三国志
望蜀の巻
吉川英治
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「この大機会を逸してどうしましょうぞ」
という魯粛の諫めに励まされて、周瑜もにわかにふるい起ち、
「まず、甘寧を呼べ」と令し、営中の参謀部は、俄然、活気を呈した。
「甘寧にござりますが」
「おお、来たか」
「いよいよ敵へお蒐りになりますか」
「然り。──汝に命ずる」
周瑜は厳かに、軍令をさずけた。
「かねての計画に従って、まず、味方の内へまぎれこんでいる蔡仲、蔡和のふたりを囮とし、これを逆用して、敵の大勢をくつがえすこと。……その辺はぬかりなく心得ておろうな」
「心得ておりまする」
「汝はまず、その一名の蔡仲を案内者として、曹操に降参すと称え、船を敵の北岸へ寄せて、烏林へ上陸れ。そして蔡仲の旗をかざし、曹操が兵糧を貯えおく粮倉へ迫って、縦横無尽に火をつけろ。火の手の旺なるを見たら、同時に敵営へ迫って、側面から彼の陣地を攪乱せよ」
「承知しました。して残る一名の蔡和はいかがいたしますか」
「蔡和は、べつに使いみちがあるから残して行くがよい」
甘寧が退がって行くと、周瑜はつづいて、太史慈を呼び、
「貴下は、三千余騎をひっさげて、黄州の堺に進出し、合淝にある曹軍の勢に一撃を加え、まっしぐらに敵の本陣へかかり、火を放って焼き討ちせよ。──そして紅の旗を見るときは、わが主呉侯の旗下勢と知れかし」
第三番目に、呂蒙を呼んだ。
呂蒙に向っては、
「兵三千をひいて、烏林へ渡り、甘寧と一手になって、力戦を扶けろ」
と命じ、第四の凌統へは、
「夷陵の境にあって、烏林に火のかかるのを見たら、すぐ喚きかかれ」
と、それへも兵三千をあずけ、さらに、董襲へは、漢陽から漢川方面に行動させ、また潘璋へも同様三千人を与えて、漢川方面への突撃を命じた。
こうして、先鋒六隊は、白旗を目じるしとして、早くも打ち立った。──水軍の船手も、それぞれ活溌なうごきを見せていたが、かねてこの一挙に反間の計をほどこさんものと手に唾して待っていた黄蓋は、早速、曹操の方へ、人を派して、
「いよいよ時節到来。今夜の二更に、呉の兵糧軍需品を能うかぎり奪り出して、兵船に満載し、いつぞやお約束のごとく、貴軍へ降参に参ります。依って、船檣に青龍の牙旗をひるがえした船を見給わば、これ呉を脱走して、お味方の内へすべり込む降参船なりと知りたまえ」
と、云い送った。
ひそやかに、誠しやかに、こう曹操の方へは、諸事、しめし合わせを運びながら、黄蓋は着々とその夜の準備をすすめていた。まず、二十艘の火船を先頭にたて、そのあとに、四隻の兵船を繋けた。つづいて、第一船隊には、領兵軍官韓当がひかえ、第二船隊には同じく周泰、第三の備えに蒋欽、第四には陳武と──約三百余艘の大小船が、舳をならべて、夜を待ちかまえた。
すでに宵闇は迫り、江上の風波はしきりと暴れていた。今暁からの東南風は、昼をとおして、なおもさかんに吹いている。
何となく生温かい。そして気だるいほど、陽気はずれな晩だった。
そのためか、江上一帯には、水蒸気が立ちこめていた。幸先よしと、黄蓋は、纜を解いて、一斉に発動を命令した。
三百余艘の艨艟は、淙々と、白波を切って、北岸へすすんで行った。──そのあとについて、周瑜、程普の乗りこんだ旗艦の大躯も、颯々、満帆をはためかせながら動いてゆく。
後陣として続いてゆく一船列は、右備え丁奉、左備え徐盛の隊らしかった。
魯粛と龐統は、この夜、あとに残って、留守の本陣を守っていた。
その夕。
呉主孫権の本軍は、旗下の勢とともに、すでに黄州の境をこえて、前進していた。
兵符をうけて、その発向を知った周瑜は、すぐ一軍を派して、南屏山のいただきに大旗をさしあげ、まず先手の大将陸遜を迎え、続いて孫権の許へも、
「いまはただ夜を待つばかりにて候う」と、報じた。
かくて、刻々と、暮色は濃くなり、長江の波音もただならず、暖風しきりに北へ吹いて、飛雲団々、天地は不気味な形相を呈していた。
× × ×
ここに夏口の玄徳は、以来、孔明の帰るのを、一日千秋の思いで待ちわびていたところ、きのうから季節はずれな東南風が吹き出したので、かねて孔明が云いのこして行ったことばを思い出し、にわかに、趙雲子龍をやって、
「孔明を迎えて来い」
と、ゆうべその船を立たせ、今朝も望楼にあがって、今か今かと江を眺めていた。
すると、一艘の小舟が、鱖魚のごとくさかのぼって来た。
近づいて見ると、孔明にはあらで、江夏の劉琦である。
楼上に迎えて、
「何の触れもなく、どうして急に参られたか」と、問うと、劉琦は、
「昨夜来、物見の者どもが、下流から続々帰って来て告げることには、呉の兵船、陸兵など、東南の風が吹くとともに、物々しく色めき立ち、この風のやまぬうちに、必ず一会戦あらんということでござります。皇叔のお手もとにはまだ何らの情報も集まってまいりませんか」
「いや、夜来頻々、急を告げる報はきているが、いかんせん、呉へ参っている軍師諸葛亮の帰らぬうちは……」と、語り合っている折へ、番将の一人が、馳け上がってきて、
「ただ今、樊口のほうから、一艘の小舟が、帆を張ってこれへ参る様子。舳にひるがえるは、趙子龍の小旗らしく見えまする」と、大声で告げた。
「さては、帰りつるか」
と、玄徳は劉琦と共に、急いで楼を降り、埠桟にたたずんで待ちかまえていた。
果たして、孔明を乗せた趙雲の舟であった。
玄徳のよろこび方はいうまでもない。互いに無事を祝し、袂をつらねて、夏口城の一閣に登った。
そして、呉魏両軍の模様を質すと、孔明は、
「事すでに急です。一別以来のおはなしも、いまはつまびらかに申しあげているいとまもありません。君には、味方の者の用意万端、抜かりなく調えておいでになられますか」
「もとより、出動とあらば、いつでも打ち立てるように、水陸の諸軍勢を揃えて、軍師の帰りを待つこと久しいのじゃ」
「然らば、直ちに、部署をさだめ、要地へ向け、指令を下さねばなりません。君にご異議がなければ、孔明はそれから先に済ましたいと思います」
「指揮すべて、軍師の権と謀を以て、即刻にするがいい」
「僭越、おゆるし下さい」と、孔明は、壇に起って、まず趙雲を呼び、
「御身は、手勢二千をひきつれ、江を渡って、烏林の小路に深くかくれ、こよい四更の頃、曹操が逃げ走ってきたなら、前駆の人数はやりすごし、その半ばを中断して、存分に討ち取れ。──さは云え、残らず討ちとめんとしてはならん。また、逃げるは追うな。頃あいを計って、火を放ち、あくまで敵の中核に粉砕を下せ」
と、命じた。
趙雲は、畏まって、退がりかけたが、また踵をかえして、こう質問した。
「烏林には、二すじの道があります。一条は南郡に通じ、一条は荊州へ岐れている。曹操は、そのいずれへ走るでしょうか」
「かならず、荊州へ向い、転じて許都へ帰ろうとするだろう。そのつもりでおれば間違いはない」
孔明はまるで掌の上をさすように云った。そして、次には張飛を呼んだ。
張飛に向っては、
「ご辺は、三千騎をひきつれ、江を渡って、夷陵の道を切りふさがれよ」と、孔明は命じた。
そして、なお、
「そこの葫蘆谷に、兵を伏せて相待たば、曹操はかならず南夷陵の道を避けて、北夷陵をさして逃げくるであろう。明日、雨晴れて後、曹操の敗軍、この辺りにて、腰兵糧を炊ぎ用いん。その炊煙をのぞんで一度に喚きかかり給え」と、つぶさに教えた。
張飛は、孔明のあまりな予言を怪しみながらも、
「畏まった」と、心得て、直ちにその方面へ馳せ向う。
次に、糜竺、糜芳、劉封の三名を呼び、
「ご辺三人は、船をあつめて、江岸をめぐって、魏軍営、潰乱に陥ちたと見たら、軍需兵糧の品々を、悉皆、船に移して奪いきたれ。また諸所の道にかかる落人どもの馬具、物具なども余すなく鹵獲せよ」と、いいつける。
また、劉琦に向っては、
「武昌は、緊要の地、君かならず守りを離れたもうなかれ。ただ江辺を固め、逃げくる敵あらば、捕虜として味方に加えられい」
最後に、玄徳を誘って、
「いで、君と臣とは、樊口の高地へのぼって、こよい周瑜が指揮なすところの大江上戦を見物申さん。──はや、お支度遊ばされよ」と促すと、
「かくまでに、戦機は迫っていたか。儂もこうしてはおられまい」
と、玄徳も取急いで、甲冑をまとい、孔明と共に、樊口の望台へ移ろうとした。
すると、それまで、なお何事も命ぜられずに、悄然と、一方に佇立したひとりの大将がある。
「あいや、軍師」と、初めて、この時、ことばを発した。
見れば、そこにただ一人取残されていたのは、関羽であった。
知ってか、知らずか、孔明は、
「おう、羽将軍、何事か」と、振返って、しかも平然たる顔であった。
関羽は、やや不満のいろを、眉宇にあらわして、
「先程から、いまに重命もあらんかと、これに控えていたが、なおそれがしに対して、一片のご示命もなきは、いかなるわけでござるか。不肖、家兄に従うて、数十度の軍に会し、いまだ先駈けを欠いたためしもないのに、この大戦に限って、関羽ひとりをお用いなきは、何か、おふくみのあることか」と、眦に涙をたたえて詰め寄った。
孔明は、冷やかに、
「さなり。御身を用いたいにも、何分ひとつの障りがある。それが案じらるるまま、わざと御身には留守をたのんだ」
「何。障りあると。──明らかに理由を仰せられい。関羽の節義に曇りがあるといわるるか」
「否。ご辺の忠魂は、いささか疑う者はない。けれど、思い出し給え。その以前、御身は曹操に篤う遇せられて、都を去る折、彼の情誼にほだされて、他日かならずこの重恩に報ぜんと、誓ったことがおありであろうが──今、曹操は烏林に敗れ、その退路を華容道にとって、かならず奔亡して来るであろう。ゆえに、ご辺をもって、道に待たしめ、曹操の首を挙げることは、まことに嚢の物を取るようなものだが、ただ孔明の危ぶむところは、今いうた一点にある。ご辺の性情として、かならず、旧恩に動かされ、彼の窮地に同情して、放し免すにちがいない」
「何の! それは軍師の余りな思い過ぎである。以前の恩は恩として、すでに曹操には報じてある。かつて彼の陣を借り、顔良、文醜などを斬り白馬の重囲を蹴ちらして彼の頽勢を盛り返したなど──その報恩としてやったものでござる。なんで、今日ふたたび彼を見のがすべきや、ぜひ、関羽をお向け下さい。万一、私心に動かされたりなどしたらいさぎよく軍法に服しましょう」
関羽の切なることばを傍らで聞いていた玄徳は、彼の立場を気の毒に思ったか、孔明に向って、
「いや、軍師の案じられるのも理由なきことではないが、この大戦に当って、関羽ともある者が、留守を命じられていたと聞えては、世上へも部内へも面目が立つまい。どうか、一手の軍勢をさずけ、関羽にも一戦場を与えられたい」と、取りなした。
孔明は、是非ない顔して、
「然らば、万一にも、軍命を怠ることあらば、いかなる罪にも伏すべしという誓紙を差出されい」と、いった。
関羽は、即座に、誓文を認めて軍師の手許へさし出したが、なお心外にたえない面持を眉に残して、
「仰せのまま、それがしはかく認めましたが、もし軍師のおことばと違い、曹操が華容道へ逃げてこなかったら、その場合、軍師ご自身は、何と召されるか」と、言質を求めた。
孔明は、微笑して、
「曹操がもし華容道へ落ちずに、べつな道へ遁れたときは、自分も必ず罪をこうむるであろう」
と、約した。
そして、なお、
「足下は、華容山の裡にひそみ、峠のほうには、火をつけ、柴を焼かせ、わざと煙をあげて、曹操の退路に伏せておられよ。曹操が死命を制し得んこと必定であろう」と、命じた。
「おことばですが」と、関羽は、その言をさえぎって、
「峠に火煙をあげなば、せっかく、落ちのびて来た曹操も、道に敵あることを覚り、ほかへ方角を変えて逃げ失せはいたすまいか」
「否々」
孔明は、わらって、
「兵法に、表裏と虚実あり、曹操は元来、虚実の論にくわしき者。彼、行くての山道に煙のあがるを見なば、これ、敵が人あるごとき態を見せかくるの偽計なりと観破し、あえて、冒し来るに相違ない。敵を謀るにはよろしく敵の智能の度を測るをもって先とす──とはこのこと。あやしむなかれ。羽将軍、疾くゆき給え」
「なるほど」
関羽は、嘆服して、退くと、養子の関平、腹心の周倉などを伴って、手勢五百余騎をひきい、まっしぐらに華容道へ馳せ向った。
そのあとで玄徳は、かえって、孔明よりも、心配顔していた。
「いったい、関羽という人間は、情けに篤く義に富むこと、人一倍な性質であるからは、ああはいって差向けたものの、その期に臨んで、曹操を助けるような処置に出ないとは限らない。……ああ、やはり軍師のお考え通り、留守を命じておいたほうが無事だったかもしれない」
孔明は、その言を否定して、
「あながち、それが良策ともいえません。むしろ関羽を差向けたほうが、自然にかなっておりましょう」と、いった。
玄徳が、不審顔をすると、理を説いて、こうつけ加えた。
「なぜならば──です。私が天文を観じ人命を相するに、この度の大戦に、曹操の隆運とその軍力の滅散するは必定でありますが、なおまだ、曹操個人の命数はここで絶息するとは思われません。彼にはなお天寿がある。──ゆえに、関羽の心根に、むかし受けた曹操の恩に対して、今もまだ報じたい情があるなら、その人情を尽くさせてやるもよいではありませんか」
「先生。……いや軍師。あなたはそこまで洞察して、関羽をつかわしたのですか」
「およそ、それくらいなことが分らなければ、兵を用いて、その要所に適材を配することはできません」
云い終ると、孔明は、やがて下流のほうに、火焔が天を焦がすのも間近であろうと、玄徳を促して、樊口の山頂へ登って行った。
東南風は吹く。東南風は吹く。
生温い異様な風だ。
きのうからの現象である。──さてこの前後、曹操の起居は如何に。魏の陣営は、どう動いていたろうか。
「これは不吉な天変だ。味方にとって歓ぶべきことではない」
こういっていたのは、程昱であった。曹操に向ってである。
「丞相よろしく賢察し給え」と、あえて智を誇らなかった。
すると曹操はいった。
「何でこの風が味方に不吉なものか。思え。時はいま冬至である。万物枯れて陰極まり、一陽生じて来復の時ではないか。この時、東南の風競う。何の怪しむことがあろうぞ」
こんな所へ、江南の方から一舟が翔けて来た。波も風もすべて、南からこの北岸へと猛烈に吹きつけているので、その小舟の寄って来ることも飛ぶが如くであった。
「黄蓋の使いです」と、小舟は一封の密書をとどけて去った。
「なに、黄蓋から?」
待ちかねていたらしい。曹操は手ずから封を切った。読み下すひとみも何か忙しない。
書中の文にいう。
かねての一儀、周瑜が軍令きびしきため、軽率にうごき難く、ひたすら好機を相待つうち、時節到来、先頃より鄱陽湖に貯蔵の粮米そのほかおびただしき軍需の物を、江岸の前線に廻送のことあり、すなわち某を以てその奉行となす。天なる哉、この冥護、絶好の機逸すべからず。万計すでに備われり。かねがねご諜報いたしおきたる通り、今夜二更の頃、それがし、江南の武将の首をとり、あわせて、数々の軍需の品、粮米を満載して、貴陣へ投降すべし。降参船にはことごとく檣頭に青龍の牙旗を立つ。ねがわくは丞相の配下をして、誤認なからしめ給わんことを。
建安十三年冬十一月二十一日
「いかがいたしたかと案じていたが、さすが老巧な黄蓋である。よい機会をつかんだ。折ふしこの風向き、呉陣を脱して来るのも易かろう。各〻、抜かりあるな」
と、曹操は大いに歓んで、各部の大将に旨を伝え、自身もまた多くの旗下と共に水寨へ臨んで、その中にある旗艦に坐乗していた。
この日、落日は鉛色の雲にさえぎられ、暮るるに及んで、風はいよいよ烈しく、江上一帯は波高く、千億の黄龍が躍るかとあやしまれた。
× × ×
さるほどに、宵は迫り、呉の陣営にも、ただならないものがあった。
すでに、黄蓋や甘寧も、陣地を立ち、あとの留守には、蔡和がひとり残っていた。
突然、一隊の兵が来て、
「周都督のお召しである。すぐ来い」
有無をいわせず、彼を囲んで、捕縛してしまった。
蔡和は、仰天して、
「それがしに何の罪やある!」と叫んだが、
「仔細は知らん。云い開きは、都督の前でいたせ」と、兵は仮借なく引っ立てた。
周瑜は、待っていた。
彼を見るやいな、
「汝は、曹操の間諜であろう。出陣の血まつりに、軍神へ供えるには、ちょうどよい首と、今日まで汝の胴に持たせておいたが、もう好かろう。いざ祭らん」と、剣を抜き払った。
蔡和は、哀号して、甘寧や闞沢も自分と同腹なのに、自分だけを斬るのはひどいと喚いたが、周瑜は笑って、
「それはみな、自分がさせた謀略である」
と、耳もかさず、一閃の下に屠った。
時すでに初更に近かった。
蔡和の首を供えて水神火神に祷り、血をそそいで軍旗を祭った後、周瑜は、
「それ、征け」と、最後の水軍に出航を下知した。
このときもう先発の第一船隊、第二船隊、第三船隊などは、舳艫をそろえて、江上へすすんでいた。
黄蓋の乗った旗艦には、特に「黄」の字を印した大旗をひるがえし、その余の大船小艇にも、すべて青龍の牙旗を立てさせていた。
宵深まるにつれて、烈風は小凪になったが、東南の風向きに変化はない。そして依然、大波天にみなぎり、乱雲のあいだからほのかな月光さえさして、一瞬は晃々と冴え、一瞬は青白い晦冥となり、悽愴の気、刻々とみちていた。
三江の水天、夜いよいよ深く
万条の銀蛇、躍るが如し
戦鼓鳴を止めて、舷々歌う
幾万の夢魂、水寨にむすぶ
魏の北岸の陣中で、誰か吟詠している者があった。旗艦に坐乗していた曹操はふと耳にとめて、
「誰だ、歌っているのは」とかたわらの程昱にたずねた。
「艦尾に番している哨兵です。丞相が詩人でいらっしゃるので、おのずから部下の端にいたるまで、詩情を抱くものとみえます」
「ははは。詩はまずいが、その心根はやさしい。その哨兵をこれへ呼んでこい。一杯の酒を褒美にくれてやろう」
旗下の一人が、すぐ席を起って、艦尾へ走りかけたが、それとほとんど同時に、
「──やっ? 船が見える。たくさんな船隊が、南のほうからのぼって来る!」
と、檣楼の上からどなった。
「なに、船隊が見える?」と、諸大将、旗本たちは、総立ちとなって、船櫓へ登るもあり、舳へ向って駈け出して行くものもあった。
──見れば、荒天の下、怒濤の中を続々と連なって来る船の帆が望まれる。月光はそれを照らして、鮮やかにするかと思えば、またたちまち、雲は月をおおうと、黒白もつかぬ闇としてしまう。
「旗は見えんか。──青龍の牙旗を立ててはいないか」
下からいう曹操の声だった。
船楼の上から、諸大将が、口をそろえて答えた。
「見えます、龍舌旗が」
「すべての船の帆檣に!」
「青旗のようですっ。──青龍の牙旗。まちがいはありません」
曹操は、喜色満面に、
「そうかっ。よしっ」
と、うなずいて、自身、舳のほうへ向って、希望的な大歩を移しかけた。
するとまた、そこにいた番の大将が、
「遠く、後方から来る一船団のうちの大船には、『黄』の字を印した大旗が翩翻と立ててあるように見えまする」と、告げた。
曹操は、膝を打って、
「それそれ。それこそ、黄蓋の乗っている親船だ。彼、果たして約束をたがえず、今これへ味方に来るは、まさしく、わが魏軍を天が助けるしるしである」と、いい、さらに自分の周囲へむらがって来た幕僚の諸将に向って、
「よろこべ一同。すでに呉は敗れたり。わが掌は、もはや呉を握り奪ったも同様であるぞ」と、語った。
東南風をうけて来るので、彼方の機船隊が近づいて来る速度は驚くほど迅かった。すでに団々たる艨艟は眼のまえにあった。──と、ふいに異様な声を出したのは程昱で、
「や、や? ……いぶかしいぞ。油断はならん」と、味方の人々を戒めた。
曹操は、聞き咎めて、むしろ不快そうに、
「程昱。何がいぶかしいというのか?」と、その姿を振向いた。
程昱は、曹操の問に対して、言下にこう答えた。
「兵糧武具を満載した船ならば、かならず船脚が深く沈んでいなければならないのに、いま眼の前に来る船はすべて水深軽く、さして重量を積んでいるとは見えません。──これ詐りの証拠ではありませんか」
聞くと、さすがは、曹操であった。一言を聞いて万事を覚ったものとみえる。
「ううむ! いかにも」と、大きく唸って、その眼を、風の中に、爛々と研いでいたが、くわっと口を開くやいな、「しまった! この大風、この急場、もし敵に火計のあるならば、防ぐ手だてはない。誰か行って、あの船隊を、水寨の内へ入れぬよう防いでおれ」
後の策は、後の事として、取りあえずそう命令した。
「おうっ」と答えて、
「それがしが防ぎとめている間に、早々、大策をめぐらし給え」
と、旗艦から小艇へと、乗り移って行ったのは、文聘であった。
文聘は、近くの兵船七、八隻、快速の小艇十余艘をひきつれて、波間を驀進し、たちまち彼方なる大船団の進路へ漕ぎよせ、
「待ち給え。待たれよ」
と、舳に立って大音に呼ばわった──
「曹丞相の命令である。来るところの諸船は、のこらず水寨の外に碇をおろし、舵を止め、帆綱をゆるめられい!」
すると、答えもないばかりか、依然、波がしらを噛んで疾走して来た先頭の一船から、びゅんと、一本の矢が飛んできて文聘の左の臂にあたった。
わっと、文聘は船底へころがった。同時に、
「すわや。降参とは詐りだぞ」
と、船列と船列とのあいだには、まるで驟雨のような矢と矢が射交わされた。
このとき、呉の奇襲艦隊の真中にあった黄蓋の船は、颯々と、水煙の中を進んで来て、はや水寨の内へ突入していた。
黄蓋は、船楼にのぼって、指揮に声をからしていたが、腰なる刀を抜いて、味方の一船列をさしまねき、
「今ぞっ、今ぞっ、今ぞっ。曹操が自慢の巨艦大船は眼のまえに展列して、こよいの襲撃を待っている。あれ見よ、敵は混乱狼狽、なすことも知らぬ有様。──それっ、突込め! 突込んで、縦横無尽に暴れちらせ!」と、激励した。
かねて、巧みに偽装して、先頭に立てて来た一団の爆火船隊──煙硝、油、柴などの危険物を腹いっぱい積んで油幕をもっておおい隠してきた快速艇や兵船は──いちどに巨大な火焔を盛って、どっと、魏の大艦巨船へぶつかって行った。
ぐわうっと、焔の音とも、濤の音とも、風の声ともつかないものが、瞬間、三江の水陸をつつんだ。
火の鳥の如く水を翔けて、敵船の巨体へ喰いついた小艇は、どうしても、離れなかった。後で分ったことであるが、それらの小艇の舳には、槍のような釘が植えならべてあり、敵船の横腹へ深く突きこんだと見ると、呉兵はすぐ木の葉のような小舟を降ろして逃げ散ったのであった。
なんで堪ろう。いかに巨きくとても木造船や皮革船である。見るまに、山のような、紅蓮と化して、大波の底に沈没した。
もっと困難を極めたのは、例の連環の計によって、大船と大船、大艦と大艦は、ほとんどみな連鎖交縛していたことである。そのために、一艦炎上すればまた一艦、一船燃え沈めばまた一船、ほとんど、交戦態勢を作るいとまもなく、焼けては没し、燃えては沈み、烏林湾の水面はさながら発狂したように、炎々と真赤に逆巻く渦、渦、渦をえがいていた。
なにが炸裂するのか、爆煙の噴きあがるたび、花火のような焔が宙天へ走った。次々と傾きかけた巨船は、まるで火焔の車輪のようにグルグル廻って、やがて数丈の水煙をかぶっては江底に影を没して行く。
しかも、この猛炎の津波と火の粉の暴風は、江上一面にとどまらず、陸の陣地へも燃え移っていた。
烏林、赤壁の両岸とも、岩も焼け、林も焼け、陣所陣所の建物から、糧倉、柵門、馬小屋にいたるまで、眼に映るかぎりは焔々たる火の輪をつないでいた。
「火攻めの計は首尾よく成ったぞ。この機をはずさず、北軍を撃滅せよ」
呉の水軍都督周瑜は、この夜、放火艇の突入する後から、堂々と、大船列を作って、烏林、赤壁のあいだへ進んできたが、味方の有利と見るや、さらに、陸地へ迫って、水陸の両軍を励ましていた。
優勢なる彼の位置に反して、ここに無残な混乱の中にあったのは、曹操の坐乗していた北軍の旗艦とその前後に集結していた中軍船隊である。
「小舟を降ろせ。右舷へ小舟をっ──」
と、黒煙の中で叫んでいたのは程昱か、張遼か徐晃か。
曹操を囲んで、炎の中から逃げようとする幕将にはちがいないが、その何人なるやさえも定かでなかった。
「迅くッ。迅く!」と、舷へ寄せた一小艇は、焔の下から絶叫する。揺々たる大波は沸え立ち、真っ赤な熱風はその舟も人も、またたく間に焼こうとする。
「おうっ」
「おうっ。いざ丞相も」
ばらばらと、幕将連はそれへ跳びおりた。曹操も躍り込んだ。各〻、身ひとつを移したのがやっとであった。
けれど、それを見つけた呉の走舸や兵船は、
「生捕れっ、曹操を!」
「のがすな、敵の大将を」
と、四方から波がしらと共に追ってくる。
波の上には焦げた人馬の死体や、焼打ちされた船艇の木材や、さまざまな物が漂っていた。曹操の一艇は、その中を、波にかくれ、飛沫につつまれ、無二無三、逃げまわっていた。
すると一艘の蒙衝(皮革艇)に乗って、こよいの奇襲船隊の闘将、呉の黄蓋が、曹操を討ちとる時は今なり、是が非でも、彼の首を挙げんものと、自身、快速なそれへ乗り移って、曹操を追いかけてきた。
「逃ぐるは醜し、魏の大丞相曹操たるものの名折れではないかっ。曹操、待てっ」
と、熊手を抱えて、舳に立ち、味方の数隻と共に、漕ぎよせて来た。
「推参な!」
と、曹操の側から、張遼が突っ立って、手にせる鉄弓からぶんと一矢を放った。矢は、黄蓋の肩に立ち、あッという声と共に、黄蓋は波間へ落ちた。
あわてた呉兵が、黄蓋の姿を水中に求めているまに、からくも曹操は、烏林の岸へ逃げあがった。しかし、そことて、一面の火焔、どこを見ても、面も向けられない熱風であった。
一時は、小歇みかと思われた風速も、この広い地域にわたる猛火にふたたび凄まじい威力をふるい出し、石も飛び、水も裂けるばかりだった。
「──夢じゃないか?」
顧みて曹操は、茫然とつぶやいた。さもあろう。一瞬の前の天地とは、あまりな相違である。
対岸の赤壁、北岸の烏林、西方の夏水ことごとく火の魔か敵の影ばかりである。そして、彼の擁していた大艦巨船小艇──はすべて影を没し、或いは今なお、猛烈に焼けただれている。
「夢ではない! ああっ……」
曹操は、一嘆、大きく空へさけんで、落ち行く馬の背へ飛び乗った。
青史にのこる赤壁の会戦、長く世に謳われた三江の大殲滅とは、この夜、曹操が味わった大苦杯そのものをいう。そしてその戦場は、現今の揚子江流域の湖北省嘉魚県の南岸北岸にわたる水陸入り組んでいる複雑な地域である。
八十余万と称えていた曹操の軍勢は、この一敗戦で、一夜に、三分の一以下になったという。
溺死した者、焼け死んだ者、矢にあたって斃れた者、また陸上でも、馬に踏まれ、槍に追われ、何しろ、山をなすばかりな死傷をおいて三江の要塞から潰乱した。
けれど、犠牲者は当然呉のほうにも多かった。
「救えっ。救うてくれっ」と、まだ乱戦中、波間に声がするので、呉将の韓当が、熊手で引上げてみると、こよいの大殊勲者、黄蓋だった。
肩に矢をうけている。
韓当は、鏃を掘り出し、旗を裂いて瘡口をつつみ、早速、後方に送った。
甘寧、呂蒙、太史慈などは、疾くに、要塞の中心部へ突入して、十数ヵ所に火を放っていた。
このほか、呉の凌統、董襲、潘璋なども、縦横無尽に威力をふるい廻った。
誰か、その中の一人は、蔡仲を斬りころし、その首を槍のさきに刺して駈けあるいていた。
こんな有様なので、魏軍はその一隊として、戦いらしい戦いを示さなかった。逃げる兵の上を踏みつけて逃げまろんだ。敵に追いつかれて樹の上まで逃げあがっている兵もある。それが見るみるうちに、バリバリと、樹林もろともに焼き払われてしまう。
「丞相、丞相。戦袍のお袖に火がついていますぞ」
後から駈けてくる張遼が馬の上から注意した。先へ鞭打って落ちて行く曹操は、あわてて自分の袖をはたいた。
駈けても駈けても焔の林だ。山も焼け水も煮え立っている。それに絶えず灰が雨の如く降ってくるので、悍馬はなおさら暴れ狂う。
「おうーいっ。張遼ではないか。おおういッ」
後から追いついて来た十騎ばかりの将士がある。味方の毛玠だった。さきに深傷を負った文聘がその中に扶けられて来る。
「ここはどの辺だ」
息をあえぎながら曹操は振向く。
張遼がそれに答えた。
「この辺もまだ烏林です」
「まだ烏林か」
「林のつづく限り平地です。さしずめ敵勢も迅速に追いついて来ましょう。休んでいる間はありません」
総勢わずか二十数騎、曹操はかえりみて、暗澹とならずにいられなかった。
たのむは、馬の健脚だった。さらに鞭打って、後も見ずに飛ぶ。
すると、林道の一方から、火光の中に旗を打振り、
「曹賊っ。逃げるなかれ」
と呼ばわる者がある。呉の呂蒙が兵とこそ見えた。
「あとは、それがしが殿軍します。ただ急いで落ち給え」と、張遼が踏みとどまる。
しかしまた、一里も行くと、一簇の軍勢が奔突して、
「呉の凌統これにあり。曹賊、馬を下りて降参せよ」と、いう声がした。
曹操は、胆を冷やして、横ざまに林の中へ駈けこんだ。
ところが、そこにも、一手の兵馬が潜んでいたので、彼は、しまったと叫びながら、あわてて馬をかえそうとすると、
「丞相丞相。もう恐れ給うことはありません。ご麾下の徐晃です。徐晃これにお待ちしていました」と、さけぶ。
「おうっ、徐晃か」
曹操は、大息をついて、ほっとした顔をしたが、
「張遼が苦戦であろう。扶けて来い」と、いった。
徐晃は、一隊をひいて、駈け戻って行ったが、間もなく、敵の呂蒙、凌統の兵を蹴ちらして、重囲の中から張遼を助け出して帰ってきた。
そこで曹操主従はまた一団になって、東北へ東北へとさして落ちのびた。
すると、一彪の軍馬が、山に拠って控えていた。
「敵か」と、徐晃、張遼などが、ふたたび苦戦を覚悟して物見させると、それはもと、袁紹の部下で、後、曹操に降り、久しく北国の一地方に屈踞していた馬延と張顗のふたりだった。
ふたりは、早速、曹操に会いにきた。そしていうには、
「実は、われわれ両名にて、北国の兵千余を集め、烏林のご陣へお手伝いに参らんものと、これまで来たところ、昨夜来の猛風と満天の火光に、行軍を止め、これに差し控えて万一に備えていたわけです」
曹操は大いに力を得て、馬延、張顗に道を開かせ、そのうち五百騎を後陣として、ここからは少し安らかな思いで逃げ落ちた。
そして十里ほど行くと、味方の倍もある一軍が、真っ黒に立ちふさがり、ひとりの大将が、駒を乗り出して何かいっている。──馬延は、自分に較べて、それも多分味方ではないかと思い、
「何者か」と、先へ近づいて訊いた。
すると、彼方の者は、大音をあげて、
「われこそは呉に彼ありともいわれた甘寧である。こころよく我が刃をうけよ」
云いも終らぬうち、馬躍らせて近寄りざま、馬延を一刀のもとに斬り落した。
後ろにいた張顗は、驚いて、
「さては呉の大将か」と、槍をひねって、突きかかったが、それも甘寧の敵ではなかった。
眼の前で、張顗、馬延の討死を見た曹操は、甘寧の勇にふるえあがって、さしかかって来た南夷陵の道を避け、急に、西へ曲がって逃げ走った。
幸いに、彼を探している残軍に出会ったので、
「あとから来る敵を防げ」と、馬も止めずに命じながら、鞭も折れよと、駈けつづけた。
夜はすでに、五更の頃おいであった。振りかえると、赤壁の火光もようやく遠く薄れている。曹操はややほっとした面持で、駈け遅れて来る部下を待ちながら、
「ここは、何処か」と、左右へたずねた。
もと荊州の士だった一将が答えていう。
「──烏林の西。宜都の北のほうです」
「宜都の北とな。ああそんな方角へ来ていたか」
と曹操は、馬上から、しきりに附近の山容や地形を見まわしていた。山川峨々として樹林深く、道はひどくけわしかった。
「あはははは。あははは」
──突然、曹操が声を放って笑い出したので、前後の大将たちは奇異な顔を見合わせて彼にたずねた。
「丞相。何をお笑いになるのですか」──と。
曹操は、答えていう。
「いや、べつだんな事でもない。今このあたりの地相を見て、ひとえに周瑜の浅才や、孔明の未熟が分ったから、ついおかしくなったのだ。もしこの曹操が周瑜か孔明だったら、まずこの地形に伏兵をおいて、落ち行く敵に殲滅を加えるところだ。──思うに赤壁の一戦は、彼らの怪我勝ちというもので、こんな地の利を遊ばせておくようでは、まだまだ周瑜も孔明も成っておらぬ」
敗軍の将は兵を語らずというが──曹操は馬上から四林四山を指さして、なお、幕将連に兵法の実際講義を一席弁じていた。
ところが、その講義の終るか終らないうちに、たちまち左右の森林から一隊の軍馬が突出して来た。そして前後の道を囲むかと見えるうちに、
「常山の子龍趙雲これに待てりっ。曹操っ、待て」
という声が聞えたので、曹操は驚きのあまり、危うく馬から転げ落ちそうになった。
敗走、また敗走、ここでも曹操の残軍は、さんざんに痛めつけられ、ただ張遼、徐晃などの善戦によって、彼はからくも、虎口をまぬがれた。
「おう! 降ってきた」
無情な天ではある。雨までが、敗軍の将士を苛んで降りかかる。それも、車軸を流すばかりな大雨だった。
雨は、甲や具足をとおして、肌にしみ入る。時しも十一月の寒さではあるし、道はぬかり、夜はまだ明けず、曹操を始め幕下の者の疲労困憊は、その極に達した。
「──部落があるぞ」
ようやく、夜が白みかけた頃、一同は貧しげな山村にたどりついていた。
浅ましや、丞相曹操からして、ここへ来るとすぐいった。
「火はないか。何ぞ、食物はないか」
彼の部下は、そこらの農家へ争って入りこんで行った。おそらく掠奪を始めたのだろう。やがて漬物甕や、飯櫃や、鶏や、干菜や漿塩壺など思い思いに抱えてきた。
けれど、火を焚いて、それらの食物を胃ぶくろへ入れる間もなかった。なぜなら部落のうしろの山から火の手があがり、
「すわ。敵だっ」と、またまた、逃げるに急となったからである。
「敵ではないっ。敵ではないっ」と、その敵はやがて追いかけて来た。何ぞ知らん、味方の大将の李典、許褚そのほか将士百人ばかり、山越えで逃げてきたものだった。
「やあ、許褚も無事か。李典もおったか」
焼け跡から焼けのこった宝玉を拾うように、曹操は歓ぶのだった。やがて共々、馬を揃えて、道をいそぐ。──陽は高くなって、夜来の大雨もはれ、皮肉にも東南風すらだんだんに凪いでいた。ふと、駒をとめて、曹操は、眼の前にかかった二つの岐れ道を、後ろへたずねた。
「さればです」と、幕将のひとりがいう。
「──一方は、南夷陵の大道。一方は北夷陵の山路です」
「いずれへ出たほうが、許都へ向うに近いのか」
「南夷陵です。途中、葫蘆谷をこえてゆくと、非常に距離がみじかくなります」
「さらば、南夷陵へ」と、すぐその道をとって急いだ。
午すぎた頃、すでに同勢は葫蘆谷へかかった。肉体を酷使していた。馬も兵も飢えつかれて如何とも動けなくなってきた。──曹操自身も心身混沌たるものを覚える。
「やすめっ。──休もう」
下知をくだすや否、彼は馬を降りた。そして、先に部落から掠奪して来た食糧を一ヵ所に集め、柴を積んで焚火とし、士卒たちは、盔の鉢や銅鑼を鍋に利用して穀類を炊いだり鶏を焼いたりし始めた。
「ああ、やっとこれで、すこし人心地がついた」と、将士はゆうべからの濡れ鼠な肌着や戦袍を火に乾している。曹操もまた暖を取って後、林の下へ行って坐っていた。
憮然たる面持で、彼は、天を凝視していたが、何を感じたか、
「ははは。あははは」
と、独りで笑いだした。
諸将は、何か、ぎょッとしたように、彼へ向って云った。
「さきにも丞相は、大いにお笑いになって、まさか、そのためでもありますまいが、趙雲子龍の追手を引き出しました。今また、何をそうお笑いになるのですか」
曹操は、なお、笑っていう。
「孔明、周瑜、共に大将の才はあるが、まだ智謀の足らぬのを予は嘲うのだ。もし曹操が敵ならば、ここに一手の勢を伏せ──逸ヲ以テ労ヲ待ツ──の計をほどこすであろうに、さてさて抜かったり」
そのことばが、まだ終らぬうちに、たちまち、金鼓喊声、四山にこだまし、あたりの樹林みな兵馬と化したかの如く、四方八面に敵のすがたが見えてきた。
中に、声あって、
「曹操、よくぞ来た。燕人張飛これに待ったり。そこを去るな」
あなやと思うまに、丈八の蛇矛、黒鹿毛の逸足、燦々たる甲盔が、流星のごとく此方へ飛んできた。
「張飛だっ」
名を聞いただけでも、諸将は胆を冷やした。士卒たちは皆、甲や下着を火に乾していたところなので、周章狼狽、赤裸のままで散乱するもある。
許褚のごときも、
「丞相の危機。近づけては」と、あわてて、鞍もない馬へ飛び乗り、猛然、駈け寄ってきた張飛の前に立って戦い、ややしばし、喰い止めていた。
その間に、
「すわこそ」と、張遼、徐晃など、からくも鎧を取って身にかぶり、曹操を先へ逃がしておいてから、馬を並べて、張飛へかかって行った。
とはいえ、張飛のふりまわす一丈八尺の蛇矛には、当るべくもない。その敵を討つというよりは、彼の猛烈な突進を、少しの間でも防ぎ支えているのがやっとであった。
曹操は、耳をふさぎ、眼をつぶって、数里の間は生ける心地もなくただ逃げ走った。やがてちりぢりに味方の将士も彼のあとを慕って追いついて来たが、どれを見ても、傷を負っていない者はない有様だった。
「また岐れ路へ出た。この二条の道は、どっちへ向ったがよいか」
曹操の質問に、
「いずれも南郡へ通じていますが、道幅の広い大道のほうは五十里以上も遠道になります」
と、地理にくわしい者が答えた。
曹操は聞くと、うなずいて、山の上へ部下を走らせた。部下は立ち帰ってきてから復命した。
「山路のほうをうかがってみますと、彼方の峠や谷間の諸所から、ほのかに、人煙がたち昇っております。必定、敵の伏兵がおるに違いございません」
「そうか」と、曹操は、眉根をきっと落着けて、
「しからば、山路を経て行こう。者ども、山越えしてすすめ」と、先手の兵へ下知した。
諸大将は驚きかつ怪しんで、
「山路の嶮を擁して、みすみす伏兵が待つを知りながら、この疲れた兵と御身をひっさげて、山越えなさんとは、如何なるご意志によるものですか」と、駒を抑えて質した。
曹操は、苦笑を示して、
「我れ聞く。この華容道とは、近辺に隠れなき難所だということを。──それ故に、わざと、山越えを選ぶのだ」
「敵の火の手をご覧ありながら、しかもその嶮へ向われようとは、あまりな物好きではありませんか」
「そうでない。汝らも覚えておけ。兵書にいう。──虚ナル則ハ実トシ、実ナル則ハ虚トス、と。孔明は至って計の深いものであるから、思うに、峠や谷間へ、少しの兵をおいて煙をあげ、わざと物々しげな兵気を見せかけ、この曹操の選ぶ道を、大路の条へ誘いこみ、かえって、そこに伏兵をおいて我を討止めんとするものに相違ない。──見よ、あの煙の下には、真の殺気はみなぎっていない。かれが詐謀たること明瞭だ。それを避けて、人気なしなどと考えて大路を歩まば、たちまち、以前にもまさる四面の敵につつまれ、一人も生きるを得ぬことは必定である。あやうい哉あやうい哉、いざ疾く、山道へかかれ」と、いって駒をすすめたので、諸人みな、
「さすがは丞相のご深慮」と、感服しないものはなかった。
こうしている間にも、後から後から、残兵は追いつき、今は敗軍の主従一団となったので、
「はやく荊州へ行き着きたいものだ。荊州までたどり着けば、何とかなろう」
と、あえぎあえぎ華容山麓から峰越えの道へ入った。
けれど気はいくらあせっても、馬は疲れぬいているし、負傷者も捨てては行けず、一里登っては休み、二里登っては憩い、十里の山道をあえぐうち、もう先陣の歩みは、まったく遅々として停ってしまった。──折から山中の雲気は霏々として白い雪をさえまじえて来た。
難路へかかったため、全軍、まったく進退を失い、雪は吹き積もるばかりなので、曹操は焦だって、馬上から叱った。
「どうしたのだ、先鋒の隊は」
前隊の将士は、泣かんばかりな顔を揃えて、雪風の中から答えた。
「ゆうべの大雨に、諸所、崖はくずれ、道は消え失せ、それに至るところ渓川が生じてしまったものですから、馬も渡すことができません」
曹操は、癇癪を起して、
「山に会うては道を拓き、水に遭うては橋を架す。それも戦の一つである。それに対って、戦い難いなどと、泣き面をする士卒があるかっ」
そして、彼自身、下知にかかった。傷兵老兵はみな後陣へ引かせ、屈強な壮士ばかりを前に出して、附近の山林を伐って橋を架け、柴や草を刈って、道を拓き、また泥濘を埋めて行った。
「寒気に怯むな。寒かったら汗の出るまで働け。生命が惜しくば怠るな。怠ける者は、斬るぞ」
剣を抜いて、彼は、土工を督した。泥と戦い、渓流と格闘し、木材と組み合いながら、まるで田圃の水牛みたいになって働く軍卒の中には、このとき飢餓と烈寒のため、斃れ死んだ者がどれほどあったか知れない程であった。
「あわれ、矢石の中で、死ぬものならば、まだ死にがいがあるものを」と、天を恨み、また曹操の苛烈な命令に喚く声が、全軍に聞えたが、曹操は耳にもかけず、かえって怒り猛って、
「死生自ら命ありだ。なんの怨むことやある。ふたたび哭く者は立ちどころに斬るぞ」と、いった。
こうして、凄まじい努力とそれを励ます叱咤で、からくもようやく第一の難所は越えたが、残った士卒をかぞえてみるとわずか三百騎足らずとなり終っていた。
ことに、その武器と得物なども今は、携えている者すらなく、まるで土中から発掘された泥人形の武者や木偶の馬みたいになっていた。
「もうわずかだ。目的の荊州までは、難所もない」
曹操は、鞭を指して、将士のつかれた心を彼方へ向けさせ、
「あとは、ただ一息だ。はやく荊州へ行き着いて、大いに身を休めよう。頑張れ、もう一息」
と、励ました。
そして、峠を越え、約五、六里ばかり急いで来ると、曹操はまた、鞍を叩いて独り哄笑していた。
諸将は、曹操に向って、
「丞相。何をお笑いなさいますか」と、訊ねた。
曹操は、天を仰いで、なお、大笑しながら、
「周瑜の愚、孔明の鈍、いまこの所へ来てさとった。彼、偶然にも、赤壁の一戦に、我を破って、勢い大いにふるうといえども、要するに弓下手にもまぐれあたりのあるのと同じだ。──もしこの曹操をして、赤壁より一気に、敗走の将を追撃せしめるならば、この辺りには必ず埋兵潜陣の計を設けて、一挙に敵のことごとくを生捕るであろう。──さはなくて、無益な煙を諸所にあげ、われをして平坦な大道のほうに誘い、この山越えを避けしめんなど、まるで児ども騙しの浅い計といっていい」と、気焔を吐き、さらに、
「これがおかしくなくてどうするか。あははは、わははは」と、肩を揺すぶりぬいた。
ところが、その笑い声のやまないうちに、一発の鉄砲が彼方の林にとどろいた。たちまちに見る前面、後方、ふた手に分れて来る雪か人馬かと見紛うばかりな鉄甲陣。そのまっ先に進んでくるのはまぎれもなし、青龍の偃月刀をひっさげ、駿足赤兎馬に踏みまたがって来る美髯将軍──関羽であった。
「最期だっ。もういかん!」
一言、絶叫すると、曹操はもう観念してしまったように、茫然戦意も失っていた。
彼ですらそうだから、従う将士もみな、
「関羽だ。関羽が襲せて来る──」とばかりおののき震えて、今は殲滅されるばかりと、生きた空もない顔を揃えていたのは無理もない。──が、ひとり程昱は、
「いや何も、そう死を急ぐにはあたりません。どんな絶望の底にあろうと、最後の一瞬でも、一縷の望みをつないで、必死を賭してみるべきでしょう。──それがし、関羽が許都にありし頃、朝夕に、彼の心を見て、およそその人がらを知っている。彼は、仁侠の気に富み、傲る者には強く、弱き下の人々にはよく憐れむ。義のために身を捨て、ふかく恩を忘れず、その節義の士たることすでに天下に定評がある。──かつて玄徳の二夫人に侍して、久しく許都にとどまっていた当時、丞相には、敵人ながら深く関羽の為人を愛で給い、終始恩寵をおかけ遊ばされたことは、人もみな知り、関羽自身も忘れてはおりますまい」
「…………」
曹操は、ふと瞑目した。追憶はよみがえってくる。そうだ! ……と思い当ったように、その眸をくわっと見ひらいた時──すでに雪中の喊声は四囲に迫り、真先に躍って来る関羽の姿が大きくその眼に映った。
「おうっ……羽将軍か」
ふいに、曹操は、自身のほうからこう大きく呼びかけた。
そして、われから馬をすすめ、関羽の前へ寄るや否、
「やれ、久しや、懐かしや。将軍、別れて以来、つつがなきか」と、いった。
それまでの関羽は、さながら天魔の眷族を率いる阿修羅王のようだったが、はッと、偃月刀を後ろに引いて、駒の手綱を締めると、
「おう、丞相か」と、馬上に慇懃、礼をして、
「──まことに、思いがけない所で会うものかな。本来、久闊の情も叙ぶべきなれど、主君玄徳の命をうけて、今日、これにて丞相を待ちうけたる関羽は、私の関羽にあらず。──聞く、英雄の死は天地も哭くと。──いざ、いざ、いさぎよくそれがしにお首を授けたまえ」と、改めていった。
曹操は、歯を噛み合わせて、複雑な微笑をたたえながら云った。
「やよ、関羽。──英雄も時に悲敗を喫すれば惨たる姿じゃ。いま、われ戦いに敗れて、この山嶮、この雪中に、わずかな負傷のみを率いて、まったく進退ここにきわまる。一死は惜しまねど、英雄の業、なおこれに思い止るは無念至極。──もしご辺にして記憶あらば、むかしの一言を思い起し、予の危難を見のがしてくれよ」
「あいや、おことば、ご卑怯に存ずる。いかにも、むかし許都に在りし日、丞相のご恩を厚くこうむりはしたものの、従って、白馬の戦いに、いささか献身の報恩をなし、丞相の危急を救うてそれに酬う。今日はさる私情にとらわれて、私に赦すことは相成らぬ」
「いや、いや。過去の事のみ語るようだが、将軍がその主玄徳の行方をなお知らず、主君の二夫人に仕えて、敵中にそれを守護されていたことは、私の勤めではあるまい。奉公というものであろう。曹操が乏しき仁義をかけたのは、ご辺の奉公心に感動したからだった。誰かそれを私情といおうや。──将軍は春秋の書にも明るしと聞く。かの庾公が子濯を追った故事もご存じであろう。大丈夫は信義をもって重しとなす。この人生にもし信なく義もなく美というものもなかったら、実に人間とは浅ましいものではあるまいか」
諄々と説かれるうちに、関羽はいつか頭を垂れて、眼の前の曹操を斬らんか、助けんか、悶々、情念と知性とに、迷いぬいている姿だった。
──ふと見れば、曹操のうしろには、敗残の姿も傷ましい彼の部下が、みな馬を降り、大地にひざまずき、涙を流して関羽のほうを伏し拝んでいた。
「あわれや、主従の情。……どうしてこの者どもを討つに忍びよう」
ついに、関羽は情に負けた。
無言のまま、駒を取って返し、わざと味方の中へまじって、何か声高に命令していた。
曹操は、はっと我にかえって、
「さては、この間に逃げよとのことか」
と、士卒と共に、あわただしくここの峠から駈け降って行った。
すでに曹操らの主従が、麓のほうへ逃げ去った頃になって関羽は、
「それ、道を塞ぎ取れ」と、ことさら遠い谷間から廻り道して追って行った。
すると、途中、一軍のみじめなる軍隊に行き会った。
見れば、曹操のあとを慕って行く張遼の一隊である。武器も持たず馬も少なく、負傷していない兵はまれだった。
「ああ惨たるかな」と、関羽は、敵のために涙を催し、長嘆一声、すべてを見遁して通した。
張遼と関羽とは、旧くからの朋友である。実に、情の人関羽は、この悲境の友人を、捕捉して殺すには忍びなかったのである。──おそらく張遼もそれを知って、心のなかで関羽を伏し拝みながらこの死線を駈け抜けて行ったろうと思われる。
こうして虎口の難をのがれた張遼は、やがて曹操に追いついて合体したが、両軍合わせても五百に足らず、しかも一条の軍旗すら持たなかったので、
「ああ。かくも、悲惨な敗北を見ようとは……」と、相顧みて、しばし凋然としてしまった。
この日、夕暮に至って、また行く手の方に、猛気旺な一軍の来るのとぶつかったが、これは死地を設けていた伏勢ではなく、南郡(湖北省・江陵)の城に留守していた曹一族の曹仁が、迎えに来たものであった。
曹仁は、曹操の無事な姿を見ると、うれし泣きに泣いて、
「赤壁の敗戦を聞き、すぐにも駈けつけんかと思いましたが、南郡の城を空けては、後の守りも不安なので、ただご安泰のみを祈っていました」と、曹操が生きて帰ってくれたことだけでも、無上の歓喜として、今はかえって怨むことも知らなかった。
曹操もまた、「今度ばかりは、二度とこの世でそちに会うこともないかと思った」と、語りながら、共に南郡の城へ入って、赤壁以来、三日三夜の疲れをいやし、ようやく、生ける身心地をとり戻した。
戦塵の垢を洗い、暖かい食物をとり、大睡一快をむさぼると曹操は忽然、天を仰いで、
「……ああ。ああ」と、嗚咽せんばかり、涙を垂れて哭いた。
付添う人々は、怪しんで、彼に問うた。
「丞相、どうして、そんなにお哭きになるんです。たとえ赤壁に大敗なされても、この南郡に入るからには、人馬も武器も備わっているし、いつか再挙の日もありましょうに」
すると曹操は、かぶりを振りながら、
「夢に故人を見たのだ。──遼東の遠征に陣没した郭嘉が、もし今日生きていたらと思い出したのだ。予も愚痴をいう年齢になったかと思うと、それも悲しい。諸将よ、笑ってくれ」
と、胸を打って、
「哀しいかな郭嘉。痛ましい哉、奉考……ああ去って再びかえらず」
それから、曹仁を近く呼んで、
「予に生命のある限り、赤壁の恨みは必ず、敵国に報いずにはおかん、今は、しばらく都へ帰って、他日の再軍備にかかるしかない。汝はよく南郡を守っていてくれよ。やがて敵の襲撃に会ってもかならず守るを旨とし、城を出て戦ってはならんぞ」と、諭した。
この荊州の南郡から襄陽、合淝の二城をつらねた地方は、曹操にとって、今は、重要なる国防の外郭線とはなった。
で、曹操は、都に帰るに際して、ふたたび曹仁へこう云い残した。
「この一巻のうちに、こまごまと、計策を書いておいたから、もしこの城の守りがいよいよ危急に迫った時は、これを開いて、わが言となし、すべて巻中の策に従って籠城いたすがよい」
また、襄陽城の守備としては、夏侯惇をあとに留め、合淝地方は、ことに、重要な地とあって、それへは、張遼を守りに入れた。さらに楽進、李典の二名を副将としてそれに添えた。
こう万全な手配りをすまして、曹操はやがてここを去ったが、左右の大将も士卒もあらかた後の防ぎに残して行ったので、その時、曹操に従って都へかえった数は、わずか七百騎ほどに過ぎなかったという。
その頃──
夏口城の城楼には、戦捷の凱歌が沸いていた。
張飛、趙雲、そのほかの士卒は、みな戦場から立帰って、敵の首級や鹵獲品を展じて、軍功帳に登録され、その勲功を競っていた。
閣の庁上では、玄徳を中心に、孔明も立って、戦勝の賀をうけていたが、折ふしここへ、関羽もその手勢と共に戻って来て、悄然と拝礼した。
「おお、羽将軍か。君にも待ちかねておわしたぞ。曹操の首を引っさげて来たものはおそらくあなたであろう」
「…………」
「将軍。どうして、そのように不興気な顔をしてうつ向いておらるるか。いざ、功を述べて、勲功帳に記録を仰ぎたまえ」
「いや、……べつに何も……」
関羽は益〻、うな垂れているのみで、そのことばさえ、女のように低かった。
孔明は、眉をひそめながら、
「どうなされたのか。べつに何も……とは?」
「実は。……それがしのこれに来たのは、功を述べるためではなく、罪を請うためでござる。よろしく軍法に照らして罰せられたい」
「はて。……では、曹操はついに華容の道へは逃げ落ちて来なかったといわるるか」
「軍師のご先見にたがわず、華容道へかかっては来ましたが、それがしの無能なるため、討ち洩らしてござる」
「なに、討ち損じたと……あの赤壁から潰走した敗残困憊の兵でありながら、なお羽将軍の強馬精兵をも近づけぬほど、曹操はよく戦ったと申さるるか」
「……でも、ござらぬが。……つい、取り逃がしました」
「然らば、曹操は討たずとも、その手下の大将や士卒は、どれほど討ち取られたか」
「ひとりも生捕りません」
「挙げたる首級は」
「一箇もなし──でごさる」
「ウーム。……そうか」
孔明は、口をつぐんで、あとはただその澄んだ眸をもって、彼をながめているだけだった。
「関羽どの」
「はい」
「さてはご辺には、むかし曹操よりうけた恩を思うて、故意に、曹操の危難を見のがされたな」
「今さら、何のことばもござりませぬ。ただご推量を仰ぐのほかは……」
「だまれっ」
孔明は、その白皙な面に紅を呈して、一喝、叱るやいな、座後の武士を顧みて、命じた。
「王法は、国家の典形。私情をもって、軍令を無視した関羽の罪はゆるされん。諸君っ! 斬り捨ていッ、この柔弱漢を!」
孔明がこれほど心から怒ったらしい容子を見たのは、玄徳も初めてであった。
めったに怒らない優しい人が怒ったのは、ふつうの者の間でも恐ろしい気がするものである。いわんや軍師の座にあって、謹厳おのれを持していやしくもせず、日頃はあまり大きな声すら出さない孔明が、断乎、斬れ! と命じたのであるから、人々みな慄然とすくみ立って、どうなることかと思っていた。
「軍師──」と、急に彼のまえに迫って、膝を曲げないばかりに愍れみを仰いだのは、当の関羽ではなくて、玄徳であった。
「わしと、関羽とは、むかし桃園に義を結んで、生死を倶にせんと誓ってある。いわば関羽の死はわしの死を意味する。きょうの罪は赦しがたいものに違いないが、わしに免じて──いやわしにその罪科をしばし預けてくれい。後日、かならずこの罪を償うほどの大功を挙げさせるから。……軍師、大法を歪曲するのではなく、仮にしばらくその法断を待って欲しいのじゃ。たのむ」
身、主君たる位置にありながら、玄徳は、臣下の一命のために、臣下に対して、ひれ伏さないばかりであった。
何でそれまでを、孔明とて一蹴できよう。彼はわずかに面をそむけて、
「赦すことはできません。軍紀はあくまで厳然たる軍紀ですが、思し召のまま暫時、処断は猶予しましょう。関羽の罪は、おあずけしておきます」
と遂にいった。
× × ×
数万人の捕虜は、赤壁から呉へ運ばれて行った。
呉軍は、そのすべてを包有して、一躍大軍となり、また整備を増強して、江北へ押し渡って来た。
「玄徳から賀使が見えました。家臣の孫乾という者が、贈り物を献じ、戦勝のお祝いを述べるためにと──玄徳の使いで」
中軍にある周瑜のところへ、或る日、こういう取次があった。赤壁の大戦捷に、周瑜ばかりでなく、呉軍全体は、破竹の勢いを示し、士卒の端にいたるまで、無敵呉軍の誇りに燃えて、当るべからざるものがある。──この図に乗せてと、周瑜は、南郡へ攻略をすすめ、五ヵ所の寨を粉砕して、いまやそこの南郡城に肉迫して陣を取った日であった。
「ほう、玄徳からとな? ……そうか、すぐ通せ」
周瑜のことばに、使者孫乾は、直ちに案内されて来た。
四方山の話のすえに、周瑜は孫乾にこうたずねた。
「ご主君の玄徳や孔明は、目下どこにおられるか」
「されば、油江口におられます」
「えっ、油江口に?」
何か、驚いたらしい顔である。それからは、話もはずまなかったが、宴の終る頃、
「いずれ、それがし自身、ご返礼に出向くであろう。よろしく申し伝えてくれ」
と、追い帰すように、孫乾を帰した。
あくる日。──魯粛が、
「都督、きのうは、何であんな意外なお顔をなすったのですか」
「ムム。玄徳が油江口におることでか。それは聞き捨てならんではないか」
「なぜです」
「彼が油江口へ陣を移したとすれば、それは明らかに、南郡を攻め取ろうという野心があるからだ。われわれ呉軍が、莫大な軍馬銭粮を消費して、赤壁に勝っても、まだその戦果はつかんでおらぬ。──それを玄徳に先んじられては何のために戦ったか、意味をなさぬことになる」
「その儀は、疾くから私も、油断がならんと思っていました」
「さっそく、玄徳の陣を訪問したうえ、一本釘を打っておこう。──供の兵馬や贈り物の準備をしてくれい」
「承知しました。私も共に参りましょう」
一方、孫乾は油江口にある味方の陣に帰ると、すぐ玄徳に、帰りを告げて、
「いずれ周瑜が自身で答礼に参るといっておりました」と、話した。
玄徳は、孔明と顔見合わせて、
「これほどな儀礼に、周瑜が自身で答礼に来るというのはおかしい。何のために来るのであろう」
「もちろん、南郡の城が気にかかるので、こちらの動静を見に来るのでしょう」
「もし兵を率いて来たらどうしようか」
「ご心配はありません。まずこんどは探りだけのことでしょう。ご対談のときには、かようにお答え遊ばされい」
孔明は、何事かささやいた。
先触れのあった日、油江口の岸には、兵船をならべ、軍馬兵旗を整々と立てて、周瑜の着くのを待っていた。
周瑜は、随員と守護の兵三千騎を連れて、船から上陸した。──見るに、陸上にも江辺にも、兵馬や大船が整然と旗幟をそろえているので、
「案外、馬鹿にはならぬ兵力を持っておるな」
といわんばかりな流し目をくばりながら、趙雲の一隊に迎えられて、陣の轅門へ入って行った。
もちろん、玄徳、孔明、そのほかの部将は、篤く出迎え、大賓の礼をとって、会宴の上座へすすめた。
酒、数巡。
玄徳は杯をあげて、しきりに、赤壁の大勝を激賞しながら、
「ときに、引続いて、江北へご進撃と承り、いささか戦いのお手助けを申さんと、急遽、この油江口まで陣を進めて来ましたが、もし周都督のほうで、南郡をお取りになるご意志がなければ、玄徳の手をもって、攻め取りますが」と、軽くいった。
すると、周瑜も、気軽に笑って、戯れた。
「どう致しまして──。とんでもない。呉が荊州を併呑せんと望んでいたことは実に久しいものです。いま、南郡はすでに、呉の掌にあるものを、決して、ご心配下さるに及ばん」
「けれど、世の諺にも、掌中ノモノ必ズシモ掌中ノ物ナラズ──ということもあります。曹操が残して行った曹仁は北国の万夫不当。おそらく周都督のお手にはやすやすと落ちないのではないかと案じられますが」
周瑜は、眉のあいだに、憤然と憤炎をあらわしたが、すぐ皮肉な嘲笑にそれを代えて、
「もし、それがしの手に奪れなかったら、あなたの手で奪ったらよかろう」
「ほ。そうですか。それはかたじけない。──ここには、魯粛、孔明という生き証人もいること、都督の今のおことばをよく聞いておいてもらいたい」
「大丈夫の一言、何の、証人などが要ろう」
「あとでご後悔はありますまいな」
「ばかな」
周瑜は、一杯を干して、また一笑した。
そのそばから孔明はこういって、旺に、周瑜の言を賞めあげた。
「さすがに、周都督の一言は、呉の大国たる貫禄を示すに余りある公論というものです。荊州の地は、当然まず呉軍からお攻めあるのがほんとです。そして万が一にも、呉の手にあまったときは、劉皇叔が試みにそれを攻め取ってみられるがよいでしょう」
周瑜らが帰った後である。
玄徳は、嘆かわしい顔して、孔明を責めた。
「──周瑜と対談の時は、ああ云え、こう答えよと、先生がこの玄徳に教えたので、予はその通りに応対していた。それなのに、先生自身、周瑜に向って、南郡を取れといわんばかり励まして帰したのは一体どういうつもりか」
「その以前、私が荊州をお取りなさいと、あんなにおすすめ申したのに、君にはさらに耳へお入れがなかった」
「わが一族、わが味方、拠るに地もなく、ほとんど今は孤窮の境界。むかしを問うてくれるな。事情も変っている」
「ご心配には及びません。べつに孔明に一計があります。近いうちに必ず君を南郡城に入れてご覧にいれまする」
周瑜は、自軍の陣へ帰ると、すぐに南郡城へ向って、猛烈な行動を起すべく、指令を出していた。
魯粛がその間に云った。
「玄徳とお会いなされた折、なぜ彼に対してもし呉軍の手にあまるときは、そっちで南郡を攻め取るも随意だ──などといわれたのですか」
「それは君、ことばの上だけのものさ。人情の余韻を残すというものだ。すでに赤壁においてすらあの大捷を博した我軍のまえに、南郡の城のごときは鎧袖一触、あんなものを取るのは手を反すよりやさしいことじゃないか」
先手五千の兵には、蒋欽が大将として進み、副将丁奉、徐盛それにつづき、周瑜の中軍も前進して、堂々城へ迫った。
このときまで、城中の曹仁は、曹操の残して行った誡めを鉄則として、
「出るな。守れ」
の一方でただ要害をきびしくするに汲々としていたが、部下の牛金はしきりに勧めた。
「要害の守りというものは或る期間だけのものです。古来、陥ちない城というものはない。いますでに呉軍が城下に迫っているのに、城を出てこれを撃つという変もなければ、城中の士気は、消極的になるばかりで、所詮、長く持てるものではありません」
「それも一理ある」
曹仁は、牛金の乞いを容れて、兵五百をさずけ、機を計って奇襲を命じた。
牛金は、城門から突出して、敵の先鋒、丁奉の軍を蹴散らした。丁奉は、牛金を目がけて、一騎打ちを挑んだが、たちまち後ろを見せて逃げ出した。
牛金の五百騎は、逃げる丁奉を追いまくって、つい深入りした。にわかに、さっとかえした丁奉軍は、鼓を鳴らして、味方を糾合し、追い疲れた牛金軍五百を袋の中の鼠としてしまった。
「戦況いかに?」と、城中の櫓から眺めていた曹仁は、牛金の危急を見て、自身手勢を率いて、救いに出ようとした。
すると、長史陳矯が、
「丞相がこの城を託して都へ帰らるる時、何と宣われましたか」
と、口を極めて、軽率な戦いを諫めた。
だが、曹仁は、
「牛金は大事な大将だし、部下五百は、城中で重きをなす精鋭ばかりだ。それを見殺しにするは、この城の自殺にひとしい」とばかり、耳もかさず、馬に打乗り、屈強な兵千余を率いて、城外へ渦まき出たので、陳矯もやむなく櫓へ駈けのぼり、太鼓を打って勢いを添えた。
かくて、曹仁は、呉軍の真只中へ馳け入って、まず徐盛の一角を蹴破り、牛金と合流して、首尾よく彼を救い出した。
けれどまだ、あと五、六十騎の者が、重囲の中に残されているのを知ると、
「よしっ、もう一度行って来る」
と、ふたたび馳け入り、あとの者をも一人もあまさず救出して帰ってきた。
すると、呉の先鋒の大将蒋欽が、道をさえぎって、曹仁を討ち止めようと試みた。けれど曹仁の勇は、それらの阻害を物ともせず、四角八面に奮戦し、また牛金もそれを助け、城中からも曹仁の弟の曹純が加勢に出て、むらがる敵へ当ったので、ついに、その日は首尾よく、目的を達して、
「曹仁ここにあり」
の重きを敵へ知らしめた。
で、城中では、その夜、
「まず、合戦の幸先はいいぞ」
と、大いに勝ち戦を賀して、杯をあげていたが、それに反して、序戦に敗れた呉軍の営内では、
「敵に数倍する勢を擁しながら、しかも城中から出てきた兵に不意を衝かれるとは何たる醜態だ」
と、蒋欽、徐盛のともがらは、都督周瑜の面前で、その責めを問われ、さんざん痛罵されていた。
「この上は、自身、南郡の城を一もみに踏みつぶしてみせる」
周瑜は、怒った後で、こう豪語した。
ここ連戦連勝の勢いに誇っていたところなので、蒋欽の些細な一敗も、彼にはひどくケチがついたような気がしたものとみえる。
「ご自身、軽々しい戦いはまずなさらぬほうがよいでしょう」
諫めたのは、甘寧である。
甘寧は、説いた。
「南郡と掎角の形勢を作って、一方、夷陵の城も戦備をかためています。そしてそこには、曹仁と呼応して、曹洪がたて籠っていますから、うかつに南郡だけを目がけていると、いつ如何なる変を起して、側面を衝いてくるかもしれません」
「──では、どうしたがいいか」
「それがしが三千騎を拝借して、夷陵の城を攻め破りましょう」
「よし。そのまに、南郡の城は、わが手に片づける」
手配はなった。
甘寧は、江を渡って、夷陵城へ攻めかかった。
南郡の城の櫓から、それを眺めた曹仁は驚いた。
「これはいかん。寄手の一部が夷陵へ迫った。夷陵の曹洪は困るだろう。何しろまだ防備が完全でないから」
と、陳矯に、急場の処置を諮ったところ、
「ご舎弟の曹純どのに、牛金を副将とし、直ちに急援をおつかわしになったらよいでしょう。夷陵の城が陥ちたら、この南郡城も瀕死になります」と、彼もあわてだした。
そこで曹純と牛金は、にわかに夷陵の救いに馳せつけた。曹純は外部から城内の曹洪と聯絡をとって、
「力によらず、謀略を主として、敵を欺こうではないか」と、一計を約束した。
甘寧は、それとも知らず、前進また前進をつづけ、敗走する城兵を追い込んで、
「意外にもろいぞ」
と、一挙、占領にかかった。
曹洪も出て奮戦したが、実は、策なので、たちまち支え難しと見せかけて、城を捨てて逃げた。
日暮れに迫って、甘寧の軍勢は、残らず城内へなだれ入り、凱歌をあげて、誇っていたが、なんぞ測らん、曹純、牛金の後詰が、諸門を包囲し、また曹洪も引っ返してきて、勝手を知った間道から糧道まで、すべて外部から遮断してしまったので、寄手の甘寧と曹純はまったく位置をかえて、孤城の中に封じこまれてしまった。
この報らせが、呉軍に聞えたので、周瑜は重ね重ね眉をしかめ、
「程普。何か策はないか」と、評議に集まった面々を見まわした。
程普はいう。
「甘寧は、呉の忠臣、見殺しはできません。然りといえど、今、兵力を分けて、夷陵へかかれば、敵は南郡の城を出て、わが軍を挟撃して来ましょう」
呂蒙がそれにつづいて、こう意見を吐いた。
「ここの抑えは、凌統に命じて行けば、充分に頑張りましょう。やはり甘寧を救うのが焦眉の急です。てまえに先鋒をお命じあって、都督がお続きくださるなら、必ず十日以内に、目的は達せられるかと思われるが……」
周瑜はうなずいて、さらに、
「凌統。大丈夫か」と、念を押した。
凌統は、ひきうけたが、
「──ただし、十日間がせいぜいです。十日は必ず頑張ってご覧に入れますが、それ以上日数がかかると、それがしはここで討死のほかなきに至るかもしれません」と、いった。
「そんなに日のかかるほどな敵でもあるまい」
と、周瑜は、兵一万に凌統をあとに残して、そのほかの主力をことごとく夷陵方面へうごかした。
途中で、呂蒙が献策した。
「これから攻めに参る夷陵の南には、狭くけわしい道があります。附近の谷へ五百ほどの兵を伏せ、柴薪を積んで道をさえぎり置けば、きっと後でものをいうと思いますが」
周瑜は、容れて、
「その計もよからん」と、手筈をいいつけ、さらに、前進して夷陵へ近づいた。
夷陵の城は桶の如く敵勢に囲まれている。誰かその鉄桶の中へ入って、城中の甘寧と聯絡をとる勇士はないか──と周瑜がいうと、
「それがしが参らん」と、周泰がすすんでこの難役を買って出た。
彼は、陣中第一の駿足を選んでそれにまたがり、一鞭を加えて、敵の包囲圏へ駈けこんで行った。
ただ一騎、弾丸のように駈けてきた人間を、曹洪、曹純の部下はまさか敵とも思えなかった。ただ近づくや否、
「何者だっ」
「待てっ待てっ」と、さえぎった。
周泰は、刀を抜いて剣舞するようにこれを馬上でまわしながら、
「遠く都から来た急使だ。曹丞相の命を帯ぶる早馬なり、貴様たちの知ったことじゃないっ。近づいて蹴殺されるな」と、喚き喚き、疾走して行った。
その勢いで、二段三段と敵陣を駈け抜けてしまい、遂に、夷陵の城下へ来て、
「甘寧、城門を開けてくれ」と、どなった。
櫓からそれを見た甘寧は、どうして来たかと、驚いて迎え入れた。周泰は云った。
「もう大丈夫。安心しろ。周都督がご自身で救いに来られた。そして作戦はこう……」
と、一切をしめし合い、ここに完全な聯絡をとった。
きのう、おかしな男が、ただ一騎、城中へ入ったというし、それから俄然城兵の士気があがっているのを眺めて、寄手の曹洪、曹純は、
「これはいかん」と、顔見あわせた。
「周瑜の援軍が近づいた証拠だ。ぐずぐずしておれば挟撃を喰う。どうしよう?」
「どうしようといっても急には城も陥ちまい。甘寧をわざと城へ誘いこんで袋叩きにするという策は、名案に似て、実は下の下策だったな、こうなってみると」
「今さらそんな繰言をいってみても仕方はない。南郡へも使いが出してあるから、兄の曹仁から加勢に来るのを待つとするか」
「ともかくも一両日、頑張ってみよう」
何ぞ無策なると心ある者なら歯がゆく思ったにちがいない。すぐ次の日にはもう周瑜の大軍がここへ殺到した。曹洪、曹純、牛金などあわてふためいて戦ったものの、もとより敵ではなかった。陣を崩してたちまち敗走の醜態を見せてしまう。
のみならず、周瑜の急追をよけて、山越えに出たはいいが、途中のけわしい細道までかかると、道に積んである柴や薪に足をとられ、馬から谷へ落ちる者や、自ら馬をすてて逃げ出すところを討たれるやらで、さんざんな態になってしまった。
呉の軍勢は、勝ちに乗って、途中、敵の馬を鹵獲すること三百余頭、さらに進撃をつづけて、遂に南郡城外十里まで迫って来た。
南郡の城に入った曹洪、曹純などは、兄の曹仁を囲んで、暗澹たる顔つきを揃えていた。今にして、この一族が悔いおうていることは、
「やはり丞相のおことばを守って、絶対に城を出ずに、最初からただ城門を閉じて守備第一にしておればよかった」という及ばぬ愚痴だった。
「そうだ! 忘れていた」
曹仁は、その愚痴からふと思い出したように、膝を打った。それは曹操が都へ帰る時、いよいよの危急となったら封を開いてみよ、といってのこして行った一巻の中である。その中にどんな秘策がしたためてあるかの希望であった。
ここ、周瑜の得意は思うべしであった。まさに常勝将軍の概がある。夷陵を占領し、無事に甘寧を救い出し、さらに、勢いを数倍して、南郡の城を取り囲んだ。
「……はてな? 敵の兵はみな逃げ支度だぞ。腰に兵糧をつけておる」
城外に高い井楼を組ませて、その上から城内の敵の防禦ぶりを望見していた周瑜は、こうつぶやきながらなお、眉に手をかざしていた。
見るに、城中の敵兵は大体三手にわかれている。そしてことごとく外矢倉や外門に出て、その本丸や主要の墻の陰には、すこぶる士気のない紙旗や幟ばかり沢山に立っていて、実は人もいない気配であった。
「さては、敵将の曹仁も、ここを守り難しとさとって、外に頑強に防戦を示し、心には早くも逃げ支度をしておると見える。──よし。さもあらばただ一撃に」と、周瑜は、みずから先手の兵を率い、後陣を程普に命じて、城中へ突撃した。
すると一騎、むらがる城兵の中から躍り出て、
「来れるは周瑜か。湖北の驍勇曹洪とは我なり。いざ、出で会え」と、名乗りかけて来た。
周瑜は、一笑を与えたのみで、
「夷陵を落ちのびた逃げ上手の曹洪よな。さる恥知らずの敗将と矛を交えるが如き周瑜ではない。誰か、あの野良犬を撲殺せい」と、鞭をもって部下をさしまねいた。
「心得て候う」と、陣線を越えて、彼方へ馬を向けて行ったのは呉の韓当であった。
人交ぜもせず、二人は戦った。交戟三十余合、曹洪はかなわじとばかり引きしりぞく。
するとすぐ、それに代って、曹仁が馬を駈け出し、大音をあげて、
「気怯れたか周瑜、こころよく出て、一戦を交えよ」と、呼ばわった。
呉の周泰がそれに向って、またまた曹仁を追い退けてしまった。ここに至って、城兵は全面的に崩れ立ち、呉軍は勢いに乗って、滔々と殺到した。
喊鼓、天をつつみ、奔煙、地を捲いて、
「今なるぞ。この期をはずすな」
と、周瑜の猛声は、味方の潮を率いてまっ先に突き進んでゆく。
息もつかせぬ呉兵の急追に、度を失ったか曹仁、曹洪をはじめ、城門へも逃げ込み損ねた守兵は、みな城外の西北へ向って雪崩れ打って行った。
すでに周瑜は城門の下まで来ていた。見まわすところ、ここのみか城の四門はまるで開け放しだ。──いかに敵が狼狽して内を虚にしていたかを物語るように。
「それっ、城頭へ駈け上って、呉の旗を立てろ」と、もう占領したものと思いこんでいた周瑜は、うしろにいる旗手を叱咤しながら、自身も城門の中へ駈けこんだ。
すると、門楼の上からその様子をうかがっていた長史陳矯が、
「ああ、まさにわが計略は図にあたった。──曹丞相が書きのこされた巻中の秘計は神に通ずるものであった!」と、感嘆の声を放ちながら、かたわらの狼煙筒へ火を落すと、轟音一声、門楼の宙天に黄いろい煙の傘がひらいた。
とたんに、あたりの墻壁の上から弩弓、石鉄砲の雨がいちどに周瑜を目がけて降りそそいで来た。周瑜は仰天して、駒を引っ返そうとしたが、あとから盲目的に突入してきた味方にもまれ、うろうろしているうちに、足下の大地が一丈も陥没した。
陥し穽であったのだ。上を下へとうごめく将士は、坑から這い上がるところを、殲滅的に打ち殺される。周瑜は、からくも馬を拾って、飛び乗るや否、門外へ逃げ出したが、一閃の矢うなりが、彼を追うかと見るまに、グサと左の肩に立った。
どうっと馬から転げ落ちる。そこを敵中の一将牛金が、首を掻こうと駈けてくるのを、呉の丁奉、徐盛らが、馬の諸膝を薙ぎ払って牛金を防ぎ落し、周瑜の体をひっかついで呉の陣中へ逃げ帰った。
壕におちいって死ぬ者、矢にあたって斃れる者など、城の四門で同様な混乱におとされた呉軍の損害は、実におびただしい数にのぼった。
「退鉦っ。退鉦をっ」と、程普はあわてて、総退却を命じていた。
そして、南郡の城から、思いきって遠く後退すると、早速、
「何よりは、都督のお生命こそ……」
と、軍医を呼んで、中軍の帳の内に横たえてある周瑜の矢瘡を手当させた。
「ああ、これはご苦痛でしょう。鏃は左の肩の骨を割って中に喰いこんでいます」
医者はむずかしそうな顔をしかめて、患部をながめていたが、傍らの弟子に向って、
「鑿と木槌をよこせ」と、いった。
程普が驚いて、
「こらこら、何をするのだ」と、怪しんで訊くと、医者は、患者の瘡口を指さして、
「ごらんなさい。素人が下手な矢の抜き方をしたものだから、矢の根本から折れてしまって、鏃が骨の中に残っているではありませんか。こんなのが一番われわれ外科の苦手で、荒療治をいたすよりほか方法はありません」と、いった。
「ううむ、そうか」
と、ぜひなく唾をのんで見ていると、医者は鑿と槌をもって、かんかんと骨を鑿りはじめた。
「痛い痛いっ。たまらん。やめてくれ」
周瑜は、泣かんばかり、悲鳴を発した。医者は、弟子の男と、程普に向って、
「こう、暴れられては、手術ができません。手脚を抑えていてくれ」
と、その間も、こんこん木槌を振っていた。
荒療治の結果はよかった。苦熱は数日のうちに癒え、周瑜はたちまち病床から出たがった。
「まだまだ、そう軽々しく思ってはいけません。何しろ鏃には毒が塗ってありますからな。なにかに怒って、気を激すと、かならず骨傷と肉のあいだから再び病熱が発しますよ」
医者の注意を守って、程普はかたく周瑜を止めて中軍から出さなかった。また諸軍に下知して、「いかに敵が挑んできても、固く陣門を閉ざして、相手に出るな」と、厳戒した。
城兵は以来ふたたび城中に戻って、いよいよ勢いを示し、中でも曹仁の部下牛金は、たびたびここへ襲せて来ては、
「どうした呉の輩。この陣中に人はないのか。中軍は空家か。いかに敗北したからとて、いつまで、ベソをかいているのだ。いさぎよく降伏するなり、然らずんば、旗を捲いて退散しろ」と、さんざんに悪口を吐きちらした。
けれど、呉陣は、まるでお通夜のようにひッそりしていた。牛金はまた日をあらためてやって来た。そして、前にもまさる悪口雑言を浴びせたが、
「静かに。静かに……」と、程普は、ただ周瑜の病気の再発することばかり怖れていた。
牛金の来訪は依然やまない。来ては辱めること七回に及んだ。程普はひとまず兵を収めて、呉の国元へ帰り、周瑜の瘡が完全に癒ってから出直そうという意見を出したが、諸将の衆評はまだそれに一致を見なかった。
かかる間に、城兵は、いよいよ足もとを見すかして、やがては曹仁自身が大軍をひきいて襲せてくるようになった。当然、いくら秘しても周瑜の耳に聞えてくる。周瑜もさすがに武人、がばと病床に身を起き直して、
「あの喊の声はなんだ」と、訊ねた。
程普が、答えて、
「味方の調練です」というと、なお耳をすましていた周瑜は、俄然、起ち上がって、
「鎧を出せ。剣をよこせ」と、罵った。そして、「大丈夫たる者が、国を出てきたからには屍を馬の革につつんで本国に帰るこそ本望なのだ。これしきの負傷に、無用な気づかいはしてくれるな」
と、云い放ち、遂に帳外へ躍り出してしまった。
まだ癒えきらない後ろ傷の身に鎧甲を着けて、周瑜は剛気にも馬にとびのり、自身、数百騎をひきいて陣外へ出て行った。
それを見た曹仁の兵は、
「やッ周瑜はまだ生きていたぞ」と、大いに怖れて動揺した。
曹仁も、手をかざして、戦場を眺めていたが、
「なるほど、たしかに周瑜にちがいないが、まだ金瘡は癒っておるまい。およそ金瘡の病は、気を激するときは破傷して再発するという。一同して彼を罵り辱めよ」と、軍卒どもへ命令した。
そこで、曹仁自身も先に立ち、
「周瑜孺子。さき頃の矢に閉口したか。気分は如何。矛は持てるや」
などと嘲弄した。
彼の将士も、その尾について、さんざん悪口を吐きちらすと、たちまち、怒面を朱泥のようにして、周瑜は、
「誰かある、曹仁匹夫の首を引き抜け」
と叫び、自身も馬首を奮い立てて進まんとした。
「潘璋これにあり。いでそれがしが」
と、周瑜のうしろに控えていた一将が、駈け出そうとする途端に、周瑜は、くわっと口を開き、血でも吐いたか、矛を捨てて、両手で口をふさぎながら、どうと、馬の背から転げ落ちた。
それと見て、敵の曹仁は、
「ざまを見よ。彼奴、血を吐いて死したり」と、一斉に斬り入ってきた。
呉軍は色を失って、総くずれとなり、周瑜の身を拾って、陣門へ逃げこんだ。この日の敗北もまた惨たるものであった。
憂色深き中に周瑜は取巻かれていた。だが、彼は案外、元気な容子で、医者のすすめる薬湯など飲みながら、味方の諸将へ話しかけて、
「きょう馬から落ちたのは、わざとしたので、金瘡が破れたのではない。曹仁が漫罵の計を逆用して、急に血を吐いた真似をして見せたのだ。さっそく陣々に喪旗を立て、弔歌を奏でて、周瑜死せりと噂するがいい」と、いった。
次の日の夕方ごろ、曹仁の部下が城外で、呉兵の一将隊を捕虜にして来た。訊問してみると彼らは、
「昨夜ついに、呉の大都督周瑜は、金瘡の再発から大熱を起して陣歿されました。で、呉軍は急に本国へ引揚げることに内々きまったようですから、所詮、呉に勝ち目はありません。勝ち目のない軍について帰っても、雑兵は、いつまで雑兵で終るしかありませんから、一同談合して降参に来たわけです。もしわれわれをお用い下さるなら、今夜、呉陣へ案内いたします。喪に服して意気銷沈している所へ押襲せれば、残る呉軍を殲滅し得ることは疑いもありませぬ」
曹仁、曹洪、曹純、陳嬉、牛金などは、鳩首して密議にかかった。その結果、深更に及んで、呉の陣へ、大襲を決行した。
ところが、陣中は、旗ばかり立っていて、人影もなかった。寥々として、捨て篝が所々に燃え残っている。
「さては早、ここを払って、引揚げたか?」
と疑っていると、たちまち、東門から韓当、蒋欽、西門から周泰、潘璋。南の門からは徐盛、丁奉。北の柵門からも陳武、呂蒙などという呉将の名だたる手勢手勢が、喊を作り、銅鑼をたたき、一度に取籠めて猛撃して来たため、空陣の袋に入っていた曹仁以下の兵は、度を失い、さわぎ立って、蜂の巣のごとく叩かれたあげく、士卒の大半を討たれて、八方へ潰乱した。
曹仁、曹純、曹洪など、みな自分らの南郡へ向って逃げたが、途中、呉の甘寧が道をさえぎっていたので、城内へ入ることもできず、遂に、襄陽方面へ遁走するのほかなかった。
死せる周瑜は生きていた。この夜、周瑜は十分に勝ちぬいて、意気すこぶる旺に、程普をつれて、乱軍の中を縦横し、いでこの上は南郡の城に、呉の征旗を高々と掲げんものと、壕の辺まで進んでくると、こは抑いかに、城壁の上には、見馴れない旗や幟が、夜明けの空に、翩翻と立ちならんでいる。
そしてそこの高櫓の上には、ひとりの武将が突っ立って、厳に城下を見下していた。
怪しんで、周瑜が、
「城頭に立つは、何者か」と、壕ぎわから大音にいうと、先も大音に、
「常山の趙雲子龍、孔明の下知をうけて、すでにこの城を占領せり。──遅かりし周瑜都督、お気の毒ではあるが、引っ返し給え」と、城の上から答えた。
周瑜は仰天して、空しく駒を返したが、すぐ甘寧をよんで荊州の城へ馳せ向け、また凌統をよんで、
「即刻、襄陽を奪い取れ」と、命じた。
──われ、孔明に出しぬかれたり!
周瑜の心中は、すこぶる穏やかでなかったのである。この上は、時を移さず、荊州、襄陽の二城を取って、その後に南郡の城を取り返そうと肚をきめたものだった。
ところが、たちまち、早馬が来て、
「荊州の城にもすでに張飛の手勢が入っている」と、告げた。
「げッ、何として?」と疑っているところへ、またまた、襄陽からも早馬が飛んで来て、
「時すでに遅しです。襄陽城中には、関羽の軍がいっぱいに入って、城頭高く、玄徳の旗をひるがえしている」と、報らせてきた。
周瑜が、その仔細を聞くと、こうであった。孔明は南郡の城を取るや否や、すぐ曹仁の兵符(印章)を持たせて人を荊州に派し、(南郡あやうし、すぐ救え)と云い送った。
荊州城の守将は、兵符を信じて、すぐ救援に駈け出した。留守を測っていた孔明は、すぐ張飛を向けてそこを占領し、同時にまた、同様な手段で、襄陽へも人をやった。
(われ今あやうし。呉の兵を外より破れ)と、いう檄である。
襄陽を守っていた夏侯惇も、曹仁の兵符を見ては、疑っているいとまもなく、直ちに城を出で、荊州へ走った。
かねて孔明の命をうけていた関羽は、すぐ後を乗っ取ってしまった。かくて南郡、襄陽、荊州の三城は、血もみずに、孔明の一握に帰してしまったものである。
周瑜の驚きかたは、ひと通りや二通りではない。失神せんばかり面色を変えて、
「いったい、どうして、曹仁の兵符が、孔明の手になんかあったのか」と、叫んだ。
程普が、首を垂れていった。
「孔明、すでに荊州を取る。荊州の城にいた魏の長史陳矯は、城に旗の揚がるよりも先に、孔明に生擒られてしまったにちがいありません。兵符は常に、陳矯が帯びていたものです」
聞くや否、周瑜は、
「──あっ」と床に仆れた。
怒気を発したため、金瘡の口が破れたのだった。こんどは計ではない。ほんとに再発したものである。
だが、人々の看護によって、ようやく蘇生の色をとりもどすと、周瑜はなお牙を噛んで、
「だから、だからおれは疾くから、孔明を危険視していたのだ。もし孔明を殺さずんば、いつの日かこの心は安んずべき。見よ、今に!」と、罵った。
そしてひたすら南郡の奪回を策していると、一日、魯粛が来て、
「いかがです。ご気分は」と、見舞った。
周瑜はもう寝てなどいなかった。意気軒昂を示して、
「近々のうち、玄徳、孔明と一戦を決し、かの南郡を手に入れた上はいちど呉へ帰って少し養生しようと思う」と、語った。すると、魯粛は、
「無用です、無用無用」と、首を振った。
魯粛はいう。
「いま、曹操と戦って赤壁に大捷を得たといっても、まだ曹操そのものは仆しておりません。成敗の分れ目はこれからです。一面に、呉君孫権には、先頃からまた、合淝方面を攻めておらるる由。──そんな態勢をもって、ここでまたも、玄徳と戦端を開いたら、これは曹操にとって、もっとも乗ずべき機会となりましょう」
周瑜にも、その不利は、当然分っていたが、彼のやみ難い感情が、頑として、いうのであった。
「わが大軍が、赤壁に魏を打破るためには、いかに莫大なる兵力と軍費の犠牲を払ったか知れない。然るに、その戦果たる荊州地方を何もせぬ玄徳に横奪りされて黙止しておられるか」
「ごもっともです。それがしが玄徳に対面して、篤と、道理を説いてみましょう」
魯粛はすぐ南郡城へ使いした。その姿を見るや、城頭のいただきから、守将趙雲が声をかけた。
「呉の粛公。何しに見えられたか」
「備公にお目にかからんがために」
「劉皇叔には、荊州の城においで遊ばされる。荊州へ行き給え」
ぜひなく、彼はその足で、荊州へ急いだ。
荊州の城を訪うてみると、旌旗も軍隊も街の声も、今はすべて玄徳色にいろどられている。──ああと、魯粛は嘆ぜさるを得なかった。
「やあ、お久しゅうございました」
迎えたのは、孔明である。礼儀はきわめて篤い。賓主の座をわかつやすぐ、魯粛は彼を責めた。
「曹軍百万の南征で、第一に擒人となるものは、おそらくあなたのご主君備公であったろうと思う。それをわが呉の国が莫大な銭粮を費やし、兵馬大船を動員して、必死に当ったればこそ、彼を撃破し、お互いに難なきを得ました。その戦果として、荊州は当然、呉に属していいものと考えられるが、ご辺はどう思われるか」
孔明は、笑って、
「これは異なおことば。荊州は荊州の主権のもので、曹操のものでもなし、呉に属さねばならぬ理由もない国です」
「とは、なぜか」
「荊州の主、劉表は死なれた。しかし遺孤の劉琦──すなわちその嫡子はなおわが劉皇叔のもとに養われている。皇叔と劉琦とは、もとこれ同宗の家系、叔父甥のあいだがら、それを扶けて、この国を復興するに、何の不道理がありましょうや」
魯粛は、ぎくとした。
ここまでの深謀が孔明にあったとは、さすがの彼も気づかなかったからである。
「いや。……その劉琦は、たしか江夏の城にいると聞いておる。よも、この荊州の主としてはおられまい」
孔明は、左右の従者に向って、
「──賓客には、お疑いとみえる。琦君をこれへ」と、小声で命じた。
やがて後ろの屏風が開くと、弱々しい貴公子が、左右の手を侍臣に取られて、数歩前に歩いて客に立礼した。見ると、まぎれなき劉琦である。
「ご病中なれば、失礼遊ばされよ」
孔明のことばに、琦君は、すぐ屏をふさいで奥へかくれた。魯粛は、黙然と首をたれてしまう。孔明はなおいった。
「琦君、一日あれば、一日荊州の主です。あのご病弱ゆえ、もし夭折されるようなご不幸があれば、また別ですが」
「では、もし劉琦が世を辞し給う日となったら、この荊州は、呉へ還し給え」
「公論、明論。それなら誰も異論を立てるものはありますまい」
それから大いに馳走を出して歓待したが、魯粛は心もそぞろに、帰りを急ぎ、すぐ周癒に会って仔細を話した。
「──長いことはありません。劉琦の血色をみるに、近々、危篤におちいりましょう。ここしばらく」
と、なだめているところへ、折も折、呉主孫権から早馬が来て、総軍みな荊州を捨てて柴桑まで引揚げろ、という軍令であった。
荊州、襄陽、南郡三ヵ所の城を一挙に収めて、一躍、持たぬ国から持てる国へと、その面目を一新しかけてきた機運を迎えて、玄徳は、
「ここでよい気になってはならぬ──」と、大いに自分を慎んだ。
「亮先生」
「何ですか」
「労せずして取った物は、また去ることも易しとか。三ヵ所の城は、先生の計一つで、余りにやすやすとわが手に落ちたが、それだけに長久の策を思わねばならんと考えるが」
「ごもっとものお言葉には似ておりますが、決して然らずです。三ヵ所の城が一挙にお手に入ったのも、実にわが君が多年の辛苦から生れたもので、やすやすと転げこんで来たのではありません」
「でも、一戦も交えず、一兵も損せずに、この中央にわが所を得たのは、余りに好運すぎる」
「ご謙遜です。みな君の御徳と、積年の労苦がここに結集したものです。はやい話が、君にその積徳とご努力が過去になかったら、この孔明ひとりでも、今日、お味方の内にはいなかったでしょう」
「では先生、どうかさらに、玄徳が労苦をかさね、徳を積んでゆく長久の計をさずけて欲しい」
「人です。すべては人にあります。領地を拡大されるごとに、さらにそれを要としましょう」
「荊、襄の地に、なお遺賢がいるだろうか」
「襄陽宜城の人で、馬良、字を季常という、この者の兄弟五人は、みな才名高く、馬氏の五常と世間からいわれていますが、中で馬良はもっとも逸材で、その弟の馬謖も軍書を明らかに究め、万夫不当の武人です」
「召したら来るだろうか」
「幕賓の伊籍は親しいと聞いております。伊籍から迎えさせては如何です」
「そうしよう」
早速、玄徳は、伊籍に諮って、迎えの使いをやった。
馬良はやがて城へ来た。雪を置いたように眉の白い人であった。馬氏の五常、白眉を良しと、世間に評があった。
玄徳は、彼にたずねた。
「御身はこの地方の国情には詳しかろう。わしは近頃、三城を占めて、ここに君臨したものだが、この先の計は、どうしたが最も良いか」
「やはり劉琦君をお立てになることでしょう。ご病体ですからこの荊州の城に置かれて、旧臣をよび迎え、また都へ表を上せて、琦君を荊州の刺史に封じておあげなさい。人心はみな、あなたのご仁徳と公明なご処置に随喜して懐きます。──それを強味に、それを根本に持って、あなたは南の四郡を伐り取ったがよろしいかと思われます」
「その四郡の現状は」
「──武陵には太守金旋があり、長沙には韓玄、桂陽には趙範、零陵には劉度などが、おのおの地盤を占めております。この地方は総じて、魚米の運輸よろしく、地も中原に似て、肥沃です。もって長久を計るに足りましょう」
「それへ攻め入るには」
「湘江の西、零陵(湖南省・零陵)から手をつけるのが順序でしょう。次に桂陽、武陵と取って、長沙へ進攻するのが自然かと思います。要するに、兵の進路は流れる水です。水の行くところ、自然の兵路といえるでしょう」
賢者の言は、みな一つだった。玄徳は自信を得た。味方の誰にも異論はなかった。
建安十三年の冬、彼の部下一万五千は、南四郡の征途に上った。
趙雲は後陣につく。
もちろん玄徳、孔明はその中軍にあった。
この時も、関羽は留守をいいつかり、あとに残って、荊州の守りを命ぜられた。
玄徳の軍来る! ──の報は、たちまち零陵を震駭せしめた。戦革の世紀にあっては、どこの一郡一国であろうと、この世紀の外に安眠をむさぼっていることはできなかったのである。
零陵の太守劉度は、嫡子の劉延をよんで、
「いかに玄徳を防ぐか」を、相談した。
父の顔色には怯えが見えている。劉延は切歯して、
「関羽、張飛などの名がものものしく鳴り響いていますが、わが家中にも、邢道栄があるではありませんか」と、励ました。
「邢道栄ならそれに当り得るだろうか」
「彼ならば、関羽、張飛の首を取るのも、さしたる難事ではありますまい。つねに重さ六十斤の大鉞を自由に使うという無双な豪傑ですし、胸中の武芸もまた、いにしえの廉頗、李牧に優るとも劣るものではありません。日頃から豪勇の士を何のために養っておかれるのですか」
劉延は、そういって父に一万騎を乞い、その邢道栄を先陣に立てて、城外三十里に陣取った。
玄軍一万五千は、すでにこの辺まで殺到した。漠々の戦塵はここに揚り、刻一刻、その領域は侵された。
「反国の賊、流離の暴軍、なにゆえ、わが境を侵すか」
乱軍の中へ馬を出し、邢道栄は大音に云って迫った。有名なる彼の大鉞は、すでに鮮血に塗られていた。
すると、彼の前に、一輛の四輪車が、埃をあげて押し出されて来た。見ればその上に、年まだ二十八、九としか思われぬ端麗な人物が、頭に綸巾をいただき、身には鶴氅を着、手に白羽扇を持って、悠然と乗っている。──何かしらぎょッとしたものを受けたらしく、邢道栄が悍馬の脚を不意に止めると、車上の人は、手の白羽扇をあげてさしまねきながら、
「それへ来たのは、鉞をよく振るとかいう零陵の小人か。われはこれ南陽の諸葛亮孔明である。聞きも及ばずや、さきに曹操が百万の軍勢も、この孔明が少しばかりの計を用うるや、たちまち生きて帰る者はひとりもない有様であった。汝ら、湖南の草民ずれが、何するものぞ。すみやかに降参して、民の難を少なくし、身の生命をひろえ」
「わははは。聞き及ぶ孔明とかいう小利巧者は貴様だったか。青二才の分際で、戦場に四輪車を用うるなどという容態振りからして嘔吐が出る。赤壁で曹操を破ったものは、呉の周瑜の智とその兵力だ。小賢しいわれこそ顔、片腹いたい」
喚き返すやいな、大鉞を頭上にふりかぶり、悍馬の足を、ぱっと躍らせてきた。
孔明の四輪車は、たちまち、ぐわらぐわらッと一廻転した。後ろを見せて、逃げだしたのである。進むにも退くにも、それは大勢の力者が押し、そして無数の刀槍でまわりを守り固めて行く。
「待てッ」
邢道栄は、追いかけた。
車は渦巻く味方をかき分けて深く逃げこみ、やがて柵門の中へ駈け入ってしまった。
「孔明孔明。首をおいて行け」
邢道栄はあきらめない。大波を割るように、鉞の下に、敵兵を睥睨し、いつか柵門もこえて、なお彼方此方、四輪車の行方をさがしていた。すると、山の腰に黄旗を群れ立てて、じっとしていた一部隊が、むくむくと此方へうごいてきた。その真先に馬を躍らしてきた一人の大将は、偉大な矛を横たえて、
「劉皇叔のもとに、人ありと知られたる、燕人張飛とは、すなわちわが事。おのれは果報者だぞ、おれの手にかかるとは」
と、雷のようにかかって来た。
「何をっ。──この鉞が目に見えぬか」
邢道栄は、自信満々、大きな表情をしてそれを迎えたが、一丈八尺の大矛と、六十斤の鉞では得物において互角だったが、力量にかけて邢道栄は張飛に及ばぬこと遠かった。
「かなわん」と、見きりをつけて、大鉞は逃げ出した。ところが、その先へ迫って、また一名の強敵が、彼の道へ立ちふさがった。
「常山の趙雲子龍とはそれがしなり。道栄っ、無用の鉞を地に捨てよ」
邢道栄は、馬を下りた。馬を下りることは、降参を意味する。
趙雲はすぐ彼を縛りあげて、本陣へ引っ立てた。
玄徳は、ひと目見て、
「斬れ」と、いったが、孔明はそれを止めて、邢道栄にこう告げた。
「どうだ、汝の手で、劉延を生捕ってくれば、助命はもちろん、重く用いてつかわすが」
「いと易いこと。この縄目を解いて、それがしを放ち帰して下さるならば──」
「しかし、どういう方法で、劉延を生捕るか」
「夜を待って、こよい劉延の陣へ攻め入り給え。それがし内より内応して、かならず劉延を擒人としてみせます。劉延が捕われれば、その父なる太守劉度も、ご陣門に降ってくるにきまっておる」
傍らで玄徳は聞いていたが、彼の口うらの軽々しいのを察して、
「詐言はおのずから色にあらわれる。軍師、こんな者を用いるのは無用である。早く首を刎ねられよ」と、重ねていった。
孔明はなお、そのことばに反いて、顔を横に振りながら、
「いやいや、私が観るに、邢道栄の言に嘘はないようです。人物にも観どころがある。有能はこれを惜しみ、努めてこれを生かすことが、真の大将たるものの任です。よろしく彼の計にしたがい、今夜のことを決行しましょう」
即座に、その縄を解いて、彼は邢道栄を放してやった。
命びろいをして、邢道栄は味方の陣へ逃げ帰り、すぐ劉延の前へ出て、
「今夜が決戦の分れ目に相成ろう」と、仔細を告げた。
「すわ、油断ならじ」と、劉延は防ぎにかかった。しかし昼間の合戦で、玄徳軍の当るべからざる手並を見ているので、正防法によらず、奇防策を採った。
陣中の柵内には、旗ばかり立てて、兵はみなほかに埋伏していた。そして夜も二更の頃になると果たして、一団の軍勢が、手に手に炬火をもち、喊声をあげ、近づくやいな陣屋陣屋などへ火をかけた。
「来たぞ。引っ包め」
劉延、邢道栄の兵は、あらぬ方角から二手に分れて殺到し、押し包んでこれを殲滅にかかった。
寄手の兵は、隊を崩して、どっと逃げ退く。
勝ちに乗って、劉延、邢道栄は、それを追い捲り、追い捲りて、十里の余も駈けた。
──だが、案外、逃げた兵数は薄いのに気がついた。いくら追っても、それだけの兵で、後続も側面もなく、いわゆる軍の厚みがない。
「深入りすな」
劉延は、邢道栄を呼びとめた。そして、
「陣屋の火も消さねばならん。これだけ勝てば、まず充分。この辺で引揚げよう」
と、取って返した。その帰り途である。
「道栄道栄。どこをまごついているのだ。張飛ならこれにおるぞ」
と、道の傍らから殺出してきた人影がある。それへつづく一隊は、逃げた敵とは全然士気を異にして、破竹のごとく、劉延、邢道栄の軍を中断して、不意をついた。
「や、や。さては敵にも、何か計があったか」
あわてふためいて、彼らは自陣へ逃げこもうとした。すると、その火はもうあらかた消されていたが、その余燼の内から、
「趙雲子龍。これにて、汝らの帰るを待てり」
と、思わぬ一軍が、自分たちの陣中から現れたのみか、狼狽して逃げ戻ろうとした邢道栄は、ついにここで趙雲子龍の槍にかけられ、無残な死をとげてしまった。劉延も、生捕られた。
夜の白々明けには、孔明の四輪車の前に、劉延の父劉度もまた、降伏を誓いに出ていた。
玄徳、孔明は轡をならべて、零陵へ入城した。
前の太守劉度は、そのまま郡守としてここに置き、子の延は軍に加えて、さらに、桂陽(湖南省・榔県)へ進んだ。
桂陽へ攻め寄せる日。
「たれがまず先陣するか」と、玄徳が諸将を見わたした。
「それがしが!」と、一人が手を挙げたとたんにすぐ、張飛もおどり出て、
「願わくは此方を!」と、希望した。
先に手を挙げたのは趙子龍であった。孔明は、
「趙雲の答えが少し早かった。早いほうに命ぜられては」
孔明が、迷っている玄徳へそういった。ところが、張飛は肯かない。
「返事の早いか遅いかで決めるなど、前例がありません。何故、てまえをお用いなされぬか」
「争うな」
孔明は、仕方なく前のことばを撤回した。そして、
「さらば、鬮をひけ」と責任をのがれた。
趙雲が「先」という字の鬮に当った。張飛の引いたのは「後」である。
「冥加、冥加」
と趙雲はよろこび勇んだが、張飛は甚だよろこばない。なおまだくずぐず云っていたが、
「未練というものだぞ」と、玄徳に叱られて、ようやく陣列へすがたを退いた。
趙雲は、手勢三千を申し受けた。孔明から、
「それで足りるか」
と念を押されて、
「もし敗戦したら軍罰をこうむりましょう」と、豪語した。
このことばを誓紙として、趙雲子龍は、一挙に桂陽城奪取に馳せ向った。
桂陽城には、世に聞えた二人の勇将がいた。ひとりは鮑龍といい、よく虎を手擒にするといわれ、もう一名は陳応と称して、いわゆる力山を抜くの猛者だった。
「いま、玄徳の軍を見てからでは、もう防塁を築くことも、強馬精兵を作る日のいとまもない。しかず、早く降参して、せめて旧領の安泰を縋ろうではないか」
太守の趙範は、すこぶる弱気だった。それを叱咤して、
「かいなきことを宣うな。藩中に人なきものならいざ知らず──」
と、強硬に突っ張っていたのは前に掲げた鮑龍、陳応の二将であった。
「敵の劉玄徳は、天子の皇叔なりなどと僭称していますが、事実は辺土の小民、その生い立ちは履売りの子に過ぎません。──関羽、張飛、また不逞の暴勇のみ、何を恐れて、桂城の誇りを、自ら彼らの足もとへ放擲なさろうとしますか」
「でも、これへ向って来ると聞く趙雲子龍は、かつて当陽の長坂坡で、曹軍百万の中を駈け破った勇者ではないか」
「その趙雲と、この陳応と、いずれが真の勇者であるか、とくと見届けてから降参しても遅くはありますまい」
非常な自信である。
太守趙範も、やむなく抗戦ときめた。陳応は四千騎をひっさげて、城外に陣を展き、
「破れるものなら破ってみよ」と、強烈な抗戦意志を示した。
寄手は近づいた。
両軍接戦となるや、趙雲子龍は馬おどらせて、敵将陳応に呼びかけ、
「劉皇叔。さきに世を去り給いし劉表の公子琦君をたすけて、ここに安民の兵馬をすすめ給う。矛を投げ、城門をひらいて迎えよ」といった。
陳応はあざ笑って、
「われわれが主と仰ぐは、曹丞相よりほかはない。汝らはなぜ許都へ行って、丞相のお履でも揃えないか」と、からかった。
この陳応という者は、飛叉と称する武器を良く使う。二股の大鎌槍とでもいうような凄い打ち物である。
だが、趙雲に向っては、その大道具も児戯に見えた。
馬と馬を駈け合わせて戦うこと十数合。もう陳応は逃げ出していた。
「口ほどでもないやつ」と、追いかけると、陳応は、何をっと喚いて、飛叉を投げつけた。趙雲は、それを片手に受けて、
「返すぞ」と、とっさに投げ返した。
陳応の馬が、竿立ちになった。趙雲は猿臂をのばして、その襟がみを引っつかみ、陣中へ持ち帰って訓戒を与えた。
「およそ喧嘩をするにも、相手を見てするがいい。汝らのたのむ兵力と、劉皇叔の精鋭とは、ちょうど今日のおれと貴様との闘いみたいなものだ。今日のところは、放してやるから、城中へ戻って、よく太守趙範にも告げるがいい。何も求めて滅亡するにはあたるまい」
と陳応は野鼠のように城へ逃げ帰った。
太守の趙範は、
「それ見たことか」と、初めに強がった陳応をかえって憎み、城外へ追い出してしまった後、あらためて趙雲子龍へ、降参を申し入れた。
趙雲は満足して、この従順な降将へ、上賓の礼を与え、さらに酒など出してもてなした。
趙範は、途方もなく喜悦して、
「将軍とてまえとは、同じ趙氏ですな。同姓であるからには、先祖はきっと一家の者だったにちがいない。どうか長く一族の好誼をむすんで下さい」
と、兄弟の盃を乞い、なお生れ年をたずねたりした。
生れた年月を繰ってみると、趙雲のほうが四ヵ月ほど早く生れている。趙範は額をたたいて、
「じゃあ、貴方が兄だ」
と、もう独りぎめに決めて、嬉しいずくめに包まれたような顔して帰った。
次の日、書簡が来た。
実に美辞麗句で埋っている。
そんな物をよこさなくても、趙雲は堂々入城する予定であったから、部下五十余騎を引率して、城内へ向った。
許都、襄陽、呉市などから較べれば、比較にならないほど規模の小さい地方の一城市だが、それでもこの日は、郡中の百姓みな香をたいて辻に出迎え、商戸や邸門はすべて道を掃いていた。城に入ると、趙雲はすぐ、
「四門に札を揚げい」と命じた。
四民に対して、政令を示すことだった。これは、一城市を占領すると、例外なく行われることである。
終ると、趙範は、自ら迎えて、彼を招宴の席に導いた。
そこで降参の城将が、この後の従順を誓う。
趙子龍は大いに酔った。
「席をかえましょう。興もあらたまりますから」
後堂へ請じて、また佳肴芳盞をならべた。後堂の客は、家庭の客である。下へもおかないもてなしとはこの事だった。
だいぶ酩酊して、
「もう帰る」と、趙子龍が云い出した頃である。まあまあと引き止めているところへ、ぷーんと異薫が流れて来た。
「おや?」と、趙子龍が振り向いてみると、雪のような素絹をまとった美人が楚々と入ってきて、
「お呼び遊ばしましたか」と、趙範へいった。
趙範はうなずいて、
「ああ。こちらは、子龍将軍でいらっしゃる。しかもわが家と同じ趙姓だ。おちかづきをねがって、何かとおもてなしするがいい」と、席へ倚らせた。
趙子龍は改まって、
「こちらはどなたですか」
と、その美貌に、眼を醒ましたように、趙範をかえりみて訊ねた。
「私の嫂です」
と、趙範はにやにや紹介した。
すると、趙子龍は、容をあらためて、ことばも丁寧に、
「それは知らなかった。召使いと思うて、つい」と、失礼を詫びた。
趙範は、傍らからその美人へ向って、お酌をせいとか、そこの隣りへ坐れとか、しきりに世話を焼きだしたが、趙子龍が、「無用、無用」と、疫病神でも払うように手を振ってばかりいるので、せっかくの美人もつまらなそうに、立ち去ってしまった。
趙雲は、その後で、趙範に咎めた。
「何だって嫂ともあるお方を、侍婢かなんぞのように、軽々しく、客席へ出されるのか」
「いや、──実はこうです。そのわけというのは、彼女はまだ若いのですが、てまえの兄にあたる良人に死別れ、寡となってから三年になります。もうしかるべき聟をとったらどうだと、それがしはすすめていますが、嫂には、三つの希望があるのです。一つは、世に高名を取り、二つには先夫と氏姓の同じな者、三つには文武の才ある人という贅沢なのぞみなので」
「うーむ」
趙雲は、失笑をもらした。
けれど趙範は熱心に、
「いかがでしょう。将軍」
「なにがだ」
「嫂の日頃の希望は、さながら将軍の世にあるを予知して、これへ見えられる日を待っていたように、将軍のご人格とぴったり合っています。ねがわくは妻として将軍の室に入れて下さらんか」
聞くと、趙雲は、眼をいからして、いきなり拳をふりあげ、
「不埓者っ」
ぐわんと、趙範の横顔を、なぐりつけた。
趙範は、顔をかかえて、わっと、転がりながら、
「何をするのだ。無態な」と、喚いた。
趙雲は起ち上がって、
「無態もくそもあるか。汝のような者を蛆虫というのだ」
と、もう一つ蹴とばした。
「蛆虫とな。け、けしからんことを。──慇懃に、かくの如く、礼を厚うしているそれがしに、蛆虫とは」
「人倫の道を知らぬやつは蛆虫にちがいなかろう。嫂をもって、客席へ侍らすさえ、言語道断だ。それをなお、此方の妻にすすめるとは女衒にも劣る畜生根性。──貴様の背骨はよほど曲がっているな」と、さらに、趙範をぎゅうぎゅう踏みつけて、ぷいと、そこを出てしまった。
趙範は起き上がって、うろうろしていたが、やがて陳応、鮑龍を呼んで、
「いまいましい趙子龍めが、何処へ行ったか」と、肩で息してみせた。
二人は口を揃えて、
「ここを出るや、馬に飛び乗って城外へ馳けて行きました」と、告げた。そしてまた、「こうなったら徹底的に勝敗で事を決めるしかありますまい。われわれ両名は、詐って、これから子龍の陣へ行き、彼をなだめておりますから、太守には夜陰を待って、急に襲撃して下さい。さすれば、われわれ両名が、陣の中から呼応して彼奴の首を掻き取ってみせます」
しめし合わせて、二人は城外へ出て行った。
一隊の兵に、美酒財宝を持たせ、やがて趙子龍の陣所へ訪れた。そして地上に拝伏して、
「どうか、主人の無礼は、幾重にもおゆるし下さい。まったく悪気で申しあげたわけではないと云っておりますから」と、額を叩いて詫び入った。
趙子龍は、彼らの詐術であることを看破していたが、わざと面をやわらげ、土産の酒壺を開かせて、「きょうは、せっかくの所を、酔い損ねてしまった。大いに酔い直そう」といって、使いの二人にも、大杯をすすめた。
陳応、鮑龍のふたりは、「わが事成る」と、すっかり油断してしまったらしい。趙雲のもてなしに乗って泥のように酔ってしまった。
趙雲は、頃をはかって、至極簡単に二人の首を斬り落した。そして彼の部下らにも酒を振舞い、引出物を与えなどしておいて、
「此方の手勢について働けばよし、さもなくば、陳応、鮑龍のようにするがどうだ」
と、首を示して説いた。
五百の部下は、降伏して、たちまち趙雲の手勢に加わることを約した。趙雲はその夜のうちに、この五百名を先頭に立たせ、後から千余騎の本軍をひきいて、桂陽の城へ押し襲せた。
城主趙範は、使いにやった鮑龍、陳応が帰って来たものとばかり信じていた。門を開けて、
「首尾はどうだった?」と、味方の五百人へ訊ねた。
すると、その後から、趙子龍以下、千余の軍勢がなだれこんで来たので、仰天したが、もう間に合わなかった。
趙子龍は何の苦もなく、趙範を生捕りとし、城旗を蹴落して、新たに玄徳の旗をひるがえし、
「桂陽の占領はなり終んぬ」と、事の次第を、遥かなる玄徳、孔明のところへ早馬した。
日を経て、玄徳は入城した。孔明は直ちに、虜将趙範を趙雲にひかせて、階下に引きすえ、一応、その口述を聞いた。
趙範は、哀訴して、
「もともとてまえは本心から降参してご麾下に加わることを光栄としていたのです。ところが、てまえの嫂を子龍将軍に献じようと申したのが、なぜか将軍の怒りにふれて、再度城を攻撃され、それがしまで、このような縄目にかけられた次第でして、何ゆえの罪科をもってこんな目に遭うのか諒解に苦しみます」
孔明はまた趙子龍に向って、
「美人といえば、愛さぬ人はないのに、御身はなぜ怒ったのか」と、訊いてみた。
趙子龍はそれに答えた。
「そうです。私も美人は嫌いではありません。けれど、趙範の兄とは、遠い以前、故郷で一面識があるものです。今、それがしがその人の妻をもって妻としたら、世の人に唾されましょう。また、その婦人がふたたび嫁ぐときは、その婦人は貞節の美徳を失います。次にはそれを拙者にすすめた趙範の意中もただ真偽のほどは知れず、さらに考えさせられたことは、わが君が、この荊州を領せられても、まだ日は浅いということでした。新占領治下の民心は決してまだ安らかではありません。しかるにその翼臣たるそれがし輩が、いち早く驕りを示し人民の範たることを打ち忘れ、政治を怠りなどしていたら、せっかく、わが君の大業もここに挫折するやも知れません。すくなくも、ここに民望をつなぎ得ることはできません。──以上の諸点を考えては、いくら好きな美人であろうとそれがしの意をとらえるには足りません」
温顔に笑みを含んで聞いていた玄徳は、そのとき側から口を開いてまた、子龍にいった。
「──しかし、今はもうこの城も、わが旗の下に、確乎と占領されたのだから、その美人を娶って、溺れない程度に、そちの妻としても誰も非難するものはないだろう。玄徳が媒人してとらせようか」
「いや、お断りします。天下の美人、豈、一人に限りましょうや。それがしは、唯それがしの武名が、髪の毛ほどでも、天下に名分が立たないようなことがあってはならん──と、それのみを怕れとします。何で妻子がないからといって、武人たるものが、憂愁を抱きましょう」
玄徳も孔明も、黙然とふかくうなずいたまま、後は多くもいわなかった。趙子龍こそ真に典型的な武人であると、後には人にも語ったことであったが、その時はわざと一片の恩賞をもって賞したに止まった。
このところ髀肉の嘆にたえないのは張飛であった。常に錦甲を身に飾って、玄徳や孔明のそばに立ち、お行儀のよい並び大名としているには適しない彼であった。
「趙雲すら桂陽城を奪って、すでに一功を立てたのに、先輩たるそれがしに、欠伸をさせておく法はありますまい」
と、変に孔明へからんで、次の武陵城攻略には、ぜひ自分を──と暗に望んだ。
「しかし、もしご辺に、不覚があった場合は」
孔明が、わざと危ぶむが如く、念を押すと、
「軍法にかけて、この首を、今後の見せしめに献じよう」
張飛は、憤然、誓紙を書いて示した。
「さらば行け」と、玄徳は彼に兵三千をさずけた。張飛は勇躍して、武陵へ馳せ向った。
「大漢の皇叔玄徳の名と仁義は、もうこの辺まで聞えています。また張飛は、天下の虎将。──その軍に向って抗戦は無意味でしょう」
こういって、太守金旋をいさめたのは、城将のひとり鞏志という者だった。
「裏切者。さては敵に内通の心を抱いているな」
金旋は怒って、鞏志の首を斬ろうとした。
人々が止めるので、その一命だけは助けてやったが、彼自身は即座に戦備をととのえて、城外二十里の外に防禦の陣を布いた。
張飛の戦法はほとんど暴力一方の驀進だった。しかも無策な金旋はそれに蹴ちらされて、さんざんに敗走した。
そして城中へ逃げてきたところ、楼門の上から鞏志が弓に矢をつがえて、
「城内の民衆は、みな自分の説に同和して、すでに玄徳へ降参のことにきまった」
と、呶鳴りながら、びゅうんと弦を反らした。
矢は、金旋の面にあたった。鞏志は、首を奪って、城門をひらき、張飛を迎え入れて、元来、玄徳を景慕していた由を訴えた。
張飛は、軍令を掲げて、諸民を安んじ、また鞏志に書簡を持たせて、桂陽にいる玄徳のもとへ、その報告にやった。
玄徳は、鞏志を、武陵の太守に任じ、ここに三郡一括の軍事もひとまず完遂したので、荊州に留守をしている関羽のところへもその由を報らせて、歓びをわけてやった。
すると、関羽からすぐ、返書がきて、
(張飛も趙雲も、おのおの一かどの働きをして実にうらやましく思います。せめて関羽にも、長沙を攻略せよとの恩命があらば、どんなに武人として本望か知れませんが……)
などと、独り留守城にいる無聊を綿々と訴えてきた。
玄徳はすぐ、張飛を荊州へ返して、関羽と交代させた。そしてわずか五百騎の兵を貸して、
「これで長沙へ行け」と、関羽の希望にこたえた。
関羽は、もとより人数の多寡など問うていなかった。即日、長沙へ向うべく準備していると、孔明が、
「羽将軍には注意するまでもないと思うが、戦うにはまず敵の実質を知ることが肝要です。長沙の太守韓玄は取るにも足らん人物だが、久しく彼を扶け、よく長沙を今日まで経営して来た良将がひとりおる。その人はもう年六十に近く、髪も髯も真っ白になっているだろう。しかし、戦場に立てば、よく大刀を使い、鉄弓を引き、万夫不当の勇がある。すなわち湖南の領袖、黄忠という──。ゆえに決して軽々しくは戦えない。もしご辺がそれに向うなれば、さらに、三千騎をわが君に仰いで、大兵を以て当らなければ無理であろう」と告げた。
しかし、何と思ったか、関羽は孔明の忠告も、耳に聞いただけで、加勢も仰がず、たった五百騎を連れてその夜のうちに立ってしまった。
孔明は、その後で、玄徳へ対して、こう注意した。
「関羽の心裡には、まだ赤壁以来の感傷が残っています。悪くすると黄忠のために討死するやも知れません。それに小勢すぎます。わが君自ら後詰して、ひそかに力を添えてやる必要がありましょう」
げにもと、玄徳はうなずいて、すぐ関羽のあとから一軍を率いて、長沙へ急いだ。
彼が、目的地に着いた頃、すでに長沙の城市には、煙が揚っていた。
関羽の手勢は、短兵急に外門を破り、すでに城内で市街戦を起していた。
楊齢というのは、長沙の太守韓玄の股肱の臣で、防戦の指揮官を自分から買って出た大将だったが、この日、関羽がその楊齢を一撃に屠ってしまったので、長沙の兵は潰乱してたちまち城地の第二門へ逃げこんでしまった。
すると、城中からひとりの老将が、奔馬にまたがり、大刀をひっさげて出現して来た。
関羽は、ひと目見るとすぐ、
(さては、孔明が自分にいった黄忠というのは、この老将だな)と感じたので、さっと、彼の前をさえぎって、呼びかけた。
「来る者は、黄忠ではないか」
「そうじゃ。汝は、関羽よな」
「然り。──その白髪首を所望に参った」
「猪口才であろう。まだ汝らのような駈出しの小僧に首を持って行かれるほど、長沙の黄忠は老いぼれてはおらぬ」
なるほど──と関羽も戦いに入ってから舌を巻いた。
彼の偃月の青龍刀も、黄忠の大刀に逆らわれては、如何とも敵の体へ触れることができなかった。
この決戦は、実に堂々たる一騎打ちの演出であったとみえ、両軍とも、あまりの見事さに、固唾をのんで見とれてしまったといわれている。しかも、なお勝負のつく色も見えなかったが、城の上からそれを眺めていた太守韓玄は秘蔵の一臣を、ここで討たれては味方の大事と心配し出して、
「退き鉦を打て、黄忠を退かせろ」と、高矢倉から叫び出した。
たちまち耳を打つ退き鉦の音に黄忠は、ぱっと馬をかえした。そして急速度に城中へ駈けこむ兵にまじって、彼の馬もその影を没しかけた。
「好敵、待ち給え」
関羽は、追撃して、執拗に敵へ喰い下がった。ぜひなく、黄忠もまた馬をめぐらして二、三十合斬りむすんだが、隙を見て、濠の橋を渡り越えた。
「卑怯なり。名ある武将のする業か」と辱めながら、関羽の馬蹄は、なお橋を踏み鳴らして、しかも今度は、前よりも近く、黄忠の姿を、偃月刀の下に見おろしたのであった。
けれど、関羽は、折角、振りかぶった大青龍刀を、なぜか、敵の頭に下さなかった。
そして、
「あら無残。早々、馬を乗り代えて、快く勝負を決せられよ」といった。
黄忠は、馬と一緒に、地上に転んでいたのである。何かにつまずいて彼の乗馬が前脚を挫き折ってしまったためだった。
しかし、乗り代える馬もないので黄忠は味方の歩兵にまじって、危うくも、城壁の内へ駈けこんだ。この間にも、追えば追いつけるものを、関羽は彼方へ引っ返してしまった。
太守韓玄は、冷や汗をながしていたらしく、黄忠を見ると、すぐいった。
「きょうの不覚は、馬の不覚。汝の弓は、百度放って、百度あたる。明日は、関羽を橋のあたりまでおびき寄せ、手練の矢をもって、彼奴を射止めて見せてくれ」
と励まし、自分の乗馬の蘆毛を与えた。
夜が明けると、関羽はまた、手勢わずか五百ばかりだが、勇敢に城下へ迫って来た。
黄忠は、きょうも陣頭に姿をあらわし、関羽と激闘を交えたが、やがて昨日のように逃げ出した。そして橋の辺まで来ると、振りかえって弓の弦をぶんと鳴らした。関羽は身をすぼめたが、矢はこなかった。
橋を越えると、黄忠はまた、弓を引きしぼった。しかし今度も、弦は空鳴りしただけだった。
ところが、三度目には、ひょうッと矢うなりがして、まさしく一本の矢が飛んできた。そしてその矢は、関羽の盔の纓を、ぷつんと、見事に射止めていた。
関羽も胆を寒うした。黄忠の弓術は、いにしえの養由が、百歩をへだてて柳の葉を射たという──それにも勝るものだと思った。
「さては、きのうのわが情けを、今日の矢で返したものか」
そうさとったので、関羽は、なおさら舌をふるって、その日は兵を退げてしまった。
一方の黄忠は、城中へもどるとすぐ、太守韓玄の前へ理不尽に引っ立てられていた。
韓玄はもってのほかの立腹だ。声を励まして、黄忠を罵り辱めた。
「城主たるわしに眼がないと思っているのか。三日の間、わしは高櫓から合戦を見ていたのだぞ。然るに、きょうの戦は何事だ。射れば関羽を射止め得たのに、汝は、弓の弦ばかり鳴らして、射たと見せかけ、故意に助けたのではないか。言語道断。察するところ、敵と内通しているにちがいない。恩知らずめ。その弓は、やがて主へ向って引こうとするのだろう」
「ああ、ご主君!」
黄忠は、涙をたれながら、なにか絶叫した──。早口に、その理由を、云い開こうとしたのである。
だが、耳をかす韓玄ではなかった。即刻、刑場へ曳き出して斬れとどなる。諸将が見かねて、哀訴嘆願をこころみたが、
「うるさいっ。やかましい。諫めるものは同罪だぞ」と、いう始末。
長沙の名将黄将軍も、今は刑場の鬼と化すかと、刑にあたる武士や吏員までがかなしんでいたが、たちまち、その執行直前に、周囲の柵を蹴破って、躍りこんで来た壮士がある。
この人、面は丹で塗った棗の如く、目は朗らかにして巨きな星に似ていた。生れは義陽。魏延、字は文長という。
もと荊州の劉表に仕え、一方の旗頭に推されていたが、荊州没落の後、長沙に身を寄せていたものである。
しかし、日頃から韓玄は、彼の偉材を、かえって忌み嫌い、むしろ他国へ逐いやってしまいたいような扱いをしていたので、魏延はひそかに、今日の機会を、待っていたものと思われる。
「あれよ」と、人々のさわぐまに、彼は、黄忠の身を攫って、刑場から脱してしまった。それからわずか半刻の後には、自分の部下を引き具して、城中の奥へ駈け入り、太守韓玄の首を斬って、関羽の陣門へ降っていた。
「さらば、疾く」
と、関羽は一挙に長沙の城へ入って、城頭に勝旗をかかげ、城下一円に軍政の令を布いた。
「黄忠は、どうしているか」
その後ですぐ訊ねると、魏延は、
「それがしが韓玄を斬るべく奥へ向った時、眼をふさぎ耳を抑えて、自分の邸へ駈けこんで行きました」
「戦は熄んだ。では、迎えをやろう」
と、再三、関羽から使いを出したが、黄忠は病に托して出てこない。
かかるうちに玄徳は、関羽の早馬をうけて、
「さすがは」と、彼の功を賞しながら、孔明と馬をならべて、長沙の市門へ急いでいた。
その途中、先頭に立てていた青い軍旗の上に、一羽の鴉が舞い下がって啼くこと三度、北から南の空へ飛び去った。
「先生。何か凶兆ではないでしょうか」と、孔明に訊くと、
「いや、吉兆です」と、孔明は、衣の下で何か指をくりながら、卜をたてて答えた。
「これは、長沙の陥落と共に、良将を獲たことを祝福して、鴉が天告をもたらして来たものです。かならず何かいい事がありましょう」
果たせるかな、玄徳は、黄忠、魏延のことを、間もなく、出迎えの関羽から聞いた。
「──病に托して門を出ないのは、黄忠の旧主にたいする忠誠にほかならない。自分が行って迎えてこよう」
と、玄徳は、直ちに駕を命じて、黄忠の閉ざせる門を訪れた。その礼に感じて、ついに黄忠も、私邸の門をひらいて降参し、同時に、旧主韓玄の屍を乞うて、城の東へ手あつく葬った。
玄徳は、即日、法三章を掲げて、広く新領土の民へ布告した。
一、不忠不孝の者斬る
一、盗む者斬る
一、姦する者斬る
また、功ある者を賞し、罪ある者を罰して、政を明らかにした。
関羽がひとりの壮士を携えて出頭したのは、そうした繁忙の中であった。
「だれだ、その者は」
玄徳がたずねると、関羽は、自分の傍らに拝跪礼をとっている男へ向って、
「劉皇叔でいらせられる。ご挨拶を申し上げなさい」と、いった。
男は、叉手の礼をしたまま、黙然と面をあげた。朱面黒眉唇大きく鼻秀で、容貌見るべきものがある。
「これはかねて、お耳に入れておいた魏延です。善政の初めに、魏延の功にも、ご一言なりと下し給わらば有難うぞんじまする」
関羽のことばに、玄徳は、おおと膝を打って、
「黄忠を救い、真っ先に長沙の城門を開いた勇士魏延か。さすがに名ある武者の骨柄も見ゆる。賞せずにおこうや」と、まず敬って、階の上に請じようとすると、突如、
「不義士っ。階を汚すなかれ!」
勃然と叱った者がある。
あっと驚いて、その人を見ると、孔明だった。孔明はまた玄徳へ向って直言した。
「魏延に賞を賜うなど以てのほかです。彼、もとより韓玄とは、何の仇あるに非ず。かえって、一日でもその禄を食み、かりそめにも、主君とたのみ、仰いでいた人です。それを、一朝の変に際し、たちまち殺してご麾下に馳せ参ず。──これ味方にとっては大幸といえますが、天下の法を道に照らしては、免し難き不忠不義です。君いまこの不仁の徒を見給い、これを斬って諸人に示すほどなご公明がなければ、新領土の民も服しますまい」
孔明は、武士を呼んで、即座に魏延を斬れと命じた。
玄徳は、明らかに、その決断を欠いた。いやかえって、孔明の命をさえぎって、
「待て、待て」
と、武士たちを制し、孔明をなだめて、魏延のために、命乞いをすらしたのである。
「味方に功を寄せ、また降順をちかい、折角、わが麾下へひざまずいて来た者を、たちまち、罪をかぞえて斬りなどしたら、以後、玄徳の陣門に降を乞う者はなくなるだろう。魏延はもと荊州の士、荊州の征旗を見て帰参したのは、決して不義ではない。韓玄に一日の禄をたのんだといえ、韓玄も実心をもって彼を召抱えたわけでもなく、魏延もそれに臣節を以て仕えたわけではなかろう。彼の心はもとから荊州へ復帰したい念願であったにちがいない。いかなる人間でも落度をかぞえれば罪の名を附すことができる。どうか一命は助けてとらすように」
玄徳の弁護は、まるで骨肉をかばうようだった。孔明は、沈黙してしまったが、なおそれを免すにしても、こう彼自身の信念を注意しておくことを忘れなかった。
「露骨にいいますと、今、私が魏延の相を観るに、後脳部に叛骨が隆起しています。これ謀叛人によくある相であります。ですから、いま小功を挙げて、これを味方にするも、後々、かならず叛くに違いありません。むしろ今、誅を加えて、禍いの根を断ったほうがよろしいかと存じたのでありますが、わが君がそれほどまで、ご不愍をおかけ遊ばすものを、孔明とて、如何とも致し方はありません」
「……魏延、聞いたか。かならず今日のことを忘れずに、異心を慎めよ」
玄徳にやさしく諭されて、魏延はただ感泣に咽せていた。
玄徳はまた、劉表の甥の劉磐という者が、荊州滅亡の後、野に隠れていることを黄忠から耳にして、わざわざこれを捜し求め、すなわち長沙の太守として、少しも惜しむところがなかった。
ほどなく玄徳は、荊州へ引揚げた。
中漢九郡のうち、すでに四郡は彼の手に収められた。ここに玄徳の地盤はまだ狭小ながら初めて一礎石を据えたものといっていい。
魏の夏侯惇は、襄陽から追い落されて、樊城へ引籠った。
彼についてそこへ行かずに、身を転じて、玄徳の勢力に附属して来る者も多かった。
玄徳はまた北岸の要地油江口を公安と改めて、一城を築き、ここに軍需品や金銀を貯えて、北面魏をうかがい、南面呉にそなえた。風を慕って、たちまち、商賈や漁夫の家が市をなし、また四方から賢士剣客の集まって来るもの日をおうて殖えていた。
一方。
呉の主力は、呉侯孫権の直属として、赤壁の大勝後は、その余勢をもって、合淝の城(安徽省・肥)を攻めていた。
ここの守りには魏の張遼がたてこもっていた。さきに曹操が都へ帰るに当って、特に、張遼へ託して行った重要地の一つである。
赤壁に大捷した呉軍も、合淝を攻めにかかってからは、いっこう振わなかった。
それもそのはず張遼の副将にはなお李典、楽進という魏でも有名な猛将が城兵を督していたのである。寄手は連攻連襲をこころみたが、不落の合淝に当り疲れて城外五十里を遠巻きにし、
「そのうちに食糧がなくなるだろう」と空だのみに恃んでいた。
ところへ、魯粛が来た。
孫権が、馬を下りて、陣門に出迎えたので、
「粛公は大へんな敬いをうけたものだ」と、諸兵みな驚いた。
営中に入ると、孫権は、魯粛に向って、意識的にいった。
「きょうは特に馬を下りて出迎えの礼をとった。この好遇は、いささか足下のなした赤壁の大功を顕すに足りたろうか」
魯粛は、首を振った。
「いうに足りません。その程度の表彰では」
孫権は、眼をみはって、
「では、どれ程に優遇したら、そちの功を顕すに足りるというのか」
「さればです」と、魯粛がいった。
「わが君が、一日も早く、九州のことごとくを統べ治めて、呉の帝業を万代にし給い、そのとき安車蒲輪をもって、それがしをお迎え下されたら、魯粛の本望も初めて成れりというものでしょう」
「そうか。いかにも!」
二人は手を打って、快笑した。
けれど魯粛はその後で、せっかく上機嫌な呉侯に、ちといやな報告もしなければならなかった。
それは、周瑜が金創の重態で仆れたことと、荊州、襄陽、南郡の三要地を、玄徳に取られたことの二つだった。
「ふふむ……周瑜の容態は、再起もおぼつかない程か」
「いや、豪気な都督のことですから、間もなく、以前のお元気で恢復されることとは思いますが……」
話しているところへ、今、合淝の城中から一書が来ましたと、一人の大将が、うやうやしく、呉侯の前に書簡をおいて行った。ひらいてみると、張遼からの決戦状であった。
呉の大軍は蠅か蛾か。いったいこの城を取巻いて、何を求めているのであるか。
文辞は無礼を極め、甚だしく呉侯を辱めたものだった。孫権は、赫怒して、
「よしっ、その分ならば、わが真面目を見せてくれよう」
と、翌早朝に陣門をひらいて、甲鎧燦爛と、自身先に立って旭の下を打って出た。
城からも、張遼をまん中に、李典、楽進など主なる武者は、総出となって押しよせて来た。
「呉侯、見参っ」
と、張遼は一本槍に、その巨物を目がけて行った。すると、馬蹄に土を飛ばして、
「下司っ、ひかえろ」
と、一大喝しながら立ちふさがった者がある。呉の大将太史慈であった。
呉の太史慈といえばその名はかくれないものだった。呉祖孫堅以来仕えてきた譜代の大将であり、しかも武勇はまだ少しも老いを見せていない。
魏の張遼とはけだし好敵手といってよかろう。双方、長鎗を交えて烈戦八十余合に及んだが、勝負は容易につかなかった。
この間隙に、楽進、李典のふたりは、大音をあげて、
「あれあれ、あれに黄金の盔をいただいたる者こそ、呉侯孫権にまぎれもない。もしあの首一つ取れば、赤壁で討たれた味方八十三万人の仇を報ずるにも足るぞ。励めや、者ども」
と下知して、自分たちもまっしぐらに喚きかかった。
孫権の身は、今や危うかった。電光一撃、李典の鎗が迫った時である。
「さはさせじ!」と、敢然横合いからぶつかって行った者がある。これなん呉の宋謙。
それと見て、楽進が、
「邪魔なっ」
と、間近から、鉄弓を射た。矢は宋謙の胸板を射抜く。どうっと、宋謙が落ちる。とたんに、砂煙を後に、孫権は逃げ走っていた。
張遼と太史慈とは、まだ火をちらして戦っていたが、この中軍の崩れから、敵味方の怒濤に押され、ついにそのまま、引き分れてしまった。
孫権は逃げる途中、なお幾度か危機にさらされたが、程普に救われて、ようやく無事なるを得た。
しかし、この日の敗戦が彼の心に大きな痛手を与えたことは争えない。帰陣の後、涙をながして、
「宋謙を失ったか」と、痛哀してやまなかった。
長史張紘は、よい時と考えて、
「こういう失敗は、良き教訓です。君はいま御年も壮なために、ともすれば血気強暴にはやり給い、呉の諸君は、為にみな、しばしば、心を寒うしています。どうか匹夫の勇は抑えて、王覇の大計にお心を用いて下さい」
と、諫めた。
孫権も、理に服して、
「以後は慎む」と、打ちしおれていたが、翌日、太史慈が来てこういうことを耳に入れた。
「それがしの部下に、戈定という者がいます。これが張遼の馬飼と兄弟なのです。依って、密かに款を通じ、城中から火の手をあげて、張遼の首を取ってみせんといっております。で、それがしに今宵五千騎をおかし下さい。宋謙が仇を取ってみせましょう」
孫権は、たちまち心をうごかして、
「その戈定はどこにいるのか」と、たずねた。
太史慈は答えて、
「もう城中にいるのです。昨日の合戦に、敵勢の中にまぎれて、難なく城中に入りこんでいるわけで」
「では首尾はよいな」
「大丈夫です。こんどこそは」
太史慈は自信にみちていった。
孫権がこれを以て、昨日の敗辱をそそぐには好機おくべからざるものと乗り気になったことはいうまでもない。
馬飼というのは、いわゆる馬廻り役の小者であろう。張遼の馬飼と、太史慈の部下戈定とは、その晩、城中の人なき暗がりでささやき合っていた。
「ぬかるな。……丑の刻だぞ」
「心得た。おれが、馬糧小屋をはじめ諸所へ火をつけて廻るから、おめえは、謀叛人だ、裏切者だ、と呶鳴ってまわれ」
「よしよし。おれも一緒になって火をつけながら、呶鳴りちらす」
「火の手と共に、城外から太史慈様が攻めこむことになっている。どさくさまぎれに、西門を内から開くことも忘れるなよ」
「合点合点。忘れるものか。一代の出世の鍵は今夜にありだ」
「……しっ。誰か来た」
ふたりは人の跫音に、あわてて左右にわかれてしまった。
守将の張遼は、きのうの城外戦で、大きな戦果をあげたにもかかわらず、まだ部下に恩賞も頒たず、自分も甲の緒すら解いていなかった。
多少、不平の気を帯びた副将や部将たちは、暗に、彼の小心を嗤った。
「敵はきのうの大敗で、すでに遠く陣地を退げてしまったのに、遼将軍にはなぜいつまで、甲も解かず、兵に休息もさせないのですか」
張遼は、答えた。
「勝ったのは、昨日のことで、今日はまだ勝っていない。明日のこともまだ勝っていない。いわんや全面的な勝敗はまだまだ先が知れん。およそ将たるものは、一勝一敗にいちいち喜憂したりするものではない。こよいはことに夜廻りをきびしくし、すべて、物具を解かず、昼夜四交代の制をそのまま、かりそめにも防備の気をゆるませぬように励まれよ」
すると果たしてその夜の深更に至って、妙に城中がざわめき出したと思うと、
「謀叛人があるぞっ」
「裏切者だ、裏切者だ」と、いう声が聞え出した。
張遼には、狼狽はなかった。すぐ寝所から出て城中を見廻った。もうもうと何か煙っている。諸所にぼうと赤い火光も見える。
「おう、将軍ですか」
楽進がそこへ駈けつけて来た。眼色を変えて、次にいった。
「城中に謀叛人が起ったようです。軽々しく外へお出にならんほうがよろしい」
「楽進か。何をあわてているのだ大丈夫、あわてるな」
「でも、あの喊声、あの火の手、由々しき騒動です」
「いやいや、わしは最初から眼を醒ましていたからよく聞いていた。裏切者と呶鳴る声も、出火だ、謀叛人だと告げ廻っている声も、ふた色ぐらいな声でしかない。おそらく、一両人の者が城中を攪乱するためにやった仕事だろう。それに乗せられて混乱する味方自身のほうがはるかに危険だ。──足下はすぐ城兵を取鎮めに行け。みだりに騒ぐ者は斬るぞと触れまわれ」
楽進が去ると間もなく、李典が二人の男を縛って連れてきた。城中攪乱を目論んでたちまち看破されてしまった張本人の戈定と馬飼の小者だった。
「こやつか。斬れっ」
二つの首は、無造作に斬って捨てられた。──とも知らず、かねてその二人としめし合わせのあった寄手の一軍と、その首将太史慈は、
「しめた。火の手は上がった!」とばかり、城門へ殺到した。
とっさに、この事あるをさとった張遼は、城兵を用いて、わざと、
「謀叛人があるぞ」
「裏切者だぞ」と、諸方で連呼させながら、西の一門を、故意に内から開かせた。
「──すわや」と、太史慈はよろこび勇んで、手勢の先頭に立って壕橋を駈け渡り、西門の中へどっと喚き込んだ。とたんに、一発の鉄砲が、轟然と四壁や石垣をゆるがしたと思うと、城の矢倉の陰や剣塀の上から、まるで滝のように矢が降りそそいで来た。
「あっ! しまった」
太史慈は、急に引返したが、一瞬のまに射立てられた矢は全身に刺さってまるで針鼠のようになっていた。
李典、楽進の輩は、この図にのって城中から大反撃に出た。ために、呉軍は大損害をこうむり、逆に、攻囲の陣を払って、南徐の潤州(江蘇省・鎮江市)あたりまで敗退するのやむなきに至ってしまった。
しかもまた、譜代の大将太史慈をも遂にこの陣で失ってしまった。死に臨んで太史慈はこう叫んで逝ったという。
「大丈夫たるもの、三尺の剣を帯びて、この中道に仆る。残念、いうばかりもない。しかし四十一年の生涯、呉祖以来三代の君に会うて、また会心なことがないでもなかった。ああ、しかしなかなか心残りは多い」
その後、玄徳の身辺に、一つの異変が生じた。それは、劉琦君の死であった。
故劉表の嫡子として、玄徳はあくまで琦君を立ててきたが、生来多病の劉琦は、ついに襄陽城中でまだ若いのに長逝した。
孔明はその葬儀委員長の任を済まして、荊州へ帰ってくると、すぐ玄徳へ求めた。
「琦君の代りに、誰か、直ちに彼処の守りにおつかわし下さい」
「誰がよいか」
「やはり関羽でしょうな」
孔明も心では、何といっても、関羽の人物を認めていた。
劉琦の死後、玄徳の胸には、一つの不安が醸されていた。呉の孫権が待っていたとばかりに、荊州を返せといってくるにちがいないことである。
「それはやがて必ずいってくることでしょうな。琦君が死んだら荊州を返すと先に約束したことですから……が、ご心配には及びません。そのときは孔明がよろしきように応対します」
孔明がそう慰めていると、それから二十日ばかり後、果たして、
「琦君の喪を弔うため、呉侯孫権のご名代に──」と称して、魯粛が使いに来た。
魯粛は、城中の祭堂に、呉侯からの礼物を供え、悔みを述べた後、玄徳が設けの酒宴に迎えられて、四方山のはなしに時を移していたが、やがてこう切り出した。
「赤壁の大戦の後、わが呉侯から荊州の地を接収に参ったとき、劉皇叔には、琦君の世にあるかぎりは荊州は故劉表の遺子のものであると仰せられた。いまはその琦君も世を去ったことゆえ、もうこの荊州は、呉へお返しあるべきでしょう。──実は、弔慰をかねて、そのことも取りきめて参れと、主君から申しつけられて来たわけですが」
「いや、そのことは、いずれまたあらためて、談合しましょう」
「またとは、いつですか」
「まあ、ここは宴席ですから、国事は」
「後でもおよろしいが、かならず前約を違え給わぬように」
そう魯粛がしつこく念を押していると、突如、孔明がかたわらから言葉に気概をこめて云った。
「粛公、あなただけは、呉の群臣の中でも、物の分ったお人かと思っていたら、今の仰せでは、あまりにも世の本義と事理に没常識すぎるではないか。主君玄徳は、貴方を弔問の賓客として、懇ろにもてなそうとしているのに、露にいうを避けておいで遊ばすゆえ、私が代って一応の道理を申しのべよう。心をしずめてよく聞き給え」
面色をあらためて孔明がそう云い出したので、魯粛は、気をのまれたのか、茫然、その顔を見まもっていた。
「天下は一人の天下にあらず、すなわち天下の人の天下である。高祖、三尺の剣をひっさげて、義を宇内に唱え、仁を布き、四百余年の基を建てられしも、末世現代にいたり、中央は逆臣の府、地方は乱賊の巣と化し、紊れに紊れ、百姓の塗炭は連年歇まざる状態にある。時に、わが君劉玄徳には、その血液に漢室の正脈をつたえ、その義においては、救世の実を天地に誓う。すなわち中山靖王の後裔におわし、現皇帝の皇叔にあたられる。いわんや、荊州の故主劉表とは、血縁の間柄にて、わが君の義兄たり、いまその血統絶え、荊州に主なきにあたって、義弟とし義兄の業を承け継ぐに、何の不義、何の不可とする理由があろう。──ひるがえって、呉侯孫権の素姓をたずぬれば、もとこれ銭塘の小吏の子たるに過ぎず、なんら朝廷に功もなく、ただ呉祖の暴勇に依って、江東六郡八十一州を横奪し得たるにとどまる──。今、孫権その遺産をうけて、何の能もなきに、さらに、慾心を驕り、荊州をも呑まんとするは、身のほど知らずも甚だしい。思え、君臣の統を論ずるなら、わが君の姓は劉、汝の主人の姓は孫、大漢は劉氏の天下たるを知らないか。よろしく百歩の田地をわが君に乞うて、身を農夫と卑下るのが孫権の安全な途というものである。──さらに、赤壁の大捷が誰の功によるか、という問題になれば、なお大いに議論があるが、それはいわぬことにする。敢て、ここではいわぬことにしておく」
弁は水の流るる如く、理は炎の烈々たるに似ている。
その真理と雄弁のまえには、魯粛もさしうつ向いてしまうしかなかった。
──が、彼は恨むがごとく、孔明に答えた。
「公論明白、そう仰っしゃられては、何の抗弁もありません。しかし、それでは先生も、あまりに利己主義だといわれても仕方がありますまい」
「なぜ、私が、利己主義か」
「思い給え」と、こんどは魯粛が攻勢になって──「その以前、劉皇叔が曹操のため大敗をこうむって、当陽にやぶれ果てた後、先生を一帆に乗せて呉の国へともない、切に、わが主孫権を説き、周瑜をうごかして、当時まだ保守的であった呉をして遂に全面的な出兵を見るに至らしめたのはいったい誰でしたろうか」
「それは云うまでもなくあなただ」
「その魯粛は、今日、ここに至って、主君には面目を失い、軍部には不信を問われ、おめおめ国へ帰ることもできぬ窮地におちています。先生には、私の立場には、何の同情もお持ちにならないとみえる」
「…………」
魯粛の温厚なる抗議には、孔明もやや気の毒を覚えたらしい。しばらく考えこんでいたが、やがて新たにこう提議した。
「では、あなたの面目をたてて、荊州はしばらくわが劉皇叔がお預りしているということにしよう。後日、どこか適当な領地を攻略したら、その時、荊州は呉へ開け渡すということにして、証書を入れたら、あなたも主君にお顔が立つであろう」
「どこの国を取って荊州をお返し下さるというのですか」
「中国はすでに、どこへ向っても、魏か呉かに接触する。ひそかに図るに、長江千里の流れ起るところ、西北の奥域、蜀の天地は、まだ時代の外におかれているといっていい」
「では、蜀の国を取らんとお望みになっておられるので」
「然り。蜀を得たあかつきには、荊州をお返しするであろう」
孔明は、紙筆を取寄せて、玄徳にそれを進め促した。玄徳は黙々、呉侯への国際証書をしたためて、印章を加え、
「これでよいのか」と、孔明へ内示した。
孔明もまた筆をとって、保証人として連署した。だが、君臣一家の連帯では、公約にならないから、あなたもこれに名字をのせたがいいと求められて、魯粛も遂に妥協するほかなかった。
魯粛は、この一札を持って、呉へ帰った。途中、柴桑へ寄って、周瑜の病状を見舞いがてら、逐一物語ると、
「ああ、また貴公は、孔明に出し抜かれたのか、何たるお人好しだ。孔明は狡猾の徒、玄徳は奸雄。こんな証文が何になろう。おそらくそのまま呉侯に復命されたら、たちどころに、貴公の首はあるまい。いや、罪九族にも及ぶだろう」と、痛嘆した。
そういわれてみると、呉侯孫権の怒り方が眼に見えてくる。魯粛もその点は甚だ心許なかったのである。──が、今となっては、どうしようもない。途方に暮れるばかりだった。
周瑜も、腹を立てたが、心では魯粛のお人好しに、充分、同情を抱いた。それに彼は、むかし困窮していた頃、魯粛の田舎の家から糧米三千石を借りて助けられたことがある。──それを思い出したので、共に、腕をこまぬいて、
(どうしたらいいか?)と、懸命に思案した。
ふと、周瑜のあたまに浮んだのは、主君孫権の妹にあたる弓腰姫であった。──佳人年はまだ十六、七。
弓腰姫というのは、臣下がつけた綽名である。深窓の姫君でありながら、この呉妹は、生れつき剛毅で、武芸をこのみ、脂粉霓裳の粧いも凛々として、剣の簪をむすび、腰にはつねに小弓を佩き、その腰元たちもみな薙刀を持って室に侍しているというまことに一風変った女性であった。
急に、周瑜は声を落して、魯粛に教えた。
「貴公は、呉侯のお妹君に、謁したことがありはしないか」
「一、二度、お目通りしましたが」
「あの姫を、玄徳へ、嫁がすように、ひとつここで貴公は、その婚縁の媒人に、骨を折ってみられるがよい。──これは貴公の失敗を償い、また荊州を取りかえすに、絶好な妙策であり、今がそのまたなき機会だ」
「えっ。……呉侯の御妹君を玄徳へですって?」
鸚鵡がえしに呟きながら、魯粛は、唖然たる顔つきを示した。
周瑜は、笑って、
「いや、わしの云い方が唐突だから、貴公はびっくりしたかも知れんが、何もこれは決して、突飛な思いつきではない。きわめて合理的に相談は運んで行けると思う」
「どうしてですか。玄徳には正室の甘夫人があるのに、まさか呉侯のお妹君を、彼の側室へなどと……第一そんな縁談を呉侯のお耳へ入れることだってはばかられるではありませんか」
「いやいやそうではない。貴公はまだ知らんのだ。玄徳の正室甘夫人は、病に斃れてなくなっている。赤壁の戦やらその後の転戦で、葬儀も延ばしていたが、間者の報らせでは、荊州城には白い弔旗を掲げていたということだ」
「それは、劉琦の死を悼んでいたのではありませんか」
「ちょうど、劉琦の死とつづいたので、そう思っている者もあるらしいが、わしが聞いたのは、その以前だ。まだ劉琦も死なぬうちに、荊州の城外に新しい墳墓を築いていたというから、よもや劉琦の葬儀ではないだろう」
「それは少しも知りませんでした。では今、玄徳に正室はないわけですか、それにしてもすでに彼は五十歳です。一方、妙齢の呉妹君はお十六かお十七でしょう。……どんなものでしょうな、この花嫁花婿の縁むすびは」
「どうも貴公は、何事もすぐそのまま、真正直に考えるので融通がきかん。もとよりこの婚儀は初めから謀略にきまっている。さきに玄徳は孔明を用いて呉を謀ったから、こんどは此方から計を酬うてくれるのだ。すなわち、そういう斡旋に物馴れた人物をもって、この際、呉国との友好を、より以上親密にせんという理由を表面に立てて、同時に呉妹君との縁談を運ばせるにある」
「さあ? どうでしょうか」
「何を不安な顔して喞たるるか」
「誰よりも、呉侯がご承知にならないでしょう。非常に可愛がっているお妹ですからな」
「だから何も、婚儀は取りむすんでも、輿入れまでなさるには及ばんさ。式典は呉で挙げればいい。婚儀の挙式がすんだら荊州へおつれなさいというわけだ。玄徳に否やはあるまい。要するに、彼を呉へ招いて、花嫁の顔を見せただけで済む。いずれ挙式の前後に、機を計って、刺し殺してしまうのだから」
「ははあ。するとつまり彼を殺害するために、婚儀を行うわけですな」
「もちろん、その目的もなく、何でこんな縁談が云い出せるものか」
「それにしても、それがしから呉侯へおすすめ申すのは、どうも少しまずいと思いますが」
「よろしい。貴公はただ側面から、それとなく主君の御意をうごかし給え。仔細のことや此方の謀略は、べつに詳しくしたためて、この周瑜から呉侯へ手紙を書くから」
「いや、そう願えれば、非常に助かります」
魯粛は、彼の書簡を預かって、それを力に呉都へ帰った。そして早速、呉侯孫権にまみえ、ありのままを復命し、また帰路、周瑜から預かって来た手紙も共に差出した。
はじめに、玄徳の証文を見たときは、案のじょう、孫権は苦りきって、たちまち、魯粛の上へ大鉄槌でも下しそうだったが──次に周瑜からの書簡をひらいて一読し終ると、
「ウーム、なるほど、周瑜の考えは至極妙だ。これこそ天来の鬼謀というものだろう」
と、しばらく、熟慮にふけり、やがて魯粛には、最初の気色とは打って変って、
「ご苦労だった。長途の旅、疲れたろう。きょうはまず休息せい」と、ねぎらった。
数日の後、また召された。こんどは重臣呂範も同席だった。孫権を中心に、周瑜の献策が密々協議されたことはいうまでもない。
その結果、呂範が、荊州へ使いに行くことにきまった。もちろん表面は呉の修交使節としてであるが、目的は例の呉妹君の婚縁にある。
荊州に着いて、玄徳に会うと、呂範はまず両国友好の緊密を力説してから、おもむろに縁談をもちかけた。
「実は、皇叔の夫人甘氏には、疾く逝去られて、今ではお独りとのご事情をうけたまわり、ちと差出がましいが、媒人の労をとらしていただきたいと思うてこれへ来たわけです。どうです、子孫のため、ふたつの国家のため、若いご正室をおむかえになられては」
「ご親切は感謝します。仰せのとおり妻を亡うて、玄徳はいま家庭的には孤独ですが、さりとて、妻とわかれてから、肉まだ冷やかというほどの月日も経っていないうちに、どうして後添えなど持つ気になれましょう。正直、まだ望んでもおりません」
「それはそうでしょうが、家庭に妻のないのは、家屋に梁がないようなものです。皇叔のご前途はなお洋々たるものですのに、何故、一家の事を中道に塞して、人倫を廃さるるのです。──私がおすすめ申したいのは、わが主呉侯のお妹君で、媒人口ではありません、必ず徳操才色ふたつながら兼備した佳人とはあのお方と存じます。もし皇叔にして、娶ってもいいというお心ならば、すみやかに呉の国へお出で下さい。孫権は歓んでお迎えしましょうし、われわれ侍側の者も、挙って、両国の平和のため、この実現に対して、どんな労でも取りますから」
「…………」
玄徳はしばらく黙考していたが、やがてこう訊ねた。
「そのことは、あなた一箇のお考えですか。それとも周瑜あたりから云い出されたことですか。もしくはまた、呉侯のご内意でもあるか……」
「内々、呉侯の御命がなくて、どうして私一箇の思案などから、かような大事をおすすめできましょう。ただ素気ないお断りでもうけると、呉妹君のお名にもさわることですから、それで実はそっと、ご意向をうかがってみるわけですが」
「……いや、そうでしたか。希うてもない良縁ではありますが、玄徳も大丈夫を以て任じてはいるものの、年すでに五十、ご覧のごとく、鬢髪にはやや白いものを呈しておる。聞説、呉侯のお妹は、なお妙齢佳春の人という。私とは余りにふさわしくない配偶ではありませんか」
「いや、いや」
呂範は大きく手を振った。
「年の近いとか少ないとか、そんな数合わせみたいな問題ではありませんよ。これは結婚です。しかも二つの国の平和に関わる問題です。呉侯も実に大事をとっておられ、母公のお案じも、呉妹君のお望みも、一通りなものでないことは、くどくど申すまでもありません。……まげてもひとつ、皇叔のご来遊を願って、この祝い事を成功させたい所以は、誰よりも呉妹君に実はご希望があるわけなのです。……というのは、あのお妹君は、女性におわしながら、志は男子より高く、日頃より、天下の英雄にあらずんばわが夫とはせじ──と仰っしゃっている程ですから、以てお察しがつきましょう。いま、皇叔をもって、あの女性と配せば、それこそいわゆる──淑女ヲ以テ君子ニ配ス──という古語のとおりになると思うのです。ともあれ、ぜひいちど、呉の都へお遊びにお出まし下さいませんか」
呂範はさすがこの使いに選ばれただけの才弁であった。
この日、孔明は、そこに顔を見せず、次室の屏風の陰にいて、じっと、主客のはなしを聞いていた。彼の几の上には、いまたてた易占の算木が、吉か凶か、卦面の変爻を示していた。
呂範はひとまず客館へ退がり、玄徳の返辞を待つこととした。
その夜。玄徳は、孔明以下腹心の諸将をあつめて、呉妹を娶ることの可否、また呉へ行くことの善悪などについて忌憚なき意見を求めた。
「それはぜひご承諾をお与えなさい。そして呉へお出でなさい」
率直にこう勧めたのは孔明であった。玄徳が呂範と対面中に、易をたてて占ってみたところ、大吉の卦が出たというのである。
「──のみならず、ここは彼の策に乗って、かえって我が策を成すところでしょう。すみやかにご許容あって、呉の国に臨み、ご婚儀の典を挙げられるがよいかと思います」
そういう孔明の説に対して、
「いや、これは周瑜の遠謀にちがいない」
とか、
「求めて虎口に入るようなものだ」
とか、それを危険なりとする議論ももとより百出したが、より以上、玄徳にも重視された問題は、折角いま克ち獲たところのこの荊州地方の地盤を、次の躍進に入る段階まで無事に持ちこらえるには、どうしても呉との衝突を避けなければならないと考えられることだった。
「万事は、私の胸に、おまかせ下さい。決して、諸将が憂えるような破滅に君を立ち到らせるような愚はしません」
孔明のことばに信頼して、諸臣も、
「では、異議なし」と、一致した。
玄徳はなお危ぶんでいたが、孔明はそれを力づけて、まず答礼の使いをやってみることにした。呂範と共に、その意味で、呉に下って行った者は家中の孫乾であった。
月日を経て、その孫乾は、呉から帰ってきた。そしていうには、
「呉侯は、それがしを見ると、落胆しました。理由は、呂範と共に、わが君が、すぐにでも呉へお出でになるものと、独り決めに、予期していたらしいのです。それほどに、呉侯自身は、この縁談の成立を熱望しています。もし、この縁が結べれば、両国の平和のため、大慶この上もないことだ。ぜひ、一日も早く参られるよう劉皇叔にすすめて貰いたいと、ねんごろなご希望でした」
とある。
けれどなお、玄徳には、迷っているふうがあった。しかし、孔明は、着々と準備を運び、随員の大将をも、趙雲子龍に任命した。
そして趙雲に、手ずから三つの錦嚢を授けた。呉へ行って事きわまる時は、この嚢を開けて見るがいい。あらかじめ、自分が肝胆を砕いた三ヵ条の計は、この錦の嚢に秘めておいた。これを以て、孔明も共にわが君に随員しておるものと思い、惧るることなくお供して参るがよいとくれぐれも諭した。
建安十四年の冬の初め、華麗なる十艘の帆船は、玄徳、趙雲以下、随行の兵五百人を乗せて、荊州を離れ、長江の大河に入り、悠々千里を南下して呉へ向った。
呉の都門へ入るに先だって、趙雲は孔明から渡された錦の嚢を思い出し、その第一の嚢を開けてみた。すると中の一文には、
(まず、喬国老を訪え)と、書いてあった。
喬家の老主といえば、隠れもない呉の名家である。かつては、曹操までが想いを寄せていたといわれる姉妹の二美人──二喬の父であるばかりでなく、その姉は、呉侯の先代孫策の室に入り、妹は現に、周瑜の夫人となっているので、今ではおのずからこの国の元老と目され、しかもそれに驕らず、彼自身の人がらは昔どおり至って正直律義なところから、なおさら上下の信望は篤く、
喬国老、喬国老。
と、国宝的に一般から崇敬されている人だった。
──まずこの人を訪え。
という孔明が嚢中の言にしたがって、玄徳と趙雲は、相諮って、船中の佳宝や物産を掲げ、また兵士をして、羊をひかせ、酒を担わせ、都街の人目をそばだたせながら、まず喬国老の家へいきなり行った。
喬国老の邸では、この大賓をふいに迎えて、驚きと混雑に、ごった返した。
「えっ。皇叔と呉妹君との結婚の談があったのですって?」
初耳とみえて、喬国老は、桃のような血色を見せながら、眼をまろくした。
「しかし、それは何にしても、大慶のいたりだ。この女性なら皇叔の正室となされても、決して悔いはあるまい。……ところで、呉城の宮中へは、今日ご着船の由を、お届け召されたかの」
玄徳が、上陸早々、ご訪問申したので、まだ呉城へは告げないというと、
「それは、いかん、早速にも」と、すぐ家臣を走らせ、また家族たちに命じては、玄徳の一行を心から歓待させて、「ともあれ、わしも一応、宮中へ伺ってくる」と白馬に乗って登城した。
殿中でも大奥でも、国老は出入自在である。呉侯の老母、呉夫人に会って、すぐ慶びをのべた。
すると呉夫人は、けげんな顔をして、
「なんじゃと、あの玄徳が、権の妹を娶いにきたのですって。……まああつかましい」
と、舌を鳴らした。
喬国老は、あわてて手を振りながら、
「ちがう、ちがう。呉侯のほうから呂範を婚姻の使いにやって、切に望んだので、はるばる、玄徳も呉へやって来たわけじゃ」
「嘘、嘘。国老はわらわをかついで笑おうと召さるの」
「ほんとです。嘘と思し召すならば、街へ人をやってごらんなさい」
呉夫人は、まだ信じない顔で、家士の一名に、城下の見聞をいいつけた。
その者は、街を見て帰ると、すぐ呉夫人の前へ来て語った。
「なるほど、大変に賑やかです。河口には十艘の美船が着き、玄徳の随員だの、五百の兵士は、物珍しげに、市中を見物して歩きながら、豚、酒、土産物の種々など、しきりに買物しながら、わが主劉皇叔には、この度、呉侯のお妹姫と婚礼を挙げるのじゃと、彼方此方で自慢半分にしゃべったものですから、ご城下ではもう慶祝気分で寄るとさわるとそのお噂ですよ」
呉夫人は、哭き出した。
たちまち彼女は、わが子の呉侯孫権のいる閣へと、顔を袖でおおったまま走って行った。
「母公、どうなさいましたか」
「おお権か。いかに老いても、わらわは御身の母ですぞ」
「何を仰っしゃいます、今さら」
「それ程、親を親と思うなら、なぜわらわに無断で、女子の大事な生涯を決めました」
「わけが分りません。なんのことですか、いったい」
「それその通り、わらわを偽こうとするではないか。汝の妹にせよ、彼女はわらわの子。玄徳へ嫁がすことなどいつ許しましたか」
「あっ。誰が、そんなことをお耳へ入れましたので」
「国老に訊いてご覧なさい」
と、母公は眼できめつけた。
呉夫人のうしろへ来て立っていた喬国老は、
「そう御母子のお仲で争うことはないでしょう。もう国中の人民も知っていることですから。わしもそのため、お慶びを申しあげに来たわけじゃ」
と、うららかに胸を伸ばして万歳の意を表した。
孫権は、難渋した顔いろで、
「いや、そのことなら、実はすべて周瑜の謀略なのだ。いま荊州を取らんには、またぞろおびただしい軍費と兵力を消費せねばならん。偽って婚礼と号し、玄徳をわが国へ呼び入れて、これを殺せば、荊州は難なく呉のものとなる。それゆえに、呂範をやって……」
云いかける口をおさえて、
「聞く耳は持ちません!」
と、呉夫人は前にも増して怒り出した。そして口を極めてその計を誹った。
「憎や、周瑜ともある者が、匹夫にも劣る考え。おのれ、呉の大都督として、八十一州の兵を閲、君の大禄をいただきながら、荊州を攻め取るぐらいなこともできず、わらわの最愛な息女を囮にして玄徳を誘い、騙し討ちに殺して事を成そうとは……ええ、なんたる無能ぞ。わらわの生きている間は、決して彼女をそんな謀略の囮に用いることは許しません」
母公にとっては、孫権よりも、その妹のほうが、可愛くて可愛くて、たまらないものらしいのである。
また、なんといっても、このわがままな老女性には、敵国を謀るなどという問題には興味もなかった。それよりは、ひとり息女の盲愛のほうが、遥かに遥かに大きかった。
だから、かりそめにも、その息女を生贄として遂げようとする謀略と聞いては、それが呉国の為であるとかないとかなどは問題でなく、頭から老いの感傷と怒りをふるわせて、
「なりません、なりません。誰がなんといおうと、むすめの一生を誤まらすようなことは、わらわの眼の黒いうちは断じてなりません。そんなことをもし周瑜がすすめたのなら、周瑜は自分の功のために、主家のむすめを売る憎い人間じゃ。わらわが命じる。すぐ周瑜を斬っておしまい!」
という権まくであった。
(手がつけられない──)
と、痛嘆を嚥んでいるものの如く、孫権はただ老母の血相に黙然としていた。
しかも喬国老までが母公と同意見で、
「いやしくも呉侯呉妹のご兄妹が、婚礼に事よせて、玄徳を殺したなどと聞えては、たとい天下を取ろうと、民心は服しまい。呉の国史に泥を塗るだけじゃ」と、周瑜の計に反対し、それよりも、この際やはり玄徳を婿と定めて、彼の帝系たる家筋とその徳望を味方に加え、常に呉の外郭にその力を用いたほうが賢明ではあるまいかと、思うところを述べた。
ところが、母公としては、それも気のすすまない顔で、
「聞けば、劉玄徳とやらは、年も五十路というではないか。なんでまだ世の憂き風も知らぬあのむすめを、他国のそんな所へ、しかも後添えになどやれましょうぞ」
と、いってみたが、喬国老が、しきりに、
「いやいや、よく考えてごらんあれ。年齢の少ない者にも老人があるし、年はとっても壮者をしのぐ若さの人もある。劉皇叔は、当代の英雄、その気宇はまだ青春です。凡人なみに、年の数で彼を律することは当りません」と、説いたので、やや心をうごかし、それでは明日、その玄徳を一目見て、もし自分の心にかなったら、むすめの婿としてもいいが──と云い出した。
孫権はもとより孝心の篤い人なので、心のうちでは煩悶したが、老母の意志には少しも逆らうことができない。その間に、母公と喬国老とは、明日の対面の場所や時刻まできめてしまった。
場所は城西の名刹甘露寺。──喬国老はいそいそ邸へ帰ると、すぐ使いを出して、玄徳の客館へ旨を伝えにやった。
事、志とちがってきたので、孫権は一夜煩悶したが、ひそかにこれを呂範へ相談すると、呂範は事もなげに片づけて云った。
「なにも、それならそれで、よろしいではありませんか。そっと、大将賈華へお命じなさい。甘露寺の回廊の陰に、屈強な力者や剣客の輩を選りすぐって、三百人も隠しておけば大丈夫です。──そしてよい機に」
「む、む。絶好な場所だ。そうしよう。……だが呂範、もし母上と玄徳と対面中に、母上が、彼の人物を見て心にそまぬようだったら、すぐ殺ってくれ」
「もし、母公のお心にかなったようなご容子のときは」
「そんなことはないと思うが……もしそう見えたら……そうだな、時をおいて、母上のお気持が彼に対して変るまで待とう」
次の日──早朝。
呂範は、媒人役として、当然、玄徳の客館へ、その日の迎えに出向いた。
玄徳は、細やかな鎧の上に、錦の袍を着、馬も鞍も華やかに飾って、甘露寺へおもむいた。
趙雲は、五百の兵をつれて、それに随行した。甘露寺では、国主の花聟として、一山の僧衆が数十人の大将と迎えに立ち、呉侯孫権をはじめ、母公、喬国老など、本堂から方丈に満ち満ちて待ちうけていた。
玄徳の態度は実に堂々としていた。温和にして諂わず、威にして猛からず、儀表俗を出て、清風の流るるごとく、甘露寺の方丈へ通った。
「さすがは」と、一見して、呉侯孫権も、畏敬の念を、禁じ得なかった。
争えないものは、人間と人間との接触による相互の感情である。ひと目見て、孫権以上、彼に傾倒したのは母公であった。
その喜悦のいろをうかがうと、喬国老は、母公へささやいた。
「どうです。人物でしょう。こんなよい婿が求めたってありましょうか」
母公はただもうほくほく慶びぬいている。孫権はわれとわが心を圧しつぶして、玄徳に対して起る尊敬や畏れを強いて戒めていた。
「さあ、くつろぎましょう。婿君よ、威儀いかめしいものの、内輪ばかりじゃ、心おきなく杯をあげられい。喬老、そなたも、佳賓におすすめ申しあげて賜も」
母公のご機嫌は一通りでない。きのうの彼女とは人がちがうようだった。やがて大宴となる。呉海呉山の珍味は玉碗銀盤に盛られ、南国の芳醇は紅酒、青酒、瑪瑙酒など七つの杯に七種つがれた。
喨々たる奏楽は満堂の酔をしてさらに色に誘った。母公はふと、玄徳のうしろに屹立している武将に眼をそそいで、
「誰か」と、たずねた。
玄徳が、これはわが家臣、常山の趙子龍と答えると、母公はまた、
「では、当陽の戦いに、長坂で和子の阿斗を救ったというあの名誉の武将か」と、いった。
「そうです」とうなずくと、母公は、彼に酒を賜えとすすめた。趙雲は拝謝して杯をいただきながら、玄徳の耳へ、そっとささやいた。
「ご油断はなりませんぞ。廻廊の陰に、大勢の伏兵が隠れている気配です」
「…………」
玄徳はしばし素知らぬ顔をしていたが、母公の機嫌のいよいよ麗わしい頃を見て、急に杯をおいて、憂い沈んだ。
母公は怪しんで、理を訊くと、玄徳は鳳眼にかなしみをたたえて、
「もし私の生命をちぢめんと思し召すなら、どうか明らさまに剣をお与え下さい。廻廊の外や、縁の下には、ひしひしと、殺気をもった兵が隠れているようで、恐ろしくて杯も手に触れられません」と、小声で訴えた。
母公は、愕然として、
「呉侯。あなたですか。そんな企みをいいつけたのは」
と、孫権を顧みて、たちまちけんもほろろに叱った。
孫権は、狼狽して、
「いや、知りません。呂範でしょう」
「呂範をこれへお呼び」
「はい」
しかし、呂範も、強情を張って知らないで通した。そして、
「賈華かもしれません」と、云いのがれた。
賈華は、母公の前に立たせられた。彼は、知らないといわなかったが、また、自分の所為であるともいわなかった。ただ黙然と首を垂れていた。母公の怒りは極度にたかぶった。
「喬老。武士たちに命じて、賈華を斬りすてておしまいなさい。わが佳婿がねの見ていらっしゃる前で」と、罵った。
玄徳はあわてて命乞いをした。ここに血を見ては慶事の不吉と止めた。孫権は直ちに賈華を追い出した。喬国老は廻廊の外や縁の下の者どもを叱りとばした。鼠のように頭をかかえてそこから大勢の兵が逃げ散って行った。
かくて酒宴は夜に及び、玄徳は大酔して外へ出た。ふと庭前を見ると、そこに巨きな岩がある。玄徳はじっと見ていたが、何思ったか、天に祈念をこらし、剣を抜いて振りかぶった。
「……?」
孫権は木蔭から見ていた。
終日、歓宴の中に酔っても、玄徳の胸には、前途の茫々たる悩みがあった。彼はふと、人なき庭園へ出て、酔を醒まさんとしながら、発作的に、天を仰いでから祈念したのであった。
「わが覇業成らぬものなら、この岩は斬れじ、わが生涯の大望、成るものならば、この岩斬れよ!」
発矢、振り下ろした剣は、火華をとばし、見事、その巨岩を両断していた。
物蔭から人が歩いてきた。
「皇叔。何をされたのです?」
「おお、呉侯でおわすか。……実は、こうです。貴家の一門となって、共に曹操を亡ぼし得るなら、この岩斬れよ。然らずんば、この剣折れん──と天に念じて斬ったところ、この通り斬れました」
「ほ。……なるほど。では予も試みてみよう」
孫権も、剣を抜いた。同じように天へ祈念をこらして、大喝一声すると、剣石ともに響いた。
「やっ……斬れた」
「オオ。斬れましたな」
この奇蹟は、後世の伝説となって、甘露寺の十字紋石とよばれ、寺中の一名物になったという。
「どうです。皇叔、方丈へもどって、さらに杯を重ねようじゃありませんか。長夜の宴です」
「いや、座にたえません。あまり大酔したものですから」
「では、ひと醒まししてからまた」
袖を連ねて、門外へ逍遥に出た。
月小さく、山大きく、加うるに長江の眺め絶佳なので、玄徳は思わず、
「ああ、天下第一の江山」と嘆賞した。
後世、甘露寺の門に「天下第一江山」の額が掛けられたのは、彼の感嘆から出たものと云い伝えられている。
玄徳はまた、月下の江上を上下してゆく快舸を見て、
「なるほど、北人はよく馬に騎り南人はよく舟を走らすと世俗の諺にもありましたが、実に、呉人は水上を行くこと平地のようですね」と、いった。
孫権は、どう勘ちがいしたか、
「なに、呉の国にも、良い馬もあり、上手な騎手もいます。ひと鞍当てましょうか」
たちまち、二頭の駿馬をひき、ふたり轡をならべて、江岸の坡まで駈けた。玄徳もよく走り、孫権もさすが鮮やかだった。そして、相かえりみて、快笑した。
呉の土民がここを後に「駐馬坡」と称んだわけは、この由緒に依るものだとか。
こんな事もあったりして、玄徳はつい逗留十数日を過した。その間、試されたり、脅かされたり、しかも日々夜々歓宴、儀礼、見物、招待ずくめで、心身も疲れるばかりだった。
趙雲子龍も心配顔だし、喬国老も案じてくれた。国老はそのためしばしば呉の宮中に通って母公をうごかし、孫権をなだめ、遂に吉日を卜して、劉玄徳と呉妹君との婚礼を挙げるところまで漕ぎつけてしまった。
華燭の典の当日まで、趙子龍は主君の側を離れず喬国老に頼んで五百の随員──実は手勢の兵も呉城に入れることの許可を得、間断なく玄徳の身を護っていたが、婚礼の夜いよいよ後堂の大奥へ花婿たる玄徳が入ることになると、さすがにそこから先の禁門には入れもしなかったし、入れてくれとも頼めなかった。
女宮の深殿に導かれた玄徳は、気も魂もおののいた。
なぜなら閨室の廊欄には燈火をつらね、そこに立ちならぶ侍女から局々の女たちまで、みな槍薙刀をたずさえて、閃々眼もくらむばかりだったからである。
「ホ、ホ、ホ、ホ。貴人。何もそのように怖れ給うことはありません。呉妹君はお幼き頃から、剣技をお好み遊ばし、騎馬弓矢の道がお好きなのです。決して貴人に危害を加えるためではありません」
房の内外を司る管家婆という役目の老女が、こういって、玄徳の小心を笑った。
玄徳はほっとして、老女侍女など千余人の召使いに、莫大な金帛を施した。
七日にわたる婚儀の盛典やら祝賀の催しに、呉宮の内外から国中まで、
「めでたい。めでたい」
と、千載万歳を謳歌している中で、独りひそかに、
「何たることだ」と、予想の逆転と、計の齟齬に、鬱憤のやりばもなく、仮病をとなえて、一室のなかに耳をふさぎ眼を閉じていたのは呉侯孫権だった。
すると、柴桑の周瑜から、たちまち早馬をもって、一書を送ってきた。
うわさを聞いて、周瑜も仰天したらしい。
金瘡の病患がまだ癒えぬため、参るにも参られず、ただ歯がみをしておるばかりですが、かくてやはあると、自ら心を励まし病中筆をとって書中に一策を献ず。ねがわくは賢慮を垂れ給え──
という書き出しに始まって、縷々と今後の方策がしたためてあった。
「周瑜からこういう謀を施せといってきたが、この計はどうだろう。また失敗に終ったら何もならぬが」
張昭に相談すると、張昭は、書簡の内容を検討してから、
「さすがに都督の遠謀、感心しました。──元来、劉玄徳は、少年早くより貧賤にそだち、その青年期には、各地を流浪し、まだ人間の富貴栄耀の味は知りません。……ですから周瑜都督が示された計の如く、彼に、ほしいままなる贅沢を与え、大厦玉楼に無数の美女をあつめ、錦繍の美衣、山海の滋味と佳酒、甘やかな音楽、みだらな香料など、あらゆる悪魔の歓びそうな物をもって、彼の英気を弱めにぶらせ、荊州へ帰ることを忘れさせれば、彼の国もとにある孔明、関羽、張飛らも、あいそをつかし、怨みをふくんで、自然、離反四散してしまうにちがいありません」
と、案を打って賛同した。
孫権はよろこんで、
「では、玄徳の骨も腐るまで、贅沢の蜜漬にしてくれよう」
と、ひそかにその方針へかかり始めた。
すなわち呉の東府に一楽園を造築した。楼宮の結構は言語に絶し、園には花木を植え、池畔には宴遊船をつなぎ、廊廂には数百の玻璃燈をかけつらね、朱欄には金銀をちりばめ、歩廊はことごとく大理石や孔雀石をもって張った。
「兄君もやはり心では妹が可愛いんですね。わたくしたち二人のために、こんなにまでして下さるなんて」
呉妹──今では玄徳の妻たる新夫人は、そういって感謝した。
この若い新妻を擁して、玄徳はここに住んだ。金珠珍宝、無いものはない。綺羅錦繍、乏しいものはない。
食えば飽満の美味、飲めば強烈な薫酒、酔えば耳に猥歌甘楽、醒むれば花鳥また嬋娟の美女、──玄徳はかくて過ぎてゆく月日をわすれた。──いや世の中の貧乏とか、艱苦とか、精進とか、希望とかいうものまでをいつか心身から喪失していた。
「……ああ、困ったものだ」
それを見て、毎日、溜息ばかりついていたのは、彼の臣、趙雲子龍だった。
「そうだ……一難一難、思案にあまったら嚢をひらけと軍師にはいわれた。あの錦の嚢の第二は今開くときだろう」
孔明から餞別に送られたその内の一つを、趙雲は急に開けてみた。すると果たして孔明の秘策が今の心配によく当てはまっていた。彼はさっそく侍女を通じて、玄徳に目通りを求めた。
「たいへんです。こうしてはおられません」
いきなり告げたので、玄徳も驚かされた。
「何事が起ったのか?」
「赤壁の怨みをそそぐなりと号して、曹操みずから五十万騎を率い、荊州へ攻めこんで来たとあります」
「えっ、荊州へ……。た、たれが報らせてきた、そのようなことを」
「孔明が早舟を飛ばして、自身、呉の境まで注進に来たのです。荊州の危機、今に迫る。国もとへ君を迎えて、一刻もはやく対策を講ぜねば、荊州の滅亡は避け難し──とあって」
「それは、一大事」
「さ。すぐお帰り下さい」
「ううむ。そうか……」とのみで、しばらく沈思していたが、やがて玄徳は、肚を決めたもののように面をあげ、趙雲へいった。
「よし。帰ろう」
「では、直ちに?」
「いや少し待て。妻にもこのことを諮るから」
「それはいけません。ご夫人に相談遊ばせば、お引きとめあるは必定です」
「そんなことはない。予にも考えがある」
玄徳は、奥へかくれた。
そして妻の室を訪うと、夫人は良人を迎えながらすぐ云った。
「どうしても今度は荊州へお帰りにならねばなりませんか?」
「えっ……。誰にそれを聞きましたか」
「ホホホ。あなたの妻ですのに、そのくらいなことが分らないでどうしましょう」
「はや承知なれば、多くもいわぬ。玄徳はすぐ帰国せねばならん。荊州は滅亡の危うきに瀕している。そなたの愛に溺れて、国を失うたとあっては、世の物笑い、末代までの廃れ者になろう」
「もとよりです。武門の御身として、この期に、未練がましいことあっては、生涯人中に面は出せません」
「よくいうてくれた。戦場に臨むからにはいつ討死を遂げるやもしれん。そなたともまた再会は期し難い。長春数旬の和楽、それも短い一夢になった」
「なぜそのような不吉を仰せ出されますか、夫婦の契りはそのように儚いものではありますまい。また短いものとも思いません。生ける限りは──いえいえ九泉の下までも」
「さは云え、別れねばならぬ身をどうしよう」
「わたしも共に参りまする」
「えっ、荊州へ」
「当然ではございませんか」
「呉侯が許すまい。母公も決して許されまいが」
「兄に知れたら大変でしょう。けれど母には別に説く途があります。必ずお心を苦しめ給うには及びません」
「どうしてこの呉城の門を出るか」
「もう今年も暮れます。元日の晨までお待ち遊ばせ。わたくしはその前に老母の許へ行って告げましょう。元日の朝、朝賀のため、江のほとりに出て、先祖をお祀りして参りますと──。母は信心家ですからそういうことをするのは大変歓びます」
「なるほど、それは名案だが、そなたはなお、それから先の途上の艱苦や、戦乱の他国へ行っても、後に呉を離れたことを悔いたり悲しんだりしないでいられるだろうか」
「お別れして、ひとり呉に残っていたとて、なんの楽しみがありましょう。良人の側にさえいるなら、炎の裡、水の中、どこにでも生き甲斐があると信じます」
玄徳は嬉しさに涙を催した。彼はまたひそかに趙雲を人なき所へよんで、妻の真情を語り、また策をささやいて、
「元日の朝、人目に立たぬよう、長江の岸へ出て待っておれ」と、打合わせた。
趙雲は、念を押して、
「昔日の事をお忘れなく。必ずとも、孔明の計と齟齬遊ばさぬように」といって去った。
明くれば、建安十五年となる。その元旦は、まだ暁闇深く、朝の月を残していたが、東天の雲には早、旭日の光がさし昇りかけていた。
吉例通り、呉宮の正殿には、除夜の万燈がともされたまま、堂には文武の百官がいならび、呉侯孫権に拝賀をなし、万歳を唱え、それから日の出とともに、酒を賜わることになっている。
折もよし、人目は少ない。
玄徳は夫人呉氏とともに、母公の宮房をそっと訪うて、
「では、これから江の畔へ行って、先祖の祀りをして参ります」と告げた。
玄徳の父母祖先の墳墓は、すべて涿郡にあるので、母公は、婿の孝心を嘉し、それに従うのはまた、妻の道であると、機嫌よく夫婦を出してやった。
宮門を出るには、女房車の備えがある。夫人はそれに乗った。玄徳は美しい鞍をおいた駒にまたがる。
中門を出る。城楼門を出る。
誰も怪しまない。
番卒たちは、
「ほ、婿様と呉夫人が、おそろいで、どこへお出ましか」
と、羨望の眼を送るだけであった。
元旦の朝まだきである。人はみな酔っていた。まだ明けきらぬ暁闇の空には、白い朝の月があった。
外城門まで出ると、玄徳は、車を押す者や、供の武士たちをかえりみ、
「あの森の中に新泉がある。そち達はみな垢を浄めて来い。きょうは江の畔、先祖の祀りに行く。不浄は忌む」
と、いってそこへ追い払った。
かねてしめし合わせていたことなので、彼女はすでに車の中で身支度していた。平常でも腰に小剣を離さない夫人である。小さい弓を軽装に吊るし、頭から半身は被衣のような布で隠していた。
車を降りると、彼女は、従者の置いて行った一頭の駒へ、ひらと蝶のようにすがりついた。玄徳もすぐ鞭を当てる。
「うまく行きましたね」
「いや、これからだよ、運のわかれ目は」
しかし玄徳はニコと笑った。
呉夫人も微笑んだ。朝の月を避けた被衣の陰でもその顔は梨の花より白かった。
またたく間に、長江の埠頭まで来た。この頃、日はすでに登って揚子江の水はまばゆいばかり元朝の紅波を打っていた。
「あっ、わが君、オオ、ご夫人にも」
「趙雲か。とうとう来た。ここまでは上首尾だったが、すぐ追手が来ようぞ、急ごう」
「もとより覚悟のこと、趙雲がお供仕るからにはご心配には及びません」
かねて五百の手勢は、趙雲と共にここに待ち受けていたので、玄徳と夫人を警固し、まっしぐらに陸路をとって国外へ急いだ。
幸いにも、このことが、呉侯の耳に入るまでには、それから半日以上もひまがかかった。原因は、外城門まで、夫人の車を押して出た士卒や供の武士が、
「どこまでお出でになったのか」と、かかる出来事とも知らず、江辺を捜し廻ったり、後難をおそれていたずらに上訴の時を移していたためである。
いよいよそれと真相が判明したのはすでに夕方に迫っていた。終日の宴に呉侯は大酔して眠っていたところであったが、聞くや否、冲天の怒気をなして、
「おのれ履売りめ、恩を仇で返すばかりか、わが妹を奪って逃げるとは」
と、傍らの几にあった玉硯をつかんで床に砕いたという。
それからのあわただしい評議。間もなく宵の城門を、五百余りの精兵が、元日の夜というのに、剣槍閃々と駈けだしてゆく。
呉侯孫権の怒りはしずまらず、彼の罵る声が、夜になっても呉城の灯をおののかせていた。急を聞いて登城した程普が、おそるおそる彼にたずねた。
「追手の将には、誰と誰をおつかわしになりましたか」
「陳武と潘璋をやった」
「ご人数は」
「五百」
「ああ、それではだめです」
「なぜだ」
「すでに呉妹君には、一たん良人と契られた玄徳に深く同意あそばして、このご脱出とぞんじます。さすれば、女性ながら、日頃より尚武のご気質、あの男まさりな御剛気は、呉の将士とはいえ、みな深く怖れているところです。いわんや陳武、潘璋のごときでは」
孫権はそう聞くと、いよいよ憤って、たちまち、蒋欽、周泰の二将をよび立て、
「汝ら、この剣を持って、玄徳を追いかけ、必ず彼奴を両断し、また予の代りに、妹の首をも打って持ってこい。もし命に違うときは、きっと、其方どもを罪に問うぞ」
と、身に佩いたる剣を取りはずし、手ずから二将に授けて、早く行けと急きたてた。
夜も日も馬に鞭打ちつづけた。さる程にようやく柴桑の地へ近づいて来る。玄徳はややほっとしたが、夫人呉氏は何といっても女性の身、騎馬の疲れは思いやられた。
だが幸い、途中の一豪家で車を求めることができ、夫人は車のうちに移した。そしてなお道を急いで落ち延びた。
「やよ待て、玄徳の一行、呉侯のご命令なるぞ。縄をうけろ」
山の一方から大声がした。約五百の兵がふた手になって追ってきたのだ。
趙雲は騒ぐことなく、
「あとは、それがしが支えます。君には、遮二無二お先へ」
と、玄徳と夫人を、なお奔らせた。
この日の難は、一応のがれたかに見えたが、次の日、また次の日と、玄徳の道は、先へ行くほど、塞がれていた。
すなわち柴桑の周瑜と、呉の孫権の廻符はもう八方に行きわたっていた。水路も陸路も、往来には木戸の検めが厳重を極め、要所には徐盛、丁奉の部下三千が遮断していた。
「ああ、いけない。この先には呉兵が陣している。今は進退きわまったか」
玄徳が痛嘆すると、
「いや、孔明軍師は、あらかじめかかる場合にも、嚢の中から訓えられています。こう遊ばせ」
趙雲がそれを彼の耳へささやいた。玄徳はいくらか希望を取り戻して、やがて夫人の車へ近づき、涙声をふるわせて彼女へ告げた。
「妻よ、わが妻よ。ここまでは共に来たが、玄徳はついにここで自害せねばならぬ。御身はない縁とあきらめて、ここより呉へもどられよ。九泉の下で後の再会を待つであろう」
夫人は、簾をあげて、おどろきと涙の面をあらわした。
「再び呉へ帰るくらいなら、ここまでも参りません。どうして急にそんなことを仰っしゃるのですか」
「でも、呉侯の追手は前後に迫ってくるし、周瑜もそれを励まして、百方路をふさいでいる。所詮、捕われて曳かれるものなら、生き辱をかかないうちに、いさぎよく自害して果てたがましと思うからだ」
ところへ早くも、徐盛と丁奉は、部下を率いてここへ殺到した。夫人はあわてて玄徳を車のうしろに隠し、簾を払って地上へ跳び降りた。
「それへ来たのは何者です。主君の妹に指でもさしてご覧、おまえたちの首は、わたくしの母君が、半日だってそのままにしておきはしませんから」
と、鈴音を振り鳴らすように声を張っていった。
「おお、呉妹君におわすか」
と、徐盛と丁奉とは、思わず地へひざまずいた。主筋ではあるし、この女性の凡の女性でないことは、呉の臣下はみな知っていた。いや知っているだけでなく、その男まさりな凛々たる気性や、母公だの兄孫権だのを動かす勢力にはある懼れすら抱いていたのだった。
「丁奉に徐盛ではないか」
「はっ。さようでございます」
「弓箭を帯し、兇兵を連れて、主人の車に迫るなど、謀叛人のすることです。お退がりっ」
「でも、呉侯の御命。また周都督のおさしずでもあります」
「周瑜が何ですか。周瑜のいいつけならおまえ方は謀叛もするというのですか。兄の孫権とわたしのことならば、兄妹の仲です。家臣の差出るところではない」
「いや、あなた様に危害を加えるのではありませぬ。ただ玄徳を」
「おだまりっ。玄徳さまは大漢の皇叔、そして今はわが夫です。ふたりは母公のおゆるしを賜い、天下の前で婚礼したのです。おまえ方匹夫ずれが、指でもさしたら承知しませぬぞ」
柳眉を立て、紅の眦をあげて、夫人はその細腰に帯している小剣の柄に手をかけた。徐盛、丁奉はふるえ上がって、
「しばらく。……しばらくお怒りをおしずめ下さい」
と、あわてて手を振った。
夫人は耳もかさない。また怒りの色も収めなかった。いよいよ叱っていうのである。
「おまえ方は、ひとえに周瑜ばかり怖れているのであろう。早く立ち帰って、いま私がいった通りに、周瑜に伝えるがよい。もし周瑜がおまえ方を命に従わぬ者として斬ったなら周瑜のごとき匹夫、立ちどころに私がこの剣で成敗してみせる」
徐盛も丁奉も、夫人の烈しいことばの下に、まったく慴伏してしまった。夫人はそれと見るや、車のうちへひらりと身を移して、
「それ、駈けよ。車を早めよ」と、たちまち道を急がせた。
玄徳も馬の背に伏して駈け通った。五百の兵もどかどかと足を早めた。丁奉、徐盛はみすみす眼の前にそれを見たが、趙雲子龍がすさまじい眼をかがやかせて、道ばたに殿軍していたため、空しく一行をやり過し、やがて二、三里ばかりすごすごと戻ってきた。
「やあ、どうした?」
彼方から来た馬上の二将軍は、ふたりを見かけて声をかけた。呉侯の命で後から大兵を率いてきた陳武と潘璋であった。
「実は、これこれです。如何せん先は主君の御妹、こちらは臣下。頭から叱りつけられては、どうすることもできないので……」
「何、何。取逃がしたとか。さりとは気弱な。さあ続いてこい。妹君の叱咤など何か怖れん。こちらは呉侯の直命をうけて来たのだ。否やをいわばお首にしても!」
と、馬煙を立てて追いかけた。
先にゆく夫人の車と玄徳の一行は、長江の岸に沿って急いでいたが、またまた、呼び止める者があるので、騒然一団になって立ち淀んでしまった。
夫人はふたたび車から降りて追手の大将どもを待つ。その姿を目がけ、陳武以下の四将は馬に鞭を加えてこれへ駈けこんで来た。
「何ですっ、その無礼な態は。馬を降りなさい!」
凛々たる夫人の一声を浴びて、四人は思わず馬から飛び降りた。そして叉手の礼をとって起立していると、夫人は真白な指をきっと四人の胸にさして、
「おまえ方は、緑林の徒か、江上の舟賊か。呉侯の臣ならばそんな不作法な真似をするわけがない。主君の妹に対してする礼儀を知らないのか。お坐りっ。ひざまずいて拝礼をするものです!」
四人の大将は、彼女の威と、絶倫な美と、その理に打たれて、不承不承、大地に膝をつき叉手を頭の上にあげて最大な敬礼をした。
ようやく、すこし面を和らげて、それから夫人が訊ねた。
「いったい、何しに、またこれへ来たんですか」
潘璋がいった。
「お迎えのためにです」
と、夫人は首を振った。
「呉へは帰りません」
「でも、呉侯の御命ですぞ」
「わたし達は、母のゆるしによって城を出たのです。孝行な兄孫権が、母の意に逆らうわけはない。おまえ方は何か聞きちがえて来たのでしょう」
「いやいや。呉侯の仰せには、首にしてもとの厳命でした」
「わたくしを、首に?」
「…………」
「首にしてもですって?」
「……いや、その、失言しました。玄徳のほうをです」
「おだまりなさい!」
「はっ」
「この身に刃を擬すも、わが夫に刃を擬すも、夫婦であるからには主筋に害意をさし挟む不敵は同じことですぞ。かりそめにも、そんな真似をしてごらんなさい。たとえ夫婦はここに死すとも、ここに居る趙雲がおまえ方をゆるしては帰しません。また無事に逃げ帰ったところで、呉にいますわが母が、何でおまえ方をただおきましょう」
「…………」
「さ。お起ち。それが覚悟なら矛なり槍なり持って、わたくしの前に起ってご覧」
四人の大将は、ひとりも起ち得なかった。それにいつのまにか、玄徳は辺りに見えず、例の趙雲だけが、眼をいからして、夫人の傍らから離れずにいた。
追手の大将四人は、空しく夫人の車を見送ってしまった。この時も趙雲は、一手の軍兵を持って、最後まで四人の前に殿軍していたため、手出しはおろか、私語する隙間もなかったのである。
「残念だな」
「だが、あの女丈夫には、なんともかなわん」
是非なく、四人は道をかえした。そして十数里も来た頃である。一彪の軍馬と、颯爽たる大将が、彼方からきて呼びかけた。
「玄徳の行方は如何に」
「夫人はどこにおらるるか」
見れば、呉の蒋欽。またもう一人は周泰である。
面目なげに、陳武が云った。
「だめです……どうも」
「何がだめだ?」
「追いついて捕えんとしましたが、夫人がいうには、母公のおゆるしをうけて城を出たのだから、母公のおいいつけでなければ帰らぬと仰せられます」
「何の。口巧者な。な、なぜいわん。こちらは呉侯の厳命であるぞ」
「呉侯はわが兄。兄妹の間のことを、臣下の分際で、何を差出がましくいうぞとのみ、お耳にかけるふうもありません」
「えい、そんなことで、どうして追手の任が果せるか。かくなる上は、玄徳も、また主君の御妹たりとも、首にしてしまうまでのこと。見よ。この通り、仮借すなとて、主君孫権には、お手ずから我らに剣をおあずけになった!」
「やっ。御剣ですか」
「知れたこと。──思うに玄徳の一行は大半が徒歩武者、馬を飛ばせば、ふたたびまたたく間に追いつこう。徐盛、丁奉のふたりは、早々先へはせ廻って周瑜都督にこの由を告げ、水上より早舟を下して江岸江上をふさがれい。われら四人は、陸路を追い詰め、かならず柴桑の附近において彼奴らをことごとく網中の魚とするであろう」
刻々と迫るこういう危険な情勢の中を、玄徳と夫人の車は、なお逃げ落ちられる所まではと、ただ一念一道をひた奔りに急いでいた。
いつか、柴桑の城市を横に見、その郊外を遠く迂回して、また道は江に沿ってきた。そして劉郎浦とよぶ一漁村までたどりついた。
「舟はないか」
「舟は? 舟は?」
玄徳も趙雲も、ここへ来てはたと、それに当惑した。
漁村らしいのに、どうしたのか船は一つも見当らない。のみならず、一方は渺々たる江水天に漲り、前は自然の湾口をなして、深く彼方の遠い山裾まで続き、いずれへ渡るにも、舟便に依らなければ、もうどっちへも進めない地形だった。
「趙雲。趙雲」
「はい。ご主君……」
「遂に虎口に落ちた。最後へ来たな」
「いや、まだご失望は早過ぎます。今、例の錦の嚢の最後の一つを開いてみました。すると。──劉郎浦頭蘆荻答エン、博浪激波シバシ追ウモ漂イ晦ムナカレ、破車汗馬ココニ業ヲ終エテ一舟ニ会セン……そんな文があらわれました。察するところ軍師孔明には、必ず何かよろしき遠謀があるにちがいありません。まずまず、あまりお案じなさいますな」
趙雲はなぐさめた。しかし玄徳は黙然と灰色の空や水を見まわして、車のうちの夫人にものもいえず、暗然とたたずんでいるだけだった。するとたちまち、山ぎわのあたりの夕雲が、むくむくと動き、鼓の声や銅鑼が水に響いた。いうまでもなく、ここに包囲を計った追手の大軍だった。
「おお如何にせん」
玄徳は、身を揉んだ。
夫人も今はと覚悟して、簾のうちから飛び降りる。
「すわ!」と、近づく喊の声、はや矢ばしりの響き。玄徳の少ない手勢は、すでに色を失って、四方へ逃げかけた。
すると、たちまち、郎浦湾の汀、数里にわたる蘆荻が、いちどにザザザザと戦ぎ立った。見れば、葭や蘆のあいだから帆を立て、櫓を押出した二十余艘の快足舟がある。こなたの岸へ漕ぎ寄せるや否、
「乗り給え。早く早く」
「皇叔。いざ疾く」
と、手を打振って口々に呼ぶ。その中に、いま舟底から這い出して、共々呼んでいた道服の一人物があった。一目に知れる頭の綸巾、すなわち諸葛孔明だった。
孔明の従えてきた荊州の舟手の兵は、みな商人に姿を変えていた。玄徳と夫人、また随員五百を各〻の舟に収容すると、たちまち、櫓櫂をあやつり、帆を揚げて、入江の湾口を離れた。
「やあ、その舟返せ」
呉の追手は、遅ればせに来て、あとの岸にひしめき合っていた。
孔明は一舟の上からそれを指さして、
「すでにわが荊州は一国たり。一国が一国を謀るもよし攻めるもよいが、美人をもって人を釣るような下策は余りにも拙劣極まる。汝ら、呉へ帰ったら周瑜へ告げよ。ふたたびかかる錯誤はするなと」
と、岸へ向って云った。
多くの舟から、どっと嘲笑があがった。
それに答えて岸からは、雨のように矢が飛んできたが、みな江波に落ちて藁のように流されてしまった。
しかし、江上を数里進んで、ふと下流を望むと、追風に満帆を張った兵船が百艘ばかり見えた。中央に「帥」の字の旗をたてて、明らかにそれには大都督周瑜が坐乗しているらしい。そして左には黄蓋の旗じるしが見え、右には韓当の船が並び、その陣形は、あたかも鳳翼を開くように迫ってきた。
「おおっ、呉の大船隊が」
と、玄徳をはじめ人々がみな色を失うと、孔明は、舟手の者にすぐ進路を指揮し、
「かねて予測されていたこと。お愕きには及びません」
と、速やかに岸へ寄せ、そこからは陸地を取って逃げ奔った。
当然、呉の水軍も、船をすてて陸地へ駈け上がってきた。黄蓋、韓当、徐盛など、皆飛ぶが如く馬を早めて来る。
周瑜もその中にあって、
「ここはどの辺だ?」と、諸将にたずねていた。
「黄州の境にあたります」
徐盛が答えた時である。忽然、鼓の声が、四沢の静寂を破った。
一彪の軍馬が、それと共に、山の陰から奔進してくる。見れば玄徳の義弟関羽である。たちまち、八十二斤の青龍刀は周瑜の身に迫ってきた。
「すわ。敵に何か、備えがあるらしいぞ」
急に、退きかけると、
「われこそ、黄忠」
「魏延を知らずや」
左の沢からも、右手なる峰からも、待ちかまえていた猛兵が、乱れ立った彼の虚を衝いていよいよ駈け散らした。
呉の将士は、存分な戦いもせずに、続々、討死を遂げた。周瑜は、上陸したもとの所まで、馬に鞭打って逃げのび、あわてて船へ身を移すと、その時、もう遠い先へ行っているはずの孔明が、忽然と、一隊の兵を率いて、江岸に姿を現わし、大音にいった。
周郎ノ妙計ハ天下ニ高シ
夫人ヲ添エ了ッテ
マタ、兵ヲ折ク
それを二度もくり返して、一斉にどっと笑い囃したので、周瑜は、勃然と怒って、
「おのれ。その儀なれば、陸へ戻って、もう一戦せん。諸葛亮、そこをうごくな」
と、地だんだ踏みながら、船を岸へ寄せろと呶鳴ったが、黄蓋、韓当などは、味方はあらまし討たれ、残る士卒も戦意をうしなっているのを見て、
「ここが我慢のしどころです」と、もがく周瑜を抱き止めながら、船手の者に、
「帆を張りあげろ。早く船を中流へ出せ」と、命じた。
周瑜はなお、眦に血涙をたたえて、
「無念。実に無念。かかる恥をうけ、かかる結末をもって、なんで、大都督周瑜たるものが、再び呉国へ帰れよう。おめおめと呉侯にお目にかかれよう。──おれは恥を知っている!」
と、叫びながら、歯をギリギリ咬み鳴らしたと思うと、その口からかっと真っ赤な血を吐いて、朽木仆れに船底へ仆れてしまった。
「都督っ。周都督」
「お気をたしかに持って下さい」
呉の諸将は、周瑜の体を抱き起し、左右から悲痛な声をふり絞った。
しばらくして、周瑜はようやく、うす目をひらいた。
「……船を。船を呉へ向けてくれ」
かすかな声でいった。
蒋欽と周泰は、病都督の身を守って、柴桑まで帰った。
周瑜は恨みをのみながら、ふたたび病牀に親しむのほかなかった。
けれど、やがてこの始末を知った呉侯孫権の鬱憤はやりばもなく、日夜、
「どうしてこの報復を」と、玄徳を憎んでいた。
ところへまた、病中の周瑜から、長文な書簡がきた。
──君。一日も早く、兵馬を強大にし、荊州を討ち懲らし給え。と、ある。
さらぬだに若い孫権、そう励まされなくても、鬱心勃々であった孫権。忽ち、その気になって、軍議を会そうとした。
「急に、何のご軍議ですか」
重臣張昭は、それと聞くや、すぐ彼の前に出て諫めた。
彼は、最初からの平和論者──というよりも自重主義の文治派であった。
「いま、赤壁の恥をそそがんと、曹操が日夜再軍備にかかっていることをお忘れですか。曹操がすぐにも大兵の再編成をして来ないのは、力がないからではありません。また、呉を怖れているからでもありません。呉と玄徳との聯合を怖れているのです。それを今もし呉が玄徳を攻め、両者の間に完全な戦争を生じれば、曹操は時機到来と、魏の全軍をあげて襲来しましょう」
「では、どうしたらいいか」
「それを如何にするかという問題より前に、しておかなければならない懸案があります」
「それは?」
「玄徳が曹操と和を結ばないように、処置を講じておくことです」
孫権はちょっと色を変えた。
「玄徳が──曹操と結ぶだろうか?」
「当然、ありうることでしょう。ありえないこととこちらが多寡を括っていればなおさら、その可能性は濃くなります」
「それは未然に警戒を要する」
「ですから──何よりもそれが当面の急です。てまえが思うには、この呉にも、曹操の隠密がかなり入りこんでいますから、すでにわが君が玄徳と面白からぬ感情にあることは、はや許都の曹操にも知れておりましょう。曹操は機を知ること誰よりも敏ですから、或いはもう使いを出して玄徳へ水を向けているかもしれません。早くなければなりません──この対策は」
「むむ。一朝、玄徳が魏と同盟するとなると、これは呉にとって、重大な脅威になる。──それをどう防ぐかだが、なんぞ、良策があるか」
「すぐにも都へ使いを上せ、朝廷へ表をささげて、玄徳を荊州の太守に封じるのが何よりと思いますが」
「…………」
孫権はおもしろくない顔をした。
張昭はたたみかけて、若い主君を喩した。
「すべて外交の計は苦節です隠忍です。玄徳に出世を与える。勿論、お嫌でたまらないでしょうが、その効果は大きい。何となればそれによって曹操は、呉と玄徳との間に破綻を見出すことができません。玄徳もまたそれに感じて呉を恨む念を忘れましょう。……かかる状態に一応現状を訂正しておいてから、呉としては、間諜を用いて徐々に曹操と玄徳との抗争をさそい、玄徳のそれに疲弊してきた頃を計って荊州を奪り上げてしまえばよいのです」
「敵地へ行って、そういう遠謀を巧みに植えつけるような間諜が、さし当って、おるだろうか」
「おります。平原の人で華欽、字を子魚という者。もと曹操に愛せられた男ですが、これを用いれば適役でしょう」
「呼べ。早速」
孫権は、その気になった。
冀北の強国、袁紹が亡びてから今年九年目、人文すべて革まったが、秋去れば冬、冬去れば春、四季の風物だけは変らなかった。
そして今し、建安十五年の春。
鄴城(河北省)の銅雀台は、足かけ八年にわたる大工事の落成を告げていた。
「祝おう。大いに」
曹操は、許都を発した。
同時に──造営の事も終りぬれば──とあって、諸州の大将、文武の百官も、祝賀の大宴に招かれて、鄴城の春は車駕金鞍に埋められた。
そもそも、この漳河のながれに臨む楼台を「銅雀台」と名づけたのは、九年前、曹操が北征してここを占領した時、青銅の雀を地下から掘り出したことに由来する。
城から望んで左の閣を玉龍台といい、右の高楼を金鳳台という。
いずれも地上から十余丈の大厦である。そしてその空中には虹のような反り橋を架け、玉龍金鳳を一郭とし、それをめぐる千門万戸も、それぞれ後漢文化の精髄と芸術の粋をこらし、金壁銀砂は目もくらむばかりであり、直欄横檻の珠玉は日に映じて、
「ここは、この世か。人の住む建築か」と、たたずむ者をして恍惚と疑わしめるほどだった。
「いささか予の心に適うものだ」
由来、英雄は土木の工を好むという。
この日、曹操は、七宝の金冠をいただき、緑錦の袍を着、黄金の太刀を玉帯に佩いて、足には、一歩一歩燦爛と光を放つ珠履をはいていた。
「規模の壮大、輪奐の華麗、結構とも見事とも、言語に絶して、申し上げようもありません」
文武の大将は彼の台下に侍立した。そして万歳を唱し、全員杯を挙げて祝賀した。
「何かな、この佳い日、興じ遊ぶことはないか」
曹操は考えているふうであったが、やがて左右に命じて、秘蔵の赤地錦の戦袍を取寄せ、それを広苑の彼方なる高い柳の枝にかけさせた。そして武臣の列に向い、
「各〻の弓を試みん。柳を距つこと百歩。あの戦袍の赤い心当を射たものには、すなわちあの戦袍を褒美にとらすであろう。われと思わん者は出て射よ」と、いった。
「心得て候う」とばかり、自ら選手を希望して出た人々は、二行に列を作って、柳に対した。曹氏の一族はみな紅袍を着し、外様の諸将はすべて緑袍を着ていた。
選手はみな馬に乗り、手に彫弓をたずさえて、合図を待つ。
曹操はふたたび告げた。
「もし、射損じたものは、罰として、漳河の水を腹いっぱい呑ますぞ。自信のないものは、今のうちに列から退がれ。そしてこれへ来て罰盃を飲め」
誰も、退かなかった。
馬は勇み、人々の意気は躍る。
「よし!」
と曹操の言下に、合図の鉦鼓が鳴り渡った。とたんに一人、馬を出し、馬上に弓矢をつがえた。
諸人これを見れば、すなわち曹操の甥で、曹休字は文烈という若武者。一鞭して広苑の芝生を奔らすこと三遭、柳を百歩へだたって駒足をひたと停め、心ゆくばかり弦をひきしぼってちょうッと放った。
見事。矢は的を射た。
「ああ! 射たり、射たり」
と、感嘆の声は堂上堂下に湧いてしばし拍手は鳴りやまない。
その間に、近侍のひとりは、柳の側へ走って、かけてある紅の袍をおろし、それを曹休に与えようとすると、
「待ち給え。丞相の賞は、丞相のご一族で取るなかれ。それがしにこそ与え給え」
と呼ばわりながら、はや馬をすすめて、馬馴らしに芝生を駈け廻っている一将がある。
誰かと見れば、すなわち荊州の人文聘、字は仲業であった。
文聘は鐙に立った。弓手は眉を横に引きしぼる。
矢はひょうッと飛んだ。
とたんに、鉦鼓は鳴り轟き、諸人の感称もわっとあがった。
「あたった、あたった。柳にかけたる紅の袍は、快くそれがしに渡し給え」
大音あげて、文聘がいうと、
「何者ぞや、花盗人は。袍はすでに、先に小将軍が射られたり。わが手並を見てから広言を払え」
と、また一騎、駈け出た。
曹操の従弟、曹洪であった。
握り太な彫弓の満を引いて、びゅッと弦を切って放つ。その矢も見事、彼方の袍の心当を射抜いた。
陣々の銅鑼、陣々の鼓、打ち囃し、賞め囃し、観る者も、射る者も、今や熱狂した。
すると、また一人、
「笑うべし、文聘の児戯」と、馬おどらせて、あたりに威風を払って見せた大将がある。諸人これを見れば夏侯淵であった。馬を走らすこと雷光の如く、首を回して、後ろ矢を射た。しかもその矢は三人が射立てた矢の真ん中をぴったり射あてた。
夏侯淵は矢を追いかけて、柳の下へ駈け出した。そして、
「この袍は有難く、それがしが拝領つかまつる」
と、馬上から袍へ、手を伸ばそうとすると、遠くから、
「待った! 曲者」と、大声に叱って、彼方から一矢、羽うなり強く、射てきた者がある。
これなん徐晃の放った矢であった。
「──あっ」
と、諸人は胆をつぶした。彼の矢は、あまりにも見事に、柳の枝を射切っていたからである。柳葉繽紛と散りしだき、紅錦の袍は、ひらひらと地に落ちてきた。
同時に、徐晃は駈け寄りざま、馬袍をすくい取って、自分の背なかに打ちかけ、馬をとばして直ぐ馳せ戻り、楼の台上を仰いで、
「丞相の賜物、謹んで拝謝し奉る」
と、呶鳴った。
「ひどいやつだ」と、諸人みな、呆れ顔して騒然と囃していると、台下に立っていた群将の中から駈け出した許褚が、物もいわず徐晃の弓を握って、いきなり馬の上から彼を引きずり下ろした。
「やっ。狼藉な」
「何の。まだ丞相のおゆるしはなし。その袍の受領者は、いずれに行くか、腕のうちにありだ」
「無法無法」
「渡せ。いで渡せ」
とうとう、二人は引っ組んで、四つになり、諸仆れになり、さんざん肉闘して、肝腎な錦の袍もために、ズタズタに引裂いてしまった。
「分けろ、引分けろ」
曹操は台上から苦笑して命じた。
物々しく、退鉦打たせて、曹操はその二人をはじめ、弓に鍛えをあらわした諸将を一列に招き呼んで、
「いや、いずれ劣らぬ紅や緑。日頃のたしなみ、武芸の励み、見とどけたぞ。──なんで汝らの精励に対して、一裲の衣を惜しもうか」
と、大機嫌で、一人一人の者へ蜀江の錦一匹ずつ頒け与え、
「さあ、位階に従って席に着け。さらに杯の満を引こう」と、促した。
その時、楽部の伶人たちは、一斉に音楽を奏し、天には雲を闢き、地には漳河の水も答えるかと思われた。
水陸の珍味は、列座のあいだに配され、酒はあふれて、台上台下の千杯万杯に、尽きることなき春を盛った。
「武府の諸将は、みな弓を競って、日頃の能をあらわした。江湖の博学、文部の多識も、何か、佳章を賦して、きょうの盛会を記念せずばなるまい」
酒たけなわの頃、曹操がいった。
万雷のような拍手が轟く。王朗、字は景興、文官の一席から起って、
「鈞命に従って、銅雀台の一詩を賦しました。つつしんで賀唱いたします──」
銅雀台高ウシテ帝畿壮ナリ
水明ラカニ山秀イデ光輝ヲ競ウ
三千ノ剣佩黄道ヲ趨リ
百万ノ貔貅ハ紫微ニ現ズ
と朗々吟じた。
曹操は、大いに興じて、特に秘愛の杯に酒をつぎ、
「杯ぐるみ飲め」
と、王朗に与えた。
王朗は、酒を乾して、杯は袂に入れて退がった。文官と武官と湧くごとく歓呼した。
すると、また一人、雲箋に詩を記して立った者がある。東武亭侯侍中尚書、鍾繇、字は元常であった。
この人は、当代に於て、隷書を書かせては、第一の名人という評がある。すなわち七言八絶を賦って──
銅雀台ハ高ウシテ上天ニ接ス
眸ヲ凝セバ遍ス旧山川
欄干ハ屈曲シテ明月ヲ留メ
窓戸ハ玲瓏トシテ紫烟ヲ圧ス
漢祖ノ歌風ハ空シク筑ヲ撃チ
定王ノ戯馬謾ニ鞭ヲ加ウ
主人ノ盛徳ヤ尭舜ニ斉シ
願ワクハ昇平万々年ヲ楽シマン
と、高吟した。
「佳作、佳作」
曹操は激賞しておかなかった。そして彼には、一面の硯を賞として与えた。拍手、奏楽、礼讃の声、台上台下にみちあふれた。
「ああ、人臣の富貴、いま極まる」
曹操は左右の者に述懐した。彼はこういう中でも反省した。
「──とはいえ、もしこの曹操が出なかったら、国々の反乱はなお熄まず、かの袁術の如く、帝王を僭称するものが幾人も輩出したろう。幸いに、自分は袁紹、劉表を討平し、身は宰相の重きにあるといえ、或いは疑いを抱いて、曹操も天下を纂奪する野心があるのでないかなどという者があるかもしれぬが、われ少年の日、楽毅之伝を読むに──趙王が兵を起して燕国を討とうとしたとき、楽毅は地に拝伏し、その昔日、臣は燕王に仕えり、燕を去るも燕王を思うこと、なお今日、あなたに仕える真心と少しも変りはない。むしろ死すとも、不義の戦はすまじと哭いて云ったという。──楽毅伝のあの一章は少年の日、頭にふかくしみこんで今日になっても、この曹操はそれを忘れることができない。自分が四隣の乱をしずめ、府にあっては宰相の権をにぎり、出ては兵馬を司るのも、こうしなければ、四方の暴賊はみな私権を張り、人民はいつまで戦禍の苦しみから救われず、秩序は乱れるばかりで、遂には無政府状態におち入り、当然、漢朝の天下も亡びるに至ることを憂えたからにほかならない。──わが文武の諸将は、みなよく曹操の旨を諒せよ」
彼は、侍坐の重臣に、そう語り終ると、また数杯をかたむけて、面色大いに薫酔を発した。
「筆と硯をこれへ」
彼もまた、雲箋を展べて、即興の詩句を書いた。そしてそれへ、
吾レ高台ニ独歩シテ兮
俯シテ万里ノ山河ヲ観ル
という二句まで書きかけたところへ、たちまち、一騎の早打ちが、何事かこれへ報らせに飛んできた。
大宴満酔の折も折、席も席であったが、
「時務は怠れない」と、曹操は、早打ちの者を、すぐ階下によびよせて、
「何事やある?」と、許都からの報らせを訊いた。
「まず、相府の書を」と、使いは、官庁からのそれを曹操へ捧じてから、あとを口上で告げた。
「湖北へお出ましの後、江南の情報が、しきりと変を伝えてきました。それによると、呉の孫権は華欽というものを使者に立て、玄徳を荊州の太守に推薦し、一方、天子に表をたてまつって、おゆるしを仰いでいます。それも、事後承諾のかたちです。──のみならずまた彼孫権は、どうしたのか旧怨を捨て、自分の妹を玄徳の夫人として嫁がせ、その婚姻の引出物に、荊州九郡の大半も、玄徳に属すものと成り終ったということです。要するに玄、孫、二者の結合は、当然、わが魏へ向って、何事か大きな影響を及ぼさずにはいないものと──許都の府においても、みな心痛のまま、かくは早打ちをもって、お耳にまで達しに参りました」
「なに。呉侯の妹が、玄徳へ嫁いだ……?」
曹操は思わず、手に持っていた筆を取落した。
その愕きが、いかに大きく、彼の心をうったかは、とたんに手脚を張って、茫然と、空の雲へ向けていた放心的な眼にも明らかであった。
程昱が、筆を拾って、
「丞相、どう遊ばしました。敵軍の重囲におち給うて、矢にあたり石に打たれても、なお顛倒されたことのない丞相が……?」
「程昱、これが驚かずにいられるか。玄徳は人中の龍だ。彼、平生に水を得ず、伸びんとして遂に伸び得ず、深く淵にいたものが、いま荊州を獲たとあっては、これ龍が水に会うて大海へ出たようなもの……豈、驚かずにいられよう」
「まことに、晴天一朶の雲です。けれど、彼の計を、さらに計るの策はありませぬか」
「水と龍と、相結んだものを、断り離つのは難しいだろう」
「程昱はさほどまでには思いません。なぜならば、元来、孫権と玄徳とは、水龍二つの如く、性の合ったものではありません。むしろ孫権としては、玄徳を憎むこと強く、これを謀ろう謀ろうとしている気振りが見える。およそこんどの婚儀も、何か底に底ある事情からでしょう。──ゆえに、水龍相搏たせ、二者をして、争い闘わせる手段が、絶無とはいえません」
「聞こう。──その計は」
「愚存を申しますれば、なんといっても孫権がたのみとしているのは、周瑜です。また、重臣の雄なるは程普でしょう。……ですから丞相には早速許都へお帰りあって、まず呉の使いの華欽にお会い遊ばし、華欽を当分、呉へ帰さないことです」
「そして」
「別に勅を仰いで、周瑜を南郡の太守に封じます。また程普を江夏の太守とします。──江夏、南郡ともに今なお玄徳の領有している所ですから、これを呉使華欽に伝えてもおそらくお受けしますまい。ですから華欽にはさらに官職を与えてしばし朝廷にとどめおき、別に勅使を下して、これを呉の周瑜、程普に伝えます。かならず拝受感激いたすに違いありません」
「……むむ。そうか」
曹操は、程昱が考えたところのものを、もう結果まで読みとっていた。
その夕、彼は、銅雀台の遊楽も半ばに、漳河の春にも心を残しながら、にわかに車駕をととのえて許昌の都へ帰って行った。
そして、呉使華欽に、大理寺少卿という官爵を与え、彼を都へとどめておく一方、勅命を乞うて、程昱の献策どおり、勅使を呉の国へ馳せ下した。
周瑜は、その後も柴桑にいて瘡養生をしていたが、勅使に接して、思いがけぬ叙封の沙汰を拝すると、たちまち病も忘れて、呉侯孫権へ、次のような書簡をしたためて送った。
天子、詔を降して、いま不肖周瑜に、南郡の太守に封ずとの恩命がありましたが、南郡にはすでに玄徳あり、臣の得る地は一寸もありません。しかもその玄徳は今、主家のお妹君の婿たり。臣、朝命に忠ならんとすれば、主家の親族にそむく科を得べく、主家に忠ならんとすれば、朝命にもとることと相成ります。
ねがわくは、周瑜の心事を憐み給い、君公のご賢察を仰ぎ奉る──
孫権は近頃、呉の南徐(南京附近)に都していたが、すぐ魯粛を呼んでいった。
「困ったことになった。周瑜からはこう云ってくるし、玄徳はわが妹婿となったのを名として、いよいよ荊州を呉へかえす肚などあるまい」
「いえ、蜀の国を取ったら、荊州はおかえし申すと、孔明も連判して、固い証約を取ってありますから」
「黙れ、黙れ。そんな反故を信用して、彼が蜀の国を取るまで待つくらいなら、なにも心配はせん。もし玄徳が一生のうちに蜀へ入ることができなかったらどうするか」
「おそれ入ります。そこまでは」
「それみい。其方とて、必ずそういう時期があるとは保証できまい。ましてや彼には孔明という者がついている以上、素直に荊州を渡すわけはない」
「私の責任です。願わくはもう一度、荊州へ私をおつかわし下さい」
「きっと話をつけて来るか」
「あくまで、談じて参ります」
ここ、各地の合戦は、すこし歇んでいるようだが、四囲の情勢は依然わるい。とうてい、このまま天下が平和に入るような兆候は、何を観ても考えられない。
荊州を中心に、今や玄徳は、孔明を師とし、関羽、張飛、趙雲などを翼尾として、日夜、軍馬を調練していた。軍事そのものばかりでなく、政策、経済、交通、あらゆる部門に、次の必然なるものの到来に備えていた。
「亮軍師。また、魯粛が呉から使いに来たそうだが、会ったらどういおう」
玄徳は、孔明に諮った。
孔明はこう教えた。
「もし魯粛が、例の問題を持出して、荊州のことを云い出したら、君には、声を放って、お哭きになられたがよいでしょう」
「そして?」
「あとは私が、よいように、そこの所を計らいますから」
やがて魯粛はこれへ着いて、堂上に迎えられ、かつ上席に請ぜられた。
「恐縮です。魯粛如きに、上座をお譲り遊ばすとは」
「なぜ、ご遠慮あるか」
「以前はともあれ、今はわが主君の婿君たるあなた様をおいて、臣下の私が上に坐るいわれはありません」
「いや、旧交を思うてのこと、左様に謙譲にせずともよい」
「でも、礼儀だけは」と、物堅い魯粛は、あくまで辞退して、横に席を取った。
だが、答礼も終って、いよいよ用件の段階に入ると、さすがにその謙虚も払って、
「呉侯のご命をうけて、再度、それがしがこれへ参った仔細は、疾くご推察であろうが、もっぱら荊州譲渡の事を議せんためであります。すでに呉家と劉家とは、ご婚姻によって、まったく一和同族の誼みすらある今日、なお久しく借り給うてお還しなきは、世上の聞えにも、将来の御為にも、おもしろからぬことかと存ぜられる。この度はぜひそれがしの顔もたてて、お快くご返却ねがいたいと思います」
魯粛が、厳重な語気を裡につつんで、そう切り出すと、劉玄徳は、彼のことばの半ばから面をおおって、よよと、声を洩らして哭き出した。
魯粛は愕いて、
「……これは?」と、ばかり玄徳の哭く様子を見まもっていた。
孔明は、その機に、衝立の後ろから歩いてきて、魯粛へいった。
「粛公。あなたは、皇叔がなんで嘆き悲しむか、仔細をご存じか」
「わかりません」
「蜀の劉璋は、漢朝の骨肉、いわば皇叔とは、血において、兄弟も同じです。もし故なく兵を起して、蜀へ攻め入れば、世人は唾して不徳を罵るであろう。──さりとて、もし荊州を呉侯へ返せば、身を置く国もありますまい」
「わかりました」
魯粛は、座を起って、なお哭き悶えている玄徳の肩へ顔をよせて慰めた。
「皇叔、皇叔……。さのみ嘆き給いそ。私と孔明とで、何か良い思案をめぐらしますから」
魯粛が、情にうごいた容子を見て、孔明はここぞと、共に情をこめて玄徳へいった。
「わが君、そのようにご悲嘆ありましては、遂には、心身をそこねましょう。万事は魯粛どのの仁侠と義心にお頼みあそばして、心をひろくお持ち下さい。──また粛公には、呉侯に対して皇叔がこのように苦衷しておられる仔細を、何とぞよろしきように、お伝え給われ。よも、呉侯とて、お怒りはなさるまい」
魯粛は、急に我にかえって、大げさに手を振りながら、
「待って下さい。またしても、むなしく、そんなご返事をもたらして帰ったら、今度こそ呉侯も、どうおっしゃるか分りません」
「いやいや、すでにご自分の妹君を娶合せられた呉侯が、その婿たるお方のかくばかりな苦境をば、何とて他に見ましょうぞ。臣下に対して、表向き、きびしく約束の履行をおっしゃるでしょうが、本心からご立腹なさるわけはありません」
温厚寛仁な魯粛は、そういわれると、とかくの議論にも及ばず、ただ玄徳の立場に同情し、ひいては主君の意思の裏にも、一片の情けはある筈だと思いこんでしまった。
ついに今度も、空手で帰国の途につくしかなかったが、途中、柴桑に船をよせて一泊したついでに、周瑜を訪ねて、この次第を話すと、周瑜は、またしても卿は孔明に一杯喰わされたのだと云い、魯粛のあまりにも善意的な見解をなじって、
「君の性質は、全然、外交官としては零だ。ただ篤実な長者でしかない」
馬鹿といわないばかりに、腹を立てて云った。
「考えても見給え。劉表に身を寄せていた頃から、常に劉表の後釜をうかがっていた玄徳じゃないか。いわんや、蜀の劉璋などに、なんの斟酌を持っているものか。すべて彼と孔明の遷延策にほかならぬものだ。そして何とかかんとかいって荊州を呉へかえさない算段をめぐらしているにきまっておるさ!」
魯粛は、青くなった。
呉侯に取次ぐ言葉がないからである。
「もう一度、荊州へ行って来給え。そんな回答をたずさえて、呉侯の前でおめおめと当り前みたいな顔して申し上げたら、おそらく卿の首はその場でなくなるにきまっている」
周瑜は一大秘策を授けた。
(君は篤実な長者とはいえるが、外交官としてはゼロだよ)と、彼にいわれた魯粛は、それを不名誉とも思わず、あくまで自己の性格の命ずるまま、周瑜の秘策を持ってそこから再び荊州へ引っ返した。
そして玄徳に会うと、こう告げた。
「立ち帰って、あなたのご苦衷と、おなげきの態を、主君孫権へ、ありのまま、お伝えいたした所、主君も大いに同情の色を現し、群臣と共に、ご評議の結果、こういう一案をお立てになりました。おそらく、これには皇叔とても、よも異存はあるまいとの衆議からで……」と、ここに周瑜の智謀から出た退っぴきさせぬ一要求を持ち出した。それは、玄徳の名で蜀へ攻め入るのがまずいならば、呉の大軍をもって、呉が直接、蜀を取る。──だが、その節には、荊州を通過することと、多少の軍需兵糧を補給するという確約をむすんでもらいたいという条件であった。
玄徳は、異議なく、協力を誓った。
その前に、孔明からいわれていたので、むしろ歓びを現して、
「呉の兵力をもって、蜀を攻めていただければ、これに越したことはない。ご軍勢の領内通過は、当然なことで、許すも許さないもありません。こう好都合に談がまとまったのも、みな足下のお骨折りと申さねばなるまい」と、魯粛に恩を謝した。
(このたびこそ上首尾に)
魯粛も心ひそかに喜悦して、早速、柴桑へ帰って行った。玄徳はそのあとで孔明に訊ねていた。
「呉の軍勢をもって、蜀を攻め、それを取って、この玄徳に与えようとは、いったいどういう呉侯の肚だろうか」
「いや、呉侯の肚ではありますまい。またしても周瑜の策です。愍むべし、自分の策のために、周瑜の死にぎわはいよいよ近づいてきたようです」
「なぜ、そういえるか」
「魯粛はまだ呉の南徐まで帰ったのではありません。途中柴桑に寄って、周瑜に会い、彼の策をそのまま持って、再びこれへ来たものです」
「なるほど。往来の日数から数えても、ちと早過ぎるとは思ったが」
「蜀を攻めるを名として、荊州の通過を申し入れてきたのは、明らかに周瑜の考えそうな謀略で、実は荊州を取るつもりです」
「それを知りつつ、なぜ軍師には彼の要求を容れよと、予にすすめたのか」
「時節到来です。お案じ遊ばすな」
趙雲をその場に呼び、何事か策をさずけて走らす一方、孔明自身も、やがて来るべきものに対し、万端の備えをしていた。
一方。
魯粛の返辞を聞いて、柴桑の周瑜は、手を打ってよろこんだ。そして快然と、こういった。
「今度こそ、してやったり、初めて孔明をあざむき得たぞ!」
魯粛は、船をいそがせて、南徐に下り、呉侯に会って云々と報告した。
「さすがは周瑜、これほどな智謀の持ち主は、呉はおろか、当代何処にもおるまい。玄徳、孔明の運命も、ここに極まったり」と、呉侯の共鳴もすばらしいものである。直ちに、早打ちをやって、周瑜を励まし、また程普を大将として、彼を助けしめた。
このとき周瑜は、瘡もあらかた平癒して、膿水も止まり、歩行には不自由ない程度になっていたので、彼は勇躍身を鎧って、みずから戦陣に臨むべく決心した。
甘寧を先手に、徐盛、丁奉を中軍に、凌統、呂蒙を後陣として、総勢五万、水陸軍に編制し、彼自身は、二万五千をひきいて柴桑を船で出た。
時の記録には、彼の心事を描いて、
心ノウチ仕済シタリト打チヨロコビ
笑イ楽シンデ、溯江数百里、夏口マデ来リケル。
と、ある。
おそらく彼の心境はそうだったろうと思われる。夏口へ着くと、彼は土地の役人に訊ねた。
「たれか荊州から迎えは来ていないか」
役人は叩頭して答えた。
「劉皇叔の命をおび、糜竺と仰せられる大官が来ていらっしゃいます」
間もなく、江頭から小舟が漕いできた。糜竺であった。
「ご遠征、まことにご苦労にぞんじます。主人もすでに、御軍需の用に供える金銀兵糧の用意を済まし、また、諸軍のご慰労などもどうしたがよいかと、心をくだいておられます」
船上に登って、糜竺が、こう拝伏して告げると、周瑜は尊大に構えて、
「劉皇叔には、今どこにおらるるか」
と、質し、すでに荊州の城を出て、貴軍の到着を待っていると聞くと、周瑜は、
「こんどの出陣は、蜀を取って、皇叔に進上せんためであって、まったく貴国の為に働くのであるから遠路を来たわが将士には、充分なもてなしと礼をもって迎えられよ」
と、特にいった。
唯々諾々である。糜竺は命ぜられるまま、倉皇として帰って行った。
そのあとから周瑜もすぐ上陸した。江上一帯に、兵船の備えを残して、陸路、荊州へおもむいた。
ところが、公安まで来ても、劉玄徳の出迎えはおろか、小役人の迎えにも会わない。
「荊州までどのくらいあるか。あとの道のりは?」
心に怪しみながら周瑜がたずねると、
「もうわずか十里しかありませぬ」と、彼の幕下たちも眉をひそめ合っている。
「はて。いぶかしい?」と、休息しているところへ、先手の斥候が馬をとばして来て、
「何か、様子が変です。はるか見渡すかぎり、人の影も見えず、荊州の城を望めば、まるで葬式のように、二旒の白旗がしょんぼりなびいているだけなんです」
周瑜は、聞くや否、
「甘寧、丁奉と来い」と、精兵千騎だけをつれて、まっしぐらに荊州城下まで駈け通した。
「孔明も、馬鹿ではない。或いは、こっちの肚を察して、いち早く、城を明けて逃げ出したのかも知れない」
周瑜が八、九分まで信じていたものは、そういう見解だった。ところが城門へ来て、門を開けよと呼ばわると、中から、
「何者だっ」と、案外、気の強い声がした。
「呉の大都督周瑜である。なぜ劉皇叔には、出迎えに出ないかっ」
大音に叱り返すと、とたんに城頭の白旗がばたんと仆れた。そしてたちまち、それに代って炎のような紅の旗が高々と揚げられ、
「周都督、何しに来たか」
と、いう者がある。
仰いで天を見ると、櫓の上に、一人の大将の姿が小さく見えた。
「オオ趙雲ではないか。玄徳はいかがしたか」
「知らず!」と、噛んで吐き出すように、趙雲は下をのぞいていった。
「わが軍師孔明には、すでに足下が──道ヲ借リテ草ヲ枯ラス──の計を推量し、それがしをここの番につけ置かれた。他所をさがし給え。それとも、城中の趙雲に御用があるか」
と、槍を頭上にかざして、今にも投げ落そうとする姿勢を示した。
周瑜は愕いて、馬を引っ返した。城下の町角から「令」の一字を書いた旗を背にした一騎が近寄って来て、
「いよいよ、怪しいことばかりです。いま諸方の巡警からしらせて来たところによると、関羽は江陵より攻め来り、張飛は柹帰より攻め来り、また、黄忠は公安の山陰から現れ、魏延は孱陵の横道から殺到しつつあるということです。兵数そのほか、事態はまだよく分りませんが、なにしろ喊の声は、遠近にひびき、さながら四方五十余里まるで敵に埋ったかのような空気で──そこらの部落や下民どもまで、口々に玄徳、孔明の叫びを真似て──呉客周瑜を生捕りにしろ、周瑜をころせ──と喚き伝えているそうです」
「ううむっ……」
がばと、周瑜は、馬のたてがみに、うっ伏してしまった。
せっかく癒りかけていた金瘡ことごとくやぶれて、ぱっと、血を吐いたかと思うと、そのままくたっと、馬の背から落ちてしまった。
諸将は、仰天して、周瑜の身をかかえ、辛くも救命薬を与えて蘇生させた。ところへまた、物見が来て、
「孔明と玄徳は、ついこの先の山上に、莚をのべ、幕をめぐらし、酒を飲んで、さながら遊山でもしているように、楽しみ興じている態です」
と、告げたので、周瑜はいよいよ歯がみをして、無念の拳をにぎりしめた。
周瑜の侍医や近侍たちは、こもごもになだめて、安臥をすすめた。
「怒気をお抱き遊ばすほど、破傷のご苦痛は増すばかりです。なにとぞお心をしずめて、静かに、しばしご養生を」
大軍を率いて遠く溯江し、上陸第一日にこの凶事だったから、諸人の気落ちと狼狽は無理もなかった。
ところへ、呉侯孫権の弟孫瑜が援軍を引いて到着したと報じて来た。周瑜が、
「会いたい」
というので、早速、馬をとばして迎えにやると、孫瑜はすぐ駈けつけて、こう慰めた。
「都督、余りじりじりせぬがよい。予がこれへ来たからには、万事、呉侯に代って指揮いたすゆえ、御身はしばらく船中へ退いて、何よりも身の養生に努めるがいい」
しかし、周瑜はなお、身の苦痛など口にも出さない。火の如き憤念を吐いて、
「誓って、荊州を取り、玄徳、孔明の首を見なければ、なんの顔をもって呉侯にまみえよう」
血涙をたたえて云った。
孫瑜は、その激越を気づかってわざと相手にならない。そして直ちに病輿を命じて彼を乗せ、ひとまず夏口の船場まで退くことにした。
その途中である。巴丘という所まで来ると、彼方に荊州の一軍が江頭の道を切りふさいだという。物見を放ってうかがわせると、関羽の養子関平と劉封の二将が、
「周瑜来らば──」と、虎を狩るように、厳しく陣をめぐらしているとある。
周瑜は聞くと、輿の中で、身をもがいて叫んだ。
「降ろせっ。輿の中よりわしを出せ。猪口才な孔明の手先、蹴ちらして通る」
けれど病輿はどんどん道をかえてほかの方向へ走っていた。孫瑜の命令で、夏口にある船の一艘をべつな江岸へ呼び、そこから辛うじて周瑜の身を船へ移した。
するとそこへ、荊州の軍使と称する者がきて、一書を、周瑜へ渡して去った。──見れば孔明の手蹟である。
その文にいう。
漢ノ軍師中郎将諸葛亮、書ヲ大都督公瑾(周瑜)先生ノ麾下ニ致ス。
亮、柴桑ノ一別ヨリ、今ニ至ッテ恋々ト忘レズ。聞ク、足下、西川(蜀)ヲ取ラント欲スト。
亮思エラク、不可ナリ。益州(蜀)民ハ強クシテ地ハ険。
劉璋ノ暗弱ヲ以テシテモ守ルニ足レリ。今、師ヲ挙ゲテ遠征シ転運万里、全功ヲ収メント欲シ、呉起ツトイエドモソノ規ヲ定ムルコト能ワザラン。
抑、天下如何ナル愚人ゾ。曹操ガ赤壁ノ大敗ヲ見テ、亦、ソノ愚轍ヲアエテ趁ワントスルトハ。今、天下三分シ、操ハソノ二分ヲ占メ、ナオ、馬ヲ蒼海ニ水飼イ呉会ニ兵ヲ観ンコトヲ望ム。時呉兵ヲシテ遠伐ニ赴カシメ、自ラ守ルヲ虚シュウスルハ長計ニ非ザル也。操ガ兵一度至ラバ、江南粉滅サレ尽サン。
坐シテ視ルニ忍ビズ、ココニ告グ。幸イニ照覧ヲ垂レヨ。
読み下してゆくうちに、周瑜は恨気胸にふさがり、手はわななき、顔色も壁土のようになってしまった。
「ううむっ……」と、太く、苦しげに、長嘆一声すると、急に、
「筆、筆、筆。……紙を。硯を」
と、さけび、引ったくるように持つと、必死の形相をしながら、なにか懸命に書き出した。文字はみだれ、墨は散り、文は綿々と長かったが、遂に書き終るや否、筆を投げて、
「ああ、無念っ……無情や人生。皮肉なることよ宿命……。天すでに、この周瑜を地上に生ませ給いながら、何故また、孔明を地に生じ給えるや!」
云い終ると、昏絶して、一たん眼を閉じたが、ふたたびくわっと見ひらいて、
「諸君。不忠、周瑜はここに終ったが、呉侯を頼む。忠節を尽して……」
忽然、うす黒い瞼を落し、まだ三十六歳の若い寿に終りを告げた。時、建安十五年の冬十二月三日であったという。
喪旗を垂れ、柩をのせた船は、哀々たる弔笛を流しながら、夜航して巴丘を出て、呉へ下って行った。
「なに、周瑜が死んだと?」
孫権は、彼の遺書を手にするまで、信じなかった。いや信じたくなかった。
周瑜の遺書には、
瑜死ニ臨ミ、泣血頓首シテ、書ヲ主君明公ノ麾下ニ致ス
と書き始めて、縷々といま斃れる無念をのべ、呉の将来を憂い、その国策を誌し、そして終りには、
(自分の亡い後は、魯粛を大都督として職をお任せあれば、彼は篤実忠良な仁者ですから、外に過たず、内に人心を獲ましょう)
とも云いのこしてあった。
孫権の悲嘆はいうまでもない。暗澹と、彼の将来を思って、
「周瑜のような王佐の才を亡くして、この後何を力とたのもう」
と慟哭した。
けれどいつまで嘆いている所ではないと、張昭そのほかの重臣たちに励まされて、周瑜の遺言を守り、魯粛を大都督に任命した。以後、呉の軍事はすべて、彼の手に委ねられた。
もちろん、国葬を以て、遺骸は篤く葬られた。国中、喪に服して、哀号の色もまだ拭われないうちに一船、江を下ってきて、
「元勲、瑜公の死を聞き、謹んで遠くよりおくやみに来ました」と告げた者がある。
そう関門へ告げに来た者は、すなわち趙雲子龍であったが、正使は諸葛孔明その人であり、玄徳の名代として従者五百余をつれて上陸した。
喪を弔う──と称してきた者を拒むわけにもゆかなかった。魯粛が迎えて対面した。しかし故人周瑜の部下や、呉の諸将も口々に、
「斬ってしまえ」
「これへ来たこそ幸いなれ、彼の首を、霊前に供え、故人の怨恨を今ぞ晴らさん」
と、ひしめきあった。
けれど、孔明のそばには、たえず趙雲が油断なく眼をくばっているので、容易に手が下せなかった。
しかも孔明は塵ほどな不安も、姿にとめていなかった。
殺気満ち盈つ中を、歩々、水の如くすすんで、周瑜の祭壇に到るや、その前にぬかずいて、やや久しく黙拝していたが、やがて携えてきた酒、その他の種々を供え、霊前に向ってうやうやしく自筆の弔文を読んだ。
惟、大漢ノ建安十五年。南陽、諸葛亮、謹ンデ祭ヲ大都督公瑾周府君ノ霊前ニ致シテ曰ウ。
嗚呼公瑾不幸ニシテ夭亡ス、天人倶ニ傷マザルハ非ズ……
孔明の声は、一語一句、呉将の肺腑にしみた。弔文は長い辞句と切々たる名文によってつづられ、聞く者、哭くまいとしても哭かずにいられなかった。
──亮ヤ不才、計ヲ問イ、謀ヲ求ム、皆君ガ神算ニ出ヅ。呉ヲ扶ケ、曹ヲ討チ、劉ヲ安ンジ、首尾掎角、為ニ完シ、嗚呼公瑾今ヤ永ク別ル。何ヲ慮リ何ヲカ望マン。冥々滅々、霊アラバ我心ヲ鑑ラレヨ。此ヨリ天下再ビ知音無カラン。嗚呼痛マシイ哉。
読み終ると、孔明は、ふたたび地に伏して大いに哭き、哀慟の真情、見るも傷ましいばかりだったので、並びいる呉の将士もことごとく貰い泣きして、心ひそかに、皆こう思った。
(周瑜と孔明とは、たがいに仲が悪く、周瑜はつねに孔明を亡き者にしようとし、孔明もまた周瑜に害意をふくんでいると聞いていたが、……この容子ではまるで骨肉の者と別れたような嘆き方だ。察するところ、周瑜の死は、まったく孔明のためではなく、むしろ周瑜自身の狭量が、みずから求めて死を取ったものだろう。どうもそれでは致し方もない……)
初めの殺意は、かえって、後の尊敬となって、魯粛以下、みな引き留めたが、孔明は長居は無用と、惜しまれる袂をふり切って、その日のうちにすぐ船へ帰って行った。
ところが、ここにただ一人、城門の陰から見え隠れに、孔明のあとをつけて行った破衣竹冠のみすぼらしい浪人者があった。
魯粛は、江の岸まで孔明を送ってきた。
別れて孔明が、船へ乗ろうとした時である。竹冠の浪人は、
「待てっ」
いきなり馳け寄りざま、臂を伸ばして、孔明の肩を引っつかんだ。そして、大声に、
「すでに周都督を、気をもて殺しながら、口を拭いて、自らその喪を弔うと称し、呉へ来るなどは、呉人を盲にした不敵な曲者、呉にも眼あきはいるぞ」
と、片手に剣を抜いて、あわや孔明を刺そうとした。
別れて十歩ほど、そこを去りかけた魯粛も、この声に仰天して、
「何をするかっ、無礼者」と、馳けもどるなり浪人の腕をつかんで振り飛ばした。
すると浪人は、自身ひょいと飛びのいて、
「あははは、冗談です」
と、もう剣を鞘に収めていた。
見れば、背の低い、そして鼻の平たい、容貌といい風采といい、まことに人品のいやしげな男だった。
孔明は、にこと笑って、
「やあ、誰かと思うたら、龐統ではないか」
と、親しげに寄って、その肩を打ち叩いた。
「なんだ、貴君か」
と、魯粛も気抜けしたり、ほっと胸をなでたりして、
「悪いお戯れをなさる。部下の血気者でも狼藉に及んだかと思って、ぎょッとしましたよ」
一笑して、彼はそのまま、城内へ帰って行った。
龐統、字は士元、襄陽名士のひとりで、孔明がまだ襄陽郊外の隆中に居住していた頃から、はやくも知識人たちの間には、
龐統ハ、鳳凰ノ雛。
孔明ハ、臥セル龍ニ似ル。
──と、その将来を囑目されていたのだった。
荊州滅亡の後、その龐統は、呉の国に漂泊しているとは、かねて孔明も人のうわさに聞いていたが、ここで相見たのは、まことに意外であった。
で、孔明は、船が纜を解くまでの寸間に、一書をしたためて、彼にこう告げて手渡した。
「おそらく、御身の大才は、呉の国では用いられまい。君も一生そう浪人しているつもりでもあるまいから、もし志を得んと思うなら、この書をたずさえて、いつでも荊州へやって来給え。わが主玄徳は寛仁大度、かならず君が補佐して、君の志も、共に達することができよう」
孔明の船は、江をさかのぼって、遠く見えなくなった。
船影が見えなくなるまで、龐統は岸にたたずんでいたが、やがて飄乎として、何処へか立ち去った。
その後、呉では、周瑜の柩をさらに蕪湖(安徽省・蕪湖)へ送った。蕪湖は周瑜の故郷であり、そこの地には故人の嫡子や女などもいるし、多くの郷党もみな嘆き悲しんでいるので、名残りを篤うさせたのであった。
けれどいくら死後の祭を盛大にしてやっても、なお恋々と故人の才を惜しんでは日夜痛嘆していたのは孫権自身であった。すでに乗り出してしまった大業に向って、まだ赤壁の一戦に大捷を克ち獲たきりである所へ、たのむ股肱を失ったのであるから、その精神的な傷手の容易に癒えないのも無理はなかった。
それに代る柱石として、魯粛を大都督に任じたものの、魯粛の温厚篤実では、この時代をよく乗り切って呉の国威を完うし得るかどうかすこぶる疑わしい。──それは誰よりも魯粛自身がよく知っていた。
「私は元来、取るに足らない凡庸です。周都督のご遺言といい、君命もだし難く、一応おうけ致したものの、決して天下人なきわけではありません。ぜひ、孔明にも勝るところの人物を挙げてその職にあたらせていただきとう存じます」
彼の正直なことばを孫権もそのまま容れて、しかし一体、そのような人物がいるだろうかと反問した。もしおるならば推薦せよといわぬばかりに。
「おります。ただ一人」と、魯粛は、主君の言下に、こう推薦した。
「世々襄陽の名望家で、龐統、字は士元、道号を鳳雛先生ともいう者ですが」
「おお、鳳雛先生か。かねて名だけは聞いておる。周瑜と人物をくらべたら?」
「故人の評はいえません。しかし、孔明も彼の智には深く伏しています。また襄陽人士のあいだでも、二人を目して、兄たり難く弟たり難しといっています」
「そんな偉才か」
「上天文に通じ、下地理を暁り、謀略は管仲、楽毅に劣らず、枢機の才は孫子、呉子にも並ぶ者といっても過言ではないでしょう」
孫権は渇望の念を急にした。すぐ召し連れよとある。魯粛が数日のあいだ龐統を市中に探している間も、
「まだか。まだか」
幾度も催促したほどだった。
けれどやがて魯粛がたずね当てて呉の宮中へつれて来たのを一見すると、孫権はひどくがっかりした顔をした。
何分にも、風采があがらない。面は黒疱瘡のあとでボツボツだらけだし、鼻はひしげているし、髯は髯というよりも、短い不精髯でいっぱいだ。
(こんなまずい男様も少ない)と孫権は、古怪を感じながら、それでも二、三の問いを試みた。
「足下。何の芸があるか」
龐統は答えた。
「飯を喰い、やがて死ぬでしょう」
「才は?」と、訊くと、
「ただ機に臨んで、変に応じるのみ」と、ぶっきら棒である。
孫権はいよいよ蔑みながら、
「足下と、周瑜とをくらべたら」
「まず、珠と瓦でしょうな」
「どっちが?」
「ご判断にまかせます」
明らかに、この黒あばたが、自ら珠を以て任じている顔つきなので、孫権は、ぷっと怒りを含んで奥へかくれてしまった。そして、魯粛を呼び、
「あんな者はすぐ追い返せ」といった。
魯粛は、彼の感情に曇った鑑識を極力、訂正につとめた。
「一見、狂人に似、風采もあがらない男ですが、その大才たる証拠には、かの赤壁の戦前に、周瑜に教えて、連環の計をすすめ、一夜にあの大功を挙げ得た陰には、実に龐統の智略があったのです。──故人の偉勲を傷つけるわけではありませんが」
「いやいや、予は虫が好かんのだ」
「御意にかないませぬか」
「天下人なきに非ずと、そちもいったではないか。何を好んで……」
「ぜひもございません」
夜に入っていた。
魯粛は、気の毒にたえないので、自ら城門の外まで彼を送ってきた。そして、人なき所まで来ると、声をひそめて慰めた。
「きょうの不首尾、まったく要らざる推挙をした私の罪です。先生もさぞ不快だったでしょう」
龐統はただ笑っている。
魯粛はことばをかさねて、
「先生はこれを機に、呉を去るお意でしょう」
「去るかもしれない」
「国外へ出て、もし主君をお選びになるとしたら、誰に仕えますか」
「もちろん魏の曹操さ」
もし曹操のもとへ彼に奔って行かれてはたまらないと魯粛は思っていた。で、一書を袂から取り出して、
「荊州の玄徳にお仕えなさい。かならず貴君を重用しましょう」
と極力、玄徳の徳をたたえて、紹介状を渡した。
「あははは。曹操につくといったのは戯れだよ。ちょっと君の心を量ってみたまでさ」
「それで安心しました。先生が玄徳を扶けて、曹操を討つ日が早く来れば、呉にとっても大慶ですから。──では、ご機嫌よう」
「おさらば」
ふたりは、相別れたが、なお幾度も振向き合った。
ここしばらく、孔明は荊州にいなかった。新領治下の民情を視、四郡の産物など視察して歩いていた。
彼の留守である。龐統が荊州へ来たのは。
「予に会いたいというのか」
「おそらく仕官を求めにきたものと思われますが」
「名は」
「襄陽の龐統なりと申しました」
「さては、鳳雛先生か」
玄徳は驚いて、取次の家臣へ、すぐ鄭重に案内せよと命じた。
かねて孔明からうわさを聞いていたからである。龐統はやがて導かれてきた。しかし堂に迎えられても、長揖して拝すでもなく、すこぶる無作法に佇立しているので、
「はて、このような男が、名声の高い鳳雛だろうか」と、玄徳は疑いを生じた。
のみならず、風態は卑しげだし、容は醜いときているので、玄徳もすっかり興ざめ顔に、
「遠くご辺のこれへ来られたのは、そも、いかなる御用があってのことか」
と、通り一遍の質問をした。
龐統はかねて孔明から貰ってある書状もあるし、魯粛の紹介状を携えていたが、わざとそれを出さなかった。
「されば、劉皇叔が、この地に新政を布いて弘く人材を求めらるる由をはるかに承り、もしご縁あらばと来てみたわけです」
「それはあいにくなことだ。荊州はすでに治安秩序も定まり、官職の椅子も今は欠員がない。──ただここから東北地方の田舎だが、耒陽県の県令の職がひとつ空いておる。もしそこでもと望むならば、赴任して見らるるがよい」
「田舎の県令ですか。それも暢気でいいかも知れませんな」
龐統は辞令を受けると、即日、任地へ立って行った。荊州東北、約百三十里の小都会である。
だが彼はそこの知事として着任しても、ほとんど役所の時務は何も見なかった。地方時務の多くは民の訴え事であるが、訴訟などはてんでほうりだしておくため、書類は山積して塵に埋まっている。
当然、地方民の怨嗟や糾弾の声が起った。そして中府の荊州にもこの非難が聞えてきたので、温厚な玄徳も、
「憎い腐れ儒者ではある」と、直ちに、張飛と孫乾にいいつけ、耒陽県を巡視して、もし官の不法、怠慢のかどなど発見したら、きびしく実状を糺して来いといった。
「心得ました」
二人は、数十騎の侍をつれ、吏務検察として赴いた。郡民や小吏は聞きつたえて、
「お待ちもうしておりました」とばかり、こぞって出迎えに立ったが、県令の顔は見あたらない。
「役所の者はおらんのか」
張飛がどなると、一役人が、
「これに出ておりますが」
と、恐惶頓首して答えた。
「お前たちじゃない。県令はどうしたか」
「それが、……その何とも」
「明らかにいえ。お前たちを罰しに来たのじゃない」
「何ぶんにも、県令龐統には、ご着任以来、今日のような場合に限らず、すべて公の事には、見向いたこともありませんので」
「そして、何しておるのだ。毎日……」
「たいがいは、酒ばかり飲んでいらっしゃいます」
「毎日、酒びたりか」
張飛はちょっと、羨ましいような顔したが、すぐ、
「怪しからん」と、云い放ちながら、その足で、県庁の官舎へ押しかけ、
「龐統はおらんか」と、どなった。
すると奥から衣冠もととのえぬ酔どれが、赤い蟹みたいな顔してよろよろ出てきた。そして、
「わしが龐統だが」と、昼から酒くさい息を吐いて云った。
「貴様か。県令の龐統とは」
「ふん。わしだよ」
「何だ。その態は」
「まあ、掛けたまえ。耳の穴へ蜂がはいったようじゃないか。君か、張飛とかいう男は」
龐統は驚かない。
自分の眼光に会ってこんなに驚かない男を張飛はあまり知らない。
「一杯参らんか」
「酒どころではない、おれは家兄玄徳の命をうけて、吏道を正しに来たものだ。赴任以来、汝はほとんど官務を見ていないというじゃないか」
「ぼつぼつやろうと思っている」
「怪しからん怠慢だ。公事訴訟も山ほどつかえているというに」
「やる気になれば造作はない。政事は事務ではないよ。簡単なるほどよろしいのだ。民の善性を昂め、邪性を圧える。圧えるではまだまずい。ほとんど、邪悪の性を忘れしめる。どうじゃ、それでよろしいのじゃろう」
「口は達者らしいな」
「飲けるほうだ」
「酒のことではないッ」と、張飛は虎が伸びするように身を起して呶鳴った。
「では、明日中に、その実をおれの眼に見せろ。その上で汝の広言に耳をかそう。しからずんば、引っくくって、汝を白洲にすえるぞ」
「よろしい」
龐統は手酌で飲んでいた。
張飛と孫乾は、わざと民家に泊った。そして翌日、庁へ行ってみると、訴訟役所から往来まで行列がつづいている。
「何事だ、いったい?」
訊いてみると、きょうは未明の頃から、県令龐統が急に裁判を白洲に聴いて、いちいち決裁を与えているのだという。
田地の争い、商品の取引違い、喧嘩、家族騒動、盗難、人事、雑多な問題を、龐統は二つの耳で訊くとすぐ、
「こういたせ」「こう仲直り」「それは甲が悪い、笞を打って放せ」「これでは乙が不愍である、丙はいくらいくらの損害をやれ」──などと、その裁決は水のながれるようで、山と積まれた訴訟も夕方までには一件も余さず片づけてしまった。その上で、
「いかがです。張飛先生」
龐統は笑って晩餐を共にとすすめた。
張飛は、床に伏して、
「まだかつて、大兄の如き名吏を見たことがない」と、先の言を深く謝した。
龐統は、張飛が帰るとき、一書を出して、
「主君に渡してくれ」と頼んだ。
魯粛から貰っていた紹介状である。玄徳は、報告を聞き、またその書簡を見て、非常にびっくりした。
「ああ、あやうく大賢人を失うところだった。人は、風貌ばかりでは分らない……」
そこへ四郡の巡視を終って孔明が帰ってきた。噂を聞いていたとみえ、
「龐統はつつがなくおりますか」
玄徳は間の悪い顔をしながら、実は耒陽県の知事にやってあるというと、孔明は、
「あのような大器を、そんな地方の小県になどやっておいたら、閑に飽いて酒ばかり飲んでおりましょう」と、いった。
「いや、その通りである」と、玄徳が実状を告げると、孔明は、
「わたくしからも君へ推挙の一筆を渡してあるのに、それは出しませんでしたか」
「見せもせぬし、語りもしなかった」
「とにかく、県令には誰か代りをやって、早くお呼び戻しになるがよいでしょう」
やがて、龐統は、荊州へ帰ってきた。
玄徳は、不明を謝し、なお、孔明と龐統のふたりに、酒を賜わって、心からいった。
「──むかし司馬徽徐庶先生が、もし伏龍鳳雛ふたりのうち一人でも味方にすることができたら、天下の事も成ろうと予にいわれたことがある。……こんな不明な玄徳に、その二人までが、ともに自分を扶けてくれようとは、ああ思えば玄徳は果報すぎる。慎まねばならん。慎まねばならん」
龐統はその日から、副軍師中郎将に任ぜられた。
総軍の司令を兼ね、最高参謀府にあって、軍師孔明の片腕にもなるべき重職についたわけである。
建安十六年の初夏の頃。
魏の都へ向って、早馬を飛ばした細作(諜報員)は、丞相府へ右の新事実を報告かたがた、つけ加えてこうのべた。
「決してばかにできないのは荊州の勃興勢力です。孔明の下に、関羽、張飛、趙子龍の三傑があるところへ、今度は副軍師龐統を加え、参謀府に龍鳳の双璧が並び、その人的陣容は、完くここに成ったという形です。──ゆえに近頃は、もっぱら兵員拡充と、軍需の蓄積に全力をそそぎ、いまや荊州は毎日、兵馬の調練、軍需の増産や交通、商業などの活溌なこと、実に目ざましいものがあります」
これはやがて、曹操の耳へ届いて、少なからず彼の関心をよび起した。
「果たせる哉。月日を経るほど、玄徳は、魏にとって最大な禍いとなってきた。──荀攸そちに何か考えはないか」
「捨ててはおけず、といって、今すぐに、大軍を催すには、いかんせん、わが魏にはなお、赤壁の痛手の癒えきらないものがありますから、にわかに無理な出兵も考えものです」
さすがに、荀攸は、常に君側にいても、よく軍の内容を観ていた。
曹操もうなずいて、
「それを実は、予も、敵国の勃興以上に、憂えているところだ」と、正直に云った。
「こうなさい──」荀攸は立ちどころに献策した。「西涼州(甘粛省・陝西奥地一帯)の太守馬騰をお召しになり、彼の擁している匈奴の猛兵や、今日まで無傷に持たれている軍需資源をもって、玄徳を討たせるのです。そしてなお大令を発し給えば、各地の諸侯もこぞって参戦しましょう」
「そうだ。辺境の奥地には、まだ人力も資材も無限に埋蔵されている」
曹操はすぐ人を選んで西涼へ早馬を立て、二の使いとして、すぐ後からまた、有力な人物を向けて、軍勢の催促を云いやった。
涼州の地は支那大陸の奥曲輪である。黄河の上流遠く、蒙疆に境する綏遠、寧夏に隣接して、未開の文化は中原のように華やかでないが、多分に蒙古族の血液をまじえ、兵は強猛で弓槍馬技に長じ、しかも北方の民の伝統として、常に南面南出の本能を持っている。
ところで、太守馬騰は、字を寿成といい身長八尺余、面鼻雄異、しかし性格は温良な人だった。
もと、漢帝に仕えた伏波将軍馬援の子孫で、父の馬粛の代に、官を退いて、馬騰を生んだのである。
だから馬騰の血の中には、蒙古人がまじっている。嫡子を超といい次男を休といい、三男を鉄という。
「詔とあれば、行かなければなるまい」
馬騰は一門の者に別れを告げて都へ上った。三人の子息は国に残し、甥の馬岱を連れて行った。
許都に来て、まず曹操に会い、荊州討伐の任をうけ、次の日朝廷に上って、天子を拝した。
命は、曹操から出ても、名は勅命である。曹操の意志は決して、天子の御心ではなかった。
「このたびは老骨に、荊州討伐の大命を仰せつけられて……」と、馬騰が拝命のお礼を伏奏すると、帝は無言のまま彼を伴って、麒麟閣へ登って行かれた。
そして誰もいない所で、帝は初めて口を開かれ、
「汝の祖先馬援は、青史にものこっている程な忠臣であった。汝も、その祖先を辱めることはあるまい。──思え。玄徳は漢室の宗親である。漢朝の逆臣とは、彼にあらず、曹操こそそれだ。曹操こそ朕を苦しめ、漢室を晦うしている大逆である。馬騰! そちの兵はそのいずれを伐ちにきたのか」
帝の御目には、涙があふれかけていた。
恐懼して、ひれ伏したまま、馬騰は御胸のうちを痛察した。
ああ、朝廷のこの式微。
見ずや、許都の府は栄え、曹操の威は振い、かの銅雀台の春の遊びなど、世の耳目を羨ますほどのものは聞くが、ここ漢朝の宮廷はさながら百年の氷室のようだ。楼台は蜘蛛の巣に煤け、珠簾は破れ、欄は朽ち、帝の御衣さえ寒げではないか。
「……馬騰。忘れはおるまいな。むかし国舅の董承と汝へ降した朕の衣帯の密詔を。……あの折は、未然に事やぶれたが、このたびそちが上洛の由を聞いて、いかに朕が心待ちしていたかを察せよ」
「かならず宸襟を安め奉りますれば、何とぞ、御心つよくお待ち遊ばすように」
馬騰は泣いた眼を人に怪しまれまいと気づかいながら宮門を退出した。
邸に帰ると、ひそかに一族を呼んで、帝の内詔を伝え、
「かくとも知らず、いま曹操はこの馬騰に兵馬をあずけて、南方を伐てという。これこそ、実に天の与えた秋ではないか」
と、勤王討曹の旗挙げを密議した。
それから三日目である。
曹操の門下侍郎黄奎というものが、馬騰を訪れて、
「丞相のご内意ですが、なにぶん、南伐の出兵は、急を要します。ご発向はいつに相成ろうか。それがしも行軍参謀として参加するが」と、催促した。
「直ちに立ちます。明後日には」
馬騰は、酒を出して、黄奎をもてなした。
すると黄奎は、大いに酔って、古詩を吟じ、時事を談じたりした挙句、
「将軍はいったい、真に伐つべきものは、天下のどこにいると思うておられるか」
などと云いはじめた。
馬騰は警戒していた。あぶない口車と感じたからである。すると黄奎は、その卑怯を叱るように眦をあげ唇をかんで、
「自分の父の黄琬は、むかし李傕郭汜が乱をなした時、禁門を守護して果てた忠臣です。その忠臣の子がいまは、心にもなく、僭上な奸賊の権門に屈して、その禄を食んでいるとは実になさけない。しかし、将軍のごときは、西涼州の地盤と精猛な兵を多く持っているのに、何だって不忠な奸雄に頤で使われて甘んじておらるるのか」
と、まるで馬騰を責めるような口ぶりになってきた。
馬騰はいよいよ空とぼけて、
「奸賊の、不忠のと、それはそも、誰のことをいわれるのか」
「もちろん曹操のことだ」
「大きな声を召さるな。丞相は足下の主君ではないか」
「それがしは漢の名将の子、将軍も漢朝の忠臣馬援が後胤ではないか。そのふたりが漢朝の宗室たる劉玄徳を伐ちに向われるか。しかも逆臣の命に頤使されて」
「いったい、足下はそのような言を本気でいうのか」
「ああ、残念。将軍はそれがしの心底をなお疑っておられるとみえる」
黄奎は指を咬んで血をそそぎ、天も照覧あれと盟した。
行軍参謀たるこの人物が同心ならば、いよいよ事は成就に近い。馬騰はついに本心を明かした。黄奎は聞くと、膝を打って、
「ほかならぬ将軍のこと。さもあらんと思っていたが、果たせるかな、密々詔まで賜わっておられたか。──ああ、時節到来」と、狂喜した。
そこでまず二人は、関西の兵をうながす檄文を起草し、都下出発の朝、勢揃いと称して、曹操の閲兵を乞い、急に陣鉦を鳴らすを合図に、曹操を刺し殺してしまおうと、すべての手筈まで諜し合わせた。
黄奎は夜おそく家へ帰った。さすがに酒も発せず、すぐ寝房へ入った。彼には妻がなく、李春香という姪が彼の面倒を見ていた。
李春香には自分から嫁ぎたく想っている男があったが、心がらが良くないので叔父の黄奎が承知してくれない。今宵もそれが遊びにきたらしく、彼女はほの暗い廊の蔭で男と何か立ち話をしていた。
男は李春香の耳へささやいた。
「今夜にかぎって、黄奎の様子がどことなく変じゃないか」
「そんな事はないでしょう」
「いや、おれの弟が、馬騰の邸に、多年お留守居役をしているが、その弟から妙なことを報らせてきた。──春香、おまえが訊けば、たった一人の可愛い姪だ。黄奎は何か打明けるにちがいない。そっと訊いてごらん」
春香はまだ世間の怖さも複雑さも知らなかった。いわるるままその夜叔父の心をそれとなく訊いてみた。すると黄奎は驚いた顔して、
「わしの様子がどことなく変だということが、おまえみたいな小娘にもわかるかい。ああ争われないものだ」
彼は嘆息して、実は大事を計画しているため、その準備やら万一のことまで案じているせいだろうと、つい相手が身内の者ではあり、世間へも出ない小娘なので、心中の秘を語ってしまった。
そしてなお、
「このことが成功すれば、わしは一躍、諸侯の列に入るが、もし失敗したらたちまち生きていないだろう。そうしたらおまえは、何もかも捨てて郷里の老人達のところへ逃げて、当分、嫁にもゆかないがいい」と、遺言めいたことまでいった。
室外に立ち聞きしていた男は、春香がそこから出てきたときはもういなかった。彼は深夜の町を風の如く奔っている。そして丞相府の門を叩いた。
「たいへんです。お膝もとに恐ろしいことを計っている謀叛人がおりますっ」
下役から部長へ、部長から中堂司へ、次々に伝申されて、深更ながら曹操の耳にまで入った。
「すぐその者を聴問閣の下へひけ」
曹操はがばと起きた。
ひとたび眠る如く消されていた相府の閣廊廻廊の万燈は、煌々と昼のように眠りをさました。
馬騰の飛檄に依って、関西の兵や近くの軍馬は、続々、許都へさして動きつつあった。馬騰は書をもって曹操に、
「はや発向の準備もなり、近日勢揃い仕りますれば、その節は都門にお馬を立てられ、親しくご閲兵の上、征途に上る将士にたいし、一言のご激励ねがわしゅう存ずる」との旨を告げてきた。
曹操は、奥歯に苦笑を噛みしめながら、口のうちで罵った。
「たれがそんな罠にかかるか」
そして直ちに、密車二隊を奔らせ、一手は黄奎を捕縛し、一手は馬騰の家を襲って、即座に二人を召捕ってこさせた。
相府の白洲で、黄奎の顔をちらと見ると、馬騰は、口を裂き、牙をむいて、
「この腐れ儒者め! 何とてかかる大事を口外したかっ。ああ、止んぬる哉、天も漢朝を捨て給うと見えたり。二度まで計って二度まで未然にやぶれ去るとは」
曹操は、指をさして、その狂態を笑い、武士に命じて、一刃の下にその首を刎ねた。
黄奎も首を打たれた。──また、馬騰の拉致されたあと、大勢の密軍兵は、捕吏とともに、馬騰の邸を四面から焼きたてて、内から逃げ転び悲しみまどい、阿鼻叫喚をあげて、溢れ出て来る家臣、老幼、下の召使の男女などことごとく捕えて、或いは首を切り、或いは市に曝し、惨状、無残、目をおおわずにいられないほどだった。
その中には、父を慕って本国から着いた馬騰の子二人も殺害されたが、甥の馬岱だけは、どう遁れたか、関外へ逃走していた。
ここに笑止なのは密告して褒美にありつこうとした苗沢という男である。事件後、曹操に願いを出して、李春香を妻に賜わりたいと乞うと、曹操はあざ笑って、
「汝にはべつに与えるものがある」
と城市の辻に立たせ、首を刎ねて、不義佞智の小人もまたかくの如しと、数日、往来の見世物にしておいた。
このとき丞相府には、荊州方面から重大な情報が入っていた。
「荊州の玄徳は、いよいよ蜀に攻め入りそうです。目下、彼の地では活溌な準備が公然と行われている」
曹操はかく聞いて胸をいためた。もし玄徳が蜀に入ったら、淵の龍が雲を獲、江岸の魚が蒼海へ出たようなものである。ふたたび彼を一僻地へ屈伏せしめることはもうできない。魏にとって重大な強国が新たに出現することになろう。彼は数日、庁の奥にとじ籠って対策をねっていた。
ここに丞相府の治書侍御史参軍事で陳群、字を文長というものがあった。彼が曹操に向っていうには、
「玄徳と呉の孫権とは今、心から親睦でないにせよ、形は唇と歯のような関係に結ばれています。ですから、玄徳が蜀へ進んだら、丞相は大軍をもって、反対に呉をお攻めになるがよいでしょう。なぜならば、呉はたちまち玄徳へ向って、協力を求め、援けを強いるにちがいありません」
「ふむ。さすれば玄徳は、進むに進み得ず、退くに退き得ず、両難に陥るというわけか。──いやそうは参るまい。彼にも孔明がついている。軽々しく呉の求めにうごいたり、軍の方向に迷うようなことはせぬ」
「それこそ、わが魏にとって望むところではありませんか。もし玄徳の援助なく、玄徳は入蜀のことに没頭して、呉を顧みるに暇なければ、ここ絶好な機会です。さらに大軍を増派し、一挙に呉国をお手に入れてしまわれては如何です。玄徳なく、ただ魏と呉との対戦なら、ご勝利は歴々です」
「げにも。げにも」
曹操は、眉をひらいた。
「余りむずかしくばかり考えこむものじゃないな。わしはちと重大と思い過ぎて思案が過っておったよ。人間日々大小万事、ここにいつも打開があるな」
即時、三十万の大軍は、南へうごいた。檄は飛んで、合淝城にある張遼に告げ、
──汝、先鋒となって、呉を突くべし。
とあった。
大軍まだそこへ到らぬうち、呉の国界は大きな衝動に打たれ、急はすぐさま呉王孫権に報じられる。
孫権は、急遽、諸員を評定に召集して、それに応ずべき策を諮った。その結果、
「こういう時こそ、玄徳との好誼を活かし、お使いを派して、彼の協力をお求め遊ばすのがしかるべきでしょう」と、決った。
すなわち魯粛の書簡を持って、使いは荊州へ急いでゆく。
玄徳はそれを披見して、ひとまず使者を客館にもてなしておき、その間に、孔明が帰るのを待っていた。
南郡地方にいた孔明は、召しをうけるや馬を飛ばして帰ってきた。そして、玄徳から、仔細を聞き、また魯粛の書簡を見ると、
「ご返辞は」と、玄徳の面をうかがった。
「まだ答えてない。御身に諮った上で、承諾とも拒絶するとも答えようと思って」
「では、この返書は、わたくしにお任せおき下さいますか」
玄徳はうなずいた。
「よきように」と。
孔明は一書をしたためた。それには、呉へ向ってこう告げてある。
乞う、安んじられよ。呉国の人々は枕を高うして可なり。もし魏軍三十万の来るあらば、孔明これにあり。直ちに彼を撃攘せん。
呉の使いは、書面を持って帰って行った。しかし玄徳は安からぬここちがした。
「軍師。あのような大言を申しやってよろしいのか」
「大丈夫です」
「許都の魏兵三十万のみでなく、合淝の張遼も合して来るだろう」
「大丈夫です」
「どういう自信があって?」
「西涼の馬騰が、つい先頃、都で殺されたそうです。その子二人も禍いに遭ったようですが、本国には馬氏の嫡男馬超が残っていた筈です。この人へわが君から密使をおやりなさい。いま馬超を語らうことは至極たやすく、しかも馬超ひとりを動かせば、曹操以下三十万の精兵も魏一国に金縛りにしてしまうことができましょう」
西涼州の馬超は、ある夜、ふしぎな夢をみた。
「吉夢だろうか。凶夢だろうか」
あくる日、八旗の将に、この夢のことをはなした。
八旗の将とは、彼をめぐる八人の優れた旗本組のことである。
それは、
侯選。程銀。李湛。張横。梁興。成宜。馬玩。楊秋。
などの面々だった。
「さあ。わからんなあ。吉夢やら凶夢やら」
みな武弁ばかりなので、彼の夢に判断を下し得る者もなかった。
馬超のみた夢というのは、千丈もある雪の中に行き暮れて仆れているところへ、多くの猛虎が襲いかかって来て危うく咬みつかれようとしたところで眼がさめたというのである。いい夢らしくもあり、悪夢らしくも考えられた。──するとこの座へ突然、
「いや、それは大悪夢だ」
と云いながら帳を排して入ってきた一人物がある。南安狟道の人で姓名を龐徳、字は令明というものであった。
「むかしから雪中に虎に遭うの夢は不祥の兆としてある。もしや上洛中の大殿騰将軍の君に、何か凶事でも起ったのではなかろうか」
龐徳のことばに、馬騰の嫡男たる馬超は、当然、面を曇らせた。
いや馬超ばかりでなく、この西涼に留守して、遠くにある主君の身を明け暮れ案じている八旗の将もみな浮かない顔をしてしまった。
「しかし、逆夢ということもあれば、若大将には、一途にご心配なさらぬがようござる。なんの、夢などあてになるものですか」
わざと酒宴をすすめて、馬超の心をまぎらわせていた。
けれど、この夢は、やはり正夢であった。──その夜のこと、見る影もない姿となって、許都から逃げ落ちてきた従兄弟の馬岱が、
「叔父の将軍には、曹操の兇刃に害され給い、お子達二人も、ほかご一族、家中の者、老幼のはしにいたるまで八百余人、残らず一つ邸のうちにあって火をかけられ、あらかたは殺され、或いは首斬られ、目もあてられぬ災難でした。それがしはいち早く墻を跳びこえ、この通り身を乞食にやつしてこれまで逃げのびて来た次第。……語るも無念でたまりません」と、涙ながら報じた。
「えっ、父上が殺されたと」
馬超は、愕然とさけんだ。そして蒼白な顔を、うむと呻いて仰向けたと思うと、うしろへ仆れて昏絶してしまった。
もちろん典医や大勢の介抱ですぐ意識はよみがえったが、終夜、寝房のうちから無念そうな泣き声が洩れてきた。
こういう中に玄徳の書簡ははるばると荊州から来た密使によって、馬超の手に渡されたのである。その文章はおそらく孔明が起草したのであろう。まず漢室の式微をいい、馬騰の非業の死を切々と弔い、曹操の悪逆や罪状を説くにきわめて峻烈な筆鋒をもってこれを糺し、そして馬超が嘆きをなぐさめかつ激励して、
──貴君にとっては倶に天を戴かざる父の仇敵、四民にとっては悪政専横の賊、漢朝にとっては国を紊し帝威を冒す姦党、それを討たずして武門の大義名分があろうか。ねがわくは君、涼州より攻め上れ、劉玄徳また北上せん。
と、結んであった。
次の日である。
父馬騰と親友だった鎮西将軍韓遂からそっと迎えがきた。行ってみると、人払いした閑室へ馬超を通して、
「実は、こんな書面が曹操からきているよ」
と、それを見せてくれた。
もし馬超を生捕って檻送してよこせば、汝を封じて、西涼侯にしてやろう、という意味のものだった。
馬超は自ら剣を解いて、
「あなたの手にかかるものなら仕方がない。いざ、都へ差立てて下さい」
と、神妙にいった。
韓遂は、叱って、
「それくらいなら何もわざわざここへ御身を呼びはしない。もし御身に、父の讐たる曹操を討つ気があるなら、義によって、わしも一臂の力を添えたいと思ったからだ。いったい御身の覚悟はどうなのだ」と、かえって、馬超の本心を詰問した。
馬超はふかく礼をのべて、
「そのご返辞は、後ほど邸から致します」といって帰った。
彼は直ぐ曹操の使者を斬ってしまい、その首を、韓遂のところへ届けた。
「それでこそ、君は馬騰の子だ。君がその決心ならば」
と、韓遂は即日やって来て、馬超軍に身を投じた。
西涼の精猛数万、殺到して、ここに、潼関(陝西省)へ攻めかかる。
長安(陝西省・西安)の守将鍾繇は、驚死せんばかりに仰天して、曹操のほうへ、早馬をもって、急を告げる一方、防ぎにかかったが、西涼軍の先鋒馬岱に蹴ちらされて、早くも、長安城へ逃げ籠る。
長安は、いま廃府となっていたが、むかし漢の皇祖が業を定めた王城の地。さすがに、要害と地の利は得ている。
「この土地の長く栄えない原因は、二つの欠点があるからです。土質粗く硬く、水はしおからくて飲むにたえません。もう一つの欠所は山野木に乏しく、常に燃料不足なことです。……ですからこういう謀計を用いれば、難なく陥るにちがいありません」
龐徳の言であった。
そのことばを容れたものか、馬超は急に包囲をといて、数十里、陣を退いた。
守将の鍾繇は、
「寄手が囲みを解いたからといって、みだりに城外へ出てはならん。敵にどんな計があろうも知れない」と、軍民を戒めていた。
しかし三日たち四日経つうちに、無事に馴れて、一つの城門が開くと、西も東も、各所の門で、城外との往来が始まった。
みな水を汲みに行き、薪を採りに行く。その他の食糧なども、この間にと、争って運び入れた。
「何事もありませんね」
「敵はあんな遠くですからな」
「さよう。もしもの時は、敵を見てから城内へ逃げこんでも、結構、間に合いますよ」
うららかなものだった。
果ては、旅芸人や雑多な商人まで、自由に出入りし始めた。
ところへ急に、西涼軍がまた攻めてきた。軍民は夕立に出会ったように城内へかくれこむ。馬超は、西門の下まで、馬を寄せて、
「ここを開けなければ、城内の士卒人民、ことごとく焼き殺すぞ」と罵った。
鍾繇の弟、鍾進がここを守っていたが、からからと笑って、
「馬超。口先で城は陥るものじゃないよ」
と、矢倉から嘲った。
すると、日没頃、城西の山から怪しい火が燃えだした。鍾進が先に立って消火に努めていると、夕闇の一角から、
「西涼の龐徳、すでに数日前より、城内に在って、今宵を待てり」
という大音が聞え、敵やら味方やら知れない混雑の中に、鍾進は一刀両断に斬りすてられた。
早くも、龐徳の部下は、西門を内から開いて、味方を招き入れた。馬超、韓遂の大軍はいちどに流れこみ、夜のうちに長安全城を占領してしまった。
鍾繇は、東門から逃げ出し、次の潼関に拠って、急を早馬に託し、
「至急、大軍のご来援なくば、長くは支えきれない」
と、許都へ向って悲鳴をあげた。
曹操の驚愕は、いうまでもない。──急に、方針を変えて、
「ひとまず、征呉南伐の出兵は見合わせる」
と、参謀府から宣言を発し、また直ちに、曹洪と徐晃を招いて、
「すぐ潼関へ行け」と、兵一万をさずけた。
曹仁がそのとき、
「曹洪も徐晃も、若過ぎますから、血気の功に焦心って、大局を過るおそれはありませんか」
と、注意した。そして自分も彼らとともに先駆けせんと願ったが、
「そちは、予に従って、兵糧運輸のほうを司れ」
と、ほかの役目を命じられてしまった。
曹操は約十日の後、充分な軍備をととのえて出発した。彼も西涼の兵には、よほど大事を取っていることがこれを見ても分る。
潼関に着いた曹洪と徐晃は、一万の新手をもって鍾繇に代り、堅く守って、
「われわれが参ったからには、これから先、尺地も敵に踏みこませることではない」
と、曹操の来着を待っていた。
西涼の軍勢は、力攻めをやめてしまった。毎日、壕の彼方に立ち現れて、大あくびをしてみせる。手洟をかむ。尻を叩く、大声たてて悪たれをいう。
挙句の果てには、草の上に寝ころんだり、頬杖ついて、
敵はどこかね
潼関の関中だそうだ
櫓にいたのは鴉じゃないのか
なあに曹洪と徐晃さ
そんなら大して変りはない
腰抜け対手の戦争は退屈だ
いまに曹操が来るだろう
昼寝でもして待つとするか
乞う戦友、耳くそでも取ってくれ
などと悪罵にふしをつけて唄っている。
「待っていろ。目にもの見せてやるから」
歯がみをした曹洪が、城門から押し出そうとするのを見て、徐晃がいさめた。
「丞相のおことばを忘れたか。十日の間は固く守れ。手だしはすなと仰せられた」
しかし、若い曹洪は振り切って、駈け出した。
関中の大軍は、いちどに溢れでて、鬱憤をはらした。あわてふためく西涼軍を追いまくって、
「思い知ったか」と、四角八面に分れ討った。
徐晃の手勢も、ぜひなく後から続いて出たが、
「長追いすな、長追いすな」と、大声で止めてばかりいた。
すると、長い堤の蔭から、突忽として鼓の声、銅鑼のひびき、天地を震わせ、
「西涼の馬岱これにあり」と、一彪の軍馬が衝いてくる。
いささかたじろいで、陣容をかため直そうとする間もなく、
「たいへんだ、敵の龐徳が、退路を断った」と、いう伝令。
「まずい! 引揚げろ」
踵をめぐらしたときは機すでに遅しである。どう迂回して出たか、西涼の馬超と韓遂が関門を攻めたてている。いや徐晃、曹洪が出払ったあとなので、守りは手薄だし、油断のあったところだし、精悍西涼兵は、芋虫のように、ぞろぞろ城壁へよじ登っているではないか。
留守の鍾繇はもう逃げ出している始末、罵り合ってみたものの追いつかない。曹洪、徐晃も支え得ず、関の守りを捨てて走った。
馬超、龐徳、韓遂、馬岱、万余の大軍は関中を突破すると、潼関の占領などは目もくれず、ひたすら潰走する敵を急追して、「殲滅を加えん」と、夜も日も、息をつかせず、後から追った。
曹洪も徐晃も、途中多くの味方を失い、わずかに身ひとつのがれ得た有様である。──が、許都へさして落ちる途中まで来ると、許都を立ってきた本軍曹操の先鋒に出会い、からくもその中に助けられた。
曹操は、聞くと、
「すぐ連れて来い」と、中軍へ二人を呼び、そして軍法にかけて、敗戦の原因を糾問した。
「十日の間は、かならず守備して、うかつに戦うなと命じておいたに、なぜ軽忽な動きをして、敵に乗ぜられたか。曹洪は若手だからぜひもないが、徐晃もおりながら、何たる不覚か」
叱られて、徐晃は、ついこう自己弁護してしまった。
「おことばの如く、切にお止めしたのですが、洪将軍には、血気にまかせて、頑としてきかないのでした」
曹操は、怒って、
「軍法を正さん」と、自身、剣を抜いて、従弟の曹洪に、剣を加えようとした。
「──いや、それがしも同罪ですから、罪せられるなら手前も共に剣をいただきます」
徐晃も、身をすすめて、神妙にそういうし、諸人も皆、曹洪のために命乞いしたので、曹操もわずかに気色を直し、
「功を立てたら宥してやろう」
と、しばらく斬罪を猶予した。
曹操の本軍と、西涼の大兵とは、次の日、潼関の東方で、堂々対戦した。
曹軍は、三軍団にわかれ、曹操はその中央にあった。
彼が馬をすすめると、右翼の夏侯淵、左翼の曹仁は、共に早鉦を打ち鼓を鳴らして、その威風にさらに気勢を加えた。
「胡夷の子、朝威を怖れず、どこへ赴こうとするか。あらば出でよ、人間の道を説いてやろう」
曹操の言が、風に送られて、彼方の陣へ届いたかと思うと、
「おう、馬騰の子、馬超字は孟起。親の讐をいま見るうれしさ。曹操、そこをうごくなよ」
とどろく答えとともに、陣鼓一声、白斑な悍馬に乗って、身に銀甲をいただき鮮紅の袍を着、細腰青面の弱冠な人が、さっと、野を斜めに駈けだして来た。
「若大将を討たすな」と案じてか、それにつづく左右の将には龐徳、馬岱。また八旗の旗本、鏘々とくつわを並べて駈け進んでくる。
「あれか。馬超とは」
近づかぬうちから、曹操は内心一驚を喫した様子である。文化に遠い北辺の胡夷勢と侮っていたが、決して、彼は未開の夷蛮ではない。
「やよ。馬超」
「おうっ。曹操か」
「汝は、国あって、国々のうえに、漢の天子あるを知らぬな」
「だまれ、天子あるは知るが、天子を冒して、事ごとに、朝廷をかさに着、暴威をふるう賊あることも知る」
「中央の兵馬は、即ち、朝廷の兵馬。求めて、乱賊の名を受けたいか」
「盗人猛々しいとは、その方のこと。上を犯すの罪。天人倶にゆるさざる所。あまつさえ、罪もなきわが父を害す。誰か、馬超の旗を不義の乱といおうぞ」
いうことも、しっかりしている。これは口先でもいかんと思ったか、曹操は馬を退いて、
「あの童を生捕れ」と、左右の将にまかせた。
于禁と張郃が、同時に、馬超へおどりかかった。馬超は、左右の雄敵を、あざやかにかわしながら、一転、馬の腹を高く覗かせて、うしろへ廻った敵の李通を槍で突き落した。
そして、悠々、槍をあげて、
「おおういっ……」と一声さしまねくと、雲霞のようにじっとしていた西涼の大軍が、いちどに、野を掃いて押し襲せてきた。
その重厚な陣、ねばり強い戦闘力、到底、許都の軍勢の比ではない。
たちまち駈け押されて、曹軍は散乱した。馬岱、龐徳は、
「この手に、曹操の襟がみを、引っつかんでみせる」
と、乱軍をくぐり、敵の中軍へ割りこみ、血まなこになって、その姿を捜し求めた。
そのとき、西涼の兵が、口々に、
「紅の戦袍を着ているのが、敵の大将曹操だぞ」
と、呼ばわり合っているのを聞いて、当の曹操は逃げはしりながら、
「これは目印になる」と、あわてて戦袍を脱ぎ捨ててしまった。
するとなお執拗に追いかけて来る西涼兵が、
「髯の長いのが曹操だ。曹操の髯には特長がある」と、叫んでいた。
曹操は、自分の剣で、自分の髯を切って捨てた。
今日こそは──と期して、味方の馬岱、龐徳よりも先んじて曹操を捜していたのはもちろん馬超で、父の讐たる彼の首を見ぬうちは退かじと馬を駈け廻していたが、ひとりの部下が、彼に告げて、
「髯の長いのを目あてに捜してもだめです。曹操は髯を切って逃げました」と、教えた。
そのとき、曹操は、乱軍の中にまじって、すぐそばを駈けていたので、そのことばを小耳に挟むと、
「これはいかん」と、あわてたものとみえ、旗を取って面を包み、無二、無三、鞭を打った。
「首を包んだものが曹操だぞ」
また、四方で声がする。曹操はいよいよ魂をとばして林間へ駈けこんだ。すると誰か、槍を伸ばして突いた者がある。運よく槍は樹木の肌を突いて、容易に抜けない。曹操はその間髪にからくも遠く逃げのびた。
「きょうの乱軍に、絶えず予の後ろを守って、よく馬超の追撃を喰い止めていたのは誰だ」
曹操は、味方の内へ帰ると、すぐこう訊ねた。
夏侯淵が答えて
「曹洪です」
というと、曹操はさもありなんという顔して、うれし気に、
「そうか。たぶん彼だろうとは思ったが……。先日の罪は、今日の功をもって宥しおくぞ」
やがてその曹洪は夏侯淵に伴われて恩を謝しに出た。曹操は、今日の危急を思い出して、幾度か死を覚悟したことなど語りだし、
「自分も幾度となく、戦場にのぞみ、また惨敗をこうむったこともあるが、およそ今日のような烈しい戦いに出合ったことはない。馬超という者は敵ながら存外見上げたものだ。決して汝らも軽んじてはならぬ」と戒めた。
敗軍をひきまとめた曹操は、河を隔てて岸一帯に逆茂木を結いまわし、高札を立てて、
「みだりに行動する者は斬る」と、軍令した。
建安の秋十六年、その八月も暮れかけていたが、曹軍は、秋風の下に寂と陣して固く守ったまま、一戦も交えなかった。
「胡夷の兵め。また対岸で悪口を放っているな。いまいましい奴らだ」
業を煮やした曹軍の諸将が、ある時、曹操をかこんで、
「いったい北夷の兵は、長槍の術に長け、また馬の良いのを持っているので、接戦となると、剽悍無比ですが、弓、石火箭などの技術は、彼らのよくするところでありません。ひとつ、もっぱら弩をもって一戦仕掛けては如何でしょう」と、進言した。
すると、曹操は苦りきって、
「戦うも、戦わぬも、みなその腹一つにあることで、何も敵の心にあるわけじゃない」と、云い、そしてまた、
「下知に反くものは、軍罰に処すぞ。ただ部署について、守りを固うし、一歩も陣外へ出てはならん」と、再度の布令を出した。
曹操の肚をふかく察しない部将たちは、ささやき合って、首を傾げた。
「どうしたんだろう。いくら馬超に追いまくられて、お懲りになったからといえ、今度に限って、ひどく消極戦法の一点張りじゃないか」
「そろそろ、お年齢のせいかも知れんよ、銅雀の大宴を境として、お髪にもすこし白いものが見えてきたしな。……花にも人間にも、盛衰はある、春秋は拒まれぬ」
果たして、曹操には、もうそのような老いが訪れだしたのだろうか。
凡人の客観と、英雄自身の主観とにはおのずから隔たりもあり、信念のちがいもある。
われ老いたり、などとは曹操自身、まだ、夢にも思っていないらしい。いやその肉体や精神のつかれ方などに、若い頃の自身とくらべて、多分な相違が自覚されても、おそらく、彼自身そんな気持がふとでも湧くときは、強いてそれを抑圧して、
我なお若し!
という血色をみなぎらそうと努めているのにちがいなかった。
数日の後、味方の斥候がこう告げた。
「潼関の馬超軍に、またまた、新手の敵兵が、約二万も増強されたようです。しかも今度の新手もことごとく北の精猛な胡夷ばかりです」
聞くと、曹操は、なぜか独り大いに笑った。
「丞相何でお笑いなさるのですか。敵が強力になったと聞かれて」
ひとりが問うと、
「まず、酒宴して、祝おうか」と、のみで、その夕べ、大いに慶賀して、共に盃を傾けた。
しかし、今度は、幕将たちのほうがくすくす笑った。
曹操は酔眼を向けて、
「卿らは、予が、馬超を討つ計がないのを笑うのであろう」
みな恐れて口をつぐんでしまった。曹操は追求して、
「ひとを笑うほどな計策のある者は、大いにここで蘊蓄を語れ。予も聞くであろう」と、いった。
みな顔を見あわせた。
ひとり徐晃は進んで、忌憚なく答えた。
「このまま、潼関の敵と睨みあいしていたら、一年たっても勝敗は決しますまい。それがしが考えるには、渭水の上流下流は、さしもの敵も手薄でしょうから、一手は西の蒲浦を渡り、また丞相は河の北から大挙して越えられれば、敵は前後を顧みるにいとまなく、陣を乱して潰滅を早めるにちがいないと思いますが……」
「徐晃の説は大いに良い」
曹操は賞めて、
「では今、汝に四千の兵を与えるから、朱霊を大将とし、それを扶けて、先に河の西を渡り、対岸の谷間にひそんで予の合図を待て。──予も直ちに、渭水の北を渡って、呼応の機を計るであろう」
と、即座に手筈をきめた。
それから間もなく、西涼の陣営馬超の手もとへ、すぐ早耳迅眼の者が、
「曹操のほうでは、船筏を作ってしきりと渡河の準備をしています」という情報をもたらした。
韓遂は手を打って、
「若将軍、敵は遂に、自ら絶好な機会を作ってきましたぞ。兵法にいう。──兵半バヲ渉ラバ撃ツベシ──と」
「ぬかるな、諸将」
八方に間者を放って、曹軍が河を渡る地点を監視していた。
とも知らず、曹操は、大軍を三分して、渭水のながれに添い、まず一手を上流の北から渡して、その成功を見とどけ、
「まず、首尾はよさそうだ」
と、水ぎわに床几をすえながら、刻々と報らせて来る戦況を聞いていた。
「上陸したお味方は、すでに対岸の要所要所、陣屋を組み、土塁を構築しにかかっています」
すると、第二第三とつづいてくる伝令が云った。
「今、南の方から、敵ともお味方とも分らぬ一隊が、馬煙をあげて、これへ来ます」
第五番目の伝令は、
「ご油断はなりません。ご用意あれっ」と呶鳴って、
「白銀の甲、白の戦袍を着た大将を先頭にし、約二千ばかりの敵が、どこを渡ってきたか、逆襲してきます。──いや、うしろのほうからです」と狼狽していう。
その時、大軍は河を渡りつくして、曹操のまわりには、たった百余人しかいなかった。
「馬超ではないか」
愕然と、人々は騒ぎ立ったが、剛復な曹操は、
「騒ぐな」と、のみで床几から起とうともしない。
ところへ、許褚が船を引返してきて、その態を見るやいな、
「丞相丞相。敵は早くも、味方の裏をかいて、背後に廻っていますっ。早くお船へお移り下さい」と、呼ばわった。
曹操はなお、
「馬超が来たとて、何ほどのことがあろう。一戦を決するまで」
と、自若としていたが、もうそのとき彼方の馬煙は辺り間近に、土砂を降らせて、馬超、龐徳をはじめ、西涼の八旗など、猛然、百歩のところまで迫っていた。
「すわ。一大事」と、許褚は躍り上がって、曹操のそばへ馳けつけ早く早くと促したが、事の急に、いきなり曹操の体を背中へ負ってしまった。
そして岸辺まで、一気に馳け出したが、船は漂い出して渚から一丈を離れていた。それを許褚は、曹操を背に負ったまま、
「おうっ」
と叫んで、一跳びに身を躍らせ、危うくも舟の中へ乗り移った。
百余人の近侍、旗本たちは、ざぶざぶと水につかって、溺れるもあり、泳ぎだすもあり、そこらの小舟や筏へすがりつき、或いは見境なく、曹操の舟へしがみついて来るのもある。
「たかるな。舟が傾く」
許褚は、それらの味方を、棹で払い退けながら、逃げ出したが、水勢は急で、見るまに下流へ押しながされて行く。
「のがすな」
「あれこそ、曹操」
西涼の兵は、弓を揃えて、雨の如く乱箭を送った。許褚は、片手に馬の鞍を持ち、片手に鎧の袖をかざして、曹操の身をかばっていた。
曹操ですら九死に一生を得たほどであるから、このほか、いたる所で、曹軍の損害はおびただしいものがあった。
渭水の流れがたちまち赤く変じたのでも分る。浮きつ沈みつ流れてくる人馬はほとんど魏の兵であった。
それでも、この損害は、まだ半分で済んでいたといってよい。なぜならば、曹軍の敗滅急なりと見て、ここに渭南の県令丁斐という者が、南山の上から牧場の牛馬を解放して、一散に山から追い出したのである。奔牛悍馬は、止まる所を知らず、西涼軍の中へ駈けこんで暴れまわった。
いや、暴れただけなら、何も戦闘力を失うほどでもなかったろうが、根が北狄の夷兵であるから、
「良い馬だ。もったいない」と、奪いあい、牛を見ては、なおさらのこと、
「あの肉はうまい」と、食慾をふるい起して、思いがけない利得に夢中になってしまったものだった。
そのために西涼軍は、せっかくの戦を半ばにして、角笛吹いて退いてしまった。
その頃、曹操は北岸へ上がって、一息ついているというので、魏の諸将もおいおい集まってきた。許褚は満身に矢を負うこと、簑を着たようであったが、人々の介抱を拒んで、
「丞相はおつつがないか」と、そればかり口走っていた。
「貴体には何のご異状もない」と、人々は慰めて、ようやく彼を陣屋の中に寝かしつけた。
曹操は、部下の見舞をうけながら、甚だしく快活に、終始きょうの危難を笑いばなしに語っていたが、
「そうそう、渭南の県令を呼んでくれ」と、丁斐を召し寄せ、
「今日、南山の牧を開いて、官の牛馬をみな追い出したのはおまえか」と、質した。
丁斐は、当然、罪をこうむるものと思って、
「私です。ご処罰を仰ぎます」
と、悪びれずにいった。
「処分してやる」
と、曹操は祐筆をかえりみて何かいった。祐筆はすぐ一通の文をしたためて来て、丁斐に授けた。
「丁斐、披見してみろ」
丁斐が畏る畏る開いてみると、今日ヨリ汝ヲ典軍校尉ニ命ズ、という辞令であった。
校尉丁斐は、感泣して、
「長くこの渭南に県令としておりましたので、いささか地理には精通しています。鈍智の一策をお用い賜わらば、光栄これに過ぎるものはありません」
と、恩に感じるのあまり、自分の考えている一計略を進言した。
一方、西涼の馬超は、
「きょうばかりは、残念だった」と、韓遂に向って、無念そうに語っていた。
「もう一歩で、曹操を、手捕りにできた所を、何という男か、曹操を背なかに負って、船へ跳び移ってしまった。今でも目に見える心地がするが、敵ながらあの男の働きは、凡夫の業でない」
韓遂は何度もうなずいて、
「それは道理です。あれは有名な魏の一将、許褚ですからね」
「許褚というか」
「お味方に、八旗の旗本ある如く、曹操もその旗本の精鋭中の精鋭を選び、これを虎衛軍と名づけて、常に親衛隊としていました。その大将に二名の壮将を置き、ひとりは陳国の人、典韋と申し、よく鉄の重さ八十斤もある戟を使って、勇猛四隣を震わせていましたが、この人はすでに戦歿して今はおりません。その残るひとりが譙国の人、すなわち許褚です。強いわけですよ」
「なるほど、それでは──」
「その力は、猛る牛の尾を引いてひきもどしたという程ですからな。──で世間のものは、彼を綽名して、虎痴といっています。また、虎侯ともいうそうです」
そしてまた、韓遂は、かたく馬超に忠告した。
「以後は、あの男を陣頭に見ても、一騎討ちはなさらないほうがよろしい」
斥候の報告によると、曹操の軍は、それから後しきりと河を越えて、西涼の背後を衝こうとする態勢にあるとあった。
韓遂は重ねて云った。
「味方にとって、ここに一つの悩みがあります。それはこの戦いが延引すると、曹操が今の陣地に塁壕を構築して、不落の堅城としてしまうことで、そうなると、容易に渭水を抜くことはできません」
馬超も同感だった。
「いかにも、攻めるなら今のうちだが」
「軽兵を率いて、この韓遂が、曹操の中軍へ突撃しましょう。あなたは、北岸を防いで、敵兵が河を越えてこないように、よくこの本陣を固めていてください」
「よし。防ぐには、自分一手で足りる。御身ひとりでは心もとない。龐徳をも連れて行かれるがよかろう」
韓遂と龐徳とは、直ちに、西涼の壮兵千余騎を選んで深夜から暁にかけて、曹操の陣を奇襲した。
けれど、この計画は、まんまと曹操の思うつぼに落ちたものであった。かねてこの事あるべしと、曹操は、渭南の県令から登用した校尉丁斐の策を用いて、河畔の堤の蔭に沿うて仮陣屋を築かせ、擬兵偽旗を植えならべて、実際の本陣は、すでにほかへ移していたのである。
のみならず、附近一帯に、塹をめぐらし、それへ棚をかけて、また上から土をかぶせ、陥し穽を作っておいたのを、西涼勢はそうとも知らず、
「わあっ」
と喊声をあげながら殺到したのだった。
当然、大地は一時に陥没し、人馬の落ちた上へ、また人馬が落ち重なった。
阿鼻、叫喚、救けを呼ぶ声、さながら桶の泥鰌を見るようだった。
「しまった」
龐徳は、手足にからむ味方を踏みつぶして、ようやく坑から這い出して、坑口から槍の雨を降らしている敵兵十人余りを一気に突き伏せ、
「韓遂っ。韓遂っ」
と、呼びながら、主将のすがたを捜していた。
そのうちに、敵の曹仁の一家曹永というものに出合った。
龐徳は、渡り合って、一刀のもとに、曹永を斬り伏せ、その馬を奪って、さらに、敵の中へ、猛走して行った。
韓遂も、坑に墜ちて、すでに危なかったが、龐徳が一時敵を追いちらしてくれたので、その間に、土中から躍り出し、これも拾い馬に跳び乗って、辛くも死地をのがれることができた。
何にしても、この奇襲は、大惨敗に終ってしまった。
敗軍を収めてから、馬超が損害を調べてみると、千余騎のうち三分の一を失っていた。
数としては、少なかったともいえるが、馬超の心をひどく挫いたものは、かの旗本八旗のうちの程銀と張横のふたりが敢ない死をとげたことだった。
しかし壮気さかんな馬超は、
「こうなれば、なおさら、曹操が野陣しているうちに撃破してしまわねば、永久に味方の勝ち目はない」
と、その日のうちに、第二次襲撃を企てて、今度は身みずから先手に進み、馬岱、龐徳をうしろに備えて、ふたたび魏の野陣を夜襲した。
ところが、さすがに曹操は、百錬の総帥だけあって、
「今夜、また来るぞ」と、それを予察していた。
馬超の性格と、初度の敵の損害の少なかった点から観て、早くも、そう覚っていたから、馬超の第二次強襲も、なんの意味もなさなかった。
六里の道を迂回して、西涼の夜襲隊が、曹操の中軍めがけて、不意に突喊してみたところ、そこは四方に立ち並ぶ旗や幟ばかりで、幕舎のうちには、一兵もいなかったのである。
「やや。空陣だ」
「さては」
と、空を搏ってうろたえた悍馬や猛兵が、むなしく退き戻ろうとするとき、一発の轟音を合図に、四面の伏勢がいちどに起って、
「馬超を生かして還すな」と、ひしめいた。
西涼軍の一将成宜はこのとき魏の夏侯淵に討たれ、そのほかの将士もおびただしく傷つけられた。馬超、龐徳、馬岱など、火花をちらして善戦したが、結局、敗退のほかなかった。
かくて、西涼軍と中央軍とは、渭水を挟んで一勝一敗を繰り返し、勝敗は容易につかなかった。
渭水は大河だが、水は浅く、流れは無数にわかれ、河原が多く、瀬は早い。
所によって、深い淵もあるが、浅瀬は馬でも渡れるし、徒渉もできる。
ここを挟んで、曹操は、北の平野に、野陣を布いて、西涼軍と対していたが、夜襲朝討ちの不安は絶え間がない。
「曹仁、早くせい」
曹操は常に急き立てていた。
半永久的な寨の構築をである。曹仁は、築造奉行となって、渭水の淵に船橋を架け、二万人の人夫に石材木を運搬させ、沿岸三ヵ所に仮城を建つべく、日夜、急いでいた。
西涼の馬超は、知っていたが、
「まあ、造らせておけ」
そして工事が八、九分ぐらいまでできたかと見えたところで、
「それ、焼討ちにかかれ」と、河の南北からわたって、焔硝、枯れ柴、油弾などを仮城へ投げかけ、河には油を流して火をかけた。
船筏も浮橋も、見事に炎上してしまった。何で製したものか、梨子か桃の実ぐらいな鞠をぽんぽんほうる。踏みつぶしても消えない。ばっと割れると油煙が立ち、大火傷をする。そしてなお燃えさかる。
こういう厄介な武器を持つ西涼軍に対して、さすがの曹操も、ほとんど頭を悩ましてしまった。
智者荀攸がいう。
「渭水の堤を利用し、土塁を高く築いて、蜿蜒、数里のあいだを、壕と土壁との地下城としてしまうに限りましょう」
「地下城。なるほど。土の地下城では、焼討ちも計れまい」
さらに、人夫三万を加え、孜々として、地を掘らせた。
坑から上げた土は、厚い土壁とし、数条の堤となし、壇となし、ここに蟻地獄のような土工業が約一ヵ月も続いた。
さながら埃及のピラミッドを見るような土城が竣工しつつある。西涼軍のほうからも眺められていたにちがいない。しかし、手を下しかねているものか、しばらく夜襲も焼討ちもなかった。
すると、渭水の水が一日増しに涸れて来た。かなり雨が降り続いても水が増えない。変だと思っていると、一夜、豪雨が降りそそいだ。その翌朝である。
「津浪だっ」
「洪水だっ」
物見が絶叫した。
人馬を高い所へ移すいとまもなく、遥か上流のほうから、真っ黒な水煙をあげて、奔々の激浪が押してきた。
遠い上流のほうで、もう半月も前から、西涼軍が、堰を作って、河水を溜めていたものである。
なんで堪ろう。小石まじりの河原土なので、土城は一朝にして崩れてしまった。壕も坑も埋まって跡形もない。
九月に入った。
北国のならいで、もう雪が降りだしてくる。灰色の密雲がふかく天をおおって、ここ幾日も雪ばかりなので、両軍とも、兵馬をひそめたまま睨み合っていた。
「西涼の胡夷どもは、寒さに強いし、また潼関へも引き籠れるが、味方はこの野陣のままでは、冬中吹雪にさらされておらねばならぬ。何とか、よい工夫はないか」
曹操とその幕将が、その日もしきりに討議しているところへ、飄然、名を告げて、この陣営へ訪れて来たものがある。
「これは、終南山の隠居、道号を夢梅という翁でござる」
容も凡ではない。
曹操が、見て、
「何しに来たか」
と、問うと、夢梅は、
「この夏頃から、丞相には、渭水の北に城寨を築こうとなされているらしいが、なぜ火水に潰えぬ城をお造りにならぬかと、愚案を申しあげに来ましたのじゃ」と、いう。
なお、夢梅道人がいうには、
「これから必ず北風が吹きましょう。小石まじりの河原土でも、急に、それを構築し、築地した後へすぐ水をかけておけば、一夜にして凍りつき、いちど凍った堅さは、これから春までは解けません。要するに、氷の城ですから、火に焼かれるおそれもなく、河水に流される心配もありますまい」
告げ終ると、老翁はすぐ、飄乎として、どこかへ立ち去った。
一日、北風が吹き出した。曹操は、夢梅居士の教えを行う日と、昼から三、四万の人夫を動員しておいた。
日が暮るるとすぐ、
「夜明けまでに、もう一度、土城を築け」と、命じた。
この夜は、将士もすべて、総がかりに、それへかかった。
基礎のあった上であるから、夜明け近くにはほぼ構築された。
「水を注げ。全城へ水をかけろ」
数万の縑の嚢や革の嚢が用意されてあった。河水を汲んでは手渡しから手渡しに運び、土門、土楼、土壁、土塁、土孔、土房、土窓、築くに従って水をかけ、また水をかけた。
西涼の軍勢は、夜明けの光に、対岸をながめ、驚き合っていた。
「やあ、城ができている」
「いつの間に」
「たった一夜のうちだ」
「見ろ。あれは、この前の土城ではない。氷の城郭だ。氷城だ」
馬超、韓遂なども出て、大いに怪しみながら、小手をかざしていたが、
「また何か、曹操の小策に違いあるまい。馳け破って、城郭の正体を見届けてくれん」
と、にわかに、鼓を打ち、大兵を集結して、河をわたった。
「来たか、北夷の子」
曹操は馬を進めて、待っていた。
馬超は、例によって、
「おのれっ」と、牙を咬み、一躍して、曹操を突き殺そうとしたが、その側に、朱面虎髯、光は百錬の鏡にも似た眼を、じっとこちらへ向けている武将が身構えていて油断もない。
(これだな、虎痴の綽名のある例の男は?)
直感したので、馬超は、いつになく自重して、わざと試しにいってみた。
「西涼の大将たるものは、いえば必ず行い、行えば必ず徹底して実を示す。聞き及ぶ、曹操は、口頭の雄で、逃げ上手だというが、汝そこを動かず、必ず馬超と一戦するの勇気があるか」
すると、曹操は、
「知らないか、田舎漢、予の側には常に、虎痴許褚という猛将がおることを。──なんで天下の鼠をはばかろうや」
云いもあえず、曹操のかたわらから馬を乗り出したその虎痴が、
「すなわち、譙郡の許褚とはおれのこと。汝、そこを動かず、一戦するの勇気があるのか」
と、いった。
その声は人臭いが、猛気が百獣の王に似ている。
いつぞや韓遂にいわれたことばを思い出して、馬超も、心に怕れを生じたか、
「また、会おう」と云い捨てたまま馬をかえし、軍を退いてしまった。
これを見ていた両軍の兵は、駭然として、
(馬超すら恐れる許褚というものはいったいどれほど強いのか)
と、身の毛をよだてぬ者はなかったという。
曹操は、氷城の陣営にかくれると諸将をあつめて、
「どうだ、きょうの虎侯、皆見たか。真にわが股肱というべしである」と、賞め称えた。
許褚は、大面目をほどこしたので、
「明日はかならず、馬超を生捕ってご覧に入れん」と、高言した。
すなわち、その日彼は、敵へ宛てて決戦状を送り、
「明日、出馬しなかったら、天下に嗤ってやるぞ」
と、云い送った。
馬超は怒って、
「確かに、出会わん」
と返書して、夜が白むや、龐徳、馬岱、韓遂など、陣容物々しく、押し寄せてきた。
「待っていた」とばかり、許褚は馬を躍らせて、馬超へ呼びかけた。おうっと、一言、馬超もきょうは敢然と出て戦った。
戦うこと百余合、双方とも、馬を疲らせてしまったので、各〻陣中に引き分れ、ふたたび馬をかえて人まぜもせず戦い直した。
勝負は果てない。
火華をちらし、槍を砕き、また戟をかえて、鏘々、戛々、斬り結ぶこと実に百余合。
「ああ……」
と、両軍の陣は、ただ手に汗を握り、うつろにひそまり返って見ているだけだった。
(──虎痴許褚を相手に、あれほど戦い得る馬超も馬超なり、また西涼の馬超を敵にまわして、これ程に戦う者も、許褚をおいてはあるまい。実に、虎痴も虎痴なり)
と、ことばに出す余裕もないが、誰とて、感嘆しないものはなかった。
そのうちに、許褚は、
「ああ暑い。この大汗では眼をあいて戦えぬ。馬超、待っておれ」
斬り合っているうち、ふいに、こう吐き捨てると、またまた、ぷいと味方の陣中へ引っ込んでしまった。
(どうしたのか?)
怪しんでいると、許褚は、甲盔も戦袍も脱ぎ捨てて、赤裸になるやいな、
「さあ、来い」
ふたたび大刀をひっさげて現れてきた。
その間に、馬超も、汗を押しぬぐい、新しい槍を持ちかえて、一息入れていた様子。──たちまち、砂塵を捲いて、霹靂に似た喚きに狂う龍虎両雄の、三度目の一騎討ちが始まった。
威震八荒の許褚、
「おうっッ」
と、吠えて、馬上、相手へ迫ると、馬超もまた、壮年悍勇、さながら火焔を噴くような烈槍を、りゅうりゅう眼にもとまらぬ早業で突き捲くってくる。
一刀、かつんと、槍の柄に鳴った。──馬超、さッと引く。許褚ふたたび振りかぶる。
「やおうッ」
身をかわしざま、馬超は、敵の心板を狙って、猛烈に突いた。
「くそっ」と牙を咬んで、許褚はそれを横に払い、刀を地に投げるや否、退く槍の柄をつかんで、ぐいと、小脇に挟んでしまった。
奪られじ。
奪らん。
ふたりの阿呍は、雷と雷が黒雲を捲いて吠え合っているようだった。──奪られたほうがすぐその槍で突かれるのだ。渡せない。離せない。
ばきッと、槍が折れた。だだだだっと、双方の駒がうしろへよろめく。いなないて竿立ちになる。すでにまた、ふたりは槍の半分ずつを持って猛烈な激闘を交えていた。
「退鉦、退鉦打て」
曹操はさけんでいた。大事な虎痴に万一があっては、全軍の士気にも関わると見たからである。
が、この微妙な戦機に、龐徳、馬岱の勢は、いちどに、曹軍の陣角へ、わっと強襲してかかった。
その手の敵、夏侯淵、曹洪など、面もふらず戦ったが、全体的には西涼軍の士気強く、ひた押しに圧され、乱軍中、許褚も肘へ二本の矢をうけた程だった。
「守って出るな」
曹操は、氷城をとざした。氷の城郭も、こうなるとものをいう。この日馬超も、軍を収めてから、
「自分も幼少からずいぶん手ごわい人間にも遭ったが、まだ許褚の如きものは見ない。真に彼は虎痴だ」と、舌を巻いていた。
その後、曹操のほうにも、何ら、良計はなく、徐晃と朱霊のふたりに四千騎をさずけて、渭水の西に伏せ、自身、河をわたって、正面を衝こうとしたが、事前に、馬超のほうから軽兵数百騎をひきい、氷城の前に迫り、人もなげに、諸所を蹂躙して去った。
土楼の窓から、それを眺めていた曹操は、かぶっていた盔をほうって、
「実に馬超という敵は尋常な敵ではない。彼の生きてあらん限りはこの曹操の生は安んじられない」といった。
それを聞いていた夏侯淵は、
「これほどお味方に人もあるものを、ただ一人の馬超のため、それまで御心を傷ましむるとは、何たることか。われ誓って、馬超と共に刺しちがえん」
と、その夜、曹操が止めるもきかず、部下千騎をひきいて討って出た。
案のじょう、それから程なく夏侯淵の手勢、苦戦に陥つ、と報らせが来た。
捨ててもおけず、曹操はすぐ自身救援におもむいたが、敵勢は、
「曹操が出てきたぞ」と伝えあうや、かえって、意気を旺にした。
のみならず、馬超は、曹操の中軍を割って、
「天下の賊。逃げるな」と、彼を追い馳け追い廻した。
所詮、力ずくではかなわぬと思ったか、曹操はまた氷の城塞へ逃げこんでしまった。しかし、その間に、苦戦をしのんで、一方の兵力を割き、渭水の西から、大兵を渡していた。
「出よ、曹操。──汝は蓑虫の性か、穴熊の生れ変りか」
馬超は氷城の下まで迫って、罵っていた。
ところへ、後陣の韓遂から伝令があって、
「後方に異状が見える」
と、いう急報。
暁早く、馬超は総勢を収めて、陣地へ帰った。その日、情報によると、
「昨夜、渭水の西をわたった大軍は早くもお味方の背後へまわって、陣地の構築を始めています」
掌から水が漏れたように、韓遂は、
「うしろへ廻ったか。……遂にうしろへ?」
駭然とさけんだ。
そこで韓遂は、万事は休すと思ったか、方針一転を馬超に献言した。如かず、これまで斬り取った地を一時曹操に返し、和睦をして、この冬を休戦し、春とともにべつな計をお立てなさい、というのである。戦機を観ること、さすが慧眼だった。
楊秋、侯選などの幕将も、
「もっともなお説」
と、みな馬超を諫めた。
数日の後、楊秋は一書をたずさえて、曹操の陣へ使いした。和睦の申入れである。
曹操は内心、渡りに舟と思ったが、まず使者を返して後、謀将の賈詡にこれを計った。
賈詡はいう。
「明らかに偽降です。が、突き放す策もよくありません。和睦をゆるし、こちらはこちらで、手を打てばよい」
「手を打つとは」
「馬超の強さは、韓遂の戦略があればこそです。韓遂の作戦は、馬超の勇があってこそ、生きてきます。ふたりを相疑わせて疎隔してしまえば、西涼勢とて、枯れ葉を掃くようなものじゃありませんか」
次の日。
馬超の手もとへ、曹操から返簡が来た。色よい返事である。しかし、馬超はなお数日疑っていた。
「曹軍は、この二、三日、後方の支流に浮橋を架けて、都へ引き揚げる通路を作っているが、いかにもわざとらしい。曹操の部下徐晃と朱霊の軍は、なお渭水の西にあってうごかないじゃないか」
「奇、正。こう二態は、軍隊の性格で怪しむに足りません。しかし要心は必要でしょう」
と、韓遂も油断せず、一陣は西に備え、一陣は曹操の正面に向け、厳として気をゆるめなかった。
敵方の警戒ぶりを聞くと、曹操は、賈詡をかえりみて笑った。
「まず、成就だな」
やがて約束の日、曹操は盛装をこらして、おびただしい諸大将や武者をひきつれ、自身条約のため、場所へ出向いた。
まだこのような豪壮絢爛な軍隊を見たこともなく、曹操の顔も知らない西涼の兵隊は、途々に堵列して、
「あれは何だろ?」
「あれが曹操か」
などと、物珍しげに、指さし合う。
曹操は、駿馬にまたがり、錦袍金冠のまばゆき姿を、すこし左右にうごかして、
「やよ、西涼の兵ども、予を見て、珍しと思うか。見よ、予にも、眼は四つはなく、口は二つないぞ。ただ異なるのは智謀の深さだけだ」と、戯れをいった。
戯れにはちがいないが、西涼の軍勢は、その笑い顔に震い怖れて、みな口を結んでしまった。
韓遂の幕舎へ、ふいに、曹操の使いが来た。
「はて。何か?」
使いのもたらした書面をひらいてみると曹操の直筆にちがいなく、こうしたためてある。
君ト予トハ元ヨリ仇デハナク、君ノ厳父ハ、予ノ先輩デアリ、長ジテハ、君ト知ッテ、史ヲ語リ、兵ヲ談ジ、天下ノ為、大イニ成スアランコトヲ、誓イアッタ友ダッタ。
端ナクモ、過グル頃ヨリ敵味方トワカレ、矢石ノアイダニ別ルルモ、旧情ハ一日トテ、忘レタコトハナイ。
イマ幸イニ、和議成ッテ、予ナオ数日、渭水ノ陣ニアリ。
乞ウ、一日、旧友韓遂トシテ来リ給エ。
「ああ、彼も、忘れずにいるか」
韓遂は、旧情をうごかされて、翌日、甲も着ず、武者も連れず、ぶらりと、曹操を訪れた。
「やあ、ようこそ」
曹操はなぜか、内へ導かない。自分のほうから陣外へ出てきて、いとも親しげに、平常の疎遠を詫びた。
そしてなお、いうには、
「お忘れではあるまい。あなたの厳父とは、共に孝廉に挙げられ、少壮の頃には、いろいろお世話になったものだ。後あなたも都の大学を出、共に官途へ進んでからは、いつともなく疎遠に過ぎたが、今は、お幾歳になられるか」
「それがしも、すでに四十です」
「むかし、都にあって、共に、青春の少年であった時代は、よく書を論じ、家を出ては、白馬金鞍、花を尋ねて遊んだこともあったが、そのあなたも、はや、中老になられたか」
「丞相も、変りましたな。少し鬢にお白いものが見える」
「ははは。いつか、ふたたび太平の時を得て、むかしの童心に返ろうではないか。──おう今日は、折角、此方から書面しながら失礼ですが、幕中、折わるく諸将を会して要談中なので」
「いや、また会いましょう」
韓遂は、気軽に戻った。
この態を、見ていたものが、すぐ馬超へ、ありのままを話した。
安からぬ顔色をしていたが、翌る日、馬超はほかの用事にことよせて、韓遂を呼び、
「時に、貴公は昨日、渭水のほとりで、曹操と、何か親しげに、密談をしておられた由だが……」
「密談を」──韓遂は、眼をまろくしながら、顔の前で手を振った。
「青空の下の立ち話。密談などした覚えはない。また軍事については、爪の垢ほども、語りはしません」
「いや、貴公が云いださなくとも、曹操のほうから何か」
「少年時代、共に都にあった事どもを、二、三話して別れただけです」
「そうか。そんなに古くから、彼とは、親しい仲であられたのか」
馬超は、嫉ましげな眸をした。が、韓遂は、まったく、何の後ろ暗いこともないので、笑い話をして帰った。
ひそやかな、陣中の一房へ、曹操はその晩、賈詡を呼びよせていた。
「どう見えた。きょうの計は」
「妙趣、ご奇想天外です」
「西涼兵の眼に、映ったろうな」
「もちろん、もう馬超の耳へ入っておりましょう。が、もう一つ足りません。あれでは、まだ韓遂を、心から疑わせるまでには行きますまい」
「それには、どうしたらよいか」
「丞相からもう一度、親書を韓遂にあててお書きなさい」
「そうそう、用もないのに、書簡をやるのもおかしかろう」
「かまいません。文章をもって、相手を動かすのが目的ではありませんから。──文字などもわざと朧にしたため、肝要らしい所は、思わせぶりに、失筆で塗りつぶし、また削り改めたりなどして、一見、おそろしく複雑で重要そうに見えさえすればよろしいのです」
「むずかしいのう」
「兵馬を費うことを考えれば、そのくらいな労は、何ほどでもありますまい。必定、受取った韓遂も、一体、何だろうと、おどろき怪しんで、きっとそれを、馬超の所へ見せに行くに違いありません。ここまで来れば、はや計略は、成就したも同じことです」
その後、馬超は、腹心の男をして、ひそかに、韓遂の陣門に立たせ、出入りを見張させていた。
「今夕、またも、曹操の使いらしい男が、韓遂の営内へ、書簡を届けて立ち去りましたが?」
腹心の者から、こう報らせがあったので、馬超は、
「果たして!」と、自分の猜疑を裏書きされたものの如く、夜食もとらぬまに、ぷいと出て、韓遂の陣門を叩いた。
「何事ですか、おひとりで」
韓遂は、驚いて迎えた。休戦中ではあるし、幾分の寛ぎもあって、晩餐に向っていたところだった。
「いや、急に戦いもやんで、何やら手持ち不沙汰だから、一盞、馳走になろうかと思って」
「それならば、前もって、お使いでも下されば、何ぞ、陣中料理でもしつらえて、盞を洗ってお待ち申しておりましたのに」
「なに、こういうことは、不意のほうが興味がある。ひとつ貰おうか」
「恐縮です。このままの杯盤では」
「いやいや、構わん」と、一杯うけて、
「ときに、その後は、曹操から何か云ってきたかね」
「あれきり会いませんが、たった今、妙な書簡をよこしたので、飲みながら独りここへ置いて、判じ悩んでいるところです」と、卓の上にひろげてある書面へ眼を落して答えた。
馬超は、初めて、それへ気がついたような顔して、
「どれ、……」と、すぐ手を伸ばして取った。
「なんの意味やら、読解がおつきになりますまい。それがしにも分らないのですから」
馬超は返事も忘れてただ見入っていた。
辞句も不明だし、諸所に、克明な筆で、塗りつぶしたり、書入れがしてある。いかにも怪しげな書簡だ。馬超は袂へ入れて、
「借りて行くぞ」
「どうぞ……」とは答えたものの韓遂は妙な顔をしていた。──そんな物を何にする気かと。
すると翌日、使者が来た。馬超からの召出しである。もちろん、彼はすぐ出向いたが、馬超はすこし血相を変えていた。
「ゆうべ、立ち帰ってから、曹操の書簡を灯に透かしてみると、どうも不穏な文字が見える。御身は、まさかこの馬超を、曹操へ売る気ではあるまいな」
「怪しからぬお疑い」と、韓遂も、色をなしたが、
「それで先頃からの、変なご様子の原因が解けました。言い訳もお耳には入りますまい」
「いや、申し開きがあるならばいってみたがいい」
「それよりは、事実をもって、君に対する信を明らかにします。明日、それがしが、わざと曹操の城寨を訪ね、過日のように、陣外で曹操と談笑に時を過しますから、あなたは附近に隠れて、不意に、曹操を討ち止めて下さい。曹操の首を挙げれば、それがしのお疑いなど、おのずから釈然と氷解して下さるでしょう」
「御身はきっと、それをしてみせるか」
「ご念には及びません」
即ち、韓遂は翌る日、幕下の李湛、馬玩、楊秋、侯選などを連れて、ぶらりと、曹操の城寨を訪ねた。
曹操は先頃から、例の氷城にもどっている。取次ぎのことばを聞くと、
「曹仁。代りに出ろ」
と、居合わせた曹仁の耳へ、何かささやいた。
曹仁は、衆将を従えて、うやうやしく陣門を出てくると、馬上のまま韓遂のそばへ寄り添って、
「いや、昨夜は、お手紙を有難う。丞相もたいへんよろこんでおられる。しかし、事前に発覚しては一大事、ずいぶんご油断なく、馬超の眼にご注意を」
云いすてると、さっと立ち去って、何いうまもなく、陣門を閉めてしまった。
物陰にいた馬超は激怒して、韓遂が帰るや否、彼を成敗すると猛ったが、旗本たちに抱き止められて、悶々と一時剣をおさめた。
悄然と、韓遂は自分の営へ、戻ってきた。
八旗の中の五人の侍大将たちが、早速やって来て慰めた。
「われわれは将軍の二心なき忠誠を知っています。それだけに心外でたまりません。馬超は勇あれど智謀たらず、所詮は曹操に敵しますまい。いっそのこと、今のうちに、将軍も曹操に降って、安身長栄の工夫をなすっては如何です」
「慎め、卿らは何をいうか。この韓遂が起ったのは、馬超の父馬騰に対して、生前の好誼に酬う義心一片。何で今さら、彼を捨てて、曹操に降ろうぞ」
「いやいや、それは将軍の片思いというもの。馬超のほうでは、かえって、あなたを邪視しているのに、そんな節義を一体たれに尽すつもりですか」
楊秋、李湛、侯選など、かわるがわる離反をすすめた。かの五旗の侍大将は、すでに馬超を見限っているもののようであった。
ここに至って、遂に、韓遂も変心を生じてしまった。楊秋を密使に立て、その晩、ひそかに曹操に款を通じた。
「成就、成就」
曹操は手を打ってよろこんだにちがいない。懇篤な返書とともに極めて綿密な一計をさずけて来た。すなわち曰う。
明夕、馬超ヲ招イテ、宴ヲナスベシ。油幕ノ四囲ニ枯柴ヲ積ミ、火ヲ以テマズ巨鼠ヲ窒息セシメヨ。火ヲ見ナバ曹操自ラ迅兵ヲ率シテ協力シ、鼓声喊呼ニツツンデ馬超ヲ生捕リニセン。
韓遂は翌日、五旗の腹心をあつめて、協議していた。曹操からいってよこした策は必ずしも万全と思えないからであった。
「いま招いても、馬超のほうでこれへ参るまい」
韓遂の心配はそこにある。
「いや、案外来るかもしれませんよ。将軍が、謝罪すると仰っしゃれば」
楊秋がいうと、侯選も、
「何といっても、若いところのある大将だから、口次第ではやって来ましょう」と、いう。
李湛もまた、
「弁舌をもって、きっと、馬超を案内して来ます。その点はわれわれにお任せ下さい」
と自負して云った。
では、時刻を待つとて、油幕を張り、枯柴を隠し、宴席の準備をした。そして韓遂を中心に、まず前祝いに一献酌み交わして、手筈をささやいていると、そこへ突然、
「反逆人どもっ。うごくな」と、罵りながら入ってきた者がある。
見ると、馬超ではないか。
「あっ。……これは」
不意をつかれて、狼狽しているまに、馬超は剣を抜くや否、韓遂に飛びかかり、
「おのれっ、昨夜から、何を密議していたか」と、斬りつけた。
韓遂は、戟をとるまもなかったので、左の肘をあげて、身を防いだ。馬超の剣は、その左手を腕のつけ根から斬り落し、なおも、
「どこへ逃げる」
追い廻していると、五旗の侍大将が、左右から馬超へ打ってかかって来た。
油幕の外は火になった。馬超は血刀をひっさげて、
「韓遂は、韓遂は」
血まなこに捜している。
彼の前をさまたげた馬玩は立ちどころに殺されたし、彼に従ってきた龐徳、馬岱なども、韓遂の部下を手当り次第に誅殺していた。ところがたちまち渭水を渡ってきた一陣、二陣、三陣の騎兵部隊が、ものもいわず、焔の中へ駈けこんで来て、
「馬超を生捕れっ」
「雑兵に眼をくれず、ただ、馬超を討て」
と、励まし合った。
その中には、虎痴許褚をはじめとして、夏侯淵、徐晃、曹洪などの曹軍中の驍将はことごとく出揃っている。馬超は、ぎょッとして、
「さてはすでに、手筈はととのっていたか」
と、急に陣外へ駈け出したが、はや龐徳は見えず、馬岱も見あたらない。
彼ですらそれ程あわてたくらいだから、西涼勢の混乱はいうまでもなく、各所の陣営からは濛々と黒煙があがっていた。
日は暮れたが、焔は天を焦し、渭水のながれは真っ赤だった。
戒めなければならないのは味方同士の猜疑である。味方の中に知らず知らず敵を作ってしまう心なき業である。
が、その反間苦肉をほどこした曹操のほうからみれば、いまや彼の軍は、西涼の馬超軍に対して、完全なる、
敵中作敵
の計に成功したものといえる。
味方割れ、同時に、和睦の決裂だ。──馬超は、自らつけた火と、自ら招いた禍いの兵におわれて、辛くも、渭水の仮橋まで逃げのびて来た。
かえりみると、龐徳、馬岱ともちりぢりになり、つき従う兵といえば、わずか百騎に足らなかった。
「やあ、あれに来るは、李湛ではないか」
西涼を出るときは、八旗の一人とたのんでいた旗本。もちろん味方と信じていると、その李湛は、手勢をひいてこれへ近づくや否、
「や、あれにおる。討ち洩らすな」
と、自身も真っ先に、鎗をひねって、馬超へ撃ってかかった。
馬超は驚いて、
「貴様も謀反人の片割れか」
赫怒して、これに当ると、李湛は、その勢いに恐れて、馬をかえしかけた。
すると、一方からまた、曹操の部下于禁の人数が、わっと迫り、于禁は軍勢の中にもまれながら、弓をつがえて、馬超を遠くから狙っていた。
弦音とともに、馬超は馬の背に屈みこんだので、矢はぴゅんと、それていった。
皮肉にも、そのそれ矢は、李湛の背にあたって、李湛は馬から落ちて死んだ。
馬超は、わき目もふらず、于禁の人数へ馳け入った。そしてさんざんに敵を蹴ちらし、渭水の橋の上に立って、ほっと大息をついていた。
夜は更け、やがて夜が明けそめる。
馬超は橋上に陣取って、味方の集合を待っていたが、やがて集まって来たのは、ことごとく敵兵の声と敵の射る箭ばかりだった。
橋畔の敵勢は、刻々と水嵩を増す大河のように、囲みを厚くするばかりである。かくてはと、馬超は幾度も橋上から奮迅して、敵の大軍へ突撃を試みたが、そのたびに、五体の手傷をふやして、空しくまた、橋上に引っ返すほかなかった。
のみならず、左右の部下は、ふたたび橋の上に帰らず、或る者は矢にあたって、ばたばた目の前に仆れてゆくので、
「ここで立往生を遂げるくらいなら、もう一度、最後の猛突破を試み、首尾よく重囲を斬り破れば、一方へ拠って再挙を計ろう。またもしそれも成らずに斃れるまでも、ここで満身に矢をうけて空しく死ぬよりまだ増しだぞ」
残る面々をうち励まして、わうっと、猛牛が火を負って狂い奔るように、馬超はふたたび橋上を馳け出した。
「つづけ」
「離れるな」
と、馬超の将士四、五十人も死物狂いに突貫した。人、人を踏み、馬、馬を踏み、曹軍の一角は、血を煙らせて、わっと分れる。
けれど、馬超に従う面々は、随処にその姿を没し、彼はいつか、ただ一騎となっていた。
「近づいてみろ。この命のあらん限りは」
鎗は折れたので、とうに投げ捨てている。敵の矛を奪って薙ぎ、敵の弩弓を取って、撲りつけ、馬も人も、さながら朱で描いた鬼神そのものだった。
──が、いくら馬超でも、その精力には限度がある。もうだめだと、ふと思った。
(もう駄目)
それをふと、自分の心に出した時が、人生の難関は、いつもそこが最後となる。
「くそっ、まだ、息はある」
馬超は気づいて、自分の弱音を叱咤した。そしてまた、目にも見あまる敵軍に押しもまれながら、小半刻も奮戦していた。
折しも西北の方から一手の軍勢がこれへ馳けてきた。思いもよらず味方の馬岱、龐徳だった。曹軍の側面を衝いてたちまち遠く馳けちらし、
「それっ、いまの間に」とばかり、馬超の身を龐徳が鞍わきに抱きかかえると、雲か霞かのように、遠く落ちて行った。
敵中作敵の計が見事成功したのを望んで、曹操は馬を前線へ進めてきた。そして、馬超を逸したと聞くと、
「画龍点睛を欠く」
と、つぶやいて、すぐ馬前の人々へいった。
「馬超に従いて落ちて行った兵力はどのくらいだったか」
ひとりの大将が答えていう。
「龐徳、馬岱などの、約千騎ばかりです」
「なに、千騎。──それならもう無力化したも同じものだ。汝ら、日夜をわかたず、彼を追いかけて、殊勲を競え。もし馬超の首をたずさえて来たら、その者には、千金を賞するであろう。また馬超を生捕ってきた者には、身分を問わず、万戸侯に封じて、いちやく、諸侯の列に加えてやろう」
これは大きな懸賞である。いでやとばかり、下は一卒一夫まで、奮い立って、馬超追撃を争いあった。
こういう慾望と情勢の目標にされては、いかに馬超でもたまるものではない。追い詰められ追い詰められ、また、取って返しては敵に当り、踏み止まっては追手と戦い、果ては、わずか三十騎に討ちへらされ、夜も寝ず、昼も喰わず、ひたすら西涼へさして逃げ落ちた。
龐徳と馬岱とは、途中、馬超とも別れ別れになってしまい、遠く隴西地方を望んで敗走したが、それと知って、曹操は自身、
「いま彼らを地方へ潜伏させては」
と、禍いの根を刈るつもりで、あくまでも追撃を加えていた。
そして、長安郊外まで来ると、都から荀彧の使いが、早馬に乗って、一書をもたらして来た。
「北雲急なりと見て、南江の水しきりに堤をきらんとす。すこしも早く、兵を収めて、許都に還り給わんことを」と、ある。
そこで曹操は、全軍をまとめ、
「ひとまず引揚げよう」と、軍令を一下した。
左の手を斬り落された韓遂を西涼侯に封じ、また彼と共に降参した楊秋、侯選なども、列侯に加えて、それには、
「渭水の口を守れ」と、命じた。
ときに元、涼州の参軍で、楊阜という者、すすんで彼にこう意見をのべた。
「馬超の勇は、いにしえの韓信、英布にも劣らないものです。今日、彼を討ち洩らしてのお引揚げは、山火事を消しに行って、また山中に火だねを残して去るようなもので、危険この上もありません」
「いうまでもなく、それは案じている。せめて彼の首を見、予自身半年もいて、戦後の経略までして還れば万全だが、何せい、都の事情と南方の形勢は、それをゆるさぬ」
「以前、それがしと共に、涼州の刺史をつとめていた者で、韋康という人物があります。よく涼州の事情に通じ民心を得ていますから、この者に、冀城を守らせ、一軍を領せしめておいたら、大きな抑えともなり、たとい馬超が再起を計っても、やがて自滅して行くものと考えられますが」
「では、その任を、其方に命じよう。汝と、その韋康と、よく心を協せて、ふたたび馬超が勢いの根をはびこらせぬように努めるがいい」
「それには、一部のお味方をとどめて、長安の要害だけは、充分お守り下さるように」
「もちろんだ。長安の堺には、充分な兵力と、誰かしかるべき良将を残して行こう」
すなわち夏侯淵に対して、命は下った。
「旧都長安には、韓遂をとどめておくが、彼は、左腕を失って、身のうごきもままになるまい。汝は、予が腹心、予になり代ってよく堺を守れよ」
すると、夏侯淵が、
「張既、字を徳容という者がいます。高陵の生れです。これを京兆の尹にお用い下さい。張既と力を協せて、必ず、丞相をして二度と西涼の憂をなからしめてみせます」
「よろしい。張既ものこれ」
曹操は、乞いをゆるした。
あすは都へ還るという前夜、曹操は諸大将と一夕の歓を共にした。
その席上で、一人の将が、曹操に訊いた。
「後学のため、伺いますが。──合戦の初めに、馬超の軍勢は、潼関に拠っていましたから、渭水の北は遮断された形でした」
「ムム」
「で当然、河の東を攻めて、お進みかと思いのほか、さはなくて、いたずらに野陣の危険にさらされたり、後また北岸に陣屋を作り、いつになく、戦法に惑いがあるように見えましたが……」
「それは、難きを攻めず、易きを衝く、兵法の当然を行ったまでだ」
「それなら分りますが、今度はその反対のように動いたとしか思われませんでしたが」
「その条件を、敵方に作らせるよう、初めには、わざと敵の充実している正面に当ると見せ、敵兵力をことごとく味方の前に充実させておいてから、徐晃、朱霊などの別働隊を以て、敵兵力の薄い河の西からたやすく越えさせたわけじゃ」
「なるほど、では丞相の主目的は、むしろ別働隊のほうにあったわけですな」
「まず、そんなものか」
「後、わが主力は北へ渡り、堤にそって寨を構築し、しばしば失敗したあげく、氷の城まで築かれましたが、丞相も初めには、こう早く戦が終ろうとはお思いなさらなかったものでしたか」
「いやいや、あれはわざと、味方の弱味を過大に見せ、敵を驕り誇らせるためと、もう一つは、西涼の兵は悍馬の如く気短だから、その鋭角をにぶらすため、ことさらに、悠長と見せて彼を焦立たせたまでのこと」
「敵中作敵の計は、疾く前から考えのあったことですか」
「戦機は勘だ。また天来の声だ。常道ではいえない。戦前の作戦は、大事をとるから、ただ敗けない主義になりやすい。それがいざ戦に入ると疾風迅雷を要してくる。また序戦では、参謀の智嚢と智嚢とは敵味方とも、いずれ劣らぬ常識線で対峙する。だがそのうちに、天来の声、いわゆるカンをつかみ、いずれかが敵の常道を覆すのだ。ここが勝敗のわかれ目になる。すべて兵を用いるの神変妙機は一概にはいい難い」
かれの解説は、子弟に講義しているように、懇切であった。諸将はまた、口々に訊ねた。
「出陣の初め、丞相には、西涼軍の兵力が刻々と増し、その中には八旗の旗本、猛将なども多いと聞かれたとき、手を打ってお歓びになりましたが、あれは如何なるお気持であったのですか」
「西涼は、国遠く、地は険に、中央から隔てられている。その王化の届かぬ暴軍が、いちどに集まって来てくれれば、これは労せず招かず猟場に出てくれた鹿や猪と同じではないか」
「ははあ、なるほど」
「もし、彼らが、西涼を出ず、王威にも服せず、ただ辺境にいて、威を逞しゅうしているのを、遠征しようとするならば、莫大な軍費と兵力と年月を必要とする。おそらく一年や二年くらいでは、今度ほどな戦果を収めることはできなかったろう。……で思わず、西涼軍が大挙して来ると聞いたとき、嬉しさのあまり、歓びを発したが、それに不審を抱いたことは、そち達もようやく兵を語る眼がすこしあいてきたというものである。この上とも実戦のたびには、日頃の小智にとらわれず、よく大智を磨くがよい」
語り終って、曹操は、杯をあげた。諸大将もみな嘆服して、
「丞相いまだ老いず」
と、心から賀した。
都に還ると、献帝はいよいよ彼を怖れ給うて、自身、鸞輿に召して、凱旋軍を迎え、曹操を重んじて、漢の相国蕭何の如くせよと仰せられた。すなわち彼は、履のまま殿上に昇り、剣を佩いて朝廷に出入りするのも許される身となったのである。
近年、漢中(陝西省・漢中)の土民のあいだを、一種の道教が風靡していた。
五斗米教。
仮にこう称んでおこう。その宗教へ入るには、信徒になるしるしとして、米五斗を持てゆくことが掟になっているからである。
「わしの家はなぜか病人がたえない」とか、
「こう災難つづきなのは、何かのたたりに違いない」とか、それと反対に、
「うちの躄が立った」などというのもあるし、
「五斗米教のお札を門に貼ってから、奇妙に盗賊が押しかけて来ない」
などと、迷信、浮説、嘘、ほんと、雑多な声に醸されながら、いつのまにか漢中におけるこの妖教の勢力とその殿堂は、国主を凌ぐばかりであった。
教主は、師君と称している。その素姓を洗えば、蜀の鵠鳴山にいてやはり道教をひろめていた張衡という道士の子で、張魯、字を公棋という人物だった。
これが、漢中に来て、いわゆる五斗米教を案出し、
「あわれな者よ。みなわれにすがれ。汝らの苦患はみな張魯がのぞいてやる」
と、愚民へ呼びかけた。
民衆の逆境は、このときほど甚だしい時代はない。どこを捜したって満足に家内揃ってその日を楽しんでいるなどという家はない。しかも教養なく、あしたの希望もない民衆は、
「これこそ天来の道士様」
と、たちまち五斗米をかついで礼拝に来る者が、廟門に市をなした。
師君の張魯をめぐって、治頭、大祭酒などという道者がひかえ、その下に鬼卒とよぶ祭官が何百人とある。
不具、病人などが、祈祷をたのむと、
「懺悔せよ」と、暗室に入れ、七日の後、名を書いたお札を、一通は山の上に埋けて、天神に奏するものだといい、一通は平地に埋けて地神に詫をするといい、もう一通は水底に沈めて、
「おまえの罪業は、水神にねがって、流してもらった」と、云い聞かせる。
愚民は信ずるのだった。その妄信から時々、奇蹟が生ずる。すると、大祭を行う。漢中の街は、邪宗門のあくどい彩で塗りつぶされ、廟門には豚、鶏、織物、砂金、茶、あらゆる奉納品が山と積まれ、五斗入り袋は、十倉の棟にいっぱいになる。
こうして、邪教の猖獗は、年ごとに甚だしくなり、今年でもう三十年にもなるが、いかにせん、その悪弊は聞えてきても、中央に遠い巴蜀の地である。令を以て禁止することも、兵を向けて一掃することもできない。
そこでかえって、教主張魯に対しては、卑屈な懐柔策を取ってきた。彼に鎮南中郎将という官職を与え、漢寧の太守に封じて、そのかわりに、
「年々の貢ぎを怠るなかれ」と誓わせて来たのである。
従って、五斗米教は、中央政府の認めている官許の道教として、いよいよ毒を庶民に植えつけて、今や巴蜀地方は、一種の教門国と化していた。
すると、ついこの頃のこと。
漢中の一百姓が、自分の畑から、黄金の玉璽を掘り出し、びっくりして庁へ届けてきた。
張魯の群臣は、みな口をそろえて、
「これこそ、天が、漢寧王の位につくべし、と師君へ授け給うたもの」
と、彼に、王位につくことをすすめた。
すると、閻圃という者が、思慮ありげに、こう進言した。
「なるほど今は、中央の曹操、西涼の馬超を討って、気いよいよ驕り、人民としては、いわゆる天井をついた象。たしかに撃つべきときに違いないが、まず我らは、蜀四十一州を内に併合統一して、しかる後、彼に当るのが、正しくないかと考えられますが。──師君のご賢慮はいかがでしょうか」
師君張魯の弟に、張衛という大将がいる。
いま、閻圃の言を聞くと、その張衛は、
「然り、然り。閻圃の説こそ、大計というものである」
と云いながら前へ進んで、彼の献策をさらに裏書して、こう大言した。
「先ごろ来、西涼の馬超が破れたことから、領内混乱に陥り、西涼州の百姓たちの逃散して、漢中に移り来るもの、すでに数万戸にのぼると聞く。──加うるに、従来、漢川の民、戸数十万に余り、財ゆたかに糧はみち足り、四山谿流、道は嶮岨にして、一夫これを守れば万卒も通るを得ず、と古来からいわれておる。もしこれに蜀を加えて、統治を施し、よく武甲と仁政を以て固め、上に帝王を定むるならば、これこそ千年の基業を開くことができるに相違ない。──家兄、願わくは不肖張衛に、入蜀の兵馬を授けたまえ。誓って、この大理想を顕現してお目にかけん」
両者の言に、張魯も意をうごかされて、
「よろしかろう。疾く準備にかかれ」と、聴許した。
かくて、漢中の兵馬が、ひそかに、蜀をうかがっているとき、その蜀は今、どんな状態にあったろうか。
巴蜀。すなわち四川省。
長江千里の上流、揚子江の水も三峡の嶮にせばめられて、天遠く、碧水いよいよ急に、風光明媚な地底の舟行を数日続けてゆくと、豁然、目のまえに一大高原地帯が展ける。
アジアの屋根、パミール高原に発する崑崙山系の起伏する地脈が支那西部に入っては岷山山脈となり、それらの諸嶺をめぐり流れる水は、岷江、金沱江、涪江、嘉陵江などにわかれては、またひとつ揚子江の大動脈へ注いでくる。
四川の名は、それに起因る。河川流域の盆地は、米、麦、桐油、木材などの天産豊かであり、気候温暖、人種は漢代初期からすでに多くの漢民族が入って、いわゆる巴蜀文化の殷賑を招来していた。その都府、中心地は、成都である。
ただこの地方の交通の不便は言語に絶するものがある。北方、陝西省へ出るには有名な剣閣の嶮路を越えねばならず、南は巴山山脈にさえぎられ、関中に出る四道、巴蜀へ通ずる三道も嶮峻巍峨たる谷あいに、橋梁をかけ蔦葛の岩根を攀じ、わずかに人馬の通れる程度なので、世にこれを、
「蜀の桟道」と呼ばれている。
さて、こういう蜀も、遂に、時代の外の別天地ではあり得なかった。
蜀の劉璋は漢の魯恭王が後胤といわれ、父劉焉が封を継いでいたが、その家門と国の無事に馴れて、いわゆる遊惰脆弱な暗君だった。
「漢中の張魯が攻めてくるとか。いかがすべきぞ。ああ、どうしたらいいか」
彼は、生れて初めて、敵というものが、すぐ隣にいたのを知ったのである。
蜀の諸大将も、みな怯えた。するとひとり、評議の席を立って、
「不肖ですが、それがし、三寸の舌をうごかして、よく張魯が軍勢を退けてご覧にいれる。乞う、お案じあるな」と、いった者がある。
見れば、その人は、背丈五尺そこそこしかなく、短身長臂、おまけに、鼻はひしげ、歯は出ッ歯で、額は青龍刀みたいに広くて生えぎわがてらてらしている。
ただ大きいのは声だけだ。声は鐘を撞くように余韻と幅がある。
「やあ、張松か。いかなる自信があって、さような大言を吐くか」
劉璋以下、諸大将が半ば危ぶみながら問うと、
「百万の兵も、一心に動く。一心の所有者に、それがしの一舌を以て説く。なんで、動かし得ぬことがありましょうか」と、許都に上って、曹操に会見し、将来の利害大計を述べて、この禍いを変じて、蜀の大幸として見せん──と、諄々、腹中の大方策を披瀝した。
張松の考えているその内容とはどんなものか、とにかく、彼の献策は用いられることとなり、彼は早速、遠く都へ使いして行くことになった。
その旅行の準備にかかる傍ら、彼は自分の家に、画工を雇って、西蜀四十一州の大鳥瞰図を、一巻の絵巻にすべく、精密に写させていた。
画工は五十日ほどかかってようやくそれを描き上げた。四十一州にわたる蜀の山川谿谷、都市村落、七道三道の通路、舟帆、駄馬の便、産物集散の模様まで、一巻数十尺の絵巻のうちに写されていた。
「これを開けば、いながらにして、蜀に遊ぶようなものだ。よしよし。上出来」
張松は、画工をねぎらった。
彼は直ちに、劉璋に謁して、出発の準備も調いましたればと、暇を告げた。
劉璋は、かねて用意しておいた金珠錦繍の贈物を、白馬七頭に積んで、彼に託した。もちろん曹操への礼物である。
千山万峡、嶮岨を越えて、使者の張松は都へ向った。
時、曹操は銅雀台へ遊びに行って、都へ還ったばかりであった。
江南の風雲は、なお測り難いものがあるが、西涼の猛威を、一撃に粉砕し、彼の意はいよいよ驕り、彼の臣下は益〻慢じ、いまや、曹操一門でなければ人でないような、我が世の春を、謳歌していた。
「さすがは、花の都」
張松も、眼を驚かされた。魏の文化の眩さに、白馬七頭に積んできた礼物も、曹操の前に出すには気恥ずかしいような気がした。
ひとまず旅館に落着き、相府に入国の届を出し、また迎使部の吏を通じて、拝謁簿に姓氏官職などを記録し、
「やがて丞相からお沙汰のあるまで相待つように」
という吏員のことばに従って、その日の通知を待っていた。
ところが、幾日たっても、相府からの召しがないので怪しんでいると旅亭の館主が、
「それは、姓氏を簿に書き上すとき、賄賂を吏員に贈らなかったからでしょう」
と、注意してくれた。
そこで、客舎の主人から莫大な賄賂を相府の吏員に贈ると、ようやく五日目ごろに、沙汰があって、張松は、曹操に目通りすることができた。
曹操は、一眄をくれて、
「蜀はなぜ毎年の貢ぎ物を献じないか」
と、罪を責めた。
張松は、答えて、
「蜀道は、嶮岨な上に、途中盗賊の害多く、とうてい、貢ぎを送る術もありません」
と、いった。
曹操は、甚だしく、自分の威厳を損ぜられたような顔をして、
「中国の威は、四方に遍く、諸州の害を掃って、予は今やいながらに天下を治めておる。なんで、交通の要路に野盗乱賊が出没しようか」
「いやいや。決してまだ天下は平定していません。漢中に張魯あり、荊州に玄徳あり、江南に孫権の存在あり。加うるに、緑林山野、なお無頼の巣窟に適する地方は、どれほどあるかわからない」
曹操は急に座を起って、ぷいと後閣へ入ってしまった。激怒した容子である。張松は、ぽかんと、見送っていた。
階下に整列していた近臣も、興を醒して、張松の愚を嗤った。
「外国の使臣として、はるばる参りながら、あえて丞相の御心に逆らうとは、いやはや、不束千万。再度のお怒りが降らぬうち、疾く、疾く蜀へ帰り給え」
すると張松は、その低い鼻の穴から、ふふふと、嘲笑をもらした。
「さてさて、魏の国の人は嘘で固めているとみえる。わが蜀には、そんな媚言やへつらいをいう佞人はいない」
「だまれ。しからば、魏人は諂佞だというか」
「おや、誰だ?」
声に驚いて、張松が振り向くと、侍立の諸臣のうちから、一人の文化的な感じのする青年が、つかつかと進んで、張松の前へ立った。
年の頃まだ二十四、五歳。神貌清白、眉ほそく、眼すずやかである。これなん弘農の人で、一門から六相三公を出している名家楊震の孫で、楊修、字は徳祖という。いま曹操に仕えて、楊郎中といわれ、内外倉庫の主簿を勤めていた。
「外国の使臣といえ、黙って聞いておれば、怪しからんことをいう。すこし君に談じつける儀があるから、僕に従ってこっちへ来給え」
楊修はそういって、張松を閣の書院へひっぱって行った。張松は、この青年の魅力に何か心をひかれたので、黙って彼のあとに従いて行った。
「ここは奥書院、俗吏は出入りしませんから、しばし静談しましょう。さあ、お着席ください」
楊修は、張松へ座をすすめ、自ら茶を煮て、遠来の労を慰めた。
「蜀道は天下の嶮岨とうけたまわる。都まで来るには、ひとかたならぬご辛苦だったでしょう」
張松は頭を振って、
「君命をうけて使いするに、なんの万里も遠しとしましょう。火を踏み、剣を渡るも、厭うことではありません」と、答えた。
楊修はかさねて訊いた。
「蜀の国情や地理は、老人のはなしとか、書物とかで知るのみで、直接蜀の人から伺ったことがない。ねがわくは、ご本国の概要を聞かせ給え」
「されば、蜀はわが大陸の西部に位し、路に錦江の嶮をひかえ、地勢は剣閣の万峰に囲まれ、周囲二百八程、縦横三万余里、鶏鳴狗吠白日も聞え、市井点綴、土はよく肥え、地は茂り、水旱の心配は少なく、国富み、民栄え、家に管絃あり、社交に和楽あり、人情は密に、文をこのみ、武を尚び、百年乱を知らずという国がらです」
「おはなしを承っただけでも、一度遊びに行ってみたくなりますね。して、あなたはその蜀で、どんな役目を勤めておられますか」
「お恥かしい微賤です、劉璋の家中において、別駕の職についております。失礼ながら其許は?」
「丞相府の主簿です」
「名門楊家は、数代簪纓の誉れ高くご父祖はみな宰相や大臣の職にあられたのではないか。その子たる者が、何故、丞相府の一官吏となって、賤しき曹操の頤使に甘んじておらるるか、なぜ、廟堂に立って、天子を佐け、四海の政事に身命をささげようとはなさらぬか」
「…………」
楊修は、身を辱ずるかの如く、顔あからめたまま、しばしうつ向いていたが、
「いや、丞相の門下にあって、軍中兵粮の実務を学び、また平時にはご書庫を預かって、庫中万巻の書を見る自由をゆるされているのは、自分にとって大きな勉強になりますからね」
「ははは、曹操について学ぶことなどがありますかな。聞説、曹丞相は、文を読んでは、孔孟の道も明らかにし得ず、武を以ては、孫呉の域にいたらず、要するに、文武のどちらも中途半端で、ただ取得は、覇道強権を徹底的にやりきる信念だけであると。──こうわれわれは聞いておるが」
「松君。それは君の認識がちがう。蜀の辺隅にいるため、如何せん、君の社会観も人物観も、ちと狭い。丞相の大才は、とうていおわかりになるまい」
「いやいや、僕の偏見よりは、かえって、中央の都府文化に心酔し、それを万能として、天下を見ている人の主観には、往々、病的な独善がある。曹操の大才とは、一体どれ程なものか、何か端的にお示しあるなら、伺いたいものだが」
「よろしい、たとえば、これをご覧なさい」
楊修は起って、書庫の棚から、一巻の書を取出し張松の手に渡した。
題簽には、孟徳新書とある。
張松は、ざっと内容へ目を通した。全巻十三篇、すべて兵法の要諦を説いたものらしい。
「これは、誰の著ですか」
「曹丞相がご自身、軍務の余暇に筆をとられて、後世兵家のために著された書物です」
「ははあ、器用なものだな」
「古学を酌んで、近代の戦術を説き、孫子十三篇に擬えて、孟徳新書と題せらる。この一書を見ても丞相の蘊蓄のほどがうかがえましょう」
張松はわらって、楊修の手へ、書物を返しながら、
「わが蜀の国では、これくらいな内容は、三尺の童子も知り、寺小屋でも読んでおる。それを孟徳新書などとは……あははは、新書とは、人をばかにしたものだ」
「聞き捨てにならぬおことば、然らばこの書の前に類書があるといわるるか」
「戦国春秋の頃、すでにこれとそっくりな著書が出ておる。著者が誰とも知れぬものゆえ、丞相はそのまま、書き写して、自分の頭から出たもののように、無学の子弟に自慢しているものでござろう。いやはや、とんだ新書もあるものだ」
哄笑また哄笑して、張松はわらいを止めなかった。
多少、張松に好意をもっていたらしい楊修も、彼の無遠慮なわらい方と、その大言に、反感をおぼえたらしく、眼に蔑みをあらわして云った。
「いくら何でも、まさか三尺の童子が、このような難解な書を、暗誦じているなどということはありますまい。法螺もおよそにおふきにならんと、ただ人に片腹痛い気持を起させるだけですよ」
「嘘だとお思いなさるのか」
「たれも真にうける者はないでしょう。試みに、御身がまず自分で暗誦してごらんなさい。できますか」
「三尺の童子でもなすことを、なんでそれがしにお試しあるか」
「まあまあ、事実を示してから、お説は聞くとしようではありませんか」
「よろしい。お聞きなさい」
張松は、胸を正し、膝へ手をおくと、童子が書物を声読するように、孟徳新書の初めから終りまで、一行一字もまちがいなく誦んだ。
楊修はびっくりした。
急に、席を下って、うやうやしく、張松を拝し、
「まったく、お見それ申しました。私もずいぶん著名な学者や賢者にも会いましたが、あなたのような人物に会ったのは初めてです、……しばらくこれにお待ちください。曹丞相に申しあげて、もう一度、改めて、ご辺と対面なさるように、お勧め申して来ますから」
楊修は青年らしい興奮を面にもって、すぐ曹操のところへ行った。そして、なぜ蜀の使いにあんな冷淡な態度をお示しになったのか、とその理由をなじった。
曹操がいうには、
「一見して分るではないか。あの矯短長臂な体つきは、まるで手長猿だ。予は歓ばん」
「容や貌をもって、人物を選りわけていたら、偽者ばかりつかんで、真人を逸しましょう。そうそう、むかし禰衡という畸人がいましたが、丞相は、あの人間さえ用いたではありませんか」
「それは、禰衡には、一代の文才と、その文の力を以て、民心をつかんでいた能があったからだ。いったい張松などになんの能があるか」
「どうして、どうして、決して端倪するわけにゆきません。海を倒にし、江を翻す弁才があります。丞相の著されたかの孟徳新書をたった一度見ただけで、経をよむごとく、暗誦じてしまいました。のみならず、博覧強記、底が知れません。あの書は、戦国時代の無名の著書で、おそらく丞相の新著ではない。蜀の国では、三尺の童子も知っているなどともいっていました」
楊修はやや賞めすぎた。青年だから是非もないが、曹操がどんな顔して最後のほうのことばを聞いていたか、気もつかずに、賞めちぎってしまった。
「中国の文化にうとい遠国の使者だ。わが大国の気象も真の武威も知らんのでそんな囈言を申すとみえる。──楊修」
「はい」
「明日、衛府の西教場で、大兵調練の閲兵をなすことになっておるから、汝は、張松を連れて、見物に来い。あれに、魏の軍隊のどんなものかを見せてやれ」
畏まって、楊修は次の日、張松をつれて、練兵場に赴いた。
この日、曹操は、五万の軍隊を、衛府の練兵場に統率し、甲鎧燦爛、龍爪の名馬にまたがって、閲兵していた。
虎衛軍五万、槍騎隊三千、儀仗一千、戦車、石砲、弩弓手、鼓手、螺手、干戈隊、鉄弓隊など四団八列から鶴翼にひらき、五行に列し、また分散して鳥雲の陣にあらたまるなど、雄大壮絶な調練があった後、曹操は、桟敷の下へ馬を返してきた。
そして、少し汗ばんだ面には紅を呈し、さも得意そうに、張松を見つけて呼びかけた。
「どうだな、蜀客。蜀にはこういう軍隊があるか」
張松はさっきから眼を斜めにして見物していたが、にこと笑って、
「ありません。──が蜀はよく文治と道義によって治まり、今日までのところ、兵革の必要はなかったのです。貴国の如くには」
と、答えた。
またしても、曹操の心を損じはしないかと、楊修はそばで気をもんでいた。
覇者は己れを凌ぐ者を忌む。
張松の眼つきも態度も、曹操は初めから虫が好かない。
しかも、彼の誇る、虎衛軍五万の教練を陪観するに、いかにも冷笑している風がある。曹操たる者、怒気を発せずにはいられなかった。
「張松とやら。いま汝は、蜀は仁政を以て治めるゆえ、兵馬の強大は要らんとか申したが、もし曹操が西蜀を望み、この士馬精鋭をもって押しよせたときは如何。蜀人みな鼠の如く、逃げ潜む術でも自慢するか」
「はははは。何を仰せられる」
張松は口を曲げて答えた。
「聞説。魏の丞相曹操は、むかし濮陽に呂布を攻めて呂布にもてあそばれ、宛城に張繍と戦うて敗走し、また赤壁に周瑜を恐れ、華容に関羽に遭って泣訴して命を助かり、なおなお、近くは渭水潼関の合戦に、髯を切り、戦袍を捨てて辛くも逃げのがれ給いしとか。さるご名誉を持つ幕下の将士とあれば、たとい百万、二百万、挙げて西蜀に攻め来ろうとも、蜀の天嶮、蜀兵の勇、これをことごとく屠るに、なんの手間暇が要りましょうや。丞相もし蜀の山川風光の美もまだ見給わずば、いつでもお遊びにおいでください。おそらくふたたび銅雀台にお還りの日はないでしょう」
どっちが威圧されているのか分らない。ずいぶん他国の使臣には会ったが、曹操のまえでこれほど思いきったことをいった男はかつて一人もない。
当然、曹操は赫怒した。楊修に向って、
「言語道断な曲者。その首を、塩桶に詰めて、蜀へ送り返せ」と、身をふるわせて罵った。
楊修は極力弁護した。不遜な言は吐くが、張松の奇才は実に測り知れない。どうか寛大なご処置を垂れてください。私の身に代えてもと嘆願した。
「いかん。断じてならん」
曹操はきかない。しかし、荀彧まで出て、かかる奇能の才を殺すことは、やがて天下に聞えると、必ず丞相の不徳を鳴らす素因の一つに数えられましょう。殺すことだけはお止めになったほうがよろしい。そういってともども諫めた。
「しからば、百棒を加えて、場外へ叩き出せ」
こんどは、兵に命じた。
張松はたちまち大勢の兵に囲まれて遮二無二、練兵場の外に引きずり出された。そして鉄拳を浴び、足蹴をうけ、半死半生にされて突き出された。
「無念」
張松はすぐに本国へ帰ろうと思った。しかし、つらつら思うに、自分が魏に来た心の底には、蜀はとうてい、いまの暗愚な劉璋では治まらない。いずれ漢中に侵略される運命にある。で、こんどの使命を幸いに、もし曹操の人物さえよかったら、魏の国に蜀を合併させるか、属国となすか、いずれにせよ、蜀は曹操に取らしてもよい考えでいたのである。
「よしっ。この報復には、きっと彼に後悔をさせてみせるぞ。自分も、国を出るとき、諸人の前で大言を放って来たてまえ、空しくこんな辱を土産にしては帰れない」
彼は、腫れあがった顔に、療治を加えると、すぐ翌る日、相府にも断わらず、従者を連れて許都を去ってしまった。
「蜀の小男が、よけい小さくなって、蜀へ帰って行った」
都の者は、笑っていたが、なんぞ知らん、彼は途中から道をかえて、荊州のほうへ急いでいたのだった。そして、郢州の近くまで来ると、彼方から一隊の軍馬が、整然と来て、
「そこへ参られたは、蜀の別駕張松どのではなきや」
と、先なるひとりの大将がいう。張松が、然り、と答えると、その武将はひらりと馬を降りて、礼をほどこし、
「それがしは、荊州の臣、趙雲子龍。主人玄徳の命をうけ、これまでお出迎えに参りました。遠路、難所を越えられ、さだめしお疲れでしょう。いざあれにてご休息を」
導いた一亭には、酒を整え、茶を煮、洗浴の設けまでしてあった。
魏に使いして、使いを果たさず、失意と辱を抱いて落ちてきた客が、かくばかり鄭重な出迎えをうけようとは、張松も、意外であったらしい。
「どうして、劉皇叔には、このように張松を篤くお迎え下さるのか」
訊くと、趙雲は、
「いや、ご辺のみに、こうなされるのではありません。総じて、わが主君は客を愛すお方ですから」と、答えた。
そこからは趙雲の案内で、途中の不自由も不安もなく進んだ。
日をかさねて、荊州の境に入る。そして黄昏れごろ、駅館へ着いた。
すると、門外に、百余人の兵が、二行にわかれて整列していた。
張松のすがたを見ると、一斉に鼓を打ち鉦を鳴らして歓迎したので、張松が、びっくりして立ち止まると、たちまち、長髯長躯の大将が、彼の馬前に来て、
「賓客、ようこそご無事で」
と、にこやかに、出迎えの礼をなし、自身、馬の口輪をとって導いた。
張松はあわてて馬を降り、
「あなたは、関羽将軍ではありませんか」と、たずねた。
「さよう。此方は羽です。どうぞお見知りおきを」
「恐縮恐縮。知らぬこととは申せ、つい馬上にて受礼。おゆるし下さい」
「なんの、此方はあなたの出迎えを命ぜられた皇叔の一臣に過ぎません。国賓たるご辺に、さようなご遠慮を抱かせては此方の役目不つつかに相成る。どうか、何なりと御用あれば仰せ下さるように」
館中に入ると、関羽は、客のために、夜もすがらもてなし、その接待は懇切を極めた。
次の日はいよいよ荊州城市へ入った。見ると、城市の門まで、道は塵もとめず掃き清められ、たちまち、彼方から錦幡五色旗をひるがえして、一簇の人馬がすすんで来る。
嚠喨として喇笛が吹奏され、まっ先にくる鞍上の人を見れば、これなん劉玄徳。左右なるは、伏龍孔明、鳳雛龐統の二重臣と思われた。
張松は驚いて、馬を降り、あわてて路上に拝跪の礼をとろうとすると、すでに玄徳も馬を降りて、その手を取り、
「かねて、大夫のご高名は、雷のごとく承っていましたが、雲山はるかに隔てて、教えを仰ぐこともできなかった。しかるに今日、お国へ還りたもうと聞き、慈母を待つごとく、お待ちしていました。しばしなと、渇仰の情をのべさせて下さい。私の城へ来て」
「垢じみたこの貧客に、ご家中まで遣わされ、かつ今日は、過分なお出迎え。張松ただただ恐縮のほかございません」
曹操のまえでは、あのように不遜を極めた張松も、玄徳のまえには、実に、謙虚な人だった。
人と人との応接は、要するに鏡のようなものである。驕慢は驕慢を映し、謙遜は謙遜を映す。人の無礼に怒るのは、自分の反映へ怒っているようなものといえよう。
城中の歓迎は、豪奢ではないが、雲山万里の旅客にとっては、温か味を抱かせた。
その際玄徳は、世上一般の四方山ばなしに興じているだけで、蜀の事情などは少しも訊ねなかった。
かえって、張松のほうから、話題に飽いて、こんな質問をし出した。
「いま、皇叔の領せられる土地は、荊州を中心に、何十州ありますか」
孔明がそばから答えた。
「州都もすべて借り物です。われわれはご主君に、これを奪って領有することが、何の不義でもないことを力説していますが、わがご主君は物堅く、呉の孫権の妹君を夫人にしておられる関係に義を立てて、いまなお真にご自身の国というものをお持ちになっておりません」
龐統も、口をそろえて、
「わが主玄徳は、人みな知るとおり、漢朝の宗親でありながら、少しも自分というものを強く主張しようとなさらんのです。……今、その漢朝にあって、位人臣を極め、専政をほしいままにしている者のごときは、もともと、匹夫下郎にもひとしいのですが」
と、いかにも歯がゆそうに云って、張松へ杯をさした。
「そうです。そうです」と何度もうなずいて、張松は杯を受けながら、共鳴を誇張した。
「ただ徳ある人に依ってのみ、天下はよく保たれる。すなわちまた、諸民の安心楽土もそこにしかない。不肖思うに劉皇叔は、漢室の宗親。仁徳すでに備わり、おのずから四民もその高風を知っていますから、一荊州を領し給うにとどまらず、正統を受け継いで、帝位につかれたところで、誰も非難することはできないでしょう」
玄徳は、耳なきごとく、あるごとく、ただ、手を交叉したまま、穏やかに顔を横に振っていた。そして、
「先生のご過賞は、ちと当りません。なんで玄徳にそのような天資と徳望がありましょう」
とのみいって笑った。
逗留三日、張松はこの城中にもてなされて、しかも一日でも一刻でも、不愉快なことは覚えなかった。
四日目、張松は別れを告げて、蜀へ立った。玄徳は名残りを惜しみ、十里亭まで、自身送ってきた。
ここに少憩してささやかな別宴をひらき、共に杯を挙げて、前途の無事を祈りながら、玄徳は眼に涙をふくんで、
「先生と交わりをむすぶこと、わずか三日、またいつの日か、お教えを仰ぐことができましょう。人生多事、蜀へ帰られてはお忙しいでしょうが、折にふれ、荊州に玄徳ありと思い出して下さい。鴻雁西へ行くときには、仰いで玄徳も、西蜀に先生あることを胸に呼びかえしているでしょう」
と、いった。
張松はこのとき胸に誓った。蜀に迎えて、蜀の新天地を創造する人は、正にこの人以外にはないと。
「いや、この度は、三日の間、朝暮ご恩に甘え、何らのお報いもなさず、今お別れに際して慚愧にたえません。ただ、皇叔のために、ここで一言申しのこすならば、荊州の地は決してあなたの永住に適する領土でありますまい。南に孫権があって、常に鯨呑の気を示し、北に曹操があって、虎踞の象を現しています」
「先生。玄徳もそれを知らぬのではありませんが、如何にせん、他に身を安んずる所がないのです」
「乞う。眼を転じて、西蜀の地を望み給え。そこは、四方みな嶮岨といえ、ひとたび峡水をこゆれば、沃野千里、民は辛抱づよく国は富む。いまもし荊州の兵をひきい、ここを占むれば、大事を興さんこと目前にありといえましょう」
「いうをやめよ先生。それも知らないではないが、蜀の劉璋は、これもまた、漢室のながれを汲む家。血すじにおいて、わが同族。なんでその国家を犯してよいものぞ」
「いやいや。そのお考えは、小義を知って大義に晦いものと申さねばならん。元来、劉璋は暗弱の太守、無能の善人、いかにこの時代の大きな変革期を乗りきれましょうや。現状のままでは、明日にも漢中の張魯に侵されて五斗米の邪教軍に蹂躙されてしまうしかありません。──如かず、魏の曹操に蜀を取らせ、張魯の侵略を防いで、蜀の民を守らんにはと──このたび張松が上洛の心中には、そうした決意があったのです。いわば蜀の国をわざわざ彼に献じに出向いたものなのでした」
「…………」
「しかるにです。ひとたび、許都の府に足を入れるや、私は眉をひそめました。そこの都市文化はあまりに早、爛熟を呈し、人は驕り、役人は賄賂を好み、総じて唯物的風潮がみなぎっている。果たせる哉。曹操の人物を見るに及んでも、その軍隊の教練を見ても、事大主義で恫喝的で、私はいたずらに、反感をそそられるばかりでした。──思うに、将来久しからずして、彼曹操かならず漢朝に大きな禍いをするでしょう。……皇叔、決して、おだてるのではありません。媚るのでもありません。どうかご自重、また大志を抱き、かつ天下万民のため、小義にとらわれないで下さい」
張松は従者を呼んだ。
そして馬の背の荷物のうちから一箇の筥を取寄せた。
蓋を開いて、これを展じれば、千山万水、峨々たる山道、沃野都市部落、一望のうちに観ることができる。すなわち、彼が蜀を立つときから携え歩いていた「西蜀四十一州図」の一巻だった。
「ごらんなさい。蜀の図です」
「ああ。これは精密なもの。行程の遠近、地形の高低、山川の険要、府庫、銭粮、戸数にいたるまで……まるでいながら観るようである」
玄徳は眸を離さなかった。
「皇叔。速やかに思し召をここに立て給え」と張松はそばから熱心に彼の意をふるい促した。
「──私に深く交わる心友がふたりいます。法正、字は孝直。もう一名は孟達、字を子慶といいます。他日、そのふたりが訪ねて参ったときは、諸事わたくし同様に、ご相談あっても、たしかな人物ですから、どうかご記憶にとめておいて下さい」
「青山老イズ緑水長ク存ス。いつか先生の芳志に報うことができるかも知れない」
「この西蜀四十一州図の一巻は、他日、入蜀の道しるべ。また、今日のお礼として、お手許に献上します。どうかお納めおき下さるように──」
かくて、彼は、先へ立った。
玄徳は十里亭から戻ったが、関羽、趙雲などは、なお数十里先まで張松を送って行った。
× × ×
益州。それは巴蜀地方の総称である。漢代から蜀は益州、或いは巴蜀とひろく呼ばれていた。
実に遠い旅行だった。張松は日を経て、ようやく故国益州へ帰ってきた。
すでに首都の成都(四川省・成都)へ近づいてきた頃、道のかたわらから、
「やあ、ようこそ」
「ご無事で何よりだった」
と、二人の友が早くも迎えに出ていて、その姿を見るなり近づいてきた。
「おお、孟達か。法正も来てくれたのか」
張松は馬を降りて、こもごも、手を握り合った。
「久しく、蜀の茶の味に渇いていたろう。そう思って、彼方の松下に、小さい炉をおいて、二人で茶を煮て待っていた。すこし休息して行き給え」
友は彼をさそって、松の下へ来た。茶を喫し、道中の話などにふけったが、そのうちに、張松は、
「君たちも、現状のままでは、必然、蜀が亡ぶしかないことは知っているだろうが、もしそうとしたら、この蜀に、たれを起死回生の主君と仰ぎたいかね」と、ふたりに訊ねた。
法正は、怪訝な顔して、
「そのために君は、遠く使いして、魏の曹操に会ってきたのじゃないか。曹操との交渉に、何かまずいことでもあったのかね」
「まずい。甚だまずい結果になった。で、実は、君達だけに打明けるが、おれは途中から気持が変った。蜀へ曹操などを入れたら、蜀の破滅を意味するだけで、蜀の民の幸福にはならん」
「では、誰を迎えるのか」
「だから今、君たちに、そっと意中を訊いてみたわけさ。忌憚ないところをいってくれ給え」
「それはほんとか」
「たれが君らを欺こう」
「ふーむ……」と、法正はうめいて、「わしならば、荊州の劉玄徳とむすびたいと思うが」
孟達の顔を見ると、孟達も、ひとみをかがやかして、
「そうだ、曹操へ蜀を献じるくらいなら、玄徳を主と仰いだほうがはるかにいい。本来、初めから玄徳へ使いすべきであったよ」
聞くと、張松は、莞爾として「実は……」と、あたりを見まわした。そして二人の顔へ、顔を寄せて、許都を去ってから荊州へ立ち寄った事情やら、玄徳とある黙契をむすんで来た事実を打明けた。
「そうか。では偶然、三人の考えが、一致したわけだ。よし、そうなれば大いに張合いもある。張兄、抜かるな」
「万事は胸にある。もし、この儀について、劉璋から君たちに召出しがあったら、君らこそ抜からずに頼むぞ」
「よいとも」
三人は、血盟して別れた。
次の日張松は、成都に入り、劉璋に謁して、使いの結果をつぶさに復命した。
もちろん、曹操のことは、極力悪ざまにいった。彼には早くから蜀を奪う下心があったので、こちらの交渉など耳にもかけないばかりか、かえって張魯の先を越して、蜀へ攻め入ってくるような気配すら見えたと告げた。
劉璋は面に狼狽のいろを隠せなかった。
「曹操にそんな野心があってはどうもならん。張魯も蜀を狙う狼。曹操も蜀をうかがう虎。いったいどうしたらいいのじゃ」
気が弱い、策がない。劉璋はただ不安に駆られるばかりな眼をして云った。
「お案じには及びませぬ」
張松は語を強めた。そしていうには、
「この上は、荊州の玄徳をおたのみなさい。ご当家とは漢朝の同流同族。のみならず、こんどの旅行中、諸州のうわさを聞いても、彼は仁慈、寛厚、まれに見る長者であると、一世の人望を得ています」
「だが、その劉玄徳とは、今日までなんの交渉も持っていない。彼も漢の景帝の流れを汲む同族とはかねて聞いていたが」
「ですから、この際、鄭重なる書簡をいたせば、玄徳としても、欣然友交国の誼みを結ぶにちがいありません」
「では、その使いには、誰をつかわしたらよいと思う」
「孟達、法正。この二人に超えるものはないでしょう」
するとこの時、帳の外から大声して呼ばわった者がある。
「ご主君っ、耳に蓋し給え。張松の申すことなどに引かされたら、この国四十一州は他人の物になりますぞ」
驚いて振り向くと黄権、字は公衡という者、額に汗しながら入ってきた。
劉璋は眉をしかめて、
「なぜ、そんなことを云う。たしなめ」
と、一喝した。
黄権は屈せず、面を冒してなお云った。
「君、知り給わずや。当時玄徳といえば、曹操だも恐るる人物。寛仁よく人を馴ずけ、左右に鳳龍二軍師あり、幕下に関羽、張飛、趙雲の輩あり、もしこれを蜀に迎え入れたら、人心たちまち彼にあらんも知らず。国に二人の主なし。累卵の危機を招くは必然でしょう。──それに張松は魏に使いしながら、帰途は荊州をまわって来たという取沙汰もある。旁〻、ご賢慮をめぐらし給え」
こうなると、張松も黙っていられない。国家の危機とは、これからのことではない、今やすでにその危機にある蜀である。もし漢中の張魯と魏の曹操が結んで今にも国内へ進撃してきたらどうするか。ただ強がるばかりが愛国ではないぞ、ほかに良策があるならここで聞かせよ、と詰問り寄った。
と、ふたたび帳外から、
「無用無用。わが君。張松の弁舌にうごかされ給うな」
云いつつ大歩して君前にまかり出てきた人物がある。従事官王累であった。
王累は、頓首して、
「たとえ漢中の張魯が、わが国に仇をなすとも、それは疥癬(皮膚病)の疾にすぎぬ。けれど玄徳を引き入れるのは、これ心腹の大患です。不治の病を求めるも同じことです。断じて、その儀は、お見合わせあるように」
──だが、劉璋の頭には、もう先に聞いた張松のことばが、頑として、先入主になっている。張松は実地に諸州の情勢を見てきた者だし、王累や黄権は、国外の実情にうとい。そう単純に区別してでもいるのか、おそろしく感情を損ねて叱りだした。
「うるさくいうな。人望もなく実力もないような玄徳なら、なにも求めて提携する必要もないではないか。わが家とは血縁もあり、旁〻曹操すら一目も二目もおく者と聞けばこそ、予も頼もしく思うて彼の力を借るのじゃ。汝らこそ二度と要らざる舌をうごかすまい」
かくて遂に、張松のすすめは劉璋の容れるところとなってしまった。使いを命じられた法正は、前日の諜し合わせもあり、張松とはどこまでも主義を同じくしているので、劉璋の書簡を持つと、道を早めて荊州へ赴いた。
「なに、蜀の法正とな?」
玄徳は、使者の名を聞いて、すぐ張松と別れた日のことばを胸に想いうかべた。
直ちに、法正を見、かつ書簡をうけて、その場でひらいた。
族弟劉璋、再拝。一書ヲ
宗兄タル将軍ノ麾下ニ致ス
書面の冒頭にはこう書き出してあった。
その夜、玄徳は独りで、一室に考えこんでいた。
龐統が来ていった。
「孔明はどうしましたか」
「蜀の使者法正を、客館まで送って行ってまだ戻らぬ」
「そうですか。して、君より法正へは、すでにご返辞をお与えになりましたか」
「なお考え中である」
「張松が去るとき、あれほど申しのこして行ったのに、まだお疑いとは」
「疑いはせぬが」
「では、なにをそのように、無用にお心を煩うておられるのですか」
「思うてもみい。いま予と水火の争いをなす者は誰か」
「曹操こそ最大の敵です」
「その曹操を敵として戦うに、これまではすべて彼の反対をとって我が方略としていた。彼が急を以てすれば、われは緩を以てし、彼が暴を行えば、我は仁を行い、彼が詐りをなせば、我は誠を以てして来た。それを自ら破るのがつらい」
「はて。意を得ませぬが」
「張松、法正、孟達たちのすすめにまかせて、蜀に伐り入らんか、当然、劉璋は亡び去ろう。彼は、いつもいうように、わが族弟。玄徳、同族の者をあざむいて蜀を取れりといわれては、予が今日まで守ってきた仁義はなくなる。小利のため、大義を天下に失うはつらいというのだ」
龐統は一笑に附していう。
「火事場の中で、日頃の礼法をしていたら、寸歩もあるけますまい。あなたのおことばは天理人倫にかなっていますが、世はいま乱国、いわば火事場です。晦きを攻め、弱きを併せ、乱るるは鎮め、逆は取って順に従わす、これ兵家の任です。また民の安息を守るものです。蜀の状態はいまやそれに当っている。天に代って事を定め、事定まった上、報ゆるに義を以てしてもよいでしょう。今日もしわが君が蜀に入るを避けても、明日は他人が奪っているかも知れません──。族弟の縁をたいへん気にかけておられるようですが、劉璋には今申したとおり、ほかに方法を以て、仁愛を示されれば、あえて信義に背くことにはなりますまい。むしろそうした小義にとらわれておらるるこそ、兵家の卑屈と申さねばなりません」
諄々として、彼は説いた。道をあきらかにする、これは大きな行動のまえに大切なことにはちがいない。
玄徳もようやくうなずいた。蜀へ入りたいのは彼とて山々のところである。何せい荊州は戦禍に疲弊している。地理的には東南に孫権、北方に曹操があって、たえず恟々と守備にばかり気をつかわなければならない。ただ一方、門戸のあるのが西蜀であった。しかも張松が置き残して行った図巻を見れば、その国の富強、地理の要害、とうていこの荊州の比ではない。
「よう分った。先生の啓示は、まさに金玉の教えと思う。それに張松たちが、かくまで手を尽して、予を迎えようとするのも、いわゆる天意というものであろう」
「では、ご決心なさいますか」
「孔明が帰って見えたら、早速それについて評議いたそう」
程なくその孔明も姿をあらわした。三名は鳩首して、軍議にふけった。
翌日、法正にも、この旨をつたえ、同時に陣触れを発して、いよいよ入蜀軍の勢揃いをした。
玄徳はもちろんその中軍にある。
龐統を軍中の相談役とし、関平劉封も中軍にとどめ、黄忠と魏延とは、一を先鋒に、一を後備に分け、遠征軍の総数は精鋭五万とかぞえられた。
しかし、何より大事なのは、荊州の守りである。万一にも、この遠征軍がやぶれた時、あるいは、南に孫権がうごくか、北の曹操が留守の間隙をうかがうなど不測な事態が生じたとき、万全な備えがなくてはならない。──また征旅に上る玄徳にしても、その安心がなくては、腰をすえて蜀へ入れない。
で、荊州には、孔明が残ることになった。
その配備は。
襄陽の堺に関羽。
江陵城に趙雲子龍。
江辺四郡には張飛。
といったように、名だたる者を要所要所にすえ、孔明がその中央荊州に留守し、四境鉄壁の固めかたであった。
建安十六年冬十二月。ようやくにして玄徳は蜀へ入った。国境にかかると、
「主人の命によって、これまでお迎えに出た者です」
と、道のかたわらに四千余騎が出迎えていた。将の名を問えば、
「孟達です」
と、ことば短かにいう。
玄徳はにことして孟達の眼を見た。孟達も、眼をもって意中の会釈をした。
さきに法正がもたらした返辞によって、玄徳が来援を承諾したと聞き、大守劉璋は無性に歓んでいたらしく、道々の地頭や守護人に布令て、あらゆる歓待をさせた。
そのうえ彼自身、成都を出て、涪城(四川省・重慶の東方)まで出迎えると、車馬、武具、幔幕など、ここを晴と準備していた。
「危険です。見ず知らずな国から来た五万の軍中へ、自らお出であるなどとは」
黄権がまた諫めた。
侍側にいた張松は、劉璋が口をあかないうちに、
「黄権。足下は何をもって、みだりに盟国の兵を疑い、主君の宗族を離間しようとするのか」
と、詰問った。
劉璋もともに、
「そうだとも。玄徳はわが宗族だ。故にはるばる、蜀の国難を扶けんと来てくれたのだ。ばか、ばかを申せっ」
黄権はかなしんで、
「平常、恩禄を喰みながら、今日君のご恩に報いることができないとは何事か」
と、頭を地にぶつけ、面に血をながして、なお諫言した。
「うるさいっ」
劉璋は、袂を振り払った。黄権は離さじと、主人の袂を噛んでいたので、前歯が二本へし折れた。
城門から出ようとすると、また声をあげて、彼の車にとりすがった家臣がある。李恢という者で、泣かんばかり訴えた。
「むかしから、天子を諫める良臣七人あれば、天下失われず、諸侯に諫める善臣五人あれば、国みだるるも国失われず、大夫に諫める忠僕三人あれば、その主無道なりとも家失われずとか聞き及びます。いま黄権の諫めをお用いなく、玄徳を国にお入れあるは、求めて御身を滅ぼすようなものですっ」
劉璋は耳をふさいだ。
「車を進めい。車の輪を離さぬならば、轢き殺してゆけ」
そこへまた、一人の下僕が、狂わしげに訴えてきた。泣き喚いていうのを聞けば、
「わたくの主人王累が、どうかしてわが君のお心をひるがえそうと、自分の身を縄でくくり、楡橋門の上から身をさかさまにして吊り下がりました。お願いです。どうか助けて下さいっ」
張松は、車を護る前後の人々にむかい、
「なにを猶予あるか、はやはや進まれよ」
と叱咤し、また車の側へ行って、劉璋にささやいた。
「彼らはみな、忠義ぶったり、狂態を見せて、君を脅かさんなど企らんでいますが、要するに本心は、漢中との戦端を避けて、一日でも安逸を偸んでいたい輩なんです。妻子愛妾の私情にもひかれているに違いありません」
そのうち楡橋門へかかった。仰ぐと、驚くべき決意を示した人間がひとり宙にぶら下がっている。さきに下僕が泣き狂って訴えていた王累だ。その王累にちがいない。
右手に剣を持ち左の手には諫めの文をつかんでいる。縄に吊られて、両足を天にし、首を地に垂れて、睨んでいた。
驚いて、車が停まると、王累はくわっと口を開いていった。
「わが君、お待ち下さい」
そして、諫言の文を、哭くが如く、訴うるが如く、また怒るが如く読みだした。もしお聞き入れなければ、この剣を以て、自らこの縄を切り、地に頭を砕いて死なんと怒鳴った。
劉璋は、さっき張松から、卑怯な家臣がみな自分を脅迫するのだと聞いていたので、
「だまれっ。汝らのさしずはうけん」
と、一喝すると、王累は、
「惜しい哉、蜀や!」
と一声叫んで、右手の剣を宙に振り、自ら縄を切って、地上の車の前に脳骨を打砕いてしまった。
扈従の人数三万、金銀兵糧を積んだ車千余輛、ついに成都を距ること三百六十里、涪城まで迎えに出た。
一方の玄徳は、みちみち沿道の官民のさかんな歓迎をうけながら、すでに百里の近くまで来ていた。
と。その案内に立っている法正のところへ、張松から早馬で密書が来た。法正はそれをそっと龐統に見せて、
「この時をはずすなと、張松のほうから云ってよこしました。お抜かりないように」
と、諜しあわせた。
龐統も、大事を成すは、今にありと云って、
「その機に臨むまで、足下も部下のものに気取られるな」と注意した。
かくて、涪城城内、劉璋と玄徳との対面の日は来た。
両者の会見は、和気藹々たるものであった。
「世は遷り変るとも、おたがい宗族の血はこうして世に存し、また巡り会って、今日をよろこぶことができる。力を協せて、ふたたび漢朝の栄えを見ることに兄弟ひとつになろうではありませんか」
情を叙べるに玄徳は涙し、劉璋も力を得て、彼の手を押し戴き、
「これで蜀も外から侵される心配はない」と、かぎりなく歓んだ。
歓宴歓語、数刻に移って、玄徳はあっさり帰った。彼のつれて来た五万の軍勢は、城外の涪江江畔においてあるからである。
玄徳が帰ると、劉璋は左右のものへすぐ云った。
「どうだ。聞きしにも優る立派な人物ではないか。王累、黄権などは、人を見る明がなく、世の毀誉褒貶を信じて予を諫め、自ら死んだからいいようなものの、生きていたら予にあわせる顔もあるまい」
蜀中の文武の大将は、これを聞いて、なおさら案じた。鄧賢、張任、冷苞などこもごもに出てはそれとなく、
「人は見かけに依らぬというたとえもあること。まして外柔なのは内剛なり。万一の変あるときは取返しがつきません」と、用心を促したが、劉璋は笑って、
「そういちいち人を疑っていたら、人の中には住めまいが」
彼は自身いうが如き好人物であった。もし庶民のあいだに生れていたら、少くも家産はつぶし、人にものべつ欺されていたろうが、その代りに、
(彼はよい男だよ)と、愛されもしたろう。
けれど、蜀の主権者であり万民に臨む太守としては、ほとんど、その資格なきものといっていい。
「どうでした。劉璋とお会いになってみた感じは」
玄徳が帰るとすぐ龐統がたずねた。玄徳は一言、
「真実のある人だ」
といった。しかし、龐統はそのことばの裏を読んで、
「愚誠の人物ともいえましょう」と、答えた。
玄徳はだまって眼をしばたたいた。劉璋に対して愍然たるものを抱いているような眸である。
「ああ。お気の弱い」──龐統は彼の胸をすぐ看破した。そして、
「君。何のために、この山川の嶮しきをこえ、万里の遠くへ、将士をつれて来ました」
と、直言し、さらに、
「明日、答礼の酒宴にことよせて劉璋をお招きなさい。決断が大事です。小さい情にとらわれているときではありません」と、切々説いた。
そこへ法正も来て、
「成都に留守している張松も、疾く書簡をよこして、この期を失わず、事を計れと、内応の諜しあわせを云いよこしています。……あなたが蜀をお取りにならなければ、結局、この蜀は、漢中の張魯か、魏の曹操に奪られるものです。なにを今さら、お迷いになることがありましょうぞ」
と、口を極めて励ました。
もとより入蜀の目的はそれにある。玄徳とてここに来て思い止ったわけではない。彼はただ自己の心の中の情念と闘っているだけだ。すなわち建安十七年の春正月、こんどは彼が主人になって、劉璋を招待することにきめた。
「長夜の宴」とか「酒国長春」とかいうことばは、みな支那のものである。この民族の歴史ほど宴楽に始まって宴楽に終る歴史を編んできた民族は少ない。平時はもちろん戦争の中でも実に宴会する。別離歓迎、式典葬祭、権謀術策、生活兵法、ことごとく宴会の間と卓とによって行われる。
ことし壬辰の初春、さきに招かれた答礼として、こんどは玄徳が席をもうけて太守劉璋を招待した宴会は、けだし西蜀開闢以来といってもよい盛大なものだった。
はるばる、荊州から携えてきた南壺の酒、襄陽の美肴に、蜀中の珍膳をととのえ、旗幡林立の中に、会場をいろどって、やがて臨席した劉璋以下、蜀の将軍文官たちに、心からなるもてなしを尽した。
やがて宴もたけなわに入った頃、龐統はちらと法正に眼くばせして外へ出た。
人なきところへ行って、ふたりは声をひそめ合っていた。
「うまく運んだ。大事はすでに掌にありだ。面倒な手段はいらん。ただ席上に於て一気に斬殺せばいい」
「かねてのおさしずは、魏延どのにとくと申し含めてあります。きっとうまくやるでしょう」
「場内に血を見ると同時に、劉璋の兵が、外で騒ぎだすにちがいない。その方も手抜かりないようにたのむ」
「心得ております」
ふたりはさり気ない顔して、元の席へ返っていた。
宴席は歓語笑声にみち、主賓劉璋の面にも満足そうな酔が赤くのぼっていた。
ときに、荊州の大将たちの席から、突如、魏延が立ち上がって、酔歩蹌踉と、宴の中ほどへ進み出で、
「せっかくの台臨を仰ぎながら、われわれ長途の軍旅にて、今日のもてなしに、恨むらくは音楽の饗応を欠いておる。依ってそれがし、剣の舞をなして、太守の一笑に供え奉る。──」
いうかと思えば、はや腰なる長剣を抜いて、舞いだしていた。
「あ、あぶない」
こはただ事の馳走に非ずと、劉璋の左右にあった文武の大将は、みな顔色を変えたが、咎める術もなかった。
すると、従事官張任という蜀の一将、やにわにまた、剣を抜いて、魏延のまえに躍り出で、
「古来、剣を舞わすには、かならず相手が立つと承る。武骨、不風流者ながら、君にならって、お相手をいたさん」と、魏延の舞に縺れて、共に舞い始めた。
閃々、たがいに白虹を描き、鏘々、共に鍔を震き鳴らす。──そして魏延の足が劉璋へ近づこうとすれば張任の眼と剣は、きっと、玄徳へ向って、殺気をはしらせた。
(剣の舞の相手よ。汝がもしわが主人に危害を加えるならば、われは直ちに汝の主人玄徳を刺すぞ)
無言のうちに張任は舞いつつ魏延を牽制していた。
龐統は、それを眺めて、「ちいっ」と、この測らざる邪魔者に舌打ち鳴らしながら、かたわらにいた劉封へきっと眼くばせした。
心得たりと、劉封もすぐ身を起し、剣を抜いて、ふたりの間へ。
「あら、おもしろや」と、舞うて入る。
とたんに、ざわざわと、劉璋の周囲が一斉に立った。冷苞、劉璝、鄧賢などという幕将たち、手に手に剣を抜きつれて、
「いざ、舞わんか」
「それ舞わんか」
「舞わんか、舞わんか」
「いざ来れ」
と、満座ことごとく剣に満つるかと思われた。
玄徳は愕いて、自分も、剣を抜いて、高く掲げ、
「無礼なり、魏延、劉封、ここは鴻門の会ではない。われら宗親の会同に、なんたる殺伐を演ずるか。退がれっ、退がれっ」と叱った。
劉璋も、家臣の非礼を叱って、玄徳と自分とは、同宗の骨肉、無用な猜疑をなすは、汝らこそ、兄弟の仲を裂くものであると、たしなめた。
しかし、この夜の宴は、失敗に似て、かえって成功だった。劉璋はいよいよ玄徳に信頼の念を深めた。
その後も、蜀の文武官は、劉璋に諫めること度々であった。
「玄徳に二心はないかもしれません。しかし玄徳の幕下は皆、この蜀に虎視眈々です。何とか口実を設けて今のうちに荊州軍を引き揚げさせるご工夫をなされては如何ですか」
劉璋は依然、うなずかない。
「さのみ疑うことはない。強ってのことばは、宗族の間に、強いて波瀾を起こさせようとする気か」
そういわれてはもう衆臣も二の句がない。唯ひたすら家臣結束して、荊州軍のうごきに警戒の眼を払っているだけだった。
かかるうちに国境の葭萌関から飛報が来た。
「漢中の張魯が、ついに大兵をあげて攻めよせて来た!」とある。
「それみよ、禍いはそこだ」
劉璋はむしろ得意を感じたらしい。早速にこの由を玄徳へ伝え、協力を乞うと、玄徳はすこしも辞すところなく、直ちに、兵を率いて国境へ馳せ向った。
蜀の諸将はほっとした。
「いざ、この間に、蜀は自国の守りを鉄壁になし給え。内外、万全のご用意を」
と、劉璋へ再三再四、献言した。
劉璋も、あまりに諸臣が憂えるので、さらばと彼らの意にしたがい、即ち、蜀の名将白水之都督楊懐、高沛のふたりに涪水関の守備を命じて、自分は成都へ立ちかえった。
× × ×
蜀境の戦乱は、まもなく、長江千里の南、呉へ聞えてきた。
「玄徳の野心は、ついに鋒鉦をあらわした。汝ら何と思うか」
孫権は、呉の重臣を一堂に集めて、こう穏やかでない顔して云った。
顧雍が答えていう。
「彼はついに、火中の栗を拾いに出たものです。自ら手を焼くにちがいありません。情報なおつまびらかでありませんが、荊州の兵力を二分して、その一をもって蜀に入り、長途のつかれを持つ兵をして、強いて国境の嶮岨に拠らしめ、今や漢中の張魯と、血みどろの戦をなしていると聞えまする。思うに、呉の無事なる兵をもって、荊州の留守を突かば、一鼓して、彼の地盤はくつがえりましょう」
「予もそう考えていたところだ。諸卿よろしく出師の準備にかかれ」
すると、議堂の屏風の蔭から、誰かひとり進み出て、甲高い声していった。
「誰じゃ、わが女に、危害を加えようとするものは」
おどろいて、その人を見れば、これは孫権の母公、呉夫人であった。
母公は猛りたって、
「そちたちは、江東八十一州の遺領を、いながらにうけて、父祖の恩に、今日を豊かに送りながら、なお荊州を望んで、どうするというのじゃ。荊州には、可愛い娘を嫁がせてある。玄徳はこの老母が婿ではないか」
孫権は沈黙して、ただ老母のまえに、叱りをうけているだけだったために、評議は、一決せずに終ってしまった。
──今、荊州を収めなければまたいつの日機会があろうと、孫権は爪をかみながら、一室に沈吟していた。
張昭が、そっと来て彼の前にささやいた。
「べつに計をおたてになればよいでしょう。母公のお叱りは、ただただ、遠国におわすあなたの妹君をいじらしき者、可愛いものと、情にひかれておいでになるだけのことですから」
「では、どうして母をなだめるか」
「一人の大将に五百騎ほどをさずけ、急遽、荊州へさし向けられ、玄徳の御内方たる妹君へ、そっと密書を送って、母公の病篤し、命旦夕にあり、すぐかえり給えとうながすのです」
「む、む」
「その折、玄徳の一子、阿斗をも連れて、呉へ下ってこられたなら、あとはもう此方のものです。それを人質に、荊州を返せと迫れば」
「その策は実に妙計だ。して誰をやろうか」
「周善なれば、仕損じますまい。彼は、力鼎をあげ、胆斗の如き大将で、しかも忠烈ならびなき大将です」
「すぐ、ここへ呼べ」
孫権ははや、筆墨をよせて、妹に送る密書をしたため出した。
その日、孫権に召された周善は、張昭にも会って、審さに密計を授けられ、勇躍して、夜のうちに揚子江を出帆した。
五百の兵はみな商人に仕立て、上流へ交易に行く商船に偽装し、船底には武具をかくしていた。
やがて目的地の荊州に着く。
周善は伝手を求めて、首尾よく荊州城の大奥へ入りこんだ。そして多くの賄賂をつかい、ようやく玄徳の夫人に会うことができた。
夫人は、寝耳に水の愕きに打たれ、
「えっ。母公には、明日も知れぬご危篤ですって?」
兄孫権の手紙を読むうちに、もう紅涙潸々、手もわななかせ、顔も象牙彫のように血の色を失ってしまった。
「一刻もお早く、呉へお下りください。せめて息のあるうちに、ひと目なと、お姿を見たいと、御母公におかせられては、苦しき御息のひまにも、夜となく昼となく、うわ言にまで御名を呼んでおられまする」
周善のことばを聞くと、玄徳夫人は、いよいよ身をもんで、
「会いたい、行きたい、周善、どうしようぞ……」と、泣き沈んだ。
ここぞと、周善は、
「翼ある御身なれば、すぐにもご対面はかないましょうが、いかにせん長江の水速しといえども、船旅では幾日もかかります。すぐご用意あって、それへお召し遊ばさねば、ついにご臨終には間にあいますまい」
「……というて、いまは良人玄徳は蜀へ入って、この城においで遊ばさず」
「それは御兄上の孫将軍から後にお詫をして貰えばよいでしょう。親への大孝。よもお叱りはありますまい」
「でも、孔明が何というかしれない。留守の出入りは孔明がきびしく守っているのですから」
「あの人に告げたら、断じて、呉へ下ることなど、許すはずはありません。自身の責任のみ大事に思いましょうから」
「飛んでも行きたい思いがする……。周善、よい智慧をかして賜も」
「されば、いずれこのことは尋常ではかなわじと考え、張昭のさしずにより帆足速き一艘を江岸へ着けておきました。ご決意だにあらば、すぐご案内いたしましょう」
なにものも要らない気になった。ついに彼女は身支度した。周善は諸方の口を見張りながら、その間に早口に告げた。
「そうそう、和子様もお連れ遊ばせよ。御母公には、日頃から劉皇叔の家には、愛らしい一子ありとお聞きになって、一目見たいと口癖に仰っしゃっておられました。和子様は懐にでもお抱きになって──ようございますか和子様も」
彼女の心はもう呉の空へ飛んでいる。なにをいわれても唯々としていわれるままにうごいていた。嬋娟にして男まさりな呉妹君といわれ、その窈窕たる武技も有名な夫人であったが、国外遠く嫁いで、母の危篤と聞いては、やはり弱い女に過ぎなかった。
黄昏れごろ。
ことし五歳の阿斗をふところに、夫人は、車にかくれて、城中から忍び出た。
呉以来、側近くかしずいている三十余人の侍女は、みな小剣を腰に佩き、弓をたずさえて夜道をいそいだ。
沙頭鎮の埠頭に、車はつく。船の燈は暗く波間にゆれていた。
ざわめく蘆荻のあいだから船は早くも離れかけた。帆車がきしる。怪鳥のつばさのように帆は風をはらむ。
「待てっ。その船待てっ」
岸の暗がりに、馬のいななきやら剣槍のひびきが聞えた。
周善は艫に立って、
「いそげ、振り向くな」
と、水夫たちを叱咤した。
江頭の人影は、刻々、多くなって、騒ぎ立っている。中にひとり目立っているのは、常山の趙子龍、即ち江辺守備の大将であった。
「おういっッ。待て」
船の影を追いながら、趙雲は岸に沿って馬を飛ばした。部下の兵も口々に、
「のがすな。あの船を」と、十里も駆けた。
一漁村へかかった。
趙雲は駒をすてて、漁夫の一舟へ飛び乗り、
「あの船へ漕ぎ寄せろ」と、先に廻っていた。
呉の船は帆うなりをあげながら下ってきた。趙雲の小舟がそれへ近づこうとすると、船上の周善は、長い戈を持って、
「射殺せ、突き殺せ」
と、必死の下知に声をからした。
舷に並んだ呉の兵は、弓を引きしぼり、戟を伸ばして、小舟を寄せつけまいと防ぎながら、その船脚はなお颯々と大江の水を切って走ってゆく。
「やわか。通すべき」
趙雲は、槍をなげすてた。
腰なる青釭の剣は、たちまち雨と降る矢を切り払う。そして小舟のへさきが、敵船の横へ勢いよくぶつかった瞬間に、
「おおうッ。おのれ」
喚きながら、身をもって、舷へ飛びつき、無二無三、よじのぼって、ついに船中へ躍りこんで来た。
呉の兵は、彼の形相に怖れて、わっと逃げかくれる。趙雲はあたりを睥睨しながら、大股に船屋形の内へ入って、
「夫人っ、何処へおいでになるのですっ」
と、鏡のような眼をいからせて咎めた。
その声に、夫人のふところに眠っていた幼君の阿斗が泣きだした。侍女たちは怖れてみな片隅に打ち慄えている。しかし、さすがに夫人は気位が高い。
「無礼でしょう趙雲。なんですかその血相は」
「お留守をあずかる孔明にも何のお断りすらなく、城中を出られるのみか、呉船に召されて江を下るなど、あなたこそ劉皇叔のご夫人として穏やかならぬご行動ではありますまいか」
「呉にいます母公が、あすも知れぬご重態との知らせに、軍師へ相談している暇もなく、急いで便船に乗ったのです。わが母の危篤に駈けつけるのがなぜいけないか」
「しからば、何故、阿斗の君をおつれ遊ばすか。皇叔にとっても、わが国にとっても、たったお一方の大事な珠玉。かつて当陽の戦には、趙雲が、命にかけて、長坂にむらがる敵大軍の中より救いまいらせたこともある。──さ、お返しなさい、阿斗の君を」
「おだまりなさい」
夫人は、蘭花の眦をあげて、
「そちは唯これ陣中の一武士。劉家の家事に立入るなど僭越であろう」
「いやいや、あなたが呉へお還りあるのを止めはいたさぬ。ただ幼君の御身は、誰がなんといおうが、国外へやるわけには参りませぬ」
「国外とは何事ぞ。呉と荊州とは境こそあれ、この身と皇叔とによって契られている間ではないか」
「なんと仰せあろうと、幼君はおあずけできません。お渡しなさい」
「あ。何をしますかっ」
夫人は、悲鳴をあげながら、侍女たちを振り向いて、
「この無礼者を、追い出して賜も」
と、さけんだ。
だが、趙雲は苦もなく、夫人の膝から、阿斗を取返して、自分の腕に抱えてしまった。
そしてさっと、船上を走って、艫まで出たが、小舟はすでに流されているし、夫人や侍女は、船中の兵を呼びたてながら悲鳴を浴びせて、すぐ後ろへ迫っている。
かかる間も、大船の帆はいっぱいな風をうけて風の速さと速力を競っている。
「近づく者は、一刀両断にするぞ。生命の要らぬ者は寄ってこい」
青釭の剣を片手にふりかぶり、片手に阿斗の身を抱えたまま趙雲はそこに立往生していた。
弓と槍と戈と、あらゆる武器はみな彼の身一つに向って、遠巻きに取囲んでいたが、そのすさまじい姿には敢て誰ひとり近づく者もなかった。
すると、いつのまにか近づいていた田舎町の河港の口から、十数艘の早舟の群れが扇なりに展開しながら近づいてきた。
近づくに従って、その早舟の群れからは、鼓の音や喊の声が聞えた。
「さては、呉の水軍」
趙雲は愕然、色を失った。
この上は、幼君を抱きまいらせたまま、水中に身を投ぜんか。斬って斬って斬り死せんかと、さいごの肚をきめていた。
ところが、水中から声があって、
「呉の船待てっ。わが君の留守をうかがって、幼君阿斗をいずこへ伴い参らすぞ。燕人張飛これにあり、船を止めろっ」と、龍神が吼えるかと疑われるばかり聞えた。
「おお、張飛か」
呼びかけると、一舟の中から、
「趙雲そこにいたか」
と、下からも呼び返しながら、はやその張飛をはじめ、荊州の味方は、たちまち、八方から鈎縄を飛ばして、呉船のまわりに手繰りついた。
張飛が船上へとび上がると、出合い頭に、周善が戈をもって斬りかけてきた。龍車に向う蟷螂の斧にひとしい。張飛が、
「くわっ」
と云ったとたんに、彼の一振した一丈八尺の蛇矛は、周善の首を遠くへ飛ばしていた。
「虫けらどもが」
張飛の眼にふれたらさいご、その者の命はない。呉の兵は人の跫音を聞いた蝗のように船じゅうを逃げまわった。
「一匹も生かすな」
殺伐するに仮借のない張飛は、歩むところに朱をのこしながら胴の間を濶歩した。
すると一隅に、侍女たちに囲まれたまま、立ちすくんでいた玄徳夫人のすがたがあった。
「…………」
「…………」
夫人は必死な気位を持って彼を見下ろそうとした。
しかし張飛のらんらんと燃える眼は、決して、夫人の眸を避けなかった。
やがて、彼がいう。
「夫人たる御方は、良人の留守を守るのが道であるのに、いま荊州を去るとは何事か。それが呉の婦道か」
「……家臣たるものが、主にたいして、そのようなことばを吐いてよいものか。それがそち達の士道か」
「……君家を護るは、いうまでもなく、士道のひとつ。たとえ主君の夫人であろうと、それがしはあえていう。お帰んなさい。帰らなければ、引っ吊るしても、荊州城の奥へほうりこみますぞ」
夫人は白くわなないた。
「……ゆ、ゆるしておくれ。ゆえなく城を出たのではない。母公のご危篤に前後もなくお枕もとへゆくのですから。……もしそち達が、強ってわたくしを荊州へ連れもどるというならば、長江へ身を投げて、この悲しみからのがれるばかりです」
「なに、入水する?」
これには張飛も脅かされた。
「おうい、趙雲、ちょっと来てくれ」
「なんだ」
「こういう次第だが、どう処置したらいいか。もし夫人が入水して死んだら、やはりわれらは、臣道にそむくだろうか」
「もちろん、かりそめにも、主君の夫人、また皇叔のお嘆きを考えてもむざむざ、夫人の死を見ているわけにもゆくまい」
「では、幼君だけ取りかえして、夫人はこのまま呉へやるとするか」
「そうするしかあるまい」
「よし、もう一言、いい分をいっておこう」
張飛は、夫人の前へ戻って、
「あなたの良人は、いやしくも大漢の皇叔。ゆえに、われわれは、臣節を尊んで、あえてあなたを辱めず、ここでお別れ申すとする。しかし、御用がおすみになったら、早々、ふたたび良人の国へお立ち帰りあれよ」
告げ終ると、
「おい、趙雲。行こうか」
と、早舟へ跳び移った。
趙雲も阿斗を抱いて、一艘のうちへ跳び下りる。
そしてその余の早舟十数艘を漕ぎ連れて、近くの油江口へ上陸し、馬に乗って荊州へ帰った。
「よかった。──実によかった。阿斗の君の無事を得たのは、真に二人の働きである」
孔明は、仔細の報告を、そのまま詳しく書簡にしたため、すぐ蜀の葭萌関にある玄徳のもとへ早馬をたてて報告しておいた。
底本:「三国志(五)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1989(平成元)年4月11日第1刷発行
2010(平成22)年5月6日第56刷発行
「三国志(六)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1989(平成元)年5月11日第1刷発行
2008(平成20)年2月1日第47刷発行
※副題には底本では、「望蜀の巻」とルビがついています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2013年7月11日作成
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