私本太平記
湊川帖
吉川英治
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まだ葉ざくらは初々しい。竹窓の内までが、あら壁もむしろも人も、その静かな、さみどりに染まっている。
「…………」
正成はさっきから赤鶴の仕事にしげしげと見とれていた。天野沢の金剛寺前に住んでいる仮面打ちの老人で──越前の遠くから移住してきた者だと、この道にくわしい卯木夫婦から聞いている。はじめにここへ彼を案内したのも、卯木の良人の治郎左衛門元成だった。
それからは、まいど金剛寺へ来るごとに、
「赤鶴、すこしのま、邪魔させてもらうぞよ」
と、正成は遠慮しながらも、よくこの小屋へ立ち寄った。
細工場はいちだん低い土間になっている。のみを砥ぐ砥石やら木屑やら土器の火入れなど、あたりのさまは、らちゃくちゃない。──しかし人のあるなしも打忘れて仮面を彫りにかかっている一老翁のすがたと呼吸をじっとみているうちに、正成もいつかしら共にのみを持って一刀一刀に精魂をうちこめているような境地にひきこまれるのがつねだった。──そして、いいしれぬ忘我のこころよさを内にさそわれてくる。
「……翁は幸福な」
と、うらやまれずにいられなかった。
ただに幸福なばかりでなく、彼の仕事はのこる──
卯木の良人も言っていた。「赤鶴一阿弥は近ごろの稀れな名人です」と。
しかも賃銀は、一作の仮面も、なお一俵の玄米にもならぬ程だそうである。でも不足顔ではない。充ちきっている。しかもこの芸魂の物はあとにのこり、世々の人を愉しませるにちがいない。
翁はそれがよろこびでこう老いも知らない燃焼に日長もわすれているのだろうか。いや、そんな名利もまったくないのかもしれぬ……。ないだろう、無我な仕事ぶりにはそんなふうなどみじん見あたらない。
正成は、つい、かえりみる。じぶんらの武門、武士というもの、それらの世界の人間はどうか。
──こうしているあいだじゅう、彼は何かはずかしさにしびれ、自身がこのへんの領主であるなどは、思ってみるのも辛かった。なぜ武門には生れたろうか。ひそかな悔いすらおぼえるのだった。
いやいや、とまた思う。──この仮面打ちの老翁にしろ、語らせれば、人間の子、その生い立ちから、この年まであるいてきた世路の途中では、さまざま、涙なくては語れぬような過去も持っているかもしれない。おそらくはそうだろう。──生国にもいられず、こんな他国へ来て、孤独をこうしてひとり侘び暮らしているからには。
「……それにしても、なおまだ正成ごとき者よりは、ましか」
彼が、そんな雑念に、ふと、竹窓へ目をそらしていたとき、一阿弥もまた、老いの腰をのばしていた。そして正成のその横顔を、土間のむしろから、じっといつまでも見上げていた。なにか物言いたげな、しかし言い難そうな口もとだった。
自分の横顔になにを仮面師の赤鶴は見ているのか。
正成は見られていることに気づいていた。赤鶴の目はその手に持っている仮面を彫る鑿その物のようだったのである。が、正成は元々彼の素朴を愛していたからべつに咎めるふうでなく、
「……赤鶴。なんでおまえはそのように、さっきからわしの顔を見つめているのか」
と、ただ訊ねた。
すると、赤鶴一阿弥は、ひどくハッとしたらしい。領主へたいして意識なくついしていた自分の不作法から我に醒めて、あわててその眸をやりばなくしながら、
「いえ、べつに」
と、言い吃ッて。
「おゆるしなされませ。わざと、お見上げしていたわけではございませぬ。ついその、仮面師のわるい目癖というものでございましてな」
「目癖。……ほう、仮面師の目癖とはどういうことか」
「仮面打ち根性と申しましょうか。どのようなお人へも、ぼんやりとただお顔を見てはいられないのでございまする。長年、仮面打ち一ト筋に生きてまいりましたせいか、人さまさえ見れば、すぐそのお顔を生き手本と見て、不遠慮な眼ざしを凝らしてしまうことが、つい毎々でござりまして」
「なるほど」
「媼を見れば、媼の目皺。荒くれを見れば荒くれの眉。かなしみ、よろこび、哀楽の色。女性も餓鬼も貴人も乞食も、仮面打ちの目にはみなありがたい生き手本でござりますれば」
こう聞いて、正成はまたひとつの感銘をかさねた。なろうことならこの老翁と小屋の木屑でも焚いて一ト晩かたりあってみたいほどな興味をもった。けれどままならぬ身であったのはもちろんだし、ちょうどそのときも、彼の帰りの遅いのを案じてのことだろうか。──水分の方から馬で安間了現と桐山小六の二人がここへ向って飛んで来る姿が、道のはるかに見えていた。
外の葉桜に駒をつないで、さっきから、おあるじが立つのを待っていた郎従たちは、
「殿。殿。……何やら急なお迎えの者がこれへ見えるようでございます」
と、はやそのことを、小屋の内の耳に入れ、正成もまたそのしおに、すぐ外へ出て来て、近づく家人の姿を待っていた。
「了現か。何事だ」
「おう、これにおいでなされましたか」
小六と共に、馬の背からとびおりて──
「ただいま、水分の方へ、都からのお使いが御到着なされました」
「はて、さきごろも見えられたが、武者所の三善殿か、長井殿か」
「いえ、このたびは、ご勅使にござりまする」
「ご勅使」
屹と、響きのひろがりに、身をつつまれたような姿勢で。
「どなたを以て?」
「されば、洞院殿のおん弟、実夏卿とうかがいました。とりあえず、客殿にて、しばしおくつろぎをねがい、龍泉さま(正季)へも即刻お告げ申しておく一方、かくはお出先へまで」
「そうか。すぐもどろう」
正成は、駒の鞍わきへ寄って、片手をかけた。
あわただしい数日が、水分ノ館を中心に過ぎていた。
都からみえた洞院ノ実夏が、この家へ勅をもたらして帰ったあの翌朝からの、うごきなのである。──とくに龍泉の正季は、来るべき日が来たものと近郷の同族間をかけまわり、自邸の家人もみな赤坂城に移して、
「このたびこそは、一期の大戦となるだろう。未練をあとにのこして立つな」
と、出陣のしたくを励まし、また、郷土の兵には、郷土に残る家族との名残りを努めて惜しませていた。
赤坂城の復旧はまだ六、七分しかできていず、工事は半ばなのだった。しかし近郷の同族は、数日のまに、ぞくぞく、これへ集合していた。ここを起点に、兵庫表へ発向ときまったもので、さきに洞院ノ実夏が、正成へ、
勅のお召
と、つたえて来たみことのりへの応えだったのはいうまでもない。
ところで、当の正成は、なお赤坂城へも姿をみせてはいなかった。すべては水分ノ館のおくから弟の正季、祐筆の安間了現、久子の兄松尾季綱らにさしずしていた。そして、居ながら金剛、葛城の山波が望まれる彼の居室は、いつものようなひそけさで、今日は爺の左近をよんで、なに思ったか、
「蔵帳一切をこれへはこべ」
といいつけていた。
彼は、それらの検見帳から、領下の戸帳や蓄備倉の表や年貢控えなどを克明に見終っての後。
「爺、おととしかな、ひどい春の別れ霜と、そして夏はまたひでりで、この山里が、えらい不作にみまわれたのは」
「いえ、あれはもう、さきおととしのことでございましょう」
「そうか。するとここ両三年は、まず百姓も、少しは息をつけたわけよの」
「ま、何かと、よんどころない軍需の御用は徴せられておりますなれど」
「む。この大乱がおさまらぬかぎりは、百姓にも楽をさせてやりようはない。……したが、今度という今度の一戦では、いやでもこれをさいごに世の覇者を決し、いわば大風一過の世となるだろう。そしたらむごい兵糧米の加役なども徴するにはおよばなくなる。せめてここの領下の民にもはやくそうしてやりたいものだ」
「なかなか、きのうきょうの聞えでは、西からのけわしい風雲、さようにうまくまいりましょうか」
「わからんの……爺」
「爺も一期をかくごしておりまする」
「いや、そちは残れ、あとも大事ぞ。……この蔵帳の要務なども、家職のそちよりほかに預けおく者はない。ともあれ、世も小康と見えたら、館の費えなどはツメても、まず百姓の年貢を先に下げてやれよ」
「こは、何を仰せかと思えば、いまわしい、後々のおたのみごとなど」
「さむらいの門出、あたりまえなことでしかあるまい。正成もぼつぼつ心じたくだが……。さて、南江備前は、どうしたろうな」
「まことに、もう戻ってもよいじぶん。……いや今夜あたりは、馬にムチ打って、吉左右、これへもたらしてまいりましょう」
理由なくおちついていたわけではない。じつは心待ちがあったのである。むしろ正成の心は、気が気でないものだったかもしれなかった。
その急使は、洞院ノ実夏がここへ臨んで勅をつたえた当夜の真夜中、すでに正成の或る密命をうけて、河内からみなみの遠くへ、馬をとばしていたのだった。──一族のうちでは、もっとも寡言だが重厚な人物といわれる南江備前守正忠に、正成の甥、楠木弥四郎もついて行っている。
どこへ?
とは、正成と爺のほかには、たれも知らない。
しかしその夜からかぞえてもまだきょうは六日め、さきの返答をえて返るには距離から考えてもむりである。……爺の左近は正成が見終った沢山な簿冊を両手にかかえてひとまずそこをさがってきた。そして納戸へむかって主屋の大廊下をまがりかけると、
「じい」
「じい!」
「それ、なに」
たちまち、次男の正時、三男の三郎丸(正儀)。それに卯木の子の、まだ四ツでしかない観世丸までが、一しょになって彼の足もとにからまって来た。
「オオ、これはこれは」
「じい、逃がさないぞ」
「見つかりましたな」
「見せて。それを」
「これはだいじな御書類でござりまする」
「うそだい」
「いえいえ、和子さまたちが御覧になってもつまらぬものでしかございませぬ。けれど御領下の百姓やお家にとっては大切な物なので、ただいま、納戸の御書類棚へちゃんと納めに行くのでございますでな」
「でも、絵本だってあるんだろ」
「そんな物はございませぬ」
「あるよ」
「ございません」
「あるじゃないか」
「あ」
爺が身をかわすまに、抱えていた簿冊のあいだから、すばやい子供の手が、チラと彩色の見えた検見絵図の一帖をさっと抜きとって、もう下でひろげだしていた。のみならず爺は抱えていた山も下へ崩してしまッて、怒りもならず、拾いあつめながら。
「さ。和子さまたち。お返しください。絵でも何でもございますまいがの」
「じい。そっちのは」
「ほれ。こちらのは、このとおり、なおつまりません」
「もっと、下のだよ」
爺の左近はもてあまして、もうなすままにまかせていた。すると、ひと間から出て来た卯木が、小走りに、
「ま……。観世丸までが」
と、そこへ来て、まず一ばん小さいのから順々にあやして、ともかく、爺を無事に逃がしてくれた。
その代り彼女は三人にまといつかれて、元の部屋へは帰れなかった。で、ぜひなく庭へ遊びにつれ出して、「そっちへ行ってはあぶない」また「こっちで騒ぐとお兄さまのお勉強の邪魔になる」などと走り廻って見ているうちに、どこかで、誰か、
「卯木さま。卯木さま」
と、呼ぶような声がする。
ふと見ると、侍長屋と庭ざかいの垣の外から、金剛寺前の仮面作り師、赤鶴一阿弥が、こちらを覗いているのだった。
「ま……」卯木はそこの木戸をあけて「おめずらしい。赤鶴さまではございませぬか」
一阿弥は小腰をかがめた。
「はい。めったに外へ出ぬ不精者でございまするが、今日は」
「なんの御用で」
「じつは、先日てまえの小屋へ、御領主さまがお立寄りくださいましたせつ、あとで気づいたのでございますが、お忘れ物をしておいでなされましての」
と、一阿弥はふところの物を、捧げるように、卯木の掌へ手渡した。
錦の小さい金入れの巾着で、こがねか銀が入っているのかもしれなかった。たなごころに、ずしりと重い感じがする。
「ほんに、これはおやかた様のお持ち物にちがいありませぬが」
「あなたさまから殿さまへ、よしなに、お返し申しあげてくだされませい。用事というのはただそれだけのことなので」
と、さっそく帰りかける姿へ、卯木はあわてて、
「でも、ちょっと待っていてくださいね。すぐ来ますから」
と、彼女はそれを持って、元の庭のうちへ小走りにかくれた。
卯木の目を離れた幼子たちの姿は、もうどこにも見えはしない。彼女は西の対の屋へあがって行った。そしてしばらく室内で正成と話していたが、まもなくまた垣の外へ戻って来て。
「赤鶴さま。どうもお待たせいたしました」
「なんの、なんの」
「正成さまの仰せには、これはお忘れ物ではないとのことでございますよ」
「はて、そんなわけはございませぬ。たしかにこれは」
「いえ……御承知の上、つまりあなたへ差上げる思し召で、わざと置いてお帰りになったのだそうですから」
「えっ?」
と、彼女のさしだす物へ手を振って。
「めッそうもない。そのような物を、わたくしめが、いただくいわれはございませぬわい」
「ですが、おことばでは──たびたび赤鶴の小屋へ立寄っては、仕事のさまたげをしたことゆえ、さだめし迷惑なことであったろう、と」
「どういたしまして、てまえの拙い仮面作りを、どこがお気に入ってやら、一心に見ていただき、その都度、いつも張り合いを覚えたほどでございまする」
「では、その御褒美のおつもりなのでしょう。いッそありがたくいただいておきなされませ。そして、いちばい御精をこめて、いつかいちど佳いお作を打って、お目にかけたらよいではありませんか」
「……なるほど」
一阿弥は、やっと得心がついた容子で、その物をおしいただいた。そしてふところ深くへ仕舞ってからもういちど庭ごしの遠くの屋根へお辞儀していた。
「そのおことばで、じつはいま抱いている思いを申しあげてみるのですが、ありがたいこの御恩施をもって、ならば、ぜひ彫り上げてみたい一作がないわけでもございませぬ」
「春日へでも納めたいと希っているお願かけの仮面ですか」
「いえ。ここのおやかた様のおん生顔を、ぜひ一つ写してみたい料簡でございまする」
「え?」
と卯木は目をみはった。
「おやかた様の生顔を仮面に写してみたいというのですか」
「……で、ござりまするわ」
はなしが自己の仕事となると赤鶴のひとみは、壮者のような張りを持って、それまでの卑下などはもうどこにもなくなっていた。
「やってみたい! 今日まで歩いてきた世間の中の、どこにも見たことのないお顔ですわい! 鑿にかけて、自分の力だめしに彫ってみたい」
うわ言に似たつぶやきと共に歩きだしてもいるのである。卯木もひきずられるように小道の横へ入っていた。一阿弥はそこの真ッ黄色な山吹の叢を見ると、
「ごめんなされい」
と、山吹の黄に染まった平たい石にこしをおろした。
「どうしてですの?」と、卯木もそこへうずくまりながら、追い打ちをかけて「……どうして、赤鶴さま、そんなお望みを持ったのですか。おやかた様のどこがそんなに?」
「いや、おわかりはいただけますまい。しごくありふれた世間なみのお顔といってよろしいのでな。……けれどさき頃ふと、手の鑿も不作法も忘れて見入られ申しまいたのじゃ。……めッたにあるまじきふしぎな御人相をお顔の一枚下のお顔にたたえておられる。赤鶴の目だけがそれを見つけだしたと思うてくだされい。とにかく、異相とは見えぬが一種の御異相」
「それを、もっとくわしく、わかるように、仰っしゃってはくださいませぬか」
「さあ? のう……」と、目も眉もひとつにふさいで。
「ゆたかな、慈悲のおん相にはちがいない。けれど阿修羅もおよばぬすさまじい剣気を眸に持っておいでられる。したがその猛も貪婪な五欲には組み合わず、唇と歯には智恵をかみわけ、鼻、ひたいに女性のような柔和と小心と、迷いのふかい凡相をさえお持ちであらっしゃる。卑賤の親とは慕われようが、決して貴人の相とは申されぬ」
「…………」
「いやいや、言い違えた。貴相ではあるが、その貴相は、福禄のそれではなく、堂上におごる人のそれともちがう。どうみても我利我欲の強さには欠けている。では私の自我心はないのか。それもちがう。おそろしい大自我、いわば大私といったような御自分の自信はなんぴとよりもお強く巌みたいにその貌心の奥に深く秘めてはおられる」
「…………」
「これは稀有なお顔じゃわい。たまたま人間の中に生れた一個のめずらなおひとがここの御領主であったわえと、つい、仮面作りの根性から、そのせつ、見惚れ申したことでおざりまいた。……だが、ただひとつ、どうにも気がかりなことがありますわい」
「気がかりと仰っしゃるのは」
「申すまい。……いや、あなたさまだけには、そっと申しあげておいたがよいか?」
「なにをです。赤鶴さま、聞かせてください」
「てまえは人相観でおざりませぬゆえ、中らぬかもしれず、中らぬことを祈ってはおれど、御領主さまのどこかには、可惜、死相の翳がみえまするで……」
「まッ、不吉な!」
卯木はおもわず小さい叫びに似た声で。
「おやかた様に死相の翳がみえるなんて……。そ、そんなこと、思うだに、いまわしい! 赤鶴さまえ! 予言者でもないそなたに、何でそのようなことが、言い断れるのですか。分るのですか」
顔の色まで変えて、彼女は彼の呪師めいた言を、そのからだから振り払うように抗議する。怒ッてさえ見えるのだった。
赤鶴もこれにはとむねをつかれたらしい。仕事の話となると、いつもすぐ仮面作りの権化となってしまう半喪心の状態から、ただの貧しい一面の仮面彫り職人に返って、急に、雄弁だった舌の根もどこへやら、
「いえ。け、決して」
と、どぎまぎ、吃ッた。
「た、ただ、そんな気がしたと、申しあげて、みたまでで」
「だって。時も時です。いくら世情にくらい仮面作りのあなたでも」
「わ、わかっておりまする。きのうきょう、御領下の駒音でも」
「……でしょう。……この御本屋でも、赤坂城でも、ご出陣のせまっている今。わたくしたちの端までが、どうぞ、いくさに勝って、おつつがないお帰りの日があるようにと、胸のいたむほど、祈っているときだというのに」
「……申しわけございません」
「ああ、打ち消されても、なにやらもう」
「どうぞ、お気にかけてくだされますな。世事学問、何ひとつ知るではない仮面師風情のたわ言よとおぼしめして」
「でも、赤鶴さま」
「へい」
「ほんとに、あなたには、おやかた様の翳に、どこかそのようなものが感じとれるのでございましょうか」
「ごかんべんを……」と、一阿弥は、もう骨のない頸筋の持主みたいに「ついつい、つまらぬ戯れ言を口にしますので、村人からも、あれは半気狂いじゃ、ほら吹きよと、とかく嫌われておりまする私なので」
「ではほんとに、しんからそう思ったわけではないのですね」
「いけません」と、あたまをかかえ、そして腰を浮かせながら──「どうかもう、それにはお触れ下さいますな。お忘れくださいまし。はい、このとおりおわび申しあげまするで」
いかにも悄ンぼりした姿で彼はひょこひょこ帰り途へ歩きだしていた。その背は彼女のひとみの中にかすんでいた。彼女にはうすうすながらこんどの戦にのぞむ正成の心がわかっていないこともない。とくにいつもの発向とちがってこの数日をまだ御本屋のおくから起たずにいるなども、なにか後々のことまでを何くれとなく処理しておいでになるのではないかなどと女心の察しもしていたところなのである。
──やがて、彼女も主屋へ帰った。そしていつものように、釜殿の大土間で夕餉働きをしている女童や下部女にさしずなどしていると、遠い所の表門で、あわただしい駒音がひびいていた。
爺の恩智左近や、そのほかの侍たちが、すぐ駈け出て「──お待ちかねぞ、すぐ奥へ」と、いう声などもせわしない。思うに、紀州の遠くへ使いに行っていた南江備前守と楠木弥四郎たちが、昼夜わかたず、急いで帰って来たものにちがいない。
待ちかねていた者たちの帰りを、正成はいまたそがれ時の燭に見ていた。
甥の弥四郎と、南江備前守とで、もう一名は途中の和泉から使い先へ加わって行った──これも一族の和田修理亮助家だった。
「えらかったであろ」
正成は、いたわって。
「助家も紀州田辺まで同道してくれたか。大儀だったな」
「いえ。……お力添えの足しにもならず、やはり田辺に入ることはさえぎられ、切目ノ宿の別当の御別院にて、別当定遍どのの代表と称せられる法橋殿にお目にかかり、御当家よりの要旨を申し入れ、まずは懇談だけはとげて、たちかえりましてござりまする」
「では」
正成の声の裏には、予想されていたものと、なかば、淡い失望の容子とが交叉していた。
「このたびも、ついに田辺までは、立ち入れぬわけだったのだな」
「なにせい、切目ノ王子より内は、熊野三山へかけて、きびしい領界の制を布いておりますことなので」
「ぜひもない。さきには、田辺へ降られた勅使すら別当には会えずに立ち帰ったとやら聞いておる。……したが、切目の法橋との会見では、正成から要請の一条、容れられそうか、あるいは、まったく見込みもなさそうか」
「その儀は」
と、備前守正忠が、
「決して、望みなきではございませぬ。とくに切目の法橋は、たしかな宮方お味方の一人と見奉ってござりまする」
と語をつよめた。
「……そうか」
正成はしかし、頼みの一端も達しられたとしている容子ではなかった。といって暗然たる翳でもない。ただ過去、また今、いつも難しい対熊野勢力への思いをふたたびしているのである。
船、船、船
田辺が持つ熊野水軍
正成がいま望んでやまないのはそれだった。
だが熊野三山のうちも、決してこの時乱に一つではなかった。朝廷がた、尊氏がた、その内部勢力は、ま二つに割れていた。
すでに、過去においても、大塔ノ宮が、御潜行中の身を、いちどは、熊野にかくそうとなされた日もあったが、やはり事むずかしく、切目ノ王子から吉野の奥へ引っ返された例さえある。
まして今は、東上中にある足利軍が、断然たる優勢ぶりを、海陸にとどろかせているのである。──名だたる熊野海賊とよばれる水軍と海上の耳目をその勢力下にもっている田辺、新宮、那智の三山がこれに無関心でいるわけはない。
おそらく、尊氏からも、すでに筑紫を発するまえから、あらゆる招致の手段は、すでにしつくされているであろう。
もちろん、朝廷からは、数度におよぶ詔も勅使も降っている。
が、その反応は一こうにみえていないし、正成の観察では、すこぶる心もとなかった。彼が派した田辺への働きかけも、この期における彼の前提戦略として、どうしても、よそにはしておけぬことだったのだ。
要するに──
熊野水軍の向背は、どっちとも、これを俄に予断することはむずかしい。
帰するところはこれからの戦局次第だ。大勢のいかんによって微妙なうごきを見せ出すことであろう。──正成はそう観る。──そしてこれ以上な策もいとまも今はあるまいと、腹をきめたようだった。
「……ですが」
と、三名のつぶさな報告も、やがて終りかけてから、甥の楠木弥四郎が、
「田辺の別当をめぐる一群の熊野衆には、尊氏方あり、日和見もありですが、われらがお会いした切目ノ法橋どのは、われら楠木党へきつい肩入れの御仁でございましたな。なあ助家どの」
と、あとをまた、助家のことばに譲った。
「されば──」と、助家はうけて「万が一、別当どのが怯んで、朝廷方へお味方せぬばあいには、一味同心だけをすぐって、一船陣を作り、尊氏が兵庫へせまる日、かならずこなたは紀伊水道から摂津ノ沖へ出て、御加勢に加わりましょうと、その法橋どのは、かたく申しておりまいてござりまする。……そして、頼みと思われる家々は」
と、指を折った。
日高南部ノ荘の小山党、または愛州党。
潮崎の潮崎党。
神宮領の湯川、色川党。
なお、鵜殿党、何郷の党と、十指にあまる熊野武族の名が、かぞえられた。
もし、それだけの党の舟軍でも相違なく御味方に参じてくれるものならば──と、正成は祈りにも似る一縷の希望をそれにかけずにはいられない。けれど弥四郎、助家らがいうていどの約言に、あまりな期待をもちすぎるのは兵略として、すこぶるあぶないことでもある。努めて抑止していなければ大蹉跌を見まいものでもない。もとより正成は、うなずき、またうなずき、胸におさめていただけだった。
「まずは、なすべきこともなし、正成のこころもきまった。疲れたであろ。備前、ほか二人もやすむがいい」
「せっかくな御使命も、ご期待ほどにはまいりませいで」
「いや、満足満足」
「では御出陣も」
「あすのうちか。ともあれ、こよいは充分に寝ておけよ」
その三名が立つと、正成はすぐ、弟の正季、義兄の季綱、ほか安間、和田、橋本、神宮寺などの一族中のおもな者七、八名を赤坂城へよびにやった。──いや正季、季綱などは、この夕、すでに館の内に来て、正成がよぶのを待っていた。
やがて。
一同の席は広書院に変えられ、人出入りを断ち、燭は更けていた。──そして熟議をとげ終ったこの人々の影が、また赤坂城へもどって行ったのは、もう真夜中ぢかいころだった。
帰りしなに、正成から、或ることづてをうけていた正季は、城内へはいるとすぐ、妹の卯木の良人、服部治郎左衛門元成を、武者溜りからよびだして、
「なにかは知らぬが、兄上がお待ちしておいでになる。朝を待たず、こよいのうちにという仰せ。すぐ御本屋へ伺ってください」
と、立話で告げていた。
治郎左衛門元成は、いまではまったく、楠木家の家族のひとりに溶けこんでいる。
卯木とのあいだには、四ツになる観世丸という子も生し、妻とその子は、水分ノ館に養われていたので、正成とともに、戦場へおもむいたり、都にとどまったりする期間はあっても、郷へ帰って来れば、帰るたびにきわだって大きくなっているわが子を見るのが愉しみの一つであった。──そしていつか数年は夢と過ぎていたここちだった。
「はて、何の御用だろう? この深夜に」
と、彼は思った。
彼も一部将として、とうに赤坂城の武者溜りの内に詰め、いつでもと、出陣を待機していた一員なのである。
が今。正季のことづてを聞いたので、彼はほどちかい水分の御本屋へさっそく馬をとばして行った。
そして、爺の左近へ、
「元成でございますが」
というと、爺もすでに、
「お待ちかねでおられます。さ、さ、そのまま」
と、取次もなく、すぐ正成のいる広書院へみちびいた。
その気配に、内から、
「治郎左か」
「はい」
「おくへ来てくれ。ここでは広すぎる」
と書院の横へ、正成の声が先に出て行った。渡りの板をわたる時の、暗いなかでの掛樋の水音が寒々しい。そこから一だん踏むと茶堂めいた小部屋があった。灯一ツ、夏隣りの湿気の多い夜気の中にゆらめいていて、もひとり誰か、先にいて、坐っていた。
卯木であった。
卯木もともに呼ばれていたのだろうか。元成は、何とはなくはっとした。おなじように、良人を見た妻のひとみも静かな胸騒ぎを彼にみせた。
が、元成は、妻と並んでも妻は目のうちにないようなかたい行儀で。
「何の御用でございましょうか。龍泉どのからお呼びと聞いて、さっそく駈けまいってござりますが」
「じつはの……」
正成はしばらく措いた。心の奥から妹夫婦の揃った姿を、しげしげと今、見るふうだった。
「わしは明日出陣するが」
「はっ」
「ついては、治郎左。こよいのうちに命じておく。そちは残れ」
「えっ?」
「いまここで具足を解くがよい。そして元の武門の外の芸能者、雨露次に返ることをわしからすすめる。……卯木にも異存はないはず。夫婦して、よう行くすえを話しおうて、これからの世を歩むがいい」
「な、なにを仰せかとおもえば……。この元成へ、あとに残って、ほかの道を歩めとは」
「激すな。……治郎左。……観世丸もああして無心な育ちをすくすくとしておるではないか。つねにはなかなか思うても口には出ぬ。が、いまはと正成が申すことだ」
「おことばですが、御出陣の列から洩れるなどは、この期において心外です! 余りといえば心外にござりまする」
と、元成は身を俯伏せてさけび、卯木も顔を袖にかくして泣き伏した。
「なぜ!」
と、正成はきびしく。
「治郎左、なぜ心外なのか」
「でも、元成とて、命を惜しむ卑怯者ではございません。そう見られるのは、口惜しゅうございまする」
「命を惜しむことがなぜわるい。畜生のように惜しめと正成が言ったわけではあるまいが」
「…………」
「死ぬであろう戦場へおもむくのも、じつは命を愛しむわが命がさせていると、この心のあやしさ、正成もまた観きわめておる。──いま、そちたち夫婦に、武門の外へ返れというのも、むなしく生きろというのではない。そちたちには二度とえられぬ命を大事につかってゆく別な道があったはずだ」
「……仰せ。ありがとうはござりまするが」
「わかったか」
「ですが、やはり明日の御発向には、ぜひともお供にお加えくださいまし。……卯木、そなたからもようお願いせい。……御一族あますなく、挙げて、兵庫の難へ。しかも、聞きおよぶところでは、足利方は数万の大兵のよし。このたびこそは、決死の御出陣と知れきっているものを、なんで私ひとりあとに残って、おめおめこの郷を去られましょうか。……もとの芸能者に返って生きてなどいられるものではございませぬ」
「兄上さま」
と、卯木もまた、
「どうぞ元成殿の切な願いをば、かなえて上げて下さいませ。良人を戦に見送る妻は、私ひとりではございませぬ。お姉ぎみ(久子)の身になっても……」
と、一しょに言った。そして泣き濡れるあいだにも、ふと卯木の胸には、赤鶴が自分へ言った、あのいまわしいことばが、自分の予感そのままな実感となって来て、一ばい悲しさがせぐられていたのだった。
「はて、ふたりとも聞きわけのない……」
正成は、叱った。
「そちたちは、元々、いぜんお仕え申していた女院の御所に浮名をのこして、生涯を巷のうちにと、御所をあとに逃げ落ちたときから、すでに周囲の絆は断ち、また治郎左は、伊賀の服部家の跡目も武門も、とうに捨てた決心ではなかったのか」
「……はい」
「もう忘れたのか。──巷では名を雨露次とかえ、卯木もその遊芸人の妻だった。だが、浮草のような生活の中にも、夫婦だけの生きがいを、また愉しみを、見つけかけていたのではなかったか。……そして芸の道に深く入るほど、そこに世間の人をよろこばしてまた自分も生きるよろこびを知り、一念、それを以て生涯しようという望みであったはずであろうが」
「…………」
「なぜその初一念へ返れというのに素直に返らぬ。──正成は武門、しかし、正成の骨肉のひとりが、そのような道へ迷れ出たことを、かなしむどころか、じつはひそかに心ではよろこんでいたのだ。……ひとつ腹から出た妹ながら、ひとの数奇のおもしろさよ、武門正成のうちからも、ひと粒の胚子が、あらぬ野の土にこぼれて、行くすえ、どんな花を世に咲かすことであろうか……などとも思われて」
夜は深かった。
千早川の渓水の音だけが、どこかに遠く──
「卯木……。そうだったな」
正成はなお、妹の方へ、その柔らかな目をそそいで。
「ちがうか。……この兄はそちたち夫婦の願望をそう観ていたが、思いすぎか」
「でも、あれからの世の騒がしさ、私どもの願いなどは、どこにも置くところはございませんでした」
「げに一ト頃は、この水分ノ館さえ焼き払い、千早の孤塁に冬をすごし、草を喰べ、よくぞ生きてきたものよ。しかも、その籠城中に、そなたは観世丸を産んでいた」
「…………」
「可愛くなったのう。その観世丸と申す名も、そなたと治郎左とが長谷へ詣って、いただいて来た童名じゃそうな。──自分一代は、乱麻の世に会うてぜひもないが、この子だけは、芸能のみちに名をあらわすほどな者になし給え、修羅殺伐な六道の外に立つ者となさしめ給えと、親心、祈願の夜籠りまでしてもどったとか……そのおり久子から又聞きに聞いてもいた」
「それにちがいございませぬ。けれどもう、望みは子の代にかけましても、私たち親どもは」
「捨てたのか、夫婦で誓った一生の道は」
「ぜひものう」
「なぜ捨てた。そのような弱い意志では、長谷への御願もあだ事でしかなかろう。子の代へかけてまでの願望となら、親自体、子の根になって未来を培ってやらねばなるまい。命のかぎり、親も生きてやろうとはなぜしない」
「みすみす、あまたな人が、私たちのそばで死んで行きました。……千早のときでも、そのごの、お出先のいくさでも」
「だから……?」
「そのうえ、このたびはまた、御一族あまさぬお覚悟の戦立ち。……良人だけが物具捨ててよいものでございましょうか。また私だけが、久子さまや、ほか沢山なあとに残る女衆の悲しみをよそにしていられるものでもございませぬ。く、くるしゅうて。そ、そのようなことはもう」
「妹……」と、正成は彼女の身もだえをいたましげに。
「その切なさはわかる。だが、そなたでさえする苦しみは、またその責めは、正成がみなこの一身に負って征く。あまたの若者、沢山なこの郷の誰彼を、あえなく戦に送って死なせたのはこの正成だ。あたりの犠牲にみずからを責めて苦しむのはよいことだが、それはそちたちの科ではない。強悪正成一人の罪としておけ……」
「…………」
「よいか、くるしむなればその心でなお一命を長らえて、次代の世の償いに生きて行くのが真に命を愛しむというものだ。武者にはそれもゆるされん。したが何の、そなたたちは一たん武門を捨てていた者だ。笑わば笑え、一時の人沙汰など、どういわれようが笑わしておけばよい」
「…………」
「いや、夜もふけた。正成には明け方までに、まだまだ、心忙しいことがいくつも待っている。心得たろうな! 卯木、治郎左」
「…………」
「まだか。わからねばただ一語、勘当、ということばだけしか、あとはないぞ」
「あっ……」と、二つの顔は、いちど正成を見上げたが、ヒタと濡れつくようにまた咽び伏していた。「わ、わかりました! ……。ようわかりましてござりまする」
やがて。もうそこには卯木も治郎左衛門も見えなかった。ふたりが退がってからまもなくである。妻の久子が来て、正成へ、
「あすはまた、ひとしお、お忙しゅうございましょうに」
と、寝所へ移るようにすすめていた。
「いや、あらましの手はずはなった。あすはもう立つばかりのこと……。久子」
「はい」
「あすの夜は、はやわしは征旅の途中、そなたは、留守の者をかかえて、そなただけのこの家になるなあ」
「どうぞ、あとはお案じなされますな。いつまでもお待ちいたしておりまする」
「安心している。征旅に立つ身にとって、あとを安んじて行けるほど心づよいことはない」
「でも、その御安心を身に担うて、よいお留守をしているには、まだ、久子には何か力が足りませぬ」
「そうでない。そなたも凡の女ではあろうが、しかし正成が日ごろにいうてあることだけは、よくわかってくれておるようだ。それでよいのだ。またの出陣となっても、あらためて申すことは、ひとつもない」
「ですが。……あの、いま申してもよろしゅうございましょうか」
「なにかまだ」
「はい」
「いうたがよい」
「せっかくお寝みのおさまたげになってもいけませんが、あすとなっては」
「正行のことか」
「きょうも独り泣き暮れておりまする」
「この父に、戦に連れて行けと申すのだったな」
「正行にせがまれて、この母も共に、ぜひこのたびは初陣にと、きのうもお願いいたしましたが、待て、考えておこう、と仰っしゃったきりなので」
「明朝、そなたからよう諭せ。このたびは留守していよと」
「では、かないませぬか」
「こんどは初陣の童子などをつれて行けるような生やさしい戦ではない。日頃の戦場とは大いに違う。それらの仔細は、そなたにもわかっているはず」
「それはもう、よう申しきかせたのではございますが」
「ききわけないのか」
「母のことばでは」
「……よし。わしから明朝言ってきかせよう。正行も十五、男の子だ、そうあっても一概には叱られまい。ところで……久子、卯木から何か聞いたか」
「いえ、まだなにも伺ってはおりません」
「じつはの。……妹婿の治郎左は、あすの発向の列から外すことにした」
「それはまあ」
「よかったと、そなたも思うか」
「わたくしからもお願いしたいほどでした。ありがとうぞんじまする。さぞ卯木さまも」
「いや夫婦にとれば、ただよろこびにもしておれまい。ひとの誹り、うしろ指、さらには前途、芸道の修行も長くけわしかろう。だが、ここは絆を断って卯木夫婦を武門の外へわざと勘当同様に追いやったのだ。……そなたも情にひかれてはならぬ。正成が立ったあとでは、素気なく、笠一ツずつを持たせて、この郷から早よう追い出してやるがよいぞよ」
その晩は寒かった。
わけて屋の棟も下がるという丑ノ刻をすぎると、山里のつねでもあるが、五月というのに冬のような気温の急下に肌もこごえそうだった。
久子は、いちど良人を寝所へ送ってから、いつものように子供らが枕をならべている対ノ屋のわが寝間へひきとっていた。が、余りの冷えに、また起きて、みずから納戸のうちの夜具を一枚かかえ、ふたたび正成の寝所へもどって、そっと寝顔をのぞきながら、ふんわり、それを良人へ着せかさねた。
そして、それなり久子はそこにいた──
といっても、暁までは、つかのまであった。
長い生涯も短いといえばいえる。短夜のさらに短い一ときも、あるいは、百年のちぎりを一瞬のかたらいに込めて夫婦の二世までをその純朴な情愛の仲ではかたく信じ合えていたかもしれない。
情痴な、奔放な、また荒婬な世の男女の性戯だけが、ふかい性の真髄味を知るものとはいえないようだ。
かたちのうえでは至って艶色に遠く、心のあやでも、無表現としか見えないような仲でもそのふたり以外には窺いえない別な性の神秘と高い感激とが人知れず愛持されていただろう。開放的な男女が性を遊戯にして踏みしだいているのとちがって、素朴な男女のそれの方がむしろ絶対境な秘園の同化と甘美な泉を汲んでいたかもしれなかった。よく唐宋の詩人などが歌いあげている──比翼のちかいとか、同穴のちぎり、鴛鴦の睦み──などという言葉にあたる永遠をかけた不変の愛とは、つまり遊戯の中にはないものである。敬愛し合う男女の素朴な祈りと生命のみが知るものだった。──また河内の山間に古い或る一つの大屋根の下の、まだ明けきらぬ閨の内には、あったろうかとおもわれる。
まもなく……
金剛から水越峠の遠山が、くっきりと、晨の線を描いていた。
「ほう」
早起きではいつも一番の爺の左近が、遣戸をあけて、その赭ら顔を東の空へあげたとたんに、こう独りでつぶやいていた。
「霜だわえ! 五月にしてはめずらしい今朝の霜だ」
それからすぐ、彼は侍部屋から下屋へまで、何かどなり廻っていた。
いやいつもならば、厩から雑人長屋も、それからの物音なのだが、今朝はあながちそうでもない。あらためて、
「御出陣だぞ。今日だぞ」
と、いちいち爺からいわれなくても、中間から下部女のはしにまで心構えはできている。
卯木や久子も奥向きだけでなく、釜屋から厨房へまで出て、はたらいていた。──館じゅうの清掃も今朝は日ごろとちがう丁寧さであった。それは幼い三郎丸や観世丸にも映って、しきりに子供らをはしゃぎ廻らせる。──正成はそれを見て笑いながら、いま、湯殿から身浄めをすまして一室へ入って行った。
すでに陽がさしのぼる。
久子は化粧した。子たちにも着飾らせた。そして主屋の中央の部屋には、型のごとく、出陣の式のカチ栗や昆布の折敷に、神酒、土器なども運ばれていた。
久子の今朝は花やかに見えた。化粧も日ごろよりはやや濃目である。また裲襠は彼女がこの家に嫁いだときの物で、もちろん派手になりすぎてはいる。が、意識してそれも用いたらしい。
出陣の式の調えはすみ、正季をはじめ、内輪のおもな面々も揃ッていた。邸内は隈なく水を打ったように、このきれいな式の場を中心に、朝陽の顔と、正成の姿だけを待っていた。
「姉ぎみ」
と、正季はそっと訊ねた。
「兄上には、なおまだ、お支度中でございますか」
「ただいま、お仏間でいらっしゃいまする」
「ほ、では今朝はお朝食もこれからですな」
「いえ、お身支度も何も、とうにおすみでいらっしゃいますが、正行をお仏間の内へよんで、なにかいまお話中のようなのでございまする」
「あ……。正行と」
正季は、うなずいて。
「いや、そうか、そうでしたか!」
爺の左近は、そばでふとおもてを庭面へそらした。時ならぬ朝霜はもうあとかたもない。けれど爺は洟をすすっていた。
「お、お見えなされた」
居ながれていた一族の誰彼はすわり直した。──書院の廊をわたって、正成が来る。黒革にもえぎ縅しの地味なよろい、そのよろい下の白い襟もとが、肌着だけでなく、そこはかとない清潔さを象徴していた。うしろからは、正行が、ややうつむきかげんに父に添ってあるいてくる。
正成が坐った。
みな座にひそまる。
土器が手から手へ送られた。式は単純であった。無言の儀式といってよい。
「…………」
正季はそのあいだ正行を見まもっていた。泣き腫れた瞼の紅さが可憐で叔父として何か言ってやりたい気に駆られてならなかったからである。けれど自分の意は兄の心にそむくものであろうとして慎まれた。自然、正行にもその思いやりがつたわっていたのだろう。折々俯し目をあげては正行も叔父の唇もとへ頼みをかけるふうだった。しかし正季はついに何も言ってくれなかった。
「では」
正成はすぐ起った。
大玄関へかけて洞窟が開かれたような光と家じゅうの人影が奔り出た。卯木は観世丸を、久子は三郎丸と正時をかかえ、大勢の家人のあいだで良人の背を見送った。が、正成は一巡それらのたくさんな顔をながめ廻しただけだった。もう駒寄せへ出てその姿は郎従たちの上に高くそびえ、すぐその手綱を館門の外から右へむけていた。
「…………」
そこで、彼はちょっと、目をとどめた。駒寄せ桜の下に丸腰の男が低く腰を折っていた。治郎左衛門元成だった。が、水の中から上げた顔のように元成の目は濡れていた。正成もまた、無言だった。いうところはなかったのであろう。軽い駒足はたちまち彼を赤坂城の門へ運んでいた。
正成は、即日ここを立って、まず京都へ向った。天皇にお別れをつげるために。──また正季は、なお河内、和泉の遅れた兵を召集して、兵庫への途中で兄の正成と合流する約になっていた。
都の内は暑かった。
もう夏景色といっていい。
が、雨期は低迷気味で、薄日照りのムシムシする日がつづいていた。──正成は五月十九日入京のむねを御所へ届け、一たん六条の宿所へさがって、召の御指示を待ちかまえていた。
すぐ朝から達しがあった。「二十一日早朝に罷れ」との内示である。
同日、その場からただちに兵庫へ出勢すべしとの朝命とみてまちがいはない。もとより万端の準備に欠けている正成ではなかった。けれど彼はなお、その一日を、
これでいいか。
ほかにみちはないか。
と、河内を出るときから固めていた心がまえにもさらに反復をかさね、あらゆる思慮をめぐらしていた。
また。
──刻々と東上中の、足利勢の情報もあつめていた。
すでにきのうあたり、海上の敵数千ぞうは、室ノ津をうずめ、陸上軍も、福山、三石を抜いて、破竹、播磨ざかいへ迫ッて来つつあるという。
宵の頃だった。
かねて情報集めに放っておいた、八木弥太郎法達の部下が、摂津の昆陽野(伊丹)から馬をとばして来て、
「新田どのの軍勢は、白旗城のかこみを捨て、加古川の陣も抛って、ぞくぞく兵庫へひきあげ中のよし。何せい、諸所の崩れ、尋常ではありません」
と、正成へ報じていた。
ここへ入るほどな戦況なら宮中へもすでに聞えているだろう。またそれは人心にも映って、この晩はムシ暑い蚊うなりもてつだい、洛中、寝ぐるしい夜を人々は送った。
しかし正成は、さして焦慮を抱いたふうでもない。──参内の二十一日の朝は、早くに物具を着け、さて、門を出るさいに、初めて甥の楠木弥四郎にたずねていた。
「昨夜じゅう、今か今かと待っていたが、住吉からは、何の連絡も来なかったな。──ついに切目の法橋の舟軍は、いまだに影を見せぬものか」
「住吉へは、助家殿(和田)が行っておりますことゆえ、もし熊野の水軍が、お味方の援けに、海上へ見えたとあれば、早馬をもって、すぐにも吉報を告げてまいりましょうが」
「弥四郎」
「はっ」
「正成は参内の後、主上においとまを申しあげ、おそくも午ごろには、都を離れよう。──助家の早打ちと行きちがうやもしれぬ。──で、そちは住吉へ駈け、もし熊野水軍の来援がわかったなら、すぐ西国街道の途中へそれを知らせてこい」
「かしこまりました」
弥四郎がただ一騎去るのを見送ッてから、正成は扈従の一隊と三百騎ほどをつれて、花山院の内裏へうかがった。
兵馬は宮門の外にのこして、正成ひとり、内へ通った。──ここは二条富ノ小路の旧皇居より一ばいまたお手狭である。正成が南庭の寝殿をそこに仰いだとき、はや後醍醐は彼をみそなわして、この日特に、御簾を高くあげさせておいでになった。
階のすぐ軒下を、
砌
という。
正成は、近うと召されて、その砌のあたりに、平伏した。
しげしげとそそがれている天皇のおひとみを、彼の背は恐懼のうちに感じている。──また御簾をはさんで居ながれている公卿たちの目も、みな息をためて、正成の容子に、洞察をはたらかせているふうだった。
「…………」
このような視線も、むりはない。正成がおもてを冒して、みかどへ直々に強烈な諫言を奏したのは、つい二月ごろのことである。
そのさい正成は言った。
──しょせん新田殿では人心の収攬もおぼつかない。武家の人気は否みようなく尊氏へかたむいてもいる。
もし真に天下の乱をおなげきならば、ここは何事もしのんで、まず新田殿を排し、そして尊氏をお召しになり、戦をやめて、よく尊氏をお用いになるしか泰平の道はありますまい。──まして尊氏にも朝へ尽した功労はあったのですから、と。
しかし、この諫奏は、そのとき居あわせた堂上すべてから笑いを買って、
狂人の言よ!
と嘲られ、かえりみられもしなかった。──そしてそれから今日、まだ百日もたってはいない。──だのに、ふたたびその狂語の人を召して、これに朝廷の浮沈を、おたのみにならなければならぬ危急となったのだから、なんとしても、公卿たちには鼻白めくものがあり、とかくこそばゆげな良心が各人の口をおもたくしていた。もちろん、天皇にしても、かつての正成の言を、お忘れであろうはずもない。
「河内よな、罷りしは」
「……はっ」
「そのご、からだのすぐれぬよしを聞いていたが、よろしいのか、近ごろは」
公卿たちがだまっているので、おことばは直に出ていた。正成にはいッそお親しくそれが感じられた。並み居る堂上たちを越えてはわるい気もしたが率直に彼もおこたえ申した。
「さして病というほどな病ではございませぬ。申さば、世病みと申しましょうか、河内におりましても、世の風騒に心も安からず、とかく人にはさよう沙汰されるものとみえまする」
「世病みとか。ならば、わが身もおなじようなもの。尊氏の東上、山陽道一円のおもしろからぬ戦況など、安からぬことではある。河内、そちもいちいち耳にしておるであろうが」
「は。聞えのままには」
「足利の兵力は、海陸数万の大軍であるという。──新田も敗退の余儀なきほどとあれば、その強力さも思いやられる。──そちはゆらい新田とは不仲のような聞えもあるが、いまはそちの力を待たではおれん。義貞を援けて共に賊のふせぎに当れ。それとも新田の麾下につくのは快しといたさぬか」
「こは、思いがけぬ御諚にござりまする。人の沙汰やら存じませぬが、何で将帥のよりごのみなどいたしましょう。すべては、御軍の下、この正成もみかどの一兵でしかございませぬ」
「では」
と、後醍醐は、
「河内、そちにおいては、新田へ隔意をふくむ心は、まったくないと申すのだな」
正成も、かさねて、
「さらさら、存じの外です。一つ御旗の下、まして今、外敵をひかえ、さような違和を内に持ってよいものではございませぬ」
と、お答えした。
「たぶん……」
と、おうなずきの下に。
「とるにたらぬ噂とは思うていたが、将と将とのあいだに、もし、さような反目があるとせば、これは三軍の亀裂、ゆゆしいひが事だ。案じられぬわけにゆかん。とくに正成ほどな者を、なぜか義貞も、今日まで、自軍の片腕にとは求めて来ず、またそち自身がさきに申した諫言に照らしてみても、両者の同陣は、いかがあろうと、公卿みな、懸念いたしておったところぞ」
「ご宸念をわずらわし奉り、いちいち、申しわけもございません」
「いやなに」
と、後醍醐は、このとき、急におことばの調子をおかえになった。帝王らしい本来の大どかな御態度にかえって。
「さよう恐懼して、わびるにはおよばん。──さきの諫言も、いまにして思えば、そちの達見、ひとつの大策ではあった。また、そちの私なき、誠忠のほとばしりと、酌んでもおる」
「はっ、ありがとうぞんじまする……」
うれしかった風である。声がうるんだ。
正成は、その御一語だけで、もう充分な気もちだった。初めて笠置に召されたとき、「恃みにおもうぞ」とまで仰せられた御信頼にたいして、いささかは、おむくいを成しえたかと思い、ふと胸のどこかでホロとしたものらしかった。
「為次」
と、みかどは、公卿へむかって、用意の物をと、うながされた。
二条為次と、中院ノ定平とが、階を降りて、正成のまえに賜酒の三方をすえ、また一ト振りの太刀を賜わった。
「河内、そちがまいるからには、たとえ足利の大軍いかほどあろうと、もはや安心いたしておるぞ。かならず尊氏兄弟を撃たではおくまい。とくに、義貞とは隔意なき作戦を打合せ、何事もよう談合の上いたすように」
「はっ」
正成は深く頭をさげて。
「お心づかい遊ばしますな。あくまで、新田殿のおさしずに従い、充分、御軍議をうけたまわっていたしまする」
「たのもしい。では、ただちに出陣いたすがよかろう」
「こころえてござりまする。──が、願わくば」
「何か?」
「なお一言、正成が存ずる所を、お聞き上げたまわるなら、思いのこすことはございません」
「申してみい。新田にたいして、そちも何か、肩を並べうる権威の望みでもあるか」
「ゆめ、さような僭上ではございません。ただこの御戦を、いかにせば、勝目としうるか、それのみにござりますれど」
「そちが馳せ向っても」
「はい。勝目はなきように思われまする……」
公卿たちは、みな、
不吉な
と、色をなした。
またしても正成が、と言いたげな目ざしである。──彼らの先天的な武士軽視には修正しえない何かがあって、
「河内!」
と、たまりかねたように、四条隆資が言った。この隆資は、千早籠城のさい、正成と共に、主将として、金剛山の上にこもっていた公卿なので、正成とは気心もよく知っているはずの者だった。
「──いつにない其許の弱音、正成がまいっても勝目がないとは、なんとしたことばだ。しかも君前、しかも今日の出陣を前に」
「お怒り、ごもっともではありまする。けれど、君前なればなおのこと、歯に衣きせたそら言は申しあげられません」
「まだ敵も見ぬうちに」
「いや、おことばですが、戦ッてみねば勝敗の分らぬようでは、兵家ともいえませぬ」
「はアて? ……。千早、金剛では、あの小勢で数万の寄手をさえ、寄せつけなかった楠木兵衛ノ尉が、今日はなんとしたことか。……いつもの正成ともおもわれぬ」
「げに、あのころは、日本じゅうの武士が、北条の悪政に倦み、朝廷の御宣言にはみな大きな望みをかけて、新しき世を仰ぎのぞんでおりました」
「…………」
「千早の戦いなどを、事大に、言い囃されるなどは、正成にとり、面映ゆいことでしかありませぬ。あの善戦をなしえたのは、時の御稜威、また時の人心が支えたもの。──何条、正成一個のとぼしい智略や力などでありましょうや」
「おう、それほどな謙虚を持つなら、なぜふたたび、御稜威を負って、千早の勇猛心を、さらに振ッてみせんとはしないのか」
「いや、もはや人心は、残念ながら、数年前のものではありません」
「変ったと申すのか」
「申すは憚りながら、建武の御新政に、望みを失い、結局、武家は武家の棟梁を立てて栄えるに如かずと、ここ大きく狡く変ってまいりました。それが、尊氏をして、わずか二た月のまに、あのような挽回をさせたものにございましょう。されば、何が怖ろしいといって、そうした衆の志向の潮ほど恐いものはなく、それには勝つ術もなしと存じた次第にござりまする」
「ただそれだけで、戦う気も萎えたのか」
「いや、事実も証明しています。このたび発向にあたり、河内、和泉の領下一帯へ、出馬の令を触れ廻しましたが、思いのほか、武士どもは寄ってまいりません。これを千早金剛の頃にくらべれば、こうも人心が変ったかと、疑われるばかりです」
「…………」
後醍醐は、この間、黙然と聞いておられたが、このとき初めて、み気色をうごかして、
「河内。よく申した。いちいち、うなずけぬことではない。……しかし、いまさら論議のときであるまい。作戦としては如何に? 一挙、足利勢を粉砕する策はないのか。それを聞かせい」
「──作戦は如何に、との御下問にござりまするか」
正成は身をただした。
いまこそ、うそをいってはならないと思う。──恐懼しているばかりが臣子の道ではない。お気に入っても入らなくても、虚勢や粉飾に事実を曲げて、聖断を晦くしたてまつるべきではない──と、これは河内を出るときからの彼のかたい胸裏であった。
「はい、正成が申しあげたい儀も、一にその作戦のほかではございません。まず、結論からさきに申すなれば、急遽、ここの皇居を、もいちど、都の外に遷し、主上には叡山へ御動座あらせられますよう、伏しておすすめ申しあげます」
はばかりなく、こういう言を吐くときの彼は、まるで別人の観がある。公卿たちにはそれが、身のほど知らぬ臆面なしに見えもしたろうほどだった。
「なに」
と、はたして、後醍醐には、
「では、都を空け放して、ふたたび、叡山へこもれと、そちは申すのか」
と、すくなからぬお驚きと、またありあり、ご不満な御気色だった。
「さようでございます」と、正成はいよいよ、ことば静かに。
「──ここ幾日、さまざま按じてみましたが、尊氏に勝つには、それしか、よい戦法はありませぬ。まずいかなる作戦も、今日にいたっては、彼の強大を打破るわけにゆきません」
「なぜか! なぜそのように尊氏を恐れるのか」
「さきにも申しあげましたように、彼には時運が幸いしており、その人の和、地の利、天運のよさは、恐れずにおられませぬ」
「地の利? 兵庫は味方にとってさほど不利か」
「兵庫とはかぎらず、いずこにてもあれ、このさい、彼の大兵をふせぎ得る地はありますまい。──なぜなれば、お味方には、まったく、水軍の御用意がないのです」
「いや、尊氏を九州へ追い落したさいには、わが方にも優勢なる水軍があったはず。それらは今日、どうしておるのだ」
「あの折、もし新田殿が、都へのご凱旋などなく、筑紫までもと、尊氏を追いつめて行きましたなら、御勝利は確たるものとなっていたでしょう。……しかるに、惜しいかな、敵に時を与えてしまいました。……ためにまた、宮方の船手もすべて各自の国々へ離散し、今日ではもう招いても、召にこたえて来る船はありませぬ。せめて、熊野の水軍でも、ご加勢にまいればと存じますが」
「来よう。かならず、熊野の船手は」
「いえ、そのような不確かなものは、戦略の上に恃んでもいられませぬ。──むしろ、ここは御聖断が第一です。わざと尊氏を都の内へひき入れ、われらは摂河泉の糧道を断ち、また、新田殿や千種殿は、京の山々に拠って、ときには出て戦い、折には引き、洛内の敵に、安き眠りも与えぬなら、やがて足利勢も、もがき出しましょう。自解をおこしてくることは明らかです。必勝の策は、これ一つしかございません。なにとぞ、御英断を願わしゅうぞんじまする」
すると公卿たちのあいだで、このとき、
「もってのほかな!」
露骨に、反対した者がある。
坊門ノ清忠だった。
「一戦にもおよばず、敵に都をあけ渡せとは何事か。察するに正成は、戦場へ立つのを厭うておるな」
「こは、なさけない仰せを承るものです。坊門殿には、さいぜんからの正成の言上にお耳をそらしておられましたか」
「だまんなさいッ廷尉。たとえ魔の軍たりとも、御楯の王軍が行くところ、なにほどの抗戦いをなしえようぞ。──かつては襲来の蒙古の外兵十万を、博多ノ浜に葬ッた例しさえある。──それを、尊氏来るの風騒に怯え、たちまち都を空にして、みかどの蒙塵を仰ぎなどしたら、それこそ、いよいよ武士どもを思い上がらせ、世の物笑いとなるのみだわ。……愚策、愚策」
と、清忠は肩をゆすッて笑い、そして列座の千種忠顕や四条隆資らと、ふた言み言ささやきあっていたふうであったが、やがて、その居ずまいを、こころもち玉座の方へ向けて、
「おそれながら」
と、笏を正して、奏上していた。
「王師ニ天命アリ、宜シク外ニ防ゲ──とは古来の鉄則かとぞんじまする。──事ただならずとは申せ、三軍はまだ健在ですし、金吾義貞も、前線にまかりおること。さだめしその新田とて、頽勢の恥をすすがんものと、心をくだいておりましょう。──さるを一廷尉の言をおとりあげになって、御動座などあらせられたら、王軍の将士は、それだけでも戦う気力を失い、ひいてはお味方の違和を大にし、敵を利するばかりのことかとぞんじられまする」
「…………」
いずれを採るか。後醍醐はお迷いらしい。
しばらくは、仰せ出でもなく、公卿たちの説に、お耳をかしておられた。
千種、四条、中院ノ定平ら、あらましは、清忠説を支持してやまなかった。──正成の言を「なるほど」と、素直に聞いたらしい人々もなくはなかったが、しいて発言はしていない。……で、御心も結局は、傾く方へ傾いて行った。いつ、どんなばあいでも、策を積極的にとることの方が、強く、たのもしく、また正しくも聞えがちなものである。とくに後醍醐の性格としても、一時でも敵を都に入れるなどの策は、み心に合うものでなかった。
──まもなく、正成は退出した。いやさいごのお別れを告げて、即座に、前線へ立って行ったのである。
彼は、このときにおいて、「もう、これまで」と、ひそかな死を独り意中に決したものと、後世、忖度されている。
策ヲ帝閣ニ献ジテ
達スルヲ得ズ
豈、生還ヲ期セン
などと、頼山陽は謳い上げた。しかし、玉座を拝して、やがて花山院をさがって行った姿には、どこにもそんな悲壮感はなく、悪びれても見えなかった。だから、それを見送っていた公卿たちも、数ある武将のことなので、正成もまたその中の、凡の一個に過ぎないものとしか見ていなかった。
今朝から、六条の原に屯していた一軍がある。
加茂川堤に近かった。
そこらには、染屋の干し場もあって、紺掻きの男や女たちが、いつまで立ち去らない菊水旗の兵馬をながめて、
「はてね、あの衆は、いくさに征くのとは違うのか?」
と、あやしんでいた。
戦場に立つ兵士といえば、かならずわいわい喊声をあげている。前の晩から飲みとおして酒気のさめてない者すらある。そういう狂噪の兵を見つけている庶民には、彼方の菊水旗の一群が、ひどく活気のない、弱そうなものに見えた。
「だが、あれは河内守さまの御人数だろうが」
「そう。菊水の旗は、よそにはない」
「ならば、どこぞへ、御宿所替えをなさるのじゃろ」
「どうして」
「けさ、六条の御門前を通ったら、ご家中が皆して、大掃除をしておられた。戦に立つものなら、何も悠長に、あとの掃除などして行かっしゃるはずはあるまい」
なるほど、そんなことか、と染屋の男女はもういぶかってもいなかった。ところがやがて午ごろ、べつな一隊がまた大路の方からくだって来た。そのなかには正成の姿が見えた。──花山院の皇居からたったいま退出して、これに待っていた一勢と、ひとつになったものだった。
正成をここに迎えると、
「殿」
と、ばかり彼のそばへすぐ大勢の部将たちが、むらがっていた。
南江備前守正忠
佐備ノ正安
和田五郎正隆
安間了現
隅屋新左衛門など、いちいちは、あげきれない。なかでも、神宮寺太郎正師は、
「いかがでしたか、主上のみ気色は。また、ご首尾は」
と、たずねていた。
その正師とおなじように、彼の宮中における首尾を如何にと案じていたここの者は、すべての目で、正成のくちもとを見まもりあった。──うすうすには、正成の覚悟も、重大なけさの参内の内容も、察しとっていたらしいのである。
「されば……」と、正成は寄りたかる子らへ聞かせるように──
「主上には、ことのほか、ごきげん麗しく、御酒をたまわり、また一ト振りの御太刀をも正成へ下された。いや正成一個にとどまらず、すべてわが一族へふかいお恃みをかけおわすもの。一同の面目と思うてよかろう」
そして、すぐ、
「正師。貝を」
と、命令に移った。
この原にあるものが、正成の持つ総勢だった。あわせて六、七百騎。これをかつての新田左中将が発向したときの偉観にくらべれば、比較にならぬ小勢である。
しかし、ひとたび貝の音に、その陣制がぴしと揃うと、序列、歩調、ひとつのものが揺るぎうごくようだった。──染屋の干し場にいた男女も──その秩序美に見とれていた。しかも静かに、人知らぬまのように、この菊水の一勢は、都のひるをあとに、西へ立って行った。
この二十一日の朝──
正季は、枚方から、淀川を北へ、渡っていた。
兄正成よりも二日遅く、彼は河内の赤坂を立った。
それというのも、正成の出陣までに揃う予定数だった領下の諸武士が、意外に集まりがわるく、その糾合に手間どっていたためにほかならない。
が、それにしてさえ、なお四百余人──五百に足らぬ兵しか応じて来なかった。正季は腹をたてて、それらの卑怯者を、後日、きっと思い知らすぞと、ののしッたが、いまはそんな処置をとっているひまさえない。
「いや、龍泉どの。これでよいのだ。集まるほどな者はみな集まっておる。決して来るべき者が洩れたのではない」
松尾刑部季綱は、そういって、なぐさめた。
元々から、楠木領として、楠木家の召集しうる動員力は、せいぜい千二、三百人にすぎないのであり、赤坂城の合戦から千早籠城のさいに見ても、実勢力の限界は、わかっていた。
それが、所期の予定数よりもはなはだ不足に思われたのは、建武の恩賞で楠木家の領地も、河内和泉へわたって、急に大きくなっていたからだ。
けれど、新領の武士は、まだ必ずしも、楠木家と運命を共にするとまで、ふかく結ばれている者どもではない。いわば新領主の下に、ぜひなく併合されただけのものだ。──折ふし、尊氏の優勢が、日ましに世上へ流布されているときでもある。彼らが、なかなか腰を上げて来ないのも、道理である。無理はない、と季綱はいうのであった。
「叔父御は」
と、正季は苦笑した。
「いつか、わが兄上に似ておいでられたな。そんなことは正季にもわかっています。……けれど、御戦はなんのためだ。まこと、この国の武士なら、みかどの御楯、一身の利害などは、かえりみてもいられぬはず……」
正季の意気はちっとも変っていない。元弘の若公卿が説いていたような高い理念を、いよいよ胸に磨いでいた。だから腹が立つのであった。ふだんでも人をみれば、この国の皇統をほこり、勤王の道を力説していた。──それが、かえって、人を遠ざけ、近ごろの武士気質からは、一徹なかたくな者と見られがちな点なども、彼は全然、意にかけていなかったのだ。
──さて。それらはともかく、彼が枚方から対岸へ渡ったのは、そこの西国街道で、兄正成の軍を待つためだったが、まだ正成の兵馬は見えない。
で、彼は、
「桜井ノ宿へ行け。そこで兵馬を休め、兄上のお出で合せをお待ちしよう」
と、道をなお、小一里ほど、北へとった。
山崎の麓である。水無瀬ノ宮の址があり、古い宿駅の一つがあった。西のいくさといえば、いつも軍馬は、このへんを往還するので、荒びた軒の人々は、剣槍を見ても、驚くなどのふうはなく、かえって、よいお花客として、蠅のように、酒売りの男どもや、籠を頭にのせた販ぎ女などが、すぐ寄りたかって来るのであった。
その兵馬を、桜井に屯したのは、正成を待つ以外、正季にべつな目的もあったらしい。
駐軍の事を終ると、彼は、叔父の松尾季綱に、
「往返、二タ刻とはかかりますまいから」
と、何処へかいそいで行った。
従者には、中院ノ雑掌俊秀と天見ノ五郎常政を連れ、ふたりを案内に、山崎の海印寺から一里半ほど北へのぼっていた。
「このあたりが、もう大江の山です」
と、さきに立って行く俊秀が言った。──丹波篠村へ通じる峠に近いのである。
正季は、久しぶりな師のすがたを胸にえがいていた。この大江山でも、河内の奥にいたときのような山荘の戸をひそと閉じておいでか、などと。
もういうまでもなく、彼が訪ねようと慕って来た人とは、その後、この地に隠棲したと聞いている兵学の師、毛利時親なのである。──この春、時親の河内の旧居においてあった蔵書一切を荷駄にして、大江へ送りとどけたときから、いちどお会いして、その高説を伺いたいものと思っていたが、つい今日まで折なく過ぎていたものだった。
「……これが、老師とのお別れになろうもしれぬ」
正季には、今生の別辞をつげたい心もある。
なおまた、この一期にたいする覚悟や兵学上の意見も問いたい。
まだ世もこんな兵塵とならないうちに今日あることを予言していた人だった。そして山荘へ集まり寄る若者たちに、来るべき兵革を説いて、心の武装を植えつけていた時親でもある。かならずここにいても、大勢を観望しながら、わけて尊氏の東上を前にしては、卓抜な戦略なども持っているにちがいない。──正季は、明日の戦いのためにと、急に思い立って来たのだった。
けれど、彼の希いは、むなしいものとやがてわかった。──案内の天見ノ五郎と俊秀とが、
「ここですが」
と、一見ただの山家にすぎない垣の枝折を指さしたが、内には人の気配もなく、そこから呼んでも叩いてみても、おうという答えはなかった。
するうちに、かさこそと、藪隣りのあばら家から、一媼が出て来て「この庵のあるじなら、とうにもう、ここにおいでられませぬ」という。そしてまた、行った先も、帰るか否かも、わからぬという話であった。
「はアて? どちらへ」
正季はがっかりした。
急にあたりの松風が耳につく。俊秀と五郎は、あきらめきれぬように中へはいって、茅屋根の下の破れ戸を覗きまわった。──と、思わぬものがそこにひかえていた。一匹の蟇だった。逃げもするふうではないのである。むしろこれへ入って来た闖入者の来意を問わんとするかのような態度だった。またどこか、吐雲斎の毛利時親の風貌を思わせるようなところがなくもない。
「ぜひもない。残念だが、引っ返そう」
やがて去りゆく三人の影にも、蟇の背にも、空の松からこぼれ降る陽が血みたいに赤かった。
三騎して山道を海印寺の辺まで降りかけて来たとき、さきの俊秀が、正季をふりむいて、
「お。京方面から、山崎の下へさしかかって来る一軍が見えます。もしやおやかたの御本軍ではありますまいか」
と、指さした。
あるいは? と思われた。いやまぎれない菊水の旗幟がすぐわかった。で、正季たちは、ふもとの西国街道で駒をおりて待っていた。──近くにある破れ築土は、水無瀬ノ宮の址らしく「伊勢物語」に
むかし、惟喬の皇子
山崎のみなせといふ所に
年ごと、桜の盛りには
おはしましける
とある、その平和ないい時代の桜も、今は藪だたみに見るかげもない老い木や朽ち木となっている。
ほどなく、正成の七百騎は、これへ近づいて来た。そして先駆の兵から、
「龍泉どのが、お迎えに見えておられます」
と、聞いた正成は、
「お、お」
と、正季へほほえみかけ、そこからは馬上の姿を並べて、もうついそこの、桜井ノ宿の夕煙を望みながら共に駒をうたせていた。
「正季。桜井へは、いつ着いたの」
「は。午やや過ぎに」
「では、だいぶ待ったな」
「いや兄上のお出で合せを待つ間にと、思いついて、大江の山に、時親先生をおたずねしておりました。ところが、はや、おいでではございません」
「お留守か」
「いえ、庵は住み捨てられ、どこへとも、お行方はわからぬそうで」
「ははは。火放け人が、火に追われて、逃げ端を失うているような。……そのような老師を、正季もまた、何でお訪ねして行ったのか」
「お会いいたせば、あの老師のこと。なんぞ良い兵法の理なり、または妙策でも、伺えようかとぞんじまして」
「そちもわしも、時親先生には、幼時から多くを学んだ。御恩はふかい。しかし今日のことは、兵学の図式などではまにあわん。お会いできなくて、かえってよかった。老師ご自身、この大乱やら世の逆潮には、おそらく狼狽しておいでであろう。……正成、正季にむかって、かくすべしと、明示ある教えなどを、お持ち合せあるはずはない」
もうそこの煙をこめた一村落の夕闇に、蚊うなりのような人馬の喧騒がしていた。さきに屯していた正季の兵に、また正成の七百騎が到着したので、たちまち往来も木蔭も馬息れと人影でうずまった。
「御宿営は、そこの桜井寺に設えておきました。まずはおくつろぎを」
宿の駅門から山ぎわの方へ一、二町。薬師如来の一堂がある。桜井寺の境内だった。
「のちほど、お願いの儀もありますゆえ、あらためて、またお伺いすることにいたします」
何か、ここまでの間には、言い出しかねていたことらしい。そういうと、正季は、いちど自分の幕舎のほうへ帰って行った。
むうんと、暑い。
木蔭は青葉蒸れがする。それなのに、夜営の諸所ではバチバチ篝火をたいていた。防虫のためだろう。月もなし、風もない。
全陣の将士は、晩の兵糧に、かかっていたが、その一ト騒めきの初更が過ぎると、
「眠れ」
と、諸所の屯を、部将の声が通って行った。──青葉のあいだに、やっと、水っぽい二十日月が顔を出している。
が、正成はなお、楯の上にあぐらして、いま駅門に馬をつないだ和田助家と楠木弥四郎の報告をうけていた。大鎧は脱いで、うしろに置き、そこにはまた、童武者の蔦王が、居眠っていた。
「そうか。……まずそうあろうかとは、思われたが」
正成は、一語、そう呟いたきりだった。──この助家は住吉にとどまって、なお執拗に、紀州の切目ノ法橋との連絡をもちつづけ、田辺水軍の来援をうながしていたのだが、それも今は、絶望のほかなしという今夜の結論だったのである。
「休むがいい。そしてもう、住吉にも戻るにはおよばん」
すぐ、入れかわりに。
「兵全員の軍簿が調べあがりましたが」
と、安間了現が、簿冊を手に、入って来た。
「どれ」
と、正成は手にとって。
「正季のつれて来た後陣の者とあわせて、兵数、すべてで一千一百七十四名か」
「意外に少のうござりまするが」
「このうち、病人、不具者などは、おるまいな」
「三名の病人と、足跛え、片目の者など不具者十一、二名がおりまする」
「なぜ、はぶかぬ」
「それらの者は、かつて金剛千早の日にも、共に籠城した輩です。いくさに耐えぬほどな不具でも病気でもないと言い張り、どう諭しても、ききいれません。このたびこそは、わがおやかたにも決死の御出陣とうかがわれる。その戦にお供がならぬほどなら、ここで刺しちがえて死ぬなどと申しおるようなわけで」
「さまでに」
と、正成は、うるみ声で、兵の簿にあたまを垂れた。そうした純烈なものを知ると断腸の責めに衝かれるらしい。謝する言葉もないふうだった。が、そのまま了現の手へ、簿を返して、
「兵数は、意外に多い。多すぎる。明朝、あらためて一考しよう」
と、言った。
陣務に次ぐ陣務で、幕僚の出入りがつづいていたせいか、正季はまだ姿をみせていなかった。──まだといっても、はや時刻は夜半近い。──木々の雫の音に、青葉蔭もいつか冷え冷えとし、にぶい月明りの下には兵も馬も深い眠りのひそまりにおちていた。
正成も横になりかけた。
するとまた誰か、陣幕の外へ来てたたずんだ気配である。五、六名の武者らしかった。しかし内へ入って来たのは、ただ一人の小冠者の影であった。遠くにかしこまって、手をつかえている。見れば、河内に残して来たはずの正行だった。
「ほ。……」
正成はつい微笑を持った。
何しに来た?
と、理性の父であろうとしても、見ればやはり、目のうちにも入れたいような眼になって、その相好だけでなく、両のあぐらの膝までを和ませて、
「正行ではないか」
と、言った。
「はいっ」
正行は、かたくなっている。小柄なからだを、なお小さく両手をつかえ、父に叱られるであろうことを、その姿は、覚悟しているふうだった。
「お父上。おゆるしください。おあとを慕って、無断、御陣中へ来てしまいました。母と共に留守しておれとの、おいいつけではございましたが」
「いつ参ったの」
「きょうです」
「一人でか」
「いえ、叔父ぎみ(正季)とご一しょに河内を出ました」
「……だろうな。たそがれ、正季が申した言葉の端、さようなことでもあろうかと思うていたわえ」
「でも、叔父ぎみを叱らないでくださいませ。私がむりにお願いしたのです。あのように、お諭しをうけて、一たんは思い断ったのですが、また、どうしても思いきれません。それで、叔父ぎみにおすがり申し、たッて連れて来ていただいたのです」
「母へは」
「え、母ぎみにも」
「母はそなたが父を追ってゆくことを、承知したのか」
「はい」
「そうではなかろう。正季がしいて説きつけたのであろう。あの正季の一途を以て」
「ですが、母ぎみも、それほどまでに正行がいうならばと、お泣きにはなりましたけれど、しまいにはおこころよく、初陣なればと、この具足やら身支度も、お手ずから私に着せてくださいました。……そして仰っしゃるには、そなたも十五、年に不足はない。たって父ぎみに付いて行くほどなら、父ぎみの御最期もよう見とどけよ。父のお名をはずかしめるなと」
「久子までが」
「え」
「言ったのか」
「はい……」
父の大きな吐息が正行にもこのとき耳にわかる気がした。それほど正成の眉は、子にとって何かむずかしいものに見え、かたわらの扇をとって、藪蚊を追い、その半開きの扇のさきで、
「正行」
と、招いていたのに、すぐそのそばへ寄って行くのも、恐いように思われた。
「もそっと、こっちへ来い。父のそばへ」
「はい」
「もっと、寄れ」
「は」
「正行……」
父の大きな手が、肩に乗った重さに、正行は体じゅうがじんと熱くなった。また正成の手は、まだ成人の骨格をさえしていない少年の肩の小ささを感じながら、その白紙のままといっていい純真な烏帽子顔にある黒い二つのひとみを、飽かぬほど、見つめるのだった。
「よく来たのう、正行。……それはうれしい。だが、連れては行かれん。そなたは明朝、河内へ帰れ」
「えっ。──帰らねばなりませんか」
正行は、父の腕に絡んだ。
しがみついて。
「なぜです。なぜ正行は、お父上の戦について行っては」
「いけない」
「ど、どうしてです」
「河内を立つ朝、よく言っておいたはず」
「でも、こんどは、お父上も生きては還るまい御戦。死を決めての御出陣だと聞きました」
「たれから」
「叔父ぎみが。また母ぎみもそのようなお覚悟のご容子です。おなじ初陣なら、お父上と一つ陣で。おなじ死ぬなら、お父上と共に死にとうございます」
正行は、泣きもしていなかった。
この少年には、死がどういうものであるか、死がわかるほど、生もわかっていなかった。それだけに多感で純白な心は、父母の姿やら周囲の悲壮な戦の門出にその激血をつきつめられているのらしい。生き物の哀しさを、正成はこの子に見ずにいられなかった。
「よしよし、よく言った……」
思いのほか、父の言がこう優しかったので、正行は、甘え心が出て、どっと、いっぺんに涙をこぼした。両手で顔をおおったとおもうと、声をもらしてしゃくりあげた。
「さむらいの子、そうなくてはならぬところ、健気さはうれしいぞ。したが、正行よ。死ぬだけがもののふの道ではない。いや、もののふが一番に大事とせねばならぬのは、二つとない生命だ。いかなる道を世に志そうと、いのちを持たで出来ようか。されば、さむらいの、もっとも恥は犬死ということだ。次には、死に下手というものか。とまれ人と生れたからには、享けた一命をその人がどう生涯につかいきるか、それでその人の値うちもきまる」
「…………」
「そなたはまだ浅春の蕾だ。春さえ知ってない。夏も秋も冬も知っていない。人の一生にはたくさんなことができる。誓えばどんな希望でもかけられる。父と共に死ぬなどは、そのときだけのみずからの満足にすぎん。世の中もまた定まったものではない。易学のいうように、時々刻々、かわって行く。ゆえにどんな眼前の悪状態にも、絶望するにはあたらぬ」
「…………」
「それなのに、父は死のたたかいに行く。行かねばならぬ。これは父がいたらぬからだ。みかどの御為とは申しながら、かくならぬ前に、もっとよい忠誠の道を、ほかにさがして、力をつくすべきであった。いや心はくだいたが、この父にそこまでの能がなく、ついにみずからをも窮地に終らすほかない今日とはなったのだ。……そのような正成に、若木のそちを共につれてゆくことはできぬ。そなたは正成のようなおろかしい道を践むな」
「…………」
「まず、あと淋しかろう母に成人を見せてやれ。この後は、ふるさとの河内一領を保ちえたら、それを以て、僥せとし、めったに無益な兵馬をうごかすでないぞ。ただ自分を作れ、自分を養え。そして一個の大人となったあかつきには、自然そなたとしての志も分別もついて来よう。その上は、そなた自身の一生だ。身の一命を、いかにつかうかも、そのときに悔いなき思慮をいたすがよい」
「…………」
「わかったか、正行」
「…………」
「わからぬのか」
「…………」
「これほど、理をわけて父が申すのに、なお得心がつかぬとは、そなたもほどの知れたやつ、頼もしからぬ子ではある」
「…………」
正行は顔を上げたが、何もいえなかった。父から頼もしくないといわれたのが一途に悲しそうで、ただ、けいれんする唇へ涙を吸っていた。それが、まだ三ツ四ツ頃の、あどけない泣き顔そッくりに親には見えた。
いまは親の身にとっても、心を鬼にして叱ッて帰すのが、絆を断つに、いちばんやさしいこととは思う。
正成も知らないではない。しかし今生これきりと知る生別を本心でもない偽りの怒面で子を追いやるには忍びなかった。──で、それからも正成は、じゅんじゅんと子を諭し、そしてほどなく、楯に敷かれた毛皮の上に正行を寝かせ、自分もつかのま、そのそばでまどろんだ。
短夜はすぐ明けた。
遠方此方の幕舎で、はや、将士の起き出る気配がする。正行は、どこかで顔を洗ってもどって来た。深くは眠れずに過ごしたのだろう。今朝もまた、瞼は赤く腫れあがっている。
父はと見れば、正成はもうその将座に、数名の幕僚をよんで、何事かをさしずしていた。その将たちも忙しげにすぐ去って行く。正行は、いつもの家庭の朝のように、父の前へ来て、朝のあいさつをした。
「眠ったか」
「はい」
「そして、今朝になって、どう思うの。父が申したことばは、あやまりであろうか」
「いえ……」
正行は、言った。
「よくわかりました」
「おう」
ニコとして。
「それでこそ、正成が子、ようわかってくれた。うれしいぞ」
「ですがお父上」
「む」
「正行も成人して、そして勉強した上、ひとかどの大人となりましたら、自分の思うところを、思いのように、世に働いてもよろしいのでございましょうね」
「それはよいとも──」正成はいわざるを得なかった。「それまでを、たれにも阻める力はない。自分の一生は自分の創るもの」
「おことばを守って、いちばい勉強いたします。自分を作ることに励みます。母ぎみにも御心配をかけないように」
「やれ。それで思い残すところはない。母もさぞ、ほっとしよう。ぜひなくそなたを放したとはいえ、母の心も正成の心と違うてはおらぬはず。はやはや、今日は河内へ帰って、なぐさめてお上げせい。わけて正成が亡い後は、世にひとりの母。また、そなたは、幼い弟たちの兄でもある。たのむぞよ、正行」
「はい……」
と、多感な子はまたすぐ涙を催しかけた。が、そこへ兵糧の朝餉が運ばれて来たのを機に、正成はそれ幸いに、さいごの貧しい野戦食を正行と向いあって摂りながら、幕舎の外へ命じていた。
「たれかある。正季のとばりへ参って、正季を呼んでこい」
「おめしですか。兄上」
「正季か。ま、坐れ」
と、正成は、楯の座のしとねを分けて。
「正行のことだが」
「そのことでは、私からも申しあげねばなりませぬ。じつは御出立のあと、余りの不憫さ、また健気さに、これまでお連れして来ましたが、やはりお供はおゆるしないそうで」
「はや、聞いたの」
「じつは心がかりのまま、昨夜、み幕舎の外にいて、委細は伺うておりました。……よほど私からも、共々お願いをと、疼きおりましたが、じゅんじゅんたるお諭し。しょせん、うごかし難いお心と察しまして」
「ならば、くわしくいう要もない。正行はよう得心した。さっそく今朝、帰してほしい」
「ぜひもございませぬ。では、たれかを従者につけて」
「いや正行のみならず、これなる兵簿のうち、およそ三百余人、正成がそれぞれの名の上に印しておいた。それらの者も正行に添えて、郷里へ帰せ」
「え?」
正季は、簿を受け取って、仔細に見てゆきながら。
「兄上、これは総勢一千二百余人のうち、四分ノ一弱、なんでお返しなされますか」
「正成が亡きあとは、旧領はおろか、河内の寸土を保つのさえ容易でなかろう。また正行のためにも、しかるべき者、いくらかは残しおきたい」
「それにしても」
「いやなお、み戦のためにもあらず、正成に殉ずるでもなく、領主の命ゆえと、すすまぬながら、ぜひなく応じて来た将士もある。それらの者とはここで別れるに如くはない。今日以後、正成と連れ立つ者は、さいごまで、正成との同行を悔いとせぬ者だけにかぎる。簿に印した以外の武士でも、帰るが望みという者あれば、こころよく、今朝、放ちやるがいい。そう言い渡せ」
「はっ」
正季は立った。兄の覚悟は十二分察知していると思う正季だったが、この朝ほど、その静かな心の底に冷やと触れたことはなかった。正季にすれば、おなじ決死の覚悟ではいても、まだ多分に、足利勢を破って、勝つ望み、生きての望みを、捨ててはいず、また捨て切ッた覚悟ではなかったのである。
まもなく、正成も立って。
「馬を!」
夜営は、一瞬にたたまれ、桜井寺の角から西国街道へ、先駆はすぐ流れ出している。
そこを曲がるとき、正成は、ふたたび正行を辻に見た。小さい姿は茫とした顔して佇んでいた。現実の必然やこの酷い流れが一小冠者の思慮には余るものらしかった。
たちまち、苛烈な空間が父の背と子のあいだをみるまに遠ざけていた。──と思うと、この朝、列伍に外された帰郷組の将士のうちから、とつぜん「おやかたさま! おやかたさまアっ」と、死線に目をつぶるように追ッかけてゆく兵がワラワラあった。二十人、三十人とつづいて、それは埃りをあげて正成のあとを追い慕った。それを見ると、正行もまた本能的に駈け出しかけた。が当然、まわりの者に抱きとめられ、初めて、わあっんと、ほんとに声をあげた。狂気かと思われるような暴れ方でもだえ泣きに泣き狂った。
義貞。ここへきての彼には、思いやられるものがある。まったく彼の昨今は精彩がない。
かつては、時の氏神のように、その英姿を、世上に仰がせたほどな彼が、こんにち、この敗退に次ぐ敗退は、どうしたことかと、疑われる。
とくに、こんどは、官軍六万をひきい、山陽山陰十六ヵ国からなにを徴用してもよい管領権までを賜わってきた左近衛中将義貞なのだ。それが都門を出た三月いらい──きょう五月二十四日──のこの日まで、ほとんどなんら義貞らしい片鱗もみせてはいない。
辱を知る
また、名を尊ぶ
なども人いちばい意識に濃い彼で、時流の武人どもからいわせれば、旧い武将型と笑うかもしれないほど名を重んじ、またつねに源家の嫡流たることを、ほこり高く持している義貞でもある。──それだけに、きのうきょうの、彼の焦躁には、人しれぬものがあったろう。
おもうに。──このところの彼を支配していたのは、彼の健康ではなかったか。すでに、都を立つまえから彼は持病の瘧をわずらっていた。それも癒えぬうち征途についていたのである。戦陣のむり、雨期の悪天候など、いらい、彼の体のすぐれぬものがあったといえぬふしもなくはない。
「やんだなあ、雨は」
義貞は、つぶやいた。自分では健康をそこねているなどと意識しているふうではなく──ただ夜来の風雨には辟易したらしく、生田ノ森に兵馬をさけ、自身も社殿のうちに一夜をしのいだ。そして二十四日の今朝、
「やんだわ!」
と、五月の空の、雲のきれまを仰ぎながら、門廊のあたりまで歩いて来て、
「瓜生、瓜生っ」
と、人を呼んでいた。
声は大きい。いくぶん、癇気はあるが、不健康ではとても出ない声である。顔いろに冴えがなく、どこか澱みがあるのはぜひもない。──加古川を総退却していらい、よく眠ったのは、ゆうべが久しぶりなのだった。
「おお、おめざめで」
「保か。──内門の廊の袖に床几をおけ。そしてすぐ軍議をひらこう。昨夜らいの物見の情報も聞きたい。──義助をはじめ、堀口、大館、江口、世良田、居あわす者はみな寄れと申せ」
「はっ」
瓜生保が駈け去る。
まもなく、脇屋義助の手にぞくす将のほかは、あらまし集まってきた。
ただ、義助はなお、足利勢のうごきをたしかめるため、ゆうべの風雨の中も、須磨口から兵庫の浜にとどまっていた。彼の姿を欠いた軍議は、とかく根本の方針までは立てえなかった。
「まず措こう。義助もまだ来ておらねば」
と、義貞は、やがて一おう軍議を打切った。
この兵庫へ入ったのは、昨二十三日のこと。加古川からは多くの負傷者をかかえ、悪天候には、はばまれ、秩序もなく、なだれこんだ形にすぎない。
ここを決戦場として、足利の海陸勢を迎え打ち、一挙に粉砕する。──とは、この退却を転進と称って、全軍を励ましていた合言葉だが、
「──さて今朝、ここにある総兵力は、どれほどか」
と、義貞がたずねたときには、諸将のたれからも、明確な答えは聞かれなかった。みな自分自分の部隊だけはほぼ兵数もつかんでいたが、総括的なこととなると、たれにもわからないのが、けさの実状なのだった。
そこで、
「さっそく数えあげよ」
と、義貞は、綿打ノ入道、里見義胤らにその奉行をいいつけ、それも、
「午までに」
と、時を限った。
こういうあいだにも、義貞は須磨方面にふみとどまっている脇屋義助の前線へむかって、伝令をとばしては、
「足利直義の陸兵はいま、どの辺まで来つつあるか。また尊氏の水軍は?」
と問わせたが、
「いずれも、まだ確かなるところは」
と、義助の手もとにも、まだ的確な情報はないような返答だった。──で、おそらくは、と義貞をめぐる幕僚たちも、こうした説にかたよっていた。
「きのうの風雨には、お味方もさんざんになやまされましたが、敵とて、おなじことだったでしょう。……わけて尊氏の海上勢は、播磨灘の風浪にさえぎられ、しょせん、室ノ津は立ちえなかったにちがいない。……とすれば、はやくても、沖に影をみせるのは、あしたのことか」と。
かくて、午ごろ。
「ざっとではござりますが」
と、里見、綿打の二奉行が、全兵力の略簿を作って、義貞へ呈しにきた。
みれば、総締め、
二万騎
にもすこし欠けていた。
当初、六万と号していた官軍である。はやくも脱落者が多かったのだ。しかし義貞は、
「よしっ」
と、それに大きくうなずいた。なお残っているほどな者は精兵中の精兵だ。ござんなれと、彼の腹はできたのである。
すると、午やや過ぎ、義助から早打ちがあった。
「尊氏の水軍は、きのうの風雨も冒して室を出たらしく、もう先駆の船影が、明石海峡のくちまで来つつある由です」と。
「すわ」
と、陣はいろめき立った。思い思いな所へかけて、沖を見やる人々の顔はいずれも硬ばっていた。──が、まだ何も見えはしていない。兵船らしい一隻もなくにぶい波光をたたえた五月の海が夕を待っているだけである。
じつに、こんなときだった。──楠木正成、正季以下の急援部隊がこれへ着いたのは。──そしてこの一軍も、夜来の風雨とぬかるみに悩んで、泥のようになって来たのは同様だった。
尊氏の水軍近づく──
の報に、義貞も幕僚たちと共に掖門の外に立って海上を眺めていたが、
「そうか。敵影はまだ明石海峡の西か。……ではまだ見えぬはず」
と、呟いていた。しかしその目はなおも、和田、兵庫、生田、西ノ宮の長い汀にわたる明日の攻防修羅の作戦図をじっと思いえがいているふうだった。
そこへ、楠木河内守正成の到着──と聞え、またまもなく、総門外の額田為綱からも、
「ただいま、河内殿の一勢が、御門外に到って、着到の届け出でにおよばれましたが、いかがなされまする?」
と、問い合せてきた。
義貞はたずね返した。
「して、河内守が引きつれてまいった兵のかずは?」
「一千にはちと欠けるやもしれません」
「なに、それしきの小勢か」
「はっ」
「さるに、何を手間どって」
「いや、箕面、昆陽野のあたりからは夜どおしの雨風に打たれ、河内殿以下、人も馬も、泥人形のようなおすがた。これでもよほどお急ぎあったものとうけたまわりました」
「ム。それもあろうか」
義貞は、一考して。
「こうしよう。その態たらくではすべもあるまい。しかるべく、人馬を休め、のちほど、社家の一殿でお目にかかろう、と」
為綱は去った。
そのあと、義貞は、門廊の床几にかかって、さしせまる乾坤一擲の戦いをどう戦うべきか、よろいの高紐におや指をさしはさみ、ひとり唇をかんでいた。
なによりも彼はいま兵力の不足を感じる。
当初、尊氏の東上ときいても、わずか二タ月ほどな再起の準備、どれほどな兵力を狩りえようと、たかをくくっていた風でなくもない。──ところが近接すればするほど、予想外な大兵とわかり、また東上の途上、その兵員はふえるばかりのようでもあるのだ。
で、彼は急遽、都へむかって、予備軍の急派を、ひんぴんと、要請していた。すでにそれはぞくぞく着いて現地軍のうちに編入されており、楠木正成の来援なども、その要請によるもののほかではない。ただ正成のばあいは、その来ることが、はなはだ遅かった。義貞にはややそれもまず気にくわない──。
しかし、殿上からの、べつな通達によると、正成は河内から直行せず、親しくみかどにお別れをつげて立ったという。そのことは、義貞にまた或る不安をいだかせていた。
何をまた、正成が奏したろうか。
義貞はあれいらい、正成なる者に、決してまだ釈然とはしきれていない。──あれいらいとは、もちろん義貞が西征の途に立った三月、正成が直々に、みかどへ諫奏し奉ったというそのことである。
正成はお諫めして「このさいは、新田殿を退かせ、尊氏をお招きあって、尊氏とおはなし合いになることが、もっとも万全な御方針かとおもわれます」と、切々申しあげたという。──義貞は当時聞いていた。彼の耳はこれを忘れていない。
右衛門ノ佐脇屋義助が、
「しゃっ。いよいよだぞ」
と、これへ馬をとばして来て、床几場で義貞と会っていたのは、陽もやや西のころだった。
「兄上。ここらからはまだ見えませんが、高取山から望みますと、まさに数千艘といえる敵の水軍が、明石と淡路島とのあいだを、魚群のように遡ってくるのが、あざらかに見られました。あわてるには及ばぬまでも、諸陣はみな戦気立ッて、御司令を待ちおりまする。備えはいかにしたものでしょうか」
「おちつこう」
と、義貞は、弟の語気に、わざと一語を措いて。
「敵の陸兵は?」
「おなじく、明石街道の磯道を、友軍の船脚と見合せながら進んでおり、やがて大蔵谷へ近づくばかりにございまする」
「すると、それが大蔵か塩谷に着き、また海上の敵がこの沖あいにかかるのは」
「まず、夜でしょう。それも宵うちでありますまいか」
「敵にも用意はいる。勝負は明日だな。明けがたか」
「まず、それとみて、まちがいありますまいが、お手配は」
「さいぜん堀口貞満から、第一の布令は、各陣へ廻しておいた。すでにあれによって、うごく者はうごいていようが」
「が、なお、第二の御陣布令があるはずと、うけたまわっておりますが」
「さいごの布陣は、敵の動静のいかんにもよる。臨機、もすこし様子を見きわめてからにしたい。……それに」
と、義貞はここで、正成の到着を、弟へ告げた。そして、殿上からの飛達にも、正成と隔意なき作戦上の談合をとげよとあるから、一おうは正成の意見も聞こうと思う、と言った。
すると義助は、はたしてそれを一笑の下にふして。
「いまごろの馳せ参じさえ、ちと懈怠と思われるのに、ぼッと出の河内の新守護などが、何の策を持ちましょうや。なるほど、金剛千早ではめざましい善戦をした者かもしれません。けれどあれは自領の一小局地の戦い」
「む」
「ここの大局では、戦場の規模、戦いのかけひき、雲泥のちがいです。すべて堂上方のみでなく、世上の武士も、ちと楠木の名を買いかぶッてはおる。どう見ても義助には、あの正成に、韓信、張良の智謀の片鱗もあろうとは思えません」
「しかし」
と、義貞は抑えた。自分の言いたい以上、弟が言ってしまったからである。
「意見として聞きおくぶんには聞くもよかろう。また、義貞の狭量よと、人にいわれるのもよろしくない。……とまれ正成と会うて後、明日の備えはきめる。そちは大事をとって、ひとまず陣地を和田の辺まで下げておけ。夜に入らば、なお打合せの使いを、交わすであろう」
「では、お待ちいたしまする」
いつか生田ノ森は、ひぐらしの音に暮れていた。浜といわず、山野といわず、いたる所の地を馳け鳴らしていた終日の駒音もやんで夕一瞬の静かな白い星があった。──その下をいま、正成の姿は、生田の一門から義貞のいる社家の方へ歩いていた。
義貞は、あぐらして、ゆったりと、上座にいた。
が、正成を見ると、
「お、河内どのか。陣中のことだ。へだてはよそう。ずっと、ずっと」
と、席を分けた。社家の客殿である。迎えは義貞からやったので、あすの打合せかたがた、こよいの兵食を共にしようということだった。
「ちと、遅着を」
と、正成はまずわびた。
「桜井に一宿、芥川も日和に過ぎつつ、あれから降られ通しましてな」
「西国街道がぬかッたひには、二日路が三日もかかる。ま、上をお脱りなさらぬか」
上をとは、大鎧のこと、義貞はすでに胴巻だけのくつろぎになっていた。
夕凪の暑さに加えて、ここの蚊うなりは猛々しい。侍臣のすすめに、正成も上をぬいで、後ろにおいた。
あれから夕方まで、生田川の川原では、正成の部下がみな裸になって、みそぎするように汗を流したり泥土の具足を洗っていたが、正成もまた、そうして来たのか、よろい下着にも、汗ジミのない白い襟もとを涼やかにのぞかせていた。
「河内どの。遅くはない。大詰のたたかいは、まず明日か。よい日にお見えあって、義貞も心強う存じ申す」
「なにほどのお力にもなりますまいが、ひきつれてまいった一千は、みかどの御楯となって死ぬぶんには悔いを持たぬ、笠置、千早いらいのつわものばかりです。あすこそは、敵のもっとも強手に当ッて、日頃の国恩におこたえ仕りたいと存じておりまする」
「よういわれた。義貞の希いも、一に朝家のご安泰のみ。もし世が逆賊の手になど渡らば、この国のすがたはない。……しかるに」
と、彼はつい口に出した。いうべきでないと、心で制止しながら、止められなかった。
「──このさい朝廷は、義貞を退け、尊氏と和して、時局を収拾すべきであると、賢者顔して、堂上へ献言した、おかしげな小才子も、先頃にはあったという。ははははは。河内どのには、何と思われるな」
正成は針でさされたように片目をしばだたいた。そしてニコとした。もちろん、義貞の笑いとは、まったく質のちがった苦笑ではあった。
「いや何、左中将どの。その献言した者とは、ほかならぬ私です。この正成にございまする」
「御辺だと。──」と、義貞は片方の膝を大きく構え直して、聞き捨てならんとして見せた。
「まず……」
正成は一こう反射をうけていない。彼の怒色を見ても、自分はくつろぎ切った姿でいる。──そして、それらのことについては、こよい、自分からすすんでお話したいところであったと言い、
「それもこれも、ただ朝家のお為と、たくさんな人命の犠牲を惜しむばかりに申したことで、決して、尊氏をおそれ、左中将殿にお恨みがあって、讒したわけなどではありませぬ」
と、どこまで淡々としたことばの調子を外さなかった。
義貞にはわかっていない。
が、正成は人知れずもう死をきめていたのである。
いかに死すべきか
死の価値だけが彼には大事なのであって、感情上のこと、生還のこと、すべてさらさら胸のすみにもない。で自然、義貞へも、心の小細工などは持つ要は何もなかったのだ。──ただ、ありようありのまま、義貞とあしたの戦略をよくはなしあっておこう。そしてそれには、主将の義貞にいささかなわだかまりがあってもいけないと考え、そのもつれを解こうと努めるものにすぎないのだった。
「あのころは」
と、正成はなお言った。
「──何は忍んでも、尊氏と和すことが、天下万民のため、朝家御安泰のため、また、新田どの御自体のためにも、最善であると思い、それは今でも誤りであったとは考えませぬ。けれど、きょうは早や大いに異なり、尊氏と和せば尊氏に服すことになりましょう」
「しれたこと」
と、義貞は、上将が下部の将にいう口調そのまま──
「逆賊の性根は幾皮剥いても逆賊ときまったものだ。尊氏と義貞とは、朝家に誓いたてまつる根本の信念でも、またいかなる点でも、倶に天をいただかざる仇敵。這奴を生かしておくうちは世の乱はしずまらん」
「ごもっともです。それに異論はございませぬ。さきに私のした不つつかな献策が、なお御不快をのこしておられますなれば何とぞ、御勘弁ねがいます。このとおり深くおわび仕りまする」
「いや何、そうあらたまって、おわびには及ばん。とうに、水には流しておる」
と、義貞も思慮に返って。
「さようなこと。主上がお取上げあるはずもなし、また、義貞も一笑にふしていたことのみ。……だが、河内どの」
「は」
「問いたいのは、御辺の戦意。──そも御辺にはいかなる勝算をお持ちか」
「もしここに水軍の備えがあればと存じていますが」
「ないゆえに、ここは苦戦とのお考えだな。まずは弱気か。しかし諸方へ檄はとばしてある。あすにも、わが水軍が沖に見えぬとはかぎらぬのだ」
「が、それもまにあいませぬときは」
「精鋭二万、なお義貞の下に、尊氏必滅の意気を燃やしておる。そして楠木勢の参陣も見たいまだ。──総じて、汀の戦いは、陸地の兵に強味がある。──舟で来る敵は、こなたの二倍三倍の兵力をそそいでも、勝目はうすい」
「しかし、海上の敵は、自分の好む地点を戦場として駈け上がりうる利を持っていまする」
「それとて、気づかいはない。敵の船手のうごき次第で、こなたも臨機自由に、騎馬隊をいずこへでも馳せ向わす。わが騎馬隊は、関東武者のほこり。連戦の疲れはあれ、まだまだ、尊氏ずれに辟易するようなわが麾下ではおざらぬよ」
そのとき、外のほうで、
「オオ見える! 見えてきた」
「足利の水軍が!」
「ああ、あれか!」
と、口々に騒めく兵の声があらしのようにわき揚ッていた。
「……来ましたな」
「そうらしい」
ふたりは顔を見合せた。
義貞がさきに立ち、つづいて正成も席を立った。
そして廊の角にたたずんだ。──すでに宵。青ぐろい斑雲のすきまが星を打ち出している。
摩耶、ひよどり越え、高取山、栂尾山、すべての山勢が並び立った下の野や丘や幾筋もの河口に、遠く近く、わびしい民家が散在して見え、長い曲浦の線がうねうねと白い。
「…………」
が、それらの事物は、或る一焦点を、あきらかにさせる巨大な額縁としてあるにすぎない。
義貞は息をのむ。正成も凝視のままだった。ふたりの間には声もなかった……。
なるほど、足利方で数千ぞうと称えているのも誇大ではない。じつに、おびただしい船かずである。
ちょうど、それはいま、明石海峡をひがしへ出離れ、一ノ谷、須磨の沖あいあたりで、一せいに、いかりを下ろしているらしくおもわれる。
とくにまた、こよいの足利軍は、示威的な意図もあってその一船一船には、篝火の数のかぎりを焚かせていた。その景観の状は、
「梅松論」に、
艫、舳、
ともす篝火は、
浪を焼くかとぞ
見えて赤し
とあるその通りであったことだろう。そしてなお、
明二十五日
兵庫合戦のお心じたくあり
御談合の事共
海と陸とにかけて、
夜中
御使の往復
たびたびに及ぶ
ともある、その使者舟の影も、沖と岸とのあいだを、火の紐のように、もう往返しだしているのが、眺められる。
うたがいもなく、すでに足利直義の陸上軍も、大蔵谷のあたりまでは来て、その行軍を、ひしめき、ひしめき、駐めていたにちがいない。──要するに足利勢の海陸幾万は、
「いつでも」
と、はやこれへ挑んでいるとしていい態勢だった。
義貞は、元の座へもどった。そして燭を運んできた社家の者に、酒をさいそくしていた。ふたりの前には、まもなく、酒瓶と折敷が供えられた。
「河内どの。折からこよいの二人には、よい肴ではあるまいか。平家のむかしと聞く千僧供養とやらの燈籠を見るよりはまだ美しい沖の景物。……眺めをさかなに、ひとつ酌もう」
「まことに。涼夜の一杯は、生けるしるしありとか言いますな。心ゆくまでいただきましょう」
「そして、あすの夜は、尊氏兄弟の首をさかなに、さらに祝杯をあげたいものだが」
「はははは。おなじことを、こよい尊氏の船中でも、直義の陣中でも、申し合うていることでしょう」
「直義は暴勇のみ。尊氏は政略だけの男。いずれも恐るるには足らん。ただ兵数だけが、われよりはるかに超えておる。それにたいする河内どのの戦法はどうか。よい奇略があるなら聞きたいものだが」
正成は、顔を振った。
「なんで正成にかくべつな奇略などありましょう。ただあすは御指揮のもとに全力をつくすほか何も所存してはおりませぬ」
しかし、義貞は、それを彼のひかえめな言い廻しとみて。
「おたがい遠慮はよそう。忌憚のないところが聞きたい。義貞もいう。そして最善の作戦を練らねばならん」
「守勢のお味方に、しかと御用意のできるのは〝応変〟のみです」
「つまり布陣か。応変自在の」
「は」
「すでに、あらましの配備は、ひるのうち諸陣へ申しわたしてある」
「その、ご意中の図は」
「ま。……こうだ」
と、義貞は床に扇のさきで曲線を描いてみせた。──須磨から駒ヶ林の浜、和田ノ岬、また湊川口と──守備の要地要地には扇の要を止めて、
「ここに四千、ここに二千。ここには千五、六百騎。──脇屋義助を浜手の大将とし、なお随所には、御辺のいういわゆる応変自在の遊軍を、千騎、五百騎ずつ、その間に置く」
と、説明する。
正成はいちいち頷いて。
「そこで陸地の敵には?」
「ム。足利直義の進路か。──それへは越後新田党の強兵をあたらせよう。──細屋、烏山、大井田、籠守沢、羽川、一の井などを主力に、武者所の諸勢をそえて、決死の者およそ七千を向けて打ちくだく」
「御本陣をどこに」
「さしずめ、陸手と海手の両方面へたいして、司令によい所といえば……。まず兵庫の中を一条まっすぐに通っておる西国街道のほどよき辺か」
「まことに、綿密な御軍配、それ以上はございますまい。が、そのためにかえって、どこもかしこも、守線の薄い弱味がなくもございませぬ」
「というて、どの方面にせよ、手を抜いてよい線はない」
「陸勢の攻め口には、山の手、西国街道、磯道づたいの三道があり、──また海上の敵は、随所、すきを目がけて上陸して来ましょう。──よほどな御工夫があっても、ここはおぼつかなく思われまする」
「じゃによって、御辺の思案を訊くのだが」
「第一に危ないのは、御本陣です。以上のおくばりでは中軍にある御身辺は素裸にひとしく、もし敵の山手勢か水軍の一部に後ろを断たれたら、孤軍、何ともなりますまい」
「ぜひもない! その時はその時よ。大義のため、義貞もここに果つるなら、それも本望。何を恐れようや」
義貞は激してきた。彼らしい発色が酒気をまぜて、耳の根を染め、同時に正成もややことばを強めていた。
「いや総大将のおん身、そう軽々しくては相なりませぬ。──またお味方は、お味方にとって有利な浜戦に主力をそそいで戦うべきで、せっかくな精鋭を七千もさいて、直義の防ぎに当てるのは、おろかなことです。その一半をお旗本の固めにおき、他もみな海面の敵に当てて、敵に一歩も地を踏ませぬほどな防備こそしかるべきではないでしょうか」
「ばかな……」
義貞は苦笑した。ついでに、苦々と杯を仰飲って。
「では、訊くが、河内どの。いったい陸路の敵には、たれが防ぎに当るのだ。そこは開け放しておけとでも申すのか」
「何条、さような」
「でも、味方のすべてを、浜手に廻してしまったら?」
「いや、これをごらんくだされい。さいぜん、ここへ伺う前、まだ夕明りのまま、あちこち駒を遊ばせて、ざっと懐紙に写しとってまいった、兵庫の地の見取り図ですが」
「ほ? ……」と、義貞は手にとって。
「ここに、会下山として、特に、印のあるのは」
「湊川のやや上流の方。山の手から申せば、ひよどり越え、夢野の南。そこに四面どちらからでもよじ登れるような一段丘がございまする」
「む」
「ねがわくば、あすの正成の陣地には、ここを給わりとうぞんじます。さすれば、足利直義の主力を、そこに引きつけ、お味方の御主勢がその全力を、海面の敵の防ぎにそそぎ得るよう、努めまする」
「楠木勢一手でか」
「もとよりです」
「だが、わずか一千たらずの兵で、いかなる奇略をもって?」
「奇略などは何もございません。ただ死力。正成一族の祈りをもって、支え得るかぎり……」
「広言は吐かぬ御辺だ。千早の例にみても……。だがよく、さようにまいろうか」
「いや、会下山とは、掌のひらに乗るような孤立の丘。千早の奇蹟などは、思いもよりません。ただ主軍のための時を稼ぐ──それも幾刻か──には過ぎますまいが。しかし御武運よろしくば」
「そうだ。尊氏の舟手を、いたる所で、叩きつぶせば、ひるがえッて、直義をも一敗地にまみれさすのは至難ではない。直義の軍を、よく楠木の一勢で、半日もささえ得ていてくれるなら」
義貞は再々に機嫌が変った。荒天の雲のように、不安と勝気と、また焦躁と剛胆とが、去来しぬいていた風である。が、颯然とその心は窓が開いた。すすんで苦戦中の苦戦に立つことを申し出た正成の態度に、過去のわだかまり一切は吹き払われていたのであった。
もともと情熱家である。情誼と共に武将型の単純さもある義貞だった。疑わないとなると、彼は正成に、心からな感激を惜しまず、すなわち、あすの作戦は、大略、正成の希望にもとづくものとなった。でなお更けるまで、微細な打合せをとげていた。
──正成は晩く帰った。
めったにはそう過ごさぬ酒だが、この半夜は、かなり飲んだようである。「──かならず義貞とよう談合をとげよ」とお言葉のあった後醍醐の仰せつけにも、これで違背はないとする満足も心にあった。何もかも、彼の心は涼しかった。愉しかった。おそらくそういったら、彼以外の者は、それを彼の虚偽と顰蹙するであろうほど、人知れずそれは彼のみが本懐としていた境地だったのだ。
尊氏は船底で目をさました。浪枕、莚の上で。
二十五日だ。さてどんな今日一日になるであろうかを、すぐ思わずにいられない。
ゆうべはこの本船で、おそくまでの各船隊の船将会議。また陸上の直義からも夜ッぴて諜し合せの使いがくりかえされ、具足のまま、横になったのはもう明け近いころであった。
がばと、起きて。
四、五段の船そこ梯子から上に上半身を出す。とたんに、眼もとを顰めた。まだ海上はいちめんな狭霧だが、大きな旭日と、波映の揺れに、物みな虹色に燃えていたのである。
「お目ざめ!」
近侍たちは、彼のために、たちまち艫の一部にお嗽いの設けを置く。──尊氏はその小桶の水で顔を洗い、碗の水をふくんで海面へぱッと吐いた。
すると、すぐそばの一船上で、
「わはははは」
「あははは」
「ははは」
と、武者輩のさかんな笑い声だった。高ノ師直の部下だろうか。ひょうきんな男がいて、合戦開きの吉兆舞だとか言いながら、仲間の大勢に、道化た長柄踊りをして見せているところへ、お座船の艫に、尊氏のすがたを知ったので、あわてて船虫のように物蔭に隠れ込んだのを、大勢が笑いこけていたものだった。
「……?」
尊氏には、何のことだかわからなかった。しかしわからぬままに彼も笑っていた。そしてふと、元結のゆるみに、自分の髪の根もとをつかんで、
「ここを締め直せ」
と、近侍たちのほうをみていいつけた。
「はい」
するとすぐ、敏捷に、いつもの耳盥と櫛とを持って、彼のうしろに小膝を折った小武者があった。
尊氏の髪を手がける者は、ずっとこの者ときまっている。指の細さ、櫛の使いよう、どうしても女であった。女武者であったのだ。
「棗──」
と、尊氏は髪をあずけながら後ろの手へ話しかけた。
「そなたは、まだこの船中にいたのか。室ノ津で降りよといっておいたのに」
「はい」
「なぜ降りぬ?」
「殿のお髪を仕える者がなくなります」
「髪などは武者でもする」
「でも、どこまでもお供をして行きたいのでございます」
「おかしなやつだの。こわくはないのか」
「え。すこしも」
髪の根がキリと締まる。彼女はすぐ退がってゆく。尊氏はまた咎めもしない。陣中に飼われている一羽の小禽かのようにそれを見ている。
かつては、少女の一念で、尊氏の寝首を掻こうとして、寝所をうかがい、逆に、捕まッてからは、まったく尊氏に服しきッているような旧北条遺臣の娘であった。こういう者までが、今日の戦列──尊氏を繞る彼の陣にはいたのだった。彼には何か、これだけの人、つまり軍勢を、味方にひきつける魅力か何かがあったには相違ない。
実兵力、五万以上は、確実にあった。
一番貝が海陸で鳴った。二番貝、三番貝と、すべて準備のあいずらしかった。
やがて卯ノ刻。
午前六時だった。
ど、ど、ど、ど……と尊氏のいる本船で激烈な陣太鼓の音がとどろき、串崎舟の一そうからは、のろしが揚がった。
わああっ、わああっ……と海陸あわせて鬨の声がおこったのは、いよいよ敵へ進撃となった武者ぶるいの刹那感にもよろうが、ひとつには尊氏の搭乗している旗艦のうえに、燦めくものを見たせいだった。
このとき
将軍のお座船には
錦のみ旗に日をゑがきて
天照大神
八幡大菩薩
と金文字に打ちたるを
高く掲げられ……
とは「梅松論」の記すところ。淡路の沖、瀬戸五十町ほどを、波間もみえぬほど、大小数千艘のふねが、一時に、ひがしの一方向へ白波を噛んでゆくさまは、古記録の誇張をしても、なお、およばないほどだったろう。
この水軍の先陣は、細川定禅を大将として、弟の帯刀先生、ほか四国諸党の、およそ五百余艘──
すべて舳艫を、敵の和田ノ岬から兵庫へ向けて、左方の陸地を望みながら、徐々に、接岸をさぐッて行く。
それを先にたてて。
尊氏の水軍本隊は、まっ黒に見えるほどな群影を作って、やや沖あいを、半海里ほどあとから東進していた。
「おお」
尊氏は、その中の一船楼から、たえず全海域と、陸地をながめ廻していた。
「よしっ。天候もわれに幸いしている!」
と、思った。
降りぬいたあとだけに、空は拭われたように青く、大気は澄み、西は鉄拐山、横尾山、高尾、再度山、ひがしは摩耶、六甲まで眉にせまるほど近くに見える。その西部の一端にいま、妖しいキラめきを持つ蟻の大群みたいな列が、これも東へ東へと漸進してくるのがわかる。
進軍令と同時に、磯の垂水──塩谷──須磨──妙法寺川──へと行動をおこしていた陸勢の三万余騎である。──尊氏は目も放たない。
そのうちに、この大軍列は、幾ツに断っても生きている爬虫類のような分裂を見せて三ツにわかれ、各自各方向へ、そのカマ首をさらに刻々と敵へせまらせていた。
すなわち、途中から山道へ入って行った一支隊は、斯波高経のひきいる山手勢であり、また浜のなぎさを一ト筋に駈け出したのは、少弐頼尚以下の、筑紫の兵、三千余騎にちがいない。
そして、その二方面のまん中を、足利直義の本軍が、大手隊として、敵を圧するばかりな旗鼓で押しすすんでいた。「太平記」のことばを借りれば、
あな、おびただし
二つ引両 輪違ひ
四ツ目結 左巴
旗さまざま
雲霞の如く寄懸けたり
であった。
が、尊氏の注意はひたすら敵陣にあった。──とくに会下山上にひるがえる菊水の旗に眸をとめた。
沖あいと、会下山とは、かなりな距離だ。
彼方、山上の旗の紋章が、さだかに肉眼でわかるはずもない。尊氏が船上からそれを菊水と観たのは、直感だった。目で知ったわけではないのである。
「師直」
と、そばを振向いて。
「義貞もさすがよ。三道からの、こなたの攻めを予想して、要所には堅く三陣を配しておる」
「浜べのいたる所や磯松の間には、チラチラと敵の騎馬や歩卒が見えますが」
「いや、あれはみな遊動隊にすぎぬ。兵法でいう〝紛れ〟と申す敵の擬勢だ。あきらかに敵の主力は、和田ノ岬の一軍団、湊川の上に見える会下山の一隊。──また、会下山と和田ノ岬との中間にある大軍勢。それら三ツの陣所こそ、敵のかなめと思わるる」
「して、いずれへ御上陸を図られますか」
「まだ、まだ」
尊氏は、つよく呟く。
そしてそこの狭い船やぐらの内を檻の獅子みたいに巡りながら八方を観望していた。──味方の陸上軍の歩速──特に山手隊のうごきと、全船列の船脚とを見合せて、
「ちと迅いぞ。迅いッ、迅い!」
と突如、艫の舵手や帆綱番の上へどなった。
櫓櫂だけの兵船も多いが、身うごきの重い大船はみな帆力を借りていた。とかく船列は一致しない。何しろ、お座船からの命令一下では、ただちに敵前上陸へ移る将士をどれも満載している。勢いどの船といえ、先陣を気負ッていた。
「──賢俊御坊」
と、尊氏はまた、いつもそばにおいている陣中僧の日野賢俊へ訊ねていた。
「たしか、会下山の後ろ側には、旧い古道が一トすじ通っていたと思うが?」
「さよう。その古道をへだてて夢野、ひよどり越えの山中へ続いています」
「すると前面の西国街道からも、背後の古道からも、周囲はたやすく登りうるわけ。つまり二つの街道を扼して立つ孤立の丘と言い得るな」
「されば、彼処に立てば、十方、望みえぬ所はなく、敵にとっては、絶好な陣場です」
「そう思われるが、ではなぜ、そこに義貞が床几をおかず、楠木勢がおるのであろう? 御坊はあの陣容を見て、そこをどう思うな」
「や。会下山にある敵は、楠木でしょうか」
「河内守正成にちがいない。なぜなれば旗数が少なすぎる。それに正成以外には、小勢であんな地形に拠って、脚下にせまる大軍を、毅然と、待ちすましうるほどな将はおるまい」
「では、新田の本陣は?」
「義貞のおる所は、丘のすそから、和田ノ岬との、ちょうど真ん中」
「二本松」
「お。彼処を二本松と呼ぶか。……あのあたりに燦々と見ゆる大軍こそ彼の床几場。……しかし総大将たる義貞が低地に陣して、なぜ一部将にすぎぬ正成が、全戦場を下に、最も大事な、高地に兵を布いているのか。……それが分らん。あれだけは〝紛れ〟の計とも思えぬが?」
海は吠えた。舷を叩いてわめく。陸地の敵も鬨をあわせて吠え返す。
しかし、陸上の騎馬歩兵が、弓弦を並べて待ちかまえると、海上の船列はあざけるように敵を外らして、その舳艫を東へ東へ、移動して行ってしまう──
すると浜べの敵影も、波打ちぎわを伝ッて、追ッ駈け追っ駈け、罵った。
海は嘲笑う。陸は怒る。
どこも白沙青松だ。そして渚は長い。寄手は好む所へいつでも敵前上陸を敢行できる。だからあせる要はない。岸をさぐりさぐり、敵を揶揄し、翻弄し抜いている。
すべて、尊氏の指揮だった。──味方の山手隊、街道隊、浜べ隊の進み工合と睨みあわせていたのである。かくて駒ヶ林をひだりに、刈藻川の川尻沖まで来ると、時刻は辰ノ刻(午前八時)になっていた。強烈な炎日を予告するかのように、陽は澄みきり、彼方の会下山も、呼べば答えもしそうな近距離に見えてきた。
「……ああ、そうか!」
尊氏の胸はこのとき、われしらず呟いた。敵の陣容が、また正成の心事が、やっと腑に落ちたものらしい。
正成の今日あることは、今さら瞠目するにはあたらなかった。先に河内へ密使にやった右馬介から、正成の心は、すでに聞かされていたことだった。
そのせつ、右馬介を通して「もし尊氏に力をおよせ下さるなら」と、利を以て説かせても、耳をかすふうではなかったというし、さらには「尊氏とて、皇室を思う心は一つ。ただ現帝に代えて、持明院統の君を立てて、世を安きにおかんと思うばかり……」と伝えたことばにたいしても、正成はこうつよく答えたということではないか。
「総じて、尊氏どののお考えは、御自身の身から出たもので、国のため、諸民のためなどから出たものではない。その称えるところも要は理くつだ。大君を国柱とし、大君に仕え奉るとは、衆知の理を超えた理の磨きあいにほかならぬ。さなくば、こうした国姿も、ただ皇室を利用する悪徒によって乱の因をなすばかり……。さればそのてん尊氏どのなども、まさに乱臣賊子の一人。正成とはまったく異なる道をあゆむお人だ。あかの他人だ。ゆくすえまでも、正成の敵ぞとおつたえあるがよい」と。
──尊氏はそれをいま思い出す。こんな辛辣な言を彼はたれからもむげに浴びせられたおぼえがない。
それだけに彼は、ただの悪罵でない正成のその言伝てを、よくぞと、負け惜しみでなく感じたほど、深刻に心に痛く、また反対に、爽やかな気分でも聞いたことだった。……。
「その正成なら、今日の戦いには、こうあろうはず……。あわれ、みずから死地を求めて会下山に拠ったとみゆる」
なぜだろう、彼にもわからない。じいんと胸が傷んでいた。敵にまわしたくない敵、しかも七生までの敵ぞと自分へ宣言して会下山に立った敵。にもかかわらず、彼はなお、正成が憎めぬのみか、立派だ! とさえ思うのだった。
「右馬介、右馬介っ」
船やぐらから、下の舷をのぞいて、尊氏は急に呼んでいた。
すぐ、右馬介はそこへ駈けあがって来た。
尊氏のいいつけは、彼の耳のそばでささやかれたので、どんな内容かは、おなじ船やぐらにいた、師直、賢俊、ほか幕僚の諸将にもわからなかった。
右馬介もまた、
「こころえました」
とのみで、忙しげに、ふたたび自分の持場の舷へ駈け降りて行き、そしてまた、
「おっ。……あれは?」
と幕僚たちが、はるかな山の手の煙を見つけて、一せいに立ち騒ぎだしたのもそれと同時といってよかった。
「合図だ! わが山の手勢の」
「それよ、それに相違ない」
「大殿、大殿」
と、口々に、
「斯波高経の隊が、はや高取山を越え出て、大日堂の下に着いたことを、約束どおり彼方で報せておりますぞ」
尊氏も、もちろん見ていた。その一点を凝視して、
「大日堂は、会下山の西、半里ほどか」
「半里もございますまい」
「よしっ……」
尊氏は言った。そして胴ノ間を覗きこみ、旗番の士へ大声で、命令をくだした。
──旗合図! 予定の旗合図を掲揚させたものだった。
すると、先陣の船列の中から武者声が空へあがった。──細川定禅の大小五百余艘はもう遅すぎる感でこの命令一下を待ちかねていたのである。
急に、角度を切って、その船列の尖端は、和田ノ岬の南寄りのなぎさへ接岸して行った。──磯松のあいだに高い燈籠台がそびえている。──はやくも飛沫があがり、矢が飛び交い、敵味方の喊声が、三ヵ所ほどの浪打ちぎわで、つむじを巻いた。
「乱声、乱声っ!」
尊氏は、軍鼓の武士をこう励ました。鉦、鼓、ささらの如き打棒、あらゆる鼓舞の殺陣楽が、彼のお座船ばかりでなく、定禅やほかの船上でも狂気のようにとどろき鳴る。
しかし、そこには、思いのほかな大兵がいた。
新田一族の、大館氏明、宗氏の手兵三千が、あらまし、密生した小松原のかげに潜んでいたのである。
そのうえ、駒ヶ林から浜づたいに駈け慕ってきた騎馬隊があり、また、後詰には、二本松の義貞の本陣からも、経ヶ島附近にある脇屋義助の陣からも、たちまち、これへいくらでも応援が可能であった。
「退けッ。退けい」
俄に、督戦の乱声は、退き鉦にかわっていた。
序戦まず第一回の敵前上陸は、むざんな失敗に帰したのである。──陸上へ躍りあがったものの、新田がたの重囲に持ちこまれて、あなたこなたで、みすみす討死をとげてしまった者、二百余人。──いわば尖端を切った一船隊は、まるまる殲滅されて退いたのだった。
もちろん、足利がたの浜の手、少弐頼尚の一軍は、すでに駒ヶ林へその先駆を突ッかけて来、直義の本軍も、西国街道を、驀進していた。だが正面には、二本松を中心とする重厚な鉄の陣地、新田義貞の主軍がある。
戦機。──
それはいま、午前十時ちかい天地にしいんと孕まれていた。
「なんで退くのか」
「みすみす岸を踏みながら、俄にまた、退き鉦とは」
「わが将軍(尊氏)も、臆し過ぎる」
「これほどな戦、序の口、二百や三百の兵が打たれたとて、そのたびに退き鉦を鳴らしていたら、しょせん、敵前への上陸など思いもよらん」
「しかも、犠牲は犠牲のままとなッて、あえなく、犬死させることではないか」
先陣の五百余艘──
その艨艟の中にある細川定禅の船上では、定禅をめぐッて、四国党の諸将が、はなはだしく、憤慨していた。
もっと、ことばを露骨にしていえば、つまり尊氏の指揮がなッていない! ということであったらしい。
これは、むりもないことにも見える。
せっかく接岸して、しかも二百余の味方はすでに殲滅されてしまったのだ。──ならばいッそ息も抜かずに、五百、七百、あるいは千、二千──と犠牲を惜しまず、渚を部下の屍で埋めても、叱咤をつづけるべきであったろう。それでこそ初めて上将の指揮というもので、突破の口が開けるかもしれないのである。
──だのに、どういうわけか、尊氏は、そのかんじんな機に退き鉦を打たせ、自身のお座船以下、数千艘を、みな意気地なく、沖へ乱れ退かせてしまったのだ。
「ご料簡の程が分からぬ」
と、一部の激昂も、当然ではあった。がしかし、これが単なる指揮の臆病さによるものだろうか。尊氏に何かの考えがなかったわけでもないらしい。
その証拠には、そんな最中。尊氏は、いつのまにか、自身乗っていたお座船を捨て、ほかの一船へ乗りかえていたのである。
それとは、味方の各船でさえ、たれも気づかないうちであったが、ほどなく先陣の四国勢──細川定禅の船へ──尊氏から伝令舟が漕ぎよせて行き、こう軍命をつたえていた。
「先陣ハ、和田ノ岬ヲ巡ッテ、左岸ニ沿イ、兵庫港(経ヶ島)ヘ、上陸セヨ」
そしてまた、
「ツヅイテ、日輪ノ旗ヲ中ニ、本軍ハ紺辺(神戸)ノ東ヘ突進スベシ。シカシソレニハ一切、加勢無用」と。
伝令はその二ヵ条だった。
「それっ」
と、これをうけた先陣は、全船列を立て直して、すぐ上陸をくわだてた。
──が、そこは義貞の弟脇屋義助が、強兵数千を布いて、ござんなれと、待ちかまえていた浜べである。
当然、なぎさの激闘は猛烈をきわめた。ぶつけて行く船々々──。しぶきと、血うめきと、剣戟のつむじ、まさにこの世の修羅だった。
すると、また千余艘。
ここの沖あいを東へすすんで行くのが見える。天照大神、八幡大菩薩と、金文字で打出した日輪旗が、中の一檣頭に燦々とかがやいている。それこそ尊氏の乗船、足利方の本軍と、新田方には見えたであろう。
「やや、敵はわが後ろを断つ策とみえるぞ」
「敵の本軍が後ろへ廻る!」
義助もそれを見たし、二本松の小高い所に腰かけていた義貞も、これを知った。──敵将尊氏のこのうごき方は、義貞として、むろん看過できないものだった。
由来、新田の本営は、華美だった。
大将義貞の派手好みにもよるが、下部の将士にも禁軍意識がつよかった。皇室の親衛軍たるを誇って、どこか他の武門を見くだしている風がある。
けれど、一ト頃の新田十六騎の颯爽も、越後新田党の猛士卒の面目も、それが、禁軍の華麗を装備に持ってからは、まったく、昔日のような目ざましい戦闘ぶりは、どこへやら失われていた。そしてただ、
錦の御旗
それのみが、彼らの上に、驕ッた耀きを放っていた。
ところが、その錦の御旗の光輝も今度はなんとなく淡らいで見える。なぜなれば、賊軍と呼び慣わしてきた足利勢もまた、水軍の一檣頭に、日輪を打ち出した錦の御旗をかかげており、
──そちらが官軍なれば我も官軍なり
我が賊ならそちらも賊
と、明らかに同等な名分を、宣揚していたからだった。
「太々しさよ!」
と、義貞は今朝から、二本松の陣地にあって、尊氏が坐乗しているにちがいない、その船列中の本船の一檣頭を、睨みとおしに、睨んでいた。
そして吐き出すように、
「あの薄あばたが、やりおりそうな狡智ではある!」
とも罵ッた。
その位置する陣地──西国街道の二本松とよぶところは──湊川(旧・湊川)を西へ渡ってすぐ、和田ノみさきから塩打山の低い砂丘を左にひかえ、右には正成の会下山を擁し、いわば大手の関門を作すものとしていい。そして彼は約八、九千の精兵を厚くおいて、
「来れ。目に物見せん」
としていたのだ。
つまり右翼に、正成。
左翼に、和田ノ燈籠台の大館氏明、経ヶ島の脇屋義助。
陣容として、鉄壁である。もし陸上だけに限られた対戦ならば、たとえ数倍の足利勢でも、これはちょっと破り得なかったろう。
だが、当の怨敵尊氏は海上だった。自然、義貞の注意はしじゅう海上へ引かれていた。──するうちに、序戦、ここの正面へ当って来たのは、少弐頼尚を主将とする筑紫諸党の兵──つまり浜の手隊の先鋒だった。
これに時を合せて。
和田ノ燈籠台への、上陸作戦がおこなわれ、上陸した足利勢二百余人は殲滅され、尊氏の本船以下、すべて沖へ逃げ退いたが、やがてのこと、
「や、や?」
義貞は、なにか愕然と、海上へ向ってさけんだ。
敵の一部は、兵庫へあがる姿勢にあるが、また一半の分裂船隊は、和田、兵庫の岸もすててはるかひがしの──義貞の位置からすれば──ずっと後方にあたる生田の川口の方へむかって団々と突進していた。
「あれを上陸らせては!」
と、彼は左右の将へ叱咤をつづけた。
「一大事だ、一大事だぞ! わが後ろを断たれよう! いやそれのみか、よく見ろっ。あの中には、尊氏もおるであろう。這奴の乗船と見ゆる偽錦旗を押し立てた大船も急ぎおるわ!」
危機
それは今だと、義貞は思ったのである。
からだじゅうの毛穴が燃え、汗に眼がかすんだ。
もし、尊氏の水軍本隊が、生田の辺に上陸したなら、さしずめ味方は腹背に敵だ。
後ろに尊氏。──そしてもう前面には、少弐頼尚の浜の手隊や、足利直義の街道隊もせまっていた。どうしようもない。そうなってからでは、挽回のしようはない。
「保っ、保っ」
と、旗本の瓜生保をよびたてて彼はすさまじい語気でただちに命じていた。
「ここでの退き貝は敵に気勢を揚げさせるばかり……。そちは馬をとばして、味方の陣頭にある江田行義、世良田兵庫、篠塚伊賀、額田為綱、綿打ノ入道らに、布令まわれ」
「はっ、なんと?」
「義貞はここの旗本、細屋、大井田、烏山、羽川、一の井、籠守沢などの手勢すべてをひきつれて、一せいに生田か御影あたりまで陣を退く」
「えっ。御退却で?」
「いや、退却でない。尊氏めを追ッかけるのだ。──あれ見よ、尊氏のおる水軍の一群は、遠く、こっちの後ろへ廻らんとするらしく、生田、御影の辺へいそいでおる」
「しゃっ、あれですか」
誇らしげに、偽の錦旗二た旒を翻してゆく一船こそ、尊氏が坐す親船。──以下、千余艘とみゆるあの大兵が、わが後ろへ上陸ったら、味方は窮地におちいるほかないぞ。──それゆえ、義貞は陣を転じて、尊氏の上陸を迎え撃つ」
「して、先陣にある方々は」
「徐々に、義貞のあとを慕って、退がれと申せ」
「では総勢、二本松を捨て去るのでございましょうか」
「そうだ。すでに賊将尊氏は前面にいない。が、全力を向けて尊氏を撃たねばならん。あとの直義や筑紫、四国勢などは、物のかずではない。はやく行け。おおそこの新兵衛、氏政、相模介らも、共に義貞のむねを味方の陣頭へ布令廻れ」
こう前線へ伝令を放ち、また、左右の幕将にもおなじことを命じ終ると、義貞はよほど気が急いたものにちがいない。たちまち、そこの中軍を挙げて、生田の辺まで引き退がって来た。いや、義貞にすれば、退くにあらず、転進の意気だった。
けれど事実上、すでに義貞の本陣はひいたのである。で、二本松の一地点を固守することはもう意味がない──
前線の諸将、篠塚、江田、綿打、世良田などの隊もぞくぞく彼を慕って来て、そして総力六、七千騎、
「賊首尊氏に見参!」
とばかり渚で待った。
それに対して、海上の大船団は、生田の川尻から御影の浜へわたって、盲目的に、その舳を砂へ乗しあげて来た。白浪の見えるかぎりの浦曲に小さい無数な人馬の影が戦闘をえがき出した。──しかし、この中に尊氏はいなかった。指揮者は高ノ師直であった。そして尊氏その者は、和田ノ沖で乗りかえたべつの船にとどまり、はやその頃は、敵影もない駒ヶ林の磯から、らくらくと、無血上陸を成しとげていたのであった。
どこよりも風がある。
どこよりもここは高い。
正成の床几は、その会下山の上でも見晴らしのいい所におかれ、今朝から静かな姿をすえていた。
この日、旧暦の五月二十五日は新暦の七月十二日にあたる。
花崗岩帯の白い粗い土質が空のかがやきをハネ返して、かぶとの眉廂にてかてか火照る。──時はまだ午前九時半ごろか。──だのに草のある所は草いきれが燃え、ふもとから丘の中腹をうずめている馬の背の波は、いななきも揚げずぐッたりしていた。すべてここではまだ一矢の矢うなりも聞えない。耳につくのは、幾旒もの──
菊水の旗
〝非理法権天〟の旗
それの旗風だけだった。
が、ここにある約九百余人の者は、山海の涼風にひとり眼をほそめているような静かな山上の人を知ると、なんとなく自分らもすべてをまかせ切ったおちつきの中にその姿勢を柔軟なものにしていられた。なおまた、
「騎馬の士は、みな馬を下りていよ。すこしでも馬にはらくをさせておけ」
という正成の注意でもあったので、物見、伝令のほかは、みな鞍をおりていたことでもあった。かくてまだ、
満を持す──
というまでにも、正成は脚下の陣へ、一令だに下してはいなかったが、心もからだも自分と一つものにそれを見ることができていた。
──丘の右翼、夢野口には──正季をかしらに、天見ノ五郎、中院ノ雑掌俊秀、矢尾ノ新介正春など、多くは日ごろ正季の手に馴れている若い将士を配し、また、丘のふもと、左翼方面へは、志貴一族をさきに立て、二陣に和田五郎正隆、同苗助康、八木ノ入道法達、神宮寺正師などの──いくさの駈引きにも騎馬戦にも屈指な者をすえていた。
すべて、それらは、正成がゆるし、また、正成へゆるしている、一心同体の人々だった。──が、なお味方であって、別個な隊が見えなくもない。しいて義貞がこれへ加勢に添えた一軍で、その中には、九州の菊池武重の弟、菊池武吉などもいた。つまり客将としてである。
しかし、正成にすれば、きょうの戦に、客将をおく場所などはない。菊水旗の下は、一死を誓った者のみの、真空の陣地である。人は知らず、ここは死を笑って享受できる人間たちだけで坐ろうとしている菩提の一山なのだ。──せっかくな義貞の配置や客将の菊池武吉には気のどくだが、おそらく正成は、加勢の兵力など、兵の数には入れていなかったであろう。
「やっ?」
ぬッと立って、後ろで叫んだ者がある。正成の甥、楠木弥四郎正氏だった。
「いよいよ、敵がよせてきました。山手、街道、浜づたいの三道から──。オオ海上にも」
「む、来たな」
しかし正成は、なお、ゆとりあるものとして、南々西一帯の海から山へ眼をすましていた。刻々、風は凄気を孕み出す。午前十時をやや過ぎる。やがて和田の上陸戦、浜の手勢、山手隊の喊声まで、一時にこれへ聞えていた。
「弥四郎っ。──左翼の先鋒へつたえろ」
初めての命令だ。
正成は、床几を離れて。
「須磨口から驀しぐらに、街道をすすんでくる一軍こそ、足利直義の主力。だが、あわてるなと申せ」
「はっ」
「彼方に見ゆる蓮池のあたりを、直義の手勢がこえて、あらまし近々と寄るまでは、味方はただ駒を踏まえて待て。──正成が次にくだす指揮をかたく待てと、触れろ」
あっと、弥四郎が駈け下りてゆくとすぐ、
「四郎兵衛っ、四郎兵衛」
うしろの群れから、岡田四郎兵衛友治をよび出し、正成はつづいて、右翼への二ノ令を発していた。
「峠から峠を越えて、彼方の大日堂まで迂回してきた敵の山手隊は、おそらく、かしこの部落で、一ト息いれているだろう。──正季に急げと申せ! 逆に、われから驀進して、休息中の敵を突け! と」
命じ終ると、正成は数十歩、丘の南の端のほうへ歩いていた。すると、童武者の蔦王が、おやかたさま、おやかたさま、と彼のそばへ駈けよっていた。正成の顔の汗を見たからであろう。腰にさげていた青竹の水筒を解いて、
「お水を」
と、さしだした。
正成はニコとして、ひとくち飲んだ。そして青竹を彼の手に返しながら言った。
「蔦王はあまり水を飲むでないぞ。五月の水は腹によくない」
「はい」
「そして、そちはここから正成の使いに行け」
「え、どこへです」
「東国へだ。そちの父、河原ノ入道は、わが一族の左近蔵人正家にしたがって、常陸の久慈郡、瓜連ノ城と申すところにおる……。そこへまいって、きょうまでのこと、そちの父へも正家へもようつたえるのだ。わかったか」
「…………」
「なぜ泣く。正行と共に河内へ帰すべきを、きょうまでは連れて、そちの望みもかなえてやったものを。すぐここを去れ。オ、これを持って」
と、なにか手の中に入るほどな小さい物を渡した。路銀であろうか、守り袋に秘めた書状でもあろうか。蔦王には眼にも見えなかった。そのうえ彼は、恐ろしい一喝をあたまの上で聞いた。叱られたのである。思わずびくッと、正成の背を見た。が、正成はふり向きもしてくれない。蔦王は、会下山の北の崖を、泣きながら、ころげ下りて行った。
もう南がわの山すそは、人馬の地鳴りと虚空のあらしだった。──怒濤の敵勢は、一群の騎兵隊を以て、二本松の義貞の中軍へ当りながら、依然、主動力はここの丘へむけていた。──こここそが、第一の強敵、楠木正成、正季のある陣地と、もちろん初めからの主目標として、近々と、挑みかかって来るもののようだった。
すでに、敵とのあいだは、幾町の距離でもない。
が、なお正成は、全戦場へ目をくばっていた。──そのころ和田ノ燈籠台へ上陸をくわだてた尊氏の水軍は、一部、序戦の殲滅にあって、総勢船列をみだしながら沖へ逃げ退いていたのだった。──正成はいま、機を見つけた。
正成が、機は絶好と見たのは、一時にせよ、尊氏の水軍が沖へ退いたからには、今なら挙げて、友軍義貞と共に、足利直義の主軍を、この会下山と二本松との両方から挟撃できる──。そう観たからのことだった。
しかも、驕りきった敵は、初めのうちこそ「名にしおう楠木」「うかとは寄るな」と、警戒のいろだったが、次第に、
「たかの知れた小勢」
と、衆をたのみ、
「あれしきな丘、楠木とて、何ができよう。山の手勢に功をゆずるな」
と、あとからあとから、後陣が先に出て、いつか相互の顔も分るほど、近々、迫り寄っていたことでもある。
「射浴びせろ」
正成は、あらかじめ備えていた弓隊の上へ、まず命じた。
「射ろッ。あるかぎりな矢を射尽せ! 一ト矢も手に残しておくことはないぞ」
一ト矢も余すなとの令は、思いきった令である。瞬時の後は、弓も弓隊も不用だということを意味している。また、射つくしたら弓は手から捨てよ、ということでもある。
弓も、数百弦が一時に唸ると、爆風に似て、矢道は黒い噴霧のようだった。
それにたいして寄手はもちろん矢戦には応じえない。かぶとを伏せ、よろいの袖をたてとして、這いかがむ。数歩、駈けのぼっては、また、草むらや山肌にへばりつく。
ころがる。かさなる。
突ッ立って、なにか絶叫するかとみるまに、ぶッ仆れる。
しかし、さすが先頭を争ッてくるほどな敵はどれも猛者だった。怯むどころか、血を見て初めて真面目をあらわすかのようなのが、すべて会下山の南を埋めた。それが誰々とも旗差物でもよくわからないが「……ここに御手分ありて」と誌す梅松論の一項には、
下御所(直義)のもと
副大将は
高ノ越後守師泰なり
以下、尾張守師業
大友、三浦介、赤松
ほか播磨、美作、備前
三ヶ国の総軍勢
おん供につき従ふ──
とみえ、足利方でも、精鋭中の精鋭をよりすぐッたもので、人数の明記はないが、陸軍の主力である、一万以下ということはない。まさに楠木勢の方は、その十分の一以下だ。
いやそれも、全部をこの西南面の崖にそそいでいたのではなかった。正成の旗本までをあわせても、せいぜい六、七百騎をこえてはいない。──そして初手の防戦につかった矢数にしろ、もちろん、かぎりある物だった。
「かかれッ」
彼がこの号令を発したときは、彼自身も、一頭の黒鹿毛にまたがっていた。そして弥四郎の手から受け取った長柄を持つと、
「弥四郎つづけ。みんな来い。この機を外すな」
と、崖下へむかって真ッ逆さまに駈けおりていた。もとより待機しぬいていた楠木勢の全部は、より早く、土砂崩れのように敵中へなだれ入り、あとの丘には、一兵も置き残してはいなかった。
地形上、どうしても、寄手の序戦の不利はぜひもないが、それからもなおさんざんに、直義の大軍勢が追いくずされたのはどういうものか。
強い。
あるいは一方が、
弱かった。
そんな単純なわけのものではないようだ。
一方とて功名手柄に命を賭けているものだ。が、ただ楠木勢の一人一人は何物も求めていない。正成の姿と菊水の象徴とに一死を託しきっていた。いわば非力の勇というしかなく、たとえば無名の一歩兵までが、名だたる敵将の鞍にしがみついて、それを馬上から引き落すなど、ふつうの戦場常識ではありえないことが随所に起っていたのである。それが足利勢をして魔魅か鬼神のような恐れを覚えさせ、逃げ足立てたことだった。かつまた、大部隊の弱点として、なだれ出すと、自己混乱をも巻きおこし、それに刈藻川やら蓮池の湿地帯をうしろにしていたので、一万以上の人馬がすべてその秩序をうしなってしまい、会下山から蓮池まで、見る見るたくさんな犠牲を諸所に捨てたものだったろう。
正成は待った。
奮戦、また奮戦しつつ、じつに心のうちで待った。
近くの二本松の陣地から友軍の義貞が、この機に呼応して、敵の直義の側面へ突いて出てくることをである。
もしこのとき、義貞がそれを敢行していたら、浜手といわず、街道といわず、足利勢がここでうけた損害はけだし重大だったに相違なかった。──ところが惜しいかな、そのときすでに義貞は、二本松をあとに反対な生田のほうへ退きだしていた。──なぜか? 義貞に戦機をつかむ活眼がなかったからともいいきれない。──むしろ、義貞にすれば、正成の突入こそ、無謀、無兵略な独走のみと、叱りたい。
いや。
立場を変えていえば、尊氏の水軍戦略が、みごと、図にあたっていたのである。──いちど沖へ去った水軍の二大船団が、兵庫、生田方面へ、上陸態勢をみせだしたので、義貞は愕然、後ろを怖れ、それを追って、それへ立ち向わざるをえなかったのだ。
そのためには、友軍の楠木勢を、孤児同様、敵中に捨て去る形にはなるが──それもかえりみていられないほどな義貞の心理であったには相違ない。
が、正成は、
「それもよし!」
と、いまは友軍の協力もあきらめ澄ましていた。しかもなお、追撃は変えず、「直義を獲よ!」というのが、彼の全部下への命令だった。「かかる大乱の二張本は、尊氏直義。その一張本は、目前にいる!」と、さけんだ。彼がこんな阿修羅となって乱軍中を奔馳したなどは初めてのことである。元来、正成は打物取ッての武勇の質ではなく、阿修羅は哭いていたのだった。
彼以下、楠木勢の一念に、大将足利直義も、あぶなく斬獲されかかった。──蓮池のほとり──馬は斃れ、直義は馬から抛り出されたりした。その危機一髪を、薬師寺十郎次郎なる者が、彼を、自分の馬に乗せて須磨口へと逃がしたのである。そして十郎次郎は戦死した。もし、この者がなかったら、直義もどうなっていたかわからないほどだった。
さんざんになって、直義の軍は、いちど須磨方面へ、鳴りをひそめた。
山手隊も苦戦
と聞えたからであるらしい。
その迂回路へ向った斯波高経の山手軍は、なにしろ、二つの峠をこえて、狭隘な道をムリにすすんで来たことなので、人数もそろわず、しばし大日堂の部落で、馬を休めながら、おくれがちな味方の後続隊を待っていた。
するうちに、
「敵だッ」
と、騒ぎ出した。
部落の中からである。
というのは、部落の三方四方から火を放った者があったからだ。これはすでに夜明け前から潜入していた乱波(しのび)の仕事であったらしい。この古街道を敵が須磨から迂回してくるものと想定すれば、当然、大日堂から妙泉寺へかけての部落は、敵がもっともその兵馬をおくところになる。
楠木正季は、機をつかむに敏だった。大江時親流の兵法をよく駆使していたともいえようか。早くにこの附近へ乱波を入れておき──その煙を見つつ、彼の急襲隊は、会下山を離れて、もうついそこまで来ていたのだった。
が、正季の手勢もわずか四百たらずである。ただここでは、本隊正成の戦闘よりも、多少、有利な立場で敵の虚をついていた。──もとより部落の住民はみな避難しており、猛火のうちに悲鳴狼狽の極をみせた人馬はすべて敵と見なしてよかったであろう。──敵の斯波高経も、ほどこすに術もなかった。──退くにしては、古街道の山路はせまく、それにまた、あとからあとから押してくる味方ともぶつかりあった。で勢い、四分五裂、上へ下へ、蜘蛛の子のような乱離をみせだしていた。
「散るな。散らばるな」
正季は、少数の力の極限を始終考えて、
「上へ逃げる敵は見のがせ。やがて下へ下へと、敵を追い降ろして行こうぞ。……あれ見よ、兄者の一勢が、はるか彼方の街道から蓮池のあたりに見える。……兄者の軍に迷ぐれまいぞ」
やがて、妙泉寺坂の上から敵を駈けちらす。死の谺、呼び交う絶叫──。そして味方は一陣に寄り集まり、たえず地勢を考えていた。頭上の敵は嫌い、高地から低地へと、戦い戦い、長田村のほうへ降りて行ったものだった。──ときに陽はもう中天にあって、地熱はおもてを焦き、汗は塩になって、どの顔も眼ばかりがらんとしていた。血、泥、草ぼこり、およそ傷を持たぬ人も馬もなかった。
けれどまだ意気は高い。決して全能を消耗しきってはいない。正成の隊と一つになるまではである。正季にあってはそれが当面の作戦なのだ。そして究極には、兄と一つに死の座をえらぶことだった。
「兄はどうしたか?」
低地へ入ると、蓮池の水は、もう遠望もきかなくなった。しかしここは長田村、距離はさっきよりずんと近くなっているはずである。──兄上っ、と呼んでみたい。しきりにそんな衝動がこみあげていた。はや御最期か。虫の知らせか。と疑いたくなる。気づいてみると、天地はこのとき、奇妙なほどしいんとしていた。わすれていた蝉の声だけがわあんと耳に甦っている。
刈藻川の上流だろう。水を見つけた炎の兵は、われがちに駈け寄って流れを吸う、汗を拭く、また血を洗う。
「五郎。この間に」
と、正季は、天見ノ五郎へ、
「兄上の手勢はどのへんにあるか。またいま、敵の形はどうか。高見して来い」
と命じていた。五郎はすぐ彼方の小高い所へ駈け行き、渇きを医した兵は、ふたたび、ザッザと無口に歩き出していた。──するうちに、味方の殿軍三十騎も追いついてきたが、
「敵の山手隊は支離滅裂のまま、今のところ、この道すじを追って来る敵もありませぬ」
と、いう。
「よしっ」と、正季は「──ならば一ト涼みしてよかろうぞ」
と、附近の木蔭で兵馬を休めた。長田神社の森だった。
次いで、五郎の報告も、ここで聞く。
それによると、二本松にはもう友軍の本陣は見えぬ、とある。そして西国街道に沿う民家には火が放たれ、いちめんな薄煙のため、直義の軍も、菊水の旗のありかも全く見とどけにくい。──が事によったら双方とも、一時、宿場の火勢をさかいに、遠く引き分れているらしくも思われるとのことだった。
「して、尊氏の水軍は」
「あらまし、はるか東の、生田方面の岸へ、攻め上ったように望まれまする」
「さては、それに引かれて、義貞は二本松も捨て、あわてて生田へ退がったものか?」
正季はここに、孤軍の感を、ひしと胸に持ったらしい。どこにも、菊水の旗は見えぬという。兄はなお生きているのだろうか。あるいは早や玉砕か。いずれにしろ、義貞と共に退くはずはない。
「ぜいたくな」
彼は、自嘲に変った。
「いくさなのだ。兄と共に、枕をならべて死にたいなどは、ぜいたくな望み。死に遅れたなら、死に遅れただけのことをして、あとからお跡を追って行こう」
まもなく、長田神社を出て、その兵馬は依然、南へ潜行をつづけていた。すると彼方から炎天下を、
「御舎弟さま」
「龍泉殿」
と、手を振ッて来る四、五騎があった。
隅屋新左、恵美正遠、河原九郎正次など、いずれも兄の手勢の者だ。──すぐこのさきの一叢の林に、正成以下みな旗を伏せて、しばし戦機を見つつ一ト息入れておられるという。
「オオではまだ御健在か」
よろこぶ正季を、新左や正遠たちは、
「やわか。なかなか」
と、笑い合いながら、先に立って、
「おやかたさまこそ、山手の戦い、正季の血気、いかにせし、とお案じ顔で、お待ちです」
と、駈け出した。
行ってみると、そこの一叢林は、そのまま会下山の西の裾へつづいている。──すでに敵の直義とも、浜手側の少弐頼尚の隊とも、十数回におよぶ激戦に激戦を交わして疲れきッた正成の麾下は、さすが惨として、血みどろでない者はなく、その兵数も、半分以下にまで減ッていた。
「正季、無事か」
「お。……兄上、正季こそ、死に遅れたかと存じていましたが」
「なんの、死の座は一つと、約したはず」
「本望です。して、お手勢は」
「見るとおり、きびしく減った。が、あわれただの一人も、むなしくは打たれていない」
「いや正季の一勢は、まだいささか健やかです。多くは失っておりません」
「双方合せれば、なおここに五百騎余は数えられよう。それをもって、さいごの一戦を図ろうと思う。ま、こう来い、弟」
樹林の中を、明るい方へ出て行った。そして会下山の中腹といってよい木も無い傾斜をまたやや登って。
「正季」
「は」
「一瞬、鳴りの鎮んだわけが読めたか。ま……彼方を見い。生田、三ノ宮、御影まで、渚も黒う足利勢が上陸し終った。──そして新田殿の軍兵は、ことごとく、あれへ駈けつけ、会下山から西、われら以外には友軍も見えん」
「左中将殿(義貞)も、よほどあわてたものと見えまする。──われら会下山の陣を、敵中におきすてて」
「いや、楠木勢へも、共に退がれと、連絡はしたのだろうが、一ト頃の乱軍だ、伝令も何も、届かなかったに相違ない」
「とにかく、首尾よう、尊氏に打勝てばよいが」
「まず望みはない」
「正季にも、そう思われます。しかるに何で、所期の作戦を俄にかえて退かれたのか」
「それも、過ッてはいない。左中将どのは、あれでよいのだ。あれでよい」
「……とは、どういう御意中で」
「必定、新田勢は総くずれを来そう。そして好まぬことながら、左中将どのも都へさしてムチ打って落ち行くしか途もあるまい。わしは元々そうあって欲しかったのだ。正成亡きあと、主上後醍醐のきみを守護したてまつる大将といえば、やはり左中将新田殿のほかにはしかるべきお人も見えぬ。……ゆくすえ、尊氏の勢いがさらに大になるを思えば、なおさらのこと」
「ですが、全軍をあげて、生田の渚へ駈け向った新田どの。尊氏と見たら意地でも退けますまい。元々からの宿敵、かつは播磨いらい、負けを重ねている面目上、乱軍を掻き分けても、尊氏と一騎打を挑む御所存ではないでしょうか」
「いや」
正成は薄ッすらと顔をゆがめた。その眸を回らして、須磨方面へ、心を移しながら、
「尊氏は、生田へ向った水軍のうちにはいない」
「えっ、ではどこに?」
「日輪の旗を立てた大船の一つに乗って、彼処に上陸すると見せかけて、じつは別な船に乗って須磨沖にとどまり、やがていとやすやす、駒ヶ林の浜へ一勢をひきいて上陸した。──そして駒ヶ林の宝満寺こそ、いま尊氏がいる本営とおもわれる」
すべて正季には意外だった。それでは義貞の意図は全然空を打ッたことになる。が、それでいいのだと正成はいう。そしてただ正季にも、尊氏の無血上陸ぶりだけが敵ながら見事と思わざるをえなかった。息をのんでその宝満寺とやらを、視野に求めるばかりだった。
それと注意してよく見れば、尊氏が上陸直後の陣地、宝満寺の屋根は、会下山から直線距離で十数町、蓮池からでは南へ六、七町、いちめんな磯松と白波のあたりにたしかめられる。
正成は、語気をこめて。
「見よ正季、かしこに、尊氏がおるとは、楠木党にとり、思わぬ武門冥加ではあるまいか。われらに死に花を誇らすため、わざわざ、目さきへ上陸しおったようなものだ」
「まことに!」
と、正季も応えた。身のうちにうねる血のたぎりを、彼方の一焦点へじっとそそいで。
「望んでもない、死出のみやげです。直義ばかりか、尊氏をもここに見つけ得たなど、なおわれらの武運も、見捨てられたものではありません」
「そちの手に残す二百余騎、わしの麾下に余す三百たらず、あわせて五百騎、一丸火の玉となって、足利兄弟に目にものをみせてくれようぞ。世に不逞な叛心をいだくことの、いかに罪深く、成り難きかを、天に代って思い知らせてやらねばならぬ。正季、みなを呼べ。──兵すべてここへ集まれと声をかけろ」
正季はすぐ、伸び上がって、
「おううい……」
と、口に手をかざした。下の森へ向って、ことばと手合図で、集合の令をつたえた。
みるみる、全員が木蔭を出て来て、正成正季のいる会下山の一つの瘤から中腹の山肌へわたってまっ黒に集まった。──正成はそれらの将士へむかって、いま正季へ言ったことばを、もいちどくりかえした。──そのうえで、今朝来の善戦を謝し、すでに十数合の戦いをしてきたこと、かつは陽も中天を過ぎて来、いかに死力をしぼりきっても、肉体の精力にはかぎりがある、おそらく次の突撃が、みなとも最後の別れになるだろう、と告げた。
「……が、しかし、討死にする所は違えても、あの世ではまたすぐ会おう。今生、あくまで生を一つにし、この迂愚な正成について、このどたん場まで、共に志をかえず、最後まで悲風のみな菊水旗の下を去らずにいてくれたこと、なんといってよいか、正成にはいま、ことばもない。すまぬなどと尋常なことばを以てしたら、かえって皆には不本意だろう。なにもいわぬ。ただ一同をこう拝む。……けれど死に当って、もいちど心に銘じておいてくれ、決してみなを犬死にはさせぬ。世は長く人の生は短い。その永遠にかけてここの生命を無意義にはさせまい。われら短い儚い者を久遠のながれにつなぎとめて後世何らかの鏡となって衆生に問おう。世をうらむこともない。わしたちは、そうした宿縁宿命の下に、この土に生れ合せた者どもであったとみえる。……では行こう。尊氏の陣中まで。あわよくば、尊氏の首、直義の首、いずれなりと、わが槍先に梟けて、日月いまだ堕ちず、と世へ叫べるかもしれまいぞ」
みんな顔を押し拭った。汗である、涙である。そしてそれは血と泥とでよけい異様な形相になった。炎天下、青い虫がキチキチ飛んでいるだけな一瞬を破って、五百余の眸は、正成のおもてから、彼方の宝満寺のほうを望んで、一せいに、異様な声をわああっと揚げた。久遠の宇宙へ、今を呼びかけるような声だった。
いま、尊氏のまわりには、わずか二、三百ほどな小勢しかみえなかった。
敵の注視を生田方面へそらしめて、ここへ悠々と無血上陸をとげるためには、目をひくほどな船数をあとの海面におくわけにはゆかなかったし、また、尊氏に付いていた幕僚の諸将も、あらましはみな、敵の義貞を生田へおびきよせて打ち叩くべく、尊氏のそばを去ってここにはいなかったものなのである。
が、屈強な旗本輩や陣中僧の日野賢俊らはもちろん一刻もそばを離れてはいない。そして、上陸地点からやや北方の、ひがし池尻村の宝満寺の林間に、ひとまず仮の床几をすえ、ただちに須磨方面にある直義との連絡をはかる一方、さきに陸上の浜手隊をあげて新田軍を追いしたって行った少弐頼尚からの反り伝令の報告などをききながら、寸時の休息をとりかけていた。
と。その床几の人の前へ、
「ご一服」
と、女武者の棗がいま、ひざまずいて、一碗をささげていた。
寺門のうちへ走って、庫裡から請い求めてきたものでもあろうか。
「お。白湯か」
と、尊氏が碗を手にふくんでみると、それは梅香湯だった。梅酢湯に甘味を加えてよく雨期明けや暑中にくすりとして禅家などで用いているものだった。
「これはうまい。ときにより、どんな甘露もおよばぬな」
「おなかにおよろしいものと聞いております」
「そうだ、船中の蓄え水には孑々がわいていた。これで腹の中の孑々も死ぬだろう。……だがまだ」
と、彼はすぐ立って、数歩あるいては数歩もどり、心でしきりと待つものでもあるか、たれへともなく、つぶやいた。
「はて、介はどうしたのだ。介はまだ見えんではないか」
その右馬介は、彼の命で、とうに沖あいからひとり本船を抜けてどこへともなく姿を消しており、その行く先は大殿のほか誰が知りましょうや──と賢俊は思った。そしてなにか口に出しかけたが、
「五郎っ」
そのときまた、尊氏は、旗本の一人へむかい、こう高い木のこずえを仰いで命じていた。
「あれへのぼって、物見いたせ。とくに会下山の方をよく見い。すでに、かしこには菊水の一旒もさっきから見えぬと申すことだったが、なおそのとおりか。さなくば、楠木勢はいまどこにあるか」
「はっ」
と、畠山五郎は木の根へ駈けた。そしてその敏捷なすがたが、高い枯れ木の天ッぺんへよじのぼって行くのにひかれて、ついみな顔を空にしていた。
するとその耳もとへ、ド、ド、ド、ドッと迅い馬蹄のひびきが林間をつたわって来た。はっと一角の兵隊は反射的にそれへ立ちむかった。すぐ木の間がくれに見えた六、七騎の者は味方の士とはわかったが、口々からこれへ投げた声は、容易な急、容易なさけび方ではなかった。
「お備えに、抜かりはなきや」
「楠木勢五、六百騎、一団となって駈けまいりますぞ」
「ここに将軍(尊氏)のおわすと知って、決死、捨て身の懸りを以て、斬り込んでくるものと見られますっ。ご油断あるな!」
山手でも平野でも、楠木勢はあえて自暴的な激突を再三再四くりかえして来、はや、あらかたは自滅し、残余の兵などは再起してくる気力もないはず。すでにどこにも旗影の見えぬをみれば、あとはチリヂリ摩耶方面へでも影をひそめたものではないか。
たった今である。
こんな情報すら聞えていたばかりなのだ。それだけに、みな耳を疑った。事のとつぜんは、青天の雷、まさにそのもので、
「なに、楠木?」
「楠木勢だと」
と、一陣二百人ほどは、尊氏のまわりをかこんで、凄風の中に、そそけ立ッた。
なにしろ、補充の軍は来ていず、ここには水軍の将士のみなので、騎兵隊の備えなどはない。いわば本営にして本営のかたちもまだ作さないうちにこの驚きだったものである。
「来たか」
唇のうちで言ってるかのような尊氏の眉だった。が、これをたれより意外としなかったのも彼だろう。思うらく、正成である。かくもあらんかとおよそ予感すらもっていたかもしれなかった。
「伊豆っ、上杉伊豆」
「はッ」
「指揮いたせ、わしに代って旗本の配置をとれ」
「はっ」
「頼春、おるか、細川頼春」
「これに!」
「そちは、浜づたいに馬をとばして、直義の陣へ、急を告げろ」
「うけたまわりました」
すぐ、頼春は馬の鞍へ手をかけた。すると、賢俊が、一兵一騎も惜しむように、
「あいや」
と、尊氏へむかって、早口に言っていた。
「つい今、下御所(直義)のおん許へは、三河ノ三郎を急がせました。ここへ将軍御上陸の儀は、すでに連絡ずみのこと。また物見も知らせておりましょう。されば、電光石火の御来援は、お使いなくとも、お気づかいはございませぬ」
「そのことではない」
尊氏は叱るがごとく言った。
そして、ふたたび頼春へ、
「必定、正成兄弟はここをさいごの死所とえらび、残る兵をもって、死にものぐるいの一戦をとげに来たものと思わるる。──が、機鋒を交わして、柔軟にあしらいおき、十重二十重のうちに撃つは何の造作でもない。だが、正成はころすな。なるべくは生けどれ。その令を、直義へつたえおくのだ。ここの面々もこころえおけよ」
と、言った。
一とき、意外な感を衆に与えた。しかしそれ以上に、騒然と研がれていた武者ぶるいとも狼狽ともつかない硬直のうえに、楠木方との対決におちつきと自信とをもたせた。そしてもう配置についた将士の目にも耳にも、前面から地を翔けてくる驟雨のごときものがはっきりとつかめていた。敵の顔も見えた。
その顔たるや、一兵一兵、足利方の陣には一つもないような形相の者ばかりだった。具足、膝行袴などボロボロである。白昼降りて来た天魔の兵かとさえあやしまれる。木の間をくぐり、野を駈け出し、あるいは、白浪の飛沫から湧き出したものみたいに、わあっと浜辺の方から吠えかかって来る菊水の一旒と一隊もあった。
裏一帯は磯浜なので、尊氏以下、宝満寺の本営では、楠木兵が海から突いて来ようとは考えられもしなかった。
それゆえ、虚をついて、尊氏へ迫るには、楠木方として、これ以外な手はなかったであろう。──なぜなら、会下山から一団火の玉となって吶喊するにせよ、ただの正攻法では、直接、尊氏へは近づき難かった。──途中、蓮池附近にはなお高ノ師泰の手勢がみえ、須磨口には直義の軍勢がいる。たちどころに、そのうごきを発見されて、側面からの大圧襲をくうであろうことはみえすぎていた。
これはしかし、避けようもないことで、覚悟の前としなければならぬ。がただ、
「尊氏のふところにもいたらぬうちに、事終っては無念至極」
と、正季だけは軽兵七、八十人をつれて、芦叢をくぐり、刈藻川の川尻に敵がおき捨ててあった一群の小舟をつかって、苦もなく宝満寺裏へ突いて出たものだった。
従って、尊氏のいた所は、せつなに敵味方入りみだるる剣槍の場と化し、尊氏が用いていた床几がすッ飛んでいるだけで、尊氏のすがたは見えない。
代りに、尊氏の近侍、石堂十馬、仁木於義丸、同義照、畠山五郎、佐竹義敦などが抜きつれて、阿修羅の菊水兵を相手に火をふらして防ぎたたかい、血けむり、地ひびき、組んずほぐれつの肉塊、すでに相互とも幾十の死者を出し、寺の一端、また附近の民家からは、火の手があがった。
同時に、前面からも、打ち振る菊水旗の幾すじかが林間の上に見える。しかし乱戟の下、すぐ旗竿は折れ、旗手も抜刀しておめきの中に加わっているらしい。正成のすがたはどこか。弥四郎正氏はどこを衝いているか。一面な煙もみなぎり、しょせん、見さだめのつくような視界ではない。
もしこのとき、前面から正攻で来たこの手の菊水兵が、さらにもう小半町ほども、宝満寺の寺域へ肉薄しえていたら、あるいは尊氏をして、
「いまは?」
とばかり身をおく所も失わせていたことかもしれない。
だが、ここでは上杉伊豆の懸命な指揮のもとに、桃井修理、大高伊予、須賀左衛門、三浦介の族権ノ九郎らが総力をあげてふせぎに立ち、時にはその一端をやぶられても、たちまち、追ッかけ追ッとりつつんで、からくも、わずかなまを持ちささえていた。──するうちに、もう松ばやしの西の端れ──西国街道へつづく平野には、足利直義の軍兵がまっくろにあらわれていたし、蓮池方面からも、高ノ師泰隊の騎兵一団が、
「すわ、一大事」
と見たかのごとく地を蹴ッてこれへ来る。
ぜひもない。これまでだ。正成にとっては所期のとおりな様相となったにすぎない。
前面、側面、また後ろ。敵を見ぬ一面もなくなっていた。包囲はしだいに圧縮され、吹きまくる殺風のあいだに、はや残り少なくなってきた楠木方の将士は、たがいに戦友の影を求め、兄は弟をよび、弟は兄をよび、呼び交い呼び交い、しぜん、吹き溜められるように、せまい一窮地へと追いつめられた。
がくんと、戦力が落ちたと知ったとたんには、残る味方同士が、ひとつに、かたまり合うことすらが、困難中の困難だった。
でも、
「兄者ッ」
と、正成を見つけて、駈けよって来た正季には、あやしくも、よろこびにちかい、いや歓喜の極限にひとしい声があった。
「いたか」
と、見つけた迷子を見るように正成も言った。
「弥四郎は」
「こ、ここですっ」
「正隆、正遠、正光らもおるな。逸しはしたが、尊氏もきもにこたえたはず、直義とて同様。このうえは雑軍端武者の手を待って死ぬはおろか」
「おうっ、ほかへ行きましょう。一同打揃ッて、心しずかに、さいごを」
「そうだ、血路をひらけ」
その正成の駒を、親のごとくみなおおいつつんで、ひた走り北のほうへ駈け出した。──と知った敵軍は、野面いッぱいに唸りを揚げて、巡り巡り、行く手を断つ。
「突ッ込みましょう! 薄いところへ」
正季は兄のうなずきを見た。
と、弥四郎正氏が、
「おやかたも、龍泉どのも、蹴ちらし蹴ちらし、ただ駈け通って行ってください。しんがりは、私がする!」
と、さけんだ。
敵はその持つ大兵力と驕りとにゆるんでいる。一方楠木勢は百人にも足らぬ少数となっていたのに、正成以下の者が獅子陣のごとき縦隊をあげて突ッ込んで行くと、さっと、大きなどよめきが水を割ったようななだれを見せた。もちろん、それがそのままではない。たちまち、鏘々戟々、渦まく乱戦と血しぶきへの移行となっていた。が、それも一陣の旋風に似て、突破は瞬時に成功していた。
「もうそこです」
「そことは」
「会下山」
正季、正成のあいだに、きれぎれ、そんな声も流れた。そして正成の馬は、遅々として、この頃から進まなかった。馬上の人にも馬にも矢やら刀キズの血が生々しい。しかしそれだけのせいでもない。──殿軍にのこった甥の弥四郎正氏と十幾人の者は、ついに一人もあとから追ッついては来ないのだった。
弥四郎はこの時に戦死した。
そのことは、足利方の内にあった播磨の人、広峰昌俊が後日の〝申状〟の中に見え、それによれば、昌俊は、敵の楠木弥四郎とさんざんに斬りむすび、わがかぶッていた兜の吹き返しを左右二遍まで切られるほどな苦闘だったが、ついにこれを討ち取ったものとある。
ここではないが。
次のこともまた、この日の合戦のほかではありえない。
安芸の人、石井七郎末忠なる者が、正成の麾下にあって戦死していた。けれど、この石井末忠は楠木一族でもなし正成直属の武士でもなかった。菊池武吉などと共に新田の手から配されていた客将だった者である。つまり軍監の一将だ。だからいやなら観望しているも自由であり、義貞と共に退いても人に笑われはしない。だのにすすんでこの日、菊水旗の下につき、殉死的な戦死をとげたことだった。
会下山、さいごの死所は、そこを一蓮の台にして──と、暗黙のうちに、一同これへ目ざして来たらしい。
くるしい。たれの呼吸も奄々と見えぬはなかった。からだじゅうに干乾びた黒い血や生々と濡れ光ッている鮮血は負ッていたが、どこが痛いと知る感覚はなく、ただもうせつない。
そして、いまは、山上の風恋しげに、
「敵が来ぬまに」
「一刻もはやく、かなたで」
と、一蓮の丘の死の座へと、喘ぎ喘ぎ、辿っていた。
が、馬も疲れきッて、ここでは傷負い馬などもう一歩も前へ出ない。正成は鞍を下りた。ほかの将も騎の者はそれに倣って馬を捨てた。そして追いやるにみな鼻ヅラを撫でて宥り放つふうだった。こんな中であったが冗談に「達者で暮らせよ」と、尻を打ッてやった者もある。だが馬も跛行をひいて駈け下りて行ったとおもうと、すぐ草むらに仆れ、そのまま起ち上がらないものもあった。
「…………」
愁然と、それへ一顧の憐れみを送っているもあり、また「はや身軽」と勢いづいて登って行く者もある。すると、その先頭でとつぜん大きな声があった。「敵だッ!」と下へ教える。山上にはすでに斯波高経の山手隊の一部がいてそこを占領していたのである。彼らは矢ごろを待ちすまし、急に一せい射撃に出たものだった。
だ、だ、だッ、と正成、正季以下みな一団に白い土砂ぼこりを揚げて駈けまろんだ。──射程距離からはすぐ脱しえた。──とはいえ一方の直義軍も大きな扇開の形を見せつつその一端はもう湊川の下流にまで到っている。
湊川は、いわゆる旧湊川で現在のよりはずッと東を流れていた。そして水は細く太く幾すじにも岐れ、河原は渺として広かった。
「や、や、兄者。生田の方からもまた、これへ向ってくる一勢がありますぞ」
「あるな……」正成も見た。そして笑った。「いくらあっても同じこと。察するに、宝満寺のけむりを望み、尊氏の一大事ぞと、あわてて馳せつけて来た細川定禅の一手であろう。正季」
「はっ」
「山手へ落ちよう。まだ山の手は敵も手薄」
河原づたいに、湊川を、流れとは逆に、
「北へ、北へ」
と、言い交わしてあるいた。
かえりみれば、七、八十人。一群の迷い鳥が尾羽を吹かれて行くに似ていた。
それはもうまったく無力同様な群れとみてか、水を渡るとき、会下山をかけおりて来た斯波隊の二、三百騎が横から挑みかかッて行った。
しかし、ひとたび菊水兵の結束に触ると、一体一心の七、八十人は山谺も呼ぶ吠えをなして、猛然、死力の奮いを示し、さしも功に逸る大勢な武者輩も、例外なしに、死神の翼の下から逃げ惑うて逃げ散るか、でなければ、水や河原の草を紅にした。
だが、いぶかしいのは、これらの小うるさい小隊の追躡ではなく、もっと目に余る、そして遠くにある、大軍のうごきだった。なぜか、じりじりとその遠巻きを圧縮して来てはいるが、俄に、近づいて来るふうでもない。
なぜ、足利勢は寄って来ようとしないのか。
恐れているのか。
いや完璧に我を遠巻きにし終っているあの大軍だ。なにか軍令による一致であるにちがいない。
正成は覚った。
それこそ、尊氏が示威と宣言以外のものではあるまいことを、である。
どこかにいる尊氏が、自己の全将士へ令して、
「正成には、もはや軍のすがたはない。からくも一族数十名が、さいごの死所を捜し歩いているにすぎず、今や袋の中の鼠も同じものだ。せめて死に場所を得させてやれ。無下に彼らの首を争わず、ただその自滅を静かに見とどけておればよい」
と、している結果ではあるまいか。
正成は思う。敵はわざと自分らに時を仮して、いかに死ぬかの、自滅を見物せんとしているのだろう。──きょうの合戦では、たえず尊氏の胸に、正成が在ったように、正成の胸にも、尊氏が在った。
いつか、同勢は湊川の川原をはなれ、北の山壁を望みながら、道も登りへかかっていた。
途中、正季は敵の捨てた折れ弓を見つけて、
「たれか、あれを拾うて、兄上へ差上げい。おくるしそうだ。弓杖にして行かれるといい」
と、言った。
ここへ来ては金剛千早の日の古傷もあわせて痛んでいたかもしれない。正成はさっきからすでに跛行を曳いていたのである。で、弓杖を持つといくぶん姿勢を直してほっと先頭で一ト息していた。すると、かたわらの灌木帯のうちから、とつぜん、躍り出した男がある。鉢金だけの素兜に腹巻をしめた軽捷な敵だった。──すわっと周囲の者は正成を庇ッて一せいに立ち向いかけたが、それいぜんに、その者は地へ坐って両手をつかえ、
「しばらく! しばらくおとどまりを。それがしはこの春、河内へおたずね申しあげた者。あの折の右馬介と申す者。暫時、河内殿へ……拝顔のおゆるしを」
と、絶叫に近い声で周囲の血相へ訴えていた。
「おう……」正成は、すぐ前へ出て「それよ。そちは過ぐる頃、尊氏の使いとしてみえた、密使の男だの」
「されば、その一色右馬介でございまする。ふたたび、主君尊氏の意をおびて今日、これへまいりました」
「この期に何を」
「ついに、事、かくのごとくには成り果てましたが、主君尊氏には、なお、まいちど楠木殿のお胸をただしまいれと、あくまで、過ぐる日の密使のお旨を、おあきらめではございませぬ。御未練なのです。……すでにあなた様にも、かくまで御本分を遂げられたこと。翻然と、あのさいの条件もそのまま、ここで御受諾はいただけませぬか」
「降伏せいとの旨か」
「まずは」
「はて。不思議な使いを受けるものかな。正成においても、まずはあの時申したことば以外に何も答えは持ちあわさん。疾う疾う、立ち去って、尊氏へ申されよ。好意は謝すが、正成のいまは、すこぶる本懐、なんの御斟酌にはおよび申さぬ、と」
「いや、決して」
と、介はなお、懸命になって、正成を説いた。
「主君尊氏は、ただの降伏をあなた様へ強いるわけではありません。またその御信念をかるく見るのでもございません。ただ楠木殿というお人を惜しむの余りです。なにとぞ」
と、彼はまたも手をつかえ直した。それを見ても、彼が尊氏から受けて来た〝最後の命〟のいかに厚く真実なものであるかは疑う余地もなく分る。
「……主君尊氏は申します。きょうのことは早やきょうの合戦で定まった。しかし、世の治りはなお容易でない。楠木殿のようなお人こそ、ぜひ、明日の国事には必要なのだ。死なせてならぬお人なのだ、と」
「かたじけない」
と、正成は笑った。
「だが名分はどうあれ、それは正成が尊氏へ降伏したものとなることに変りはない。現朝廷を破却し奉り、我意を以て、ほかの皇を立てんとする大逆人に何で正成が同調しようか。さほどにみずからの非を知るなれば、ただちに全兵力を解いて、尊氏自身、都へのぼり、みかどの闕下に伏して罪を待てと申されい」
「では、どうありましても」
「おろかな念入れだ。はや去れ。ここの者はみな気が研げておる。ことばの端でも間違うと、そちの身もあぶなかろうぞ」
正成のいう下から、まわりにいた面々は、槍、刃をつきつけて、
「行けッ」
「見くびるな。こやつ」
「いのち欲しさに、いまさら尊氏の尻につくようなわれらではない」
と、物凄く罵ッた。
「ああ、ぜひもございませぬ! これ以上はもはや」
介は嘆じた。そして身をひるがえすやいな、湊川の川尻のほうへ逸散に駈け去った。──同時に、彼の姿が、或る一合図を、足利勢のすべてへ告げていたことでもあったか。
それまで鳴りをしずめていた遠巻きの軍が、俄などよめきを揚げてヒタヒタと包囲の輪をちぢめて来るようだった。もちろん、あらためて覚悟を持ち直すほどなこともない。正成たちは、喘ぎ喘ぎ、なお石コロ道をのぼって、
「おお、かしこに小さい部落が見える。あれへ籠って」
と、一せいに駈けこんだ。
そこは安養寺山の背で、附近には楠が多く、俗に楠谷ともよばれている。正成は部落の口で、しばらく東をながめていた。──生田の浜脇から神社の森へかけて展開していた新田義貞の陣も、いまはあとかたなく、敗北の総なだれを、はるか御影の彼方へ没してしまい、あとには、足利勢らしき散兵の動きだけしか望まれなかった。
「義貞は無事に落ちた──」
正成は、そう見とどけていたことであろう。それを一つの戦果とながめて、「これでよし」と、独りうなずいたかのようでもあった。そして、墓場のような部落の内へさしかかると、先に偵察をかねて走り込んだ隅屋新左、宇佐美正安らが、駈け戻って来て、こう告げた。
「ここはまったく無人の部落、敵の一兵も見えません。そして時宗の道場にや、住僧もいぬ古びた小寺がございました。おやかたをまん中に、一同で腹を切るには究竟な場所と、御舎弟さまには、はやそこで、お待ちうけにございまする」
──そこへ、と、正成はまた歩いた。郎従たちは自分の疲労や深傷は忘れて、跛行をひいて歩く正成の一歩一歩をいたわりつつんだ。それは神に従ってゆく使徒のような信念と静かな眸とにかがやいている一ト群れの血泥に見えた。
道は部落へはいり、墓場みたいな土小屋が両側に見かけられるが、人影はどこにもなく、みなもっと山奥へ逃げかくれてしまったものであろう。軒かたむいた戸ごとから逃げ惑って行ったらしい嬰児のボロ布れやら食器の破片などが、そこらに落ちているのも傷々しく目に沁みて、正成は自分がそれらの加害者であるような罪の意識に問われずにいられなかった。
「ア。おあぶない」
ふと、正成がころびかける。いま死ぬ人、そして同じ運命に就く自分たちでもあるのに、隅屋新左や和田正隆は、あわててその両わきを扶けささえた。部落の横丁から道はゴロタ石をたたんだ石段となっており、上では、正季が待ち、中院ノ俊秀や矢尾常正らも先に来ていて、
「しばしお待ちを」
と、正成へ告げ、そして正季もこう言った。
「兄者、敵はまだ彼方です。この近傍には見当りません。ごゆるりとお支度あっても、よろしいかと思われます」
「……ここか」
正成は呼吸をやすめた。茅ぶき屋根の一宇の堂が前にある。なるほど、村人たちが念仏講に寄りあつまる時宗の道場でもあろう。門ともいえぬ形ばかりの入口には、大きな柿の木の若葉が繁茂していて、そこらの日蔭の湿地には青白い花屑や萼がいッぱい散り腐えていた。
「まだか」
と、正季が内へ訊く。
「すみました」
と、兵の声が内でする。
余りに堂は荒れていたので、先に道場の大床を清掃させていたものらしい。正成は弟の用意をうれしく思った。ずっと入って、南面の濡れ縁に立ち、何か安心に似たものを覚えた。
ここに立つと。
海は真正面に、会下山から湊川を右に、東の花隈から御影方面も一望だった。だが、黒い真綿のような薄煙の膜が所々の視野をさえぎり、やや西へ傾きかけた日輪も、それをとおして、あかがねのような、ふしぎな赤さを呈していた。
或る年の、或る月の夜には、ここで念仏講の部落の男女が、鉦をたたき、経文を諷し、念仏踊りに夜すがら法楽してもいたろうにと、正成は、ここを自分らの死所に借りることの罪深さを痛感した。けれど、一族枕をならべる最期の座として、またとなく、ここは気に入った。ここに如く所はないと思った。
「おゆるしを」
と、正成は胸のうちで言った。道場の奥なる貧しい壇の阿弥陀像へまず拝をしていたのである。それを見ると、みな正成に倣って、下へ坐った。──同勢七十余人、大床はあらまし、いっぱいだった。──正成はそのまんなかにあぐらを占めた。するともう、折々敵のどよめきが聞えてきた。それは潮の足なみに似、しかも、四面にせまるものだった。
「……あれは?」
と、人々は急に眸をせわしくした。敵の喊声はまだ遠くだが、死ぬのもなかなか心忙しい風騒だった。
「正季。われら一族みなここの一堂で自刃の態と知れば、敵も無下に襲せてはまいるまい。とは思うが、念のためだ、堂の外に、物見を立てよう」
「こころえました」
と、正季はすぐ二、三の者へ命じかけた。すると正成が、
「いや、その物見の者はわしが選ぶ」
と、言い、
「選ばれた者は、決して、異議は申すまじと、誓って欲しい。そしてただちに、床を立て」
と、かさねて言った。
「まず、神宮寺の新判官正房」
「はっ」
正房は、いわれたとおり、すぐ大勢の中から立った。
「安間了現」
「おうっ」
「次に、八木ノ入道法達」
「は」
「岸和田ノ弥五郎治氏」
「はっ」
人々は怪しみだした。正成はなお指名をつづけ、大床を見まわしては、止まるところもない風なのだ。そして七十余人のうちもう二十名ほどは立たされている。立って茫然たる面もちだった。──なぜこんなにも、多くが物見に必要なのかと、ついに、八木ノ入道が質しかけた。
正成はその質問も無視してなお二、三の指名をつづけ、初めて答えた。
「──以上の面々は、外に出て、敵が近づいたら、命を保って、ただちにここを退散いたせ。そしておのが国々へ落ちのびて行くがいい」
「こは、何事かと思えば」
と、指名された面々は、くちおしげに、立ったまま、その姿を、辱のように、言い哮ッた。
「あまりな仰せつけです。われらをば、命を惜しむ意気地なしと、おさげすみか、はたまた、お憐れみか、いずれにしろ心外至極ッ。おやかた初め、ご一族枕をならべての御自害をあとに、なんでおめおめ生きてふるさとに帰れましょうや」
「ま、おちつけ。初めに誓ッてくれと申しておいた、決して異議は申すまじ、と。……異議を立てる者は、たとえ正成のそばで死のうと、今生未来、正成と共に在る者ではないぞ。いま名ざした面々は、それぞれ国に多くの老若を抱えている者、またはここに再起の望みなき深傷の子息や兄弟をのこしておる者、いずれにもあれ、正成の眼で、死ぬにおよばず、なお長らえ、あとを嘱したい者ばかりなのだ。……そちたちが、生きてすることはなお果てなく多かろう。落ちてくれい。さあれ、途中の難もはかり知れぬが、生きるかぎり生きのびて、ふるさとの後図のために余生を尽せ」
「…………」
「命じる!」
次の一喝に、人々は耳を打たれた。正成の声とも思われぬほどそれは大きな音声だった。
「敵の大軍は、まもなくここの部落へ乱れ込もう。落ちてゆく道は谷ぶところより山を這うて布引ノ滝へ出る一路しかあるまいぞ。はやく出ろ、ここを去れッ。正成の最期をさまたげるな。正成に心しずかな死を遂げさせい」
なお、何かさけび、なおまだ、死の執念に膠着して、うごきもしない者たちへ、
「ならんッ」
と、正季もまた、どなった。
「おいいつけに反くか。おことばは軍令だ。以上、お名ざしの面々は、寸時もここにいてはならん。ご最期のさまたげをするな。さ、出ろ出ろ」
と、押し出すように大床の外へ追いやった。
一瞬は、生木の裂かれるような声々だった。しかし、うむをいわせず、堂外へ追いやられた〝除外組〟の二十余人も、やがては観念して物見についたことらしい。ほどなく裏手の崖から屋根ごしに、大声で内へ急を告げているのが聞えた。
「はや、敵の先手は、部落のそとまで、近々と迫り寄っておりますぞ!」
「いや、それは先手の騎馬、部落の口を、西ひがしへ、駈けちごうているだけのこと!」
「こちらに計りあるものと恐れてか、べつに、忍び忍び、這い近づいて来るわずかな兵が見えるばかり……」
「火の手は、部落はずれの一軒家が、いま煙をあげた様子」
「しかしやや遠くは、物々し大軍です。生田の上から、湊川のかみに至るまで、およそ二万ぐらい、雲霞のようにここを遠巻きに、徐々、近づきつつありまする!」
やがて、それらの声も、ぷつんと断れた。
シュシュッと、同時に、矢うなりの響きがどこかを走ッてゆく。堂の屋根や附近に矢が突きささッたようでもあった。これはどこか、物見の目もとどかぬ至近距離にまで、敵の兵がすでに潜り込んできた証拠と、誰の肌にも突き刺さるような感があった。
「正季、あれを見い。何とも赤い日輪だなあ」
「まこと」
「静かだ、じつに静か」
「ふしぎです、敵の大軍が、なぜこんなにも、念入りな大事をとって、攻めかかって来ないのか」
「網の中の魚だ、しかも大魚と、たのしんでいるのかもしれぬ、敵はな」
「尊氏でしょう、這奴の嗜虐、やりおりそうなことではあります」
「いや、敵の腹はどうあるとも、末期に、このゆとりをえたのはありがたい。見おさめの落日も心しずかに眺められる」
「兄者! ……」と、正季は突として何かに胸をつかれたらしく。「長いあいだ、わがままを申しました。かくのごとき末路へお誘いいたしたのも、私のせいだったかもしれません。血気、やむにやまれぬ我武者の私の」
「ばかな」
冷たいほどな正成の唇もとだった。
「かほどな大事、たれに引かれてするものぞ。正成をしてこうさせたものがあるとすれば、それは正成が生れると共に身のうちに持たせられていたものだ。そちのいう、やむにやまれぬものだった。けれどこの国に生れ、いささか、この国に報いえた生とすれば、惜しくはない。……いや、時移してはいられまい。正季、一蓮同行の輩、ここに在るは何人か」
「五十一名にございまする」
見わたしながらそう答えた。どの顔も、静かであった。余りにも澄みきって、非情にすら見える面色が一様に覚悟のていで居流れていた。
「五十一名か」
その一人一人を、正成は傷ましげに眺めやった。もったいないと、心でおがむかのような眸だった。
「可惜、よき世に生れ合せていたら、みなひとかどの男、子にも妻にも祝福されていたろうものを」
どこかで、蜩が啼く。
部落を包む数万の敵も、ここの大床にも人はないかのようだった。しいんと張りつめた板敷きに五十一人の膝が二列に並び、そのあたりへ、申ノ刻(午後四時)ごろの薄ら陽がななめにさして、それがなお血曼陀羅のような色光を加えていた。
「ここだけではない。今朝から正成の旗のもとに死なせた者数百人、金剛千早の日からかぞえれば、さらに数千」
それらの無数な精霊に内心で直面するとき、正成はいつもそそけ立ッた面もちになる。ひとりの犠牲も無にしてはと詫びるのらしい。そして彼の手は具足の緒を解き、おもむろに腹巻を脱いで横においていた。
「はや、ご用意ぞ」
と、知った人々は、思い思いに、坐り直した。或る者は、対い合った。刺し交えを気組んで刀のさやを払った。
正季もまた、腹巻を解いて、手に短刀を抜く。そして兄の顔を横に見た。今生の別辞から今日までの思い出が、微かに笑うかとも見えるその顔の中にあった。
「兄者、おさきに!」
「急ぐな、正季」
正成はまだ迫られている容子でもなかった。ゆったりと死寸前の心を心のうちで遊ばせているかのようにさえみえる。
「こころみに訊きたい」
「なにをです」
「人が死すときの一念はあとにひくものとか聞いておる。正季はいま何を思うか」
「なにも思い残しはありません。ですがただ一つ、次の世も、いや七生までも生れかわッて、国にあだなす逆賊を撃たんものとはぞんじます」
「七生人間にか、七生鬼にか」
「はい、鬼となっても! 兄者のお望みは」
「輪廻がくりかえすものならば、わしも七たびでも人間の子に生れたいが、鬼にはなれぬ。願いはそちとかわらぬが」
「悲願と悲願、どこがどうちがうのです」
「家の小庭には花を作り、外には戦のない世を眺めたい。七生、土をかつぎ、土をたがやす、土民の端くれであってもよい。衆の中に衆和をよんで、土かつぎも幾百年の積もりをなせば、やがては浄土を築きえようか。あわれ、仏から見れば罪深い業の子だろうが」
「そんな未来、しょせん夢ですっ。兄者の夢だ」
「夢でもあれ、祈らずにいられない。正成正季の白骨も、これまでに死なせた敵味方の万骨も、祈りの供物に天地へささげる! 正季、また一同も、天地へ祈れっ。みかどのおわす都の空へもそれを祈ろう。ひとつ同胞、あらそいなき世を創らせ給え。ふたたびこの国の山野にあえなき無数の白骨を哭かしめ給うことなかれと」
言い終らぬうちであった。堂のうしろでふいに、すさまじい人声がし、あきらかに敵と察しられる怒濤が屋を揺すっていた。
すでに部落内へも、水の浸み入るように、足利方の武者が潜入して来ていたにちがいない。
チラと──
敵の顔が、堂のすぐそばにみえた。で、裏手の崖に伏して見張っていた〝落ちのび組〟の和泉ノ助康、安間了現、八木ノ入道法達らは、
「すわ、来ているッ」
「敵だッ、敵が」
と、堂内の人々へ急を告げ、同時に、附近いったい屈まっていた敵人もまた、
「それっ」
と、すべて姿をあらわし、一せいに寺門や垣を蹴やぶッて、内へ突入しかけたものだった。
これを見ては、「ここにいるな、はやく落ちよ」と正成に叱られて堂外へ出ていた面々も、やわかとなって、この一宇の屋根をうしろに立ち退く気にはなれなかった。今生これきりの感を声にふりしぼって、
「おやかたさまっ」
「龍泉どの」
「ご一同、ご一同ッ」
と、堂内へ呼びかけながら、急に敵を滅茶苦茶に薙ぎはじめた。斬る、突く、そんな尋常一様なぶつかり方ではない。無数な小旋風が人間を吹き転がして、堂のぐるりを駈けめぐり、そして堂内の人々がしずかに果す自決の一瞬を必死に守りぬいていたのであった。
するうちに、もくっと、堂のうちから一条の煙がひさしを越えた。煙はすぐいちめんにひろがり、八木ノ入道法達が泣き声に近い声でさけんだ。
「おすましなされた。おやかたさま以下、はや、ご自決をおとげなされたもようだぞ!」
同時に、この煙は、敵の大軍勢をもさしまねいていた。須臾のまに、部落内は混み入って来た兵馬で揺れあい、渦まく吠えの下からは、足利方でもゆゆしげな武将ばらが、はや先を争ッて、時宗堂の屋根を目ざしてくる。──いまは何かせん、である。八木法達、安間了現ら二十余名は、正成みずからがして遂げた荼毘の煙をあとに、北の谷ぶところへ逸散に駈けおりた。そして岩壁をよじ、山の背をつたい、布引ノ滝の方面へ落ちて行った。
いやこのばあい、それらはもう足利方でも重要視はしていなかった。要は楠木左衛門尉正成の死一つの確認にある。その正成は決してここを出ていず、一族数十名と共に自刃したものとはすでにみとめられていた。けれどその首級をあげて、尊氏へ、また世上へ、示すのでなければ、なおまだ公な認証とはなりえない。
打物取って打ち合っての大将首ではないけれど、さしも正成の首である。襲せてきた武将ばらは、たとえ自決後の首にせよと、みな獲たい心理にかられた。それをひッさげて、尊氏の君前へ実検にそなえる栄だけでも、武門冥加、ほまれだとするらしい、争いだった。
だがもう内の大床は黒煙をこめ、血か炎か、ピラピラ赤いものが眼を射るだけである。そしてわれがちに内へ躍り込んで行った面々も、みな咳声にむせ返ってしまい「──火を消せ。火を消すのが先だッ」とばかり、あらまし濡れ縁から外へとびおり、むらがる兵を督しはじめた。
消火は早かった。なにしろ、兵の数と力である。火勢はおとろえ、黒煙もすぐ薄らいだ。
「よしっ、よかろう!」
待ちかねて、一人の将は、まっ先に堂内へ入って行った。高ノ豊前守(師久)らしい。つづいて赤松円心や細川定禅らの家来もわらわらッと争ッて内へ飛び上がった。
「…………」
だが、彼らは、そこに立つやただ凝然と、大床の紅に身も痺れ心もまったく打たれてしまった。
自刃していた幾十体の亡骸はすべて二列となってその列を乱しもせずにうっぷしていた。多くは割腹したていである。が、なかには刺しちがえて相擁すかのごとき形でことぎれているのもあり、悽惨、目もくらむばかりだが、しかしその一個一個は、自己を国に捧げてくやまぬ犠牲の巌のような死に徹している死顔を持ち、その血を以て、祈りを床に遺書しているような姿であった。
「……敵ながら」
師久が、つい、呟くと、
「みごとだ!」
と、他の諸将も、叫ばずにいられないような実感をこめて、大きくうめいた。
「すべてで、何人?」
「袖名をしらべて、書き上げよう。袖名の無い者は持物をみれば分る」
「が、まず正成は」
「そうだ、正成は」
「や、や。正成らしき者はこのなかに見えませぬぞ」
「何の、そんなはずがあろうか」
「でも、ここには弟正季が見事割腹いたしておるに、そばの一座はあいておる。血しおのあとだけで屍はない」
諸将は騒ぎだした。ゆゆしいことである。責任上の狼狽だった。けれど理由はすぐわかった。消火中に兵の二、三が目撃したというのである。それはまだ堂内が黒煙濛々のうちだったという。どこからか飛びこんで来た尾張殿(高ノ師業)が、たしかに、一個のなきがらを横ざまに引っかかえて、火の中を裏口からそとへ駈け出して行かれた。おそらくそれではないでしょうか、というのであった。
師久は、聞くと、
「すばやい、尾張殿」
と、舌を巻いたふうであったが、急にあとを諸将の処置にまかせて、馬にとびのり、部落の西へさして駈けて行った。
彼は師泰の子であり、師直の子の師業と共に下御所(直義)の手についていた。ところが今朝からその下御所の令には、正成の首は面目にかけてもわれらの手で挙げよという厳命だった。──つまり師業は忠実にそれを奉じたものだろう。師久は、従兄弟にしてやられたとは思ったが、相手が赤松や細川ではなし、一族なので、くやしくはなかった。
すでに、下御所の陣地では、彼がそこへ行ってみると、直義はその師業と共に、正成の首級をたずさえて、尊氏の本営へ出向いたというあとであった。
そしてまた、尊氏の営は、さきの宝満寺を引きはらって、はやくも、逆瀬川の川尻のひがし、魚見堂へ、その本営を移したということでもある。
そこはいま、無事平穏なこと、颱風の目のようだったが、じつは全風速圏の求心点といってよい。
尊氏のいる所であった。
「いくさも、はやそこそこか」
と観た、見とおしのもとに、彼はこの魚見堂へ、本営をすすめていた。──逆瀬川と湊川の口が大きく海へくびれを作し、附近の低い砂丘や小松ばらが、彼の床几場をかこっている。そしてすでに、きょうの天下分け目のたたかいを、その姿は、
「しすましたり!」
と、しているふうであった。また彼の多感が、彼の内に、しきりな感慨を誘っているもののようでもある。
とくに、ついさっき、右馬介がこれへ来て、その報告により、正成との最後交渉も切れたことを知ってからは、いちばい無口な表情をこわめていた。
「よしっ、それまで!」
と、そのとき、彼は語気つよく介へ言い放った。猪口才なと、腹のそこから怒ッたとすら聞えるほどな語気だった。
が、そのあとは、なにか愉しまぬ色だった。かぶとを脱ぎ、汗などふいた。そして、ふたたびかぶとはかぶらず、汐焦けした汗塩の面を、夕陽が射るままにさらしていた。
まもなく、前線の仁木義長から、かなりくわしい戦況がこれへとどいた。
さきに、生田方面でやぶれ去った敵将の義貞は、御影の求女塚にふみとどまッて、脇屋義助そのほかと共に、いちどはずいぶん烈しい反転をみせ、さすが新田党らしい死力も再三ふるッて来たが、多くはすでに戦意を失っており、義貞もついに、山崎街道をたどって、ひた走りに、都へさして逃げ落ちて行き、味方はすかさずそれを追撃中にある──ということの詳報だった。
こう急速とは、尊氏にも、予想外であったらしい。
彼は一将をえらんで、
「義貞が都へ逃げ入ったものなら逃げ入ったでいい。彼を追う騎虎の勢いで、都へなだれ入ってはならん。山崎、芥川より先へは進み出るなと制しておけ」
と、すぐ軍命を持たせて、追撃中の味方へ、追ッかけの急使を派した。
そのころ、西陽はようやくうすれかけていた。──今朝の十時からいま午後五時ごろ──野に山に海に、まったく、たたかいは止み、あの阿鼻叫喚は、どこへ掻き消えたか、そしてどこから来るのやら、冷ややかな夕風が、妙にうらがなしい薄暮をあたりへただよわせはじめていた。
そのとき、わらわらっと二、三名の将が、尊氏の床几へ来て、こう告げた。
「ただいま、正成の首級をおたずさえあって、下御所(直義)さまと、高ノ師業、師久の両名が、御営門までおみえにござりますが」
「正成の」
「はい」
「首級を挙げて来たのか」
「そのよしにございまする。御実検は魚見堂の内でなされますか、それとも、ただちに御床几の下に持参いたしましょうやとのおたずねですが」
「そうか」
と、尊氏は、あらためて、自分へ言ってきかせるように呟いた。しかし、きっとなって。
「内へと申せ。実検は、魚見堂の内でしよう」
尊氏は、やがて魚見堂の方へあるいた。
そこも屋内ではない。
堂外の坪に幕をめぐらした営中というだけのもの。すでに直義はそこへ来ていた。高ノ師業、師久をうしろにおき、尊氏の姿をみると、片手づかえに、こころもち頭をさげた。
「…………」
尊氏につづいて、大高伊予、桃井修理、佐竹義敦、また近侍の石堂十馬、畠山五郎、仁木於義丸なども、床几の左右にずらりと居ならぶ。──あたりはもうほの青い夕だった。だが、残照の雲は空のどこかをいつまで紅くただらしていた。
「さだめし」
と、直義がすぐ口をひらく。
「吉左右、おまちかねのこととぞんじて、とりあえず、正成の首級のみ、即刻、これに持参いたしました。……まずは、御実検を」
「見よう」
尊氏は、言ったが。
「ま、最期のもようから詳しく話せ。自刃か、それとも、なん人かが討ち取ったのか」
「いや、御命令にもとづいて、徐々に追いつめ、そのすえ、正成以下五十名は山手の一村にたてこもり、一堂の内に枕をならべて、みな自刃し果てたものにござりまする」
「そうか。……ならば正成も死所を得て満足したろう」
「いかがかは存じませぬが」
「さむらいの本懐だ。ほかは?」
「同時に、建物へ火をかけて、刃に伏したことなので、これなる師業が、正成の遺体を、そとへ取出すのもやっとであったような次第。……詳しくは、追ッつけすぐ、赤松や細川が、御報告にまかるものとぞんじます」
直義は、首包みを抱いて、すこし前へ進み出た。
重たそうに、下へ置く。
戦陣匆忙のさいだ。首は武者の母衣で包まれ、血糊がにじみ出している。
それを解いて、直義は右手で首のもとどりをつかみ、左の手を母衣の下へさし入れた。そして、片膝立ての体をななめ構えに、首級をささげ、屹と、尊氏の熟視に供えた。
「…………」
尊氏は、見た。
息をつめている。そして、ひらいていた床几の膝も小さくすぼめ、両の手はただしく膝においていた。顔にはなんの感情の色ものぼっていない。無常感、それでもないようだ。ただマジマジと見入りながら、もう一言も交わすことのできない物質にたいして、何か、味気ない空しさでも抱いてるような彼に見える。
生前、しばしば会うことはあっても、親しい往来などは、ついぞなかった正成との仲だった。そのせいの無表情なのか。
それにしても、これほどな戦果を、これほどな名誉の首を、何と御覧あっているのか? 御満悦ではないのだろうか? 直義もそうだったが、ほかの面々も、みな、尊氏の口もとばかり見つめていた。
「むむ! よい」
やっと、尊氏はうなずき終った。そして、
「こよいは、ここに置け。なおまた、白木の首台を設えさせて、ていねいにいたしておけよ」
と、言いたした。
しかしそれからは、いつもと変らない尊氏だった。
やがてぞくぞくとこれへ見えた斯波、細川、赤松、高などの諸将をねぎらい、また細かい報告も聞き、とりあえず、宵には堂の内で、諸将と共に戦捷の乾杯をあげた。そして同夜、直義にはまた新たな軍命をさずけて、その場から前線の山崎へ、先発させた。
直義が山崎へ立って行ったのは、夜半近い。
とすれば、はや夜明け前か。
尊氏はふと目をさますなりその直義の顔をまぶたに持った。立ちぎわに、いやな気色が見えていたからだった。
あとで弟の身になって思ってみるとむりはない。
九州いらい、陸上軍の全責任をもたせて、山陽道を攻めのぼらせ、息つくひまもなく、きのう一日じゅうの大戦だった。──だのに一夜の休息も与えず、またすぐ山崎へ急行させたのだ。
「ひどい!」
と、恨んだに違いない。
しかし、義貞を追ッかけて行った味方が、騎虎にまかせて都へ乱入などしたら始末におえぬ。先に、制止はしておいたが、一将の伝令などでは統御がつくまい。
それの心配からだった。
「それにしろ……」
と、尊氏は、愚痴なほど、独りくやんだ。なぜもっと、いたわってやらなかったか。
直義の軍功は、またその心労は、抜群である。一族、どんな将であろうと、彼が兄の自分につくしてくれた誠実と献身には遠く及ばない。──きのうの楠木攻めの処置にしてもよく自分の軍命を守って、正成の首級をも、大事にこれへもたらして来た。
だのに、出来したとも、あの折、言ってやらなかった。もし直義でないほかの将だったら、大いに、型のごとき賞め言葉も出たのであろうが、弟にはついそんなことなど、いわなくても分っているだろうですませてしまう癖がある。──おれの癖だ。──尊氏は独りしばしばこんなくやみを胸では喞つ。
ところで。
弟へのそんな表面の素気なさにひきかえて、彼は、正成の死にたいしては、味方の諸将もあやしむほどな鄭重さをもってあつかわせた。すでに昨夜のうち、白木の首台を設えさせて、自分の幕舎のうちに祀るがごとく据えさせておく始末であった。直義からそれをいわせれば、このように味方といわず敵といわず、兄は他人にはじつにいい人だ、寛大さも、愚かといっていいほどだと、その情に添うよりは、その底なしの凡情ぶりを杞憂するにちがいなかった。
同じ感は、諸将にもあった。
今暁もである。
「大殿は」
と、彼らが、朝の伺候に、魚見堂の内へ集って来ると、尊氏はすでに、暗いうちから外の幕舎に出ているという。行ってみると、彼は、うすい白紗をかけた正成の首の台と対いあって、黙想していた。生前、尽しえなかったものを、死者と語り合ってでもいるかのように、ひとり床几にかけていた。
だが、一同の朝礼をうけて、朝の光の中へ立ち出ると、彼はいつもの尊氏だった。いや一ぱいな威と光彩を加えた戦捷の人、明日の大将軍その人ですらあった。
そして今朝第一の令は、
「真光寺の僧に命じて、正成の遺骸と、ほか五十体の一族とを、ねんごろに葬わせよ」
と、いうことと、また、
「とは申せ、軍紀はまげられん。正成の首は、湊川の河原に梟けろ。首札は特に、この尊氏が自身で書く」
とも、言っていた。
その日、湊川の川原に、首札が立った。正成の首も曝されたはずではある。
だが、その実物を目撃した者はほとんどすくなかった。なぜなら、まもなく、たくさんな僧侶がここに立って、読経をあげ、首はていねいに首桶に処理して、近くの真光寺の内へ捧げて行ってしまったからだ。
尊氏の命で、僧所では同日、正成以下楠木一族の供養がいとなまれていた。もちろん施主の尊氏もこれに臨んでいたことはいうまでもあるまい。のみならず、彼は供養が終ったあとで、
「介……。そちならではだ。まいちど、河内へ行ってくれい」
と、寺の一室で、右馬介へこう託していた。
「つらい使いではあろうが、正成の首級を遺族の者へとどけてやって欲しい。ことばは何もいらぬ。ただ尊氏の意が通じればそれでよい。あとの所領やら今後の迷いに、遺族たちもひそかな安堵はするであろう」
「かしこまりました」
介は、どうしてなのか、涙がこぼれた。
わけもなく、彼には、さむらいという者の住む世界が、儚く、哀しくなってきた。それを、無常というだけには複雑すぎる。
「どうした? 介」
「はい。いや、おわらい下さいまし、ただ余りに、おなさけがありがたくて、つい」
介は、横を向いて、顔をこすッた。
この主君に、彼は十代の幼いときからつかえてきた。敵側の者は大逆無道の人といったりするが、そもそも、地蔵尊の申し子みたいなお方なのだ。けれど、この君へも、いつまで時が幸いしてゆくだろうか。弓矢の人には、朝がそのままの夕でない。正成ほどな徳のあるひとすらかくの如しである。……現に、なんらの恩怨なく、憎しみ合ってもいぬ正成とさえ、この決闘を否みなくさせられたではないか。……ああ、武門、ああ、さむらい。右馬介は、正直、つらいお使いをうけたまわったものかなと思った。いつになく気がみだれた。
あくる日である。まだ暗い未明のうち、彼は、ひそかに河内へ立った。
首桶の内の物は、夏なのでくさらぬように、前夜、細心なふせぎをほどこし、それは馬の前輪に結いつけて、あじろ笠、法衣姿の馬の背だった。あたまは、きれいに剃髪しており、それもこんどは、仮でなく、真光寺の内で得度をうけていたのである。
「……はからずも、蓮生坊のこころがわかった」
彼は、道すがら、つぶやいた。遠いむかしの、熊谷蓮生坊の発心と、その生涯も、きわめて自然に考えられる。だが彼には、心のあてとする法然の門はなかった。さしあたってのつらいお使いをすませたあとの身の処置はどうしたものか、そこはまだ考えてもいなかった。
おなじ日、尊氏は、兵庫の全軍を再編成して、魚見堂を立ち、いよいよ、都へむかって進発していた。直義とは、山崎でおちあった。──都入りのこまかな軍議をとげたのである。──そのうえで、直義らの洛中攻めは、二十九日から開始され、尊氏は本陣を、八幡の男山の上においた。或る重大なものを、尊氏は八幡で待っていたものだった。
義貞、やぶれ終んぬ──
王軍みな逃げ帰る──
等、々、々。朝廷はおどろきに打ちひしがれた。
震駭、狼狽、喪神
どういっても、あらわしたりないほどだった。
さきに、正成が主上へなした献言を笑って、
「王師に天命あり、よろしく外に防げ」
などと型にはまった豪語を吐いて、それがいかにも忠誠の熱意であるかのごとく肩をいからせていた側近の輩からして、足も地につかず、顔色もない。はやくも、内侍所や玉璽を移して、ふたたび、主上を叡山へ渡御しまいらすことであたまも智恵もいっぱいだった。また、いまとなっては、どう義貞を譴責してみたところで始まらない。
その日にしては、ここはなんたる静けさだろう。青い湖の底のようである。宣政門院の御所は、こんもりとした森のうちなので、昼でも、昼ほととぎすが聞かれるのだった。
「では、あなたも、すぐ叡山へお帰りにならねばなりませぬか」
「……どうもしかたがありません。もう、こんりんざい、弓矢は手にせず、一沙門の生涯を、みほとけと和歌の道にと、そうお願いして、父の皇からもみゆるしを給わっていたのですが、こうなりましては」
「ほんに、どうしたらよい世なのでしょう。世の中を恨むべきではない、人間というこの魔性の者をみずから裁けと、あなたはさっき仰っしゃったけれど」
「それが、どうにも、できないんです、ことばではいってみても。……きょうもこれへ伺うまでは、宮中にいたのですが、人々の狂癲ぶりをみるにつけ、あさましいとも嘆かわしいとも、いいようがありません」
「そして、主上のご動座は、今夕ですか」
「ええ、お密かに、御車で皇居を出られ、途中で輿にお乗り換えあって、叡山へ、というお手順とか。いずれお姉宮へも、武者どもが輿を持ッて、お迎えにやってまいりましょう」
「でもまだ、こちらへは、なんのお知らせも来ておりませぬ」
「いきなりですよ。どうして、公卿たちにそんな道すじを踏んでいる余裕などあるものですか」
「……では、いやおうなく、私も」
「はや、おしたくなされませ。せめて、離しともないお持物だけでも身に持って」
客の僧は、後醍醐の御子、尊澄(宗良親王)であった。すがすがと、痩せてお若く、和歌のおすきな、あの法親王なのである。
叡山を降りて、数日、宮中にあるうちに、この騒ぎに出会ったものだった。すわと、胸をつぶされて、すぐ山へ立帰ろうと思ったが、気にかかる姉宮の宣政門院をおもいだして、これへ立ち寄り、つい嘆きのあまり、来し方、ゆく末のことなど話しこんでいたのであった。
「……ああ、細かい雨が」
「降ってきましたか」
「折も折に」
小雨を知ると、ほととぎすは、池水の彼方で一そう啼き声をたかめだした。尊澄は、暮れぬうちにと、姉宮の門を辞して行った。巷は、白い霧だった。それが黒い霧に変ってゆく頃、都の夕は、俄なうごきをひそかにしていた。
御車でなく、鳳輦だった。
金色の大鳳が屋根に翼をひろげている鸞輿ともよぶあの御輿である。
仕丁が大勢してそれを担いまいらせる。主上はまだあかるいうちに、花山院ノ内裏を出られた。……が、天皇お一ト方ではない。女院、ご眷属すべてである。武家の騎馬、上卿たちの牛車、ごった返して、はかどらぬまに、吉田山の下あたりで、霧の日はもう暮れかけていた。
主上、叡山落ち──
と、一般にわかっても、洛内には、なんの音響もなく、ただ霧の下にひそとしていた。万戸の庶民は、とうに家をすてて山野へ疎開していたのである。──そうした死の屋根の辻を、たまに戛々と霧をついて行くものがあれば、それはすべて新田、脇屋などの騎馬武士だった。
警固は物々しい。
はじめ、堂上では、
「ただのおん輿で忍びやかに」
との説もあったが、義貞や千種忠顕の意見として、
「このさい、さながら御落去のようでは、いやがうえ、士気を沮喪させましょう」
と、堂々たる行装がすすめられたため、鳳輦が用いられ、全公卿、全武士の供奉となって──
吉田内大臣忠房
竹林院ノ大納言公重
御子左為定
四条隆資、同、隆光
左中将定平
中御門ノ宰相宣明
園の中将基隆
甘露寺左大弁藤長
一条ノ頭の中将行房
坊門の清忠
等々の殿上から、外記、史官、医家、僧門、諸大夫の女房らにいたるまでの総移動も同時となったものだった。
また、これを守るに。
新田左中将義貞、子息義顕、脇屋右衛門ノ佐義助、一子式部大輔義治。
──そのほか、大館義氏、堀口美濃守、江田、額田、烏山、羽川、里見、岩松、武田などの宗徒の一族旗本からまた──在京の禁門軍、名和長年らの諸大名の兵力までをあわせ、およそ五万をこえるであろう軍勢がお道すじをえんえんとかため、すでにそのいちばん先の者は叡山東坂本に着いているかとさえ見えた。
ところが、なおまだ、待っても待っても、ついにこれへ御参加なかった、皇室のお方の一部があった。
本院の光厳上皇と、新院豊仁との、おふた方である。
この持明院統の皇は、さきに尊氏へたいして、尊氏が請うた宣旨を降下し、錦の旗をも与えていた。
そのことを、後醍醐が、御存知でないはずはない。
だからとくに今日は、監視をきびしくし、太田ノ判官全職をして、はやくから御所をかこませ、いなやの仰せにかまわず、叡山へお供するようにと、すでに内々の御厳命であった。だのに、とうとう、これへはお見えにならずにしまった。
では、どうしたのかというに、本院(光厳上皇)には先ごろから少々御不予(病気)とのことで、太田ノ判官もぜひなく、御門の表でお出ましのしたくを長々と待っているうちに、いつか御所の内では、もぬけの殻となっていたものだった。
尊氏にとっては、持明院統の光厳上皇こそ、かけがえのない御方である。
足利方の洛内入りが大事をとられていたのも、一に上皇のお身が気づかわれていたからにほかならない。
それだけに。現朝廷の監視下に注意人物とされていた光厳の御脱出は、よほど困難だったはずである。
「皇年代略記」やまた「太平記」などによると。
この日、お迎えに向った太田ノ判官全職の強請により、本院(光厳)はぜひなく、法勝寺ノ塔の辺まで拉して行かれたが、急にそこで、御病気を言いたて、わざと、後醍醐の叡山落ちの列伍からおのがれになったものといっている。
だが、これは少々おかしい。太田ノ判官が意識的に本院を逃がしたことでもなければ、つじつまが合わない。
やはり、めんみつな計をたてていた足利方の潜兵が、太田ノ判官を出しぬいて、御所の裏門から、本院、新院のおふた方を奪取し去ったものだろう。──それには絶好な霧のふかい宵でもあった。──また当夜、諸所方々の夜空が、ぼうっと、妙に赤く見られたなども、それの巧妙な掩護であったかもわからない。
またその脱出も、輿や牛車などによる悠長なものではなく、おそらくは足利方の武将が、各〻、駒の前ツボに本院と新院のおからだを抱え、引ッ攫うように、霧の中を、八幡へさして、飛ばしたのではあるまいか。
いずれにしろ、この夜、八幡における尊氏は、
「よかった。よかった」
と、自祝、禁じえない色だった。
さっそく、光厳上皇と豊仁親王を、みずからお迎えして、男山の一院にあがめ、侍座には、三宝院の賢俊を、お添え申しあげた。元々、賢俊は持明院統の臣下である。
やがてまた、三条の実継や日野中納言資名などもこれへ来て、奉侍した。久我の前ノ内大臣もやってきた。
尊氏はさらに、都のすみに逼塞していた前の左大臣近衛経忠をさがし出させて、なにかと、輔弼の任を、このひとに嘱した。すべてそろそろ次代の朝廷づくりのしたくであった。──これをである。生前の正成が喝破したのであった。尊氏の大逆であると。また、自分とは異なる道をあゆむ野望の人間であると。──しかし尊氏は、これが大義にそむくとは思っていない。正成の死は惜しむが、いまでも深く彼の死を愁んでいるが、正成の臣道よりは、自分の臣道のほうが、はるかに、徹したものとおもっている。朝廷のおためにもよく、世のためだと信じていた。正成の理想主義を、あわれとは思え、自分が着々ときずいて来つつある現実的な大業の成果を疑ってみたことはない。
「犠牲は大きい」
しかし、である。
「いまにみよ、みんなよろこぶ。尊氏に感謝しよう。庶民も、武家も、公卿も、朝廷も」と。
六月に入っていた。
いよいよ真夏。
盆地の都は、まるで釜の中だった。──魏の曹植の詩、七歩ノ詩さながらに、釜の中の豆と豆とは煮られていた。毎日毎日が苛烈な激戦の連続だった。
山上も死力であった。
叡山
そのものはすでに厖大な城塞である。
後醍醐は、そのおわすところの大岳の大本営で、親しく、軍事を聞かれ、ときには、武士への軍忠状まで、ご自身、お書きになるほどな督戦ぶりであった。
士気はふるった。
ふるわざるをえない。
まして、義貞においてはである。主上のおたのみにこたえるところもなく、山陽いらいの敗けつづけなのだ。
わけて、湊川からこっち、彼の胸にはさすがたまらないものがあった。辱もだが、ひとつには、
「いまとなれば、思いあたる。……正成は、この義貞の身代りとなって死んだにひとしい。あのさい、全官軍を無傷に都へ立ち退かせ、そしてあくまで、後醍醐のきみを護りたてまつるようにと、後日を祈って──」
と、正成への、ひそかな慚愧を抱いていたことだった。事実、そう覚ってからの彼には、これまでにない純粋な献身ぶりがみえ、驕ッていたあの衒気もいまは捨てて、一身これ現朝廷のため、また打倒尊氏の念に、燃えきっている姿にみえる。
しかも麾下には、万余の新軍勢を加え、山門の衆徒三千、さらに園城寺の大衆までをかぞえてみると、義貞すらが、
「まだ、かくも、余力はあったのか」
と、その大兵力に、自信をとりもどしたほどであり、四明の嶺、大岳、西坂本、ひがし坂本、要路要路、目に入るかぎりはすべて自陣の旗だった。
「ご籠城は、せいぜい、ふた月か三月のこと。かならず、洛中の足利勢は自滅しよう。……いやそれいぜんに、北畠顕家卿の奥州軍が、再度のおん大事と、御加勢に馳せくだって来よう。近く北国勢もくる。阿波四国の宮方からも、密牒が来ておる」
義貞は、どこの陣場でも、こういって、麾下の将士をはげました。勝たなければ、彼は生きていない気だろう。正成にたいして、かんばせはない。主上へもおあわせする面目はない。決死の気、秋霜のごときものがある。
六月五日ごろから、本格的な攻撃に出てきた足利軍も、ほぼ互角な、五万から六万ぢかい大兵力で、西坂本とひがし坂本の両面へせまっていた。
そのほか、せまい間道や、嶺みちでも、およそ敵兵の出没と、小ゼリ合いの見えぬ所はなく、夜もひるも、凄惨なこだまだった。とくに西坂本、ひがし坂本では、主力と主力との激突がくりかえされ、すすんでは、洛内に近い所の部落戦、河原戦、畑合戦など、酸鼻をきわめた。
そして、いくさでは、しばしば、官軍方が、優勢だった。
けれど、そのときはいつも、多大な犠牲をともなっていた。六月七日の合戦には、早くも、千種忠顕と坊門ノ少将雅忠らが、きらら坂や、糺ノ辻で、討死した。
日本開闢いらい
と、古戦記はこの大合戦をいっている。たしかに開闢いらい、こんな凶事はなかったろう。十数万人にのぼる人間が、敵味方にわかれ、京都という一小盆地の底で、夏じゅう、明けても暮れても、喚き合い、殺しあっていたのであった。
六月のすえ、尊氏は八幡から西九条の東寺へ移り、そこを総本陣、兼、本院新院の御所とした。
御所は、灌頂堂に。
彼は、千手堂に。
軍令、政令、すべてはここからという形をととのえ、後醍醐の大本営叡山と、その対峙を真ッ向にしたものだった。
だが、七万の将兵とその陣場は百何十ヵ所にもわたっている。とうていここで統一のある指揮はとりえないし、戦は弟の直義のほうが上手なことを尊氏は知っている。わけて義貞の反撃はすさまじい。で、尊氏は直義へ。「おまえにまかせる。いちいち、わしの令に待たんでもよい」と、あらましは彼の采配にゆだねていた。
直義はつねに積極的だ。烈夏の下、炎熱の中、猛攻また猛攻をおめきつづけた。
あるときは、山上の大講堂文珠楼のあたりまで攪乱して、山門の皇居をさえ脅かしたことすらある。
また、山徒を買収して、内からそむかせ、一山を混乱のどん底におとすなどの奇略も用いた。が、大岳の嶮がものをいって、いつも完勝にはいたらない。──いやそのたび、数百数千の犠牲をすてては逃げ降るのがやっとだった。じたい戦法がムリなのである。ために雲母坂では、高ノ豊前守(師久)以下、一族、部将格二十何名かを、いちどに亡うなどの大難戦もあった。
見かねたのである。尊氏がついに令を出した。
「ひとまず、短慮な山攻めは、見合せろ」と。
で総勢は、洛中へ退陣した。
山上の宮方へは、このころ北国から四千の新手が馳せさんじ、また、阿波四国の宮方も「お味方に」と京地へ着いて、阿弥陀ヶ峰に拠っていた。
これらの好情勢に、いちばい、気をよくした義貞は、
「敵の底は見えたぞ」
と、攻勢に転じだした。一面は内野から、一面は高野川、加茂川原づたいに、洛中を焼きたて、市街戦に入ることも何十度。──そして或る時などは──義貞自身、一万の精兵をひッさげて、敵中をけちらし、尊氏の本営、東寺の門前までせまって、弓に矢をつがえ、
「尊氏! 尊氏!」
と、呼ばわり、
「天下の擾乱も久しいことだ。世上、これを皇統の争いともいっているが、またそもそもは、この義貞と汝との宿怨にもよる。相互して一身のために、万民をくるしめているよりは、どうだ、いっそのこと、一騎打ちの勝負をして、雌雄を決しようではないか。……いやか、おうか。出て来い尊氏。……こたえがないのは、さては恐れて、深くかくれているのか。さらば、義貞の弓勢だけでも知ッておけ」
と、そこの門扉へ、一箭を射て引っ返した、などという一場の勇壮なる話もある。
が、これは「項羽本紀」にある支那軍談とそっくりである。おそらくはそれの模作だろう。しかし義貞がこれほどな意気であったのはまちがいない。
かくて、民家から堂塔仏舎は惜しみなく毎日焼かれ、一日に敵味方の死傷数千と数えられる日もめずらしくなかった。そしていつか、天地の荒涼は、血の秋だった。
殺し合いは日課だった。鼻は屍臭に馴れ、血に飽いた人間は、さらに、次の物をギラギラした眼で捜しあう。
掠奪、輪姦、暴酒、あらゆる悪徳が、残暑のカビみたいに、敵味方の兵を腐蝕しだした。「軍令」そんなものが、もう人間を規矩しうる現実ではない。
とくに、足利方は弱った。
いつか四道の糧道をふさがれ、洛内の食糧は極度に枯渇してきたのである。いまにして、後醍醐の帷幕は、さきに正成がすすめた戦略を、実施させていたとみえる。
つまり〝封じ込め策〟だ。尊氏を洛中に入れて糧道を断つ。──もしこれが、正成もまだ健在の、湊川以前におこなわれていたらどうだったか?
「正成あらば」
とは、なにごとにつけ、後醍醐の御思慕であったにちがいない。
だが、もうおそい。
「なにをしている、直義」
と一日、尊氏から叱咤された直義は、八月から九月へかけて、猛然とふたたび総反攻をおこした。──綾小路の官舎に陣していた少弐頼尚、壬生ノ匡遠の宿所に陣する高ノ師直、上杉伊豆、仁木兵部、そのほかの部将も、総力をあげて、敵の宮方を、山上へ追いしりぞけた。
法勝寺も焼け、大覚寺も焼かれた。──八条猪熊で、名和伯耆守長年が斬り死にしたのも、このころである。
結城、伯耆、楠木、千種
宮方の、三木一草、みな死に枯れた──と都人はいった。とまれ宮方勢も、士気は荒び、内からはしばしば内応者が出、危機の兆をあらわしていた。
とはいえ、まだ、瀬田、宇治、醍醐、淀、山崎にわたる〝つなぎ陣〟から、一軍は近江へ出て、近江の佐々木道誉を攻めるなど、毫も、足利方の糧道遮断にたいしては手を抜いていない。敵ののど首は必死で締めている。
こういう中にあって。
東寺にある尊氏は、上皇に奏請して、国家的な、典儀の大事を、執りすませていた。
八月の十五日。
光厳上皇の皇弟、豊仁親王は、践祚された。
〝践祚〟とは、天子の位にのぼる式をいい、〝即位〟とは、それを百官万民に告げる披露の儀式をいう。だからまだ、布告の大礼までにはいたらないが、今日以後は、このきみを以て天子とするという、践祚の礼は、天地の神祇に誓われたわけである。
北方の光明天皇とは、すなわち、そのお方だった。
いずれが正しく、いずれが正しくないといえるのか。なお、後醍醐には、ゆめ、御位を退くなどのお心はない。一国に、同時に、ふたりの天皇があるかたちとはなってしまった。
そしてなお、二つの天皇の下において、日々夜々、しのぎをけずる激戦はくりかえされていたのである。しかもいまや、双方とも、さいごの喘ぎと、盲目的な断末魔の死力を以て。
「…………」
ここにいたって、尊氏には、この殺し合いの、果てしなさが、そろそろ、やりきれなくなり出していた。あえて、践祚ノ儀をとり行って二日後の晩であった。彼は、人知れず清水寺へ願文をおさめていた。
彼のその願文は、秘封のままで清水寺へ納められた。内容はたれにも知らされていなかった。──彼の心の秘密だからだ。──御仏さえ知って行くすえおききとどけ給わるなら、としていた尊氏の願望だったにそういない。
この世は夢のごとくに候 尊氏に 道心 給ばせ給い候て 後生たすけさせたばせ給い候べく候
とくと 遁世いたしたく候 道心 給ばせ給わるべく候
今生の 果報に更えて 後生たすけさせ給うべく候 こんじょうの果報をば 直義にたばせ候て 直義を安穏に まもらせ給い候べく候
建武三年八月十七日
清水寺
おそらく、尊氏は身をきよめ、心を洗って、したためたことであろう。みじん、嘘いつわりを書く要はない。本心、彼は彼自身をこう打ちのめしていた。
しかもいまや一世を風靡している勝者だ。
九州を征服し、山陽山陰を掃き、正成、義貞に勝って、思う皇を御位に即かせ、身は大御所、大将軍とあがめられている栄位にある。
にもかかわらず、尊氏はこれに満足できなかった。有頂天になって驕れないのである。逆に、あさましいとすら自己を観照されだしていたのだった。
こんなもの、あんなもの、観ずれば、夢ではないか。
ほんとの、よろこび、安住の境界、それはどこにもない。真実の光に浴せる人間らしい〝道心〟こそ、いまは欲しい。
だが、なんでもできる自分の位置でいながら、その〝道心〟に会って、すがすがと生きる道にはどうしても出られず、修羅六道の中の大御所と立てられている身を、さて、どうしようもなく、ついこう明け暮れ戦ッている自分だった。
おたすけください──
尊氏の心の底のものは、み仏へむかって、さけばずにいられなかったものだろう。──一切は、弟直義に譲ってよい。すでに、鎌倉を立ち、九州このかたも、直義へは、軍政、日常のおもなる権、あらましは彼にゆだねてあるが、このうえの名誉も栄花も俗世の果報はみんな彼にやりましょう。どうか弟の安穏をお守りください。……そしてこの尊氏へは、果報に更えて、なにとぞ、この餓鬼六道のあさましい住家から、ほんとうの人間のすみからしい安心の道へおみちびきくださいまし……。
こう願文のうえに自己の本心をさらけ出したときは、自然、そのわずかな間では、きっと尊氏の眼には、ぼうだと、掻き曇るばかりな涙がわいたことであろう。──だがそれを、清水寺へ納めたすぐあとでは──もう自己の分身のような直義へも、幕下の諸将へも、ゆめ、そんな本意は、顔の隅にも出しておけなかった。
彼らの眼は血走ッていた。彼らの手は血ぬられていた。いよいよ、食うか食われるかの、きのうきょうの戦況だった。
「ただいま、彼方に」
と、近侍が告げた。
「師泰、帯刀の両将が、勝戦のよしを言上のため、坪の内へ来て、さしひかえておりますが」
「直義はいないのか」
「けさから鞍馬口方面の戦陣へ、お駈け入りでございます」
「いまゆく」
尊氏は奥を出た。そして千手院の北ノ坪(庭)へ降りて、そこの陣座へ腰をかけた。
あの願文を清水寺へ納めてからの直後の日である。
──この世は夢。ただ道心を給び給え──。と、祈る彼も本心なら、ここの床几で、軍事を聞くときの彼も本心だった。
入れかわり立ち代り、伺候する諸将はみな戦場の血みどろで生々しい。窮極はどうあれ、尊氏もここでは自分を嘘の皮膜でくるんではいられない。つまり彼は、極限の本心から極限のべつな本心へと、変っていた。その振幅にうその意識はないのである。両面、どっちも一つ尊氏だった。
「──今暁、一手は鳥羽畷にて。また一ヵ所は、祇園門前にて、敵をうちやぶり、その手の大将、越前ノ松寿丸と、鑑岩僧都と申す荒法師とを、いけどりましたゆえ、それの言上までに」
と、細川帯刀と、高ノ師泰とは、こもごも彼の前に報告しだした。
「いけどりは?」
と、尊氏がきくと、
「両名は、即座に首切り、首のみをこれへ持参いたしました」
と、そのふたりは、事もなげに、答えた。
「なぜ斬ッた。いけどったものは、斬るまでのことはない」
「お叱りにはございますが、下御所さまの御厳達により、近来は、雑兵たりといえ、捕虜はその日にみな斬ることにしておりまする。……なにぶんにも味方を養う糧米すら、日に日に、洛中ではとぼしく相なッておりますので」
「直義の令か」
「はいっ」
「ぜひもない」と、尊氏はだまって、祐筆に両者へ与える軍忠状を書かせ、今川範国に袖判させて「さらに励め」と、ふたりへ授けた。
感状をもらった二将は、すぐ再度の獲物を追う猟犬のごとく、いさんで東寺の門を出て行った。が、あとの尊氏の浮かぬ色をみた範国は、糧米の欠乏や、戦況の慢性的な膠着が、彼の憂いであろうと察して、種々、実状を説明していた。そして、それもまた熱心に聞く尊氏だった。
ここへきて、ふたたび、戦火の糜爛がひろがり、範囲も西は山崎、鳥羽伏見。みなみは木幡、奈良ぐち、阿弥陀ヶ峰。ひがしは近江から北は若狭路にまでなって来たには理由がある。
叡山の行宮から発しられた諸国への大号令が、ようやく、こたえをなして来たことと、慢性的な長陣となってきた中央の戦状をながめて、九州、中国、四国、紀南、北陸、全土の宮方がまた宮方へ起ちはじめ、ぞくぞく、行宮のもとへ馳せさんじる武士もふえていたからだった。
「おや?」
それとは、まったく関連のないものだが、尊氏はふと、眼にとめて、範国へたずねた。
「範国、いまのは誰だ。いまここをチラと覗いて、彼方へ去った若い女は?」
「ぞんじませぬ」
範国は、言ったが、
「いや、造作もないこと、行って問いただしてまいりましょう。──この御営内へ、わけて戦時、え知れぬ若い女が、立ち入ってくるなどは、油断がなりません。敵の細作(まわし者)やらも知れぬこと」
と、すぐ足ばやに、軍幕のそとへ出て行った。
まもなく、彼は、もどって来たが、言いしぶった。
「女は、怪しき者ではございませんが、ちとどうも」
「直義をたずねてきた女か」
「よう、ご推量で」
「直義ならぬわしの姿に、あのような、うろたえをして去ったものと察しられた」
「御意。じつは、下御所さまのお文を持っており、お目にかかって、おうらみを申さいでは、と訴えますので、ならぬならぬ、さような儀が、この陣中で相なろうや、と説き諭し、泣きまどうのを、ようよう、兵の手に渡して、追い返したような次第でございました」
「遊女か」
「いや、公卿の想われ者のような、いやしからぬ……」
「直義からやった文とかを、そちに見せたのか」
「は。みじかい御文言のはしに、一首のお歌がみえたばかりにございまする」
「その歌は」
「さ。その歌は」
と、範国は、小首をひねったが、わすれました、どうしても思い出せません、と言ってあやまった。
尊氏は、笑って。
「よしよし、あとで直義へ訊いてやろう。この万里腥風のような血戦場の中で、直義にもそんな一面があろうとは、知らなかった。兄弟ゆえに、何もかもが、分りあっていると思い込んでおるのは、まちがいだな。いや、直義を見直したわえ」
不愉快に取るどころでなく、弟の秘事を愉しんでいる尊氏の容子には、範国も意外だった。その後、はたして尊氏が、直義に訊いてそのことを、からかったか否かはどうも不明である。
だが、直義のこの一情事は、やがて公な「新千載和歌集」の雑ノ部に載せられたことだから、ひとり尊氏と範国のみが知っただけではなかったろう。
その「新千載集」には、左兵衛ノ督直義と、名もれいれいしく、こう見える。
建武の頃、おもひのほかの事によりて、筑紫にくだりけるが、ほどなく帰り上りけるに、都に残しおきける女の、さま変へて、ひとに侍りけるよし聞きて、詠みてつかはしける。
袖のいろの
かはるを聞けば旅衣
立ちかへりても
なほぞ つゆけき
いきさつを考えるに、つまり直義は、自分の九州遠征中に、女が生活のため、公卿か富裕の物持かに、身をまかせてしまったと聞き、この苛烈な戦争中だが、業腹が煮えてたまらず、女の許へ、つらあてのような、忘れかねるような、男の迂愚を、自嘲してやったものにちがいない。
おそらく、尊氏は、何も弟へいわなかったろう。けれどいちばい、心では直義が好きになっていた。戦よ、早く終結を告げよ。あとの果報は、すべて直義へ与えようぞと、一そう思った。
直義はつねに誇りにみちている。おそれるものを彼は知らない。長期ないくさは、元からのその性格を、なお完全にまで、鉄の血の人間にしていた。
今暁。それは十月にはいったばかりのこと。
彼にひきいられた一軍は、血と泥と疲労にまみれた惨烈なかたまりをなして、瀬田方面から逢坂をこえてきた。──近江で大勝したのである。──だが、兵は凱歌にわく気力もなかった。
鮒と芋ガラと粟とをかきまぜた雑炊ともいえぬ妙なものを暗いうちにススりあっただけなのだ。あかるくなった膳所の辺では、蓮池を見かけて、われがちに蓮根をひきぬき、それを生でかじりかじり歩いたりした。
おおむね、勝てば勝ったところに敵産があり、かならず腹ぐらいは満たされたものだが、いまどきは、どこへ行っても一物すらない。食えるのは持っている馬ぐらいなものだが、それは敵の死馬でもかたく禁じられていた。もしゆるせば数万の餓兵である。味方の馬をも食いつくしてしまわないとはかぎらない。
「がつがつするな」
直義は、言った。
「そのために、近江路の敵を追っぱらい、ことごとく、湖へ叩きこんだり、みなごろしにして来たのだ。──糧道の一つはあすから開ける。──佐々木道誉、斯波高経らが、あとにあって、東海の糧米を、やがてどしどし輸送して来よう。これで洛中の士気はいちばい高まる」
山科では、死馬の腐肉にたかっている飢民があった。木の実をさがす幽鬼のような山林の人影もみな避難民なのであろう。三条河原は屍臭にみち、全市はあらかた灰の野ッ原と黒い枯木の骨だった。だのに、都をめぐる山という山はあざらかに紅葉していて、余りにそれは美しすぎる。
「水でも飲め」
へた這るように、兵は河原で腰をおとした。休め、の令が出たからである。というのは、ここで直義を待ち迎えた高ノ師泰の部隊がある。そして彼と直義とが、人を遠ざけて、何か密談をかわす姿が、彼方で見られていたからだった。
「まことか、師泰」
「なんで疑わしきことを、わざとお耳に入れましょうか」
「でも、わしが近江へ打って出る日まで、さような御気振りは、少しもなかったが」
「秘事でもあり、お諮りしては、反論の出る惧れもありとして」
「わしのいぬまに、あえて、お運びなされたと申すのか」
「としか、考えられませぬ。……ともあれ、ここ数日のあいだのことです。浄土寺の忠円僧正を介して、大御所(尊氏)より山門の行宮へ、密々、和を請うの御上書がさしあげられたには相違ございません」
「して、お使いには何者が立ったのか。その密使には」
「東寺の長者、文観上人の侍者です。それが浄土寺と東寺のあいだを、ひそかに往来いたしたもようなので」
「待て待て。坊主と坊主の行き来など、あるいは、祈祷事かもしれんではないか」
「いや──」と、師泰は確信をもってなおささやいた。大御所尊氏がここ密々に和議をすすめているということをである。直義は顔色を変えだした。
「おられますか」
直義は、あらい息のまま、軍幕を払って、さし覗いた。
千手院の営中である。
ただひとり、馬を東寺の門で捨てるやいな、あッけにとられる兵どもをしり目に、大股でこれへ来たものだった。
が、尊氏は見えない。
床几はあるが、兄の姿は見えないので、中門を入り、廊のそとから大声でおくへどなった。
「直義でおざる。直義、ただいま近江の戦場より帰陣いたしました」
「おう」
と、一房の障子の蔭で尊氏の声がした。
「帰ったのか、直義。あがれ、あがれ」
「土足です、血みどろです」
「かまわん」
「では、ごめんを」
ずかと上がって、机の前に、あぐらした。その机からして、むかッとせずにいられなかった。
「なにを、お認め中でしたか」
「日課をな」
「毎日?」
「ム。近ごろ地蔵尊を画き習うている。母上のくだされたお守りの地蔵尊をお手本に」
「まさか、絵描きになる御発心でもありますまいに」
「きつい語気だな。はははは。むりもない。……さて、近江路の合戦は、どうだった。佐々木道誉、よく近江を守って、孤軍奮戦してくれているようだが」
「あの、道誉すらもです。いまや食うか食われるかだ。全軍は生死の境、申すまではございませんが」
「峠は越えた。これ以上はたたかえぬ。敵も味方も」
「いや、これからでしょう。すでに七分の勝ち。それに近江方面の敵二、三千も打ちころしてまいりました。はや丹波口にも敵影はなく、阿弥陀ヶ峰に拠っていた奴ばらも味方が追っぱらってしまったよし……。いまや糧道の枯渇は、われよりは、行宮と義貞のほうに、瀕死の急を告げだしている。……そ、それなのに」
「直義、なにを泣く」
「ばかな、泣いてなどいるものですか。ただくやしいのです。兄上の……余りといえば、兄上のしッ腰なさが」
「和議の一条か」
「もちろんです」
「たれにきいた?」
「そんなこと、いかに、お密かにやろうとしても、できることではありません。いかにあなたが大御所のご地位にあろうと、血の中に立っている全軍が承知しない。今日までに命をささげた白骨が承知しません」
「だがの、直義。いくさの我慢は何のためにする。よいしおに和をつかむためではあるまいか。いまは最もそのよいしおと尊氏は思う」
「可惜、まるで御見当ちがいだ。敵の息の根をとめるのは、ここもう一ト押し。ゆくすえまでの、わずらいの根も、先ごろ践祚された新帝のおんためには、このさい、完膚なきまで、たたきつぶしておかねばなりません」
「いや、そうまでしてはなるまい。むしろ、そうしては長き恨みを百年にのこす。わずらいの根絶には決してならぬ」
「だから、みすみす、この勝軍をすてて、われから降伏をねがい出たと仰っしゃるのか」
「なに、降伏?」
屈辱だ。直義には、がまんがならない。尊氏のにらまえる目を、より強く、はね返して、
「つまりは、降伏だ。降伏でしょうが」
と、言い哮ッた。
「どう飾っても、結局、降伏ということになる! こちらから和を請うたからにはだ! なんでそんな御卑屈に出るのか。直義にはわけがわからぬ。だいいち、あなたは、うそつきだ。ひとを、あざむいていらっしゃる」
「わしが、そちを」
「そうです。なんどあなたはこの直義へ仰っしゃったか。一切の権限はそちにゆだねる。政務軍事、おもなることはそちがやってくれと。しかるに」
「わるかった」と、尊氏は眼もとを和めた。自分をなだめているふうでもある。「いかんせん、かかることは、機密に運ばねば成り難い。事洩れては、全軍に不穏をよび、はては狂気の沙汰になる。収拾がつかぬ」
「これからでも、なりかねません。たとえ直義は、鉛を呑むおもいでこらえても、七万の将士、これが逆上して、どうすてばちの矛を逆しまにしないとはかぎらない」
「万一、これが洩れたのなら、よく諭すがいい、なだめておけ」
「あいにく、さような都合のよいことばを、直義、持ち合せておりません。弓矢の手前、いうべきことばなど、あるものですか」
「いや、まったくは降伏でない。誘降の上書を奉ったものにすぎぬ。それをしも、悪推量して、噪ぎ立てする者あらば、斬ってしまえ」
「では、屈辱的な和議でないと、固く仰せられますか」
「そも、たれがそちへこの秘事を囁いたの?」
「師泰ですが」
「物騒な男」
と、尊氏は、しいて苦笑してみせながら。
「感づいたものは、早や仕方もあるまい。が、諸将にまで、つたわっては、ゆゆしいめんどう。すぐ口どめしておけ」
「まこと、いまの仰せに、相違ございませぬなれば」
「降伏でないことか」
「はい」
「上書は、降をお勧めするこころでは書いたものだ。しかし、山上の皇にも御体面というものがある。わけて豪邁なる後醍醐のきみ。不遜な文言はことをこわす。ただ皇が山を降り給うて、洛内への御還幸とさえなるなれば、それでよからん。……ま、名目などは、どちらでもいいのだ。しぜん、義貞のたちばはなくなる。義貞をはたきおとす。……それで事はさだまるとわしは思う。さだまったあとの始末はまたそちにまかせる。これは大人の役目だ、直義もだんだん大人になってもらわねばこまる」
「…………」
「それにはや、冬の寒さもやって来た。洛中の難民も、もとの住み家へ返してやらねば、この冬、幾万の死者が出ようも知れぬ。かつはまた、丹波の奥、梅迫の山家に難を避けておられる兄弟の母上、わしの妻子らも、早う都へ迎え取りたい。直義は久しく会わぬ母者を見たいとはおもわぬか」
直義は、眸をそらした。両手を膝に、いつか、さしうつむいていた。
里ですらもう寒い旧暦の冬十月だった。山上の寒さは骨身にしみる。
わけて、こがらしの吹きすさぶ夜は、大岳の木の葉が、御簾のあたりを打ッて、ともし灯のささえようすらないのであった。三位の廉子や准后づきの女房らが、そのたび御座ノ間のおあかりに風ふせぎの工夫をしては、灯し直すが、つけると、またすぐ消されてしまう。
「もうよい」
みかどは、仰っしゃって。
「こうしていよう」
と、おあきらめの御容子で、暗黒の玉座の机に、夜じゅう沈思のお姿を凭せておられるなども、めずらしくないのではあった。
こんな晩も、どこかでは戦いがたたかわれている。
枯葉のように、人が死に、家が焼かれ、山野では、無辜の民が泣いていよう。餓死者すら出ているにちがいない。
お眠りになれぬ夜がつづいた。御衣を解いて眠らずにいることだけでも、せめて何かへの、申しわけとしておられるのかもしれなかった。とにかく、めッきりお痩せになり、おひげものびた。ただ眼光だけがいよいよおん目のふちにくぼをつくって、炯々と、それはたしかに全生命力をあげてたたかっている者のみにある異様なるお眸だった。
「これしきの艱苦などは」
後醍醐は、よく廉子には仰っしゃっている。
「のう、隠岐ノ島にいたあのころを思えば」と。
だがいまは、御自身だけの忍苦ではすまないのである。また後醍醐は、すでにこの戦局の非を、たれよりもよく知っていた。とうてい好転はむずかしい。寸前にあるのは破滅だけだ。餓死、全滅、すべての瓦礫化。およそ宮方色のものは一片の勢力たりと残されまい。そして次の世代はまったく自分の理想とは相反するちがった組織によって始まるだろうと考えられた。
尊氏の勧降は、じつに、こういうときになされたのだった。──もちろん、あからさまに「降を勧める」とはいっていない。密々に忠円僧正を介して、みかどの許へ、そっと上書された文意は、鄭重というよりは、むしろ至極、低姿勢なものだった。
臣 尊氏
さきに勅勘を蒙り
身を法体に替へて
死を罪なきに賜は
らんと存ぜし処に
義貞 義助ら
事を逆鱗に寄せて
日ごろの鬱憤をはらさん
といたすがゆゑに
つひに 乱 天下に及び
たるにて候ふ
と、あくまで当の敵は義貞であるとしていた。──そして、義貞や君側の讒臣を打つのが初志でありますから、もし龍駕を都へお還しあるなら、よろこんで奉迎し、過去を問わず、大方の者は、本官本領に復し、かつまた、
──天下の成敗は
公家に任せ進ら
せ候ふべし
と、まで書きむすんでいるのである。が、もとより後醍醐は、尊氏の勧告を、その文字のとおりには決して御信用になってはいない。──いまの窮状ではこれをただ一つの活路と見、これに応ずる以外に再起の道はないと、深く、しかも密かに、御決意の臍をきめていたものだった。
和睦の運びは、じつに、秘密裡であった。近側ですら、その日にいたるまでは知らなかったほどである。
なぜ。というに、武家の奏上では、戦況は概して悪くない。われにも損害は多いが、敵にも、より以上の打撃は与えている。兵糧の欠乏も同様で、敵もやっと掠奪で食いつないでいるのが実状だから、とうてい、この冬中は越せっこない──
こんなことのみ聞かされているのである。だから公卿のなかにも、なお必勝を信じている者が多かった。わけて坊門の清忠、洞院ノ実世などは、それのコチコチであった。──しかし後醍醐は、かならずしも、義貞の奏上だけにたよって御判断はくだしていない。さすが大局を観とおして、とうに、第二のだんどりを御心のうちにえがいていたのである。
その結果、
和議 了承
の御返事を、密々に、尊氏へおこたえになられたが、なお忠円僧正を介して、
還幸は十月九日
下山の龍駕には、尊氏方からお迎えの軍勢が途中まで出ていること。等々々の手筈まで、一切、諜し合せもつけておられたのだった。
ところで。義貞は、まだ何も知らずに、ひがし坂本の彼岸所の本営にいたが、その朝、
「はて、ふしぎな説を?」
と、判断に迷っていた。
──というのは、洞院ノ実世の使いと称する者が陣門へ来て、
「今暁、主上には、尊氏との和議によって、俄に、洛中へお還りになることになりましたが、新田どのには、ご存知あるのか否か。……また、龍駕に供奉して行かれる御所存かどうか。事あまりに唐突ゆえ、お耳にまで入れておきまする」
と、告げたままで、その使いは、風のごとく、帰ってしまったというのである。
「なにかの、まちがいであろ」
義貞は笑ったが、しかし、不安を持たないわけではなかった。ただ事は余りに重大なので、さっそく、ふもとにいる弟の脇屋義助を迎えにやった。そのうえでと、思ったのである。
すると、すぐ、
「大殿、何ぞ御異状はございませぬか」
近くの陣所から一族の堀口美濃守貞満が来てたずねた。──貞満は、義貞から、云々のことで、いま義助を迎えにやったところだと聞くやいな。
「すわ、それこそ奇ッ怪事だ。なんとなれば、ゆうべから今暁のあいだに、江田ノ兵部行義と、大館左馬助氏明のふたりだけが、いずこへか、陣所を移し去っておりまする。……どうも日ごろから、あやしき色のみえていた両名。みかどの下山と共に、敵へ内通に出たものでしょう。とすれば、帝の御脱出も、ただの風説ではありますまい」
この貞満は、坂東武者の典型ともいえるような、一徹短慮な男だった。で、猶予はならずと言い、「──まずは、拙者が、見てまいりましょう」と、義貞の営から駈け出して行ったが、その顔色はもう恐ろしい憤りになすられていた。
行宮の延暦寺根本中堂のうちでは、かねてからのおしたくだったが、今暁はもう暗いうちからの物騒めきで、おめしになる鳳輦も、きざはしの下の轅台にすえられ、みかどの出御を、待つばかりのていだった。
やがて、しいっと、お出ましを告げる声が奥から流れつたわってきた。──と、洞のような中堂の燈明をうしろに、背がお高いのですぐそれとわかるみかどの模糊たる影が、生ける金剛像のように、ずしずしと歩んで来られた。そして、天やや明るい廊の大床のさきに、そのお姿を立たせられた。
すると。
このとき、たれとはなく、すすり泣いた。はじめは、数名の嗚咽だったが、しだいに、廊の左右から階の下にまで、敷波にヒレ伏していた公卿や舎人にいたるまでの、すべての人影の咽び声になっていた。
──わけて、みかどをお送りして出た准后の廉子だの、親王方だの、あまたな女房たちは、中堂の蔀のうしろで、みな、おもてを袖につつんで、われもなく泣き伏しているさまだった。
「…………」
さすがに、みかども、みなの気もちを汲んで、どういって一ト言でもなぐさめてやったらよいか、それすらも見つからぬお立ち惑いの容子だった。その龍顔も、やや仰向に、しばし暗然としておられた。
表面、降伏とはいわれていないが、尊氏の勧めをいれて、いくさを休め、ここの大本営を出で給う上からは、そしてあとの処置も御運命も敵まかせであるからには、どう繕っても、朝家の屈辱たることにかわりはない。
人々は自分たちの力のおよばなかったことにも歯ぎしりして泣くのであったが、みかどこそは、その屈辱を、屈辱として、最もつらい御無念を嚥んでいるものと思われ、なおさら、慟哭されてくるのであった。
それをそれと、公卿ぜんたいへお打ちあけがあったのも、つい昨夜のことで、一時は議論がわいて、たいへんなことだった。公卿間でさえ、こんな騒ぎであったほどだから、武家はもちろんまだ何も知っていない。いや知らされていない。
だからもし義貞、義助らがこれを知ったら、たちどころに、大混乱を起すにちがいなかった。──和睦となっては、義貞が存命しうる余地はまったくないからである。義貞ばかりでなく、これまで尊氏とよく戦ってきた者ほど、いいかえれば、朝家のためと、一身を後醍醐にささげきた者ほど、やぶれかぶれの抗戦をあくまで主張するにちがいなく、はては、後醍醐のおん身を監禁してまでも、さいごのさいごまで戦ッて、全味方、一地で玉砕することを以て、武家の本懐だと、言い出すであろう。
後醍醐のもっとも怖れられていたことはそれであった。だから今暁はまず、少数の供奉だけで、すみやかに、かつ密かに、麓への御潜幸をとげることを主としていた。女院や女房たちもあとにのこし、そして義貞、義助らの武家は、事後において、数名の上卿からことをわけて説き伏せさせる御予定でいたのであった。……ところが、間髪に、もうこれは義貞の方に洩れていたものだった。
それは、後醍醐が、泣きしずむ群臣の背にお目をとじて、階を一ト段、ふた段……と下の鳳輦へ降りかけられたときだった。
どこかで、
「しゃッ。しばらく」
と、大声で吠えた者がある。同時に、まるで野嵐を負った猪のごとき男が、
「おまちください!」
とばかり、そこへ来て、いきなり鳳輦の轅を片手でおさえ、片手を地につかえて、
「これは、新田の一族、堀口美濃守貞満にござりまするが、こんにちの俄な御動座は、そも何事でございましょうか。臣らはまだ、何もうけたまわってはおりません。まず! しかとしたその御理由を! まった御内議の仔細を、伺いたいものと存じます。さもあらねば、龍駕をよそへ遷しまいらすなどは、言語道断。貞満、太刀にかけても、おとどめ申さいではおきませぬッ」
と、すさまじい面色で、みかどへ迫ッた。
後醍醐も、せつなは、或る危険すらハッとお感じになったらしい。二タ段、三段、御裳を避けて、階をあとへ戻った。が、すぐ御気性があらわれて、
「下﨟っ」
と、大喝のもとに、
「よくは理由もわきまえぬ身をもって、推参であろう。おちつけ!」
と、たしなめられ、あたりの公卿もみな、身がまえを揃えて、一せいに、
「無礼なるぞ、貞満っ。ひかえろ、ひかえろッ。畏くも至尊にたいし奉ッて!」
と、叱り浴びせた。
貞満は、とたんに、がくと首をたれた。日ごろの陪臣意識が、ふと、よみがえると、やがて一途だった逆上の色も青く醒めて、顔じゅう、ぼうだと流れる涙だらけにしていた。
「やれ、浅ましい。まったくもって、この慮外は、我を忘れた不埒にございました。……がしかし、これも憂国のほとばしりと、あわれ、み免しあらせ給え。じつは今暁、かすかなる噂におざれど、還幸の沙汰なす者あり、しかるに、主君義貞には、何も存じつかまつらず、余りに奇ッ怪なれば、これへ、実否をお伺いに参ったものにすぎませぬ」
「…………」
「まこと、いかなる仔細でございましょうか。見うければ、内侍所の御櫃、剣璽の捧持など、はや御立座に供奉して、おん出でましのように拝されますが、もし、大元帥の大君が、ここに、おわしまさずとなったら、あとの義貞以下、われら将士は、捨てられた子も同様です。どう相なるのでございましょうや」
「…………」
「そも、また、義貞に、何の不義不忠があって、多年の粉骨砕身も見捨てられ、こつねんと今日、大逆無道の尊氏へ、叡慮をお移し遊ばされるのでございましょうか。ここが、われらには一こう合点が相なりません! 去んぬる元弘の年の初め、義貞以下、われら端武者にいたるまで、綸旨をいただき、忝しと、心骨に忠誠を誓ッてからは、関東の野には、屍を積み、西国の風雨には、あらゆる惨苦をなめ、一族家の子、何万の死者をも出してきておりまする……。しかるに」
と、貞満はついに、男泣きに、声をのんで、咽んでしまった。
貞満は、また、
「し、しかるにです」
と、涙を払って。
「いまさら敵に降参とあっては、死せる万骨にたいしても、われら、生きてはいられません。かつまた一徹な部下ども、荒くれども、これらも、何をしでかすか、自暴の極には分りませぬぞ」
「あいや、貞満」
頭ノ中将行房が、大床の端から諭した。
「心得ちがいいたすな。還幸は決して、御降伏ではないのだ」
「ばかな、仰せを」
それが、かえってまた、彼の忿怒を煽ったもののように。
「いかなる名分にせよ、大元帥たる御方が、その行宮を捨て給うて、敵手に、あとの御運をゆだねられるからには、降参ときまッている!」
「いや、至尊として、臣下の尊氏に、御降伏などというすじみちはない」
「さようなお考えは、あなた方だけのもの。武家世上では、そんな旧念など通用いたしません。まことまた、降伏なのだ。かくまで、一同身命をすてて戦いながら、なお戦いが振わぬのは、帰するところ、帝徳の欠如か。輔弼の悪さでおざるまいか」
「だまれっ、陪臣の身をもって、あまりと申せば、僭上な」
「いいや、貞満はいま、全官軍の兵に代って物申しているのです。僭上などと日ごろの行儀は、知るところでございません。いずれにせよ、累年、忠義のみちを取って、臥薪嘗胆、かくまで奮戦してきた者どもを捨てて、なおどうあっても、敵へ御降伏に出られるものなら、もはやぜひもないことです。まず義貞義助以下、新田一族の者をこれに並べ、その首を刎ねてから、出御のおふれ出しをねがいましょう。……いざまず、貞満の首からさきにお斬りくだされい」
むりもない。いちいち、理にあたっている。その罵言にも、返すことばはないのであった。のみならず、ほんとに、彼ら武家が怒ったら、どんな事態になることやら、はかり知れない。
公卿はみな、青白く黙り沈んでいるのみだし、後醍醐もまた、きざはしの半ばに釘ヅケにされた態で、この一個の荒武者を、どうするすべもなくお立ち恟みのままだった。
折もよく。むしろ、帝にとっても、今は、救いともいえるようなこの時に、
「おっ、左中将が」
「義貞が、子の義顕と」
「弟の右衛門ノ佐義助も打ち連れて、三名これへ見えまする」
と、口々の声にながれた。
後醍醐は、さらに階を数段、上へもどった。そして茵を待ち、茵にすわって、すぐ階下へ来てぬかずいた新田の父子兄弟三名をあらためて見た。
「オ、左中将よの。よいところへ見えた。後刻、そちの陣所の彼岸所へ、儂に代って、公卿たちをつかわすところであったが」
「はっ。おそらくは、さもあろうかと存じましたなれど、待ちきれずに、つい参りましてござりまする」
義貞は、かたわらの貞満の気息やその面色を見て、すでに貞満が、ここでどんな言語を吐き尽していたかを、すぐ感じ取っていた。辺りの視線や空気からも、すぐわかった。
「決して、おひき止めはつかまつりません。事、かしこくも聖断とありますからには」
義貞は、言った。
そして、なお。
「これなる堀口貞満も、おそらく一時の忿懣にまかせ、御立座のまぎわを騒がせたものと思われますが、無骨者の呶罵も、あわれと聞こし召されて、みゆるしあるよう、ひらにおわび申しあげまする。武辺者の一途、この義貞すらも、これへまいるまでは、まったく逆上気味でござりました。……が、親しく、龍顔を拝しますれば……」
「…………」
「おそれながら、おん目のくぼみ、頬のおやつれ、義貞もかえって、身の申しわけなさが、先立ちまして、おわびのことばもございません。不肖なる私に、さきには左中将の顕職をさずけられ、親衛の大任、禁軍の精、あわせて昭々たる錦旗をも給うていながら、征途のかどでに瘧病をわずろうて、以後もはかばかしくなく、とかく心なき戦いのみをかさね、ついに今日にたちいたりましたるは、まったく、義貞のいたらぬところでござりました。いまにして思えば、楠木左衛門ノ尉正成にも恥じられまする。で今日、龍駕をお送り申しあげたうえは、なおここにふみとどまり、義貞一族も世に恥じぬ思うざまな最期をとげたいものとぞんじます。さあれば、これが今生のお別れ。──ひとえに、ご聖運のひらけますよう、泉下よりお祈り申しあげておりまする」
おちついていた。
まったく、おちつきぬいている義貞のことばであったので、後醍醐も、ほっとなされると共に、
「いや、義貞」
と、あやうく、お目をかきくもらせて、こう仰せ出た。
「還幸は一時の策に過ぎん。なんで新田を捨てる気などで山を降りよう。そちもまた、いささか儂の心を汲み誤っているのではないか。いや、そもそもから、事は、そちにも諮るべきであったろう。したが尊氏の感情として、そちの意見を入れてはしょせん和談はむずかしい」
「それは、むずかしいこと、よう心得ぬいておりまする」
「が、和談といえ、深い後図の考えもあってのことぞ。いまは屈しても末に勝てば、負けではない。数日前、はや密かに四条、北畠の二名をここから落して大和へ走らせ、北陸へも、あらかじめ人を派して拵えは命じてある」
「さてはそうでござりましたか、ではあくまでも御再起の御心のもとに」
「ここは目をつむって尊氏の驕るがままにしておこう。四方の官軍がふたたび起ち上がるときを待つ。どんな怺えをしてもそれを待つ。されば、そちもここを脱して北陸へ落ちて行け。……とは申せ、儂が都返りのため、そちが逆しまに朝敵となり賊軍視されてはなるまい。ついては、朕の位をこのさい皇太子に譲っておこう。そちは恒良と親王尊良とを陣中に奉じて北国にて再起を図れ。恒良に仕えること儂のごとくにしてくれよ。いま、積年の辛苦をかけたそちたち多くの軍士にわかれて、尊氏のもとへゆくのは、たえがたい悲しみと屈辱ではあるが、それをさえ儂は忍んで行くのだ。そちもまた、忍んでくれい。……のう、義貞。得心がまいったか」
鳳輦のお出ましは、夕方にまで延ばされた。
これ以上、主上にせまッて、叡慮のお苦しみをみてもと、義貞も観念のほかはなく、ついに拝諾のお答えとなったものだった。
で、俄に。
その日じゅう、中堂の行宮は、武者、公卿、法師らなどの、せわしげなうごきに暮れた。どの顔も、逼迫した緊張と、敗戦をみずからみとめた、虚脱の色にまみれ、終日の会議、別宴もほどなく終って、どこかには、はや九日の宵月があった。
還幸の人数は、もう山を離れだしている。──供奉には、吉田内府をはじめ、公卿あらかたと、山徒の道場坊宥覚などもお供して行った。
むずかしい武家側とのはなしあいもまずついた結果なので、准后の廉子から女院、女房たちも、すべて一しょに下山することとなった。したがって列はえんえんとつづき、本間孫四郎や伊達の蔵人家貞などの兵が、先駆から列後までを見つつ順に麓へさがって行った。
その上を、黒い紅葉が、ひょうひょうと舞い降っていた。風も落葉も、すべて、音をなす物は、哀しい悲歌の譜となって、もののふの腸を、かきみださずにおかなかった。
「…………」
義貞は、遠く鳳輦がふもとへ沈み去るまでお見送りしていた。彼のうしろに立ちならんでいた軍兵の列もみな石の兵みたいだった。叡山の上は俄に寂寞な冬を来たし、風は霏々と肌を刺した。
その夜である。義貞は日吉の大宮権現にひとり参籠して、氷のような床に伏した。夜もすがらなにか一念の祈願をこめ、あわせて願文と重代の太刀鬼切とを、社壇へおさめた。
「…………」
ことばには出さないが、過ぐるころ、御影の陣所で、正成と一夜を語って別れ、そして会下山上にあの菊水旗を見、また後に、正成のさいごの様をつたえ聞いてからの義貞には、何かつねに、心に恥じるらしいものがあるようだった。
それか、あらぬか。
「……このたびは、自分も」
と、翌朝の北国落ちには、彼にもかたく誓っていたふうがある。──すなわちその軍中には、皇太子恒良、親王尊良のおふたりを奉じ、洞院ノ実世、同少将定世、三条泰季なども付きしたがい、総勢は約七千余騎。
同日。
阿曾ノ宮は、山伏姿となって吉野の奥へ奔り、妙法院ノ宮宗良は、湖を渡って、遠江方面へ落ちてゆかれた。──すべて離散の人もみな霏々たる枯葉の行方と変りがない。
さて。北行した義貞の軍は、湖北の塩津へんで、もう敵襲に見舞われていた。──足利直義の手配はじつに早かったものらしい。──で、やむなく道を迂回して、木の目峠へかかったが、折ふし山中ではまた大吹雪に出会ってしまった。焚く物がなく、泣いて弓矢を焚き、からくも兵糧を炊いだり一時の暖をとったが、なおおびただしい凍死者を出したほどな行軍難であったという。
そのうえ、途々では、のべつ敵の奇襲にあい、河野通縄、得能通言らが、数百の兵と共に全滅の厄に遭うなど、惨たる憂き目をなめながら、月の中旬、やっと越前金ヶ崎城へたどりついた。
約束によって、鳳輦をお迎えに出ていた直義の軍勢は、九日のまる一日、法勝寺ノ辻で待ちくたびれていた。午ごろ、
「還幸は夜に延ばされた」
と、急につたえられて来たからだった。
「さては、後醍醐と義貞とのあいだに、なにごとか揉めているな」
慧敏な直義である。
彼は、あらゆる変に応じうる万全な措置をとっていた。新田が自暴自棄となって、みかどを監禁し、玉砕に出ぬともかぎらぬ──ことまで予想にいれていたからだった。
が、さいわいに予想は外れ、その夜、たくさんな松明にまもられた鳳輦の列は、やがて足利方の軍兵に迎え取られるところとなった。
直義は自身、鳳輦の前に、ひざまずいて、
「左兵衛ノ督直義です。今朝来、おまち申しあげておりました。兄尊氏もいずれごあいさつにまかり出でましょうが、ひとまず、花山院の御旧居へ、直義、ご案内つかまつりまする」
と、言上した。
みかどは、辱と御我慢とを、垂れこめておられるような鳳輦の内で、そのまま、
「直義か。よしなに」
と、一ト言、仰っしゃったきりだった。直義は、そのお声がまぎれない後醍醐であることをたしかめうると、ただちに駒を返して、列の先頭に立った。──万一、鳳輦の内の君が、替え玉でもあっては──とする彼の周到な注意ぶりの一つがここにもうかがわれていた。
花山院の旧内裏は、宏大なる広さだけに、なおのこと、以来の荒れかたもはなはだしく、鬼気をすらおぼえるような冷たさと暗さであった。
ここに、後醍醐は、その夜からおかれた。ほとんど監禁といっていいかたちである。
かしずきには、廉子と四、五人の女房がゆるされただけでしかない。男といえば、老蔵人すら遠い所の下屋へへだてられ、四門はかたくとざされ、近侍の公卿もみな、旧官舎のような建物のうちへ押しこめられた。──そして、門内門外には、戦時同様な恐らしき武者どもがかために充満していて、これは昼夜、焚火をかこんで、すき勝手な雑言や笑い声をあげていた。
なか三日ほどおいて。
尊氏は、東寺の営からこれへ、お見舞にといって、参上した。
が、後醍醐は、およろこびの色でなく、初めのほどは「ちと、すぐれぬと申して帰せ」と、いわれたがまた。「いや会おうか」と、お考え直しのふうで、彼を待たれた。
侍座の公卿の、ただ一人すら見えぬわびしい上ゲ畳に、胡坐し給うて、御衣もいと古びたままなお姿だが、しかし、かつての御威厳をすこしも卑屈にはしておられず、むしろ意識的に、それを崩すまいとしているお構えがどこやらになくもなかった。
「…………」
尊氏はといえば、彼もまた、むかしと変る容子はない。勝者が敗者に臨むといったようなおもむきはすこしも出さず、台座から一だん低いところに平伏して、俄にはことばもなかった。──後醍醐もものいわず、彼もいわず、ふたりは、ふたりの感慨の中にしばらくはそれそのままな態だった。
尊氏は、やがて言った。
「まことに、久しく龍顔を拝しませんでしたが」
と、平伏のままで。
「事態、よんどころなく、君辺へも無断で、尊氏が都を立ち離れましてからわずか一年余でしかございません。……変りはてたこの皇居のさま。わけてもおん窶れのはなはだしさ。……胸いたむのみにございまする。ひとえにみな君側の讒争や臣らの悪しき輔佐のためか。とまれこれからは、み心大きく、治世済民をひたすらに、君にも御安堵あらせられますように」
「……。尊氏」
「はっ」
「まことのことを申せ。まことの腹を。そちは儂が憎うてならぬはずではないか」
「何としてでございましょう?」
「儂は足利を絶やそうとしてまいった皇軍の天子。不幸にしてやぶれたが、もし勝っていたら、尊氏の首を三条河原に見、天下の害賊ここに亡ぶと、群臣の万歳をうけていたであろう。その後醍醐へ、そちはなんで、無用なことばをかざるのか」
「あいや、うそは申しあげておりません。おそれながら、尊氏は勝者です」
「そうだ、そちは勝者。儂は囚われの敗者でしかない」
「なれど、きのうの大君は大君でいらせられる。また元々、私とて、皇室をないがしろに観た覚えはございませぬ。──わけて、たまたまの風雲に乗じ、関東の野より、俄に、中原へ兵馬を張って出た私への、かずかずなる御寵恩やら、また人をも超えた御信任を賜わったことなどは、日は経ても、何で忘れておりましょう」
「…………」
後醍醐は、そういう尊氏を、しげしげと見ているうちに、ふと、お心を怪しまれた。御自身のふしぎな心の経過をだ。
元は、後醍醐も、新田義貞以上に、むしろ尊氏を、たのもしい者とお目をかけていた一ト頃があった。それは政略でも何でもなく、真実、人間的に、尊氏がどこかお好きであったのだ。
と同様に──。尊氏が、その頃の御恩は忘れておりません、といま言ったのも真実だろう。まことの声というものだろう。後醍醐は、彼の予期に反した低姿勢にも、ふともう、お疑いはもたなかった。初めは、わざと自分を辱めるものか? と、あえてそれに抗拒の風を示されていたが、おもむろに、御態度は柔らいでいた。
「だが、尊氏」
「は」
「それなればなぜ、そちは早くも約束をやぶったのか。忠円僧正を介しての、そちの上書、誓文とは、事ごとに約が違うているではないか」
「ここの御待遇の儀でござりまするか」
「それのみでない。儂が還りさえすれば、侍側の公卿、供奉の輩も、なべて過去を問わず、みな元の本官本領に復すとそちは申し出ていたはずだった」
「そのことは、弟直義に、よっく申しふくめてありまする。じつは、日ごろから、諸政軍事にわたるまで、煩瑣のあらましは、直義にまかせきっておりますので」
「いや、儂は、尊氏の和議を容れてこれへ還ったのじゃ。直義が対象の人ではない。しかるに、囚人にひとしいこの扱い。これでも約を違えておらぬというか」
尊氏は、お怒りに逆ろうなく、あくまで低く。
「申しわけございませぬ。じつのところ、私すら眉をひそめたことでございました。さっそく、直義に申しつけ、近習もおそばに添えまいらせ、調度、火の気、供御の物、ご不自由なきようにいたさせまする」
「いや大事なのは向後の約だ。そちは軍事から政治向きまで、弟直義にゆだねて、多くは自身あずからぬようにいうたが、そちの約定によれば、天下の成敗は公家にまかせ進らさん──と、明記しておる。その儀と、矛盾はせぬか」
「もちろん、違背はいたしません。けれど、東国の草莽より起った古源氏の裔、尊氏の寸心にも、ひとつの信条がござりまする。そして直義はもとより、足利一類の族党から志に大同して来た諸国武士どもの希望もまた、ことごとく、それの具現にありますゆえ、もし中道で、尊氏が初志を曲げるなれば、この尊氏を仆しても、第二の尊氏、第三の尊氏が出て、あくまで、それを世に果さんとするでしょう」
「武家大同の、その望みとは」
「申すまでもなく、基礎を武家におき、武家によるよき代を招来せんものとしております」
「つまり幕府再建だの」
「さようです。ですが朝廷におかれては、遠き延喜の制を慕われ、一切を天皇親政のすがたに復古あるべしとて、先年、建武新政の大令をお布きあらせられました」
「…………」
「が、それはあえなく、御失政に御失政をかさね、武家は申すにおよばず、庶民もなべて、よろこばぬ御世づくりであったことは、事実において、おさとりあらせられたかと存じますが」
「いや、そうのみではない」
後醍醐は、つよくお顔にまで反撥の色をたぎらせた。
事、御理想の点になると、不屈、少しも変らない信念を、かくそうとはなさらない。勝者の尊氏を前に、たちまち、あたるべからざる雄弁とはなられた。
烈しい御持論を、前提として、仰っしゃるのだった。決して、親政が悪かったのではない。建武の大業はほんの緒についたものにすぎず、諸民一般は、目前の利害のみ追って、復古王政の実体に理解がなく、それに協力しようともしなかったためである。のみならずまた、内からは、そちのごとき武家の棟梁たる者が、武士の不平をあおッて、かくは大乱に世を追いこんだものであろうが──と、逆にまた、きめつけられた。
「……。尊氏」
「はっ」
「そちは申したな。たとえ尊氏が仆れても、第二、第三の尊氏が現われますぞと。そちもまた、ようきもに銘じておくがよい。よしや儂がここで潰えても、儂の意志をつぐ第二の後醍醐、第三の後醍醐がかならず出よう」
「あ。おそれながら」
「なんじゃ」
「お夢に過ぎませぬ。さすが御英邁ではいらせられても、大きな時の流れには」
「時勢に晦い?」
「は。あいにく時勢はその方向に流れてはおりません。仮に尊氏がやぶれ、義貞が勝ったといたしましょうか。その義貞も、時をえれば、必ず一衛府の大将ではおりません。やがては、幕府の将軍を、望むにきまッておりまする」
「…………」
「もし、義貞にかぎって、幕府を望む料簡などはなき者と見ておわすならば、おそれながら、それこそは、大きな御過誤。武家の何物なるかを、まったく、ご存知ないと申せましょう」
尊氏は言った。後醍醐の雄弁を、こんどは彼が取って代ったかたちであった。
「朝廷にとって、古来から、武家とは、まことに厄介ものにござります。これなくしては禁門の守りもならず、諸国の騒乱も抑えられません。が、これも増上慢を恣にしてくれば、かつての北条の悪時代に見るがごとき、朝廷無視の暴状となり、その果てには、元弘初期のように、寄り寄り、若公卿ばらの悲憤やら密会となって、君もまたついには、武家の膺懲を思し立たれ、笠置に籠り、隠岐ノ島に配所の月を見るなど、おん身に馴れぬ矢石の御苦難をなされるようなことにもなってまいりまする」
「…………」
「されば、世を王朝の昔に復さんとの叡慮も御無理ではございませんが、いかんせん、世は変ッて、延喜天暦のむかしの比ではありませぬ」
「なにが、むかしの比でないか」
「御覧じませ。諸国にふえた武士の数、諸民の生業のむずかしさ、従って、道徳までの変りよう。すべて近世は激変の中にゆれております。しょせん、都の朝令や、古い国司の制などで、よく治めうるものではなく、それは、明け暮れの騒乱や訴訟にみても、よくおわかりかと存じまするが」
「まて。尊氏」
「は」
「儂に政道の講義か」
「ではございませぬが。……さるがゆえに、一だんと、文治武備の制はむずかしく、わけても朝廷ご自体が、直接、武士を養い、武権を統御あるなどは、事々に、乱を生じやすく、容易でないことを、御賢察あらま欲しく存じる次第にござりまする。──さきに義貞を一例にあげましたが、義貞ならずとも、仮に時代の優勝者となって、諸国の武士からかつがれる武門最上の位置に坐せば、必然武府の権を持ち、すなわち、幕府ができてまいりましょう」
「じゃによって、おのれ尊氏に、幕府をみとめよと申すのか」
「御意です」
と、尊氏は平伏した。心をかくそうとしなかった。
「武府の権は、これを尊氏に御一任願わしゅうぞんじまする。諸国の武士をしめくくって、朝廷をあがめ、忠誠を誓わせましょう。朝廷におかせられては、旧例に則って、御文治のほかに出でず、内、御融和美しく、外、聖徳をもっぱらにし給うて、万民と共に、お楽しい弥栄な御代をかさねられますれば」
「あくまで、そちは儂に幕府をおしつける心か」
「旧北条のごとき弊に堕ちず、かならず、よき前例にしたがって、献身、朝廷にお仕えつかまつりたいものと存じまする」
「が、そちの請いを容れることは、儂の信念をすてることだ。復古と王政の実現とは、儂の生命。なんとしよう?」
「いや、御理想のあるところは、きもに銘じて、尊氏直義共に、決しておろそかにはいたしませぬ」
「なにを以てそれを?」
「公武一和の真心をもちまして」
「ム。……。公武一和か。……ム。考えておこう」
後醍醐は、お疲れ気味に、ふたたび何の仰せもなかった。
尊氏も疲れに気づいた。なにか、龍と虎とが、嘯きあッて闘ッたあとのような、はなはだしい気息の色を、後醍醐にも見、自分にも知って、
「ま。……いずれまた、よき折に、改めてまかり出ましょう」
と、ほどなく、御座のあたりを退がった。
そして、昼なのに、人声もない廻廊やうす暗い廂ノ間を通って、元の中門廊のほうへ彼が戻りかけてくると、ふと、細殿の蔭から、誰かよびとめる者があり、それは蜘蛛の巣だらけな辺りとは余りにかけはなれた美しい粧いのひとだっただけに、思わず竦みを感じたほどだった。
「これは、どなたかとおもいましたら?」
「足利どの」
と、准后の廉子は、ひざまずいた尊氏を見つつ、破れ御簾をうしろに、自分も坐った。
「訪う人もないこの幽居の御所へ、勝ちほこる側の将軍として、ようお訪ねくだされましたの。お話の模様は、蔭でうかがっておりました。あのような御諚ではあっても、御心のうちでは、其許の御真情を、おうれしく思しめされていたにちがいありませぬ」
「なにとぞ、あなたさまからも、叡慮をおなだめおき給わりますよう。心からおねがい申しておきまする」
「ご気性として、ひとたび、お誓いあそばしたことを、事の中道でお変えになるなどは、なかなか思いもよりませぬ。けれど、足利殿がいう公武一和のかたちとやらで、あなたの心からな臣節を、ここでもし、真実、おしめしあるなれば」
「もとよりそれが私のなすべき道と信じております。証拠のために、一端を申し上げておくなれば。……余の儀でもございませぬが、さきに践祚あらせられた持明院統の天子のお次には、ぜひとも、准后さまのお腹になる成良親王を推して皇太子におすえ申しあげたいものと、いまからその案などを持しております。──持明院統と、大覚寺統と、相互から出て交代に御位に即く──という、あの皇室の御法則を正しく践むべきだと思うのです。──いやそれも、後醍醐のきみ御自身が、さきには、お破りになっていた約束ですが」
「わかりました。それひとつでも、武に誇って、ただ覇権をふるうあなたでないことはよくわかります。けれどあなたは政治の裏にいて、表に立つのは、つねに左馬頭(直義)どのではございませぬか。……ここの警固すべても、みな左馬殿直々のさしずでしょうが」
「さようではございますが、私の意にそむく直義でもございませぬ」
「なれど、お上にはなんとしても、左馬頭がおきらいなのです。左馬頭と申しただけでおいろの変るほどにです。左馬殿もまた事々に、ここのお扱いには、きびしさばかり、すこしの仮借もおありでない」
「はて、さまで直義をお厭みとは、何が原因でございましょうか」
「すぐる年、鎌倉の牢獄で、大塔ノ宮を暗々と虐殺しまいらせた者は、ほかならぬ直義と、それのみは、お忘れあそばすことのできぬお恨みなのでございましょう」
抉られたような苦痛を、尊氏は顔にみせた。
こればかりは申しわけないと、彼もつねに、そのことは、ひとから触れられるのも怖れていたほどであり、たしかに、後醍醐にすれば、なかなかお恨みの消されぬ一事であるにちがいない。
そして、その大塔ノ宮弑逆の一事は、たとえ直義がやったにせよ、尊氏の大逆といわれても、いいのがれるすべもなかった。また事実、直義は、兄尊氏の大望にとって、ゆくすえ最も怖るべき強敵は、この宮なりと、一途に、あの虐殺をあえてしたもので、以後、それが足利方にはどれほど戦局を進めやすくし、逆に、宮方には大きな不利となってきたことか、はかり知れないものがあった。
で、尊氏も、今、
「……。その儀は」
とばかりで、いかにも苦しそうだった。
「直義のとがは、尊氏の罪です。いつかは、なすべきことをなして、きっと、おわびをつかまつるほかはございませぬ」
すると、廉子は、
「いいえ」
と、かえって、彼の苦憂をなだめるように。
「過ぎ去ったこと、それも足利殿へ糺したとて、どうなりましょう。私がそれを申したのは、あなたを責めるの意味ではありませぬ。……思うところは、そうした左馬頭(直義)どのゆえ、ここの御警固は、余人に申しつけられて、左馬頭どのと、お上(後醍醐)とを、おちかづけにならぬ方が、およろしいのではないかと思うのです」
「ははあ? 御所の守りは、直義ならぬ余人にやらすがよいとの御注意ですか」
「お上のみこころを和らげて、仰っしゃるような、公武一和にまろく治めてゆきたいとのお考えが実ならば」
「いや、ありがとうぞんじまする。直義の処置は、よくお胸をふくんで、いたしましょう」
「女の差し出で口には似ますけれど。わらわは疾くより内裏にあって、足利殿へは、よそながらお肩入れしていたつもりではありまする。それも力およばず、むずかしい事態となって、敵味方となり別れ、お上にも、このようなかなしいお立場とはなられましたものの」
「なにかと、以前のお誼みなど、忘れてはおりません。されば、こうなりましても、御一統をみじめにはいたしますまい。ご安心なされませ」
「尊氏どの。……なにぶんとも、たのみますぞえ」
と、廉子は、いちばん言いたい所の哀訴を、女の情にこめて言った。
もう四十路にちかいはずの准后ではあるが、蠱惑ともいえる艶な美はどこにも褪せていなかった。こんな廃宮のうちにいて、囚われの主上に侍していながらも、彼女はその身だしなみをくずしていず、むしろあたりが荒れているだけに一そう妖しいまでの皮膚の白さとこの世の人とも見えぬ粧いとを、きらめかせて見せるのだった。
尊氏は、別れて、やがて花山院の廃宮から外へ出ていた。外の大気は明るく、武者陣の甲冑には、冬陽が虹色に陽炎していた。
「なにっ?」
錦小路殿は言う。
昨今、ひとは直義のことを、そうよんでいる。
足利方で立てた光明院の朝廷は、さきごろ、押ノ小路室町の一劃を、里内裏とさだめられた。
つづいて、尊氏も、その居を、東寺から移して、三条坊門ノ御池におき、高ノ師直は一条今出川に住みついた。
──そして直義は、錦小路に邸を持つなど、すべてこの室町一帯を中心に新しいひとつの〝足利聚落〟が造成されかけていたのであった。
「師泰」
「はっ」
「後醍醐のお身まわりを、もっと、弛やかにせよとか、また給仕の公卿人をふやせの、朝夕の供御をよくせよなどとは、一体、誰が命じたか」
「もとより、一存などではございません。さきごろ、大御所お直々に、花山院の旧御所を、そっとお見舞いなされました折の、おいいつけにござりまする」
「なぜ、聞き流しておかないのだ。そちは兄者の命を重しとして、直義の命などはと、ないがしろにいたす気か」
「めッそうもない。じつはその折、わが眼の前ですぐいたせとの大御所の仰せつけに、やむをえず、公卿三名と、舎人雑色など七、八名を囲から解いて、お座所の内へ入れたような次第でして」
「もうよい。すんでしまったものはぜひもない。しかしだな、きさまも御所を見張っている警固頭なら知っていよう。いかに油断のならぬお方であるかは」
「されば、昼夜をわかたず、花山院のまわりには、武士を立たせ、篝火屋を設け、おさおさ警固はゆるめておりませぬ」
「にもかかわらず、先ごろは、囲いを破って、公卿の二、三や、菊池肥後守が脱走して逃げ、宇都宮も出家に化けて遁れ去ったとあるではないか。──それらはみな、外部の敵と、なにか結びをもっているにちがいないのだ」
「二度とは、さような手落ちのなきようにいたしまする。──なれど、たくさんな押込め人のうちには、やぶれかぶれな不敵者もあって、警固の武士どもを顎で使い、われらの叱咤も、セセラ笑って、一こう始末におえぬ輩もおりましてなあ」
「たれだ、そのような奴は」
「たとえば、山徒の張本、道場坊宥覚のごとき者でございまするが」
「宥覚か。這奴は、大塔ノ宮いらい、いつも山門の大衆をあげては後醍醐方へ走らせた張本人だ。見せしめに、斬ッてしまえ」
直義は、峻烈だった。
何事もおまえにまかせる。
将来は、まかせたい。
といった尊氏のことばを、そのままうのみにしている彼の自己過信は、近ごろ、その兄をさえ凌ぐ増上慢になりだしていた。そして兄のような温情主義を以てしていたら、敵性勢力の再燃は必至とみていたのである。
──で、まず道場坊宥覚をひきだして、阿弥陀ヶ峰のふもとで斬り、また、本間孫四郎ほか数名を、三条河原で首斬らせた。──そのほか、解官停任の公卿ばらも、かたっぱしから、獄舎同様な囲いに抛り込んで監視するなど、粛清のあらしは、一時、満都をふるえあがらせた。
尊氏は、なるべく、一切を弟にまかせようとして、彼の御池殿へさしずを仰ぎにくる諸将にも、あらかたは、
「直義に訊け。錦小路殿に従ってせい」
と言い、すこしでも、直義の権威に、箔がつくようにしむけていた。
が、時には、まかすにまかせておけぬ事態を見て、急遽、弟をよびつけていることもあった。
「兄上、何か御用でしょうか。不在中に、錦小路へお使いがあったそうですが」
「オ、直義か。近頃のそちのやりかたは、どうも、行きすぎではあるまいかな」
「阿弥陀ヶ峰、また、三条河原などで、後醍醐のお附人らを、処刑いたしたことを仰っしゃるので?」
「それのみでなく、御幽居には矢来をめぐらし、諸事のお扱いも、一倍きびしいままと今日も聞いた。……あれほど、師泰へも先日、お弛やかにいたせと申しおいたのに」
「それは、師泰からもききましたが、以てのほかな御方針かとぞんじまする。なにも御存知ないゆえ、さようなお情けをもたれるのではありましょうが」
「何も知らぬとは?」
「後醍醐のお企てがいかに深いものかということをです」
「知らぬことはない」
「いや、御存知ないといえましょう。──さきに北陸へ落ちた義貞の軍へ、とくに皇太子恒良を付けてやられたなどの秘事は、お耳に入っておりましょうが、伊勢、吉野方面などの、けわしいうごきは、直義もつい昨夜知ったばかりですから」
「……?」
「北畠親房は、吉野で何かを策しており、四条隆資は、しきりと、和泉河内の残兵をかりあつめ、また親房の一子顕信も、伊勢で戦備をすすめているということです。そのほか、諸国にわたって、皇子なるものが、再起をはかっておりますのに、どうして、それらのうごきと後醍醐とが、無関係でありえましょうや」
「それはあろう。だがの直義。末梢にかまっていては、政治はできぬ。要は、根本の君とおはなし合いをすすめるにある。そちのような覇力一方をもって臨んでは、せっかくな和議も無意義。また、尊氏が徐々にすすめようといたしておる君とのおはなしあいにも邪げとなる」
「おはなしあい? それは、どんなことを」
「さきに践祚はあらせられたが、新帝の光明院へは、まだ、神器のお譲りはおこなわれていない。何せ、神器の授受を見ねば、正しい天皇の御位が継承されたとは申し難い」
「それは、後醍醐のお手もとにあるのでしょうが」
「そうだ。さればこそ、内々、尊氏から切に、神器のお譲り渡しをおねがい申し出てあるのだ。さる折に、そちが事をこわしては困るではないか。……さっそくに、御待遇を、弛やかにあらためろ。……なお、それでもきかぬならぜひもない。そちを解任して、花山院の御警固は、他の者に申しつけよう。……いや、そういたしたくないのでいうのだ。直義、そちもはや三十男、わからぬことはあるまいがの」
そのご、み心も和まれてきたものか、神器は、とまれ円滑に、後醍醐から、持明院統の新帝光明院へ、お譲り渡しになることときまった。
それの正式な授受は、十一月二日におこなわれた。
すなわち、剣璽(剣と鏡と天子の印)は、一条ノ右中将実益、揚梅ノ右少将資持らがささげて、御使にたち、沿道には、折ふし入京していた近江の佐々木道誉の兵が、例の、派手やかな軍装で立ちならんだ。
ようやく──
焼けあとにも、庶民の小屋が目立ち、市も町屋も、戦前に返りかけていた。久しぶり平和な景色を人々は見たと思った。
かくて、押小路室町内裏での、儀式がすむと、同日、後醍醐へは、
太上天皇
の尊号が奉られ、以後、先帝ということになった。
そしてここに、
光明天皇
は、あきらかな皇位をつがれたわけだが、それについて、もちろん後日の話だが、奇怪な説がのこっている。
渡された神器は、偽器であったというのである。「太平記」だけでなく、北畠親房の「神皇正統記」もそういっているし、洞院ノ公賢の「園太暦」も偽器としているのだから、これを何とも疑いようがない。
だがもし、これがほんとに偽器であったとしたら、直義が、あくまで、後醍醐を謀略の人としていたことは無理でなく、かえって尊氏は、余りにも後醍醐へ人間的な親近感をよせすぎていたことになる。
しかし、このさいにおける尊氏は、偽器か本物か、そんな点には、いっこう頓着していなかったようである。
ただしく、先帝から新天子へ、儀式をもって、譲位のしるしを、授受あらせられたからには、物が何であろうと、それは問うにおよばない。
譲位は、事実で示されたのだ。──それでよい、としていたものと思われる。
しかも尊氏は、その直後に、後醍醐の一皇子、成良親王をあげて、
〝光明天皇の皇太子〟
と、なした。
おそらく、これを以て、彼は、後醍醐への忠誠をあかしだてようとしたのであろう。そして後醍醐もまた、たいへん、およろこびであったと「園太暦」は記している。
事実、その通りであったろう。──旧来の慣例を破ったのは、ほかならぬ後醍醐自身であったのだから、破棄されても仕方がないところを、尊氏のほうからすすんで、両統交代の制をみとめ、将来の帝位継承は、ひとり持明院統の君だけでなく、大覚寺統──すなわち、後醍醐の子孫も──帝位につく資格があるものと、はっきり、示したわけなのだから、これが、およろこびでないはずはない。
その立太子の式は、十一月十四日に挙げられた。──自然、花山院の御幽居もまた、一ト頃のきびしさを解かれ、ひいては、後醍醐と尊氏との仲も、次第に円満を加えてゆくかと思われた。──だが、天下の風浪はまだ高い。なかなか外界の世上は、そんな一小康もしていない雲行きだった。
十二月だった。
まだ門松や竹こそ見えないが、町にも何となく年暮げしきが色めいて、
「やれやれ、何とか、正月もできそうか」
と、焦土に働く庶民たちにも、かすかな〝生きの験〟がよみがえりかけていた。
家を焼かれ、無けなしの財を失い、やっと疎開の山野から戻ってきた彼らには、これをたれに訴えるところもなく。「もう戦は、ふるふるだ」「内裏様がどちらであろうと、わしらには何のかかわりもない」「ひどい貢税や戦のない世でさえあるならば……」「それがわしらの氏神だよ。わしらによい氏神なら、どちらであろうと、ついて行くよ」と、まずはそんな声のみだった。それも庶民の旺盛な生態のつねとして、きのうの災厄などにはクヨクヨせず、もう懸命に働き働き、冗談まじりにさえ言ってることだが、じつは彼らの悲泣も悲願もそれにはこもっていたのだった。
こんなさいに、尊氏が公布した政令十七条の
建武式目
は、時をえていた。
つまり憲法である。
〝足利幕府憲法〟であって、これの公布と共に、
幕府ヲ京都ニ置ク
という根本も、あわせて声明したものだった。
おそらく、この十七条の制定には、尊氏も心をくだいたことだろう。僧の是円や幾多の智識をあつめて、評議連日におよび、彼は、それらの憲法の起草委員たちへ、註文をつけて、
「法は、なるべく、単純がいい。そして法の要は、人の嘆きがなくなることだ。天下よく治まり、怨敵も不安をなくし、みな嘆きのない人の世となることを、立法の骨子、政治の主眼として、起草してくれい」
と、とくに言ったという。
彼は、頼朝を慕ったが、頼朝の厳罰主義はとらず、これまでの怨敵も、なるべく助けよという主旨を取った。
一例でいえば。
元弘いらい、敗者の側になって、土地を没収された俄か浪人は、たいへんな数である。野望の謀反や悪行のすえ亡んだ主家はぜひもないが、その下に使われていた被官や家来の小領地は、どしどし、元の所有者へ返してやれと、尊氏はいう。
また、式目の中には、〝点定〟という一条がある。
これは、庶民がやっと建てた家を、官吏どもが、税金の未納や、ささいな違法をたてに、すぐ〝検封〟という処分に出たり、ぶち壊して追い立てるなどの苛烈な官権をいうものだったが、尊氏はこれも、貧民いじめの悪政として、かたく禁じた。
無尽(金融)を興せ。土倉(質屋)を早く再開させろ。そして訴訟はすべて、貧しい庶民の訴えから先に取上げてやれ。──などという制も、こんどの政令の特徴であった。
年暮の町では、これらの好影響もあり、また余りに抑圧された人間欲の反動からも、これまでにない活気と賑わいを見せていた。
すると、ちょうど師走二十日の夕方だった。──どこからか来た一駄の酒商人の者と、花山院の警固小屋の番士らとが、そこの門前で、何やら物議をかもしていた。
「へい。ですが、てまえは」
と、酒商人は、ひたすら頭ばかりさげていう。
「こちらがどんな御事情か、何も存じて来たわけではございません。ただ届けろと申されたまま、お届けに上がったまでで」
一斗入りの酒瓶五個、荷駄につんで、花山院のお台所まで届けておけと、かねも先払いで貰っているというのである。
警固の武士どもは、しきりに鼻をヒコつかせながら、その馬の背を巡ッてみたり、また酒商人の風態を下から見あげて。
「きさまは、どこの者と言ったッけな。どこから来たんだ」
「それは、さきほども」
「ええい。訊いたら答えろ。よけいなこと申さずと」
「石川からまいりましたンで」
「河内のか」
「へい」
「散所民の多い所だな」
「てまえは、散所民ではございません」
「たれが散所民といったかよ。あのへんでは、寺でも大量に酒を造るそうだな。天野山金剛寺など」
「てまえどもでも、その天野酒を頒けていただき、いってみれば、まあ、その下請けの販ぎ屋でございますが」
「では、これは天野酒か」
「へえ」
「ふウム」
と、ついまた、鼻を鳴らしあって、べつな一人がさらに質した。
「して、これを、花山院の御幽居へ届けろと、頼んだ客というのは、何者なのだ」
「それがつい、お名も伺っておりません。後からすぐ追いついて行くというお約束なんでして。……へい。そのお人の見えるまで、ひとつ……お邪魔でない裏御門のすみッこへでも、酒瓶をおろして、待たせておいては下さいませぬか」
「まだ粘ッてやがる。わからん奴だな。おいッ、こらっ」
「へい」
「ここはな、とりこになった先の天皇さんが、おしこめられている御所なんだ。ならん、ならん、持って返れ」
「どうも、それはよわりましたなあ。じつは御所へおいてゆくのは三瓶で、あとは市の小酒屋へ卸して帰るつもりでしたが、御警固さんたち、ひとつ、いかがなもんでしょうなあ。一ト瓶ぐらいは、お愛想に、そちらへお廻しいたしますが」
「…………」
みな黙った。目と目だけで何か言っている。つまりは、酒商人のキリ札が、急に効きめをもったものらしい。
神器の御譲渡、立太子の挙式、つづいて建武式目の公布などがあってからこっちは、ここの警戒や扱いも、自然ずっと、緩和されていたときでもある。
その晩、また。御所を訪ねてきた侍があった。
──自分はもと刑部省の一吏員で、大輔ノ景繁という者であるが、御所にかしずいている女房からの手紙によると、正月も近いというのに、余りにおわびしそうな先帝の御起居ぶりである。──で、酒などたずさえ、ご起居のお見舞に、所領地から出てきた次第。なにとぞ、そっと、御所内に入ることをゆるして欲しいと、番屋中一同の者へ、ぬかりなく賄賂をしての頼みであった。
刑部ノ景繁とは、何者かの変名だろうし、さきに御所内へ入りこんだ酒商人も、一味の徒であったに相違ない。──それを警固武士はしごくのんきに見すごしていた。天野酒の大瓶を番屋に持ちこんで、翌晩などは、みな酔いつぶれていたらしい。
このあいだに、御所内では、ひそひそ、
「首尾こそよし」
と、していたであろう。
ひるには、女官の新勾当ノ内侍が、母の危篤とかで、おはしたの女や小女房ら数名と共に、輿に乗って、外出していた。だがこれは、警固所へも届け出のあったことであり、武士たちも知っていたのである。
──が、当夜。
宵すぎてからの妖しい一群の脱出者には、全然、気づいていなかった。
そのうちの主たるお人は、女房衣をあたまから被いていたので、たれかは、夜目にもちょっと分らなかったが、しかしすぐあとに起った騒動によって、それが、後醍醐の君であったのは疑いもない。
じつに思いきった行動に出られたもので、薄氷を踏み、つるぎの刃を渡るにひとしい、冒険だった。
もしこれが、失敗したら、どうなったかは、想像に余りがある。──それゆえに、外部とのしめしあわせも、充分、抜かりのない用意のもとにおこなわれたことではあろう。──思うに、ひるま、新勾当ノ内侍と称して外出した女性たちのうちには、准后の阿野廉子もまじっていて、すでに彼女はさきにここを落ちていたものであったろうと想像される。
そして、女装された後醍醐のきみには、細川ノ権大納言光継と二、三人の蔵人がつき添い、また、酒商人に化けていた男と、怪武士の景繁とが、お手引きの案内にたって、御所の裏門附近の築土を、彼らの背なか梯子で、お越えになったものらしい。
すでに、この夜。築土の外には、数名の人影が、そまつな板輿、はだか馬などを寄せて、待っていた。
もちろん、これらの武士は、はやくから吉野や伊勢方面に蠢動していた宮方残党からの派遣者にちがいなく、
「しめた!」
と、そこの暗がりに、妖しい気勢を戦がせていたのもつかのま、たちまち、龍を乗せた一朶の黒雲のように、この一団の怪影は、まだ宵の人通りもあった時刻だけに、かえって、洛内の人目を紛れ、すべて、行方をくらましてしまったのだった。
「や、や。なんだろう」
「お沓の片方だ?」
定例の見廻りが、築土の下に、異状を見いだしたのは、すでに明けがた近かった。
それも、番屋衆では下級の者たちだったので、すぐ、お座所を点検してみるなどのこともせず、やがて遅い番所頭が出て来た頃に訴えたので、時は、充分に過ぎ去っていた。
「た、たいへんだぞ、これは」
「先帝がお見えなさらん」
「侍者もいない」
「しまッた!」
洛内じゅうは、当然、かなえの沸くような大騒動になった。
この突発事で、とくに緊迫した混雑を呈したのは、三条錦小路の辺で、当然、それは直義のいる一殿から庭上にまでおよんでいた。
彼が、自邸で、
先帝の逃亡──
と、事の変を知らされたときは、すでに陽も高く、責任者の警固がしらや篝屋番の武士などは、もう首のない人間みたいに、階下の地上にヘタ這っていた。また、変を聞いて集まってきた諸将もみなただ狼狽の色でしかなかった。
「木幡、奈良街道。……宇治川すじ、淀川一帯。さっそくに、手配は抜かッておるまいな」
「仰せまでもなく」
と、階下にある一群の武士の中から、ひとりが答え。
「およそ、街道という街道へは、騎馬の追手を派し、また細道へも、兵を放って、くまなく、捜してはおりますが」
「まだなんの手がかりも聞かれんのか」
「……。はっ」
「ふとしたら、義貞のいる金ヶ崎城へ落ちたか、なども考えられる。若狭街道や、龍華越えへも、追手をやったか」
「いや、そこまでは、よもやと存じまして」
「それが抜かりと申すものだ。北国ばかりでなく、伊賀甲賀の奥まで捜せ。伊勢へ落ちたと見られんこともない」
直義は、あきらかに、焦躁をつつんでいた。また一面には、兄の尊氏へたいする忿懣を抑えきれずにいた。いうなれば、その忌々しさは、こうなのだった。
ごらんなさい!
このとおりだ。結果は。
これはみな、あなたの微温的な手心、つまり温情主義が、あだに返って来たものでなくて何でしょう。
それをあなたは、政治だと言います。そして、軍によらず、力を用いず、努めて物事を話しあいの上で運ぼうとする御主旨のために、直義も服すしかなく、後醍醐の身辺も、いらい、仰せのままにして来たものだ。
どうです! いまはお目がさめたでしょうが!
直義はまだ、けさから兄に会っていないのだが、その尊氏の御池殿の方へも、もちろん、高ノ師直らが駈けつけて、事は、さっそく報告されているにちがいない。そして、そも、兄がどんな顔してこの勃発事を聞き、また、仰天したことかと、見てもやりたいほどに思った。
けれどこんな言い方は、兄弟同士の、いわば感情の内訌に過ぎないもので、それを表面に出すほど彼もおろかな弟ではなかった。むしろ、表面では、
「帰するところ、直義の責任だ、わしの不覚だ。力をあわせて、詮議につくせ」
と、あらゆる機関をして、八方へ追捕を派し、その情報を待つしかなかった。
午後。──彼は自身で花山院の旧御所を検分に出かけ、そのもぬけの殻の状態を親しく見てから、帰りの駒を、兄の御池殿の方へ向けていた。
後醍醐のお行方は、この夕にいたるもまだ、杳として何も聞えていず、直義は、無性に腹がムカムカしていた。これが、兄の顔を見たとたんに、つい爆発してしまいはせぬか、われながら途々、恐い気もちだった。
尊氏の〝諸事、直義まかせ〟の方針はみな知っていたが、衆目はやはりここを、大御所とみて、事があれば、一族の重臣格は、招かずとも、すぐこれへつめかける。──そして御池殿の広間に寄合う。──とくに今日は沼のようなおもくるしい一日だった。
あの師直が、
「世情はまだ渾沌だわえ。夜明けるたびに、何が勃発しているか、油断もならん。イヤ、どえらい事になったものよ!」
と、猪首を振って言った諧謔調にさえ、たれひとり苦笑も示す者はなかった。
そこへ。
「錦小路殿のお見え」
と、聞えてきたのである。人々は、必然な期待と色めきを持って彼を迎えた。
しかし、これへ臨んだ直義の眼も、ギラついていた。なす事もなく、ただこれにいる一同へすら、腹をたてているやに見える。──後醍醐の逃亡先は、いぜん分らん。かいもく知れん。──と、告げたのみで、
「ここに大御所はお見えでないが、兄上はまた、奥で、地蔵のお絵でも描いておられるのか」
と、かんで吐き出すように、言ったりした。
が、その尊氏は、彼を待っていたのであろう。直義が見えたと聞くと、やがて姿をみせた。そして、おもむろに、一同へむかって言った。
「すべてわしの目違いだった。何ら直義の手落ちではない。しかも、このたびのことは、後醍醐のきみの、御意のままに出たことで、以後の責任はわれらにはない。一に自然の運であり御落去であり、憂いは憂いだが、また、吉事ともいえるだろう」
まったく、いつもと変らない容子である。人々は、ことに直義は、兄は少しどうかしているのではないかと、ふと、あやしんだほどである。
が、尊氏は淡々と。
「思うてもみい。もし花山院の御警固があのままだったら、その負担は容易でなく、かつは、それには期限がない。また後醍醐のきみとて、生身でおわすからには、不予のお病気や万一などもないとは限らん。そのたびには、尊氏を憎む者から、この尊氏はあらゆるむじつの疑いと悪逆の名をかぶせられよう。さればとて、北条氏がやったように、遠国へお遷しするようなまねは、断じてできぬ。結局、いかがしたものかと、じつは内々、悩んでいたところへ、思わざる今日の出来事だった。きみ、おんみずから、このんで、御落去あったこと。まずは天道のはからいと申すべきか。いずれにせよ、畿内あたりに御座あろうが、あとは自然と叡慮のままにおまかせ申しておけばよい。……さればさして、驚き騒ぐにはおよばん。むしろ不幸中の幸いと思うがいい」
これは、ひとつの解釈だった。しかし、たれにも思いいたらぬ解釈である。そして、掌中の大敵を逃がしたなどと悔やむ色も狼狽もまったくない。
こういう度量こそ、大器のお人の腹であったかと、人々は、感にたえて尊氏をまた見直したということである。が、尊氏は何事もなかったように、
「直義。ほかに、よい話もあるぞ。あとで奥へ来いよ」
と、先に座を立っていた。
底本:「私本太平記(七)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1990(平成2)年4月11日第1刷発行
2009(平成21)年12月1日第25刷発行
「私本太平記(八)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1990(平成2)年5月11日第1刷発行
2009(平成21)年12月1日第27刷発行
※副題は底本では、「湊川帖」となっています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:トレンドイースト
2012年11月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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