柳生月影抄
吉川英治
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紺屋の干し場には、もう朝の薄陽が映している。
干瓢のように懸け並べた無数の白い布、花色の布、紅い模様のある布などが、裏町の裏から秋の空に、高々と揺れていた。
「そんな身装で、近所の人目につく。──お駒、もういい、家に這入っておれというに」
又十郎宗冬は、叱るように、後から尾いて来る彼女へいったが、お駒は、
「そこまで」
と、いつもの癖のように、妾宅の露地から小走りに──ゆうべの寝髪のまま──往来の角まで彼を送って出た。
そして又十郎が、振向きもせず急ぐ背へ、
「よござんすか。待っていますよ。──あさってですよ。あさってまた」
と、露地の陰から、二度もいった。
──浅ましい!
又十郎は、ぞっとするほど、その時は厭な気もちに襲われるのだった。あさってまた、この露地の家へ来るのかと思うだけでも、負担であった。
遁れるように足は急いでいる──。まだ露じめりのあるゆうべの笠を、銀杏なりのまま、横顔へ深くすぼめて、
(もう通うまい。父にもすまぬ。──いや世間に対してだって)
独り抉るほど、慚愧をむねに繰返すのであった。
世間は眼まぐるしく活動している。大根河岸の市場はわいわいと旺だ。金、金、金と突ンのめるほど町人たちは首を前へ出して駈け歩いている。登城する騎馬の侍だの、駕籠の列にも意地わるくよく行き会う。
又十郎宗冬は、なるべく裏通り裏通りと選んで歩いた。八重洲河岸の屋敷へ近づくにつれて、難しい父の顔が胸につかえてくる。登城して、もう屋敷にはいない時刻だが、
(留守であってくれればいいが)
と、万一の場合を惧れて、そればかりが祈られる。
二十四歳にもなったが、父の恐さは、幼少と変らなかった。いや、湯女のお駒に家を持たせて、屋敷を空けがちになってからは、よけいにあの眼が、あの眉が、いつも自分を睨めまわしている気がした。あたかも司直と罪人の間のように。
獄を出て獄へ帰るかのような悶えに絡まれながら、彼はやがて八重洲原まで来ていた。もうすぐそこに厳しいわが家の門と白い土塀があった。
「はてな? 何だろう」
又十郎は、ふと足を止めた。
古編笠をかぶった浪人者が一名、埃臭い蝙蝠羽織に、溝染の袷を着、肩をそびやかして傲然と、門前に突っ立っている。──そしてそれを囲んで、門番や家来の者たちが、
「たとえお在でであろうと、御不在であろうと、殿御自身が、風来の訪問者と、お試合になるなどという事は決してない。取次ぐまでもなく、無用な求めだ。帰らっしゃい、帰らっしゃいっ」
と、何か声高に、いい争っているのだった。
「自分は兵法執心の者である。敢えて、勝負ばかりを事としたり、虚名を追ったり、旅銭と称する合力など求めて歩く類の者と、同視されたくないのでいうが──」
と、綾部大機は、柳生の門に立った最初に、まず広言をはらって、
「──音に聞ゆる将軍家流の但馬守どの在宅なれば、一手、衆生のために布教なさると思うて、立合っていただきたい。それがしは北陸の武辺者、綾部大機というて、縁者は佐竹家の物頭役、望みのほか、お目にかかってから、物強いは仕らぬ」
と、重ねて、門番の者へ、来意を述べたのであった。
勿論、門番は取次がない。
「御登城中」
と、断わった。
大機は、然らば待とうという。門番はその無益を諭して、追い返そうと努めた。こういう来訪者は、際限なくあるからである。すると大機は、門番の言葉じりを取って、
「主人の意志を聞いてみぬのに、まるで主人かのような面構えして、追い返そうとは怪しからぬ、是が非でも、但馬どの自身の口から返答を聞きたい。登城とあれば、いずれ夕刻までにはこの門へお帰りがあろう。それまで門前を拝借してお待ちいたしておる」
門番では手に余った。表の侍部屋へ告げて、四、五人に来てもらった。そして今が、押問答に揉めているところだったのである。
そこへ帰って来た又十郎宗冬は、よい機に恵まれたように、門番も家来も、その騒ぎにかかっている隙を、ついと横から門内へ駈けこんだ。
眼ばやく見つけた綾部大機は、
「誰だ、今行ったのは」
と、後ろで怒鳴っていた。
立ち塞がっていた門番や家来たちは、初めて振向いて、
「御三男の宗冬様だ」
思わずいうと、大機は、
「何、今のが、三男の宗冬どのとか。──然らば宗冬どのに会おう。おてまえ方では、埒があかぬ。宗冬どのに一言、言伝てして引揚げてやる」
と、門内へ追おうとした。
「無礼な。どこへ行く」
「おのれ。どうしても、成敗を受けたいのか」
前の者が、大機の胸を衝く。また、左右から利き腕をつかむ。編笠を引きちぎる。──大機はなお、
「何。成敗する? ……よかろう、汝らの手で成敗できるものならいたしてみい。為り損じたら、この檜門が、おてまえ達の血で赤門になるぞ」
と、いいつのって去る気色がなかった。
家をあけて帰った朝は、父のみでなく、召使らに対しても、宗冬は間がわるかった。
──自分の部屋の障子を引くにも、音を偸んでそっと開けた。冷たい机の前に坐る。火鉢には火がない。机や本箱も、冷ややかに主の行跡を白眼視しているかのように僻まれた。
「だれだっ、そこの部屋へ這入ったのは」
中庭を隔てた向うの部屋で、突然、こう怒鳴った者がある。そこの窓は、長男の十兵衛三厳の部屋だった。
「は。──わたくしです」
「わたくしとは?」
「又十郎です」
「又十郎ならよい」
それなり十兵衛の窓は沈黙した。
中庭の坪の芭蕉に、黄色い秋の陽が照り映えている。秋の小さい蝶が、窓の竹をかすめた。又十郎は机に肱をのせて俯向いていたがいつの間にか、お駒の事に囚われていた。──
──あの露地から朝出る時は、もう来まいと思い、途々でも、自責し続けて来たお駒が──ここに落着くともう今でも会いたいように心がみだれてくる。
(そうだ。何も、そう自分の恋を、自分で虐めつけるには当らない。修行は修行でいそしみ、道徳は道徳として当り、恋は恋……。父にだって……ある。……四男の右門義春は現に……わしらとは腹ちがい、父の想い女の子ではないか)
──がらっと、芭蕉の向う側で、窓があいた。
「又十郎、又十郎」
兄の十兵衛の声である。
「は。何ですか」
机から顔を上げて、又十郎は、細目にあいていた窓をいっぱいに開けた。兄の十兵衛は、向うの部屋から顔を見せている。
「今帰ったのか」
「え……え、え」
「門前で、何か喧ましい声がするではないか。何ぞ見かけなかったか」
又十郎は、ほっと胸をなでた。父のかわりに、兄から脂を搾られるのかと、実は、返辞にも気が暢びなかったのである。
で、遽かに、快活になって、
「なあに、お気に止めるには当りません。毎度見える、貧相な武芸者です。柳生を打込めば一躍、柳生に代って、天下無双と法螺でもふこうという野心家の手輩でしょう」
「それにしても、騒ぎが長いじゃないか」
「頑然と、帰らないので、家来どもも持て余しているのです」
「ふむ。……又十郎」
「は」
「おまえ行って、始末してやれ。ちょうどお父上は御登城中だ。父上がいてはできないが、おれがゆるす。それ程、強情に申す者なら望みにまかせて道場へ入れ、一撃に撲りつけてやれ」
「はあ」
「はやく行け。……自信がないのか」
「な、なに。多寡の知れた……」
「幾つぐらいな男?」
「もう四十を五つ六つ越えておりましょう」
「なんだそんな老武者か。はやくして来い。手に余ったら、わしが行ってやる」
そこは北向きで、仄暗くてまた、冷たかった。柱なし何間四面という板壁板床である。わずかに武者窓から映す光が、淡い縞目の明りをそこに落している。
「…………」
「…………」
その光り縞のなかに、二つの木剣が、呼吸し合っていた。
又十郎の呼吸が少し昂い。顔は最初の血潮が褪せて、蒼白になっていた。それに反して、綾部大機の練れた体の構えには、まだ何ら不安な兆しがない。
門前では気づかなかったが、ここで見ると大機の横顔には、耳わきから顎にかけて、大傷の痕があった。世の中はまだ殺伐な遺風を多分に湛えている。大坂陣以後、二十年とは経っていない寛永十年なのである。戦場傷なら二百石や三百石ですぐ売れ口はつく傷だ。いやその傷一つでなく、面だましいといい、総じてどこか重厚で、これは明らかに、又十郎宗冬の敵ではない。
「御曹子」
大機は、声をかけた。
「──止めようか」
「なに」
「せっかく、ここに立っては見たが、もうやるまでもない」
「だまれ。どこに勝敗がついた。まだ、まだ」
「ああ。それすら分らない坊ンち。打つも張合はないが、但馬どのが帰られるまでの暇つなぎに──お見せしようか。勝負を」
又十郎は肚の底でもう一度(な! なにを!)といってみた。自分たち四人兄弟のうちでも、兄の十兵衛三厳をのぞいては、次男の刑部友矩にも、四男の右門義春にも、負けはしない。劣っている自分ではない。
幼い頃──
まだ四歳か五つくらいな時分。故郷の大和柳生の庄の祖父君──門流の人々はそれを、大祖といって崇めている──石舟斎宗厳から、杖をもって、あしらわれあしらわれ、
(この孫の骨は悪くない)
と、よくいわれたという自分である。
その後、十四、五歳の頃には、兄の十兵衛をさえ凌いで、あの片目の兄に、口惜し泣きさせた事だってある。
近頃、多少怠ってはいた。──とはいえ、無名の浪人に敗れるほど、剣を忘れてはいないつもりである。剣の家柳生家の三男だ。敗れては、十年以上も自分を研いて来てくれたこの板の間に対してでも相済まない。
──と思うほど、毛穴が汗ばみ、焦々と、気が逸りかけたが、相手のふところは、洞窟のように、ちょっと測りきれなかった。
(手ごわい!)
と、いつになく硬くなる。相手はじりじり詰めよせる。──又十郎は心のうちで、兄がこの無益な仕合を敢えて自分にさせたのは、意地悪な無言の折檻を自分に加えているのだ──と、ひそかに僻んだ。怨めしくさえ思った。
押して来る敵の圧力で、来るな、という感じがした。とたんに、かんと彼の木剣は敵の刀を受けていた。離さなかった。手は痺れて何の知覚もなくなっていたが、だだだと、ふた足三足、床を踏み鳴らしたまま、えおっと、喚いて撃ち返した。
──不覚であった。
大機はかるく外し、又十郎は殆ど足の裏を相手に見せる程、前へのめって、そのまま板壁まで行くかと見えた。
「坊ンち。見えたか」
大機は笑った。──が、その瞬間に、差し変えた影絵の人形のように、彼の前にはべつな人物が木剣を提げて立っていた。
「……や?」
大機は、身を退いた。
又十郎とは何処も似ていない片目の男である。三十そこそこの年齢らしいが、老成ぶった顔をして──つぶれている左眼の陰影がよけいそう見せるのかも知れないが──どこか哲人じみた風のある男で、背はむしろ又十郎より低いぐらい。色は黒く、骨ぐみはずっと太い。
「──当家の長男十兵衛三厳でござる。舎弟ではちと、お手甘い御様子。というて、父但馬守は、いかなる道理をつけて参られようと、断じて、お手合せはいたさぬ。……で、それがしが代ろうと思う。御不服はないか」
「む。三厳どのか」
「……いざ」
「いや!」
と、大機は、ふいに首を振って、
「其許とは試合わん」
「なぜ」
「元々、御子息たちを、相手に望んで来たのではない」
「柳生流は、治国の剣、見国の兵法を本義といたす。ゆえにお止流でもある。何度いっても同じ事」
「ではなぜ、諸国に流派をゆるし、諸藩に同流の弟子を」
「うるさい」
「なに」
「そのような世話、汝らにはうけん。帰れっ」
「喧嘩を売るか」
「汝れこそ」
「どこに」
「その眼だ。人の生命を狙っているその眼。察するところ、汝は刺客だ。父上のお命を窺いに来たな」
「──げっ」
大機は、木剣を抛った。脇差を抜くなり、十兵衛へ突いて来たのである。だが十兵衛の振り下ろした木剣は、大機の頭蓋骨を砕いて、熟れた柘榴のようにしてしまった。
仆れるせつな大機が、ギャッ──といった声が、しばらく屋の棟から離れないように耳についていた。十兵衛は、突っ立ったまま、片方の目を二つ三つしばだたくように顔をしかめた。大機の脳骨から刎ね飛んだ味噌のような血の粒が、睫毛や顔にかかったからであった。
「又十郎」
と、振向いて、十兵衛はいった。
「死骸は、侍どもに取捨てさせればよい。ただその前に、この男の所持品、わけても書付などないか、其方自身も手伝うて、緻密に調べておく要があるぞ。──何かあったら、後でわしの部屋まで持って来い」
仲秋はもう過ぎたが、夜ごと、月がよかった。ずいぶん開けて来たとは見えても、江戸城の周囲の大部分は、いまだ武蔵野の切れ切れが残っていた。夏は、りんどうや月見草、秋は、撩乱といっていいほど、空地の萩桔梗は露や花を持ち競う。
柳生家の裏も横も、そうした広い空地だった。月の下に、虫が啼く、鶉が啼く。──夜はそこの道をよぎる人影もない。
「おや。誰か往来の者でも、供えたのかな……?」
四人兄弟のうちのいちばん末、四男の柳生右門は、露の中に立って──そこだけ草が剥げて、土饅頭のように少し盛り上がっている地面へ、身を屈めながら呟いた。
石が一つ、置いてある。
その前に、香華が供えてなければ、野原の小さな起伏の一つとしか見えないが、前にも誰か、備前の小徳利に何か供えてあるし、右門も今、香華を持ってそこへ来て跼みこんだのである。
「…………」
朝に夕に──という程ではないが、時折、右門はここへ来て、一片の称名を念じていた。
といって、地下の仏と、右門とは、何の縁故もつながりもあるわけではない。土饅頭の下に眠っているのは、後月のちょうど今日、兄十兵衛の木剣のために、道場でただ一打ちに撃殺された浪人の綾部大機の亡骸だった。
──あの時。
兄の十兵衛は、部屋へもどると、あの手を洗いもせず、茶を啜っていたが、家来たちが、裏門から死骸を担い出すのを見ても、右門は身ぶるいが出て、
(だから、片目がつぶれたりするのだ)
と、兄の殺生を──残忍を平気でいる容子を──忌わしくも憎くも思った。
(いやだ、ああいやだ。どうしてわしは、武芸の家などに生れたのだろう)
簀の子巻にした死骸を、海口へ捨てにでも行くらしい家来たちを追いかけて、大機の亡骸を、彼が強いて、この空地の一隅へ埋葬させたものだった。
だが、彼のほかには、誰あって、そこへ花一枝、水一杯ささげる者はない。
右門は、自分で石を転がして来て、そこの上へ乗せた。野良犬が掘り起したりなどするからである。そして時々、石を訪れた。
「…………」
そこに念誦している右門の姿を、家来達は度々見かけた。右門は、自分のしている事は、兄の罪ほろぼしであり、殺伐な一門の後生の為であると信じていた。
家来がそれを、ある時、十兵衛に告げると、十兵衛は、片眼の落ちた顔に、実におかしそうな皺を湛えて、
(そうか。それは右門には、よい手鞠が見つかったな。あれはちょうど、鬱気な猫みたいに、いつも眸が空虚な男だから──)
と、笑った。その後もひとりで思い出しては笑っていた。
自分だけが妾腹の子という──幼少からの負目が、自然彼をそうさせたのかもしれない。──右門の眸は、十兵衛が嗤うとおり、人に対して、いつも弱々しかった。
体も、丈夫ではない、腺病質の方である。
その点では、次男の刑部友矩と、よく似ている。気性も友矩といちばん合う。だが次男友矩は、家光の寵童となって、柳営の小姓組に上がっている。年に何度という程しか屋敷へは戻って来なかった。
我昔所造諸悪業
皆由無始貪瞋癡
従身語意之所生
一切我今皆懺悔
──右門は今、無縁の石に向って、掌をあわせながら、口の裡で何度も唱えていた。生れつきの仏性というのか、写経していたり、こんな瞑目の境にある間が、いちばん自分の魂が、在るところに在る心地がした。
「……?」
おや、とその瞑目を四辺へ開いて、右門は不審な顔をした。
ぷーんと、酒の香がそこから匂って来るのだった。酔いどれでも近くに倒れているのかと見廻したが、そんな人影もない。
「……あ。これか」
やっと彼は、謎が解けた。石の前に誰が供えておいたか小さな備前徳利の口から霧のように立つ香りにちがいなかった。
──それにしても、誰がこれを?
と疑いながら、右門は徳利の口を嗅いでみた。酒の香はたった今、杉樽から移したように新鮮である。
「はてな? ……」
偶然、彼の眸が向いた草叢から、がさっと、逃げるように人影が起った。背よりも高い尾花の後ろである。
「誰だっ」
恐かったのは、先よりは右門だったのである。思わずそのせいで声が癇高く走った。
「……は、はい」
意外にも、女の返事である。右門は側へ行ってみた。そして再び身慄いに襲われた。なぜならば、﨟やかに化けた女狐のように──草の根に顫いていた女は、野で見るには、余りに美しい。
襟すじの白さ、銀釵のかすかな慄え、帯の光──月の下とはいえ眼に痛いほど沁み入って来る。十九か二十歳。そして良家の子女であることはいうまでもない。
「何をしておられた」
「お見遁し下さいませ」
「捕えようなどとする者ではない。わしは柳生家の四男右門だ」
「存じあげておりまする」
「知っている?」
「はい。いつも、泉下の仏にお優しい御回向を、陰ながら有難いと伏し拝んでおりました」
「あっ。では其女は……ここの土中に葬られている大機という者と……何か有縁のあいだがらだの」
「え。……あの、由縁のある者ではございますが」
「大機は、酒が好きだったのか」
「ほかに楽しみのない人でございました。ちょうど今日が、家を出た命日。そっと生前好きな酒を手向けておりましたところ、あなた様のお越しにうろたえて、こんな所へ身を隠したのでございました」
「さて、よほど親しい間だの。其女の父か」
「いいえ……滅相もない」
「では叔父か」
「そればかりは、どうぞ何もお訊きくださいますな」
俯伏せていた身を起すと、女はふいに、草叢の陰を出て、あっと眼を瞠っている間に、月の露と、虫の音を衝いて、八重洲河岸の濠端の方へ駈け去ってしまった。
十兵衛の部屋、又十郎の部屋、右門の部屋──こう一棟の下にいる兄弟たちの窓は、芭蕉の中庭を隔てて、三方から向い合っている。
だが、塀が高いので、邸のうちからは、裏の空地は見えなかった。
右門は、日が暮れると、書庫の上にある中二階の小部屋へ上がっていた。そこから原が見える。月の夜は、冷たいあの石が、露にぬれて土饅頭の辺りも見える。
そして、
「──今夜は」
と、夜ごと、人待ち顔を、そこに更かしていた。
女は、あれから後も二、三度、石へ詣りに来た。
その都度、右門はすぐ、裏門から空地へ出て行ったが、彼が土饅頭の側まで行くと、もう女の影は、どこにも見えなかった。芒の陰にも、あれからは隠れていなかった。
(名だけでも、なぜ聞いて置かなかったか)
軽い悔いの下に、何か強い執着が首を擡げていた。それはあれ以来冷めない火のように、彼を絶えず焦だたせていた。
中庭の芭蕉に、黄色い灯影が流れた。がらりと、障子を明けて、濡れ縁に人影が立った。十兵衛三厳である。障子の隙間から、兵書や禅書を散らした机が見える。
「こよいもいい月だな。もう後の月か」
独り呟いていた十兵衛は、向う側の窓を見て、
「又十郎、又十郎」
と、呼んでみた。
燈りは灯いているが、返辞はない。十兵衛は舌打ちならして、
「蝙蝠は、また留守か。……しようのない奴」
苦笑して、今度は、
「右門。右門はいるか」
と、末弟を呼んだ。
兄の影を見たので、右門はあわてて中二階を降りていた。
「はい。右門はこれにおりますが」
「廊下か。来るには及ばん。裏の原へ出て、月見をせぬか、月見を」
「よろしゅうございますな」
「昼間、仲間どもが、網を打って、鶉を十羽も捕ったという。芋田楽に、鶉でも焼かせて、一献酌もうではないか」
酒は好きでなかったが、兄の機嫌を損じてはと、
「では、支度させましょう」と、右門は先に、戸外へ出て、若党の佐田承平と、仲間の六助とを呼び立てた。
「昼間捕った鶉があるか。あったら、裏の原へ、莚を敷いて、田楽焜炉に炭火をつぎ、芋や串肉を焼くようにしておけ」
「誰が召上がるんで」
「兄上だ」
「十兵衛様ですか。かなわねえな」
承平と六助は、顔を見合せて、頭をかいた。自分たちの寝酒のさかなにするつもりなのであった。
月の下に、一枚の莚が敷かれた。
十兵衛はやがてそれへ来て、弟の酌で飲み始めた。
「どうだ。おまえも一杯」
「私は……」
「不自由な奴。相変らず飲めんのか」
「すぐ咽せてしまうのです」
「又十郎と半々になるとちょうどよいに。……又十郎といえば、あいつは二刀流だな。わしは眼も一つ、好きも一つだが」
「お戯れを」
「お前と飲んでいると、他人と飲んでいるようだ。酒は魂と魂の接触、お互いの血が交流するところに味のあるものだが……」
血潮の事をいわれると、右門は、さし俯向いて、涙ぐんだ。十兵衛には、彼の感傷にあるような細い神経はないのだが、右門には、種々な悶えや僻みが当然胸を塞いでくるのだった。
「はははは。右門、おまえは酒呑みじゃなかったな。おれの言葉は無理だったかも知れん。──だが、もう少し日常快活に暮せよ。野望を持てよ。剣道が嫌いなら嫌いでいい。何か、政治に心を燃やしてみるとか、禅をやるとか、軍学を究めてみるとか」
「禅門に入ってみたいと思っております」
「よかろう。だが、禅とは、大悟のことだ。おまえみたいな小胆者では、大悟はおろか、迷って見ることもできはせぬ。──まあ、養子の口だな。お父上も心がけておるらしい。いい養子先があったら行く事だ」
十兵衛の無関心な放言は、右門が日常、針を抱くように考えつめていた事ばかりだった。それへざらざらと触るのである。月の莚は彼には、針の筵だった。
右門は江戸で生れたので、家来の話に聞いただけであるが、この長兄の片目になった原因は、七歳か八歳頃の事、柳生城の藪で悪戯をしていて、殺ぎ竹で目を刺したのが因だということであった。その時、泣いて帰って来た十兵衛に、祖父の石舟斎が、
(侍の子が、殺ぎ竹で目を刺されたなどは、恥とこそ思え、泣くどころの沙汰か。わしの孫にも、こんな意気地なしが出来よったか)
叱られて、退くと、幼い十兵衛は、やがて自分の居間で、朱になって昏倒していた。家臣が驚いて抱き起してみると、殺ぎ竹で傷つけた眼を、自分の手で小柄で抉り抜いていたというのである。
──そういう気性を幼少から持っていた長兄である。右門は、一つ棟に住んでいるさえ、絶えず妙な威圧をうけた。同じ恐いにしても、父の但馬守には、愛が感じられるが、この長兄はただ恐ろしいだけだった。
「ああ、酔うたなあ。右門……鼓を取って来ぬか。おぬし、猿楽を舞え。……何、舞えん。然らば、鼓を打て、わしが舞うてみせる」
「兄上。こんな所へ、横におなり遊ばしては、体に毒でござります。莚も夜露に、じっとり湿っておりまする」
「樹下石上は、乞食と武芸者、どちらも馴れておらねばならぬ。……ああ、月天心。この月を見ていると、天下は泰平、風を孕む不平の輩もないようだが……」
酒を取りに行った仲間の六助が、その時、彼方で、何か大きな声を出した。
「あっ。大機を埋けた跡へ、またいつもの綺麗な女が……?」
ふと、耳に止めて、右門はすぐ、
「えっ、女が」
と、莚から起ちかけた。
横に寝転んでいた十兵衛は、弟の袴を掴んで、
「右門。どこへ行く」
──そして彼方に佇んでいる仲間へ、大声で吩咐けた。
「六助。つかまえて来い。この辺りには、女狐がよく出る。逃がすなよ」
六助は、抱えていた酒壺を、草の中において、土饅頭の方へ駈けだした。
女は、すぐ気取った。六助が近づかぬうちに、原を斜めに横ぎって、大名小路の方へ走り込んだ。六助も、途中から向きをかえ、何処までもと、追って行った。
「──坐れ。右門」
「はい」
「おれは知っている。あの大機の墓石へ、足しげく回向に来る女と、おまえは親しくしているな」
十兵衛は、莚の上に坐り直していう。右門の顔は、月より青かった。
「親しく、親しくなどした覚えはありません」
「きっとか」
「ええ。誓って──」
「ならばよいが」
と、十兵衛は、声を落して、いつものような語調に返った。
「女はいずれ、大機の身寄りの者だろう。──ま、それはよいがだ。あの綾部大機とは何者か、そちは心得ておるか」
「詳しいことは存じません」
「佐竹の家中に縁者があるの、北陸の者だのといって来たが、真っ赤な嘘だ、肥後訛りがあるなと、わしは睨んでいた。案の定、死骸を検めてみると、懐中には祖先の系図や、遺書など所持していた」
「遺書を……ですか」
「さればよ、死ぬ気で、柳生家の門へやって来たのだ。お父上の但馬守を主家の仇と呪い、是が非でも、父上に近づいて、刺し交える覚悟で来た漢よ」
「解せぬ事ではございませぬか……。お父上に対して、肥後浪人が主家の仇などとは」
「所謂ない事ではない。父但馬守は、過ぐる寛永七年この方、新たに設けられた幕府の職制、大目付という要職に就かれて、剣道師範役を兼ねてお勤めになっておられる」
「存じております。家光公の御信任あつく、お父上も御辞退しかねて、当時よほどな御決心でおうけなされたとかで……」
「嫌な役だ。誰でも逃げたい憎まれ役なのだ。……なぜといえば、大坂落城以来、徳川家に随身してきた大名のうちには、肚からの随身でないものが幾らもある。また御政治の方針からいっても、大藩の封地は、できる限り、削り取るか、取潰すか、せねばならぬ。その大きな後始末が残っている」
「──で、大目付の役が、新たに設けられたわけですか」
「外様、譜代を問わず、諸侯の内秘や藩政の非点をつかんで、これを糺問に附し、移封、減地、或いは断絶などの──荒療治をやらねばならない当面の悪役が大目付じゃ。お父上でなければできぬ。御上命のあった際、父上は恐らく死を決しておひきうけ召されたに相違ない。──以来芸州の福島正則、肥後の加藤忠広を始め、駿河大納言家にいたるまで、仮借なく剔抉し、藩地を召上げ、正則も配流、忠広も流罪、大納言家も、今、御幽閉させて、上意を待たるるお身の上だ。……そのほか大小名、減地移封の目に遭った者は皆、将軍家を怨むよりは、大目付の辛辣をうらんでおるに相違ない。──綾部大機もその一名なのじゃ」
「……あ。それで」
「わかったか」
「怖ろしいことでございます」
「恐れるには足らん。しかし、もし大機が父上に近づいていたら父上とて、どうなったか分らん。いかに達人でいらっしゃっても、死を極めた奴にはかなわぬからな」
「そうとは知らず、あわれを思うて、死骸を葬ってやったりなどしましたが」
「そこはおまえのいいところだ。白骨になれば、われらみな同魂同性。……だが、あの墓石に近づく身寄りの者とあれば、いわゆる怨みも重んで二重の遺恨をふくむ者と視ねばならぬ」
「…………」
「右門。気をつけろよ」
「……はい」
右門は慄然として、兄の諭誡に、首を垂れた。
と。その時、空地の遠方から、
「若様っ。十兵衛様。……捕まえました。捕まえて参りましたぞ」
と六助の遠い怒鳴り声が聞えて来た。
眼の前に引きすえられた彼女を見て、十兵衛は、意外らしい顔をした。その美貌と、身ごなしの可憐しさに、眼を瞠ったのである。
もう観念したものか、いつぞやの夜とちがって、十兵衛のいろいろな詰問に、お由利は、悪びれずに答えた。
「──決して、父親の身寄りのと、そんな縁故ではございませぬ。大機さまと私とは、あかの他人でございまする。ただ、一つ長屋に住んでいて、私の父が病死する折、お世話になった御恩があるので……柳生さまのお邸で、仕合に行って死んだと聞き、ふだんお酒が好きだった事など思い出し……お屋敷の往き帰りに、花でもあれば上げたり、時にはお酒など上げに来たまででございます」
可憐な小娘の顫き声には、何の邪推も起らなかった。一徹であるだけに、十兵衛は感動しやすい。殊に、自分が酒を嗜むだけに、酒好きな死者に、酒を手向けたという小娘らしい気もちが、ひどく欣しくひびいた。
「家はどこか」
「薬研堀でございます。あの薬師様の裏通りで、糸問屋の持長屋に住んでおりまする」
「お屋敷の往き帰りに──というたが、武家奉公か」
「榊原様のお奥へ、お針子に通っておりますので」
「親は、浪人者か」
「父親はもう……」
「うむ、病んだといったな」
「はい。死ぬ時、なぜか、侍の妻にはなるなと、遺言にいいましたが、わたくしは町人ぎらいで、やはりどうかして、武家の家内になりたいと、叔父、叔母にかくれて、お針部屋に御用のない時は、町の道場へ通うております」
「なぜ其女の父は、侍の妻になるなといって死んだのか」
「御主君の末路やら、自分の末路やら見て、そう考えたのでございましょう」
「さてはやはり、没収大名の家来だったか」
「わたくしは幼くて、よう存じませぬが、福島様の家中の端で、百石とか取っていた侍と聞いておりまする」
「今、身を寄せておる家は」
「叔母の家におります。けれど叔母は、世馴れた人で、これからの世間は、何んでも金を持たねばならぬ。……などといって、わたくしに、三味線を習えの、金持の人に近づけのと。……死ぬほどそれが辛うてなりません。大機さまが生きているうちは、大機さまの家へ逃げこんで、叔母に意見をしてもらいましたが、もうそのお人もないし……」
十兵衛は後悔した。よしない話を深問いして、かえって酒が醒めてしまったからである。彼は、小娘の純情が、可憐しくてならなくなった。
「奉公に出る気があるか。もし屋敷勤めでも望むなら、召使って遣わすほどに、日を改めて、訪ねてくるがよい」
放して帰す前に、十兵衛はそういった。そして途中が淋しいだろうからといって、若党の承平に町の灯の明るい辻まで、送って行ってやれなどとも吩咐けた。
眼には見えない。眼に見える世相は、泰平というしかない。だが何となく、人心のうちに、不安がある。松の内らしい鼓の音や、神楽笛は町を流れていたが、その音のどこかに悲調がこもっていた。
「年暮に迫って、とうとう駿河大納言様も、御切腹を迫られたそうな」
屠蘇の香の中に、そんな囁きが町で交わされている。暴君という世評こそあれ、現将軍とは血をわけている間がらの一門の人──その大納言家すら、幕府の確立というためには、犠牲にされるのかと思うと、庶民はお互いが、大名でなかった事を、むしろ密かに祝福した。
もっとも、町人でも三代目という。徳川が今その三代将軍の世だ。しかも秀忠の死後、家光が将軍職を受けついでから、まだ年月は浅かった。
幕府三代、武家の覇業としたら、もうこの辺でぐらついていい所である。諸国の雄藩も、決して現状に甘んじてはいない。まして、もういちと大乱あらば──と雲をのぞんでいる長刀の武夫は、山野に数かぎりなくあるし、一藩のうちにも、沢山ある。──泰平と見える世情の裏に、ただそれらの人々が時を計って、沈黙を守っているだけに過ぎない平和なのである。
不安は、一般ばかりでなく、幕府自体が抱いていた。いや幕府自身からそれを醸しているくらいなのである。例えば、閣老の土井利勝は、自身、謀首となったような顔して、列藩の諸侯へ、謀叛状を送り、その手応えで、諸侯の肚を打診したという──奇怪なうわささえ巷間に洩れていた。
間もなく、大名の妻子は、国元に置くべからず──という令を発して、その骨肉を江戸へ持った。
また、参覲交代の制度を厳密にした。また、安宅丸その他の巨きな兵船を造らせた。また、武家法度をやかましく宣布した。また──大目付の職制を新たに設け、諸国に無数の隠密を放った。
これでは、大名たちも、神経質にならずにいられない。諸藩の動揺や自粛は、すぐ庶民に反映した。その上、福島、加藤などの大藩の没落、大納言の自滅──。
無数の浪人がそこにできた。禄を離れ、主家を離れ、到る所で、
(乱になれ、乱になれ)
と、反幕的なものを醸し歩いた。
殊に、柳生家の白壁の塀には、
だとか、
剣ヲ穢ス剣家
禄ヲ糞城ニ積ム
だとか。また、
幇間流のお家元
強い敵にはお止流
などと落書したり、
と呪ったり、そのほか辛辣な悪口や呪咀が、消しても消しても、何者かが書きちらして行った。もちろんその筆蹟や辞句から見ても、町人の悪戯でないことは明白だった。
但馬守宗矩は、毎夜、疲れて帰った。
もう彼も六十余歳である。──でなくても今の難局に、大目付を四年も勤めれば、心労だけでも、疲れるほうが当然であった。
松の内は松の内で──それが過ぎるとまた政務で、明るいうちに邸へ帰ったことはない。
「お帰りなさいませ」
「お帰り遊ばしませ」
出迎える家人達の間を通って行くにも、頷くだけで、自然口が重くなる。──黙って、奥の──息子達の部屋よりもう一棟奥の、居間に坐る。
「寒い……。風邪気味かな」
呟いて、一頻り咳込む。
その前に、一碗の柚湯をすすめて、若い小間使が、彼の背へ廻った。
やさしい手が、背を撫でているうちに、咳が鎮まった。
但馬守は、柚湯を取り上げながら、ふと、見馴れぬその小間使に、
「誰じゃ、其女は」
「はい。由利と申しまする」
「新参か」
「去年の十月末、御奉公に上がり、二月の下勤めをいたしまして、このお正月から、奥の御用をさせて戴いております」
「幾歳だな」
「十九になりました」
但馬守はそれなり沈黙していたが、用人の笹尾喜内が、
「若殿たち、書院にお揃いでございます」
と、告げると、そうかと頷いて、更衣部屋にかくれ、老女の世話で、衣服を着かえると、やがて奥書院へ歩いて行った。
十兵衛と右門のふたりが、並んで坐っていた。
「又十郎はいかがいたした」
但馬守は、着座するとすぐ、不機嫌にそれを十兵衛に詰問った。十兵衛は、嘯いて、
「何処へ出ましたやら」
と、答えを外らし、
「御休養の暇もなく、父上にも、御疲労にございましょう」
「天下のお為と思えば、この老骨の死花。疲れは厭わぬ」
「ですが、大目付などと申すお役目は、自体、お父上の人柄にはないものでしょう。それに柳生家は、剣の家です。醜い葛藤や術策や政争の中に、可惜、老後の晩節を台なしに遊ばしてしまわぬよう──十兵衛はそれを祈りまする」
「分っておる。だが、一身を顧みておられぬ場合だ」
「お父上が当らなければ、誰かが出て、難局に当りましょう。優れた剣人は、一世にそう何人も出るものではないが、なあに、大目付ぐらいやる政道家は、箕で掃くほど代りがあります。よい加減に、御退役なされてはどうですか」
「それができるくらいなら」
「なぜできませぬか。お父上こそは、祖父石舟斎宗厳から、新陰の極秘と柳生の正統を、並び授けられて大成なされた──唯一無二の現今の剣宗ではござりませぬか。将軍家に仕える道も、それを以てなされば、それ以上の御奉公はない筈と存じますが」
「いや、そちのいうのは、小乗の剣だ。柳生流はそうでない。わしが十三歳の頃、父の石舟斎宗厳に手を曳かれ、初めて陣中で家康公に拝謁した時、父の石舟斎は家康公の問に答え──柳生流は大乗の剣をもって本旨とするとお答えなされた」
「大乗小乗も臨機でございましょう。諸流百派、剣は皆一道と心得ますが」
「が、柳生流の極意は、無刀だということを、そちももう悟っておろうが。──無刀とは、泰平の体。泰平の策は、治国にある。されば、わが家の兵法は見国の機を悟り、治国の太刀たるところにある。将軍家へもそう御指南申しあげて来た。家康公が、秀忠公の師にと、わが家をお取立てになられたわけも、柳生流のそこに御信任をかけられたからだ。──今、三代家光公の治世となり、天下再び大乱の兆しある時、平常、治国の平常を説き、お上の師範たるわしが、この難局を、よそ事に見ておられようか。──もしわしに今のお役目が勤まらぬ程なら、柳生流の極意は死物となるのだ」
久しぶりに十兵衛は、父の血色に壮者のような紅味を見た。しかし云い終るとすぐ、鬢髪の霜をそそげ立てて烈しく咳き入った。その姿を見るとまた、消え際の灯の一燦のような、悲壮なものに十兵衛は胸打たれた。
……そのまま、しばらく黙り合っていた。
やがて、父の咳声のおさまった容子に、十兵衛は語をかえて、
「時に、何か御用ではございませぬか。右門と私に」
と、ここへ呼ばれた父の用向きを促した。
「うむ、やはり余の儀ではない。御奉公に就いての事だが──」と、但馬守は、口に当てていた懐紙を袂に落しながら、
「又十郎がおらぬが、又十郎は其方から後で伝えてくれい。最前からも申した通り、わが家の流は治国安民を道とする兵法じゃ。この父に協力して、そち達にも、御奉公を手伝うてもらいたいのじゃ」
「手伝えと仰っしゃいますと」
「又十郎も其方も、わしの手足となって、わしが行けという地方へ数年武者修行に出て欲しいのだ」
「つまり……隠密的な命を帯びてですな」
「まあ、そうじゃ」
「行く先は」
「九州一円──わけても肥前、大村、天草、島原の辺り」
「火の手の揚がりようによっては薩摩も危ないものでございますな」
「其方も感じておったか。諸州の浪人や豊臣の残党どもなどが、邪宗門に口を藉りて、土豪土民をあつめておる様子。──長崎奉行あたりの報告では、些細に申しおるが、宗門と武力が結びつくとなれば、これは捨ておけぬ大事となる。どうだ、行ってくれるか」
「十兵衛には、異存ございませぬが、又十郎は、何と申しますやら」
「否とは云わさぬ。そちからも屹度申せ。又十郎の身状、平常黙っておるが、知らぬ父ではないのだぞ」
「母上が御在世ならばと思うのでござります」
「ばかな。又十郎とて、子供ではなし」
「いやかえって、他国へ修行に出れば、彼にはよい転機と相成りましょう。……しかし、参るとなれば、五年七年の遊歴は覚悟いたさねばなりませぬが、その間、お父上の身辺には」
「右門がおる。右門を残しておこう。病弱でもあるし……」
十兵衛は横にいる弟を見た。父の眼も彼に注がれていた。右門は先刻から一言も云わず、ただ俯向いて畏まっていた。
父は、四人の兄弟中で、誰よりもこの右門が不憫でならないらしかった。そして最も好きでもあった。十兵衛のように、又十郎のように、右門は逆らったり心配させたりした事がないからである。
又十郎がうんと云わないので、父の但馬守へする返答は遅れていた。けれど、十兵衛自身は廻国に出る決心をしていたし、又十郎の我儘も、今度は通させないつもりで肚に畳んでいた。
中庭の坪には、芭蕉の葉は落ちたが紅梅が咲いていた。
その中庭へ向いている三つの窓の、それぞれの部屋に、今日はめずらしく、兄弟三人とも、机に倚っていた。
廂越しに、春の雲が麗しい。
又十郎の部屋の窓は、半分ほど開いている。向う側の十兵衛の部屋の窓は、いっぱい開けひろげてあった。
独り閉め籠んでいるのは、四男の右門の部屋だけである。
(──怒っているにちがいない。おとといも、行かずにしまったから)
又十郎は、頬杖ついて、お駒と向い合って痴話でもしているように、お駒の表情や云い草までを、空想していた。
(いっそ、怒らして、仲違いして切れようか。そして兄が云うように五、六年眼をつぶって、廻国修行に出る)
そう考えたが、彼には到底、剣で生涯を立てる気にはなれなかった。柳生家は兄が継ぐ。当然自分は、分家して、他藩の指南番か何かに抱えられて、その大名の国元へ赴任して行く──
(一生が見えている事あつまらねえ!)
又十郎の呟きは、どうしてもそこに落ちるのだった。かなり自由な家庭だし一万石という家の三男に生れ、都会的な遊びや風潮には、兄弟中でもいちばん染まっている彼である。粋で伝法な市井の風俗を好んで、父や兄にいくら喧ましく云われても、袴が嫌いで、着流しで出るといった風な彼だった。
もっとも、今流行っている隆達節にも。──君と寝ようか、五千石取ろか……というあの唄が、武士の中にさかんに謡われている時代だから、又十郎と似た考えでいる者は、彼のほかにも巷にはいくらもあるかも知れなかった。
「おや? ……兄貴が何かやっているぞ」
庭木を隔てて見える向う側の十兵衛の部屋へ、又十郎はふと眼を向けた。そして苦笑を湛えながら、机にのせていた肱を、窓縁へ移して、頬杖をかいながら眺め入っていた。
十兵衛は、いきなりお由利の手をつかんで、そして離さなかった。
茶を運んで来て、彼女が退がろうとした弾みにであった。
「あれ……そんな事を遊ばしてはいけません。……滾れます、お茶が」
「なぜ逃げる」
「逃げはいたしませんけれど」
「ならば、おとなしく、もっと寄って坐れ。話があるのだ」
「……でも。……でも」
「誰に知れても関わぬ。わしは、恋はするが、不義はせぬ。何も人目を憚ることはない。十兵衛はそちが好きだ」
「ま。……そんな」
「顫えておるな。わしがこんな片目の醜男ゆえ、恐いのか」
「いいえ。……そんなわけではございませぬが」
「然らば、返辞を聞かせい。いつぞや、十兵衛が遣わした恋歌、解けたか」
「…………」
「そちは、この十兵衛が、好きか嫌いか。好きならば好き──嫌いならば嫌いと申せ」
「……おゆるし下さいませ。手が痺れて痛うござります」
「離してやる。……だが、正直な返答をせぬうちは、ここは出さぬぞ。まだ、急な事ではないが、十兵衛はやがて諸国遍歴に出て、短くとも、ここ五、六年は帰らぬ身じゃ。そちさえ嫌でなければ、百年の誓いをして立ちたい。また、厭なものならば──ぜひもないが」
障子はいっぱい開いているし、十兵衛の声は大きいのである。紅梅だの連翹だの、庭木はそこを遮ぎっているが、又十郎の部屋からは、手に取るような一間だった。
「……浮世絵だなあ、まるで。……兄貴にも、あんな欣しいとこがあったのか」
又十郎は、にやにやしていた。
──だが。
そう二つの部屋をつないでいる横の長い棟の──先刻から寂と閉めきっている窓障子の一室には、四男の右門が咳声もしていなかった。
「…………」
右門は指の細い手を左右の顳顬に当てて、朱机に俯向いていた。朱い漆の上に、涙が落ちていた。
窓の外から聞えて来る兄の声を、聞くまいとして先刻から書を繙いたり、香盆を拭いて香炉に火を点じてみたりしていたが、十兵衛の声が耳に聞えている時よりも、聞えていない間の方が、堪らない不安と焦躁に駆られてしまう。
きょうばかりではない。
長兄がお由利に対して、想いを示すことは、余りに露骨だった。どうかすると、この自分がいる前でも、びっくりするような事を突然云う。
(お由利は自分の気もちを知っていよう)
右門はそう思って、彼女が、努めて長兄の側に寄るまいとし、長兄を嫌っている風さえあるのを、やや心の慰めとしていた。
けれど右門には、長兄の心が分ってみると、その長兄と恋を争う気にはとてもなれなかった。そういう恋の敵手がないにしたところで、彼には、彼女へ、面と対って、
(恋──)
という一語さえ言葉の中に用いることができないくらいだった。
──今になって考えてみると、右門は自分の愚がわかる。お由利が屋敷に抱えられて来た当時、無性な欣びにその半月ほどは、まるで子供が欲しい小鳥でも買ってもらったように、彼女と同じ軒下にある身を、独り密かに祝福していたものだった。
長兄がお由利にやった恋歌も読んでいる。お由利がそれを丸めて捨てたのをちらと見て、後から拾い取って見たのである。──狗のような、と彼は自分の浅ましい行為にも泣いた。
思えば、自分が生れてから初めての幸福は、彼女が屋敷へ来てからの十五日間に尽きていたかも知れない。それが生涯のただ一つの記憶として残るだけの事であろう。
「……あっ?」
長兄の部屋の方で、何かやや大きな声と、物音がした。右門は思わず、閉まっている窓の障子へ縋って、そこを開けようとしたが、
「……いや?」
と、それすら勇気を欠いて、独り苦しんでいる彼であった。
ばたばたと、誰か廊下を小走りに来る。お由利か? ──と右門は青白くなって耳をすました。すると、襖の外で、
「又十郎様、右門様。御次男の刑部友矩様が、お越しにござりまする」
爺やの声である。爺やとは老用人の笹尾喜内で、兄弟たちには、少しも恐いところのない好人物なのである。
「お。……御城内の兄上が見えたとか」
右門はすぐ立った。──が、指で瞼の腫れを抑え、衣紋を直してから迎えに出て行った。彼には、兄弟中で誰よりも親しめて、そして一番気のあう刑部友矩であった。
「爺、いつも達者だのう」
若党や小僧や、大勢の召使が式台に出迎えたが、頭の高い刑部友矩は、目もくれなかった。
ただ用人の喜内老人だけには、そう言葉をかけた。幼少の頃の友矩には、癲癇のような持病があって、この老人には、そんな世話をやかせた事だの、寝小便の癖までを、知り抜かれているからである。
だが、今は家光将軍の寵童であり、小姓組では羽振りがよいし、服装は綺羅で、容姿は端麗な彼だった。奥女中のように柳営にばかりいて、絶えず将軍家の身近くいるところから、大名たちにも頭構えの高い癖がついているので、稀〻、宿下がりかお使いで城外へ出ると、やたらに人間どもが賤しく見えてならなかった。
「お、兄上、おめずらしゅう」
と、後れて出た右門が、廊下の途中で迎えると、
「ウム、皆もおるか」
と、友矩はそのまま客書院へ通って、ずっと上座へ坐った。
「きょうは、御内意によって、他へお使いのついでに寄ったのじゃ。来月、浜書院で上様のお船遊びが催される。その折、兄弟どもも皆、誘えという御詫じゃ。──但馬守に伝えても遠慮するであろうゆえ、そちから申せと、わけても有難い仰せなのだ。──又十郎はおるか」
「おります」
「兄上十兵衛どのは」
「おられます」
「右の由を伝える程に、これへ呼んで貰いたいな」
家庭に帰って来ても、友矩は柳営の官僚くさいのが抜けなかった。右門には、そんな臭味は気にならない。唯々として呼びに行った。又十郎はすぐそこへやって来たが、長兄の十兵衛は、
「用事があるならわしの部屋へ来い」
という返辞であった。
「それは当然だ。怒らせさえしなければ、気のいい兄貴。ちょっと挨拶して来た方がよいでしょう」
又十郎は側から勧めた。友矩は、上様の内意だとか、何とか、理窟を云っていたが、結局、帰りがけに十兵衛の部屋へ出向いて、しかつめらしく、前と同じ意味のことを繰返して告げた。
十兵衛もまた、友矩に応じて、角張りながら、
「御内意、辱うござる。だが、多分それがしは欠席申すやもしれぬ。その折には、君前よしなにお取り繕いねがいたい」
友矩は、狼狽して、
「いやそれは困るな。父上に仰せられず、わざわざてまえに立寄って、告げておけという将軍家のお心づかいに対しても。……ま、そんな事を云わずに、どうか当日は、打揃ってお越し下さい。兄上が来なければ、弟たちも、参り難いではございませぬか」
初めて自分から砕けて、今度は宥めるように云った。十兵衛は、恩にでも着せるような彼の口吻が気に入らなかったが、友矩が態度を改めると、機嫌を直して、
「いや、行かない事はない。行けたら行く」
と、云った。
汐留川の地先に新造船の安宅丸が、花嫁のように幔幕や幟に飾られて繋いである。
家光は、春の海を四望にして、宴を張った。
寔に泰平の盛事である。やがて群臣の小舟をつらねて、浜御殿へ休憩に上がり、数寄屋で茶をのむ。茶事が終ってまた、広芝の浜座敷に寛いだ。
旗本の子弟がたくさん陪席に招かれて来ていた。親どもは、こういう機にわが子を将軍の謁に進めておくことは、一生の栄達の緒になると考え、武技の上覧を、側衆まで伺い出た。
「一興だ。見よう」
と、上意である。
家光は、広芝に床几を置かせて、数番の試合を見た。そして果てはやや飽き気味な面持ちだったが、
「但馬。──今日は其方の子息ともも見えておる筈じゃが。どれにいる」
扈従の中にいる但馬守に訊ねた。
すると、その父が答えぬまえに、
「あれに控えておるのが、舎弟の又十郎にござります」
と、小姓組の刑部友矩が、家光の眸を導いた。家光は大勢の若者の中から、鶏群の一鶴をすぐ見出したらしく、
「又十郎に起たせい。誰ぞ、腕に覚えの者は、又十郎に対え」
と、云った。
又十郎は、上意をうけて、支度して出た。そして選ばれた敵手を四人まで打ち伏せた。
「さすがは柳生どのの三男」
と、動揺めきの中に囁きが流れた。家光も、興につつまれて、初めて満足そうな気色に見えた。そしてなおも、
「誰か、又十郎を破るほどの者はないか」
と、見まわした。
側近にいる刑部友矩は、家光の歓心を買って、自分の面目のように、
「舎弟を破るものは、恐らく今日のお供中にはおりますまい。けれど、長兄十兵衛の技に較べれば、まだまだ又十郎などは、乳臭児といってよいくらい、段ちがいにござります」
と、云った。
家光は、友矩のことばに、興を唆られて、十兵衛を呼べ、とすぐに云い出した。だが、陪観者の中には十兵衛の姿が見えなかった。近習たちは、
「たしか見えた筈だが」
と、彼の姿を急に探し廻った。
広芝から少し下がった浜辺で、十兵衛は、上覧試合もよそに、弁当を開けて、独りで酒をのんでいた。
「お召です」
「十兵衛どの、お召でござるぞ」
姿を見て、駈けて来た近習たちが、こう急き立てると、十兵衛はもうだいぶ酔のまわった顔を振向けて、
「何の御用か」
と、腰を上げようともしなかった。
「御舎弟又十郎殿と、試合えという上意でござる。すぐお支度あって、あれへお越しください」
近習のことばを聞くと、十兵衛は首を振って、浜辺の草へ、ごろりと横になってしまった。
「どうなされた? ……将軍家がお待ちでござる。十兵衛どの、すぐという仰せですぞ」
十兵衛は答えずに、眠った振りを装っていたが、執こく揺り起されて、
「御前へ悪しからず、お断りねがいたい。かねて祖父石舟斎からも師父但馬守からも、柳生流は治国の兵法と教えられておりまする。十兵衛が太刀も、遊山のお座興に供するわけには相成りませぬ。又十郎ごときはせいぜいお慰みには手頃な芸を持っておりますゆえ、彼を稽古台に、余人へ勝負を仰せつけねがいたい」
云い終るとまた、横になって、微酔の懶げな眼を、春風に嬲らせて閉じてしまった。
「…………」
近習たちは、呆然として、佇んでいた。その態は、将軍たちの方から見えた。わけて家光は床几に掛けているので、よく見えるらしく、此方へ面を向けていた。
近習はやむなく、駈け戻ってありのまま、十兵衛の返辞を、家光に復命した。
側衆、諸侯、旗本たちの周りの者は色を失った。これは切腹にも当る不敬だと思ったからである。家光は、苦杯を嘗めたように唇を歪め、不快な色に漲った底から、今にも何か、峻烈な言葉が吐き出されそうに見えた。
「不届きなっ。──私が参って、召連れて参ります!」
昂ぶった声して、小姓組の中から刑部友矩が起ちかけた。すると、
「刑部待て。かえって、御無礼に当ろうぞ。あのような乱酔者を御前へ曳いては──」
と、あわてて押し止めた者がある。兄弟たちの父、但馬守であった。
平蜘蛛になって、但馬守は、家光の床几の横に、手をつかえていた。家光はじろと、眼をやって、
「但馬。あの片目は、酔うておるのか」
と、苦々しく云った。
「はい。ちと酒を飲べ過ごすと、前後の弁えなく、心にもない大言を吐き、手におえぬ乱酔者にござります。ぶしつけな申し条、きっと、父として後刻、懲らしめまするゆえ、平にお宥し置き下さりますよう」
家光は、許すとも許さぬともいわず、しばらく黙然としていたが、但馬守の老いの白髪を見ると、不愍を感じたのであろう、
「目触りじゃ。誰ぞ、あの片目を、見えぬ所へ追い立てい」
と云って、床几を向きかえ、
「そうだ、試合を続けい。十兵衛に代って、又十郎に立ち対う者はないか」
但馬守は、ほっとしたように、顔を上げた。同時に、静かに立って、
「酔いどれの十兵衛に代り、てまえが又十郎の相手いたしまする。久しく木剣も取りませぬゆえ、試合の程、心許ない心地もいたしますなれど、不興の償いともならば──」
人々は、彼の落着いた身支度と、枯淡な人がらに固唾をのんで見惚れた。また、子を庇う親心と、君に仕える身の辛さを思いやって、惻隠の情に打たれた。
「又十郎、よいか」
と、但馬守は、木剣を把って、広芝の中ほどに出ていた。
試合である以上、父子の間でも、微塵の仮借もあろうわけはない。
平常の父は恐い。だが、木剣を持てば、又十郎の心境も自ら違う。
(おれは若い)
遺憾ながら、父の老骨に、一撃を加えることになるだろう。当然、彼はそう自負している。
(もう親父も老いたな。こんど手合せしたら、おまえの方が、三本に二本は取るだろう)
兄の十兵衛が、いつか云った事がある。それからでも、数年間は経っている。その上、父は木剣を取る日は殆どなく、大目付という役に忙殺されて来た。日常、頭のつかい方も、剣人ではなくなって官僚になっている。痛ましいが、勝負になるまい。
「…………」
又十郎は若い柔軟な四肢をすっくと伸ばした。父の木剣も正眼である。相構えになって父を見る。
木剣は見えて、父の姿は見えない心地がした。霞という体を取ったなと悟る。一呼吸、二呼吸、父の息がひびいてくる。悲しいかな御老体だ。又十郎は打ち込もうとした。とたんに、それを知ったように、父の体が波間の月みたいに揺らっ──と上がった。
──来る!
と感じたせつな、ぱんと又十郎の木剣が鳴った。動作は意識でなく霊だった。どう闘ったか覚えないのである。だがその瞬間、又十郎は木剣を地へ叩き落されていた。さっと、手を伸ばして拾いかけた時、もう一撃、肩を打たれて、
「参りました!」
思わず云って、地へ坐っていた。
残念でならなかった。又十郎は肩で喘ぎながら、敗れた木剣を把って、
「短かった。この木剣が、もう三寸程も長かったら、お父上には負けないものを」
と、未練そうに呟いた。
その負け惜しみの口悔しそうな態が、真実味を漂わせて、見ている家光や周りの者にはおもしろかった。人々の面にかるい苦笑がながれた。
するとふいに、但馬守が、
「だまれっ」と、辺りの耳を奪うような大喝で叱った。面に、朱をそそいで立腹したのである。
「今の一言は、柳生の家系の者にはない事だ。未練な愚痴。無知な嘆声。聞き苦しいたわ言である。そのような心根ゆえに、この老人の太刀にすら一堪りもなく打ち据えられるのじゃ。今日という今日、わしも初めて知った。平常人々から、但馬どのは子に甘い、子に眼がないと嗤われていたことの真実を」
──怒り顫いていうのである。はっと又十郎は地へ手をついてしまった。生れて初めて見た父の形相に彼も慄えた。
恐い父としていた平常の父の姿は、実は甘えているからの恐さであった。今の父の面には微塵もそんな弛みはない。寸分の情も隙も見せない。
「おのれ如き性根の者が、柳生家の子よ、柳生流のつかい手よと、世に思われては、わが家の流を誤るのみか、流祖の御恥辱と申さねばならぬ。それもこれも、上様より戴く高禄に安んじ、子に愚かなるこの父の許にいて、修行の精進を心に失うておる証拠でのうて何であろう。今日限り、そのような人間は、子でない父でない。勘当申しつけた。──上様のおん前にて、屹度、義絶申し渡したぞ。口惜しくば、その性根のたたき直るまで、修行いたして参れ。──ええ、見るも忌わしい奴」
云いながら、但馬守の手にある木剣は、丁々と、又十郎の五体を何度も打ち続けていた。
「酷い……余りな一徹」
将軍家は眉をひそめて、側にいる友矩へ止めろと命じた。友矩が出てゆくと、他の人々もむらがり寄って、なお怒り歇まない但馬守と、声もなく地に俯っ伏している又十郎の間とを、ようやく分け隔て連れて行った。
四男の右門は、今日の浜御成のお招きを、病気といって行かなかった。兄達のいない留守の間のほうが、前々から、むしろ遥かに楽しかった。
だが、楽しい半日も、もう暮れかかっていた。きっと、話しに来るだろうと待っていたお由利は、顔も見せないのである。茶を吩咐けると、他の小間使や小僧ばかり顔を出した。
「どうしたのか?」
彼はとうとう部屋を出た。それとなく邸の間ごとを覗いたが、彼女はどこに働いているのか分らなかった。召使に糺せばすぐ知れるものを、そんな勇気は出せないのである。
──何気なく、父の居間を覗いた。そこへ行くには、錠口があって、父の留守中は、用人でも入れないのに、誰か、微かな物音と、人の気配が中でする。
「……あっ?」
仄暗い杉戸の縁から、彼は眼を瞠ると、部屋の中にいた人影も、ぎょっとしたように振向いた。──白い顔、すずやかで大きな眸。由利なのである。
「由利じゃないか。……こんな所に、何をして?」
右門がいううちにお由利の顔は、一瞬の驚きから、常の微笑みに返っていた。
「……お掃除をしておりましたの」
「掃除を」
「はい。殿様から、今朝お立ちがけに、お机のまわりを、きれいにしておけと、吩咐けられておりましたので……お硯を洗ったり、お机の塵を払ったりして」
「ああそうか。誰も手をつけさせない御書斎だが、そなただけは、格別、お父上も信用していらっしゃるものとみえる。……もう済んだのか」
「ええ、もうすぐに片づきまする」
「何じゃ、白い粉が、畳にも、そちの膝にもこぼれているが」
「殿様のお咳の薬を、御書を取りのける弾みに、つい滾してしもうて」
「あ、持薬のおくすりか。……由利、ちと話があるが、ここで聞いてくれるか」
「いけません。朋輩たちが、この頃は、とかくわたしを、嫉みの目で視ております。晩に……」
「晩に……」
「え。そっと、空地の塚の所で」
「あの石のところでか。……じゃあ、八刻が鳴ったら行っているぞ」
右門は、約束すると、一刻もそこにいては悪いように、あわてて錠口の外へ出て行った。
畳の目のあいだに沈んだ白い粉を注意ぶかく拭き取ってから、お由利は、懐中へ忍ばせた幾通かの書類を抱いて、その後から、静かに出て来て、錠口の後をピチと閉めた。
十兵衛も帰らない。又十郎も戻って来ない。ただ一人、暗然と但馬守だけが帰邸した。それももう網雪洞に廊下の暗い頃であった。
浜御成の出先で、憂うべき事件のあったことは、留守居の家臣たちはもう知っていた。だが、但馬守の悄然とした姿を仰ぐと、誰も胸がつまって、一語も云えなかったのである。
用人の笹尾喜内老人が、やがて但馬守の室へ這入って、しばらく、密やかに話しこんでいた。喜内の嗚咽が洩れた。老人は涙の顔を、懐紙につつんで退がって来た。
「案じ召さるな。どうなろうと、御父子の血は濃い。深い思し召のあることじゃ」
侍部屋へ来て、喜内老人はいった。そして何を問われても、後は黙りこんでいた。
八刻の木が鳴った。
邸内の灯りが減ってゆく──待ちかねていたように、右門は戸外へ忍び出した。兄達が帰らない原因は薄々耳にした。けれど、このままとは思われなかった。またすぐ帰るものと信じていた。土饅頭のまわりには、若草が萌えて、もう古い塚みたいになっていた。
「どうしたろう?」
右門は、石のまわりを、繞り歩いた。そしてふと、地下の白骨を思い泛かべた。綾部大機の死骸が、ぞっと記憶の底から呼び出された。
「ああもうじきに……半歳になる」
「はて?」
但馬守は、持薬の咳の粉ぐすりを口に含んだが、そのまま、嚥み下さずに、じっと顔を上げたなり、舌先に溶ける薬の味をさぐっていた。
「……どう遊ばしましたか」
側に、手をつかえていた老女が、不審顔して、彼の容子を見上げながら訊ねた。
但馬守は、片手に、水の茶碗を持ったまま、突然立って、
「外を開けい」
と、廊下へ立った。
そして口にふくんでいた薬を、水と共に、がぼっ──と闇へ吐き出した。
「たか女」
と、老女の名を呼んだ。
「はい」
「この薬、いずれから持って来た」
「いつもの、お手筥の薬嚢から一錠取って参りました」
「書斎の本箱の上のか」
「左様でござりまする」
「手燭をつけてくれい」
但馬守は、そこから二間ほど先の一室へ這入って行った。──そして一見、何の変りもなく見える部屋の隅々までを見廻していたがふと膝を折って、指の先で軽く畳を弾いてみた。
畳の目から、微かな、白い粉が浮いて出た。彼は、思うところと符節の合ったようにうなずいた。
二つ目の本箱を開けた。細かい棚に、絵図や書類が整理されてある。大目付に就役以来の物ばかりが入れてあるので、あるべきはずの書類の何通かが失くなっていた事も、一目ですぐ気がついた。
「喜内を呼べ。──躁がずに、静かに」
老女は、でも、色を変えて走らずにいられなかった。喜内はすぐ飛んで来た。
「殿。──何事が起りましたのでございましょうか」
「大した事ではない。はやくそちにいうておけばよかったが、公務のみ一念に、家の些事はと、顧みもせず、打捨てておいたのがわしの落度。──由利という新参の小間使、もうおるまいが」
「いえ。おると思いますが」
「いや、おるまい。──じゃが念の為、何か他に異変はないか。邸の内、一応、静かに検めてみい」
橋袂の堤芽柳の糸が、ゆるい流れに届くほど垂れている。
柳の上に、月があった。水の瀬には、月影が落ちていた。春だが冴えた晩である。それだけに、物の陰は闇が濃かった。
恋と死神に憑かれたように、右門はここまでふらふらと来てしまった。「白魚ばし」と橋杭の文字を見た時、はっとした。
「由利、どこで……どこで死ぬのか」
「おやしきの追手が、気がかりでございます。もし捕まったら、あなた様もわたくしも……」
「恥だ。生きているよりも──」
「大川までは、逃げきれませぬ。いっそここで」
「深いだろうか」
ふたりは、水を覗いた。お由利はだまって、帯の間から、ふた包みの薬を出して、右門へその一つを分けた。
「……毒?」
右門の手はふるえた。お由利はにっと笑って、もう包を開いていた。そして、あっと思ううちに、嚥みくだしていた。
「さ。……右門様、御一緒に」
思慮にただしてみる遑もなく、右門もあわてて毒を嚥んだ。ふたりは抱き合って、橋袂の崖のふちに立った。
「あっ、待て」
「右門ではないかっ」
誰なのか、後ろから迅い跫音なのだった。その声に、かえって、右門は突きのめされたように、ざぶん──と河面の月影を砕いて自分を投げ入れてしまった。
刹那──お由利は、片手を柳の枝につかまって、岸の上に身を残していた。そして飛沫と一緒に、ばたばたと逃げ走った。
旅拵えの武士が二人、一足おくれに駈けつけて来た。十兵衛と又十郎の兄弟であった。
「右門は、わしが救い上げる。又十郎、お由利を追え、お由利を」
十兵衛は、橋の下流に繋いであった小舟へ跳んだ。救い上げはしたものの、右門は水を嚥んでいた。しかし、かえってそれが僥倖であった。舟べりで兄の十兵衛に背を叩かれて、右門は、夥しい水と共に、毒もきれいに吐いてしまった。
「兄上、捕まえて来ました」
岸の上で、又十郎がいう。お由利はその手に捕われていた。
「橋の欄へ縛っておけ」
濡れ鼠の右門を抱えて、十兵衛は小舟から上がって来た。──右門はまだ生きている自分を見出したよりも、水にも濡れていないお由利の姿を見て、世にあるまじき不思議のように、あっと、顫いてさけんだ。
「舎弟。これ右門……。恥入る事はない。おまえは、四人の中では純情なのだ。同時に、人が好すぎるから、かねがね危ないと思ったゆえ、この十兵衛がその美しい魔ものをそちの手から奪い、わざと自分の側へ側へと寄せつけておいたのに。……とうとう死の淵へ引きずり込まれたな。危ないところだった。もう一足遅かったら」
と、又十郎を顧みて、
「どうじゃ。わしの意見は、嘘ではなかったろう。お駒はこれの姉なのだ」
「分りました。迷夢がさめてみれば、お駒の日頃にも、思い当るふしばかりでございます」
又十郎も、慚愧に堪えぬように俯向いて実兄の前にひざまずいた。
──今日、浜御殿の広場で、父に打擲された上、勘当とまで、極端な叱りをうけた又十郎は、お駒の家で、自暴自棄な酒をあおっていた。
そこへ、すぐ後から十兵衛が追って来た。
(馬鹿──)と、実兄は罵った。(きょうの御打擲は、慈父の太刀だ。あの大愛の木剣がわからないのか)
と、涙をながしていった。
そして、側に酌をしていた湯女上がりのお駒へ向い、
(おまえは、又十郎を擒人にしたが、同時に、又十郎を情人にもしたので殺しかねたのであろう。妹のお由利は、おまえに較べれば、まだずんとしっかり者だが、柳生の家へ仇しようなどというのは身の程を知らな過ぎる。無用な敵対は思い止まって、姉妹尼にでもなって亡き家来の回向でもしてやったがよい)
と、鋭い眼の裡にも、優しみをこめて、懇々と諭した。
又十郎は、兄のことばが、初めは解せなかったが、だんだんと説き明かされて、悪夢のさめたように覚った。
お駒とお由利は、由緒ある大家の息女だった。ここ数年間に、取潰された犠牲大名のうちの一家、加藤忠広の家老加藤淡路守の遺子で──先に死んだ綾部大機は、忠義無類なその家来であった。
姉妹と大機は、主家の没落後、江戸へ流れて来て、大目付柳生家を、ふかく怨みに思っているところから、その報復を、永いあいだ心がけていたものだった。
そしてお駒は、湯女奉公しているうちに、又十郎から柳生家の内状をそれとなく探り、大機──お由利──と順々に手段をかえて、但馬守の生命から、十兵衛、又十郎、右門、とすべての者の血脈を断って怨みを雪ごうと企てたものである。
(わしは、ほぼ察していた。だが、この姉妹や大機のうしろには、もっと無数の天下の敵が潜んでおる。その糸の繋がりを見るまではと知らぬ顔してながめていたのだ。おそらくお父上もはやお悟りと思う。──又十郎、もう湯女修行は切上げて、ここらで父上の大愛に、お酬いせねばなるまいが。いやそちばかりの事ではない。わしも自分の父が石とならぬ間に──)又十郎が心から悔いて、家兄の前に慚愧の手をつかえ、修行を誓っているあいだに、いつの間にか、座から姿を消したお駒は、裏の水屋の板の間で、以前の由緒も偲ばれる懐剣で、見事に、自害して果てていた。
──兄弟は、そこからすぐ旅支度して、八重洲河岸の邸の外まで立ち廻った。塀の外からよそながら父但馬守に別れをつげたのである。去ろうとすると、喜内が追いかけて来て、たった今、云々の騒ぎと──右門とお由利の姿が見えない事を告げた。
(しまった。さては)
後を追って、探し歩いた兄達の懸命が届いて、たった一歩のところで、右門の生命は拾われたのであった。
月は、水に澄んでいた。柳の糸や、流れは風邪に騒いでも、月はいつか澄んでいた。
「右門、はやく帰れ。……身を大事にせい。お父上を守ってくれる者、そちだけを、頼みにして行くぞ」
十兵衛も云った。又十郎も繰返した。
「五年で帰るか、十年で戻るか、行く手も知れぬ世の中の峰をさして、わしらは修行に赴く。父上への孝道は、これ一筋と、思い極めて赴くのだ。頼むぞ、後は」
「はい……。おさらばです」
右門は、別れかけたが、ふと、
「兄上、この女」
と、橋の欄に縛られているお由利を、彼はまだ痛々しげに、眼から捨てきれない容子で訊いた。
「触るな。棘のある花だ。そうしておけ」
十兵衛が云うと、お由利は、きっと眸をつよめて、その顔を見返した。彼女の嚥んだのは、毒ではなかったのかと右門はやっとその時覚った。
「若様、若様たち」
喜内老人であろう、二階笠の紋じるしの提灯を振って、河堤から、橋を越えて去りゆく兄弟へ、涙声をふりしぼった。
天草の乱、島原の変は、その翌々年、天下を一時、暗澹と脅かした。兵火は歇んだが、十兵衛は四年、又十郎も約九年間は帰らなかったという。右門は、その後、父但馬守の位牌を捧げて、国元の大和柳生の庄へ引籠った。芳徳寺の第一世烈堂和尚は彼である。また、春秋十数年の後──但馬守の跡をついで将軍師範であった十兵衛三厳は、ある年、郷里の柳生にあって、野外に放鷹中、忽然と、急病で死んだ。
慶安三年の三月。寿、わずか四十四。ある者は、草間がくれの鉄砲で撃たれたといい、ある者は、毒水にあたって死んだといい、異説まちまちであるが、もしこの頃まで、お由利が生存していたとすれば、またそこに、べつな想像をしてみる余地もある。
江戸柳生三代の人は、いうまでもなく又十郎──飛騨守宗冬である。決して、若くして資性英武ではなかったが、晩成一道を究めて、長寿長く、渾然と大成を遂げた。
底本:「柳生月影抄 名作短編集(二)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1990(平成2)年9月11日第1刷発行
2007(平成19)年4月20日第12刷発行
初出:「週刊朝日 新春特別号」
1939(昭和14)年
入力:門田裕志
校正:川山隆
2013年1月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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