎の信仰に似通うたものがあった。婦人の神経生理にもしかような変調を呈する傾向があったとすれば、それは同時にまた種々の民族に一貫した宗教発生の一因子とも考えることを得る。しかしもちろん物のついでなどをもって、軽々に取扱うべき問題ではないから、今は単に一二の類例を挙げて置くに止めるが、その一つは三百余年前に、因幡国にあった話で、少し長たらしいが原文のままを抄出する。『雪窓夜話』の上巻に書いてある話である。
「寛永年中のこと也。安成久太夫といふ武士あり。備前因幡国換への時節にて、未だ居屋敷も定まらず、鹿野(今の気高郡鹿野町)の在に仮に住みけり。或夜山に入りけるに、月の光も薄く、木立も奥暗き岨陰より、何とも知らぬ者駆け出で、久太夫が連れたる犬を追掛け、遙かの谷に追落して、傍なる巌窟にかけ入りたり。久太夫不思議に思ひ、犬を呼返して其穴に追入れんとするに、犬怖れて入らざれば若党に命じてかの者を探り求めしむ。人のたけばかりなる猿の如きものなり。若党引出さんとするに、力強く爪尖りて、若党の手を掻破りけるを、漸くに引出したり。久太夫葛を用ゐて之を縛り、村里へ引出し、燈をとぼして之を見るに髪長く膝に垂れ、面相全く女に似て、その荒れたること絵にかける夜叉の如し。何を尋ねても物言ふこと無く、只にこ〳〵と打笑ふのみ也、食を与ふれども食はず水を与ふれば飲みたり。遍く里人に尋ぬれども、仔細を知る者無し。一村集まりて之を見物す。其中に七十余の老農ありて言ふには、昔此村に産婦あり。俄かに狂気して駆け出でけるが、鷲峰山に入りたり。親族尋ね求むと雖、終に遇ふこと無しと言ひ伝へたり。其年暦を計るに凡そ百年に余れり。もしは此者にてもあらんかと也。久太夫速かに命を助け山に追ひ返しけるに、その走ること甚だ早し。其後又之を見る者無しといへり。」
佐々木喜善君の報告に、今から三年ばかり前、陸中上閉伊郡附馬牛村の山中で三十歳前後の一人の女が、ほとんと裸体に近い服装に樹の皮などを纏いつけて、うろついていたのを村の男が見つけた。どこかの炭焼小屋からでも持ってきたものかこの辺でワッパビツと名づける山弁当の大きな曲げ物を携え、その中にいろいろの虫類を入れていて、あるきながらむしゃむしゃと食べていたという。遠野の警察署へ連れてきたが、やはり平気で蛙などを食っているので係員も閉口した。その内に女が朧気な記憶から、ふと汽車の事を口にし、それからだんだんに生まれた家の模様、親たちの顔から名前を思い出し、ついには村の名までいうようになったが、聴いて見ると和賀郡小山田村の者で七年前に家出をして山に入ったということがわかった。やはり産後であって、不意に山に入ったというのであった。親を警察へ呼び出して連れて行かせたが、一時はこの町で非常な評判であった。なお同じ佐々木君の話の中にこの附近の村の女の二十四五歳の者が、夫とともに山小屋に入っていて、終日夫が遠くに出て働いている間、一人で小屋にいて発狂したことがあった。のちに落着いてから様子を尋ねて見ると、或る時背の高い男が遣ってきて、それから急に山奥へ行きたくなって、堪えられなかったといったそうである。
羽後の田代岳に駆け込んだという北秋田の村の娘は、その前から口癖のように、山の神様の処へお嫁入りするのだと、いっていたそうである。古来多くの新米の山姥、すなわちこれから自分の述べたいと思う山中の狂女の中には、何か今なお不明なる原因から、こういう錯覚を起こして、欣然として自ら進んで、こんな生活に入った者が多かったらしいのである。
そうすると我々が三輪式神話の残影と見ている竜婚・蛇婚の国々の話の中にも、存外に起原の近世なるものがないとは言われぬ。例えば上州の榛名湖においては、美しい奥方は強いて供の者を帰して、しずしずと水の底に入って往ったと伝え、美濃の夜叉ヶ池の夜叉御前は、父母の泣いて留めるのも聴かず、あたら十六の花嫁姿で、独り深山の水の神にとついだといっている。古い昔の信仰の影響か、または神話が本来かくのごとくにして、発生すべきものであったのか、とにかくにわが民族のこれが一つの不思議なる癖であった。
近ごろ世に出た『まぼろしの島より』という一英人の書翰集に、南太平洋のニウヘブライズ島の或る農場において、一夜群衆のわめき声とともに、頻に鉄砲の音がするので、驚いて飛び出して見ると、若い一人の土人が魔神に攫まれて、森の中へ牽いて行かれるところであった。魔神の姿はもとより何ぴとにも見えないが、その青年が右の手を前へ出して踏止まろうと身をもがく形は、確かに捕われた者の様子であった。他の土人たちは声で嚇し、かつ鉄砲をその前後の空間に打ち掛けて、悪魔を追い攘おうとしたがついに効を奏せず、捕われた者は茂みに隠れてしまった。
翌朝その青年は正気に復して、戻って常のごとく働こうとしたけれども、仲間の者は彼が魔神と何か契約をしてきたものと疑い、畏れ憎んで近づかず、その晩のうちに毒殺してしまったと記している。わが邦で狐や狸に憑かれたという者が、その獣らしい挙動をして、傍の者を信ぜしめるのと、最もよく似た精神病の兆候である。
猿の婿入という昔話がある。どこの田舎に行ってもあまり有名であるために、かえって子供までが顧みようとせぬようになったが、じつは日本にばかり特別によく成育した話で、しかも最初いかなる事情から、こんな珍しい話の種が芽をくむに至ったかは、説明しえた人がないのである。三人ある娘の三番目がことに発明で、一旦は猿に連れられて山中に入って行くが、のちに才智をもって相手を自滅させ、安全に親の家に戻ってくることになっているのは、もとは明らかに魔界征服譚の一つであった。今でも落語家の持っている王子の狐、或いは天狗の羽団扇を欺き奪う話などと同様に、だんだんに敵の愚かさが誇張せられて、聴く人の高笑いを催さずには置かなかったのは、武勇勝利の物語に、負けて遁げた者の弱腰を説くのと、目的は一つであって、つまりは猿の婿も怖るるに足らずという教育の、かつて必要であったことを意味している。餅を搗いて臼ながら猿に負わせたり、臼を卸さずに藤の花を折らせたり、いろいろと無理な策略をもって相手を危地に陥れた話であるが、地方によっては瓢箪と針千本とを、親から貰い受けて出て行ったことになっているのは、すなわち蛇神退治の古くからの様式で、猿の方にはむしろ不用なことであった。変化か混同かいずれにしても、竜蛇の婿入の数多い諸国の例がこれと系統の近かったことだけは察せられるので、ただ山城蟹旛寺の縁起などにおいては、外部の救援が必要であったに反して、こちらはかよわい小娘の智謀一つで、よく自ら葛藤を脱しえた点を、異なれりとするのみである。
大和の三輪の緒環の糸、それから遠く運ばれたらしい豊後の大神氏の花の本の少女の話は、土地とわずかな固有名詞とをかえて、今でも全国の隅々まで行われているが終始一貫した発見の糸口は、衣裳の端に刺した一本の針であった。ところが後世になるにつれて、勝利は次第に人間の方に帰し蛇の婿は刺された針の鉄気に制せられ、苦しんで死んだことになっている例が多い。糸筋を手繰って窃かに洞穴の口に近づいて立聴きすると。親子らしい大蛇がひそひそと話をしている。だから留めるのに人間などに思いを掛けるから命を失うことになったのだと一方がいうと、それでも種だけは残してきたから本望だと死なんとする者が答える。いや人間は賢いものだ、もし蓬と菖蒲の二種の草を煎じてそれで行水を使ったらどうすると、大切な秘密を洩してしまったことにもなっている。たった一つの小さな昔話でも、だんだんに源を尋ねて行くと信仰の変化が窺われる。もとは単純に指令に服従して、怖しい神の妻たることに甘じたものが、のちにはこれを避けまたは遁れようとしたことが明らかに見えるのである。しかも或いは婚姻慣習の沿革と伴うものかも知らぬが、猿の婿入の話には後代の蛇婿入譚とともに、娘の父親の約諾ということが、一つの要件をなしている。そうでなくとも堂々と押しかけてきて一門を承知させたことになっていて、大昔の神々のごとく夜陰密かに通ってきて後に露顕したものではなかった。そうして天下晴れて連れて還ったことに話はできている。すなわち山と人界との縁組は稀有というのみで、想像しえられぬほどの事件ではなかったが、おいおいにこれを忌み憎むの念が普通の社会には強くなり、百方手段を講じてその弊害を防ぎつつ、なお十分なる効果を挙げえないうちに、国は次第に近世の黎明になったのである。
狒々という大猿が日本にも住むということはもう信ずることがむつかしくなった。出逢った見たという話は記事にも画にも残っているものが多いが、注意してみると、まるまる幻覚の産物でなければ、必ずただの老猿を誤ってそう呼んだまでである。従って岩見重太郎、もしくは『今昔物語』のちゅうさんこうやのごとき例は、すこしでも動物学の知識を損益するところはないわけである。しかも昔話にまでなって、このように弘く伝わっているのを見ると、猿の婿入は恐らくある遠い時代の現実の畏怖であった。少なくとも女性失踪の不思議に対する、世間普通の解釈であった。どうしてそんな愚かしい事が、信じえられたかと思うようであるが、他に真相の説明がつかなかった時代だから仕方がない。一種の精神病というがごとき漠然たる理由では、今日でもまだ承知する者は少ないのである。正月と霜月との月初めの或る日を、山の神の樹かぞえなどと称して、戒めて山に入らぬ風習は現に行われている。もしこの禁を犯せばいかなる制裁があるかと問えば、算え込まれて樹になってしまうというもあれば、山の神に連れて行かれるなどともいっているところがある。その山の神様はもとより神官の説くがごとき、大山祇命ではなかったのである。狼を山神の姿と見た言い伝えも多いが、猿はその一段の人間らしさから、かつては信仰の対象となっていた証拠もいろいろある。中世なんらか特別の理由があって、その地位は動揺したものらしい。その歴史を今少し考えて見ない以上、多くの昔話の意味がはっきりとせぬのも、やむをえざる次第である。
北国筋の或る大都会などは、ことに迷子というものが多かった。二十年ほど前までは、冬になると一晩としていわゆる鉦太鼓の音を聞かぬ晩はないくらいであったという。山が近くて天狗の多い土地だから、と説明せられていたようである。
東京でも以前はよく子供がいなくなった。この場合には町内の衆が、各一個の提灯を携えて集まり来たり、夜どおし大声で喚んで歩くのが、義理でもありまた慣例でもあった。関東では一般に、まい子のまい子の何松やいと繰り返すのが普通であったが、上方辺では「かやせ、もどせ」と、ややゆるりとした悲しい声で唱えてあるいた。子供にもせよ紛失したものを尋ねるのに、鉦太鼓でさがすというはじつは変なことだが、それは本来捜索ではなくして、奪還であったから仕方がない。
もし迷子がただの迷子であるならば、こんな事をしても無益なかわりに、たいていはその日その夜のうちに消息が判明する。二日も三日も捜しあるいて、いかにしても見つからぬというのが神隠しで、これに対しては右のごとき別種の手段が、始めて必要であったのだが、前代の人たちは久しい間の経験によって、子供がいなくなれば最初からこれを神隠しと推定して、それに相応する処置を執ったものである。
神隠しをする神はいかなる悪い神であったか。近世人の思想においては、必ずしもごく精確に知られてはなかった。通例は天狗・狗賓というのが最も有力なる嫌疑者であったが、それはこのように無造作なる示威運動に脅かされて、取った児をまた返すような気の弱い魔物ともじつは考えられていなかった。
狐もまた往々にして子供を取って隠す者と、考えられている地方があった。そういう地方では狐のわざと想像しつつも、やはり盛んに鉦太鼓を叩いたのであるが、今では単に狐はしばらくの間、人を騙し迷わすだけとして、これを神隠しの中にはもう算えない田舎がだんだんに多くなって行くかと思う。近年の狐の悪戯はたいていは高が知れていた。誰かが行き合わせて大声を出し、または背中を一つ打ったら正気がついたという風で、若い衆やよい年輩の親爺までが、夜どおし近所の人々に心配をかけ、朝になって見ると土手の陰や粟畠のまん中に、きょとんとして立っていたなどということも、またすでに昔話の部類に編入せられようとしているのである。
しかし寂しい在所の村はずれ、川端、森や古塚の近くなどには、今でも「良くない処だ」というところがおりおりあって、その中には悪い狐がいるという噂をするものも少なくはない。神隠しの被害は普通に人一代の記憶のうちに、三回か五回かは必ず聴くところで、前後の状況は常にほぼ一様であった。従って捜索隊の手配路順にも、ほぼ旧来のきまりがあり、事件の顛末も人の名だけが、時々新しくなるばかりで、各地各場合において、大した変化を見なかったようである。
しかも経験の乏しい少年少女に取っては、これほど気味の悪い話はなかった。私たちの村の小学校では、冬は子供が集まると、いつもこんな話ばかりをしていた。それでいて奇妙なことには、実際は狐につままれた者に、子供は至って少なく、子供の迷子は多くは神隠しの方であった。
子供のいなくなる不思議には、おおよそ定まった季節があった。自分たちの幽かな記憶では秋の末から冬のかかりにも、この話があったように思うが、或いは誤っているかも知れぬ。多くの地方では旧暦四月、蚕の上簇や麦苅入れの支度に、農夫が気を取られている時分が、一番あぶないように考えられていた。これを簡明に高麦のころと名づけているところもある。つまりは麦が成長して容易に小児の姿を隠し、また山の獣などの畦づたいに、里に近よるものも実際に多かったのである。高麦のころに隠れん坊をすると、狸に騙されると豊後の奥ではいうそうだ。全くこの遊戯は不安心な遊戯で、大きな建物などの中ですらも、稀にはジェネヴィエバのごとき悲惨事があった。まして郊野の間には物陰が多過ぎた。それがまたこの戯れの永く行われた面白味であったろうが、幼い人たちが模倣を始めたより更に以前を想像してみると、忍術などと起原の共通なる一種の信仰が潜んでいて、のち次第に面白い村の祭の式作法になったものかと思う。
東京のような繁華の町中でも、夜分だけは隠れんぼはせぬことにしている。夜かくれんぼをすると鬼に連れて行かれる。または隠し婆さんに連れて行かれるといって、小児を戒める親がまだ多い。村をあるいていて夏の夕方などに、児を喚ぶ女の金切声をよく聴くのは、夕飯以外に一つにはこの畏怖もあったのだ。だから小学校で試みに尋ねてみても分るが、薄暮に外におりまたは隠れんぼをすることが何故に好くないか、小児はまだその理由を知っている。福知山附近では晩に暗くなってからかくれんぼをすると、隠し神さんに隠されるというそうだが、それを他の多くの地方では狸狐といい、または隠し婆さんなどともいうのである。隠し婆は古くは子取尼などともいって、実際京都の町にもあったことが、『園太暦』の文和二年三月二十六日の条に出ている。取上げ婆の子取りとはちがって、これは小児を盗んで殺すのを職業にしていたのである。なんの為にということは記してないが、近世に入ってからは血取とも油取とも名づけて、罪なき童児の血や油を、何かの用途に供するかのごとく想像し、近くは南京皿の染附に使うというがごとき、いわゆる纐纈城式の風説が繰り返された。そうしてまだ全然の無根というところまで、突き留められてはいないのである。
しかし少なくともこの世評の大部分が、一種の伝統的不安であり、従って話であることは時過ぎて始めてわかった。例えば迷子が黙って青い顔をして戻ってくると、生血を取られたからだと解して悲んだ者もあったが、そんな方法のありえないことがもう分って、だんだんにそうはいわなくなった。秩父地方では子供が行方不明になるのを、隠れ座頭に連れて行かれたといい、またはヤドウカイに捕られたというそうだが、これなどは単純な誤解であった。隠れ座頭は弘く奥羽・関東にわたって、巌窟の奥に住む妖怪と信ぜられ、相州の津久井などでは踏唐臼の下に隠れているようにもいっていた。すなわち普通の人の眼に見えぬ社会の住民ではあったのだが、これを座頭としたのは右のごとき地底の国を、隠れ里と名づけたのが元である。隠れ里本来は昔話の鼠の浄土などのように、富貴具足の仙界であって、祷れば家具を貸し金銭を授与したなどと、説くのが昔の世の通例であったのを、人の信仰が変化したから、こんな恐ろしい怪物とさえ解せられた。多分は座頭の職業に若干の神秘分子が、伴うていた結果であろう。
それからヤドウカイはまたヤドウケと呼ぶ人もあった。文字には夜道怪と書いて子取の名人のごとく伝えられるが、じつはただの人間の少し下品な者で、中世高野聖の名をもって諸国を修行した法師すなわち是である。武州小川の大塚梧堂君の話では、夜道怪は見た者はないけれども、蓬髪弊衣の垢じみた人が、大きな荷物を背負うてあるくのを、まるで夜道怪のようだと土地ではいうから、大方そんな風態の者だろうとのことである。実際高野聖は行商か片商売で、いつも強力同様に何もかも背負うてあるいた。そうして夕方には村の辻に立って、ヤドウカと大きな声でわめき、誰も宿を貸しましょと言わぬ場合には、また次の村に向って去った。旅に摺れて掛引が多く、その上おりおりは法力を笠に着て、善人たちを脅かした故に、「高野聖に宿かすな、娘取られて恥かくな」などという、諺までもできたのである。だんだんこんな者が村に来なくなってから、単に子供を嚇す想像上の害敵となって永く残りその子供がまた成人して行くうちに、次第に新しい妖怪の一種にこれを算えるに至ったのは注意すべき現象だと思う。我々日本人の精神生活の進化には、こういう村里の隠し神のようなものまでが、取り残されていることはできなかったのである。
先頃も六つとかになる女の児が、神奈川県の横須賀から汽車に乗ってきて、東京駅の附近をうろついており、警察の手に保護せられた。大都のまん中では、もとより小児の親にはぐれる場合も多かったろうけれども、幼小な子供が何ぴとにも怪まれずに、こんなに遠くまできていたというは珍しい。故に昔の人もこれらの実例の中で、特に前後の事情の不可思議なるものを迷子と名づけ、冒涜を忌まざる者は、これを神隠しとも呼んでいたのである。
村々の隣に遠く野山の多い地方では、取分けてこの類の神隠しが頻繁で、哀れなることには隠された者の半数は、永遠に還って来なかった。私は以前盛んに旅行をしていたころ、力めて近代の地方の迷子の実例を、聞いて置こうとしたことがあった。伊豆の松崎で十何年前にあったのは、三日ほどしてから東の山の中腹に、一人で立っているのを見つけだした。そこはもう何度となく、捜す者が通行したはずだのにと、のちのちまで土地の人が不思議にした。なおそれよりも前に、上総の東金附近の村では、これも二三日してから山の中の薄の叢の中に、しゃがんでいたのをさがしだしたが、それから久しい間、抜け殻のような少年であったという。
珍しい例ほど永く記憶せられるのか、古い話には奇抜なるものが一層多い。親族が一心に祈祷をしていると、夜分雨戸にどんと当る物がある。明けて見るとその児が軒下にきて立っていた。或いはまた板葺き屋根の上に、どしんと物の落ちた響がして、驚いて出てみたら、気を失ってその児が横たわっていた、という話もある。もっとえらいのになると、二十年もしてから阿呆になってひょっこりと出てきた。元の四つ身の着物を着たままで、縫目が弾けて綻びていたなどと言い伝えた。もちろん精確なる記録は少なく、概して誇張した噂のみのようであった。学問としての研究のためには、更に今後の観察を要するはもちろんである。
愛知県北設楽郡段嶺村大字豊邦字笠井島の某という十歳ばかりの少年が、明治四十年ごろの旧九月三十日、すなわち神送りの日の夕方に、家の者が白餅を造るのに忙しい最中、今まで土間にいたと思ったのが、わずかの間に見えなくなった。最初は気にもしなかったが、神祭を済ましてもまだ姿が見えず、あちこちと見てあるいたが行方が知れぬので、とうとう近所隣までの大騒ぎとなった。方々捜しあぐんで一旦家の者も内に入っていると、不意におも屋の天井の上に、どしんと何ものか落ちたような音がした。驚いて梯子を掛けて昇ってみると、少年はそこに倒れている。抱いて下へ連れてきてよく見ると、口のまわりも真白に白餅だらけになっていた。(白餅というのは神に供える粢のことで、生の粉を水でかためただけのものである。)気の抜けたようになっているのを介抱して、いろいろとして尋ねてみると少年はその夕方に、いつのまにか御宮の杉の樹の下に往って立っていた。するとそこへ誰とも知らぬ者が遣ってきて彼を連れて行った。多勢の人にまじって木の梢を渡りあるきながら、処々方々の家をまわって、行く先々で白餅や汁粉などをたくさん御馳走になっていた。最後にはどこか知らぬ狭いところへ、突き込まれるようにして投げ込まれたと思ったが、それがわが家の天井であったという。それからややしばらくの間その少年は、気が疎くなっていたようだったと、同じ村の今三十五六の婦人が話をしたという(早川孝太郎君報)。
石川県金沢市の浅野町で明治十年ごろに起こった出来事である。徳田秋声君の家の隣家の二十歳ばかりの青年が、ちょうど徳田家の高窓の外にあった地境の大きな柿の樹の下に、下駄を脱ぎ棄てたままで行方不明になった。これも捜しあぐんでいると、不意に天井裏にどしんと物の堕ちた音がした。徳田君の令兄が頼まれて上って見ると、その青年が横たわっているので、背負うて降してやったそうである。木の葉を噛んでいたと見えて、口の端を真青にしていた。半分正気づいてから仔細を問うに、大きな親爺に連れられて、諸処方々をあるいて御馳走を食べてきた、また行かねばならぬといって、駆けだそうとしたそうである。尤も常から少し遅鈍な質の青年であった。その後どうなったかは知らぬという(徳田秋声君談)。
紀州西牟婁郡上三栖の米作という人は、神に隠されて二昼夜してから還ってきたが、その間に神に連れられ空中を飛行し、諸処の山谷を経廻っていたと語った。食物はどうしたかと問うと、握り飯や餅菓子などたべた。まだ袂に残っているというので、出させて見るにみな柴の葉であった。今から九十年ほど前の事である。また同じ郡岩田の万蔵という者も、三日目に宮の山の笹原の中で寝ているのを発見したが、甚だしく酒臭かった。神に連れられて摂津の西ノ宮に行き、盆の十三日の晩、多勢の集まって酒を飲む席にまじって飲んだといった。これは六十何年前のことで、ともに宇井可道翁の『璞屋随筆』の中に載せられてあるという(雑賀貞次郎君報)。
大正十五年二月の『国民新聞』に出ていたのは、遠州相良在の農家の十六の少年、夜中の一時ごろに便所に出たまま戻らず、しばらくすると悲鳴の声が聞えるので、両親が飛び起きて便所を見たがいない。だんだんに声を辿って行くと、戸じまりをした隣家の納屋の中に、兵児帯と褌をもって両手足を縛られ、梁から兎つるしに吊されていた。早速引卸して模様を尋ねても、便所の前に行ったまでは覚えているが、それから先のことは少しも知らぬ。ただふと気がついたから救いを求めたといっていた。奇妙なことには納屋には錠がかかって、親たちは捻じ切って入った。周囲は土壁で何者も近よった様子がなかったという。警察で尋ねてみたら、今少し前後の状況が知れるかも知れぬと思う。
不意に窮屈な天井裏などに入って倒れたということは、とうてい我々には解釈しえない不思議であるが、地方には意外にその例が多い。また沖繩の島にもこれとやや似た神隠しがあって、それを物迷いまたは物に持たるるというそうである。比嘉春潮君の話によれば、かの島でモノに攫われた人は、木の梢や水面また断崖絶壁のごとき、普通に人のあるかぬところを歩くことができ、また下水の中や洞窟床下等をも平気で通過する。人が捜している声も姿もはっきりとわかるが、こちらからは物を言うことができぬ。洞窟の奥や水の中で発見せられた実例も少なくない。こういう狭い場処や危険な所も、モノに導かれると通行ができるのだが、ただその人が屁をひるときはモノが手を放すので、たちまち絶壁から落ちることがある。水に溺れる人にはこれが多いように信じられているそうである。備中賀陽の良藤という者が、狐の女と婚姻して年久しくわが家の床下に住み、多くの児女を育てていたという話なども、昔の人には今よりも比較的信じやすかったものらしい。
変態心理の中村古峡君なども、かつて奥州七戸辺の実例について調査をせられたことがあった。神に隠されるような子供には、何かその前から他の児童と、ややちがった気質があるか否か。これが将来の興味ある問題であるが、私はあると思っている。そうして私自身なども、隠されやすい方の子供であったかと考える。ただし幸いにしてもう無事に年を取ってしまってそういう心配は完全になくなった。
私の村は県道に沿うた町並で、山も近くにあるのはほんの丘陵であったが、西に川筋が通って奥在所は深く、やはりグヒンサンの話の多い地方であった。私は耳が早くて怖い噂をたくさんに記憶している児童であった。七つの歳であったが、筋向いの家に湯に招かれて、秋の夜の八時過ぎ、母より一足さきにその家の戸口を出ると、不意に頬冠りをした屈強な男が、横合から出てきて私を引抱え、とっとっと走る。怖しさの行止まりで、声を立てるだけの力もなかった。それが私の門までくると、くぐり戸の脇に私をおろして、すぐに見えなくなったのである。もちろん近所の青年の悪戯で、のちにはおおよそ心当りもついたが、その男は私の母が怒るのを恐れてか、断じて知らぬとどこまでも主張して、結局その事件は不可思議に終った。宅ではとにかく大問題であった。多分私の眼の色がこの刺戟のために、すっかり変っていたからであろうと想像する。
それからまた三四年の後、母と弟二人と茸狩に行ったことがある。遠くから常に見ている小山であったが、山の向うの谷に暗い淋しい池があって、しばらくその岸へ下りて休んだ。夕日になってから再び茸をさがしながら、同じ山を越えて元登った方の山の口へきたと思ったら、どんな風にあるいたものか、またまた同じ淋しい池の岸へ戻ってきてしまったのである。その時も茫としたような気がしたが、えらい声で母親がどなるのでたちまち普通の心持になった。この時の私がもし一人であったら、恐らくはまた一つの神隠しの例を残したことと思っている。
これも自分の遭遇ではあるが、あまり小さい時の事だから他人の話のような感じがする。四歳の春に弟が生まれて、自然に母の愛情注意も元ほどでなく、その上にいわゆる虫気があって機嫌の悪い子供であったらしい。その年の秋のかかりではなかったかと思う。小さな絵本をもらって寝ながら看ていたが、頻りに母に向かって神戸には叔母さんがあるかと尋ねたそうである。じつはないのだけれども他の事に気を取られて、母はいい加減な返事をしていたものと見える。その内に昼寝をしてしまったから安心をして目を放すと、しばらくして往ってみたらもういなかった。ただし心配をしたのは三時間か四時間で、いまだ鉦太鼓の騒ぎには及ばぬうちに、幸いに近所の農夫が連れて戻ってくれた。県道を南に向いて一人で行くのを見て、どこの児だろうかといった人も二三人はあったそうだが、正式に迷子として発見せられたのは、家から二十何町離れた松林の道傍であった。折よくこの辺の新開畠にきて働いていた者の中に、隣の親爺がいたために、すぐに私だということが知れた。どこへ行くつもりかと尋ねたら、神戸の叔母さんのところへと答えたそうだが、自分の今幽かに記憶しているのは、抱かれて戻ってくる途の一つ二つの光景だけで、その他はことごとく後日に母や隣人から聴いた話である。前の横須賀から東京駅まできた女の児の話を聴いても、自分はおおよそ事情を想像し得る。よもやこんな子が一人でいることはあるまいと思って、駅夫も乗客もかえってこれを怪まなかったのだろうが、外部の者にも諒解しえず、自身ものちには記憶せぬ衝動があって、こんな幼い者に意外な事をさせたので、調べて見たら必ず一時性の脳の疾患であり、また体質か遺伝かに、これを誘発する原因が潜んでいたことと思う。昔は七歳の少童が庭に飛降って神怪驚くべき言を発したという記録が多く、古い信仰では朝野ともに、これを託宣と認めて疑わなかった。それのみならず特にそのような傾向ある小児を捜し出して、至って重要なる任務を託していた。因童というものがすなわちこれである。一通りの方法で所要の状態に陥らない場合には、一人を取囲んで多勢で唱え言をしたり、または単調な楽器の音で四方からこれを責めたりした。警察などがやかましくなってのちは、力めて内々にその方法を講じたようだが、以前はずいぶん頻繁にかつ公然と行われたものとみえて、今もまま事と同様にこれを模倣した小児の遊戯が残っている。「中の中の小坊主」とか「かアごめかごめ」と称する遊びは、正しくその名残である。大きくなって世の中へ出てしまうと、もう我々のごとく常識の人間になってしまうが、成長の或る時期にその傾向が時あって顕れるのは、恐らくは説明可能なる生理学の現象であろう。神に隠されたという少年青年には、注意してみれば何か共通の特徴がありそうだ。さかしいとか賢いとかいう古い時代の日本語には、普通の児のように無邪気でなく、なんらかやや宗教的ともいうべき傾向をもっていることを、包含していたのではないかとも考える。物狂いという語なども、時代によってその意味はこれとほぼ同じでなかったかと思う。
運強くして神隠しから戻ってきた児童は、しばらくは気抜けの体で、たいていはまずぐっすりと寝てしまう。それから起きて食い物を求める。何を問うても返事が鈍く知らぬ覚えないと答える者が多い。それをまた意味ありげに解釈して、たわいもない切れ切れの語から、神秘世界の消息をえようとするのが、久しい間のわが民族の慣習であった。しかも物々しい評判のみが永く伝わって、本人はと見ると平凡以下のつまらぬ男となって活きているのが多く、天狗のカゲマなどといって人がこれを馬鹿にした。
この連中の見聞談は、若干の古書の中に散見している。鋭い眼をした大きな人が来いといったからついて往った。どこだか知らぬ高い山の上から、海が見えた里が見えたの類の、漠然たる話ばかり多い。ところがこれとは正反対にごくわずかな例外として、むやみに詳しく見てきた世界を語る者がある。江戸で有名な近世の記録は、『神童寅吉物語』、神界にあって高山嘉津間と呼ばれた少年の話である。これ以外にも平田派の神道家が、最も敬虔なる態度をもって筆記した神隠しの談がいくつかあるが記録の精確なるために、いよいよ談話の不精確なことがよく分る。各地各時代の神隠しの少年が、見てきたと説くところには、何一つとして一致した点がない。つまりはただその少年の知識経験と、貧しい想像力との範囲より、少しでも外へは出ていなかったのである。
故に神道があまり幽冥道を説かぬ時代には、見てきた世界は仏法の浄土や地獄であった。『続鉱石集』の下の巻に出ている「阿波国不朽物語」などはその例で、その他にも越中の立山、外南部の宇曾利山で、地獄を見たという類の物語も、正直な人が見たと主張するものは、すべてみなこの系統の話である。
『黒甜瑣語』第一編の巻三に曰く、「世の物語に天狗のカゲマと云ふことありて、爰かしこに勾引さるゝあり。或は妙義山に将て行かれて奴となり、或は讃岐の杉本坊の客となりしとも云ふ。秋田藩にてもかゝる事あり。元禄の頃仙北稲沢村の盲人が伝へし『不思議物語』にも多く見え、下賤の者には別して拘引さるゝ者多し。近くは石井某が下男は、四五度もさそはれけり。始は出奔せしと思ひしに、其者の諸器褞袍も残りあれば、それとも言はれずと沙汰せしが、一月ばかりありて立帰れり。津軽を残らず一見して、委しきこと言ふばかり無し。其後一年ほど過ぎて此男の部屋何か騒がしく、宥して下されと叫ぶ。人々出て見しに早くも影無し。此度も半月ほど過ぎて越後より帰りしが、山の上にてかの国の城下の火災を見たりと云ふ。諸人委しく其事を語らせんとすれども、辞を左右に托して言はず。若し委曲を告ぐれば身の上にも係るべしとの戒を聞きしと也。四五年を経て或人に従ひ江戸に登りしに、又道中にて行方無くなれり。此度は半年ほどして、大阪より下れり」と云う。
右の話の始めにある『不思議物語』という本は、この他にもたくさんの珍しい記事を載せてあるらしい。二百数十年前の盲人の談話ときいて、ことに一度見たいと思っている。江戸の人の神に隠された話は、また新井白石も説いている。『白石先生手簡』、年月不明、小瀬復菴に宛てた一通には、次のごとく記してある。
「正月七日の夜、某旧識の人の奴僕一人、忽に所在を失ひ候。二月二日には、御直参の人にて文筆共当時の英材、某多年の旧識、是も所在を失し、二十八日に帰られ候。其事の始末は、鬼の為に誘はれ、近く候山々経歴し見候。此外二三人失せし者をも承り候へ共、それらは某見候者にも無く候。たしかに目撃候間、如此の事また候へば云々」(末の方は誤写があるらしい)。
『神童寅吉物語』は舞台が江戸であっただけに、出た当時からすでに大評判となり、少なからず近世のいわゆる幽界研究を刺戟した。今でも別様の意味において貴重なる記録である。知っている人も多いと思うが、大正十四年の四月に、周防宮市の天行居から刊行した『幽冥界研究資料』と題する一書は、この類の珍本のいくつかを合わせて覆刻している。『嘉津間答問』四巻附録一巻は、すなわち前にいう寅吉の談話筆記で、平田翁の手を経て世に公にせられたものであるが別にそれ以外に『幸安仙界物語』三巻、紀州和歌山の或る浄土寺の小僧が、白髪の老翁に導かれてしばしば名山に往来したという話であり、『仙界真語』一巻は、尾州の藩医柳田泰治の門人沢井才一郎という者が、遠州秋葉山に入って神になったという一条で、いずれも十七歳の青年の異常なる実験を、最も誠実に記述したものである。高山嘉津間の方は、七歳の時から上野の山下で薬を売る老人につれられ、時々常陸の或る山に往来していたと語っているが実際にいなくなったのは十四の歳の五月からで、十月ほどして還ってきていとも饒舌に霊界の事情を語っていた。遍く諸州を飛行したそうだが、本居は常陸の岩間山の頂上にあった。紛れもなく天狗山人の社会で方式にも教理にも修験道の香気が強かったが、あの時代の学者たちは一種の習合をもって自派の神道の闡明にこれを利用した。それでも不用意なる少年の語の中には、あまりなる口から出まかせがあって、指摘し得べき前後の矛盾さえ多かったのだが、それは記憶の誤りだろう隠すのだろう、或いは何か凡慮に及ばぬ仔細があるのだろうと、ことごとく善意に解しようとした跡がある。非常なる骨折であった。これに比べると紀州の幸安の神隠しは、三十年余も後の事であるが、この期間の日本の学問の進歩は、早著しくその話の内容に反映している。幸安はまず和歌山近くの花山というに登り、それから九州某地の赤山というところに往ったと語ったが、赤山の住侶はいずれも仙人で、おのおの『雲笈七籖』にでもあるような高尚な漢名を持っていた。天狗などは身分の低いものだと大いにこれを軽蔑している。また支那にも飛べば北亜細亜の山にも往ったとあって、その叙説の不精確さは正に幕末ごろの外国地理の知識であった。よくもこんな話が信じられたと、今の人ならば驚くのが当然だが、道教の神秘も日本の固有信仰がこれを支配し得るかのごとく、曲解し得るだけ曲解するのが、言わばあの時代の学風であったので、すなわちたくさんの夢語りも、やはり平田翁一派の研究以外へは一足だって踏出してはいないのである。
名古屋の秋葉大権現の神異に至っては、話が更に一段と単純になっている。これは前にいう紀州の事件よりも、また十五年も後のことであるが、これに参加した人たちが学問に深入りしなかった故に、古風な民間の信仰の清らさを留めている。すなわち神隠しの青年は口が喋々と奇瑞を説かなかったかわりに、我々の説明しえないいろいろの不思議が現われ、それを見たほどの者は一人として疑い怪しむことができなかった。そうして多くの信徒の興奮と感激との間に、当の本人は霊魂のみを大神に召されて、若い骸を留めて去ったのである。およそ近代の宗教現象の記録として、これほど至純なる資料はじつは多くない。身親しくこの出来事を見聞した者の感を深め信心を新たにしたことも、誠に当然の結果のように思われる。ただ我々の意外とすることは、こういう珍しいいろいろの実験をならべてみて、一方が真実なら他方は誤りでなければならぬほどの不一致には心づかず、幽界の玄妙なる、なんのあらざる事あらんやと、一切の矛盾を人智不測の外に置こうとした、後世の学徒の態度であった。もし盲信でなければ、これは恐らく同種の偽物に対する寛容であって、やがては今日のごとき鬼術横行の原因をなしたものとも言いえられる。
江戸の高山嘉津間、和歌山の島田幸安等の行末はどうであったか。今なら尋ねて見たらまだ消息が知れるかもしれぬ。もし彼らの行者生活が長く続いていたとすれば、これらの覚書類は時の進むとともに、幾たびかその価値を変化しているはずである。少なくとも口で我々にあんなことを説いて聞かせても、もう今日では耳を傾ける者はあるまい。故に書物になって残っているというだけで、特段にこれを尊重すべき理由はない道理である。
「うそ」と「まぼろし」との境は、決して世人の想像するごとくはっきりしたものでない。自分が考えてもなおあやふやな話でも、なんどとなくこれを人に語り、かつ聴く者が毎に少しもこれを疑わなかったなら、ついには実験と同じだけの強い印象になって、のちにはかえって話し手自身を動かすまでの力を生ずるものだったらしい。昔の精神錯乱と今日の発狂との著しい相異は、じつは本人に対する周囲の者の態度にある。我々の先祖たちは、むしろ怜悧にしてかつ空想の豊かなる児童が時々変になって、凡人の知らぬ世界を見てきてくれることを望んだのである。すなわちたくさんの神隠しの不可思議を、説かぬ前から信じようとしていたのである。
室町時代の中ごろには、若狭の国から年齢八百歳という尼が京都へ出てきた。また江戸期の終りに近くなってからも、筑前の海岸に生まれた女で長命して二十幾人の亭主を取替えたという者が津軽方面に出現した。その長命に証人はなかったが、両人ながら古い事を知ってよく語ったので、聴く人はこれを疑うことができなかった。ただしその話は申合せたように源平の合戦、義経・弁慶の行動などの外には出なかった。それからまた常陸坊海尊の仙人になったのだという人が、東北の各地には住んでいた。もちろん義経の事蹟、ことに屋島・壇の浦・高館等、『義経記』や『盛衰記』に書いてあることを、あの書をそらで読む程度に知っていたので、まったくそのために当時彼が真の常陸坊なることを一人として信用せざる者はなかったのである。
今日の眼から見れば、これを信ずるのは軽率のようであり、欺く本人も憎いようだが、恐らくは本人自身も、常陸坊であり、ないしは八百比丘尼なることを、何かわけがあって固く信じていたものと思われる。それも決してありえざることではない。参河の長篠地方でおとらという狐に憑かれた者は、きっと信玄や山本勘助の話をする。この狐もまた長生で、かつて武田合戦を見物していて怪我をしたという説などが行われていたために、その後憑かれた者が、みなその合戦を知っているような気持にならずにはおられなかったのである。
若狭の八百比丘尼は本国小浜の或る神社の中に、玉椿の花を手に持った木像を安置しているのみではない。北国は申すに及ばず、東は関東の各地から、西は中国四国の方々の田舎に、この尼が巡遊したと伝うる故跡は数多く、たいていは樹を栽え神を祭り時としては塚を築き石を建てている。それが単なる偶合でなかったと思うことは、どうしてそのように長命をしたかの説明にまで、書物を媒介とせぬ一部の一致と脈絡がある。つまりは霊怪なる宗教婦人が、かつて巡国をしてきたことはあったので、その特色は驚くべき高齢を称しつつ、しかも顔色の若々しかった点にあったのである。人はずいぶんと白髪の皺だらけの顔をしていても、八百といえば嘘だと思わぬ者はないであろうに、とにかくにこれを信ぜしめるだけの、術だか力だかは持っていたのである。それが一人かはた幾人もあったのかは別として、京都の地へも文安から宝徳のころに、長寿の尼が若狭から遣ってきて、毎日多くの市民に拝まれたことは、『臥雲日件録』にも書いてあれば、また『康富記』などにもちゃんと日記として載せてあるから、それを疑うことはできないのである。尤もこの時代は七百歳の車僧のように、長生を評判にする風は流行であった。然らば何か我々の想像しえない方法が、これを証明していたのかも知れぬが、いずれにしても『平家物語』や『義経記』の非常な普及が、始めて普通人に年代の知識と、回顧趣味とを鼓吹したのはこの時代だから、比丘尼の昔語りは諸国巡歴のために、大なる武器であったことと思う。ただ自分たちの想像では、単なる作り事ではこれまでに人は欺きえない。或いは尼自身も特殊の心理から、自分がそのような古い嫗であることを信じ、まのあたり義経・弁慶一行の北国通過を、見ていたようにも感じていた故に、その言うことが強い印象となったのではなかろうか。越中立山の口碑では、結界を破って霊峰に登ろうとした女性の名を、若狭の登宇呂の姥と呼んでいる。もしこの類の山で修業した巫女が自身にそういう長命を信じている習いであったら、のちに説こうとする日向小菅岳の山女が、山に入って数百年を経たと人に語ったというのも、必ずしも作り話ではないことになるのである。やたらに人の不誠実を疑うにも及ばぬのである。
常陸坊海尊の長命ということは、今でもまだ陸前の青麻権現の信徒の中には、信じている人が大分あって、これを疑っては失礼に当るか知れぬが、じつはこの信仰には明らかに前後の二期があって、その後期においては海尊さまはもう人間ではなかったのである。これに反して足利時代の終りに近く、諸国にこの人が生きていたという話の多いのは、正しく八百比丘尼と同系統の現象であった。事のついでに少しくあのころの世間の噂を比較してみると、例えば会津の実相寺の二十三世、桃林契悟禅師号は残夢、別に自ら秋風道士とも称した老僧はその一人であった。和尚は奇行多くまた好んで源平の合戦その他の旧事を談ずるに、あたかも自身その場にいて見た者のごとくであった。無々という老翁の石城郡に住する者、かつて残夢を訪ねてきて、二人で頻りに曾我の夜討の事を話していたこともあった。しかも曾我とか源平合戦とかがもうちゃんと書物になっていることを知らず、あまり詳しいので喫驚するような人が、まだこの地方には多かったらしいのである。年を尋ねると百五六十と答え、強いて問いつめるとかえって忘れたといって教えなかった。然らば常陸坊海尊だろうと噂したというのは、恐らくはこのころすでにかの仙人がまだ生きてどこかにいるように評判する者があったからであろう。また別の伝えには福仙という鏡研ぎがきた。残夢これを見て彼は義経公の旗持ちだったというと、福仙もまた人に向って、残夢は常陸坊だと告げたともいうが、そんな事をすれば露れるにきまっている。しかも和尚は天正四年の三月に、たくましい一篇の偈を留めて円寂し、墓もその寺にあるにかかわらず、その後なお引続いて、常陸坊が生きているという説は行われた。『本朝故事因縁集』には、「海尊遁げ去りて富士山に入る、食物無し、石の上に飴の如き物多し、之を取りて食してより又飢うること無く、三百年の久しき木の葉を衣として住む。近代信濃の深山に岩窟あり、之に遊びて年未だ老いず」とある。山におりきりの仙人ならば、こんな歴史も伝わらぬ道理で、やはり時々は若狭の尼のように人間の中に入ってきていたのである。能登の狼煙村の山伏山では、常陸坊はこの地まできて義経と別れ、仙人になってこの山に住んだ、おりおりは山伏姿で出てきたと『能登国名跡志』に書いてあるが、それでは高館・衣川の昔話をするのに、甚だ勝手が悪かったわけである。加賀には残月という六十ばかりの僧、かつて犀川と浅野川の西東に流れていた時を知ってるといった。越後の田中という地にきて、小松原宗雪なる者と同宿し、穀を絶ち松脂を服して暮していたが、誰言うともなく残月は常陸坊、小松原は亀井六郎だと評判せられた。人が『義経記』を呼んで聴かせると覚えず釣込まれてそのころの話をしたと『提醒紀談』巻一にあるが、亀井と馬が合うたとすれば能登で別れてしまったのではなさそうだ。『広益俗説弁』巻十三には、海尊高館の落城に先だって山に遁れ、仙人となって富士・浅間・湯殿山などに時々出現するとあるが、羽前最上郡古口村の外川神社の近くにも、海尊仙人が住んでいたという口碑あり、また陸前気仙郡の唐丹の観音堂の下にも、昔常陸坊が松前から帰りがけにこの地を通って、これは亀井の墓だと別当山伏の成就院に、指さし教えたと伝うる墓があった。永い年月には何処へでも往ったろうが、それにしてもあまりに口が多く、また話が少しずつ喰違っているのは、やはりたくさんの同名異人があったためではなかったか。ことに寛永の初年に陸中平泉の古戦場に近い山中で、仙台の藩士小野太左衛門が行逢うたというのは、よほど怪しい常陸坊であった。源平時代の見聞を語ること、親しくこれを歴た者の通りであった故に、小野はただちに海尊なることを看破し、就いて兵法を学び、また恭しく延年益寿の術を訊ねた。異人答えて曰く、もと修するの法なし、かつて九郎判官に随従して高館にいるとき、六月衣川に釣して達谷に入る。一老人あり招きて食を供す。肉ありその色は朱のごとく味美なり、仁羮と名づく。従者怪みて食わず、これを携えて帰る。その女子これを食いまた不死であったが、天正十年までいていずれへか往ってしまったと語った。この話は若狭・越中その他の地方において、八百比丘尼の長生の理由として、語り伝うるものと全然同じで、仁羮はすなわち人魚の肉であった。日本の仙人が支那のように技術の力でなく、とうてい習得しがたい身の運のようなものを具えていたことを、説明しようとする昔話に過ぎぬのだが、これをさえ受売するからには仙翁でもなかったのである。しかるにもかかわらず、小野太左衛門はその説に感歎して、これを主人の伊達政宗に言上し、後日に清悦御目見えの沙汰があった。清悦とはこの自称長寿者ののちの名で、現今行われている『清悦物語』の一書は、彼が『義経記』を一読してこれは違っているといい、自ら口授したところの源平合戦記であった。『吾妻鏡』や『鎌倉実記』と比較して、一致せぬ点が多いというのは当り前以上である。しかし出来事の評判は非常であったと見えて、寛永以後なお久しい間、清悦の名は農民の頭から消えなかった。岩切の青麻権現の岩窟に出現したのは、それからおよそ五十年の後、ちょうど『清悦物語』が世に出てから、十五年目の天和二年であったという。鈴木所兵衛という、信心深い盲人が、彼に教えられて天に祷り、目が開いたという奇跡もあった。その時は気高い老人の姿で現れて、われは常陸坊海尊、今の名は清悦である。久しく四方を巡って近ごろ下野の大日窟にいたが、これからはここへきて住もう。この窟には何神を祭ってあるかと尋ねるので、大日・不動・虚空蔵の三尊だと答えると、それは幸いのことだ、自分の念ずるのも日月星、今より三光穴と名づくべしといって、すなわち岩窟に入って鉄鏁をもって上下した。これが人魚を食べた常陸坊のまた新たなる変化であった。ただしこの縁起はそれから更に八十余年を経て、再びこの社が繁昌したのちのもので、以前の形のままか否かは疑わしい。近年になっては一般に、常陸坊は天狗だと信じられていた。常陸国の阿波の大杉大明神も、この人を祭るという説があり、特別の場合のほかは姿を見ることができなかった。しかも一方には因縁がなお繋がって、おりおりは昔の常陸坊かも知れぬという老人が、依然として人間にまじって遊んでいた。
話が長過ぎたがやはり附添えておく必要がある。青麻権現の奇跡と同じころに、同じ仙台領の角田から白石の辺にかけて、村々の旧家に寄寓してあるいた白石翁という異人があった。身のたけ六尺眼光は流電のごとく、またなかなかの学者で神儒二道の要義に通じていた。この翁の特徴は紙さえ見れば字をかくことと、それからまた源平の合戦を談ずることとであった。年齢は言わぬが誰を見てもセガレと呼び、角田の長泉寺の天鑑和尚などは百七つまで長命したのに、やはりセガレをもって交わっていた。或る時象棋をさしていて、ふと曲淵正左衛門の事を言いだしたが、この人は二百年前にいた人であった。身元が知れぬのでいろいろの風説が生じ、或いは甲州の山県昌景かといい、信玄の次男の瞽聖堂の子かともいい、或いはまた清悦であろうともいった。元禄六年の二月十八日に、白石在の某家でたしかに病没したのだが、それから十何年ののち、或る商人が京都に旅行して、途中で白石翁を見たという話も伝わっていたから、かりに海尊であったとしても理窟だけは合うのである(以上『東藩野乗』下巻および『封内風土記』四)。
さてこれらの話を集めてみて、結局目に立つのは、常に源平の合戦を知っていることが長命の証拠になったという点である。東北地方の旧家のことに熊野神社と関係あるものは、最も弁慶や鈴木・亀井の武勇談を愛好し、なるたけ多く聴きたいという希望が、ついに『義経記』のごとき地方の文学を成長せしめたのだ。これに新材料を供与する人ならば、異常の尊敬を受けたのは当然である。それも作り事と名乗っては、人が承知せぬのが普通であった。すなわち座頭の坊の物語が夙くから、当時実際に参与した勇士どもの霊の、託言または啓示なることを要した所以である。常陸坊は高館落城の当時から、行方不明と伝えられていた故に、後日生霊となって人に憑くにさしつかえはなく、また比較的重要でない法師であって、観ていた様子を語るには都合がよかった。だから、一時的には吾は海尊と名乗って、実歴風に処々の合戦や旅行を説くことは、いずれの盲法師も昔は通例であったかと思うが。それがあまりに巧妙で傍の者が本人と思ったか、はたまた本人までが常陸坊になりきって、いわゆる見てきたような嘘をついたかは、今日となってはもう断定ができぬ。それから第二の点は支那の寒山拾得の話のごとく、残夢は無々と語り福仙と相指ざし、残月は小松原宗雪と同宿し、清悦は小野某を伴ない、また白石翁が天鑑和尚を倅と呼んだこと、これも多分は古くからの方式であったろうと思う。陸中江刺郡黒石の正法寺で、石地蔵が和尚に告げ口をしたために常陸かいどうの身の上が露れた。帰りにその前を通ると地蔵がきな臭いような顔をしたので、さてはこやつが喋ったかと、鼻をねじたといって鼻曲り地蔵がある。これは紛れもなく海神の宮の口女であり、また猿の肝の昔話の竜宮の海月であって、こういう者が出てこないと、やはり話にはなりにくかったのである。だから眼前のただ一つの例を執って、不思議を説明しようとするのは誤った方法である。近くは天明の初年に、上州伊香保の木樵、海尊に伝授を受けたと称して、下駄灸という療治を行ったことが、『翁草』の巻百三十五にも見えている。彼も福仙と同じく義経の旗持ちであったのが、この山に入って自分もまた地仙となったという。下駄だの灸だのという近代生活にまで、なお昔の奥浄瑠璃の年久しい影響が、痕を留めているのはなつかしいと思う。
話が山から出てきたついでに、おかしな先例を今少し列挙して見たい。関東各府県の村の旧家には、狐や狸の書いた書画というものがおりおり伝わり、これに伴うて必ず不思議な話が残っている。たいていは旅の僧侶に化けて、その土地にしばらく止まっていたというのである。どうしてその僧の狸であることを知ったかといえば、後日少しくかけ離れた里で、狗に噛殺されたという話だからというものと、その僧が滞在をしている間、食事と入浴に人のいるのをひどく厭がる。そっと覗いてみたら食物を膳の上にあけて、口をつけて食べていたからというのがあり、また湯殿の湯気の中から、だらりと長い尻尾が見えたからというのもある。書や画は多くは乱暴な、しかも活溌な走り書きであった。
この化の皮の露れた原因として、狗に殺されたはいかにも実際らしくない。もし噛まれて死んでいたものの正体が狸であれば、果してあの和尚か否かがわからず、和尚の姿で死んでおれば、狸とはなおさらいわれない。要するに山芋と鰻、雀と蛤との関係も同じで、立会のうえで甲から乙へ変化するところを見届けぬかぎりは、真の調書は作成しえなかった道理である。おそらくはじつは和尚の挙動、或いはその内々の白状が、この説の基礎をなしたものであったろうと思う。
いわゆる狸和尚の話は、鈴木重光君の『相州内郷村話』の数ページが、最も新しくかつ注意深い報告である。同君の居村附近、すなわち小仏峠を中心とした武相甲の多くの村には、天明年間に貉が鎌倉建長寺の御使僧に化けたという話とともに、描いて残した書画が多く分布している。鈴木君が自身で見たものは、東京府南多摩郡加住村大字宮下にある白沢の図、神奈川県津久井郡千木良村に伝わる布袋川渡りの図であったが、後者は布袋らしく福々しいところは少しもなく、なんとなく貉に似た顔にできていた。書は千木良の隣の小原町の本陣、清水氏にも一枚あった。形は字らしいが何という字か判らなかった。それよりも更に奇怪なことは、この僧が狗に噛み殺されて、貉の正体を顕したと伝うる場処が、或いは書画の数よりも多いかと思うくらい方々の村にあることである。また建長寺の方でもこの事件は否定せぬそうだ。ただし貉が勧化の使僧を咬み殺して、代ってこれに化けたというかちかち山式風説は認めず、中途で遷化した和尚の姿を借りて、山門再建の遺志を果したという他の一説の方を執っており、現に寺にもその貉の書いたものが、二枚も蔵ってあるというのは、すこぶる次に述べる文福茶釜の話と似ている。
右と同様の話はなおたくさんあるが、今記憶する二つ三つを挙げて見ると、『静岡県安倍郡誌』には、この郡大里村大字下島の長田氏には、これも建長寺の和尚に化けて、京に上ると称して堂々と行列を立て、乗り込んできたという貉の話あり、その書が今に残っている。横物の一軸に「悝」というような変な字が一字書いてある。ムジナすなわち狸だという幽かな暗示とも解せられる。隣区西脇の庄屋萩原氏にも宿泊し、かの家にも一枚あったがそれは紛失した。そうしてやはりのちに安倍川の川原で、犬に喰殺されたと伝えられる。信州下伊那郡泰阜村の温田というところにも、狸のえがくという絵像のあることが、『伝説の下伊那』という書に報ぜられてある。人の顔に獣の体を取りつけたような不思議な画姿であったという。ただしこれは和尚ではなくて、由ある京都の公家という触込で、遠州路から山坂を越えて、この村に遣ってきて泊った。出入ともに駕籠の戸を開かず、家の者も見ることをえなかったが、翌朝出発の時に礼だと称して、こんな物を置いて去ったという。この狸はそれから柿野という部落に入って同じことをくりかえし、だんだんと天竜筋を上って行くうちに、上穂の光善寺の飼犬に正体を見現わされ、咬み殺されてしまったというが、その光善寺の犬は例のヘイボウ太郎で、遠州見附の人身御供問題を解決した物語の主人公だから、どこまでが昔話か結局は不明に帰するのである。
『蕉斎筆記』にはまた次のような話が出ている。三州亀浜の鳴田又兵衛という富人の家へ、安永の初年ころに、京の大徳寺の和尚だというのがただ一人でふらりと遊びにきて、物の三十日ほども滞在し、頼まれて額だの一行物だのを、いくらともなく書いて還った。あとから挨拶の状を京に上せると、大徳寺の方では和尚一向にそんな覚えがないとある。ただしもとこの寺に一匹の狸がいて、夜分縁先にきて法談を聴聞していたが、のちに和尚の机の上から石印を盗んでいずれへか往ってしまった。其奴ではなかろうかといっていると、果して後日の噂には江州大津の宿で、駕籠を乗替えようとして犬に喰殺された狸だか和尚だかが、その石印を所持していたそうである。三州の方には屏風が一つ残っていた。見事な筆蹟であったという。しかしこれだけの材料を綜合して、狸が書家であったと断定することは容易でない。やはり最初から、旅僧の中には稀には狸ありという風説が、下染をなしている必要はあったのである。狐の書という話も例は多いが、『塩尻』(帝国書院本)の巻六十八および七十五にも、これと半分ほど似た記事がある。美濃安八郡春近の井上氏に、伝えた書というのがそれであって、その模写を見ると鳥啼花落と立派に書いて、下に梅菴と署名してある、本名は板益亥正、年久しく井上家の後園に住む老狐であって、しばしば人間の形をもって来訪した。筆法以外医道の心得もあり、また能く禅を談じたが、一旦中絶して行方が知れず、どうした事かと思っていると、或る時村の者が京に上る途で、これも大津の町で偶然にこの梅菴に行逢うた。もう年を取って死ぬ日が近くなった。日ごろ親しくした井上氏と、再会の期もないのは悲しいと落涙し一筆認めてこれを托し、なお井上が子供にもよく孝行をして学問を怠らぬようにと、伝言を頼んで別れたそうである。梅菴は野狐にして僧、長斎一食なりとあって、何だか支那の小説にでもありそうな話だが、現に鳥啼花落が遺っているのだからしかたがない。しかし『宮川舎漫筆』巻三には、早同じ話に若干の相違を伝え、公表せられた狐の書というものにも、野干坊元正と麗々と署名がしてあった。
実際この類の狐になると、果して人に化けたのやら、もしくは人の形になりきっているのやら、その境目がもうはっきりしてはいなかった。それ故にかえって本人の方から、たとえ露骨には名乗らぬまでも、やや自分の狐であることを、暗示する必要があったと見える。空菴という狐が自ら狐の一字を書したことは『一話一言』にあり、また駿州安倍郡の貉は狸という字に紛わしい書を遺した。しかも他の一方においては、人が狐に化けたという話も近世は存外に多かった。物馴れた旅人が狐の尻尾を腰さげにして、わざとちらちらと合羽の下から見せ、駕籠屋・馬方・宿屋の亭主に、尊敬心を起こさせたという噂は興味をもって迎えられ、甚だしきはあべこべに、狐を騙したという昔話さえできている。だから私は村々の狸和尚が、いずれも狸の贋物であったとはもちろん言わぬが、少なくともいかにしてこれを発見したかは、考えてみる必要があると思うのである。
狐狸の大多数が諸国を旅行する際に、武士にも商人にもあまり化けたがらず、たいてい和尚や御使僧になってきたのも曰くがあろう。上州茂林寺の文福茶釜を始めとしてかつて異僧が住してそれがじつは狸であり、いろいろと寺のために働いて、のちにいなくなったというのみならず、何か末世の手証となるものを、遺して往ったという例はたくさんにある。禅宗の和尚たちはこれを怪奇として斥けず、むしろ意味ありげに語り伝えるのが普通であった。会津の或る寺でも守鶴西堂の天目を什宝とし、稀有の長寿を説くこと常陸坊海尊同様であったが、その守鶴もやはり何かのついでに微々として笑って、すこぶる自己のじつは狸なることを、否定しなかったらしい形がある。東京の近くでは府中の安養寺に、かつて三世の住職に随逐した筑紫三位という狸があって、それが書いたという寺起立の由来記を存し、横浜在の関村の東樹院には、狸が描くと称する渡唐天神の像もあった(『新篇風土記稿』二十四および二十八)。建長寺ばかりではないのである。
それからまた有用無害の狐狸がいたという話は、今では多く寺々の管轄の下に帰し、かつは仏徳の如是畜生に及んだことを証しているようだが、最初はその全部が僧たちの親切に基づいた因縁話でもなかったらしい。今日の思想から判ずれば、狐はこれ人民の敵で、人は汲々乎としてその害を避くるに専らであるけれども、祭った時代にはいろいろの好意を示し、また必ずしも仏法の軌範の内に跼蹐していなかった。例えば越後の或る山村では、正月十五日の宵に山から大きな声を出して、年の吉凶を予言し、または住民の行為を批判した。『東備郡村誌』によれば、岡山市外の円城村に老狸あり、人に化けて民間に往来し、能く人の言語を学んでしばしば附近の古城の話をした。その物語を聴かんと欲する者、食を与えてこれを請う時んば、一室を鎖してその内に入り、諄々として人のごとくに談じた。しこうして人を害することなし、尤も怪獣なりとある。三河の長篠のおとら狐に至っては、近世その暴虐ことに甚だしく住民はことごとく切歯扼腕しているのだが、人に憑くときは必ず鳶巣城の故事を談じ、なお進んでは山本勘助の智謀、川中島の合戦のごとき、今日の歴史家が或いは小幡勘兵衛の駄法螺だろうと考えている物語までを、事も細かに叙述するを常とした。単に人を悩ます者がおとらであり、おとらは歳久しき狐なることを証明するためならば、それほど力を入れずともよいのであった。おそらくはこれも昔はその話を聴くために、狐を招いてきてもらった名残であって、同時にまた諸国の狸和尚、ないしは常陸坊・八百比丘尼の徒が、或いは自分もまた多くの聴衆と同じく、憑いた生霊、憑いた神と同化してしまって、荘子の夢の吾か蝴蝶かを、差別しえない境遇にあった結果ではないかを考えしめる。
近ごろでも新聞に毎々出てくるごとく、医者の少しく首を捻るような病人は、家族や親類がすぐに狐憑きにしてしまう風が、地方によってはまだ盛んであるが、なんぼ愚夫愚婦でも理由もなしに、そんな重大なる断定をするはずがない。たいていの場合には今までも似たような先例があるから、もしか例のではないかと、以心伝心に内々一同が警戒していると、果せるかな今日は昨日よりも、一層病人の挙動が疑わしくなり、まず食物の好みの小豆飯・油揚から、次には手つき眼つきや横着なそぶりとなり、此方でも「こんちきしょう」などというまでに激昂するころは、本人もまた堂々と何山の稲荷だと、名を名乗るほどに進んでくるので、要するに双方の相持ちで、もしこれを精神病の一つとするならば、患者は決して病人一人ではないのだ。狸の旅僧のごときも多勢で寄ってたかって、化けたと自ら信ぜずにはおられぬように逆にただの坊主を誘導したものかも知れぬ。
佐渡では新羅王書と署名した奇異なる草体の書が、多くの家に蔵せられ、私もそのいくつかをみた。古い物ではあるが、もちろん新羅という国が滅びてのち、すでに四五百年以上もしてからの作に相異ない。天文年間に漂着したともいい、或いはもっと後のことともいっている。とにかくかつて他処からきた実在の異人であった。のちには土地の語を話し、土地の人になってしまった。書ばかり書いている変な人だったというが、現にその子孫という家もあって、とにかくに詐欺師ではなかった。自分でも新羅王だと思っており、それをまた周囲の人が少しも疑わなかったために、このようなありうべからざる歴史が成り立ったものである。
神隠しの少年の後日譚、彼らの宗教的行動が、近世の神道説に若干の影響を与えたのは怪しむに足らぬ。上古以来の民間の信仰においては、神隠しはまた一つの肝要なる霊界との交通方法であって、我々の無窮に対する考えかたは、終始この手続を通して進化してきたものであった。書物からの学問がようやく盛んなるにつれて、この方面は不当に馬鹿にせられた。そうして何が故に今なお我々の村の生活に、こんな風習が遺っていたのかを、説明することすらもできなくなろうとしている。それが自分のこの書物を書いて見たくなった理由である。
神隠しからのちに戻ってきたという者の話は、さらに悲しむべき他の半分の、不可測なる運命と終末とを考える材料として、なお忍耐して多くこれを蒐集する必要がある。社会心理学という学問は、日本ではまだ翻訳ばかりで、国民のための研究者はいつになったら出てくるものか、今はまだすこしの心当てもない。それを待つ間の退屈を紛らすために、かねて集めてあった二三の実例を栞として、自分はほんの少しばかり、なお奥の方へ入りこんで見ようと思う。最初に注意せずにおられぬことは、我々の平凡生活にとって神隠しほど異常なるかつ予期しにくい出来事は他にないにもかかわらず、単に存外に頻繁でありまたどれここれもよく似ているのみでなく、別になお人が設けたのでない法則のごときものが、一貫して存するらしいことである。例えば信州などでは、山の天狗に連れて行かれた者は、跡に履物が正しく揃えてあって、一見して普通の狼藉、または自身で身を投げたりした者と、判別することができるといっている。そんなことは信じえないと評してもよいが、問題は何故に人がそのようなことを言い始めるに至ったかにある。
或いはまた二日とか三日とか、一定の期間捜してみて見えぬ場合に、始めてこれを神隠しと推断し、それからはまた特別の方法を講ずる地方もある。七日を過ぎてなお発見しえぬ場合にもはや還らぬ者としてその方法を中止する風もある。或いはまた山の頂上に登って高声に児の名を呼び、これに答うる者あるときは、その児いずれかに生存すと信じて、辛うじて自ら慰める者がある。八王子の近くにも呼ばわり山という山があって、時々迷子の親などが登って呼び叫ぶ声を聴くという話もあった。町内の附合いまたは組合の義理と称して、各戸総出をもって行列を作り、一定の路筋を廻歴した慣習のごときも、これを個々の事変に際する協力といわんよりは、すこぶる葬礼祭礼などの方式に近く、しかも捜査の目的に向かっては、必ずしも適切なる手段とも思われなかった。この仕来りには恐らくは忘却せられた今一つ根本の意味があったのである。それを考え出さぬ限りは、神隠しの特に日本に多かった理由も解らぬのである。
全体にこの実例はおいおいと少なくなって、今では話ばかりがなお鮮明に残っている。神隠しという語を用いぬ地方もすでにあるが、狐に騙されて連れて行かれるといいまたは天狗にさらわれるといっても、これを捜索する方法はほぼ同じであった。単に迷子と名づけた場合でも、やはり鉦太鼓の叩き方は、コンコンチキチコンチキチの囃子で、芝居で「釣狐」などというものの外には出でなかった。しかもそれ以外になお叩く物があって、各府県の風習は互いによく似ていたのである。例をもって説明するならば、北大和の低地部では狐にだまされて姿を隠した者を捜索するには、多人数で鉦と太鼓を叩きながら、太郎かやせ子かやせ、または次郎太郎かやせと合唱した。この太郎次郎は子供の実名とは関係なく、いつもこういって喚んだものらしい。そうして一行中の最近親の者、例えば父とか兄とかは、一番後に下ってついて行き、一升桝を手に持って、その底を叩きながらあるくことに定まっており、そうすると子供は必ずまずその者の目につくといっていた(『なら』一八号)。紀州田辺地方でも、鉦太鼓を叩くとともに、櫛の歯をもって桝の尻を掻いて、変な音を立てる風があった(雑賀君報)。播磨の印南郡では迷子を捜すのに、村中松明をともし金盥などを叩き、オラバオオラバオと呼ばわってあるくが、別に一人だけわざと一町ばかり引き下って桝を持って木片などで叩いて行く。そうすると狐は隠している子供を、桝を持つ男のそばへほうり出すといっていた。同国東部の美嚢郡などでは、迷子は狐でなく狗賓さんに隠されたというが、やはり捜しにあるく者の中一人が、その子供の常に使っていた茶碗を手に持って、それを木片をもって叩いてあるいた。越中魚津でも三十年余の前までは、迷子を探すのに太鼓と一升桝とを叩いてあるいた。桝の底を叩くと天狗さんの耳が破れそうになるので、捕えている子供を樹の上から、放して下すものだと信じていたそうである(以上『土の鈴』九および十六)。
右のごとき類例を見て行くと、誰でも考えずにおられぬことは、今も多くの農家で茶碗を叩き、また飯櫃や桝の類を叩くことを忌む風習が、ずいぶん広い区域にわたって行われていることである。何故にこれを忌むかという説明は一様でない。叩くと貧乏する、貧乏神がくるというもののほかに、この音を聴いて狐がくる、オサキ狐が集まってくるという地方も関東には多い。多分はずっと大昔から、食器を叩くことは食物を与えんとする信号であって、転じてはこの類の小さな神を招き降す方式となっていたものであろう。従って一方ではやたらにその真似をすることを戒め、他の一方ではまたこの方法をもって児を隠す神を喚んだものと思う。俵藤太が持ってきた竜宮の宝物に、取れども尽きぬ米の俵があって、のちに子孫の者がその俵の尻を叩くと白い小蛇が飛びだして米が尽きたと称するのも、もし別系統でなければ同じ慣習の変化だとみてよろしい。いずれにしても迷子の鉦太鼓が、その子に聴かせる目的でなかったことだけは、かやせ戻せという唱え言からでも、推定することが難くないのである。
加賀の能美郡なども、天狗の人を隠した話の多かったことは、近年刊行した『能美郡誌』を見るとよくわかる。同じ郡の遊泉寺村では、今から二十年ほど前に伊右衛門という老人が神隠しに遭った。村中が手分けをして探しまわった結果、隣部落と地境の小山の中腹、土地で神様松という傘の形をした松の樹の下に、青い顔をして坐っているのを見つけたという。しかるに村の人たちがこの老人を探しあるいた時には、鯖食った伊右衛門やいと、口々に唱えたという話だが、これはいつでもそういう習わしで、神様ことに天狗は最も鯖が嫌いだから、こういえば必ず隠した者を出すものと信じていたのである(立山徳治君談)。琉球で物迷いと名づけて物に隠された人を探すのにも、部落中の青年は手分けをして、森や洞窟などの中を棒を持ち銅鑼を叩き、どこそこの誰々やい、赤豆飯を食えよと大きな声で呼びまわるという。よく似た話だがこれも神霊がこれを悪むのか否かは分らぬ。内地の小豆飯はむしろこの類の神の好むところと考えられている。鯖という魚の信仰上の地位は、詳かに調べてみる必要があるのだが、今までは誰も手をつけていなかった。
不思議な事情からいなくなってしまう者は、決して少年小児ばかりではなかった。数が少なかったろうが成長した男女もまた隠され、そうして戻ってくる者も甚だわずかであった。ただし壮年の男などはよくよくの場合でないと、人はこれを駆落ちまたは出奔と認めて、神隠しとはいわなかった。神隠しの特徴としては永遠にいなくなる以前、必ず一度だけは親族か知音の者にちらりとその姿を見せるのが法則であるように、ほとんといずれの地方でも信じられている。盆とか祭の宵とかの人込みの中で、ふと行きちがって言葉などを掛けて別れ、おや今の男はこのごろいないといって家で騒いでいたはずだがと心づき、すぐに取って返して跡を追うて見たが、もうどこへ行っても影も見えなかった、という類の例ならば方々に伝えられている。これらは察するところ、樹下にきちんと脱ぎそろえた履物などと一様に、いかに若い者が気紛れな家出をする世の中になっても、なおその中には正しく神に召された者がありうることを我々の親たちが信じていようとした、努力の痕跡とも解しえられぬことはない。
『西播怪談実記』という本に、揖保郡新宮村の民七兵衛、山に薪採りに行きて還らず、親兄弟歎き悲みしが、二年を経たる或る夜、村のうしろの山にきて七兵衛が戻ったぞと大声に呼ばわる。人々悦び近所一同山へ走り行くに、麓に行きつくころまではその声がしたが、登ってみると早何処にもいなかった。天狗の下男にでもなったものかと、村の内では話し合っていたが、その後この村から出て久しく江戸にいた者が東海道を帰ってくる途で、興津の宿とかで七兵衛に出逢った。これも互いに言葉を掛けて別れたが家に帰って聞くとこの話であった。それからはついに風のたよりもなかったということである。すなわちたった一度でも村の山へきて呼ばわらぬと、人はやはり駆落ちと解する習いであった故に、自然にこのような特徴が出てきたのである。
『九桂草堂随筆』巻八には、また次のような話がある。広瀬旭荘先生の実験である。「我郷(豊後日田郡)に伏木という山村あり。民家の子五六歳にて、夜啼きて止まず。戸外に追出す。其傍に山あり。声稍〻遠く山に登るやうに聞えければ驚きて尋ねしに終に行方知れず。後十余年にして、我同郷の人小一と云ふ者、日向の梓越と云ふ峯を過ぐるに、麓より怪しき長七八尺ばかり、満身に毛生じたる物上り来る。大いに怖れ走らんとすれども、体痺れて動かず。其物近づきて人語を為し、汝いづくの者なりやと問ふ。答へて日田といふ。其物、然らば我郷なり。汝伏木の児失せたることを聞きたりやと謂ふ。其事は聞けりと答ふ。其物、我即ち其児なり。其時我今仕ふる所の者より収められて使役し、今は我も数山の事を領せりと謂ひて、懐より橡実にて製したる餅様の物を出し、我父母存命ならば、是を届けてたまはれと謂ふ。何れの地に行きたまふかと問ふに、此より椎葉山に向ふなりと言ひて別れ、それより路無き断崖に登るを見るに、その捷きこと鳥の如しといふ。話は余少年の時小一より聞けり。是れ即ち野人なるべし。」
女の神隠しにはことに不思議が多かった。これは岩手県の盛岡でかつて按摩から聴いた話であるが今からもう三十年も前の出来事であった。この市に住んで醤油の行商をしていた男、留守の家には女房が一人で、或る日の火ともしごろに表の戸をあけてこの女が外に出て立っている。ああ悪い時刻に出ているなと、近所の人たちは思ったそうだが、果してその晩からいなくなった。亭主は気ちがいのようになって商売も打棄てて置いてそちこちと捜しまわった。もしやと思って岩手山の中腹の網張温泉に出かけてその辺を尋ねていると、とうとう一度だけ姿を見せたそうである。やはり時刻はもう暮近くに、なにげなしに外を見たところが、宿からわずか隔たった山の根笹の中に、腰より上を出して立っていた。すぐに飛びだして近づき捕えようとしたが、見えていながらだんだんに遠くなり、笹原づたいに峯の方へ影を没してしまったという。
またこれも同じ山の麓の雫石という村にはこんな話もあった。相応な農家で娘を嫁に遣る日、飾り馬の上に花嫁を乗せて置いて、ほんのすこしの時間手間取っていたら、もう馬ばかりで娘はいなかった。方々探しぬいていかにしても見当らぬとなってからまた数箇月ものちの冬の晩に、近くの在所の辻の商い屋に、五六人の者が寄合って夜話をしている最中、からりとくぐり戸を開けて酒を買いにきた女が、よく見るとあの娘であった。村の人たちは甚だしく動顛したときは、まず口を切る勇気を失うもので、ぐずぐずとしているうちに酒を量らせて勘定をすまし、さっさと出て行ってしまった。それというので寸刻も間を置かず、すぐに跡から飛びだして左右をみたが、もうどこにも姿は見えなかった。多分は軒の上に誰かがいて、女が外へ出るや否や、ただちに空の方へ引張り上げたものだろうと、解釈せられていたということである。
単なる偶然からこの地方の話を、自分はまだいくつとなく聴いて記憶している。それが特に他の府県に比べて、例が多いということを意味せぬのはもちろんである。同県上閉伊郡の鱒沢という村で、これも近世の事らしいからもっと詳しく知っている人があろうが、或る農家の娘物に隠されて永く求むれども見えず、今は死んだ者とあきらめていると、ふと或る日田の掛稲の陰に、この女のきて立っているのをみた人があった。その時はしかしもうよほど気が荒くなっていて、普通の少女のようではなかった。そうしてまたたちまち走り去って、ついに再び還ってこなかったといっている。『遠野物語』の中にも書いてある話は、同郡松崎村の寒戸というところの民家で、若い娘が梨の樹の下に草履を脱いで置いたまま、行方知れずになったことがあった。三十何年を過ぎて或る時親類知音の者が其処に集まっているところへ、きわめて老いさらぼうてその女が戻ってきた。どうして帰ってきたのかと尋ねると、あまりみんなに逢いたかったから一寸きた。それではまた行くといって、たちまちいずれへか走り去ってしまった。その日はひどい風の吹く日であったということで、遠野一郷の人々は、今でも風の騒がしい秋の日になると、きょうは寒戸の婆の還ってきそうな日だといったとある。
これと全然似た言い伝えは、また三戸郡の櫛引村にもあった。以前は大風の吹く日には、きょうは伝三郎どうの娘がくるべと、人がことわざのようにしていっていたそうだから、たとえば史実であってももう年数が経過し、昔話の部類に入ろうとしているのである。風吹ということが一つの様式を備えているうえに、家に一族の集まっていたというのは、祭か法事の場合であったろうが、それへ来合せたとあるからには、すでに幾分の霊の力を認めていたのである。釜石地方の名家板沢氏などでは、これに近い旧伝があって毎年日を定め、昔行き隠れた女性が、何ぴとの眼にも触れることなしに、還ってくるように信じていた。盥に水を入れて表の口に出し、新しい草履を揃えて置くと、いつのまにかその草履も板縁も、濡れているなどと噂せられた。この家のは娘でなくて、近く迎えた嫁女であった。精密な記憶が家に伝わっており、いつのころよりか不滅院量外保寿大姉という戒名をつけて祀っていた。家門を中心とした前代の信仰生活を、細かに比較研究したうえでなければ断定も下されぬが、恐らくはこれが神隠しに対する、一つ昔の我々の態度であって、かりにただ一人の愛娘などを失うた淋しさは忍びがたくとも、同時にこれによって家の貴さ、血の清さを証明しえたのみならず、さらにまた眷属郷党の信仰を、統一することができたものではないかと思う。
伊豆では今の田方郡田中村大字宗光寺の百姓惣兵衛が娘はつ十七歳、今から二百十余年前の宝永ごろに、突然家出をして行方不明であった。はつの母親が没して三十三回忌の日、還ってきて家の前に立っていた。近所の者が見つけて声をかけると、答えもせずして走りだしまたいずれかへ往ってしまった。その後も天城山に薪を樵り、又は宮木を曳きなどに入った者がおりおりこの女を見かけることがあった。いつも十七八の顔形で、身には木の葉などを綴り合わせた珍しい衣服を纏うていた。言葉をかけると答えもなく、ただちに遁げ去るを常としたと『槃遊余録』の第三編、寛政四年の紀行のうちに見えている。甲州では逸見筋浅尾村の孫左衛門を始めとし、金御岳に入って仙人となったという者少なからず、東河内領の三沢村にも、薬を常磐山に採って還らなかった医者がある。今も時としてその姿を幽谷の間に見る者があって、土人は一様にこれを山男と名づけているが、その出身の村なり家なりでは、永くその前後の事情を語り伝えて、むしろ因縁の空しからざることを感じていたようでもあった。
少なくとも血を分けた親兄弟の情としては、これが本人ただ一人の心の迷から出たものと解してしまうことが昔はできなかった。一人ではとうてい深い山の奥などへ、入って行くはずのない童子や女房たちが、現に入って行き、また多くは戻って来ぬのだから、誰か誘うた者があったことを、想像するに至ったのも自然である。実際また山の生活に関する記録の不完全、多くの平野人の法外な無識を反省してみても、かつてそういう奪略者が絶対になかったとは断言することをえない。問題はただかくのごとき想像の中で、果してどこまでは一応根拠のある推測であり、またどの点からさきが単に畏怖に基づいたる迷信、ないしは誤解であったろうかということである。
しかも自分たちの見るところをもってすれば、右の問題の分堺線とても、時代の移るにつれて始終一定していたわけでもないようである。例えば天狗さまがさらって行くということは、ことに児童少年については近世に入ってから、甚だ頻繁に風説せられるようになったけれども、中世以前には東大寺の良弁僧正のように、鷲に取られたという話の方が遙かに多く、その中にもまた稀には命を助かって慈悲の手に育てられ、ついには親の家へ戻ってきた者さえあるように、『今昔物語』などには語り伝えている。それから引続いてまた世上一般に、鬼が人間の子女を盗んで行くものと、思っていた時代もあったのである。
鎌倉期の初頭あたりを一つの堺として、その鬼がまた天狗にその地位を委譲したのは、東国武士の実力増加、都鄙盛衰の事情を考え合わせても、そこでなんらかの時勢の変化を暗示するものがあるように思う。その天狗の属性とてもゆくゆく著しく変遷して、もとより今をもって古を推すことはできぬが、鬼の方にもやはり地方的に、または時代に相応した特色ともいうべきものがあったらしいのである。例えば在原業平の悠遊していたころには、鬼一口に喰いてんけりといったが、大江山の酒顛童子に至っては、都に出でて多くの美女を捕え来り酌をさせて酒を飲むような習癖があったもののごとく、想像せしめた場合もないではなかった。天狗ばかりは僧形であっただけに、感心に女には手を掛けないようだと話がきまると人は別にまた山賊の頭領という類の兇漢を描き出して、とにかくにこの頻々たる人間失踪の不思議を、説明せずにはおられないようであった。しかも実際は小説・御伽草子・絵巻物以上に的確に真相を突留めることは、求めたからとてできることではなかった。
別離を悲しむ人々の情からいえば、いかなる場合にもまだどこかの谷陰に、活きて時節を待っているものと、想像してみずにはいられなかったでもあろうが、単にそのような慾目からでなくとも、現実に久しい歳月を過ぎてのち、ひょっこりと還ってきた先例もあれば、またたしかに出逢ったという人の話を、聞きだした場合も多かったのである。単に深山に女の姿を見たというだけの噂ならば、その他にもまだいろいろと語り伝えられていた。たとえそれがわが里でいなくなった者とは何の関係もなく全然見ず知らずの別の土地の事件であっても、とにかくに人居を遠く離れた寂寞たる別世界にも、なお何か人間の活きて行く道があるらしいという推測は、どのくらい神隠しの子の親たちの心を、慰めていたかわからぬので、それがまた転じてはこの不思議の永く行われ、気の狂うた者の自然に山に向う原因ともなったのは、是非もない次第であった。
かつては天狗に関する古来の文献を、集めて比較しようとした人がおりおりあったがこれは失望せねばならぬ労作であった。資料を古く弘く求めてみればみるほど輪廓は次第に茫漠となるのは、最初から名称以外にたくさんの一致がなかった結果である。例えば天狗とは一体どんなものかと聞いてみるとき、今日誰しも答えるのは鼻のむやみに高いことであるが、これとても狩野古方眼が始めて夢想したという説もあって、中古には緋の衣に羽団扇などを持った鼻高様は想像することができなかったのである。そのうえに何々坊の輩下という天狗だけは、口が嘴になり鼻は穴だけがその左右についている。同じ一類で一方は人のごとく、他方は翼があって鳥に手足を加えたもののごとくなることは、ほとんとありえざる話であるが、人は単に変形自在をもってこれを説明して、しからば本来の面目如何という点を、考えずに済ましていたのである。それなら実際の行動の上に、何か古今を一貫した特色でもあるかというと、中世の天狗はふらりときて人に憑くこと野狐のごとく、或いは左道の家に祭られて人を害するは、近世の犬神オサキのごとくであったが、今は絶えてその類の非難を伝えない。或いは智弁学問ある法師の増上慢が、しばしば生きながら天狗道に身を落さしめたという話もある。平田先生などは特にこの点ばかり、仏者の言を承認しようとしているが、これさえ近世の天狗はもう忘れたもののごとく、むしろしばしば人間の慢心を懲らし戒めたという実例さえあって、自慢を天狗という昔からの諺も、もはや根拠のないものになろうとしている。それというのが時代により地方によって、名は同じでも物が知らぬまに変っていたからである。書物はこういう場合にはたいていはむしろ混乱の種であった。学者ばかりがひとりで土地の人々の知らぬことを、考えていた例は多かった。なるほど天狗という名だけは最初仏者などから教わったろうが奇怪はずっと以前から引続いてあったわけで、学者に言わせるとそんなはずはないという不思議が、どしどしと現れる。日本で物を買うような理窟には行かなかったのである。天狗をグヒンというに至った原因もまだ不明だが、地方によってはこれを山の神といい、または大人・山人ともいって、山男と同一視するところもある。そうして必ずしも兜巾篠懸の山伏姿でなく特に護法と称して名ある山寺などに従属するものでも、その仏教に対する信心は寺侍・寺百姓以上ではなかった。いわんや自由な森林の中にいるという者に至っては、僧徒らしい気分などは微塵もなく、ただ非凡なる怪力と強烈なる感情、極端に清浄を愛して叨りに俗衆の近づくを憎み、ことに隠形自在にして恩讎ともに常人の意表に出でた故に、畏れ崇められていたので、この点はむしろ日本固有の山野の神に近かった。名称のどこまでも借り物であって、我々の精神生活のこれに左右せられた部分の存外に小さかったことは、これからだけでも推論してよいのである。山中にサトリという怪物がいる話はよく方々の田舎で聴くことである。人の腹で思うことをすぐ覚って、遁げようと思っているななどといいあてるので、怖しくてどうにもこうにもならぬ。それが桶屋とか杉の皮を剥く者とかと対談している際に、不意に手がすべって杉の皮なり竹の輪の端が強く相手を打つと、人間という者は思わぬことをするから油断がならぬといって、逃げ去ったというのが昔話である。それを四国などでは山爺の話として伝え、木葉の衣を着て出てきたともいえば、中部日本では天狗様が遣ってきて、桶屋の竹に高い鼻を弾かれたなどと語っている。その土地次第でこういっても通用したのである。オニなども今では角あって虎の皮をたふさぎとし、必ず地獄に住んで亡者をさいなむ者のごとく、解するのが普通になったらしいが、その古来の表現は誠に千変万化でまた若干はこれに充てたる漢語の鬼の字によって、世上の解説を混乱せしめている。しかも諸国の山中に保存せられた彼らの遺跡、ないしは多くの伝説によって考えると、少なくとも或る時代には、近世天狗と名づけた魔物の所業の大部分を、管轄していたこともあるのである。いずれにしても我々の畏怖には現実の基礎があった。単に輸入の名称によって、空に想像し始めたものではなかったのである。
不在者の生死ということは非常に大きな問題であった。どうせいないのは同じだと、言ってすませるわけには行かなかった。生者と死者とでは、これに対する血縁の人々の仕向けが、正反対に異ならねばならなかったからである。生きている者の救済も必要ではあるがこれは徐ろに時節を待っていることもできる。これに反して死者は魂が自由になって、もう家の近くに戻ってきているかも知れぬ。処理せられぬ亡魂ほど危険なものはなかった。或いは淋しさのあまりに親族故旧を誘うこともあり、または人知れぬ腹立ちのために、あばれまわることもしばしばあった。その予防の手段は仏教以前から、いろいろ綿密に講究せられていたのである。しこうしてその手段は通例甚だ煩わしい。かつ誤まって生者のためにこれを行うときは、その害もまた小さくなかった。故に単なる愛惜の情からでなくとも、一日も早くなんらかの兆候を求めて隠れてもなお生存していることを確めておく必要があったのである。アンデルセンが「月の物語」の初章に、深夜に谷川に降って燈を水に流し、思う男の安否を卜せんとしたインドの少女が「活きている」と悦んで叫んだ光景が叙べてある。普通は生死を軽く考える東洋人が、この際ばかり特に執着の切なる情を表わす理由は、全く死に伴うた厳重の方式があったためで、旅の別れの哀れな歌にも、かつはこの心元なさがまじっていたのである。夢というものの疎かにせられなかった原因もここにある。互いに見よう見えようという約束が、言わず語らずに結ばれていたのである。それが頼みにしにくくなってのち、書置という風習が次第に行われた。神隠しだけはこういう一切の予定を裏切って、突如として茫漠の中に入ってしまうのだが、しかも前後の事情と代々の経験とによって、一応はやや幸福の方の推測を下すことが、存外にむつかしくなかったらしいのである。
昔話の中にもおりおり同じ例を伝えているために、かえって信じうる人が少なかろうかと思うがこれはすでに十七八年も以前に筆記しておいた陸中南部の出来事であってこの小さな研究と深い因縁がある故に、今一度じっと考えて見ようと思うのである。或る村の農家の娘、栗を拾いに山に入ったまま還って来ず、親はもう死んだ者とあきらめて、枕を形代に葬送をすませてしまって、また二三年も過ぎてからの事であった。村の猟人の某という者が、五葉山の中腹の大きな岩の陰において、この女に行逢って互いに喫驚したという話である。
あの日に山で怖ろしい人にさらわれ、今はこんなところにきて一緒に住んでいる。遁げて還ろうにも少しも隙がない。そういううちにもここへくるかも知れぬ。どんなことをするか分らぬというので碌に話も聞かずに早々に立退いてしまったということである。その男というのは全体どんな人かと猟人が尋ねると、自分の眼には世の常の人間のように見えるが、人はどう思うやらわからぬ。ただ眼の色が恐ろしくて、せいがずんと高い。時々は同じような人が四五人も寄り集まって、何事か話をしてまたいずれへか出て行く。食べ物なども外から持って還るのをみると、町へも買物に行くのかも知れぬ。また子どもはもうなんべんか産んだけれども、似ていないから俺の児ではないといって、殺すのか棄てるのか、みないずれへか持って行ってしまったと、その女が語ったそうである。
山が同じく五葉山であるから、一つの話ではないかとも思うが或いはまた次のように話す者もあった。女は猟人に向かって、お前とこうして話しているところを、もしか見られると大変だから、早く還ってくれといったが、出逢ってみた以上は連れて還らねばすまぬと、強いて手を取って山を下り、ようやく人里に近くなったと思うころに、いきなり後から怖ろしい背の高い男が飛んできて、女を奪い返して山の中へ走り込んだともいっている。維新前後の出来事であったらしく、まだその娘の男親だけは、生存しているといって、家の名まで語ったそうである(佐々木君報)。これだけ込入ったかつ筋の通った事件は、一人の猟人の作為に出たと思われぬはもちろん、よもや突然の幻覚ではなかろうと思うが、それを確認させるだけの証拠も、残念ながらもう存在せぬのである。ただ少なくとも陸中五葉山の麓の村里には、今でもこれを聴いて寸毫も疑い能わざる人々が、住んでいることだけは事実である。そうして彼らがほぼ前の話を忘れようとするころになると、また新たに少し似たような話が、どこからともなく伝わってくることに、これまではほとんときまっていたのである。
右の珍しい実例の中でことに自分たちが大切な点と考えるのは、不思議なる深山の婿の談話の一部分が女房にも意味がわかっていたということと、その奇怪な家庭における男の嫉妬が、極端に強烈なものであって、わが子をさえ信じえなかったほどの不安を与えていたこととである。すなわち彼らはもし真の人間であったとしたらあまりにも我々と遠く、もしまた神か魔物かだったというならば、あまりにも人間に近かったのであるが、しかも山の谷に住んだ日本の農民たちが、これを聴いてありうべからずとすることができなかったとすれば、そは必ずしも漠然たる空夢ではなかったろう。誤ったにもせよなんらかの実験、なんらかの推理のあらかじめ素地をなしたものが、必ずあったはずと思う。現代人の物を信ぜざる権利は、決してこれによって根強い全民衆の迷信を、無視しうるまでの力あるものではないのである。
かつて三河の宝飯郡の某村で、狸が一人の若者に憑いたことがあった。狐などよりは口軽く、むやみにいろいろのことをしゃべるのが、この獣の特性とせられているが、この時も問わず語りにおれはこの村の誰という女を、山へ連れて往って女房にしているといった。でたらめかとは思ったが、実際ちょうどその女がいなくなって、しきりに捜している際であった故に、根ほり葉ほりして隠しておくという場処を問いただし、もしやというので山の中を捜して見ると果して岩穴の奥とかにその娘がいたということである。還ってきてから本人が、どういう風に顛末を語ったか。この話をしてくれた人も聞いてはおらず、また強いて詳しくその点を究めるまでもないか知らぬが、風説にもせよ世を避けて山に入って行く若い女を一種の婚姻のごとく解する習わしは弘く行なわれていうので、それが不条理であればあるだけに、底に隠れた最初の原因が、ことに学問として尋ねて見る価値を生ずるのである。猿の婿入の昔話は、前にすでに大要を叙べておいたが、これにも欺き終おせて無事に還ってきたという童話式のもののほかに、とうとう娘を取られたという因縁話も伝わっている。竜蛇の婚姻に至っては末遂げて再び還らなかったという例がことに多い。黒髪長くまみ清らかなる者は何ぴともこれを愛好する。齢盛りにして忽然と身を隠したとすれば、人に非ずんば何か他の物が、これを求めたと推断するが自然である。特に山男の場合に限って、目するに現実の遭遇をもってする理由はないのかも知れぬ。ましてや世界の諸民族に共通なる、いわゆるビートス・エンド・ビウティーの物語の、これが根原の動機をなすかのごとく、説かんとすることは速断に失するであろう。また今日までの資料では、強いてその見解を立てるだけの勇気は、自分たちにもまだないのだが、ただ注意してもよいことは日本という国には、近世に入ってからもこの類の話が特に数多く、またしばしば新たなる実例をもって、古伝を保障しようとしていたことである。普通の場合には俗に「みいられた」とも称し、女が何かの機会に選定を受けたことになっており、伊豆の三宅島などには山に住む馬の神がみいったという話もあって、過度に素朴なる口碑は諸国に多く、そうでなければ不思議な因縁がその女の生まれた時から附纏い、または新たなる親の約束などがあって、自然にその運命に向わねばならなかったように、語り伝えているに反して、別に我々が聴きえたる近年の例は、全く偶然の不幸から掠奪せられて山に入っている。そうしていかにも人間らしい強い執着をもって、愛せられかつ守られていたというのである。それを単なる昔話の列に押並べて、空想豊かなる好事家が、勝手な尾鰭を附添えたかのごとく解することは、少なくとも私が集めてみたいくつかの旁証が、断じてこれを許さないのである。
母は往々にして不当に疑われた。似ておらぬからわが子でないという単純に失した推断は必ずしも独り五葉山中の山人のみの専売でもなかったのである。至って平和なる里中にも親に似ぬ子は鬼子という俚諺は、今もって行われていて、時々はまたこれを裏書するような事件が、発生したとさえ伝えられるのである。
「日本はおろかなる風俗ありて、歯の生えたる子を生みて、鬼の子と謂ひて殺しぬ」と、『徒然慰草』の巻三には記してある。江戸時代初め頃の人の著述である。なおそれよりも遙かに古く、『東山往来』という書物の消息文の中にも、家の女中が歯の生えた児を生んだ。これ鬼なり山野に埋むるにしかずと近隣の者が勧めるが、いかがしたものだろうかという相談に答えて、坊主にするのが一番よろしかろうといっている。すなわち以前は相応に頻々と、処々にこのような異様の出来事があったかと思われるのである。
けだし人はとうてい凡庸を愛せずにはおられなかった者であろうか。前代の英雄や偉人の生い立ちに関しては、いかなる奇瑞でも承認しておりながら、事一たび各自の家の生活に交渉するときは、寸毫も異常を容赦することができなかった。近世に入ってからも、稀には歯が生えて産れるほどの異相の子を儲けると、たいていは動顛して即座にこれを殺し、これによって酒顛童子・茨木童子の如き悪業の根を絶った代りには、一方にはまた道場法師や武蔵坊弁慶の如き、絶倫の勇武強力を発揮する機会をも与えなかった。これ恐らくは天下太平の世の一弱点であったろう。
しかも胎内変化の生理学には、今日なお説き明かしえない神秘の法則でもあるのか。このような奇怪な現象にも、やはり時代と地方とによって、一種の流行のごときものがあった。詳しく言うならば、鬼を怖れた社会には鬼が多く出てあばれ、天狗を警戒していると天狗が子供を奪うのと同様に、牙ありまた角ある赤ん坊の最も数多く生まれたのは、いわゆる魔物の威力を十二分に承認して、農村家庭の平和と幸福までが、時あって彼らによって左右せられるかのごとく、気遣っていた人々の部落の中であった。
鬼子の最も怖ろしい例としては、明応七年の昔、京の東山の獅子が谷という村の話が、『奇異雑談集』の中に詳しく報ぜられている。『玄同放言』三巻下には全文を引用しているが、記事にはあやふやな部分がちっともなく、少なくとも至って精確なる噂の聞書である。その大要のみを挙げると、この家の女房三度まで異物を分娩し四番目に産んだのがこの鬼子であった。生まれ落ちたとき大きさ三歳子のごとく、やがてそこらを走りあるく故に、父追いかけて取りすくめ膝の下に押しつけてみれば、色赤きこと朱のごとく、両眼の他に額になお一つの目あり、口広く耳に及び、上に歯二つ下に歯二つ生えていた。父嫡子をよびて横槌を持ってこいというと、鬼子これを聞いて父が手に咬みつくのを、その槌をもって頻りに打って殺してしまった。人集まりてこれを見ること限りなしとある。その死骸は西の大路真如堂の南、山際の崖の下に深く埋めた。ところがその翌日田舎の者が三人、梯子をかたげてこの下を通り、崖の土の少しうごもてるを見て、土竜鼠がいるといって朸のさきで突いて見ると、ひょっくりとその鬼子が出た。三人大いに驚いてこれは聞き及んだ獅子が谷の鬼子だ。ただ早く殺すがよいと、朸を揮うて頻に打ち、ついにこれを叩き殺した。それを惨酷な話だが、繩をつけて京の町まで曳いてくると途中多くの石に当ったけれども、皮膚強くして少しも破れずとまで書いてある。この事常楽時の栖安軒琳公幼少喝食の時、崖の下にて打ち殺すをまのあたり見たりといえりとあって、事件の当時から約九十年後の記述である。
何故に親が大急ぎで、牙の生えた赤子を殺戮せねばならなかったかは、じつは必ずしも明瞭ではない。家の外聞とか恥とかいうのも条理に合わなかった。殺してこれを清める望みはなかったのみならず、匿し終おせた場合さえ少なかった。しからば活かして置いて何が悪いかと尋ねてみると、これまた格別のことはなかったのである。兇暴無類の評ある大江山の酒顛童子、その子分か義兄弟のごとく考えられた茨木童子なども、単に今まで見ず知らずの他人に対して残忍であったというのみで、翻ってその家庭生活を検すれば、思いのほかなるものがあった。『越後名寄』巻三十三その他の所伝によれば、酒顛童子はこの国西蒲原郡砂子塚、または西川桜林村の出身と称しておのおのその旧宅の址があった。附近の和納という村にも後に引越してきたといって今なお榎の老木ある童子屋敷、下名を童子田と呼ぶ水田もあった。童子幼名を外道丸と名づけられ美童であった。父の名は否瀬善次兵衛俊兼、戸隠山九頭竜権現の申し児であって、母の胎内に十六箇月いたというだけが、親に迷惑をかけたといえばかけたのである。和納の楞厳寺で文字を習い、国上の寺に上って侍童となるまでは不良少年でも何でもなかった。茨木童子の故郷も摂津にある方が正しいのかも知れぬが、これまた越後にも一箇処あって、今の古志郡荷頃村大字軽井沢、茨木善次右衛門はその生家と称し、連綿として若干の記憶を伝えていた。例えば家の背後に童子が栖んだという岩屋、それは崩れてその跡に清き泉湧き、流の末には十坪ばかりの空地あって、童子出生の地と称して永く耕作をさせなかった。悪人に対する記念ではなかったのである。
摂州川辺郡東富松の部落においては、すでに茨木童子の家筋は絶えたかわりに、更に一段と心を動かすべき物語が残っていた。『摂陽群談』巻十に曰う。童子生まれながらにして牙生い髪長く、眼に光あって強盛なること成人に超えし故に、一族畏怖してこれを茨木の辺に棄てたところ、丹波千丈岳の強盗酒顛童子拾い還りて養育して賊徒となす云々。しかも両親がのちに病に罹って同じ枕に寝ているのを、術をもって遙かにこれを知り、心配をして見舞に還ってきたというのは、やはり松崎の寒戸の婆などの例であろう。ただいまは京都に留まって、東寺の辺に安住している。人に怖ろしい姿を見せぬように、急いで還ろうと飛んで往ったという田圃路に、安東寺の字名などが残っており、その時親が悦んで団子を食わせた記念として、毎年同じ日に村では団子祭をするといっている。
戦いがなくなり国中が統一してしまうまでは、こういう義理固い無茶者は、求めても養って置く必要が時としてはあった。いわば百姓の家に生まれたのが損だったのである。肥後の川上彦斎の伝を見てもそう思うが、江戸幕府の初頭に刑せられたあぶれ者、大鳥一兵衛などについてはことにその感が深い。ほんのもう四十年か五十年早く生まれていたら、彼は大名になったかも知れぬのである。一兵衛自身の身の上話というのは、『慶長見聞集』巻六に出ている。「武州大鳥といふ在所に利生あらたかなる十王まします。母にて候ふ者子無きことを悲み、此十王堂に一七日籠り、満ずる暁に霊夢の告あり、懐胎して十八月にしてそれがし誕生せしに、骨柄たくましく面の色赤く、向ふ歯あつて髪はかぶろなり。立つて三足歩みたり。皆人是を見て悪鬼の生れけるかと驚き、既に害せんとせし処に、母之を見て謂ひけるやうは、なう暫く待ちたまへ思ふ仔細あり、是は十王への申し児なれば、其しるし有りて面の色赤し云々と申されければ、我を助け置き幼名を十王丸と謂へり」とある。祈る仏も多くあった中に、特に閻魔に児を申したというのは、別に近代の母親の相続せざる、一種戦国時代相応の理想があったためかと思う。そうではないまでも大王が事を好み、余計な迷惑を信徒に与えんとしたのでないことだけは、一般にこれを認めていたように見えるが、しかもそれは京都とその附近で、盛んに牙ある赤子を撲殺した時代よりも、またずっと後年の田舎の事であった。
内田邦彦君の『南総之俚俗』の中に、東上総の本納辺の慣習として、鬼子が生まれると歳神様へ上げた棒で叩くとある。これとよく似たことで今日弘く行われているのは赤ん坊があまり早く例えば一年以内にあるき始めると、大きな餅を搗いてこれを脊負わせ、それでもなおあるくと突き倒したりする親がある。鬼子というのは多分歯が生えて産れる子のことであろうが単に殺すことを許されぬ故にこんな方法をのちに代用したものとみても、なお歳神の棒ということには、考え出さねばならぬ深い意味がある。或いは本来はこのうえもない立派な児であるけれども凡人の家にとっては善過ぎるために、その統御を神に委ねるの意味ではなかったか。いずれにもせよ後世の民家で、怖れて殺したほどの異常なる特徴は、同時にまた上古の英傑勇士名僧等の奇瑞として、尊敬して永く語り伝えたものと一致し、さらに常理をもって判断しても、それがことごとく昔の個人生活の長処ばかりであったことを考えると、野蛮な風習だから大昔からあったろうと、手軽に推断することもできぬようである。人間の畸形にも不具と出来過ぎとが確かにある。大男も片輪のうちに算えるのは、いわゆる鎖国時代の平民の哀れな遠慮であろう。蝦夷のシャグシャインやツキノイ、南の小島では赤蜂本瓦や与那国の鬼虎のごとき、容貌魁偉なる者は多くは終りを全うしなかった。それを案じて家にこのような者の生まれるを忌んだのはおそらくは新国家主義の犠牲であった。部曲が対立して争闘してやまなかった時代には、いわゆる鬼の子はすなわち神の子で、それ故にこそ今も諸国の古塚を発くと、往々にして無名の八掬脛や長髄彦の骨が現れ、もしくは現れたと語り伝えて尊信しているのである。
沖繩の『遺老説伝』には次のような話がある。「昔宮古島川満の邑に、天仁屋大司といふ天の神女、邑の東隅なる宮森に来り寓し、遂に目利真按司に嫁して三女一男を生む。夫死して妻のみ孤児を養ふに、第三女真嘉那志十三歳、忽ち懐胎して十三月にして一男を坐下す。頭には双角を生じ眼は環を懸くるが如く、手足は鷹の足に似たり。容貌人の形に非ず。故に之を名づけて目利真角嘉和良と謂ふ。年十四歳の時、祖母天仁屋及び母真嘉那志に相随ひて、倶に白雲に乗りて天に升る。後年屡〻目利真山に出現して、霊験を示す。邑人尊信して神岳と為す」と。ツカサは巫女を意味しまた多くは神の名であった。カワラは沖繩の按司と同じく、また頭目のことである。先島の神人には角を名につくものが他にもある。すなわち神の子であり、のちまた神に隠されたる公けの記録が、かの島だけにはこれほど儼然として伝わっているのである。殺すということは少なくとも、古代一般の風習ではなかった。
嘘かとは思うが何郡何村の何某方と固有名詞が完全に伝わっている。今から三十年ほど以前に、愛媛県北部の或る山村で、若い嫁が難産をしたことがあった。その時腹の中から声を発する者があって、おれは鬼の子だが殺さぬなら出て遣る。もし殺すならば出て遣らぬがどうだと言う。活かして置くのは家の名折れとは思ったが、いつまでも産れないでは困る故に、皆で騙して決して殺さぬという約束をした。そうして待構えていて茣蓙で押えて殺してしまった。角の長さが二寸ばかり、秘密にしていたのを遠縁の親類の女が知って、ついにこの話の話し手にしゃべったのが私にも聴えた。ただしどうしてまたそのような怖ろしい物を孕んだかは、今に至るまで不明であるが、この近傍には鬼子の例少なからず、或る村の一家のごときは鬼の子の生まれる少し以前に、山中に入って山姥のオツクネという物を拾い、それから物持になったかわりに、またこういう出来事があったという。オツクネとは方言で麻糸の球のこと、山姥の作ったのは人間の引いたのとは違って、使っても使ってもなくならぬ。すなわちいわゆる尽きぬ宝であった。
また大隅海上の屋久島は、九州第一の高峯を擁して、山の力の今なお最も強烈な土地であるが、島の婦人は往々にして鬼の子を生むことありと、『三国名勝図会』には記している。「山中に入りたる時頻りに睡眠を催し、異人を夢みることあれば必ず娠む。産は常の如くにしてたゞ終りて後神気快からずと雖死ぬやうなことは決して無い。生れた児は必ず歯を生じ且つ善く走る。仍て鬼子とは謂ふ也」とある。かくのごとき場合には、柳の枝をその児の口にくわえさせて、これを樹の枝に引懸て置くと、一夜を過ぐれば必ず失せてなくなるといっていた。普通の赤ん坊ならば無論活きているはずはないのだが、島の人々は或いは父方に引き取って、養育しているもののごとく考えていたものらしい。前後の状況は甚だしく相違するが、とにかくにこれも一種の神隠しではあった。
日向南部の米良山の中にも、入って働いている女の不時に睡くなるというところがあった。そういう際にはよく姙娠することがあって、これを蛇の所業のごとく信ずる者もあったという。現に近年も某氏の夫人、春の頃に蕨を採りに往ってその事があったので、もしや蛇の子ではないかと思って、産をしてしまうまで一通りならぬ心痛をしたそうである。古い書物に巨人の跡を踏み、或いは玄鳥の卵を呑んで感じて身ごもることありと記したのも、多分はこういう事情を意味したものであろう。気高い若人が夜深く訪ねてきたという類の話にも、最初に渓川の流に物を洗いに降りて、美しい丹塗りの箭が川上から泛んできたのを、拾うて還って床の側に立てて置いたという例があるのを見ると、また異常なる感動をもって、母となる予告のごとく解していた、昔の人の心持が察せられる。ただ村民の信仰がおいおいに荒んできてこういう奇瑞の示された場合にも、怖畏の情ばかり独り盛んで、とかくに生まれる子を粗末にした。大和の三輪の神話と豊後の尾形氏の古伝とは、或いはその系統を一にするかとの説あるにもかかわらず、後者においては神は誠に遠慮勝ちで、岩窟の底に潜んで永く再び出でなかった。その他の地方の多くの類例に至っては、銕の針に傷けられて命終るといい、普通には穴の口に近よって人が立聴きするとも知らず蓬と菖蒲の葉の秘密を漏した話などになっており、嫗岳の大太童のごとく子孫が大いに栄えたという場合は、今ではこれを見出すことがやや難くなっているのである。『作陽志』には美作苫田郡越畑の大平山に牛鬼と名づくる怪あり。寛永中に村民の娘年二十ばかりなる者、恍惚として一夜男子に逢う。自ら銕山の役人と称していた。のちに孕んで産むところの子、両牙長く生い尾角ともに備わり、儼として牛鬼のごとくであったので父母怒ってこれを殺し、銕の串に刺して路傍に暴した。これ村野の人後患を厭するの法なり云々とあって、昔はさしも大切に事えた地方の神が、次第に軽ぜられのちついに絶縁して、いつとなく妖怪変化の類に混じた経路を語っている。そうしていずれの場合にも、銕という金属が常に強大な破壊力であった。屋久島などでもことに鍛冶の家が尊敬せられ、不思議な懐胎には必ず銕滓を貰ってきて、柳の葉とともに合せ煎じて飲むことになっていたそうである。
山に入って山姥のオツクネなるものを拾った故に、物持にもなったかわり鬼子も生まれたという話には更に一段と豊富なる暗示を含んでいるらしい。山姥はなるほど多くの神童の母であり、同時にまた珍しい福分の主でもあったことは、次々にもなお述べるように、諸国の昔からの話の種であったが、特に常人の女性に角ある児を産ましめるために、彼女が干渉すべき必要はなかったはずである。察するところ本来この不可思議の財宝は、むしろ不可思議な童子に伴うて神授せらるべきものであったのを、人が忘却してこれを顧みぬようになってから、山中の母ばかりが管理をすることとなったのであろう。この想像を幾分か有力にするのは、ウブメ(産女)と称する道の傍の怪物の話である。支那で姑獲と呼ぶ一種の鳥類をこれに当てて、産で死んだ婦人の怨魂が化成するところだの、小児に害を与えるのを本業にしているのと、古い人たちは断定してしまったようだが、それでは説明のできない著しい特徴には、少なくとも気に入った人間だけには大きな幸福を授けようとしていた点である。すなわちウブメ鳥と名づくる一種の怪禽の話を別にして考えると、ウブメは必ず深夜に道の畔に出現し赤子を抱いてくれといって通行人を呼び留める。喫驚して逃げてくるようでは話にならぬが、幸いに勇士等が承諾してこれを抱き取ると、だんだんと重くなってしまいには腕が抜けそうになる。その昔話はこれから先が二つの様式に分かれ、よく見ると石地蔵であった石であったというのと、抱き手が名僧でありウブメは幽霊であって、念仏または題目の力で苦艱を済ってやったというのとあるが、いずれにしても満足に依託を果した場合には、非常に礼を言って十分な報謝をしたことになっている。仏道の縁起に利用せられない方では、ウブメの礼物は黄金の袋であり、または取れども尽きぬ宝であった。時としてその代りに五十人百人力の力量を授けられたという例も多かったことが、佐々木君の『東奥異聞』などには見えている。『今昔物語』以来の多くの実例では、ウブメに限らず道の神は女性で喜怒恩怨が一般に気紛れであった。或る者はこれに逢うて命を危くし、或る者はその因縁から幸運を捉えたことになっている。後世の宗教観から見るときは甚だ不安であるためにだんだんと畏怖の情を加えたのだが、神に選択があり人の運に前定があったと信じた時代には、これもまた祷るに足りた貴き霊であったに相違ない。つまりは児を授けられるというのは優れた児を得るを意味し、申し児というのは子のない親ばかりの願いではなかったのである。そうして山姥のごとき境遇に入ってでも、なお金太郎のごとき子を欲しがった社会が、かつて古い時代には確かにあったことを、今はすでに人が忘れているのである。
人の女房を山の神という理由としては、いろはの中ではヤマの上がオクだからなどと馬鹿げた説明はすでに多い。或いは里神楽の山の神の舞に、杓子を手に持って出て舞うからというなどは、もっともらしいがやや循環論法の嫌いがある。何の故に山の神たる者がかくのごとく、人間の家刀自の必ず持つべきものを、手草にとって舞うことにはなったのか。それがまず決すべき問題だといわねばならぬ。杓子はなるほど山中の産物であって、最も敬虔に山神に奉仕する者が、これを製して平野に持ち下る習いではあったが、ただそれのみでは神自らこれを重んじ、また多くの社においてこれを信徒に頒与するまでの理由にはならぬ。岐阜県の或る地方では以前は山の神の産衣と称して長さの六七尺もある一つ身の着物を献上する風があったというが、今はいかがであろうか。これに対しては子育ての守として、巨大なる山杓子を授けた社もあったという。越前湯尾峠の孫杓子を始めとし、今でも杓子には小児安全の祈祷を含むものが多い。山と女性または山と産育というがごとき、一見して縁の遠そうな信仰が、かつてその間に介在しなかったならば、とうてい我々の家内の者に、そのようないかめしい綽名を付与するの機会は生じなかったはずである。
山の神は通例諸国の山林において、清き木清き石について、臨時にこれを祀り、禰宜・神主の沙汰はない場合が多いが、これを無格社以上の社殿の中に斎くとすれば、すなわち神の名を大山祇命、もしくは木花開耶姫尊といい、稀にはその御姉の岩長姫命とも称えて、何とかして「神代巻」に合致させようとするのが、近世神道の習わしである。しかもこれは単に山神が或る地では男神であり、また他の地方では姫神であったことを語る以外に、いささかも信仰の元の形を、跡づけた名称ではないのである。公認せられない山神の久しい物語には、今はおおよそ忘れたからよいようなものの、なかなかに尊き大山祇の御名を累すべきものが多かった。木樵・草苅・狩人の群が、解しかつ信じていた空想は粗野であった。それを片端から説き立てることは心苦しいが、わずかに山の神に産衣を奉納したという点だけを考えてみても、自分たちはこれを岩長姫の御姉妹に托することの、由なき物好みであったことを感ずるのである。十八九年前に自分は日向の市房山に近い椎葉の大河内という部落に一泊して、宿主の家に伝えた秘伝の「狩之巻」なるものを見せてもらったことがある。その一節の山神祭文猟直しの法というのは、大よそ次のごとき素朴なる神話であった。不明の文字があるから、むしろ全文を書留めて置く方がよいと思う。
一、そも〳〵山の御神、数を申せば千二百神、本地薬師如来にておはします。観世音菩薩の御弟子阿修羅王、緊那羅王、摩𦞈羅王と申す仏は、日本の将軍に七代なりたまふ。天の浮橋の上にて、山の神千二百生れたまふ也。此山の御神の母御名を一神の君と申す。此神産をして、三日までうぶ腹を温めず。此浮橋の上に立ちたまふ時、大摩の猟師毎日山に入り狩をして通る時に、山の神の母一神の君に行逢ひたまふとき、われ産をして今日三日になるまでうぶ腹を温めず、汝が持ちしわり子を少し得さすべしと仰せける。大摩申しけるは、事やう〳〵勿体なき御事也。此割子と申すは、七日のあひだ行を成し、十歳未満の女子にせさせ、てんから犬にもくれじとて天じやうに上げ、ひみちこみちの袖の振合にも、不浄の日をきらひ申す。全く以て参らすまじとて過ぎにけり。其あとにて小摩の猟師に又行逢ひ、汝高をいふもの也。我こそ山神の母なり、産をして今日三日になるまで、産腹を温めず。山の割子を得さすべしと乞ひたまふ。時に小摩申しけるは、さてさて人間の凡夫にては、産をしては早くうぶ腹をあたゝめ申すこと也。ましてや三日まで物をきこしめさずおはす事のいとをしや。今日山に入らず、明日山に入らずとも、幸ひ持ちし割子を、一神の君に参らせん。かしきのうごく、白き粢の物をきこしめせとてさゝげ奉る。其時一神の君大に悦び、いかに小摩、汝がりう早く聞(開?)かせん。是より丑寅の方にあたつて、とふ坂山といへるあり。七つの谷の落合に、りう三つを得さすべし。猶行末々たがふまじと誓ひて過ぎたまふ。急々如律令。敬白。
右の話が天つ神の新嘗の物忌の日に、富士と筑波と二処の神を訪れて、一方は宿を拒み他方はこれを許したという物語、巨旦将来・蘇民将来の二人の兄弟が、款待の厚薄によって武塔天神に賞罰せられた話、世降っては弘法大師が来って水を求めた時、悪い姥はこれを否んで罰せられ、善き姥は遠く汲んでその労を報いられたという口碑などと同じ系統の古い形であることは、誰人もこれを認め得る。かりに山の神の母に托した物語が日向ばかりの発明であったとしてもその意味は深いと思った。しかるについ近ごろになって、佐々木君の『東奥異聞』には遠く離れた陸中の上閉伊郡と、羽後の北秋田郡のマタギの村とに、同じ話が口伝となって残っていたことを報告している。羽後の方では八人組十人組という二組のマタギ、一方は忌を怖れてすげなく断ったに反して、他の一方では小屋の頭がただの女性でないと見て快く泊め、小屋で産をさせて介抱をした。陸中の山村では猟人の名を万治磐司といい、磐司がひとり血の穢れを厭わず親切に世話をすると、十二人の子を生んだと伝えている。いずれも山神がその好意をめでて、のちのち山の幸を保障したことは同じであった。
猟師は船方などとは違い、各自独立した故郷があって、互いに交通し混同する機会は決して多くない。それが奥州と九州の南端と、いつのころからかは知らぬがこれだけ類似した物語を伝えているのは必ず隠れた原因がなければならぬ。その原因を尋ね求めることは、今からではもうむつかしいであろうか否か。自分の知る限りにおいては、同じ古伝の破片かと思うものが、中部日本では上古以来の北国街道、近江から越前へ越える荒乳山にもあった。『義経記』巻七に義経の一行が、この峠を越えなずんで路の傍に休んだ時、アラチという山の名の由来を、弁慶が説明したことになっている。今の人が聴けば興の覚めるような話だが、加賀の白山の山の神女体こうのりゅうぐうの宮、志賀の辛崎明神と御かたらいあって、懐姙すでにその月に近く、同じくはわが国に還って産をなされんとして、明神に扶けられてこの嶺を越えたもう折に、にわかに御催しあって、山中において神子誕生なされた。荒血をこぼしたもうによって荒血山とはいうとある。『義経記』全篇の筋とは直接の交渉なき插話だから、作者の新案とは考えられぬ。多分はこの書が成長をした足利時代中期に、まだ若干の物知りの間に、記憶せられていた口碑かと思う。しかも猟人の神を援助した話は、ここではこれと結びついていた痕跡がない。二国に分れ住む陰陽の神が、境の山の嶺に行き逢いたもうということは、大和と伊勢との間でも、信濃と越後の境でも、今なお土地の民はこれを語り伝えている。それと各地の道祖乢の驚くべく粗野なる由来記とは、もちろんいずれが本、何れが末とはきめにくいが、脈絡は確かにあったので、従って深山の誕生というがごとき荒唐なる言い伝えも、成立ちうる余地は十分にあった。ただ記録以前にあっては話し手の空想がわずかずつ働いて、始終輪廓が固定しなかったというのみである。
例えば浄瑠璃の「十二段草子」は、ほとんと『義経記』と同じころに今の形が整うたものかと思うのに同じ話がもう別様に語り伝えられ、志賀の辛崎明神を志賀寺の上人すなわち八十三歳で貴女に恋慕したという珍しい老僧の後日譚にしてしまった。その時京極の御息所は年十七、上人三たびその御手をとってわが胸に押し当てたので、すなわち懐胎なされたというのは、同じ近江国手孕村の古伝の混淆であるが、やはりまた荒乳の山中にして産の紐を解きたもうといい、取上げたる若子は面は六つ御手は十二ある異相の産児にして、ただちに都率天に昇り住したまい、のちに越前敦賀に降ってけいたい菩薩と顕れ、北陸道を守護したもうなどと、大変なでたらめをいっている。もちろんこの通りの話が一度でも土地に行われていたわけではなく、単に愛発の関が上古以来、北国往還の衝にあったために、他の辺土に比べてはこの口碑が一層弘く、かつ一層不精確に流布したことを、推定せしめるに過ぎぬのである。山姥が坂田公時の母であり、これを山中に養育したという話が、特に相州足柄の山に属することになったのも、また全然同じ事情からであろうと思う。江戸時代中期の読み本として、『前太平記』という書物が世に現れるまでは、山姥の本場は必ずしも、明るい東海のほとりの山でなかった。信州木曾の金時山などでは、現に金時母子の棲んだという巌窟、金時が産湯をつかったという池の跡のほかに、麓の村々の石の上にはこの怪力童子の足跡なるものがいくらもあって(『小谷口碑集』)、むしろ山姥が自由自在に山また山を山巡りするという、古い評判とも一致するのであるが、これを頼光四天王の一人に托するに至って、足柄ばかりが有名になったのみならず、前後ただ一度の奇瑞のごとく解せられて、かえって俗説の遠い由来を、尋ねる途が絶えようとするのである。
『臥雲日件録』などを読んでみると、山姥が子を生むという話は少なくとも室町時代の、京都にもすでに行なわれていた。しかもおかしい事には一腹に三人の四人も、怖ろしい子を生むというのである。従ってそれが山神の産養いという類の猟人等が言い伝えと、元は果して一つであるか否かも、容易に決断することはできぬのだが、山姥の信仰が今ほど雑駁になった上はいたしかたのないことである。近世の山姥は一方には極端に怖ろしく、鬼女とも名づくべき暴威を振いながら、他の一方ではおりおり里に現れて祭を受けまた幸福を授け、数々の平和な思い出をその土地に留めている。多くの山村では雪少なく冬の異常に暖かな場合に、ことしは山姥が産をするそうでといっていた。阿波の半田の中島山の山姥石は、山姥が子供をつれて時々はこの岩の上にきて、焚火をしてあたらせるのを見たと称してこの名がある。遠州奥山郷の久良幾山には、子生嵶と名づくる岩石の地が明光寺の後の峯にあって、天徳年間に山姥ここに住し三児を長養したと伝説せられる。竜頭峯の山の主竜筑房、神之沢の山の主白髪童子、山住奥の院の常光房は、すなわちともにその山姥の子であって、今も各地の神に祀られるのみか、しばしば深山の雪の上に足痕を留め、永く住民の畏敬を繋いでいた。『遠江国風土記伝』には平賀・矢部二家の先祖、勅を奉じて討伐にきたと誌してはあるが、のちに和談成って彼らの後裔もまた同じ神に仕えたことは、秋葉山住の近世の歴史から、これを窺うことができるのである。
山住は地形が明白に我々に語るごとく、本来秋葉の奥の院であった。しかるにいつのころよりか二処の信仰は分立して、三尺坊大権現の管轄は、ついに広大なる奥山には及ばなかったのである。海道一帯の平地の民が、山住様に帰伏する心持は、なんと本社の神職たちが説明しようとも、全く山の御犬を迎えてきて、魔障盗賊を退ける目的の外に出なかった。今こそ狼は山の神の使令として、神威を宣布する機関に過ぎぬだろうか、もし人類の宗教にも世に伴う進化がありとすれば、かつては狼をただちに神と信じて、畏敬祈願した時代があって、その痕跡は数々の民間行事、ないしは覚束ない口碑の中などに、たどればこれを尋ね出すことができるわけである。山に繁殖する獣は数多いのに、ひとり狼の一族だけに対しては、産見舞という慣習が近頃まであった。遠江・三河には限ったことではないが、諸国の山村には御犬岩などと名づけて、御犬が子を育てる一定の場処があった。いよいよ産があったという風説が伝わると、里ではいろいろの食物を重箱に詰めて、わざわざ持参したという話は珍しくない。ただし果して狼の産婦が実際もらって食べたか否かは確かでない。津久井の内郷などでは赤飯の重箱を穴の口に置いてくると、兎や雉子の類を返礼に入れて返したなどともうそろそろ昔話に化し去らんとしているが、秩父の三峯山では今もって厳重の作法があって、これを御産立の神事というそうである。『三峯山誌』の記するところによれば、御眷属子を産まんとする時は、必ず凄然たる声を放って鳴く。心直ぐなる者のみこれを聴くことを得べし。これを聴く者社務所に報じ来れば、神職は潔斎衣冠して、御炊上げと称して小豆飯三升を炊き酒一升を添え、その者を案内として山に入り求むるに、必ず十坪ばかりの地の一本の枯草もなく掃き清めたかと思う場所がある。その地に注連を繞らし飯酒を供えて、祈祷して還るというので、これまた産の様子を見たのではないが、この神事のあった年に限って、必ず新たに一万人の信徒が増加するとさえ信じていた。
しかもこの話が単に山神信仰の一様式に過ぎなかったことは、いわゆる御産立の神事が年を隔てて稀に行われていたのを見ても察せられる。狼は色欲の至って薄い獣だという説もあり或いはこの獣の交るを見た者は、災があるという説があったのも、つまりは山中天然の現象の観察が、かくのごとき信仰を誘うたものではなく、かねて山神の子を産むという信仰があったために、かかる偶然の出来事に対しても、なお神秘の感を抱かざるをえなかったことを意味するかと思う。狼が化けて老女となりもしくは老女が狼の姿をかりて、旅人を劫かしたという話は西洋にも弘く分布しているらしいが、日本での特色の一つは、これもまた分娩ということとの関係であった。ことに阿波・土佐・伊予あたりの山村においては、身持の女房がにわかに産を催し、夫が水を汲みに谷に降っている間に、狼の群に襲われたという話を伝え、または山小屋に産婦を残して里に出た間に、咬み殺されたという類の物語があって、或いはこの獣が荒血の香を好むというがごとき、怪しい博物学の資料にもなっているようだが実事としてはあまりに似通うた例のみ多く、しかもその故跡には大木や厳があって、しばしば祟りを説き亡霊を伝えているのを見ると、これも本来同一系統の信仰が、次第に形態を変じて奇談小説に近づこうとしているものなることを、推測することができるのである。
ただし実際この問題はむつかしくて、もうこれ以上に深入するだけの力もないが、とにかくに自分が考えて見ようとしたのは、何故に多くの山の神が女性であったかということであった。山中誕生の奇怪なる昔語りが、かくいろいろの形をもって弘くかつ久しく行われているのは、或いはこの疑問の解決のために、大切なる鍵ではなかったかということである。日向の椎葉山の「猟人伝書」に、山神の御母の名を一神の君と記しまたは安芸と石見を境する亀尾山の峠において、御子を生みたもうと伝うる神が、市杵島姫命であったというのも、自分にとっては一種の暗示である。イチは現代に至るまで、神に仕える女性を意味している。語の起こりはイツキメ(斎女)であったろうが、また一の巫女などとも書いて最も主神に近接する者の意味に解し、母と子とともにあるときは、その子の名を小市ともまた市太郎とも伝えていた。代を重ねて神を代表する任務を掌っているうちに、次第にわが始祖をも神と仰いで、時々は主神と混同する場合さえあったのは、言わば日本の固有宗教の一つの癖であった。故に公の制度としては斎女の風は夙に衰えたけれども、なお民間にあっては清くかつ慧しい少女が、或いは神に召されて優れたる御子を産み奉るべしという伝統的の空想を、全然脱却することをえなかったのかと思う。信仰圏外の批判をもってすれば、これを精神疾患の遺伝ともいうことができるが、平和古風の山村生活にあってはまったく由緒ある宗教現象の一つであった。ことにまた深山の深い緑、白々とした雲霧の奥には、しばしばその印象と記憶を新たにするだけの、天然の力が永くのちのちまで潜んでいたのである。
日向の猟人の山神祭文にも、山の神千二百生まれたもうということがあるが、山を越えて肥後の球磨郡に入ると、近山太郎、中山太郎、奥山太郎おのおの三千三百三十三体と唱えて、一万に一つ足らぬ山の神の数を説くのである。算えた数字でないことはもとよりの話だが、この点はすこぶる足柄山の金太郎などと、思想変化の方向を異にしているように思われる。いわゆる大山祇命の附会が企てられた以前、山神の信仰には既に若干の混乱があった。木樵・猟人がおのおのその道によって拝んだほかに、野を耕す村人等は、春は山の神里に下って田の神となり、秋過ぎて再び山に還りたもうと信じて、農作の前後に二度の祭を営むようになった。伊賀地方の鉤曳の神事を始めとし、神を誘い下す珍しい慣習は多いのであるが、九州一帯ではこれに対して山ワロ・河ワロの俗伝が行われている。中国以東の川童が淵池ごとに孤居するに反して、九州でミズシンまたはガアラッパと称する者は、常に群をなして住んでいた。そうして冬に近づく時それがことごとく水の畔を去って、山に還って山童となると考えられ、夏はまた低地に降りくること、山の神田の神の出入と同じであった。紀州熊野の山中においてカシャンボと称する霊物も、ほぼこれに類する習性を認められている。寂寥たる樹林の底に働く人々が、わが心と描き出す幻の影にも、やはり父祖以来の約束があり、土地に根をさした歴史があって、万人おのずから相似たる遭遇をする故に、かりに境を出るとたちまち笑われるほどのはかない実験でもなお信仰を支持するの力があった。ましていわんやその間には今も一貫して、日本共通の古くからの法則が、まだいくらも残っていたのである。
『西遊記』その他の書物に九州の山童として記述してあるのは、他の府県でいう山男のことであって、その挙動なり外貌なりは、とうてい川童の冬の間ばかり化してなる者とは思われぬのであるが、別にこれ以外に谷の奥に潜んで小さな怪物のいるという言い伝えはあったので、山童はもと恐らくはこの方に属した名であった。壱岐の島では一人の旅人が、夜通しがやがやと宿の前を海に下って行く足音を聴いた。夜明けて訊ねるとそれは山童の山から出てくる晩であった。或いはまた山の麓の池川の堤に、子供のかと思う小さな足痕の、無数に残っているのをみて、川童が山へ入ったという地方もある。秋の末近く寒い雨の降る夜などに、細い声を立てて渡り鳥の群が空を行くのを、あれがガアラッパだと耳を峙てて聴く者もあった。阿蘇の那羅延坊などという山伏は、山家に住みながら川童予防の護符を発行した。すなわち夏日水辺に遊ぶ者の彼らの害を懼るるごとく、山に入ってはまた山童を忌み憚っていた結果かと思われるが、近世に入ってからその実例がようやく減少した。大体にこの小さき神は、人間の中の小さい者も同じように、気軽な悪戯が多くて驚かすより以上の害は企てえなかった。注意をすればこれを防ぐことができたために、のち次第に人がその威力を無視するに至ったのである。『観恵交話』という二百年ほど前の書物には、豊後の国かと思う或る山奥に、せこ子と称する怪物がいる話を載せている。形は三尺から四尺、顔の真中に眼がただ一つであるほか、全く人間の通りで、身には毛もなくまた何も着ず、二三十ずつ連れだってあるく。人これに逢えども害を作さず、大工の持つ墨壺を事の外ほしがれでも、遣れば悪しとて与えずと杣たちは語る。言葉は聞えず、声はひゅうひゅうと高く響く由なりといっている。
眼が一つということは突然に聞けば仰天するが、土佐でも越後でも、また朝鮮でも、或いは遠く離れてヨーロッパの多くの国の田舎でも、こんな境遇の非類の物には、おりおり附いて廻る噂である。どうしてそういう風に目に見えたかは、残念ながらまだ明白に判らぬというまででまずは怪物の証拠とでもいうべきものであった。大和・吉野の山中においては、また木の子と名づくるおよそ三四歳の小児ほどの者がいた。身には木の葉を着ているとある。これは『扶桑怪談実記』の誌すところであって、その姿ありともなしとも定まらずなどと至って漠然たる話ながら、山働きの者おりおり油断をすると木の子に弁当を盗まれることがあるので、木の子見ゆるや否や棒をもってこれを追い散らすを常とすともあれば、少なくとも多数の者が知っていたのである。このほかにも秋田の早口沢の奥に鬼童という者の住むことは、『黒甜瑣語』三編の四に見え、土佐の大忍郷の山中に、笑い男という十四五歳の少年が出て笑うことが、『土州淵岳志』に書留めてある。それが誇張でありもしくは誤解なることは、細かに読んで見ずとも断定してよいのであるが、こういう偶然の一致がある以上は、誤解にもなお尋ぬべき原因があるわけである。
その上にまた時としては、誤解とも誇張とも考えられぬ場合もある。これは南方熊楠氏の文通によって知ったのだが、前年東部熊野の何とか峠を越えようとした旅人、不意に路傍の笹原の中から、がさがさと幼児が一人這い出してきたのを見てびっくりして急いで山を走り降った。それから幾日かを経て同じ山道を戻ってくると、今度はその子供が首を斬られて同じあたりに死んでいたのを見たという。頭も尻尾もなく話はただこれだけだが、その簡単さがむしろこの噂の人の作った物語でないことを感ぜしめる。南方氏の書状はこれにつけ加えて、インドは地方によって狼の穴から生きた人間の赤児を拾ってきた事件が今でも新聞その他におりおり報ぜられる。この国は狼の害甚だ多く、小児の食われる実例が毎年なかなかの数に達し、狼に食われた子供の首飾・腕飾の落ちたのを、山をあるいては拾い集める職業さえある。最近のロミュルスはすなわちこの連中によって発見せられるので、狼が飽満して偶然に食い残した子供が、無邪気に食を求めて狼の乳を吸い、自然に猛獣の愛情を喚起して狼の仔とともに育てられるのだ。或る孤児院へ連れてきた童子などは、四つ這いをして生肉のほかは食わず、うなる以外に言語を知らず、挙動が全然狼の通りであったと報告せられていると示された。ただしこの種の出来事は必ず昔からであろうが、これに基づいて狼を霊物とした信仰はまだ聞かぬに反して、日本の狼は山の神であっても子供を取ったという話ばかり多く伝わり、助け育てたという実例はないようである。故に性急にこの方面から山の赤子の説明を引出そうとしてはならぬのである。
山姥・山姫は里に住む人々が、もと若干の尊敬をもって付与したる美称であって、或いはそう呼ばれてもよい不思議なる女性が、かつて諸処の深山にいたことだけは、ほぼ疑いを容れざる日本の現実であった。ただしこれに関する近世の記録と口承とは、甚だしく不精確であった故に最も細心の注意をもって、その誤解誇張を弁別する必要があるのはもちろんである。自分が前に列記したいくつかの見聞談のごとく、女が中年から親の家を去って、彼らの仲間に加わったという例のほかに、別に最初から山で生まれたかと思われる山女も往々にして人の目に触れた。これも熊野の山中において、白い姿をした女が野猪の群を追いかけて、出てくることがあると、『秉穂録』という本に見えている。土佐では槙山郷の字筒越で、与茂次郎という猟師夜明に一頭の大鹿の通るのを打留めたが、たちまちそのあとから背丈一丈にも余るかと思う老女の、髪赤く両眼鏡のごとくなる者が、その鹿を追うてきたのを見て動顛したと、寺石氏の『土佐風俗と伝説』には誌してある。
猪を追う女の白い姿というは、或いは裸形のことを意味するのではなかったか。薩摩の深山でも往々にして婦人の姿をした者が、嶺を過ぐるを見ることがある。必ず髪を振り乱して泣きながら走って行くと、この国の人上原白羽という者が、『今斉諧』の著者に語っている。それがもし実験者の言に基づくものならば、泣きながらとは多分奇声を発していたことをいうのだろう。『遠野物語』に書留められた山中深夜の女なども、待てちゃアと大きな声で叫んだといっている。他の地方にも似たる例は多く、たいていは背丈がむやみに高かったことを説いているが、怖しくて遁げて来た者の観察だから、寸法などは大ざっぱなものであろうと思う。それよりも土地を異にし場合を異にして、おおよそ形容の共通なるもの、例えば声とか髪の毛の長く垂れていたとかいう点の同じかったのは注意に値する。山で大きな女の屍体を見たという話は、これもいくつかの類例が保存せられてあるが、なかんずく有名なのは夙く橘南谿の『西遊記』に載せられた日向南部における出来事である。
「日向国飫肥領の山中にて、近き年菟道弓にて怪しきものを取りたり。惣身女の形にして色ことの外白く黒髪長くして赤裸なり。人に似て人に非ず。猟人も之を見て大いに驚き怪み人に尋ねけるに、山の神なりと謂ふにぞ。後の祟りも恐ろしく取棄てもせず、其まゝにして捨置きぬ。見る人も無くて腐りしが、後の祟りも無かりしとぞ。又人のいひけるは、是は山女と謂ふものにて、深山にはまゝあるものと云へり」云々。この菟道弓のウジというのは、野獣が踏みあけた山中の通路である。同じ処を往来する習性があるのを知って、かかればひとりでに発するようにウジ弓を仕掛けておくのである。それにきて斃れたというのはいくら神でなくとも驚くべき不注意であって、珍しい事件であったに相違ないが、都に住む橘氏ならばとにかく、土地の猟人が始めて名を知ったというのは、やや信じにくい話である。ことにこの方面は今でも山人の出現が他に比べては著しく頻繁であり、現にこの記事以後にも、いろいろの珍聞が伝えられているのである。八田知紀翁の『霧島山幽界真語』の終りに、次のような一話が載せてある。
「おとゞし(文政十二年)の秋、日向の高岡郷(東諸県郡)にものしける時、籾木村なる郷士、籾木新右衛門と云へる人の物がたりに、高鍋領の小菅岳といふ山に、高岡郷より猟に行通ふ者のありけるが、一日罠を張り置けるに、怪しき物なんかゝりたりける。さるは大方は人の形にて、髪いと長く、手足みな毛おひみちたり。さてそれが謂ひけるは、私はもと人の娘なり。今は数百年の昔、世の乱れたりし時、家を遁れ出てこの山に兄弟共に隠れたりけるが、それよりふつに人間の道を絶ちて、朝夕の食ひ物とては、鳥獣木の実やうのものにて有り経しかば、おのづから斯う形も怪しくは成りにけり。今日しも妹の在る処に通はんとて、夜中に立ちて物しけるに、思はんやかゝる目に遭はんとは。いかで〳〵我命をば助けよかしと涙おとして詫びけれど(その言語今の世の詞ならで、定かには聴取りかねしとぞ)、いといぶかしくや思ひけん、其儘里へ馳せ還りて、友あまたかたらひ来て其女を殺してけり。さて其男は幾程も無く病み煩ふことありて死にけりとか。こは近頃の事なりとて、男の名も聞きしかど忘れにけり。」
小山勝清君の外祖母の話であった。明治の初年、肥後球磨郡の四浦村と深田村との境、高山の官山の林の中に、猟師の掛けて置いた猪罠に罹って、是も一人の若い女が死んでいた。丸裸であったそうだ。これを附近の地に埋めたが、のちに祟りがあったという話である。我々の注意するのは、以上三つの話が少しずつ時を異にし、またわずかばかり場処をちがえていずれも霧島市房連山の中の、出来事であったという点である。ただし猪罠の構造を詳しく知らねばならぬが、かかった女が身の上を語ったという小菅岳の一条には、甚だしく信じにくいものがある。姉と妹とが別れ別れに住んでいて、時あって相訪うということは話の様式の一つであり、乱を避けて山に入ったというのも、この地方の人望ある昔談りにほかならぬ。言葉が古風で聴取りにくかったという説明とともに、必ず仲継者の潤飾が加わっているかと思う。それよりも大切な点はわずかな歳月、わずかな距離を隔てて似たような三つの事件が起りしかもそれぞれ状況を異にして、真似た痕跡のないことである。自分は必ず今にまた新しい報告の、更に附加せらるべきことを予期している。
他の地方の類例はまた熊野の方に一つある。長八尺ばかりな女の屍骸を、山中において見た者がある。髪は長くして足に至り、口は耳のあたりまで裂け、目も普通よりは大なりと記している。それから『越後野志』巻十八には、山男の屍骸の例が一つある。天明の頃、この国頸城郡姫川の流れに、山男が山奥から流れてきた。裸形にして腰に藤蔓を纏う。身のたけ二丈余とある。ただし人恐れてあえて近づかず。ついに海上に漂い去るといって、寸尺は測って見たのではなかった。しかも二丈余というのはかねてこの地方で言うことと見えて、同じ書物の他の条にもそう書いてある。
ただし山男の身長の遙かに尋常を超えていたことは、他の多くの地方でも言うことで或いは事実ではないかと思う。このついでにほんの二つか三つ実例を挙げてみるならば、『有斐斎剳記』に対馬某という物産学者、薬草を採りに比叡山の奥に入って、たまたま谷を隔てて下の方に、一人の小児の岩から飛び降りてはまた攀じ登って遊んでいるのを見た。村の子供がきて遊ぶものと思っていたが、後日そこを通ってみるに、岩は高さ数仞の大岩であった。それから推して見ると小児と思ったのは、身の丈一丈もあったわけで、始めて怪物ということに気がついた。石黒忠篤君がかつて誰からか聴いて話されたのは、幕末の名士川路左衛門尉、或る年公命を帯びて木曾に入り、山小屋にとまっていると、月明らかなる夜更にその小屋の外にきて高声に喚ぶ者がある。刀を執って戸を開いて見るに、そこには早影も見えず、小屋の前の山をきわめて丈の高い男の下って行く後姿が、遠く月の光で見えたそうだ。山男であろうとその折従者に向かっていわれたが、他日ついに再びこれを口にせず、先生の日記にも伝にも、その事を記したものはなかったという。山中笑翁が前年駿州田代川の奥へ行かれた時、奥仙俣の杉山忠蔵という人が、その父から聴いたといって語った話の中に、若い時から猟がすきで、毎度鹿を追うて山奥に入ったが、真に怖ろしくまた不思議だと思った事は、生涯に二度しかない。その一度は山中の草原が丸太でも曳いて通ったように、一筋倒れ伏しているのを怪しんで見ているうちに、前の山の樹木がまた一筋に左右に分かれて、次第に頂上に押し登って行ったこと、今一度は人の足跡が土の上にあって、その大きさが非常なものであった。かねてこんな場合の万一の用意に、持っている鉄の弾丸を銃にこめて、なお奥深く入って行くと、ちょうど暮方のことであったが、不意に行く手の大岩に足を踏みかけて、山の蔭へ入って行く大男の後姿を見た。その身の丈が見上げても目の届かぬほどに高かった。あまり怖ろしいので鉄砲を打ち放す勇気もなく還ってきたと語ったそうである。昨今は既に製紙や枕木のために散々に伐り荒されたから事情も一変したが、以前はこの辺から大井の川上にかけては、山人に取っての日高の沙留ともいうべく、最も豊富なる我々の資料を蔵していた。安倍郡大川村大字日向の奥の藤代山などでも、かつて西河内の某という猟師が、大きな人の形で毛を被った物を、鉄砲で打ち留めたことがあった。『駿河国新風土記』巻二十には、なんでも寛政初年の事であったらしく記している。打ち留めたものの余りの怖ろしさに、そのままにして家に帰り、それが病の元になって猟師は死んだ。その遺言に一年も過ぎたなら、こうこうした処だから往って見よとあったので、その通りに時経てのち出かけて捜して見ると、偉大なる脛の骨などが落ち散り、傍にはまた四五尺あるかと思う白い毛が、おびただしくあったと伝えられる。そのように長いならば髪の毛だろうと思うが、何分多くは何段かの又聞きであったため、満身に毛を被るという記事がいつも精確でなく、ことにこの地方では猿の劫経たものとか、狒々とかいう話が今でも盛んに行われて、一層人の風説を混乱せしめる。新聞などを注意していると、四五年に一度ぐらいはそういう噂が必ず起こり、その実打ち取ったのはやや大形の猿であり、ただその話と寸法とのみが以前の山男の方に近くなっている。つまりはうそであり誇張ながらも、由って来たるところだけはあるのである。なお最後に今一つ、どうでも猿ではなかった具体的の例を出して置く。これは『駿河志料』巻十三、『駿河国巡村記』志太郡巻四に共に録し、前の二つの話よりは少しく西の方の山の、やはり百余年前の出来事であった。
「大井川の奥なる深山には山丈といふ怪獣あり。島田の里人に市助といふ者、材木を業として此山に入ること度々なり。或時谷畠の里を未明に立ち、智者山の険岨を越え、八草の里に至る途中、夜既に明けんとするの頃深林を過ぐるに、前路に数十歩を隔てゝ大木の根元に、たけ一丈余の怪物よりかゝるさまにて、立ちて左右を顧みるを見たり。案内の者潜かに告げて言ふ。かしこに立つは深山に住む所の山丈と云ふもの也。彼に行逢へば命は測り難し。前へ近づくべからず又声を揚ぐべからず、此林の茂みに影を匿せと謂ふ。市助は怖れおびえて、もとの路に馳せ返らんと言へど、案内の者制し止め、暫時の間に去るべければ日の昇るを待てと言ふまゝに、せんすべ無く只声を呑みてかたへに隠る。其間にかの怪物、樹下を去りて峯の方へ疾走す。潜かに之を窺ふに、形は人の如く髪は黒く、身は毛に蔽はれたれど面は人のやうにて、眼きらめき長き唇そりかへり、髪の毛は一丈余にてかもじを垂れるが如し。市助は之を見て身の毛立ち足の踏みどを知らず。されど峯の方へ走り行くを見て始めて安堵の思ひを為し、案内と共にかの処に来りて其跡を閲するに、怪獣の糞樹下にうづたかく、その多きこと一箕ばかりあり、あたりの木は一丈ほど上にて皮を剥きさぐりたる痕あり。導者曰ふ。これ怪物があま皮を食ひたる也。怪物は又篠竹を好みて食ふといへり。糞の中には一寸ばかりに噛み砕ける篠竹あり。獣の毛もまじりたりしとかや、按ずるに是は狒々と称するものにて、山丈とは異なるなるべし」(以上)。この話はいかにも聴いた通りの精確な筆記のようだが、やはりよく見ると、文人の想像が少しはまじっていること、あたかも噛み砕いた篠竹のごとくである。例えば長き唇反り返るとあるのは、支那の書物に古くからあることで、じつはどんな風に長いのか、日本人には考えもつかぬ。とうてい夜の引明けなどに眼につくような特徴ではなかったのである。山丈のジョウは高砂の尉と姥などのジョウで、今の俗語のダンナなどに当るだろう。すなわち山人の男子のやや年輩の者を、幾分尊んで用いた称呼にして、正しく山姥と対立すべき中世語であった。
全体に深山の女たちは、妙に人に近づこうとする傾向があるように見える。或いは婦人に普通なる心弱さ、ないしは好奇心からではないかと、思うくらいに馴々しかったこともあるが、それにしては彼らの姿形の、大きくまた気疎かったのが笑止である。
山で働く者の小屋の入口は、大抵は垂蓆を下げたばかりであるが、山女夜深く来たってその蓆をかかげ内を覗いたという話は、諸国においてしばしばこれを聞くのである。そういう場合にも髪は長くして乱れ、眼の光がきらきらとしているために喰いにでも来たかの如く、人々が怖れ騒いだのである。或いはまた日が暮れて後、突然として山小屋に入り来たり、囲炉裏の向うに坐って、一言も物を言わず、久しく火にあたっていたという話も多い。豪胆な木挽などが退屈のあまりに、これに戯れたなどという噂のあるのは自然である。羽後の山奥ではこんな女をわざわざ招き寄せるために、ニシコリという木を炉に燃す者さえあると『黒甜瑣語』などには記しているが、それは果してどういう作用をするものか、その木の性質と共になお尋ねて見たいと思っている。
今から三十年あまり以前、肥後の東南隅の湯前村の奥、日向の米良との境の仁原山に、アンチモニイの鉱山があった。その事務所に住んでいた原田瑞穂という人が夜分少し離れた下の小屋に往って、人足たちと一緒になって夜話をしていると、時々ぱらぱらとその小屋の屋根に小石を打ちつける音がする。少し気味が悪くなってもう還ろうと思い、その小屋を出てうしろの小路をわずかくると、だしぬけに背の高い女が三人横の方から出て、その一人が自分の手を強く捉えた。三人ながらほとんと裸体であった。何か頻りに物を言うけれども怖ろしいので何を言うか解らなかった。その内に大声に人を喚んだ声を聞いて、小屋から多勢の者がどやどやと出てきたので、女は手を離して足早に嶺の方へ上ってしまった。これも小山勝清君の話で、経験をした原田氏は、そのころまだ若かった同君の叔父である。
自分はこの鉱山のあった仁原山が、前に挙げた獣のわなに山女の死んでいた三つの場処の、ほぼまん中である故に、ことにこの話に注意をする。もし山人にも土地によって、気風に相異があるものとすれば、南九州の山中に住む者などは、とりわけ人情が惇樸でかつ無智であったように思われるからである。
この類の実例はゆくゆくなお追加しうる見込みがある。前にいう仁原山は市房山と白髪岳との中間にある山だが、その白髪岳の山小屋でも近年山の事業のためにしばらく入っていた某氏が、夜になると山女がきて足を持って引張るので、なにぶんにも怖ろしくて我慢ができぬといって還ってきたこともあった。球磨郡四浦村の吉という木挽が、かつて五箇庄の山で働いていた時に、小屋へ黙って入ってきた髪の毛の長い女などは、にこにことしてしきりに自分の乳房をいじっていた。驚いて飛びだして銕砲などを持って、多勢で還ってきてみるともうその辺にはいなかったそうである。単に遠くから姿を見たというだけの話なら、まだこの附近にも近頃の例がいくつかある。東北地方では会津の磐梯山の入山などにも、山女らしい話がおりおり伝えられる。『竜章東国雑記』の第六集に、「文化の初め頃、山麓某村の農民二人、川芎といふ薬草を採りに、此山西北の谿に入って還ることなり難く、流に傍うた大木の虚洞に夜を過すとて、穴の外に火を焚いて置くと、たけ六尺ほどで髪の長さは踵を隠すばかりなる女が沢蟹を捕へて此火に炙つて食ひ、又両人を見て笑った」と記している。「これ俗に山ワロと謂ひ野猨の年経たるもの也。奥羽の深山にはまゝ居る由にて、よく人の心中を知れども人に害を為すことなし」などとあって、土地でも詳しいことは知らぬのである。また『老媼茶話』には猪苗代白木城の百姓庄右衛門、同じく磐梯山の奥に入って、山姥のかもじと称するものを見つけたことを載せている。「長さ七八尺にして白きこと雪の如く、松の大木の梢にかゝつて居た」とあって其末に、「世に謂ふ山姥は南蛮国の獣なり。其形老女の如し。腰に皮ありて前後に垂れ下りたふさぎの如し。たま〳〵人を捕へては我住む岩窟に連れゆき、強ひて夫婦のかたらひを求む。我心に従はざるときは其人を殺せり。力強くして丈夫に敵す。好みて人の小児を盗む。盗まれし人之を知り、多勢集まり居て山姥が我子を盗みしことを大音に罵り恥しむるときは、窃かに小児を連れ来り、其家の傍に捨て置き帰るといへり」などといっている。実際の遭遇がようやく稀になって雑説はいよいよ附け加わるので、これなども支那の書物の知識が、もう半分ばかりもまじっているようである。
或いは単に人間の炉の火を恋しがって出てくるものとも想像しうる場合がある。冬の日に旅をした人ならこの心持は解るが、たとえ見ず知らずの人が焚火をする処でも、妙に近づいて見たくなるものである。夜分に人の家の火が笑語の声とともに、戸の隙間から洩れるのを見ると、嫉ましくさえなるものだ。無邪気な山の人々もこの光に引きつけられてくるのかも知らぬ。『秉穂録』にはまた熊野の山中で炭焼く者の小屋へ、七尺余りの大山伏の遣ってくることを録している。ただし「魚鳥の肉を火に投ずるときは、その臭気を厭うて去る」というのは、少しく前の沢蟹の話とは一致せぬが、火に対する趣味などにも地方的に異同があるのだろう。前に引用した『雪窓夜話』の上巻には、また次のような一件も記してある。すなわち因州での話である。
「西村某と云ふ鷹匠あり。鷂を捕らんとて知頭郡蘆沢山の奥に入り、小屋を掛けて一人住みけり。夜寒の頃なれば、庭に火を焚きてあたり居けるに、何者とも知れず、其たけ六尺あまりにて、老いたる人の如くなる者来りて、黙然とかの火によりて、鼻をあぶりてつくばひたり。頭の髪赤くちゞみて、面貌人に非ず猿にも非ず、手足は人の如くにして、全身に毛を生じたり。西村は天性剛なる男なれば、更に驚くこと無く、汝は何処に住む者ぞと問ひけれども、敢て答へず。暫くありて立帰る。西村も其後に沿ひて出でけれども、夜甚だ暗くして、其行方を知らずなりぬ。其後又来りて、小屋の内を覗くことありしに、西村、又来たか、今宵は火は無きぞと言ひければ、其まゝ帰りけると也。里人に其事を語りければ、山父と云ふもの也。人に害を為す者に非ず。之を犯すことあれば、山荒るゝと謂ひけると也。」
スキーで近頃有名になった信越の境の山にも、半分ほど共通の話があって、『北越雑記』巻十九に出ている。断って置くがこれら二つの書物は共に写本であって流布も少なく、一方の筆者は他の一方の著述の存在をすらも知らなかったのである。それを自分たちが始めて引き比べて見る処に、学問上の価値が存するのである。「妙高山・焼山・黒姫山皆高嶺にて、信州の飯綱・戸隠、越中の立山まで、万山重なりて其境幽凄なり。高田の藩中数十軒の薪は、皆この山中より伐出す。凡そ奉行より木挽・杣の輩に至るまで、相誓ひて山小屋に居る間、如何なる怪事ありても人に語ること無し。一年升山某、役に当りて数日山小屋に在りしが、夜は人々打寄りて絶えず炉に火を焚きてあたる。然るに山男と云ふもの、折ふし来ては火にあたり一時ばかりにして去る。其形人に異なること無く、赤髪裸身灰黒色にして、長は六尺あまり、腰に草木の葉を纏ふ。更に物言ふこと無けれども、声を出すに牛のいばふ如く聞ゆ。人の言語はよく聞分くる也。相馴れて知人の如し。一夕升山氏之に向ひて、汝木葉を着るは恥ることを知るなり。火にあたるは寒さを畏るゝなり。然らば何ぞ獣の皮を取りて身に纏はざるやと言ひしに、つく〴〵と之を聞きて去れり。翌夜は忽ち羚羊二疋を両の手に下げて来り、升山の前に置く。其意を解し、短刀もて皮を剥ぎて与ふれば、山男は頻りに口を開き打笑ひ、悦びて帰りぬ。すでにして又来たるを見れば、さきの皮一枚は、藤を以て繋ぎ合せて背に負ひ、他の一枚は腰に巻き付けたり。されど生皮を其のまゝ着たる故、乾くにつれて縮みより硬ばりたり。皆々打笑ひ、熊の皮を取り、十文字にさす竹入れ、小屋の軒に下げて見せ、且つ山刀一梃を与へて帰らしむ。其後数日来ずと謂へり」(以上)。これなどは秘密を誓約した人々の抜け荷だから、若干の懸値があっても吟味をすることが困難である。
山人も南九州の山に住む者が、特に無害でありまた人なつこかったように思われる。山中をさまようて危害の身に及ぶに心づかず、しばしば里の人の仮小屋を訪問して、それほどまでに怖れ嫌われていることを知らなかったという例は、主として霧島連峯中の山人の特質であった。なお同じ方面の出来事として、水野葉舟君からまた次のような話も教えられた。
日向南那珂郡の人身上千蔵君曰く、同君の祖父某、四十年ばかり以前に、山に入って不思議な老人に行逢うたことがある。白髪にして腰から上は裸、腰には帆布のような物を巻きつけていた。にこにこと笑いながら此方を向いて歩んでくる様子が、いかにも普通の人間とは思われぬ故に、かねて用心のために背に負う手裏剣用の小さい刀の柄に手を掛け、近く来ると打つぞと大きな声でどなったが、老翁は一向に無頓着で、なお笑いながら傍へ寄ってくるので、だんだん怖ろしくなって引返して遁げてきた。ところがそれから一月ばかり過ぎてまた同じ山で、村の若者が再び同じ老人に逢った。一羽の雉子を見つけて鉄砲の狙いを定め、まさに打ち放そうとするときに、不意に横合から近よってこの男の右腕を柔かに叩く者があった。振向いて見ればその白髪の老人で、やはりにこにこと笑って立っている。白髪の端には木の葉などがついていたという。これを見ると怖ろしさのあまり気が遠くなり、鉄砲を揚げたままで立ちすくんでいたのを、しばらくしてから村の人に見つけられ、正気になってのちにこの話をしたそうだ。眼の迷いとかまぼろしとか、言ってしまうことのできない話で、しかも作り話としては何の曲もなく、かつ二度の実見が一致していた。何かは知らずとにかくにそんな人が、この辺の山には正しくいたのである。
山人が我々を目送したという話もおりおり聞く。そうして甚だ気味の悪いことに、これを解説するのが普通であった。気味の悪くないこともあるまいが、彼らは元来が真の有閑階級だから、じつははっきりとした趣意もなく、ただ眺めていた場合もあったかも知れぬ。ただし少年や女には、これを怖れる理由は十分にあった。前年前田雄三君から聴いた話は、越前丹生郡三方村大字杉谷の、勝木袖五郎という近ごろまで達者でいた老人、今から五十余年前に十二三歳で、秋の末に枯木を取りに村の山へ往った。友だちの中に意地の悪い者があって、うそをついて皆は他の林へ往ってしまい、自分一人だけ村の白山神社の片脇の、堂ヶ谷というところで木を拾っているとき、ふと見れば目の前のカナギ(くぬぎ)の樹にもたれて、大男の毛ずねがぬくと見えた。見上げると目の届かぬほどに背が高い。怖ろしいからすぐに引返して、それからほど近い自分の家に戻り、背戸口に立って再び振り返って見ると、その大男はなおもとの場所に立ち、凄い眼をしてじっと此方を見ていたので、その時になって正気を失ってしまったそうである。この堂ヶ谷は宮からも人家からも、至って近い低い山であった。こんなところまで格別の用もないのに、稀には山人が出向いてきて人を見ていたのである。神隠しの風説などの起りやすかったゆえんである。
それから少なくとも我々に対して、常に敵意は持ってはいなかったという証拠もある。小田内通敏氏の示された次の一文は、何かの抄録らしいが元の書物は同氏も知らぬという。津軽での話である。
「中村・沢目・蘆谷村と云ふは、岩木山の崥にして田畑も多からねば、炭を焼き薪を樵りて、活計の一助となす。此里に九助といふ者あり。常の如く斧を携へて山奥に入り、柴立を踏分け渓水を越え、二里ばかりも躋りしが、寥廓たる平地に出でたり。年頃此山中を経過すれども、未だ見たること無き処なれば、始めて道に迷ひたることを悟り、且は山の広大なることを思ひ、歎息してたゝずみしが、偶〻あたりの谷蔭に人語の聴えしまゝ、其声を知るべに谷を下りて打見やりたるに、身の長七八尺ばかりの大男二人、岩根の苔を摘み取る様子なり。背と腰には木葉を綴りたるものを纏ひたり。横の方を振向きたる面構へは、色黒く眼円く鼻ひしげ蓬頭にして鬚延びたり。其状貌の醜怪なるに九助大いに怖れを為し、是や兼て赤倉に住むと聞きしオホヒトならんと思ひ急ぎ遁げんとせしが、過ちて石に蹶き転び落ちて、却りて大人の傍に倒れたり。仰天し慴慄して口は物言ふこと能はず、脚は立つこと能はず、唯手を合せて拝むばかり也。かの者等は何事か語り合ひしが、やがて九助を小脇にかゝへ、嶮岨巌窟の嫌ひなく平地の如くに馳せ下り、一里余りも来たりと思ふ頃、其まゝ地上に引下して、忽ち形を隠し姿を見失ひぬ。九助は次第に心地元に復し、始めて幻夢の覚めたる如く、首を挙げて四辺を見廻らすに、時は既に申の下りとおぼしく、太陽巒際に臨み返照長く横たはれり。其時同じ業の者、手に〳〵薪を負ひて樵路を下り来るに逢ひ、顛末を語り介抱せられて家に帰り着きたりしが、心中鬱屈し顔色憔悴して食事も進まず、妻子等色々と保養を加へ、五十余日して漸く回復したりと也。」
ただし山中においては、人は必ずしも山人を畏れてはいなかった。時としてはその援助を期待する者さえあったのである。例の橘氏の『西遊記』にもよく似た記事があるが、別に『周遊奇談』という書物に、山男を頼んで木材を山の口へ運ばせたという話を載せている。どのくらいまでの誇張があるかは確かめがたいが、まるまる根のない噂とは考えられぬのである。
豊前中津領などの山奥では、材木の運搬を山男に委託することが多かった。もっとも彼ら往来の場処には限があるらしく、里までは決して出てこない。いかなる険阻も牛のごとくのそりのそりと歩み、川が深ければ首まで水に入っても、水底を平地のようにあるいてくる。たけは六尺以上の者もあって、力が至って強い。男は色が青黒く、たいていは肥えている。全身裸であって下帯すらもないが、毛が深いので男女のしるしは見えぬ。ただし女は時に姿を見せるのみで出て働こうとはしない。そうして何か木の葉木の皮ようの物を綴って着ている。歯は真白だが口の香が甚だ臭いとまでいっている。労賃は握り飯だとある。材木一本に一個二本に二個。持って見て二本一度に担げると思えば、一緒にして脇へ寄せる。約に背いて例えば二本に握り飯一つしか与えなかったりすると、非常に怒って永くその怨を忘れない。愚直なる者だと述べている。
『西遊記』にいうところの薩摩方面の山わろなども、やはり握り飯を貰って欣然として運送の労に服したが、もし仕事の前に少しでも与えると、これを食ってから逃げてしまう。また人の先に立って歩むことを非常に嫌う。つまりは米の飯が欲しいばかりに出て働くらしいので、時としては、山奥の寺などに入ってきて、食物を盗み食うことがある。ただし塩気のある物を好まぬといっている。以上二種の記録は少しずつの異同があり、材料の出処の別々なることを示している。これ恐らくは信用すべき一致であろうと思う。
同じ『周遊奇談』の巻三には、また秋田県下の山男の話を記して、九州の例と比較がしてある。ただし著者自分で見たという点が安心ならぬ故に、特に原文のまま抄出して置く。
「出羽国仙北より、水無銀山阿仁と云ふ処へ越ゆる近道、常陸内と云ふ山にて、路を踏み迷ひ炭焼小屋に泊りし夜、山男を見たり。形は豊前のに同じけれども力量は知れず。木も炭も石も何にでも負ひもせず。唯折々其小屋へ食事などの時分を考へ来るとなり。飯なども握りて遣はせば悦びて持ち退く。人の見る処にては食せず。如何にも力は有りさう也。物は言はず。たゞのさ〳〵立廻りあるくばかり也。尤も悪きことはせず。至つて正直なる由なり。此処にては山女は見ず。又其沙汰も無し」。
山男はまた酒がすきで酒のために働くという話が、『桃山人夜話』の巻三に出ている。「遠州秋葉の山奥などには、山男と云ふものありて折節出づることあり。杣・山賤の為に重荷を負ひ、助けて里近くまで来りては山中に戻る。家も無く従類眷属とても無く、常に住む処更に知る者無し。賃銭を与ふれども取らず、只酒を好みて与ふれば悦びつゝ飲めり。物ごし更に分らざれば、唖を教ふる如くするに、その覚り得ること至つて早し、始も知らず終も知らず、丈の高さ六尺より低きは無し。山気の化して人の形と成りたるなりと謂ふ説あり。昔同国の白倉村に、又蔵と云ふ者あり。家に病人ありて、医者を喚びに行くとて、谷に踏みはづして落ち入りけるが樹の根にて足を痛め歩むこと能はず、谷の底に居たりしを、山男何処よりとも無く出で来りて又蔵を負ひ、屏風を立てたるが如き処を安々と登りて、医師の門口まで来りて掻き消すが如くに失せたり。又蔵は嬉しさの余りに之に謝せんとて竹筒に酒を入れてかの谷に至るに、山男二人まで出でて其酒を飲み、大いに悦びて去りしとぞ。此事古老の言ひ伝へて、今に彼地にては知る人多し」(以上)。又蔵が医者の家を訪れることを知って、その門口まで送ってくれたという点だけが、特に信用しにくいように思うけれども、酒を礼にしたら悦んだということはありそうな話であった。
山人が飯を欲しがるという話ならば、他の諸国においてもしばしば耳にするところである。土屋小介君の前年知らせて下さった話は、東三河の豊川上流の山で、明治の初めごろに官林を払い下げて林の中に小屋を掛けて伐木していた人が、ある日外の仕事を終って小屋に戻ってみると、背の高い髭の長い一人の男が、内に入って自分の飯を食っている。自分の顔を見ても一言の言葉も交えず、したたか食ってからついと出て往ってしまった。それから後も時折りはきて食った。物は言わず、またその他には何の害もしなかったという。盗んだというよりも人の物だから食うべからずと考えていなかった様子であった。
次に鈴木牧之の『北越雪譜』にある話は、南魚沼郡の池谷村の娘ただ一人で家に機を織っていると、猿のごとくにして顔赤からず頭の毛の長く垂れた大男が、のそりと遣って来て家の内を覗いた。春の初めのまだ寒いころで、腰に物を巻きつけて機にかかっていたために、怖ろしいけれども急に遁げることができず、まごまごとするうちに怪物は勝手元へまわり、竈の傍に往って、しきりに飯櫃を指さして欲しそうな顔をした。かねて聞いていることもあるので、早速に飯を握って二つ三つ与えると、嬉しい顔をしてそれを持って去った。それから後も一人でいる時はおりおりきた。山中でもこれに出逢ったという人がそのころは時々あったが、一人でも同行者があると決して来なかったそうである。
また同国中魚沼郡十日町の竹助という人夫は、堀之内へ越える山中七里の峠で、夏の或る日の午後にこの物に行逢うたことがある。白縮の荷物を路ばたに卸して、石に腰かけて弁当をつかっていると、やはり遣ってきたのが髪の長い眼の光る大男で、その髪の毛はなかば白かったという。石の上に置いた焼飯をしきりに指さすので、一つ投げてくれると悦んで食った。そうして頼みはせぬのにその荷物を背負って、池谷村の見えるあたりまで、送ってきてくれたという話である。
そこで改めて考えて見るべきは、山丈・山姥が山路に現われて、木樵・山賤の負搬の労を助けたとか、時としては里にも出てきて、少しずつの用をしてくれたという古くからの言い伝えである。これには本来は報酬の予想があり恐らくはそれが山人たちの経験であった。『想山著聞奇集』などに詳しく説いた美濃・信濃の山々の狗賓餅、或いは御幣餅・五兵衛餅とも称する串に刺した焼飯のごときも、今では山の神を祭る一方式のように考えているが、始めてこの食物を供えた人の心持は、やはりまたもっと現実的な、山男との妥協方法であったかも知れぬ。中仙道は美濃の鵜沼駅から北へ三里、武儀郡志津野という町で、村続きの林を伐ったときに、これは山というほどのところでもなく、ことに老木などの覆い繁ったものもない小松林の平山だから狗賓餅にも及ぶまいと思って、何の祭もせずに寄合って伐り始めると、誰も彼もの斧の頭がいつのまにかなくなり、道具もことごとく紛失していた。これはいけないとその日は仕事を中止し、改めて狗賓餅をして山の神に御詫びをしたら失せた道具がぼつぼつと出てきた。また同じ国苗木領の二つ森山では、文政七八年のころ木を伐出す必要があって、十月七日に山入して御幣餅を拵えたのはよいが、山の神に上げるのを忘れて、自分たちでみな食ってしまった。そうすると早速山が荒れ出して、その夜は例の天狗倒しといって、大木を伐倒す音が盛んにした。この時も心づいて再び餅を拵えて詫びたので、ようやく無事に済んだといっている。この地方では狗賓餅をするには、定まった慣習があった。まず村中に沙汰をして老若男女山中に集まり、飯を普通よりはこわく炊ぎ、それを握って串に刺し、よく焼いてから味噌をつける。その初穂を五六本、木の葉に載せて清い処に供えて置き、それから一同が心のままに食うのである。甚だうまい物だがこの餅をこしらえると、天狗が集まってくると称して村内の家では一切焼かぬようにしていた。故に一名を山小屋餅、江戸近くの山方では、古風のままに粢餅と呼んでいた。今日我々が宗教行為というものの中には、まだ動機の分明せぬ例が多い。ことに山奥で天狗の悪戯などと怖れた災厄には、こういう人間味の豊かな解除手段もあったことを考えると、存外単純な理由がかえって忘却せられ、実験のようやく稀になるにつれて、無用の雑説が解説を重苦しくした場合を、推測せざるをえないのである。
少なくとも焼飯の香気には、引寄せられる者が山にはいた。食物を供えて悦ぶ者のあることを、里人の方でもよく知っていた。そうして双方が正直で信を守ることは、昔は別段の努力でもなんでもなかった。従ってまず与えると働かずに遁げてしまうというのを、あたかも当世の喰遁げ同様に非難しようとしたならば誤っている。以前は山人はなんの邪魔もしなければ御幣餅をもらうことができ、またそれをくれぬ時にはあばれてもよかった。特に出てなんらかの援助を試みたのは、いわば好意でありまた米の味に心酔した者の、やや積極的な行動でもあった。もし私たちの推測を許すならば、それは或いは山人の帰化運動の進一歩であったのかも知れぬ。次の章に述べようとする飛騨のオオヒトの場合のごとく、人は単に偶然に世話になった場合にも、謝礼に握り飯を贈れば相手の喜ぶことを知り、相手はまた狸兎の類を捕ってきて、これを答礼にして適当なりと考えたのも、やがては異種諸民族間の貿易の起原と同じかった。こうしてだんだんに高地の住民が、次第に大日本の貫籍に編入せられて行ったことは、自他のために大なる幸福であった。
越後南魚沼の山男が、猿に似て顔赤からずと伝えられるのは、一言の註脚を必要とする。これは単に猿ほどには赤くなかったというまでであったらしく、普通はこれと反対に顔の色が赤かったという例が少なくない。顔ばかりか肌膚全体が赤かったという噂さえ残っている。近世の蝦夷地に、いわゆるフレシャム(赤人)の警を伝えた時、多くの東北人にはそれが意外とも響かなかったのは、古来の悪路王や大竹丸の同類に、赤頭太郎などと称して赤い大人が、たくさんにきたという話を信じていたからである。それがひとり奥羽に限られなかった証拠は、例えば弘仁七年の六月に弘法大師が、始めて高野の霊地を発見した時にも、嚮導をしたという山中の異人は、面赤くして長八尺ばかり、青き色の小袖を着たりと、『今昔物語』には記している。眼の迷いとしても現代になるまで、大人は普通は赤い者のように、世間では考えていた。もっとも豊前中津領の山ワロのように、男は色青黒しという異例も伝えるが、此方には比較すべき傍証が多くない。また赤頭というのは髪の毛の色で、それが特に目についた場合もあろうが、顔の色の赤いというのもそれ以上に多かったのである。或いは平地人との遭遇の際に、興奮して赤くなったのかということも一考せねばならぬが、事実は肌膚の色に別段の光があって、身長の異常とともに、それが一つの畏怖の種らしかった。地下の枯骨ばかりから古代人を想定しようとする人々に、ぜひとも知らせておきたい山人の特質である。
これを要するに山にこういう人たちのいるということは、我々の祖先にとっては問題でもまた意外でもなかった。ただ豊前・薩摩の材木業者以上に、意識して彼らと規則立った交通をする折が乏しかったために、例えば禁止時代の切支丹伴天連に対するごとく、甚だ精確ならざる風評と誇張とが、ついて廻ったのを遺憾とするばかりである。いわゆるヤマワロ(山童)の非常に力強かったこと、これは全く事実であったろうと認める。そうして怒ると何をするかわからぬというのも、また根拠ある推測であった。なおまた彼らが驚くべく足が達者だといったのも、通例平地の人々と接することを好まぬ以上は、急いで林木の茂みの中に、避け隠れたとすれば不思議はない。野獣を捕って食物としておれば、そのためには女でも足が速くなければならない。不思議はむしろ何かという場合に、かえって我々に近づこうとする態度の、明瞭に現れていたことである。しかもしばしば不幸なる誤解があって、人がその真意を酌むことをえない場合がいかにも多かった。
『東武談叢』その他の聞書に見えているのは、慶長十四年の四月四日、駿府城内の御殿の庭に、弊衣を着し乱髪にして青蛙を食う男、何方よりともなく現れ来る。住所を問うに答なく、ただ手をもって天を指ざしたのは、天からきたとでもいうことかと謂った。家康は左右の者がこれを殺さんとするのを制止し、城外に放たしめたるに、たちまちその行方を知らずとある。この怪人は四肢に指がなかったともあるが、天を指したというからは甚だ信じがたい事であった。それからまた三十年余り、寛永十九年の春であった。土佐では豊永郷の山奥から、山みこと称する者を高知の城内へつれてきた。年六十ばかりに見える肉づきの逞ましい大男で一言も物いわず、食を与うれば何でも食った。二三日の間留めておいてのちに元の山地へ放ち返したと、当時のいくつかの記録に載せてある。いずれも多くの人がともに見たのだから、まぼろしとは認めがたい話である。ことに「山みこ」という語が、すでにあの時代の土佐にあったとすれば、必ずしも稀有の例ではなかった。ミコはどう考えても神に仕える人のことで、天狗と同じく彼らを山神の使者、もしくは代表者のごとく見る考えが、吉野川上流の村にはあったことを想像せしめる。
この前後は土着開発に急なる平和時代で、その結果は山と平地との間に、人知らぬ攪乱があったかと思われ、山人出現の事例がたくさんに報ぜられている。尾州名古屋というような繁昌の土地にも、なおいずこからか異人が遣ってきて捕えられたといっている。太い綱で縛っておいたにもかかわらず、夜の間に逃げてしまい、しかもなんらの報復をもしては行かなかった。仙人などと違って存外に智慮もなく、里近くをうろうろしていたのをみると、やはり食物か配偶者か、何か切に求むるものがあったためで、半ばはその無意識の衝動から、浮世の風に当ることにはなったのである。ことにその或る者が日向や越後の例のごとく、白髪であったと聴くに至っては、悠々たるかも人生の苦、彼らはたこれを免れえなかったのである。
名古屋で異人を捕えたという話は、『視聴実記』巻六に出ている。年代は知れぬが江戸の初期であろう。本文のままを次に抄録する。
「飯沼林右衛門は広井に住す。夜話の帰りに僕の云ふには、南の路より御帰りなさるべし。それは道遠し。何故にさは云ふかと叱すれば、御迎に来るとき、東光寺の壁の下に、小坊主の一人立ちて在るを見しが、一目見て甚だ戦慄せし故に、かく申す也と答ふ。林右衛門笑ひながら、さあらばいよ〳〵行きて見るべしとて行くに、果して十二三ばかりの小僧あり。物を尋ぬれども答へず。之を捉へ引立てんとするに、甚だ力強し。されど林右衛門も強力なれば、漸くに之を引立て、程近ければ我家に連れ帰り、打擲をすれども曾て物を言はず、且つ杖の下痛める体も無く、何とも仕方無ければ、夜明けて再び糾明すべしとて、厩に強く縛り附け置きしに、朝になりて見れば、何処へ行きけん其影も見えざりき。或は云ふ打擲の間に只一声、あいつと云ひし故、其頃世間にては之を『あいつ小僧』と謂ひたりとなん。」
山男が市に通うということは、前の五葉山の猟人の話にもあったが、これまた諸処に風説するところである。津村正恭の『譚海』巻十一に、
「相州箱根に山男と云ふものあり。裸体にて木葉樹皮を衣とし、深山の中に住みて魚を捕ることを業とす。市の立つ日を知りて、之を里に持来りて米に換ふる也。人馴れて怪しむこと無し。交易の外多言せず。用事終れば去る。其跡を追ひて行く方を知らんとせし人ありけれども、絶壁の路も無き処を、鳥の飛ぶ如くに去る故、終に住所を知ること能はずと謂へり。小田原の城主よりも、人に害を作す者に非ざれば、必ず鉄砲などにて打つことなかれと制せらるゝ故に、敢て驚かさずと云ふ。」
こうあるけれどももちろん噂話で、必ずしも小田原の御城下まで、この連中がうろうろしていたことを意味するのではあるまい。第一に川魚はこの海辺では交易にもならず、木の葉を着ていたら、なんぼでも人馴れて怪まずとは行くまい。ただこの人中にも一人や二人はいるかも知れぬという程度に、輿論が彼らを尋常視していたことは窺われる。岩手県海岸の大槌の町などでも、市の日に言葉の訛りの近在の者でない男が、毎度出てきて米を買って行った。背は高く眼は円くして黒く光っていた。町の人が山男だろうといったそうである。しかしこれから奥地の山々には、今でもずいぶんと遠国から、炭竈に入って永く稼いでいる者が多い。言語風采の普通でないばかりに、一括してこれを山人に算入するのは人類学でない。ただ市という者の本来の成立ちが、名を知らぬ人々と物を言う点において、農民に取っては珍しい刺戟であった故に、例えばエビスというがごとき神をさえ祭り、ここに信仰の新しい様式を成長せしめたのである。信州南安曇では新田の市、北安曇では千国の市などに、暮の市日に限って山姥が買物に出るという話があった。山姥が出ると人が散り市が終りになるともいったが、一方には山姥が支払に用いた銭には、特別の福分があるようにも信じられた。ようやく利欲というものを実習した市人が、いかに注意深くただの在所の婆様たちを物色していたかは、想像してみても面白い。その為でもあろうか今も昔話の一つに、山姥が三合ほどの徳利を携えて、五升の酒を買いにきたというのがある。笑った物は罰せられ、素直にいう通りに量って遣ると、果して際限もなく入ったといい、またはこれにあやかって金持になったともいう。つまりは俵藤太の取れども尽きぬ宝などと、系統を同じくした歴史的空想である。
筑前甘木の町の乙子市、すなわち十二月最終の市日にも、山姥が出るという話が古くからあった。正徳四年に成る『山姥帷子記』という文に、天正のころ下見村の富人大納言なる者の下僕木棉綿を袋に入れてこの日の市に売りに出で、途中に仮睡して市の間に合わなかった。眼が覚めてみると袋の綿はすでになく、そのかわりに一枚の帷子が入っていた。地麁くして青黄黒白の段染であった。これも山姥の物と認められて、宝物として二百年を伝えたという話を書留めている。
それからこのついででないともう他にいう折はないが、絵かきたちだけの今でも遊んでいる空想境に、天狗の酒買い狸の酒買いなどという出来事がある。白鳥の徳利や樽に通い帳を添えて、下げて飛んでいる場面は後世風だが、由ってくるところは甚だ久しいようである。自分は別に今日の酒樽の原型として、瓢の盛んに用いられた時代を推測し、許由以来の支那の隠君子等が駒を出したり自分を吸込ませたり終始この単純なる器具を伴侶としているには、何か民俗上の理由があるらしいことを、考えて見ようとしているのであるが、それは広大なる未解の課題だとしても、少なくとも山の人の生活に、この類の僅かな用具が非常なる便益であり、従って身を離さずに大切にしているのをみて、我々の祖先までがこれを重んじ、何か神怪の力でも具うるかのごとく、惚れこみ欲しがり、貰えば宝物にしようとしたことだけは、説かずにはおられぬような感じがする。『落穂余談』という書の巻二に、「駿河の山に大なる男あり。折々は見る者もあり。鹿猿などを食する由なり。久世太郎右衛門殿物語りに、前方此男出でけるに、腰に何やらん附けて居る故、或者近く寄りてそれを取り、還りて見れば高麗の茶碗なり。今に其子の方に持伝へて居ける由。丙寅八月、宇右衛門殿物語り。甚兵衛殿も聞及ぶの由、同坐にて語る」とある。これなどは山姥から、褒美にもらったというのと反して、手もなく山男から掠奪したのであるが、最初どうしてこのような品を、彼らが拾い取りまたこれを大事にしていたかを考えると、小説家でない我々にも、いろいろな珍しい光景が空想せられる。例えば盗賊が始末に困って、山中に隠して置いたとか、大百姓の家が退転して、荒屋敷になっているところへ、のそのそと来かかった山男が、光るから手に取上げて嗅いだり嘗めたりしていたとしたら、彼らの排外的なる社会にまでも、浸み入らずにはおかなかった異種文明の勢力の大きさの、想像に絶したものがあることが考えられる。
かつて旧知の鈴木鼓村君から、またこんな話を聴いたこともある。鈴木君は磐城亘理郡小鼓村の旧家の出で、それで号を鼓村といっているが、今から百二十年ほど前の鈴木君の家へ、おりおりもらいにくる老人があった。人と物をいわず、物を遣ると口の中で唱え言をするが、何をいうのか少しも聴取れない。飯は両手に受けて副え物もなしに、髯だらけの顔をよごして食う。酒は大好きで、常に一斗二三升も入るかと思う大瓢箪を携え来り、それに入れて遣るとすぐに持って帰る。衣類は着けているが、地合も縞目も見えぬほど汚れていた。生の貝をもらって、石の上で砕いて食ったといって、人は戯れにこれをアサリ仙人と呼んでいた。何処に住む者とも知れず、七日も十日も連日くるかと思えば、二月も三月も絶えてこぬこともあった。帰る際にその跡をつけた者があったが、山に入ると急に足早になり、たちまちにその影を見失った。小鼓は阿武隈の川口であって、山は低いけれども峯は遠く連っている。このアサリ仙人は或る日の朝、鈴木氏の玄関の柱にその大瓢箪をくくりつけて置いて、それっきり永久に遣ってこなくなった。この話には誤伝がないともいえぬが、瓢箪だけは最近に至るまで、この家の宝物の一つであった。口は黄金ですこぶる名瓢であったという。
仙人を見縊びるのは本意でないが、これくらいの仙人ならば、まだ山男にも勤まると思う。ただ鈴木氏の永年の恩誼は厚かったにしても、最後に人知れずその瓢をくくりつけて去ったという一点だけが、彼らのとうてい企てえまいと思うロマンチックであった。この地方の山人が里に親しみ、山で木小屋の労働者を驚かすに止らず、往々村人の家を訪ねて酒食を求め、村人もまたこれを尊敬していたことは、次のオオヒトの条下に確からしい一例を掲げる。そうするとこれもまた同化帰順の一段階であって、瓢箪のごときもじつはあまりに大きいので、何か手ごろの容器とただそっと取り替えて往ったのかとも考えられる。
今日のいわゆるアルプス連などは、どういう風にしているか知らぬが、猟師・木挽らのごとくたびたび山奥に野宿せねばならぬ人々は、久しい経験から地形に由って、不思議の多かりそうな場処を知って力めてこれを避けていた。おりおりこれは聴く話であるが、深山の谷で奥の行止まりになっているところは無事であるが、嶺が開けて背面の方へ通じている沢は、夜中に必ず怪事がある。素人は魔所などといえば、往来不可能の谷底のように考えるけれども、事実はかえって正反対であるという。或いはまた山の高みの草茅の茂みの中に、幽かに路らしいものの痕跡を見ることがあると、老功な山稼人は避けて小屋を掛けなかった。即ち山男・山女の通路の衝なることを知るからである。国道・県道という類の立派な往還でも、それより他に越える路のないところでは、夜更けて別種の旅人の、どやどやと過行く足音を聴いた。峠の一つ屋などに住む者は、往々にしてそんな話をする。もちろん或る場合には耳の迷いということもありうるが、山人とても他に妨げさえなくば、向うの見通される広路を行く方を、便利としたに相異ないのである。
百五十年ほど前に三州豊橋の町で、深夜に素裸ではだしの大男が、東海道を東に向って走るのを見た者がある。非常な速歩で朝日の揚がるころには、もう浜名湖の向うまで往っていた。水中に飛込んで魚を捕え、生のままで食っているのを見て始めて怪物なることを知ったと、『中古著聞集』という豊橋人の著書には書いてある。彼らに出逢ったという多くの記事には、偶然であった場合に限って、彼らの顔にもやはり驚駭の色を認めたといっている。畏怖も嫌忌も恐らくは我々以上であって、従って必要のない時にはたいてい繁み隠れなどから注意深く平地人の行動を、窺っていたのであろうと想像する。
菅江真澄の『遊覧記』三十二巻の下、北秋田郡の黒滝の山中で路に迷った条に、「やゝ山頂とおぼしき処に、横たはる路のかたばかり見えたるに、こは路ありあな嬉しと言へば、案内の者笑ひて、いづこの嶺にも山鬼の路とて、嶺の通路はありけるもの也。此道を行かば又何処とも無く踏迷ひなんとて、尚峯に登る云々」とあった。故伊能嘉矩氏の言には、陸中遠野地方でも山の頂の草原の間に、路らしいものの痕迹あるところは、山男の往来に当っていると称して、露宿の人がこれを避けるのが普通だったとの話である。阪本天山翁、宝暦六年の『木曾駒ヶ岳後一覧記』に、前岳の五六分目、はい松の中に一夜を明す。ここに止宿のことは村役人・人足までも不承知にて、かれこれと申すにつきその趣旨を尋ねて見ると、すべてかようの山尾根先は天狗の通路であって、樵夫の輩一切夜分は居らぬことにしていると述べた。しからば村方の者どもは、山の平に廻って止宿せよと申聞け、自分だけ其場に止宿したと記している。紀州熊野でも山中に小屋を掛ける人たち、谷の奥が行抜けになって向う側へ越えうる場所はこれを避け、奥の切立って行詰まりになった地形を選定するのを常とした。その理由は行抜けのできる谷合は、通り物の路に当っているからだと、南方熊楠氏に告げた者があるそうだ。
そうかと思うと一方には、人が開いた新道を、どしどし彼らが利用している場合もあるらしい。秋田から仙北郡の刈和野へ越える何とか峠には、頂上に一軒家の茶店があった。秋田の丹生氏がかつてこの家に休んだ時、わたしらももう何処かへ引越したいと、茶屋の主がいうので、どういうわけかと訊ねてみると、じつは夜分になると、毎度のように山男が家の前を通る。太平山から目々木の方へ越えて行くらしく、大きな声で話をしてどやどやと通ることがある。この峠は疑なく山鬼の路らしいから、永くはおられませぬと答えたそうである。遠野でも町から北へ一里ばかり入って、柏崎の松山の下を曲がる辺に、路が丁字に会してその辻に大きな山神石塔を立ててある。近い年或る人が通行していると、山から下りてくる足音がするのを、何の気なしに出逢うて見たところが、赤い背の高い眼の怖ろしい、真裸の山の神であった。はっと思うなり飛退いてしまって、自身はそこに気絶して倒れた。石塔はすなわちその記念の為であった。『遠野物語』にもその話は筆録しておいたがかなり鋭敏な鼻と耳との感覚を持ち、また巧みに人を避けるらしい山人にも、なお人間らしき不注意と不意打とはあったのである。第一昼間人間の作っておく路などを、降りてきたのは気楽過ぎていた。
山鬼という話は安芸の厳島などでは、久しく天狗護法の別名のごとく考えられている。或いは三鬼とも書いてその数が三人と解する者もあったらしい。御山の神聖を守護して不浄の凡俗のこれに近づくを戒め、しばしば奇異を示して不信者の所業を前もって慎ましめようとしていた。最も普通の不思議は廻廊の板縁の上に、偉大なる足跡を印して衆人に見せることである。或いは雪の朝に思いがけぬ社の屋の上などにこれを見ることもあった。その次は他の地方で天狗笑いまたは天狗倒しともいうもので、山中茂林の中に異常の物音を発し、或いはまた意味不明なる人の声がすることもあった。これを聴いて畏れおののかぬ者のなかったは尤もである。秋田方面の山鬼ももとは山中の異人の汎称であったらしいのが、のちには大平山上に常住する者のみをそういうことになり、ついには三吉大権現とも書いて、儼然として今はすでに神である。しかも佐竹家が率先して夙にこれを崇敬した動機は、すぐれて神通力という中にも、特に早道早飛脚で、しばしば江戸と領地との間に吉凶を報じた奇瑞からであった。従って沿道の各地でも今なお三吉様が道中姿で、その辺を通っていることがあるように考え、ことにその点を畏敬したのであった。神を拝む者はぜひともその神の御名を知らなければならぬというのは、ずいぶん古くからの多くの民族の習性であった。天狗がいよいよ超世間のものと決定してから、太郎坊・三尺坊等の名が始めて現れたことは、従来人の注意せざるところであった。どういう原因でそんな名前が始まったかを考えてみたら、また多くの新たなる答が出てくることであろう。
また山男の草履を見たという話がある。夏冬を打通して碌な衣裳も引掛けていなかった者に、履物の沙汰もちとおかしいとは思うが、妙にその噂が東部日本の方には拡がっている。信州木曾辺はことにこれを説く者が多い。出羽の荘内の山中でも杣人がこれを拾ってきて、小屋の入口の柱に吊して置くと、夜のうちに持って還ったか、見えなくなったなどといっている。上州の妙義・榛名でも猟師・木樵の徒、山中でこの物を見るときは畏れてこれを避けたと、『越人関弓録』という書には説いてある。
その草履の大きさは三四尺、これを山丈の鞋と称すとある。『四隣譚叢』などによれば、信州は千隈川の水源川上村附近の山地においても、山姥の沓の話を信じている。藤蔓を曲げ樹の皮をもって織ってあるなどと、なかなか手のこんだもののように言い伝えているのである。大きいと言えばすぐに長さ三尺の四尺のと書かなければ承知せぬが、かりにこれに相応するような大足の持主があるにしても、そんな物を履いて山の中があるけたものでない。我々風情の草履ですらも、野山を盛んに飛廻っていた時代には、アシナカ(足半)と称するものを用い、または単に繩で足の一部分を縛って、たいていは足一杯の草履は履かなかった。すなわち足趾のつけ根の一番力の入る部分を、保護するだけをもって満足したのであった。
ただしこの類の話などは、誇張妄誕といわんよりも、むしろ幻覚であったかと思う。見たかと思ったらすぐになくなっていたというようなもので、確かな出来事ではなかったかと思う。いろいろ製法や材料配合の話はあっても、なおどこかで採集してきて博物館にでも陳列せられぬ限り、自分たちはこれをもって一種の昔話としておきたいのである。もちろん話にしたところで根原がなければならぬ。作って偽を説く者はあっても、そうみなが信ずるはずはないからである。ただ話ならば少しずつ成長して行くことはあるかも知れぬ。陸中二戸郡の浄法寺村などで、深山に木を伐る者の発見したというのは、例のマダの樹の皮で作った大草履で、その原料のマダの皮が、およそ馬七頭につけて戻るくらいの分量であったと話している。面白いといって聴くのはよいが、全体に今ではもう話になりすぎている。それというのが風説のみ次第に高く、実際に見た出逢ったという人の例が、だんだん少なくなって行く結果である。
山丈・山姥の鞋という話は、我々の持っていた沓掛の習俗、すなわち浅草仁王門の格子の木にむやみな大わらんじの片足をぶらさげた行為などと比較して考えて見るべきものかと思う。現在各地の街道筋に、沓掛という地名のあるところには、通例は道の神の森または老樹があって、通行の人馬の古沓などが引掛けてある。或いは下から高く投げ上げて占いをしたという地方もあり、または支那でいう鮑魚神同然にその草鞋の喬木の梢にあるを異として、神に祀った話もある。霊山の麓などでは山の土を遠く持ちだすことを山神悪みたもうという信仰もあって、必ず登山の鞋を脱いで行く場処もあるのだが、別に神々に新たなるものを製して献上する例も弘く行われていた。山の神は一本足だと称して、大きな片足だけを供える。竈の神は馬でありもしくは馬に乗ってくるというので、新しい馬の沓を上げていた根原は、おそらく絵馬なども同様に、これを召しておわしませ、これを召して立たせたまえと、神昇降の時刻を暗示する趣旨かと思うが、もちろん信仰はだんだんに変化している。ことに路の傍や辻境などに偉大な履物を作って置いた動機には、明白に魔よけの意味が籠っていた。いつの世から始まったことか知らぬが、こんな大きな草履を用いる者が、この村にはいるから馬鹿にしてはいけないということを、勝手を知らぬ外来者、すなわち鬼や疫病神に知らしめるために、一種の示威運動としてこうするように、解釈している者も少なくはないのである。敵に対しては詐術も正道と、つい近ごろまで我々も信じていた。そうかと思うと海南の小島においては、潮に漂うて海の外から、そんな大草履が流れてきたといって、畏れ慎んでいた話もあった。この方が多分一つ前の俗信で、つまりは己の心に欲せざるところを、人に向かって逆用しようとしたものであるらしいのだ。
だから第二の仮定説としては、山人の大草履も自分のためには必要でないが、世人を畏嚇する目的でわざわざこれを作り、なるべく見られやすいところにおいたものとも考えられぬことはない。しかしそのような気の利いた才覚は、ついぞ彼らの挙動から見出したことがないから、今ではまだそれまで買いかぶることができないのである。もっとも深山の奥に僅少の平和を楽む者が、いや猟人だの岩魚釣りだの、材木屋だの鉱山師だの、また用もない山登りだのと、毎々きて邪魔をすることは鬱陶しいには相違ない。やめて欲しいと思っていることは、此方からでも想像することができた。そこに単独の約束が起こり法則が生じて、のちようやく宗教の形になって行くことは、いずれの民族でも変りはなかった。しかも冷淡なる第三者の目をもって判ずればそは単に一方だけの自問自答であって、果して此方の譲歩が先方の満足と相当ったか否かは、確かめたわけではないのである。深山の中でも特に不思議の多い部分を我々は魔所または霊地と名づけてあえて侵さなかった。それが自然に原住土人にとっての一種のレザーヴとなったことは、原因ともどちらとでも解せられる。いわゆる入らず山に強いて入った者の、主観的なる制裁は多様であった。最も惨酷なるものは空へ引きあげて、二つに割いて投げおろすといった。或いは何とも知れぬ原因で躓いたり落ちたりして傷きまたは死んだ。永遠に隠されてしまって親兄弟を歎かしめることもある。およそ尋常邑里の生存において予知すべからざる危難は、ことごとく自ら責め深く慎むべき理由としてこれを認めたのが山民の信仰であった。
それ以外にも予告警戒のごときものはいくらもあった。天狗の礫と称して人のおらぬ方面からぱらぱらと大小の石の飛んできて、夜は山小屋の屋根や壁を打つことがあった。こんな場合には山人が我々の来住を好まぬものと解して、早速に引きあげてくるものが多かった。こればかりは猿さえもするから、或いは山人の真の意趣に出たものと考えてもよいが、それがいつでも合図に近くして、かつてこれによって傷いたという者を知らず、石打の奇怪事は都邑の中にも往々にして起こり、別に或る種の隠れた原因があるらしいから、まだなんとも断定はできない。それから足音や笑い声の類は、偶然にこれを聴いた者がおじ恐れたというだけで、もとよりそのような計画のあったことを、立証することは容易でない。ことに最も有名なる天狗倒しの音響に至っては、果して作者が彼らであったかということさえ、なお疑わなければならぬのであった。或いは狸の悪戯などという地方もあるが、本来跡方もない耳の迷いだから、誰の所業と尋ねてみようもない。深夜人定まってから前の山などで、大きな岩を突き落す地響がしたり、またはカキンカキンと斧の音が続いて、やがてワリワリワリワリバサアンと、さも大木を伐り倒すような音がする。夜が明けてからその附近を改めて見ると、一枚の草の葉すら乱れてはいなかった、などというのが最も普通の話で、こういう出来事があまり毎度繰り返されると、山が荒れると称して人が不安を感じ始め、ついにはその谷を「よくないところ」の一つに算えて、避けて入らぬようにもなるのである。しかし多勢が一度に聴いても幻覚はやはり幻覚である。或いは同じ物音をともに聴いたと思っても、甲の暗示が乙を誘い、また丙の感じを確かにしたのかも知れぬ。東京あたりの町中でも深夜の太鼓馬鹿囃子、或いは広島などでいうバタバタの怪、始めて鉄道の通じた土地で、汽笛汽鑵車の響を狐狸が真似するというの類、およそ異常に強烈な印象を与えたものが、時過ぎて再びまぼろしに浮ぶ例は、じつは他にも数限りがないので、たまたま山の生活と交渉のある場合ばかりこれを目に見えぬ山の人の神通に托するがごときは、むしろ我々の想像の力の致すところであったかも知れぬ。
ただしこれをも我々の実験の中に算えて、見た出逢ったというのと同じ程度の、信用を博している物語は多いのである。少なくともその二三の例は、のちの研究者のために残しておく必要があると思う。
『白河風土記』巻四に、「鶴生(福島県西白河郡西郷村大字)の奥なる高助と云ふ所の山にては炭竈に宿する者、時としては鬼魅の怪を聴くことあり。其怪を伐木坊又は小豆磨と謂ふ。伐木坊は夜半に斧伐の声ありて顛木の響を為す。明くる日其処を見るに何の痕も無し。小豆磨は炭小屋に近づきて、中夜に小豆を磨する音を為す。其声サク〳〵と云ふ。出でて見るに物無し、よりて名づくといへり。」
『笈埃随筆』巻一に、「途中にて石を撃たるゝこと、土民は天狗の道筋に行きかゝりたるなりと謂ふ。何れの山にても山神の森とて、大木二三本四五本も茂り覆ひたる如くなる所は其道なりと知ると言へり。佐伯了仙と言ふ人、豊後杵築の産なり今は京に住めり。此人の云ふ。国に在りし時、雉子を打ちに夜込に出でたり。友二三人と共に鳥銃を携へて山道にかゝりしに、左右より石を投げたり。既に当りぬべく覚えて大に驚きたる中に、よく心得たる者押静め、先づ下に坐せしめて言を交へずしてある程に、大石の頭上に飛びちがふばかりにて其響夥しかりしが、暫くして止みければ、立上りて行きける。其友の謂ふやう、此は天狗礫と云ふものなり。曾て中るものには非ず。若し中れば必ず病むなり。又此事に遭へる時は必ず猟無し。今夜は帰るには道遠ければ是非なく行くなりと曰ふ。果して其朝は一も獲物なくして帰りたりといへり。」
『今斉諧』巻二に、「加賀金沢の士篠原庄兵衛、或時深山に入り、人跡絶えたる谷川の岸を行きしに、水辺には蘆すき間も無く茂りたるが、其あなたに水を隔てゝ、人のあまた対坐して談笑する声聞ゆ。篠原之を怪しみ、自ら行きて見んとすれど水に遮られて渡ることを得ず。連れたる犬にけしかけたれど亦行かず。因つて其犬の四足を捉へ、力を極めて之を蘆原の彼方へ投げたるに、向ふよりも直ちに之を投げ返す。之を見て畏を抱き家に帰る。犬には薬など飲ませたれど、終に死したり。」
『北越奇談』に、「神田村に鬼新左衛門と云ふ者あり。殺生を好む。村の十余町奥なる山神社の下の渓流に水鳥多し。里人は相戒めて之を捕りに行くことなかりしを此男一人雪の中を行き、もち繩を流して鳥を取ること甚だ多し。一夜又行きしも少しも獲物無きことあり。暁に及び、何者とも知れず氷りたる雪の上を歩む音あり。新左衛門小屋の中より之を窺ふに、長一丈余りの男髪は垂れて眼を蔽へり。新左衛門のすくみ居たるを、小屋の外より箕の如き手を出して攫み上げ、遙かに投げ飛ばしたりと思へば気絶す。翌朝女房より村長に訴へて谷々を捜せしに、谷二つ隔てゝ北の方に新左の雪中に倒れたるを見付けたり。其後生き返り殺生は止めたれど、三年ばかりにして死したりと云ふ。深山の奇測り難し。」
次も同じく越後の事であるが、これは会津八一氏の話を聴いたのである。妙高山の谷には硫黄の多く産する処があるが、天狗の所有なりとして近頃までも採りに行く者は無かった。ところが先年中頸城郡板倉村大字横町の何右衛門とかいう者、これに眼を着けて十数名の人夫を引率し、この山に入って谷間に小屋を掛け日中は硫黄を採取し夜はこの小屋に集まって寝た。或る夜深更に容易ならぬ物音がして小屋も倒れんばかりに震動したので、何右衛門を始め人夫一同も眼をさまし先ず寒いから火を焚こうとしていると、戸口の方から顔は赤く白い衣物で背の高い人が入って来た。皆の者は怖しさに片隅に押しかたまり、蒲団を被って様子を伺っていると、かの者はずかずかと板の間に上って来たようであったがその後の事はわからず。夜の明けるのを待って見れば、かの何右衛門だけは首を後向きに捻じ切られてつめたくなっていたと謂う。今でもこの谷に入って若し硫黄の一片でも拾おうとする者があれば、必ず峰の上から大声で、そこ取んなアとどなる者があると謂い、また首を捻じられるからと少しでも侵す者は無いそうだ。またこの辺の村に往って天狗などはこの世に無いものだとでも言おうものなら、必ずこの何右衛門の話を聞かされる。この時の人夫の一人に、近い頃まで生きていたのであって、その老人から直接にこの話を聴いた者は幾人もあったのである。
山人の丈の高いということは、古くからの話であったと見えて、オオヒトという別名も久しく行われていた。これもオオヒトというからには、ちっとやそっとでは承知ができず、見上げるような高い樹の幹に、皮を剥いだ痕があったとか、五六尺もある萱原に、腰から下だけが隠れていたとか、または山小屋を跨いでゆさぶったとか、いろいろな珍しい話を伝えているかと思うと、一方には我々とたいてい同じくらいの、やや頑丈なる体格であったといい、六尺より低いのは見たことがないという類の、穏健なる記録もまたいくらもあったので、きのこか何かででもない以上は、そのような大小不揃いの物があるわけはないから、すなわちこれも又聞きの場合の掛値であったことを、想像しえられるのである。
或いは雨後の泥の上や雪中に印した足跡を見て、その偉大なのに驚いたとも伝えられる。なかにはあんまりえらい大股であるくのを、やはり大昔から人が想像している通り、一本足で飛びまわるのが真らしいと考えていた人さえあった。それらの観察の精確を欠いていることは、論のない話であるが、もともと大きいが故にこれを山男の足跡だろうといった人があるとすれば、すなわち迷信の原因は別にすでにあったものと認めなければならぬ。
しかも日本は古くから、足跡崇敬の国であった。神明仏菩薩勇士高僧の多くが岩石などの上に不朽の跡を遺して、永く追慕を受けている国であった。いわば山人思想の宗教化ということには、正しく先蹤があったのである。我々平民の祖先は、国土平定というごとき記念すべき大事業を、太古の巨神の功績に帰していたのみならず、諸国の地方神に随従して神徳を宣伝したという眷属の小神にも、また大人の名を附与してその遺跡と口碑とを保存し、さらにオオヒトが山にいる異種人の別名なることを知った場合でも、なお単なる畏怖の念以上のものをもって、その強力の跡を拝もうとしていたのである。
東部日本の諸県において、オオヒトといったのは山人のことであった。もちろん大きいからの大人であろうが、その大きさが驚くべく一様でなかった。見た人が次第に少なく、語る人ますます多かりし証拠である。今に至っては実状を確かめることはむつかしいが、区々の異説は及ぶ限りこれを保存しておかねばならぬ。
一 陸奥と出羽との境なる吾妻山の奥に、大人と云ふものあり。蓋し山気の生ずる所なり。其長一丈五六尺、木の葉を綴りて身を蔽ふ。物言はず笑はず。時々村の人家に入来る。村人之を敬すること神の如く、其為に酒食を設く。大人は之を食はず、悉く包みて持帰る也。村の子供時として之に戯るゝことあれども、之を怒りて害を作せしことを聞かず。神保甲作の話なり(『今斉諧』巻四)。
二 上野黒竜山不動寺は、山深く嶮岨にして、堂宇其間に在り。魔所と言ひ伝へて怪異甚だ多し。山の主とて山大人と云ふものあり。一年に二三度は寺の者之を見る。其坐するとき膝の高さ三尺ばかりあり。偶〻足跡を見るに五六尺もありて、一歩に十余間を隔つと云へり(『日東本草図彙』)。
三 高田の大工又兵衛と云ふ者、西山本に雇はれありしが、一夜急用ありて一人山道を還りしに、岨路の引廻りたる処にて図らずも大人に行逢ひたり。其形裸身にして、長は八尺ばかり、髪肩に垂れ。眼の光星の如く、手に兎一つ提げて静かに歩み来る。大工驚きて立止れば、かの大人もまた驚けるさまにて立止りしが、遂に物も言はず、路を横ぎりて山に登り走りしとぞ(『北越雑記』巻十九)。
四 飛騨の山中にオホヒトと云ふものあり。長は九尺ばかりもあるべし。木の葉を綴りて衣とす。物をも言ふにや之を聞きたる人無し。或猟師山深く分け入りて獣多き処を尋ねけるが思はず此物に逢ひたり。走り来ること飛ぶが如し。遁るべきやうなければせん方無くせめては斯くもせば助からんかと、飢の用意に持ちたる団飯を取出で、手に載せて差出せしに、取食ひて此上無く悦べる様なり。誠に深山に自ら生れ出でたる者なれば、かの洪荒と云ふ世の例も思ひ出でられてかゝる物食ひたるは始めての事なるべしと思はる。暫くありて此者狐貉夥しく殺しもて来り与へぬ。団飯の恩に報いる也けり。猟師労無くして獲物多きことを悦び、それよりは日毎に団飯を包み行きて獣に換へ帰りたり。然るを隣なる猟師之を怪み、窃に窺ひ置きて、深夜に彼に先だち行きて待つに、思はず例の者に行逢ひたり。鬼とや思ひけん弾こめて打ちたり。打たれて遁げければ猟師も帰りぬ。前の猟師此事を聞きて、あな不便の事やとて、猶山深く尋ね入り峰より下を見たるに、此者谷底に倒れ伏し居たるを、同じ様なる者の傍に添ひたるは介抱するなるべし。若し近づきなば他に打たれし仇を、我に怨みやせんと怖しくなりて止みぬ。斯くて後には死にたるなるべしと、後に此事を人に語りしを、人の伝へたりし也。深き山にはかゝる者も有りけるよとて、細井知慎語れり(『視聴草』第四集巻六所録「荻生徂徠手記」)。
巨人の足跡を見て感動した例は、決して支那の昔話だけでない。小田内通敏君が聴いてきて教えてくれた話には、秋田市楢山に住む丹生某氏、狩が好きで方々をあるき、或る年仙北郡神宮寺山の麓の村で、人の家に一泊したところ、一つの紙袋に少しの砂を入れたのが、神棚に載せてあった。主人にそのわけを尋ねると、つい近いころに、山の下を流れる雄物川の岸で草を苅っていると、不意に大きな物音がして、山から飛降りた者がある。よく見たら山男であった。怖ろしいから茅の蔭に隠れていて、のちにその場所に行って見れば、川原に甚だ大きな足跡があった。あまり珍しいこと故、村の人たちを呼んできて見せると、一同は崇敬のあまり、その足跡の砂を取分けて各自の家に持還り、こうして神棚に上げておくのだと答えたそうである。
雪の上に大きな足跡を見たという話はまだ沢山ある。その二三をあげてみると、
一 遠州奥山郷白鞍山は、浦川の水源なり。大峰を通り凡そ四里、山中人跡稀なり。神人住めり。俗に山男と云ふ。雪中に其跡を見て盛大なることを知る。其形を見る者は早く死す(『遠江国風土記伝』)。
二 駿河安倍郡腰越村の山中にて、雪の日足跡を見る。大きさ三尺許、其間九尺ほどづゝ三里ばかり、小路に入りて続けり。又此村の手前に小川あり。此川を一跨ぎに渡りしと覚えしは、其川向二三間にも足跡ありしと。之を山男と謂ひ、稀には其糞を見当ることあるに鈴竹といふ竹葉を食する故糞中に竹葉ありといふ。右の村々は大井川の川上なり。府中江川町三階屋仁右衛門話したり(『甲子夜話』)。
三 小虫倉山、虫倉明神、公時の母の霊を祭る。因つて阿姥明神社とも云ふ。山姥の住めりしといふ大洞二つあり。近年下の古洞に、山居の僧住せしより、山女之を厭ひ去ると謂ふ。其以前は雪の中に、大なる足跡を見たり(『信濃奇勝録』巻二)。
四 文政中、高岡郡大野見郷島の川の山中にて、官より香蕈を作らせたまふとき雪の中に大なる足跡を見る、其跡左のみにて一二間を隔て、又右足跡ばかりの跡ありこれは一つ足と称し、常にあるものなり。香美郡にもあり(『土佐海』続編)。
土佐では山人を一般に山爺と呼んでいる。一本足でおまけに眼も一つだと信じ、これにあったという人さえあった。紀州熊野の深山でも、一たたら、または一本踏鞴などと伝え、かつて勇士に退治せられた話がある。その他の府県でも、山に一本足の怪物がいるという説は多いが、単に雪の上の足跡から、推測しうべきことではもちろんなかった。すなわち実験以前から、そういう言い伝えがすでにあったので、誤信ながらもそれにはまた、別途の説明があったのである。
また雪の上ではなくとも、足跡の不思議は久しい以前から、我々の祖先を驚かしていた。信州戸隠でも大雨ののち、畑などの土に二三尺の足跡のあるのをたびたび見たといい、越後の苗場山でも雨後に山上に登れば、長さ尺余の足跡を見ることがあると、『越後野志』巻六に書いている。播州揖保郡黒崎の荒神山に、萩原孫三郎の墓と伝うる古塚があって、石の祠が安置してあった。嘉永の初年とかに、或る人この辺を拓いて畑としたところが、一夜の中に踏荒して大きな人の足跡があった。そうしてその家は全家発狂してしまったと、『西讃府志』巻五十一に書いている。
『仙梅日記』には駿州梅ヶ島・仙ヶ俣の旅行において、一人の案内者が山中さんに話した。雪の後に山男の足跡を見ることがある。二尺ほどの大足である。門野というところの向う山には、山男が石に歩みかけた足跡がある。岩が凹んで足の形を印している。いかほどの強い力だろうかといったそうである。
こういう人々の心持では、巌石の上に不朽の痕跡を止めることも、大人ならば不可能でないと思ったのであろうが、親しく実際についてみると、ほとんとその全部が山男たちの関与するところではなかった。大人足跡という口碑は、すでに奈良朝期の『常陸風土記』大櫛岡の条にもある。丘壟の上に腰かけて大海の蜃を採って食ったといい、足跡の長さ四十余歩、広さは二十余歩とある。『播磨風土記』の多可郡の条にも巨人が南海から北海に歩んだと伝えて、その踰ゆる迹処数々沼を成すと記してある。そこで問題は我々の前代の信仰に別に大人と名づけた巨大の霊物があって、誤ってその名を山人に付与したのではないかということになるが、もしそうならばこれとともに足跡に関する畏敬の情までも、移して彼に与えたことになるのである。すなわち羽後の農民などが足跡の砂を大切にしたのはむしろ山人史末期の一徴候で、事蹟が不明になったためにかえって一層これを神秘化したものでないかとも思われるのである。
現在の大人足跡は中国に最も多く、四国・紀州等はこれに次ぎ、いずれも地名となって各国数十百を算する。しかし他の地方とても決して絶無ではなく、ことに偉大な足跡は到るところに散在しているが、その或るものは単純にこれを鬼の足跡ともいい、或いはまた大太法師とも唱えている。関東の各地でダイラボッチ、もしくはデエラ坊の話というのもこれで、多くはいわゆる足跡に伴なう伝説である。東京の近郊などにも現にいくつかあるが、全国を通じて大体にこれを二様に区別することができる。その一つは前の駿州仙ヶ俣の場合のごとく、岩石の上に跡を印したもので、不思議は主として石のごとく堅いものを踏み窪めたという点にあり、従って独り山人のみにあらず古来の偉人勇士例えば弁慶・曾我五郎という類の人々までが作者である故に、その形はさして大きくない。そうしてその石はたいてい崇拝せられている。これに反して第二の種類にはいくらでも大きなものがあって、従って鬼物巨霊にのみ托せられる。東京近くでは、京王電車の代田という停留所の辺には、昔大太法師が架けたという橋があり、それからわずか南東にある足跡は、足形こそしてはいるが、面積は約三町歩、内部は元杉林であったが、今では文化住宅でも建っているかも知れぬ。踵にあたるところには地下水の露頭があり、その傍には小さな堂もあった。それからまた東南方には二ヶ処の足跡あり、駒沢村にあるものは更に偉大であった。いずれも泉の噴出に起因する窪地で、形状は足跡とも見られぬことはなかった。上総の鶴枝村で見たものは、小川を隔てて双方の岡の上にあった。その一つはすでに崩れているが、他の一つは約一畝歩、四周の樹林地の中にこれだけが土地台帳で別筆となって、その分を開いて麦か何かが播いてあった。甲州信州辺のデエラボッチャも、たいていは孤立した湿地であったが、そうでない足跡もあるようである。何にしても附近と地形が違って、それがほぼ足形をしておれば、大人の跡といったのである。
大人は富士を脊負うて、いずれへか持って行こうとしたり、または一夜に大湖を埋めようとして簣を以て土を運んだ。その簣の目をこぼれた一塊が、あの塚だこの山だという話はどこにでもある。つまりは古くからの大話の一形式であるが、注意すべきはことごとく水土の工事に関聯し、ところによっては山を蹴開き湖水を流し、耕地を作ってくれたなどと伝え、すこぶる天地剖析の神話の面影を忍ばしむるものがある。古い言い伝えには相違ないのである。大きい行止まりは加賀国の大人の足跡、東は越中境栗殻山の打越に一つ、次には河北郡木越の光林寺の址という田の中、次には能美郡波佐谷の山の斜面、すなわちこの国を三足であるいた形である。いずれも指の跡までが分明で、下に岩でもあるものか、田の中ながらそこだけは草も生えない。それから壱岐の島の国分の初丘にあるもの、爪先北に向かって南北に十二間、幅は六間で踵のところが二間、これを大の足跡と呼んでいる。大昔に大という人、九州から対馬へ渡ろうとして、この中間の島に足を踏立てた。その跡であるという。少し窪んで水が出ている。こんなところは附近に多いと『壱岐名勝図誌』には記している。
大人は九州の南部では、大人弥五郎と称し、また大人隼人などともいっている。八幡神社の眷属のようにもいえば、また昔この大神に治伐せられた兇賊のごとくにも伝えて一定せぬが、一方には山作りや足跡の話もあれば、他の一方には祭の時に、人形に作って曳きあるいている。そうして隼人はまたこの地方では、征服せられたる先住民の総称である。隼人が上代の被征服者であるために、これを大人隼人などと呼んでいるのならば、我々の伝えんと欲する山の人も、オオヒトという別名をえた理由が別になおあったかも知れぬ。しかし考えて行くほどかえってだんだんにむつかしくなるらしいから、もうこの辺で一旦は話をやめておこう。
ここで打切ってはもちろんこの研究は不完全なものである。最初自分の企てていたことは、山近くに住む人々の宗教生活には、意外な現実の影響が強かったということを、論証してみるにあったのだが、残念ながらそれにはまだ資料が十分でない。後代の篤学者はなお多くの隠れたるものを発掘することであろう。しかしただ一つほぼ断定してもよいと思うことは、中世以後の天狗思想の進化に著しく山人に関する経験が働いていたことである。単に眼が光る色が赤い、背が高いなどの外形のみではない。仏法方面の人からは天魔の扱いを受けつつも、感情があり好意悪意があって、或いは我々に近づき或いはまた擯斥し、機嫌にも時々のむらがあって、気に向けば義侠的に世話をしてくれるなど、至って平凡なる人間味の若干をまじえていることは、それが純然たる空想の所産でないことを思わしめる。
彼らはまた時として我々から、ひどくやっつけられたという話もある。天狗の神通をもってして、不覚千万のようではあるが、かの杉の皮で鼻を弾かれて、人間という者は心にもないことをするから怖ろしいといった昔話などは、少なくともかつて人間と彼らとの間に、対等の交際があったという偶然の証拠である。欺くに方法をもってするならば、天狗必ずしも恐るるに足らずとする考えは、我々の世渡りには大切なる教訓でありまた激励であった。故に或いは自分だけは筍を喰い、相手には竹を切って煮て食わせて見たとか、また白い丸石を炉の火で焼いて、餅を食いにきた山人に食わせたら、大いに苦しんで遁げ去ったとかいうがごとき詐謀をもってこれを征服した物語が、諸国に数多く伝わっているので、しかもその古伝の骨子をなす点が、主として火の美感であり、穀物の味であり、いずれも山人と名づくるこの島国の原住民の、ほとんと永遠に奪い去られた幸福であったことを考えると、山の人生の古来の不安、すなわち時あって発現する彼らの憤怒、ないしは粗暴をきわめた侵掠と誘惑の畏れなども、幾分か自然に近く解釈しえられるかと思われ、これと相関聯する土地神の信仰に、顕著な特色の認められるのも、畢竟はこの民族の歴史が、これを促したということになるのである。
最後になお一つ話が残っている。数多ある村里の住民の中で、特別に山の人と懇意にしていたという者が処々にあった。その問題だけは述べておかねばならぬ。天狗の方にも名山霊刹の彼らを仏法の守護者と頼んだもの以外に、尋常民家の人であって、やはり時としてかの珍客の訪問を受けたという例は相応にあった。その中でもことに有名なのは、加賀の松任の餅屋であったが、たしか越中の高岡にも半分以上似た話があり、その他あの地方には少なくとも世間の噂で、天狗の恩顧を説かるる家は多かったのである。今ではほとんと広告の用にも立たぬか知らぬが、当初は決してうかうかとした笑話でなかった。訪問のあるという日は前兆があり、またはあらかじめ定まっていて、一家戒慎して室を浄め、叨りに人を近づけず、しかも出入坐臥飲食ともに、音もなく目にも触れなかったことは、他の多くの尊い神々も同じであった。災害を予報し、作法方式を示し、時あって憂や迷を抱く者が、この主人を介して神教を求めんとしたことも、想像にかたくないのであった。すなわちただ一歩を進むれば、建久八年の橘兼仲のごとく、専門の行者となって一代を風靡し、もしくは近世の野州古峰原のように一派の信仰の中心となるべき境まできていたので、しかもその大切なる顕冥両界の連鎖をなしたものが、単に由緒久しき名物の餡餅であったことを知るに至っては、心窃かに在来の宗教起原論の研究者が、いたずらに天外の五里霧中に辛苦していたことを、感ぜざる者は少なくないであろう。
始めて人間が神を人のごとく想像しえた時代には、食物は今よりも遙かに大なる人生の部分を占めていた。餅ほどうまい物は世の中にはないと考えた凡俗は、これを清く製して献上することによって、神御満足の御面ざしを、空に描くことをえたろうと思ううえに、更にその推測を確かめるにたるだけの実験が、時あって日常生活の上にも行われたのである。我々の畏敬してやまなかった山の人も、米を好みことに餅の香を愛したのであった。特別なる交際が餅をもって始まったという話は、もちろん話であろうが今に方々に伝わっている。これを下品だとして顧みないような学者は、いつまでも高天原だけを説いているがよい。自分たちは今ある下界の平民の信仰が、いかに発達してこうまで完成したかを考えてみようとするのである。前に話した馬に七駄のマダの皮で、草履を作っていたという陸中浄法寺の村で、或る農夫は山に行って山男に逢った。昼弁当の餅を珍しがるから分けてやると、非常に喜んでこれを食った。お前の家ではもう田を打ったか、いやまだ打たぬというとそんだら打ってやるから何月何日の晩に、三本鍬と一緒に餅を三升ほど搗いて田の畔に置けという。約のごとくにして翌日往って見ると、餅はなくなり田はよく打ってあったが、大小の田の境もなく一面に打ちのめしてあった。それからも友だちになって、山に行くたびに餅をはたられて困った。その山男がまた彼に向かって、おれは誠によい人間だが、かかアは悪いやつだから見られないように用心せよとたびたび言って聴かせたという話もあって、六七十年前の出来事のように考えられている(『郷土研究』一ノ九、佐々木君、次も同じ)。この地方の昔話の「山はは」は実際怖ろしい。鬼婆・天のじゃくのした仕事が、ここでは皆山ははの所業になっている。
また閉伊郡の六角牛山では、青笹村の某が山に入ってマダの樹の皮を剥いでいると、じっと立って見ていた七尺余りの男があった。おれもすけてやるべとさながら麻を剥ぐようにたちまちにしてもうたくさんになった。それから傍の火にあぶっておいた餅を指ざし、くれというから承知をすると、無遠慮にみな食ってしまった。来年の今ごろもまた来るかと聞く故に、後難を恐れてもう来ないと答えると、そんだら三升の餅をいついつの晩に、お前の家の庭へ出しておいてくれ、一年中のマダの皮を持って往ってやるからというので、これもその通りにして見ると翌年は約束の日の夜中に、庭でどしんと大荷物をおく音がした。およそ馬に二駄ほどのマダの皮であったという。それから以後は毎年同じ日に、この家の庭上でいわゆる無言貿易は行われたのだが、今の主人の若年のころから、どうしたものか餅は供えておいても、マダの皮は持って来ぬようになったといっている。
『津軽旧事談』に『弘藩明治一統志』その他を引いて、岩木山の大人と親善だったと記しているのは、麓の鬼沢村の弥十郎という農夫であった。これはのちに自分もまた、大人となって行方を知らずとも伝えられる。彼は最初薪を採りに入って偶然と懇意になり、角力などを取って日を暮し、素手で帰ってくると必ず一夜の中に、二三日分ほどの薪が家の背戸に積んであった。或いはまた大人が弥十郎を助け、新たにこの土地を開発したのだともいい、また赤倉の谷から水を導いて村の耕地に灌漑したのも、同じ大人の力であったと称して、その驚くべき難土木の跡について、逆さ水の伝説を語っている。村の名の鬼沢と産土の社の名の鬼ノ宮とは果して今の口碑の結果であるか、はた原因であるかを決しかねるが後々までも村に怪力の人が輩出したといい、或いはまた大人が鎮守を約諾して、そのかわりには五月の節供に菖蒲を葺かず、節分に豆をまくなかれと言ったとあって、永く正直にこの二種の物を用いなかったのは少なくとも近代の雑説ではなかった証拠である。大人が弥十郎の妻に姿を見られたのを理由にして、再び来なくなったというのにも何か仔細がありそうだ。その折記念に遺して去った蓑笠は鬼ノ宮に、鍬は藤田という家に伝わっているそうだが、藤田は多分弥十郎の末ですなわち草分けの家であったろう。南部の方でも三戸郡の荒沢不動に、山男の使った木臼が伝わっていることを『糠部五郡小史』には録している。これで橡実を搗いて食っていたという話は疑わしくとも、昔かつて彼らと交際のあったことを信じていたことだけは推察せられる。
津軽の山人は角力を取ったというのみで餅をどうしたという話は残ってないが、秋田の方へ越えてみると、この二つの事件も結びついている。これも小田内通敏氏の談であるが、五城目近在の木樵でかねて田舎相撲の心得ある某、或る日山で働いて木を負うて立とうとすると不意に山男が出てきて相撲を取ろうと言うて留めた。そこで荷を再び下に卸して力を角し一番はまず彼を投げたら強いと褒めてくれた。二番目にはわざと勝を譲って還ろうとしたが、山男は少し待ってくれと言って、更に二三人の仲間を連れてきて取らせたので、いずれも一番は勝ち一番は負けて別れてきた。それが縁になってその後もおりおり出会ううちに、或る時いつ幾日にはその方の家へ遊びに行く。家の者を外へやり、餅を搗いて待っていよというのでその通りにして一斗ほどの餅を振舞うと、数人の山男が悦んで終日遊んで帰った。それはよかったがその後もおりおりやってきて、酒を飲ませろの何のと言うために、ついにはその煩しさに堪えず、これを気に病んで久しく寝ているようなことになった。村の人たちはこれを見て、山男などと附合をするのは、いずれ身のためには好くないことだと話し合っていたそうであるが、もしこの樵夫にせめて松任の餅屋ほどの気働きがあったら、神経衰弱などにはならずにすみそうなものであった。しかも因縁ばかり永く続いて人に信心のやや薄れた場合に、尋常一様の手段では元奉仕した神と別れることが難かったということは、しばしば巫術の家について言い伝えられた話であった。餅が化して白い小石になったということと、石を火に焼いて怪物を攻めたということとは、ともに古くからある物語には相異ないが、山人の場合には二つの話が合体して、あまり毎晩餅ばかり食いにくるので、のちには閉口して白い丸石を囲炉裏に焼き知らぬ顔をして食わせて見ると、火焔を吹いて飛びだして去ったとか、またはその祟りで大水が出たのが年代記にあるところの白髭水だなどと、いずれも皆一旦の好意とその後の不本意な、絶縁とを伝説する地方が多いのは、或いは何かこの方面の信仰の次々の変化を暗示するものではないかと思う。
角力によって山男と近づきになったというのもまた偶然ではなかったようである。今日中央部以西の日本において、やたらに人と相撲を取りたがるのは、川童と話がきまっている。土佐ではシバテンといって芝天狗の略称かとも考えるが、挙動はほとんと川童と同じである。見たところ小児のごとくいかにも非力であるが、勝つと何遍でも今一番というので、うるさくてしかたがない。わざと負けてやるとキキと嬉しそうに鳴いて、また仲間をうんと喚んでくる。何にしても厄介な相手で、彼らに挑まれた為に夜どおし角力を取り、後には気狂のようになったという話が九州などには多い。それでいて必ずしも狐狸のごとく騙すつもりではないらしいのである。川童にせよ何にせよ、どうしてまたこんな趣意不明なる交渉が始まったというか。それには角力そのものの歴史を、今少しく遡って考える必要があるようである。朝廷の相撲召合は七月を例とし、古い年中行事の一つではあったが、いわゆる唐制の模倣でもなければ、また皇室専属の儀式でもなかったらしい。おそらくは中央文化の或る段階において、民間の風習を採用して国技とせられたらしいことは、力士の諸国から貢進せられたのを見てもわかる。すなわちいわゆる田舎相撲の方が起原においては一つ前である。佐渡では今も村々を代表する選手があり名乗を世襲し、会津の新宮権現でも、祭の日には村々の名を帯びた力士が出て、勝った村ではその年は仕合せ好しと信ぜられたこと、歩射馬駆けなども同じであった。すなわち祈願祈祷を専らとし怪力を神授と考え、部落互いに技を競うほかに、常に運勢の強弱とも言うべきものを認めていたのは、背後に大いに頼むところの氏神、里の神の御威光があったためで、しかも彼らは信心の未熟によってこれを傷けんことを畏れていたのである。時代がようやく進んで全民族の宗教はいよいよ統一し、小区域の敵愾心などは意味もないものになったが、それでも古い名残は今だって少しは認められる。いわんや土地ごとに守り神を別にし、家門にはそれぞれの信仰があった際である。豊後の日田の鬼太夫の系図が、連綿として数百年に及ぶがごとく力の筋を神の筋に帰し、これをもって郷党の信望を繋ぎまたは集注せしめた者が、すなわち神人であったものかと思われる。山男に名ざされ、また川童に角力を挑まれるということは、言いかえればその者が不思議を感じやすく、神秘の前に無我になりやすい性質を具えていたことを意味し、一方には鞍馬の奥僧正谷の貴公子のように、試煉をへてその天分の怪力を発揮しうるのみならず、他の一方には目に見えぬ世界の紹介者として、また大いに神霊の道を社会に行うことをえたはずであったが、不幸にして国はすでに事大主義、宣伝万能の世となっていたために、割拠したる小盆地の神々は単なる妖怪をもって遇せられ、いまだ十分にその感化を実現せぬ前に有力なる外来の信仰に面してことごとくその光を失い、神が力を試みるというせっかくの旧方式も、結局無意味な擾乱に過ぎぬことになったのである。
自分の見るところをもってすれば、日本現在の村々の信仰には、根原に新旧の二系統があった。朝家の法制にもかつて天神地祇を分たれたが、のちの宗像・賀茂・八幡・熊野・春日・住吉・諏訪・白山・鹿島・香取のごとく、有効なる組織をもって神人を諸国に派し、次々に新たなる若宮今宮を増設して行ったもののほかに、別に土着年久しく住民心をともにして固く旧来の信仰を保持しているものがあった。荘園の創立は以前の郷里生活を一変し、領主はおおむね都人士の血と趣味とを嗣いでいたために、仏教の側援ある中央の大社を勧請する方に傾いていたらしく、次第に今まであるものを改造して、例えば式内の古社がほとんとその名を喪失したように、力めてこの統一の勢力に迎合したらしいが、これと同時に農民の保守趣味から、新たな社の祭式信仰をも自分の兼て持つものに引きつけた場合が少なくはなかったらしい。また右の二つの系統が時としては二つの層をなし、必ずしも一郷の八幡宮、一村全体の熊野社の威望を傷けることなくして、屋敷や一つの垣内だけで、なお古くからの土地の神に、精誠をいたしていた場合も多かった。頭屋の慣習と鍵取の制度、社家相続の方法等の中を尋ねると今とてもこの差別の微妙なる影響を見出すこと困難ならず、ことに永年にわたって必ずしも官府の公認するところとならずとも、家から家へまたは母から娘へ、静かに流れていた信仰には、別に中断せられた証跡もない以上は、古いものが多く伝わると見てよろしい。それというのが信仰の基礎は生活の自然の要求にあって、強いて日月星辰というがごとき荘麗にして物遠いところには心を寄せず四季朝夕の尋常の幸福を求め、最も平凡なる不安を避けようとしていた結果、夙に祭を申し謹み仕えたのは、主としては山の神荒野の神、または海川の神を出でなかったのである。導く人のやはり我仲間であったことは、或いは時代に相応せぬ鄙ぶりを匡しえない結果になったか知らぬが、そのかわりにはなつかしい我々の大昔が、たいして小賢しい者の干渉を受けずに、ほぼうぶな形をもって今日までも続いてきた。例えば稚くして山に紛れ入った姉弟が、そのころの紋様ある四つ身の衣を着て、ふと親の家に還ってきたようなものである。これを笑うがごとき心なき人々は、少なくとも自分たちの同志者の中にはいない。
私が八九年以前から、内々山人の問題を考えているということを、喜田博士が偶然に発見せられ、かかる晴れがましき会に出て、それを話しせよと仰せられる。一体これは物ずきに近い事業であって、もとより大正六年やそこいらに、成績を発表する所存をもって、取掛かったものではありませぬ故に、一時は甚だ当惑しかつ躊躇をしました。しかし考えてみれば、これは同時に自分のごとき方法をもって進んで、果して結局の解決をうるに足るや否やを、諸先生から批評していただくのに、最も好い機会でもあるので、なまじいに罷り出でたる次第でございます。
現在の我々日本国民が、数多の種族の混成だということは、じつはまだ完全には立証せられたわけでもないようでありますが、私の研究はそれをすでに動かぬ通説となったものとして、すなわちこれを発足点といたします。
わが大御門の御祖先が、始めてこの島へ御到着なされた時には、国内にはすでに幾多の先住民がいたと伝えられます。古代の記録においては、これらを名づけて国つ神と申しておるのであります。その例は『日本書紀』の「神代巻」出雲の条に、「吾は是れ国つ神、号は脚摩乳、我妻号は手摩乳云々」。また「高皇産霊神は大物主神に向ひ、汝若し国つ神を以て妻とせば、吾は猶汝疎き心有りとおもはん」と仰せられた。「神武紀」にはまた「臣は是れ国つ神、名を珍彦と曰ふ」とあり、また同紀吉野の条には、「臣は是れ国つ神名を井光と為す」とあります。『古事記』の方では御迎いに出た猿田彦をも、また国つ神と記しております。
令の神祇令には天神地祇という名を存し、地祇は『倭名鈔』のころまで、クニツカミまたはクニツヤシロと訓みますが、この二つは等しく神祇官において、常典によってこれを祭ることになっていまして、奈良朝になりますと、新旧二種族の精神生活は、もはや名残なく融合したものと認められます。『延喜式』の神名帳には、国魂郡魂という類の、神名から明らかに国神に属すと知らるる神々を多く包容しておりながら、天神地祇の区別すらも、すでに存置してはいなかったのであります。
しかも同じ『延喜式』の、中臣の祓詞を見ますると、なお天津罪と国津罪との区別を認めているのです。国津罪とはしからば何を意味するか。『古語拾遺』には国津罪は国中人民犯すところの罪とのみ申してあるが、それではこれに対する天津罪は、誰の犯すところなるかが不明となります。右二通りの犯罪を比較してみると、一方は串刺・重播・畔放というごとく、主として土地占有権の侵害であるに反して、他の一方は父と子犯すといい、獣犯すというような無茶なもので明白に犯罪の性質に文野の差あることが認められ、すなわち後者は原住民、国つ神の犯すところであることが解ります。『日本紀』景行天皇四十年の詔に、「東夷の中蝦夷尤も強し。男女交り居り父子別ち無し云々」ともあります。いずれの時代にこの大祓の詞というものはできたか。とにかくにかかる後の世まで口伝えに残っていたのは、興味多き事実であります。
同じ祝詞の中には、また次のような語も見えます。曰く、「国中に荒振神等を、神問はしに問はしたまひ神掃ひに掃ひたまひて云々」。アラブルカミタチはまた暴神とも荒神とも書してあり、『古語拾遺』などには不順鬼神ともあります。これは多分右申す国つ神の中、ことに強硬に反抗せし部分を、古くからそういっていたものと自分は考えます。
前九年・後三年の時代に至って、ようやく完結を告げたところの東征西伐は、要するに国つ神同化の事業を意味していたと思う。東夷に比べると西国の先住民の方が、問題が小さかったように見えますが、豊後・肥前・日向等の『風土記』に、土蜘蛛退治の記事の多いことは、常陸・陸奥等に譲りませず、更に『続日本紀』の文武天皇二年の条には太宰府に勅して豊後の大野、肥後の鞠智、肥前の基肄の三城を修繕せしめられた記事があります。これはもとより海𡨥の御備えでないことは、地形を一見なされたらすぐにわかります。土蜘蛛にはまた近畿地方に住した者もありました。『摂津風土記』の残篇にも記事があり、大和にはもとより国樔がおりました。国樔と土蜘蛛とは同じもののように、『常陸風土記』には記してあります。
北東日本の開拓史をみますると、時代とともに次々に北に向って経営の歩を進め。しかも夷民の末と認むべき者が、今なお南部津軽の両半島の端の方だけに残っているために、通例世人の考えでは、すべての先住民は圧迫を受けて、北へ北へと引上げたように見ていますが、これは単純にそんな心持がするというのみで、学問上証明を遂げたものではないのです。少なくとも京畿以西に居住した異人等は、今ではただ漠然と、絶滅したようにみなされているがこれももとよりなんらの根拠なき推測であります。
種族の絶滅ということは、血の混淆ないしは口碑の忘却というような意味でならば、これを想像することができるが、実際に殺され尽しまた死に絶えたということは「景行天皇紀」にいわゆる撃てばすなわち草に隠れ追えばすなわち山に入るというごとき状態にある人民には、とうていこれを想像することができないのです。『播磨風土記』を見ると、神前郡大川内、同じく湯川の二処に、異俗人三十許口ありとあって、地名辞書にはこれも今日の寺前・長谷二村の辺に考定しています。すなわち汽車が姫路に近づこうとして渡るところの、今日市川と称する川の上流であって、じつはかく申す私などもその至って近くの村に生れました。和銅・養老の交まで、この通り風俗を異にする人民が、その辺にはいたのであります。
右にいう異俗人は、果していかなる種類に属するかは不明であるが、『新撰姓氏録』巻の五、右京皇別佐伯直の条を見ると、「此家の祖先とする御諸別命、成務天皇の御宇に播磨の此地方に於て、川上より菜の葉の流れ下るを見て民住むと知り、求め出し之を領して部民と為す云々」とあって、或いはその御世から引続いて、同じ者の末であったかも知れませぬ。
この佐伯部は、自ら蝦夷の俘の神宮に献ぜられ、のちに播磨・安芸・伊予・讃岐および阿波の五国に配置せられた者の子孫なりと称したということで、すなわち「景行天皇紀」五十一年の記事とは符合しますが、これと『姓氏録』と二つの記録は、ともに佐伯氏の録進に拠られたものと見えますから、この一致をもって強い証拠とするのは当りませぬ。おそらくは『釈日本紀』に引用する暦録の、佐祈毘(叫び)が佐伯と訛ったという言い伝えとともに、一箇の古い説明伝説と見るべきものでありましょう。
サヘキの名称は、多分は障碍という意味で、日本語だろうと思います。佐伯の住したのは、もちろん上に掲げた五箇国には止りませぬが、果して彼らの言の通り、蝦夷と種を同じくするか否かは、これらの書物以外の材料を集めてのちに、平静に論証する必要があるのであります。
国郡の境を定めたもうということは、古くは成務天皇の条、また允恭天皇の御時にもありました。これもまた『姓氏録』に阪合部朝臣、仰せを受けて境を定めたともあります。阪合は境のことで、阪戸・阪手・阪梨(阪足)などとともに、中古以前からの郷の名・里の名にありますが、今日の境の村と村との堺を劃するに反して、昔は山地と平野との境、すなわち国つ神の領土と、天つ神の領土との、境を定めることを意味したかと思います。高野山の弘法大師などが、猟人の手から霊山の地を乞い受けたなどという昔話は、恐らくはこの事情を反映するものであろうと考えます。古い伽藍の地主神が、猟人の形で案内をせられ、また留まって守護したもうという縁起は、高野だけでは決してないのであります。
「天武天皇紀」の吉野行幸の条に、獦者二十余人云々、または獦者之首などとあるのは、国樔のことでありましょう。国樔は「応神紀」に、其為人甚淳朴也などともありまして、佐伯とは本来同じ種族でないように思われます。『北山抄』『江次第』の時代を経て、それよりもまた遙か後代まで名目を存していた、新春朝廷の国栖の奏は、最初には実際この者が山を出でて来り仕え、御贄を献じたのに始まるのであります。『延喜式』の宮内式には、諸の節会の時、国栖十二人笛工五人、合せて十七人を定としたとあります。古注には笛工の中の二人のみが、山城綴喜郡にありとあります故に、他の十五人は年々現実に、もとは吉野の奥から召されたものでありましょう。『延喜式』のころまでは如何かと思いますが、現に神亀三年には、召出されたという記録が残っているのであります。
また平野神社の四座御祭、園神三座などに、出でて仕えた山人という者も、元は同じく大和の国栖であったろうと思います。山人が庭火の役を勤めたことは、『江次第』にも見えている。祭の折に賢木を執って神人に渡す役を、元は山人が仕え申したということは、もっとも注意を要する点かと心得ます。
これは後代の神楽歌で、衛士が昔の山人の役を勤めるようになってから、用いられたものと思います。ワキモコガはマキムクノの訛り、纏向穴師は三輪の東に峙つ高山で、大和北部の平野に近く、多分は朝家の思召に基いて、この山にも一時国樔人の住んでいたのは、御式典に出仕する便宜のためかと察しられます。
しからば何が故に右のごとき厳重の御祭に、山人ごときが出て仕えることであったか。これはむつかしい問題で、同時にまた山人史の研究の、重要なる鍵でもあるように自分のみは感じている。山人の参列はただの朝廷の体裁装飾でなく、或いは山から神霊を御降し申すために、欠くべからざる方式ではなかったか。神楽歌の穴師の山は、もちろんのちに普通の人を代用してから、山かずらをさせて山人と見ようという点に、新たな興味を生じたものですが、『古今集』にはまた大歌所の執り物の歌としてあって、山人の手に持つ榊の枝に、何か信仰上の意味がありそうに見えるのであります。
山人という語は、この通り起原の年久しいものであります。自分の推測としては、上古史上の国津神が末二つに分れ、大半は里に下って常民に混同し、残りは山に入りまたは山に留まって、山人と呼ばれたと見るのですが、後世に至っては次第にこの名称を、用いる者がなくなって、かえって仙という字をヤマビトと訓ませているのであります。
自分が近世いうところの山男山女・山童山姫・山丈山姥などを総括して、かりに山人と申しておるのは必ずしも無理な断定からではありませぬ。単に便宜上この古語を復活して使って見たまでであります。昔の山人の中で、威力に強いられ乃至は下され物を慕うて、遙に京へ出てきた者は、もちろん少数であったでしょう。しからばその残りの旧弊な多数は、ゆくゆくいかに成り行いたであろうか。これからがじつは私一人の、考えて見ようとした問題でありました。
自分はまず第一に、中世の鬼の話に注意をしてみました。オニは鬼の漢字を充てたのはずいぶん古いことであります。その結果支那から入った陰陽道の思想がこれと合体して、『今昔物語』の中の多くの鬼などは、人の形を具えたり具えなかったり、孤立独往して種々の奇怪を演じ、時としては板戸に化けたり、油壺になったりして人を害するを本業としたかの観がありますが、終始この鬼とは併行して、別に一派の山中の鬼があって、往々にして勇将猛士に退治せられております。斉明天皇の七年八月に、筑前朝倉山の崖の上に踞まって、大きな笠を着て顋を手で支えて、天子の御葬儀を俯瞰していたという鬼などは、この系統の鬼の中の最も古い一つである。酒顛童子にせよ、鈴鹿山の鬼にせよ、悪路王・大竹丸・赤頭にせよいずれも武力の討伐を必要としております。その他吉備津の塵輪も三穂太郎も、鬼とはいいながらじつは人間の最も獰猛なるものに近く、護符や修験者の呪文だけでは、煙のごとく消えてしまいそうにもない鬼でありました。
また鬼という者がことごとく、人を食い殺すを常習とするような兇悪な者のみならば、決して発生しなかったろうと思う言い伝えは、自ら鬼の子孫と称する者の、諸国に居住したことである。その一例は九州の日田附近にいた大蔵氏、系図を見ると代々鬼太夫などと名乗り、しばしば公の相撲の最手に召されました。この家は帰化人の末と申しています。次には京都に近い八瀬の里の住民、俗にゲラなどと呼ばれた人々です。このことについては前に小さな論文を公表しておきました。二三の顕著なる異俗があって、誇りとして近年までこれを保持していました。黒川道祐などはこれを山鬼の末と書いています。山鬼は地方によって山爺のことをそうもいい眼一つ足一つだなどといった者もあります。一方ではまた山鬼護法と連称して、霊山の守護に任ずる活神のごとくにも信じました。安芸の宮島の山鬼は、おおよそ我々のよくいう天狗と、する事が似ていました。秋田太平山の三吉権現も、また奥山の半僧坊や秋葉山の三尺坊の類で、地方に多くの敬信者を持っているが、やはりまた山鬼という語の音から出た名だろうという説があります。
それよりも今一段と顕著なる実例は、大和吉野の大峯山下の五鬼であります。洞川という谷底の村に、今では五鬼何という苗字の家が五軒あり、いわゆる山上参りの先達職を世襲し聖護院の法親王御登山の案内役をもって、一代の眉目としておりました。吉野の下市の町近くには、善鬼垣内という地名もあって、この地に限らず五鬼の出張が方々にありました。諸国の山伏の家の口碑には、五流併立を説くことがほとんと普通になっています。すなわち五鬼は五人の山伏の家であろうと思うにかかわらず、前鬼後鬼とも書いて役の行者の二人の侍者の子孫といい、従ってまた御善鬼様などと称して、これを崇敬した地方もありました。
善鬼は五鬼の始祖のことで、五鬼のほかに別に団体があったわけではないらしく、古くは今の五鬼の家を前鬼というのが普通でありました。その前鬼が下界と交際を始めたのは、戦国のころからだと申します。その時代までは彼らにも通力があったのを、浮世の少女と縁組をしたばかりに、のちにはただの人間になったという者もありますが、実際にはごく近代になるまで、一夜の中に二十里三十里の山を往復したり、くれると言ったら一畠の茄子をみな持って行ったり、なお普通人を威服するに十分なる、力を持つ者のごとく評判せられておりました。
とにかくに彼らが平地の村から、移住した者の末ではないことは、自他ともに認めているのです。これと大昔の山人との関係は不明ながら、山の信仰には深い根を持っています。そこでこの意味において、今一応考えてみる必要があると思うのは、相州箱根・三州鳳来寺、近江の伊吹山・上州の榛名山、出羽の羽黒・紀州の熊野、さては加賀の白山等に伝わる開山の仙人の事蹟であります。白山の泰澄大師などは、奈良の仏法とは系統が別であるそうで、近ごろ前田慧雲師はこれを南洋系の仏教と申されましたが、自分はいまだその根拠のいずれにあるかを知らぬのであります。とにかくに今ある山伏道も、溯って聖宝僧正以前になりますと、教義も作法もともに甚だしく不明になり、ことに始祖という役小角に至っては、これを仏教の教徒と認めることすら決して容易ではないのです。仙術すなわち山人の道と名づくるものが、別に存在していたという推測も、なお同様に成立つだけの余地があるのであります。
土佐では寛永の十九年に、高知の城内に異人が出現したのを、これ山みこという者だといって、山中に送り還した話があります。ミコは神に仕える女性もしくは童子の名で、山人をそう呼んだことの当否は別として、少なくとも当時なおこの地方には、彼らと山神とのなんらかの関係を、認めていた者のあったという証拠にはなります。山の神の信仰も維新以後の神祇官系統の学説に基づき、名目と解釈の上に大なる変化を受けたことは、あたかも陰陽道が入ってオニが漢土の鬼になったのと似ております。今日では山神社の祭神は、大山祇命かその御娘の木花開耶姫と、報告せられておらぬものがないというありさまですが、これを各地の実際の信仰に照してみると、なんとしてもそれを古来の言い伝えとはみられぬのであります。
村に住む者が山神を祀り始めた動機は、近世には鉱山の繁栄を願うもの、或いはまた狩猟のためというのもありますが、大多数は採樵と開墾の障碍なきを祷るもので、すなわち山の神に木を乞う祭、地を乞う祭を行うのが、これらの社の最初の目的でありました。そうしてその祭を怠った制裁は何かというと、怪我をしたり発狂したり死んだり、かなり怖ろしい神罰があります。東北地方には往々にして路の畔に、山神と刻んだ大きな石塔が立っている。建立の年月日人の名なども彫ってありますが、如何して立てたかと聴くと、必ずその場処に何か不思議があって、臨時の祭をした記念なること、あたかも馬が急死するとその場処において供養を営み、馬頭観音もしくは庚申塔などを立てるのと同じく、しかも何の不思議かと問えば、たいていは山の神に不意に行逢うた、怖ろしいので気絶をしたという類で、その姿はまぼろしにもせよ、常に裸の背の高い、色の赭い眼の光の鋭い、ほぼ我々が想像する山人に近く、また一方ではこれを山男ともいっているのであります。
天狗を山人と称したことは、近世二三の書物に見えます。或は山人を天狗と思ったという方が正しいのかも知れぬ。天狗の鼻を必ず高く、手には必ず羽扇を持たせることにしたのは、近世のしかも画道の約束みたようなもので、『太平記』以前のいろいろの物語には、ずいぶん盛んにこれを説いてありますが、さほど鼻のことを注意しませぬ。仏法の解説ではこれを魔障とし善悪二元の対立を認めた古宗教の面影を伝えているにもかかわらず、一方には天狗の容貌服装のみならず、その習性感情から行動の末までが、仏法の一派と認めている修験・山伏とよく類似し、後者もまたこれを承認して、時としてはその道の祖師であり守護神ででもあるかのごとく、崇敬しかつ依頼する風のあったことは、何か隠れたる仔細のあることでなければなりませぬ。恐らくは近世全く変化してしまった山の神の信仰に、元は山人も山伏も、ともに或る程度までは参与していたのを、平地の宗教がだんだんにこれを無視しまたは忘却して行ったものと思っております。
今となってはわずかに残る民間下層のいわゆる迷信によって、切れ切れの事実の中から昔の実情を尋ねて見るのほかはないのであります。一つの例をあげてみますれば、山中には往々魔所と名づくる場処があります。京都近くにもいくつかありました。入って行くといろいろの奇怪があるように伝えられ、従って天狗の住家か、集会所のごとく人が考えました。その奇怪というのは何かというと、第一には天狗礫、どこからともなく石が飛んでくる。ただし通例は中って人を傷けることがない。第二には天狗倒し、非常な大木をゴッシンゴッシンと挽き斫る音が聴え、ほどなくえらい響を立てて地に倒れる。しかも後にその方角に行って見ても、一本も新たに伐った株などはなく、もちろん倒れた木などもない。第三には天狗笑い、人数ならば十人十五人が一度に大笑いをする声が、不意に閑寂の林の中から聴える。害意はなくとも人の胆を寒くする力は、かえって前二者よりも強かった。その他にやや遠くから実験したものには笛太鼓の囃しの音があり、また喬木の梢の燈の影などもあって、じつはその作者を天狗とする根拠は確実でないのですが、天狗でなければ誰がするかという年来の速断と、天狗ならばしかねないという遺伝的類推法をもって、別に有力なる反対者もなしに、のちにはこうして名称にさえなったのであります。
しかも必ずしも魔所といわず、また有名な老木などのない地にも、やはり同様の奇怪はおりおりあって、或る者は天狗以外の力としてこれを説明しようとしました。例えば不思議の石打ちは、久しく江戸の市中にさえこれを伝え、市外池袋の村民を雇入れると、氏神が惜んでこの変を示すなどともいいました。また伐木坊という怪物が山中に住み、毎々大木を伐倒す音をさせて、人を驚かすという地方もあり、狸が化けてこの悪戯をするという者もありました。深夜にいろいろの物音がきこえて、所在を尋ねると転々するというのは、広島で昔評判したバタバタの怪、または東京でも七不思議の一つに算えた本所の馬鹿囃子の類です。単に一人が聴いたというのなら、おまえはどうかしていると笑うところですが、現に二人三人の者が一所にいて、あれ聴けといって顔を見合せる類のいわゆるアリュシナシオン・コレクチーブであるために、迷信もまた社会化したのであります。
私の住む牛込の高台にも、やはり頻々と深夜の囃子の音があると申しました。東京のはテケテンという太鼓だけですが、加賀の金沢では笛が入ると、泉鏡花君は申されました。遠州の秋葉街道で聴きましたのは、この天狗の御膝元にいながらこれを狸の神楽と称し現に狸の演奏しているのを見たとさえいう人がありました。近世いい始めたことと思いますが狸は最も物真似に長ずと信じられ、ひとり古風な腹鼓のみにあらず、汽車が開通すれば汽車の音、小学校のできた当座は学校の騒ぎ、酒屋が建てば杜氏の歌の声などを、真夜中に再現させて我々の耳を驚かしています。しかもそれを狸のわざとする論拠は、みながそう信ずるという事実より以上に、一つも有力なものはなかったのです。
これらの現象の心理学的説明はおそらくさして困難なものでありますまい。常は聴かれぬ非常に印象の深い音響の組合せが、時過ぎて一定の条件のもとに鮮明に再現するのを、その時また聴いたように感じたものかも知れず、社会が単純で人の素養に定まった型があり、外から攪乱する力の加わらぬ場合には、多数が一度に同じ感動を受けたとしても少しもさしつかえはないのでありますが、問題はただその幻覚の種類、これを実験し始めた時と場処、また名づけて天狗の何々と称するに至った事情であります。山に入ればしばしば脅かされ、そうでないまでもあらかじめ打合せをせずして、山の人の境を侵すときに、我と感ずる不安のごときものと、山にいる人の方が山の神に親しく、農民はいつまでも外客だという考えとが、永く真価以上に山人を買い被っていた、結果ではないかと思います。
そこで最終に自分の意見を申しますと、山人すなわち日本の先住民は、もはや絶滅したという通説には、私もたいていは同意してよいと思っておりますが、彼らを我々のいう絶滅に導いた道筋についてのみ、若干の異なる見解を抱くのであります。私の想像する道筋は六筋、その一は帰順朝貢に伴なう編貫であります。最も堂々たる同化であります。その二は討死、その三は自然の子孫断絶であります。その四は信仰界を通って、かえって新来の百姓を征服し、好条件をもってゆくゆく彼らと併合したもの、第五は永い歳月の間に、人知れず土着しかつ混淆したもの、数においてはこれが一番に多いかと思います。
こういう風に列記してみると、以上の五つのいずれにも入らない差引残、すなわち第六種の旧状保持者、というよりも次第に退化して、今なお山中を漂泊しつつあった者が、少なくとも或る時代までは、必ずいたわけだということが、推定せられるのであります。ところがこの第六種の状態にある山人の消息は、きわめて不確実であるとは申せ、つい最近になるまで各地独立して、ずいぶん数多く伝えられておりました。それは隠者か仙人かであろう。いや妖怪か狒々かまたは駄法螺かであろうと、勝手な批評をしても済むかも知れぬが、事例は今少しく実着でかつ数多く、またそのようにまでして否認をする必要もなかったのであります。
山中ことに漂泊の生存が最も不可能に思われるのは火食の一点であります。一旦その便益を解していた者が、これを抛棄したということはありえぬように思われますがとにかくに孤独なる山人には火を利用した形跡なく、しかも山中には虫魚鳥小獣のほかに草木の実と若葉と根、または菌類などが多く、生で食っていたという話はたくさんに伝えられます。木挽・炭焼の小屋に尋ねてきて、黙って火にあたっていたという話もあれば、川蟹を持ってきて焼いて食ったなどとも伝えます。塩はどうするかという疑いのごときは疑いにはなりませぬ。平地の人のごとく多量に消費してはおられぬが、日本では山中に塩分を含む泉至って多く、また食物の中にも塩気の不足を補うべきものがある。また永年の習性でその需要は著しく制限することができました。吉野の奥で山に遁げこんだ平地人が、山小屋に塩を乞いにきた。一握みの塩を悦んで受けてこれだけあれば何年とかは大丈夫といった話が、『覊旅漫録』かに見えておりました。
それから衣服でありますが、これも獣皮でも樹の皮でも、用は足りたろうと思うにかかわらず多くの山人は裸であったといわれております。恐らくは裸体であるために人が注意することになったのでしょうが、わが国の温度には古今の変は少なかろうと思うのに、国民の衣服の近世甚だしく厚くるしくなったのを考えますと、馴らせば無しにも起臥しえられてこの点はあまり顧慮しなかったものと見えます。不思議なことには山人の草鞋と称して、非常に大形のものを山中で見かけるという話がありますが、それは実用よりも何か第二の目的、すなわち南日本の或る海岸の村で、今でも大草履を魔除けとするごとく、彼ら独特の畏嚇法をもってなるべく平地人を廻避した手段であったかも知れませぬ。
交通の問題についても少々考えてみました。日本は山国で北は津軽の半島の果から南は長門の小串の尖まで少しも平野に下り立たずして往来することができるのでありますが、彼らは必要以上に遠くへ走るような余裕も空想もなかったと見えて、居るという地方にのみいつでもおりました。全国の山地で山人の話の特に多いところが、近世では十数箇処あって、互いに隔絶してその間の聯絡は絶えていたかと思われ、気をつけてみると少しずつ、気風習性のごときものが違っていました。今日知れている限りの山人生息地は、北では陸羽の境の山であります。ことに日本海へ近よった山群であります。それから北上川左岸の連山、次には只見川の上流から越後秋山へかけての一帯、東海岸は大井川の奥、次は例の吉野から熊野の山、中国では大山山彙などが列挙しえられます。飛騨は山国でありながら、不思議に今日はこの話が少なく、青年の愛好する北アルプスから立山方面、黒部川の入なども今はもう安全地帯のようであります。これに反して小さな離島でも、屋久島はいまなお痕跡があり、四国にも九州にももちろん住むと伝えられます。四国では剣山の周囲ことに土佐の側には無数の話があり、九州は東岸にやや偏して、九重山以南霧島山以北一帯に、最も無邪気なる山人が住むといわれております。海が彼らの交通を遮断するのは当然ですが、なお少しは水を泳ぐこともできました。山中にはもとより東西の通路があって、老功なる木樵・猟師は容易にこれを認めて遭遇を避けました。夜分には彼らもずいぶん里近くを通りました。その方が路が楽であったことは、彼らとても変りはないはずです。鉄道の始めて通じた時はさぞ驚いたろうと思いますが、今では隧道なども利用しているかも知れませぬ。火と物音にさえ警戒しておれば、平地人の方から気がつく虞はないからであります。
山男・山姥が町の市日に、買物に出るという話が方々にありました。果してそんな事があったら、衣服風体なども目に立たぬように、済ましてただの田舎者の顔をするのだから、山人としては最も進んだ、すぐにも百姓に同化しうる部類で、いわば一種の土着見習生のごときものであります。それ以外には力めて人を避けるのがむしろ通例で、自分の方から来るというはよくよくの場合、すなわち単なる見物や食物のためではなかったらしいのです。しかも人類としては一番強い内からの衝動、すなわち配偶者の欲しいという情は、往々にして異常の勇敢を促したかと思う事実があります。
もっとも山人の中にも女はあって、族内の縁組も絶対に不可能ではなかったが、人が少なく年が違い、久しい孤独を忍ばねばならぬ際に、堪えかねて里に降って若い男女を誘うたことも、稀ではなかったように考えます。神隠しと称する日本の社会の奇現象は、あまりにも数が多く、その中には明白に自身の気の狂いから、何となく山に飛び込んだ者も少なくないのですが、原因の明瞭になったものはかつてないので、しかも多くは還って来ず、一方には年を隔てて山中で行逢うたという話が、決して珍しくはないから、こういう推測が成立つのであります。世中が開けてからは、かりに著しくその場合が減じたにしても、物憑き物狂いがいつも引寄せられるように、山へ山へと入って行く暗示には、千年以前からの潜んだ威圧が、なお働いているものとみることができます。
それをまた他の方面から立証するものは、山人の言語であります。彼らが物を言ったという例は、ほとんとないといってよいのであるが、平地人のいわゆる日本語は、たいていの場合には山人に理解せられます。ずいぶんと込み入った事柄でも、呑込んでその通りにしたというのは、すなわち片親の方からその知識が、だんだんに注入せられている結果かと思います。それでなければ米の飯をひどく欲しがりまた焚火を悦び、しばしば常人に対して好意とまではなくとも、じっと目送したりするほどの、平和な態度をとったという話が解せられず、ことに頼まれて人を助け、市に出て物を交易するというだけの変化の原因が想像しえられませぬ。多分は前代にあっても最初は同じ事情から、耕作の趣味を学んで一地に土着し、わずかずつ下流の人里と交通を試みているうちに、自他ともに差別の観念を忘失して、すなわち武陵桃源の発見とはなったのであろうと思います。
これを要するに山人の絶滅とは、主としては在来の生活の特色のなくなることでありました。そうして山人の特色とは何であったかというと、一つには肌膚の色の赤いこと、二つには丈高く、ことに手足の長いことなどが、昔話の中に今も伝説せられます。諸国に数多き大人の足跡の話は、話となって極端まで誇張せられ、加賀ではあの国を三足であるいたという大足跡もありますが、もとは長髄彦もしくは上州の八掬脛ぐらいの、やや我々より大きいという話ではなかったかと思われます。北ヨーロッパでは昔話の小人というのが、先住異民族の記憶の断片と解せられていますが、日本はちょうどその反対で、現に東部の弘い地域にわたり、今もって山人のことを大人と呼んでいる例があるのです。
私は他日この問題がいますこし綿密に学界から注意せられて、単に人類学上の新資料を供与するに止らず、日本人の文明史において、まだいかにしても説明しえない多くの事蹟がこの方面から次第に分ってくることを切望いたします。ことに我々の血の中に、若干の荒い山人の血を混じているかも知れぬということは、我々にとってはじつに無限の興味であります。
底本:「遠野物語 山の人生」岩波文庫、岩波書店
1976(昭和51)年4月16日第1刷発行
2010(平成22)年3月5日第50刷発行
底本の親本:「定本柳田國男集 第四巻」筑摩書房
1963(昭和38)年4月25日
初出:山の人生「アサヒグラフ 第四巻第二号~第五巻第七号」朝日新聞社
1925(大正14)年1月7日~8月12日発行
山人考「大正六年日本歴史地理学会大会講演手稿」
1917(大正6)年11月18日
入力:Nana ohbe
校正:川山隆
2013年4月13日作成
2016年7月1日修正
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