随筆 私本太平記
吉川英治



新春太平綺語






 おそらく、十代二十代の人には一笑にも値しまい。けれど私たちの年齢の者は、平凡なはなしだが、「ああ、元日か」の感慨を年々またあらたにする。昨日の歴史、あの戦中戦後を通って来て、生ける身を、ふしぎに思うからである。そこで去年(昭和三十二年)の正月の試筆には、たわむれ半分に「元日や今年もどうぞ女房どの」などという句を色紙にかけて拝むことにしておいた。すると升田幸三氏やらだれやら、つね日ごろ女房泣かせのやからが来ては「おれにも書いてくれ」と請われるまま、ついトソ気分で、おなじ句を何枚も人に書いてやった。ところが中にはそんな甘い文句の家庭円満剤では何のもないらしいンべな亭主どのもあったので、そんな人へは特に「これは細君に上げ給え」といってはべつな句をこう書いてあげた。

うぐいすやうちの亭主はどこの木に


 むかしから、〝太平楽〟という言葉がある。クリスマスからつづいてまだ不足顔のめない〝正月の亭主族〟のごとき者をいったのだろう。語源は「太平記」以前であるにちがいない。それが古典の太平記に用いられてから謡曲、民劇、小説などでさらに一般化したのである。室町期の記録もの、お伽草子とぎぞうし。また江戸時代の小説類などおよそ〝太平記〟という書題を取ったものは百種以上にものぼるであろうか。たとえば「お伽太平記」「ごばん太平記」「女太平記」「東国太平記」「化物太平記」近年でも「新聞太平記」「何々太平記」など、とてもかぞえきれない。私のこんど書く「私本太平記」もその一つに入るわけである。けれど無数の書名は、じっさいには、ほんとの太平記の内容とは、何のかかわりもなく、ただその〝太平〟ということばの持つ広さやばくとした思わせぶりに仮托かたくしたものが大部分であるといってよい。


 原典の「太平記」を書いた作者は、小島ノ法師円寂とされている。が、この人の伝記もよくわかっていない。書かれた時代は正平から応安年間(今から約六百年前)ごろだろうと考察されている。いずれにせよ、足利尊氏の死期をまたいだ頃だったらしい。しかし筆者の小島ノ法師は、当時でいう宮方(南朝方)の人であったから、その物語は多分に一方的であって、史料として信じるわけにいかない学説は古くからあった。けれどまた、北朝方の手に成った「梅松論ばいしょうろん」という一書もあり、これはむしろ足利尊氏方なので、二書をあわせ見れば、やや公平にちかい客観点に立てぬことはない。そのほか、同時代の日記物、文書、古記録のたぐいは、古くから現代の歴史家までが、あまねくあさりつくしているので、新発見というような史料は、おそらく今日ではもうありえない。求めてもむりである。

 けれどまた、私の拙い作品でも、これが新聞小説となって、世衆の関心にふれてくると、社寺院の開かずのとびらや郷土の暗黒倉などから、何が出てくるかわからない。現に、きのうも電話で、私にかくれた南北朝史料を提供したいからという人があり、いままた、この随筆を書いているとき、階下の玄関へ、同様な意味をいって面会を求めきた訪客があるが、礼をつくしてお断りした。この後も、そういう御好意には謝するが、会ったり御返事を書いたりは一切しないつもりである。というよりも、じっさいの小説へ毎日の執筆をつづけ出すと、とても私には時間がない。私の「私本太平記」への目標や文芸構成のことは、べつな〝作者のことば〟でつくしてある。

 さきに私は「新・平家物語」を書いたが、「太平記」は、それにくらべると、おなじ古典でも、時代が下がるし、人の考え方や世の中も一変している。平家には見えたあの優雅な人々の無常観も〝あわれ〟さもまた文章の詩趣も至って乏しい。総じて文学価値としては古典平家の方が太平記よりも上だとおもう。けれど人間社会のけわしさとか、個々の苦闘とか、また歴史上の日本という国の未成年期山脈をふみ越えて来た祖先たちのあとを振向いてみるものにしては、平家の世頃とは、比較にならないものがある。それだけに、小説としても、生々しい人間臭をもつとおもう。

 しかし、これまでの太平記や、いわゆる南北朝概念では、足利尊氏にしろ新田義貞にしろ、また正成正行父子にしろ、誰の観念の中にも、人間としてはいない。極端なまでに偶像化されたままである。こころみに、私は周囲の高校生や大学初期の若い人たちに試問してみたが、ほとんどがよくもわるくもそれらの史上の人物について知るところがない。わけて、日本の中世歴史中でも重要な五、六十年間において、どんな風に、この国があったのか、北朝、南朝などと分れていたのか、そんな社会の下の庶民や文化の生態はどうなっていたのかなど、中年以上の人でも、今ではすこぶるあいまいになっている。そしてこのあいまいな歴史の密林にたいして、ただ一種の懐疑だけをもっているのが実状ではなかろうか。

 ほんとをいえば、そんな深い史林の奥は、私にもわかっていない。けれど私は歴史家ではないのだから、新史料の導きにらないでも、独自の史観と空想を力に文芸の火を頼りとして、その史林のやみへも、入ろうとすれば入ってゆける。心ぼそいことなどちっともない。読者と共にだからである。だがこれは、さきに平ノ清盛を書いたときにもなめた経験であるが、尊氏などを描いてゆくと、きっと旧観念の尊氏を過信している人などからは相当つよい風あたりが来やしないかと思っている。正成の人となりやらその神格化を人間として描いたばあいなどでも、同様な反撥はんぱつが予想されよう。だからといって、いつまでも、日本歴史中の胴ナカのような部分を、みんなが、あいまいもことしておいてよいわけでもあるまい。とにかく、手をつけ出せば、それを機縁として、ほかの作家もまたさまざまな意図の下に同時代の素材に手を染め出そう。そして自然それが、国民全体の考慮や関心になって来れば、国民的思判も生じ、専攻の史学家諸氏も、一ばいの研究をこれにそそぐ動機ともなってくるかもしれない。ただしばらくは、私のごとき空想児の逍遥しょうようを笑って見ていていただきたいとねがうのである。

 まだ小説の方は一字も書かないうちから、ここでいってしまうのも率直すぎて他愛ないが、逆賊尊氏も、忠臣楠公も、私には、えこひいきも全くない。その時代の下に生きた一個の家庭の父、一個の人間、社会人として、どう描きうるかがまずさしあたっての苦吟である。人間尊氏を私はやはり人間的な気の弱さや人のよさを多分にもった人だったと思っている。正成にしても、そうである。みんな社会、みんな周囲が、彼をしてやむなくさせなければ、河内の一田舎武人として、よい妻やよい子にかこまれ、かきの梅花を楽しんだり、老後は菊の花でも作って、しごく平凡にまた平和に天寿をまっとうしたろうにと思われる。その点、かの日柳燕石くさなぎえんせきが、楠公の詩に「過マツテ武人ニ生レ」と歌っているのは、偶像楠公にいささか人間の待遇を以て涙しているもので、今の私たちに共鳴される。いずれにせよ、こう師直もろなおのごときは変っているとしても、人みな善人だったと思う。それが、建武年間、正平以後にかけてまで、半世紀余の血みどろを地上に現じ出してしまったのは、いったい誰の所業か、何の作用か、私は人間同士の住むこの世には、何か「誰」と指摘できない摩訶まか不思議な素因がどこかに跳梁ちょうりょうしている気がしてならない。

 小説の中では、そんなものをも、つきとめてみたい意欲がするのである。だがそれは、文芸の徒の文芸思惟などでは遠くとどかない永遠の問題であるかもしれない。なぜなら、眼の前にある今日の国際社会においてさえ、なおまだ未解決のままつねに不気味な不安のナゾとなっているからだ。──うぐいすやうちの亭主はどこの木に。──その酔っぱらい亭主のあたまにも、この虚無型の不安だけは、どこにいても消えてはいまい。つい、大それた放言に似てしまったが、南北朝の世をかりて、ひとつその、この世の影なき魔ものの正体を、読者とともに、考えてみようというのが私の意図でもある。そんな小説は、さだめしおもしろくも何ともないだろうといわれそうだが、しかし新聞小説である、私もたのしんで書くつもりだし、かたがた、毎日の暮しですらおたがい大へんな今日なのに、その朝ごとの諸兄姉にたいして、なんの足しにも愉しみにもならぬかたい小説などを書くつもりはいささかもない。

 終りに。「太平」という語意は、古来どうも、乱世の反語に使われて来たようである。いわば平和の曙を待つ、庶民の悲願がこの二字にめられて来たものとおもう。

(三三・一・一)


筆間茶話






その一


 連載小説の習慣で、ほんらい毎月の初めには〝前回までの梗概〟が載るのが約束になっている。だが、どうもあれはつまらない。書く方もつまらないが、読者にも中途半端で、あれで要領がえられようとも思われない。


 そこでいッそと、こんな試みにかえてみた。月一回を小説定休日としてしまう。そして代りに、私本太平記の篇外雑感とか、臨時の史蹟紀行、作品の補遺などにする。また、時には全篇の梗概ばなしとしてもよいが、とにかく月一回は読者と共に遊ぶ気で、勝手なことを書きたいのである。もし、おいやならやめてもよい。だが何せい長篇である。急ぐ旅ではなし、どうであろうか。


 過日の早春日和に、杉本画伯を誘って、栃木県足利地方の史蹟歩きをこころみた。まったいらな両毛平野も、この辺まで来ると、渡良瀬川をさかいに、たいら将門まさかど以来の坂東ばんどうの人煙が日光山脈にって散在し、赤松の小丘陵の多い起伏の変化もおもしろい。

 が、南北朝時代の、ここと鎌倉、ここと京都、九州。その遥けさを考えると、馬の旅でも、千里の感がしのばれる。


 まず鑁阿寺ばんなじを訪ねた。足利市の街中である。ほりは旧態をのこしているが、古図に見える林泉や大杉は面影もない。多宝塔そのほかの諸堂も荒れている。住職山越氏の住む階上に、国宝の宋窯花瓶そうようかびんやら尊氏たかうじ自筆の古文書などが、からくも無事をえている有様だった。


「なにしろ、長い月日、陽の目も見ない寺でしたから……」

 と、山越住職はかこって、「今はまあ。そんなでもありませんが、以前は、足利出身の子が東京へ徒弟にでも出ると、逆賊の土地ッ子かなんて、よくいじめられたもんですし、足利織物のレッテルでさえ、逆賊織かと嫌われたという程でしたからね、文部省でも、ここの修理なんてことは、うっかり持ち出せなかったもんでしょうなあ」と、いかにも長い世代の白眼に耐えて来たようなまろい背を、今もかがめたままでいる。


 若い高氏のいた頃の居館は、この鑁阿寺ともいわれるが、四囲の地形から市の背後の本城山(今、両崖山りょうがいさん)かと考えられる。本城つまり本庄、足利政所あしかがまんどころ転訛てんかではなかろうか。

 前回まで書いた又太郎高氏の忍び遍歴は、もとより私の創作である。が、時代の風潮、点景人物、後醍醐帝の朝覲ちょうきんの儀など、おもなることは〝増鏡〟やその他の史実に拠った。──その日、私たちのために案内の労をとってくれた足利史談会の須永弘氏は、高氏の京都出生説をのべていたが、それとて確証はないのである。が、郷土史家の一史眼ではあると思った。


 兼好法師けんこうほうしの「徒然草つれづれぐさ」には、謡曲鉢ノ木の最明寺時頼が、旅すがら、足利家にも立ち寄っていたことが見える。夜物語りの酒のあとで、時頼が土地の織物について訊ねたりしている。ここの機業史はそれほど古い。が今は、繊維工場のえんとつが、渡良瀬川をけむらせていた。

 足利学校の訪う人もない庭梅と、宋版そうはんの国宝古書籍の真新しさなどは忘れがたい。昔、文盲もんもうの領民が、なにか読めない文字があると、紙キレに書いて、門前の小松にいつけておき、翌朝を待つと、それにフリ仮名と解釈が付いていたという言い伝えのある〝字降松かなふりまつ〟はホホ笑ましい。以て当時の学校なるものの在り方も、よく読める。


 この学校は約千百年前の小野篁おののたかむらの創始だとか。ならば、日本最古の学校といってよかろう。これが明治七年には、現在国宝の蔵書ぐるみ二束三文で売りに出されたこともある。それを時の鍋島県令にせまって中止させたのは画家田崎草雲だったという。その草雲の旧居白石山房はくせきさんぼうでは木村市長などから興味ある話もきいたがただメモとして先を急ぐ。帰路を新田義貞の旧山河に向け、桐生、太田などを一巡して、夜おそく東京着。カゼ気味の杉本健吉氏には、ひどい目にあわせた日帰りの旅だった。(三三・三・三)


その二


 読者諸子からいろんな寄与やお便りをいただいている。いちいちの御返事は、机忙きぼう、とても不可能なので、おわびしておく。ただ黙し難い御注意二、三のみを、ここでお答えしておきたい。


「新田桜」の項に書いた利根川と渡良瀬川の位置について、前橋市の一教諭の方から、詳細な地誌学上の御注意をいただいた。負け惜しみみたいだが、中古からの河川推移に私も気づいてないわけでもなかった。が、そこまでの考証は逆に文学の〝病〟になるし、読者イメージを混雑させる。同様なフィクションは、たいがい作者は承知の上で書いてるものとお読みおき願いたい。


 知人の結婚式で、諸橋轍次博士とお会いしたときも、小説と史料のはなしが出て「たいへんですなあ」といわれたが、私はいつもこんな答えをするのである。「作家の空想は、一応の史実を忠実にあさった上の発想でないと、ほんとの空想とはいえないんですね。フィクションにも、そこで二た色ありますから」と。


 高氏の母が鑁阿寺にもうでる回で、広島県の一住職から投書があった。「地蔵如来は、地蔵菩薩に。また、たんに大日だいにちとあるのは、大日如来と訂正してください。その方が正しいのです」と。


 何百万という読者は、それ自体そく〝大智識〟であると思う。郷土のこと、建築や服飾のこと、風俗、植物のことなど、何かしら各〻一つは作家よりも上手うわてな智識とか専門を持っている。新聞小説はまったく恐い。


〝足利郷土史料年表〟をわざわざ作製して、土地の須永弘氏が送ってくれた。ペン細字の丹精こめた便覧表である。また羽黒洞のK氏からは、国宝足利尊氏像の写しを贈られた。これは高柳光寿氏著の「足利尊氏」その他、南北朝関係の史書にはよく口絵になっている物だが、K氏がくれたのは、寛文頃の土佐家の摸本である。それを見つめていると、若い高氏の性格描写などの上に大いに役立った。


 若い高氏像は世にないので、挿絵の杉本氏も苦労しているが、大体彼は気取りッ気のない、線の太い人物だったには違いない。秀吉、家康、清盛などの部分部分をツキ交ぜたようなところがある。少々ロマンチストで、正直者だが、他のなしえない凄いこともあえてやる。権力や物質にこだわりなく、功でも物でもよく他に分け与えて惜しまない方であったという。──ちょっと肖像画の顔では、現代政治家のうちにも似たのがいそうだが、内容を考えると、さてこの二流もいそうではない。


 近く舞台は鎌倉に移る。執筆前に、いちど鎌倉史蹟歩きを約していたが、風邪、雑忙、それに原稿もストックなしで、私がぐずぐずしているまに、数日前、杉本氏一人で先に出かけたらしい。

 燈台もと暗しで、鎌倉は私も小学生頃から知悉しているわけだが、さて、書くとなってみると、じつは何も知らないのだ。人間おおむね、「知っている」と、すましていることが、じつはいかに何も知っていないことかという、よい一例である。東京及び鎌倉人は、かえって、奈良、京都、阪神などのほうが詳しいようだ。(三三・四・二)


その三


 五月。なんとなく若さを感じる。メーデー、憲法記念日、子供の日。それと、眼に青葉。

 作家の生理にも、季感の影響はあるかもしれない。一年中、雑書と紙クズだらけな書斎だが、五月の窓光には、五月の発想がうずく。窓外の新緑をみると、机の上にも、新芽を吹きたい欲望がしきりにおこる。


「私本太平記」も、いつか百回をこえた。百回ぐらいまでには、一応、高氏の人間的な準備期と〝正中のへん〟あたりもすむ予定でいたが、ついはかどらない。なにぶん読者に馴じみのうすい時代なので、そこを分りやすくするための、時代の舞台装置などに、どうしてもよけい筆がる。


 戦国時代や源平期もみなそうだが、太平記のばあいでも、時代の主動力は、若さである。すべて変革期の中の若さを見おとすことはできない。

 昨今の場面の、正中元年を基準に、〝太平記中の主要人物〟の年齢を、拾ってみても。

 足利高氏(二十歳)新田義貞(二十四、五)楠木正成(二十八、九)北畠親房(三十二)日野資朝(二十九)日野蔵人俊基(二十六、七)護良もりなが親王(十七)──また、後醍醐天皇は三十七歳の御壮年だし、楠木正行まさつらや北畠顕家あきいえなどは、まだ五、六歳の乳臭児にすぎない。


 先ごろ、鎌倉を半日歩いた。杉本画伯は国画会の審査日で行けず、鎌倉在住のY氏や社の学芸子、ほか二、三人が同行してくれた。

 かねて菅原通済すがわらみちなり氏が、常盤山文庫所蔵の有名な、〝尊氏の願文〟を見せようと約して下すっていたが、あいにく通済氏は出京中。拝見は、他日とする。

 いつもの東海道コースをかえて、本牧から磯子、富岡、金沢、朝比奈越えの道をえらぶ。私はハマ生れのいわゆる浜ッ子だが、このコースの変化にはおどろいた。横浜は昨今、開港百年祭の準備で、終戦後初めてといっていい明るさにある。


 途上、どこより先に、まず金沢文庫を訪れて、関靖せきせい先生に十年ぶりでお目にかかる。

 以前、私は夏中よくここの緑蔭に来ては、何かと博士の教示にあずかったものである。その頃か。兼好法師の消息の上包うわづつみを、文庫の屋根裏から発見したと、狂喜されたことなどあった。生涯を文庫の再建と、鎌倉文献の研究にささげて来た先生も、よわいすでに八十。とつぜんなのに、すぐ御自宅から杖にすがって文庫へ見えられ、そして私のために、たちまち書目をあさって、太平記関係のものを示されるやら、旧懐談やら、おはなしは尽きない。


 太平記を見直すためには、金沢文庫はその宝庫のようなものである。惜しいが、再訪を約して、文庫長の熊沢氏とも、行きずりのままお別れする。

 朝比奈山にかかると、同行のY君が「ここの峠は、こんちゃん(日出海氏)が銀座から深夜帰る途中、きっと車から降りて小便する所です」と名所案内みたいなことをいう。そこで、小生も車を降りてどんなものかとこころみる。六浦むつうら一望、なるほど、彼は風流児である。

 鎌倉では、杉本寺にのぼり、東慶寺では偶然、ささき・ふさ女史の苔碑に会う。近くに真杉静枝女史も眠っている。真杉さんのお墓には、誰が供えたのか、ガラスびんの酒徳利に、お酒が上げてあった。


 円覚寺の黄梅院で、暮れかける。お訪ねした辻雙明氏は御不在。だが、ここには鎌倉時代そのままなやつ幽翠ゆうすいがしいんと残っていた。また、いただいたお茶に水の良さも思われた。

 辞して出ると、行きずりの続灯庵の和尚が「よい物をお見せしよう」と、先に立つ。ついて行くと、正続院の一庵の裏庭で、艶なる牡丹十数株が、薄暮の中に、見る人もなくけんきそっているのだった。和尚は、われらのために牡丹を見せたのか、牡丹のために客引きとなって私たちを連れ込んだのか。これは一案の提唱になりそうである。が、山門へ来ると「左様なら」と、あっさり一灯の洩れる房のうちへ、別れ去った。(三三・五・九)


その四


 現代小説は身軽らしいが、私の仕事はいつも史料と同居している。そのため、とんと億劫おっくうにしていたが、前月末、久しぶり関西方面へ旅行した。

 目的は、そろそろ登場人物として腹案中の〝楠木正成〟とその郷党の地、南河内からあの附近の史蹟を、足で歩いてみることだった。


 ちょうど、親鸞七百年忌をかねた相愛学園の記念大会もあって、それへ出る一日も日程に組み入れ、名古屋駅で杉本画伯を加え、社の学芸子などあわせて、四、五人で京都に降りる。

 下車早々、Y京都支局長から「京大の教授に、足利尊氏の末孫という人がおられますがネ」と聞かされた。

 しかし、これまでにも私は、何通となく「わが家は、足利尊氏の子孫と言い伝えられてますが」という読者の手紙をもらっている。で、たぶんY氏がいうのも、足利支流のそうした家系かと軽く聞いていたが、やがて宿の大文字家に落着いてからの話だと、どうもこれは聞き捨てならない。

 そこで私は急に言い出した。

「ひとつ、今夜中にその人に会わせてくれませんか。明日は大阪、明後日はもう河内行きだから、ぜひ今夜中に」。


 夕がた、南禅寺の龍村家の庭を拝見、その足で初子の営む奥山へ行く。先に諸方へ電話したり、記者を走らせて、手配を尽してくれたY氏も来て「やっと今、尊氏の末裔まつえいをつかまえましたよ。つい近所の細川護立ほそかわもりたつさんの別邸内に住んでるんです、すぐお見えになるそうですから」と、まるでちょっとした捕物騒ぎ。


 食事をひかえて、お待ちする。と、程なくその足利氏が見えられた。五十なかばか、物静かな紳士である。かりにその背広服を、直衣のうし直垂ひたたれにかえ、頭に冠をのせたら、人品すでに、その物である。学究臭いぎこちなさもなく、酒は余りけないが、話はすごくおもしろい。


 ここで私が、氏の無断紹介をするなどは、おそらく同氏にとっては御迷惑なことだろう。けれど六百年後の今日、私本太平記の筆者が末孫たる君に巡り会うなどという奇縁からして、そもそも、祖先尊氏の引き合わせかもわからない。と思って、観念していただくことにする。

 お名前も、足利惇氏あつうじさんである。京大ではぼん文学(東大でいう印度哲学科)の教授、学習院時代には、いまの陛下と同級であったという。だからお年は訊かないでもすむ。五十七。


 東京の家庭は、有馬邸の内で、作家の有馬頼義ありまよりちか氏は義弟に当る由である。だが、細川さんとはどういう御縁か。私も訊いたが、人にもよく訊かれるらしい。「だって昔は家来筋だものナ」。そう答えたッておかしくない。だが、惇氏あつうじ氏は、笑ってこういう。「細川さんへは、貸しがあるんですよ。貸しといっちゃあ、まずいかナ。まア、そんな関係がね」。

 そこをみんなで根ホリ葉ホリし始める。由来は、こうであった。

 幕末ごろ、熊本の細川藩から、当時十五、六歳の細川護美氏というおん曹司ぞうしが、野州喜連川やしゅうきつれがわの足利家へ養子に入った。

 ここで私の調べたところを少々加えると。

 足利将軍家の正嫡は、室町幕府の滅亡後、各地を転々とし、天正十八年、徳川家康の擁護で、やっと下野しもつけ塩谷郡の喜連川に一万石の封土を得て落着いた。

 これが足利左兵衛督国朝あしかがさひょうえのかみくにともで、世に〝喜連川公方きつれがわくぼう〟などと呼ばれたものである。

 表向き、徳川幕府は「礼ヲ以テ之ヲ遇ス」などと恩に着せたが、喜連川一万石も、じつのところ、実収高は五千石にみたなかった。そのくせ格式だけは高い。よけいつらかったわけである。

 こんな由緒いわれつきの小藩へ、熊本の大藩から養子入りした年少の護美氏が、辛抱出来なかったのは当然だ。そのうえ幕末維新の中央は若い夢をそそらずにいない。そこでこの若殿の養子さんは、ついに家臣の隙をうかがい、藩の小判をふところに、出奔してしまったのだ。まるで小説のような話がこのあとにもある。(三三・六・一)


その五


 公休日は一日が定法だ。だのに私の〝小説公休日〟が二回にわたるなど、沙汰の限りである。読者のおゆるしを仰いでおく。


 それというのも、こんどの旅行中、はからずも尊氏たかうじの末裔、足利惇氏あつうじ氏に会ってしまったためである。半分は惇氏氏のせいだとしよう。大いに語らせねば読者も気がすむまい。

 前回、話半分で終ったが、小判を持って養子先の足利藩を逃げ出した細川護美氏は、まだ十六、七の若殿なので、おそらく熊本の自藩へ一目散のつもりだったに違いない。だが途々、草鞋わらじを買うにも小判を出し、旅籠へ泊っても、いきなり上段の間に坐ったりするので、忽ち宿役人に捕まってしまった。とどのつまりこの養子は、離縁となった。やがて明治政府となって、この人は独逸ドイツ公使となっている。現、細川護立氏の祖父の御兄弟だろうか。

 惇氏氏が冗談に「細川さんには貸しがある」と言ったのは、つまりそんな関係のことらしい。


 足利家へは、その後で、水戸家から烈公の十一番目の一子が養子に来て、これは落着いた。

 しかし、国粋主義の水戸藩が、南朝の逆臣足利氏の家系と、縁組みするなどとは、ちと奇観である。それにまた、喜連川一万石の小藩へ、御三家からの養子入りなども、常識では考えられない。

 惇氏あつうじ氏はニコニコしつつ、こう続けた。

「べつに文書もんじょも何も残ってはいませんがね、私の家にも水戸家にも、こんな言い伝えが昔からある。例の〝大日本史〟ですネ。尊氏が逆賊と決定づけられたのも、あれからですが、その編纂をとくした水戸光圀みつくに(水戸黄門)も後では少々尊氏に気の毒だと考えたのか、こう遺言しておいたというんです。……これでは後世、足利家に男子のない場合は、三百諸侯から養子の来人きてもあるまいから、断絶になる。そんな時には、必ず水戸家の男子一名をるがよい、と」

 これはおもしろい。光圀の〝大日本史〟編纂の意図を窺う上からも、また尊氏観にも、示唆に富む話ではあるまいか。


 当然、尊氏に討たれた楠木正成も話題にのぼる。

 だが惇氏氏はただ「……正成って、やはりいい人だったでしょうなあ。少なくも正直な人ですよ」とだけ言った。そして先祖の尊氏についても、多くをいわず。「どうも歴史上、あんなにまで国家主義に利用された人物はない。それもいいが、こう敗戦日本となっちまッては……」と後を笑いにまぎらした。

 察するに、戦時中までは、ずいぶん〝尊氏の子孫〟という眼で、いやな思いもして来られたらしい。


 学習院時代でも、歴史の時間はつらかったそうである。当時の院長は乃木希典のぎまれすけ大将だった。南北朝史が講義をされる前日などは、あらかじめ学校当局から「明日の講義には、君の先祖の事歴も出るが、ひがんではいけない」と、厳にいましめられたりしたという。それでも、逆賊尊氏の名が出ると、同級の皇太子(現、陛下)から級友たちの眼が、みな自分を刺すように感じられたそうである。

 忠臣蔵の吉良上野介も、祖先は足利家の支族である。だから尊氏が中原ちゅうげんへ出た軍需や足がかりの地は、三河だった。

 そんなわけで、ここにもまた一挿話がある。義士討入りの当日、不忍ノ池の足利邸から松坂町の吉良邸へ、ある問題で、お礼の使者が行っていた。──その使者が大雪の中を帰って来た夜に、あの事件だった、という。

 それ以前から、上野介は、本家の足利家が、あまりに微禄なのを見かねて、足利家の転封を、時の幕府に内々運動中であった。そしてほぼ成功のしょについたところを、彼の横死で一切は闇に葬られてしまった──という語り継ぎが、足利家にはあるそうだ。──こうてくると、過去をただ時の流れといってしまうには、余りに人と歴史のあやは目に見えぬ密度の糸でかがられている。


 さて。かんじんな河内紀行だが、もう枚数がない。またの機会に書くとする。ただ同日、小雨の中を、観心寺、赤坂、水分みくまり、楠木氏夫人の遺蹟など、多大な労をとって下すった郷土の諸氏に、厚くお礼だけをのべておく。(三三・六・二)


その六


 近々のうちに、「あしかが帖」を一トまず閉じて、次に楠木正成を中心とする「菊水帖」へ筆をすすめる予定である。


 先月、つい書きもらしたが、五月下旬の私たち一行の〝河内紀行〟は、私にそんな腹案があったのと、ちょうど東北大の豊田武教授とも同行の約が出来たので、大阪滞在中の寸暇、あいにくな小雨を見つつも、むりに出かけて、観心寺、水分神社みくまりじんじゃ楠妣庵なんびあんなどを中心に、あの附近を一日じゅう、濡れ歩いてみたわけだった。


 次の帖を「菊水帖」とするか否かには、じつのところ、少々迷った。

 この象徴シンボルには、どうも理窟なしに、かつての極端な指導者の軍国利用や虚構のかげがさす。そんな先入主と混同されては、迷惑だし、小説にも失望されよう。で、楠木帖、ちはや帖、何々帖とならべてみたが、正成を書く以上、題語などは、五十歩百歩、文芸的には何の内容関係もない愚とさとった。

 素心で見れば「菊水帖」は字ヅラもきれいだし、語感もよい。正成を書くにしても、私はただ、文学的素心で自分の正成を書くしか方法はないのである。


 正成ほど、史家を悩ませる人はあるまい。

 かつては、余りに神格化されすぎた大楠公だったし、近来の研究では、その人を人間として息吹いぶき返させる史料にも、じつに乏しい。家系、職掌、人となりにも、不明が多く、彼のはっきりした姿は、笠置かさぎに召されてから、湊川の合戦で、尊氏の軍に当って死ぬまでの、六年間に見られるのみだ。


 けれど、彼にも生まれたところの山河がある。山河に偽色はない。大阪から車で約二時間ちょっと。南河内千早赤坂村の彼の故郷へ立った。そして、ない物ねだりの史蹟一巡をこころみる。──前述の豊田武氏、杉本画伯、社の数氏に加え、観心寺の下で待ってくれた永島住職や小柴河内長野市長、ほか土地の人々も入れて、ちと仰山な人数になる。


 寺宝の文書もんじょや内陣の諸仏を見てから、正成の首塚、建掛たちかケのとうの辺りに立つ。ここで得たものは、それらの既存の遺物よりも、正成一族や和田氏その他の近郷武士が、この自然と伽藍がらんって、何を考え、何を志向していたか、当時の彼らの生態なりわいやら生きこだまがそこはかとなく心に響いてくることだった。


 南北朝の世頃、四十六坊といわれた山門下の寺元村の茶店前には、観光バスや修学旅行の学生が群れをなしている。

「楠木氏の菩提寺の中院ちゅういんは、あの辺です」と、永島住職が指さす。水は見えないが、崖下は金剛山の西麓からくる石見川である。奥からは、良質な檜材ひのきざいが出る。鎌倉時代には、ここの檜が都へ送られ、仏師の彫刀に刻まれたらしい史証もあるとか。で、観心寺には、尾山おさんの山号もある。


 菊水紋の話になる。

 楠木家の菊水ノ紋については、郷土の間でも、諸説紛々で、一定はないらしい。朝廷から賜わったとするのが従来多い説だが、ここの郷里には、おもしろい口碑がある。「──菊水の菊は、菊の花でなく、山吹に流水を添えた山吹ノ紋だった」というのである。


 もしほんとに、山家静かな里の瀬の山吹が、あやまって武門に咲き、時潮に乗せられて、いつか菊の花となり、菊水となったのなら、それこそ正成という人を、真に象徴しているものかも知れない。奈良街道には、有名な井出ノ山吹があるし、ここの水分川みくまりがわやほかの瀬々にも、古くは山吹がたくさん咲いていたようだ。


 建水分神社の宮司岡山氏が、私たちのため、雨傘をし添えて、石階数百段を木履ぼくりで案内してくださる。楠木氏が水分みくまりの水利権を抑えていたのが、この地方に重きをなしていた重因であるとるのが、豊田氏の近説である。道に辷り、山坂の小雨しぶきに濡れながら、豊田氏の説にうなずく。


 正成夫人、久子の生家のあとを見て通る。この日、奥の金剛山は、雲煙につつまれ、赤坂城の址には、蜜柑畑のみどりが濃い。正成の屋敷やしき址は、いまの千早赤坂小学校だ。山雨を避けて、校門へ駆け込む。蜂ノ子みたいな学生たちにワイワイ囲まれつつ、雨の小やみを待つ間、健吉画伯は、そこらの写生に他念もなかった。(三三・七・八)


その七


 この一稿を挟んで、「菊水帖」へ移るが、新聞小説の日課を、あらためてこれはたいへんだぞと思った。前に経験した新・平家物語にくらべると、まだ週刊誌誌上での二十回分程度しか書いていない量である。──ずいぶん書いてきたような長途の感を覚えたが。


「菊水帖」は、菊水帖から新たに読み初められても、さしつかえないものになるつもりである。

 意図としてでなく構成上、次の「××帖」も同様に、一帖一段落でゆくつもりなのだ。「いッたい、太平記のどの辺まで書く御予定なんですか」ともよく人にきかれるが、それも「──行けるところまで」というのが私のたてまえである。読者が飽いたらすぐやめる。


「あしかが帖」での、高氏、道誉、藤夜叉、高時、ほか傍系の人物も、やがてみな菊水帖の登場人物となろう。読者には、草心尼や覚一など、実在の人か否か、その辺が気がかりらしいが、覚一は実在の人である。ただ、足利高氏のおい従兄弟いとこかには確証がない。──ないままに私はいとことして書いた。


 従来、将軍足利尊氏の縁者に、そんな変った盲人があったことなどちッとも注意されなかった。だが覚一は後年、明石に住んで〝明石ノ検校けんぎょう〟といわれ、後醍醐、光厳、後村上、光明の諸帝も彼の平家琵琶を愛された。盲目の彼一人には、南北朝の別もなくまた暗黒期もなかったのだ。

 その晩年には、京都高倉綾小路に〝清聚庵〟という盲人組織の職屋敷をおいて、それまでは全く社会の癈疾者──厄介者としかみられていなかった盲人に〝平家琵琶〟という一職業を与え、検校、別当、勾当こうとう座頭ざとうの四階位から十六階位までの瞽官こかん制度のゆるしを得、瞽官の授与やその他で上がる金で、全盲人のうえに希望と保護をもたらした人でもある。


 大きくいえば、覚一は琵琶の名手で、なお日本の盲人の父だった。覚一の出現で盲人の社会的位置は全く一変した。宮中から公卿、武将、庶民の巷にまで、ひと頃は、琵琶法師の見られぬところはなかった。それまでは、ひどい話だが「盲が一人死ねば、長者が二人できる」とさえ当時のことわざにいわれた程なものだった。──けれど、そんな人も、逆臣尊氏の縁者という悪名にるいされてか否か、歴史の上ではほとんど影を消されており、もちろん今日の盲人諸君にしても、自分たちの先人せんじんに覚一があったことなどおそらく知るまい。


 先ごろ河内紀行から帰った直後、三重県上野市の久保文雄氏から天来の一信をいただいた。氏の郷土史報告によると、楠木正成の縁類にも、盲人ではないが、覚一のごとく、芸術に生きて、あの大暗黒期の下から、長い後世にわたる芸林の源泉をせせらぎ出していた人があったという。以来、私は私なりに、書庫の鼠となって、その裏ヅケとなるべき傍証漁りに熱中した。

 いま詳しくは述べえないが、久保氏の手がけた伊賀の上島家文書中の能面のうめん覚エやら観世系図によると、観世流の始祖、観世清次きよつぐの母は、楠木正成のごく近親な者で、姉か妹かは不明だがとにかく──河内国玉櫛たまくしノ庄たちばなの入道正遠ノじょ──と明記があり、それは信憑に足るものと、発表されているのである。久保氏のこの新提説は、まだ学界として取り上げられるまでには至っていないが、氏の示唆による私の私なりな詮索せんさくでも、そのいわれある点や、根拠といえるところがどうやらつかめて来た気がする。従来、一族みなコチコチな人とのみられていた大家族楠木氏のうちでも、性情さまざまな人が、もちろんいたはずといってよい。しかもその一人が、日本能楽の始祖の母だったという一構想に立ちうれば、私の文学的想像の野も、千早ちはや金剛こんごう、湊川だけのものではなくなって来る。


「菊水帖」の予告と共に、たちまちいろんなお手紙を頂戴した。久保氏の御書面などは天来のものだが、どうにも御返事に困るのも多い。要するに、歴史の山河は、私たちの汲む水道の源流みたいなものだ。未曾有なヒデリもあり大颱風もそこにはあったが、善意の人間の一脈だけは、今日にも流れ続いている。正成や尊氏は、いわば颱風時代に揉まれた生命中のきょなるものだ。官賊の別や功罪の論などは、私本太平記の任ではない。揉みに揉まれた荒天こうてんの下の生命それぞれを書いてゆきたい。出来ることなら、その颱風の眼を、筆のさきでとらえてみたい。(三三・八・四)


その八


「菊水帖」になって、三十回ほどになる。

「楠木正成はいつ出るのか」と、ままきかれるが、増鏡や古典太平記では、後醍醐天皇が笠置落かさぎおちのさい、天皇の夢告から、こつねんと召されて出て来る正成である。しかし、現代の読者には、やはり人間正成の出現でなければ心から受けとれまい。それが「菊水帖」の主要テーマなのだから、いささか、私も私なりにここは構造をらしてみたい。


 まいどのごとだが、正成の前半生には、殆ど信じるに足るほどな史料は皆無に近い。

 ならば、小説的な空想にはかえって都合がよさそうなものだが、昨日までの日本史では大楠公としてきた過去の忠誠の象徴である。いたずらに、偶像をやぶるだけがのうでもないし、それだけでは意味もない。とぼしい史料をも、ていねいに、再検討して、ややうなずける人間正成をこの「私本」に新しく築いてみたい。


 日野俊基をかりて、河内や石川盆地の散所民さんじょみんなどを書いたのも、正成を生んだ郷土の特色とか社会条件なども、一応、描いておく必要からであった。

 しかし、俊基の潜行は、私の作為ではなく、天皇が奈良や叡山へ、政治的な行幸をこころみている間に、彼が勅旨をおびて高野その他の諸大寺をひそかに行脚あんぎゃしていたのはほぼ事実といってよい。


 古来、正成の兵学上の師と伝えられている毛利時親(所伝・大江時親)についてのことは、読者の一人、山口県豊浦郡豊田町西市の中野盛紀氏から寄せられた懇書に拠るところ多かった。


 中野氏の家系は、鎌倉執権代の長崎高資のえいとか。山口県での毛利氏研究には専門家以上の造詣ぞうけいのある人である。ほか、読者の御好意は何くれとなくいただいているが、一片の御示唆でも、それを小説中に用いた場合は、明記して、お礼に代えるつもりである。


 平家物語の治承・寿永の世には、西行法師という風外の歌法師がいたが、太平記の大乱時代にも〝徒然草つれづれぐさ〟の著者で知られているすね法師兼好けんこうがいた。

 兼好法師は、太平記の中では、こう師直もろなおにたのまれて、人妻へ横恋慕の手紙の代筆をするぐらいにしか使われていないが、将来、この兼好法師なども、私本太平記の中では、もっと、あの時代をどう生きたかという観点から、書いてみたい。

 ついでに言っておけば、私本太平記の今のところは、元徳二年だが、その元徳二年は、兼好法師四十八歳のときで、彼はすでにぼつぼつ何処かで〝徒然草〟など書きはじめていた頃である。


 この二ヵ月ちかくは軽井沢で仕事をして来た。ことし辺りの軽井沢は、すっかり青年たちの軽井沢に変ったようだ。よく書斎の窓へ来た小鳥も栗鼠りすもだんだん顔が減っている。

 去年はここに見えた升田名人も、今年は入院と聞いて、

病むもよし

  病まば見るべし萩芒はぎすすき

 と呟いた一句を、彼への便りに出そうと思いながら、ついまだ見舞状も書けずにいる。


 浅間測候所のしばしばな警告によると、いつ爆発があるか知れぬほど、今年は異常に山が鳴っているそうである。だが誰一人、浅間山を心配顔で見る者はない。いや世界の鳴動も、社会の鳴動もするが、火を噴くまでは、みんなたかをくくっているものだろうか。おそらく、南北朝大乱の前も、そんな世態だったのだろう。歴史はいつも、浅間測候所の如く未然を告げているのだが。


 この初旬には、例年の毎日、文春、両社主催の高原ゴルフ大会がある。盛夏は遠慮して、わざわざ二百二十日がらみの人なき頃にやるわけだ。文壇、各界いろんな顔が無慮六、七十名も集るので、浅間山麓の鳥類どもも顔マケの観がある。これがすまないと、軽井沢もほんとに静かな秋にならない。もちろん、運動会の中学生みたいなもので、年々、私の机なども、それからでないと真に灯下の秋が来ない気がする。(三三・九・七)


その九


 まず、新年の賀を、おめでとう、と大方の読者へささげる。ここは理くつ抜きに。

元日はよいものと思ふ

なにもかも


 社会的にも個々にも、なみなみならぬ去年であった。そして今年もと、覚悟はされるが、とにかく健康と平和があれば、その国もその人も、至上な幸福とせねばならない。いまの地球住民ではそれが最良級である。


 そんな中で、はや一年。「私本太平記」などを悠々と書かせてもらい、また愛読を得たなど冥加みょうがにあまる。だが作家妄執とは、そんな気持の、もひとつの裏側のものである。今年もまた私はひたむきに書くだろう。その手初めに、正月から読まれる新読者のために、作品の骨子と概要だけを述べておきたい。


 去年一年で、私は何を書いて来たろう。「あしかが帖」で尊氏の若い日の輪郭りんかくを。また「菊水帖」に入って、楠木正成とその郷土の人々を。──それから、後醍醐天皇という不世出な天子と、若い衛星公卿の復古運動が、末期的な時の幕府をおびやかし、その武断をよび、はやくも日野俊基ひのとしもと資朝すけともらの犠牲を生みつつ──ついに、天皇の宮中脱出から、叡山旗上ゲの皇子らの手ちがいを見る──と、いった辺までを、どうやら書いてきたにすぎない。

 これではまだ、太平記ほんらいの〝南北朝物語〟としては、目鼻もととのっていないのである。作家構図でいえば、南北朝という敷地に、後醍醐天皇、北条幕府、足利尊氏、楠木正成と、こう四つの柱建はしらだての基礎工事が、まずまず出来たばかりといってよい。

 で、新春からは、笠置かさぎ籠城の天皇軍へ召された楠木正成が初めて宮方となって起つ辺から筆をとるつもりである。中年以上の人なら、ここらは覚えておられよう。私たちは小学校の歴史時間でよく教わったものだった。しかし私はもう小学生でもない老書生だ。日本も世界も変った。史観もすすんだ。どう書けるか、正直、重たい至難を感じている。


 史料は少なくない。だが史料の中に埋まってみても、南北朝史の密林は立ち暮れるばかりなのだ。ただ、頼れるものは、六百年前の人間も、近代人も、ともに人間であったということと、人間が作る社会であったということだけだ。

 笠置を書くには、ぜひ史蹟を踏ンでみたかったし、また、金剛山から赤坂辺の再遊も期しながら、つい旧年中は旅行出来ずにしまった。が、健吉さんは、私にシビレを切らしたとみえ、「こないだ、ひとりで行って来ましたよ。よかったなあ、冬の笠置は」と、誇っている。おそらくこの筆間茶話の挿絵には、そのスケッチを描くだろう。すこし小憎い。


 やがて、後醍醐天皇が隠岐おきしまへ流される日を読み越して、隠岐ノ島の観光面や有志の方々から連名で、書く前にぜひ一遊してほしいと、史料文献なども送ってよこされた。同様に桜山茲俊さくらやまこれとしや備後三郎などの史蹟のある地方からも、おすすめをいただいている。時間がゆるせば、どこへも行きたい。しかし書く以外の〝調べる〟ことに、こんどの仕事ほど時間を食われた経験はない。

 ここで過誤のおわびをしておく。第三百十四回〝佐渡へ〟の中で、流謫るたくのお方を後鳥羽院ごとばいんとしたのは全く私の思いちがいで「順徳天皇」でなければならない。

 とたんに、読者からのお叱言は、数十通にのぼったろう。係のM氏はノイローゼになりそうだと言った。私の手もとへもいまだに絶えない。新年早々、お詫びするわけ。──毎日丹精に、切リ抜キ保存をし続けておられる方は、恐縮だが、御訂筆を加えておいていただきたい。


 要するに「太平記」は、かつての日本国内の兄弟喧嘩の小説である。今も「山家集」の歌のようにはなれない日本か。

春となる桜の枝は何となく

花なけれども

むつまじきかな

 次のは「源三位頼政家集」にある歌だが、ことし御成婚の正田美智子嬢に寄せたような歌なので、載せておく。

みやま木の

そのこずゑとも見えざりし

桜は色に現はれにけり(三四・一・一)


その十


 笠置かさぎ落ちや赤坂城の殺伐さつばつな筆に飽いたので、「群雀帖」の初めに、兼好法師の小僕の命松丸と雀のことなど書いたら、それから妙に私は雀が目につき出してきた。考えてみると、この東京なども、戦後人口は急増したが、雀はすっかり減っている。


 品川区に住んでいた頃、品川の雀は色が黒いなと思ったことがある。煤煙ばいえんのせいであろう。赤坂へ越して来たら、赤坂の雀はまだ少しはきりょうがいい。奥多摩を考えたら、奥多摩の雀はほんとの雀色をしていた。

 田園では毛ナミもよしさえずりもいい雀と思って選挙しても、東京でももっとも空気の悪い国会周辺に遊ぶ議員雀となると、みんな変に薄ぎたなくなってしまうのと同じようなものだろうか。


 命松丸は生涯、兼好法師にかしずき、兼好の死後、師の反古を集めて今川了俊いまがわりょうしゅんに提出し、あの〝徒然草つれづれぐさ〟を残した者だといわれている。その命松が、ふところだの、ふとんの中にまで、雀を飼って愛していたと書いたので、たちまち二、三人から「そんなことが徒然草にも書いてあるのか」とか「雀がそんなに人に馴れるかしら?」などとあやしまれた。


 もとより徒然草にそんなことは載っていない。いまの都会とちがって、南北朝時代の京都などには、京雀ともいうほど朝夕わんさと雀がさえずッていたろうし、兼好法師などはその藪雀やぶすずめの一羽に似ていた。けれど小説中の雀は私の創作である。といって、でたらめを書いたのでもない。宮津地方の人で、子供のじぶんからほんとに雀が好きで、命松丸がやったように雀を飼い馴らした人をじつはモデルにしたのである。

 でも、あまりただされると少々動揺して、おそまきながら中西悟堂氏の著書だの雀譜や辞書など調べてみた。と、やはり雀は馴らせばどんなにでも馴れるものとあったので安心した。中西さんの実験だと、家族同様、外出にも連れ歩くし、朝の味噌汁の椀のふちに止まった雀が、足をすべらして、汁の中に落ッこちてしまい、中西さんのあの白いヒゲの童顔を、味噌汁だらけにしたことなどもあるそうだ。


 そんな雀も、人間が愛の目で見ず、雀焼きにして食べたりするものだから、いつか人間に極度な警戒をもつようになったのだろう。しかし南北朝時代の人間は人間同士の殺戮さつりくに明け暮れしていて、まだ酒の肴に雀ヤキまでは思いついていなかった。おかげで、藪雀も、軒雀も、あの時分はまだ楽土を歌っていられたことであろう。そして自分たちも稀れには雀合戦をやるが、人間がもッぱら努力をかけている血みどろな戦場などは、いったい何のために何をやっているのかと、ふしぎそうに高みで見物していたに違いない。


 過日の南北朝展でも、絵画から古鏡、蒔絵の図様にまで雀の図がよく見られた。往時の世間には、眼をやるところ雀がいたのであるまいか。それらの作品にも、人間が雀の持っている平和を羨望せんぼうしているようなおもむきがある。私たちもついさきごろの戦争の空襲下では、地にいる人間の座をかなしみ、梢雀たちを羨ましいとしみじみ眺めたことがある。

 だが、私たちはすぐそれを忘れちまうのだ。雀は忘れない。いちど仲間が焼鳥にされた痛恨は忘れないから、たとえ私が中西さんのくち真似してチッチッと呼んでみても、私の窓へは寄ッて来ないのだろう。淋しいがしかたがない。私は私本太平記でも書いて、私の中に人間懺悔ざんげを返しながら、それを雀供養の一つとしよう。そんなふうに考える。


 後醍醐天皇が隠岐ノ島へ流される章にちかづいた。かねて隠岐一遊を、島の団体からすすめられているが、原稿も日々だし、机忙きぼうは溜るばかりで、どうも今のとこ行けそうもない。ちょっと山陰、九州辺の南北朝史蹟だけでもと、この春は考えている。

 いぜん史料の寄与やご助言をいただいているが、ご返事のおこたりはゆるして欲しい。正直ゴルフにもほとんど出かけてない。陽気異変で春は早く来たが、筆は遅く、ここ少々尻痩せの私である。今日、窓外は春の雪に暮れた。めずらしく客は少なく、雀も見ない。(三四・三・三)


その十一


 御成婚式も間近い。

 四月は皇室の最上なおよろこびの月である。が、あいにくこの私本太平記のうえでは、六百二十年前の歴史の故事ふるごとではあるが、隠岐おきへ島流しとなる後醍醐天皇のみじめなくだりを次回から書かねばならない。


 平和の真価は、戦争の悲惨を書くとにじてくる。今日の皇室の姿は、かつての天皇や皇子がまれたいばらを振りむいてみることで、そのご幸福さも一ばい切実に思われずにいられない。たまたま、現皇太子の御盛事のさなかに、後醍醐やらまたその二皇子の悲惨な流離を書くなど、まことに皮肉には似るが、古今をながめくらべて、それが読者のむねに何かの答えを持つならば歴史は今日に生かされたことになる。


 隠岐遷幸おきせんこうの道順は、増鏡や古典太平記にもかなり詳しいので現代からでもよくわかる。しかし途中船坂山で天皇奪回を策して成らず、院ノ庄の行宮あんぐうへ忍んで有名な──天勾践テンコウセンムナシュウスルナカレ──を桜の木に書いて去ったと伝えられる児島高徳たかのり(備後ノ三郎)は、どうもむずかしいまぼろしの人物なので、その調べにも扱いにも苦吟させられる。


 古いことだが、児島高徳非存在説が一時史界をふうびした時代があった。重野、久米博士など抹殺論の方だった。しかし八代国治博士そのほか反論も多く今日にいたっている。おかげで高徳研究は大いに進み、高徳の墓が発見されたり、また古典太平記の筆者小島ノ法師こそ、じつは晩年の児島高徳その人であるなどの説も出たりした。だが結論はいまだについていない。

 同様に、隠岐ノ島にも、未判定の問題がのこっている。

 この方は、現実の隠岐島民間の論争やら、また対文部省の史蹟指定の面だとか、観光客誘致の方にもひッかかっていることなので、もっと厄介な難問題だ。


 隠岐ノ島と一括して呼ぶ大小四つの島は、大別して北部の島後(どうご)と南部の島前(どうぜん)とに成っている。

 古来、後醍醐帝が一年ほど流されていた地は、島前どうぜんの黒木ノ御所となっていたが、これもまた、吉田東伍博士らの島後説どうごせつが文部省をうごかし、帝の配所地は、島後の国分寺であると変更されて、従来の島前は、その史実性や指定地の資格まで取消されてしまったのだ。

 ところが、古くからの島民の口碑伝説、また地名郷土史的なものは、すべて今もって、島前の黒木ノ御所がほんとの史蹟であるとして、かたく信じたまま疑っていない。

 ──そこで今日では、島へ来る一般観光客へも、一島の内の二ヵ所の遺跡で「後醍醐天皇の御配所の地はこちらでござい」と大声で家元争いをうたうという珍風景を呈しているわけである。どうも困ッた問題だ。さだめし後醍醐も地下で苦笑しておいでだろうが、私本太平記の筆者としても、いったい、どっちへ天皇をお流ししてよいものやら頭がいたい。


 途中の警衛役としてった佐々木道誉と帝との間には、恐らく史家もうかがいえぬ史外の関係が生れていただろうと思う。

 帝の流されてゆく隠岐ノ島の地頭も、道誉とおなじ佐々木同族の清高だった。当時、佐々木系の族党は、近江本国から武蔵、相模、三河、出雲、備後にまで分布されていた点も、高氏の足利党などより格段上な大族だったと観ることができる。

 一ノ宮尊良たかなが宗良むねながの二皇子は、土佐と讃岐へ流された。

 その途中、皇子の一行は、播磨の加古川附近で、後醍醐の護送を見かけられた。で「父に一ト目会わせてほしい」と、武者どもにすがッてお頼みになったが、許すところとならず、あえなく父皇は山陰へ、皇子は四国へ引き裂かれて行く。

 これなど、歴史とみれば一場の悲劇にすぎないが、現実の今日の四月におきかえてみれば、一ばい古今の感がある。

 当年の皇子お二人は、ちょうど現皇太子ごろのお年頃だった。私たちが、象徴としても皇室というものをお互いにで戴いている以上は、折にはこういう回想もしてみる必要はあると思う。そしてそのうえで、十日の御慶事なども心から共によろこび合いたい。(三四・四・一)


その十二


 旅行したい、どこへ行きたいも、うたにうたっているだけで、「院ノ庄」の一章も、つい回を追ってしまった。

 元弘の年、後醍醐の輦輿れんよが通った姫路、杉坂、津山などの中国地方は、以前、宮本武蔵を書いていたころ、英田川あいだがわを中心に、かなり歩いた。もう二十余年も前にはなるが。


 寸閑、知人の媒酌で京都へ行ったが、その一ト朝、八十余歳のN老人に早朝叩き起されて叡山へ登ってみた。頂まで観光道路ができてから叡山のスケールは全く一変の観がある。

 山に近代を附加すると、山はそく、下界になった。

 いろんないい意味もあるが、いけないことも生じよう。伝説の〝将門岩まさかどいわ〟なども観光客の足の邪魔になってるだけで、からびていた。その代り焼けた大講堂の再建などは、たちどころの好況らしい。


 叡山だけの観光バスが終日、雲のごとく上下している景観をみても、週刊誌なんかは、およそ当今では低廉随一のものではあるまいかと思った。拝観料だの、展望台の入場料だのと、次から次に、週刊誌約一部ぐらいな小銭がついつい出てしまう巧い仕組みにできている。だが群集浪費の心理はちっとも惜しむ風がない。世に活字ほど、買うのに思案させる物はないとみえる。


「児島高徳」では、いろんな御寄書をいただいた。例に洩れず、家系、史蹟、口碑こうひが多い。

 健吉さんに嘱して載せた高徳の肖像画も、元本は津山市院ノ庄の作楽さくら神社に伝わる木像の写しである。これは無断で相すまないが豊田稔氏の著「児島高徳皇子論」から転写させていただいた。また、大覚ノ宮の事蹟についても同書に拠るところが多かったことを明記しておく。

 つい「備後ノ児島高徳」と書いたところで、数名の読者から「それは、備前の誤りでしょう」という御注意があった。正しくは備前の住人であるが、備後にも家祖の領があったようである。私の誤りだから俗称にも従って単行本ではそれを随所で訂正しておいた。しかし昔から、古典や記録に、高徳の称はじっさい種々さまざまに書かれてきた。

 備後ノ三郎高徳

 児島三郎高徳

 児島備後守高徳

 児島三郎入道志純しじゅん

 三宅三郎高徳

 みな異称同人なのである。これでみても、この一土豪は、当時、そう強大な地位にあった著名人ではなかった証拠であると思う。


 彼を一躍有名にしたのは、天勾践テンコウセンヲ──の一樹の桜だが、従来、議論のやかましいものである。その一章も私なりの想像で書くしかなかった。

 次には、後醍醐の隠岐における行宮が、島前どうぜん島後どうごか、これがまた問題である。さらに隠岐脱出のこともある。「私本太平記のためには、ぜひ一遊すべきである」と、先ごろ、出雲大社の千家尊宣氏からも、おすすめの一書をうけてはいるが、今のところ、何とも動けそうもない。


 失礼だが、書面を下さる読者の年齢職業など、種々さまざまなのも一考になるが、今日うけた一通はまた変っている。

 薄用箋八枚に、過般の〝南北朝文化展〟を観た感想と迂作とについて述べられている。尊氏の願文、兼好の和歌短冊のこと、なかなかな観賞眼で、芥川龍之介の「侏儒の言葉」など引例していて、ほほ笑まれながら読んでいたが、終りへ来たら「私は国税のことを扱う役所に働く者の末席をけがしている一人ですが」としてあった。税務署にもこんな人もいたのであろうか、と意外に思ったなどは、こちらの頭の粗雑を自白することかもしれぬ。


 いまだに兼好法師のお小僧の命松丸へ、諸方の〝雀通すずめつう〟から時折に手紙が来る。わが家の香屋子まで雀に食パンの粉をやり出したり、雀の子を飼えのと言い出したが、手に入り難いので、手乗り文鳥を買ってやった。

 するとこれがまた、人間国宝の菊村のお婆ちゃんに感染し「あたいにも買っておくれよ」と、ねだり出したので、あづま踊りのらくの日に、つがいを贈呈した。さだめし、お婆ちゃん、夜も文鳥を抱いて寝てござろうが、命松丸のようなオネショまでが感染うつらなければいいがと案じている。(三四・五・一五)


その十三


 今月の「筆間茶話」は怠けていたが、次の〝小ミダシ変り〟へ来て、ちょうど連載回数も、五百一回となったのに気がついた。そこでこの辺で、読者にも肩をほごしていただき、自分もふと一ぷくを思ったわけ。気まぐれな不時の余談を、御笑恕ねがいたい。


 また、私の不注意だが、それから先に訂正する。既載の「天王寺未来記(一)」に引用した歌の歌主を良邏法師りょうらほうしとしたがあれは〝良暹法師りょうせんほうし〟が正しい。ご注意をうけてハッとした。赤面のいたりだが、あやまるのは早いにくなし。ごめんなさい。

 忙しい中を、角川書店の角川源義氏が一ト抱えもの文献をもって来て、児島高徳のことやら、五流山伏と後醍醐朝との関係などについて、私のもうをたすけてくれた。氏が旅行中にあつめた古地図、郷土史類だが、わけて岡山県の通史上下編は、探していたものだけに、ありがたかった。

 また、永井龍男氏からも「おやくにたてば」といって一本を送られた。これは楠氏関係の古今の刊本、文集、絵画などを総覧的に編集した奇特な〝図書解題〟で私も未見な稀覯本きこうぼんであった。なんの果報か、どうもよく何かと寄与ばかりうけている。申しわけない。


 近ごろ二人の珍客に接した。

 ひとりは吉田大納言定房の末裔まつえいの吉田博光氏で、皇太子さまの御成婚に儀進をつとめられた甘露寺掌典長とは、ご親戚か親友か、とにかく、よほど親しいことばがたきの由。むかしなら北朝と南朝だからかもしれない。

 博光氏は家祖の「定房」について、ずいぶん長く話された。また専門の史家以上に、じっさい詳しい。ご襲蔵の家記〝𠮷口伝きつくでん〟や〝定房像〟そのほか持ってきて示された。氏の背広姿を衣冠にかえたら、そのまま元弘時代の殿上人になりそうな人柄である。どうも世間にはじつにいろんなお人がいるものだ。


 私の父は、吉川の吉を、必ず「吉」と字劃の上部を〝士〟に書いた。しかし私は従来、ただ何となく自分の筆グセから〝土〟に書く。これでよく読者から「𠮷」は正しくないのに、何か理由があるのかと詰問されて、たびたび閉口していた。

 ところが、博光氏の名刺をみると𠮷田であった。公卿日記で名だかい同家の「𠮷記きつき」も「𠮷口伝きつくでん」もみな下の長い〝𠮷〟である。「どういうわけで?」と、こんどは私が訊き手に廻ってみたかったが、話題は太平記に終始してしまってつい訊きもらした。


 サウジ・アラビヤで石油を掘っている山下太郎氏が早朝にやって来られた。かつて中村直勝博士に依嘱してあつめたという厖大ぼうだいな楠氏史料は戦災で焼いてしまったがと、若干の史籍を私に贈られた。私の手もとにないのだけをありがたくいただいておく。太郎氏は以前から「全休庵楠系」の一孫いっそんといっていた人である。むかしからつやつやと赤みがかった光頭の持主だったが、ちっとも変らず、「もう二十年働いて、あと十年は遊ぶんだ」といって帰ったが、いったい幾歳になったのかしら。私本太平記などは飛行機の中でまとめて読むのだそうだ。アラビヤ石油を掘る楠氏の一孫と、しずかに鎌倉に住む吉田大納言のすえと、そして現実の近代日本と、こう照合してみると、日本という国はじつにおもしろい。


 文化放送の〝お便り有難う〟に答えて、私本太平記のその一読者へ、私から後で菓子を送ったと週刊誌のコラム欄にあったが、あれは書物を贈ってあげたのである。その少年は両親がなく、昼は十二、三貫の綿糸をかつぐ肉体労働に従事し、夜は夜間高校の一学年に通学していて、読書が唯一の友だといっているだけあって、その質問が、いかにも的確で、私をいていたからだった。


 藤夜叉が道誉に犯された場面のあとでは、いくつもの読者感想を拝見したが、その一つにこんなのがあった。

「──私は満十七歳の働く少年です、毎日鋳物工場いものこうじょうでの労働を終えたあとは、読書がいちばんの楽しみですが、きょうの藤夜叉と道誉の場面では、がっかりしました」と、痛烈にそこを批判し、また映画や諸雑誌のセックス風潮をあげて、じぶんたちは愚にされているようだと訴え「あなたもその波に乗って書くのかと裏切られた気がした」と、細かい文字が用箋八枚にもわたっていた。鋳物工場のつかれた夜間休息のまに、これだけ書くのもたいへんなことだと思った。そしてどうも、最近のジャーナリズム一般は、私も加えてだが、厚い深底部にあるこんな青少年を、ともすれば、見過っているか、忘れているのではないかとも思われた。(三四・六・一八)


その十四


 帖をかえて、次回からを、

 千早帖ちはやじょう

 としてゆきたい。

 帖だの巻だのというこの古風なサブタイトルの手法は、日本の古典文学スタイルの特徴といっていい。たいへん思わせぶりなものだし、読者や筆者にあたまの整理と息抜きを与え、また後味の余韻をもたすなどの利便からまま現代の作家もよくこの手をつかう。私の「帖」もその例外なものではない。

 じつは「千早・金剛帖」と考えたりまた「八荒帖」「喪春帖」などと句作の苦吟でもするように迷って、つい半日ほど並べてみていた。こんな児戯が私にはまあ息抜きでもあるらしい。しかし紙上の「帖」と、単行本の帖割りとが、内容の区切りからべつな帖名にならざるをえなくなっている。ご諒恕りょうじょをねがいたい。


 楠木一族の千早、金剛の籠城戦ろうじょうせんは、すでに開始されていた。ほとんど天下の兵といっていいものを正成が一手にひき寄せていたため、どれほど各地の宮方も得していたかわからない。──後醍醐の隠岐脱出なども、それやこれで、幕府方の手がまわりきれない隙だったからこそ成功したものといえよう。が、そんな孤立的な蔭の功は、えてして戦後行賞や時人にはみとめられないものだ。しかし私たちは何も建武行賞の餌を争う者ではなし、また昨日の軍国主義にわずらわされるところもないので、正成評価もいまは公平に見てゆけると思っている。


 隠岐脱出のいきさつや、帝をめぐる三人の妃のことなどは、すべて私の脚色である。そのことは正直にここでいっておく。

 一応、史料らしき物はあり余ったともいえる。社の支局を通じ、また島の郷土史家や篤志家から送られた隠岐文献の類は机に山積されたほどだった。古い紀行や現地講演の類まで余さずあさッてみた。中では島根県史六巻の第六章はさすが卓抜しているが、それにしてさえ骨子は鰐淵寺がくえんじ所蔵の宸筆文書一通のほかにさしての取りえもない。


 現今の観光ブームで問題になっている例の、

 後醍醐天皇のいた所は、島後どうごがほんとか島前どうぜんが真か。

 という配所の家元争いみたいな論争のことになると、さて、やっかいだ。どっちがわへでも、単なる論証や理窟の組立てならそう難しいことでない。それを文部省が島前の史蹟を取消し、島後を一方的な指定地にしたなどは、ちと早計ではなかったか。もしこれが司法判決の形式でもあったなら松川事件みたいに、なかなかおさまることではなかったろう。


 火野葦平氏なども昨年隠岐へ一遊のさいは、だいぶその「国分寺か、黒木ノ御所か」を島では聞かされたことらしい。私もたびたびすすめをうけたが、古くは吉田東伍博士以下、専門史家の多くに踏査はずいぶんくりかえされたものだった。逃げたわけではないが、つい私は夏を軽井沢にすごしてしまった。しかし山国の嵐気らんきのなかで隠岐の六百二十五年前の人と波濤を想像にのぼすなどは悪いコンディションであったとは思わない。そのフィクションもすべて史証を布石とする推理なのはもちろんだが。


 さてこんなときの史料なるものが、いかにたよりにならないかも痛感する。三名の妃が、後醍醐にかしずいて行ったことは史上定説であるが、脱島の日には、どう連れて逃げたのか、一切それの明記はない。(伝説はあるが)──また帝の脱出径路も異説ふんぷんでみな古記と口碑のぜ論にすぎないのである。じたい「増鏡」の筆者でも「太平記」の筆者でも隠岐は見ていず、地誌や地図にもくらかった人の筆なのだ。それを余りに金科玉条としすぎるからいけないのだ。たとえば、今日のマスコミの中にいてすら、近ごろやかましい李ラインの竹島が、隠岐の位置とは、わずか八十五浬の西北にあるという常識地理でも、都会人にはちょっと思い泛かばないのではあるまいか。(三四・九・四)


その十五


 次の「千早帖」では、正成の金剛山、大塔ノ宮の吉野落ち、また九州における菊池武時の挙兵など、八荒はっこうの動乱から、足利高氏と新田義貞の中央進出までをほぼ収めたい。

 だが、さしあたっては、隠岐脱出の帝をたすけて、名和長年なわながとし船上山せんじょうせんる経緯をつづってゆく。


 幸田露伴氏にも〝戯曲名和長年〟の一作がある。さすが考証めんみつで故事にきびしい翁にしてさえ、当時の官憲へのはばかりもみえて、余りおもしろいものではない。参照も「名和紀事」や「伯耆巻ほうきのまき」の程度である。

 またここでも異説が多い。帝の上陸地は、どこであったかと、史蹟や史論も紛々なすがただ。「船上記」「伯耆巻」などは大阪港(下市)と載せ、「梅松論」には野津とみえ、「増鏡」には稲津ノ浦とあり、諸書みなちがう。これだから隠岐の配所が、島後どうご島前どうぜんかなども、けりはつかない論争とうなずかれる。


 阿波海賊の岩松経家いわまつつねいえの名を隠岐脱出の蔭にみることは、これまでの史書にも島のつたえにもない。あれはいったい何に拠ったのか、と四、五の読者からおたずねがあった。

 岩松党は、群馬県新田郡の岩松村が発祥地である。だから質問者の三通までが、その地方の読者だった。もっともなご不審である。そのお答えをもう少しこの茶話で言い足すならば、従来あまりにも岩松一族の活躍が、軽く見すぎられていたものということに、断言してよい。


 これまでの史説だと、足利高氏も新田義貞も、その旗上げ動機は、ずいぶんあやふやで、出来心ジミている。

 たとえば義貞などは、吉野攻めに参加しつつ、ひそかに大塔ノ宮の令旨をい、急に仮病をとなえて本国へ立ち帰るのだ。現代人の史眼には信じられぬことおびただしい。

 一方、高氏の方は、その下心をすでに私は小説の中で書いてきているが、要するに、高氏義貞二人の間には、後醍醐が隠岐脱出のころ、はやくも何かの連携があったものと私は観る。ここで私は史論をのべたてるつもりはない。それを小説にするつもりなのである。


 この茶話だけでもせめて固くなりたくないと思っている。とかく固くなりやすい小説である。もともと太平記なるものが平家とちがって、不風流でドライな古典人間史といっていい。そのため私は、藤夜叉、卯木、草心尼、正成の妻、高氏の妻、後醍醐をめぐる三人の妃などへも、創意をほしいままにしているが、それがまた読者のお叱りとなってね返ってきたりもする。

 先日もさる所で、伊藤正徳さんが「ちょっと、ちょっと」と、さも用ありげにさし招く。何かと思ってサロンの隅で耳をかすと「君……道誉が藤夜叉を犯すところネ。あれ困ったよ」「どうしてです」「だってぼくは、きみの太平記を読めッて、高校生の女の子たち三、四人にすすめてたんだな。するとこないだ、あそこのとこの新聞をもって来て、おじさん、閨技けいぎって何? ッて訊きほじるのさ。弱ったネ。なるべく、ほのかに描いて欲しいなあ」


 帝と小宰相、帝と廉子。あの黒木の御所の一夜なども、テーマ小説としてすますなら、書かないでもすむことである。けれど現代人心理からは、ああした島暮らしの中での、一夫三妻のような形はいったいどうなのか。そこへまで立ち入らずには読めない感を伴うにちがいない。

 ほんとならその辺も、もっと突っこんで、近来の〝一夫多妻論〟や〝一夫一婦尊重論〟などに答えることもできようが、それは私本太平記の途上ではいたずらな構成のアンバランスになりかねないのだ。こんな長篇の構成では、なぎさに興味をひかれてもあくまで大河のまにまにさおさしてゆくしかない想いをやむなくするのである。さしずめ読者は長江の乗客であろうか。なんとも同舟のご辛抱こそ感謝にたえない。(三四・九・五)


その十六


 私は小説家だが、どうも今日は朝から小説が書けない。恥かしいが私は真の芸術家、芸術至上主義者ではないらしい。

 といって一回分でもアナにするわけにはゆかず、この筆間茶話で今日の分は埋めることにした。醜態だが、理由はただやりきれないためである。──予報には、明日晴れとあるが、分裂したはずの十六号颱風の影響か、ゆうべからの雨は今日も一日じゅう窓外を打ッている。で、私はついにこんな出来心を書き出してしまった。ごかんべんねがいたい。


 太平記を書き、当然、そのころの世態を調べながら、私はいつも、当時のような乱世下の民衆は、いったいどんな悲惨な中に生きたかに、想到せずにいられなかった。

 ところが、それにもまけない悲惨な民衆が、こんどの伊勢湾颱風では、目のまえにおかれている。六百年の昔でもない、今日の日本のまン中のことなのだ。どうにも考えざるをえない。


 挿絵の杉本健吉さんは、名古屋市瑞穂区に住んでいる。私の原稿は日々健吉さんの手へ送られてゆく。仕事のうえで一つに暮しているようなものだ。杉本家の被害はかろくすんだらしいが、周囲さだめしたいへんだろう。颱風禍いらい、すでに半月にもなるが、読者諸子もすでに知っての通りな有様である。そこへ昨夜手にした健吉さんからの便りにも、

 ──拙宅は屋根を直そうにも瓦がなく、ビニールを敷き、割れ瓦をのせています。これは全市共通なことで、大別してわれわれ程度は、被害の内には入りません。

とみえ、

 かなしい事には、被災者とわれわれ非罹災者との間にさえ、日にまし感情上のヘダタリや差があり、それはあの気のどくな方々と一しょに汚水の中で腹をへらし、ローソクの灯の心細い寒夜を共にしなければ、とうてい、被災者の実感はつかめるものではありません。(中略)現地の人々のイライラと共に自分たちの同情も疲れはててくると、それがやや実感になって真の同情となってわかって来ます。が、それでもなお自身の中には、同情にかくれて、半分は好奇心もあることに思いあたり、ゾクとしました。

といっている。


 私どもの家でも、家族して、のべつ同じような胸のいたみは言いあっている。だが、どうしようもない思いだ。そして健吉さんも指摘しているように、半分は好奇心へも傾きやすい。マスコミの報道力にしてさえ、その点では、社会の善意をよびおこすことには微少で、むしろ空転作用の方が強いのではあるまいか。

 いまさらのようなものだが、こんなさいの民主政体のまどろさには鬱々うつうつとせずにいられない。政府攻撃なら、いくらでもいえるが、しかしその政府は私たちの依託機関で、首相以下の役人は、私たちが政治を託している公僕なのだ。だのに私たちには、どうもまだおかみまかせの悪グセがついている。それと狭義な個人主義がむすびついて、当局がやるだろう、自衛隊がするだろう、どうかなるだろう、が抜けきれていない。そして政府の無能をののしるだけで、その政府の主人であるお互い国民のこのどうにもできない気もちを歯ガユがらないのは、どうしたことだろう。寄付金に寄贈品に町会までもやってはいる。だがそれだけのことだ。現に被災地ではまだまだたくさんな生命が悲泣している。半面の人間悪も横行にまかせている。被災者にすれば「今は南北朝時代か」と疑いたくもなるだろう。


 もしこれがソ連や中共の治下であったらどうか。また米国や英国ならどうか。この自国の腹部へできた重症の治癒には、国智と民力を集中して快スピードの政治力と隣人愛とを見せ合うだろう。のろのろした時は措かないはずである。だが私たちの託している政府雇傭こようの人たちでは託されている権限や法規や政党事情やらで、こんなのろまな動きしかできないのらしい。これは私たち政府のあるじも怠慢だった。私たちにも責任がある。また一つ国の民主国民なら、この災害を〝運不運〟とだけ見て、その災害を分け合わないでいいものでもあるまい。さしあたって、政府同様な政府代行機関を現地におき、それにこの急場だけの最大な発令権をみとめるもいいとおもう。皇太子と首相がヘリコプターで見て帰ったところで何の薬にもなりはしない。被災の民衆が精神的にそれで鼓舞されたなどは、むかしの日本のことである。私たちの公僕はいまだに明治、大正の古帽子がお好きで困る。


 私は先年、背なかの真ン中にようというものを病んだ。初めは豆ツブほどな腫れ物にすぎなかった。しかしそれは命トリの重症だぞといわれたとおり以後二ヵ月昼夜のた打ちまわった。伊勢湾颱風の被災地は私には〝日本の癰〟におもえてならない。そして戦後日本のまだうわッつらな健康でしかない民主政体という体が、よくこれに耐えるかどうかの試練であろうとおもっている。


 こんなことはいっても、私には能はない。ただ私は、政府だけを責めているのは一そうこの重患を重患にするだけだと憂い出したのみである。作家の私はそんな憂いも退けて小説を書くべきだろう。しかたがないから私は明日から書く小説の稿料を当分のあいだ現地の救済資金の内にでも加えてもらおう。そして現地の罹災者諸兄姉の甦生を祈りながら毎朝机にむかったら、いくらか憂いもかろく原稿紙に向えようかと思っている。


 もひとつ言いたいのは、昨今、中京方面にばかりつい気をとられているが、ほとんど同程度の颱風被災者がまだあった。この八月の七号颱風にやられた山間地方の被災農民たちも、近づく冬におびえていように、それはもうマスコミからはいつか忘れ去られている。(三四・一〇・九)


その十七


 どうもついごぶさたした。この「筆間茶話」にである。たまには茶話をと望まれながら、ここまでは息をつく気になれなかった。が、やっと「千早帖」もかわるので、久しぶり一ぷくする。

 終日の机では、私はあまり物をべない。ただじつによく煙草をのみ、お茶をのむ。

 煙草は半ぶん夢中ですうのだが日に六、七十本はくだらない。お茶は抹茶まっちゃを朝二わん、ひる五、六たび、晩にも一碗。多年の習慣である。そのほか番茶、せん茶、応接間では客とコーヒー、紅茶も少しすする。茶淫煙癖、どうもこれは直らない。


 お酒は弱くなった。というほども、元々飲めもしないくせに、あの酒景が好きなので会合やらパーティというと、ついハイボールを手にしたりしてしまう。また私は酒をふくむとすぐおしゃべりにもなるらしい。そしてくだらぬスピーチなどやってあとで大いに後悔するのだ。とくにゴルフというものをまなんでから雑言を吐く傾向がつよくなった。ご存じの大岡昇平とか今日出海などというお人がこの悪たれ諧謔かいぎゃくの大家なので、そんな中でちょいちょいまれるために、私の晩節もひどく粗野になってきたようだと、朱に交わる感化のいちじるしさに、われながらわれをあわれむことさえある。つまりは年はとっていながらいつまでも幼稚なせいかもしれない。


 東京へ東京へ、若い人がよく出てきたがる。むりもない。スキヤ橋から銀座へかけての夜景など、この大都会は色キチガイのようである。そんな夕も万をえる勤労者大衆が、日比谷で反政府のどよめきをあげ、警視庁の黒いトラックがおほりばたに列をなしていた。ある娘さんを思いとまらせるために、

鶯やこの東京へ何をしに

 と書いてやったが、あとできけば、その子もいなかへは帰らなかった。


 近来、じつに会が多い。

 出版記念会、受賞祝いの会、追悼会。吉日にはまた結婚式などもかさなり合う。そのてん、うちの近所にいる文六先生(獅子)はてっていしている。どこへも出ない。だが小心よくよくな私は、ついあの会へ出てこの会に行かなくては、などとひとりぎめな心を労して顔を出すと、「やあ、ゆうべもでしたね」と、毎晩の顔に、お互いのカクテル・グラスを苦笑し合うばかりになる。ひどいやつは池島信平いけじましんぺいであった。「やあ、よくおつとめですな、婆芸者のように」と、わたしへ言った。その会は、文春の直木賞受賞者の戸板康二さんのお祝いの会なのだった。じぶんの社でこういう現象の因をつくっておきながら、そんな白々しいうそぶきをしているのである。マスコミの震源地に住む白ナマズみたいに信平の顔が見えた。


 これまでにも、文学碑というと、ほとんどが谷口吉郎たにぐちよしろう氏をわずらわしている。こんどの火野葦平ひのあしへい氏のもまた同氏の設計になるらしいが、その追悼会の夜、谷口さんが「佐々木道誉のデザインはおもしろいですな」と私へいわれた。いかにも建築家らしい表現だし寸評だと思われた。またよく辰野隆たつのゆたか氏からも会うたびに「私本太平記」への感想やべんたつをいただいている。「これまでに読み落したのは、旅先での一回しかなかったぜ、君」ともいわれた。それとなお辰野氏は、北条高時の同情者でもあった。彼は北条末期のもっとも悪い時代に生れあわせたが、しかし鎌倉文化の功労者ではある。当時の文化人のパトロンであったことなど買ってやらねば可哀そうだ、ともいつか力説しておられた。


 いよいよその高時の最期と、鎌倉滅亡の日が、小説のうえで近づいてきた。一世紀半の鎌倉文化も、北条一族のキラ星も、一朝いっちょうにみな瓦礫がれきと化してしまうのである。太平記くらいたくさんな人が死んでゆく小説もない。平家時代にはなおあった人間同士の真と善と美もすべてすたれはてていた。いわば〝無道時代〟〝悪の時代〟だったといえよう。そんな中での生命とすれば散所民の生き方も、また北条高時の〝うつつなき人〟振りなども、罪はかろいほうだったし、むしろ平家調にいえば、あわれともいえる人々だったのではあるまいか。(三十五・三・一一)


その十八


 次を「五月帖」とした。

 こんども迷って

「夏ぐさ帖」

「新都帖」

「革命帖」

「うたかた帖」

 などといろいろあんじてみたが、元弘三年五月という月ほど、歴史的事件がかさなった月はない。つまり天下一変の革命月であったのだ。

 これまでに書いてきた足利高氏の叛立はんりゅう、六波羅滅亡、近江番場の惨事、千早攻囲軍の総くずれ、それらのすべても五月中のことであり、また時を同じゅうして、東国では、新田義貞の旗上げもおこっている。

 記述でならべるなら、それらの日時や事件も、ひと目で分るようにもなしえようが、小説のばあい、そうはゆかない。


 そこでたいへん例外なこころみとなるが、いま小説に取上げている歴史上の──つまり元弘三年五月中の──出来事を年表にして次にかかげておくことにした。

 すべて、うごかない史実とみなされる事柄は、私の小説でも、それをいたずらに作為で曲げなどはしていない。だから次の年表を概念に入れておいていただくと、小説の便覧たるだけでなく、当年の社会激動をる手引にも、ご便利ではないかとおもう。


元弘三年「五月中」日譜

五月八日 六波羅陥ツ。

同日   新田義貞、東国上野コウズケニ旗ヲ上ゲル。

十一日頃 北条仲時以下、近江番場ニテ自刃ジジン

同日頃  金剛山ノ寄手数万、千早ヲ解キ奈良ヘ敗走ス。

十二日  義貞、鎌倉軍ヲ武蔵野ニ破ル。──以後十五、十六、十七日、鎌倉攻勢ススム。

十八日  後醍醐ノ車駕。伯耆ホウキ船上山ヲ発ス。

二十一日 新田義貞、稲村ヶ崎ヨリ鎌倉ノ府内ヘ突入。

二十二日 北条高時ソノ他一族全滅、鎌倉幕府ホロブ。

二十五日 九州探題北条英時戦死、長門探題降伏。

三十日  後醍醐ノ車駕、兵庫ニ到着。

六月二日 楠木正成、足利高氏、千種、赤松ラ挙ゲテ車駕ヲ奉迎ス。コノ日、鎌倉陥落ノ報到ル。

 以上がごくおもなる史上事件で、六月には早や後醍醐の下の新帝都が生れ、秋にはもう次のような一項さえ見いだされる。

八月五日 楠木正成、新田義貞、足利高氏、名和長年、千種忠顕、北畠ラノ功ヲ論ジテ恩賞ニ差アリ、衆口紛々。

同日   足利高氏、名ヲ尊氏ト賜ワル。

 次回からの「五月帖」では、前掲、五月中の小説化だけでも、ゆうに百五、六十回はかかろうかと考えている。ひょうにない小事件になると、すくいきれない河砂ほどもなおあるのだった。

 たとえば、高氏が鎌倉に残してきた妻の登子とうこ幼子おさなごたちの未解決な運命などもこれからの課題である。高氏の叛旗は、あざやかに、六波羅攻略には成功したが、そのためには、最愛の妻子をこの大ばくちにけたのであり、恐ろしい欲望だったというしかない。

 しかし彼ばかりでなく、世はあげて非情な時代だったのだ。そしてそんな非情な人心によってつくり出された次の〝建武の中興〟が、さらにどんな地上を招来したか、それを近代の目で捉えてみたい。

 新田義貞のことは、序篇「あしかが帖」の中でも少し描いたが、こんどは彼の出の本番といってよい。鎌倉攻めには彼は主役として登場する。

 しかし中原ちゅうげん鹿しかを追う主役の座を不動なものにするかいなかは彼自身の器量にあった。義貞もこれまでの史上では、偶像義貞にされすぎていた。正成ともちがう、高氏とも大いに違う、義貞その者を彫り上げてみようとする意欲はくるしくもありたのしみでもある。(三五・三・一二)


その十九


「子供の日」でも、子供自身は一こう特別な感動はしていない。子供にとっては毎日が「ぼくらの日」だからであるのだろう。大人のすることはおおむねが大人自身のためにしている。


 五月の連休も過ぎ、迂稿「五月帖」も半ばである。だが小説中の五月は旧暦で、また元弘三年は閏年うるうどしだったから、鎌倉滅亡の兵燹へいせんは七月の季感にあったと思えばいい。まったく炎暑の陣だった。


 もうずいぶん前だが、鎌倉の大町附近から数百体の人骨が発掘され、東大研究班の調査などで話題になったことがある。そして、それは元弘三年の犠牲者らしいとの判定で、七百年前の鎌倉人種の身長だの容貌の特徴やらが、現代人に比して多少、矮小わいしょうで骨太だったと報じられていたが、頭蓋骨からみて、智能が劣っていたとはなかったように覚えている。


 北条九代の滅亡は、ちょうどつい昨日の大戦終末時の小型な日本に似ていた。平家といい、太平記といい、古典はおおむね事を誇張しがちであるが、鎌倉滅亡だけは、古典のつたえ以上、酸鼻だったのであるまいか。


 当時、出家して高野山にいた工藤新左衛門は、後日、鎌倉にたたずんで〝──ふるさとの昔を見ずば元よりの、草の原とや思ひなさまし〟と歌って去った。

 おそらく終戦時の東京の一劃みたいな瓦礫がれきの焦土を見たのだろう。一世紀半の鎌倉文化は、まったくこのとき廃墟と化した。科学武器などない時代でさえもこうだった。社会が狂い、人間もちょっと逆上し出すと、いつ何を見るかわからない。この恐さだけは、太平記の時代も今もお互いの中でいささかも減じてはいない。


 草木染の山崎あきら氏から手紙をもらった。稲村ヶ崎で義貞の龍神献剣のことなどは捨てて、牡丹の凋落に、高時の母の母情や春渓尼を出したくだりなど何度も読み返したといってくれた。

 これまで、史上の高時は、大乱の元兇みたいに、その戦犯悪はすべて彼ひとりの〝暗君〟と悪政の名にかぶせられてきた。明君でなかったことは確かだが、さりとて彼をそうまでにするのは史家の御都合主義であり、可哀そうな間違いだ。凡君も社会の地ゆるみの一因にちがいないが、もっと大なる戦争挑発者はほかにいたのである。むしろ高時は犠牲者といってよい。


「歴史地理」の第四巻(明治三十五年号)に大森金五郎博士の〝稲村ヶ崎渡渉記〟が三回にわたって載っている。

 これはずいぶん参考になった。大森博士は義貞の龍神祈り伝説をくつがえすため、漁師や学生をひきつれて、太平記所載の大潮に当る日を期し、二度も稲村ヶ崎の海中徒渉をこころみているのであった。一文を書くにもそうまでにした学問への熱意には敬服される。しかし幕府方には当然、兵船陣備えもあったはずだが、水軍に関しては何も言及されていない。


 新田軍の鎌倉入りの径路では、地方地方の読者から、ずいぶんいろんな反証の投書があった。各地それぞれに異なる口碑が多いからである。中でも東京医大附属の堀口申作氏その他からご指摘をうけた第七八二回。──古典の堀金ほりかねとはどの辺か。或いは今の小金井あたりか。──と私が推理で書いたところは、私の誤りで、諸氏からご報告の「……堀金は現存する所沢と川越市との中間、堀兼ほりかね村のことでしょう」というご注意がまったく正しい。単行本で訂正する。


 ここ合戦の場面がよくつづいた。挿絵の健吉さんも構図に弱ったことだろう。私も余り好きでない。とくに悽惨な鎌倉滅亡の日や高時の死などは、なんだか自分も加えた自分たち祖先の人間愚を書くようでつらかった。ひとまず、前回で戦争は終ったが、しかしこのあとの政争もたいへんである。いわゆる〝建武の中興〟に入るわけだが、高氏と義貞の対立がすぐ始まる。また、後醍醐の寵姫、阿野廉子と大塔ノ宮の暗闘も熱し出す。最近、その三位ノ局廉子のおもしろい史料を見出したが、もう余白がない。またの筆間茶話の日にゆずるとしよう。(三五・五・七)


その二十


 さて、原稿だが、今朝ほど困ったことはない。

 一回分の余裕もないと社ではいう。私のあたまも「今日」の生身から俄に六百年前の「きのう」へ沈潜もしかねている。そこで少し気分が机に馴じむまで、この両回を「筆間茶話」とすることにした。ごかんべんねがいたい。


 過日の〝文化の日〟を中心に、前後二十日余りはほとんど机におちつくまもなかった。テレビ、ラジオ、対談、講演依頼などは、日頃、この長篇仕事の終るまではと、一切あやまっていたのである。そこへあの発表だった。一時にどっとみそかの勘定書つけを持って来られたようなハメになり、ままよと自分も八方破れを取ッて、マスコミのどんな求めにでも応じてしまった。ひとつには、このたびの受賞は、読者から贈られたものとしての気持ちでもいただく、といったてまえ、読者へお答えする義務も感じていたからである。

 NHKの〝ここに鐘は鳴る〟の番組へも、この春頃から、ぜひにと、すすめられてはいたが、あやまり通していたのである。自分の「忘れ残りの記」にもあるように、社会の敗北者であった両親の面影などをさらすのは不孝児がまた不孝をかさねるようなものでしかないと独り決めしていたからだった。だがこれもタレントに出る仕儀となり、十一月三日の宮中授賞式の終った夕、さて、迎えの車で局へ出かけようとすると、折ふし小宅に集まって飲んでいた友人三、四十人のいる中で、永井龍男氏が例の諧謔かいぎゃく口調で「みなさん、あとでテレビをさかなに拝見していましょう。きッと今夜の吉川さんもステージで泣きますからね」と、前ぶれを披露した。私は言下に「泣くもんか」と、笑った。自信はなかったがそういった。すると永井氏は「いや、きっと泣く。賭けをしてもいい」と、ひどくりきんで「あの番組へ出ると誰でも泣くんだ。あれは〝鐘は鳴る〟ではなくッて──ここに彼は泣く──という番組なんですからね」と、いかにも、つばにくるまれた上等なコニャックが喉から落ちて胸におさまったような顔して言った。かくて彼らのオサカナにもなった当夜の私は、やはりステージでは「永井め、永井め」と思いながらもつい何度かはまぶたのへんがおかしくなった。


「どんなふうでした?」と皇居における授章式のもようなどもよく人に訊かれるところである。それは思いのほかなごやかな時間でまた決して拝受者が上がッたりするような物いかめしい儀式ではない。宮内庁三階の仮宮殿南ノ間が私たちの控えで、そしてそこの廊下を右折した西ノ間がすぐ授与式にあてられていた。陛下のお椅子は、中央の衝立ついたてを後ろにすえられ、左へ寄って、総理大臣が勲記と黒塗の箱とを各受章者へ手渡す一卓をおいて佇立ちょりつするわけ。──いただくときは一人一人が、氏名をよばれて控ノ間から進み入り、陛下への拝礼をして、総理の手からうけて退がるのである。──その時刻前に、宮内官の案内で、ちょっと、リハーサルの説明などがあった。──そのさい数学の岡潔氏が「最敬礼ですか」とただしたら宮内官のひとりが「いえ、そうと限ッておりません、お気もちのままで」といった。すべてはこの答えにふくまれているのどけさといってよい。


「なんですか、こう、小学生のときに返ったような気持ちですな」と、控ノ間で、陛下の出御を待つあいだに言っていたのも岡潔氏だった。付添いとして、奥さんをお連れになったのも氏お一人であったが、事実、嬉々たる童心の日に会したような容子ようすであって「このことの旅行で、あなたの私本太平記も、つい三日ほど読みそこなっておりますよ。北畠顕家はもう都へ着いておりますか」などとしきりに雑談の花をさかせ、やがて、指名をうけると、ひょうとして、式場の間の方へすすんでゆく姿など、いかにも免状式の日の、小学生そのものだった。


 この日、私は、三人の異相をた。岡潔氏もすこぶる異相な学者だが、佐藤春夫氏もまた文壇ではもっとも異相非凡に属するほうの大人たいじんである。それと総理の池田さんであるが、この人の耳がいい。耳の穴から石菖せきしょうのような根づよい黒毛がそうをなして突出している。いささか国事の難を託するに足る人かとおもった。「たれかがあなたの奥さんにかんしんしていました」と言ったら、この人もまた日本の亭主族らしい。「みなさんがそう申しておりますよ、わたくしよりはって」


 食いしん坊の獅子文六氏が「どうでした、ご陪食のお料理は」と、あのあくる日さっそく私に訊いた。それはもう一般社会人のほうがはるかに今日ではおいしいものを喰べている、ご鄭重ではあるがかくべつではありません。と私が答えると、彼は「秋山徳蔵君も大膳寮にはいるんだが、そうかなあ」と小首をかしげた。誰もが、さぞと思うことらしい。しかしメニューばかりでなく、室の調度や壁面にしても、仮皇居ではあるにしろ、じつにご質素なものでしかない。陛下もまた、お身なりには至って無関心のほうで、ネクタイがまっすぐに拝されるのも、ごく近ごろのご習慣だそうである。前にはよくズボンのすそから靴下止めを見せつつお出ましあるなどの例も珍しくなかったという。陛下をめぐる人々からそんなお噂も出たりするほど、ここは昔日せきじつの皇居ではなかった。まことに今昔こんじゃくの感がふかい。言ってみるなれば、賜餐しさんの感は、そうした文化の日らしいおくつろぎに陪させていただいたことが、何よりもありがたくまた何よりなご馳走であった。(三五・一一・一一)


その二十一


 秋の話題に、マスコミが派手にあつかったせいもあろうが、文化勲章の「物」そのものを、どんな品かと好奇心で見たがる人が案外多い。

 私は当日、拝受して皇居を退がるとき、それは黒塗の箱におさめて持ち帰るべきであろうと思っていたら、式部官のおひとりから、恒例、各自胸にさげて帰宅されるのがふつうであるときかされて、私も佩用はいようしたままで家へ帰った。しかし街では車の中にいる間じゅう胸の勲章がどうもおもはゆくてならなかった。


 家には大勢客がいた。そしてかわるがわる私の胸へ寄って来て物珍しげに勲章を見、そのデザインや色彩の批評をしあった。そっとさわってみたりして「重たいんですね。見た目よりは」と言ったりした。

 すべて子どもみたいな好奇な心理になるのらしい。社会構造の人間心理をいみじく造花したものが勲章というものかなどというそんな感もふとわいた。そして客や家族らはきっと私がさっそく亡父母の仏壇にでもそれをそなえるのではないかと見ていたらしいが、私は妻にあずけたままでその日の接客と晩の放送局の用に暮れてしまった。そして今日までも私自身はまだついそれを手にとって見てもいない。おそらく生涯じっさいには用いることなどもあるまいから、いちどよく見て仕舞っておこうとおもっているが、以来忙日つづきでまだ出してみるひますらないのである。


 望外なのはたくさんな祝辞を読者からいただいたことだった。日ごろの投書ともちがって、こんどのばあい、それぞれな読書歴や境遇や自身の生活などに加えて、私の迂著をどういう読み方で日ごろ受けとっていたかなどの感想をも、例外なしに、書き添えて下すったので、ありがたかった。それとまた、何十年間もお会いしていないような旧知からもおもいがけないお便りをうけたりして、なんだか、生きつつ自分の葬式の会葬者を目で見たようでうれしかった。すべてこの機会のたまものにほかならない。


 その一つに。関東大震災の直後、ぜひなくまずい小説を書いて口をのりする心をきめ、冬から翌年まで、信州の山奥へこもっていたが、その折世話になった角間かくま温泉越後屋の主人山本氏からの便りなど、わけて私に茫々の回顧をさせた。いらい何十年もつい訪うていなかったのだ。主人の手紙によると私が書いた「三佳亭」の額やら色紙が遺墨として今もしまってあるという。遺墨とあるには私も笑った。じつにそれほどなご不沙汰だったのだ。しかしそこでは青野季吉あおのすえきち氏や前田河広一郎まえだこうひろいちろう氏、満谷国四郎みつたにくにしろう氏とも知って忘れ難い私の文筆始めの旧地である。すべてきのうみたいな気がする。


 花やらお酒やらもお祝いにとたくさんもらった。勲章の上にこんないただき物はなんとも恐縮にたえなかった。花はまだ客間から書斎をいっぱいに染めているが、お酒のほうは自分は少量しかいけないので客に飲んでもらうのにむしろほねがおれた。また、私が煙草好きだというのを随筆か何かで知ってのことか。ピース二箱(二十箇)をお祝いにと郵送してきたひともある。この一読者は中野区の某印刷所で鉛版工をしているという十八歳の少年だった。用箋二十数枚の読書感想の末に「ぼくの働いた金でぼくの気持です。どうぞ、どうぞ」と結んであった。その手紙を書くにも工員宿舎で寝る前の少時間を一週間もかかって書いたといってある。私はそのピース一本をさっそくいただいてすいながらつい涙が出てこまった。大衆文学という仕事では純文学と自認し安住する人にはちょっと分ってもらえない実社会面への顧慮やつらさがどうしてもここにおこる。


 ちょうどよいきりめなので次回から「帖」を

湊川帖

 ということにする。

 洛中でやぶれた尊氏が、九州落ちとなって、やがて捲土重来、湊川で正成とまみえるまでをその帖で書く。とくにこの問題の人の結論を私は私なりに書いてみたいとおもっている。(三五・一一・一二)


その二十二


 新春。まずはお目出度う。

 生活を芸術する正月。

 むかしの日本人はあたまがよかったような気がする。現代人もよく遊びよく働き、生活をエンジョイすることで負けはとらないが、それは「愉しみある所に愉しむ」程度につきている。けれどむかしの日本人は正月の暮し方などを観ても

愉しみある所に

愉しみ

愉しみなき所にも

愉しむ

 という何か今日よりも幅の大きい豊かな人生設計を心にもっていたと思う。唯物社会ゆいぶつしゃかいでは通用しないことだといえばそれまでだが、三ヵ日だけでもちょっとこんな心境に身をばしてみるのも悪くない遊びではあるまいか。


 迂作、私本太平記もいつかまる三年に入りかけている。「小説の読者は、小説を読んでいると思いながら実は自分を読んでいるもの」というのが私の小説観でもあるが、いまの激しい三年という歳月は容易でない。正宗白鳥まさむねはくちょう氏ではないが、私自身でさえ、時にはこんな歴史小説などをよくも、とおそれられもする。しかし読者は歴史の時点をいつも今日の自分の中において読んでいることは確かだと思う。近時の歴史書ブームの盛行をみてもそれはいえる。


 衣冠そくたい、小袿衣こうちぎ、よろい直垂ひたたれ、などの風俗画的時代は、さぞかし、のん気なとも想像されるが、いま書いている後醍醐治下の、建武三年の正月などは、暮も元日もあったものではなかったのである。都は全土戦災、食糧は皆無、あしたも分らなかったのだ。わたくしたちには覚えがある。いやお互いもう忘れかけてはいないだろうか。


 忘却は救いだが、愚のくりかえしは人間のごう疾病しっぺいみたいなものである。「歴史とは人間の巨大な恨みに似ている」と小林秀雄氏は言ったが、太平記の全篇はまさに悲歌そのものだ。

 ただ歴史のありがたい点は、動乱の結果にも、また人間それぞれの生涯にも帰するところの〝答え〟を出しておいてくれたことにある。今日も歴史だが、今日にはまだ答えが出てない。──読者は自分を読んでいる、といえる微妙な点なども要はこの辺にあるおもしろさかと思われる。


 さきに勾当こうとう内侍ないしのことを書いたがあらかた私の創作である。義貞がぎゃくを病んだのは事実だが、従来、内侍を賜う、という話は否定説の方が多い。「尊卑分脈そんぴぶんみゃく」に一条行房の妹とあるが、明確ではないのである。けれど義貞にかぎらず、武将の閨房にも、当然いろんな秘事はあったはずと観ていいと思う。概して太平記という書は、平家物語とちがって、まったく女性を意としていない。わずかに後宮の廉子が存在の意味をもっているくらいなものである。それほど男の権力と殺伐が一切をうごかしていた時代、そしてまた、或る一つの「悪の時代」ともよべる世代だった。


 尊氏が九州から捲き返して「湊川帖」の湊川決戦となるまえに、正成の心境と立場とを、私は私なりに書きこんでおきたいとかねておもっていた。その一端が〝豆と豆がら〟の小ミダシで書いた正成諫奏かんそうであるが、あれもわずかな史拠を敷衍ふえんしたのでつまりは私の正成観が主なのである。

 先日も佐藤春夫氏とさる場所で正成のはなしが出た。そのとき佐藤氏は「正成が出世欲だけで立ったとは決していえないし、時代にとまどったものでもない。あの信念と生きぬき方は、むしろよほど賢い人だったろうとおもわれる」と、いっておられた。私も正月以降、さらに人間正成をなお書いてゆくつもりでいるが、ただ湊川にいたるまでの楠木関係といっては、ほとんど、史料皆無なのが、どうもなかなか苦労で目下呻吟中しんぎんちゅうの状である。


 これまでやったこともない腎臓と胆嚢たんのう障害にかかって、暮のうちはちと悩んだ。十一月からのムリがたたったのだと医師はいう。そうかもしれない。正月は六、七日川奈で休養ときめている。

 読者諸子も御多祝に。

 今が、太平記のような非太平時代でないだけでも、お互い、多祝多祝、とすべきではあるまいか。(三六・一・一)


その二十三


 梅便りがチラチラ目につく。

 地球の外へ出た科学物体がまだ金星へ飛翔中である。東京は今年まだ雪らしい雪を見ない。日曜は医者がいなくなる。ヴイルスとテロ論議と異常乾燥の度と株だけがむやみに高い。毎日の社会面記事の悪世相にはもう誰も驚かない。いちいち驚いてなんかいられないといった誰もの顔つき。総評の春闘と並んで、親鸞上人の七百年忌もほど近い。そして、流行はやりカゼと、有難や節……。


 へんな日本である。コンゴよりはすこしはましな気もするが、いったい日本よ何処へ行く、と思われぬことでもない。


「私本太平記」を書きながらもつくづく感じる。当時もその下ではみな世を考え、自分を処し、他を評し、誰もが自分を愚者とも盲目とも思ってはいなかった。だが、今日かられば、その歴史の中に泳いでいた人間の十中八、九が、

 魚に河は見えない

 といえる群魚でしかなかったことがわかる。

 かえりみてぼくらもまた、今日の大河が見えない、雑魚ざこと雑魚との盲仲間に過ぎないのではないか。


 このごろ、宴会の卓や朝飯の膳に向っても、ふと、中共の飢饉ききんと聞くニュースが胸につかえてきてならない。

 つぶさな情況を私たちは聞かされていないが、去年の中共大陸のカンバツや水害が並々ならぬ範囲と深刻な惨害にあるとだけはチラチラ報道されている。

 もしほんとだとしたら、何とか私たちの心の物だけでも、数億の罹災の隣人に届けうる方途はないものだろうか。こんなさい国家と国家の垣に立って理クツをいっている非情な管理人があるとすれば非情すぎる。日ごろ日中文化の交流にあたっている文化人などもこれに無策でいるのだろうか。──とまれ私たちは、ひとつの慚愧ざんきをつねに隣家の民にたいしては忘れえずにいる。そのため壁一ト重の情と同憂から、そしてまた、自分の飯を美味うまく食うためにもお隣の朝飯の多幸をも願わずにいられないのだ。よい方法がほしいものだ。

 このあいだ歌舞伎座の七世幸四郎の追善興行で「大森彦七」を観たが、海老蔵の大森が幕ギレで舞うあの唄は、私も建武らくがき帖で使った当時の流行歌を地謡じうたにしたもので「……浮かれて歩く色好み、バサラ扇の五本骨」などとあるあの二条河原の落首歌である。しかし余りに舞踊化されているので見物には歌詞の世相諷刺ふうしなどほとんど分っていないようだった。


 尊氏の九州入りから東上までの期間は、わずか二タ月足らずだった。どうしてそう早く九州が平定されたのか。従来の史家の筆も戦記の類も、なぜか、筑紫の尊氏については考究を怠っている。たとえば多々羅一戦にしても、史徴としうる記録はほとんど少ない。ぜひなく多くは私の想像によって書いた。が、たんなるフィクションに終らぬようには努めもした。地理その他で同地の郷土史家、筑紫豊氏に負うところが多く、角川源義氏の好意もあわせて謝しておく。


 太宰府その他へ、暮、一月、何かと多事で旅行に行けなかったのが悔やまれる。

 三月中には、ひとつ湊川近傍を中心に、山陽山陰へ出かけたい。舞鶴市から約十六キロ、綾部との中間に、いまでも上杉という地名がある。尊氏の生母清子、上杉氏の所領で、その実家は「梅迫うめさこ」という所だとされ、尊氏の「産ぶ湯の井戸」などの口碑も残っているという。──とすれば、尊氏は、東国の足利の生れでなく、丹波の梅迫うめさこで生れたわけになる。


 あとかたもないのは分りきっているが、正成正行まさつらの遺跡、「桜井ノ駅」にも立ってみたい。また、もいちど金剛山の麓に立って、正成の当年のこころを現代から手繰りながら、じっくり、土の香をぎつつ想をッてみたい。(三六・三・一)


その二十四


 久しぶりで過日、宿望の〝史蹟歩き〟に数日を送った。

 季節もよし、それにこの「湊川帖」も、いよいよ昔から議論の多い湊川戦のやまに近づいたので、急に執筆上の必要からも、神戸市を中心に綾部から丹波の山間などにわたる一巡を思い立ったわけだった。


 そこで、どうせのこと。ついこれまで果せずにいた伊吹山麓へも、行きがけ寄ってみようとなって、名古屋駅でその日「こだま」を降りた。そして杉本健吉さんと落ち合い、中部本社のKさんも加えて、岐阜、大垣、関ヶ原と、車二台の人数で、京都までゆくことにした。

 スケジュールによれば、これでらくに夕方には京都へ着けるはずだった。ところが東海道は、わけて濃尾平野の街道ときては、いまやここも団地とダンプカーと新工場建設などの花ざかりで、春のドライヴというには少々縁の遠いものだった。

菜の花や

こしの境は

雪がある

 手帖にこんな句は書いてみたが、その菜の花の黄も、稀れにしか見あたらないし、蝶々も余り飛んでいない。(東京近郊でも近年、蝶がめッきり減ッてしまったよし)──とにかくいまは地方といえど、トラックの列をたやすく縫って涼しい顔しては走れない。


 関ヶ原で降りて、首塚で一ぷくする。すぐ北の伊吹山には、まだ雪が白く風も冷たい。古い垂井たるい宿しゅくから不破ふわあたりへかかると、車の通行数はグンと少なくなってくるが、そのかわりに今度はひどい悪道路がえんえんと続き出す。

 或る一部落のごときは、両がわの家すべてがひさしの裏まで泥ンこにまみれ、その乾いた泥土をかぶったまま、昼なのに窓も戸も閉めきッて、往来の軒並み全部、人声もなく、死んだように考えこんでいる〝人家の墓地〟みたいな一村も見かけられた。


 この地方だけではない。

 こんどの旅で目にみたのは、このような山村がいかに多いかの目撃だった。近年トラック輸送やダンプカーや、また私たちのような自動車旅行者のふえたおかげというしかない。そこへもって来て道路改修のコネまわしである。せまい旧街道に面している村、部落など両側のごとはまったく空箱に泥を塗って並べたような廃墟状態におかれているのだ。──その中にも人が住んでいるにちがいないが──およそどの家々にも声さえないので、なおさら被害者の嘆きを思わずにいられなかった。

 いったい、そんな犠牲者たちには、どんな慰藉いしゃの方法がとられているのか。私はついぞ聞いていない。近時、道路とそれの附帯問題とは、全国的といえようが、私が見た一部地方民家の、あの泥ンこな惨状などは、近代化の犠牲とだけいってしまうには余りにもひどすぎる。その多くは、山間部落で、いわば、山村の無知な民だが、もし東京都民でもあったら、あれを一日でも黙ってはおくまい。──もちろん、家は開けておけないし、生活にも精神的にも、どうしようもない憂鬱さだろう。──そんな家々を私は数日間の車のうちから、丹波地方の間でも随所に見た。おそらく全国では何十万戸といっていい泥の家のおしの住人が現下の近代化の蔭に泣いているのではないか。いちどグラフにでもとりあげて、この人たちのために世論へ訴えてもらいたいと思った。


 米原まいばら駅の前で、ちょっと休む。というよりは道に迷って来過ぎたらしい。しかしここでK氏が買って車へ入れてくれた一個十円のドラやきの美味さは忘れかねるものだった。車はあとへもどって、旧、番場ノ宿の山の横道へと入って行く。──有名な〝六波羅の蓮華寺過去帳〟を蔵する寺──蓮華寺を訪うためにである。──北条仲時以下、一族数百人が自刃したそこの遺跡は、江戸名所図会では街道すじのすぐそばの美しい山門として描かれているが、今ではまったく山中の一村裏になってしまい、昔の門前町のおもかげはどこにもなかった。(三六・三・三一)


その二十五


 どこでも御遠忌ごおんきブームである。お節句せっくのノボリみたいな物が立っている。寺僧の案内でさっそく宝物の〝六波羅過去帳〟だけを見せてもらう。しかし、板戸一枚の物置にひとしい本堂裏の一劃にほかの宝物類と並んでいるだけなので、長い間には火災や雨モリの心配さえありそうに思われた。


 この〝六波羅過去帳〟などは史上貴重な文献ではあるが、たれが見てもおもしろいような宝物ではない。摸本だけをおいて、実物は適切な保管を講じておくがよいと思う。万一のさいはあとでくやみ合うにきまっている。焼けた日光の〝鳴き龍〟でもあとのマツリがいわれているが、こんな物騒な「重文」扱いの例は、行く先々で見うけられた。


「江戸名所図会」にも載って、近江番場の一名所と蓮華寺が知られてきたのは、北条仲時以下の四百何十人がここで自刃した悲痛な史蹟だからであるが、その命日の五月十日に、何の供養や催しがあるとも、寺では言っていない。どうも、のんきなものである。また観光案内にも書いてない。そのくせ番場ノ忠太郎祭りだの土産物には例外でない客呼びの観光意欲はさかんらしい。──だのに赤穂義士に十倍する人命の歴史遺跡にたいしては、理解も痛惜もまったく薄い風である。お寺さんの観光便乗もよいが、寺自体その歴史特徴をよく生かさないことには宝物も史蹟も結局無意味だろう。


 米原まいばらでおちあった大阪の学芸部長S氏や支局の人も加えて、一同車をつらね、三時半ごろ、峠をおりる。彦根市には入らず、南の山岳寄りの方へ二十キロほど走りぬく。──目的は甲良村の勝楽寺。つまり私たちが勝手に、

 道誉寺どうよでら

 とよんでいる佐々木道誉のぼだい寺である。

 臨済りんざいの一禅堂で、婆娑羅ばさら大名の道誉が晩年住んだ所だが、元より昔の宏大さはない。平常は京都博物館においてある〝道誉の肖像画〟を、この日、私たちのため、わざわざ京都からとりよせておいてくれた住持や顕彰会の人々の御好意にまず感謝する。


 道誉の画像は、子が父を写したもので、肖像としてこんなに確かなものはない。

 つまり一子高秀が、父道誉の還暦かんれきに筆をとり、それに道誉自身が、自賛じさんまで添えているのである。貞治五年、ちょうど五百九十五年前の物だ。

 ──見ていると、道誉が何か話しかけて来そうである。私は私本太平記の中で、私の想像によるその人を書いてきたが、あん相違そういしたとは、ちっとも感じられなかった。初対面でもない気がした。「やあ、君が吉川氏か」「あなたが、佐々木さんですか」「君の私本太平記ではずいぶんぼくをいろんなことにつかったね」道誉氏は微笑している。だが当時の文化人であり婆娑羅な氏は「君はわしのプライバシーをおかしたものとして訴える」なんて顔はどこにもしていない。さすが人間が大きいのである。或る意味で彼は南北朝随一の〝時代を通じての怪物〟だった。


 あんな乱世の中で、茶寄合ちゃよりあい(茶道の原始的な遊び事)から香道こうどう立花りっか(華道の始まり)などの風流を興していた彼。日本の暗黒期に生涯しながら、日本芸能史上にその名を、はぶくことのできないほどなものにし、しかも後醍醐よりも、尊氏よりも、長生きをして、畳の上の大往生をとげた道誉。とにかくケタはずれな男だったにちがいない。


 藤夜叉は、私の創作人物だが、この近郷は、狂言のふるさとといってよい田楽でんがくの発祥地で、例の有名な「釣り狐」の狂言は、この寺の縁起から興ったもので──と住持は語りながら私たちへ抹茶をすすめた。(三六・四・一)


その二十六


 まだ話も多いが、道誉のことは、いずれ他日の小説にゆずッておく。

 ところで、私たちは勝楽寺の帰途、ひょんな目にった。小さい遭難といっていい。寺を出るとすぐ両がわ田ンぼの一本道で急に一行の車がうごけなくなったのだ。行くときには坦々たんたんと走れた道が、わずかなまに、全面、畦草あぜぐさの土塊だの石コロに変ってしまい、約半キロもそれが続いている。──一体これはどうしたことか? 一時は立ち往生のほかなかった。──が、あとで土地の通信部から事情を聞けば「オヤオヤ、ここらはまだ南北朝か」と、腹をかかえて笑うほかなかった。


 従来、寺と村民の一部との間で、何かイザコザ事でもあったとみえる。

 そこへ私たち一行が行ったので、寺を困らせてやれとばかり、私たちが通った直後、部落総出で、村道から寺までの半キロほどな一本道に草根や石コロを敷きつめ、ご苦労さんにも突貫とっかん作業の短時間にこの悪道路をこしらえ上げていたものらしい。

 ──これで寺はミソをつける、ざまを見やがれと、復讐の溜飲りゅういんをさげたのだろうが、ヒドい目にあったのは寺ではなく、私たちの一行だった。狐にツマまれたような感で「さすがに狐塚のある道誉寺だ」と、昼狐の悪戯をおかしがったが、しかし、おかげで京都着は、すっかり晩になってしまった。


 翌十八日、快晴。京都柊家ひいらぎやを朝の九時発。

 K氏は前夜のうちに名古屋へ帰った。京都支局長のA氏が代って参加する。前日の空腹にこりたので、今日は車の中に菓子やミカンなど入れておく。きのう以上な長距離と山間コースばかりである。二十万分ノ一地図を見てまず覚悟から先へしておく。

桂から沓掛くつかけ、老ノ坂隧道トンネル──丹波篠村しのむら──千代川、薗部そのべ、観音峠──須知町、山家、綾部──そして舞鶴線に沿って、梅迫うめさこ、上杉

 といった昔の山陰道なのだ。日本横断ぐらいな距離がある。これを一日で京都からってかえって来るのだからたいへんでないことはない。


 尊氏旗上げの地、篠村八幡では、尊氏直筆の〝願文がんもん〟を見た。尊氏の筆蹟は、例の石清水いわしみずの仮名がきの願文でも、このようなかたい楷書の物でもみな武将に似あわずどこか優しいところがある。これは公卿出の母の清子の感化かとも思われた。


 篠村は近ごろ亀岡市に合併されたので、その記念出版として「篠村史」がつい昨今できあがったばかりである。そのお初穂の一本を編纂者の大村義雄氏から帰りがけにいただいた。──大昔には大江山と鬼の昔話を持ち、中世には尊氏がここで旗を上げ、近世では明智光秀が老ノ坂から本能寺へさして駆けた。──そして今日は、藪梅やぶうめの花と、幼稚園と、人なき村社が、昼をひッそり晴れ澄んでいるだけだった。──が歴史的には、ここの地形と京都の人煙との間には、いつも山霞やまがすみを引いて、世に不満な人間どもが反骨を養うには恰好な地の利であった所にはちがいない。


 案のじょう、悪路のために、二時間ぢかくも途中で遅れ、やっと目的地の梅迫うめさこに着いた。やれやれといった顔つきで、みんな降りる。

 安国寺は国道からすぐ西がわの山腹だった。車をすててそこへ歩く。すると麓の人家から驚くほど人が出てきた。私たち一行は、ちょうど、終戦時の進駐軍みたいに見物された。おじいさん、娘さん、おばあさん、学校の生徒、おかみさんらの物珍しげな人だかりである。その中で健吉さんが「これ、これ」と、さっそく写生帖をひろげてスケッチし出す。

〝足利尊氏産湯うぶゆの井戸〟とふだがある。つまりここは、尊氏の生母上杉清子の出生地であり、また尊氏も、幼時をここで送ったという伝説のあるさとなのだ。(三六・四・二)


その二十七


 梅迫うめさこへは、来てよかったと、あらためて思った。

 尊氏の産湯ノ井戸などは、まあまあとしても、上杉清子の輪郭は、ここへ来て初めてつかめてくるものだった。従来の正史や尊氏伝記ではよくわからなかった一女性が、隠されていた藪梅やぶうめみたいに訪問者へホホ笑みかける。


 このへんは上杉領となるいぜんからの上杉ノ郷であったらしい。──修理ノ大夫藤原重房が鎌倉幕府からこの地を受けたときから──家名も上杉家ととなえたものといわれている。尊氏を産んだ清子は、後の上杉頼重の娘であった。


 足利家の飛領とびりょう篠村しのむらとここは遠くない。両家の姻戚いんせき関係が生じたわけもわかるし、尊氏に公卿の血がながれていたことにもためらいなくうなずかれる。──いつか、私たちは高い石段をのぼり切ッて、大きな枝垂しだれ桜を前にした安国寺の一禅室へ入っていた。──すでに沢山な古文書の類が、部屋いっぱい、展列されてあった。──尊氏の寄進状、義詮よしあきら御教書みきょうしょ、清子の仮名文かなぶみ、上杉、細川、足利一族の下知状などである。私はすぐ清子の一通へとびつくように顔をよせた。見事な美しい筆である。尊氏の筆蹟の優雅なわけもこれでわかった。


くのがうのうちに 宮内卿殿へしがられ候所にても 又いづくにても かうふく寺(光福寺)へ寄せたく候

名所などころとほど(程)などをうけたまはり候へ 殿へも申合せさうらふべく候

まづそのほども知りがたき身にて候ほどに 申しをき候

生れそだちたる所にて候ほどに申をきさうらふ

 かうゑい元年八月十三日

清子(花押)

うゑすぎのせうひつどのへ


 年号の「康永こうえい元年」は、尊氏が九州から北上して、湊川に勝ち、室町幕府のしょを開いた──それから七年目の年で、また、あて名にみえる

 上杉うえすぎ正弼しょうひつ

 というのは、清子の甥の、弾正正弼だんじょうしょうひつのことである。彼の住居の跡は、梅迫から一キロほどの北の上杉町にあって今でも〝だんじょう原〟と呼ばれている。


 ふみの意味は「──自分もいつ知れない命なので、いまのうちに、どこぞの地でも光福寺(安国寺の前名)へ寄進しておきたい。とりわけ、自分が生れ育った所でもあるから、特にこれは申しておく」というもので、この一文で、ここが清子の生地であることが、一ばい確認されてくる。──そしてその清子は、この年、康永こうえい元年十二月二十三日に亡くなった。

果証院殿くわしょうゐんでん   贈二品ぞうにほん 雪庭大禅定尼せつていだいぜんぢゃうに

 ずいぶん長い法名だが、すでに征夷大将軍尊氏の母であり、尊氏の手で天龍寺や等持院も創建されていた。おそらく都の葬式は盛儀を極めたものだったろう。


 ほかに、清子の鏡とか、尊氏のだとか、肌着だとか、宝物めいた物も幾多並んでいたが、それらはみんなよろしくない。数十通の「安国寺文書」だけでこの寺の価値と由緒ゆいしょとは珍重するに充分である。

 もっと見てゆきたいが、なにしろみんなおなかがペコペコだった。とりあえず持参の折弁当を一同でくりひろげる。そこへ綾部市から市の教育長で史談会の村上佑二氏が駆けつけて来、住持の吉田敬道氏夫妻も、何かとお世話に努めてくださる。まるでピクニック気分。


 食後、村上氏や吉田住職にみちびかれて、清子、尊氏、妻の登子とうこ、そう三名の分骨がおさまっている山陰やまかげの位牌堂へ行く──一けん、健吉さんが「書斎しょさいにいいなあ」と感嘆したほど、閑素で清潔な小堂だった。

 登子の分骨がここへ納められたときの足利義詮よしあきらの下知状もさきに見た古文書こもんじょ中にあって、

登真院とうしんゐん ぞうぽん 遺骨一分之事

 とあり、貞治四年七月十六日の年号である。とすれば、尊氏の妻の登子は、尊氏の死後なお十数年は世にいたらしい。が、ぞうは皇族格である。足利も二代目の将軍になると、もうこんな思い上がりをやっていた。(三六・四・三)


その二十八


 清子のぼだい寺である以上、清子の地蔵信仰につながるあかしが何かなければならないがと思っていたら、はたして、木彫の半跏はんか地蔵像が本堂わきにあった。

 高サ六尺二寸、弘仁期こうにんきのもので〝子安地蔵〟と呼ばれているという。またべつの〝宝冠釈迦像ほうかんしゃかぞう〟も補修は多いが、すこぶる美作びさくな鎌倉仏であった。


 春の日も無性に短い。大急ぎで、上杉町の弾正原へ廻ってみる。ここで同行中のMさんがこつねん姿をかき消すという一椿事が起ったが、楽屋落ちだから惜しいが略す。──どこかの、うららかな山火事をあとに一路京都へ──夜七時ごろ帰着。──晩はおそめに行く。このさき健吉さんとMさんとの行方は知らず。夜が明けてみると、十九日、オヤオヤ今日は大雨だ。


 早朝、神戸の川辺賢武氏、わざわざ宿まで来て下さる。雨をおかして、九時ごろ出る。山崎も六甲も、すべて風雨の中。とりあえず湊川神社へゆく。というよりも駆け込む。吉田宮司と一時間ほど話す。参拝。それから附近あちこちを濡れ歩く。お彼岸は近いのにひどく寒い。

 市街も雨の日曜でどうしようもなし。花輪グリルを訪うとここもお休み。ぜひなく昼飯を牡丹園で食う。小ヤミを見て会下山えげさんへ車をやる。山上ひとりの人影もなしである。自動車を出たがひどい烈風で立ってもいられない。車の中から毛布をとりだして体を巻く。それでも寒い。そのうえ風にさらわれかける。


 身を、当年の正成としてみて、ここから一条の旧湊川を、幻想に描く。

 海上からは尊氏の数千ぞうの兵船、陸地から直義ただよしの万余の兵。むかしの兵庫沖から須磨口から、今日の烈風のごとく、咆哮ほうこうして来たことだろう。

 正成は、すべてが一望にできるこの会下山えげさんに陣どった。義貞は、山と浜との中間にあたる西国街道の二本松に陣したのである。いまは神戸市街のまン中であり、造船所やら埠頭ふとうであるが、現実の近代景を拭って、これを延元えんげん二年の、湊川合戦の当時におきかえて見ていると、じつにいろんな感が湧く。

 義貞は主力の主将であり、正成は援軍だった。なぜ義貞自身が会下山えげさんらなかったか。会下山こそは、総本陣たるべき地相である。これはおかしい。

 すべて、官軍方の布陣は、地勢からみても、もう負ける形にできている。それに対し、尊氏直義ただよしの軍は、圧倒的にすぐれていた。作戦、地勢の用いかたも、じつにうまい。


 ずっと以前に、新・平家物語で〝ひよどり越え〟を書くときにも、私はこの会下山えげさんに来て立ち暮らした。それほどここは眺めがいい。摩耶まや、一ノ谷、高取山、須磨方面から神戸市街も一望にでき、素人戦略観にはじつに絶好なのである。──土質、そこらの草木、往時の水脈、低地の古池──そんなものまで目に浮かぶ。──敗れた正成、正季まさすえらの一族はどう逃げ道をとったか? 昔は、この地方一帯にくすが多かったという川辺氏の話の端にも興味はつきない。


 何しろ湊川の合戦は、従来、疑問だらけである。正成一族の死所一つにさえ議論まちまちなのだ。──私本太平記はあしたからそれを書くところへせまっている。だのに、今日会下山に来るなどは泥縄式でないこともないが、それでもなお私には百かんの書を読むにまさるものがあった。


 また雨が強くなってくる。三ノ宮の駅で川辺氏とお別れして、大阪へ急ぐ。途中、小事故のため芦屋警察の前で一時間ほど立ち往生する。雨、いよいよくらく、四条畷しじょうなわてもあきらめるほかなく、途中「桜井ノ駅」の跡をさがす。すでに日もどッぷりで暗い木立と水たまりのほか何ものもない。この夜、祇園の万亭で旧知の老妓や舞妓さんに会う。翌日は一力旧例の〝大石さん祭り〟でお蕎麦の接待があるよしだったが行かれなかった。午後乗車、帰京した。(三六・四・四)


その二十九


 ここで一回を筆間茶話とする。正直すこしくたびれた。一ぷくしたい。

 近ごろ歴史小説というものの見解がよく論争や話題になっているが、湊川の小説化、とくに正成の死を書くなどにあたってみると、予想以上な困難さにいろいろぶつかる。私も四六時中、うつつない机の思索が幾日かつづいた。けれどそんな苦吟くぎんは、読者にはかえって、肩のこったことだったかもわからない。


 正成のさいご、また湊川合戦にかんする史料は、それはきりのないほど沢山なものはある。けれど諸書、判でおしたような旧説や見馴れた材料でしかない。

 また、むかしから余りにも有名な〝七生報国〟のことばなども、これを史観、文学観、今日の眼からどうみるべきか。いずれにしろ、ふれずにおけばよいとしておける事項ではないとおもう。


 現実として、湊川神社にはいまでも年間数十万の参拝者やら修学旅行の学生がある。彼らにはなにがまつってあるのかさえわかっていない。神社側でも今日では説明らしい説明はそれにたいして持っていないのが実状である。しかもことばはどこかに生きている。愛国という語がなまごろしになっているように、正成といえば〝七生報国〟もおもい出されよう。


 正成の自決した場所は、ほぼ湊川の北の山間とだけは史家のあいだでも一致しているが、私は往年、豊田武博士が〝歴史地理〟へよせた「河内宇礼志野うれしの御庄当雑事ごしょうとうざつじ」の裏書というものによってもっぱら書いた。書く自信をつよめられた。

 これは大乗院の僧朝舜ちょうしゅん知人ちじん和田某が、湊川合戦の直後(約一ヵ月後)神戸へ出むき、同地で見聞して帰ったことの手紙で、足利方にも楠木方にもなんら恩怨のない第三者の聞書だけにかなり信用できるものである。


 右の一文でとくに注意されるのは、尊氏が正成の首を実検したのち、その遺骸をねんごろに供養させて、供養料に、魚見堂附近の田地五十丁を僧所(真光寺か)へ寄附していることだ。

 このことは、尊氏が正成をどう観ていたか、そのさいごを、敵ながらいかに深くいたんでいたかの、かなり確実性の高い一史料といってよい。

 もし尊氏にかほどな同情がないものだったら、正成の死後、河内の領土や遺子正行が、安穏としていられたはずはなかったろう。尊氏のこのあわれみは、平清盛が、敵義朝よしともの子、十三歳の頼朝を、源氏のふるさとと知りながら、わざわざ東国の伊豆へ流してやったあの寛大さとよく似ている。


 正成、正季まさすえらと共に自刃した人々の数も、太平記には、宗徒むねとの一族十六人、相随あいしたがう兵五十余人となっているが、前記の朝舜の手紙では、一族二十八人とだけで、ほかは見えていない。そして一部分の兵は、布引ノ滝方面へ落ちのびている。また今日残っている広厳寺の位牌とか、その広厳寺で、正成が死の前日に、明極みんきょく和尚から大悟の一禅をさずかったなどという話は、おおかた江戸時代の作為で参考にするまでのことはない。


 とにかく、湊川の一戦は、結果的に、正成の一人舞台といえる観であった。本来は、全官軍の代表義貞と尊氏との対決であるはずのものが、一部隊長にすぎない正成が、ひとり尊氏の陸海軍とその抱く逆意にたいして、徹底的なこたえをなしたことになる。

 尊氏としては、そもそも、本意でない敵を敵とした気もしたであろう。勝つには勝っても相手をスリ代えられたようなものである。義貞すら逃げたのだから、正成が死ぬまいと思えばいくらでも落ちる道はあったはずだ。それに見るも、正成が大義に殉じたことだけは明らかだ。古来、いろんなあげつらいもあるが、これだけはうごかしがたい事実である。牢固としてうごかしがたい。

 ただその〝七生報国〟の末期のことばなどは、それそのままではなかったろう。そのほか多分に私の創意で書いたところが多い。正成の死の一条なども、ひとえに私の「私本太平記」にすぎないことを断っておく。(三六・五・二九)


巻外雑筆

    ──史実と非史性と、作中人物などについて──





 第五巻の校訂をいま見終った。

 どうも私は、印刷所泣かせというか、校訂癖の持ち主らしい。毎日の新聞原稿でも、その一回一回ゲラ刷り(下刷り)を取り寄せて、せっかく組ミの出来ている版へまっ黒なほど筆を入れる。そして単行本とするさいにもまた訂筆する癖がある。だから往々、新聞面と本のうえでは、随所にちがったところを生じてくるが、大意をかえているわけではない。ただ気がすむまでの精進をしているつもりなのである。読者のうちには毎日の新聞を切り抜き綴込みとして保存しておられる方もあると聞くので、ご不審を感じるさいもあろうかと、うちあけてお断わりとご諒恕をねがっておく。


 うちあけて、といえば社の出版局から愛読者カードで「著者へ何を訊きたいか」というアンケートを出し、諸兄姉のお手をわずらわしたようである。それのご返信数百枚にのぼるものを編集の手をへて私も拝見した。そして感激した。じつによくこまかに、また熱心にお読みいただいていることを、じかに知った。

 おたずねのうちでもっとも多かったのは、史実とフィクションとの交織こうしょくの問題だった。どれが作家の空想によってつくられた人物か、うちあけたところを知りたいとする読者もおられる。またもっと端的に「私本太平記は史実と空想と半々ぐらいか」というのもあった。

 批評家のあいだでも、まま歴史小説論などが爼上そじょうにされるさいは、よくこれに類した話題が出る。だが作家にもよるし、題材の扱いにもよることである。一概にいえる問題ではない。だが私のばあい、また「私本太平記」にかぎっていえば、これには、新聞小説でありつつもあたうかぎりな史実を踏襲とうしゅうしてゆきたいとおもっているし、これまでもその点はずいぶん稿外の時間と労をついやしてきた。


 けれど厳密にいえば、現代小説も歴史小説も、しょせん小説とは空想の所産であるのはいうをまたない。史実といっても、文献といっても、それは空想を通ってつかむ事象でしかないのである。だから歴史そのものでも、見方によって、つかむ焦点によって、また時代思潮によっても、往々いくらでもくつがえされる。

 おなじ史材でも、歴史科学者の眼と、文芸家の眼とでは、各イメージが必然ちがう。ちがわなければ文学の意味はない。証拠判定の一点に立つ者と、あらゆる時代条件や人間性やまたその歴史事件に推理をほしいままにする者との、立場の相違である。どっちがほんとかなどは、なかなかほんとには、はっきりできるものではない。だが歴史公式をそんなあいまいにはしておけないから古来、歴史定説があるわけである。しかし史学者はたえず既定の歴史に新しい歴史と補正を加えるための研究を怠らない。そこに文芸家の自由な思索やら書く余地もあるといったようなものだ。


 やめよう。こんな公式論は読者の求めるところではあるまい。もっと端的にお答えする。

 よく人にも直接きかれるが、佐々木道誉は決して架空の人物ではない。その小伝を端的に知りたい方は林屋辰三郎氏著の「南北朝」をごらんになればよい。「大日本人名辞書」その他でもあらましはわかる。

 兼好法師が同時代の人とは思わなかった、と今さらのようにいう人もいる。私は自分の作為のために実在の古人の年代を置き代えたりは決してしない。弟子の命松丸も、兼好の死後に師の反古を集めて有名な〝徒然草〟の遺稿をまとめた人である。

 藤夜叉はどうか? ともよく訊かれる。藤夜叉という名は私の創作である。けれど足利高氏の数少ない女性関係のうちに〝越前ノ前〟とよばれて、高氏の一子を生みながら、氏素姓もよくわからず、また高氏のそばにもおかれず、謎のような一生を終った薄命の女性がある。そしてその女性が、後の足利直冬の母でもあった。藤夜叉はそうした史実上の〝越前ノ前〟を小説化したもので、その女性や行動はたぶんに私の創作なのはいうまでもない。


 たとえば楠木正成の卯木にしても、ただ作品の作為のために加えた者ではないのである。「観世家系図」その他に依って正成に一人の妹があり、後に観世の祖となる観阿弥清次を生んだという記録が私の拠り所に在る。その詳しいことはいつか毎日紙上の〝筆間茶話〟で書いたからここではいわない。この巻では、まださして活躍していないが、おしノ大蔵などはそっくり作った人物である。当時のおしとか、密偵網のありかたなどを現すために必要だった。そのほかで、毛利時親(吐雲斎)にせよ、覚一法師にせよ、実在の人物で、その素姓年代などもそれぞれ史的根拠によって描出している。しかし断わっておかねばならぬ。実在といっても、いわばそれらの世に知られない白骨は、作家がその白骨に、作家の血をかよわして、ものいわせ、行動させてみるほかは、これを今日に再現してみる手段はない。──おなじことは、史上厳然たる後醍醐天皇にも、正成、尊氏、義貞。また北条高時その他、公卿、武門のかぎりない登場人物についても一様にそういえる。


 事件の、……たとえば後醍醐の隠岐送りの日とか、時間とか、また天候までも、当時の公卿日記などに参照して、明白なかぎりはそれを踏襲している。ただとかく宮廷関係などの事蹟は、いたずらに記述がわずらわしいので、省略に省略してあるのはいうまでもない。またいつもかならず読者から何かのご注意がくるのは、作品の内容が必然な郷土関係に入るときである。ちょっとまちがうと郷土の読者にはがまんがならないことらしい。たちどころに多くの投書が編集者をおどろかせる。

 古典の地名というものが、地方によっては、すでに廃絶されているばあいもあり、事実まちがっている記録もめずらしくないのである。地名にかぎらず、正直いって、私は「増鏡」や「梅松論」の古典もそうたいして信用はしていない。傍証的に見ているそれらのものばかりか、太平記原典の「太平記」すらも私はうのみにそのままをつかってはいないのである。私は私の解釈による、そして私なりの「私本太平記」を成そうとおもっているにすぎない。(「私本太平記」巻五 世の辻の帖 附録)


太平記寸感






 太平記は従来、ずいぶんひろく読まれてきたとはいわれているが、じつは理解の上ではその逆なのではあるまいか。源氏物語の世界ならいつの世代の男女にも心にかしてみるのにさしてむずかしいものではない。平家物語の哀歌や無常にしても時と社会を問わずその人間業には共感ができる。けれど太平記となると、はなはだ違う。時代思潮の支配下によって、その読まれ方が根本にちがってくるのだ。とくに現代のひとには、古典中の古典になってしまいそうな遠さである。歴史文学のほうからもとかく敬遠されていた。理由はいろいろあるがやはり太平記そのものの持つ特異な性格にほかならない。


 太平記は即、南北朝記といってよい。中世から近世への中間に横たわっている日本史中の一大史嶺にさぐり入って、ことこまかに描破し脚色していったものである。だが一般の概念だと、その史嶺は源語や平語の時代よりもなにかはるか遠くにかすんで見えるのであるらしい。つまり身近に寄ってこないのだ。天皇後醍醐も側近三房の名も、また足利尊氏も楠木正成も、すべてその中の人間までが、源氏の葵の上や平家の清盛などよりも不鮮明で硬化していて、他人の感を否みなくされるばかりか異質な抵抗感すらしないではない。それというのが、とかく太平記がかつての天皇制や軍国主義の面だけに謳歌され、文学としての位置や本質的な読みかたはむしろ邪道とされていたからだった。その余弊よへいで、今日といえまだほかの古典研究にくらべると学問的にもいちばん解きほぐされていないなぞや課題にみちているのが太平記というこの一大古典なのではあるまいか。


 私はここ二年ほど、まだ続掲中ではあるが、新聞小説の欄で、「私本太平記」というものをこころみている。小説の読者へよませる素材としてはいろんな不利な条件も知っての上の仕事であった。私の太平記智識はそれの必要にせまられて急に傍系史料のなかに没しながら文学的整理や分解をやりはじめたていどのものでしかないのである。権威のある言は何ひとつ私にはくだすこともできないし私の能でもない。けれど自然雑感ならば私もいろいろいだく。まず何よりはさきに七年間ほど書いていた「新・平家物語」のその平家時代とくらべて、太平記の社会は、まったく人も社会も、一変した世代であったということだ。自分の太平記観はそれに根底をおいている。ひどくあたりまえなことみたいだが、一般読者層とよぶものの概念では、こんなわかりきったこともじつは、はなはだ模糊としているものらしい。五衣の女、直垂衣の男のさし絵だけで二百年の前もあともつい混同しやすいのである。いや小説でないこの古典をじかに読むひとにしても、一応は年表などで鎌倉以降の〝承久の乱〟とか〝蒙古襲来〟などの重要事項はあたまに入れておくぐらいな用意があっていいと思う。


 新しい思想としての宋学風潮がいかに宮廷の若公卿たちの夢を性急にかりたてたか。そのくせ古い宮廷人はいぜん古い争いや陰謀に固執していたか。このへんの複雑さがよくのみこめないと太平記の社会は単なるてんやわんやにしかられぬだろう。平家物語はあの独自な名文と詩情で思わず読み耽らせてしまうてんもあるが、太平記の筆者にはその特技はないといってよい。文章の品位も平家よりは格落ちがする。筆者小島ノ法師は達筆家ではあるが詩人ではなく、おびただしく持ち味の漢学を駆使するので総じてごついという感によくつきあたる。

 しかしこの文体がすでに時代の体臭なのである。その中の人間像も多くは現代でいうドライな型になっていた。おそらく蒙古襲来の国難が想像以上にまで以後の人間とその生き方を鋳変いかえていたものではなかろうか。中世型のウェットをやぶった新種の人物が少なからずこの暗黒期を清新にしていることはいなみがたい。佐々木道誉、土岐頼遠、高ノ師直といったような婆娑羅輩ばかりでなく、尊氏のような代表的人物のどこかにもそれがあるし、武者雑兵の言動にも、これまでの物語文学には見られなかったどぎつさや思いきった生態ぶりが見られるのである。道義の置き方、政治への批判、個々の人生観なども、従って、太平記は必然な太平記時代の特色をなしている。


 徒然草の思想と、兼好法師のあの眼は、まさに当時の社会の一隅に在ったものとしてすこぶる興味のあるものだ。太平記の中には兼好の影さえさしていないが、徒然草があたまにあるひとには、いちばい太平記もふかく観照できるはずである。逆に太平記をよんでから、もいちど、徒然草をよみ返してみるのもおもしろかろう。

 それと私は鎌倉に遊ぶと思うのであるが、もし鎌倉が北条氏滅亡のさいに、あんなにまで徹底的な兵燹へいせんにあっていなかったら、そして北条文化ともよべるかたちのものを、せめて平家遺跡の一端ほども遺していてくれたら、太平記そのものの読まれ方も、もっと実証的に、興味ぶかいことであったろうにといつも惜しまれる。現存の太平記関係の遺跡は伝説、口碑などふくめると、全国にわたって多すぎるほどあるにはあるが、二世紀ぢかい北条文化はほぼあとかたもないのである。もっと命数の短い平家や鎌倉初期までは、厳島その他、とにかく〝時の所産〟をのこしていたが、北条氏から南北朝の長きにわたっては、ほとんど世代の偉業としては何もみるべきものはない。破壊につぐ破壊であった。ドライな人心が演じる乾いた戦いはこうも劫火なものになるという必然を太平記は書きつくして余りがない。そしてそんな世に会した人間群像のありとあらゆる振舞いを文字のほかに、心に聴くことも充分できよう。ただうらみなのは、女性についてはいたって記述の少ないことである。しかしそれらもあくまで太平記の太平記らしい一特色であり時代性格のあらわれであったろうともいえようか。(三五・一)


南北朝文化展を観て






 じつはここ、私はイタリア歌劇にすっかりってしまった。あのヤーゴ役者のゴッピとオテロのモナコを観てからの病みつきである。そして今夜も椿姫を観ようとしている。そのため日課の「私本太平記」一回分も今日は正午までに書いてしまった。そして三、四時間ほどなその間を、南北朝文化展で過ごした。

 七百年前の工芸の木乃伊ミイラや絵や武具などを前に、科学の壁の中で飽かず眺め入っている会場のたくさんな近代人は、それ自体がなにか〝真昼の奇蹟〟みたいに私には映った。けれど私の午前と晩との境にある頭の空間もおよそ妙なタイムだと思った。けれどこの生活モザイクが自分にはちっとも矛盾でもふしぎでもないのだった。


 書が多い。懐紙、願文、軍状などだ。なかでも格調匂うばかりなのは、万里小路藤房(正成に使いし、笠置落ちにも帝と一しょにいた公卿)の九月十九日とある一文で、別にまたその藤房の画像もある。中村渓男氏の話によると、藤房はじつは後醍醐の落胤であることが、近ごろ西村貞氏の発見された何かで証明され、画幅の所蔵者の鳥海青児氏もひどくよろこんでいる物だそうな。

 もひとつ、私が引かれたのは、かねがね一見をのぞんでいた菅原通済氏所蔵の足利尊氏の「清水寺願文」である。逆賊尊氏という汚名と対比して、行った人はこのさいぜひよく見ておいて欲しい。会場にもカタログにも訳文がないから、要旨をここに掲げておく。

この世は夢のごとくに候(中略)猶々、とくと遁世いたしたく候、今生の果報にかへて、後生たすけさせ給候べく候、今生の果報をば、直義(弟)にたばせ給候て、直義あんおんにまもらせ給候べく候    尊氏(花押)

 湊川で楠木正成をやぶり、がいせんして光明天皇をわが手で擁立した得意絶頂のとき、彼が清水寺へ納めた願文なのである。こんなにまで愛していた弟を彼はやがて殺す。後醍醐にそむく。七百年逆賊とよばれてこの国の奈落にく。この一文は彼を解く一ツの鍵だ。


 書風からは見得、辺幅をかざらない尊氏の人間味もうかがわれる。うそでは書けない願文だし、筆のあとだ。私は彼と対決するように睨んでいるうち、なにか悲しくなってしまった。歴史の潮頭に明滅し去った人間の子すべて〝あわれ〟の一語につきる。

 正成の筆は、軍中状のせいもあるが、ずっとかたい。法華経奥書にしても、彼の肌あいを書からぐことは難しい。もし、さりげない個人的な手紙でもほかに残っていたら、もすこし彼の素肌な半面を後につたえてもいたろうに、ただ正直まッ法な武将の筆蹟だ。こんなとこにも彼の不幸があったとおもう。しかし当時の土豪とすれば、これほどの書格の持ち主はやはり稀れだったろう。


 後醍醐天皇の画像は、その神格化意匠が特にめずらしい。また天皇が、足助重治へ与えられた感状も出ていたが、天皇みずから軍感状を書かれたなどは、他に類があるまい。そしてまたその天皇的書体には、震雷のような覇気が聞える。惜しいことでは、兼好法師の物が何もない。

 ケースから振向くと、吉野朝期のよろい、具足などが、それを着た人々の肺臓やら心臓をウロ抜いた骸形みたいに並んでいた。おどしの色継ぎや、皮革や金属には、じつに心をこめた彫刻文や蒔絵まきえがある。殺人か自己の死か、とにかく血にする物へ、こんな美的精進をこめたなどの習慣は人類の戦争史を考える上で、ひとつの貴重な資料ではないかなどと思わせられる。文化財の尾崎元春氏の解説をきいたが、それは全部、一国の美術工芸の空にちりばめられた星として語られていた。

 絵画では曼陀羅図にいいのが多い。曼陀羅様式の比較ができる。それと初期墨画ともいえる後の東山水墨の明け方をおもわせる可翁の梅雀図、黙庵の四睡、また鉄舟や愚渓など南北朝期一連のものがじつに愉しい。ただここで驚かれることもある。それは鎌倉初世以来の土佐絵巻の画脈が、ここで断層をおかれたように、半世紀の戦乱で、ぶッつり断ち切られていることだった。渡来思想と共に、絵も禅僧余技の墨の生ぶ声があるだけだった。


 めずらしい版画の長巻があった。明徳二年(一三九一年)の紀年で「ゆう通ねんぶつ縁起」の版木本だ。踊り念仏とか、時宗教団などとよばれた流行宗教の宣伝版画である。当時は全国に配布されたものだろうが、いまこれ一本しか残っていない。木版技術のうえでも、風俗画と見ても、興味がふかい。後の江戸初期から寛文にわたる師宣などの絵本物や一枚ズリなども思い合せられる。会場で慶応の吉田小五郎氏にお目にかかったが、同氏の造詣にうかがわなかったことをあとで惜しんだ。


 期待していた佐々木道誉の画像(近江彦根の勝楽寺蔵)はまだ出ていなかったが、夢窓国師像では、案外な気がした。案外な優男やさおとこである。後醍醐や尊氏や、あんな烈しい戦乱期の人々をほとんど弟子視して、自由に生きとおした一禅人は、こんな柔和な人だったのか。著名な尊氏の馬上像はほぼ彼の実写にちかいのであるまいか。夢窓といい、この像といい、またべつな藤房像といい、現代の巷でも、どこかでは見たような顔である。ただ夢窓のような坊さんは、いまの宗教界にはいそうもない。

 ぽつんと、白絹の上にのっていた根来椀ねごろわんの朱ザビと線が、ひどく印象的だった。これを作った無名の工人や庶民をかすかに感じさせる。もちろん庶民の用途になった物ではないが、この一器の影に、あの時代をどう生きたか、庶民の生業みたいなものを私は見つけようとした。


 考えてみると、つい戦前までは、南北朝ということばすら、つかえなかった。博物館で昭和何年かに〝建武遺芳展覧会〟をやったときは、尊氏関係の物はみなアウトされたし、当時の北朝系の物も否定にあって、ひどく偏して淋しかったものだという。だからほんとの意味での「南北朝展」というのは、こんど初めて陽の目を見たようなものである。

 その晩、私は椿姫の観衆の中にいた。一場の歌劇にもウィーンいらいの伝統がある。居ながら本場物のイタリア歌劇団を見られるなども今日の歴史だ。私は歴史のマスコミの中で、一個の小さい生活を今日は何百年もの宇宙に呼吸して生きた。寝てからもふとんの中が愉しかった。(三四・二・二二)

底本:「随筆 宮本武蔵/随筆 私本太平記」吉川英治歴史時代文庫、講談社

   1990(平成2)年1011日第1刷発行

   2003(平成15)年35日第9刷発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※二つの字体を比較する文脈で使われているので、JIS X 0208ではデザイン差で「吉」の区点位置とされる「土/口」に、Unicodeをあてました。

入力:門田裕志

校正:トレンドイースト

2012年1217日作成

青空文庫作成ファイル:

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