治郎吉格子
吉川英治
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湯槽のなかに眼を閉じていても、世間のうごきはおよそわかる──。ふた月も病人を装って辛抱していたこの有馬の湯治場から、世間の陽あたりへ歩き出せば、すぐにあしのつくというくらいな寸法は、なにも、気がつかずに立った治郎吉ではなかった。
素袷の肌ごこちや、女あそびを思わせる初秋の風は、やたらに、治郎吉を退屈の殻から唆った。
──で、無性に、あぶない世間が恋しくなって、有馬の槌屋を立ったのが七十日ぶりの爽やかな秋の朝で、湯治中すっかり馴染になった湯女のお仙が、彼の振分を持って、坐頭谷まで送ってくれた。
「もうこの辺で結構だ。お仙さん、また来年会おうぜ」
治郎吉がいうと、
「いえ、武庫川まで」
と、お仙は、いつまでも振分を渡したくないように抱えこんで、蛍草の咲く道をふんでいた。
「おこころざしは有難えが、そいつは、かえって名残がますというもんだ。宿でも、変に思うといけねえから、ここらで、帰った方がいいぜ」
「──だから、旅のお客は、たよりがない」
「どっちにしても、生涯、有馬にいるわけにはいかねえもの」
「わたしも、江戸へ、連れて行ってくださいな」
「じょ、じょうだんだろう」
「ほんとにさ! ね、治郎さん」
人通りが絶えていた。女は、ついと小戻りをして、治郎吉の袷の袂を、ねじきるようにつかんだ。
「……ね、治郎さん」
「よせやい」
胸へ、もってくる顔を、邪慳にかかえて、
「みッともねえ、泣くやつがあるもんか」
「わたし、行きたい」
「どこへ」
「どこへでも、治郎吉さんと、いっしょにさ」
「そんな約束じゃなかったぜ。……さ、人が通ると、評判にならあ、はやく、帰ンねえ」
「嫌! ……わたしは急に、帰るのが嫌になった。連れて行ってください、どこへでも」
「わからねえことを言っちゃ困る」
「だって、お前さんの足手まといにさえならなけれや、いいんでしょう」
「そうはゆかねえ」
嘆息のように言ったのである。
ありふれた湯女とお客の御多分なみに、ほんの、退屈まぎれな、いたずら心でした事を、軽く後悔するように。
第一、相手の女にもよる。こう、後腹を痛めるほど、値うちのあるきりょうとは、惚れられている彼の眼にも踏めていなかった。
「帰ンねえってことよ」
振分をもぎ取って、治郎吉は、先へ歩きだした。
女は、黙って、武庫川の見えるまで尾いて来た。──ちッと、舌うちを鳴らしながら、
「お仙、どうしても、帰らねえのか」
「…………」
「おめえはまだ、おれの、ほんとの素姓を知らねえからそう慕ってくるんだ。実あ、おらあ江戸をずらかって来た兇状持ちだ。悪いこたあいわねえから、おれと、なんかあったなンていうこたあ、噯にも、他人にいわねえ方がおめえのためだぜ」
「そんなことは、とうに、知っています」
女は、驚きもしなかった。
「えっ、知ってる?」
「有馬へだって、何度、お役人や人相書が廻って来たか知れませんもの」
「ふーム」
「そのたびに、わたしだって、槌屋の御亭主に、ずいぶん腹を探られていました。いちどなんか、自身番まで呼ばれて、たたかれたことだって、あるんです」
「じゃ、おれが、盗っ人だということを承知のうえで」
「え。わたしは、惚れているんです。江戸をあらした鼠小僧の」
「しっ……」
口軽い女の二の腕を、ふいに、男の指が突いた。ぞろぞろと、渡舟を下りた旅人たちが河原から上って来たのである。治郎吉は、お仙のからだを、からだで押すように、足を早めて、
「──乗りねえ、ちょうど着いた、あの渡舟へ」
パチ、パチ、と音がする。中で、将棋をやっているらしい。
「ははあ、此家だな」
と、治郎吉は、立ちどまって、髯の伸びた顎をなでた。
太左衛門橋の河岸ぶちである。道頓堀川を隔てて、芝居茶屋のお内緒の桐箪笥や、赤い座ぶとんや、長火鉢がのぞかれる。秋の陽がからんと、明るく映しているその家の土間障子には、大きな奴髷と、そばに自雷也床と書いてあった。
「ごめんよ」
がらりと開けて、棒立ちに、
「すぐ、やって貰えますか」
「お掛けなさいまし」
下剃が、腰の掛け場を片づけて、
「月代ですか」
「なに、こいつあ、このままでいい。髯だけだ」
「おひとり様だけ、お待ちねがいます。ま、いっぷく、お吸けなすって」
煙草盆を、そこへ出しておいて、下剃は、流し元で、青砥をすえて、ごしごしと、剃刀を磨ぎはじめた。二階がやわなので、地震のように、家がうごく。
治郎吉は、真鍮のべで、すぱりと、一服くゆらしながら、家のなかを見まわした。床屋といえば、江戸も上方も、似たりよったりなものだった。隅では、一組、将棋盤をかこんでいる。壁には、三座の絵番付やら、素人浄瑠璃のビラなどが、辻便所ほど貼りつけてあって、そのまえに、油染みた桐の櫛箱や、鬢だらいなどをすえつけて、今、一人の客の髪を結い上げているのが、親方の仁吉らしかった。
二十七、八の苦みばしった男である。胸から二の腕にかけて、蟇の肌のように、入墨のぼかしが見える。その背なかに彫ってある自雷也が通称になって、自雷也床の親方で通っている彼だった。
「……ちっとも、似ていねえな。腹ちがいにしても、兄妹なら、どこか似ているところがありそうなもんだが」
治郎吉の眼は、煙草のけむりの中で、そう見ていた。湯女のお仙から、兄の仁吉が、太左衛門橋で、髪結床をしているということは有馬の逗留中に、度々聞いていたが、今日ここへ来たのは、伸びた髯を剃るだけの用事ではなかった。──旁〻、彼女から縋られたある問題のかたをつけるためだったが、ほかの客がいては、ちょっと、話のぐあいが悪いのである。
ま、髯でも剃っているうちに、ほかのてあいも帰るだろうと、腰をすえていると──
「お待たせいたしました」
と、仁吉の眼が、はじめて、治郎吉をふり顧った。
「もう、私の番ですか。先のお客があるんでしょう、どうぞ」
「なに、旦那」
と、仁吉は、銀歯をちらと見せて、
「あの通り、夢中なんですから……」
と、将棋の一組を顎で指して、苦笑いをもらした。
「そうですか、じゃあ」
と、梳き場へ腰を持ち上げて行ったものの、実は、治郎吉にとっては、後の方が都合がよかったのである。
仁吉はもう、鬢だらいの湯を代えて、下剃から剃刀をうけながら、
「旦那、江戸ですね」
「わかるかい」
「わかり過ぎまさあ」
「江戸の野郎はがさつだからね」
「なに、その歯切れのいいところですよ。上方の女が好くはずです。……何ですか、御見物かなにかで?」
「ま、そんなものさ。金比羅から、有馬にすこしばかり落着いて、御多分にもれない、上り大名の下り乞食」
「そういう乞食になら、あっしも、稀にゃなってみたい。有馬では、どこへお泊りで」
と、仁吉は、天井から、治郎吉の顔を見直していった。
この緒口に、お仙の話を匂わせてみようかと、治郎吉は、次のことばを喉まで出しかけたが、やっぱり、人がいては、まずい気がした。
──というのが、自分よりは、向うにとって、余り人聞きのいい懸合ではないからだった。お仙の話によると仁吉と彼女とは、腹ちがいの兄妹で、この兄貴は、かなり、極道者で通っている男らしいのである。
で、湯女奉公をしている彼女へも、常々、小銭の無心は珍しくなかったが、こんどは何かまとまった要り用があるとかで、守口の双葉屋という遊女屋から、お仙のからだを抵当に、百両ほど借りてしまった。──ついては、槌屋から暇をとって早速帰って来いという話が来たために、治郎吉の立つ四、五日まえから、お仙は、眼を腫らしていた。
気まぐれが、また、気まぐれを生んで、先はどうでも、こっちでは、さほどにも考えていない女を、つい、あのまま、この大坂まで連れて来てしまった治郎吉が、後で、こうと打ち明けられてみると、恋ばかりではない女の気もちに、その時は、ちょっと、興もさめたが、また、抛ってもおけない彼でもあった。
──よし。おれが、話してやろう。
と、ちょうど伸びた髯をだしに、それとなく、様子を見に来たわけだったが、仮に、相客がいないで、すぐ問題の話にかかったとしても、相手の仁吉は、ちょっと栂指と人差指で、抓んで食うようなわけには行かない男だと彼は睨んだ。相当に、小悪党らしい小骨が歯にも、舌にも、かかりそうに思われた。
「──こんにちは。親方さん、元結はまだでございますか」
そこへ、若い女の声がした。外の陽が、治郎吉の仰向いている顔へ映した。
仁吉は、剃刀を止めて、
「あ、お喜乃さんか。待っていたんだ。──はいりな、そこを閉めて」
「まいど、有難うぞんじます」
「だいぶ、お世辞が、うまくなったな」
「いえ、まだちっとも、商売に馴れませんで」
「さ、荷を下ろして、そこへ掛けな。馴れねえ商売ってものは、気づかれのするもんだ」と仁吉は、治郎吉との話をけろりと、忘れッ放して──「元結もきれたから貰いてえし、ほかにも、ちょっと話があるんだが、このお客様のすむまで、しばらく待ってくんな」
「はい。ごゆっくり」
と、お喜乃は元結箱を下ろして、陽にあたって来た鬢の汗を、そっと小菊紙で抑えていた。
仁吉に、顔をまかせながら、治郎吉の眸は、眼の隅へ寄って、お喜乃の方へながれていた。──見ると、これはすばらしい、十九か、二十歳くらい、単に、きりょうが美いというばかりでなく、品がいい、髪の毛がいい、唇がいい、眼もとがいい。
それに背や、肉づきまでが、治郎吉が描いて持っている好みにぴったりと来ている。彼は、とても、お仙の比じゃないと思った。
──どこの娘じゃろう。剃刀の刃が、髯の根を、気もちよくとおってゆく音を聞きながら、そんなことを考えはじめた。
──この年ごろで、木綿帯は可哀そうだ。着物もそまつだし、安櫛をさして、なりにもふりにも関心わないでいるところは、問うまでもなく、貧乏人だ。そして、床屋廻りの元結売りをしているという事はわかるが、根からの、裏店育ちとは、思われない。
──惜しいもんだ。
と、治郎吉は考えるのだ。同時に、有馬の気まぐれが、よけいに馬鹿らしくもなるし、一歩まちがえば、あぶない体でこんな所へ、お仙から頼まれて来たことも、軽い後悔になって来た。
「おらあ、止めた……」
肚のなかで、治郎吉は、呟いた。
「お待ち遠さまで」
と、仁吉は剃り上げた剃刀の毛を、指でしごいて、
「松、洗い水を」
と、下剃へ吩咐けた。
だが、すっぺりと剃り上がった顔を撫でて立ったとたんに、治郎吉のするどい感覚が、恟ッとして、うしろへ走った。
店と奥との、中仕切の内緒暖簾が、彼の眼が走ると共にうごいていた。そして、その暖簾の下に細かい茶縞の着物の裾と、塗鞘の大小の鐺が、ちらと見えて、すぐ消えた。
「おっと、下剃さん。どうせ、風呂へゆくから、洗い水にゃ、及ばねえよ」
抛るように、髪結銭をおくと、治郎吉は、われながら、慌てすぎると思いながら、さっと、土間障子をはやく開けて、往来へ、出てしまった。
二度も三度も、彼はうしろを振り顧りながら走った。往来の人の声が、みんな、鼠小僧、鼠小僧と、指さすように、思われた。
わざと、道頓堀の人混みへはいって、細い路地から千日原まで抜けて来た。そして、はじめて、豆絞りをつかんで、腋の下の汗を拭きながら、
「ああ、びっくりした」
と、呟いた。
歯磨き売りや、古着屋や、野天にいろいろな露店が出ていた。治郎吉の眼は、まだ落着かずに、そんなものにまで、気をくばりながら、草むらへ、手拭を敷いて、両膝を抱えこんだ。
「はてな……」
来たら──と脇差の鯉口を切って、逃げる先の先まで、微細な工夫をしていたが、こう見まわしたところでは、ひとりとして自分へ向って光って来る眼はなかった。岡ッ引くさい者も、捕手くさい人間も通りはしなかった。
「こいつあ、大笑いだ」
治郎吉は、自分へ嗤った。
「ふた月も、稼ぎを忘れて、燗徳利みてえに、湯にばかりつかっていたせいか、俺も、すこし焼きが戻ったよ。……だが、驚くのも無理はねえ。床屋の奥に、紺足袋で、茶縞の侍と来た日にゃ、誰だって、脛に傷のあるやつなら、奉行所風と思うのは当りめえだ」
しかし、それはまったく、勘違いだと彼にも分った。治郎吉は、自分の早合点がおかしくなると共に、あの侍は、何者だろうと考えた。居候にしては、刀が上物すぎるし、着物も渋い。床屋の客にしては、奥にいるというのが変だ。
それと、彼は何よりも、お喜乃という、あの元結売りの娘が眼に残った。お喜乃と、茶縞の侍と、自雷也の入墨とをむすびつけて、考えた。なにかそこにあるような気がしてならなかった。
ちょっと、諦めきれない気がする。お喜乃の住居だけでも知りたい気がするのである。これも、彼の持ち前な気まぐれの一つかも知れないけれど、今まで経てきた女へ対するものでは、もっとも、根強い気まぐれに違いなかった。
「ごめんよ」
彼はまた、とある床屋へはいって行った。床屋の男は、治郎吉の剃ったばかりな青い髯痕をながめて、ふしぎそうな顔をした。
「──なにか、御用ですか」
「てまえは、江戸のもんですが」
「ああそうか」
と、床屋は、草鞋銭を鼻紙につつみかけた。
「待っとくんなさい。あっしゃあ、渡り職人じゃありません。実あ、知り人を尋ねて来たんですが、その人の娘が、床屋廻りの元結売りをしていると聞いたんですが、もしや所を御存じじゃありますめえか」
「ヘエ、何ていうんですか」
「若い女で、お喜乃さんというんですが」
「お喜乃さんなら、天王寺裏のお鉄漿長屋に住んでいる、感心な娘さんだ。何でも親父さんは、御浪人だということを聞いていました」
「そうそう、それに違いねえ。いや、大きに有難う」
すっぱりと、こだわりの霽れたように、治郎吉は宿へ帰りだした。旅宿は北久太郎町の鈴木屋、お仙といっしょに、そこの裏二階に、十日あまり泊っていた。
裏二階の下は東堀。思案橋を隔てて、川向うはすぐに、西奉行所だった。女とふざけながら、治郎吉はそこからよく奉行所の屋根にとまっている鴉を見ていた。
「おや、お帰り」
お仙は、風呂から上がって、こっそりと、厚化粧をしていた。膳も来ていた。長火鉢もきれいに、すっかり、女房気どりである。
「兄さんはいましたか」
「いたよ」
「話は」
「止めにした」と、あぐらをくんで、「仁吉はいたが、少し考え直して、おめえの話は、出さずにしまった。なあに、抛っときゃあいい」
「よかあないんですよ。こうといったら、どんなことをしても、きっと我を通す兄なんですから。その話のかたがつかないうちは、恐くって、私は、外へも出られない」
「べら棒め。三都はおろか田舎城下にまで、人相書の廻っているこの治郎吉ですらこうして、真っ昼間、大手を振って歩いて来らあ。……なんだ、多寡の知れた」
お仙はちょっと、暗鬱になった。
治郎吉は、膳の盃にも手が出なかった。窓の肱掛へもたれて、女の憂鬱を慰める責任も感じないように、思案橋の往来をながめていた。
お仙は、いきなり、ヒステリックに男の膝に寄って、
「治郎吉さん」
「よせ。泣いてばかりいやがる」
「だって……だって……一日増しにおまえさんが、私に冷たくなって行くんだもの」
「へえ、いつおれが、おめえに熱かったことがある? 俺は、初めからこの通りだ」
「いいえ、違って来ています。このごろはもう、前みたいな、優しいことばなんか、薬にしたくも……」
「おいおい、てめえは一人で、何か、夢を見ているんじゃねえか。何も俺が誘拐したわけじゃあるめえし、嫌なら、いつでも帰るがいいぜ」
「その口が、私は、私は、口惜しい」
「何……てやんで」
治郎吉は、突っ放して、ことさら、錐のようなことばで、
「てめえは、熱病にかかっている。のべつ、あぶねえ風をくぐって、世間の裏をあるいているお尋ねもんが、いちいち、ねちねち、色恋にしろ、捏ね返しちゃいられるもんけえ、飽いたら、別れるまでのことよ」
窓がまちに、頬杖をのせて、東堀の水に、眼を落した。西奉行所の黒い屋根に、きょうも夕鴉が啼いていた。
「鴉啼きが悪い……」
その時、襖が開いた。
「まいにち御退屈様で」
「あ、番頭さんか」と、ちょっと、膝を直して──「勘定だろう」
と、先手を打った。
「へ。毎度うるさく申し上げて恐れ入りますが、帳場の方で、いちど、お極りをつけて戴きたいと申しますんで」
「あ、いいとも。だがきょうは少し都合がわるい。知り人の家をたずねたところが、生憎と留守でな」
「それでは明日には、ぜひともひとつ」
「諄くいいなさんな」
客の顔いろを、敏く見て、
「今夜は、お酒は」
「お、膳が来ていたのか。酒はいらねえ。宿屋の飯にも飽きたから、稀にゃ外で、何か美味いものでも拾い食いしてみたい」
番頭がもどるとすぐ、治郎吉は、一枚かんばんの素袷を着直して、きゅっと、帯を鳴らした。
「お仙、行って来るぜ。不味かろうが、飯はひとりで食ってくんな」
「どこへ」
と、彼女の眼には不安があった。
「どこったって、べら棒め、白浪の行く先がいえるもんけ」
とん、とん、とん、と梯子を下りて行った。
「──秋だよ。治郎吉が金に乾あがるなんてこたあ、近年珍しい秋かぜだ」
と、治郎吉は、自分のふところの空虚を嗤いながら、あてもなく、宵を歩いた。
今夜のうちに、その工面を、どうかしなければ、旅籠からぼろの出る惧れがある。──だが、いくら詰っても、江戸の鼠が、上方でケチな仕事をしたとは人にいわれたくない。
女に気まぐれで、仕事に見栄坊な治郎吉だった。彼が好んで、大名の屋敷にはいるのは土蔵の現金と、閨房の上淫がのぞかれるからであった。武家、旗本の屋敷を選んでいるのは、比較的そういう階級の方が、町家の家庭よりは、生活がみだれているし、権門を恃んで、かえって彼等に、不用心が多いからである。
何かそれを、武家階級に反抗する特殊な思想的泥棒のように、ふしぎと、世間の人気は盗まれた方へ寄らないで、盗む鼠の方を礼讚しはじめたので、治郎吉はすっかり、自分の職業に信仰をもってしまった。女と、ばくちの費い残りを、貧民街に少しばかり撒くと、たちまち、義賊という名が、鼠の肩書に、位階のように名づけられても来るし……。
だが、その江戸を食い詰めて上方落ちを極めてからは、華やかな悪運も、そういう目ばかりは出なかった。人相書こそ廻っているが、江戸で仕事をするほど、反響はない。鼠の人気も、無論なかった。
なければこそ、悠々と、宵の町を、ふところ手で歩けるのだけれども、それもまた、治郎吉には淋しかった。
彼の特徴のある草履の音は、ぴた、ぴたと何時のまにか、辻行燈の灯よりしかない屋敷町を歩いていた。
ふと「洗心洞塾舎」という看板が眼についた。
「洗心洞」
聞いたような名である。
「あ、そうか。有名なる大塩中斎の屋敷だな。するとこの辺りは、与力町と見える」
歩いているうちに、同じ程度の構えの、とある屋敷へ、新町と書いた提灯をつけた駕籠が、三挺、横づけになって、潜りの中へ、人影を送りこんだのを、治郎吉は、物蔭から見ていた。
一挺には、仲居か、芸子か、とにかく送って来た女らしいのが、門にははいらずに、見届けて、そのまま空駕籠といっしょに、引っ返して行った。
「よし、仕事は、あの屋敷と極まった」
治郎吉は、呟いた。──主人が遊里から遊び疲れて帰った家などは、彼にとって、またとない仕事場だった。そういう屋敷へはいって、失敗した例はほとんどない。
草履をたたんで、腹巻と帯のあいだへ。そして、彼は、ぽんと、塀の見越へ跳び乗った。──後は、音もしない。
中で、ゆっくりと寝こみを待つ考えなのである。
泉水がある、築山がある。庭は、松が多い。かなり清楚な、そしてひろい庭である。
屋敷のひろい割あいに、女気は乏しいらしい。厨、風呂場、座敷、どうもそういう匂いがする。治郎吉は、すっかり夜更けの成算を立てて、奥の書院らしい、一間だけ灯のともっている座敷の縁下に、屈みこんでいた。
「ウ……聞いた声だ」
彼は、すぐ感じた。──それも生々しい記憶だ。
その男が座敷のうちで、いうのである。
「──旦那、もし、重松様。うたた寝をなすっちゃ困るじゃございませんか。ここはもう新町じゃございませんぜ。夜が更けますから仁吉も、お暇をいたします」
「……なんじゃ、帰る?」
これは酔っている。ひどく、ろれつが廻らない。
「仁吉」
「へい」
「帰ってはならん。ならんぞ」
「だって、旦那」
「ならんと申すに。女は、いかがいたした。女を連れて来い。女を」
「仲居は、御門前まで送って来て、もう帰りましたんで」
「あんなすべたではない。お喜乃をどうしたというんじゃ」
「どうも、弱りましたなあ」
「なにが弱る。そちが、たしかに、ひきうけておるのではないか。──連れて来い」
「でも、先は何しろ、素人ですから、そう御短気に仰っしゃっても」
「たわけが!」
起き直ったらしい。体の大きな侍とみえて、治郎吉の髷に、床の塵が落ちた。
「昼間なんといった。今夜のうちには、何とかすると申したではないか。先の娘へ百金、そちの礼に二十金、金もたしかに受け取ったであろうが」
「ま、旦那、そう筋を立っちゃ困ります。金はたしかに、夕刻、お喜乃の家へ行って渡しましたが、何しろ、うぶでさ、恥かしくて、茶屋へなんざ、行かれないというんです……そうした女の気もちも、少しゃ、考えてやっておくんなさいな」
「だから、ここへ連れて来いというのだ」
「もう何しろ、遅うございます。それに、彼女の親爺が長わずらいで、床についているところですから、もう四、五日のところ、折を見てやって下さいまし。きっと、仁吉が、腕にかけても、嫌たあ、いわせません」
「きっとか」
「あれだ……。旦那ときたひにゃ、まったく邪推ぶけえんだから」
「よし。では、日限三日かぎりだぞ」
「これや、きびしい。そのかわりに旦那、あの方もひとつ、ぜひ、お願いいたします」
「なんだ、あの方とは」
「お忘れなすっちゃ困りますぜ」
「ム。町役の株か」
「へい。旦那のさしがねで、十手預かりにして戴ければ、これから先、どんなことにも、お尽しができるだろうと思いますんで」
「そんなに十手が持ちたいのか」
「町内で、幅がききますからね」
「何とかしてやる。しかし、お喜乃をはやくどうかしろ」
「よほど、お気に召したとみえますね」
「ちょっといいぞ」
「ちょっとですか」
「うるさい。帰れ」
「やっとお暇が出た。──じゃ明晩にでもまた、お喜乃の家へ行ってみますから、その返辞次第で、お伺いいたします」
自雷也床の仁吉だった。こういって、彼が帰ってゆくと、間もなく、寝所へ、召使が出はいりして、雨戸が閉まった。
それから、一刻ばかり間をおいて、治郎吉は仕事にかかった。彼の通ったあとには、足跡もなかった。大工が建具をいじるように、楽に戸を外して、後まで、きちんと、閉めて出て行った。
旅館へ帰るには、遅すぎるし、歩いて時をつぶすには、早すぎた。治郎吉は、手拭にくるんだ重い金を、ふところ手で、臍の上に抑えながら、天満河岸をぶらついて、川の中をのぞいて歩いた。
「ちょいと……ちょいと……お兄さん」
橋の下から、石垣の蔭から、時々艶かしい鼠鳴きが聞える。白い、手が招く。
船まんじゅう、という、売女たちである。──治郎吉は、その一艘の苫の中に隠れた。そして興味も、素ッ気もない、女を買って、とうとう川波に夢を揺られながら、お喜乃の顔を描いていた。
ちょうど、昨日と同じ黄昏ごろ、治郎吉はまた、宿の鈴木屋に、お仙と夕飯の膳をのこして、出かけて行った。
今朝、藍みじんの袷の襟に、白粉っぽい物がついていたので、お仙は、一日ふさいでいた。男が、軽くあしらえば扱うほど、女は焦れて、粘って、そして、錯覚に疲れた。
「こんな男だよ、俺は」
──出がけに、治郎吉がいった。
「いつまで、付いていたって、面白くもあるめえ、火鉢の抽斗に百両入れておいたからそいつを、兄貴にくれてやって、有馬へ帰るとも、身の振り方をつけるとも、いいようにしたらどうだ」
外に出ると、彼はすぐに、辻駕籠を呼んだ。
「──やってくれ、賑やかな所まで」
法善寺横丁で、いっぱい飲んで、治郎吉はすっかりいい気もち……。
道頓堀の人混みを縫う。
それからまた、ぶらぶらと、天王寺まで歩いて行った。お鉄漿長屋というのを聞いてその路地をのぞいてから、少し、酔がさめ加減だった。
暗い、狭い、どぶ板をふんではいると、突き当りに、藪があった。藪に添って、また長屋がある。
「ここだな」
角の竹窓から、そっと覗いてみると、奥に病人の寝床が見えた。煤けた行燈のわきに、自雷也床で見たあの娘が、枕元に、しょんぼりと、袂を噛んで、俯向いている。
「……あ。来ていやがる」
治郎吉が、そう見たのは、うしろ向きに坐り込んでいる客だった。ゆうべも、声を聞いた床屋の仁吉にちがいなかった。
「どうだね、お喜乃さん。諄いたようだが、決して、悪いこたあすすめねえから、とにかく四、五日お屋敷へ、勤めてみちゃあどうだい」
仁吉は、しきりと、雄弁をふるっていた。その話の内容がどんなものかは、治郎吉には分りすぎていた。
お喜乃は、病人を憚るように、
「親方さん、もうその話なら、なんど伺っても同じですから」
「嫌かい、やっぱり」
「いくら先様が、立派な武家様でも、妾奉公などということは、父が承知するはずもございませんし、私も、死んでも……」
「おっと、待ちな。……だが、俺がちらと聞いた噂によると、おめえは、何か纏った金の要り用があって、新町の紅梅から芸妓に出るという話じゃねえか。芸妓になるがいいか、与力衆の重松左次兵衛様のお世話になるのがいいか、それくらいなこたあ、比較てみたって、分りそうなもんだが」
「ま……誰にそんなことを、聞きましたか」
「それや、おめえの世話をしようという以上、身許から内輪のことまで、すっかり調べねえでどうするものか。紅梅から百両借りる約束をしたろう」
「親方さん、まだ病人には、聞かせてないんですから……」
と拝むように声を制す手へ仁吉は、五両の封金をにぎらせて、
「旦那からだ、いいかい」
「あら、いけません、こんなものを」
「取っておきねえな、折角、支度金にくれたものを」
「いけません、いけません」
「とにかく預けておく」
と、仁吉はもう、下駄をはいていた。
「──あれ、親方さん」
と、お喜乃は、あわてて、金を持って外へ出て来た。どぶ板を踏み鳴らして、往来まで追い駈けて行った。
「甘い手だ」
と、治郎吉は、暗がりから見送って、すぐその眼を、竹窓のあいだから、じっと、家の中へしのび入れた。
病人は、干し鰈のように平たくなって、昏睡していた。枕元には、煎じ薬も見えない。うす寒い空気と壁があるだけで、台所にも、一粒の米粒すらなさそうである。
豆絞りの手拭から、ころりと、百両包を二つ出して、竹窓のあいだから、手をさし入れて、小壁の下に置いた。そして治郎吉は、路地を出て来た。
「……あっ、ごめんなさいまし」
暗かった。
それに、お喜乃は、うろたえてもいたし……。
どんと、治郎吉の胸にぶつかった弾みに、手に持っていた封金を溝板のうえに落した。治郎吉は、拾い取って、
「これだろう」
と、渡してやった。
「有難うぞんじます」
「病人があったり、悪い親切に取ッ憑かれたり、おまえさんも、たいていじゃありませんね」
「え?」
と、眸をこらして、
「どなたでございますか」
「ちっとばかり、お前さんを、知ってるものさ」
「どなた様でしょう、思い出せませんが」
「いつぞや、自雷也床で」
「あ、あの時の」
「よけいな差し出口をするようだが、その金は、費っちゃいけねえ」
「え、今も、追いかけて行って、お返ししようと思ったんですけど、もう姿が見えないんです」
「あっしが、その金は、彼奴に返して上げましょう。また、どんな金の要り用があるのか知らねえが、芸妓に出るなんて、まずい智慧も思い直した方がようがすぜ」
「ご親切に」
と、お喜乃はもう涙ぐんでいる。
いかに、温かさに、飢えているかがわかる。治郎吉は、もっと、もっと、優しいことばを与えたかったが、何だか、お仙や、売女にいうように、すらすらとことばが出なかった。
「どうしてそんなに金が要るんだね。病人の薬代にしちゃ、すこし、多寡が大きいが」
「すこし、事情がございまして」
「あの大病人をおいて、芸妓に出ようという決心をするくらいだから、よくよくだろうとは察しるが」
「実は、父が浪人したもとの御主人様へ、年に八十金ずつ御返済するお金があるのでございます」
「もとの主人へ返す金なんか、浪人した以上は、どうでもいいじゃありませんか」
「そうは行かないお金なんです。父の落度のために、その旗本の御主人も、御番頭やら同役のお方たちから、千何百両という大金を立て替えていただいて、一時、公儀のお帳面の表を埋めてあるのでございますから」
「じゃ、おまえさんたちは、江戸にいたのかい」
「丹後町の、脇坂佐内様というお旗本の用人を勤めておりました」
「で、その主人が、公儀のお納戸金か何かを遊びに、費いこんだというわけだね」
「いいえ、脇坂様は、御普請方をしておりますところから、永代橋のお架け替えに、職人達へ支払う公金を、たった一晩、お屋敷の土蔵にとめておいたのが間違いだったのです。どうしてそれを知ったものか、その晩、鼠小僧という賊がはいって、盗まれてしまったのでございます」
「ヘエ……」
治郎吉は、寒くなった。
「鼠小僧?」
「すごい泥棒だそうで、父が、寝ずの番をしていたのに、千両あまりの金を盗んで行くのに、音もしなかったと申します」
「……ふうむ」
「つまらない愚痴を申しあげました」
「だが、年に八十両ずつ返しても、十年以上かかる。これから先、どうするつもりだい」
「父が丈夫なうちは、堂島へ出て、米商いをしていましたが、それも、相場に焦心って、資本も子も失くしたうえ、あの重病でございますから、これから先は、私が、芸妓にでもなって一心に、働けるだけ働くつもりでございます」
「じょ、じょうだんいっちゃ、いけねえ」
と、お喜乃の世間知らずに呆れたが、決して嗤う気にはなれなかった。
「芸妓をして、千両稼ぐうちには、おまえさんが婆になる。──ま、とにかく、家へ帰って考えなせえ。そして、この金は、さっきいったとおり、俺の手から、先へ、返してやろう」
「でも、他人様の手からでは」
「おれを、疑うのかい」
「そんなことはございませんが」
「じゃ、心配しねえで、預けなせえ。こう見えても──」と、いいかけたが、治郎吉は気がさして、きれいなことがいえなかった。
寒い。いやに、背すじが寒い。
往来を斜めに切って、向う側から、振り顧ると、路地のかどに、白い顔が、まだ立っていた。
窓の戸を閉めようとした時、お喜乃の足の指に、二包の金が触った。
びっくりして、唇のいろが変った。二百両である。──誰が? と胸がわくわくした。
「ああ、きっと、先刻の人が……」
と、思わず心のうちで拝んだ。何となく、さっきの言葉にも、情があった。父を起して話そうかと、昂奮した気もちにもなったが、病人の寝顔を見て、黙って、棚のうえに乗せて、眠りについた。
彼女はいつまでも寝られなかった。路地の暗がりで見た男のすがたと、二包の金が、眼について寝られなかった。そのうちに、頭が思案につかれて、眠りに落ちた。
──もう明け方。
何か、冷たい手にでも撫でられたような気がして、ふと、眼をあけると、うつつな、渋い網膜に、大きな人影が映った。絞りの手拭で、頬冠りをして、壁の下を、這ってゆくのであった。
「おやっ?」
夢中で、彼女が、ふとんを刎ね退けたとたんに、男は、ぬっと立って、裏口へ飛び出そうとした。だが、その弾みに、病人の枕に蹴躓ずいたので、気丈な、彼女の父は、自分の病体をも忘れて、
「誰だッ」
と、賊の片足をつかんだ。
いきなり、青い針金のような光が、賊の手元から走ったと思うと、ばすッと、生れてから聞いたことのない異様な音が、お喜乃の耳を衝った。
「あっ! ……お父さん」
飛びついて、無我夢中に抱えこんだ時には、もう、父に呼吸はなかった。温い、むず痒い、虫のように生きてる液体が、どこからともなく噴き出して、彼女の手に、膝に、ふとんに、気の遠くなるほど溢れた。
「血だッ」
彼女は死骸と共に、倒れながら、初めて大きな声でさけんだ。
「──来てくださいッ。御近所の方。父が殺されました。父がッ……父が」
血のなかに、お喜乃は、泣き転んでいた。
そして、夜が明けてみると、二包の金はなかった。
× × ×
「金が子を生む? 金が子を生んだ」
店を、下剃の松にまかせて、仁吉は、独りで二階に上がっていた。
両方の掌に、百両包を、一つずつ乗せて腹ン這いに寝ころびながら、猫が鞠を弄ぶように、
「ふしぎだ、金が子を生んだ」
と、呟いている。
「たしかに、一包の金が半夜のうちに二包に化けていやがるから、ちょっと、呆れてものがいえねえ」
包のこばを、歯で破って小判の山吹色をのぞいたり、目量を手で計ってみたり、独りで、首をかしげ、錯覚を起し、そして、妙な幸運さに、陶酔をしている。
ぎしっと、梯子に跫音がしたので、彼は、あわてて、金を、欄間の額のうらへ隠した。
「誰だッ」
妙に、尖って云った。
──と、消え入るような声で、
「わたし」
「わたし? ……あ。お仙じゃねえか、てめえは」
「兄さん」
お仙は、間がわるそうに、そして力のない肩を落して、そこへ坐った。
「……こんにちは」
「どうしたんだ、お仙。すっかり痩せこけてしまって、見違えるようだ。槌屋でも大変な騒ぎをしたらしい。おれも、心配していたところだ」
「有馬から、何か、いって来ましたか」
「あたりめえだ。送って行ったまま、旅の客といっしょに逃げてしまったんだというじゃねえか。とんだ浮気をしやがって、男に捨てられて来たんだろう」
「兄さん、私が逃げたのは、それだけの理由じゃありませんよ。おまえだって、あまりじゃないか。人の身体を何だと思ってるのさ」
「む、守口へ、おめえを身売りの一件か。……実あ、その事なら、少しほかで工面ができたから、まあ当分は間に合うよ」
「当分は間にあっても、お金につまるたんびに、私の身体をあてにされていちゃたまらないよ。──きょうは、その入り用の百両を上げますから、これッ限り、兄妹の縁を切ってくださいね」
「なに、百両持って来た?」
「え。縁切り金」
と、お仙は、帯のあいだから、それを出して、
「切る? 切らない?」
「べら棒め、兄妹の縁なんざ、望みとあれやいつでも切ってやらあ」
「じゃ、くれてやるから、これっ限りだよ」
ぽんと投げて、それでも、涙でいっぱいになった眼をそむけながら、梯子段を下りて行こうとすると、
「やい。お仙、ちょっと待てよ」
「なあに?」
「てめえ、この金を、どこから持って来たんだ」
そういった仁吉の掌は、落せば爆発する火薬玉でも乗せたように、百両の封金をふたつの手に持って、蚤の顔を調べるような眼で、封の目や、紙の手摺れなどを、じっと見つめていた。
「どこから持って来たッてんだよ、この金を。──ま、ちょっとそこへ坐れ。訊かねえうちは、受けとれねえ」
お仙は、坐り直して、
「貰ったのさ。世の中にゃ、妹の体を食い物にする鬼ばかりはいないからね」
「誰に貰った」
「お客ときまっているじゃないか」
「というと、てめえと、ずらかった相手の男だな」
「そうよ」
「おかしいなあ……」と腕を拱んで、じっとお仙をするどく睨みながら、「もしや、てめえは、その男に何かふくませて、俺の家へ、様子を見させによこした事がありゃあしねえか」
「あったかも知れない」
「畜生」
仁吉はいきなり、用箪笥にとびついて、がたがたと抽斗を鳴らして、四ツに畳んだ人相書をそこへひろげた。
「お仙、てめえの男は、こいつだろう」
「…………」
お仙の眼は、兇状廻しの人相書へ、惚々と吸われていた。胸のなかには、すぐその男の声や、冷たさや、強さや、いろいろな感情が脈を搏ってひびいてくる。
「これだな! よし、分った」
と、妹の顔いろを読んで、
「てめえ、帰ると承知しねえぞ、禁足だ」
「縁を切ったおまえから、足止めをされるおぼえはない」
「ばかッ」
いきなり、立ちかける腰を擦って、
「こいつ、どうかしていやがる。盗ッ人に惚れるやつがあるか」
「大きなお世話じゃないか」
「降ろさねえぞ、この梯子段から」
「帰りますよ、御勝手に」
「松ッ」
と、下へ怒鳴った。
「──手を貸せ。はやく上がって来い。この色情狂をふん縛って、押入のなかへつないでおくんだ」
「二階の雨戸を閉めておけ。可哀そうだなんて思っちゃいけねえぞ」
下剃の松に吩咐けると、仁吉は、ひどく忙しい用事でもあるように、出て行った。
間もなく、彼のすがたが、天王寺裏の路地へはいって行った。長屋の人たちが、口もきかずに、出はいりする様子や、近所の囁きなどを不審そうに見廻しながら、お喜乃の家の門に立って、
「おやっ。何かあったんですか」
と、首を突っこんだ。
奥には、七、八人、長屋の者が集まって、畳を代えたり、仏事の道具をならべていた。
「あ、自雷也床の親方ですか」
「お喜乃さんは」
「おります」
「一体、どうしたんで」
そろそろと、上がり込みながら、
「じゃ、昨夜のうちに、御病人の容態でも変ったんですか」
「なに、それならまだ諦めようもございますが……」と、長屋の人々は、沈鬱に、ひとしく首を垂れて、
「可哀そうに、こんな家へ、泥棒がはいって、斬られなすったんでございます」
「えっ、親父さんが」
「はい」
「ほ、ほんとですか」
「お喜乃坊が、かあいそうでござんす。な、なんていう、運の悪い娘でしょう」
粛然として、みんな嗚咽した。──仁吉も、拳を膝に突っ張って、眼をしばたたきながら、
「そうですか──」と、息をふかくついて、「するってえと、ゆうべ、あっしが帰った後ですね」
「もう明け方に近かったそうです」
「ふてえやつだ。病人を斬り殺すなんて、憎んでも憎み足りねえ畜生だ。……ああ、だが考えてみると、その種は、あっしが蒔いたようなものだ。実あ、皆さんの前ですが、ふだんからお喜乃さんの心ばえに感服して、さるお武家から、大金を戴いてやったんです。それをゆうべ届けたんで、盗ッ人のやつに見込まれたのかも知れねえ」
「長屋中で、どうにかして上げるつもりではおりますが、何しろ、幾ら寄っても、貧乏人と貧乏人、お寺への心づけさえないんでしてね」
「心配しなさんな」
すぐ財布を解いて──
「一両と、小粒を少しばかり持ち合わせていますから、これで万端」
「あ、親方さん……」
棺桶のまえに泣き伏していたお喜乃が、あわてて、それを押しやって、
「もう、そんな御心配は」
「お喜乃さん、飛んだことだったなあ。おめえの心のうちは察しる」と、ほろりと声を落して、
「だが、力を落しなさんなよ。及ばずながら、後々は、どうにでも、相談相手になってあげる」
「ほんとに、御親切な親方だ」
と、長屋の人々は、いい囃すように──
「どうぞよろしくお願いいたします」
「ご検視は」
「はい、今し方、すみました」
「何か、泥棒の、証跡になるような物は」
「窓の外に、手拭が一本落ちていただけだそうで」
「え、手拭」と、思わずふところへ動きそうな手を、膝へつき直して、
「どんな手拭が?」
「豆絞りの」
ほっとしたように、
「それっ限りじゃ大した手懸りにもなるまい。ことによると、こいつも、鼠小僧の仕業かも知れませんぜ」
「鼠小僧というのは」
「江戸を荒した大泥棒で、なんでも近頃は、上方へ立ち廻っているという評判だ。方々の橋袂にも、この二、三日、人相書が出ているはずだが」
「あ、そういえば、いろんな噂がありますね」
「とにかく、後々まで、御相談になりますから、ここのところは、諸事よろしく皆さんにお願い申します。ちょうどきょうは、町方の用向きをもって、西与力の重松左次兵衛様のお屋敷まで伺うことがあって、先を急ぎますから」
と、下駄をはきかけて──
「お目にかかったついでに、重松様に、一日も早く下手人が捕げられるように、よくあっしからも頼んでおこう」
路地を出ると、仁吉はあたふたと急ぎ出した。駕籠をとばして、その足で、与力町の重松左次兵衛を訪ねた。
「旦那、ひょんなことが持ち上がりましたぜ」
左次兵衛は、暗鬱な顔をして、脇息から、庭を見ていた。
「なんだ、ひょんなこととは」
「お喜乃の親父が殺されたんで」
「殺された。──病人のはずじゃないか」
「押込みに斬られたんです。ゆうべ無理に百両置いて来たのが、かえって仇になっちまいました。──だが、親切の効き目は、こういう時じゃねえでしょうか」
「もう百両出せというのか」
「何しろ、盗まれちまったんで」
「ない」
と噛んで吐くように、
「月でも変って、蔵米でも払わなければ、拙者も、一文もない」
ひどく不機嫌な顔いろに、仁吉は、口をつぐんで、
「へ……」
と、頭を下げた。
「恥をいわねば分らんが、実は、拙者も、盗賊に遭って、文庫の金を悉皆攫われてしまった」
「えっ、お屋敷へも」
「む。貴様に送られて帰った晩だ」
「旦那、あっしじゃありませんぜ」
「誰がそちだといった。──何しろ当惑している」
「それや御災難でございましたね。下手人の見当はついているんですか」
「分らん。雑巾で拭いて行ったようだ」
「──じゃ、どうしましょう、お喜乃の方は」
「どうとは?」
「ここんところで、もう一度、金をやるかやらないかの思案で」
「金をやらずに、お喜乃を手に入れる工夫をしろ。来月になれば、どうかなろうが」
「じゃ、やっぱり、新町へ突っ転ばすに限りますね。──ム、そいつに限る、いったん芸妓に出れや、あとは、本人の意志よりは、金次第、取り巻き次第というわけになりますから」
「何とかいたせ、何とか」
「抛っておいても、そうなるでしょうが、後始末のつき次第に、ひとつ、責めてを変えてみましょう」
「貴様、案外、役に立たんな」
「恐れ入りました。きょうは、御機嫌がわるいようで」
「飲もう、一つ」
また、新町へであった。自暴のやん八で、駕籠が飛ぶ。
天保山の磯茶屋から、月見舟がたくさん出る。酒をつんで、妓をのせて、川尻の澪標木のあたりまで浮かび出るのである。
十三夜の晩だった。水の上では、もう息さえ白く見えそうに薄ら寒かった。
磯茶屋を離れた二艘の月見舟がある。与力の重松左次兵衛と、自雷也床の仁吉を客に、仲居や新町の妓たちが、月釵をかがやかせて、幾人か、乗っていた。
そのうちに、諜しあわせてあった事とみえて、一艘は、ひとりの妓と、仁吉と、左次兵衛だけをのせて、末広橋から海の方へ、離れはじめた。
「あ、船頭さん、戻してください。連れの舟の方へ」
妓は、水が怖いのか、ふるえながら、遠さかる連れの舟へのび上がっていた。──この秋、紅梅から出た、淋しい新妓だった。
「お喜乃さん、怖がるこたあねえよ。月を見ながら、今夜あ、住吉の曙へ行って泊るのさ。紅梅家でも承知のうえだから、案じなさんな」
お喜乃は、罠に落ちた自分を知った。手をかさねた舷へ、がっくりと、額をつけて、肩をきざんで、泣いていた。
「──ずいぶん、今夜までに手間がかかったぜ。とうせ、水稼業にはいった体じゃねえか。いい加減に、世間なみになりねえ。さ、盃をやろう。そして、きげんを直して旦那に一つ酌してくんねえ。一度は、そうしてくんなくっちゃ、どうも、この仁吉の面も立たねえから」
「…………」
「え、おい」
「…………」
「お喜乃……。ちッ」
と、仁吉は、癇を起しかけたが、じっと怺えて、
「強情だな。酒ぐらい飲むもんだ。さ、気を直しな、盃だけでも取ってくんな」
お喜乃が、肩を外したとたんに、ちりんと、盃が、舟ばたに躍って、水の底へ、沈んで行った。
「これだ……」
と、白い眼を、左次兵衛に振り向けて、
「旦那、精がつきましたよ」
左次兵衛は、ぐび、ぐび、と酒ばかり重ねていたが、仁吉の眼交ぜを、苦々とうけて、
「船頭」
と、艫へ呼んだ。
「へい」
「ちょっと、その辺の岸へつけて、暫時、陸へ外していてくれないか」
黙々と、そして緩やかに、艪をうごかしていた船頭は、頬冠りをした手拭の耳に、ひらひらと風をうけながら、
「あっしに、陸へ上がっていろというんですか」
と、訊き直した。
「そうだ。──少し混み入った話があるから」
「嫌だ!」
「なにッ」
「嫌なこッた」
「これっ、船頭の分際として、客のいいつけをきかぬという法があるか。船をつけろ」
「笑わしゃがる」
豆しぼりの手拭が、つばさをひろげて、波の上へ飛んだ。
治郎吉だった。
「こうお喜乃さん。落ちるとあぶねえよ。艫へ来て、おれの足に、しがみついているがいい」
「やっ」
仁吉は、恟っとしながら飛び退いて、
「てめえは、鼠小僧だな」
「む」
と、治郎吉は、盗ッ人にありそうもない笑靨を見せて、
「感心に、てめえも、知っているか。──大兄哥の面をよく見ておけ」
とたんに、左次兵衛は、羽織を脱いで、舟から水面へ躍りこんだ。岸へ向って、泳ぎ出したのである。
「しまった」
と、治郎吉は舌打ちをして、
「仕事は急がざなるめえ。やい、自雷也」
どこに置いてあったか、道中差を、抜くよりはやく、ふりかぶって、
「命はもらった!」
ばっと、風を割って落した。
かつんと、仁吉の膝がしらに、石でも割れたような音がした。二度目の刀は、肩さきへ来た。仁吉は、尻もちをつきながら、匕首で月光を斬った。
「──ひッ、人殺しだあっ」
絶叫が、月の安治川から、海へ走った。
「けッ、女々しい声を出しやがる。病人を斬って逃げ出すような、ケチな盗ッ人ほど不愍なものはねえ。せめて、俺ぐらいにあやかるように、もう一度、生れ直して来い」
五ツ六ツ、撲るように刀でたたくと、仁吉の体は、魚の臓物のように、船底に俯つ伏して、声も音も消してしまった。
白い月と、川波と、そして、お喜乃の銀釵が、かすかに、ふるえているばかりである。
ざぶりっ、と舷から手を洗って、
「あ、もう来やがった」
と、治郎吉は、帯を締め直した。
船番所が近いので、案外に早かった。蕭条たる蘆のあいだを、捕手の灯が、いっさんに岸へ廻りはじめている。
「まごついちゃいられねえ」と、死骸を蹴落して、艪をつかんで、
「お喜乃さん、何処へ送ろうか」
「……もしっ」
ふいに、盲目的に、彼女は、治郎吉の裾にすがりついた。
「どこへでも」
「えっ」
治郎吉は、躍るような快感と、満足に、思わず口走った。
「ほんとにか」
──だが、彼はすぐに考え直した。
「いけねえ、いけねえ。おれは気まぐれもんだ。いつまた飽きが来ねえとも限らねえ。仕置場の空に眼を塞ぐ最期にだって、生涯のうち、一つぐらいは、きれいな憶い出がねえのは淋しい。十三夜の晩だけを覚えて、おめえとは、このまま、別れることにするよ」
「…………」
お喜乃は、何もいえなかった。氷の中の花のように、凍っていた。
「達者でいねえ」
──十三夜だ、後の月だ、治郎吉は、こんな月は、生れてから、見たことがないと思った。
「おれも、もう少しゃ、生きているぜ。そうよ、俺の稼ぎは、金じゃねえ、自分の寿命を稼ぐようなもんだ。──そして、きっとその間に、脇坂佐内の土蔵の中へ、千両だけは返してやるぜ。父さんへの手向けだ。──じゃあ、あばよ」
「あっ、待って!」
お喜乃は、飛沫をあびて、わっと、泣き倒れた。治郎吉の影は、もう、水面の下にかくれて、ただ一すじ、波の影だけが、北岸の方へよれて行った。
また泥棒がはいった。
しかも、仁吉が、安治川のもくずになった晩に、その仁吉の家に、はいった泥棒である。
階下では、まだ弟子の松が、常連を相手に将棋をさしていた。──で物干しから用心のない戸を開けて、こんばんはといいたいくらい、楽々と、二階へはいって来た。
むろん治郎吉である。藍みじんは、袂も裾も、ぐっしょりと濡れていた。用箪笥の抽斗や、そこらの間を、かた、こと、といっている間に、欄間の額のうらから、手もつけない三つの封金を見つけておかしくなったように、口を押えた。
「あいつの着物じゃ、ちっと、気色がわるいが、間にあわせだ、何かあるだろう」
咳きながら、押入に手をかけて、四、五寸、開けたとたんに、彼は、胆をつぶした。
「あっ、治郎吉さん!」
「シッ」
絞め殺すように、そこにいた、お仙の口を押えつけて、
「おめえは、こんな所にいたのか」
「連れ出しに来てくれたんですか。欣しい! ああ欣しい!」
お仙は、泣いて喜んだ。彼の膝へ、顔をこすりつけて、縛られている体を、押入の中から這わせた。
「さ、はやく、連れて逃げてください」
「待ってくれ、おらあ、おめえを救いに来たわけじゃねえ。この家の総勘定をつけに来たんだ」
そんなことばは、お仙の耳にもはいらなかった。
「何でもいいから、縄を解いて、外へ出してください。私はもう、この世の中に、おまえさんよりほかに、頼る人はないんだから。ね、治郎さん」
「おめえは、まだ俺に、懲りねえのか」
「どんな苦労をしてもいい」
「なるほどなあ、おめえにもいい所がある。それは、いつ捨てても、大して、悪い気がしねえことだ。きっと、俺はまた、おめえを捨てるぜ」
「見捨てないで下さいよう、見捨てないで……」
そういいながら、お仙は、治郎吉に解かれた縄をふり払って、物干しから、屋根へ、怖さも忘れて這い出したけれど、裏口はもう真っ赤に染まるほど、御用提灯が埋もっていた。
「あっ、治郎吉さん」
と、座敷を駈けぬけて、表窓を開けてみたけれど、治郎吉のすがたは、そこにも見えなかった。
太左衛門橋も、河の中も、ただ灯である、軽装した捕方の影ばかりである。
底本:「治郎吉格子 名作短編集(一)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1990(平成2)年9月11日第1刷発行
2003(平成15)年4月25日第8刷発行
初出:「週刊朝日 秋季特別号」
1931(昭和6)年
入力:門田裕志
校正:川山隆
2013年1月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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