私本太平記
黒白帖
吉川英治
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直義は残って、なお重臣たちと、今後の方針をかためあった。
御逃亡の君については、詮議はもちろん、尊氏の意を服膺して、むしろ予想しうる二次、三次のそなえに心をくばるべきであるとし、ほどなくみな、退出した。
そのあと。
直義は、広間から兄のいる一殿へ渡って行った。──なにかよい話があるといわれたが、どんな話が自分を待つのか。──彼もいまは、いつものおちつきにもどっていた。
彼を見ると、尊氏は、
「すぐ、正月だなあ」
と、言った。
話は、そんなことばからほぐれてゆき、──全然、時局のことではなかったのである。
「ほかでもないが弟。近々に、上杉重能がお供して、母者をこれへおつれして来るぞ。……どうだ、うれしかろうが」
「えっ、母上を」
「元弘いらい、ほとんど、別れ別れ、親と子、ひとつにいたこともないわしたちだった。父貞氏どのの御逝去のころを境に、世は大乱にむかい、われらは戦陣また戦陣──。母者もまた、あの鎌倉から三河、伊吹、さらには丹波の山奥と、流転に流転をかさねられた……。おもえば御不幸なお方ではある」
「上杉伊豆(重能)の領地、丹波の梅迫へと、夏ごろ、ひそかにお移りとは、かねて伺っておりましたが」
「む、一ト頃は、伊吹もあやうく、そのため、道誉の手で、梅迫の光福寺(現・安国寺)へ御避難をおすすめ申しおいたもの。……じつは、尊氏自身で、丹波へお迎えにとも考えたが、都の留守も案じられ、佐々木道誉を、数日前に、わしの代りにつかわしておいたのだ。……思えば、これは虫の知らせであったらしい」
「ははあ。それは僥倖でしたな。もし後醍醐の件が、御不在中のことでもあったら、どんな大混乱となっていたかわかりません。それにつけ、都もまだこんなありさまでは、せっかく母上をお迎えしても、いつまた、いかなる変を見まいものではなく、それがまた、兄者の御負担になりはいたしませぬか」
「いや。わしとおまえとの、兄弟の心次第だろう。そとの敵は、あらまし、恐れるにはたらん。……かつはまた」
と、尊氏は、あらたまって、こう言った。
「上に、新しい朝廷を仰ぎ、そして、室町幕府の第一歩をそのお膝もとに開く日にあたりながら、なお尊氏が、自分の母や妻子らを、遠くにおいているとあっては、諸民の思わくがどうであろうか。人心の鎮めにも、よいかたちではない」
「いかにも、それはその通りですが」
「かたがた、久しぶりで戦のない正月だ。こんな年は、夢の世のつかのまみたいに珍しい。母上にも、こうなりましたという所をば、お目にかけようではないか。それを見れば、朝の廷臣方も安堵しようし、また自然、洛内の市民にも、正月気分が興ろうと申すもの」
いまから尊氏は、その日を、楽しんでいるふうだった。そうまでには、心からよろこべない直義ではあるにしろ、彼にも決して悪い気はしなかった。
さきに。
尊氏は、権大納言にのぼり、直義は、参議となった。しかし世人は、直義のありかたと、幕府のたてまえから推して、彼を現下の、
副将軍
と、観ていた。
事実、直義自身も、それくらいな気位だった。このさいの難関は、たんに、兄の代行者ぐらいなことでは切り抜けえないとしていたのである。
「兄は兄、おれはおれ、所信はどしどしやってゆかねば、将来、大きな悔いをみよう」
かつては、その所信から、大塔ノ宮を鎌倉の牢で刺し殺させもした、あの強い自信である。
年暮のわずかな日も、彼はむだには過ごしていない。幕府の名で、奏請を仰ぎ、堀川ノ光継、洞院ノ実世、そのほか、後醍醐について行ったとみられる十数家の公卿の官爵をけずり、また、
「近衛経忠も、どうやら臭い」
という密告から、関白家の附近にも、番所をもうけて、その出入りを見張らせるなど、粛正の風は、仮借をしなかった。
つづいては、二十六日、侍所の高ノ師泰に兵一万余をさずけ、
「義貞征伐に手間どらすな」
と、これを越前金ヶ崎攻めの加勢に、発足させた。
こういうあいだにも、後醍醐の落ちのび先を、鋭意、求めていたのはいうまでもない。
その結果。──暮も押しつまってから、脱出後の足どりが、おぼろながら、つかめてきた。
やはり河内から大和へ潜幸されていたものらしい。しかし、この方面は、相当、往来が多く、また追捕の兵も、第一に手を廻したはずのところである。
どんな偽装をもって、どうして逃げおおせられたものか。尋常一様なる御手段であったとは思われない。
「天野金剛寺古記」によると。
二十三日
帝王、賀名生に御着
二十八日
吉野金峰山に入御
と、見える。雪やあられの、厳寒の道を落ちて行ったものにしては、おそろしく日かずも早い。おそらく馬で飛ばした所も再々であったのだろう。
そして、経路から考えるに、途中では、和田、楠木などの残党がお迎えして、葛城山脈を南へ越えてゆかれたものと想像され、紀州へ入ってからは、土地の宮方、三輪の西阿、真木定観、貴志、湯浅党などが、前後を厚くおかこみして、山上の蔵王堂へと、一時、ご案内申しあげたのではなかろうか。
いずれにせよ、これらの手順だの吉野大衆との交渉は、あらかじめ、北畠親房や四条隆資らが、運びをつけていたもので、さらにここから、高野へお遷りの議もあったが、その議は止み、ここ吉野の山上を、以後、
吉野朝廷
の地と、さだめられることとはなった。──いわゆるこれが、南朝である。──それにたいして、京都の朝廷を、北朝と、世人はいった。
京都では、暮の二十九日、なんとなく殺伐な気の失せない中にも、一道の平和らしさが流れていた。尊氏の母堂やら妻子眷属が、丹波から迎えとられて、都入りしていたのであった。
年は明けた。
北朝の、建武四年
南朝では、延元二年
おかしなことだが、こう真二つに、ひとつ国土が割れ、二つの年号を称え、それぞれ異なる正月を迎えたのだった。
日本の分裂症時代、〝南北朝〟とよばれる畸形な国家へ突入して行った年を、この春とすれば、以後、その大患はじつに、五十七年間もつづいたのである。
これまでで、もうたくさんであったろうに、まだこの先、いぜんたる血みどろやら謀略の抗争を半世紀もやりつづけなければならないとは……。
たれが予想したろうか。
たれもそんな予想はしなかった。願ってもいなかった。
だから生きてもいられたし、各〻が我意、主張を固執してもいられたのだろう。もし、そんな未来とわかっていたなら、たれにせよ、虚無か、出家か、でなくとも、生きのほこりなどは持てなかったにちがいない。
後醍醐にしても。尊氏にしてもである。
わけて尊氏などは、自分の画策と、事の結果とが、
「こうも、思いのほかに、変ってくるものか」
と、その年の初めに、その一年の未来さえ、分らない気がしたであろう。
後の史家には、後醍醐と尊氏との講和を、どちらも、謀略と謀略との、だまし合いであったと説く者もあるが、後醍醐とて、初めから、好んであんな冒険的な脱走をもくろんでおられたものでは決してあるまい。
もし、吉野落ちが、初めからの計画であるならば、わざわざ、その御一身を敵の足利軍にゆだねて、都へ還る必要などがどこにあろう。
あれほどなお覚悟を以てするならば、叡山の行宮から、直接、吉野へ入ることは易々たるものであったはずだ。やはり尊氏との政治的交渉に、大きな御期待を寄せていたからにほかならない。
それがである。ついに、龍は雲を呼び、雲は龍を乗せて、政治圏外の、絶対地へ去ってしまった。
尊氏にとっては、大きな痛打であったし残念でもあったろう。彼はもう血みどろにあきあきしていた。血が万事を解決しないことも知っていた。
もっと彼の心に重量をしめていたのは、いまの優位のままあとは政治的な進展に乗せて行こうとしていたことだった。──それが破られたのである。──直義以下の大勢を前にして、彼はあのような度量のひろさをみせてはいたが、じつのところ、落胆は深かったろう。そして、ことしも来年も、また来々年も、なおまだ、不安定な幕府の発足と、戦いの連続をも、胸におかないではいられなかった。
「……自分の意志ではなく、しかも、自分の意志かのように、周囲はあらぬ方へ動いてゆく……?」
彼はふと懐疑する。大いに悩む日もあった。しかし彼にはこの頃、ひとつの慰安の場がなくもなかった。家庭が甦っていたからである。
丹波の梅迫から迎えられて、以後、都に定住となった尊氏の家族は、家来や侍女たちもいるし、なかなかそれは大人数だった。
母堂の、清子
みだい所登子
嫡男の千寿王、九歳
そして、腹ちがいの一子、
不知哉丸
は、ことし十五となっており、その生母の藤夜叉も、はや三十路をすこし出て、いまでは〝越前ノ前〟とよばれ、まったく、武家家庭の型に拘束された一女性になりきっていた。
かえりみると。
これらの女性が世路に耐えてきたたたかいも、戦野の男どもに劣るものでなく、しかもこんな弱い群れは、武門という武門や公卿の深窓からもみな〝時の波〟に漂い出されて、およそ余されてはいなかった。──むしろ、尊氏の家族のごときは、幸運も幸運、最上な方だったのだ。
が、越前ノ前には、それですら、いのちの縮むほど、或る期間が、つらかった。もっとも、彼女のつらさは、漂泊の危険や生活のみじめさではなく、
母堂
みだい所
嫡男の若ぎみ
などのなかで、武家家族として共々にその家憲や作法の規矩にしばられていなければならなかったこの長い月日が、口にもいえぬ気苦労であったり、情けなさであったらしい。おなじ尊氏の子でありながら、しかも不知哉丸は長子であるのに、事々に、周囲の老臣や侍女は、
「千寿王さま。若君さま」
と、これを立てて、不知哉丸には意識的に差別をする。
でも、彼女は、
「ひがむまい」
と、自分の卑下で自分を抑えころしてきた。しかし、いつまでたっても、彼女には、武家生活に溶け込めず、そして目下の男女を目下と頤使するような思い上がりにもなれないのだった。そして、いつも心のすみのどこかには、前身のひけめが住み、田楽女の藤夜叉がまだ息づいていたのである。
ここもむずかしい。
一国の和が困難なように、小さい〝家〟にすら、人間の集合するところ複雑な何かをみな心の襞にもっていた。けれど尊氏は、しごく大ざッぱに、これらの家族を見、ひとまず烏丸のさる女院のお住居のあとへ入れて、時折には通っていた。そして直義なども来合せると、母や登子を笑わせて、団欒に飽かない晩もあった。
しかし、そんなときも、ふと気づくと、越前ノ前と不知哉は、いつかみなのうちから消えていた。直義は敏感なので、あるとき、尊氏へ注意した。
「不知哉丸も十五です。いかに何でも、この春はもう、元服させねばなりますまい」
まもなく、その元服は実現された。しかし身柄は、錦小路殿へひきとられ、直義の養子となって、なのりも、
直冬
と、名づけられた。
彼の生母の越前ノ前が、都から姿を消したのは、それからまもない後だった。
多少の騒ぎはみえたが、家庭の秘事として、表立った捜査もおこなわれず、深いわけを知っている二、三の家臣の間で「おそらく、元の田楽村へ帰ったものであろうよ」などとささやかれたのみだった。
越前ノ前
と、よぶよりは、尊氏にはやはり、藤夜叉とした方が、胸にせまるし、生きてもいる。
「なに、いなくなった?」
彼女の失踪と聞いたときの彼の驚きは、国家的な大変と、一家族との違いこそあるが、後醍醐のきみを掌から逃がした折よりも、もっと、あらわな苦痛を、おもてへにじみ出していた。
「ふらちな女だ」
と、言ってから、また次に。
「せっかく、不知哉丸を元服させて、直冬と名のらせ、錦小路殿(直義)の養子として据えたものを、なにが不足ぞ。すてておけ。行方などはさがすにおよばん」
事を、政治として扱うときの彼と、全然、私情でしかない場合の彼とは、まるで別人の観がある。だらしのないほど、一面はもろい。
しかし、このことに限っては、それきり藤夜叉の名も口にしなかった。──もっとも、時はすでに二月下旬で、越前の戦況が、朝に夕に、ひんぴんと聞え、それの早馬が入るたび、幕府の室町界隈は、わきかえっていたときでもある。
そして、三月に入ると、まもなく、
金ヶ崎落城
の報が、斯波高経と高ノ師泰との連名で、早打ちされてくるし、ひきつづいて、落城のさい、足利勢に捕われた後醍醐の皇太子恒良が、現地から都へ、押送されて来た。
押送の将が、幕府へ出て、直義へ告げた日の報告によると。
新田義貞は、さすが北国では、自分に悔いなき戦いをして、金ヶ崎、杣山の二城を根拠に、めざましい経略、また奮戦をみせたという。
けれど、高ノ師泰の加勢が寄手に着いてからは、さしも破綻をあらわして、ついに敗れたものだとある。
この戦いで、新田党の雄、瓜生保は戦死し、義貞の子義顕も、尊良親王も、大勢の味方と共に自刃するなど、いかに苛烈な抗戦であったかは、あとになって、城砦に入ってみると、死馬の骨が山とつんであったのでも分った。籠城の将兵はみな、馬を食っていたのである。
「して、義貞は?」
「まだよくわかりません」
「討ち洩らしたか」
「さあ、そこは?」
直義は、次の報を、待ちかねた。するとまもなく、尾張守高経が、新田党の首級二百余コをたずさえて、帰洛した。しかしそのたくさんな首を実検して行っても、義貞の首はなかった。脇屋義助の首も、洞院ノ実世の首も、なかった。
直義はいまいましげに、実検を終ると言った。
「すべて二日の間、三条河原へ梟けならべろ」
町の者は、もう見あきている。驚くべきことにも驚けなくなった非情な唇をそらし合って、つぶやいた。
「首が咲いたね、土筆みたいに」
「今年は花見と思ったが」
「また、首の春だよ」
人は、このような物を見ても、そこの前を笑って通るほどな群れになっていた。無常を感じるほどな血の濃さもなくなっていたのである。──そしてここは北朝の都だが、南朝の吉野の山は、どんな春を粧い出していたことか。
吉野に開かれた南朝の政府は、さしあたって、後醍醐のおはいりになった山上の吉水院をあてて、そのまま、
吉野朝廷
としていた。
そこは、蔵王堂の供僧坊とよぶ小院で、やや下がりかけた崖に倚って、一面は谷に臨み、いつも下へ落ちてゆく水音が寒かった。
花に寝て
よしや よし野の
よし水の
枕の下を
石走る音
ここへおちつかれてからの後醍醐は、しきりと歌を詠まれていた。それも秀歌が多かった。自然、運命の極限が、人の悲腸に詩魂を叫ばすのであろうか。
ここにても
雲井の桜咲きにけり
ただ かりそめの
宿と思ふに
これらの御製にみても、吉野はもう花の雲だったにちがいない。そして一月いらい、足利方の目をくらましては、都を出奔して、これへ集まってくる公卿たちも多く、御座のあたりもいつとなく賑わっていた。
そのなかには、前ノ内大臣定房や参議ノ経季や、また近衛経忠といったような、関白家もあったので、朝廷の儀容もととのい、人材にかけては、決して、北朝の廷臣に劣るものではなかった。
そこで、まもなく、
「ここも、手ぜま」
とする声が高く、行宮は、蔵王堂にも遠くない所の、実城院へ移された。
で、おそらくは、ようやく、ここに皇居の粧いやら朝儀のかたちなどもととのいかけていた頃であったろう。
金ヶ崎落城の悲報が入った。──その詳報の聞えるたびに、夜の花は、声なき御廂を、雨と打った。
けれど、やがて。
新田義貞や、脇屋義助らは、なお越前の杣山城に拠って、健在とわかって来たのみでなく、洞院ノ実世も力をあわせて、再起の兵を、全北陸にわたって呼びかけているとの報をえたので、みかどは、
「末こそ待て。一勝一敗のたびに、一喜一憂するはおろか」
と、この折にも、一首を詠じて、左右の人々にしめされた。
都だに
さびしかりしを
雲晴れぬ
吉野のおくの
さみだれの空
「……それにせよ」
と、後醍醐もなにかにつけてよく仰っしゃるのは、奥州方面の消息だった。──みちのくの鎮守府将軍──あの北畠顕家は、なぜまだこれへ見えぬか──というお心待ちな焦躁であった。
北国に、義貞。
東国には、宗良親王。
また、九州には菊池の党。
そして伊勢に、北畠親房、河内和泉には、四条隆資と、それぞれの地に、それぞれな宮方の驍将がたたかっている。あるいは、四隣の兵を糾合して、次の地盤をつくりつつある。──だのに、なぜあの純情無垢な若き将軍顕家のみが駈けつけて来ないのか。
さきにも、江戸忠重を密使として派せられていたが、さらに命をおびた吉野勅使は、この月、みちのくへ急いで行った。
北畠顕家は、この一月ごろ、多賀ノ鎮守府から伊達郡の霊山へ移っていた。国府も守りきれなくなったのだ。
みちのくの天地も、中央の余波から兵革のやむときはなかった。四方に蜂起する兇徒のなかにあって、顕家は、
「ああ都へ。君と父とのいる都の危急へ。何とかして」
と、心はあせっていたが、いかにせん、ここを立つことができない周囲の実状だった。
さきに、吉野朝廷からの、ご催促に接したとき、彼は密使の江戸忠重に託して、大意、こういう御返書をさしあげてある──
勅書、ならびに貴札、謹んで拝見いたしました。吉野へ臨幸のよし、社稷の大慶、顕家もほっといたしたことでございます。
つきましては、即刻の上洛を思うこと、心も矢竹にございますが、奥羽一たい、乱麻の状にて、余賊、容易に平定せず、さきに新田義貞からも、しきりな急使を受けておりますものの、いかにせん賊徒平定の謀に、日夜、心をくだくのみで、遅々と、延引いたしおりますこと、真に、われながら鬱々の感にたえません。
しかしながら、綸旨を拝して、将卒共に、勇気百倍いたしました。きっと一日も早く馳せ上りまする。そして天下の逆賊を掃い、君辺の害を清めて、昭々の御代を恢復せずにはおきません。八幡、燃ゆる心でおります。委細は上洛のときとし、まずは君前よろしく御披露のほどを。
人々御中
今は、その時からもう八ヵ月も経過していた。東北にはすでに早い秋が訪れている。
「行こう! 万難を排して」
顕家は決意した。──断ジテ行クトコロ鬼神モ避ク──とは、おそらく、そのときの彼の胸中であったろう。
その顕家は、奥羽の鎮守府大将軍という肩書こそかがやかしいが、年は、ことしちょうど二十歳にすぎない。
そして、上にいただく義良親王は、十一だった。
十一歳の皇子を擁するまだ二十歳の若き将軍は、ここに、
「日夜、中央の危急を案じながら、むなしく、四囲の草賊にさまたげられて、ことしもまた、雪にとじこめられなどしたらなんとしよう。国の大事、吉野のご浮沈。もはや猶予のときでない。途中で倒れるまでも行こう! 八月十一日、ここ霊山を発足するぞ」
と、ついに令を出した。
これをたすける人々には、結城宗広、伊達行朝、そのほか、奥州五十四郡の心ある武士どもがあった。──それに国司勢をあわせるとほぼ一万騎にのぼる勢いをなした。──青襟の将軍顕家のけなげな意気に打たれて奮い立ったものか。それもあろうが、皇室を大事に思うことでは、むしろ僻地の武族や若者の方が純であったかもわからない。
八月十八、十九の両日には、はやこの二度目の上洛軍は、白河ノ関を突破していた。勢いは風より疾く、秋の千種に見送られて、兵の眉も爽やかだった。
やがて宇都宮についた顕家は、そこから一使を、吉野朝廷へ飛ばしていた。
「みちのくの精鋭一万、霊山を立って、白河ノ関を越え、ここまで来ました。前途幾山河、なお途々の敵の邪げは想像を絶しましょうが、一念、くじけることはありません。──咫尺に罷り出ずる日は、今年中か。あるいは年を越えるかもわかりませぬが、まずは第一報までを、この地から」と。
顕家の若い眉と共に全軍は〝士気天ニ冲ス〟の概だった。ゆらい、中央の官軍はいたずらに官爵を誇って老いやすかったが、みちのくの官軍は若かった。純で情熱的で、ただ国の難に征くとしている、いわゆる山沢の健児の風がまだあった。
宇都宮は、結城宗広の領で、いわば官軍の一拠点である。七日ほどの休養と装備をととのえ、また参陣の新手も加えて、
「一気に小山を抜け」
と、次の小山城へと、おめきかかった。
今春、足利方の桃井貞直とたたかって、何度戦ッても、勝てずに退いたところである。
そうした強固なる壁なのだ。
「退けぬぞ! このたびは」
じつに、ここを降すには、十三昼夜の猛攻また猛攻を要した。しかし、ついに破って城将の小山朝郷をとりこにした。そのかわりまた、みちのく軍の犠牲の大もいうまではない。
しかも、いたる所には、まだ小塁に拠る敵や残軍の反撃が途に待っていた。打ちはらい、打ち払い、すでに、秋は深み、十月もすぎかけている。──
「……利根川だ」
まんまんたる大河に面を吹かれたとき、人も馬もそそけだッた。みちのくの脅威にたいする鎌倉方の防禦線は、つねにここを「──越えられるものなら越えてみろ!」と、一大自然の利を持つ備えとして恃んでいる。
そのうえに足利方では、顕家の西上にたいして、すでに抜かりのない防備の陣を対岸にしいていた。
つたえられるところによると、鎌倉にはいま、尊氏の子の千寿王が、足利義詮となって、京都から降って来ているという。──そしてまわりには、上杉憲顕や細川和氏やまた高ノ重茂らがつき添って、関東地方をかため、とくに斯波家長は、東国における実戦では経験第一の者なので、利根川へも彼が大将としてのぞんでいるとのことだった。
さすが、顕家の麾下も、ここでは苦戦の足ぶみを余儀なくされた。──いつか冬にも入り、坂東平野の氷雪になやまされることも、たびたびだった。
が、十二月十三日の決死の渡河は成功して、ついに、敵の堅陣をけちらし、十六日には、長駆、もう武蔵野の西を駈けつつ、
「はや、鎌倉はそこ」
と、先を争っていた。
府内における、小壺、前浜、腰越の合戦などは、二十三、四日頃のことである。──敵の斯波家長は、杉本城で自刃し、足利義詮以下は、三浦方面へ、敗走した。
「年内には、吉野までも」
と、急いできた顕家も、ついにここ鎌倉で越年となった。霊山出発いらい、四月目だった。
けれど、これでも迅い方であり「よくぞ!」と踏破の後を振返ったことであろう。同時に「ここまで来れば!」の感もあった。
ここで、つけ加えておかねばならないことがある。
北畠顕家軍の鎌倉突破は、いかにも、一瀉千里に行ったようだが、これには、ほかの助勢もあったのだ。
一つは、北条時行の助けであり、もひとつは、新田義興の応援である。
北条時行(亡き高時の遺子)は、そのご、勅免となって、伊豆にいたので、顕家の南下に呼応して、箱根に旗を上げ、また、新田義興(当年、まだ二歳の徳寿丸)は、新田党の郷土、上野を出て、これも側面から顕家を助けていたのである。
──わずか五年前をかえりみれば、執権高時は、後醍醐の怨敵だった。また義貞は、その北条九代の府を、一朝のまに、瓦礫となさしめた人だった。
それが、いまでは〝反尊氏〟のもとに、勅免を蒙って、高時の子も、新田の党も同陣になっていた。じつに予測もできない時の変りようである。
そして、これらはみな、時をひとつに、全国へむかって発せられていた吉野朝廷の大号令によるもので、その目標は、
京都を奪回せよ!
であった。
檄は、東北四国九州へも告げていう。
京都の北朝は偶像である。傀儡師の尊氏にはさしたる戦意もない。直義は一驕者にすぎず、次第に武家からも見離されよう。兆しはもうみえている。
反対に、吉野遷幸このかた、諸州にひそむ忠誠の士は、みな悲憤して起ちあがった。一個の浮沈にとどまらず、この国そのものが保てるか、救いなき荒廃へ落ちて行くかの、真の国家の危機を、人は初めてほんとに気づいたようだ。見ずや、諸国のあいだには、これまでにない正統な朝廷支持の声がぼつ然と高まっていることを。
時は、まさに今である。
京都を奪回せよ
東西南北から、京都へ迫れ。
こう激越な檄は、東海道をはせのぼるみちのくの健児らへも、軍楽のような鼓舞を盛り上がらせていたのだ。さらに途中では、宗良親王の参陣を見、その兵力も二万余の大軍に増強されていたのである。
しかし、明けて延元三年のこの一月は、彼らにとって、苛烈であった。
行くての美濃路は──不破、関ヶ原、垂井、青野原──すべて敵勢で充満していた。はやくも京都から直義の指揮下に、高ノ師冬、吉川経久、佐々木道誉、おなじく秀綱、土岐頼遠、細川頼春などが、数万の兵力を幾手にもわけて、待っていたのだ。
いかにその旗かずや軍色が多かったかは、先ノ陣と後ノ陣との、割りあてをきめるにさいし、諸将の間で、クジ引きがおこなわれたというのでもわかる。まだ二十一と聞く花の如きみちのくの鎮守府将軍顕家の首、それを、われこそ挙げんと、みな競い合ったものだったろう。
しかし、顕家の首は、そうたやすくは取れなかった。
かえって、数日にわたる激戦の結果では、その逆が出た。一陣と一陣との駈け合せでも、一騎と一騎とのたたかいでも、断じて、みちのく勢が強い。
京都では、この敗報に、大動揺をおこして、一時は、西国落ちの評議まであったというが、これはうそである。──高ノ師泰が、急遽、加勢に向ったのはほんとだが、まだ、美濃平野の対峙だった、そこまでの狼狽などするはずがない。
むしろ、やがて、
「すわ、あぶない!」
と、自軍の立脚点に、恐怖したのは、顕家の方だった。
なぜなら、ただただ敵中を突破しつつ、長駆、これまで来たことなので、一時、敗散した東国の足利勢は、そのあとで勢いをもち返し、東海道を追跡して、いまやすぐうしろに迫っていたからである。
しかも、その追撃軍は、少数ではない。上杉憲顕をはじめ、江戸氏、葛西党、三浦一族、坂東八平氏、武蔵七党などの混成旅団で、あなどりがたい兵質と数であった。
顕家は、このとき、
「越前の新田義貞は、われらが、はや、ここまで来たことは、夙に聞いているはずだ。義貞は、どう動いているか。義貞のうごきこそ、知りたいもの」
と、しきりにあせった。
けれど、忍びの連絡はなし、何ら、その消息を知りようもない。もし、義貞も京都へと、歩調を共に進んでいるなら、自分はここを一歩でも退くべきでなく、どんな犠牲を払ッてでも、一路京都へ行くべきであると、顕家は考える──。
「おそらくは」
と、結城ノ入道宗広が、彼の長い経験から見て言った。
「新田殿としては、うごきたいにも、うごかれぬ状態なのでございましょう。もし、それができるくらいなら、東国へ迂回して、すでにわが軍と合流もしていたはずです」
「では、ぜひもない。道をかえて、伊勢路から奈良へ入ろう」
「が、それにしても」
「うしろの敵か」
「さればで」
「なんの一ト反撃くれて、敵の潰えるそのひまに、順次、南へ下がって行け」
反り合戦というものは、非常な迅速と、敵の油断を突くのでなければ成功しない。──機をつかんで、みちのくの兵二万は、一せいに後を向いた。
この戦いで、敵の土岐頼遠は負傷し、桃井直常は、さんざんになって、洲俣川を逃げ渡った。奏功は、充分だったのである。──よしっ! と見るや顕家たちは、方向を南へ変えて、一気に、北伊勢へ、転進をつづけた。──そして伊勢や伊賀の山中でも、行く先々では、足利方のさまたげに出会ったが、行くところ、それに剋った。
こうして、やっと、
「オオ、奈良が見える」
と、全軍の士は、伊賀路を南下がりに来つつ、諸声あげて、よろこびに踊りあった。
この日、辰市の辺で、足利勢との小ゼリ合いがあっただけで、顕家以下の長途の兵は、ここに奈良を占拠した。
当然、吉野朝廷のよろこびは大きく、顕家の不撓不屈な来援は、
「よくぞ、よくぞ」
と、高く歓呼されていた。
奈良とは目と鼻のさきの吉野である。けれど顕家は、ついに、吉野へは参内せず、みかどへお目にかかろうともしなかった。また、つい伊勢に居ると聞いている、父の北畠親房とも、もちろん、会ってはいなかった。
「ここで息は抜けぬ」
と、彼はすぐ次にそなえて、
「京都回復の大命を成しとげ、そして真の勝利をみるまでは」
と、かたく誓っていたものであったろう。
その京都にあっては。──尊氏もこのところ、従来の〝直義まかせ〟を放擲したかのようなおもむきがある。
直義は、じっとしていられる質でない。
みずから美濃へ出馬し、帰っては北国の手当を督し、また、奈良方面の作戦に当るなど、向うところの局面へ没している。
いきおい、尊氏はまたも、好まざる表面に立たなければならなかった。
昨今、京都の上下は恟々と万一の憂いにおびえ出しており、それに第一、執事の高ノ師直などが、決して、尊氏を安閑とはさせておかなかった。──かねてから師直は、尊氏の〝直義まかせ〟な態度には、多大な危惧と、不満とをもっている者だった。
「おそれながら」
と、師直は、たびたび、尊氏にいさめていう。
「錦小路さま(直義)へ、一切の権をおゆだねあるなどは、ちと早計ではござりますまいか。天下の耕地は、刈入れどころか、まだまだ、青田にもなっておりません。しかのみならず、五風十雨、まま洪水が襲って、せっかくこれまでにきた御経営も、一夜に泥の海と化すごとき惧れすら、なきにしもあらずです」
「わかっている」
尊氏には、たいがい、わかっているには違いなかった。──師直も決してこのひとを、暗君とは思っていない。否、大いにおそれてさえいるのだが、それにせよ直義がこのひとを超えてあまりな権を持つのは好ましいことでなかった。しぜん自分の将来も共にうだつの上がらない予想がされてくるからだった。
しかし、尊氏の心境も、もう前のようではない。顕家の奈良占領の事実は、彼を大きく反省させた。
いまさらのように、吉野戦略の全国的な構想の大を知り、また、南朝方にはその持つ伝統と、後醍醐という不世出なきみの精神力とをめぐッて、顕家のごとき純で強烈な臣子が、なおまだ、少なくないなども、大いに覚ったようであった。
それにもよるか。
二月二十八日以降の、足利勢の奈良攻めには、たしかに、その指令は、尊氏から出たかとみられるふしがある。高ノ師直の軍旗が、この戦場にあらわれたなども、その一証といっていい。
奈良は、猛攻撃をうけた。
奈良坂、東大寺附近、法華寺界隈、手掻小路と、合戦は連日、熾烈をきわめた。──が、一方の顕家の麾下は、いかんせん、いわゆる〝疲れ武者〟で疲れぬいていた。
「無念だが」
と、顕家は四囲の情勢から今は奈良を放擲するしかないときめて。
「河内へ退こう。河内、和泉、摂津の兵を糾合し、敵の天王寺へ突いて出よう。かしこに拠れば、海の口を扼し、かたがた、淀をさかのぼって、京都回復の作戦に出ることもできる」
こう決意すると、彼は、義良親王の前に伏した。親王はやっと十二になったばかりの童形である。顕家は、兄のように諭して言った。
「宮様とは、数年の間、みちのくの艱苦を共にしてまいりましたが、ここにてお別れ申さねばなりません。供人を添えてお送りいたしますゆえ、吉野へおわたり下さいまし。吉野には御父のみかど、御母の君(准后ノ廉子)、みなおいで遊ばします。わけて御母の君にはどんなにお顔を見たがっていらっしゃることでしょう。……この顕家も、やがて都を取り返したあかつきには、さっそく吉野へ罷りいでますれば……」
「…………」
親王はただうなずいていらっしゃる。
親王は七ツ、顕家もまだ十六のときから、この幼い君臣は、朝廷を代表して、陸奥の遠くへ赴任し、多年風雪の苦を共にしてきたのである。親王にすれば父母以上にも慕われていた顕家であったろう。こらえ泣きのせきをやぶって泣かれたが、やがて、なだめすかしてようやく吉野へお送りしたのであった。
つづいては、東国で参陣された宗良親王へもすすめて、この君とも、強ってここで別れた。そして吉野へ送らせた。──彼には胸に期する何かがすでにあったとみえる。
京都は目前だが、同時に足利軍の配備は、これまでに踏破して来た海道戦の比でない。そして、すべて新手の敵だ。その重厚な兵力はまた、いくらでも後備を繰り出すこともしよう。
「これからは」
と、顕家はいよいよ惨烈な苦戦を思う。
なにしろ頼む味方の中堅は、長途の疲労からまだ充分に脱けきれていず、それにこの奈良へ着いてからは、士気のゆるみも生じていた。
純なるみちのくの健児たちも、そのすべてが顕家のようであったわけではない。顕家のごとき教養のうえに持たれた情熱でも信念でもなかったから、ひとたび弛むと、ただの野性の若さだけになり、それが物珍しい奈良界隈の都会的な物への物欲に移行していって、燃え狂ったのは、自然といえば自然と言いうる現象であったろう。
ほかの書にはないが「興福寺略年代」には、このときの奥州兵は、奈良ではじつに手当り次第な掠奪をおこなって、まるで野の子供みたいな野蛮性を発揮したと書いている。──その暴状ぶりは当時戦乱に馴れた時人をしてさえ「前代未聞……」と、眉をひそめさせた程とあるから、よほどひどかったものらしい。
これを見た顕家の傷心はいうまでもなかった。彼が、宗良と義良の両宮にお別れしたのもそのためではなかったか。また前途に、新たな困難や苦戦が予想され出していたのも、ひとつには、この救い難い現象にもあったろうか。
しかし、暴兵化した暴兵にもまた一種の強さはある。
顕家はよくその豼貅(中国で昔、飼い馴らして戦陣に使ったという猛獣)を上手に用いたらしい。和泉、河内の野に転戦してからも、彼の軍は、行く所で勝った。
そして、天王寺の敵、細川顕氏を破って、そこを占領したのは三月八日で、その八日九日は、ひどい雨だった。
雨の京都は、この報で、
──京中、動乱シテ、恐怖、流言、極マリナシ。〔官務記〕
の状だったという。
けだし、天王寺の陥落は、淀川の線に沿って、すぐ京都をおびやかしうる体勢を敵が持ったことを意味するからだ。
しかも、この優勢に加えて、顕家の弟、北畠顕信もまた、男山に進出していた。その男山八幡の上からは洛内の屋根も見える。「官務記」が記したことも、あながち誇張ではなかったろう。
「すわ、抜かったり」
と、足利方では、兵馬の大移動に追われていた。
これほどとは、尊氏も予想せず、直義も思っていなかったものとみえ、直義は急遽、東寺まで出陣し、師直の手勢は、ただちに洞ヶ峠から八幡にわたって、男山攻撃を開始した。
だが男山は、頑として陥ちない。しかも、ここに手まどっていれば、いよいよ天王寺方面の顕家を強大にする。
尊氏は、洛中から指令を送って、師直に告げた。
「さきに天王寺を攻めろ。天王寺が陥ちれば、男山も自然陥ちる」と。
で、師直は、一部の兵力を八幡にとどめて、一子師冬、武田、島津、吉川、田口、岡本などの諸部隊をひきい、自身、天王寺へ駈け向った。
いまや様相は、南朝と北朝と、また南党の士と北党の士とが、あしたの運を、ここにかけたかたちであった。
このときにあたって。
吉野朝廷では、はるか越前の新田義貞へむかって、
〝──天下ノ安危ハ只コノ一挙ニ有ル。一刻モ早ク、辺境ノ合戦ハサシ措キ、京都回復ノ征戦ニ急ギ上レ〟
と再三、勅の密使を、北へ飛ばしていた。
おなじような檄は、九州へも、ひんぴんと送られたが、菊池党や阿蘇一族は九州内部のたたかいでうごけず、義貞もまた、越前から足の抜けない事情にあるのか、とうとう、このかんじんな時機に、北方から京都を突いて、尊氏の胆を寒からしめることもなく、ついに四月は過ぎてしまった。
顕家のたてこもった天王寺の附近を中心とする堺ノ合戦、渡辺橋ノ合戦などは、このあいだに一勝一敗をくり返しつつ激烈をきわめ、戦場もここのみでなく、摂津、河内、和泉の野にわたる一円の火となっていた。
「よく戦った」
……思えば、と顕家もかえりみて悔いはなかった。
みちのく以来の、純で野性な若人たちも、あらましは戦場の野晒と化し去って、残るは少なく、多くは、以後の部下だった。
顕家は、その夜、感慨の中にいた。陣中用の小硯と小さい燭を机におき、深更まで何か筆をとっていたのである。外は暗い霧で、この夜も敵味方の声が海鳴りのように遠くでしていた。
顕家が夜をあかして書いた杉原紙十数枚にものぼる文章は、吉野朝廷へたてまつる彼の政治意見書であった。
上奏文の内容は。
兵革に苦しんでいる民の租税をかろくすること。
わけて地方政治に徳を布いて撫民の実を示さねば、国の乱は絶えないであろうということ。
それらの持論を前提に。
まず朝廷みずから「遊幸宴飲」の風習を廃め、一切の奢侈を禁じ、とくに公卿、官女、僧侶らの、
「機務ヲ蠧害シテ、朝廷ノ政事ヲ黷ス」
などの輩は、いわゆる朝恩に狎れて、みだりに、官職の栄を争う醜悪な輩と共に、すべて一掃しなければならないと断じ、時代の悪を、痛嘆しているものだった。
全文は七箇条、このほかにも、朝令暮改の弊やら、賞罰の不明朗やら、吉野朝廷の君臣には、とにかく痛いところをついている。
もちろん、どことなく文意は若い。政治的達見というほどなものでもない。
けれど顕家が精いッぱいな憂心の吐露ではあった。──久しく奥州の任地にいて、中央の政府の状をながめ「これでいいのか?」と疑い、「これでは世の紊れも中央悪のせいではないか」と憤ってさえいたものを、今、吉野朝廷へ上表していたものであろう。
そして、この夜からわずか七日の後、五月二十二日。
顕家は、戦死した。
ところは和泉ざかいの安倍野とばかりで、明確にはわかっていない。
天王寺や堺ヶ浦では、一時、足利もさんざんな敗相だったが、高ノ師直の迂回作戦と、細川顕氏の突撃が功を奏してから、顕家の麾下は分断され、みちのく以来の家士百八人も個々討死してしまい、顕家もまた乱軍のなかに力も尽きて、斃れたのだった。
紅顔、まだ二十一。
北畠顕家の生涯は終ったのである。犠牲を犠牲の意義に生かしきッて散った花のいのちは、いかにもきれいで、あとかたもない野の露は、ひとしお、あわれというほかない。しかし吉野のうけた衝撃は小さくなかった。朝廷では、彼の上奏文を読んだ直後にこの悲報をうけたのである。一字一句にこめられた顕家の祈りの文字は、いちばいひしと、朝臣たちの骨身に沁みたにちがいない。
また、これを境に、時局は重大な転機を来して、北畠顕信の拠っていた男山も七月に入って陥落し、摂津河内の拠点は、あらまし、足利方の占める所となってしまった。
そのうえにも、さらに吉野朝廷をおどろかせたのは、北方からの一報だった。──それは越前にある新田軍の破滅を意味するものですらあった。
そのごの新田党は、四面の地方土軍や足利勢との駈引に忙殺されて、なすところもない態だったが、吉野の召命の頻りなのに焦心りをおぼえた結果だろうか。ここへ来ての義貞の戦いは、焦心ればあせるほど頽勢に傾いていたところ、七月二日、藤島の燈明寺畷とよぶところの泥田の道で、義貞は流れ矢にあたり、年三十八で、あえなくもついに戦死したとの情報なのであった。
吉野の群臣は、絶望にうちひしがれた。それもこんどは、決定的な絶望というしかない。
期待していた北畠顕家は亡く、いままた北の空で、新田義貞もついに戦死したという。
京都回復
の望みなどはもう思いもよらなかった。なんといっても、宮方軍の総司令義貞が戦死と聞えては、全国的に波及するところも決して少なくないだろう。それを思い、これを思う人々は、
「どうなるのか」
「この果ては?」
と、ただ自失の色めきを、実城院の御座に詰めあっているだけだった。
何しろ、すべてはここに一頓挫のほかはなかった。──けれど奥まった行宮の深くでは、かえって何かふしぎな活力のような精気が、そこの昼もうすぐらい御簾の御灯にあかあかとかがやいていた。そしてたえず、准后の廉子がまめやかな奉侍をしたり、時刻時刻には、かならず煎薬をさしあげたりなどしている御起居のさまなどもよくうかがわれる。
後醍醐は、廉子がさしあげるその薬湯の盌をお手にしながらも、
「定房をもいちど呼べ」
と、前ノ内大臣定房をしばしば召されたり、またすぐ、
「親房を」
と、北畠親房を交じえて、長時間にわたるおはなしがあるなど、およそ、表の衆臣のあいだにあるような絶望感に負けたような御容子は全くなかった。むしろ──義貞死ス──との悲報が入ってからの後醍醐は、つねにも勝るような御音吐で、夜もおそくまで、終日、人々の意見を徴しては、次の挽回策に、心身のお疲れも忘れているかのようだった。
そして、それから十日ほど後には、
「ぜひもない。京都回復の企図はしばらく措こう。要はまず、東国奥州の固めに主力をそそぐことだ。しかる後に、尊氏の根拠をその足もとから覆そう」
と、さいごの叡慮も決まったようであった。
さきに、顕家と別れて、この吉野へ来ておられた義良親王は、そのため三たび、陸奥の任へ就いて赴くことになった。
輔佐には、顕家の弟、顕信を陸奥の鎮守府将軍にのぼせ、また、結城宗広をも付き添わせて、ここに、東下の軍勢が、再編成されたのだった。
いや以上のほかに、宗良親王も加わり、北畠親房も行に加わった。吉野にはなくてはならない重臣の親房である。その親房までが行を共にしたのをみても、いかにこんどの挽回策に、後醍醐が、積極的であったかがわかる。──ゆらい、難に当れば当るほど、かえって、難に強くなる御気性の底が、ここにもあらわれたものだった。
しかし、豪邁なる天皇をお父ぎみに持った御不幸といってもよかろう。いじらしいお別れにみえたのは義良親王であった。凡下の子なら遊びざかりの十二でしかない。──せっかく、顕家と別れてこの吉野に来ておられたものを、またまた、元のみちのくへ下ることになったのである。御父のみかどはともかく、母情として、廉子の胸などはどんなものであったろう。凡下の親には想像もなし能わないことだった。
義良親王と一行の随員たちは、やがて伊勢ノ大湊に集まり、用意されていた大船五十二そうの上に乗り別れた。
吉野山から伊勢の港へ出るには、山間二十八里、急いでも三日がかりの難路でその困難はたいへんだった。しかし全国との脈絡を取る海路として、西の泉州堺は、足利方におさえられていたので、吉野経営には、この伊勢ノ大湊ただ一つが、無二の生命線だった。
さきに北畠親房が、はやくから伊勢地方の確保に努めていたのはそんな理由からでもあった。そして、ここには大きな造船能力まで持って、吉野と鎮西諸国、また奥州や東国との中継所の形をなしていたのである。
ところが。
この一行五十二艘の大船は、はじめはつつがない海路にみえたが、やがて遠州灘にさしかかったとき、大きな暴風に出会ってしまった。「正統記」に九月十日頃とあるから、いまでいう颱風であったのだろう。
一瞬のまに覆没してしまったのやら、また助かった船にしても、みな大破してちりぢりにどこかへ吹き流されていた。
もちろん、それぞれの消息が分ったのは、よほどあとになってからだが、北畠顕信と結城宗広が陪乗していた義良親王のお船は、あくる日、知多半島沖の篠島にただよい着いた。
またべつの船にいた北畠親房は、遠く、東国の常陸ノ浦まで流されてゆき、さらに宗良親王の一船は、駿河湾のほとりに着き、まもなく、宗良の御子は、遠州の井伊城へ入ったことが、後日に知れた。
「なにごとも天意でしょう。こんどの御災難で一行は四散してしまいましたが、思うにこれも神のおはからい以外なものではございますまい」
十二歳の義良親王には、恐ろしい御経験であったろう。その茫然なお顔へ、白髪の老将は、こうおなぐさめしぬいていた。結城宗広なのである。
宗広は、親王を奉じて、篠島から一たん伊勢へひっ返した。自然、颱風に吹き返されたような形だった。ところが、その十一月、この老将は伊勢で病んで、ついに帰らぬ人になってしまった。──かの亡き将軍顕家とともに、みちのくの長い年月から征途の艱苦も、ひとつにして来た宗広なので、親王は、
「じいよ。じいよ」
と、そのなきがらに取りすがって、親に別れるように泣いた。童心まだ十二の御分別には、どうしてこのじいは、こんなくるしい道ばかりあるいてついに死んでしまったのか、自分もそうしなければならないのか、おわかりになれなかったに違いない。
宗広も征途の途中でついに亡くなってしまったので、親王はあくる年の三月、ともかくと、ふたたび吉野へ帰られた。そしてその年の秋八月には、おもいがけない父のきみ後醍醐の崩御に付き添われたのであった。
それより前に、義良には立坊(立太子)の議がきまっていたので、崩御の前日、譲位がおこなわれ、即位は、後日に約された。
すなわち南朝の、
後村上天皇
とは、このきみだった。じいのことばのように、すべては天意であったものかもしれない。
天皇のみまかられた喪の行宮は、ただの悲嘆などというものではなかった。──秋風落莫──とでもいうほかは、南朝衆臣の悲腸をあらわすことばもない。
天下、万事ハ休ス
とまで、ここではみな思わざるをえなかったろう。
さなきだに、吉野朝廷には悲運また悲運ばかりが、たびかさなっていた折である。すでに、みまかられる数日前にも、
こと問はん
人さへ稀になりにけり
わが世の末の
ほどぞ知らるる
と、詠み出られた一首を、看護の新待賢門院廉子へお示しになっていたという。
そのお歌にもはや、これまでの後醍醐にはないお心弱い語韻がどこやらにながれてはいなかったか。
おん年は、この秋で、五十二。まだまだ老衰のお年ではなかった。「正統記」によると、
月の初めより
秋霧に冒され給うて──
とあれば、おそらくは、お風邪が昂じられた程度ではなかったろうか。
しかし、それが命とりの御終焉となったのは、ひとえにこれまでの心身のおつかれによるといってもよいであろう。即位いらい二十一年、およそこれほどみずからのおからだをみずからの理想の贄として酷使なされた天皇はほかにない。ためにお心を労ったことも、はなはだしい。
不遇で長かった皇太子時代には、青年らしい奔放な恋もし、また鬱を放つためには、後宮の女色漁りも人いちばいな方であった。しかし学問は終始怠らず、仏法の研鑽には、わけてなみならぬものがあった。すべてにむかって、その御精力は、精力の底までを、かたむけ尽さねば気がすまぬご気性だった。
が、その本質にかなっていたのは、なんといっても、政治であった。人間一代の仕事として何が最も崇高か。それは政治だという信念にもとづいておられたらしい。いいかえれば政治好きであったのだ。──もちろん、みずから全土の朝廷軍を御簾の内からうごかすの御意志は元々なかったが、しかし諸将を用いること棋盤の駒のごとく、機略縦横な謀略の才なども、ついには御自身を兵火のうちに投じ、またしばしば、獄窓につながれるなどの、帝王としては、余りにも数奇に過ぎる生涯を必然にしてしまわれたものであった。
しかも、夢はやぶれて、業は半ばというよりは、時も暗澹なうちに、世を終わられたことである。御無念はいうまでもなかったろう。
崩御の、つい前日にさえ。
西国にある皇子のおひとり懐良親王に、遺勅を送って──
「わがなきのちも、朝敵掃滅のはかりをおこたるな」
と、激励しておられたほどであった。
かえりみれば、たくさんな皇子たちも、戦陣に亡わせ、残る幾人かの皇子すら、北や東や西と、ちりぢりに所をへだてて、八月十六日の深夜丑ノ刻、おん息をひきとるときの御枕べにいたのは、悲哭する廷臣をべつとすれば、わずかに、御生涯の艱苦をともにして来た准后阿野廉子と、第七皇子の義良十三歳のおふたりだけであったのだ。
その御臨終のさまを。
主上 苦しげなる御息を
吐かせ給ひて──
と「太平記」は、こう御記しているのである。
「異国の帝王には、この世の宝玉や愛妃への執念を墳墓にまで随えていったような人もあるが、じぶんは今、臨命にさいして、妻子への未練も、王位や珍宝にたいする妄念も、何ら持ってはいない。……ただ生々世々、心のこりなのは、ついに朝敵を亡ぼし終らず、四海の泰平を、この目で見なかったことである」
とし、その下に「これを思ふ故に」と、つづけて。
魂魄はつねに
北闕の天を望まん
もし命に背き
義を軽くせば
君も継体の君に非ず
臣も忠烈の臣に非ず
と、さいごの綸言を残され、そして左の御手に、法華経ノ第五巻を持ち、右の御手には御剣を抱いて、おかくれになったとしている。
これは、すさまじい御遺言の形相で、いかにも、さもあったらしく思われぬではないが、後醍醐は、古代東洋の学問に深く、宗教の面でも、なまはんかな仏家よりは、はるかな諦観を積んでおられたはずである。なんで死にのぞんで、世まい言にひとしい妄念を──苦しい御息の下から吐き給う──などのはずはない。「太平記」の舞文に過ぎない。
おそらくは、その寛達で豪毅な平常と教養からおしても、
これまでか
と、大死一番の死を観ておられたことと思う。
たとえ、大業ツイニ成ラズ──の御無念はあったにしろ、死んでも魂魄はつねに京都回復を望んでいるとか、自分の命にそむく天子は、天子も天子でないの、臣も忠義の臣ではないなどという、そんな妄想じみた御遺言をなさるはずはない。
さいごの、おん瞼に、あらゆる人々との別れを、しずかに、ただよわせたときには、後醍醐もただの一個の生命として……
すまなかった
と、身に併せて、生きとし生ける者への御誦念をお唇にもったのであるまいか。
わけても、乱世下においた、無数の民にたいしてである。
身にかへて
思ふとだにも
知らせばや
民の心の
治めがたきを
かつての御製には、そうした歌もみえている。王政一新の理想にしても、民を基盤としてのみあることだ。かならずや死に臨んではお胸にわびておられたにちがいない。
ともあれ、帝王として、また父として良人として、その死は、おおかたの人間とも、さして変ることはなかったであろう。ただ天皇のばあいは、その意志による御生涯の波及するところが、余りにも大きかったのはぜひもない。
吉野山
蔵王堂の艮なる
林の奥に
円丘を高く築いて
北向きに葬りたてまつる
──かくて、御一代の業は終った。そしてその土墳は、あとに残った旧臣后妃の涙に濡れた。
十月、大葬の営みがすむと、後村上の即位も、かたちばかり執りおこなわれた。
もしこういう時でなかったら、群臣、万歳の声にわいたであろうが、この祝典の日さえ、吉野の上は、うそ寒い秋の風だけだった。
なんといっても、枢軸の後醍醐をうしなった南朝の朝廷は、空閣の虚しさをどうしようもなく、前途を悲観する人々のあいだでは、はやくも、
「瓦解はのがれえまい。いまのうちに」
と、身の処置を案じたり、余命を山林に隠そうとするうごきなども見えだしていた。
こういうなかに在って、たれよりも平静でいたのは准后の廉子であった。
もちろん、幾夜も悲しみの底に泣いて、先帝とのお別れに、女の尽きない涙を涸らしたであろう容子は、その豊麗にも、げっそりと、窶れのきわだッてきたことでもわかる。が、日もたつにしたがって、彼女は、童形十三歳の新帝後村上を擁して、
国母
そのものになりきっていた。後醍醐のなきのちも、後醍醐のいますが如く、わが子を立てて、いやこの幼帝に仕えて、先帝の遺誡にそむくまいと、自己を神格的なものに持ちささえている寡婦のつよい一心が、その姿までを、氷の中の花みたいに、きびしいものに作っていた。
けれど、衆臣の動揺は、この一寡婦と年少の天子に、しょせん、大きな頼みはかけられなかった。時に、それを励ましたのは、公卿でなく、吉野ノ執行、吉水院ノ法印宗信で、
「まだ先帝の七々ノ御忌もすまぬのに、もう南山の解体を議せられるなどは、余りにもふがいないではありませんか。諸州の義士は、かえって、この悲報と遺詔によって、いちばい奮い立ッてくるかもしれず──尊氏が思うつぼにはまってはなりますまい。──とまれ吉野大衆は不変のおたすけをいたさんと衆議一定いたしました。歴代、朝廷あっての公卿廷臣が、この期に、朝の存亡を疑い、身ひとつの去就に迷うなどとは、何としたことでしょうか」
と、人々の滅失を、大いに醒ました。
そのうえ、ここにまた、悲腸の廷臣たちを力づけたものがある。それは、亡き楠木河内守正成の嫡男正行だった。先帝の喪と洩れ聞いて、正行は一族の和田和泉守らとほか数百騎をひきつれて馳せ参じ、
「まずは御陵のおん前に」
と、そこへ来てぬかずいたのち、初めて、新帝の行宮に参内をとげたのだった。
その正行は、当年十八。その若武者振りは衆目をひいたが、やがて年の暮頃、河内へ帰って行った。
かくて公卿たちの腹もさだまり、喪は遺詔の檄と共に、全国の宮方へ通達され、あくまで吉野死守の結束を新たにしていた。するうちに、美濃で敗れた脇屋義助も、ここの吉野へ落ちて来るやら、諸国の武士の南朝支持もまだつよく、俄に吉野朝廷が衰えたとも見えなかった。
尊氏が、後醍醐の死を知ったのは、八月十八日の明けがただった。
これはおそろしく早かったといってよい。
吉野の喪は秘されていたろうに、二日後にはもう三条坊門の門へその飛報が入っていた。
「はアて?」
尊氏は、俄にほんとにもしなかった。公的な通告でなく、早馬できた諜者の諜報に過ぎない聞えであったからだ。
「たしかな沙汰か?」
もいちど、つぶやいた彼の体のうちを何か波のようにうねり抜けたものがある。目のまえにあった泰山のような邪魔ものが崩れて一ときにべつな視野を見たような感でもあったが、すぐあとには、われにもあらぬふるえがどうにもとまらなかった。日ごろにあった彼の罪悪意識と突然な虚しさとが、波の通ったあとの砂地みたいにべったり心の底に定着していた。
まだ暗いうちだったが、
「錦小路殿にすぐ来いと申せ」
と、使いを走らせ、また一条今出川の高ノ師直の家へも、
「即刻、出仕せよ」
と、家臣をやった。
ふたりが御池殿の一ト間に顔をそろえたとき、尊氏はまだ仏間から出ていなかった。しかし、三名の密談となってからは、さして時をおかず、直義と師直とは、すぐ政所のほうへ出て行った。
そのあと、尊氏はいちど奥へ入って、鶴姫を見ていた。
登子は、先年、男子の基氏を生み、この春には女子の鶴姫を生んでいた。初めての女の子である。尊氏はこの鶴姫が可愛くてならず、朝のいちどは、かならず乳の香のするここを覗く。
だが、この日の朝は、抱きもせずに、すぐ去った。その良人の翳に登子も気づくものはあったが、だまっていた。訊かないのが、むしろ、武家家庭では慣いであった。
鶴姫のあどけない顔までが、今朝の尊氏には、なにか哀しいものに見えたのだった。それと後醍醐の死とはなんのかかわりもないはずなのに、尊氏には不気味な同じ生きものの呼吸に見えた。そして朝食もとらずにすぐ政所へ出てゆくと、そこには細川顕氏らも出仕していて、直義を中心に、異様なまでの緊張と、かくしきれない僥倖感とを、ひそひそ、ささやきあっていた。
「大御所さま。つづいての早打ちがいま入りました」
その声の弾みでも、師直がいおうとする所は、すぐ分った。
「やはり虚報でないのか」
「されば崩御は過ぐる十六日の夜と、ただいま、確たる報なので」
「そうか」
と、深くうめいたままの尊氏へ、直義もまた言った。
「もう疑う余地はございません。吉野の行宮は暗夜にともし灯を失った思いでございましょう。これにて諸国の南党も枢軸を失い、まずは天下の事も定まったといえましょうか」
尊氏は、それに返辞をしなかった。そして、まったくべつなことを、三名に言い渡した。
「今日から七日の間、幕府の雑訴(政務)を停止しよう。すべて、つつしんで喪に服し、深く哀悼の意を表せ」
幕府は、その日のうちに、喪を布告した。
先帝 吉野ニ於テ
崩御ノオ聞エアルニ依テ
と、七日間の政務の停止を告げ、宴遊鳴物は申すにおよばず、公私とも、一切を謹んで哀悼すべし、ともつけ加えた。
すると、これに大いな狼狽をしたのは、光明天皇の北朝の朝廷だった。
幕府へ気がねしていたのであろうか。──後醍醐の死にたいしては何ら哀悼の表示を考えていなかった。で、大いにあわてたらしく、幕府に倣って、朝廷もあとから急に、
廃朝ノ令
を出した。
まことに醜態だった、と「中院記」や「玉英記抄」も書いている。北朝の廷臣に人材のなかったことが、この一例でもおおいようなく世間に見すかされたことだったろう。
これに反して、尊氏の哀傷はむしろ、ちと度が過ぎているほどだった。
彼は、後醍醐のために、七々(四十九日)の忌に服し、さらにその百ヵ日には、等持院へのぞんで、盛大な仏事をいとなんだ。そして、満堂の参列者のなかで「──先帝を想う」の追悼文をみずから読んだ。
文は漢文で、それも自身で書いたものである。謹厳な辞句だし、かなり長いものであるが、要は自分の心情を、こう吐露しているものであった。
尊氏の今日あるのは、一に先帝のおかげでした。まことに、鴻恩のほかのものではありません。
その温柔なお姿、ありがたい叡慮のお声など、なお耳の底にある想いです。攀慕の愁腸、尽し難しとは、このことでしょうか。慚愧の念、哀傷の感、どういってみても、いまの私の思いはこれを筆舌にすることもできませぬ……。
北朝の公卿、武臣、参列の大衆は、時々、彼の声を疑うように眼をうごかした。
追悼の願文は、おおむね、その故人にたいして、美辞麗句の頌を贈るのが世間の慣いではあるにしても、尊氏が、後醍醐の霊へむかって、こうまでいってしまうのは、敵の徳を賞揚するのあまり、自己の悪と背徳を告白しているようなものではないか。
直義の眉には、あきらかに、ちらと、気に食わぬらしい色が見えた。彼にいわせれば、おそらくこうであったろう。
「いらざることを仰せあるものだ。しかも綿々と、衆人の中において……。兄者の持ち前だが、弱気といおうか、矛盾といおうか。正直にもほどがある」
しかし、尊氏を見れば、尊氏は自分で書いた弔文にひきずりこまれているような忘我の境に立ってそれを真剣に読みつづけていた。そして読みおわると、ほっと、凄愴な面色を醒まして、先帝の霊壇に、また長いこと黙拝してしずかに退がった。
後世の水戸学者は、これを評して「彼の狡奸だ」といった。また「耳を掩って鈴を盗む類の芝居だ」と酷評した。しかり、どんな人間も、純一無垢な涙にはなりきれない。だがまた、どんな人物にしろ、一片の真情もないものとはなお言いきれまい。
こんな時、巷ではきまって、物の怨霊をいいはやした。
とつぜん、雷が鳴ッたといっては、冬なのに、ただごとでないと言い、夜は夜で、
「ごらん、南の方に不気味な星が見えるよ」
と、人群れが辻に絶えない。
みな吉野の先帝の怨霊に違いないと恐れおののいているのである。一般の怨霊思想は、まだ根ぶかく、大塔ノ宮のときにも、怨霊怨霊と、言い騒がれたが、こんどもまた、公卿たちの間にさえ、保元の乱に讃岐の配所で憤死された崇徳上皇の怨念や因果などが、何かにつけ想起されていたものらしく、
諸事、崇徳の例に倣う
として、北朝の君臣までひどく気に病んでいるふうだった。そしてそれが、都の昨今を、なんともつかぬ、おもくるしい空気にしていた。
そうした或る朝のことだ。
尊氏は、臨川寺の三会院に、夢窓国師を訪ねていた。
むかし、鎌倉にいた頃から深く帰依していたあの禅師(当時、疎石)で、建武元年、尊氏のあつかいで朝廷にまねかれ、後醍醐もまた弟子の礼をとっていた。つまり後醍醐にとっても尊氏にも共に、師たる夢窓国師なのだった。
「さあのう。御発願の心は分らぬでもないが」
この朝、尊氏が折入っての申し入れに、夢窓はあまり気のりでなかった。──征夷大将軍大納言尊氏──というゆゆしい客も、この室では、ただの一法弟にすぎなかった。
「いかがでしょう」
尊氏はかさねて懇願した。
「ぜひに、ご承諾を得たくぞんじまする。再三の使者を以ていたしましたが、おきき入れなく、為に今日は自身伺ったことなので……」
亡き後醍醐の霊をなぐさめるために、このさい、一大寺を建立したい。
それには嵐山を望む大堰川から太秦のあたりまでをふくむ亀山上皇の離宮のあとがある。その地域をあてて、寺名も北朝年号をそのまま「暦応禅寺」となし、国師に、その開基となってもらいたいというのが、尊氏の希望であった。
が、夢窓は、
「寺をつくるなら、なにもわしでなくともよかろう。天台や真言の律宗がよい。……いずれ、そこもとの発願も、後醍醐の怨霊しずめがその目的であろうでな」
と、尊氏の腹を見すかしているように笑って。
「じたい、禅家では、怨霊などというものは、嬰児の熱病ほどにも見ておらん。愚昧迷妄な沙汰とわらっておる。ゆえに怨霊鎮めの寺院の建立なら、怨霊信仰を大事にしおる天台や真言の祈祷宗教家のもとへ行っておたのみあるがよろしい」
と、今朝もひどくニベのない国師なのだった。
尊氏はこれにむっとした。しかし、世上にはその風潮がある折なので、自分の行為もそれに類するものと思惟されてもぜひはない。ただ夢窓には分ってもらえるかと思っていたのだ。
自分は、後醍醐を敵としてきた覚えはない。敵としたのは、その人でなく、何としても両立しえない、その人の中のものだ。思想だった。何で、怨霊などを恐れようか。
尊氏は言った。
「自分の一大寺建立の願いは、決して、怨霊恐怖などから出たものではない。国師の仰せは、ちと心外にぞんぜられる」
「しからば何で、一般の暮しさえまだなかなか苦しい今日、俄にそんな願望を抱かれたのか」
「一に、先帝の高徳を偲び、それの報恩のためと、またみずからの悔悟をなぐさめんとする念も、正直、ないではありません」
「それだけかの」
と、夢窓はややものたらない顔をして。
「まこと、怨霊鎮めなどが目的でなく、正しい仏法の光揚なら、この夢窓も其許の建立を手伝わぬわけにはゆかんが」
「では、ご承諾給わるか」
「しかしわしが開基となれば、自然、その発願の趣旨もちと違ってくるがの」
と、夢窓はまず断わって。
「法の道場に呉越はない。一視みな御仏の子じゃ。しかるに、そこもとたちがひきおこした戦争のために、殺された者はそのかずも知れん。死者につながる遺族らまでをあわせれば、今日に哭く者は幾十万か。これは一人の天子の死といえど物の数ではなく、一人の将軍の追善などでも埋まらんものじゃ。……もしそこもとの発願が、一帝の慰霊や、自己の申しわけのような小乗心にとどまらず、心から民に詫びて、尽未来、世をよくおさめんと懺悔しての誓願であるならば、なんぼうわしもよろこんで、片棒をかつぐ気になるかもしれんが」
「おことば、身にこたえまする。もとより尊氏の心もそこにないのではございません」
尊氏は帰るとさっそく朝廷に奏請して、亀山殿のあとを一大寺とする手つづきをすませ、高ノ師直と細川和氏のふたりを、
暦応禅寺造営奉行
に、任命した。
そしてまた、中原親秀や左衛門ノ尉資直らが技師となって、その広大な地域さだめの縄取りとなった当日には、尊氏は、みずから臨んで、設計に立ち会い、夢窓国師の原案を練った。
しかし、こうして発足はしたが、それはたちまち、天台の本山、叡山の大反対をよびおこした。
「時もあろうに」
と、叡山側でも、民の塗炭のくるしみを、反対の理由にとった。
「疫病、飢饉、盗賊の横行、民は飢えつかれている。みなこれ戦乱のせいだ。しかるに、そのうえにも、戦乱の張本人足利殿へ媚びて、味噌すり坊主の夢窓が、禅家の権力をひろげんとし、かつは自己宣伝のため、一大寺を造営せんなどとは、言語道断だ」
ごうごうと、こう誹る声もあり、また、
「一禅寺に、暦応の年号を謳うなども、以てのほかな僭上だ。ゆらい年号を寺名に冠する寺は、国家第一の比叡山延暦寺のごとき勅願寺のほかは、ゆるさるべきものではない」
と、大岳の鐘を鳴らして、嗷訴の気勢をあげるやら、造営奉行の高ノ師直の屋敷へ押しかけて、石を投じたり、落書するなど、物情騒然のうちに年も暮れた。
で、ついに朝廷と幕府でも折れて、寺名を変更し、あらためて天龍寺とよぶことに修正して、彼らをなだめた。
やっと、寺号はここに「天龍寺」ときまって、叡山のやっかみもどうにかなだめられたので、始めてその地曳式(地鎮祭)が、広大な亀山離宮跡の敷地でおこなわれた。それは、
暦応四年の七月十三日
で、このあいだ、一年半もたっていた。が、地曳式当日には、勅使ものぞみ、また、
開山の夢窓国師
尊氏、直義、高ノ師直、細川和氏らの造営奉行
臨川寺の無極禅師、等持院の古先禅師
そのほか檀越の公卿、武家、数千人が列し、式は盛大をきわめた。
式は、夢窓が〝開山ニ就クノ弁〟に始まって、
「ここに尊氏、直義の発願によって、天龍寺を創つ──」
の一文を読んだ。
それの文意の中で、夢窓は、後醍醐の生涯を
──戦争の罪悪と不幸とを担う苦悩の象徴
と見なし、また尊氏兄弟は、それへの悔悟と罪ほろぼしのために、ここに、恒久の平和を祈って、人類の苦悩迷妄を救うべき一大寺の建立を思い立ったものであると、宣誓していた。
終ると。
開山の国師は、沓を脱いではだしとなった。そして法衣の袖をうしろにたくし巻いて、みずから鍬を把り、竹の平籠に二杯の土を盛る。これにならって、尊氏直義の兄弟も、はだしになってその竹籠の土をかつぐ。──こうする事三たび、地曳式と、師檀の誓いとが、すんだのだった。
けれど、ほんとの起工はこれからである。
ばくだいな人力と資財と金が要る。
「兵乱はまだやまず、人民は困窮のどん底にあるものを」
とは、叡山が攻撃理由としている第一の声だ。夢窓は、これにも一案を打ち出した。
「むかし、北条氏が建長寺の造営費をつくるために貿易船を出した例があり、かつては、後醍醐のきみも、住吉神社の造営費をまかなうため、住吉船を勅許されたことがある」
この先例をとって、尊氏へ、天龍寺船の計画をすすめた。──つまり元との交易を官営して、その利益で、一切の工事をまかなうというものだった。
翌年、初めて、第一回の天龍寺船が二艘海外へ出た。
ついで、翌々年も、数回にわたる交易がおこなわれ、海の彼方の文物が、俄に、都下をいろどりだした。
当然、海外との交易は、民間の市場にも活況を与え、官に入る利益も大きかったので、さしもの大工事も、いらい難なく進んで行った。それのみか、連年、戦争と破壊の中にあった一般のあいだには、かえって、諸職とも稼ぎがふえ、庶民はこれを、
天龍寺景気
と、よんだりした。
事実、規模の雄大なことは想像を絶していた。──亀山、嵐山、大堰川をとりいれて、──その中心に祇園精舎にならった毘盧遮那仏の本堂をすえ、塔、楼閣、講堂、山門、七十七の寮舎、八十四間の外廊、鐘楼、輪蔵、池泉、橋、そのほか、景勝の所には亭や書院を配するなど、これの竣工には、じつに六年の月日がかかった。
しかしついにそれは落成をみた。
さっそく、木の香も新しい天龍寺の大本堂で、仏事始めが、とりおこなわれた。
八月十六日。つまり後醍醐の命日だった。七回忌であったのである。
つづいて、くわしくいえば南朝の興国六年、北朝の貞和元年の、同月二十九日には、いよいよ待望の落慶(竣工)式が予定され、それの前景気はたいへんだった。
光厳上皇の御幸、諸国の大名衆の上洛、またこの平和的盛事を見ようと、近郷近国から集まる男女など。すくなくも当日は何十万人が洛中洛外にあふれることだろうといわれて、町々には桟敷が出来、野には物売り市が立つなど、宿も寝る場所もないだろうという評判だった。
しかし、ここにまたぞろ穏やかでなかったのは比叡山で、南都の大衆にもよびかけ、連日の三塔会議でさけんでいた。
「仏法の紊れは、国法の紊れ。一禅室の売仏者、夢窓ごとき者に、古来からの王法仏法を、思うままにさせてなろうか」
「夢窓を追放し、天龍寺を破却せよ」
「しからずんば、嗷訴(大衆の示威運動)あるのみだ。日吉山王の神輿を挙げて、朝廷へ迫ろう。奈良の興福寺大衆も、春日神木をかついで、われらと同時に、洛内へくり出せ」
こんなさい、或る夜、天龍寺に放火しかけた一法師が捕まったなどの事件もあり、造営奉行の高ノ師直のやしきへ、いやがらせの押しかけ面談や石の雨が降ることも毎日だった。──が、尊氏の意をたいしている師直は強硬にそれを突ッぱねつづけて来た。
「天龍寺の落慶式はあくまで予定どおりに挙行する。──王法仏法とはひとり天台だけを護ることではない。──しかもこのたびの建立の趣旨は、先帝の御遺徳をたたえ、億衆の民生福祉を祈念するにある。──民衆が叡山大衆の示威運動をこのむか、平和の誓願をよろこぶか、去って、庶民の声に聞くがよい」
幕府には政策もある。
こんどのことを機会に、五山の禅宗にもいちばいの権威をもたせ、従来の叡山勢力や南都の横暴を抑えようとする一石二鳥の狙いがそこにはないでもない。だから、彼らがいきりたったのも、当然といえば当然だった。
しかし朝廷では、幕府のように強くはなれず、天龍寺御幸は、落慶の翌日とし、また決して、勅願とか勅会の御幸ではないという証言をあたえて、やっと彼らの怒りをなだめた。
さてこうして、いよいよ当日になってみると、その盛儀は、要するに、天龍寺落成記念の日をかりて、じつは足利将軍幕府の創始と威望とを、あらためて天下に宣伝する一大儀式となっていたといってもよい。
尊氏、直義の行列は、すべて、建久元年に行われた源頼朝の大仏供養を模している。
先駆の一番には、山名時氏がはなやかに鎧った五百余騎で行き、尊氏は、八葉の車のすだれを高くかかげて、大納言の衣冠で坐し、車副の勇士十六人にかこまれ、以下、二番、三番、七番と二列縦隊でつづき、直義もまた、蒔絵の細太刀、衣冠すがたで、中頃の美々しい牛車に乗って、随兵十二番までの将兵を従えていた。
晴れの盛儀になるとたれの顔もみなよそゆきになって、衆目の環視がその自意識を過剰にさせる。自己の粧い、自己の存在、他人との序列にせよ、少しでも不当な下風におかれるのは、ゆるせない心理になる。
人間の心にひそむ権力の魔魅のあやしい作用が、こんなところにも複雑な仮面のもとにうごくのだった。
かつての、頼朝の東大寺大仏供養のばあいでも、
──天下の大名武臣の功ある者を選集して、順序、その行装の随兵となす
と称揚され、随行の一番から十二番までの諸将は、家々の面目として序列を誇り〝尊卑分脈系図〟にさえそれが注記されたほどだったから、この日、天龍寺落慶式に、尊氏と直義の車に附随して行った諸大名も、みな列をかざり身を粧い、今日の参加を、一代のほまれかのように気負っていた。
だから、列の順序が、ひとつ間違っても、すぐ喧嘩となりかねない緊張ぶりと、また混雑で、時刻はおくれ、しかも道筋では、見物の桟敷やら人波でしばしば停頓を見、ために、尊氏直義の車が天龍寺についたのは夕がたになってしまい、全山の僧侶は、八十四間の山門廊から、これを松明で迎えたような有様だった。
剣持役の南遠江守をうしろに、八葉の車から降りて入場する大納言尊氏、また、副将軍直義のすがたに、人々は一せいに乱声(ときの声に合せて急テンポに楽を奏す)を発した。
式は夜になって、終りの舞楽がすんだのは、子ノ刻(深夜十二時)だった。
あくる日はまた、上皇の御幸で、式事すべて、前日のごとく、便殿で上皇から尊氏兄弟へ、親しく賜酒のことがあり、夜に入って、還御になった。
それからも毎日一般の参詣人で織るが如き人出である。さらには、御池殿の御所や錦小路殿の内でも、奉行人たちへの慰労だの諸大名の招待が連夜のように催され、洛内の灯は、建武以来初めて、昔の都にもまさる夜景をちりばめだした。
世はまさに、天龍寺の建立にかけた祈願にこたえて、久遠の華厳法相四海平和が地に降りてきたかのような観がある。──
けれど、眸を転じて。
都のそとをみればここ六年のあいだも、地方では、ほとんど一日とて、小さい合戦は熄むまもなかった。
さきに遠州灘の遭難から常陸へただよいついた北畠親房は、そのご筑波の小田城や関城に拠って、大いに東国を攪乱していたが、ことしついに関城も破られたため、またひそかに吉野へ帰って来て、ちかごろでは、南朝朝廷の帷幕にあり、少年天皇の後村上をたすけて、全国的な戦略戦争の再構想に、着々、手を打っているという聞えがある。
いわば京都の平和は、京都の中だけの小康だった。──それもしいて天龍寺造営の名で醸されていた表面的な景気にすぎない──。むしろ累卵の危うさに似るものだったともいえる。
それにこの年の暮には、妙な咳の病が大流行して、死ぬ者が多かった。そしてこの奇病は「遣唐船が海の外から持って帰った〝天龍寺風邪〟だ」と世間はいった。これなどもまたいい兆候とはみられない世態であった。
一条今出川の高ノ師直の家は、いつのまにか、尊氏の高倉邸や、直義の三条邸に次いでの、大第館となっていた。
附近には一族家臣らのやしきも衛星のごとく、自然、新しい一ト町さえできてきたので、
「えらい開けかたよ。やがてここもむかしの西八条(平家時代清盛のいた所)のような繁華になろうか」
と、いわれるほどで、およそ師直の門に、客の車や輿が絶えたことはない。それもひところは、
「ご政道はみな、錦小路殿(直義)の御可否にある」
と人も知っていたので、彼の門もさびれていたが、ここ数年前からは、やはり将軍家執事の高家によらねば、公辺のらちはあかぬとあって、政務、雑訴、幕府の内許事など、さまざまな訴願はみなここへもちこまれていた。そして、あらそって、彼の鼻息に媚び、賄賂をはこぶなど、浅ましいばかりな繁栄なのだった。
なにしろ、朝廷はあっても、北朝には、人がない。すこし気概のある公卿は、みな
「武家の傀儡となり、武家の頤使に従っているには忍びぬ」
として、吉野の南朝方へ奔ってしまい、あとにのこっていた公卿といえば、無能か、でなければ、底冷めた忍従だけの者だった。
それに、北朝の光明天皇は、まだ二十歳をやや出たばかり。兄ぎみの光厳上皇とて、これまた、ふかく尊氏直義をおそれて、
「何ごとも、ただ無事なるように」
と、その日その日を、はらはら祈っておられるようなお方としかみられなかった。
もっとも、時人の言葉には、こんな咡きまであった。
「およそ、光明天皇ほど、お倖せなきみはあるまい。いちどの戦争も経験せずに、将軍家から天皇の位を受けたのだから──」と。
北朝の権威を、人がどの程度に見ていたかは、この一事でもおよそ分かる。
虚位は、どうしても、虚位でしかない。
尊氏もこれまでは、〝朝敵〟の名をはばかって、本心、皇室には大事をとり、また形式的にも、自分のたてた天皇をうやまってはいたが、しだいに、その形式すらも公卿の無能と共に、持てあましていた。そして今では、無精卵を抱いて雛を待つの愚をすてて、はっきりと、前幕府の北条氏以上な武断政体へと、かたむきだしていたのだった。
しかも、その北条氏はなお、公卿に公卿威張りの虚栄と虚位官職をあたえていた。しかし尊氏は、それもほとんど武家の手にとってしまった。
──すなわち自身は、三位ノ大納言征夷大将軍となり、直義を副将軍従四位となし、一族四十三人それぞれに官位をさずけ、一切の政治的中心力を、新幕府のうちにおいた。
が、尊氏はまだどこか、生来の大ざっぱなふうでそれをやっている。──しかるに、この人の腹中にまで入って万端をきりまわしていた将軍家執事の師直だった。がぜん彼の門に、媚態の客や贈賄の使いが群れをなしたのは、奇異な現象でも何でもない。
贈賄の寄る門には、その贈品に主人の好癖があらわれる。先の好まぬ物は運んでも意味がない。贈賄者はみな腐心する。
なによりも正味の金がおすきらしいと分れば、金を。
書画骨董がすきと知ればあらそって宋元の名品だの、雨過天晴の佳品やらを。
また、或る時代に時めいた一宰相は、
「鶉がおすき」
という評判を得、邸内はまたたくうちに、天下の稀種を入れた鶉籠やら黄金や銀の鳥籠で足のふみばもなくなったなどという話もある。
だが、師直はやや違う。すくなくも尊氏から、
「この男」
と、信じられているほどなものはあった。何を持って行っても、あらましはそれをしりぞけて受けつけなかった。しいて押しつけてみたところで彼には〝置いて行き損〟でしかないと分って、その点、
「高の殿は、きつい御潔癖だの。ニガ手な殿よ」
という定評が、定評となっていた。尊氏もこれは知っている。家宰としての師直の縦横な才腕をのぞいても、そこだけは高く彼を買っている所以だった。
けれどこの師直にも〝好き〟はあった。女色である。「われにはゆるせ──」で、彼はこれを隠そうとしていない。
ゆらい彼は醜男だった。木像蟹の名さえあったほどである。女にもてたことのない醜男の胸中には、若年から人知れぬ鬱積があるらしく、師直の胸中にも多年「……時をえたら」とする念がひそんでいた。時をえたら俺でも女にもててみせるぞ、という女への復讐にも似た悲壮なる欲念だった。そして今日の彼は、その時に会し、その権勢をもち、また多少の閑をえていた。
そこでこの小康時代に、彼は露骨にあたりの女界を観て、思うさまな女色をなめずり出した。それも下婬は問題でない。彼が渇いていたのは、いわゆる上婬の女性で、貴種でなければならなかった。
時しも、といってよい。
どんな深窓の女性も、彼の目からみればみな手のとどく所にあった。ちまたには、名ある亡家の息女や後家がたつきにこまってただよいあふれている状だったし、以前は、やんごとなき宮すじの姫が六条の妓家に養われていたり、また、元は院ノ少将なにがしの想い妾が、今は夜ごと武者の酌に出て、無残に掻き挘られているなどの例も、世間ばなしにはもう珍しくもない近頃のことでもあった。
「……ときに、御執事」
と、もう抜け目のない今出川通いの客は、彼の〝好き〟はそこと見つけて、
「世にもあわれな身の上の女性がここにおりますがなあ。しかも容色は絶世の美、高貴の出で、気品はあり、申し分はございません。ひとつ、助けてやるおつもりでお世話なされてみるお心はございませぬか」
などといろいろもちかけてくる。
が、師直は、これも贈賄の代物だな、と知るとなかなかその手にも乗らなかった。すでに彼は彼の実力で、思うさま幾人でも、欲しい女は手に入れており、近来はやや飽満気味なところでもあった。
なぜか師直といえば、古来、好色漢の代名詞みたいに、すぐ連想されがちである。
われにはゆるせ──
とその好色を隠そうともしなかったらしいこと、またもっぱら、その野性で醜男な身をもって、高貴の女性を選り漁ったこと、さらには、尊氏に代って、軍政の両方面にわたり、憎まれがちな敵役はみなひきうけていたなどに起因するのではあるまいか。
近ごろ、彼が手にいれて、昼夜、愛寵愛撫、措くところを知らない二条家の姫ぎみなどにも、彼のやりくちはよく出ている。
その佳人は、二条前ノ関白の妹だった。
どこで見たのか、師直は恋をした。いや恋とはいえない。猛獣の食欲ともさして違うものではなかった。
「ぜひほしい。正妻はある身だが、すでに老妻。正室の待遇をあたえて大事にしよう」
率直に、申し入れた。
が、二条家では当然、婉曲にことわった。
いわゆる摂関家につらなる名門だ。そこの深窓の姫はいつの世でも女御入内の候補者であり、時をえれば中宮の位に即く。……いかに世とはいえ、東国のあらえびす、尊氏の家宰、いわば陪臣ではないか。
世間ていからも、二条家では、あやまるしかなかったろう。よろしい、と師直はそれに怒るふりでもなかった。
「そうか、なるほど公卿は見得坊なものだったな。二条家の体面を損ねぬようにすればよいのであろう」
独り合点にうなずいた。──前年、甥の師秋がやってのけた或る前例が、彼には思い出されていたのである。
その師秋は、菊亭殿の息女に目をつけて、言いよっていたが、備前佐々木党の信胤もまた、同じ美果を狙っていた。で、菊亭殿ではそれを理由にうまく断わった。──すると師秋は一夜、菊亭家へ忍び入り、うむをいわせず、女を攫って来てしまった。──師直は、これを聞いている。甥のやったその手に限ると、兵をやって、姫を奪い、さる女院の古館へ匿って、夜ごと夜ごと、通い初めていたのだった。
ところが、この女性には、前々からの愛人があった。
師直は感づいて、大いに嫉妬し、女を責めただしてみたところ、相手は大炊ノ大納言冬信とわかった。
ここに醜男の彼の面目がある。
「大炊の家を焼き払え!」
師直のいいつけで、若党ばら一群の者が、一夜、大炊の邸に火をつけて焼き払ってしまった。そのさい、冬信の七歳の娘が焼け死んだ。それらもまた、話題にからんで、
「いやもう、女のこととなるとおそろしい御執事殿だ」
と、京中の評判になった。
が、師直は、評判など気にもしない。そのご女は今出川の館に入れて、側室のひとりにおさめてしまった。二条家でも泣き寝入りのほかはない。
彼のこんな行状はすぐ尊氏にも聞えていたろう。しかし師直は、自己の実務的才腕と誠意にかけて、主君の信頼には、ぜったい自信をもっていた。だから彼の好色行状もすこぶる派手で、それがその道だけの達人みたいに喧伝された理由であろう。
彼と、塩冶判官高貞の妻との艶話なども、ひどく市井に喧伝されたものである。
高貞の妻室が、当時、著名な美人であったことが、師直の好色癖にむすびつけられ、好箇な好色談となっていったものらしい。
早田ノ宮の妹で、弘徽殿の西台といわれた佳人がある。
後醍醐天皇が、隠岐から凱旋されたさいは、名和長年をはじめ、勲功の臣には、かつてそれぞれ恩賞が下されたが、出雲の守護、塩冶高貞へは、宮中のその一美人を賜わった。
これが高貞の妻である。
いつ見たのか。師直はこの人妻に懸想して、さまざま言い寄ってみたが、いつも柳に風とうけ流され、煩悩悶々と、やるかたもない想いでいた。或る折などは、塩冶の館の客となって、西台が湯殿にあるのを知り、覗き見までやったという。
また、彼女の歓心をえんためには、兼好法師に恋文の代筆をさせて、彼女の袂へ忍ばすなどの腐心までこころみたが、ついには彼女の良人高貞を亡き者とするに如かずと考え、将軍家に讒して、討手を向け、
「西台をとらえて来い」
と、命じたとある。
しかし高貞は、寸前に、一族郎党をひきつれて、自領の出雲へ落ちのびた。
ところが途中、幕府の討手に追いつかれて、西台は、播磨のほとりで自害し、また高貞も、失望の極、自刃してしまったというのである。
これは「太平記」だけにみえる師直誹謗の一話で他書にはない。どうも罪な作為をしたもので、つまりこれが後世の「忠臣蔵」の中に戯作化され、いよいよ好色漢師直の名を、百代に高からしめる所以となったものである。
すべて、師直にとって濡れ衣であることは、どこからでも指摘できる。
けれど半分は事実でもあろう。──塩冶高貞は、一たん後醍醐に忠仕し、後に武家方へ降参していた大名なので、そのごも、ひそかには吉野朝廷の方へ心を通わせていたあとがある。
真相は、それが露見したので、俄に、出雲へ帰国したのだった。その証拠には、彼の出奔を幕府へ密告した者は、彼の弟の塩冶四郎左衛門だった。また討手も、幕将の山名時氏と、桃井直常とが追撃して行ったのだ。ほとんど色事には関係がない。
ただ、ここでも考えさせられることは、新田義貞における勾当ノ内侍のように、高貞も宮中の女子を恩賞にもらっていたことである。女性を一種の物品や動産のように見なしている風習が、宮廷だけでなく一般にもあったことがいなまれぬ。
とすれば、女性自体も、自体の貞操を、どんなに観ていたか。──元来、女に飢えていた奔放な野獣武士の本能と相俟って、そこには想像外な性社会の醗酵が都の夜の底をびらんさせていたのではあるまいか。
わけて、好色者の師直であってみれば、いや師直ならずともである。おそらくここ小康時代の平和をむさぼり偸んでいた武家権門の輩は、勝者の誇りを駆って、恣に、京女の撫で切りをやっていたかとも思われる。
その罪と、岡やき的な羨望とは、みな師直がかぶってしまった形であり、師直にはまだまだいろんな濡れ衣や艶話も多い。
中でもひどいのは「塵塚物語」という本である。
それによると。──近ごろ或る武士が秘蔵しているおかしき草子を見せてくれたが、それはみな師直が一生に犯した女人との秘戯を書いたものであった。いちいち名まで記してあるが、さすが品は言いがたく著し難しとのみしてある。しかし、これらは師直一代の淫事としては十のものなら二、三に過ぎまい。師直の破倫、淫欲ときては、なかなかこんな程度のものではなかった。彼がいかに乱淫無頼な男であるかは、次の一例でも分ろうと、書いているのだ。
高家には、特命をもっている老女がいる。
老女は師直の命で、ひまあるごとに、家臣のやしきを訪れ、眉目よい女房があると、ひそかにこれを師直へ耳打ちしておく。
事を設けて、師直はそれらの妻女をひとまとめに今出川の邸に呼ぶ。──主命、何事ならんかと、彼女らの良人は化粧も念入りに着飾らせて出してやる。
しかるところ、それらの女房は、家に帰ってきても、口をつぐんで、なんらその日のお招きのもようについては、語るところがほとんど少ない。
事、再々に及ぶので、亭主どもがへんに思って、だんだんと探ってみるに、当日、主君の師直は、女房連があゆむ細殿の簾の蔭にいて、つぶさに彼女らの品さだめを味わい、やがて遊宴のあいだには、お名ざしで、別殿の奥へ引き抜いてゆく。はなはだしいときは、それが三名にもおよぶことすらある、というてんまつがやっとのことで判明した。
やれ、こいつめが。
なんで今日まで黙りおった。
いかに、ご主君たりといえ。
さても怪しからぬ沙汰かな。さて、どうする。女房めを追い出すか。俺どもの方から主家を追ン出るか。
亭主どもは、いきまいて、寄り寄り、亭主会議をひらいたが、扶持取りのかなしさ、女房未練、かつは時めく高家の門を、われから追ン出る勇気もなく、ついつい泣き寝入りに終ったというのである。
「塵塚物語」は、史書でもなければ風俗書でもない。もちろん嘘談は知れきっているが、しかしこのうちにも、いかに当時の女子が物品視されているかがうかがわれる。さらには、師直の婦女掠奪にむすびつけて、楠木正行との情話に仕立てあげてある「弁ノ内侍」のことなどもまた、話は優雅にできているが、それも女子を一個の品とみている時代の女性観を知る以外には、さしての価値もないものといっていい。
なにしろ師直の不人望たるや、かくの如しであった。けれど彼も時代の一人物だったにはちがいない。なぜならば、とかくの不評判もあり、巷では、
夜ごと夜ごとの忍び輿
執事の殿の宮めぐり
畏む御幣ふとやかに
手向けを受けぬ神もなし
と、彼の女通いが、童謡にまで歌われているのを知っても、いぜん尊氏が、将軍家執事の権を、彼にまかせていたのでもそれは知れる。彼にかわるほどな才幹は、他になかったものであろう。
むしろ、尊氏から見て、警戒されていたのは、勝者の立場に驕り、旧文化や貴族を侮辱することに惨酷なよろこびすら持っているほかの婆娑羅大名や武士どもではなかったろうか。師直の肉親、師泰などというのもいる。
強いか強くないかだけが長いこと人間を評価してきた。乱世の出世番付はそれを今日に結果して来ている。だから新幕府下の権勢家でも、かいもく無学なのが少なくなかった。山名時氏などは目に一丁字もなかったという。そうした中では、師直は、何しろ群を抜いていた。
彼は、将軍家執事職として恥かしくないほどな学識をもっている。公卿との交渉にもひけめはとらない。その風貌にも似ず筆蹟は美しい。歌もよく詠む。彼の作歌は「風雅和歌集」にまで選ばれている。
だが、弟の高ノ師泰となると、だいぶ品がちがう。
これも当世流行の婆娑羅型の人物のひとりではあるが、師直の婆娑羅、道誉の婆娑羅、個性さまざまな婆娑羅ぶりの中で、師泰ときては、ひどく単純な──いわば伝統無視の露骨な快楽主義者といったような男だった。
一、二の例でいえば。
前ノ宰相菅原在登の山荘が東山の好位置にあった。
「下屋敷にいい。あの家を接収しろ」
まもなく、一片の通達が菅原家へとどいたのみで、はや土木の工が始められていた。
在登は大いに怨んだ。園内には道真いらいの菅原家代々の墓所がある。五輪、白骨まで掘りちらされ、惨状、目もあてられぬ暴状と聞いたからである。
「なに、おれを恨んでいるというのか」
師泰はかえって怒った。「しょッ曳いて来い」と郎党をやったのである。すると郎党どもは、在登が命に応じなかったといって、在登を首にして帰って来た。
また、同じ工事場でのこと。
真夏のさかり、四条大納言隆蔭の青侍が二人、近くを通りかけて、木蔭から炎天下の土木の工を見ていたが、つい実感に余ってか、しゃべりしゃべり立ち去りかけた。
「やれやれ、下人どももかわいそうに。ああ無慈悲なムチに追い使われてはたまるまい」
「思いやりのカケラも武士にはないのだ。公卿の世なら何ぼなんでも、あんな苦役はさせておくまいて」
すると、これを小耳にした工事奉行が大いに立腹して、その青侍二人を部下につかまえさせて衣服をぬがせ、代りに人夫の仕事着物をムリにきせて、
「さあ、働け。きさまらに思いやりがあるなら、人夫に手伝って、思いやりを見せてやれ」
と、終日、土かつぎや石運びにこき使って、たそがれ、追ッ放して帰したという。
さらにこんなこともある。
天王寺の常明燈御料の田を、師泰は自己の領に加えてしまった。ために油の料にも事を欠いて天王寺は貧窮をきわめた。──のみならず師泰は、天王寺塔の九輪の宝鈴を一つ鋳つぶして、こころみに酒の鑵子(ちろり)に造らせてみるに、玲々たる金味があり、これで燗をすると何ともいえぬ芳味があった。
上を倣う下で、われもわれもと、ほかの武士どもがまたこれを真似、またたくうちに、河内和泉の古寺の塔は、塔の簪花たる飾りを失い、宝鈴はみんな武士の酒瓶に化けてしまったという。
かつてのもの。
文化、風習、宗教、公家貴族のもっていたすべてのもの。
武士たちはそれへの侮辱と蹂躪を一種の快とし、随所でほしいままを振舞った。ひとり前述の高ノ師泰だけにかぎっていたわけではない。
近来、ひんぴんと、宮中に盗難があった。朝、皇居の深殿に土足のあとが残っていたり、内侍ノ局の衣裳がごっそり失くなっていたりする。
そこで幕府が探訪のすえ、ひとりの下手人を召捕えた。
ところが、これが歴乎たる武家の子飼いだった。小俣右衛門ノ尉の家来で、御所の門衛と狎れ合いでの仕業とわかり、即日、首をはねられた。
大学頭紀ノ行親の家にも、近ごろ覆面の武士三名が押入った。妻女を暴行しようとしたのに行親は手むかッて、斬り殺された。──儒家の良師範といわれていた行親だけにその死はいたく惜しまれた。
同様な目にあった公卿の家は枚挙にいとまがない。これらの下手人はもちろん武士でも下級武士の輩だった。主人がやっていることを見て、自分らもやってみたくなるのであろう。だが、主人はみな勝者の府の実力者だ。何を公々然とやってもつかまらない。だが彼らはまま打首になった。
公卿侮辱に出るだけでなく、武士たちはしばしば宗教へも揶揄と驕慢を故意にした。栂尾の僧坊へ放火した乱暴者があったのも最近のことで、貴人の車を見ても、礼をしないなどは、もう通り相場になっている。
そのうちに、はしなく、ここに一椿事がおこった。
九月六日のことである。
光厳上皇はその日、持明院の八講会からのお還りの途中で、五条樋口の東ノ洞院にさしかかられた頃は、はや日も暮れて、道は暗かった。
すると、一団十数騎の武士が先の方から駈けて来た。どこかの馬場で笠懸の競技のすえ、芝居酒に時をうつし、洛内の灯を目あてに急ぎ帰って来たものらしく、上皇の御車と知っても、駒を止めそうにもしない。
そこで、先駆の随身たちが、
「下馬せよ!」
「無礼すな」
と、大声で叱ッた。
一団の影は立ちよどんだ。そのうちには、土岐ノ弾正少弼頼遠、二階堂下野ノ判官行春などという者がいた。どっちも歴々な武家だった。
「あっ」
行春は、反射的に馬を下りてひざまずいたが、頼遠のほうは大いに酔っていた。のみならず、師直や道誉とならんで、洛中の三婆娑羅といわれていた男だけに、かえって、車副の人々へ、こう威たけ高に呶喝した。
「道は暗いが目はあるだろう。おれは土岐ノ頼遠だ。この頼遠に下馬せよとは、何奴がいうのか」
「やあ、推参な。これは院の御車、院の御幸なるぞ」
「なに、院だと。院か犬か。犬ならば追物射の的でしかない。一つ射てくれようか」
とたんに、頼遠のたずさえていた笠懸射の弓が、発矢と唸るものを放った。矢は御車の廂に立った。──ひやと随身たちが道をよけたすきに、「わははは」「あははは」と一団は風のごとく駈け去ってしまっていた。
武士の乱暴沙汰も極まれりというものである。こんなふうでは、上皇の御外出もめったにできぬと、院の西園寺大納言公重は、そのご幕府へきびしく注意を求めていた。
すでに事件は、直義の耳にも入っていた。捨ておかれぬことと、内々、処置を考えていたところだったので、
「すぐ兵をやって、土岐、二階堂の両名を彼らの家から搦め捕って来い」
となった。
ところが、二階堂行春はやしきにいたが、土岐の弾正頼遠のほうは、はや居ない。危険を感じて、自国の美濃へ逃げ帰ってしまったのである。のみならず国元では兵を挙げんとする風聞さえあったので、直義は、頼遠の兄頼清へ御教書を送って「一族の運命を過るな」と、それに達し、
「頼遠を出せ。頼遠一人だに出京して来れば相すむものを」
と、諭告した。
おそらく一族兄弟に諭されたあげくであろう。十一月の末、頼遠は軍兵をつれて堂々と上京してきた。名だたる三婆娑羅の一人といわれるだけあってさすが太々しく、一戦も辞せずのつらがまえであり、幕府も大事をとってか、この日には何らの沙汰もしていない。しかし充分不気味な空気は頼遠に感知される。そこで、頼遠ものがれ難きを知ったか。あくる朝、とつぜん、嵯峨の夢窓国師のもとへ出かけて行った。詫びのあつかいを頼みに行ったものである。
と、まもなく。
幕兵千余騎が殺到して寺坊をとりかこんだ。──鼓噪、終日ニ及ブ(中院記)──とあるから頼遠はなかなか出て来なかったものだろう。しかし夢窓が彼を庇うはずもない。やがてのこと、内から出て来たところを搦め捕られた。そして十二月二日、壬生の六角で、斬罪に処せられた。
それいぜんに、共犯の二階堂行春のほうは、讃岐へ流されてい、これで院(上皇)を犬と呼んだり矢を射るなどの大不敬を酔興の余にやった武士どもの御車暴行事件はひとまずかたがついたようなものだった。
だが、これらの下剋上を急にし出した原因の一つには、北朝に仕えていた公卿の卑屈ということもある。
伝来の荘園(領地)は細り、宮廷はさびれ、かねもなければ実力も欠いてきたそれいぜんに、自分たちの心からしておちぶれていた。武士におもねる余りにである。──彼らは本来の優雅を捨て、立ち歩きから烏帽子の振りまで武家風をまね、しいて馴れぬ坂東言葉をつかい、いわば「公卿ニモ非ズ、武家ニモ似ヌ」妙なものになってしまった。
そんな時世粧である。庶民の皮肉には、時に秀逸なものがあった。
「オヤ、向うからやって来るのは、蛙かね? 河鹿かね?」
自体、こうまでの風潮とすれば、武士の驕慢は、公卿にも一半の罪があったといえよう。だから権勢第一の師直が病むとでも聞えると、今出川界隈は見舞いの公卿輿や牛車で埋まったという。
事実、師直は、天龍寺落慶の翌年の夏、二ヵ月ほど寝こんで出仕も欠いた。病名は〝蚊触〟だとある。蚊触とはつまり発疹のことらしい。「園太暦」では瘡疾に罹ったのだと書いている。
病後の秋であった。師直は一夕、佐女牛の佐々木道誉の招きでその邸へおもむいた。
──何の用意もないが、ご病後の鬱散じに、という軽い意味で、誘いには、御舎弟も共にとあったが、その師泰は、
「いや道誉の客となるのは苦手だ。闘茶か、立花(生け花)か。やれ香道の、連歌のとくる。まずは兄上おひとりで」
と、逃げてしまった。
師直も夜は例の女の許への〝宮廻り〟がいそがしい。だからたいして気もむいていないが、道誉には妙な魅力にひかれていた。彼ほど諸家の裏面に通じている男はない。執事の自分ですら知ってないような機密まで彼の口からはまま聞かされる。かたがた、何かのばあいのためにも自家薬籠中の物にしておかねばならぬ人間と、思うのだった。
「ひとくちに、婆娑羅婆娑羅とよくいうが、這奴はそれだけのものではない」
今も夕風の巷を行く輿のうちで、師直は、道誉のつらだましいにつれて、かつての一事件などを思い出していた。
それはもうだいぶ前。──天龍寺造営が着手される前年のことだったが。
秋は十月の頃で紅葉のさかりだった。例の、人目を驚かすばかりな風流行装で、小鷹狩りの帰りを、佐々木道誉、秀綱の父子が、従者大勢と共に東山の妙法院のそとを通りかけた。
みな酔っていたにちがいあるまい。でなければ酔狂すぎる。供の若党輩の数名が、そこの築土にのぼって南庭のみごとな紅葉を折りちらした。
当然、坊官はだまっていない。列を追ッかけて来て「──狼藉者を渡せ」と罵り「ここをどこと思う。もったいなくも御連枝の宮、すなわち天台座主の亮性法親王のお住居なるを」と、その乱暴をたしなめた。
こう聞くと、道誉以下、武士どもはかえってよけい揶揄ってみたくなるらしい。坊官たちを撲りつけてさかんに嘲弄した。すると寺門の侍や法師らはさらにその数を挙げて加勢に出て来た。ために大乱闘となり、はては妙法院御所へ無謀な焼討ちを仕かけてしまった。
──累代門跡ノ重宝モ、コノ夜、一灰燼ニ帰シタリ、と公卿日記はみな痛記している。
翌年四月。
道誉と秀綱は、このことで流罪になった。
処罰は叡山と幕府のあいだで長い紛糾を見、尊氏としては、道誉をかばい抜いたのだが、山門大衆の嗷訴に押されて、ついに流罪のほかなくなったものだった。
ところが。
いよいよ道誉が配流されて行く日を見れば、その行装など、日ごろの物見遊山とも変るところはなく、従者三百騎は、例の伊達すがたに猿皮の靫をかけたり、鶯籠やら酒肴の重箱をたずさえたりして、宿々のやどに着けば、ところの傾城を総揚げにして騒ぐなど、人もなげな大行楽で立って行った。
こうして、ほんとの配流地、出羽へは行かずじまいで、しばらくは上総に遊んでいたらしい。そして一両年のうちにまた、いつのまにか都へ帰って居、依然、足利将軍の下に重きをなしていた道誉であった。──このような魔術的手腕のみは、ほとほと自分にも真似ができぬものと、師直も彼には一目おいていた。
それのみでない。師直は自分の不人望を知っている。
だが一般に、道誉は自分ほどには不評でない。むしろ一部には好感さえもたれている。配流から帰った後も、以前にまさる華奢風流を振舞っているが、
「底知れぬ悪党よ」
とは、誰もいわないのだ。また、彼の豪勢な生活の財源がどこから出てくるのかなども怪しんでみる者はない。
師直は、ひそかに思う。
「──天龍寺船の交易物のさばきは彼の手にまかされている。これは大きい。そのほかの収入は博奕のハネだろう。近ごろ大流行の茶寄合、つまり闘茶、あれは茶の銘を飲みわけて、中った外れたと、一夜に数千貫のかねやら賭物をうごかす博奕だ。──そんな寄合やら、立花、聞香、田楽の会などが、彼の邸では月々何回も開かれているという。……遊び仲間はおなじ放埒仲間を決して悪くはいわぬものだ」
いつか道は六条らしい。
彼の輿は、ほどなく佐女牛の宏壮な邸内へ入っていた。師直は、みずみずと打水された前栽を見、家臣一同の色代(出迎え)をうけ、のっしのっしと、奥殿へ通って行った。
意外だった。
通されたのは一亭の釣殿で、かたのごとく酒肴は出たが、道誉好みの茶を強いるでもなく立花自慢や田楽舞の馳走でもないらしい。いつまでもそこはあるじの道誉とただ二人だけの秋の静夜だった。
「たまには、こんな夜もおよろしかろうと存じましてな」
道誉は言った。
あいかわらずこの若入道は艶かしい。あまり女色の外聞は聞かぬが、さぞ女にもてることであろうと、師直は身にひきくらべて羨望を禁じえない。いずれ唐物であろうが、師直すら知らないような綺麗な織物の袖なし羽織を、桔梗ぼかしの白綾の上へ、すずやかに羽織っていた。
「いや、まことに」
師直も苦笑した。
「こよい初めて、沁々と、虫の音の秋を、耳の底に覚えたわえ。何せい、昼は、やれ朝廷の、やれ政所の、また将軍家直々のお召のと、いやどうも執事職とは忙しいものでの」
「それに、夜は夜ごとの宮廻りでしょう。よくお体がおつづきになる」
「わはははは」と、師直はてれかくしな豪笑を発して、大きな蜘蛛が糸からすべり落ちたようにその手を振った。「痛いことは仰せられな。おたがいさまだ。それ、人には七癖とか。ひと癖は執事にもゆるされい」
「ちと冗談がすぎましたかな。御執事は正直でいらせられる」
「そうだ。御辺はずるい」
「これはさっそくな御返報。いかにも道誉にはそういわれても仕方がないところがある。しかし御執事、それがしは陽性のつもりでいます。ご存知の一穴の貉のごとき陰性な者とは御同視なきように」
「貉?」
「さればあれは仲のよい貉のような者たちでしょうが」
「とは、誰をいうのか」
「なんの御執事にはとうにおわかりになっているはずだ」
「いや、存ぜぬ。一穴の貉とは誰をさして?」
「では、まったく御存知ないのですか」
そこで道誉は半身をのり出して肩をおとした。誠意の見せかたもこの男がすると妙に相手の心をぬんめりと捉えて離さない。
はてさて。
と、まず彼はいう。
──御執事ほどな方でも、ご自身の周囲にはかえってお晦いものとみえる。すでに〝打倒師直〟をもくろむ一派がみすみす画策の秘をえがいているのに、御本人が何も知っていないとは、どうも意外というしかない。
このさいなれば、あえて歯に衣着せず、実を申しあげてしまうならば。
師直横暴、師直驕慢、すべてそれらの悪声は、御権勢をおそれるあまり、あなたの失脚を図る者が為にしている誹謗で、一部の反感にすぎぬなどと、なかなか見くびッてよいものではありますまい。
じたい御政令はいま、将軍家(尊氏)と錦小路殿(直義)との二途から出て、いわゆる二頭政治の恰好です。
そこで御執事には、ぜひなく、それを一本に締めくくる。が、結果では御教書も下文も恩賞から雑訴までも、みな御一手で可否を決しているようなかたちになる。そして勢い御門へのみ、公卿武士のごきげんとりが集まってゆく。自然、これを他家からみれば、白眼視ともなりましょう。
為にいよいよ、師直讒謗が、ささやかれ出す。
じたい、関白家の妹君を、室に入れるなども、師直に大野心があるからだ。おそらく彼は他日、その勢威を駆ッて、錦小路殿をも蹴おとし、副将軍の座をうかがっているのではないか。
いやいや、もっと大それた腹だろう。高家の或る縁辺が、知行を失って、頼み込みにいったところ、師直はその者へ、こう語ったという噂もある。
「──知行はいくらでも困る者には分けてやりたいが、都には朝廷があって、諸国の領地も数多それの御料に塞がれている。われらにしても、内裏の院のというものがあるため、道で会ってもいちいち馬から降りねばならぬ。まことにやっかい極まるものだ。どうしても国に王というものがなくてならないなら、木か金で造って、生きている上皇や天皇などはどこかへ流し捨ててしまったらよいのだが」と。
よもや、こんな暴言を、御執事が放談なされるはずはない。為にする者の悪質な捏造談ではありましょう。けれど師直がそう言ったと、まことしやかに伝えられ、師直の暴慢不遜、すえも思いやられると、その蔭口には、聞くにたえぬものがある。
いまにして、御執事の方こそ、御警戒に心せねば、後に、臍を噛んでもおよばぬのではあるまいか。ひとごとながら──と、道誉はここで急にふっと口をつぐんだ。語尾は、嘆声を曳いていた。
「…………」
師直の眼はそういう道誉の面をらんと見すえたまま一語も聞きのがしていなかった。どす赭い滲みを巨大な鼻の辺に吹き出して、しかもなおいつまでも黙っていた。ぶすっと、言い出したのは間をおいてからだった。
「むむ、およその見当はついたが。……しかし道誉どの。そこまで申しながらなぜいわんのだ。相手の名を。相手をよ」
「その主謀は」
と、口をにごしながら道誉は言った。
「僧の妙吉、あれにご油断なされますな」
「妙吉?」
師直は、笑いかけた。
「ちかごろ錦小路殿の御帰依で、一条戻り橋に新寺を建立したあの一僧か。あんな禅坊主ならとるにもたらん」
「が、副将軍に深くとりいっているなかなかな奴。そのうえ、その妙吉に箔をつけて、持仏のごとく高家讒訴の脇役をつとめている御一族が二家もある。あなどれません」
二家とは、ほかならぬ上杉伊豆守重能、畠山大蔵少輔直宗。
それと僧妙吉とが結託して、打倒高家の要を、事あるごとに直義へ使嗾し、直義もまた、それに傾いていると、道誉はすべてを吐いたように話した。
この晩──
師直が佐女牛を辞したのは深更だった。それからも道誉とのはなしはいろいろあったとみえる。とまれ彼の病後をなぐさめる一夕の招きとはこれが主眼であったらしい。
いらい師直の夜の〝宮廻り〟はだいぶ減った。
木像蟹の本来の眼は、暗黙のうちに、自己警戒を油断なくしだしていた。政務、厳令、いよいよ執事の職柄を把ってうごかぬものがみえる。
直義が自分にこころよくないことは前々から察知されていたことだ。しかし直義に気がねしていたら、尊氏の意志や命はおこなわれない。
また上杉や畠山が、直義へおもねって、自分を図ろうとするのも、その気もちは分らぬでもない。対等者の門の繁栄ぶりを見て、おだやかでいられないあの人間心理なのだ。とはいえ衆望とか権力とかいうものは、たれへもそう平等に満足を配分しない。寄るところへ片寄って来る。
「人間の相違、力の相違。また衆が見る魅力のちがいというものだ。それをやっかむなどは身のほどを知らず、何も、俺の知ったことではない」
師直は、嘯いた。
けれど内心は強固な警戒に鎧はぬぐわけにゆかなかった。──どれも将軍家一族のゆゆしい者が相手だし、僧の妙吉にしても、そのごの調べだと、軽くは見ていられなかった。直義を深く心服させているだけでなく、宮中にまで隠然たる勢力をもち、夢窓を追って、やがては天龍寺の主座に坐ろうとしている野望の怪僧かとも考えられた。
が、この危険な関係は、師直の胸にたたまれていただけで、秋、また翌年の正月までは、すくなくも表面には、何らかたちには現れなかった。
というよりも、都は、外に忙しくなり出していたのである。
八月、細川顕氏は、河内の池尻へ出陣し、九月、藤井寺で戦い、十月には、山名時氏もまた発向した。
すべて故正成の遺子、楠木正行の行動にあたるためだった。しかも山名、細川の大軍も、天王寺附近で大敗北を喫し、都の年暮は騒然たるものに変っていた。で、高ノ師直もまた自身、諸大名の軍勢をひきいて、時も正月というのに、河内の戦野に立つ身となってしまっていた。
そのごの吉野御所は、いいようもない淋しさだった。
後村上も二十一の帝らしい帝にはなっていたが、それでも廉子は、ただの母性愛と重たい国母の保育とを身一つにしていた。そして塔ノ尾(後醍醐の御陵)へもよく詣って──
みよし野は
見しにもあらず
荒れにけり
あだなる花は
なほ残れども
と、そんな気の弱い歌も時には詠まれるほど、何もかもがあじけない儚さに映るひとみにもなる彼女だったが、しかし東から北畠の亜相がこれへ帰ってからは、廷臣たちの意気もとみに揚がり、廉子も今なお少しのおとろえもみせぬその人に、
「まだ、親房がいたものを」
と、希望をあらたにさせられていた。
親房に接しると、彼女は、先帝の大どかさやよけいな肉をすべて削ぎ去った知性と信念の凝りかたまりを見るようで、いつも一種のきびしさに打たれる。
後醍醐にたいしてはずいぶん俗にいう〝姉さん女房〟であった廉子も、親房へは、かりそめにも異議はおろか戯れ一ついえなかった。そして往々に「先帝の御遺志は不肖わたくしのうちに在る」と言い、「わたくしを通して先帝の御遺志はそのままみかど(後村上)へおつたえ申し奉るつもりでおります」とも言っている親房だった。
従一位准三后という身分も廷臣最高だし、先帝の信任もたれより厚かったひとである。廉子でさえ、こわいのである。
自分が養父となってお預りしていた皇子が病死したときに、頭をまるめて、はやくに政治のおもてからは退いていたが、しかし、後醍醐生前のおもなる画策はみなこの亜相の禅門から出ていたといわれ、その眼界のひろさや智謀神算の尽きないことでは南朝朝廷のうちこのひとの右に出る者はない。
いや北畠親房の真骨頂は、もっとべつな面だといえよう。
学識だった。
彼は同時代の武士や権門のほとんどが欲望のために戦うだけで、無理論、無反省であったのとちがって、この乱世にむかっても自己の処し方とつよい理念をもっていた。
肇国論
皇室論
万民論
にわたって、その思想を系譜的に著述した彼の「神皇正統記」は彼の精神の結晶といってよい。
しかもそれは、遠州灘の難破後、常陸にただよいついて、筑波の小田城にたてこもり、四面敵中という境界で書いた陣中の著述である。
剣を筆に代えるでなく、親房は剣と筆を双手にした。
それほどな彼なので、吉野でも、親房はその「正統記」を教科書として少年の天皇に時折の進講を申しあげ、廉子や廷臣たちもまま側で聴講していたことであろう。
それはまた複写もされ、その複本は、九州から奥州の宮方へまでわたっていたろうとも考えられる。しげしげ御所に見える河内の正行なども、親房からじかにその熱烈な思想、哲学、歴史観、戦略、経世などを聞かされては、武家のまわりには知らないこの一偉人につよい景仰を禁じえなかったにちがいない。
彼の「正統記」は、国粋主義の一原典といわれている。日本は神国であるから日嗣の御子は易ることがない、変るべからず、というのが論の骨子だが、
〝──神は人をやすくすることを本誓とす。天下の万民はみな神の物なり。君は尊くましませど、一人を楽しませ、万民を苦しむことは天もゆるさず〟
と、農本の倫理をのべ、労働の尊重も説いている。
また。
〝代、下れりとて、みづからを賤しむべからず。天地の始めは、今日を始めとする理あり〟
ともいって、人間は創造者だ、いつも現実の非に屈せず、今日を以て始めとするほどな情熱がなければ、新しい歴史は生まれない、と力説する。
すべて、大義を一義におく。
国のためには一切を捨てよという。それは虚無でない。犠牲と愛情に生きることだ。滅私奉公だ。と親房はそこをわけて強調する。──それはあたかも革命をこころざす今日の行動主義者の口吻ともどこか似かようところがあった。右から出ても左から発足しても、まろい環の或る接合点では、究極、ひとつに合致してしまう。人の理論や歩みとは関係なく、なにかどうにもならない人類社会の原則の環みたいな道理がほかにあるのかもしれない。
とにかくそんな北畠親房であったから、吉野にいても全国に目をくばって、とくに京都奪回には、一念をそそいでいた。
「やれうれし、都のさまは案の定、だんだんと我が思うつぼにはまってくる」
新幕府下の武士のおごり、奢侈淫楽の風、また勝者同士の軋轢など、どれ一つといえ、彼の眼からはほくそ笑まれるものでしかない。
それに彼が吉野へ来てから着々とすすめていた南党再起の布石もととのい、熊野海賊の洋上勢力も傘下に加え、また近くには、河内の東条に前衛本陣をきずいて、そこには、正成のわすれがたみ楠木正行を、検非違使ノ尉帯刀に任官させて、
「父にもおとらぬよう一ばい忠誠に励まれよ」
と、近畿の一大将に配すなど手順も万端できていた。
かつ、親房は得意の第五列を都へたくさんに忍びこませた。──この秋から冬じゅう、洛中諸所に、えたいの知れぬ火災がひんぴんと起っていたのは、あらましそれによる乱波の仕事だったのだ。
「機は熟す」
と、そこで彼は積極戦略へと移行しだした。──まず正行を激励して紀州の隅田城を打たせ、その余勢で、細川顕氏を堺ノ浦に撃破させた。──正行の純で少壮気鋭なこと、北畠顕家の再来を偲ばせるものがあった。
やがて、山名時氏は天王寺から逃げしりぞき、藤井寺の戦いも幕軍の破れに帰し、ようやく足利がたの驚愕は、師直、師泰までが陣頭に出てきたことにもうかがわれる。
そして十二月二十七日のことだった。
正行は、とつぜん、吉野の御所にあらわれた。
「正成の一子、河内の帯刀正行事、ちかく敵の大軍にまみえる覚悟のほどをほの見せて、ただいま行宮の坪ノ屋へ来てひかえております。おそらくは、それとなくお別れにまいったものでございましょうか」
伝奏の公卿が、奏した。
侍側の親房はこの日、おもなる公卿と共に別院にはいったきりで見えなかったが、廉子にはその協議のなみならぬこともわかっていたので、
「亜相はいまおいででないが苦しゅうあるまい。謁をとらせてやりましょう。階の下に待たせておおきなさい」
と、伝奏へ言った。
そして、四、五の近臣と共に、後村上をうながして、出座した。
正行はぬかずいていた。
「簾を上げたがいい」
と、後村上はとくに簾を捲かせて正行を見た。
正行のはたらきはたびたび上聞に入っている。後村上は、いつも北畠顕家をおもい出され、さぞ顕家にもまさるたくましい若武者かと想像されていたが、いまみると公卿の顕家よりはずっと小柄で痩せてもいた。
そして年もご自分とあまりちがわぬようなと眺めながら、こんな弱小な身で、どうしてしばしば足利勢のきもを寒からしめるような戦功を剋ちとるのであろうかと不審のようなお顔であった。
「正行とは其許か」
「はい」
「いつも聞いておる」
「かたじけのう存じまする」
「父の正成もえらかったのだな。まろは顕家とみちのくに長くいて正成とは会うていぬが、いまでも、ここの旧臣たちは、寄り寄り、正成の死を悼んでやまぬようだ」
「泉下の父も、さぞ冥加に思うておりましょう」
「さあ、どうかな?」と、後村上は青年らしく率直だった。
「──ひとつも正成の心のようにはなっていない。おなくなりになった先帝も地下の正成にはわびておられるかもしれん」
と、なかば母の新待賢門院を見て仰っしゃった。
廉子も、それをしおに、
「帯刀(正行)どの」
と、ことばをかけて。
「そなたもまた、親まさりのものと、みかどをはじめ、北畠の亜相もみな頼もしゅう望みをかけているのです。どうぞ命をいとしんで給もい。はやり気を出して可惜な討死などいそがぬように」
「ありがとうございまする。仰せまでもなく滅多にあだな死はとげませぬ。しかしやがてまみゆるこのたびの正面の敵は、かつてない大軍のよし。またたたかいの慣い、露の命はいつともはかり知れません。……折ふし年のさかい、東条の本営まで所用あって帰りましたので、ほど近い在所にある母とも一夜会ってまいりました。かたがたと申しては畏れあれど、またいつという時もあるやなしやわかりませぬので、かくはよそながらごきげんを拝しに参内いたした次第にございます。しかるに、はからずも親しくおことばをいただき、いちばい、心をふるって戦陣へのぞまれます」
「…………」
みかどは、またしても忘れがたい顕家と、正行とがお胸に見くらべられていた。やがて賜酒が終ると、正行はすぐ退がった。しかしその後ろ姿もどこか弱々と見えて、みかどは密かに、顕家には似ぬ者と、傷々しく思われた。
御所を出た正行は、すぐ先帝の御陵へ向い、やがて吉野を去りかけていた。
すると、一名の青侍が来て告げた。
「おそれいるが、帯刀殿御一名だけ、もいちど御所の別院までお立返りくだされまいか」
たったいま、からだがあいたから会おうという北畠親房の旨だとある。
ここにはいても全国南朝方への令はみなその人から出ている総帥の禅門だ。正行は供の同勢をそとにおいて、実城院の一門を入った。
方丈の庭であろう。縁の低い草堂風な一房に親房は坐っていた。朽葉色の法衣の上にもし腹巻をあてていなかったらそのまま庵主として見てもふさわしい人だった。当年五十五、六か。痩身の優しい目つきともとれるのに、正行はいつもこのひとに会うとかたくなった。亡き父にはまだどこかあまえられるところもあったが、親房にはみじんもそんなゆとりは持てなかった。
「帯刀」
「はっ」
「このところ転戦また転戦、物具を解くひまもなかろう。したがよく諸方で軍功をあげた。さすが父の名を恥かしめぬ者。お上の御嘉賞もひとかたでないぞ」
「先刻も親しくおことばまで賜わり、身にあまる冥加です」
「よかった。親房もあとで聞いてうれしく思った。泉下の正成の心も思いやられてな。いや正成もだが、そちの母も、優れた女性とみえるな」
「…………」
「そちの父が湊川で逝いてからちょうど今年は十年になる。その間には内々、足利方からもずいぶん誘惑もあったろうに、幾人もの遺子を守り育てて、今日、吉野のみかどへ、それらのわが子をささげてまいるなどは、よほどな女性でなければできぬことだ。そのような母、あのような父、正行が群を抜いた戦陣ぶりも理由なきことではなかった。だがの、正行」
「はっ」
「なぜ、このたびのような大事なたたかいを前にして、大将たる身が、かりそめにも数日陣地をむなしくあけて、たとえ一夜にせよ、母の許へ帰ったのか。また、これへも参ったのじゃ。親房にはそこのところが、どうも心に染まんのだが」
「はい……」と、正行は神妙にわびて。「この冬は、とかく体のすぐれぬ母と聞いており、また、次こそは、ゆゆしい大決戦になろうと、ひそかな覚悟も持ちましたので、よそながら吉野の御所へも」
「それがいかん。武者の心がけでない!」
と、親房の霜のような声は、ふいに正行の全身を打った。
「そちも聞いてはいよう。いまもよく人々が語り草にいう北畠顕家をちと鑑ともしたがいい。わが子のことゆえ、この口からはほめ難いが、かつて顕家は、千里の遠くからこれへ駈けつけ、大和、河内の賊軍を追いしりぞけ、よく先帝のみ心を安めたが、ついぞ伊勢にありしこの父へも、会いには来ず、吉野の御所へも、京都奪回を見る日まではと、いちどの伺候もしていなかった。そしてついに安倍野であのような忠烈な戦死をとげたのだ。……それとくらべて、楠木帯刀正行はどうかの?」
親房の心にはいつも子の顕家の死があった。親心の痛惜と、親ながらその子を鑑ともつねに言っているほどな子自慢のほこりがあった。
はしなくも、その気持ちが正行と自分の子との比較になって出たのだろうか、──比較された正行はつらかった。辱じないではいられない。どう考えても自分はおとる。
「悪うございました」
素直に彼はそれをみとめて言った。どういってみても、このひとに釈明する余地はないように思われているのである。正行はその弱小な体をいよいよ地へ小さくして。
「身に大任を蒙りながら、たとえ幾日にせよ、前線を空けて来たなどは、まったく、正行の不覚でした。さっそく駈けもどりまする。面目しだいもございません」
「いや、わかったらそれでいい。せっかく武勲かんばしい楠木廷尉の子なればこそ、その子の名をも惜しむのだ。わしの言は、父正成がいうものとして聞くがよい。……な。親房のこの姿も目に入るであろうが」
と、法衣のうえの黒革の腹巻を、たたくように示して。
「わが身すら、きょうの軍議の決で、すぐ武装いたしたのだ。親房が身を鎧うなどはめッたにはないことぞ。──したが聞えによれば、尊氏はこんどの出兵をもって、南朝絶滅の総ざらいのいくさと称え、高ノ師直、師泰を二大将とする軍のほか、さらに仁木、今川、細川、県、宇都宮、武田、佐々木(道誉)などの諸将をも、なおぞくぞく戦場へそそぎこんでいるという。──そして直義は男山に陣し、師直は河内へ入って東条を突き、また師泰は和泉へ攻め入る戦法とか。──これはゆゆしい。和泉のお味方はほとんど手薄だ。それゆえ親房自身、明日はここを立って、和泉へ向うつもりでおる」
「…………」
「さような時も時なる折に、敵の真正面にあたるべき帯刀正行が、一夜を母のふところへ帰って寝、また一日を悠々と、ここの行宮になど罷り出て来てよいものか。あまりと申せば敵を知らなすぎる。また君命のおもさをかろんじ過ぎようがの。──父の正成が湊川へ行くにあたって、先帝に御諫言をして行ったのとはわけがちがう。──いまにして思えば正成には大処から全局を観る大きな眼があったのだ。しかも君命なればとそれも抛ち、あのいさぎよい一期を完全に戦い終った」
「…………」
「その正成の子ではないか、どうしたものだ、正行は」
「…………」
正行は、しきりに肱を顔にあてていた。いつかふるえ泣いていたのである。親房の峻烈なことばの鞭もそれに気づくと一たんは口をつぐんでしまった。が、なおまだ足らぬようにさいごの激励を彼の唇がふくみかけたときである。地に伏していた正行は、すっくと体をのばして立ち上がっていた。
「早々に駈けもどって軍の手当てをいそぎまする。いちいちのおことばは肺腑を刺し、これ以上の辱には座にも耐えられません。これにて、おいとまを」
わざとおちついて、親房への一礼はていねいにしたつもりであった。が、正行の姿は一転、駈けるような速さで門のそとへ出て行った。親房はまたそれを、自分の言が充分な功を奏したものとして見送っていた。
門のそとには百四、五十人。──正行の弟の正時、和田新発意、同新兵衛、紀ノ六左衛門、楠木将監らのほか、正成の代からの旧臣、八木ノ入道法達だの、安間了現なども、
「はて、遅い御退出、どうなされたのか」
と、みな待ちびさしげに地にすわりこんで、待っていた。
そこへ、
「やあ、すぐ行こう」
と、正行の姿だった。
声の調子には変りもなかったが、泣いたあとのような正行の瞼がたれにも気にかかった。しかしたれも訊かない。そうでなくても正行をよく知る彼らにはその人の馬上の薄い背を見るだけでも傷々しかった。
正行の小柄なのは、幼少からだが、とかくいつ頃からか薬餌になじみがちだった。病名といっては彼らも的確に知っていないが、きわだって痩せの見えてきたのを家臣たちが気にし出したのは、正行が二十歳の頃をさかいに一族や四隣から、その族長的な在り方を注目されだした時にあったといってよい。
その青春もさかりにかかって、薄い痩身を揉んでくるしそうに咳を喘いている姿などを見かけると、家臣は胸を傷めただけでなく暗然ともしたものだった。やっと咳を懐紙につつんで鎮まったあとの正行のおもては、その懐紙よりも白く、見るにしのびないものがあった。
家臣の彼らの思いにしてすらそうだった。正行の母、今では御後室と一族からよばれている久子の長年にわたるものは世間なみの後家の苦労といったようなものではなかった。
外にはたえず時乱の圧迫が良人の死後も依然この家をかこんでいたのである。それも足利方に降れば或る平安は保証されたかもしれなかった。だが久子の心操はそれをゆるさなかったし、さらに朝廷が吉野へ移って来てからは、附近の東条は、吉野の前衛地となって、楠木家の好位置はしぜん常駐の守備をいなみなく任じられてもいた。
「これでこそ、菊水旗の御遺志は、いよいよ御後室と御遺子にかけてまで燿かしい」
と、いちばい奮う一族もあったが、また中には、
「いや湊川の御遺志とは、本来、こうなることではない。一日もはやく戦をやめ、ふたたび相剋の白骨を野にさらすなどなきようにと、天地の神明と朝廷に祈ってあのごさいごをとげられたものだ……。それが、あのときよりもさらに烈しい南北両朝の分裂を見るとはまたどうしたことか。もし正成さまをもいちど今にあらしめば、どんなことをしても、両朝の和解をとげることに一身をささげられたにちがいない」
と、これが表面の意見にも出て、内輪の議論となったことも一再でない。しかし嘆く者は去るしかなかった。そして南河内の一角は、いやおうなく吉野の重臣、四条中納言隆資の指揮下にかため直され、久子はそのいきぐるしい中にあった。彼女の思いは、ともかく病弱な正行を静かな病養か出家の身にさせ、そしておもむろに両朝の和睦をはかるようなことに献身させたいと願うのであったが、一後家の意志などは、しょせん、おこなわれもせず、ついに今日にいたったのであった。
同勢のうちの安間了現や八木法達らは、かつての湊川の生き残りである。正成のさいごの真意がわかっていない者ではない。
だが、以後の郷土事情や大勢は彼らの力ではどうにもならないものだった。彼ら湊川の生き残りとして故殿への申しわけになしうることは、正行を奉じて行くところまで行く、それ一つしか残されていなかった。
列はいま、蔵王堂の北をだらだら下がりに降りて行く。みな、かぶとの眉廂をうつむけ、そして正行の冬日にかすむ姿を時々には先頭の遠くに見ていた。
「おい、八木ノ入道」
了現は、駒横にならんでいる法達を見て小声をかけた。
「正行さまの瞼をみたか」
「む、最前だろう」
「おれは思うのだが、あれはきっとお叱りをうけたのだ。それもかなり厳しいお叱りをな」
「たれから?」
「もとより北畠親房卿のほかではない。わざわざ呼び返してのお招き入れ。正行さまの御退出もおそかった。どうも前後をおもいあわせてみると……」
「なるほど、正行さまが、次の大決戦をひかえて、母ぎみを他所へ移す御処置のために、水分へ一夜お帰りあったなどのことが、もし親房卿のお耳に入っていたとすれば、あの亜相のことだ、どんな苦い御叱咤をもって、若年の大将を励まそうとしたかそこはわからぬ」
「いずれにいたせ、よい御首尾ではなかったとみえる。あのときのお顔いろでは」
「や。……呼んでいらっしゃる。道をかえてどこへお立寄りになるつもりか?」
騎馬の者はみな小キザミに駒を駈けさせて、正行のまわりに黒いかたまりを見せ出していた。法達と了現とは、そこへだけでなく、なおそれから先も駈けとおした。正行の姿はもう下山の道とは逆な吉水院の谷を東へ下がって、彼方の如意輪堂の方へいそいでいるのだった。
みなあとから追っかけた。しかしそこへ急ぐ正行の何か一途な姿がなにを思っているのかはわからなかった。なぜならばさっき親房の使いに呼び返されたとき、すでにそこの御陵には詣で、かたわらの如意輪堂にも詣って、備え付けの堂の記帳に名までしるしていたのである。なんでまたそこへ返って行くのか。
しかし、まもなく人々は、如意輪堂の内へ入った正行が、筆をとってそこの壁になにか書いたのを息をつめて見まもりあった。そして筆を僧へ返すと、正行はすぐ出て来て、もう馬上にもどっていた。
「なにをお書きか?」
と、諸将は入れ代りに堂の内へこみ入って壁をにらむように幾たびも一首の歌をくちずさんだ。──かへらじとかねておもへばあづさ弓、亡きかずに入る名をぞとどむる──、あきらかに辞世だった。
からだの弱かったせいか、今に残っている正行のわずかな書状の筆蹟でも、文字にはどこか弱い病影があり墨色もおおかた淡いといわれている。
しかし如意輪堂の壁へ残して去った和歌の文字には、優しかるべきはずの仮名なのに、何か、やるかたない思いをそこへぶつけたような筆勢と墨の気があった。いちばんあとから入ってその前に立った了現と八木ノ入道とは、顔見合せて、思わず目に熱いものを沸らせずにいられなかった。
正行が戦死したのは、それからわずか八日後の、明けて正平三年正月の五日だった。
四条畷、終日のたたかいは、壮烈をきわめ、彼の死も花々しいものではあったが、それはたれの目からも「──みずから死を求めて突っ込んで行ったような無謀な戦」と、評され、その気短な死に方は、
「なぜか?」
と、彼を惜しむ余りに人はいぶかった。
なにしろ、不可解なる〝死に急ぎ〟よと衆目は見たのだった。
これを戦略上からいっても、敵将の高ノ師直は、正月三日から四条畷をまえに重厚な陣をしき、武田伊豆守の先鋒はすすんで田の畔から平野の湿地帯にまですきまもない兵を充て、県下野守の一陣は飯盛山に、また佐々木入道道誉は生駒山の南に──といったふうに、無慮三、四万の大軍を霞むばかりにしていたのである。
そのほかにも。
遠い林間、はるかな丘の起伏にも、仁木、今川、宇都宮、山名、細川などの旗が、変通自由な遊軍として伏せていたのは、正行の眼にもしかと映っていたはずだった。
だのに、なぜか。その日の正行は、深重な策をめぐらすでもなく、全軍数千にもたりない小勢で、それも一角へ当たるというようなこころみでなく、まっ向、敵の師直のふところ深い本陣へむかって猛然斬り込んで行ったのだった。
つまり初手から玉砕を期していたものとしか見えず、正行の大童なすがたを中心に、一とき、わあッと、どよみを揚げた武者どもの叫びは、喊声というよりも、一種凄愴な気をおびた哭き声のようにさえ聞えたと、あとで言った者があったほど、とにかくそれは異常としかいいようのない猛突入をあえておこなったものらしい。
もちろん、南朝方には、正行の楠木勢以外にも、四条隆資を大将とする「──和泉、紀伊などの野伏ども二万余人」と、太平記もいう後ろ備えはあったのである。けれどこれ以外には、南朝方の布陣や、また名ある武将の在り方などもあきらかでない。要するに、まったく正行一個の双肩にかかっていた戦といえよう。それがすべて玉砕してしまい、正行、正時、和田新発意、そのほか附き従う一族旗本、正成いらいの旧臣たちも、すべて雲霞のごとき敵中に没し去ッたきりふたたび帰って来なかったのだ。
正行、死す
の報に、その夜、京都は万歳の声にわいたという。
それほど彼の存在は短くはあったが足利方には大きな脅威であったのだろう。
まして南朝方のうけた落胆と衝撃は決して小さなものではなかった。わけて北畠親房が、正行の死と聞いたときの胸はどうだったろうか。
彼のことだ。おそらく何の感情もおもてには出していまい。その親房は和泉にいたのである。そして正行が亡いあとは、正行の弟正儀を起用し、さらに次の楠木家を負って起たせた。しかし正儀は以来もう親房のいうことには従わなくなっていた。
正行の弟、その正儀は、長いこと、史上疑問の人物といわれている。
正行が亡きあともすすんで南朝に仕え、南軍の一将として吉野朝廷の回復につくしながら、ときには北朝方へ款を通じたり、ときにはあいまいな中立的偽態にかくれて、生涯、自分の信ずる歩みをつらぬき通したからだった。
酷評する者は、正儀をさして、その政略的な才はみとめるが、彼だけが楠木家には異端な子だった、父正成の誠忠、兄正行の純忠をけがした不肖な者である、とまで蔑んで言った。でなければ、謎の人物と疑ってきた。
しかし、正成が湊川にこめた最期の祈りは、やっと正儀のすがたにそれを見ることができる。正儀は兄の正行が、何であのような〝死に急ぎ〟をしたか、たれよりもその心情を知ってもいる。──兄が生来の病身から常に花々しい死所を求めていたことはたしかだが、しかし親房の非情な言が兄の感傷に拍車をかけて四条畷へ行かせたのも疑いないこととしていたのである。で、それからは親房のいうことも余りきかなくなった正儀であったようだ。
また、正成の妻の久子も、正行の死には、世もまっ暗な思いになり共に血を吐くほどな悲しみに打たれたろうが、正儀の代にいたって、ようやく、良人の願いも自分の悲心も、その子に託しえたかとして、髪をおろした一尼の余生を、水分の奥なる山中の一庵において静かに朝夕することができていたのではあるまいか。
……、ちと前後した。
それらは、今の急ではない。四条畷の直後にうつろう。
師泰の軍は、堺から石川河原へすすみ、正月の十四日には、もう東条へせまって、楠木氏の根拠地をついていた。
一方、師直は。
大和国平田ノ庄へ攻め入り、橘寺に陣して、西大寺の長老を招き、吉野へ和談の交渉をさせようとしたが、時すでに、南朝の天皇は、はやそこにはお在さぬとの聞えだった。
「どこへとて、奥は知れている。落ち行かれた先の先まで、追いまいらせろ」
二十四日、師直指揮下の暴豹のような軍兵は、われがちに吉野の山上へ込み入った。
行宮はすぐ火を放たれ、蔵王堂以下の坊舎から山門すべても炎となった。それは何の抵抗もなく燃えるがままに燃える不気味な寂土の狂炎だった。
すでに吉野大衆の影さえなく、後村上天皇もまた、紀州天の川の奥地、賀名生へ逃げ落ちられたあとなのだ。
賀名生は古くは穴生ともいい、十津川、天河の郷民はなお純朴そのものだった。かねてから南朝に心をよせていたそれらの山党は、天皇の捜査に深く分け入った師直勢をいたる所に奇襲してなやませた。佐々木道誉の子秀宗が討たれるなどのみじめを見たのもこのさいである。──まるで猿と人間のたたかいだった。──そこで師直もついにあぐねてしまい、あと一歩の肉薄をのこして、急に、京都へひきあげた。
ひとつには、京都の留守が気がかりだったものである。直義、上杉、畠山などの、いわゆる道誉のいう一穴の者のうごきが、彼には以後、忘れえぬ警戒心となっていた。
師直の凱旋軍は、誇りを歩武に鳴らして入洛した。
私邸に入らず、師直はすぐその身なりのままで、御池殿の門に馬をつなぎ、尊氏に会って、以来の報告を先にしていた。
「えらかったろう」
尊氏は、彼の越年の労と戦功を大いにたたえた。しかし四条畷から吉野焼打ちまでの経過は、あらまし先に帰っていた直義からきいていたらしく、
「惜しむらく、一つ残念なことをしたな。吉野の奥はまだ雪とやら、ぜひもないが、追捕のもう一歩では、南朝がたの君臣を、このさい一挙に捕えることもできたろうに」
と、それだけは画龍に点睛を欠いたものと嘆じるのだった。
「……いや何とも」
と、師直は、あたまをたたいて、あやまった。
不案内な山地の苦戦とか、兵糧の欠乏とか、そんな平凡ないいわけに、努めたあとで「しかし──」と、彼はまた、彼らしく陳弁した。
「その賀名生と申す地は、まったく猿しか住まぬような山奥の極みでおざる。さような人外境より、俄に再起をはかるなどは、もはや思いもよらぬこと。されば吉野朝廷の名も実も、はやなきにひとしいものと見てよろしいかと存じまする」
「む、む」
そうには違いないと尊氏も思った。師直はいうまでもなく、もっとそれを確信した。
しかし、これははなはだしい誤算だった。
そのご、賀名生の南朝方は、意外にはやく瀕死の頽勢をもりかえしてきたのである。
しかもなお皮肉なのは、その原因が、勝者の側から瀕死の敵へ、起死回生のよろこびと絶好なすきとを与えていたことにある。──すなわち、足利方の内訌がそれで、直義と師直との軋轢は、両者の凱旋を機としていよいよ激化し出して来たかの様相がこの春は一ばい濃かった。
かねて、直義の手にひきとられていた養子の左兵衛佐直冬(幼名、不知哉丸)は、この一月ごろ、西国探題の名目をうけて、こつねんと都を去り、備後の鞆ノ津辺にとどまって、しきりに、従前からの師直がしていた下知状やら曲事を洗いだてて、これを直義へ報告していた。
「怪しからぬお手廻しよ」
師直がこれに憤慨したことはひと通りでない。
「たたけば、ほこりは、どこにも出よう。師直の沙汰とは申せ、すべては将軍家の御意志によるもの。これを師直の曲事となすは心得がたい。──察するに、錦小路どの(直義)こそ、直冬を西国へやって、自己の外援勢力を西にかためておく用心であろう。よろしい、そう正面切って、師直に挑んで来るなら、師直にも覚悟はある」
彼は、生来の闘志を大きな唇にむすんで、いらい寸分の油断はないつもりでいた。
ところが、ほどなく、師直は突如、罷免されて、屏居謹慎を仰せつかってしまった。
──直義から内々つよく密奏するところがあり、尊氏の意も度外視されて、ついにこの上命をみたものらしいがと、諸人はどうなることかと、この噂で一時もちきりだった。
事の断行をとる前に、直義は、一般の師直にたいする不人気という点を、かなり計算ずくめに考慮していたには違いない。
ところが、いざ、
師直の罷免、屏居
という思いきった人事改革の断をみると、一般の表情は予期に反して、師直の失脚を小気味よしとするよりも、
「あの、木像蟹どのが、このままだまっているだろうか」
とする、恐れの方が、衆を大きく支配しだしていた。そして、
「何か始まる」
「なくてはすむまい」
と、危惧に揺れた人心は、たちまち、不気味な流言や浮説を作って、直義の当初の考えとはまったく逆な現象をよびおこしていたのだった。
しかし、一方の──
一条今出川の師直の邸宅といえば、その日いらい、静かに門を閉じたままでしかない。人出入りもまったく絶え、いかにも閉門謹慎のていである。
だがその物音もない奥まった所では、あの木像蟹殿が、どんな屈託顔に頬杖をついていることか。またはこんなときこそ心ゆくまで閑を愉しむべきだとして、側室の二条関白家の妹君でも昼夜なく愛撫していることでもあるか。そのへんはたれにも想像がつかなかった。
けれど彼が悪足掻きな妄動をしていないことだけはたしかであり、夜ともなれば、墨を流したような今出川一帯の大屋根が、それだけになお気味わるい夜気を都の隅に濃くしてはいた。
この無抵抗ぶりもまた、直義には意外だった。
こう、おとなしく命に服したものを、性急に武力的な拘束を加えることも出来ないし、それはまたかえって危険を呼ぶものとも考えられる。──徐々には、兄の尊氏にせまって、これまでの師直の罪科をかぞえ上げ、将来のためをも説いて、このさい彼を流罪に処すか、いっそのこと、死を賜うとして、切腹を命じるかの、いずれかの決断をせまるのを目的としてその方にもっぱら力をそそいでいたのである。
しかし、これがまた容易にらちはあかなかった。
尊氏がそれに「うん」という気色はどうも見取れない。そこで兄弟の複雑なもつれは、或る限界をおいて口に出さないまま、冷却の日をおくことを余儀なくしていた。──もし師直の罷免理由を、短気に兄へつきすすめてゆけば、勢い、それは直義対師直でなく、直義対尊氏の兄弟喧嘩とならないわけにゆかないのである。
そもそもは、尊氏が「諸政、何事も、弟のおまえに委せる」として来たものを、一面では自分の意志を師直に代行させて、二頭政治の弊をあえて深めてきたことが、およそこんどの重大原因であるからなのだ。「──兄の狡さよ」と、これまでにも直義は、たびたび腹にすえかねていたものの、兄との衝突は、極力これを避けずにはいられない。
しかし、その是正と鬱憤とを師直に向け、あわせて、一気に高家一族の勢力を根こそぎ排除しようと計ったのは、どうしても直義の誤算であった。またその時期も過っていた。
いつのばあいでも、内訌は敵をよろこばすだけのものだが、直義対師直の軋轢ほど、「待っていたもの」と、南朝方を勇気づけたものはあるまい。そのごも謀将北畠親房が、さかんに第五列を都へ送って、後方攪乱の実を上げていた折でもあった。
もっとも、乱波(便衣隊)の暗躍は、こんどに限ったわけではない。足利家が幕府を都にすえてからは、のべつそれらの形なきものの口から巷に怪異が撒かれていた。
たとえば。
直義の妻(渋川貞頼の女)は、四十一歳で初めて男の子を産んだが、するとすぐ、
「これは稀れなお産だ。大塔ノ宮の怨霊が憑いて、直義夫妻の仲に出たものに相違ない」
と、いう者が多かった。
また、あるときは、
「たそがれ、緋の袴をはいた女官が、院の檜皮屋根の上に見えたが、そのうちに御池殿(尊氏の住居)のうちへ消えた」
などという流言も立ち、無知な民心は、そんなことにもすぐ暗い不安にゆすぶられた。
しかし、ことしに入ってからの変異は、ただの怪奇な流言だけでなく、目にもわかるような乱波活動が頻々だった。その多くは放火であり、なかでも顕著なのは、三月十四日の夜半、尊氏の御池殿の全館が、焼亡したことである。まったくの怪し火で、出火の原因も不明だった。
それいぜんには、清水寺の焼失があり、持明院の一角からも火が出、そのほかの小火災と来ては、毎晩のようだった。
けれど、それらの変異に馴れッ子になっていた人心も、六月十一日の四条河原の勧進田楽の大椿事にはきもをつぶして、これはただ事ではないぞとみなおぞけをふるッた。
この勧進田楽には、将軍家の尊氏夫妻をはじめ、北朝の歴々、女院、宮、いわゆる月卿雲客から市中の男女数万という見物が群れ集まっていたのである。──勧進元は、祇園の僧行恵という者で、四条大橋を架すための浄財をあつめるのが主目的であり、役者も新座本座の一流をよりすぐった大興行であったのだ。
そして、八人法師の拍子打ちに始まって、簓踊りは本座の阿古、乱どり舞は新座の彦夜叉、刀玉取りは道一と、おのおの妙技をつくして、猿楽の一と幕も佳境に入り、やがて将軍家の桟敷わきの橋がかりから、練貫の褄を高くとった美貌な女役者が、半開きの扇を眉にかざして出にかかったとたんに、どうしたのか、上下、二百四十九軒(組)の桟敷が、ごうぜんと凄い物音をたてて、諸仆れに、河原へ崩れ落ちたのだった。
桟敷、六十余間
俄に潰えて落ち重なり
死者百余人
傷者は数も知れず
とは諸書の実録だが、この事件なども、原因は分らず仕舞いで終り、おまけに当夜は風雨、翌日は洪水になったりしたので、またも「天狗の仕業か」ということになってしまった。
ところで、師直の処罰は、こんな大事件後のわずか二十日ほどのちに断行されていたのである。それやこれやで、一ばい人心が騒いだのもむりではなかった。
乾ききった残暑照りの日中だった。一ト筋の旗も持たず、黙々と気むずかしい顔をした騎馬の一群が、南の方から洛中へはいって来た。
一度、それは跡絶えた。
が、次には、足なみを早めた騎歩兵五、六千にものぼる汗の顔が、一隊また一隊とつづき、みるみる法成寺址の森へかくれた。
「おや?」
あとの白い埃のうちに立ち迷いながら市民たちはその六感で怪しみあった。
「越後守(高ノ師泰)どのに相違ない大将が中に見えたが」
「では今のは、越後どのの軍兵か?」
「としたら、旗も見せずに、法成寺の森へ入ったなど、ただ事ではあるまいぞ」
彼らの予感はあたっていた。一ときのまに異常な恐慌状態が洛内中に地鳴りをおこしていたのである。その震源地とみなされたのは、当然、高ノ師直のやかたがある一条今出川の一郭であり、衆目がそれと、そこへ寄ったときには、すでに驚くべき変貌が今出川には起っていた。
つい午前中までは、おとなしく閉門謹慎のままかに見えた師直の邸を中心に、附近の武者屋敷はみな、ものものしい戦時態勢にかためられ、辻々には兵が立って往来もまったく遮断されていた。そして忙しげに行く騎馬の影があれば、それはここと法成寺との間を連絡か何かに駈ける相互の早馬だけだった。
思うに、師直と師泰とのあいだには、とうからもう今日のための打合せが交わされていたにちがいあるまい。
師泰は、吉野攻めの後も、和泉の北畠親房や河内の南軍にそなえて、戦場にとどまり、春いらい一度も都に帰還していず、兄師直の失脚は、つまり自分の留守中でのことだったのだ。
おそらく彼は、この変を知ると同時に「──高家一族の浮沈」と赫怒して、すぐにも戦場を去ってここへ駈けつけようとしたのではなかったか。
けれど、それをとどめて、きょうまで、鳴りをひそめさせていたのは、師直がほかに期するところがあったからにほかならない。──師直はその閉門中もただ安閑としていたわけではなかったのだ。師泰との打合せだけでなく、在京在国の武家仲間へも極秘に款を通じて、きょうという日を、充分な用意のもとに待機させていたのである。
それの証明は、やがて、夜に入るや、ぞくぞくと、諸方から駈け集まって来たおびただしい諸家の兵馬に見ることができ、法成寺の兵をあわせれば、それは一万五、六千の一陣営をなしていた。
もっとも、この半日半夜、洛内の路上にあふれた兵馬が、みな師直がたへばかり殺到していたわけではない。中には「──すわ」とばかり迷いもなく、錦小路殿(直義の邸)の方へ駈けつけてゆくのもあり、そこにはすでに、上杉重能、畠山直宗、その他、日ごろ称して、副将軍直参の宗徒といっている面々がひしひし、附近をかためていた。
とはいえ、直義の許に駈けつけた者と、師直方に応じた武士とをくらべれば、直義方は、はるかに少なく、一方の半分以下にもたりなかった。日ごろの人気とはあてにならないものである。決票の数は逆な現れを見せたのだった。
「後手を食った。飼犬に手を咬まれた!」
直義は地だんだをふんだ。準備、兵力、すべてに抗しえぬことも明白でありすぎる。
刻々、険悪の度は濃い。敵の師泰は、法成寺址を。師直の軍勢も一条今出川を離れて──
「両勢一万五、六千人。鉦も打たず旗も振らず、音なき波の歩みのように粛々とこれへ向ってまいります」
との、声々だった。
「木像蟹めが」
どうしても、家来筋の師直となす思惟が直義には抜けきれない。そんな男がしかも堂々とこのような反噬に出て来たことが、何とも心外だし堪忍ならぬものに憤られる。
だがこの非常事態がそんな感情でいささかも形を変えるものではない。事は急であった。直義は急遽、土御門高倉の兄尊氏の新邸へ逃げこんだ。よもやそこへはと、一時の難を避けるつもりであったのだろう。
ところが、それを偵知した師直、師泰の軍は、進路をかえて、やがてひたひたと土御門高倉のまわりを厚くとりかこみはじめたのだった。そしてそれまでの声なき波濤は、ここで初めてわああッと物凄い咆哮を揚げ出した。──もしそれに釣られて、内へはいった直義方の将士が武者声に応じたら即座に合戦の火ぶたは切られていただろう。が、諸門をかたくしたまま、邸内の兵はまったく口を緘していた。おそらく尊氏の厳命だったに違いあるまい。
するうちに、師直方から一使者が邸内へ入り、まもなくまた、邸内からも、尊氏の使者が来て、師直に告げるところがあった。
「──いかなる憤激にせよ、主人の家をとりかこむ法やある。所存あらば退いて申し出ろ。それとも目的は他にあって、事を幸いに天下を奪わんとでもするのなら問答は一切無用だ。しかと腹を割って申せ」と。
それに答えて、師直は再度の使者を出し、「師直が本心は、君の御存知でないはずはない。讒者の張本ども一類を悉く縄してお下げ渡しねがいたい」と、今は尊氏へ対してさえ傲岸、引く色もない。尊氏も、かさねての使者を以て「家僕の恫喝に会って下手人を出したとあっては天下の嘲り、そのような前例をひらくことは罷りならん。さらば待て。畜生を相手とするのは哀しいが一戦もぜひあるまい。尊氏も鎧って起とう。なんじ師直、よく我に一矢を放ッてみせ得るか」と、きつく叱る。──ここで一時、交渉は絶え、両軍ともに寂と、不気味な真夜半を睨めあっていた。
が、まもないうちである。師直方から三度目の使者が邸内へ入った。そしてこんどは書面とした物を差出し「これが最後の一札でござる」と捨て言葉をおいて引きさがった。
師直の一札は、執拗に、自分を陥れた一類五人の引渡しをかさねて求めたものだった。もし、おきき入れなくば、ぜひもない儀と、暗に実力に出る旨もほのめかしている。
すなわち、その五人とは。
上杉伊豆守重能、畠山直宗、大休寺の僧妙吉。それに直義の奉行人斎藤利康、同修理之進のふたりの名をも加えていた。
塀を境とした君臣両勢の対峙のあらしは、遠い所のもののようでしかない。そこは真空のような一殿の室だった。
一通の奉書の状が、あらしの眼みたいにおいてある。
「…………」
決裂か、要求をいれるか、交渉再三のあげくに、たったいま師直方から最後のものと提示してきた切札のごとき要求だった。──それを中においての、尊氏と直義とは、はてしない、無言の膝をじっと硬めあっていた。野中の二箇の石かのように冷たいのである。どんな他人といってもこんな隔絶感は持てまいほどな深い割れ目がふたりのあいだに穴をあけていた。しかも哀しい骨肉の本能はかえって沸りに沸って体を離れた見えぬ虚空で兄と弟のつかみあいをどうしようもなくしている長い沈黙なのだった。
が、その沈黙にも疲れてきたに違いない。やがて、静かに、
「どうする?」
尊氏のほうから言った。
この「どうする?」は二度目なのである。こんども直義はすぐ口を開かなかった。こっちから訊きたいのだ。こんなせっぱつまった心外な決定を弟にいわせようとするのは兄の卑怯ではないか。
「御意にまかせます。直義としてはそれしかお答えのしようはない」
「ちがう!」尊氏は逃すまいとするものを抑えるように。「──師直がつきつけてきたこの最後の箇条に、何と最後の一言をくれてやるか、そこの返辞をそちらの胸に叩くのだ。わしの答えでは意味をなさん」
「心外でたまりません。かりにも主人が家来にこんな箇条をつきつけられ、しかも這奴の武力にここで屈するなどは」
「無念は無念だが、ひとつ悔やみを、わしとそちとで、何度いってみても始まらぬ。すでにここを囲んだからには、師直も腹をすえてのことだろう。その求めを蹴れば、四門を破って、討ち入って来るにきまっている。さもあらば、主人として、それに応戦せざるを得ぬ。そちとわしとが家来をあいてに斬り死にすることが、さあ、どうかな? ……征夷大将軍尊氏と、副将軍直義とが、焼けあとに枕をならべて死んだとなった明日を考えてみるがいい。分に合わん。また世の笑いぐさだ。かつは野州足利ノ庄から志を立ててここまで来ながら、きょうまでの苦心功業もすべて水の泡でしかあるまいが」
「ですから、ぜひもありません。直義に腹を切れとなら、腹を切るまでのことです」
「ばかな。たれがそちに腹を切れと仕向けたか。師直も、そちを渡せとは言っていない」
「が、腑におちぬのは、兄者の御態度だ」
「どこが、どう?」
「かくまでの師直の暴悪を、兄者は真底では憎んではおられぬように見える。お口では強い返事を使者にいわせておられるが」
「それよ、師直は尊氏の家僕だ。家僕の悪業は主人の落度。たれを恨もう」
「では、家来のこのような暴挙も、お心ではゆるしておいでなのですか」
「ゆるされぬ無道と怒ればこそ、万一の一戦も覚悟はしておる。それが尊氏の立場なのだ。自嘲するしかないわしなのだ」
灯は細まっているのに、たたみの上の奉書は、紙の白さをなお白く見せていた。いつか夜明けていたのである。遠い塀のそとからは師直の軍勢が波騒の中に似るここへ、最後の返答をうながすようなどよめきを朝と共に性急にしていた。
最少な犠牲の下に最良な切抜け策をと尊氏は考えている──。それには師直の要求の一部を容れ彼をなだめることでしかないが、直義はいぜん岩みたいな姿にみえるだけである。自分からそうしようといって妥協に出るふうはない。それが哀しい性を形に見せつけられているようで尊氏にはつらかった。
「……直義。観念のしどころだ。そちも師直を憎むのはよせ。憎悪は何の解決にもならん。それよりは、ちと反省してみないか」
「これは」
逆に、直義は色をなした。
「私への、御批判ですか」
「そちにも、行き過ぎがなかったとは申せまい」
「条々、実例をあげて、仰っしゃって下さい。足利家のために悪しかれと思ってしたことは一度たりともないつもりだ」
「そこが過信だ。悪意でない害も往々にある」
「わかりました」──直義は冷ややかになりきって。「そこまで御大切な師直とあるなら、もはや何をか申しましょう。ですがこの春、養子直冬が中国へ赴任して、自然、調べ上げた機密によれば、師直が地方武士のあいだに自己勢力を扶植しようと計っている諸沙汰には将来恐るべき下心がはっきり見える。いまに臍をお噛みなさらねばよいが」
「ふむ、直冬がの」
まったくこの場には無関係な感傷が尊氏の胸をふと墨のようにした。──藤夜叉が生んだ不知哉丸である。いちども膝に抱いたこともない子だった。不愍な生れ性ではあった。けれど直義の養子となり一方の若大将となってからの直冬の眼はつねに尊氏を冷たく刺した。非情な実父と恨んでいるのか、何か責めてやまない白眼にみえる。それが尊氏にはたまらなかった。棘のつらさの余り嫌厭になった。
その直冬の西国下向こそ、直義の異心の準備だと、師直は進言している。また直冬自身が、やがては養父の直義が天下に君臨することを望んでいるとも、他から尊氏の耳には入っている。
もちろん尊氏は信じない。けれど直冬のひがみといい、母の藤夜叉へ自分が過去にしたことといい、充分、彼には罪の意識があった。拭いがたい呵責をわれとわが身にしているのである。そのうえについ先頃は、身の毛をよだてるような一事もあった。
なにかといえば。
それは二十日ほど前に遭遇した四条勧進田楽の大椿事のときである。──幸いに、尊氏夫妻のいた桟敷はすこし傾いたのみで難もなかったのだが、あの折、舞台がかりの出から半開きの扇を眉に見得を見せた女役者のおもざしが「あっ、藤夜叉か?」と尊氏の眸をはっと怪しませ、ときも同時に、ごうぜんと、あたりの桟敷百十間がくずれ落ちて、死傷数百人という阿鼻叫喚が、刹那におこっていたのであった。
「…………」
尊氏は妄想を追うように、意識をかえた。今はそんなことを思ってみる時ではない。また、ここの場所でもなかった。
ついにさいごまで、直義は尊氏がいうところの反省もせず、師直との妥協にも、自分からは口をあかずにしまった。だが尊氏がやがて彼に諮った最終案には、
「こうなっては、いたし方もございますまい」
と、冷静に澄みきって、それに逆らいもしなかった。
そこで、師直との交渉が次の提示のもとにはこばれ出した。
──上杉重能、畠山直宗の二名は、流罪に処する。また直義の奉行人斎藤利康、修理之進、僧妙吉の三名は、すぐ邸内から師直方へ引きわたす。
さらに当の直義は、今後、政治の面からは一切身を退く。そして鎌倉から尊氏の嫡男義詮(幼名、千寿王)を呼んで直義の後任にすえる、という条項だった。
「ふ、ふ」
と、直義はこの交渉を、兄と師直との芝居であったもののように心中では冷笑していた。
「やはり兄の本心は義詮を自分のあとめに正しく据えねば安心できなくなって来たのだろう。……この直義にも一子如意丸があり、直冬という養子もいる。また一族や武士の腹を疑えばみな一つでない。そこで将来をおそれ、次代の将軍家の座をいまのうちに固めておこうとして打った手ではないのか。いや、義詮の一条項を、これへ持ち出したのでもそれは読めるというものだ」
兄のそんな偏愛と師直の奸策とが結ばれて、自分のこれまでに尽してきた半生の功も、副将軍の地位も、一朝にいま、剥ぎ取られたのかと思うと、直義は煮えるような怒気と淋しさとにくるまれた。蒼白な自分の顔が自分でわかるほどだった。
やがて邸外には万雷のような歓声がわいていた。それも直義を口惜しさに歯がみさせた。目的を達した師直方は、ほこらしげなどよめきをくり返しつつ引揚げて行ったのだった。合戦にはならずにすんだが、不吉な朝の太陽に思われた。そのうえ、このさい嫌なことがまた一つあった。
僧の妙吉がいつのまにか逐電していたのである。ために妙吉だけは、この朝、師直方へ引渡されずに終っていた。のみならず以後も長くこの怪僧はついに姿を現すことがなかった。本来は、直義に深くとり入って、こんどの事件を醸し出した元兇であったはずの者だった。奇怪というほかはない。後に説をなす者は、彼も北畠親房のあやつる五列の一人ではなかったかとも言ったりしたが、しかし後の南朝方にも、ついぞこの怪僧らしい人物は見えてない。
いずれにせよ、南朝方のよろこぶ足利家の内訌は、これによって大きな肉の裂け目を、白日にさらしてしまった。すでに曝された以上はなお果断に果断をとってその根絶を計ろうとするのが当事者の常道である。師直はそれへつきすすんだ。
越後へ流された上杉重能と畠山直宗は、そのご流刑地で暗殺されてしまった。もちろん師直のさしずである。
噂は噂を生じ、直義の身近にも暗い翳がさしてきた。いつとも知れぬ危険を直義自身も感じずにいられない。で彼は、一切の権力から身を引いたのみでなく、頭をまろめて、名も恵源とあらためた。そして錦小路の門に蟄居していたが、もちろんこの謹慎は心からなものではなかった。
あくる年の四月ごろ。
「あの、おかしげな法師も、とうとう亡くなったそうだよ」
と、町で噂する者があった。
おかしげな法師とは、吉田兼好のことであった。当年六十八であったという。
双ヶ岡の草庵で長く病んででもいたのか、旅先で果てたのか、よくもわからず、またその死を悼む者もない。
ただひとつ想像できるのは、きっとあの幼少からの一弟子が、もう雀をふところに飼う寝小便小僧ではなく、りっぱに成人して、師の枕元に死ぬまで侍いていたであろうことである。そしてその命松丸は、
「なむあみだぶつ……。ああ、お師匠さんはえらかったな。一代、こんな世の中だったが人も害めず自分も殺さず、けっこう毎日を楽しんで暮しなすった。修羅六道の地獄の世を、あの深い目で見物しに生れてきたようなお人だったが。……もうあの意地のわるげな笑い顔、慈悲と憐れみを交ぜた皮肉なおことば、そしていつも権力気狂いの人間たちを哀しんでいるようなおすがたも、ふっと、どこにも見えなくなったのだ。ああ、淋しい」
と、また元の孤児に返って、師のあとを、飄とうらぶれ歩いているにはちがいなかろう。
ずっと後のことになるが。
この命松丸に行き会った今川了俊が、
「なにか兼好のかたみでも残っていないか。あの法師のことだ。書き残した物でもあれば、それはさぞ面白かろうに」
と、訊ねたところ、命松丸はそれに答えて。
「はい、お師匠さまは、筆まめではいらっしゃいましたが、一つも世に残そうなんていうおつもりはなかったようで、反古はそばから紙衣や何かに使ってしまい、残っている物といえば、旧の草庵の壁やら襖紙に貼った古反古があるぐらいでしかございませぬ」
「ほうそれだけでもそれは見つけものだ。費用は出すから、ひとつその壁や襖に貼られた反古を剥がして来て、わしに見せてくれんかの」
命松丸もそれはよい偲び草ともなり、またあれほどなお人の文字をもったいないことだとも考えて、双ヶ岡や吉田山の旧草庵の物をていねいに剥がして、やがて今川了俊の手もとへとどけた。それは分厚い一ト束にもなる反古の量だったので、ふたりしてこれを整理翻読したすえ、帖に編集したものが、すなわち後世に長く読みつたえられてきた古典「徒然草」になったのだった。
ふしぎな宇宙の識別というしかない。不壊の権力とみえる物も、時の怒濤の一波のあとには、あとかたもなくなり、反古に貼られた一法師の徒然な筆でも、残るいのちのある物は、いつの世までも持ちささえてゆく。
だが、兼好の逝った正平五年(南朝)はまだまだ足利家の内争が真二つにわれた直後で、彼の死などは、一片の枯葉とも見る者はない。
同年の十月。
蟄居中の足利直義──頭を剃って恵源といっていた直義は──とつぜん京都から姿を消した。
石堂頼房をつれて河内へ奔り、河内の石川城にいる同族の畠山国清の許にかくれ、南朝の朝廷へ、帰降(降伏)を申し出たのであった。
直義のとった行動はじつに思いきっている。
いうならば足利系総氏族の大分裂を自身からしたものにほかならない。しかし彼によるこの大爆発の降灰を浴びても、その外輪や裾野をなしている一族諸武士は、
「やったか、ついに!」
と、さまで震駭の色でもなく、後の南朝への投降も、半ば必然に来た休火山の噴煙みたいに見ていたのはふしぎといってよい現象だった。
それに反して、さっそく、活気のある朝議となっていたのは賀名生の山村の朝廷である。暗澹たる前途に一道の光明をここに見たのだ。
しかし、飢えの手が物にとびつくようではない。北畠親房は充分こんどのことには疑いをもっている。──彼は疑惑と利用の両面を胸に用意して、ひそかに某所で直義と会った。その結果、直義の降は容れられた。
直義は、帰降の誓文をさしだした。それには北朝の年号を用いず、南朝年号の「正平五年十二月」と書いた。そしてただちに挙兵にかかった。いまは師直のみが相手ではない。兄と戦うのだ。兄と戦うには名分がなくてはならない。「──南北両朝の対立を解消して、正しい一つの朝廷に帰一する」。それを名分にとったのである。
ときに、尊氏はといえば。
彼が弟の豹変を知ったのは、備前福岡城にいたときだった。
つまり京都をあけていた留守中の出来事だったのだ。
それ以前に。
高ノ師泰は石見へ出陣していた。つづいて尊氏も師直と共に自身中国へ下向していたのである。──直義の失権に憤慨した養子直冬が、西国の叛意をかきあつめて、すてておけば大挙、京都へ攻めのぼって来そうな気勢に見えたからだった。
ここでも尊氏は、実の親を怨む子を戦野に捕えねばならない破目になっていた。尊氏は、直冬をとらえて、出家を命じようぐらいな考えでいたのだが、叛逆の子は猛って親の軍へさんざんに抗ッた。──そして戦いに破れると九州へ逃げ落ちてゆき、直義と仲のよい少弐頼尚のふところへ拠ってしまった。のみならず、西海の反師直がたも、みなその一幕下に凝集され、尊氏の意図は、かえって思いもしなかった自分からの離反者を漠々たる彼方に見出だす結果となっていた。
そんな軍旅の出先で、
「なに、直義が?」
と、彼は留守中の変に耳を打たれたのだった。「どんな事に会っても物に動じたことのない人」と夢窓国師も言った尊氏だが、はたしてこのさいどうだったか。子は親の敵をあつめて西に大敵国をつくり、弟は奔って南朝に降り、南朝の旗をかりて兄へ弓を引いて来たのだ。しかもいまや彼は出先の孤軍でしかない。
「義詮は都にいる」
残してきた最愛の嫡男だけがひたすら彼の心配であった。──年を越えつつ尊氏は備前から京都へ急いで引っ返した。──だが途中で、もうその義詮は父に出会った。直義方の桃井直常に追われて京都を逃げ出して来たのである。
ある大事なものが、人間社会からいつか失くなっていた。それは曲りなりにもまだ護持しあっていた道徳というものだが、一たんこれを無視し出して、無視する方が、世の勝利者だとなって来れば、いたるところでこの約束の破棄は始まッてくる。悪が悪でなくなり勝利者だけがいくらでもあとから自己を正当づけ得る。
こんなでたらめな状態が自分の理想した幕府の劈頭にやって来たかとおもうと、尊氏は慚愧と怒りに燃やされた。わけて京都を追われて逃げ出して来た義詮のみじめな姿は、我慢がならないものだった。
「懲らさねばならん。懲らしに懲らす、それだけが、秩序を回す道でしかない」
彼はただちに義詮をつれ、師直を先鋒に、京都へ入った。
直義に応じて、北国から洛中へ攻めこんだ桃井直常の七千人は、もう師直一族の第館なども焼き払い、北朝の御所をさえおびやかしていた。
尊氏はさしずめ洛内の留守においた佐々木道誉らの兵が、それに応じて苦戦中かと察していたが、その道誉の軍はどこにも見えない。
「すでに近江へ帰ってしまったらしい」との沙汰がある。
ぜひなく、急使をやって、叡山へよびかけた。
近江三箇荘を与えようという好餌のもとに、協力を求めたのである。だが叡山はその前日、直義の墨付で、すでに近江三箇荘をもらっていた。当然、あいまいな態度でしかない。
しかし、尊氏の手兵は、二条三条の辺で、揚言どおり桃井勢を二日にわたって打ち懲らした。桃井勢は破れて、法勝寺から白河のおくへ逃げ退いた。──尊氏はその夜、ひとまず二条千手堂の吉良邸を陣営とし、そして、諸所の山野に分散して旗色を見ているらしい一族家臣の徒へ教書を触れまわした。
「このさい去就を過るな。おれはここに帰っているぞ。一たんはぜひなく直義についた者といえ、前非を知って戻って来るなら、おれはその非を追求しない。幕府は成りその功業を約して緒についたばかりではないか。みんな帰って来い! 尊氏を信じて元の列へ戻って来い!」
しかし、教書の反応はほとんどなかった。この論告はかえって尊氏の窮地をまざと響かせたものとみえ、逆に、直義の方へ奔る者が多かった。斯波高経、今川範国、二階堂時綱、小笠原政長、上杉朝定、同朝房。
そのほか、南流して去る兵旗ばかりである。
山名時氏のごときは、きのうまで尊氏の下にいたのに、この趨勢を見ると、尊氏を離れ、一夜、とつぜん直義方の八幡の陣へ投じてしまった。
「こんなものか?」
泡のような呟きが尊氏の胸に消えた。これまでにしてきたこと、見つけていた人間の顔、すべてが信じられなくなった。いや洛中にいることすらがすでに危険になっていた。
「ぜひもない」
一時、都を退いて、陣容をたて直すときめ、義詮や師直と共に、尊氏は丹波へ走った。そしてまた播磨の書写山へ移り、そこで石見から馳せつけて来た高ノ師泰の一軍とひとつになった。
細川顕氏が反いて窮地の尊氏をさらに窮地におとし入れたのは二月十四日だった。四国もついに彼から離れたのである。
「顕氏までがか?」
尊氏は耳を疑った。師直、師泰にたいする反感が、顕氏までを敵側に走らせたものであると分っていたが、それにせよ今はどこも四面楚歌である。腹をすえる時だと思った。
「道は一途。このうえは直義と話がつくか、さなくば、一戦もぜひあるまい」
書写山のかこみを破って、十七日、師直、師泰の兵を先手に、兵庫へ出、さらに御影街道へと、怒りの奔流を見せていた。
が、それあるを予期していた畠山国清、石堂頼房、小笠原政長らの軍に待たれて、尊氏以下は、打出ヶ浜でさんざんな苦戦にまみれた。──師直、師泰もこの日に負傷し、疲労困憊のかたまりのような残軍を湊川まで引いて、残る将士をかぞえてみると、寥寥、一千にも足りなかった。
尊氏が、自決をかくごしたといわれたのは、このときではなかったか。
彼はいくども死地に陥った経験をもち、同様な噂を何度もこれまでの経歴には持って来ている。だが彼は本心から自刃を考えたことは一度もない。彼は物の終りという考えを知らないのだ。追いつめられた運命のどたん場にはなおその活機が働くのである。禅がものをいうのかもしれなかった。自意識でなく現実の自己は突っ放している。そしてほかに何か寸秒の転機でも待つかのような無表情をただその顔に持つだけだった。
すでにどこかで、この晩あたりは、夢窓国師の和解の斡旋が、おこなわれていたのである。が、尊氏は知っていない。しかし彼の考えついたことも、直義との和睦であった。──夜半、旗本の饗庭氏直は、彼のむねをおびて、直義のいる八幡へ馬をとばして行った。あとの尊氏は、魚見堂で眠りについた。
なぜか、この魚見堂で眠るときは、いつも彼の運命は巌頭にあった。筑紫落ちの前夜、また九州から再東上の日、そして今夜──
「真光寺の墓は、どうしたろうな?」
自分の手で弔ってやった正成の首が彼の瞼をたゆたわせていた。すがすがしい一個の生命は眠りの中で思ってみても寂かな池の花でも見ているようで気もちがいい。いまだに地獄の火坑から脱け出られない自分にかえりみて羨ましかった。
「おう、そういえば、右馬介もあれきりわしの許へ戻って来ぬ」
むしろ彼のためには、それがよかった気さえして来る。幼少から自分の傅人役として仕えてくれた右馬介がもしここにいて、この君臣相剋の乱脈やら父子兄弟の戦いなどを見ていたら、彼は身をおくに所もなく、発狂していたかもしれぬ。
──饗庭は一日おいて帰って来た。講和はいれましょうと直義は言っているという。
当然、条件が提示されて来た。師直、師泰の引渡しだった。それが主である。だが、尊氏にはこれが呑めない。そのため、相互の使者の往返が三、四度にもおよんだ。結局、師直、師泰は高野山へのぼらせて生涯を出家遁世に終らせる。これなら尊氏は二人へ告げて観念させることができるとしたのである。
直義は容れた。
「さっそく、御自身、両名を伴って、連れ上っていただきたい」と。
直義との再三な交渉のすえに見た和解の条件を、親しく尊氏から聞かされると、師直は、不敵な日ごろの顔も失くして、その温情に泣いた。
「それがわが君にとって残されたただ一つの活路とあるなれば、何で私に異存ございましょう。よろこんで頭をまろめ、いつの日か、ふたたび出て来いとお召がかかるまでは、きっと遁世をよそおってよき日をお待ち申しておりまする」
そして彼は彼で、弟の師泰を切になだめた。ここは辱も我慢も忍ばねばなるまい、死一等を減じられただけでも僥倖とせねばならぬ、と。
師泰もまたいまはあきらめきッたふうである。すぐ連れだって近くの真光寺へ入り、髪をおろし、法衣に着がえ、笠、脚絆などまで請いうけて、
「さても、有為転変。おかしな姿をお互いに見たものですな」
と、相見て笑った。
すると一族の薬師寺公義がそれへ来てしきりに諫めた。
「約束はどうでも、先へ行けば結局、敵手にお身をまかせるしかない。はたして直義の禅門が心から憎しみを解いているかどうか。さらには越後の流刑先で横死した畠山直宗や上杉重能の家来どももいることです。彼らが怨みをすてるとは思われません。……むしろここには、まだ千余のお味方は残っていること。花々しく一戦をとげ、武士は武士らしく、御運命を決すべきではないでしょうか。そして大御所は、そのあいだにお姿を変えて、中国の赤松をたよってお落ちになるがよいかと存じまする」
だが、師直は容れず、師泰もまた、一笑に附して言った。
「公義、名よりは実だよ、当世ではな。向うに二重の腹があるなら、こっちも三重腹になって、幾変化でもして見せるわさ。生き抜いた方がさいごの勝ちというものだ」
「…………」
公義は、何もいわず、悄然と退がって行った。晩になると、こまかい雨になり、明朝はここを立つのかと思うと、師直師泰も、さすが心はおだやかでなく、剃りこぼった頭を寒げに、一穂の灯を無口に見合っていた。
そこへ寺僧が来て、ただいま、昼見えたお武家が、この一通を殿へとばかり言いおいて、暗い雨の中を、どこへともなく駈け去ッて行かれましたとのことに、開いてみると、それは薬師寺公義の筆で、ぶつりと切った髻と共に、文言はなく、一首の歌だけが収めてあった。
とれば憂し
取らねば
人の数ならぬ
捨つべきものは
弓矢なりけり
後に、この公義は、高野へ入って、僧になっていたことが世にわかった。けれど師直師泰のふたりにはもうこの歌が誘う真実なさけびもまにあわなかった。……まもなく、二月二十六日の春寒い小糠雨の朝は明けていた。
尊氏は魚見堂を出、敗残の兵千ばかりが、その前後にしたがった。──師直師泰も馬には乗ったが、いわば敵人へささげられる体であった。沿道の人目を恥じてか、蓮の葉笠を眉深にふせて、悄々と列の中に交じった。
蓮の葉笠とはどんな笠か。網代より深い椀形の紙の塗笠かもしれない。ともかく、師直も師泰もよほど人目をきらったとみえる。意識的に馬混みの間を行き、いつも尊氏の背が見えるぐらいな所にいた。
兵庫を出はなれると、はたして道の両側には敵兵の顔がたくさん並んでいる。「あれが執事だ」「あれが越後よ」という咡きが耳を刺す。尊氏の姿をさえ笑って見物している雑兵らなのだ。このみじめな敗北感は馬も知るのか、ぬかるみを行く無数の長い脛にも力がなかった。
武庫川の辺まで来ると、春の小糠雨は急に山からと海からとの風に掻きまわされて、痛いような水粒が笠の下へも吹きつけてくる。──師直の馬はしばしば物驚きをしてあと退去った。──「途中、お迎えの者どもでござる」「お送りに加わり申す!」などと口々に列の横から割り込んで来た鳶色一揆の騎馬隊があり、それらの者が立ちふさがって、尊氏と師直とのあいだをいつか十数町も隔ててしまった。
すると土手の片側から、徒士の中間者がふたり這い上って来て、やにわに槍をつきつけ、
「顔を隠してゆく奴は誰だ」
と、言った。いや、すぐもう一人の方は、
「笠をとれ。とらんか」
と、槍の石突きを逆に上げてぱっと蓮の葉笠を下から払った。笠は飛んで、頭巾だけのまるい頭がのけ反った。
「執事だ」
二人がともに叫ぶと、師直のうしろへ馬を寄せていた彼らの主人三浦左衛門が、
「やはり執事か」
と、長刀の振幅いッぱい師直を斜に薙ぎ上げた。が、それは顎をかすめ、師直は馬と共に刎ね躍ッて次の刹那に肩から胸へ長刀の光を咥え込むやいな絶叫を吐いて落馬していた。
「あら、うれし」
三浦は首を掻ッ切って、長刀のさきにつき刺し、大声で後ろの仲間へ触れ廻って行った。仲間はほかにも多かったのである。さきに越後で殺された上杉重能の子、上杉能憲の部下と、畠山直宗の遺臣たちであったのだ。
「や、や?」
師泰は、半町ほどおくれていたが、白い糠雨の異様などよめき立ちに、あわてて馬を返しかけた。そこを、吉江小四郎の槍のために、
「思い知れ、越後」
とばかり背から乳下まで突き抜かれていた。この首もすぐ中間どもの手で寄ってたかって掻ッ切られる。さらに、ずっと後方の鷲林寺門前では、高ノ一族の師兼、師世、師夏、師幸、師景など、みな武装は解かれていた身なので、ほとんど抵抗らしい抵抗もなしえず、すべて、みなごろしにされてしまった。
中でもあわれだったのは、師直すらがあの目を細めて可愛がっていた師夏である。母は二条前関白の妹君だった。十三歳であったという。
復讐の血に酔った上杉、畠山の両党は、凱歌のような雑言を揚げて、はるか後方から尊氏の列をさらに追い立てていた。尊氏の官能はほぼ後ろの変を知っていたろう。もちろん彼らの暴挙は、それの計画的であった点からみても、直義が黙許の下に行われたことだったにちがいない。
「今が満開だな」
と、尊氏がつぶやく。
答えるでもなく、直義は、ぽつんと言った。
「嵐山もむかしはただの山だった。こんな見事な花の山でなかった。昔といっても、人の半生にも足らないほどな歳月のうちだが」
義詮もそばにいた。
だが義詮はだまって酒杯をふくんでいた。二十二歳である。自身、自分を花と誇っている年頃である。
花見にしてはしめやかな宴であった。どちら側の臣もこの席には一人もいない。所は洛外の西方寺で花の廂から花の山が望まれる。──世良親王の河端ノ宮の遺跡に植え出したさくらがいつか花時には大堰川の水も小紋にして見せるほどな名所となって来た始まりであるという。
三月二十一日で、この前日には、三条河原で武家一般の犬追物が賑やかに興行され、二日つづきの盛事であった。
尊氏と直義との和解を、ひろく世間に知らせる意味と、大きな亀裂を表面化した武士どもの心を溶け合せようという目的もこれにはあった。
順序としていえば、前月の二月二十六日、尊氏は降人として、終日のぬかるみと小糠雨にまみれた姿で京都につき、夜、上杉朝定のやしきに入った。「──あたかも流人のようであった」とは、当時の状を目撃した路傍の人の声だった。
直義はそうでない。
彼はいまや兄の上にいる。執事の師直以下、高家一族を葬り去った快を満喫している勝者だった。彼は、尊氏より一日おそく八幡から入洛して、錦小路の自邸に入り、斯波、石堂、山名、桃井の諸将に囲繞され、なんとしても、威風りんりんたるものがある。
すぐ時局収拾の相談もすすめられた。しかしいまは直義が主体で、尊氏は従でしかない。
尊氏は、希望した。
「政務の主権は義詮におき、直義はそれを扶ける地位にあって欲しい」と。
直義は承認した。
尊氏は、もひとつ求めた。
「自分に附随して今日までひとつに来た将士へも、直義へ附いた将士と同様、すべてに平等な恩賞を授与してやりたい」
それも、直義は受けいれた。その代りに直義もまた一条件を尊氏に呑ませた。このさい正式に、直冬を九州探題にするということだった。
これで一おう和解は円満にまとまったといえる。内訌は一時的な紛糾にすぎない。幕府は微動もしない。今日の西方寺の花見の宴はよく世上にそれを映す意味においても心からな人と花との融和でなければならなかった。だが、尊氏の見る花、直義の見る花、義詮が見る花、みな違う。三者三様だった。杯も冷えがちに、ともすれば、どうしようもない白々しさが寒々とそこらに漂う。
「こんな日には」
尊氏は直義の横顔を見た。
「やはりあいつがいないのは淋しいな。そうは思わぬか」
「あいつとは」
「道誉だ」
「道誉。なるほど」
「それに師直なども、無事でいれば、今日など賑やかに振舞うやつだ。思えば武庫川の日から今日はちょうど二十五日目だな」
挑むものへ挑みを以て返すように、直義の眸は光った。
ふれたくない。思い出したくもない。尊氏にはよく分っているはずだ。それを何でこんな席で言いだしたのか。
「ご催促とみえますな」
直義は、兄の底意に腹が立って、わざと自分から話を露骨にした。
「師直、師泰の死から早や二十日の余もたっている。だのになぜ、下手人の上杉能憲を依然そのままにしておくか。それがお気に食わんのでしょう」
「いや、そんなつもりでもないが、しかし処置は早いに越したことはなかろう。和解の実を衆に納得させる上にも」
「ですが、あの日、武庫川に待って、師直以下の眷属を襲殺したのは、能憲の下知ではなく、さきに師直のために越後で殺された上杉、畠山の遺臣どもが、主の恨みをふくんで勝手にやったことだとか。事実、能憲はなにも知っていないのだ。罰しようはありますまい」
「なくはない」
尊氏の眸は、そう言う直義の卑劣さをあきらかに突き刺していた。
「師直師泰の一命は保障する。出家遁世の条件のもとに──と。それがこの尊氏と直義との間に結ばれた協定の一つではなかったか。──しかるに、能憲はわしとそちとの和睦に先だつ約束をまず第一に破ッた。そちがこれを不問にしておくのさえ心得がたい。あらぬ取沙汰がいつまで根を絶たぬのも道理。ここは賢明にその処理をとらぬと、すべてが嘘の始まりになる」
「よく考えておきましょう」
「む、考えてくれい」
西方寺の花見は味気ない散会をつげて昏れた。もちろん扈従の臣や公卿などはけっこうはしゃいでひきあげたが、なんといっても尊氏、直義、義詮の心から溶けきれない容子は、衆目にも映って、その一抹な危惧は、夕霞と共に都の内まで尾を曳いて行った。
まもなく。
上杉能憲は流刑になった。同時に、直義の厳命で、師直師泰の余党検挙が、各地の国元や洛内でその日から開始された。
すると、そのまた反動だろうか。
覆面の刺客なる者がやたらに跳梁し出してきた。一、二をいえば、直義が院参の帰り道を襲撃され、直義は難もなかったが、随身のひとりが斬られた。
桃井直常も同様な目にあった。彼は直義の邸を訪問して深夜を帰る途中だった。すべて何者のしわざとも知れないのである。
こういうふうで、直義と義詮との一体政治も、空念仏に過ぎず、むしろ両者は疎隔するばかりであった。六月の或る夕、直義が義詮を訪ねたが、なぜか時も措かず、すぐ門を辞し去ったことなどもあり、その不和はもう公々然な悪気流を呈していた。
都もこうだし、九州では、新探題の直冬と、旧探題の一色範氏とが、以後、九州を二分して、大合戦に入っている。
また信濃では、尊氏の党と称する小笠原と、直義方の諏訪とが、勝手な戦争をはじめてしまった。すべてたれの意志でもなく宇宙の雲間で振る魔のムチにうごかされてでもいるような憑かれた人々の妄動と不安にみえる。
その疑心暗鬼を、日がたつほど、いよいよ深めていたのは、尊氏でなく、なぜか直義と、その周囲の者たちだった。
それには、こういう例などもあったのである。
細川顕氏は、さきに尊氏を去って、直義方へ付いた一将だが、嫌いな執事の師直ものぞかれたので、尊氏の許へ、お詫びにと、会いに行った。
すると、尊氏は、
「降参人が旧臣の伺候を受けるのは畏れがある」
と言って、会わなかった。
顕氏は、ふるえあがって退きさがったということが、洞院公賢の日記にみえる。公卿にさえ聞えたことなので、一般の武士間にもひろまった話なのであろう。いかに彼らが心底ではなお尊氏を恐れ、そして直義との実力差を、暗に見くらべていたかがわかる。
直義は焦躁し出した。自分の位置の不安定感が日と共に事実化されてくるのが分り出してきたのである。
重荷もあった。
南朝方への帰順と降伏条件の交渉だった。それの懸案も苦しかった。
だが直義は主張をかえない。
「両朝合体のうえは、どんなお望みも容れましょうが、ただ政権だけは従来どおり、武家へお委せねがいたい」と。
もしこの一箇条をくずしたら全武士の支持は幕府から去るだろう。直義個人の存立もおぼつかない。
もとより南朝側の欲するところも、後醍醐いらい変らないそれにあった。もつれるだけで成立のはずはなかった。
尊氏は、この交渉を、黙って見ていた──。
北朝の朝廷でも、内々この合体はよろこんでいない。武士に不人気なのはいうまでもなく、直義の姿にはようやく孤立の翳がさしかけていた。
そんな時も時だったのである。尊氏は俄に、
「あれいらい、佐々木道誉は、近江にこもって、義詮の召にも応ぜず、ひそかに款を南朝に通じて、事をたくらむとの噂もある。奇ッ怪な二た股者」
と、呼号して、とつぜん、近江へ向って出陣した。兵はそう多くもなかった。しかし、兵を石山寺にとどめて、伊吹の道誉と、即日、何やらしきりと使者を交わしており、どうも事態はただの譴責や合戦に入るもようではないとある。
それいぜんに、また。
義詮のそばにいた土岐頼康、細川頼春、仁木義長、義氏、赤松貞範なども、帰国ととなえて、次々と都のそとへ去っていた。──つづいて当の足利義詮も、陣装して、何の故か、
「播磨へ行く」
と号し、播磨へは行かず、洛外の東寺に陣取った。
いってみれば、尊氏義詮の父子が東西にわかれて、都の出口をふさいだ形でないこともない。──七月二十七日から三十日朝までの急変だった。──直義にぞくする諸将の党が、俄然、大動揺をみせたのはむりもない。
彼らはぞくぞく錦小路殿へ駈け集まった。斯波、桃井、上杉、山名、畠山、諏訪、宇都宮など名だたる武将どもである。度を失ッてはいなかった。むしろ望むところと今日の驚愕を受けとった風でもある。そして即刻にと、直義へ北国落ちの勇をすすめた。深夜の丑満(午前二時)、直義はついに大原路から京都の外へ落ちて行った。──いや、それらの叛骨と野望しかない武将どもに、拉致されて行ったとも見える急だった。
直義の脱走を、尊氏は石山寺の出先で聞いた。そのとき彼は多少の閑でも心にあったのか。短冊を手に何か書きかけていたが、立騒ぐ周囲を見て「すべては運命というもの。俄に何の用心やある」と、慌てた風もなかったという。すでに予期していたのかもしれなかった。
それで麾下の将士はおちついたが、ただ佐々木道誉と尊氏とがこの数日交わしていた懸合い事は何だったのか。むずかしいわだかまりにもみえ、なんの苦もなく解決されたことにも思われ、たれにもそれのみは分らなかった。だが元々、鵺の道誉の本性は尊氏がよく見抜いてい、尊氏の矛盾だらけな気の弱さや大ざっぱな特質も道誉にすればむかしからつきあい好い男として来たものである。あるいは両者の八百長かと、この交渉を感じとっていた者もないではない。
疑えばそうとも取れよう。尊氏は報を知ると、
「都はガラ空きか」
と、苦笑して、
「すぐ引き揚げずばなるまい。直義をかつぐ大名どもにも困ったものだ」
と、すぐ洛中へ帰ったのだった。直義がとはいわず、直義をかつぐ大名ども──と彼はいう。弟を敵とみるのが嫌なのだ。
「おそらく直義の本心ではあるまい。直義に会ってよく話せ。何が不平か、何が不安か」
帰京第一に彼が打った手は、細川顕氏を直義のところへ使いにやったことだった。
が、これはもう遅すぎた。
覆水盆ニ返ラズ、というものである。
どう憎んでも別れても骨肉同士はなお絆と本能の苦悶を持つが、周囲には生木の裂けた苦痛はなかった。与党の大名らにすればこんどは自分らの一生も賭けた決裂なのである。いちど割れたものが寄って、しいて和解してみても、一たん敵味方と睨めあった人間の心に入ったヒビは、しょせん、そう一朝には元のひとつになれないものだという経験もしてきたあげくの再分裂であったのだ。
「おくちに乗ってはなりますまい。諸政はまかせると仰せられながら、執事師直をあのように利用されたことでもわかる。まして今は、義詮殿がいます。何で最愛なものをさしおいて、弟のあなたに、政務や後事を以後お託しになりましょうか」
桃井直常をはじめ、斯波高経も上杉定朝も、口をきわめて、直義を諫止した。──直義も帰る気はない。すでに越前の金ヶ崎城に入って、自分の行動は遠近にひびいている。また、響きに応じて、加賀の富樫、能登の吉見、信濃の諏訪、そのほか、事を好む豪族は、みな彼が尊氏から離れたことを惜しむよりは歓迎していた。
車軸はもう廻り出している。直義にも制御のつかない勢いだった。気勢は正面を切って、尊氏を敵とし、あらゆる布陣と手を打ちはじめた。
朝廷をそそのかして叡山へ動座をうながし、北朝のみかどを越前へ迎え取ってしまおうなどの策もすすめられたが、しかしこれは尊氏の阻止で失敗に終った。──尊氏もまたもう状勢を坐視してはいられない。彼は彼のうごきに出ていた。
八月七日。
尊氏は、法勝寺の恵鎮を賀名生へやった。南朝へ降を申し入れた重大な使いであった。
「こは?」
と、南朝方でも一驚を喫した。尊氏は困っている。内も破れ外も乱脈だ。弟にさえそむかれて絶体絶命な窮地にあると、ここでも観ていたところだが、
「それにせよ、尊氏が?」
と、この申し出でには、賀名生の朝議も、慎重をきわめた。そして朝議はこれを「拒絶」と決めた。もちろん北畠親房が主唱である。ここにはまだ統率の制が厳として生きていた。親房の手のうちもまた細かい。親房は言ったのである。
「先には直義が兄へ弓を引く名分上、偽って南朝へ降った。そのまずさを見ながら尊氏までがまた帰順を申し出てくるとは、よくよくか。または、さしも彼ほどな男だが、そろそろやきが廻って来たか。……いずれにせよ、突っ返してもまた、再三申し入れしてくるだろう。断は、そのときにしても遅くない」
使いの恵鎮は、事成らず、都へ帰ったが、もうそのとき、尊氏は京都にいなかった。
地方は地方で、中央の分裂にこたえる谺のように、諸所で小合戦を起している。丹波、但馬、伊勢ざかい。──その伊勢から甲賀へ打って出た石堂、仁木の党は、直義の党と合して、佐々木一族の六角信詮を観音寺城に攻めて殺した。──この狂瀾に尊氏もじっとしていられず、自身、近江へ駈け向っていたものだった。
八相山(浅井郡)の二日間は、尊氏対直義の骨肉戦が、その皮を切り血を見せだした序戦の衝突として最も凄惨ないくさであり、両軍ともに大きく傷ついたが、結局、直義の党はやぶれて北へ逃げ退いた。
この機に、また和議の声が、いずれからともなく呼びかけられた。
その声の出どころは、たとえば細川伊予守元氏のごとき侍の声だったろう。伊予守は、
「ばかな血みどろだ。戦場に出てくる顔は、みんな多年の友人ではないか。親しいほどでなくても足利家という大きな屋根の下で一つ釜の飯を食ってきた奴らばかりだ。どうしてそいつらと戦わねばならぬのか。意味はない。畜生の喧嘩だ。おれにはそんな弓は持てぬ」
と、単独で西へ帰ってしまったのである。そんな武士も居たには居たのであり、しぜん講和の兆もあったのだった。
しかし、概しては両軍共に「諸将、コレヲ欲セズ」だった。で、細川顕氏や畠山国清らの奔走で、せっかく直義が敦賀から近江の新照寺大御堂まで出て来て、親しく尊氏と和談をとげるまでの運びになっても、それはまた冷たい物別れを見てしまった。──直義のそばに付いて離れぬ桃井直常や強硬なるほかの猛者どもが、和議をよろこばず、事ごとに話をくつがえしてしまったものである。
顕氏と国清とは、それに怒ッて、以後は尊氏方へ、はっきり寝返ってしまった。元々、同身の分裂である、つねに離合の定まりもない。
ことし七十七の夢窓国師が、この九月三十日入寂した。
尊氏はそれも近江の陣で知った。半生の導師、直義にとっても貴重な師。
ひとつの緩衝地帯であった師直が亡くなってからの尊氏と直義の間は、何事もすぐ直接な火花や事の激突となりやすかった。ただ毎々、夢窓国師の斡旋が兄弟のあらそいを解いてくれた。が、そのひとも今はいない。
「…………」
尊氏は救われざる愚昧な弟子の身を、陣中で、師の訃に詫びたことであろう。あんなにも師の鉗鎚にたたかれてきた禅。毛穴の一つにもそれが体悟されていただろうか。恥かしい。
もう何もかも捨てよう。何もいらない。そう思う。
業の深いこの一個の凡身などは山林に余生をかくして末は鴉に食わせてしまうがいい。
深夜、尊氏はうなされるほどそう思う。だが、昼の陣座は彼をまったくべつな人間にした。むしろ時々彼の胸に忍び入る彼の真実のたましいを、その人間の両脚は摩利支天みたいに踏ンまえている姿だった。それが征夷大将軍大納言尊氏であり、それに付きしたがっている眷属たちはまた決して彼の独自な生きようはゆるさない。彼によって死に彼によって生きていた。さらにはまた、世の中をこんなかたちにまで荒した張本人は尊氏ではないかと、彼の虫のいい隠棲のねがいなどは、山林の松柏もゆるさじと吠え拒むもののように見えた。そしていつも尊氏の官能にはその怒れる山林の声が蕭々と背に聞えているのであった。
十月の末である。
尊氏の願い出た降伏は、吉野朝廷に容れられた。
三度目の請いだった。彼は直義のように武家政権を固執せず、天皇親政に服すべしと申し出ている。けだしそれが尊氏の本心とは、南朝方でも信じなかった。尊氏もまたこれは窮極の窮策にほかならなかった。こうした無恥な仮面でも仮面を持つほか今はあがきのつかない破目に彼はあったのだ。
一方。
そのごも直義との和談には、つねに心の揺れうごいていた尊氏でもある。
だが直義は、いよいよ、尊氏の足もとを見くびった。いかにとはいえ、いまさら親政を仰いで南朝の天子に降るなどは、頭がどうかしたものである。自分の立てた北朝の天子はどうするのか。第一当初から謳って来た武家統治の自己の理想は一体どこへしまい込むのか。
「血迷われたか。はや大御所も昔日の大御所ではない」
こう観る直義方の驕慢は日につのッて、仲に立って、なお和睦に望みをかけて奔命していた細川顕氏や畠山国清のはからいなども冷視しながら、徐々に、北陸の大軍を、何の目的か、東国方面へ移動させ始めていた。そして直義もまた敦賀を発して、信濃に入り、ひがしへ向ったとの風説が高い。
「ああ、もうだめだ。百事これで終った」
顕氏と国清のふたりは、和睦の不成功に辱じて、尊氏に暇を願った。国元へ引っ込んで、剃髪したいというのである。
尊氏は、二人へ言った、
「羨ましいなあ。そちたちにはそれも出来るか。だが尊氏には、口に出すこともできぬ」と。
尊氏は一たん京都へ戻った。
東国への発向を急がねばならない。直義が北陸からひがしへ移動した目的は明白である。鎌倉に恒久的な地盤を固めようとするにあろう。もし関東一円が直義方となったら尊氏の中央の位置は浮いてしまう。一大事である。尊氏はめずらしく慌てたのだった。
いちどは暇を願っていた細川顕氏も畠山国清も、このさいの窮状を見てはつい去りも得ず、尊氏と共にその日から難局の打開にあたり出した。
時に、吉野からは南朝の勅使も入京している。
勅には。「一切を聖断に仰ぎ、親政に服すとの申し出で、神妙である。一日もはやく時局の騒乱を治めて、忠節の実を挙げよ」と、ある。
なおまた、直義討伐の綸旨もあわせて降下された。後村上のおん名である。
しかし勅の裏には、北畠親房の智謀の匂いがこもっている。尊氏はつつしんで請文をたてまつった。親房は尊氏を読み、尊氏は親房を読んでいた。
「義詮は都の留守せよ」
十一月十四日、尊氏は、ひがしへ立った。
細川顕氏と仁木頼章を義詮のため都に残し、あとにも兵をおいたので、その軍勢は多くなかった。今川の入道心省、畠山阿波守兄弟、武田陸奥守、二階堂山城ノ判官、千葉ノ介など七、八千をこえていず、とうてい、勝算があるものとは見えなかった。
しかし伊吹では、佐々木道誉が兵五千を擁して加わった。がぜん、万を超えたのである。尊氏に次いで道誉の姿は精彩を放った。海道の日和見武士のうちには、道誉の参陣を見てから寄って来たものもある。彼の向背にさえ注意していればおのずから勝目の孰れかが分ると自己の去就の卜としている武族も近ごろは多かったのだ。
一面、信濃方面では。
信濃の小笠原政長が、直義の鎌倉入りを途上に妨げ、もう合戦に入っていた。
その政長の軍は、吉良満貞を討って海道へ伸び、佐夜の中山でもまた、直義の先手上杉憲顕を打ち破った。
「よしっ、幸先は上々!」
尊氏は言った。敵は弟である。どうして昂然とよろこべるのか。しかしもう自己を疑うゆとりはない。勝つことだけがすべてであった。陣は駿河の手越に入った。すると駅路での噂だった。──直義はまだ越前にいて動いていない。京都が危ないという風説なのである。
「嘘だ。流言にすぎぬ」
尊氏は後ろ向きをしなかった。それがほんとなら引っ返しても間に合わぬ。彼は、敵の術策を裏返しに、岡本坊の良円を、はるか東北へ密使に放った。
常陸の佐竹、野州の小山、白河の結城、宇都宮などへ、出兵をうながし、北方からの攻囲を命じたものである。
事実、直義はもう鎌倉に入っていた。そして管領の基氏(尊氏の次子、十歳)を追い出してそのあとに拠っていたのである。
しかし彼の軍は、由比、蒲原で破れ、富士川でも全敗した。直義はついに鎌倉を出、足柄山の険に立った。彼の形相ももう以前の直義ではまったくない。
直義の敗因は、東国の情勢を中央とおなじように自己の意志で動くものとみていた誤算にある。
だが、関東諸豪の間では、まだ何といっても、大御所尊氏の声望はそう失墜していない。
それにひきかえ錦小路殿といっても、恵源禅門とか前ノ副将軍といってみても、直義の名はとうてい尊氏を凌ぐほどな声威にはなりえなかった。
これを彼がさとった時は、宇都宮、小山、高麗などの思わぬ敵襲をうしろに聞き、また甲斐方面や海道筋には、富士川からこっち支離滅裂となった味方のなだれと、それを押して来る尊氏の本軍を見るなど、三方敵の重囲にあったのだった。
それに、いちど鎌倉を追われた管領勢も盛りかえして来たし、直義方がいたる所でやぶれたのは当然といってよい。──直義は足柄を駈けくだって海道の救援に向ったが、しょせん、味方の収拾はつかなかった。
「このうえは箱根に拠って」
いまはみじめな敗走をつづけ、さいごの拠点を必死にさがし廻る一法師武者直義だった。しかし桃井直常、石堂頼房、上杉憲顕、そのほか、味方は四散したままで、すでに箱根は敵にふさがれていた。
ぜひなく、直義はわずかな残軍にかこまれて、伊豆へ逃げた。伊豆口の三島には尊氏方の仁木義長の軍勢が混み入っていたので、箱根の西裾をたどって北条の里へ落ちのび、小寺や民家にわかれて匿れ込んだのである。しかしすぐこれが尊氏方へ知らされたことはいうまでもない。
自刃か。斬り死か。
観念のほかはない。直義は妄動の愚を知った。
だが、ここの遠くをとりかこんだ大軍の気配は充分しているのに、急にこれへ襲って来るふうでもなかった。──年暮の十二月二十九日からのことですぐ正月をまたいでいたのである。──生殺しの三ガ日だった。仁木義長が尊氏に処置を仰いでいるものだろうとの想像はつく。
はたして、正月の四日。
畠山国清が尊氏の使いとしてみえた。尊氏の親書を持っていた。和談の名目で来たのである。
「何はあれ、連れて来いと、先に鎌倉へ入って、お待ちなされておられます」
と、彼は尊氏に代ってその口吻のままをつたえ、
「これが根からのあだがたきとでもいうなれば知らず、御兄弟ではありませぬか。お話し合いのつかぬことはありますまい。国清がお供いたしましょう」
と、切になだめた。
兄弟とは何だったのか。直義はふとその常識的な意味のあり方に引きもどされた自分を強いてまた硬ばったものにしていた。自分から両手を後ろに廻して嘯くように言ったのである。
「連れて行け。国清」
「いやお縄などは打てません。またそんな御意ではない」
「わしは負けたのだ。だが断わっておく、降人として行くのではないぞ」
「わかっておりまする」
直義が鎌倉に着いたのは六日である。身柄はすぐ鎌倉の延福寺へ入れられた。
ただ事の京都ではない。この年暮から正月──。
両朝合一で賀名生の後村上天皇が還幸となれば、さしずめ、北朝は解消のほかはあるまい。
それの前触れのように、南朝方の全権をになって乗り込んできた中院具忠は、
「三種の神器、壺切の御剣、代々の文書、すべてを差出されよ」
と、北朝の洞院公賢へ要請して、ことごとく、それらを取上げてしまった。
元々、ここにあった三種の神器は偽物と知れているので、扱いもぞんざいをきわめ、駕輿丁の小者や武士らが鳳輦で無造作にかついで行った──と公賢自身の日記にも書かれている。
しかし、北朝祗候の公卿たちの狼狽は目もあてられない。かれらは同時代の武士のように、変節や裏切りを朝に夕べにするほどな胆太い厚顔無恥ではなかったが、事、こうなるとじっとしてはいられず。
「いまは」
と保身にあわてて、年暮から初春の極寒を、賀名生の奥へ、そして、みかどの御母新待賢門院へ、とくにまた、北畠親房などへ、ごきげんをとり結ぶべく、われがちに上って行った。
ために、賀名生の山中は、にわかに聚落をなして、そこらの辻堂や賤の小屋まで幔幕を引き、はや一統の朝廷と群臣の綺羅星はここに在りとばかりな盛観であったという。
自然、親房の声望は一ばい高く、彼みずからは法衣の宰相で剣も帯していないが、つねに鬢頬に花を簪した大童子を左右にめしつれ、宮中の出入には輦を用い、日夜、軍議のていにみえる。
もとより彼は尊氏の恭順などにすこしでも本来の戦意を鈍らせているものではない。相手の偽装降伏は百も知ってのうえの戦略だった。つまり尊氏を東国に、義詮を京都に、それぞれ分断して同時に誅伐する両刃のはかりごとを考えていたのであった。
いわば尊氏と親房とは、どっちも腹を読み合って嘘と嘘との駈引を天下の機動に託しあっていたものであろう。品はちがうが、それは情痴の世界の男女が、女は男を、男は女を、あやに取って、しかも知りつつその間の嘘も小唄の絃にのせて、秘術と手くだの粋を極めている境地とも似るといえばいえもしようか。
だまされて
ゐるのが遊び
なかなかに
だますおまへの
手の巧さ
水鶏啼く夜の
酒の味
けだしそれは人生の夕明りみたいな近世花街の小戯。もちろん親房のは、もっと大時代な兵法の手くだである。虚空の軍鼓と地の波濤を、坐ながら呼ぶような彼の作戦構想は、例によってすこぶる大きい。
宗良親王はいま信濃にあり、新田義貞の遺子や脇屋義助の遺臣も、坂東の野に伏して、時節を待つこと、すでに久しいものがある。
一令、みちのくの兵も起ち、南下して、尊氏を関東の野につつむ。
留守の義詮は、畿内の兵で充分討てる。それに先だって、後村上天皇は賀名生の行宮を立たれ、都へ還幸の鳳輦をすすめる。等々、親房の指令は、九州にまでおよんでいた。
二月に入ると。南朝方の畿内の兵馬が急にそよめき出していた。
伊勢の北畠顕能の軍は大和の五条に着き、楠木正儀は東条に拠って、八幡、天王寺あたりの動きもただではない。
後村上天皇は、賀名生を発輦されたとも、まだともいわれ、いずれにせよその親衛軍を前駆に、近く都門へ還幸あるにはちがいない──
当然、足利義詮は、尊氏の心をうけて、都の留守にあたっているが、降参恭順の臣である。つつしんでそれをお迎えせねばなるまい。だが南朝の軍勢が、とくに親房が、はたして、それをそっとしておくかどうか。
義詮は不安だった。
いざとなってからではまにあうことではないのである。──どうしたものか? を彼は父尊氏の許へ、頻々と、早馬していた。
しかし、その鎌倉がまた混沌で、京都をかえりみている余裕はなかった。尊氏は管領の邸に入ってもう五十日ほどは経過していたが、一月いらい、心の安らいだ寸刻もない。
直義方の桃井直常や斯波、石堂、上杉らの党は、そのご残兵を集めて、延福寺に幽閉中の直義の身を奪回しようと計っているし、宮方の新田義宗、義興、脇屋義治などの軍は、打倒尊氏の大旆をひるがえして、その郷土郷土からふるい立ち、信濃の宗良親王軍も、ぞくぞく碓氷峠を南へくだっているという。
鎌倉にこそ入ったが、そして直義をも捉えはしたが、尊氏自身もまた、みずから掘った坑にひとしい重囲に墜ちていたのだった。
「義詮が危ぶまれる」
尊氏は、たまらない親心を、道誉に洩らした。
一面には直義との相剋を抱え、それみずからの凡情にみずからをズタズタに切りさいなまれている彼の容子が、道誉にもこの数日はあわれに見られていたほどだった。
「即刻、道誉が都へ駈け戻りましょう。すてておけば北畠親房の思うつぼにはまるだけのもの。猶予はなりますまい」
「それよ、そこを頼みたかったのだ。誰をやるよりそちならば心丈夫と」
「しかし、ここのお立場も容易ではないが」
「いや、ゆうべ一夜じゅう考えぬいて、思案はついた」
自信をしめすように尊氏は語尾をつよめた。伴っていた微笑は微笑にならない顔に歪みを作っただけだった。いつも気にならない尊氏のうすいあばたが、一ト粒一ト粒、こんなにも道誉の眼に哀しく見えたことはなかった。
「打開の御工夫がつきましたとな。いや、それ伺えば」
と、彼の一軍はその日にもう西へ立って行った。彼には、そのあとに起るであろうことが、どんなことか、ほぼわかっていた。
そう道誉にも看破られていた尊氏の気の弱い顔の暗さは翌日までもつづいていた。どこか体の病症でも感じているのか、物に憑かれた人のようでもあった。そしてこの日も、戦局の危急を告げてくる声はしきりだったが、何か落着きを欠き、それの指令すら忘れているような尊氏だった。
いつか午後となっている。急に彼は小姓をやって、延福寺の警固の将をよびよせていた。
呼ばれたのは、二階堂信濃ノ入道であった。彼は、延福寺におかれている恵源禅門(直義)の警固役の責任者であり、毎度のこと、尊氏からは直義の起居、食事、健康上の容子を訊かれるのがつねであったから、きょうもそれかとばかり心得て、
「信濃にござりまする」
と、いつものごとく管領邸の庭へ来てぬかずいた。すると廊の上に見えた尊氏は、黙って顎を横に振って、すぐ自身から先に縁を歩いて行った。で、彼は少し勝手ちがいに戸惑ッたのみでなく、尊氏のいつもにない恐い顔つきも、ふと気にかかった。
小壺(中庭)のうちの日当りわるい一室に尊氏はもう坐っていて、信濃を見るとただ一言「……上がれ」という。依然、尊氏の容子が信濃には異常だった。
それにこの日にかぎって、直義の細々しい日常事は何も問われず、ただひとつ訊かれたのは、
「頑なは、あいかわらずか」
と、尊氏の口から一ト言出ただけでしかない。
直義の頑なと尊氏がいった意味は、信濃にはそれだけでわかっていた。──直義の延福寺生活はもう五十日にもなるが、それは虜将にひとしい扱いだったので「約束がちがう」と初めから直義の感情をひどくこじらせてしまっている。
だからそれ以後、尊氏の胸をおびた者が、どんな慰撫をこもごも持って行っても「なにが和談だ!」と、あたまから受けつけもしないのだった。尊氏としては、こんどに懲りてふたたびこんなことの起らぬような、いわば直義のほんとの出家遁世を強いていたものであったから、直義が承服しないのもむりではない。逆にこれまでの不平をぶちまけて、兄の虚偽、不信、非情、卑劣をかぞえあげ、その罵るときはこめかみに筋をふとらせ狂者にまごうものさえあるとは、使いに立った畠山や今川もいう毎々なことばであった。
その直義が何としても屈しないのは、ただに骨肉の憎悪や甘えだけでなく、なお自分には多くの支持者があることを強く信じていたからであるらしい。事実、尊氏の幕僚中にもそんな気脈がないといえず、機会さえあればいつどんな逆変を現すかも知れないので、尊氏はそれも恐れた。そしてどう自由を奪ってみても延福寺に呼吸している一個の骨肉が何とも不気味でならなかった。しかもその処理は自分を措いてはする者がないのである。
「お変りもございませぬ」
信濃は答えた。
充分な答えでないのは彼も承知だろうが、家臣として、多くは口にし難いものらしい。
「信濃……後ろを閉めて、もそっと寄れ」
「はっ。……?」
あとは、主従の声の端も聞えなかった。しかし、それもそう長い間ではなく、まもなく信濃は小壺を退がって、管領邸を出て行った。
まだ夕陽は高く、途々、彼の姿へ会釈する者もまま多い。だが信濃はそれに気がつかないのか、往々、ぽかんとして馬をやっていた。何か尊氏の憑き物を彼が背負って帰ったふうにも見える。──そしてその晩の真夜半すぎ、信濃は、ふたたび尊氏の寝所の小壺へ這うように忍び入っていた。
尊氏はまんじりともした容子でなく、信濃ノ入道が中庭に来て立った気配を知ると、すぐ寝所を抜け出して外に立った。
当然、宿直たちの影がすぐ「……あ、どちらへ?」と、あとを慕って来そうにした。信濃は彼らの怪しみ顔を、叱ッと抑えて、
「御危篤なのじゃ」
そして、もう一ト言。
「俄なことでお気もそぞろだ。なまじお供はせぬがよい」
表御門でも彼はおなじことを触れ、そして門外の駒に尊氏を乗せるやいな駈けだした。
靄のやわらかな春暁だが延福寺の屋根の下はまだ夜半の気配だった。墨のような長い廊下を途中で曲がって小さい灯が一ツ風に恟じながらおどおど奥へすすんで行く。かがみ腰に信濃が持っている紙燭であった。
立ちどまる。
信濃は尊氏を振向いた。
「ここでござりまする。ここが長の間の、お座所におざりました」
そして御堂建具の重たい遣戸を二尺ほどそっと開けた。
尊氏は無言のまま紙燭を受け取って「外にいよ」と命じ、また「そこを閉めよ」と言った。内は天井の高い中広間で、小さい灯影の及ぶところ、何もない。
ただ白い夜具と白い枕とが、しいんと、虚空の底の物みたいにあるにはあった。枕は落ちて、行儀を外し、衾はその下に何もないかのようで平べッたい。
「…………」
何か言ったのではあろう。尊氏の眉も唇も稲妻のように引ッつれた。だが、膝の関節がささえきれずにその体を先に崩してしまっている。そしてふるえる手がもう意志でもなく夜具の襟を剥くっていた。下に、顔があった。変りはてた直義の青白い顔だった。唇の端から糸のような血は見えるが苦悶したらしい痕はない。ただ落ちくぼんだ眼窩のへんには、なお四十七歳の肉体から袂別しきれぬかのような生の執着が薄青ぐろく煙っていた。
「しかたがなかったのだ、こうするよりほか!」
おまえが悪いのだと弟へ怒ッているような尊氏だった。自己への怒りと呵責なのかもしれなかった。そう言ってふとんの端を手から離して、もう二度と見る勇気も別れの惜しみもないようにその手を憮然と胸に拱んでしまった。ゆうべ信濃をして弟に鴆毒をのませたのは兄の自分である。責められるだけ責められよう。尊氏は首をふかく垂れ、自分に許容できるかぎりの罪のしもとを滝の下の一裸身みたいに浴びていた。涙は一滴も出なかった。しんしんと、肉が凍え、骨が冷え、五体もばらばらになり、その極みには、かっと熱くなって、血があたまへ逆流するのが分ってくる。
「つまりは、ひとでなしよ」
自分を嘲って、
「そもそも、ひとでなしでなければ、成就もせず、思い立ちえぬような大望をいだいて立ったのだ。いまさら何を」
と、しいてその眼を、壁の一方へそらした。
脚長の香炉台のうえに、床間掛けの横物が見える。尊氏は紙燭を手に立って顔をよせた。その一、二行でもすぐわからずにはいられない物である。家祖家時からの鑁阿寺の置文だった。
尊氏は灯をかざして「はて?」と壁の掛物にむかいあった。
これが鑁阿寺の置文なら、世にありえない物があることになる。むかし、鑁阿寺の秘篋からとり出して実物を一見したとき、彼はすぐそのあとで、焼きすててしまっている。あるはずはない。
ところが近年、それを錦小路の邸で見せられたという者がままあった。今川了俊も言い、二階堂や山名なども見たという。思うに、鑁阿寺から副本(写し)か何かをとりよせ、直義がひそかに愛蔵して、一味の重臣に誇り語っていたものであろう。
尊氏はそう解釈してみる。
そしておそらく直義は、戦陣の日も、これを肌身に持っていて、ここの延福寺では、寺僧か誰かに、掛物に仕立てさせ、朝夕、壁にかけて見ていたのではあるまいか。
「……いや?」
そうではないかも知れぬとも思う。直義はこれを用意しておいて、自分が延福寺へ見える日を、いつかはと、ひそかに待っていたのではないか。
家祖家時公の置文を前に、この尊氏へむかって、大望の初志から、兄弟して旗上げにいたるまでの苦労や誓いを「──いまはお忘れか」と大いになじるつもりでいたものとも思われる。
まさに、この置文の前で、弟に面罵されたら、一言もない。──その遺言は告げているのだ。わが辱を雪げ。わが家の家名を上げよ。また、足利家の名をもって北条の幕府に代れ、と。
家に伝わる家祖のそんな遺言があるのを知ったのは、当時、兄弟ともまだ二十歳がらみのころだった。茫々、三十年ぢかい前だった。
若い激血は祖先の悲痛な文字にふれて痛涙したものである。異常なそのときの感奮は長く忘られるものではない。大望の誓いに兄弟で抱き合って泣いた日のことも昨日のごとく覚えてはいる。
──しかし三十年のむかしだ。人間は育って行った。理想と現実とのいかに違うものかを、いやというほど社会の修羅の中で、じっさいに知らされてきた。
置文は、彼にとって、動機ではあったが、もう終生の信条ではなくなっている。置文の主が生きていた時代とは時勢そのものがちがっている。尊氏はとうに置文を越えた〝時〟の尖端に立って現在と未来の間に戦っていた。古くさい置文などは胸の隅にも持たない時代の権化なのである。
「……が、弟は」
たまらない憐愍がわいて彼はまた直義の枕元に坐り直した。弟は自分のように狡くなかった。なお置文をたましいとして持っていた。自分はとうにただの古文書としていたものを、弟は純な初志と信条を離そうともしなかった。兄弟の葛藤の根はそこから来ている。そこで毒を呑ませて根の一方を兄たる自分が殺したのだ。ひとでなしでなければ出来ない。そしてまた、これからかかって来るであろう一生の仕事もまた、ひとでなしでなければ出来ない。それが尊氏の宿業なのだ。「……かんべんしてくれ」と、彼は初めて、直義の薄べったい体を、白いふとんの上から抱きしめた。若き日、口喧嘩のあげく、大蔵山の崖で取ッ組んだあとで泣き合ったときのように体じゅうで慟哭した。
夜が白む。尊氏は、そっと帰った。彼が延福寺へ来たことも帰ったのも、警固のほとんどは知っていない。
信濃ノ入道はすぐそのあとで、直義の遺骸はきれいに処理させてしまった。そして同朝、寺門のまえに兵を集めて、こういう発表を行った。
「恵源禅門直義公には、かねがね黄疸をわずらわれていたが、昨夜、事俄におかくれになった。お年もまだ四十七。惜しいことであられた」
兵はしゅんと聞いていた。
が、だれもがすぐ思い出していたふうである。昨夜といえば二月十六日。──前年の同じ二月十六日には、高ノ師直、師泰以下が武庫川堤で惨殺された。その一周忌だ。妙な符合もあるものだ、と。
「因縁。おそろしいものだな」
「因縁といえば、建武の年、直義さまが大塔ノ宮を殺めさせたのも、所はこの鎌倉だった。ここでお果てなされるとは」
衆口は、やがて言い出した。
「ただの御病死ではない」
「毒殺だ。無残な殺し方もなしえず、兄君の将軍家に一服盛られたものらしい」
こんな声が立つ所にも、尊氏と麾下の軍そのものとの内部的な亀裂が見える。直義党の残党と通じて、いつ寝返るか知れない者が、なお鎌倉の内にはいる証拠と見てよい。
尊氏はそれも知っている。彼は憔悴しきっていた。毒を呑んだのは尊氏自身であったようだ。
京都の留守も気がかりだし、外には大敵がせまっている。新田諸党のみか、北畠顕信(顕家の弟)の奥州勢も、はや白河辺まで来たと聞え出していた。
閏二月のすえ。
尊氏はついに鎌倉を捨てた。
三浦高通や二、三の武族は、はたして、内から敵を迎え入れて、尊氏を外へ追った。──尊氏は武州の神奈川へ落ちのび、船で房総へ渡ろうかとまでの覚悟をしたが、なお彼を慕ってくる軍はあとを絶たず、仁木、今川、大高、二階堂など京都いらいの将士二、三千は集まった。尊氏はそれに力を得、多摩の府中へ進出した。しかも兵は日々ふえて行った。尊氏の名はまだ東国でそう落ちぶれてはいなかった。
しかし、新田義宗(義貞の三男)の大軍とぶつかって、尊氏はその序戦に惨敗した。金井、人見の原の合戦にもやぶれた。こんなとき、彼はさいごの物までは賭けない。陣を石浜(青梅線の多摩川原)に移して、甲州、相模、武蔵の兵をさらに糾合した。そして次の戦略を慎重にした。
このあいだに、宗良親王の大旆は、碓氷から武蔵の小手指ヶ原に着き、新田義興(義貞の二男)と脇屋義治(義助の子)を両翼とし、ほとんど武蔵野を風靡していた。
が、尊氏はこれを、数日のまに、討って討って撃ち破った。
奥武蔵の高麗一族をしてその背後を驚かせ、また芳賀貞綱の勢を川越から。武田、薬師寺の軍を狭山から。およそ三面から総がかりで寸断したものとおもわれる。
この一戦は「太平記」に〝笛吹嶺ノ合戦〟として有名である。だがほんとは、多摩、入間、高麗の三郡にかぎられた地域の戦いであった。碓氷峠や三国峠はただ宮方勢が敗走して行った山波の彼方であったまでにすぎない。
すべて東国各地の戦いも、その令は、吉野の軍師親房から出ていたものにちがいない。
しかし令使は遠すぎる。受ける方ではどうしても、準備不充分な急出動となりやすい。
そうとでも解釈するほか、武蔵野の場合では解きようのない宮方の大敗だった。これで関東における計画はまるつぶれとなった形である。はるばる来た奥州勢もむなしく途中で引っ返してしまい、新田、脇屋の諸党も四分五裂、とくに宗良親王の軍は、碓氷の彼方へ、遠くその残影を再びひそめてしまった。
この宮こそは、好まぬお手の弓だった。いつか四十二のお年を風雲の中にかぞえられたが、自著「李花集」の歌のかずかずにも窺われるように、性はまったく文雅なおひとであった。信濃では「信濃ノ宮」と人みな申し上げて、大川原の香坂高宗の館に多年お身をひそめておられたのだった。
信濃国大川原の深山の中に庵して住み侍りける谷間の月をみて〔李花集雑〕
いづ方も
山の端近き柴の戸は
月見る空や
すくなかるらむ
けれどこんな御生活の許へも、一朝、吉野の軍令が来れば、宮は征夷府大将軍として馬上兵甲のあいだに伍し、即刻、庵を立たねばならなかった。──可惜だが、尊氏の下の必死な将士に蹴ちらされたのもむりではない。まったく宮の責めではない。
かつてお若い頃、お父ぎみの後醍醐の難に累せられて、讃岐へ流されてゆく途上、加古川で船を待つまに、兼好の弟子の命松丸から、ふところ飼いの仔雀をもらって、たいそう慰められたことがある。
あんなあたたかなものを、そのごの宮は、いちどもふところにお持ちになったことはあるまい。──ともあれ、その年の武蔵野合戦で、手いたく打ち負かされた秋、宮は香坂高宗らのしきりに留めるのも振りきって、飄然と、狩野介ただ一人を供に、木曾路から美濃へと旅立たれた。
おそらく、吉野へとのお心であったのだろう。けれど、途上の兵騒、とても吉野へは近づけないので、東海に出、諸国を漂泊されたのち、幾年もたって、また越後信濃にもおられたりして、地方的な小合戦に、お名をうたわれることはあったが、馬上の宮は、もうふたたび見られなかったといってよい。漂泊の旅に詠まれた一首には、
暫しだに
吹かぬ間もがな
風の上に
立つ塵の身の
在りか定めむ
という歌もあり、漂泊が宿命のような御一生だった。──晩年、「新葉和歌集」を奏進しておられるので、弘和元年、七十一歳まで寿をたもっておられたことだけはたしかだが、おかくれになった土地さえよく分っていない。河内の山田とも、越後か信濃とも、遠江国の井伊谷とも、諸説まったく、とりどりである。
ところで、話をもどして、武蔵野合戦の大勝は、尊氏にとって、まさに死中に活をえたものといってよい。
彼は、鎌倉を取り戻した。鎌倉じゅうの敵を追って、元の管領邸におちついた。けれど、この頃からとかく彼の健康は、これまでのようでなかった。
そのご、京都の留守をしていた足利義詮のうえにも、大困難がおこっていた。
かねて。予定のこととして。
賀名生の行宮を発輦していた後村上天皇は、住吉、天王寺などを経て、閏二月二十九日、八幡の男山に入られた。
南朝の天皇の還幸は、降伏した幕府代表の義詮としてはどうしようもなく、ただ奉迎の畏みでいたのである。ところが鳳輦が八幡に着くと同時に、およそ七、八千騎の軍勢がどこからともなく来て、夜のうちに洛外をうずめ、それらが一せいに旗手を解いて朝空にひるがえしたのを見れば、北畠顕能、千種顕経、楠木正儀、和田、越智、神宮寺など、いずれも南軍の精鋭であらぬはない。
「すわ……」
と幕府方では、目に見てからの立ち騒ぎだった。
義詮の若さ! 輔佐の家臣たちの間抜けさかげん! ともいえばいえる。
けれど義詮としては、多少、事前にいぶかられる兆しもあったので、法勝寺の恵鎮を先に行宮へやって、朝意を伺わせるなどの、ていねいな手順をふんでいたのである。そしてつい前夜までも、男山から帰って来た恵鎮の報告に、安心しきっていたところだったのだ。
何をするひまもない。
あっというまに、加茂川原も市中の辻々も、どっと混み入ってきた南軍の兵馬に駈け荒らされていた。
迎え撃つのがやっとで、幕府の侍所預かり細川頼春さえ、身によろいを着けるひまもなかった。白袷と素袴のままで裸馬に騎り、足なみも揃わぬ将士の指揮にあたっていたが、たちまち、むらがる敵の中で斬り死にをとげてしまったほどである。そのほか諸所の狼狽の状にいたってはいうを俟つまい。
義詮は、細川顕氏や仁木義章にまもられて、やっと、京都のそとへ逃げ走り、やがて近江の四十九院(犬上郡)までたどりついたとき、はじめて、ほっと、おちつきを取りもどした。そこで佐々木道誉の、あの物に迫らない顔の黒子と微笑とを見たからだった。
「いや、京都などはいつでもまた奪り返せましょう。大御所にもこれはお分りになっていたことで、そのため、道誉に帰れと命ぜられて、とくに近江を固めていたものです。深い御憂慮にはおよびませぬ」
以後の道誉は、義詮をたすけて、大いに兵力の挽回につとめた。義詮の執事は自然、彼となっていた。このあいだの義詮の生殺与奪は一に彼の手の中にあったといってよい。
が、ここに。
逃げるにも逃げえられず都におきのこされていた御一家がある。北朝の皇室だった。
そのご南朝方では、ただちに北朝の光厳、光明、崇光の三上皇と皇太子直仁とを、そっくり人質として八幡に囚え来って、三月早々、河内の東条へ移し、後にまた、賀名生の山中に連れて行ってしまった。
「はや、事は半ば成就した」
と、見たか、総帥の親房は、やがて自身、京都へ乗り込んでいた。そして第二だんの急務として、義詮の追討に全力をそそぎかけたが、時にもう近江の義詮は、早くもその軍力をあらたにして、逆に、京都に進撃してきた。
義詮がにわかに勢力をもち直した背後には、親の光というものがなくはない。尊氏が関東で勝った影響というべきだろう。京都を見下ろす東山のみねには、夜ごと兵のかがり火がふえていた。火の線は長楽寺、双林寺、阿弥陀ヶ峰の端までつらなり、四月に入ると、天を焦がすばかりになった。すべて近江から潜入した義詮の軍だった。
こうして、わずか一ト月のうちに、ふたたび、
宰相ノ中将義詮
の名が京都を圧してくると、阿波から細川の一手勢が住吉に上陸し、いちど南朝に降っていた赤松則祐までが、またそむいて義詮に応じるなどの逆転を、南朝方は次々に迎えだした。
「退くしかない」
親房の大きな計画も今は彼自身、その失敗をみとめないではいられなかった。
計画が悪かったわけではない。失敗の原因は、味方がみな遠隔であり過ぎていたことにある。九州、みちのく、信濃、新田諸党も、急には上洛できない条件の地にあった。しかもそれにしては、伊勢、畿内の兵力だけで余りにここは手薄すぎた。
「ひとまず、男山を砦に」
と、洛中の南軍が八幡に退くと、義詮は時をおかず、本陣を東寺へすすめた。そして細川頼之の一手を洞ヶ峠へまわして、八幡の糧道を断った。
佐々木道誉は、始終、彼のそばにいた。細川、土岐、赤松、仁木の諸軍を督して、八幡をかこんだ。岩松頼宥や山名時氏が来会したのもこの前後であり、義詮の陣営はいよいよふるった。そのうえ敵がわからの投降兵もたえなかった。「なんで投降して来たか」と訊くと、兵はみな「食えないからだ」と一致して言った。
「もう、いいでしょう」
と、道誉は総攻撃の機と見て義詮にすすめた。
五月十一日の夜だった。
男山行宮をめがけて、足利勢万余の将士がときの声をあげた。ふもとの寺坊や社などを焼きたてたので、山はそのまま山なりの炎になった。後村上天皇は、北畠顕能、名和長重(長年の子)らにまもられて、からくも河内野へ逃げ走られた。──この夜また、お味方の熊野の湯河ノ荘司が寝返ったので、南朝方はいちばい混乱を大きくし、天皇についていた四条隆資、三条中納言、頭ノ中将且忠、参議ノ実勝など、みな途々、矢にあたったり名もない葉武者にかこまれて屍を野にさらしてしまった。
後村上天皇は、馴れぬ馬で、やっと、敗走兵の中に駈けまじりながら、朝がた、奈良まで来たが、
「みかどは?」
「天皇は」
と、ここで急に同勢がかえりみ合っても、どれが後村上やら分らず、やがてのこと、おん直垂のまま、鞍に錦で包んだ筥をお置きになっているのが、天皇だとわかって、初めて警固の隊を組むような有様だった。
それから先は、楠木正儀たちが守護して、ともかくお身だけは無事に賀名生へひきあげられたものの、なんと儚い京都還幸の希望だったことか。──親房の大計画も、わずか百日のお夢を帝にささげたのみで、むなしくここに終ったというしかない。
南朝がたの望みも画餅に帰して、賀名生はまた元のみじめな山中宮廷に返ってしまったが、より悲惨なのは、ここに拘置された北朝の三上皇と皇子らで、それは、
朝廷が朝廷を。
天子が天子を。
囚えて捕虜としたことでしかなかった。一系の根も血も一つの、金枝玉葉ではあったのに。
しかし北朝の皇室を見る南朝の憎しみはどうしようもなかったであろう。囚われの上皇光厳、光明。また崇光天皇は、南朝の廷臣らの詰問に、こう涙して弁疏したということである。
「もとより、即位は朕の志ではなかったのです。また即位してからでも、諸政一事として、朕の意から出たことはない」と。
なにしろ、ひどい待遇であったらしい。「吉野拾遺」によると、黒木の御所の荒壁もあさましいばかりな上に、茨やからたちの木をすきまなく植え込んだ中に押し込められていた、とある。
梶井ノ宮尊胤親王も囚われていたが、夜、警固の武士のすきをうかがって、どこへともなく脱走してしまった。──また、光厳上皇は、このさい髪をおろして、以後は一切、世の外にと、かたく御心にちかわれたという。
すべてが惨だ。あわれでないものはない。
それにつけても、北朝の方々を、こんな憂き目にあわせた責任者は誰か。いうまでもなく義詮だった。いや尊氏でなければならぬ。尊氏こそは、根本の責任者だろう。
従来、
「皇室への畏みと、朝廷を大事と念ずる誠意とは、自分とて決して人後におちる者でない」
と、よく何かのばあいに彼が用いていた言葉も、いまはみずから放擲してみずから自己の非を暴露したもので、ただ巧みに皇室を利用して来たものといわれても、尊氏自身、弁解の余地はあるまい。
が、これは尊氏や義詮の誤算であった。これほどまでに、南朝がたの北朝処理が、峻烈に出て来ようとは、予想しえなかったところからの手落ちであろう。もし予想していたら事前に方法もあったはずだ。
ともあれ、尊氏は困った。自分の奉ずる帝室がそっくり賀名生の捕虜となってしまっては、どうしようもない。
彼は、あらたな苦慮をまたかさねていた。いまや北朝は空位空名でしかない。しぜん幕府も自己の立場も空疎なものに浮いてしまう。
八月。
彼は鎌倉から使いをやって義詮に策をさずけた。
光厳院の第三の皇子、弥仁親王(十五歳)を、しいて皇位に即けたのである。
御母の広義門院は反対で、初め、どうしてもお許しになるみ気色でなかった。それを幕府は力で迫り、公卿の一条経通や二条の関白良基らも、古例や先例や、いろんな理窟をつけてついに、北朝の後光厳天皇として、践祚を見るにいたったものだった。
「受禅(皇位譲渡の式)もなく、上皇の詔もなく、また神器もここにありませんが、尊氏は剣です、良基(二条関白)は璽(印)です。これを神器とすればよろしい」
と、良基はいったという。まったく前例も無視して強行された天皇の誕生だった。
義詮は、京都に。
尊氏は、遠く鎌倉に。
この変則的なかたちはほぼ一年の余つづいた。
ところがここへ来て、九州の足利直冬は、南朝からうけた綸旨を名分に、正平八年の夏、大挙して都へ攻めのぼってきた。
おそらく、鎌倉で毒殺された直義のことは、彼をいからせ、彼を一ばい奮然と蹶起させたにちがいあるまい。
実父の尊氏よりは、直義こそほんとの父だとしている直冬なのである。そのひとの遺志をついで、南朝方に降り、尊氏や義詮を敵として誅伐するのが何の不思議であろうやと、豪語を放ったことであろう。
南朝軍は、もちろんこれに呼応して、直冬と共に、京都へせまった。──義詮は防ぎきれず、新帝の後光厳を奉じて、美濃へ落ちた。九月である。すでに、尊氏も変を聞くやいな、鎌倉を発足していた。
けれど軍旅の尊氏は、美濃の垂井ノ宿まで来て、ここで後光厳に拝謁をとげると、二十日ほども陣中で寝こんでしまった。医者も病名のつけようのない病気であった。去年いらい、食はすすまず、怏々とつねに楽しめない色なのである。一年半ぶりに父に会った義詮は、父の顔からあの茫として大どかなまろみが、無残に削りとられているのを見て、心のうちでぎょっとした。
「この残暑で、軍旅がおこたえになったのでしょうか」
「いや。もすこし、物が食えさえすれば何でもないのだ」
「関東での御苦労など、深くお察し申しあげまする」
「何、たいしたことではない」
そして、いった。
「張合いもなし、力も出ぬ戦だが、さりとて、直冬という魔の申し子みたいな奴を、都にのさばらせておいてよいものか。あしたはここを立とう」
あきらかに尊氏は病苦をこらえているふうだ。けれど止めてもきくまいし、また留まっていられる時でもない。軍旅は急調を加えて行った。そして月の末には、京都へ突いて入った。
南朝ではその間、直冬を〝総追捕使〟に補して、尊氏討伐の宣下まで与えて鼓舞していたが、直冬はもろくも京都をすてて山陰の石見へ逃げ落ち、そこでまた諸国の直義党を糾合し、他日の大挙をもくろんでいた。
尊氏は、高倉の邸に入ってやっと療養につく暇をえた。しかし母の清子は康永元年の十二月に病歿しており、妻の登子や女の鶴王(頼子ともいう)は丹波へ難を避けさせておいたのでここにはいない。あたかも他人の家のような空漠が久しぶりの主人をくるんだのみだった。
そのうえ、彼がまたなく可愛がっていた鶴王が、その冬、亡くなった。尊氏は、それを聞くと、病床ですすり泣いた。こんな父は見たこともないので、義詮は父の変化と体の方が気づかわれ、日ごと高倉を見舞って、とかく政務も軍務も手につかなかった。
すると、翌年の四月。
南朝方にも不幸が起った。棟梁の臣、北畠親房の死であった。この南朝の柱石とも見られていた人の死は、賀名生の行宮を悲しみの底につき落したのみでなく、世上へも敵味方ない哀傷の感をつよくひびかせた。
親房の死を聞いたとき、尊氏の心はありのままにこう疼いた。
「もう南朝方には、恐るべきほどな人はいない」と。
が、それは敵の悲しみを僥倖とするだけでなく、彼自身の心身もばらばらになっての気落ちと共にうめいていたのである。
彼にとっての親房は、夢にまでみる強敵だった。軍にかけ謀にかけ、始終、あの一禅門には抗しえぬ威圧感と翻弄の受け身におかれていた。何よりもその親房には、学識と思想があり、武力に理論づけ、武士を思想の下に統御していた。自分には、それがない。
また、いつも親房の手のこまかさには、奔命に疲らせられた。直義と師直との衝突も、それいらいの直義の変り方も、なお先頃、義詮と自分とを遠くに分離して、東西、個々に撃とうとした計なども、みな親房の方寸から出ていたものだ。
そして、それとはこっちも看破って親房のウラを掻くつもりでは、またいつも尊氏は、自身を泥沼にのたうってしまう破目をまぬがれなかったものである。──だのに、その恐ろしい人物もいまは南朝方にいなくなったと知ると、彼は、その強敵を敵として、無残にまでつよく自己を生かして来た大きな張りを失っていた。淋しさに似る虚の下から、
「……死んだか」
と一言、つぶやいた尊氏だった。
尊氏はしかし、以後はなお繁忙だった。
南朝方では一時、愁然としていたものの、決して戦意は沮喪してはいなかった。九州の菊池党は、健在であり、いちどもその初志を変えていない。征西ノ宮将軍(懐良親王)の旗幟は筑紫を圧している。
そのうえ、ちかごろ、尊氏方の大族、山名時氏父子が、佐々木道誉と不和をかもして、南朝方へ奔ってしまった。
山名の本拠は但馬である。──さきに石見に落ちていた足利直冬とむすび、伯耆、出雲の兵をあつめて、それはたちまち、京都をおびやかす一団の疾風雲になり出していた。
佐殿方(直冬の称)
と、この雲は呼ばれた。
佐殿方には、自然、さきの直義党の残党はみな加わった。桃井直常、斯波高経らも北国の兵をあげて応じ、またも京都は、あやうくなった。
尊氏は、義詮へ、
「洛中の兵をみな引っさげて播磨へ向え。遠国の味方を待っていては間にあわぬ」
と、すぐ急がせた。
そして彼自身も、さきの例があるので、やがて新帝の後光厳を奉じ、われから京都を捨てて出、近江の武佐寺で、その年の正月をこえた。
尊氏は、自身の健康をいつか意にもしなくなっていた。運命が彼を引きずり廻し、皮肉な健康をしいて彼に授けていたのだ。しかし彼をめぐる諸将は「めっきりおすこやかになった。また一ト頃よりもずんとお肥えになられた」といって祝福した。一個の大器が、百戦百難の風雪を凌いで、年もようやく五十路に入り、いよいよその風貌にも年輪の威を加えてきたものとみな頼もしく見ていたのである。
しかし尊氏は変った。わけて直義の死から後において著しい。
何事によれ大ざっぱで、人まかせで、大局はよくつかんでいたが、つねに茫洋と見える彼だった。ぜひなく陣頭に立つときでも、不利と見れば見得なく逃げるし、すすんで乱軍の中を馳駆するような猛将ぶりは彼にはなかったことである。
その彼が、近来は往々、将士のさきに立って大童な働きを見せ、血に染んだ赤い陣刀を肩にかついで、体じゅうで息をはアはアいわせながら引き揚げて来るようなこともしばしばだった。
いや、こまかい政令や賞罰のことなどでも、病床の日でさえ、みずからびしびし裁決をくだし、その命じ方がまた、ただならず気短だった。かつてのような悠々たる風ではない。
師直も今はいないのだ。
直義も亡くなった。
左右の手を失ったにひとしい寂寥がひしとそこにはあるのであろう。師直に代る者、それはいない。直義に代る者、なおさらいない。人は多いが、残っているのはみな犬と猿だ。ひとり佐々木道誉の名はいつも彼のあたまにあるが、しょせん、腹から心のゆるされる男ではない。
しかも、義詮はまだ若年だ。
あれこれ周囲と将来を考えると、彼は、自分という者を置き換えずにはいられなくなってくる。一日も早くその義詮を次代の将軍にすえて、幕府統一を固めておかねばとするあせりがつのッた。それに自分もいつか年は五十をまたいでいる。
「顕氏」
武佐寺での尊氏は、油幕を引いた大庭に床几をおき、朝も昼糧も、粳に味噌をつけたような物を床几のままで噛っていた。
「叡山はまだ、うんといわないのか」
「はっ。再度のお使いも、今もって戻らず、何の早馬もないところを見ますと」
「よい条件を申しやってあるものをな。なぜだろう、即答を渋るのは」
「いまだに、天龍寺造営のいきさつを、恨みにふくんでいるのではありますまいか」
「ばかな」
と、癇気をたてて。
「では、直冬へつく気か」
「いや、佐殿方への加担も拒んでいるということではありまする」
しばらくすると、彼はまた、畠山国清をよんで、
「きのう今日の軍兵の着到を見せい」
と、簿を取寄せていた。
管領の基氏が派してよこした東国勢やら、美濃の土岐、信濃の小笠原など、諸国の兵は毎日のようにここへ着いていた。その数は武佐寺の内外にあふれて、すでに万をはるかにこえている。
「よし。叡山の返答など、気永に待っているにおよばん。明日は東坂本へさして進め。ただし湖上で、後光厳のきみに、お風邪をひかすな」
あくる日。後光厳の御船をかこむ一軍は湖上を行き、大部分の兵馬は、陸路を迂回して東坂本へ向って行った。
この大兵を目にみると、叡山側は一も二もなく山上の延暦寺へ後光厳をお迎えした。また尊氏は、さらに一歩を進めて、東山のみねに陣取った。
直冬とその一味の軍は、この二箇月余を洛中で驕りに驕っている気勢だった。一躍、都の主となり天下をここに取ったようにである。
「…………」
尊氏はそれを東山の陣地から見下ろして、ただの敵ならば起りそうもない憎悪やら複雑な感を催した。
京都は、彼が幕府を置いてからでも、猫と猫の間の鞠のように、奪ったり奪い返したりをくり返してきた。だから今さら無念はそれではない。
私情である。まったく彼だけの私情であった。──藤夜叉の産んだ、あのひよわい一病児の不知哉丸が、こんにち、都に君臨を見せようなどとは、かつては、夢想もしていない。それがしかも、尊氏誅伐の宣旨を南朝から申しうけて、公然と、義父直義の讐とも称えているのである。小癪とも何とも言いようはない。
「困ったやつ!」
じつに、尊氏には厄介な挑戦者であり、困惑きわまる相手ではあるのだ。けれどもまた、どう憤っても、
「不逞な子!」
とは本心で罵れなかった。不逞な父は自分かもしれないのだ。
彼は焦々する。
相手は自己の分身にひとしいものだ。それへの憎しみは自分を憎むことでもある。だから骨肉の憎しみ合いは他人の比でない深度と非人間性を持つ。すでに尊氏はもうそんな愛憎本能など無性に七面倒くさくなっていた。憎悪一本になっている。むらと、胸の毒焔を声に吐いて、左右へ令をくだしていた。
「今夕から総がかりをかけて、あの有頂天な痴者どもを、ひとり残らず洛中から追ッ払え」
これが三月十二日である。
しかし洛中の合戦は、二十一日までかかった。
相互、血みどろをきわめ、この時も見さかいなく民家や寺院を双方で焼いた。
その間には、播磨の斑鳩から急進してきた義詮の軍も尊氏をたすけ、佐殿方は木ッ端みじんに破れてしまった。そして当の直冬は、敗走に敗走をつづけ、どこへ落ちのびて行ったのか、これ以後は、まったくその居る所すらわからなかった。安芸にいるともいわれ、石見に隠れたままだともいわれたが、ついにその生涯も分明せずに終っている。
ともあれ、京都はそれ以降、ややおちついた。
といっても、北朝に本来の御威光はなく、幕府のうちの内訌も後を絶つふうでない。
たしかに、武力は強力になった。けれど諸国の武族は各〻みなその郷国での地盤をかため、自信を蓄え、それが次に来る群雄割拠の萌芽を地表にあらわし始めていた。
尊氏はいぜん心の安まるひまはなかった。
幕府の内訌も、因をただせば、細川、畠山、斯波、今川、佐々木といったような功臣が、みな自力で割拠しうる力を持ってきたからである。若い義詮がこれをおさめるのは容易でない。手習の手を取って教えるように、尊氏は政治を教える。
けれど、ともすれば義詮自身がその渦中にまきこまれた。そしてしばしば、南朝方へ奔る者やら小反乱を内に見た。武家統一の幕府造成は、前途まだ遠い感だった。
しかし、それらのことはあったにしても、とにかく、
正平十一年(北方の延文元年)
正平十二年
の両年は、諸国とも静謐な方だった。
さきに南朝に囚われていた光厳法皇やほかの上皇親王たちも、五年ぶりで、解かれて京都へ還って来られた。が、ひとり光厳法皇だけは、伏見の寺へ入って、人にもお顔を見せられなかった。よくよく、酷い世の仕組みがお身に沁みたものとみえる。
また、それいぜんに、後村上天皇は、賀名生の行宮を、河内の金剛寺へ遷されていた。尊氏へたいして、一歩前進を見せ、親房は亡くも、決して素志を喪う南朝でないことを、つよく示されたものといえる。
しかし、滔々と、諸国の武家は独自な力を養って肥え出していたが、南朝の勢力は、一こう不振をたどっていた。ただこの間にも、ひとり昔ながらの宮方としていよいよ強大になっていたのは九州の菊池一党だけだった。
尊氏にも、九州は数年らいのなやみであり、わけて昨今では、
「なんとかせねば」
と、焦躁のたねとしている課題であった。
「もいちど、わしは二十二年前の若さに返って、筑紫の地を踏み、みずから菊池征伐にあたらねばなるまい。九州さえ平定し得ればまずは天下も一おう定まる。──そのうえで、義詮に将軍職をゆずり、大名どもをして、二代将軍へのかわりなき忠誠を誓わせよう。──それを見るまでは」
と、彼はこの正月、正平十三年の年頭に、しみじみ言った。
妻の登子にむかって洩らしたことばであった。
正月四日。
天龍寺が焼けた。
尊氏はただちに再建を命じ、二月には早や奉行を任命したりしていたが、こえて三月に入ると、建武三年いらい二十二年の間、筑紫の探題として留めておいた一色直氏が、菊池武光に追われ、九州を捨ててさんざんなていで都へ帰って来た。
「義詮」
と、彼をよびつけて。
「これに教書の案文をしたためておいた。祐筆に命じて、同文の教書十数通をしたためさせ、そちが花押して、それに書上げておいた大名諸武士らへ、すぐ布令をまわせ」
「や。これは御出陣の」
「そうだ、わしみずから征く」
「いけません。お見合せください。義詮もすでに二十九。私が征きます」
「いや、九州の少弐、大友、島津。そのほかの古い輩も、多くはそちをよく知っていない。尊氏ならでは心を一つに集まるまい。わしがまいれば」
「ですが」
と、義詮は思いきって言った。
「ご健康があやぶまれます。さなくても、母上はそれをここ数年のお体によく見ていて、始終、お案じなのでございまする。どうぞ、御遠征のことだけは、時を見て、このさいはおとどまりを」
それは妻の登子も共に強って止めた。尊氏はなかなかきく風でなかったが、四月に入ってからすぐである。尊氏はついに倒れた。その夕、寝床につくなり登子へ悪寒を訴えて、子供のように彼女の腕にしがみついた。
灯が白く冴えて、病間は病間らしくない木ぐちの新しさと木の香だった。
旧高倉の将軍御所は義詮に渡して、二条万里小路に去年造営されたものである。尊氏はそれだけでなく、やがては、将軍職のすべてをも最愛の子に譲るべく、その一つとしてこんな心支度もしていたのであったらしい。
「とくと、拝診申し上げましてござります」
さっそく召された二人の典医は、登子の案じ顔をみて言った。
「ままある急な御風熱と拝されます。肝、胃、腎、お悪いところはありませぬしお脈もいたってたしかなので」
「では、さしての心配にはおよびませぬか」
「元々、人いちばい根が御丈夫なお骨ぐみ。かえって、そのためつい御過労も積もりましょう。お熱さえ下がれば御本復は疑いございませぬ」
明け方までに二度、登子の手で熱い煎薬を服ませられたほかは、あくる日もあらかた、よく眠ってばかりいる尊氏だった。
そして三日目にはもう、
「起きる」
と言い出して、登子や義詮をこまらせた。けれど尊氏は、こうしているぶんにはよかろうと、ふとんの上に坐って、その日は、義詮をつかまえて帰さなかった。
義詮は、問われるままに、当面の政務や時局の処理方針などを、なにくれとなく答え、そして、かりに五十日や百日お寝みでも、決して時務に遅滞はいたしませぬ、諸大名も案じています、どうぞ充分御静養を取られますようにと、さすがもう世嗣の嫡男らしく自負して言った。
「む。……うむ。……」
尊氏は聞いていた。しかし憂いを残している容子で。
「義詮」
「は」
「わしの体よりは、むしろ、おまえの体こそ粗末に持つなよ。わしは貧しい幼少と野性にめぐまれ、風雲にもいやというほどきたえられた。わしはまだなかなか死ぬまい。けれど、おまえはどうも弱いな。どこか弱い」
「いや、さようなことはないはずです。お父上から見たらお目だるいかもしれませぬが、戦陣でもめったに疲れは知りませぬ」
「それは若さというものだけだ。この父に似ず、何よりは意志が弱い。決断力も鈍く、人を観る明にはすこし欠けておる。わけていまの武士どもを統御するのは容易でないことをよく知っておかねばならぬ」
「それは、まいどの仰せ事。心しておりまする」
「頼む者はまったくないのだ。自分だけが頼みと思え。しかも将軍家であれば、それではならん。由来、この京都には常時たくさんな兵は置けぬ。事あるたび、諸国の大名や家人どもへ召を発して呼び集めるのが慣い。むずかしいことではある。おまえは尊氏の子でも尊氏ではない。人を観、人の心をよくつかむだけを習うがいい」
「義詮がこれと頼みにしてよい人物は、麾下の内で、見渡すところ誰でしょうか」
「まず、頼春の子、細川頼之だろう……」と、言って「したが、まだ若すぎるな。そちの執事には」
と、尊氏は急に疲れ気味な色をみせて、自分から横になった。
尊氏が病間になずみ出したことも、初めは、ごく側近にしか知られていなかったが、月の半頃にはやがて外部にも洩れて、それは洛内じゅうの大きな関心事とならずにいなかった。
朝廷からは、典薬頭の和気、丹波の二家をさしむけられ、門前には見舞の公卿車もあとを絶たない。
諸山の寺院では祈祷がおこなわれ、邸内でも薬師十二神将の法とか、不動延命の修法とかを、日夜、勤めているのであろう。館の大廂からは護摩の煙が雲のように立ちのぼり、衆僧の振鈴や誦経が異様な喚叫をなして二条の町かどあたりまでも聞えてくるほどだった。
「眠たい」
尊氏は、そうした中心にある一室の厚いふとんの上にうめいていた。
体を横たえているのではなかった。横になれない症状なのである。胸の高さにまで折り畳んだ夜具に、両の肱と苦患の顔を乗せて、俯ッ伏せに凭れて坐ったきりな容だった。
はじめ、館の典医が、お風邪とかろく診たのは、まもなく、まったく誤診とわかった。
高熱はつづくばかりなので、医師も小首をかしげているうちに、病人は、自分の左の手を背へ廻して、やっと指がとどくあたりの肋骨裏にあたる部分の異常感を訴えだした。ポチとそこに何か腫ている。〝蚊触〟という病名があった。医師たちはこの発見をすぐそれに附してかぶれの練薬を塗布して容体の変化をみていた。ところが数日のまに、そこは朱い椀のフタぐらいな大きさにまで腫れ上がり、また幾つもの小さいくちを作って、さながら柘榴みたいな皮色さえ呈して来た。
「これは?」
と、典医たちも狼狽して、ようやく自分たちの手におえない重患とさとり、協議のすえ、当時、町医ではあるが外科の第一と評判のある医僧有隣という者をよんで篤と診させた。有隣は濁さないことばで告げた。
「癰瘡と拝診つかまつりました。おそれながら癰は古来から命とりと申すほど難治の病。ひたすら、看護と療法の最善をつくすしかございません」
以来、看護は登子が、療治には侍医たちが、有隣のもとに全力をつくしてきた。わけて登子は帯も解かない窶れを病人と共にして、良人の苦熱を自分のなかにも喘いでいた。
しかし経過は何の見るべきものもない。患部は朝ごとに目もあてられぬ斑点を増して、腫れた所は赤ぐろく耀き、無数といっていい孔からは血膿を出した。それは煮え沸る火山の噴火口が幾つもの吐けぐちから硫黄を噴いているのに似ていた。熱はたびたび、病人の意識界を超え、尊氏は時折、異様なうわ言をいった。そしてはまたふと現に返った。
「登子。……ああ眠たい。すこしやすませてくれ」
「ようお寝みのようでございましたが」
「いいや、耳の中で、のべつ釜の湯が鳴るような声がわんわんする。祈祷僧のわめきだ。止めさせろ」
「でも、せっかく……」
「今、わしは何ものにもすがってはいないのだ。また、神仏に後生を頼める自分でもない。ただ静かが欲しい。坊主どもはみな帰せ。祈祷はいらん」
以前から彼の心の隅には〝山林〟があった。〝後生の願い〟もたぶんにあった。すべて能わぬ希いであった。
それがいま、懐かしまれていたのであろうか。
尊氏はだんだんに、病間の孤独と寂かとを欲していた。邸内の祈祷僧はすべて帰してしまい、有隣や侍医たちの手当さえ、とかくうるさげに退けるふうだった。そして、薬餌、何から何までを、
「登子、登子」
と、妻へ甘える眼をして求めた。患部の膿汁を拭きとることから、朝夕のくすりの塗布や煎薬なども侍医にはさせないで妻にさせた。また熱湯でしぼッた布で体じゅうの皮膚を隈なく拭かせるときでも、子供のように安心して、彼女の手には人に見せたくない所もまかせきッているのだった。
そんなあとでは、さばさばするとみえて。
「登子、おまえと夜も昼もひとつにこうして暮すなども、思えば病気のおかげだな。三十年もつれそいながらないことだった。不愍といっても追いつかぬが、おまえもとんだ阿修羅の女房になったものよの……」
また、あるときは、
「背なかの腫物をこの眼で見たい。鏡をよこせ」
と、登子にも鏡を持たせ、自分も鏡を持って、患部を合せ鏡に映して、その惨烈とも無残ともいいようのない自己の糜爛した肉体の一部をしげしげと見、
「なるほど。これは尊氏がやって来た〝業〟そのままな縮図だわえ。人のからだでは癰だが、国に腫れば地上の大乱そのものだ。身にこれを病むとはよくよくわしは宿命の子にちがいない。……母者は地蔵尊を信仰なされ、わしも地蔵尊を身の守りにして来たが、しょせん地蔵菩薩の御手でも救いがたい阿修羅の申し子だったとみえる」
と、深い吐息で言った日などもある。
かと思えば、高度の大熱に、こんこんとして、「基氏か、何しに来た?」と譫言に言ったり、また「筑紫はどうした、義詮はまだ返らんか」と、あらぬことを口走ったりした。けれど現ない口走りの多くは登子にも意味のうけとれないことが多かった。ただいちど「河内どの」と明らかに言って、楠木正成と話してでもいるような幾言かを洩らしたときは、登子にもすこぶる意外な思いがされた。そのほかには、まま、
「平家を聞きたい」
と、よく言った。
平曲をと望むときは、苦痛をそれに忘れたいとする容子らしく、すると次の間では、畏まって、ただちに琵琶を掻き鳴らす者があった。尊氏の息づかいも、苦患とたたかっている炎の眉も、それを聞いているうちには、だんだんとおさまって来て、やがて、すやすや肩に安らぎをみせて寝入るのが常であった。
しかしついにことぎれた。彼の癰はやはり命取りの癰だった。
正平十三年四月三十日の子ノ刻(ま夜中)と、その薨去は、幕府から公布された。
なか二日おいて。
葬儀は、衣笠山の等持院でいとなまれた。勅使の差遣、五山の僧列、兵仗の堵列、すべて、儀式の供華や香煙のさかんだったことはいうまでもない。
尊氏は、五十四歳であった。
五月の明るい日であった。
歩みの鈍い、そして長い行列がいま、西洞院綾ノ小路の職屋敷の門からえんえんと出て行った。
みな盲人なのである。
もちろん、幾人かは狩衣や布直垂の目あきもいて、何かと勘のわるい者の世話をして行くふうではあった。
いったい、どれほどな盲人の数なのか。──先頭はもう長蛇形に染屋川の土橋を渡って、はるか先に霞んでいるのに、まだ尻尾の方は、職屋敷の清聚庵の門を出切れず、そこの曲り角で、
「こっちだ、こっちだ」
「何と、かんの悪い座頭衆だよ。かんのいい振りをしなさんな。杖と杖をつなぎ持ちにして歩いたらどんなものだね」
と、目あきの座役たちに手を焼かせている有様で、ざっと二千人はかぞえられる。いわば二千の盲人大衆が遊山にでも練ッて行くような奇観であった。
けれど、嵐山も大堰川もとうに花は散ったあとだし、めくらに新緑を愛ずる風流気はなかろうし、だいいち、故征夷大将軍尊氏が薨じてから今日はまだ八日目なのである。
ついきのうは初七日の忌で、宮中をはじめ二条の故館では法要が行われ、各寺院でも終日の勤行があり、町の声にしても、もう亡い人となると、いまは何か、巨大に感じられる人間像とあとの空虚に、つい話を持ち切っていたような時でもあり、往来はこの奇異な行列にみな目をそばだてた。
「ほう、世間にはいるもんだな。めくらの衆も」
「いるとも。綾ノ小路には、諸国から集まって来る」
「いつもこんなにかい」
「いやこんなに集まったのは始めてだろう。けれど職屋敷の一郭ときたらたいへんな広さだ。建物の数でも外からではわからない」
「えらいもんだな、盲人でも」
「なにしろ明石の検校と仰っしゃるのは、当道派の主座で、それに、死んだ将軍家とはお従弟にあたる人だ。あれくらいなことはわけなくできたろうさ」
「そういえば列のいちばん先に、職屋敷の執事と一人の女性をつれて歩いて行ったね、あれが明石の検校か」
「もと明石ノ浦にいたのでそう呼ばれているが、覚一法師というのがほんとの名だよ。晩年は、当道の如一に就いて、琵琶の奥の奥の道までをきわめたものだそうだが、もう二十歳ごろ名人の聞えがあって、なんども宮中に召されたことだってあるのだそうだ」
「晩年というが、見たところまだ、四十四、五にしか見えぬ検校だったが」
「そう、まだそんなもんだろうよ。けれど老成してござるから聖といってもおかしくない。盲最上の位なので、緋の衣に、検校帽子をかぶり、後ろに燕尾を垂れて行くさまは、唐画の人を見るようじゃったな」
「それはいいが、この途方もないたくさんな盲の衆は、いったいどこへ行くのかな」
「さればよ。きっと等持院へ行くのであろう。御葬儀の当日から初七日までの等持院は、目あきばかりでゴッタ返していたからね。そこで盲は盲同士と、七日過ぎての会葬を、今日はゆっくりお練りで練ッて行くのであろうて」
まもなく、衣笠山の麓にたどりついた盲人の列は、順次、本堂での席序をただし、廻廊のそとにまですきまもないほど座についていた。
施主、検校覚一
当道之盲官一同
の名で、寺中へは多額な寄進もされ、つづいて東陵和尚の主導のもとに、盛大な追善が長々といとなまれる。そして終ると、一同はまた庭上に出て、土の色も宝篋印塔の石もまだ新しい
等持院殿仁山妙義大居士
の墓所へ順にぬかずいた。
それも長い時間がかかった。ひと口に盲官といっても、検校、別当、勾当、座頭の職位のほか、なお幾十階の下級もあるので、中には昔ながらの乞食放下や路傍の琵琶弾きそのままな盲者もたくさんいたのである。けれど、それらの盲にしてさえ、
「この将軍の御代に会って、わしらは初めて人なみになったのじゃ。目あきに馬鹿にされずともよく、目あきとひとしく職を持ってりっぱに生きて行ける者となったのじゃ」
という謝恩の念は胸にきざんでいるふうだった。
その、いわれをただせば、これは尊氏の発意で始まった民政ではない。ひとえに、覚一の願望だった。彼が身に舐めてきた世路の盲人の生き難い相から常に考えさせられていたものを、将軍家へ献策して、その結果、ひとつの盲官組織と、また盲人たちを総括する職屋敷の土地とを与えられたことに由来する。
それまでの盲人といっては、社会の視る目もむごく、
「めくらが一人死ねば、富者が二人できる」
などと平気でいわれていたほどだった。戦乱が生んだ餓鬼道の巷では、癈人、穀つぶし、足手まとい以外の何者とも視られなかったといってよい。
職屋敷ではまず従来から乞食扱いにされていた盲の琵琶弾きを収容して、これに官の印可と保護を与えた。また、すさんだ大道芸に平曲のよさを習得させた。さらに筋のいい者には座の職階を上げて、座頭、勾当の名誉もさずけた。
盲人は、ほこりを取りもどした。技をみがいて、人をたのしませ、自分も高い盲官の位置をえて、人中でも敬われる身になりたいとする希望にもえた。が、中には天性、平家の一曲も覚えられない者もある。それらの者には鍼、灸治、按摩、売卜の道など教えて、ともあれ職屋敷の制度下にいれば、何かの生業と保護を得られ、そして穀つぶしなどと蔑まれるいわれもなくなった。
戦争は目あきを無限の闇に追いたてていたが、ここの盲人は曙光にみちていた。近国の盲人まで伝え聞いて寄って来た。もちろん盲人たちはその稼ぎから冥加金や印可料を「座」に納めることなので職屋敷の経済力もなかなかばかにならぬ力だった。
こうした一制度が地に育ってから、今年はもう十二、三年になる。しかし覚一はこれを自分の功とはせず、いつも将軍尊氏の恩徳であるといった。また今もである。一同の墓拝がすむとそのことをるると述べて、あとは随意に散会してよいと施主の辞をむすんでいた。──そして、座頭以上、勾当、別当、検校などの六、七十名だけが残って、しばらくは等持院の内で、茶と点心の饗をうけていた。
そこへ寺僧が入って来て、大勢の中へ告げた。
「……じつは先ほどから、明石の検校どのにぜひお会いしたいと、年のころ六十路がらみの法師と、さよう、親子とおぼしき能役者ていの者が三名、あちらでお待ちしておるのですが」
「わたくしに」
「はい」
「はて、どなたやら?」
覚一は、そばの人へ、
「そなたには、心あたりがありますかの」
と、しずかな睫毛を向けて訊いた。
そばに付き添っていたのは彼の妻であった。母の草心尼はとうに亡い人だったが、よく明石の家へ遊びに来ていた兼好法師がその母をも説いて、たって覚一に娶せたひとなのである。
覚一よりやや年上だったが、草心尼の若い頃をも思わせる清雅できれいな女性だった。そして母の歿後、やがて明石の隠れ家を捨てて尊氏を都にたよって出て来た時には、尊氏もまた、この女性を前からなみなみならず知っていた関係もあって、この良縁を共によろこび、覚一の盲人救済の主旨や職屋敷の実現には、いちばい力をいれてくれたものだった。
「さあ、わたくしにも」
と、彼女はまた、
「思い寄りはございませぬが、きょうの御法要の先を慕って、ここへ来てお待ちになっているからには、やはり生前、尊氏さまに、何か有縁のお方たちではありますまいか」
「それは、そうだの」
「ともあれ、お通しになってみてはいかがでございますか。こう大勢の中ではありますが」
「む」
覚一はこの女性を、妻とも、また亡くなった母とも思っているように、素直にうなずく。
寺僧はやがて、四人の訪客を案内して来て、坐る所もないままに、座敷のそとの廊にその人々を据え並べた。
四人は年配の順に坐った。
老法師をかしらに、年五十がらみの、芸能者とはいえ武者烏帽子に狩衣姿の人柄のいい男と、次には、その妻であろう、髪を布結びにした色白でふくよかな女と、また息子とみえる二十四、五のきりっとした若衆とをつれて、
「せっかく、お休息の所を、おさまたげ仕りまして」
と、さすが芸能者の行儀よく姿をそろえて辞儀をした。
が、検校はじめ、別当、勾当、座頭、ここにいるほとんどは盲人である。辞儀にこたえて席の一同も頭を下げたが、いかなる服装やら人態やら一見で知る識別はその人たちにはない。
とくに息子らしい若衆は、髪を艶やかな髷に結って、後世の裃に似る腰みじかな役者羽織を着、いうならば水もしたたる美貌の青年であったが、それも幾人かの目あきの者だけに、目をみはらせたのみである。
けれど、覚一検校のそばにいた彼の妻だけは、初めからその綺羅な若者よりも、親の夫婦と、もひとりの老法師の容子とに、じっとひとみを注いだきりで、やがてのこと、はっと思い出したようにこう軽い声でさけんだ。
「法師は、右馬介どのではありませんか。また、夫婦のお方も、たしかどこかで、お見うけしたような? ……」
「さればで……」
と、言い詫ぶる態で。
「いかにもこの老法師は、右馬介が成れの果てにござりまするが、してあなた様は?」
訊かれると、彼女はまだどこかに残る佳麗を面にほの紅らめて、
「自分ですら思いがけぬ身の移ろい。お分りでございましょうか」
「もしやその昔の、小右京さまでございませぬか」
「おお、その小右京でございまする。双ヶ岡の法師のおすすめやら、いまは亡き草心尼さまの、たってのおことばで……」
「やれやれ、それは覚一さまにはまたなき良い御内助。草心尼さまも、御自分に代るお方を得て、さぞ安心して世を終られたことでございましょう」
「いいえ、倖せなのは私でした。おかげで、それからの月日は」
「とかく世の女性が世の荒波に負けて、ややもすれば尼の門に髪をおろしてしまう様を、兼好法師は、世にもあじけなきことと、いたく嫌うておられましたな。法師の心も酌めますわえ」
このとき初めて、覚一も。
「右馬介か。久しいのう」
「これは覚一さまで。ああ、お立派になられましたなあ。かつは、目あきでも成し得ぬお仕事をこの大乱の世に果して」
「それもこの目の盲がさせてくれたのだ。目が見えぬゆえ人皆の欲しがる物に思いをわずらわされずに。……して、お辺は湊川合戦の後は、どこに?」
「は。今は何もかもお話し申しあげる時と存じまする」
と、右馬介はこう話した。
──正成の首級を故郷の遺族にとどけてやれと尊氏から命ぜられたとき、彼は自分の奉公もこれまでと弓矢も思い断っていた。そして河内へ行き、いらい二十二年の長い間、観心寺の片すみに一庵をむすんで、人知れず正成の掃墓をしていた。
これを彼は「尊氏さまに代って」とも思ってして来た。尊氏が多年、正成へ抱いていた思慕と深い惜しみは、彼のみがよく知っている。いわば「両雄の胸に秘された私の情」は──今生相容れぬ敵──と尊氏を呼んでいた正成の方にもあった。
「まずは、さようなわけで」
と、右馬介はことばを切った。そして、連れの三名を横に見ながら。
「じつは、尊氏さまの御逝去と聞き、都へ出てまいりましたところ、はしなく職屋敷のほとりで、日ごろ親しゅうしているこの方々と行き会うたのでございました。……聞けばお三名も、明石の検校どのを訪ねて来たが、今日は当道の門人一同と等持院へお出ましの模様らしい、どうしたものかというおはなし。……ならばいっそ、われらも等持院へ行って、御法要の終るのをお待ちしていたらと、そこでかように控えていた次第でございまする。……さ、元成どの、卯木どの」
「は、はい」
「つい自分ばかり喋っていましたが、いまこそです。さあ久濶の情をお遂げなされませ」
すると、覚一の方から先にはたと膝を打って言った。
「わかりました。では、そこにおいでのお方は、むかし雨露次と隠れ名していた服部治郎左衛門どのと、卯木さまでございましょうがな」
夫婦は胸の堰を切ったように、にじり出て。
「おおようお忘れなく。……私は治郎左衛門元成、これにいるのは妻の卯木でございまする」
「やれ、おなつかしや」
と、覚一は、離れ過ぎている上座から、もどかしげに。
「世になみならぬ騒ぎにつけ、また、少しでも戦が休むにつけ、どうなされておられるやらと、おふたりのことは忘れた日もございませぬ。さ、さ、どうぞこちらへ寄って下さい」
ほかの座頭や別当や勾当たちは、そう聞くと、客の四人を急に内へ請じて、覚一のすぐまえに席をあけた。
「お、どこに。……お手は」
と、覚一の両の手は、片方に元成の手、片方に卯木の手をさぐりあてて、握りしめると。
「ああ、おすこやかよ。あれはもう二十数年も前の春の暮でしたな。けれどあの折、お別れした時の通りなお手の温みが、思い出と共にあふれてくる。ただここに母がいないのだけが淋しい」
「ほんに……」と、卯木はすぐ涙して。「私たち夫婦には生涯の門出となった一夜でした」
「それは私も同じこと。──母と私は住吉の具足師柳斎──いまここにいる右馬介の家を訪ねて行きました。──が、柳斎はいず、そこにおいでたのは、下絵描きの元成どのと、御内儀の卯木さまでした」
「そして」と、元成もいう。「もしあの翌晩の長屋騒動がなかったら、お互いの身の上や心の底などお話しあう御縁もなかったでしょうに」
「それも所は住吉の浜、四所のおやしろのある白砂の上でしたから、ひとしお胸に銘じるものがありました。世はいかにあろうとも、お互いはわき目もすまい。志す道につき進もう、そしてもし一道の芸能の士と成り得たら、何十年の後なりと、またお目にかかりましょうと……」
「ええ。そこには草心尼さまもおいでられて」と、卯木は言いふるえて「──私たち夫婦をお身に比べて励ましてくださいました。そして夜すがら四人で松落葉の火を囲み、語り明かしたその朝、浪華の河口で舟と陸とにお別れしたきり……」
「いらい母も私もさんざん修羅の巷をさまよいました。けれどおふたりを思うと私は精進せずにいられません。いつかはお目にかかる日が来よう。そのときに、消え入るような自分であってはならないと」
「ああ、今日は思いが果たされました。お目にかからぬうちから、とうに明石の検校のお名は伺っておりましたものの」
「してただいま、お夫婦は」
「修業のかいもありましてか、大和の結崎に田楽能の一座を開き、春日、法隆寺、東大寺などの仏会神事の催しごとも預かって、どうやら結崎一流の能舞を打ち創て得ようかと、なお工夫の途中にござりまする。そしてその望みは、これなる若年のせがれにかけておりますようなわけで」
「お。御子息よな」
やや離れて控えていたその若者は、検校がさぐる面へ向って、急ぎ両手をつかえていた。
その日、卯木夫婦が連れていた若者は、幼名を観世丸といっていたが、やがて観世を姓に直して、まだ二十五の若手ながら、大和結崎座の観世清次と、未来を嘱望されている者だった。
「ほう」
覚一は、おどろいたふうである。
「では、近ごろよう評判を承る観世清次とは、おふたりの仲の御子息であったのか」
「まだ未熟者にすぎませぬ。どうぞこれからはお引立てを」
はれがましそうに、夫婦は子に代ってそう言った。
そしてなお子を語る親心の問わず語りがつい続いた。住吉の浜でお会いしたときは、まだ清次は生まれていず、そのせつ妊娠っていた子も流産したので、長谷の観音へ祈願をこめて、初めて得たのがこの子であり、そこで幼名も観世丸と名づけたものであったという。
けれど生まれたのは、千早籠城の食べ物もない中だった。
卯木の兄正成が、一族すべてをつれて立て籠ったため、彼女も良人と共に籠城の辛酸をなめ、清次はそこで呱々の声をあげたのである。──だから生まれながら修羅矢たけびの中に怯え、母乳も出ぬほどだったし、はたして人なみにこの子が育つか否かさえもあやぶまれたことであった。
「それが」
と、卯木は現在の清次を、身のそばにかえりみながら。
「このような成人を見ましたのは、まったく兄正成どののお慈悲と、芸一ト筋に生きて来た賜物でございました。いえ、すべては観世音菩薩の御庇護であったのでございましょう……」
それからそれへ話は果てる模様もなかったのである。ところが、座役たちはそろそろ帰りの時刻を案じだしていた。
というのは今夜、職屋敷に職位四階以上の者だけが寄って、故等持院殿(尊氏の法号)どのに関する思い出や世評是々非々にたいする検校の意見なども伺い、かたがた琵琶の一曲を霊前にささげようではないかという申し合せをしていたのだった。
「それよ」
覚一は、卯木たちへ、急に思い出したふうで言った。
「今宵、私たちは私たちなりの琵琶供養を職屋敷の内で営みたいと存じております。いかがでしょう、綾ノ小路の宅までこれからご一しょにおはこび下さいませぬか」
「でも……」と、卯木は良人の顔を見てためらった。
「女ではありますが、この身も楠木家の一人です。尊氏さまとは生前、倶に天を戴かぬ仇敵とまで世上にいわれていた正成どのの妹。そのようなところへ交じるのは、後に世間の聞えもいかがでしょうか。もし職屋敷の御迷惑にでもなってはいけませぬ」
「ああいや、それは御斟酌がすぎるというものです。たとえ新将軍家のお耳に入ろうと何のおそれがございましょう。私たちはひとえに芸の道を以て諸民に仕え、諸民と苦楽を共にしているだけのもの、弓矢の徒ではなし、南朝北朝の争いなども知るところではありません。その点、尊氏さまにはよく理解がございました。お案じにはおよびませぬ」
綾ノ小路の職屋敷では、その晩、使用人やふつうの会衆には酒飯の追善振舞があって、それも終りをつげていたが、やがて子ノ刻(深夜十二時)ごろとなると、四職以上の盲人に客の四人、座役の数名の人だけが口を嗽いで、道場にあつまっていた。
日ごろは琵琶の祖神蝉丸像の幅が見える板かべの床には、それが外されて、稚拙な地蔵菩薩像の幅がかけられ、下には一基の位牌がおかれていた。──「等持院殿仁山大居士」のそれで、懸物もまた故人が戦陣のひまにはよく画いていたといわれる尊氏自筆の地蔵絵であった。
ところでこの夜の琵琶法要は、おもてむき故人の遺徳に報う行事として、以後は年々行われたが、初めのほどは、まだ足利幕府の力もよわく、三代将軍の義満の治にいたるまでは、なお南北両朝の争いも絶えぬありさまだったので、しぜん尊氏にたいする功罪論の是々非々だの、その人物を疑惑視する世評もつよく、それが当道の盲人にはとかく胸のわだかまりになっていたので、盲人たちは、ここの結界をたのんで、その夜は明石の検校を中心にかなり突ッ込んだ質疑や応答があったものであるらしい。
というのは、当道の一門人がそれを口授して記録しておいたものがのちに、
桐蔭軒無言録
という小冊子となって世に残されたからである。「桐蔭軒」とは琵琶道場のわきに大きな桐の木があったのでその名があり「無言」は「無絃」の意をもじったのではあるまいか。
しかし何もかもが一朝に瓦礫となるような戦も珍しくない世に、それの正本などがただしく伝えられるはずもない。おそらくは伝写に伝写をかさねて世を経たものだろうから、どこまでがほんとか、記載のことも巷説の程度以上とは信じかねる。が、それにしてもなお、数十年の大乱をただよそにしているしかなかった無明世界の盲者たちには、どんなふうに、その目あきの世界が映っていたか、考えられていたか、明暗を逆にした彼らの社会観として見るぶんにはなかなか捨てがたいものといっていいように思われる。
で、ここに当夜の模様などを描写するよりは、むしろ「無言録」の語録そのままで見る方が有効におもわれるので、その一端を次に抜抄しておくことにする。文中ではもちろん、問者は誰々、答えたのは誰と、いちいち明記はないが、質問者は大床に居ながれた当夜の盲人三、四十人(例外として目あきの質問も出たかもしれぬ)と見てまちがいなく、答える方は覚一検校ひとりであったにちがいない。
問「まず、序問の僭越をおゆるし下さい。何事も腹蔵なく問え腹蔵なく答えん、との仰せですが」
答「そのとおりです」
問「けれどそれが過ぎて、御生前の批判やら世上の悪声などに及んだら、先将軍(尊氏)の霊にたいし奉って、失礼にはあたりませぬか」
答「あたりません」
問「でも主旨の御供養にはなりますまいが」
答「いや、何よりの大供養なりと信じます。棺を蔽って定まるとか。生きとし生ける者のほんとの声を、尊氏さまも今は千万部のお経よりは、泉下で聞きたいとしておられるものと存じまする」
問「はて、いかにとは申せ、検校どのには、先将軍のお心をそこまで、御断言できますか」
答「幼少より存じあげ、かたがた、薨去の当夜まで、お枕べに近い控えの間にいて、夢寐のまもなきおくるしみや折々のおん譫言さえ洩れ伺うておりました。いささか御胸中を拝知しておる一人かと自負しております」
問「死ぬるまぎわまでおん悩みとしていた第一のことは何でしたろうか」
答「たくさんな人間をこの地上で殺したことでしょう」
問「尊氏公が殺したわけでもないでしょうに」
答「あのお方の正直さではそう逃げられぬ。でも家を興すには戦争もせねばならん、戦争へのぞむからは勝つため敵も殺さねばならん、が末始終には、これは天下の諸民を助けることになるのだ、世を安きに建て直す途上では仕方がないと、一生わき目もふらぬおすがただったものでしょう」
問「それがいつ頃からお心の悩みと変ったものですか」
答「私にもわかりません。おそらくは曲がりなりにも幕府が出来たころでしょうか」
衆声「……解せぬことのう?」
問「幕府の御成立は、尊氏公にすれば、大望成就、得意でありましょうに、なぜそれを境に、お迷いが始まったので」
答「たとえば粘土を以て一つの円い陶壺を仕上げようとなされていたものが、真二つとなってしまったからでした」
問「朝廷の両立ならば、その亀裂は昔からの古傷で、いま始まったことではない」
答「いや、何よりは足利自体の内訌です。股肱の臣と臣とが啀みあい、骨肉の弟御や異母子までが、みな主体に叛いてわが身をわが歯で啖いはじめました」
問「世間の蔭口では、それも尊氏公が政略のやり損じで、御自分の嘘から御自分を破ッたものと申しますが」
答「さよう。私もそんな気がする。一例をあげれば、清水寺の願文など、あれを書かれた御本心が疑われてならないのです。──この世の幸はみな弟直義に与えて給え、この尊氏にはただ後生のみを授け給われ──と、ひたすらな遁世の念と弟思いが溢れているあの願文なのですから」
問「それが、その弟御をついには毒殺なさるとは」
答「げに、人の心とは怪しいものです。とはいえ、清水寺の願文が嘘の文字とは申せませぬ。あれを書いたときのお心はその通りな尊氏さまであったに相違ございませぬゆえ」
問「不しつけに申すなれば、先将軍というお方は、何せい、われらどもには解らぬことだらけですが」
答「げに、矛盾にみちたお方でした。情にもろく、情のお人かと思えば人以上に冷たい。藤夜叉という女性へも、直冬どのにも、あの冷たさは異常です。そして閨房とて、ほかに入れた女性もありません。すべてを大望にかけて御自分をころし切ッていたものでありましょうが」
問「でも、その大望も、御自身ついに滅失されたのでは」
答「いや、さいごには、その滅失を取り戻そうとなされた焦躁が、直義さまを、あんな思いきッた御処置になされた、第一の御理由であったように思われまする」
問「検校。てまえにも一つ借問させていただきます。──夢窓国師は、尊氏公の長所三ツを賞めて、一は生死に超脱している、二には慈悲心ふかく人の非もよく宥す、三には無欲恬淡で物に慳貪の風がない──と。その通りでございましょうか」
答「御長所ならば、もっとありましょう。尊氏さまの周りには、つねに大どかな和がありました。ほがらかで茫洋で、小さい事にはこだわらず、お気楽で威張ったところが少しもない」
問「ではずいぶん人好きのするお人柄としか思えませぬが」
答「そうです。たとえば八朔の朝など、諸家の進物で広間が埋まるほどな物も、そばから人に与えてしまうので、夕には一物もなかったということです。ですから土地なども奪るにしたがって武士どもに分け与え、御自身は権力すらも実はそんなに欲しがっておられなかったと思われまする」
問「だのになぜ一面では、権謀術策、無情苛烈、血も涙もない政略家のように誤られたのでございましょうか」
答「いや、それも誤りではありません。悪と善、鬼と仏、相反する二つのものを一体のうちに交錯して持つふしぎな御仁」
問「すこし分ってまいりました。後醍醐天皇とのお争いなどもそれでしょうな」
答「これまでの歴代にも現れなかった烈しい御気性の天皇と、めったにこの国の人傑にも出ぬようなお人とが、同時代に出て、しかも相反する理想をどちらも押し通そうとなされたもの。宿命の大乱と申すしかありませぬ」
問「その大乱というのが、てまえども庶民、わけて盲人の身には、何のためにやってござるやら、武家衆や公卿衆の、正気のほどが解りませんが」
答「たれにも解ることではございますまい。もし足利殿なかったら、戦争は起らなかったか。後醍醐のきみが武家に取って代る御謀反気を持たれなかったら、かような乱世にはならなかったか。そんな単純には言い解けませぬし」
問「では誰が、いや何が、こんな凄まじい世にしたのでしょうか」
答「下手人はないのですよ」
衆声「ほう? ないとは」
答「しいてあるといえばあるともいえましょう。一部の陰謀や火ツケで出来るものではありません。全土に素地ができているから始まったことなのです。源平、鎌倉、北条と長い世々を経てここまで来たこの国の政治、経済、宗教、地方の事情、庶民の生業、武家のありかた、朝廷のお考え──までをふくんだ歴史の行きづまりというものが、どうしてもいちど火を噴いて、社会の容をあらためなければ、二ッ進もさっちも動きがとれない、そして次の新しい世代も迎えることができない、いわば国の進歩に伴う苦悶が何よりな因かと思われまする」
問「では、何十万の死者も、その犠牲というわけですか」
答「北条殿、新田殿、足利殿、そして後醍醐のきみも、正成どのも、犠牲であるに変わりはない」
問「ほかに工夫はないものでしょうか。そんな殺し合いをしないでもすむ──」
答「それが智恵です。けれど人間はまだ悲しいかな、そこまで叡智の持ち主でありませぬ」
衆の声「はアて? どうじゃな同朋たち。検校どのの今のおはなし、合点がゆくか」
衆「いや合点なまいらぬ。大乱の因は地震のようなもので、火ツケの悪徒のせいではない。ただ、人間全体が叡智にさえなれば、戦はなくてすむという仰せだが」
答「ま、同座の衆、お静かに。今の言い方では宇宙から下界を見たような感をうけたかもしれぬが」
衆「その通りじゃ。こんな馬鹿な戦を果てなくやっていられたら、人間全部が一生の五、六十年はまるつぶれになってしもう」
答「ならば旧態のままでよいか。それも不断に進む世の自然に反します。行き詰りの世が腐りだすと、腐り放題に腐えてゆく。いやでもまたその無秩序や不平が恐ろしい不安を醸して来ますのでな」
問「と仰っしゃるのは、庶民も戦争の手伝い人だと仰っしゃるので」
答「庶民は戦争にふるふるです。ですが時には、事を好む弥次馬性と射倖心にもうごかされやすい」
問「なるほど、そんな浮浪もいるにはいますな。けれど戦争の元兇は、やはり権力の中に住む人間どもにありとしか思われぬ」
答「……権力。そうです。権力欲とは何なのか。摩訶不思議な魅力をもって人間どもを操り世を動かす恐ろしいものに相違ございません」
問「天皇、女院、将軍、執事、大名、大名の下の武士、みな権力に憑かれて、それが戦争の」
答「ああいや、他を言って自分を措いてはいけません。それは私たち盲人の中にさえあるものだ。この座のうちにも潜んでいるものです。恐い。何がといって、権力の魅力ほど恐いものはない。下手人はこれと見つけたり! としておきましょう」
問「では話をかえて。──当今の武士の廃れは嘆かわしい。裏切り、偽セ降参などは朝飯前。これを源平時代の武士にくらべると、雲泥のちがいですが」
答「堕落も泥ンこも、次へたどりつく途中と思えば」
問「ではまだ当分続くのでしょうか、こんならちゃくちゃのない風潮と、暗黒時代が」
答「が、必ず朝は来ます。朝の来ない夜はない」
問「何か、曙の兆しが、ちょっとでも何処かに見えていましょうか」
答「それはある、萌えかけている」
問「どこにです」
答「地の下、つまり庶民の中にです。長い戦乱は、みなを苦しめたには違いないが、庶民の生活はいつともなくずんと肥えていましょうが。外へこぼれ出た宮廷の文化。分散された武家の財力、それらも吸って」
問「そういえば、虐げられつつ、庶民の生活は枯草のように、前より根強くなり進んで来ておりますな」
答「自分の力に自覚を持って来たからです。田楽能一つに見ても、以前は権門の物でしたが、当今では、河原小屋や辻能で、庶民に愛され、庶民が育てているものとなっている」
衆「いかにも、いかにも」
答「また、われら盲人にしても、このような職屋敷を持ち、以前にはなかった職能と人なみの生活を得たのは、やはり暗黒の世の陣痛が生んでくれた一つの光明であったのではないでしょうか」
問「光明……今の世にも光明があるとは初めて伺いました……。無限の暗黒、無限の合戦、無限の南北両朝のお争いかと悲しまれておりましたが」
答「長い時の流れからみれば、わたくしどもが見た半生の巷など一瞬のまに過ぎませぬ。大地とはそれ自体、刻々と易ってゆく生き物ですから、易るなといっても易らずにおりません。そして易り易ってゆく地上には、時にしたがって時代の使命を担った新しい人物が出現して来る」
問「そして次の時代を耕すというわけですか」
答「そうです。それが血で耕されるような季節こそ人間最大な不幸の時期に当りましょう。思えば北条殿、新田殿、足利殿、また後醍醐のきみや、幾多の連枝、廷臣もみなこの時に生れ合せて、いやでも越えねばならぬ悪時代をこえるために戦ったものとも申せましょうか。……と私は考えるのです。そう思い去り思い来ると、何十万の白骨もくるめて、上下なく、誰も彼も、ただあわれでなりません。……このあわれを誰よりもよく知って、人間の叡智を持てと、あえてすべてを祈りへ捧げて壮烈な自滅を取ッたようなお方もただ一人はありました」
問「それはどなたです」
答「正成どのです」
衆「……ああ、げにも」
問「しかし、それでは運命とは何と不公平なものでしょう。楠木殿のようなお方もある一方、佐々木道誉どののような世渡り上手で狡いお人が、憎ていにいよいよ栄えておりましょうがな。やはり正直者はばかをみるということですかな」
答「さよう一概にはいえませぬ。道誉どのの無節操や婆娑羅ぶりも、武門の風潮で、あのお方一個が狡くて驕慢なわけでもない。むしろ憚りなく、生きたい生き方をやって退けるなどは、それも一流の正直で独自な頭の良さともいえましょうか」
問「ほ、これは意外な御賞揚ではある」
答「いや賞めはしません。ただ宇宙は人間それぞれの性をよく公平に〝時の役割〟に使っていると言いたいのです。彼が道楽に創めた立花(生け花)、闘茶(茶道)なども、やがて観世清次どのの舞能のごとく、案外、ゆくすえ世の文化に大きな開花を見せるやも知れません。なべて人に役立つものは亡びない。けれどどんな英傑の夢も武力の業はあとかたもなくなる。ですから、もののふとは、あわれなのです。とくに尊氏さまの御一生などは、無残極まるものでしかない」
問「が、お名は千載に残る」
答「いや、それも覇力の名ですから時の移ろい次第です。ひとたび足利氏が衰えれば、逆賊、佞将、涙なき権謀の人物と、あらゆる悪名や人の唾を浴びるときがないとも限りませぬ。……ですがわが仁山大居士はもう御観念でしょう。何事も大悟して、世の流れのままにどんな毀誉褒貶もあの薄らあばたを幻として地下に笑っておいであるに相違ございませぬ」
×
以上、桐蔭軒無言録の問答記事はここで終っており、項をべつにして、次にはつづいて行われた仁山大居士琵琶法要のもようと、観世清次の手向け能があったこととが記されている。
職屋敷始まって、始めてのことであろう。
──検校以下、別当、勾当、座頭が一堂に集まって、しかも丑満下がり、おのおの琵琶を抱いて、故人の亡魂をなぐさめるため、当道の秘曲をささげるなどの例は稀れにもなかったことである。
大床に居ながれた盲人四十余名は、やがて上座にある明石の検校の、
「いざ」
というあいずを聞くと、各自、うしろにおいていた琵琶のふくろを解いて、絃を調べ出した。そしてしばらくは大勢の絃のしらべや転手を締める音などで床はただ水の乱声するような風情でしかない。
が、すぐ粛となる。
そしてみな、仁山大居士の位牌の方へ坐を向け直して一せいに低い礼をする。
検校の撥に始まって、四十数面の琵琶がいちどに奏でられ出した。詞は平曲のうちでもきわめて淡々と無常を謡い上げている筋のない一節であり、歌詞はないにひとしいくらいなものだった。けれど四絃の変化と音色は当道覚一流の玄妙をつくして余すところもなかった。
そもそもまだ覚一も小法師の頃から、彼の、黒い網膜に映じていたこの国の内乱と諸相は、彼の琵琶にもつよい影響を与えずにいなかった。
彼の悲泣は絃に宿って人の世の黒業白業を傷む曲となっていた。単なる無常観に終り切れないで、如法長夜の闇にもなお朝の光を待ってやまないもの。それが明石ノ浦から興った当道覚一流の格調だった。
だから新しい。どこか明るい。一同、弾奏を終って、礼をすましたあとも、余韻はなお、盲人たちの明日への希望をどこかにただよい繞らせていた。そしてこのあいだに、観世清次は、道場の一隅で能舞に立つ身支度をし終り、琵琶をおいた大勢の者がひと息つくさまを、こなたで謹んで待っていた。
これはあらかじめ、検校とのあいだで「御縁にひかれてこよいの御法要につらなるからは」と、ふと話が出来あがっていたことにちがいない。元成が自作の一曲を清次に舞わせて、いまは敵も味方もない足利殿と楠木殿の霊に併せて回向したいと望み出たのである。もとより覚一に異存はなく、願うてもないよい御回向とよろこんで、盲に見られるものではなかったが、
「故人の霊も目でごらんあるのではない。われらも心の眼で拝見させていただきましょう」
と、なったもの。
すでに、宵の打合せで、小右京には鼓をたのみ、元成が太鼓を勤め、卯木は笛を持つことになっていた。地謡を謡い出たのは老法師右馬介である。──それにつれて、大床の中ほどへすすみ出た観世清次は白の小袖に白地に銀摺の大口袴を穿き太刀を横たえ、尉の仮面をつけていた。
驚くべきことには、仮面は余りにも正成の顔に生写しだった。しかし、いわれなきことではない。これは湊川へのぞむ前のあの哀しい諦観と苦憂の半ばにあって、ただ永劫へかけての和と人の善智とを信じようとしていた当時の正成を、仮面師赤鶴が一心に鑿に写しとっておいたあの一作であったのだ。
地謡を謡う顔も、笛をふく白い顔も、いつかみな濡れていた。舞は湊川の矢たけびをここに呼び、討つ者、討たれる者の、ひとしいあわれさやら、矛盾の世が生んだ矛盾の子尊氏と、悲心のひと正成の祈りとを、清次の一つ姿に、足拍子もとどろに描き──そして舞い終ってもなおなかなか終る気色はなかった。
「みな琵琶を把り給え」
と、検校の声がかかっていたからである。四十余面の琵琶は、ただ松風と浪音の宇宙のひびきを一せいに奏で出し、連れて、笛はさけび、つづみや太鼓もまた、清次のすがたをかりて地上の人みなの平和の願いを打ち囃すがごとくであった。なんらの違和もない不思議な楽のあらしとなって。
いつか外には外で小鳥のさえずりがしはじめている。小鳥の世界だけでない人間界の夜明けもついそこまでは白みかけている朝かのような今朝であった。
底本:「私本太平記(八)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1990(平成2)年5月11日第1刷発行
2009(平成21)年12月1日第27刷発行
※副題は底本では、「黒白帖」となっています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:トレンドイースト
2012年11月9日作成
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