旗岡巡査
吉川英治
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河が吼えるように河の底から、船頭の大きな声が、
「──船止めだとようっ」
「六刻かぎりで、川筋も陸も往来止めだぞうっ」
船から船へ、呶鳴り交わしてから触れ合っていた。
下総の松戸の宿場。
雪はやっと、降りやんではいたが──
きのうからの大雪は、この地方にまでわたっていた。三月の桃の節句だ。雲雀は死んだように黙ってしまい、菜の花も青い麦も雪の下だった。万延元年のこの日は、江戸表だけの天変地異ではなかったのである。
醤油船の権十は、
「お松、何をいつまで、愚図愚図してるだ。まだ燃え付かねえのか」
煙に顔を顰めながら、岸へ繋綱を取っていた。
権十の娘は、まだ十五、六の小娘だった。
「だって、父っさま、薪が濡れているで、いくら燃やしても、燃えやしねえだもの」
煤りかけている七輪へ顔を寄せて、眼を紅く爛らせながら艫の方からいう。
すると隣の干鰯船から、仲間の八が、苫を剥くって、
「──権十、飯の支度か」と顔を出した。
「そうよ、これからだ。嬶あに死なれてからというもの、お松の奴アまだからっきし子供だしよ、美味え飯なんぞ喰ったこたあねえ」
「そういっちゃあ、お松ッ子が可哀そうだぜ、十五にしちゃよく働く方だ。なア、お松ちゃん」
八は、着物をかえていた。そして岸へ上がって行きながら、
「おらあ、町へ行って、一ぺい飲るつもりだが、どうだい権十、つきあわねえか」と、誘った。
「さあ? ……」
権十は、生返辞だった。父娘が二人きりの船世帯なので、十五の小娘を一人残して行くには忍びないらしいのである。
八は、陸から、
「なあ、お松ッ子。帰りにゃ簪を買って来てやらあ。いい子だから、お飯が炊けたら、一人で喰べて、先に寝ていな、いいだろ」
「ああいいよ」
お松は、岸を仰いで笑った。船頭の娘なので、河っ童のように髪の毛は赤いし、色は黒いが、眼元がぱっちりしていて、研けば今に、潮来でお職が張れるなどとよく揶揄われたりするほど、どことなくそんな素質の小娘だった。
この地方ばかりでなく、諸国とも、今日から一切「鳴物停止」のお布令だった。
七軒町の遊廓も、雪明りの中に、しいんと軒を並べて戸を閉めていた。野良犬の影が、今夜は妙に目立って見える。勿論、張店はしていないし、燈火の洩れるのさえ遠慮がちに、ペンという音さえ洩れて来ないのである。
「よせよ」
「いいったら」
「おめえはいいだろうが、おらあお松坊が、淋しがっているから」
「何いッてやんで。女房に死にわかれて、てめえだって、満更、淋しくねえこともあるめえが」
「だって」
「まア、来いったら」
何処かで、ベロベロに酔っぱらって来た八と権十だった。犬ころのように、首と首とを絡み合ってよろけて来る。そして、細目に開けた大戸の隙から手招きしている鼠鳴きに呼び込まれ、そのままふらふらと登楼ってしまった。
──それから、部屋へわかれて、権十もつい深く眠ってしまったらしい。
「……おやっ?」
と、何かの物音で、彼は眼を覚ましたのである。蒲団の中から首を擡げ、急に、お松のことでも思い出したのか、慌てて着物を着かえかけると、
「……叱っ」
と、彼の敵娼がいった。その敵娼の女は、襖に耳をつけて、奥でする高声へじっと、息をこらしていたが、
「ア。お陣屋の衆だ」
と呟いて、闇の中にわなないていた。
「不埒な奴だ」
表梯子の上に突っ立って、三名の役人は呶鳴っていた。
陣屋の同心達であろう。しかし、いつものようにぞろりと長羽織などは着ていない。馬乗り袴を括り上げ、物々しげに脚絆までつけているのだ。朝から駆け廻っているらしい疲れた顔や背中に、雪泥が刎ねあがっているのも凡事の姿ではなかった。
その前に平伏して、謝り入っている新造や、やりての雇人達を睨めすえて、その三名は、
「だまれ、だまれっ」
と、耳を藉さない。
「吾々を、眼も耳もない木偶と思いおるのか。──今、たしかにこの二階で、大声で唄を吐ざいていた奴がいる」
「客ではあろうが!」
この二人が極めつけた最後に、もう一名の同心が、
「──鳴物停止というお布令を其方どもは何と心得おるのか。唄ならば大声で謡ってもかまわんという所存か。しかも今日の如き天下の非常の場合に、客を登楼させて遊ばすなどとは、言語道断。──登楼る奴もあがる奴だし、遊ばせる奴も遊ばせる奴だ。不心得極まる奴輩──大目に見ておくことはできん。楼主と、その客をこれへ出せっ」
とうとう、楼主も来て謝っている様子であったが、
「詫言だけで済むことではない。かりそめにも今日は、天下の御大老たる井伊掃部頭様が、御登城の途中、浪士とものために討たれて果てなされたのであるぞ。──将軍家をはじめ天下万民、いかなることになり行くかと、世を挙げて憂い愁しみ、御国の悩みを身の悩みとしておる際に──青楼で歌を謡うとは何事だ。また密かに客を揚げて、かような時とばかり、営利をむさぼる楼主の不謹慎はなおもってゆるし難い。追っつけ、楼主には後より糺明を申しつけるが取り敢ず、その客をここへ出せ」
と、喚く。
楼主は、蒼くなって、
(……誰じゃ一体)
やりてに囁くと、誰かが、
(八っさんで)
と、低声にいう。
船頭の八は、酔もさめ果てた顔つきで、やりてに引っ張られて出て来た。
「……汝れか」
と、役人達はいったが、たあいもない八の人態を見て、すこし拍子抜けした様子でもあった。
──すると、表梯子の下の大土間へ、また一名の同心が入って来て、
「池田。そこにいるのか」
と、下からいう。
「オオ、何だ」
池田と呼ばれた同心が梯子の下へ答えると、
「今、深田橋のたもとの蕎麦屋で、酒を一合飲み、蕎麦を喰って擬宝珠の方面へ立ち去った一名の浪人者がいるという報らせだ。──すぐ来いっ」
そう聞くと、同心たちは、にわかに色めきを革めて、八は、楼主に預けおくといいのこして、
「そうかっ。──さては夕刻チラと見かけたあの胡散な男かも知れぬぞ」
一斉に梯子段を降り、そして争って外へ駈けて行った。
後で、連れの八に、不実だと恨まれようがどうなろうが、巻ぞえを喰ってはたまらないと思ったのである。
権十は一人で裏口を探し、夢中で逃げ帰って来た。もう河の中も、夜半だった。
船止めでつかえた無数の船が河を埋めて眠りに落ちていた。権十は、醤油くさい自分の伝馬船の中へかくれ込むと、すぐ陸へ架けてある渡り板を引き、苫の中でほっと人心地を呼びもどした。
「お松。……お松。……もう寝たのか」
さすがに、子に恥じながら、箱行燈へカチカチと灯を磨って、何気なく自分の蒲団を隅から引っ張り出した。
途端に、
「──あっ?」
権十は喚いた。
びッくりして、跳び退いた弾みに、苫の天井でひどく頭を打った。狭いので足はまた、お松の寝顔にけつまずき、お松も驚いて刎ね起きた。
そして、権十の驚いたものに、お松もびくッと顔色を変えるなり、
「怖いッ──」
と叫んで、父の体へしがみついたまま、俯ッ伏してしまった。
苫の隅に、じっと、身を屈めていた人間がある。若い侍なのだ。──勿論、権十が入ってくる前からここに隠れていたに違いないのだが、逃げ遅れたのか、燈火のつくのを待っていたのか、今まで息をころして屈んでいたものと思われる。
「……?」
驚きの余り、権十は眼を空虚にして、唖みたいに、しばらくはただその侍を見つめていた。
泥まみれな脚絆、草鞋ばき、股立を括った袴は破れていて、点々と血らしいものがついている。年ばえはまだようやく二十三、四ぐらい。くるっとした純真な眼を持ち、何処かあどけないところさえある顔立ちだが、その顔にも泥土が刎ね上がっていて、乱れた髪の毛がかかり、総体に鬼気のある姿を、さらに嶮しい身構えに固くして、隼が翼を収めているようにじっと隅へ身を寄せているのだった。
「だ、だれだっ? ……おめえは」
権十は、渇いた声をはげまして、やっといった。
「──人の船へ、断りなしで、そ、そんな泥足のまま。……これでも苫の内は人間の住んでいる世帯だぞ」
すると、姿にも似げなく──その侍は両手をつかえて、
「お宥しください」
素直に、すぐ謝って、
「重々、済まぬこととは心得ていたが、一身の危急、つい前後を顧みている遑もなく、お船の内へ隠れ込んだ。──その上にも、寔に無理なお願いであるが、どうか拙者をこのまま匿って、霞ヶ浦の常陸岸か、鹿島の辺まで便乗させてもらえまいか」
と、重ねていう。
権十は少し安心もし、気も直して、
「それやあどっち途、銚子へ帰る空船だから、乗せて上げまいものでもないが──だが、この関宿には、河筋にも関所の柵があるんですぜ。一体お前さんは、その河番所を通る手形を持っているんですか」
「この通り、手形は所持いたしておるが、あったにしても、これは人に示すわけにはゆかぬし」
「へ。どういうわけで」
「実は今朝、江戸表の桜田門で、大老掃部頭の首級を挙げた浪士十七名の中に、自分も加盟して働いた一人なのだ」
「げっ、じゃあ……あなたは水戸の」
「拙者は海後磋磯之介という者。首尾よく大老を討ち止めた上、その場から各〻ちりぢりに落ちのびたが、早くも、幕吏の手は行く先々に伸び、ここまでは、ようやく逃げて来たが……もはや進退も谷まった。この上はわしを突き出すとも、否とも、その方の一存次第──」
権十の愕きは、最初の驚きの比ではなかった。歯の根も、体も顫くばかりで、勿論、それに対して、否とも応とも、返辞などはできなかった。
大老が刺し殺された。
襲撃したのは水戸浪士の十七名で、その場で、割腹した者もあり、自首した者もあり、逃げ落ちた者もある──という。
何しろ江戸表は覆りそうな騒擾だったらしいが──そんな噂を途中で聞いても、萍ぐらしの権十にとっては、陸の地震のようにしか考えられなかった。しがない鰥の船頭には、一国の宰相の死よりは、夕方の酒の桝目と、晨の米の値のほうが、遥かに実際には強くひびく。
──だが、今はもう他人事ではなかった。大老の死は、自分たち父娘の苫の下へも、忽然と、泥のような波を挙げてきた。もし、この侍の頼みを拒めば、この侍は自分たちをただで措くはずはないし、その乞いを容れれば、関所で当然見つかるであろうし──
(どうしたものか?)
と、権十はまったく途方に暮れて、ただ恐怖の中に茫然としていた。
すると、お松が、
「──お父っさん。あの薬、何処へやったえ。おととい、お父っさんが、荷揚げの時に摺り剥いたで、おらが深川で買ったあの貝殻薬さ」
側から不意にそういって、辺りの抽斗を掻き廻していた。
そしてすぐ、
「あったよ」
というと、磋磯之介の側へ寄って、
「お侍さん、この傷薬をつけてあげよう。耳のうしろにも、手にも血がながれているでよ」
「ありがとう」
張りつめている気分を、ふと小娘の温情に和らげられて、磋磯之介は、急にがっくりしたようにいった。
お松は、指の先に薬をすくい取って、何のこだわりもなく、磋磯之介の襟をのぞきこんだ。掠り傷ではあったが、寒風にふかれて黒く乾いた血が、糊のように下の肌着まで硬ばらしていた。
「お松、待てよ」
それを見ると、権十も、迷っていた思慮を捨てて、ついいってしまった。
「いきなり練薬などつけたって駄目だぞ。先に、酒か焼酎で傷口を洗っておかなくっちゃ」
船世帯の流し元から、権十は焼酎を持って来て、襤褸を裂いた。そして、低声をふるわせて、
「お松、おらは、陸のほうを見ているでな、早く手当をしてあげて、燈火を消しちまわねえといかねえぞ」
といった。
苫の隙間から、権十は陸を睨んでいた。黒い人影が、雪明りの岸を時折通ってゆく。それがみんな役人に見えてならなかった。隣の干鰯船へは、まだ八の帰って来た様子もない。
夜が明けると──
つかえていた芥が堰を切ったように、われがちに、河番所の柵へ船が殺到した。
「喧ましいっ」
「鎮まれっ」
「いくら急いても、お検察めのすまぬうちは、通すこと成らんのだ。順番を待ちおろう」
河番所も、常よりは役人の手を殖やし、江戸表から来た同心などは、素槍を持って中に交じっていた。戦時のような厳しさなのである。
「よしっ」
調べの済んだ船には、関宿河役人という判のすわった検札を渡し、
「次! ──次っ──」
と、敏速に、手分けして、役人たちは飛び移ってくる。
「船鑑札を見せい」
と、権十の船へも、その二、三人が来るなり権柄にいった。
「へい」
権十の顔は硬ばっていた。
鑑札の船戸籍を見て、
「醤油船だな」
「へえ……左様で」
「苫を除れ」
いいながら、役人たちは、ずかずかと歩き廻り、自身でも、船板を上げたり苫を剥くったり、厳しい眼を光らしていたが、
「娘。──その樽は何だ」
と、そのうちに、お松の姿を見つけた者が、お松の倚りかかっている四斗樽を見つけて訊ねた。
「エ? ……あんだねえ」
お松は、樽に倚りかかって、目笊の中の野菜の皮を剥いていた。
「──退けっ」
「この樽かね」
「空樽か」
「味噌が入ってら」
「味噌樽。──其方どもは父子二人暮らしではないか。どうしてこんな大きな樽に入れるほど味噌が要るのか」
「ホホホホ。これはおらたちのたべる味噌じゃあねえにさ。江戸のお客様に、正月頃、味噌漬を頼まれていたので、今度積んで行ったところがなよ、そのお客様の家が、神田とやらへ越しちまったというで、仕方なしに持って帰えって来たのだによ」
「ふム、味噌漬か」
いいながらその同心は、不意に素槍の穂をしごいて、樽の横腹をそれで突き徹そうとした。
「あっ、何するのけ」
お松はびっくりして起った。膝の上の目笊から里芋がころがった。
「中を調べるなら、蓋をあけてお見せするで、待ってくらっせえ。槍などで樽に穴を空けられたら、味噌が腐えてしまうでねえか」
お松は、あわてて樽を開けた。そして味噌の中に手を深く突き入れて、茄子だの大根だのを掴み出し、
「もっと、出すべかよ」
ニコニコしながらいった。
役人達も笑った。
「よしっ」
検察済みの紙片が、ひらっと彼女の足もとに舞った──
雪が解けると、利根川は赤く濁り、水嵩も増して、幾日も浪は激していた。
「お父っさん、血ってえものは、洗っても洗っても、なかなか落ちねえもんらしいんだなあ」
潮来の出島に近い入江の深くに風を避け、真菰の中に繋綱っていた醤油船はもう四日もここに泊っていた。
お松は今、乾いた洗濯物をおろして、畳付けていたのである。磋磯之介の肌着と、小袖、そして袴だった。
行々子が高く啼いていた。権十の大漁着を借りて磋磯之介は、苫の蔭に丸ッこくうずくまっていた。
「お松さん、相すまないな」
彼がいうと、
「海後さんたら、そんなに何遍も礼ばかりいうて、おら、返辞がなくなるがな」
狭い船の中で、四日も暮しているうちに、お松はもう彼に馴ついて、友達あつかいにするのだった。
権十は、午から陸へあがって行ったが、間もなく、酒を買って帰って来た。
そして磋磯之介に、
「旦那様、もうこの辺はだいぶ往来が楽になったようでございますよ」と、告げた。
その晩、磋磯之介は、ここから常陸岸の玉造へ上陸る決心をしていたので、
「そうか、それは有難い」
と、心からいった。
晩になると、薄暗い魚燈の下で、父娘は酒の支度をしてくれた。小やかな宴ではあるが別れの名残だった。権十が酒の相手をし、お松は、洗濯した袴の綻びを縫っていた。磋磯之介は涙がこぼれてたまらなかった。
漂泊の支那の詩人が歌った詩を思い出したりして、彼は、感傷的な思いに沈んでいた。
「海後さん、おら、お針は下手だから、よう縫えていねえがよ」
お松は、糸切歯に糸を噛んで、縫いおえた袴を出した。
身支度をして、厚く礼をいって、さて、岸へ上陸ろうとすると、あどけなくそれまで笑っていたお松が、急に、眼にうるみを持って、
「さようなら」
といったきり、暗い苫の下にかくれてしまった。
磋磯之介は、足を戻して、
「──お松っちゃん」
と呼んだ。
返辞をしてくれないので、彼は権十のそばへ戻って、
「金子は持ち合せていないし、何も礼につかわす物がないが……これはわしの刀に付けておる目貫で、鉄地に花菖蒲の象嵌彫、作銘もないが、持ち馴れた品じゃ、かたみに上げるから納めておいてくれ」
「と、とんでもない」
権十は押し返したが、
「寸志だ」
いい捨てて、磋磯之介は、常陸岸の蕭々と暗い風のそよぐ広原へ駈け去ってしまった。
──生きている!
こう自覚する自分の身が、思えばふしぎな気がしてならない。
同志と謀って、水戸から江戸へさして出かけて行く時には、この道を、二度と生きて通ろうなどとは思ってもみなかった。
(関殿はどうしたろう? 金子様や、鯉淵要人、佐野竹之介殿なども?)
桜田のあの日の──同志の悽惨な顔つきが眼にうかぶ。
闇の中を歩いていても、海後磋磯之介の眼には、未だに白い光りものがチラチラ見えてならない、あの日の吹雪の幻影である。同志の者と、井伊家の臣下とが、滅茶滅茶に斬りむすび合った刃の幻影である──
「成功した」
若い彼の心臓は、いっぱいな功名心と、報国心と、それに当って尽したという満足感で緊ち切れそうになっていた。
この一挙で、幕府の方針は一変し、国内は明るくなる。尊王攘夷を奉じる士気はさらにふるい、たとえ、一時は脱藩の汚名をうけても、やがては藩侯へ赤誠もとどくものと──彼の胸中には俯仰して恥じる何ものもなかった。
けれど、水戸へ近づくと、そこの城下に残されている同志たちの家庭が眼にうかんで心が暗くなった。
良人に残されて孤屋を守る妻や──父を慕って夜泣きする頑是ない子達や──年老いて子に先立たれてゆく親達や──
「ああ、これで、世の中がよくならなかったら……」
彼は、桜田で散らした自分たちの血しおよりも、そこの大きな犠牲を考えて、悲憤の醒めきらない眼を、青い星に向けて呟いた。
幾夜の旅の後に、彼は、笠間峠のいただきから、なつかしい城下の灯を遠く見ていた。
しかし、その城下へは、元より一歩も入れない身だった。
唯、お城の方角へ向って、額ずいてそこを去った。
行く先々で、巷の風聞が耳に入る。──それに依って、彼は、自分と行動を共にした十七名のほとんどが、事変の直後、自刃したり、捕われたりしてしまって今なお星の下に生きているのは、自分の他に二、三名しか残っていないことも知った。
血縁の家である、それでなくてさえ、世間は疑いの眼を向けたがっているのだから──と、粂之介はいう。
「そなたも、他へ嫁がなければならない身だし、嫁入りの障りになる。……お互いのためを思って、もう足踏みしてくれるな」
言葉の意味は厳しいが、粂之介の思い遣りは温かだった。お那珂の顔を見ると、懇ろにこう諭すのだった。
お那珂は泣いてばかりいた。
そして、叱られても、叱られても、この家に来ずにいられなかった。
この家というのは、烏山の町の山倚りにある三島神社の社家だった。粂之介はそこの神主で、海後磋磯之介の実兄であった。
「おばさま、こんな物、つまらない物ですけど、お子様に上げて下さいませ」
今夜も、夕方からお那珂は話しに来ていた。主人に顔を見せるとまたいわれると思ってか、菓子や煮物など持って来ては、粂之介の妻だの、子供たちの中に交じって遊んでいるのだった。
お那珂は、町の木綿問屋の二番目娘だった。主人の弟の磋磯之介に前から心を寄せていたことを、粂之介の妻はよく知っていた。
娘時代のそうした気持がわかるだけに、妻女のおかやには、
「お那珂さん、御舎弟の磋磯之介様が、万が一にでも、ここへおいでになったら、きっと会わせて上げますから、それまでは、主人のいうように、あまりここへは来ない方がようございますよ」
その程度にしか、いえないのである。
「ええ……」
お那珂は、すぐ涙ぐみ、
「おば様、わたし、どうしたらいいでしょうね」
「どうしたらとは?」
「縁談があるんですの」
「結構じゃありませんか。──たとえ生きてお還りになるようなことがあっても、磋磯之介は、公儀のお尋ね人ですからね」
「けれど、どうしても、嫌なんですもの」
「誰方ですか。縁談の先は」
「繭仲買の専右衛門ですって」
「ま。──あの人?」
奥の書斎から咳声がきこえたと思うと、
「おかや、おかや」
「──はい」
彼女は、主人の書斎へ入った。そして、戻って来ると、声を密めた。
「お那珂さん、また主人が、あなたの声を聞いて、少し機嫌をわるくしているんですが」
「すみません。もう帰ります」
「気を悪くしないで下さい。良人でも、貴女の将来を思っているんですから」
「おばさま、分っておりますわ」
「今ちょっと、専右衛門さんとの縁談のことを耳に入れたら、あの男なら生涯を託しても慥かだろうといっていました。烏山の町では、堅いというので、いちばん信用のある人だし、商才もあるから、いい縁談だ。おまえからもすすめて上げろといわれましたけれど、こればかりはね」
「……もう当分伺いません。おばさま、さようなら」
「お提燈を持っていらっしゃいな」
「馴れている道ですから」
お那珂は、考え込みながら、帰る跫音まで気がねして、そっと、社家の裏口から出て行った。
裏木戸で、入れちがいに、米の袋を担った糠だらけの男とすれちがった。穀屋の若い者だった。
「今晩は──」
「こんばんは」
穀屋は、台所へ入って行き、お那珂は黙々と、足許の闇を見つめながら外へ歩いた。
桜並木につつまれた神社の石段は真っ暗だった。
一段一段、お那珂は、考えこみながら、重い足を落して行った。
(……どうしたって、添われないものを)
自分の愚かしさが分りながら、その愚かな執着が捨てられないのであった。
すると、後ろから、
「お嬢さん、提灯をお持ちなさらないで危のうございますよ。町までお送りいたしましょう」
と、先刻の穀屋の若い者が、米の袋を空にして追いついて来た。
「ありがとう。今夜は星も見えないんだね」
「そろそろ五月闇ですから」
「社家様のお宅では、以前からおまえの家でお米を取っているんですか」
「へえ、だいぶ永年御ひいきになっていますが──お嬢さん……」と、穀屋は声をひそめて、
「誰かこのごろ、あのお宅には、お客様でも滞在しておいでですか」
「どうして」
「少し……その、このごろ、お米のお入用が違うんですが」
「そういえば、何だか、以前よりもよけいに、あのお家でおまえにも会うね」
「そうなんです。──ここ四、五年もずっと、幾日目には一斗と、ちゃんとお入用が極っていたのに、近ごろはそれが早く失くなって、まだあるはずだと思っていると、いつも御催促をうけますんでね」
「……?」
お那珂は、ふいに足を止めた。その足の先に、妖しい光を帯びた毛虫が二、三匹うごいている。提燈の明りに揺らいで見える彼女の顔いろは、葉桜の青葉のように変っていて、呼吸もしていないかのように見えた。
「……変ですぜ」
穀屋の若い者は、そうつけ加えたが、ひょいと、お那珂の顔を見て、
「いいえ、べつに手前どもじゃ、多く取っていただいた方が、有難いんですがね。へへへへへ」
と、笑いに紛らせた。
町に近づくと、穀屋は、お先にといって急いで行ってしまった。お那珂は、急にぽろぽろ涙をながして、
「ひどい!」
と、呟いた。
「──そうだ、きっと磋磯之介さんは、社家の奥に、隠れているにちがいないのだ。桜田からも逃げたという世間の噂。……わたしに会ったら、世間に知れるか、密告でもするかと思って」
今までは、好意に聞いていた粂之介夫婦の言葉も、そう気づいてみると、皆自分を拒む針のように思いなされて来た。
「……ばかばかしい、何でわたしは今まで」
お那珂は、夜風の暗い空を振り向いて、口惜しげに、立ち竦んだ。
春繭の生糸を横浜へ持って行って、専右衛門は、莫大な金を懐中にして帰って来たに違いないと、烏山で評判されていた。
「馬鹿いうなよ」
専右衛門は、自分にたかりたがっている町の者の顔を見ると、唾するようにいった。
「それやあ、秋繭の時ゃあよかったさあ。だが、いつも柳の下に鰌はいねえってやつだ。百貫目も引っ担いで行った荷が、今度あ二束三文どころか、何処の異人めも、値もつけやがらねえんだ。──なぜかって? 知れたことよ、井伊掃部頭様が殺されたじゃあねえか。港を開いて、どしどし貿易をやらせろという御方針でいらっしった大老様の首が飛んだんだ。生糸なんざ一遍にガラ落ちよ。折角、根を生やしかけた神奈川の異人館だって、今にも国へ引揚げることにでもなりゃあしねえかと、浮き腰でいるんだから、一文だって、商談なんざ成り立つわけがねえや」
成程と、聞く者は、それに感心する知識しかなかった。
だが、専右衛門は、そんな不景気な面相ではなかった。小判を持っていた。外国の弗も持っていて、茶屋女などに見せびらかした。
きょうも、町の料理屋で、昼遊びしていると、
「綿屋の御主人が、お目にかかりたいといって、訪ねて、おいでになりましたが」
女中の取次を、鷹揚に、
「あ、来たのか。向うへ通しておいてくんな」
行ってみると、綿問屋の河西屋伝兵衛が、娘のお那珂を連れて、待っていた。
「専右衛門さん。こんな場所へお訪ねして来ては、野暮ですが、いつかのお話の縁談のこと、きょう娘が、御返辞したいというので連れて来ましたが」
いい難そうに伝兵衛がいうと、お那珂は、畳へ手をついて、何かいうつもりなのが、そのまま、泣きじゃくって、俯っ伏してしまった。
「はてね」
専右衛門は、嘯いて、
「その御返事なら、もう、お那珂さんからきつい肘鉄砲をいただいて、私も、諦めてしまっているところだが……」
「堪忍して下さい」
咽びながら、お那珂がいった。
「あたしの、考えちがいでした。浅慮なのが分りましたから、父に話したら、親の口からはもういえぬ。お詫びするなら、自分でいえといわれたので」
「ふウむ……じゃあ考え直したというんだね」
「左様でございます」
「──じゃあ俺も、考え直してみよう。だけれと、お尋ねの人の神主の弟などを胸の中にいつまでも慕っていられちゃあ、お聟さんがかなわないが」
「わたくし……そんな気もちを持たないという証拠をあなたにお見せします」
「証拠を。おもしろい、どう見せてくれる」
「あなたが、縁談の縒をもどして──そして、虫のいいお願いですけれど、最初の約束のように、父の苦境を救って下さると仰っしゃれば」
「よし」
専右衛門は、手を鳴らした。
そして、自分の手代を呼んで耳打ちすると、すぐ手代が金を持って来た。少ない額ではなかった。
「じゃあ、この場で五百金、結納として、お父さんに上げておこう」
綿屋の伝兵衛の苦境は、町でも知らない者のないほどだった。人の知っている以上、懐中はなおさら苦しかったのである。娘の体で救われる金をそこに見ると、伝兵衛は、面目なげにさしうつ向いた。
「御新造さま。済まないことをいたしました。どうか、勘弁して下さいまし」
米は持たないで不意に来た穀屋の若い者が、泣かんばかりな顔をしておかやに詫びるのであった。
「どうしたんですか、私には少しもわけが分らないが」
「実は、この間の晩、綿屋のお嬢さんと、帰り途でいっしょになった時、手前がついつまらないことを、口に辷らせたので」
「何を……」
「その……何とも……申し難いことですが、このごろ、社家様のお宅では、滞留客でもいらっしゃるのか、お米の御用が、前よりもよけいになったと」
おかやは、さっと、顔いろを変えたが、すぐホホ笑んで、
「ああ、この間うちは、主人の詩歌のお友達が、行脚の途中、しばらく泊っていたからですよ」
「手前も、多分、そんなことだろうと存じて、何気なくしゃべったんですが、それをお那珂様が、どうおとりなすったのか、代官所へ密告なすッたんで」
「げッ……? ……ほんとですか」
「ちらと、耳にしたんで、手前も仰天してしまい、せめてものお詫びにと、お知らせに飛んで来ました」
「そうですか。役人衆がお調べに来て下されば、世間の疑いが晴れて、かえって、宅の方では結構です。けれど、御親切のほどは、よく主人にも伝えておきますよ」
穀屋の若いものが、帰って行くと、おかやは、慌ただしく良人の部屋へ来て、耳打ちした。
粂之介は、嘆息して、
「ああだから女には、心をゆるせない。だが、磋磯之介には聞かせぬがよいぞ」
いいふくめて、すぐ、
「戸外を見張っておれ」
「は、はい」
おかやが起って行くと、粂之介は、奥の八畳に入って行った。
神官の家には何処にもある「神座」といって、平常も人を入れない一室だった。
磋磯之介はもう二タ月も前から、そこに匿われていた。
「──逃げろ、足がついた」
と唐突な兄の言葉に、彼は、はっとしたが、平常から覚悟していたことだったので、
「いや、分ったら、自首して出ます」
といった。
「ばかをいえ。おまえは、国士をもって任じている人間じゃないか。まだ、お国のためにすることはたくさんある。生きるだけ生きて、尽せるだけお国のために尽して死ね」
「──でも、他の同志は皆、自刃したり自首したようです。拙者一人が、生き伸びているのも心苦しく思われてなりません」
「そんなことはない。あの人達を、裏切って生きているならべつなこと、おまえもともに、なすことをなし、もう盟約は終ったのだ。これからは、おまえ個人が、生きがいのある道を見出し、なお、国事のためにすこしでも多く尽して行けば、立派に士道は立つというものだ。……今、親切に教えてくれた者があって、すぐにも、捕手が来るかも知れぬのだ。とにかく、一時、この神社の裏山へ登って、谷間へでも何処へでも隠れておれ。そのうちに、余燼が冷めるのを待って、遠国へ奔るがよい」
血をわけた人の眸には真実の涙が光っていた。──けれど磋磯之介の胸にはここを去るとなると、急に、お那珂の姿が思い出された。
(後生ですから、一度そっと、会わせてください)
と、いつか嫂にも訴えたが、そのまま会えずにいたのだった。けれど、兄の今のことばと、真情に潤んでいる眸を見ては、そんなことは勿論、噯にもいえなかった。
「山の神主さんはこのごろ、少し気が狂れているそうだの」
「どうして」
「時々、裏山へひょこひょこ登って行っちゃあ、大谷原や蛇ヶ池の辺で、たんだ独りぼっちで、大え声出して喚いているってえこったもの」
「何を喚いているのか」
「詩吟ていうのか、唐人の難しい詩を歌ったり、そうかと思うと、子守歌を謡って歩いていたりすることがあるというぜ。──そんなところを、山の木挽が、二、三度見かけたという話だ」
「かあいそうにな」
「いつぞや、代官所の衆が、捕手を連れて、ひどい家探しをやったそうでな。何でもその時、役人を相手に、えらい争いをやったというから、そんなことで、逆上したんじゃあるめえか」
夏が近い──
烏山の町の者や、桑摘みの人々の間では、よくそんな噂が出た。
社家の前には、あれからずっと、見張が付いていたが、六月に入ると、その見張もいなくなった。
主の粂之介は、きょうも山へ登って行った。
今日は、瓢を提げ、大きな弁当を腰に結いつけていた。
檜沢を通ると、沢で材木を挽いていた木挽たちが、
「ほら、また、通るぜ」と、囁いて笑った。
「えいッ──」
と、粂之介は持っている杖で梢を払っていた。そして、沢を覗いて、
「者ども! 者ども! そこへ今、天狗が落ちて行ったぞっ。わしが斬り落したのだ、帰りに持ってゆくから、縛って置け」
と、呶鳴った。
「あはははは」
と、沢の木挽たちは、腹をかかえて、おかしがった。
剣ハ雲根ヲ断ッテ
殺気横タウ
鉄花鏽渋シテ
蘇花生ズ──
もう詩吟の声は、峰の上だった。
炭焼や、木樵や、見知らぬ者に会っても、粂之介はすぐお道化た。山中なので、怖がってみんな逃げ出してしまう。
「やおれ、待てっ」
と、追われて胆を縮めた者もあった。
大谷原の辺は、滅多に人も通らなかった。昼間の月が、草の花の上にぼんやり見えた。
「美味い」
瓢の酒を立ち飲みしながら、彼は、黄昏れるのも忘れたように、山の奥へ奥へと彷徨っていた。
そして時々、発作的な高声で、詩を吟じてゆくと、
「兄上っ」
と、樹蔭で呼ぶ者があった。──いやその詩吟に対しての答えだった。
辺りを見廻して、兄弟は抱き合った。兄の粂之介が、狂気を装って、詩や歌を謡って彷徨っているのは、山にかくれている弟に、自分の訪れを告げて呼び出す策だったのである。
「御辛労をかけまする」
磋磯之介は、涙なしで、兄の姿を見られなかった。
「いつぞや運んでいただいた食物が、まだ残っておりましたのに」
「いや、今日は、瓢に酒を持って来た」
「酒まで運んでいただいてはすみません」
「別れに飲もうと思ってな」
兄は、沁々といった。
「町も街道も、だいぶ詮議は下火になったらしく見える。もうこの辺が、他国へ身を抜く時機だと思う。路銀も少しばかり持って来た。肌着と脚絆なども包んで来た。今夜あたり、山を降りて街道を奔れ」
「じゃあもう会えませんね」
「世の中でも変ればまた」
「その世の中も、吾々が考えていたようには変りもせず進みもしないようですが」
「自分の力を過信するなよ。これからは、身を大事にしてくれ……。さ、何処で飲もうか」
「同じ酒を酌むなら、どこか、広濶な天地へ出て酌みましょう。湿々した谷間にかくれていたので、暗い所は閉口ですから」
「よかろう」
峰の中腹へ出て、山芝のうえに兄弟は坐った。──眼の下に、ポチと灯が一つ見えた。
「ああ、家が見える」
磋磯之介は、思わず伸び上がって、その灯の下にいる嫂や小さい甥や姪たちの団欒を眼に描いた。
「酔いました──兄上」
磋磯之介は、腕を伸ばし、子供のように星を見つめた。
「いいなあ、やっぱり生きているというのはいいなあ。……死んだものはつまらない。死んだ者にもう世の中を動かす力はない。だが、生きているおれにはまだある」
「弟。……これから先は、くれぐれも、身を守って、迂濶なことをしてくれるなよ。──おまえの今の呟きの通りだ。これから先の何十年は、余生だと思って楽しんでくれ」
「愛護いたします」
心から頭を下げて──ふと、彼方のひろい闇の底に見える無数の灯に眼を瞠った。
「あれ、何でしょう、兄上」
「烏山の町の灯だよ」
「それは分っていますが、何処の辻の辺になるか、ひどく、提燈の灯らしい光が、かたまって動いていますが……」
「うム……成程」
「捕手だっ」
愕然と、起ちかけると、弟の腕を抑えて、粂之介は、静かにいった。
「ちがう……。ま、坐れ」
「自分の身を怖れて起つのではありません、もしやお留守を襲われて、お姉上や子達が代官所の者に手荒な目にでも遭っては」
「ちがうから心配はない。あの物々しい提燈の列は、婚礼だよ」
「ア……何だ、町の婚礼ですか」
「どうせ、今宵かぎり、この国の人とも山河とも訣別てゆくおまえだから、知らないものならいうまいと思ったが、気づいたからは審に話そう。あの灯はた、お那珂さんが、糸仲買の専右衛門に、嫁に娶われてゆく仰山な明りだよ」
「…………」
磋磯之介は茫然としながら、兄の話すことを聞いていた。自分を密告したものが、自分の一番信じていたお那珂であったと知ると、彼は何だか世の中が信じられない気がして来た。
「おい、旗岡巡査」
「はあ」
「はあじゃないぞ貴公。人民の保護にあたる重務にある警察屯所の巡査が、日向で犬の蚤なんぞ取っとるやつがあるか。──一等巡査殿が、あちらで探しとるじゃないか」
「はあ、そうですか」
小使室の裏から、旗岡巡査はのっそり立って行った。非番巡査は、他で昼寝している者もある。彼もその非番組だったが、いい訳もしなかった。
蝉の声が、低い西洋館をつつんでいた。茨城県の結城警察屯所の時計は、ちょうど一時半をさしている。
明治九年の真夏だった。
「お呼びでありますか」
旗岡巡査が立つと、何か、書類をめくっていた石田一等巡査が、
「貴公、去年まで東京警視庁に勤務しとったのじゃね」
と、訊ねた。
「左様であります」
「東京におったんなら、横浜の地理も少しは知っとろうが」
「横浜には、勤務したことはありませぬが、度々、出張はいたしました」
「そうか。──実は所内には、東京も横浜も知らん者ばかりじゃで、貴公に、横浜へ出張してもらいたい用件があるんじゃがね。すぐ出発できるか」
「はあ、妻子も何もない身体でありますから、御命令とあれば、これからでも出立いたしますが」
「それでは、この男と一緒に行ってくれい。旅費はもう会計から出ておるし、事件の内容なども、この男から詳細に聞き取って──」
すぐ辞令を渡された。
石田一等巡査の後ろの窓際に、双子縞の単衣物に白いシャツを着た富山の売薬会社の行商人みたいなのが腰かけていたが、
「こういう者です」
と、名刺を出した。
としてあった。
旗岡巡査も、あわててポケットを探りながら、懐かしそうに、
「水戸ですか」
と、田辺剣三郎の顔を見た。
「そうです。あんたも水戸の御出身で」
「いや、違います。拙者は、東京府士族の──」
と、断りながら、旗岡剛蔵という名刺をあわててさし出した。
黒羅紗の服が支給されて、秋風に海岸通りの夜が少し肌寒く覚えるころまで、旗岡巡査と田辺剣三郎刑事は、出張先の横浜にいた。
樫の棒を持って、旗岡巡査は、毎日毎晩居留地や海岸通りを、漠然とあるいていた。
まったく漠然と──であった。
警察屯所から命令されて来た犯人の顔を、直接見て知っているのは、田辺刑事だけで、横浜の警察屯所にも一人もいなかったからである。
茨城県の百姓の出で、しばらく大洗にもいたことのあるという博徒なのだ。それが、この開港場へ潜りこんで、盛んに内外人のあいだで詐欺賭博をやっているのであったが、出入りに巧妙な変装でもして歩くのか、首魁の当人をどうしても捕縛することができないので、田辺刑事が招致されたのであった。
けれど、本人の顔を見知っている田辺刑事にも、まだその男を突き止めることができなかった。
──背何尺何寸、筋骨脂肪質、足袋何文、顔うす黒い質、あばたあり、右の眉すこし薄し……などという緻密な人相書を授けられて、
「見つけたらすぐ、山手警察屯所の出張室へ知らせるように」
と、田辺刑事からいい渡されて、毎日歩いている旗岡巡査にも、一体、何しに来ているのか分らない気がして来た。
けれど、旗岡は、それに飽きもしなかった。飽きない理由は、初めから少しも功名心だとか、競争心だとか、そんな興奮は持たないからであった。
他県の刑事が出張して来たとなると、俄然山手屯所の巡査や探偵たちは、眼いろを変えて、それに熱した。当然、田辺剣三郎刑事も、挑戦されたような感じで、たった一人の味方である旗岡巡査を励まして、
「もし吾輩ら二人の手で、犯人をあげたら、足下にも、十分の賞典があるように、屯所へ報告するからな」
と鞭撻した。
「はあ、はあ」
服従はしているに違いない返辞だが、旗岡巡査の顔には、ちっとも感激も興奮もわいて見えて来ないのである。
「つまらない奴を付けてよこしたものだ」
と田辺は結城警察屯所の人選を恨んだ。
「およそ、どこの屯所にも、鈍物はいるが、あんなのは、見たこともない。何を話し合ってみても、曖昧な生返辞ばかりしているし、酒を飲み合っても、あの通りだ。昔ばなし一つした例しがない。いったい今年幾歳だろう?」
時々、焦々して、怒鳴りつけることもあったりしたが、そういう時でも、
「はあ。……御尤もです。……はあ、気をつけます」
それくらいな感動を出すのが、精々なところであった。
生糸検査所、銀行、美術品店、商館──わずか十年前には見られなかった煉瓦造りの町に、砂糖やメリケン粉を積んだ幌馬車の馬が、鳴る鞭の下に、黄色い埃をあげて奔馳してゆく。
「あぶねえっ。気をつけろ、巡査のくせに」
砂糖馬車の馬丁にどなられて、旗岡巡査はあわてて横っ飛びに交わした。
──いつも、何か考えごとをしながら歩いているらしいのである。
屋台店で、大福餅を焼いていた親爺が、じっと彼の顔を見ていたが、
「……あっ、もしっ」
と追いかけて来ていきなりいった。
「旦那あ、もしや水戸の海後様の御次男じゃございませんか」
「……あに! あんだと?」
「そうだ! そうに違いない。──旦那、お見忘れでございますか。てまえは小石川の水戸様のお屋敷の近くに住んでいた蕎麦屋の亭主でございますよ」
「……何よういっとるか、おまえは」
「お屋敷の旦那方にゃあ、始終、御贔屓にあずかっていたんで、未だに誰方のことも時々思い出しているんで。──へい、旦那もたしか──そのころはまだお若かったが、蓮田様や関様などと、四、五度もおいで下すったはずでございます。……ところが、それから間もなく、桜田の騒動じゃございませんか、瓦版を買ってみると、よく冗戯ばかりいっていらした佐野竹之介様だとか、お気さくな黒沢忠三郎様だとか、お馴じみのお方の名が何人も見えるんで、瓦版を仏壇に上げて拝んだものでございます。……その中に、忘れもしねえ、海後磋磯之介と、旦那の名も、十七名のうちに、立派に載っていたと思ったが、どうして今日まで御無事に……」
「これっ、おい、何をいっちょるか、何を……」
旗岡巡査は、まるで、持っている棒みたいな表情で、
「わしには、何のことか、わけが分らんが……」
「……へえ? そうでしょうか」
「人違いじゃろ」
「でも……? ……おかしいなあ。見れば見るほど似ていらっしゃるが」
「大福餅一つくれんか、そんなことより」
「へい。こちらへお掛けなすって」
と親爺は番茶を注いで、
「旦那、あっしも江戸の人間ですぜ。──いって悪いことなら死んだって、口を割りゃあしません。……ほんとに海後磋磯之介様じゃねえですか」
「ちがう、ちがう」
金を置くと、大福餅の粉をはたきながら、すぐ黙々と歩き出した。
二十歩ほど過ぎてから、旗岡巡査は振り向いて呟いた。
「おそろしいものだ。まだ、わしの顔を覚えている人間がいるとみえる」
自分でさえもう他人の名のような気のしている海後磋磯之介という姓名なのだ。それをいきなり今日のように、
(旦那は、桜田の)
と、ずばといいあてられたような例は、かつてなかった。
なぜならば世間の大雑把な記憶では、桜田門の十七浪士は、すべてもう死んでいるものとしてあるからだった。
それにまた、磋磯之介は、烏山を去ってから、越後に隠れ、後にまた、常州の湊の戦乱に参加して、ほとんど、世人の思い出しそうな所には、一日も身を置いていなかったせいもある。
明治になってから以後は、旗岡剛蔵と変名して、東京警視庁の巡査を拝命し、自分が桜田事変に加わっていた一浪士であるなどという事は、噯にも、人に語った例がない。
──しかし、桜田の残党がまだ一、二名どこかに生きているはずという事を、確信している方面もあった。それは、彦根の士族たちだった。
維新後──大老の理想だったという開港貿易の隆盛を見ると、井伊家の旧臣たちの間では、早くも、大老を開国の先覚者とし、その死を顕彰して汚名を雪ごうとする銅像の建設運動が始まっているほどだった。
水戸を、骨髄に怨んでいるその人々のあいだに、桜田事変の生存者があると知られている以上、当然──海後磋磯之介の旗岡巡査は、絶えず、背後からある者に脅かされずにいられなかった。
生命の危険さえ感じられた。不審な将士に、狙け廻されて、刃を擬せられた事もあった。
だがしかし、旗岡巡査の無感激や無表情や、また、偏屈なような性格は、そういう恐怖から来たものではなく、日々に見ている社会の眩ゆい変遷が、自ら彼を懐疑の唖にしてしまったといってよいのである。
東京でも見た。
この横浜でも彼は見ている。
金モールを載せて轣轆と帝都を駛る貴顕大官の馬車や、開港場の黄金時代に乗って、大廈高楼に豪杯を挙げている無数の成り上がり者をながめて──一体、こういう人間を作るために、維新は幕末の永い間を、あんなに幾多の尊い人血をながしたのだろうか。桜田の事変は行われたのだろうか。これが、地下に白骨となっている多くの志士たちの求めていた理想の社会だったろうか。
旗岡巡査は、分らなくなるのである。
わかろうとすれば、頭脳が悪くなってしまう気がした。いや、生きていられなくなって来る。
修養のように、努めて彼は今の性格をこしらえ上げたのかも分らない。ぼんやりが幸福なのだ。鈍中の鈍となって、ちくりとでも、真実に眼が醒めないことを祈っているのだ。巡査は将に、彼のためにあってくれるような職務でもあった。
午後六時。
規定どおりに、彼は山手屯所の出張室へ帰って来た。
そして、何気なく、自分の机の抽斗を開けると、罫紙に走り書で、
居留地十四番館
赤い異人屋敷
コック部屋の裏門
深更まで至急監視の事
聯絡、後よりとる。(田)
田辺の命令が眼を刺した。
海岸から一側裏の通りだったその青い街燈は、よく見ると、波の音に時折身震いをしていた。
示令をうけた異人館は、四つ角だった。コック部屋と思える燈火の映っている裏門から、約二十間ほど離れて、旗岡巡査は立っていた。
港の船から、一時間おきに、鐘が聞えてくる。
「もう十一時だ」
と、思う。
約五時間の間、旗岡巡査は、見張っている門から何者の出這入りも見なかった。しかし、何らの惑いも落胆も抱かなかった。期待を持たない対象には惑いの生じようも落胆のしようもないのである。
「今に、田辺刑事から、何とか聯絡してくるだろう」
それだけを待っていた。
ただ、足は棒と違う。
さすがの旗岡巡査も、そこらの短い距離の間を、所在なげに散歩し出す時は足の痺れを思い出した時であろう。
──と。
まるで一枚の半巾でも飛んで来るように、白い前掛をした女が彼方から走って来た。ちょうど海から霧が上陸って来て、街燈の灯まで二重になって見えるように往来が煙っていた。
「ここへ来るのかな?」
旗岡巡査は、その女の影を認めるとすぐ、異人屋敷の雑用婦人と見当をつけていた。
「──あッ、巡査さんですね」
近づくなり、女は、打つかるように旗岡巡査の側へ来て、その腕へしがみついた。そして、何か訴えかけたが、肩ばかりが波を打って、
「た、たい変なんですっ。……す、すぐ来て下さい。すぐ!」
半分泣いている声だった。
「どうかしたんかね?」
「だ、だん那様が、殺されました。わたくしの主人に、短銃で……短銃で……」
「人殺しがあったんか」
「──ですから、大急ぎで来て下さい。早く来ないと、犯人も、逃げるか、死ぬかしてしまいますから」
「困ったなあ。……わしはここを動けない事になっとるんだが」
「何ですって。人殺しがあったと訴えているのに、巡査さんが、来られないんですか」
「わたしは他県から来とるんだしなあ。それに、任務があるし」
「そんな事いったって、困りますよっ。来て下さいっ、来て下さいっ」
女は彼の腕を引っ張った。
その血相に励まされて、旗岡巡査も意を決めた。女に尾いて駈け出したのである。
女は谷戸橋を渡った。
高台の中腹にある西洋館だった。
「捕まえて下さい。犯人はまだ、あそこにいるに違いありません。カーテンに人影がさしたでしょう。……だけど、短銃を持っていますから、それだけ気をつけて」
三階の窓を指さして、女はうつつにしゃべった。青いカーテンから透いている灯が、気のせいか、妖魔の燈火のように見えた。
旗岡巡査は、その窓を仰ぎながら、おろおろしている雇い女へ、二つ三つ訊問した。
「おまえの主人が犯人なんじゃね」
「ええ……ええ……そうです」
「外国人じゃないのじゃろ」
「日本人です」
「何商か?」
「御婦人ですから、職業はありません」
「でも、その良人は」
「良人もございません。お妾さんですから、──殺されたのは旦那さまです」
「ははあ、妾宅か」
「旦那さんは、弁天通りにお住居のある生糸の仲買さんです。御本宅へは、爺やを知らせにやりましたから、爺やと一緒に、奥さんが来るかも知れません」
「何でそんな惨事を起したのか、おまえ知らんのか」
「旦那さんが、手を切るといったからです」
「手を切るといったぐらいで、そんなことにもなるまいが」
「深いことは知りませんけれど、こちらのおくさんの方は元、神風楼で花魁をしていたのを、旦那様が身うけして、ここへ囲ったのだと伺いました。──それだけならいいんですけれど、旦那さんは取引先の異人を連れて来ては、自分の姪だといって、ここのおくさんに、お女郎屋にいた時と同じことをしろといって強いるのです。──そして随分、異人からお金を取ったんだそうです。その揚句、下駄でもはき捨てるように、切るの、出て行けのといったからでしょう」
「その犯人は。──名は何ていうのかね」
「そこに標札が出ております」
「うむ、成程。……木島松子というのだな」
角燈を翳して、それを見ている後ろへ、人力車の輪が砂利を噛んで軋り込んで来た。
「──アッ、御本宅の奥様っ」
俥から降りる婦人のすがたを見ると、女中はエプロンを顔に押し当てて泣き出した。そして、自分が犯罪者でもあるかのように、
「申し訳ございません。……旦那様が……あんなことになって」
と、うわずって詫び言を叫んだ。
俥から降りた婦人は髪を夜会に結い、病人のように青白い皮膚をして、見るからに弱々しく思われた。
「仕方がございません……良人にも、そんな目に遭う原因があったのですから」
途々、覚悟をしていたものか、眼に涙も持っていなかった。良人の兇死に駈けつけて来たような狼狽は少しもなかった。
「警察の方はまだ? ……」
「いえ、来ていらっしゃいます」
女中は、旗岡巡査の影を指さした。──と、気がついて、夫人は前へ歩いて来た。そして慇懃に、
「お手数を煩わせまして、何とも、何とも、恐れ入ります」
と、いった。
「…………」
旗岡巡査は、何とも答えなかった。夫人が俥の蹴込みからおりる姿をちらと見た刹那から旗岡巡査は何故か化石したようにそこの位置に突っ立っていたのである。そして夫人の挨拶に対して、顔さえ横へ反向けていた。
夫人は重ねて──
「わたくしが、生糸商の木村専右衛門の家内の那珂子でございますが」
いいながら、何気なく、巡査の胸から横顔を仰ぎ上げた。──途端に、弾かれたように眸をみはって、
「あっ、貴方は!」
と、絶叫して、蹌めきかけた。
「奥様」
女中は驚いて、後ろから抱きささえた。彼女の顔は、死人のように、唇の血の気まで失っていた。
「どうなすったのか」
旗岡巡査は冷やかにいった。──といっても、それが冷蔑とか復讐とかいう表現ではちっともなかった。ただいつもの彼のままであるに過ぎないのである。
「何か、人違えでもしたのじゃないかな。わしは巡査の旗岡剛蔵という者でありますぞ。どれ、それじゃ三階へ行って、犯人を捕縛して来るとするか」
扉を押して、ずかずかと屋内へ入って行った。
彼の背が、ドアに隠れると同時に、爺やの訴えで、山手屯所の巡査の一隊が、ここへ殺到して、騒然と、家の周囲をとり巻いた。
「気をつけい、犯人はピストルを所持しとるというから」
「誰か、三階へ、もう上がって行ったのか」
「旗岡巡査が先に来ておったから、旗岡が上がって行ったろう」
「しばらく、様子を見ておれ」
「──裏口は、裏口は」
などと口だけで、騒めいているだけだった。
──すると、二階のガラス窓が開いた。急に家の周囲に人声が聞えたので、そこまで、上がって行った旗岡が、階段の窓から首を出して覗き下ろしたのである。
彼の首を仰ぐと、下の巡査たちは、
「や、旗岡君。気をつけろよ、犯人はピストルを持っとるというぞ、ピストルを」
旗岡は頷いた。
「──いるのか、犯人は」
「おるらしいです」
「一人でよろしいか」
「梯子段が狭いから、大勢上がって来ても仕方がないようであります。もし、暴れて手に余るようだったら合図をしますから」
と答えると、旗岡巡査はすぐ首を引っ込めた。
──約十分間も経った。
屋外に立っている巡査たちには、非常な長い時間に感じられた。
三階へ上がって行った旗岡巡査が、今に何か呶鳴るか、悲鳴でもするか、悪くすれば短銃でも轟然と鳴りはしまいか──と予想していたが、その十分間は、何の物音もしなかった。
燈火の映しているカーテンの影すら揺れない。
「どうしたんだろう」
「呼んでみろ」
いい出す者があって、一人が遂に上へ向いて呶鳴った。
「旗岡っ。旗岡君っ──」
すると、燈火の洩れている窓からは遠いが、三階の一つの窓口から、
「おうい」
と、顔を出して、旗岡巡査が返辞した。
「や。……そこか、部屋がちがうぞ」
「内部から鍵を固くかけているので、今、あけるのに苦心をしておるのでして」
「じゃ、大勢して、ぶち壊して、押込もうか」
「いや──」手を振って「鍵穴から覗いて見たところ、女は、血ばしった眼つきをして、短銃をかたく掴んでおりますぞ。逆上している相手ですから侮ると怪我人を生じるでしょう。まあ、もう少し見ていてくれい」
「よかろう」
と一人が下でいった。するとまた一人が、
「鈍さんには適任というものだ」
というと、緊張した中に、笑い声がクスクス流れた。
二度目に仰ぐと、もう旗岡巡査の顔は窓に見えなかった。黒々と佇んでいた巡査たちは、再び三階の燈火に異変が起るのを待ちながら、固唾を嚥んで、時計の秒針を胸に数えていた。
旗岡巡査は、暗い窓口から内へ顔を退くと、跫音しずかに運んで、一室の扉を、そっと排した。
「…………」
開くのである。
鍵は、彼を入れないためにかけられてあったのでなく、彼が、自分の身をそこへ隠して後、自分で内側からピンと卸してしまった物であった。
床の上に、一挺の短銃が冷たく光っている。
豚のように肥えた死骸が一つ、寝台の下に俯つ伏していることがわかる。
血らしいものは、わりあいにこぼれていなかった。絨毯の模様になって見えているのかも知れない。
「…………」
旗岡巡査は、黙って、壁の側に立った。
寝台に腰をかけている犯人は、細巻の女煙草を紅い唇にくわえ、煙たそうに眼を細めながら、妖美な顔をよけい妖美に顰めている。
振袖のような絹の寝巻に日本の帯を締めて。──これはちょうど、弁天通りの外人向きな商店の窓によくある洋妾の絵そのままな姿態である。
「…………」
「…………」
この二人の沈黙は、今、旗岡巡査が一度ここを出て、窓から屋外の者へ、顔を見せて言葉を交わした、その前からの継続なのであった。──だから、彼がここをノックしてから、もう十何分か経過しているわけだった。
「海後さん、まだよござんすか」
女は、煙草の灰を見ながらいった。
旗岡巡査は、頷いていった。
「まだかまわんです。ゆっくりお吸いなさい」
「縄をかけられればもう好きな煙草も吸えませんからね……。でも、慾をいえば限りがない」
深い嘆息をつきながら女は独り語のように──
「わたし程、不倖せな者はないと今日まで思っていたけれど、今夜の──たった今、わたしにも一つの倖せはあったような気がして来た。……海後さんに会えようなどとは、夢にも思っていなかったのに、その海後さんの手で縛られるなんて──やっぱり私のような女でも、何か、前世で一つぐらいは善い事をした功徳があるのかも知れない」
「…………」
「あんまり吃驚しちまって、何だか、夢みたいな気がして仕様がない。あたしを縛りに来たお巡査さんが、海後さんだったなんて、──ああ、これで死んでもいい!」
吸い切った煙草を、枕元の灰皿に揉み消しながら、
「──でも、海後さんは、ここへ這入って来る前から、私だっていうことを、知っていたんですか」
「標札を見てすぐ思いだしたわけです」
「だって、あれからもう……」と指を折って──「十四、五年になるんですよ……その私が──こんな踊りッ子みたいな恰好はしているけれと、もう三十にかかりかけているお婆アちゃんになってるんだものね。……標札の名を見たばかりで、どうしてすぐ、思い出しましたか」
「あの時のこと、生涯、忘れてよいものではありません。──お松ちゃんという名。それから船鑑札に書いてあった木島村という地名。──木島村、お松ちゃん。──こう二つならべて心に銘記していたものです。……もっと忘れ難いのは、潮来の真菰の中に船を繋いで暮したあの時の四日ばかりのこと、お松ちゃんは、わしの袴の血を洗って、綻びを縫ってくれた」
「…………」
聞き入りながら、お松は頬に涙の筋を光らせて、しかもその甘い涙を愉悦するかのように微笑んで、
「……じゃあ、海後さんは、これも覚えていますか」
と、自分のしている帯留を指で示した。
花菖蒲を象嵌した刀の目貫が、かつての形のまま帯留の金具となって用いられてあるのだった。
「──持っていたか。今日までも」
すべての感動を喪失して、木偶のような十数年を送って来た旗岡巡査の頬に眸に、眉に、筋肉に、火華のような烈しい感情のふるえが走った。
「……ええ、これだけは、お父っさんと死に別れた後も、慥乎と持っていました。孤児になって、茶屋奉公に売られたり、博奕打の女房になってみたり、神風楼の花魁にまで身を落しても、これだけは肌身に着けていたんです。きっとこういう所で会う約束事に極まっていたのかも知れませんね」
真実は皆死んで行った。
死に別れた過去の友と、もうこれもこの世の人ではないが、あの実兄粂之介と。それ以外、社会に真実などは求めてもあり得ない。
こう冷たく頑なに思い込んで来た旗岡巡査は、突然、十数年の埋み火を掻き立てられるように、瞼を赤くし、今にも声をあげて泣くかのように顔の筋をぶるぶると吊った。
それを、じっと、怺えるように、壁際の位置から離れずに直立している。
どうして──あの純な船頭の小娘が、こうも変って来たのか。怖ろしい殺人まで犯したのか。
とても簡単に、いいきれない気持もあろう、事情もあろう。聞きたい。聞いてやりたい。旗岡巡査は、暴風雨のように翔ける血の中で焦躁した。
「……あ。下に来ているお巡査さん達の声でしょう。何かまた、いっていますよ。海後さん、あなたの御迷惑になるといけませんから、もう、話はよしましょう。いくら話したって、尽きませんものね」
寝台から離れて──こうお松はにこやかにいったが、それは泣いているとも笑っているともつかない不思議な顔の痙攣であった。
「まだ……まだ……もう二、三分はいいです」
旗岡巡査がいうと、
「いけません」
お松は首を振った。
「あなたは、どうかして、わたしを助けようなんて考えていたら、大間違いですよ。昔と明治の御世とは、人間の生命の値打がちがいますからね。……だけど、あたしゃあもう、生きるのに草臥れちまった。こんな豚に虐き使われて」
寝台の下の丸っこい死骸を睨めつけて──また、不意に耳を欹だてていった。
「海後さん、下で呶鳴っていますよ。もう駄目。……階段を駈け上がって来る足音がしてるじゃありませんか」
「だいじょぶです。扉は、鍵をかけてあるから」
「つまらない義理立てはよして下さいよ。そんなことを欣しがる程、今のわたしはもう素直な女じゃありません」
白い腕を、天井の銀洋燈へ伸ばした。──そして彼の顔へ眸を凝らしながら、
「さようなら……」
いう一瞬に、燈火は消えた。
同時に、短銃の音が、轟然と床を裂くように響いた。扉は大勢の巡査の手で乱打されていた。
扉の外れた弾みに、無数の足がなだれ込んだ。真っ暗な室内の闇に、人々は一瞬、深い沼へ向ったように足もとを竦めたが、誰かが、蝋燭を持って駈け込んで来た。洋燈もついた。
銀洋燈の白い光の下に、短銃を握ったお松の死骸が、元の小娘に回ったように、美しく死んでいた。
「…………」
旗岡巡査の姿は、やはり前の位置に、壁を背にして、憮然と腕組みしているのが洋燈の光に見出されたが、誰一人、その姿を顧みる者などはなかった。
大勢の同僚の影が、たちまち、お松の死骸を囲んで、真っ黒な輪の中に蔽い隠してしまうと、旗岡巡査は、悄然とその部屋から出て行った。
それから十分間ほど後には、彼はまた、居留地十四番館の路傍へ戻り、黙然と、前のように見張に立っていた。
底本:「柳生月影抄 名作短編集(二)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1990(平成2)年9月11日第1刷発行
2007(平成19)年4月20日第12刷発行
初出:「週刊朝日 初夏特別号」
1937(昭和12)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2013年1月23日作成
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