遠野物語
柳田国男
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この書を外国に在る人々に呈す
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この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年の二月ごろより始めて夜分おりおり訪ね来たりこの話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手にはあらざれども誠実なる人なり。自分もまた一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり。思うに遠野郷にはこの類の物語なお数百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。この書のごときは陳勝呉広のみ。
昨年八月の末自分は遠野郷に遊びたり。花巻より十余里の路上には町場三ヶ所あり。その他はただ青き山と原野なり。人煙の稀少なること北海道石狩の平野よりも甚だし。或いは新道なるが故に民居の来たり就ける者少なきか。遠野の城下はすなわち煙花の街なり。馬を駅亭の主人に借りて独り郊外の村々を巡りたり。その馬は黔き海草をもって作りたる厚総を掛けたり。虻多きためなり。猿ヶ石の渓谷は土肥えてよく拓けたり。路傍に石塔の多きこと諸国その比を知らず。高処より展望すれば早稲まさに熟し晩稲は花盛りにて水はことごとく落ちて川にあり。稲の色合いは種類によりてさまざまなり。三つ四つ五つの田を続けて稲の色の同じきはすなわち一家に属する田にしていわゆる名処の同じきなるべし。小字よりさらに小さき区域の地名は持主にあらざればこれを知らず。古き売買譲与の証文には常に見ゆる所なり。附馬牛の谷へ越ゆれば早池峯の山は淡く霞み山の形は菅笠のごとくまた片仮名のへの字に似たり。この谷は稲熟することさらに遅く満目一色に青し。細き田中の道を行けば名を知らぬ鳥ありて雛を連れて横ぎりたり。雛の色は黒に白き羽まじりたり。始めは小さき鶏かと思いしが溝の草に隠れて見えざればすなわち野鳥なることを知れり。天神の山には祭ありて獅子踊あり。ここにのみは軽く塵たち紅き物いささかひらめきて一村の緑に映じたり。獅子踊というは鹿の舞なり。鹿の角をつけたる面を被り童子五六人剣を抜きてこれとともに舞うなり。笛の調子高く歌は低くして側にあれども聞きがたし。日は傾きて風吹き酔いて人呼ぶ者の声も淋しく女は笑い児は走れどもなお旅愁をいかんともする能わざりき。盂蘭盆に新しき仏ある家は紅白の旗を高く揚げて魂を招く風あり。峠の馬上において東西を指点するにこの旗十数所あり。村人の永住の地を去らんとする者とかりそめに入りこみたる旅人とまたかの悠々たる霊山とを黄昏は徐に来たりて包容し尽したり。遠野郷には八ヶ所の観音堂あり。一木をもって作りしなり。この日報賽の徒多く岡の上に灯火見え伏鉦の音聞えたり。道ちがえの叢の中には雨風祭の藁人形あり。あたかもくたびれたる人のごとく仰臥してありたり。以上は自分が遠野郷にてえたる印象なり。
思うにこの類の書物は少なくも現代の流行にあらず。いかに印刷が容易なればとてこんな本を出版し自己の狭隘なる趣味をもって他人に強いんとするは無作法の仕業なりという人あらん。されどあえて答う。かかる話を聞きかかる処を見てきてのちこれを人に語りたがらざる者果してありや。そのような沈黙にしてかつ慎み深き人は少なくも自分の友人の中にはあることなし。いわんやわが九百年前の先輩『今昔物語』のごときはその当時にありてすでに今は昔の話なりしに反しこれはこれ目前の出来事なり。たとえ敬虔の意と誠実の態度とにおいてはあえて彼を凌ぐことを得という能わざらんも人の耳を経ること多からず人の口と筆とを倩いたること甚だ僅なりし点においては彼の淡泊無邪気なる大納言殿かえって来たり聴くに値せり。近代の御伽百物語の徒に至りてはその志やすでに陋かつ決してその談の妄誕にあらざることを誓いえず。窃にもってこれと隣を比するを恥とせり。要するにこの書は現在の事実なり。単にこれのみをもってするも立派なる存在理由ありと信ず。ただ鏡石子は年わずかに二十四五自分もこれに十歳長ずるのみ。今の事業多き時代に生まれながら問題の大小をも弁えず、その力を用いるところ当を失えりという人あらば如何。明神の山の木兎のごとくあまりにその耳を尖らしあまりにその眼を丸くし過ぎたりと責むる人あらば如何。はて是非もなし。この責任のみは自分が負わねばならぬなり。
題目(下の数字は話の番号なり、ページ数にはあらず)
一 遠野郷は今の陸中上閉伊郡の西の半分、山々にて取り囲まれたる平地なり。新町村にては、遠野、土淵、附馬牛、松崎、青笹、上郷、小友、綾織、鱒沢、宮守、達曾部の一町十ヶ村に分かつ。近代或いは西閉伊郡とも称し、中古にはまた遠野保とも呼べり。今日郡役所のある遠野町はすなわち一郷の町場にして、南部家一万石の城下なり。城を横田城ともいう。この地へ行くには花巻の停車場にて汽車を下り、北上川を渡り、その川の支流猿ヶ石川の渓を伝いて、東の方へ入ること十三里、遠野の町に至る。山奥には珍しき繁華の地なり。伝えいう、遠野郷の地大昔はすべて一円の湖水なりしに、その水猿ヶ石川となりて人界に流れ出でしより、自然にかくのごとき邑落をなせしなりと。されば谷川のこの猿ヶ石に落合うもの甚だ多く、俗に七内八崎ありと称す。内は沢または谷のことにて、奥州の地名には多くあり。
○遠野郷のトーはもとアイヌ語の湖という語より出でたるなるべし、ナイもアイヌ語なり。
二 遠野の町は南北の川の落合にあり。以前は七七十里とて、七つの渓谷おのおの七十里の奥より売買の貨物を聚め、その市の日は馬千匹、人千人の賑わしさなりき。四方の山々の中に最も秀でたるを早池峯という、北の方附馬牛の奥にあり。東の方には六角牛山立てり。石神という山は附馬牛と達曾部との間にありて、その高さ前の二つよりも劣れり。大昔に女神あり、三人の娘を伴ないてこの高原に来たり、今の来内村の伊豆権現の社あるところに宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与うべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止りしを、末の姫眼覚めて窃にこれを取り、わが胸の上に載せたりしかば、ついに最も美しき早池峯の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。若き三人の女神おのおの三の山に住し今もこれを領したもう故に、遠野の女どもはその妬を畏れて今もこの山には遊ばずといえり。
○この一里は小道すなわち坂東道なり、一里が五丁または六丁なり。
○タッソベもアイヌ語なるべし。岩手郡玉山村にも同じ大字あり。
○上郷村大字来内、ライナイもアイヌ語にてライは死のことナイは沢なり、水の静かなるよりの名か。
三 山々の奥には山人住めり。栃内村和野の佐々木嘉兵衛という人は今も七十余にて生存せり。この翁若かりしころ猟をして山奥に入りしに、遥かなる岩の上に美しき女一人ありて、長き黒髪を梳りていたり。顔の色きわめて白し。不敵の男なれば直に銃を差し向けて打ち放せしに弾に応じて倒れたり。そこに馳けつけて見れば、身のたけ高き女にて、解きたる黒髪はまたそのたけよりも長かりき。のちの験にせばやと思いてその髪をいささか切り取り、これを綰ねて懐に入れ、やがて家路に向いしに、道の程にて耐えがたく睡眠を催しければ、しばらく物蔭に立寄りてまどろみたり。その間夢と現との境のようなる時に、これも丈の高き男一人近よりて懐中に手を差し入れ、かの綰ねたる黒髪を取り返し立ち去ると見ればたちまち睡は覚めたり。山男なるべしといえり。
○土淵村大字栃内。
四 山口村の吉兵衛という家の主人、根子立という山に入り、笹を苅りて束となし担ぎて立上らんとする時、笹原の上を風の吹き渡るに心づきて見れば、奥の方なる林の中より若き女の穉児を負いたるが笹原の上を歩みて此方へ来るなり。きわめてあでやかなる女にて、これも長き黒髪を垂れたり。児を結いつけたる紐は藤の蔓にて、着たる衣類は世の常の縞物なれど、裾のあたりぼろぼろに破れたるを、いろいろの木の葉などを添えて綴りたり。足は地に着くとも覚えず。事もなげに此方に近より、男のすぐ前を通りて何方へか行き過ぎたり。この人はその折の怖ろしさより煩い始めて、久しく病みてありしが、近きころ亡せたり。
○土淵村大字山口、吉兵衛は代々の通称なればこの主人もまた吉兵衛ならん。
五 遠野郷より海岸の田ノ浜、吉利吉里などへ越ゆるには、昔より笛吹峠という山路あり。山口村より六角牛の方へ入り路のりも近かりしかど、近年この峠を越ゆる者、山中にて必ず山男山女に出逢うより、誰もみな怖ろしがりて次第に往来も稀になりしかば、ついに別の路を境木峠という方に開き、和山を馬次場として今は此方ばかりを越ゆるようになれり。二里以上の迂路なり。
○山口は六角牛に登る山口なれば村の名となれるなり。
六 遠野郷にては豪農のことを今でも長者という。青笹村大字糠前の長者の娘、ふと物に取り隠されて年久しくなりしに、同じ村の何某という猟師、或る日山に入りて一人の女に遭う。怖ろしくなりてこれを撃たんとせしに、何おじではないか、ぶつなという。驚きてよく見れば彼の長者がまな娘なり。何故にこんな処にはおるぞと問えば、或る物に取られて今はその妻となれり。子もあまた生みたれど、すべて夫が食い尽して一人此のごとくあり。おのれはこの地に一生涯を送ることなるべし。人にも言うな。御身も危うければ疾く帰れというままに、その在所をも問い明らめずして遁げ還れりという。
○糠の前は糠の森の前にある村なり、糠の森は諸国の糠塚と同じ。遠野郷にも糠森・糠塚多くあり。
七 上郷村の民家の娘、栗を拾いに山に入りたるまま帰り来たらず。家の者は死したるならんと思い、女のしたる枕を形代として葬式を執行い、さて二三年を過ぎたり。しかるにその村の者猟をして五葉山の腰のあたりに入りしに、大なる岩の蔽いかかりて岩窟のようになれるところにて、図らずこの女に逢いたり。互いに打ち驚き、いかにしてかかる山にはおるかと問えば、女の曰く、山に入りて恐ろしき人にさらわれ、こんなところに来たるなり。遁げて帰らんと思えど些の隙もなしとのことなり。その人はいかなる人かと問うに、自分には並の人間と見ゆれど、ただ丈きわめて高く眼の色少し凄しと思わる。子供も幾人か生みたれど、我に似ざれば我子にはあらずといいて食うにや殺すにや、みないずれへか持ち去りてしまうなりという。まことに我々と同じ人間かと押し返して問えば、衣類なども世の常なれど、ただ眼の色少しちがえり。一市間に一度か二度、同じようなる人四五人集まりきて、何事か話をなし、やがて何方へか出て行くなり。食物など外より持ち来たるを見れば町へも出ることならん。かく言ううちにも今にそこへ帰って来るかも知れずという故、猟師も怖ろしくなりて帰りたりといえり。二十年ばかりも以前のことかと思わる。
○一市間は遠野の町の市の日と次の市の日の間なり。月六度の市なれば一市間はすなわち五日のことなり。
八 黄昏に女や子供の家の外に出ている者はよく神隠しにあうことは他の国々と同じ。松崎村の寒戸というところの民家にて、若き娘梨の樹の下に草履を脱ぎ置きたるまま行方を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、或る日親類知音の人々その家に集まりてありしところへ、きわめて老いさらぼいてその女帰り来たれり。いかにして帰って来たかと問えば人々に逢いたかりし故帰りしなり。さらばまた行かんとて、再び跡を留めず行き失せたり。その日は風の烈しく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、きょうはサムトの婆が帰って来そうな日なりという。
九 菊池弥之助という老人は若きころ駄賃を業とせり。笛の名人にて夜通しに馬を追いて行く時などは、よく笛を吹きながら行きたり。ある薄月夜に、あまたの仲間の者とともに浜へ越ゆる境木峠を行くとて、また笛を取り出して吹きすさみつつ、大谷地というところの上を過ぎたり。大谷地は深き谷にて白樺の林しげく、その下は葦など生じ湿りたる沢なり。この時谷の底より何者か高き声にて面白いぞーと呼ばわる者あり。一同ことごとく色を失い遁げ走りたりといえり。
○ヤチはアイヌ語にて湿地の義なり、内地に多くある地名なり。またヤツともヤトともヤともいう。
一〇 この男ある奥山に入り、茸を採るとて小屋を掛け宿りてありしに、深夜に遠きところにてきゃーという女の叫び声聞え胸を轟かしたることあり。里へ帰りて見れば、その同じ夜、時も同じ刻限に、自分の妹なる女その息子のために殺されてありき。
一一 この女というは母一人子一人の家なりしに、嫁と姑との仲悪しくなり、嫁はしばしば親里へ行きて帰り来ざることあり。その日は嫁は家にありて打ち臥しておりしに、昼のころになり突然と倅のいうには、ガガはとても生かしては置かれぬ、今日はきっと殺すべしとて、大なる草苅鎌を取り出し、ごしごしと磨ぎ始めたり。そのありさまさらに戯言とも見えざれば、母はさまざまに事を分けて詫びたれども少しも聴かず。嫁も起き出でて泣きながら諫めたれど、露従う色もなく、やがて母が遁れ出でんとする様子あるを見て、前後の戸口をことごとく鎖したり。便用に行きたしといえば、おのれみずから外より便器を持ち来たりてこれへせよという。夕方にもなりしかば母もついにあきらめて、大なる囲炉裡の側にうずくまりただ泣きていたり。倅はよくよく磨ぎたる大鎌を手にして近より来たり、まず左の肩口を目がけて薙ぐようにすれば、鎌の刃先炉の上の火棚に引っかかりてよく斬れず。その時に母は深山の奥にて弥之助が聞きつけしようなる叫び声を立てたり。二度目には右の肩より切り下げたるが、これにてもなお死絶えずしてあるところへ、里人ら驚きて馳せつけ倅を取り抑え直に警察官を呼びて渡したり。警官がまだ棒を持ちてある時代のことなり。母親は男が捕えられ引き立てられて行くを見て、滝のように血の流るる中より、おのれは恨も抱かずに死ぬるなれば、孫四郎は宥したまわれという。これを聞きて心を動かさぬ者はなかりき。孫四郎は途中にてもその鎌を振り上げて巡査を追い廻しなどせしが、狂人なりとて放免せられて家に帰り、今も生きて里にあり。
○ガガは方言にて母ということなり。
一二 土淵村山口に新田乙蔵という老人あり。村の人は乙爺という。今は九十に近く病みてまさに死なんとす。年頃遠野郷の昔の話をよく知りて、誰かに話して聞かせ置きたしと口癖のようにいえど、あまり臭ければ立ち寄りて聞かんとする人なし。処々の館の主の伝記、家々の盛衰、昔よりこの郷に行われし歌の数々を始めとして、深山の伝説またはその奥に住める人々の物語など、この老人最もよく知れり。
○惜むべし、乙爺は明治四十二年の夏の始めになくなりたり。
一三 この老人は数十年の間山の中に独りにて住みし人なり。よき家柄なれど、若きころ財産を傾け失いてより、世の中に思いを絶ち、峠の上に小屋を掛け、甘酒を往来の人に売りて活計とす。駄賃の徒はこの翁を父親のように思いて、親しみたり。少しく収入の余あれば、町に下りきて酒を飲む。赤毛布にて作りたる半纏を着て、赤き頭巾を被り、酔えば、町の中を躍りて帰るに巡査もとがめず。いよいよ老衰して後、旧里に帰りあわれなる暮しをなせり。子供はすべて北海道へ行き、翁ただ一人なり。
一四 部落には必ず一戸の旧家ありて、オクナイサマという神を祀る。その家をば大同という。この神の像は桑の木を削りて顔を描き、四角なる布の真中に穴を明け、これを上より通して衣裳とす。正月の十五日には小字中の人々この家に集まり来たりてこれを祭る。またオシラサマという神あり。この神の像もまた同じようにして造り設け、これも正月の十五日に里人集まりてこれを祭る。その式には白粉を神像の顔に塗ることあり。大同の家には必ず畳一帖の室あり。この部屋にて夜寝る者はいつも不思議に遭う。枕を反すなどは常のことなり。或いは誰かに抱き起こされ、または室より突き出さるることもあり。およそ静かに眠ることを許さぬなり。
○オシラサマは双神なり。アイヌの中にもこの神あること『蝦夷風俗彙聞』に見ゆ。
○羽後苅和野の町にて市の神の神体なる陰陽の神に正月十五日白粉を塗りて祭ることあり。これと似たる例なり。
一五 オクナイサマを祭れば幸多し。土淵村大字柏崎の長者阿部氏、村にては田圃の家という。この家にて或る年田植の人手足らず、明日は空も怪しきに、わずかばかりの田を植え残すことかなどつぶやきてありしに、ふと何方よりともなく丈低き小僧一人来たりて、おのれも手伝い申さんというに任せて働かせて置きしに、午飯時に飯を食わせんとて尋ねたれど見えず。やがて再び帰りきて終日、代を掻きよく働きてくれしかば、その日に植えはてたり。どこの人かは知らぬが、晩にはきて物を食いたまえと誘いしが、日暮れてまたその影見えず。家に帰りて見れば、縁側に小さき泥の足跡あまたありて、だんだんに座敷に入り、オクナイサマの神棚のところに止りてありしかば、さてはと思いてその扉を開き見れば、神像の腰より下は田の泥にまみれていませし由。
一六 コンセサマを祭れる家も少なからず。この神の神体はオコマサマとよく似たり。オコマサマの社は里に多くあり。石または木にて男の物を作りて捧ぐるなり。今はおいおいとその事少なくなれり。
一七 旧家にはザシキワラシという神の住みたもう家少なからず。この神は多くは十二三ばかりの童児なり。おりおり人に姿を見することあり。土淵村大字飯豊の今淵勘十郎という人の家にては、近きころ高等女学校にいる娘の休暇にて帰りてありしが、或る日廊下にてはたとザシキワラシに行き逢い大いに驚きしことあり。これは正しく男の児なりき。同じ村山口なる佐々木氏にては、母人ひとり縫物しておりしに、次の間にて紙のがさがさという音あり。この室は家の主人の部屋にて、その時は東京に行き不在の折なれば、怪しと思いて板戸を開き見るに何の影もなし。しばらくの間坐りて居ればやがてまた頻に鼻を鳴らす音あり。さては座敷ワラシなりけりと思えり。この家にも座敷ワラシ住めりということ、久しき以前よりの沙汰なりき。この神の宿りたもう家は富貴自在なりということなり。
○ザシキワラシは座敷童衆なり。この神のこと『石神問答』中にも記事あり。
一八 ザシキワラシまた女の児なることあり。同じ山口なる旧家にて山口孫左衛門という家には、童女の神二人いませりということを久しく言い伝えたりしが、或る年同じ村の何某という男、町より帰るとて留場の橋のほとりにて見馴れざる二人のよき娘に逢えり。物思わしき様子にて此方へ来たる。お前たちはどこから来たと問えば、おら山口の孫左衛門がところからきたと答う。これから何処へ行くのかと聞けば、それの村の何某が家にと答う。その何某はやや離れたる村にて、今も立派に暮せる豪農なり。さては孫左衛門が世も末だなと思いしが、それより久しからずして、この家の主従二十幾人、茸の毒に中りて一日のうちに死に絶え、七歳の女の子一人を残せしが、その女もまた年老いて子なく、近きころ病みて失せたり。
一九 孫左衛門が家にては、或る日梨の木のめぐりに見馴れぬ茸のあまた生えたるを、食わんか食うまじきかと男どもの評議してあるを聞きて、最後の代の孫左衛門、食わぬがよしと制したれども、下男の一人がいうには、いかなる茸にても水桶の中に入れて苧殻をもってよくかき廻してのち食えば決して中ることなしとて、一同この言に従い家内ことごとくこれを食いたり。七歳の女の児はその日外に出でて遊びに気を取られ、昼飯を食いに帰ることを忘れしために助かりたり。不意の主人の死去にて人々の動転してある間に、遠き近き親類の人々、或いは生前に貸ありといい、或いは約束ありと称して、家の貨財は味噌の類までも取り去りしかば、この村草分の長者なりしかども、一朝にして跡方もなくなりたり。
二〇 この兇変の前にはいろいろの前兆ありき。男ども苅置きたる秣を出すとて三ツ歯の鍬にて掻きまわせしに、大なる蛇を見出したり。これも殺すなと主人が制せしをも聴かずして打ち殺したりしに、その跡より秣の下にいくらともなき蛇ありて、うごめき出でたるを、男ども面白半分にことごとくこれを殺したり。さて取り捨つべきところもなければ、屋敷の外に穴を掘りてこれを埋め、蛇塚を作る。その蛇は簣に何荷ともなくありたりといえり。
二一 右の孫左衛門は村には珍しき学者にて、常に京都より和漢の書を取り寄せて読み耽りたり。少し変人という方なりき。狐と親しくなりて家を富ます術を得んと思い立ち、まず庭の中に稲荷の祠を建て、自身京に上りて正一位の神階を請けて帰り、それよりは日々一枚の油揚を欠かすことなく、手ずから社頭に供えて拝をなせしに、のちには狐馴れて近づけども遁げず。手を延ばしてその首を抑えなどしたりという。村にありし薬師の堂守は、わが仏様は何ものをも供えざれども、孫左衛門の神様よりは御利益ありと、たびたび笑いごとにしたりとなり。
二二 佐々木氏の曾祖母年よりて死去せし時、棺に取り納め親族の者集まりきてその夜は一同座敷にて寝たり。死者の娘にて乱心のため離縁せられたる婦人もまたその中にありき。喪の間は火の気を絶やすことを忌むがところの風なれば、祖母と母との二人のみは、大なる囲炉裡の両側に坐り、母人は旁に炭籠を置き、おりおり炭を継ぎてありしに、ふと裏口の方より足音してくる者あるを見れば、亡くなりし老女なり。平生腰かがみて衣物の裾の引きずるを、三角に取り上げて前に縫いつけてありしが、まざまざとその通りにて、縞目にも見覚えあり。あなやと思う間もなく、二人の女の坐れる炉の脇を通り行くとて、裾にて炭取にさわりしに、丸き炭取なればくるくるとまわりたり。母人は気丈の人なれば振り返りあとを見送りたれば、親縁の人々の打ち臥したる座敷の方へ近より行くと思うほどに、かの狂女のけたたましき声にて、おばあさんが来たと叫びたり。その余の人々はこの声に睡を覚しただ打ち驚くばかりなりしといえり。
○マーテルリンクの『侵入者』を想い起こさしむ。
二三 同じ人の二七日の逮夜に、知音の者集まりて、夜更くるまで念仏を唱え立ち帰らんとする時、門口の石に腰掛けてあちらを向ける老女あり。そのうしろ付正しく亡くなりし人の通りなりき。これは数多の人見たる故に誰も疑わず。いかなる執着のありしにや、ついに知る人はなかりしなり。
二四 村々の旧家を大同というは、大同元年に甲斐国より移り来たる家なればかくいうとのことなり。大同は田村将軍征討の時代なり。甲斐は南部家の本国なり。二つの伝説を混じたるに非ざるか。
○大同は大洞かも知れず、洞とは東北にて家門または族ということなり。『常陸国志』に例あり、ホラマエという語のちに見ゆ。
二五 大同の祖先たちが、始めてこの地方に到着せしは、あたかも歳の暮にて、春のいそぎの門松を、まだ片方はえ立てぬうちに早元日になりたればとて、今もこの家々にては吉例として門松の片方を地に伏せたるままにて、標縄を引き渡すとのことなり。
二六 柏崎の田圃のうちと称する阿倍氏はことに聞えたる旧家なり。この家の先代に彫刻に巧なる人ありて、遠野一郷の神仏の像にはこの人の作りたる者多し。
二七 早池峯より出でて東北の方宮古の海に流れ入る川を閉伊川という。その流域はすなわち下閉伊郡なり。遠野の町の中にて今は池の端という家の先代の主人、宮古に行きての帰るさ、この川の原台の淵というあたりを通りしに、若き女ありて一封の手紙を托す。遠野の町の後なる物見山の中腹にある沼に行きて、手を叩けば宛名の人いで来べしとなり。この人請け合いはしたれども路々心に掛りてとつおいつせしに、一人の六部に行き逢えり。この手紙を開きよみて曰く、これを持ち行かば汝の身に大なる災あるべし。書き換えて取らすべしとて更に別の手紙を与えたり。これを持ちて沼に行き教えのごとく手を叩きしに、果して若き女いでて手紙を受け取り、その礼なりとてきわめて小さき石臼をくれたり。米を一粒入れて回せば下より黄金出づ。この宝物の力にてその家やや富有になりしに、妻なる者慾深くして、一度にたくさんの米をつかみ入れしかば、石臼はしきりに自ら回りて、ついには朝ごとに主人がこの石臼に供えたりし水の、小さき窪みの中に溜りてありし中へ滑り入りて見えずなりたり。その水溜りはのちに小さき池になりて、今も家の旁にあり。家の名を池の端というもその為なりという。
○この話に似たる物語西洋にもあり、偶合にや。
二八 始めて早池峯に山路をつけたるは、附馬牛村の何某という猟師にて、時は遠野の南部家入部の後のことなり。その頃までは土地の者一人としてこの山には入りたる者なかりしと。この猟師半分ばかり道を開きて、山の半腹に仮小屋を作りておりしころ、或る日炉の上に餅をならべ焼きながら食いおりしに、小屋の外を通る者ありて頻に中を窺うさまなり。よく見れば大なる坊主なり。やがて小屋の中に入り来たり、さも珍しげに餅の焼くるを見てありしが、ついにこらえ兼ねて手をさし延べて取りて食う。猟師も恐ろしければ自らもまた取りて与えしに、嬉しげになお食いたり。餅皆になりたれば帰りぬ。次の日もまた来るならんと思い、餅によく似たる白き石を二つ三つ、餅にまじえて炉の上に載せ置きしに、焼けて火のようになれり。案のごとくその坊主きょうもきて、餅を取りて食うこと昨日のごとし。餅尽きてのちその白石をも同じように口に入れたりしが、大いに驚きて小屋を飛び出し姿見えずなれり。のちに谷底にてこの坊主の死してあるを見たりといえり。
○北上川の中古の大洪水に白髪水というがあり、白髪の姥を欺き餅に似たる焼石を食わせし祟なりという。この話によく似たり。
二九 鶏頭山は早池峯の前面に立てる峻峯なり。麓の里にてはまた前薬師ともいう。天狗住めりとて、早池峯に登る者も決してこの山は掛けず。山口のハネトという家の主人、佐々木氏の祖父と竹馬の友なり。きわめて無法者にて、鉞にて草を苅り鎌にて土を掘るなど、若き時は乱暴の振舞のみ多かりし人なり。或る時人と賭をして一人にて前薬師に登りたり。帰りての物語に曰く、頂上に大なる岩あり、その岩の上に大男三人いたり。前にあまたの金銀をひろげたり。この男の近よるを見て、気色ばみて振り返る、その眼の光きわめて恐ろし。早池峯に登りたるが途に迷いて来たるなりと言えば、然らば送りて遣るべしとて先に立ち、麓近きところまで来たり、眼を塞げと言うままに、暫時そこに立ちている間に、たちまち異人は見えずなりたりという。
三〇 小国村の何某という男、或る日早池峯に竹を伐りに行きしに、地竹のおびただしく茂りたる中に、大なる男一人寝ていたるを見たり。地竹にて編みたる三尺ばかりの草履を脱ぎてあり。仰に臥して大なる鼾をかきてありき。
○下閉伊郡小国村大字小国。
○地竹は深山に生ずる低き竹なり。
三一 遠野郷の民家の子女にして、異人にさらわれて行く者年々多くあり。ことに女に多しとなり。
三二 千晩ヶ岳は山中に沼あり。この谷は物すごく腥き臭のするところにて、この山に入り帰りたる者はまことに少なし。昔何の隼人という猟師あり。その子孫今もあり。白き鹿を見てこれを追いこの谷に千晩こもりたれば山の名とす。その白鹿撃たれて遁げ、次の山まで行きて片肢折れたり。その山を今片羽山という。さてまた前なる山へきてついに死したり。その地を死助という。死助権現とて祀れるはこの白鹿なりという。
○宛然として古風土記をよむがごとし。
三三 白望の山に行きて泊れば、深夜にあたりの薄明るくなることあり。秋のころ茸を採りに行き山中に宿する者、よくこの事に逢う。また谷のあなたにて大木を伐り倒す音、歌の声など聞ゆることあり。この山の大さは測るべからず。五月に萱を苅りに行くとき、遠く望めば桐の花の咲き満ちたる山あり。あたかも紫の雲のたなびけるがごとし。されどもついにそのあたりに近づくこと能わず。かつて茸を採りに入りし者あり。白望の山奥にて金の樋と金の杓とを見たり。持ち帰らんとするにきわめて重く、鎌にて片端を削り取らんとしたれどそれもかなわず。また来んと思いて樹の皮を白くし栞としたりしが、次の日人々とともに行きてこれを求めたれど、ついにその木のありかをも見出しえずしてやみたり。
三四 白望の山続きに離森というところあり。その小字に長者屋敷というは、全く無人の境なり。ここに行きて炭を焼く者ありき。或る夜その小屋の垂菰をかかげて、内を窺う者を見たり。髪を長く二つに分けて垂れたる女なり。このあたりにても深夜に女の叫び声を聞くことは珍しからず。
三五 佐々木氏の祖父の弟、白望に茸を採りに行きて宿りし夜、谷を隔てたるあなたの大なる森林の前を横ぎりて、女の走り行くを見たり。中空を走るように思われたり。待てちゃアと二声ばかり呼ばわりたるを聞けりとぞ。
三六 猿の経立、御犬の経立は恐ろしきものなり。御犬とは狼のことなり。山口の村に近き二ツ石山は岩山なり。ある雨の日、小学校より帰る子どもこの山を見るに、処々の岩の上に御犬うずくまりてあり。やがて首を下より押しあぐるようにしてかわるがわる吠えたり。正面より見れば生まれ立ての馬の子ほどに見ゆ。後から見れば存外小さしといえり。御犬のうなる声ほど物凄く恐ろしきものはなし。
三七 境木峠と和山峠との間にて、昔は駄賃馬を追う者、しばしば狼に逢いたりき。馬方らは夜行には、たいてい十人ばかりも群をなし、その一人が牽く馬は一端綱とてたいてい五六七匹までなれば、常に四五十匹の馬の数なり。ある時二三百ばかりの狼追い来たり、その足音山もどよむばかりなれば、あまりの恐ろしさに馬も人も一所に集まりて、そのめぐりに火を焼きてこれを防ぎたり。されどなおその火を躍り越えて入り来るにより、ついには馬の綱を解きこれを張り回らせしに、穽などなりとや思いけん、それよりのちは中に飛び入らず。遠くより取り囲みて夜の明るまで吠えてありきとぞ。
三八 小友村の旧家の主人にて今も生存せる某爺という人、町より帰りに頻に御犬の吠ゆるを聞きて、酒に酔いたればおのれもまたその声をまねたりしに、狼も吠えながら跡より来るようなり。恐ろしくなりて急ぎ家に帰り入り、門の戸を堅く鎖して打ち潜みたれども、夜通し狼の家をめぐりて吠ゆる声やまず。夜明けて見れば、馬屋の土台の下を掘り穿ちて中に入り、馬の七頭ありしをことごとく食い殺していたり。この家はそのころより産やや傾きたりとのことなり。
三九 佐々木君幼きころ、祖父と二人にて山より帰りしに、村に近き谷川の岸の上に、大なる鹿の倒れてあるを見たり。横腹は破れ、殺されて間もなきにや、そこよりはまだ湯気立てり。祖父の曰く、これは狼が食いたるなり。この皮ほしけれども御犬は必ずどこかこの近所に隠れて見ておるに相違なければ、取ることができぬといえり。
四〇 草の長さ三寸あれば狼は身を隠すといえり。草木の色の移り行くにつれて、狼の毛の色も季節ごとに変りて行くものなり。
四一 和野の佐々木嘉兵衛、或る年境木越の大谷地へ狩にゆきたり。死助の方より走れる原なり。秋の暮のことにて木の葉は散り尽し山もあらわなり。向うの峯より何百とも知れぬ狼此方へ群れて走りくるを見て恐ろしさに堪えず、樹の梢に上りてありしに、その樹の下を夥しき足音して走り過ぎ北の方へ行けり。そのころより遠野郷には狼甚だ少なくなれりとのことなり。
四二 六角牛山の麓にオバヤ、板小屋などいうところあり。広き萱山なり。村々より苅りに行く。ある年の秋飯豊村の者ども萱を苅るとて、岩穴の中より狼の子三匹を見出し、その二つを殺し一つを持ち帰りしに、その日より狼の飯豊衆の馬を襲うことやまず。外の村々の人馬にはいささかも害をなさず。飯豊衆相談して狼狩をなす。その中には相撲を取り平生力自慢の者あり。さて野に出でて見るに、雄の狼は遠くにおりて来たらず。雌狼一つ鉄という男に飛びかかりたるを、ワッポロを脱ぎて腕に巻き、やにわにその狼の口の中に突き込みしに、狼これを噛む。なお強く突き入れながら人を喚ぶに、誰も誰も怖れて近よらず。その間に鉄の腕は狼の腹まで入り、狼は苦しまぎれに鉄の腕骨を噛み砕きたり。狼はその場にて死したれども、鉄も担がれて帰り程なく死したり。
○ワッポロは上羽織のことなり。
四三 一昨年の『遠野新聞』にもこの記事を載せたり。上郷村の熊という男、友人とともに雪の日に六角牛に狩に行き谷深く入りしに、熊の足跡を見出でたれば、手分してその跡を覔め、自分は峯の方を行きしに、とある岩の陰より大なる熊此方を見る。矢頃あまりに近かりしかば、銃をすてて熊に抱えつき雪の上を転びて、谷へ下る。連の男これを救わんと思えども力及ばず。やがて谷川に落ち入りて、人の熊下になり水に沈みたりしかば、その隙に獣の熊を打ち取りぬ。水にも溺れず、爪の傷は数ヶ所受けたれども命に障ることはなかりき。
四四 六角牛の峯続きにて、橋野という村の上なる山に金坑あり。この鉱山のために炭を焼きて生計とする者、これも笛の上手にて、ある日昼の間小屋におり、仰向に寝転びて笛を吹きてありしに、小屋の口なる垂菰をかかぐる者あり。驚きて見れば猿の経立なり。恐ろしくて起き直りたれば、おもむろに彼方へ走り行きぬ。
○上閉伊郡栗橋村大字橋野。
四五 猿の経立はよく人に似て、女色を好み里の婦人を盗み去ること多し。松脂を毛に塗り砂をその上につけておる故、毛皮は鎧のごとく鉄砲の弾も通らず。
四六 栃内村の林崎に住む何某という男、今は五十に近し。十年あまり前のことなり。六角牛山に鹿を撃ちに行き、オキを吹きたりしに、猿の経立あり、これを真の鹿なりと思いしか、地竹を手にて分けながら、大なる口をあけ嶺の方より下り来たれり。胆潰れて笛を吹きやめたれば、やがて反れて谷の方へ走り行きたり。
○オキとは鹿笛のことなり。
四七 この地方にて子供をおどす言葉に、六角牛の猿の経立が来るぞということ常の事なり。この山には猿多し。緒挊の滝を見に行けば、崖の樹の梢にあまたおり、人を見れば遁げながら木の実などを擲ちて行くなり。
四八 仙人峠にもあまた猿おりて行人に戯れ石を打ちつけなどす。
四九 仙人峠は登り十五里降り十五里あり。その中ほどに仙人の像を祀りたる堂あり。この堂の壁には旅人がこの山中にて遭いたる不思議の出来事を書き識すこと昔よりの習なり。例えば、我は越後の者なるが、何月何日の夜、この山路にて若き女の髪を垂れたるに逢えり。こちらを見てにこと笑いたりという類なり。またこの所にて猿に悪戯をせられたりとか、三人の盗賊に逢えりというようなる事をも記せり。
○この一里も小道なり。
五〇 死助の山にカッコ花あり。遠野郷にても珍しという花なり。五月閑古鳥の啼くころ、女や子どもこれを採りに山へ行く。酢の中に漬けて置けば紫色になる。酸漿の実のように吹きて遊ぶなり。この花を採ることは若き者の最も大なる遊楽なり。
五一 山にはさまざまの鳥住めど、最も寂しき声の鳥はオット鳥なり。夏の夜中に啼く。浜の大槌より駄賃附の者など峠を越え来たれば、遥に谷底にてその声を聞くといえり。昔ある長者の娘あり。またある長者の男の子と親しみ、山に行きて遊びしに、男見えずなりたり。夕暮になり夜になるまで探しあるきしが、これを見つくることをえずして、ついにこの鳥になりたりという。オットーン、オットーンというは夫のことなり。末の方かすれてあわれなる鳴声なり。
五二 馬追鳥は時鳥に似て少し大きく、羽の色は赤に茶を帯び、肩には馬の綱のようなる縞あり。胸のあたりにクツゴコ(口籠)のようなるかたあり。これも或る長者が家の奉公人、山へ馬を放しに行き、家に帰らんとするに一匹不足せり。夜通しこれを求めあるきしがついにこの鳥となる。アーホー、アーホーと啼くはこの地方にて野におる馬を追う声なり。年により馬追鳥里にきて啼くことあるは飢饉の前兆なり。深山には常に住みて啼く声を聞くなり。
○クツゴコは馬の口に嵌める網の袋なり。
五三 郭公と時鳥とは昔ありし姉妹なり。郭公は姉なるがある時芋を掘りて焼き、そのまわりの堅きところを自ら食い、中の軟かなるところを妹に与えたりしを、妹は姉の食う分は一層旨かるべしと想いて、庖丁にてその姉を殺せしに、たちまちに鳥となり、ガンコ、ガンコと啼きて飛び去りぬ。ガンコは方言にて堅いところということなり。妹さてはよきところをのみおのれにくれしなりけりと思い、悔恨に堪えず、やがてまたこれも鳥になりて庖丁かけたと啼きたりという。遠野にては時鳥のことを庖丁かけと呼ぶ。盛岡辺にては時鳥はどちゃへ飛んでたと啼くという。
○この芋は馬鈴薯のことなり。
五四 閉伊川の流れには淵多く恐ろしき伝説少なからず。小国川との落合に近きところに、川井という村あり。その村の長者の奉公人、ある淵の上なる山にて樹を伐るとて、斧を水中に取り落したり。主人の物なれば淵に入りてこれを探りしに、水の底に入るままに物音聞ゆ。これを求めて行くに岩の陰に家あり。奥の方に美しき娘機を織りていたり。そのハタシに彼の斧は立てかけてありたり。これを返したまわらんという時、振り返りたる女の顔を見れば、二三年前に身まかりたる我が主人の娘なり。斧は返すべければ我がこの所にあることを人にいうな。その礼としてはその方身上良くなり、奉公をせずともすむようにして遣らんといいたり。そのためなるか否かは知らず、その後胴引などいう博奕に不思議に勝ち続けて金溜り、ほどなく奉公をやめ家に引き込みて中ぐらいの農民になりたれど、この男は疾くに物忘れして、この娘のいいしことも心づかずしてありしに、或る日同じ淵の辺を過ぎて町へ行くとて、ふと前の事を思い出し、伴なえる者に以前かかることありきと語りしかば、やがてその噂は近郷に伝わりぬ。その頃より男は家産再び傾き、また昔の主人に奉公して年を経たり。家の主人は何と思いしにや、その淵に何荷ともなく熱湯を注ぎ入れなどしたりしが、何の効もなかりしとのことなり。
○下閉伊郡川井村大字川井、川井はもちろん川合の義なるべし。
五五 川には川童多く住めり。猿ヶ石川ことに多し。松崎村の川端の家にて、二代まで続けて川童の子を孕みたる者あり。生れし子は斬り刻みて一升樽に入れ、土中に埋めたり。その形きわめて醜怪なるものなりき。女の婿の里は新張村の何某とて、これも川端の家なり。その主人人にその始終を語れり。かの家の者一同ある日畠に行きて夕方に帰らんとするに、女川の汀に踞りてにこにこと笑いてあり。次の日は昼の休みにまたこの事あり。かくすること日を重ねたりしに、次第にその女のところへ村の何某という者夜々通うという噂立ちたり。始めには婿が浜の方へ駄賃附に行きたる留守をのみ窺いたりしが、のちには婿と寝たる夜さえくるようになれり。川童なるべしという評判だんだん高くなりたれば、一族の者集まりてこれを守れどもなんの甲斐もなく、婿の母も行きて娘の側に寝たりしに、深夜にその娘の笑う声を聞きて、さては来てありと知りながら身動きもかなわず、人々いかにともすべきようなかりき。その産はきわめて難産なりしが、或る者のいうには、馬槽に水をたたえその中にて産まば安く産まるべしとのことにて、これを試みたれば果してその通りなりき。その子は手に水掻あり。この娘の母もまたかつて川童の子を産みしことありという。二代や三代の因縁にはあらずという者もあり。この家も如法の豪家にて何の某という士族なり。村会議員をしたることもあり。
五六 上郷村の何某の家にても川童らしき物の子を産みたることあり。確なる証とてはなけれど、身内真赤にして口大きく、まことにいやな子なりき。忌わしければ棄てんとてこれを携えて道ちがえに持ち行き、そこに置きて一間ばかりも離れたりしが、ふと思い直し、惜しきものなり、売りて見せ物にせば金になるべきにとて立ち帰りたるに、早取り隠されて見えざりきという。
○道ちがえは道の二つに別かるるところすなわち追分なり。
五七 川の岸の砂の上には川童の足跡というものを見ること決して珍しからず。雨の日の翌日などはことにこの事あり。猿の足と同じく親指は離れて人間の手の跡に似たり。長さは三寸に足らず。指先のあとは人ののように明らかには見えずという。
五八 小烏瀬川の姥子淵の辺に、新屋の家という家あり。ある日淵へ馬を冷しに行き、馬曳の子は外へ遊びに行きし間に、川童出でてその馬を引き込まんとし、かえりて馬に引きずられて厩の前に来たり、馬槽に覆われてありき。家のもの馬槽の伏せてあるを怪しみて少しあけて見れば川童の手出でたり。村中のもの集まりて殺さんか宥さんかと評議せしが、結局今後は村中の馬に悪戯をせぬという堅き約束をさせてこれを放したり。その川童今は村を去りて相沢の滝の淵に住めりという。
○この話などは類型全国に充満せり。いやしくも川童のおるという国には必ずこの話あり。何の故にか。
五九 外の地にては川童の顔は青しというようなれど、遠野の川童は面の色赭きなり。佐々木氏の曾祖母、穉かりしころ友だちと庭にて遊びてありしに、三本ばかりある胡桃の木の間より、真赤なる顔したる男の子の顔見えたり。これは川童なりしとなり。今もその胡桃大木にてあり。この家の屋敷のめぐりはすべて胡桃の樹なり。
六〇 和野村の嘉兵衛爺、雉子小屋に入りて雉子を待ちしに狐しばしば出でて雉子を追う。あまり憎ければこれを撃たんと思い狙いたるに、狐は此方を向きて何ともなげなる顔してあり。さて引金を引きたれども火移らず。胸騒ぎして銃を検せしに、筒口より手元のところまでいつのまにかことごとく土をつめてありたり。
六一 同じ人六角牛に入りて白き鹿に逢えり。白鹿は神なりという言い伝えあれば、もし傷つけて殺すこと能わずば、必ず祟あるべしと思案せしが、名誉の猟人なれば世間の嘲りをいとい、思い切りてこれを撃つに、手応えはあれども鹿少しも動かず。この時もいたく胸騒ぎして、平生魔除けとして危急の時のために用意したる黄金の丸を取り出し、これに蓬を巻きつけて打ち放したれど、鹿はなお動かず、あまり怪しければ近よりて見るに、よく鹿の形に似たる白き石なりき。数十年の間山中に暮せる者が、石と鹿とを見誤るべくもあらず、全く魔障の仕業なりけりと、この時ばかりは猟を止めばやと思いたりきという。
六二 また同じ人、ある夜山中にて小屋を作るいとまなくて、とある大木の下に寄り、魔除けのサンズ縄をおのれと木のめぐりに三囲引きめぐらし、鉄砲を竪に抱えてまどろみたりしに、夜深く物音のするに心づけば、大なる僧形の者赤き衣を羽のように羽ばたきして、その木の梢に蔽いかかりたり。すわやと銃を打ち放せばやがてまた羽ばたきして中空を飛びかえりたり。この時の恐ろしさも世の常ならず。前後三たびまでかかる不思議に遭い、そのたびごとに鉄砲を止めんと心に誓い、氏神に願掛けなどすれど、やがて再び思い返して、年取るまで猟人の業を棄つること能わずとよく人に語りたり。
六三 小国の三浦某というは村一の金持なり。今より二三代前の主人、まだ家は貧しくして、妻は少しく魯鈍なりき。この妻ある日門の前を流るる小さき川に沿いて蕗を採りに入りしに、よき物少なければ次第に谷奥深く登りたり。さてふと見れば立派なる黒き門の家あり。訝しけれど門の中に入りて見るに、大なる庭にて紅白の花一面に咲き鶏多く遊べり。その庭を裏の方へ廻れば、牛小屋ありて牛多くおり、馬舎ありて馬多くおれども、一向に人はおらず。ついに玄関より上りたるに、その次の間には朱と黒との膳椀をあまた取り出したり。奥の座敷には火鉢ありて鉄瓶の湯のたぎれるを見たり。されどもついに人影はなければ、もしや山男の家ではないかと急に恐ろしくなり、駆け出して家に帰りたり。この事を人に語れども実と思う者もなかりしが、また或る日わが家のカドに出でて物を洗いてありしに、川上より赤き椀一つ流れてきたり。あまり美しければ拾い上げたれど、これを食器に用いたらば汚しと人に叱られんかと思い、ケセネギツの中に置きてケセネを量る器となしたり。しかるにこの器にて量り始めてより、いつまで経ちてもケセネ尽きず。家の者もこれを怪しみて女に問いたるとき、始めて川より拾い上げし由をば語りぬ。この家はこれより幸運に向い、ついに今の三浦家となれり。遠野にては山中の不思議なる家をマヨイガという。マヨイガに行き当りたる者は、必ずその家の内の什器家畜何にてもあれ持ち出でて来べきものなり。その人に授けんがためにかかる家をば見するなり。女が無慾にて何ものをも盗み来ざりしが故に、この椀自ら流れて来たりしなるべしといえり。
○このカドは門にはあらず。川戸にて門前を流るる川の岸に水を汲み物を洗うため家ごとに設けたるところなり。
○ケセネは米稗その他の穀物をいう。キツはその穀物を容るる箱なり。大小種々のキツあり。
六四 金沢村は白望の麓、上閉伊郡の内にてもことに山奥にて、人の往来する者少なし。六七年前この村より栃内村の山崎なる某かかが家に娘の婿を取りたり。この婿実家に行かんとして山路に迷い、またこのマヨイガに行き当りぬ。家のありさま、牛馬雞の多きこと、花の紅白に咲きたりしことなど、すべて前の話の通りなり。同じく玄関に入りしに、膳椀を取り出したる室あり。座敷に鉄瓶の湯たぎりて、今まさに茶を煮んとするところのように見え、どこか便所などのあたりに人が立ちてあるようにも思われたり。茫然として後にはだんだん恐ろしくなり、引き返してついに小国の村里に出でたり。小国にてはこの話を聞きて実とする者もなかりしが、山崎の方にてはそはマヨイガなるべし、行きて膳椀の類を持ち来たり長者にならんとて、婿殿を先に立てて人あまたこれを求めに山の奥に入り、ここに門ありきというところに来たれども、眼にかかるものもなく空しく帰り来たりぬ。その婿もついに金持になりたりということを聞かず。
○上閉伊郡金沢村。
六五 早池峯は御影石の山なり。この山の小国に向きたる側に安倍ヶ城という岩あり。険しき崖の中ほどにありて、人などはとても行きうべきところにあらず。ここには今でも安倍貞任の母住めりと言い伝う。雨の降るべき夕方など、岩屋の扉を鎖す音聞ゆという。小国、附馬牛の人々は、安倍ヶ城の錠の音がする、明日は雨ならんなどいう。
六六 同じ山の附馬牛よりの登り口にもまた安倍屋敷という巌窟あり。とにかく早池峯は安倍貞任にゆかりある山なり。小国より登る山口にも八幡太郎の家来の討死したるを埋めたりという塚三つばかりあり。
六七 安倍貞任に関する伝説はこのほかにも多し。土淵村と昔は橋野といいし栗橋村との境にて、山口よりは二三里も登りたる山中に、広く平なる原あり。そのあたりの地名に貞任というところあり。沼ありて貞任が馬を冷せしところなりという。貞任が陣屋を構えし址とも言い伝う。景色よきところにて東海岸よく見ゆ。
六八 土淵村には安倍氏という家ありて貞任が末なりという。昔は栄えたる家なり。今も屋敷の周囲には堀ありて水を通ず。刀剣馬具あまたあり。当主は安倍与右衛門、今も村にては二三等の物持ちにて、村会議員なり。安倍の子孫はこのほかにも多し。盛岡の安倍館の附近にもあり。厨川の柵に近き家なり。土淵村の安倍家の四五町北、小烏瀬川の河隈に館の址あり。八幡沢の館という。八幡太郎が陣屋というものこれなり。これより遠野の町への路にはまた八幡山という山ありて、その山の八幡沢の館の方に向かえる峯にもまた一つの館址あり。貞任が陣屋なりという。二つの館の間二十余町を隔つ。矢戦をしたりという言い伝えありて、矢の根を多く掘り出せしことあり。この間に似田貝という部落あり。戦の当時このあたりは蘆しげりて土固まらず、ユキユキと動揺せり。或る時八幡太郎ここを通りしに、敵味方いずれの兵糧にや、粥を多く置きてあるを見て、これは煮た粥かといいしより村の名となる。似田貝の村の外を流るる小川を鳴川という。これを隔てて足洗川村あり。鳴川にて義家が足を洗いしより村の名となるという。
○ニタカイはアイヌ語のニタトすなわち湿地より出しなるべし。地形よく合えり。西の国々にてはニタともヌタともいう皆これなり。下閉伊郡小川村にも二田貝という字あり。
六九 今の土淵村には大同という家二軒あり。山口の大同は当主を大洞万之丞という。この人の養母名はおひで、八十を超えて今も達者なり。佐々木氏の祖母の姉なり。魔法に長じたり。まじないにて蛇を殺し、木に止れる鳥を落しなどするを佐々木君はよく見せてもらいたり。昨年の旧暦正月十五日に、この老女の語りしには、昔あるところに貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。また一匹の馬を養う。娘この馬を愛して夜になれば厩舎に行きて寝ね、ついに馬と夫婦になれり。或る夜父はこの事を知りて、その次の日に娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬のおらぬより父に尋ねてこの事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋りて泣きいたりしを、父はこれを悪みて斧をもって後より馬の首を切り落せしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇り去れり。オシラサマというはこの時より成りたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にてその神の像を作る。その像三つありき。本にて作りしは山口の大同にあり。これを姉神とす。中にて作りしは山崎の在家権十郎という人の家にあり。佐々木氏の伯母が縁づきたる家なるが、今は家絶えて神の行方を知らず。末にて作りし妹神の像は今附馬牛村にありといえり。
七〇 同じ人の話に、オクナイサマはオシラサマのある家には必ず伴ないて在す神なり。されどオシラサマはなくてオクナイサマのみある家もあり。また家によりて神の像も同じからず。山口の大同にあるオクナイサマは木像なり。山口の辷石たにえという人の家なるは掛軸なり。田圃のうちにいませるはまた木像なり。飯豊の大同にもオシラサマはなけれどオクナイサマのみはいませりという。
七一 この話をしたる老女は熱心なる念仏者なれど、世の常の念仏者とは様かわり、一種邪宗らしき信仰あり。信者に道を伝うることはあれども、互いに厳重なる秘密を守り、その作法につきては親にも子にもいささかたりとも知らしめず。また寺とも僧とも少しも関係はなくて、在家の者のみの集まりなり。その人の数も多からず。辷石たにえという婦人などは同じ仲間なり。阿弥陀仏の斎日には、夜中人の静まるを待ちて会合し、隠れたる室にて祈祷す。魔法まじないを善くする故に、郷党に対して一種の権威あり。
七二 栃内村の字琴畑は深山の沢にあり。家の数は五軒ばかり、小烏瀬川の支流の水上なり。これより栃内の民居まで二里を隔つ。琴畑の入口に塚あり。塚の上には木の座像あり。およそ人の大きさにて、以前は堂の中にありしが、今は雨ざらしなり。これをカクラサマという。村の子供これを玩物にし、引き出して川へ投げ入れまた路上を引きずりなどする故に、今は鼻も口も見えぬようになれり。或いは子供を叱り戒めてこれを制止する者あれば、かえりて祟を受け病むことありといえり。
○神体仏像子供と遊ぶを好みこれを制止するを怒りたもうことほかにも例多し。遠江小笠郡大池村東光寺の薬師仏(『掛川志』)、駿河安倍郡豊田村曲金の軍陣坊社の神(『新風土記』)、または信濃筑摩郡射手の弥陀堂の木仏(『信濃奇勝録』)などこれなり。
七三 カクラサマの木像は遠野郷のうちに数多あり。栃内の字西内にもあり。山口分の大洞というところにもありしことを記憶する者あり。カクラサマは人のこれを信仰する者なし。粗末なる彫刻にて、衣裳頭の飾のありさまも不分明なり。
七四 栃内のカクラサマは右の大小二つなり。土淵一村にては三つか四つあり。いずれのカクラサマも木の半身像にてなたの荒削りの無恰好なるものなり。されど人の顔なりということだけは分かるなり。カクラサマとは以前は神々の旅をして休息したもうべき場所の名なりしが、その地に常います神をかく唱うることとなれり。
七五 離森の長者屋敷にはこの数年前まで燐寸の軸木の工場ありたり。その小屋の戸口に夜になれば女の伺い寄りて人を見てげたげたと笑う者ありて、淋しさに堪えざる故、ついに工場を大字山口に移したり。その後また同じ山中に枕木伐出しのために小屋をかけたる者ありしが、夕方になると人夫の者いずれへか迷い行き、帰りてのち茫然としてあることしばしばなり。かかる人夫四五人もありてその後も絶えず何方へか出でて行くことありき。この者どもが後に言うを聞けば、女がきて何処へか連れだすなり。帰りてのちは二日も三日も物を覚えずといえり。
七六 長者屋敷は昔時長者の住みたりし址なりとて、そのあたりにも糠森という山あり。長者の家の糠を捨てたるがなれるなりという。この山中には五つ葉のうつ木ありて、その下に黄金を埋めてありとて、今もそのうつぎの有処を求めあるく者稀々にあり。この長者は昔の金山師なりしならんか、このあたりには鉄を吹きたる滓あり。恩徳の金山もこれより山続きにて遠からず。
○諸国のヌカ塚スクモ塚には多くはこれと同じき長者伝説を伴なえり。また黄金埋蔵の伝説も諸国に限りなく多くあり。
七七 山口の田尻長三郎というは土淵村一番の物持なり。当主なる老人の話に、この人四十あまりのころ、おひで老人の息子亡くなりて葬式の夜、人々念仏を終りおのおの帰り行きし跡に、自分のみは話好きなれば少しあとになりて立ち出でしに、軒の雨落ちの石を枕にして仰臥したる男あり。よく見れば見も知らぬ人にて死してあるようなり。月のある夜なればその光にて見るに、膝を立て口を開きてあり。この人大胆者にて足にて揺かして見たれど少しも身じろぎせず。道を妨げて外にせん方もなければ、ついにこれを跨ぎて家に帰りたり。次の朝行きて見ればもちろんその跡方もなく、また誰も外にこれを見たりという人はなかりしかど、その枕にしてありし石の形と在りどころとは昨夜の見覚えの通りなり。この人の曰く、手をかけて見たらばよかりしに、半ば恐ろしければただ足にて触れたるのみなりし故、さらに何もののわざとも思いつかずと。
七八 同じ人の話に、家に奉公せし山口の長蔵なる者、今も七十余の老翁にて生存す。かつて夜遊びに出でて遅くかえり来たりしに、主人の家の門は大槌往還に向いて立てるが、この門の前にて浜の方よりくる人に逢えり。雪合羽を着たり。近づきて立ちとまる故、長蔵も怪しみてこれを見たるに、往還を隔てて向側なる畠地の方へすっと反れて行きたり。かしこには垣根ありしはずなるにと思いて、よく見れば垣根は正しくあり。急に怖ろしくなりて家の内に飛び込み、主人にこの事を語りしが、のちになりて聞けば、これと同じ時刻に新張村の何某という者、浜よりの帰り途に馬より落ちて死したりとのことなり。
七九 この長蔵の父をもまた長蔵という。代々田尻家の奉公人にて、その妻とともに仕えてありき。若きころ夜遊びに出で、まだ宵のうちに帰り来たり、門の口より入りしに、洞前に立てる人影あり。懐手をして筒袖の袖口を垂れ、顔は茫としてよく見えず。妻は名をおつねといえり。おつねのところへ来たるヨバヒトではないかと思い、つかつかと近よりしに、奥の方へは遁げずして、かえって右手の玄関の方へ寄る故、人を馬鹿にするなと腹立たしくなりて、なお進みたるに、懐手のまま後ずさりして玄関の戸の三寸ばかり明きたるところより、すっと内に入りたり。されど長蔵はなお不思議とも思わず、その戸の隙に手を差し入れて中を探らんとせしに、中の障子は正しく閉してあり。ここに始めて恐ろしくなり、少し引き下らんとして上を見れば、今の男玄関の雲壁にひたとつきて我を見下すごとく、その首は低く垂れてわが頭に触るるばかりにて、その眼の球は尺余も、抜け出でてあるように思われたりという。この時はただ恐ろしかりしのみにて何事の前兆にてもあらざりき。
○ヨバヒトは呼ばい人なるべし。女に思いを運ぶ人をかくいう。
○雲壁はなげしの外側の壁なり。
八〇 右の話をよく呑みこむためには、田尻氏の家のさまを図にする必要あり。遠野一郷の家の建てかたはいずれもこれと大同小異なり。
門はこの家のは北向きなれど、通例は東向きなり。右の図にて厩舎のあるあたりにあるなり。門のことを城前という。屋敷のめぐりは畠にて、囲墻を設けず。主人の寝室とウチとの間に小さく暗き室あり。これを座頭部屋という。昔は家に宴会あれば必ず座頭を喚びたり。これを待たせ置く部屋なり。
○この地方を旅行して最も心とまるは家の形の何れもかぎの手なることなり。この家などそのよき例なり。
八一 栃内の字野崎に前川万吉という人あり。二三年前に三十余にて亡くなりたり。この人も死ぬる二三年前に夜遊びに出でて帰りしに、門の口より廻り縁に沿いてその角まで来たるとき、六月の月夜のことなり、何心なく雲壁を見れば、ひたとこれにつきて寝たる男あり。色の蒼ざめたる顔なりき。大いに驚きて病みたりしがこれも何の前兆にてもあらざりき。田尻氏の息子丸吉この人と懇親にてこれを聞きたり。
八二 これは田尻丸吉という人が自ら遭いたることなり。少年の頃ある夜常居より立ちて便所に行かんとして茶の間に入りしに、座敷との境に人立てり。幽かに茫としてはあれど、衣類の縞も眼鼻もよく見え、髪をば垂れたり。恐ろしけれどそこへ手を延ばして探りしに、板戸にがたと突き当り、戸のさんにも触りたり。されどわが手は見えずして、その上に影のように重なりて人の形あり。その顔のところへ手を遣ればまた手の上に顔見ゆ。常居に帰りて人々に話し、行灯を持ち行きて見たれば、すでに何ものもあらざりき。この人は近代的の人にて怜悧なる人なり。また虚言をなす人にもあらず。
八三 山口の大同、大洞万之丞の家の建てざまは少しく外の家とはかわれり。その図次のページに出す。玄関は巽の方に向かえり。きわめて古き家なり。この家には出して見れば祟ありとて開かざる古文書の葛籠一つあり。
八四 佐々木氏の祖父は七十ばかりにて三四年前に亡くなりし人なり。この人の青年のころといえば、嘉永の頃なるべきか。海岸の地には西洋人あまた来住してありき。釜石にも山田にも西洋館あり。船越の半島の突端にも西洋人の住みしことあり。耶蘇教は密々に行われ、遠野郷にてもこれを奉じて磔になりたる者あり。浜に行きたる人の話に、異人はよく抱き合いては嘗め合う者なりなどいうことを、今でも話にする老人あり。海岸地方には合の子なかなか多かりしということなり。
八五 土淵村の柏崎にては両親とも正しく日本人にして白子二人ある家あり。髪も肌も眼も西洋人の通りなり。今は二十六七ぐらいなるべし。家にて農業を営む。語音も土地の人とは同じからず、声細くして鋭し。
八六 土淵村の中央にて役場小学校などのあるところを字本宿という。此所に豆腐屋を業とする政という者、今三十六七なるべし。この人の父大病にて死なんとするころ、この村と小烏瀬川を隔てたる字下栃内に普請ありて、地固めの堂突をなすところへ、夕方に政の父ひとり来たりて人々に挨拶し、おれも堂突をなすべしとて暫時仲間に入りて仕事をなし、やや暗くなりて皆とともに帰りたり。あとにて人々あの人は大病のはずなるにと少し不思議に思いしが、後に聞けばその日亡くなりたりとのことなり。人々悔みに行き今日のことを語りしが、その時刻はあたかも病人が息を引き取らんとするころなりき。
八七 人の名は忘れたれど、遠野の町の豪家にて、主人大煩いして命の境に臨みしころ、ある日ふと菩提寺に訪い来たれり。和尚鄭重にあしらい茶などすすめたり。世間話をしてやがて帰らんとする様子に少々不審あれば、跡より小僧を見せに遣りしに、門を出でて家の方に向い、町の角を廻りて見えずなれり。その道にてこの人に逢いたる人まだほかにもあり。誰にもよく挨拶して常の体なりしが、この晩に死去してもちろんその時は外出などすべき様態にてはあらざりしなり。後に寺にては茶は飲みたりや否やと茶椀を置きしところを改めしに、畳の敷合わせへ皆こぼしてありたり。
八八 これも似たる話なり。土淵村大字土淵の常堅寺は曹洞宗にて、遠野郷十二ヶ寺の触頭なり。或る日の夕方に村人何某という者、本宿より来る路にて何某という老人にあえり。この老人はかねて大病をして居る者なれば、いつのまによくなりしやと問うに、二三日気分も宜しければ、今日は寺へ話を聞きに行くなりとて、寺の門前にてまた言葉を掛け合いて別れたり。常堅寺にても和尚はこの老人が訪ね来たりし故出迎え、茶を進めしばらく話をして帰る。これも小僧に見させたるに門の外にて見えずなりしかば、驚きて和尚に語り、よく見ればまた茶は畳の間にこぼしてあり、老人はその日失せたり。
八九 山口より柏崎へ行くには愛宕山の裾を廻るなり。田圃に続ける松林にて、柏崎の人家見ゆる辺より雑木の林となる。愛宕山の頂には小さき祠ありて、参詣の路は林の中にあり。登口に鳥居立ち、二三十本の杉の古木あり。その旁にはまた一つのがらんとしたる堂あり。堂の前には山神の字を刻みたる石塔を立つ。昔より山の神出づと言い伝うるところなり。和野の何某という若者、柏崎に用事ありて夕方堂のあたりを通りしに、愛宕山の上より降り来る丈高き人あり。誰ならんと思い林の樹木越しにその人の顔のところを目がけて歩み寄りしに、道の角にてはたと行き逢いぬ。先方は思い掛けざりしにや大いに驚きて此方を見たる顔は非常に赤く、眼は耀きてかついかにも驚きたる顔なり。山の神なりと知りて後をも見ずに柏崎の村に走りつきたり。
○遠野郷には山神塔多く立てり、そのところはかつて山神に逢いまたは山神の祟を受けたる場所にて神をなだむるために建てたる石なり。
九十 松崎村に天狗森という山あり。その麓なる桑畠にて村の若者何某という者、働きていたりしに、頻に睡くなりたれば、しばらく畠の畔に腰掛けて居眠りせんとせしに、きわめて大なる男の顔は真赤なるが出で来たれり。若者は気軽にて平生相撲などの好きなる男なれば、この見馴れぬ大男が立ちはだかりて上より見下すようなるを面悪く思い、思わず立ち上りてお前はどこから来たかと問うに、何の答えもせざれば、一つ突き飛ばしてやらんと思い、力自慢のまま飛びかかり手を掛けたりと思うや否や、かえりて自分の方が飛ばされて気を失いたり。夕方に正気づきてみれば無論その大男はおらず。家に帰りてのち人にこの事を話したり。その秋のことなり。早池峯の腰へ村人大勢とともに馬を曳きて萩を苅りに行き、さて帰らんとするころになりてこの男のみ姿見えず。一同驚きて尋ねたれば、深き谷の奥にて手も足も一つ一つ抜き取られて死していたりという。今より二三十年前のことにて、この時の事をよく知れる老人今も存在せり。天狗森には天狗多くいるということは昔より人の知るところなり。
九一 遠野の町に山々の事に明るき人あり。もとは南部男爵家の鷹匠なり。町の人綽名して鳥御前という。早池峯、六角牛の木や石や、すべてその形状と在処とを知れり。年取りてのち茸採りにとて一人の連とともに出でたり。この連の男というは水練の名人にて、藁と槌とを持ちて水の中に入り、草鞋を作りて出てくるという評判の人なり。さて遠野の町と猿ヶ石川を隔つる向山という山より、綾織村の続石とて珍しき岩のある所の少し上の山に入り、両人別れ別れになり、鳥御前一人はまた少し山を登りしに、あたかも秋の空の日影、西の山の端より四五間ばかりなる時刻なり。ふと大なる岩の陰に赭き顔の男と女とが立ちて何か話をして居るに出逢いたり。彼らは鳥御前の近づくを見て、手を拡げて押し戻すようなる手つきをなし制止したれども、それにも構わず行きたるに女は男の胸に縋るようにしたり。事のさまより真の人間にてはあるまじと思いながら、鳥御前はひょうきんな人なれば戯れて遣らんとて腰なる切刃を抜き、打ちかかるようにしたれば、その色赭き男は足を挙げて蹴りたるかと思いしが、たちまちに前後を知らず。連なる男はこれを探しまわりて谷底に気絶してあるを見つけ、介抱して家に帰りたれば、鳥御前は今日の一部始終を話し、かかる事は今までに更になきことなり。おのれはこのために死ぬかも知れず、ほかの者には誰にもいうなと語り、三日ほどの間病みて身まかりたり。家の者あまりにその死にようの不思議なればとて、山臥のケンコウ院というに相談せしに、その答えには、山の神たちの遊べるところを邪魔したる故、その祟をうけて死したるなりといえり。この人は伊能先生なども知合なりき。今より十余年前の事なり。
九二 昨年のことなり。土淵村の里の子十四五人にて早池峯に遊びに行き、はからず夕方近くなりたれば、急ぎて山を下り麓近くなるころ、丈の高き男の下より急ぎ足に昇りくるに逢えり。色は黒く眼はきらきらとして、肩には麻かと思わるる古き浅葱色の風呂敷にて小さき包を負いたり。恐ろしかりしかども子供の中の一人、どこへ行くかと此方より声を掛けたるに、小国さ行くと答う。この路は小国へ越ゆべき方角にはあらざれば、立ちとまり不審するほどに、行き過ぐると思うまもなく、はや見えずなりたり。山男よと口々に言いてみなみな遁げ帰りたりといえり。
九三 これは和野の人菊池菊蔵という者、妻は笛吹峠のあなたなる橋野より来たる者なり。この妻親里へ行きたる間に、糸蔵という五六歳の男の児病気になりたれば、昼過ぎより笛吹峠を越えて妻を連れに親里へ行きたり。名に負う六角牛の峯続きなれば山路は樹深く、ことに遠野分より栗橋分へ下らんとするあたりは、路はウドになりて両方は岨なり。日影はこの岨に隠れてあたりやや薄暗くなりたるころ、後の方より菊蔵と呼ぶ者あるに振り返りて見れば、崖の上より下を覗くものあり。顔は赭く眼の光りかがやけること前の話のごとし。お前の子はもう死んで居るぞという。この言葉を聞きて恐ろしさよりも先にはっと思いたりしが、はやその姿は見えず。急ぎ夜の中に妻を伴ないて帰りたれば、果して子は死してありき。四五年前のことなり。
○ウドとは両側高く切込みたる路のことなり。東海道の諸国にてウタウ坂・謡坂などいうはすべてかくのごとき小さき切通しのことならん。
九四 この菊蔵、柏崎なる姉の家に用ありて行き、振舞われたる残りの餅を懐に入れて、愛宕山の麓の林を過ぎしに、象坪の藤七という大酒呑にて彼と仲善の友に行き逢えり。そこは林の中なれど少しく芝原あるところなり。藤七はにこにことしてその芝原を指し、ここで相撲を取らぬかという。菊蔵これを諾し、二人草原にてしばらく遊びしが、この藤七いかにも弱く軽く自由に抱えては投げらるる故、面白きままに三番まで取りたり。藤七が曰く、今日はとてもかなわず、さあ行くべしとて別れたり。四五間も行きてのち心づきたるにかの餅見えず。相撲場に戻りて探したれどなし。始めて狐ならんかと思いたれど、外聞を恥じて人にもいわざりしが、四五日ののち酒屋にて藤七に逢いその話をせしに、おれは相撲など取るものか、その日は浜へ行きてありしものをと言いて、いよいよ狐と相撲を取りしこと露顕したり。されど菊蔵はなお他の人々には包み隠してありしが、昨年の正月の休みに人々酒を飲み狐の話をせしとき、おれもじつはとこの話を白状し、大いに笑われたり。
○象坪は地名にしてかつ藤七の名字なり。象坪という地名のこと『石神問答』の中にてこれを研究したり。
九五 松崎の菊池某という今年四十三四の男、庭作りの上手にて、山に入り草花を掘りてはわが庭に移し植え、形の面白き岩などは重きを厭わず家に担い帰るを常とせり。或る日少し気分重ければ家を出でて山に遊びしに、今までついに見たることなき美しき大岩を見つけたり。平生の道楽なればこれを持ち帰らんと思い、持ち上げんとせしが非常に重し。あたかも人の立ちたる形して丈もやがて人ほどあり。されどほしさのあまりこれを負い、我慢して十間ばかり歩みしが、気の遠くなるくらい重ければ怪しみをなし、路の旁にこれを立て少しくもたれかかるようにしたるに、そのまま石とともにすっと空中に昇り行く心地したり。雲より上になりたるように思いしがじつに明るく清きところにて、あたりにいろいろの花咲き、しかも何処ともなく大勢の人声聞えたり。されど石はなおますます昇り行き、ついには昇り切りたるか、何事も覚えぬようになりたり。その後時過ぎて心づきたる時は、やはり以前のごとく不思議の石にもたれたるままにてありき。この石を家の内へ持ち込みてはいかなることあらんも測りがたしと、恐ろしくなりて遁げ帰りぬ。この石は今も同じところにあり。おりおりはこれを見て再びほしくなることありといえり。
九六 遠野の町に芳公馬鹿とて三十五六なる男、白痴にて一昨年まで生きてありき。この男の癖は路上にて木の切れ塵などを拾い、これを捻りてつくづくと見つめまたはこれを嗅ぐことなり。人の家に行きては柱などをこすりてその手を嗅ぎ、何ものにても眼の先きまで取り上げ、にこにことしておりおりこれを嗅ぐなり。この男往来をあるきながら急に立ち留り、石などを拾い上げてこれをあたりの人家に打ちつけ、けたたましく火事だ火事だと叫ぶことあり。かくすればその晩か次の日か物を投げつけられたる家火を発せざることなし。同じこと幾度となくあれば、のちにはその家々も注意して予防をなすといえども、ついに火事を免れたる家は一軒もなしといえり。
九七 飯豊の菊池松之丞という人傷寒を病み、たびたび息を引きつめし時、自分は田圃に出でて菩提寺なるキセイ院へ急ぎ行かんとす。足に少し力を入れたるに、図らず空中に飛び上り、およそ人の頭ほどのところを次第に前下りに行き、また少し力を入るれば昇ること始めのごとし。何とも言われず快し。寺の門に近づくに人群集せり。何故ならんと訝りつつ門を入れば、紅の芥子の花咲き満ち、見渡すかぎりも知らず。いよいよ心持よし。この花の間に亡くなりし父立てり。お前もきたのかという。これに何か返事をしながらなお行くに、以前失いたる男の子おりて、トッチャお前もきたかという。お前はここにいたのかと言いつつ近よらんとすれば、今きてはいけないという。この時門の辺にて騒しくわが名を喚ぶ者ありて、うるさきこと限りなけれど、よんどころなければ心も重くいやいやながら引き返したりと思えば正気づきたり。親族の者寄り集い水など打ちそそぎて喚び生かしたるなり。
九八 路の傍に山の神、田の神、塞の神の名を彫りたる石を立つるは常のことなり。また早池峯山・六角牛山の名を刻したる石は、遠野郷にもあれど、それよりも浜にことに多し。
九九 土淵村の助役北川清という人の家は字火石にあり。代々の山臥にて祖父は正福院といい、学者にて著作多く、村のために尽したる人なり。清の弟に福二という人は海岸の田の浜へ婿に行きたるが、先年の大海嘯に遭いて妻と子とを失い、生き残りたる二人の子とともに元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。夏の初めの月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたるところにありて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正しく亡くなりしわが妻なり。思わずその跡をつけて、遥々と船越村の方へ行く崎の洞あるところまで追い行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑いたり。男はとみればこれも同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が婿に入りし以前に互いに深く心を通わせたりと聞きし男なり。今はこの人と夫婦になりてありというに、子供は可愛くはないのかといえば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり。死したる人と物いうとは思われずして、悲しく情なくなりたれば足元を見てありし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり。追いかけて見たりしがふと死したる者なりしと心づき、夜明けまで道中に立ちて考え、朝になりて帰りたり。その後久しく煩いたりといえり。
一〇〇 船越の漁夫何某。ある日仲間の者とともに吉利吉里より帰るとて、夜深く四十八坂のあたりを通りしに、小川のあるところにて一人の女に逢う。見ればわが妻なり。されどもかかる夜中にひとりこの辺に来べき道理なければ、必定化物ならんと思い定め、やにわに魚切庖丁を持ちて後の方より差し通したれば、悲しき声を立てて死したり。しばらくの間は正体を現わさざれば流石に心に懸り、後の事を連の者に頼み、おのれは馳せて家に帰りしに、妻は事もなく家に待ちてあり。今恐ろしき夢を見たり。あまり帰りの遅ければ夢に途中まで見に出でたるに、山路にて何とも知れぬ者に脅かされて、命を取らるると思いて目覚めたりという。さてはと合点して再び以前の場所へ引き返してみれば、山にて殺したりし女は連の者が見ておる中についに一匹の狐となりたりといえり。夢の野山を行くにこの獣の身を傭うことありと見ゆ。
一〇一 旅人豊間根村を過ぎ、夜更け疲れたれば、知音の者の家に灯火の見ゆるを幸に、入りて休息せんとせしに、よき時に来合せたり、今夕死人あり、留守の者なくていかにせんかと思いしところなり、しばらくの間頼むといいて主人は人を喚びに行きたり。迷惑千万なる話なれど是非もなく、囲炉裡の側にて煙草を吸いてありしに、死人は老女にて奥の方に寝させたるが、ふと見れば床の上にむくむくと起き直る。胆潰れたれど心を鎮め静かにあたりを見廻すに、流し元の水口の穴より狐のごとき物あり、面をさし入れて頻に死人の方を見つめていたり。さてこそと身を潜め窃かに家の外に出で、背戸の方に廻りて見れば、正しく狐にて首を流し元の穴に入れ後足を爪立てていたり。有合わせたる棒をもてこれを打ち殺したり。
○下閉伊郡豊間根村大字豊間根。
一〇二 正月十五日の晩を小正月という。宵のほどは子供ら福の神と称して四五人群を作り、袋を持ちて人の家に行き、明の方から福の神が舞い込んだと唱えて餅を貰う習慣あり。宵を過ぐればこの晩に限り人々決して戸の外に出づることなし。小正月の夜半過ぎは山の神出でて遊ぶと言い伝えてあればなり。山口の字丸古立におまさという今三十五六の女、まだ十二三の年のことなり。いかなるわけにてか唯一人にて福の神に出で、ところどころをあるきて遅くなり、淋しき路を帰りしに、向うの方より丈の高き男来てすれちがいたり。顔はすてきに赤く眼はかがやけり。袋を捨てて遁げ帰り大いに煩いたりといえり。
一〇三 小正月の夜、または小正月ならずとも冬の満月の夜は、雪女が出でて遊ぶともいう。童子をあまた引き連れてくるといえり。里の子ども冬は近辺の丘に行き、橇遊びをして面白さのあまり夜になることあり。十五日の夜に限り、雪女が出るから早く帰れと戒めらるるは常のことなり。されど雪女を見たりという者は少なし。
一〇四 小正月の晩には行事甚だ多し。月見というは六つの胡桃の実を十二に割り一時に炉の火にくべて一時にこれを引き上げ、一列にして右より正月二月と数うるに、満月の夜晴なるべき月にはいつまでも赤く、曇るべき月には直に黒くなり、風ある月にはフーフーと音をたてて火が振うなり。何遍繰り返しても同じことなり。村中いずれの家にても同じ結果を得るは妙なり。翌日はこの事を語り合い、例えば八月の十五夜風とあらば、その歳の稲の苅入を急ぐなり。
○五穀の占、月の占多少のヴァリエテをもって諸国に行なわる。陰陽道に出でしものならん。
一〇五 また世中見というは、同じく小正月の晩に、いろいろの米にて餅をこしらえて鏡となし、同種の米を膳の上に平らに敷き、鏡餅をその上に伏せ、鍋を被せ置きて翌朝これを見るなり。餅につきたる米粒の多きものその年は豊作なりとして、早中晩の種類を択び定むるなり。
一〇六 海岸の山田にては蜃気楼年々見ゆ。常に外国の景色なりという。見馴れぬ都のさまにして、路上の車馬しげく人の往来眼ざましきばかりなり。年ごとに家の形などいささかも違うことなしといえり。
一〇七 上郷村に河ぷちのうちという家あり。早瀬川の岸にあり。この家の若き娘、ある日河原に出でて石を拾いてありしに、見馴れぬ男来たり、木の葉とか何とかを娘にくれたり。丈高く面朱のようなる人なり。娘はこの日より占の術を得たり。異人は山の神にて、山の神の子になりたるなりといえり。
一〇八 山の神の乗り移りたりとて占をなす人は所々にあり。附馬牛村にもあり。本業は木挽なり。柏崎の孫太郎もこれなり。以前は発狂して喪心したりしに、ある日山に入りて山の神よりその術を得たりしのちは、不思議に人の心中を読むこと驚くばかりなり。その占いの法は世間の者とは全く異なり。何の書物をも見ず、頼みにきたる人と世間話をなし、その中にふと立ちて常居の中をあちこちとあるき出すと思うほどに、その人の顔は少しも見ずして心に浮びたることをいうなり。当らずということなし。例えばお前のウチの板敷を取り離し、土を掘りて見よ。古き鏡または刀の折れあるべし。それを取り出さねば近き中に死人ありとか家が焼くるとかいうなり。帰りて掘りて見るに必ずあり。かかる例は指を屈するに勝えず。
一〇九 盆のころには雨風祭とて藁にて人よりも大なる人形を作り、道の岐に送り行きて立つ。紙にて顔を描き瓜にて陰陽の形を作り添えなどす。虫祭の藁人形にはかかることはなくその形も小さし。雨風祭の折は一部落の中にて頭屋を択び定め、里人集まりて酒を飲みてのち、一同笛太鼓にてこれを道の辻まで送り行くなり。笛の中には桐の木にて作りたるホラなどあり。これを高く吹く。さてその折の歌は「二百十日の雨風まつるよ、どちの方さ祭る、北の方さ祭る」という。
○『東国輿地勝覧』によれば韓国にても厲壇を必ず城の北方に作ること見ゆ。ともに玄武神の信仰より来たれるなるべし。
一一〇 ゴンゲサマというは、神楽舞の組ごとに一つずつ備われる木彫の像にして、獅子頭とよく似て少しく異なれり。甚だ御利生のあるものなり。新張の八幡社の神楽組のゴンゲサマと、土淵村字五日市の神楽組のゴンゲサマと、かつて途中にて争いをなせしことあり。新張のゴンゲサマ負けて片耳を失いたりとて今もなし。毎年村々を舞いてあるく故、これを見知らぬ者なし。ゴンゲサマの霊験はことに火伏にあり。右の八幡の神楽組かつて附馬牛村に行きて日暮れ宿を取り兼ねしに、ある貧しき者の家にて快くこれを泊めて、五升桝を伏せてその上にゴンゲサマを座え置き、人々は臥したりしに、夜中にがつがつと物を噛む音のするに驚きて起きてみれば、軒端に火の燃えつきてありしを、桝の上なるゴンゲサマ飛び上り飛び上りして火を喰い消してありしなりと。子どもの頭を病む者など、よくゴンゲサマを頼み、その病を噛みてもらうことあり。
一一一 山口、飯豊、附馬牛の字荒川東禅寺および火渡、青笹の字中沢ならびに土淵村の字土淵に、ともにダンノハナという地名あり。その近傍にこれと相対して必ず蓮台野という地あり。昔は六十を超えたる老人はすべてこの蓮台野へ追い遣るの習ありき。老人はいたずらに死んで了うこともならぬ故に、日中は里へ下り農作して口を糊したり。そのために今も山口土淵辺にては朝に野らに出づるをハカダチといい、夕方野らより帰ることをハカアガリというといえり。
○ダンノハナは壇の塙なるべし。すなわち丘の上にて塚を築きたる場所ならん。境の神を祭るための塚なりと信ず。蓮台野もこの類なるべきこと『石神問答』中にいえり。
一一二 ダンノハナは昔館のありし時代に囚人を斬りし場所なるべしという。地形は山口のも土淵飯豊のもほぼ同様にて、村境の岡の上なり。仙台にもこの地名あり。山口のダンノハナは大洞へ越ゆる丘の上にて館址よりの続きなり。蓮台野はこれと山口の民居を隔てて相対す。蓮台野の四方はすべて沢なり。東はすなわちダンノハナとの間の低地、南の方を星谷という。此所には蝦夷屋敷という四角に凹みたるところ多くあり。その跡きわめて明白なり。あまた石器を出す。石器土器の出るところ山口に二ヶ所あり。他の一は小字をホウリョウという。ここの土器と蓮台野の土器とは様式全然殊なり。後者のは技巧いささかもなく、ホウリョウのは模様なども巧なり。埴輪もここより出づ。また石斧石刀の類も出づ。蓮台野には蝦夷銭とて土にて銭の形をしたる径二寸ほどの物多く出づ。これには単純なる渦紋などの模様あり。字ホウリョウには丸玉・管玉も出づ。ここの石器は精巧にて石の質も一致したるに、蓮台野のは原料いろいろなり。ホウリョウの方は何の跡ということもなく、狭き一町歩ほどの場所なり。星谷は底の方今は田となれり。蝦夷屋敷はこの両側に連なりてありしなりという。このあたりに掘れば祟ありという場所二ヶ所ほどあり。
○外の村々にても二所の地形および関係これに似たりという。
○星谷という地名も諸国にあり星を祭りしところなり。
○ホウリョウ権現は遠野をはじめ奥羽一円に祀らるる神なり。蛇の神なりという。名義を知らず。
一一三 和野にジョウヅカ森というところあり。象を埋めし場所なりといえり。此所だけには地震なしとて、近辺にては地震の折はジョウヅカ森へ遁げよと昔より言い伝えたり。これは確かに人を埋めたる墓なり。塚のめぐりには堀あり。塚の上には石あり。これを掘れば祟ありという。
○ジョウズカは定塚、庄塚または塩塚などとかきて諸国にあまたあり。これも境の神を祀りしところにて地獄のショウツカの奪衣婆の話などと関係あること『石神問答』に詳にせり。また象坪などの象頭神とも関係あれば象の伝説は由なきにあらず、塚を森ということも東国の風なり。
一一四 山口のダンノハナは今は共同墓地なり。岡の頂上にうつ木を栽えめぐらしその口は東方に向かいて門口めきたるところあり。その中ほどに大なる青石あり。かつて一たびその下を掘りたる者ありしが、何ものをも発見せず。のち再びこれを試みし者は大なる瓶あるを見たり。村の老人たち大いに叱りければ、またもとのままになし置きたり。館の主の墓なるべしという。此所に近き館の名はボンシャサの館という。いくつかの山を掘り割りて水を引き、三重四重に堀を取り廻らせり。寺屋敷・砥石森などいう地名あり。井の跡とて石垣残れり。山口孫左衛門の祖先ここに住めりという。『遠野古事記』に詳かなり。
一一五 御伽話のことを昔々という。ヤマハハの話最も多くあり。ヤマハハは山姥のことなるべし。その一つ二つを次に記すべし。
一一六 昔々あるところにトトとガガとあり。娘を一人持てり。娘を置きて町へ行くとて、誰がきても戸を明けるなと戒しめ、鍵を掛けて出でたり。娘は恐ろしければ一人炉にあたりすくみていたりしに、真昼間に戸を叩きてここを開けと呼ぶ者あり。開かずば蹴破るぞと嚇す故に、是非なく戸を明けたれば入りきたるはヤマハハなり。炉の横座に蹈みはたかりて火にあたり、飯をたきて食わせよという。その言葉に従い膳を支度してヤマハハに食わせ、その間に家を遁げ出したるに、ヤマハハは飯を食い終りて娘を追い来たり、おいおいにその間近く今にも背に手の触るるばかりになりし時、山の蔭にて柴を苅る翁に逢う。おれはヤマハハにぼっかけられてあるなり、隠してくれよと頼み、苅り置きたる柴の中に隠れたり。ヤマハハ尋ね来たりて、どこに隠れたかと柴の束をのけんとして柴を抱えたるまま山より滑り落ちたり。その隙にここを遁れてまた萱を苅る翁に逢う。おれはヤマハハにぼっかけられてあるなり、隠してくれよと頼み、苅り置きたる萱の中に隠れたり。ヤマハハはまた尋ね来たりて、どこに隠れたかと萱の束をのけんとして、萱を抱えたるまま山より滑り落ちたり。その隙にまたここを遁れ出でて大きなる沼の岸に出でたり。これよりは行くべき方もなければ、沼の岸の大木の梢に昇りいたり。ヤマハハはどけえ行ったとて遁がすものかとて、沼の水に娘の影の映れるを見てすぐに沼の中に飛び入りたり。この間に再び此所を走り出で、一つの笹小屋のあるを見つけ、中に入りて見れば若き女いたり。此にも同じことを告げて石の唐櫃のありし中へ隠してもらいたるところへ、ヤマハハまた飛び来たり娘のありかを問えども隠して知らずと答えたれば、いんね来ぬはずはない、人くさい香がするものという。それは今雀を炙って食った故なるべしと言えば、ヤマハハも納得してそんなら少し寝ん、石のからうどの中にしようか、木のからうどの中がよいか、石はつめたし木のからうどの中にと言いて、木の唐櫃の中に入りて寝たり。家の女はこれに鍵を下し、娘を石のからうどより連れ出し、おれもヤマハハに連れて来られたる者なればともどもにこれを殺して里へ帰らんとて、錐を紅く焼きて木の唐櫃の中に差し通したるに、ヤマハハはかくとも知らず、ただ二十日鼠がきたと言えり。それより湯を煮立てて焼錐の穴より注ぎ込みて、ついにそのヤマハハを殺し二人ともに親々の家に帰りたり。昔々の話の終りはいずれもコレデドンドハレという語をもって結ぶなり。
一一七 昔々これもあるところにトトとガガと、娘の嫁に行く支度を買いに町へ出で行くとて戸を鎖し、誰がきても明けるなよ、はアと答えたれば出でたり。昼のころヤマハハ来たりて娘を取りて食い、娘の皮を被り娘になりておる。夕方二人の親帰りて、おりこひめこ居たかと門の口より呼べば、あ、いたます、早かったなしと答え、二親は買い来たりしいろいろの支度の物を見せて娘の悦ぶ顔を見たり。次の日夜の明けたる時、家の鶏羽ばたきして、糠屋の隅ッ子見ろじゃ、けけろと啼く。はて常に変りたる鶏の啼きようかなと二親は思いたり。それより花嫁を送り出すとてヤマハハのおりこひめこを馬に載せ、今や引き出さんとするときまた鶏啼く。その声は、おりこひめこを載せなえでヤマハハのせた、けけろと聞ゆ。これを繰り返して歌いしかば、二親も始めて心づき、ヤマハハを馬より引き下して殺したり。それより糠屋の隅を見に行きしに娘の骨あまた有りたり。
○糠屋は物おきなり。
一一八 紅皿欠皿の話も遠野郷に行なわる。ただ欠皿の方はその名をヌカボという。ヌカボは空穂のことなり。継母に悪まれたれど神の恵ありて、ついに長者の妻となるという話なり。エピソードにはいろいろの美しき絵様あり。折あらば詳しく書き記すべし。
一一九 遠野郷の獅子踊に古くより用いたる歌の曲あり。村により人によりて少しずつの相異あれど、自分の聞きたるは次のごとし。百年あまり以前の筆写なり。
○獅子踊はさまでこの地方に古きものにあらず。中代これを輸入せしものなることを人よく知れり。
一 まゐり来て此橋を見申せや、いかなもをざは蹈みそめたやら、わだるがくかいざるもの
一 此御馬場を見申せや、杉原七里大門まで
一 まゐり来て此もんを見申せや、ひの木さわらで門立てゝ、是ぞ目出たい白かねの門
一 門の戸びらおすひらき見申せや、あらの御せだい
○
一 まゐり来てこの御本堂を見申せや、いかな大工は建てたやら
一 建てた御人は御手とから、むかしひたのたくみの立てた寺也
一 小島ではひの木さわらで門立てゝ、是ぞ目出たい白金の門
一 白金の門戸びらおすひらき見申せや、あらの御せだい
一 八つ棟ぢくりにひわだぶきの、上におひたるから松
一 から松のみぎり左に涌くいぢみ、汲めども呑めどもつきひざるもの
一 あさ日さすよう日かゞやく大寺也、さくら色のちごは百人
一 天からおづるちよ硯水、まつて立たれる
一 まゐり来てこの御台所見申せや、め釜を釜に釜は十六
一 十六の釜で御代たく時は、四十八の馬で朝草苅る
一 其馬で朝草にききやう小萱を苅りまぜて、花でかゞやく馬屋なり
一 かゞやく中のかげ駒は、せたいあがれを足がきする
○
一 此庭に歌のぞうじはありと聞く、あしびながらも心はづかし
一 われ〳〵はきによならひしけふあすぶ、そつ事ごめんなり
一 しやうぢ申せや限なし、一礼申して立てや友だつ
一 まゐり来てこの桝を見申せや、四方四角桝形の庭也
一 まゐり来て此宿を見申せや、人のなさげの宿と申
一 参り来て此お町を見申せや、竪町十五里横七里、△△出羽にまよおな友たつ
一 まゐり来てこのけんだん様を見申せや、御町間中にはたを立前
一 まいは立町油町
一 けんだん殿は二かい座敷に昼寝すて、銭を枕に金の手遊
一 参り来てこの御札見申せば、おすがいろぢきあるまじき札
一 高き処は城と申し、ひくき処は城下と申す也
一 まゐり来てこの橋を見申せば、こ金の辻に白金のはし
一 まゐり来てこの御堂見申せや、四方四面くさび一本
一 扇とりすゞ取り、上さ参らばりそうある物
一 こりばすらに小金のたる木に、水のせ懸るぐしになみたち
一 此庭に歌の上ずはありと聞く、歌へながらも心はづかし
一 おんげんべりこおらいべり、山と花ござ是の御庭へさらゝすかれ
一 まぎゑの台に玉のさかすきよりすゑて、是の御庭へ直し置く
一 十七はちやうすひやけ御手にもぢをすやく廻や御庭かゝやく
一 この御酒一つ引受たもるなら、命長くじめうさかよる
一 さかなには鯛もすゞきもござれ共、おどにきこいしからのかるうめ
一 正ぢ申や限なし、一礼申て立や友たつ、京
一 仲だぢ入れよや仲入れろ、仲たづなけれや庭はすんげない〻
一 すかの子は生れておりれや山めぐる、我等も廻る庭めぐる〻
一 これの御庭におい柱の立つときは、ちのみがき若くなるもの〻
一 松島の松をそだてゝ見どすれば、松にからするちたのえせもの〻
一 松島の松にからまるちたの葉も、えんが無れやぶろりふぐれる〻
一 京で九貫のから絵のびよぼ、三よへにさらりたてまはす
一 仲たぢ入れろや仲入れろ、仲立なけれや庭すんげなえ〻
一 鹿の子は生れおりれや山廻る、我らもめぐる庭を廻るな〻
一 女鹿たづねていかんとして白山の御山かすみかゝる〻
一 うるすやな風はかすみを吹き払て、今こそ女鹿あけてたちねる〻
一 何と女鹿はかくれてもひと村すゝきあけてたつねる〻
一 笹のこのはの女鹿子は、何とかくてもおひき出さる
一 女鹿大鹿ふりを見ろ、鹿の心みやこなるもの〻
一 奥のみ山の大鹿はことすはじめておどりでき候〻
一 女鹿とらてあうがれて心ぢくすくをろ鹿かな〻
一 松島の松をそだてゝ見とすれば松にからまるちたのえせもの〻
一 松島の松にからまるちたの葉も、えんがなけれやぞろりふぐれる〻
一 沖のと中の浜す鳥、ゆらりこがれるそろりたつ物〻
一 なげくさを如何御人は御出あつた、出た御人は心ありがたい
一 この代を如何な大工は御指しあた、四つ角て宝遊ばし〻
一 この御酒を如何な御酒だと思し召す、おどに聞いしが〻菊の酒〻
一 此銭を如何な銭たと思し召す、伊勢お八まち銭熊野参の遣ひあまりか〻
一 此紙を如何な紙と思し召す、はりまだんぜかかしま紙か、おりめにそたひ遊はし
一 あふぎのお所いぢくなり、あふぎの御所三内の宮、内てすめるはかなめなり〻、おりめにそたかさなる
底本:「遠野物語・山の人生」岩波文庫 岩波書店
1976(昭和51)年4月16日第1刷発行
2007(平成19)年10月4日第47刷改版発行
2010(平成22)年3月5日第50刷発行
※図版は、「遠野物語増補版」郷土研究社、1935(昭和10)年7月31日発行からとりました。
入力:Nana ohbe
校正:阿部哲也
2012年12月16日作成
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