三国志
赤壁の巻
吉川英治
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十年語り合っても理解し得ない人と人もあるし、一夕の間に百年の知己となる人と人もある。
玄徳と孔明とは、お互いに、一見旧知のごとき情を抱いた。いわゆる意気相許したというものであろう。
孔明は、やがて云った。
「もし将軍が、おことばの如く、真に私のような者の愚論でもおとがめなく、聴いて下さると仰っしゃるなら、いささか小子にも所見がないわけでもありませんが……」
「おお。ねがわくは、忌憚なく、この際の方策を披瀝したまえ」
と、玄徳は、襟をただす。
「漢室の衰兆、蔽いがたしと見るや、姦臣輩出、内外をみだし、主上はついに、洛陽を捨て、長安をのがれ給い、玉車に塵をこうむること二度、しかもわれら、草莽の微臣どもは、憂えども力及ばず、逆徒の猖獗にまかせて現状に至る──という状態です。ただ、ただ今も失わないのは、皎々一片の赤心のみ。先生、この時代に処する計策は何としますか」
孔明は、いう。
「されば。──董卓の変このかた、大小の豪傑は、実に数えきれぬほど、輩出しております。わけても河北の袁紹などは、そのうちでも強大な最有力であったでしょう。──ところが、彼よりもはるかに実力もなければ年歯も若い曹操に倒されました」
「弱者がかえって強者を仆す。これは、天の時でしょうか。地の利にありましょうか」
「人の力──思想、経営、作戦、人望、あらゆる人の力によるところも多大です。その曹操は、いまや中原に臨んで、天子をさしはさみ、諸侯に令して、軍、政二つながら完きを得、勢い旭日のごときものがあり、これと鉾を争うことは、けだし容易ではありません。──いや。もう今日となっては、彼と争うことはできないといっても過言ではありますまい」
「……ああ。時はすでに、去ったでしょうか」
「いや。なおここで、江南から江東地方をみる要があります。ここは孫権の地で、呉主すでに三世を歴しており、国は嶮岨で、海山の産に富み、人民は悦服して、賢能の臣下多く、地盤まったく定まっております。──故に、呉の力は、それを外交的に自己の力とすることは不可能ではないにしても、これを敗って奪ることはできません」
「むむ。いかにも」
「──こうみてまいると、いまや天下は、曹操と孫権とに二分されて、南北いずれへも驥足を伸ばすことができないように考えられますが……しかしです……唯ここにまだ両者の勢力のいずれにも属していない所があります。それがこの荊州です。また、益州です」
「おお」
「荊州の地たるや、まことに、武を養い、文を興すに足ります。四道、交通の要衝にあたり、南方とは、貿易を営むの利もあり、北方からも、よく資源を求め得るし、いわゆる天府の地ともいいましょうか。──加うるに、今、あなたにとって、またとなき僥倖を天が授けているといえる理由は──この荊州の国主劉表が優柔不断で、すでに老病の人たる上に、その子劉琦、劉琮も、凡庸頼むに足りないものばかりです。──益州(四川省)はどうかといえば、要害堅固で、長江の深流、万山のふところには、沃野広く、ここも将来を約されている地方ですが、国主劉璋は、至って時代にくらく、性質もよくありません。妖教跋扈し、人民は悪政にうめき、みな明君の出現を渇望しております。──さあ、ここです。この荊州に起り、益州を討ち、両州を跨有して、天下に臨まんか、初めて、曹操とも対立することができましょう。呉とも和戦両様の構えで外交することが可能です。──さらに、竿頭一歩、漢室の復興という希望も、はや、痴人の夢ではありません。その実現を期することができる……と、私は信じまする」
孔明は、細論して余すところなかった。かくその抱負を人に語ったのは、おそらく今日が初めてであろう。
孔明の力説するところは、平常の彼の持論たる
=支那三分の計=であった。
一体、わが大陸は広すぎる。故に、常にどこかで騒乱があり、一波万波をよび、全土の禍いとなる。
これを統一するは容易でない。いわんや、今日においてはである。
いま、北に曹操があり、南に孫権ありとするも、荊州、益州の西蜀五十四州は、まだ定まっていない。
ちと、遅まきながら、起つならば、この地方しかない。
北に拠った曹操は、すなわち天の時を得たものであり、南の孫権は、地の利を占めているといえよう。将軍はよろしく人の和をもって、それに鼎足の象をとり、もって、天下三分の大気運を興すべきである──と、孔明は説くのであった。
玄徳は、思わず膝を打って、
「先生の所説を伺い、何かにわかに、雲霧をひらいて、この大陸の隈なき果てまで、一望に大観されてきたような心地がします。益州の精兵を養って、秦川に出る。ああ、今までは、夢想もしていなかった……」と、その眸は、将来の希望と理想に、はや燃えるようだった。
この時、孔明は、童子を呼んで、
「書庫にあるあの大きな軸を持ってきて、ご覧に入れよ」と、命じた。
やがて童子は、自分の背丈よりも長い一軸を抱えてきて、壁へかけた。
西蜀五十四州の地図である。
それを指して、
「どうです、天地の大は」
と、孔明は世上に血まなことなっている人々の、瞳孔の小ささをわらった。
──が、玄徳は、ここに唯ひとつのためらいを抱いた。それは、
「荊州の劉表といい、益州の劉璋といい、いずれも、自分と同じ漢室の宗親ですから、その国を奪うにしのびません。いわゆる同族相せめぐの誹りも、まぬがれますまい」という点であった。
孔明の答は、それに対して、すこぶる明確なものだった。
「ご心配には及びません」と、彼は断じるのである。
「劉表の寿命は、早晩、おのずからつきるでしょう。かれの病はかなり篤いと、襄陽のさる医家から、耳にしています。痼疾がなくても、すでに年齢が年齢ではありませんか。その子たちは、これまた、いうに足りません。一方、益州の劉璋は、なお健在なりとはいえ、その国政のみだれ、人民の苦しみ、誰か、それを正すを、仁義なしといいましょう。むしろ、そういう塗炭の苦しみを除いて、民土に福利と希望を与えてやるこそ、将軍のご使命ではありませんか。──然らずして、あなたが、天下に呼号し、魏・呉を向うにまわして、鼎立を計る意義がどこにありまするか」
一言のもとに、玄徳は心服して、その蒙を謝し、
「いや、よく分りました。思うに、愚夫玄徳の考えは、事ごとに、大義と小義とを、混同しているところから起るものらしい。豁然と、いま悟られるものがあります」
「総じて、みな人のもっている弱点です。将軍のみではありません」
「ねがわくは、どうか、朝夕帷幕にあって、遠慮なく、この愚夫をお教え下さい」
「いや」と、孔明は、急にことばをかえて云った。
「今日、いささか所信を述べたのは、先頃からの失礼を詫びる寸志のみです。──朝夕お側にいるわけにはゆきません。自分はやはり分を守って、ここに晴耕雨読していたい」
「先生が起たれなければ、ついに漢の天下は絶え果てましょう。ぜひなきこと哉」
と、玄徳は落涙した。
至誠は人をうごかさずにおかない。玄徳は天下の為に泣くのであった。その涙は一箇のためや、小さい私情に流したものではない。
「…………」
孔明は、沈思しているふうだったが、やがて唇を開くと、静かに、しかし力づよい語韻でいった。
「いや、お心のほどよく分りました。もし長くお見捨てなくば、不肖ながら、犬馬の労をとって、共に微力を国事に尽しましょう」
聞くと、玄徳は、
「えっ。では、それがしの聘に応じて、ご出廬くださいますか」
「何かのご縁でしょう。将軍は私にめぐり会うべく諸州をさまよい、私は将軍のお招きを辱のうすべく今日まで田野の廬にかくれて陽の目を待っていたのかも知れません」
「余りにうれしくて、何やら夢のような心地がする」
玄徳は、関羽と張飛を呼んで仔細を語り、また供に持たせてきた金帛の礼物を、
「主従かための印ばかりに」と、孔明へ贈った。
孔明は辞して受けなかったが、大賢を聘すには礼儀もある。自分の志ばかりの物だからといわれて、
「では、有難く頂きましょう」
と、家弟の諸葛均にそれをおさめさせた。
孔明は、それと共に、弟の均へ、こう云いふくめた。
「たいして才能もないこの身に対して、劉皇叔には、三顧の礼をつくし、かつ、過分な至嘱をもって、自分を聘せられた。性来の懦夫も起たざるを得ぬではないか。──兄はただ今より即ち皇叔に附随して新野の城へゆくであろう。汝は、嫂をいつくしみ、草廬をまもって、天の時をたのしむがよい。──もし幸いに、功成り名をとげる日もあれば、兄もまたここへ帰ってくるであろう」
「はい。……その日の来るのを楽しみに、留守をしております」
均は、つつしんで、兄の旨を領諾した。
その夜、玄徳は、ここに一泊し、翌る日、駒を並べて、草庵を立った。
かくて岡を降ってくると──前の夜にこの趣を供の者が新野に告げに行ったとみえて、──迎えの車が村まできていた。
玄徳は孔明とひとつ車に乗り、新野の城内へ帰る途中も、親しげに語り合っていた。
このとき孔明は二十七歳、劉備玄徳は四十七であった。
新野に帰ってからも、ふたりは寝るにも、室を共にし、食事をするにも、卓をべつにしたことがない。
昼夜、天下を論じ、人物を評し、史を按じ、令を工夫していた。
孔明が、新野の兵力をみると、わずか数千の兵しかない。財力もきわめて乏しい。そこで劉備にすすめた。
「荊州は、人口が少ないのでなく、実は戸籍にのっている人間が少ないのです。ですから、劉表にすすめて、戸簿を整理し、遊民を簿冊に入れて、非常の際は、すぐ兵籍に加え得るようにしなければいけません」といった。
また自分が、保券の証人となって、南陽の富豪大姓黽氏から、銭千万貫を借りうけ、これをひそかに劉備の軍資金にまわして、その内容を強化した。
とまれ、孔明の家がらというものは、その叔父だった人といい、また現在呉に仕えている長兄の諸葛瑾といい、彼の妻黄氏の実家といい、当時の名門にちがいなかった。しかも、孔明の誠実と真摯な人格だけは、誰にも認められていたので──彼を帷幕に加えた玄徳は──同時に彼のこの大きな背景と、他方重い信用をも、あわせて味方にしたわけである。
遠大なる「天下三分の計」なるものは、もちろん玄徳と孔明のふたりだけが胸に秘している大策で、当初はおもむろに、こうしてその内容の充実をはかりながら、北支・中支のうごき、また、江西・江南の時の流れを、きわめて慎重にながめていたのであった。
眼を転じて、南方を見よう。
呉は、その後、どういう推移と発展をとげていたろうか。
ここ数年を見較べるに──
曹操は、北方攻略という大事業をなしとげている。
玄徳のほうは、それに反して、逆境また逆境だったが、隠忍よく生きる道を見つけては、ついに孔明の出廬をうながし、孔明という人材を得た。
広大な北支の地を占めた曹操の業と、一箇の人物を野から見出した玄徳の収穫と、いずれが大きく、いずれが小さいか、この比較は、その結果を見るまでは、軽々しく即断はできない。
この間にあって、呉の発展は、あくまで文化的であり、内容の充実にあった。
何しろ、先主孫策のあとを継いで立った孫権は、まだ若かった。曹操より二十八も年下だし、玄徳とくらべても、二十二も若い当主である。
それと、南方は、天産物や交通にめぐまれているので期せずして、人と知識はここに集まった。文化、産業、ひいては軍需、政治などの機能が活溌な所以である。
時。──建安の七年頃だった。──すなわち孔明出廬のときよりさかのぼること六年前である。
美しい一艘の官船が檣頭に許都政府の旗をかかげて、揚子江を下ってきた。
中央からの使者であった。
使者の一行は、呉会の賓館にはいって、のち城中に登り、曹操の旨をつたえて、
「まだご幼少にいらせられる由ですが、孫閣下のご長男を、このたび都へ召されることになりました。朝廷においてご教育申しあげ、成人の後は、官人となされたいお心からです。──もちろん帝の有難い思し召も多分にあることで」と、申し入れた。
ことばの上から見ると非常な光栄のようであるが、いうまでもなく、これは人質を求めているのである。
呉のほうでも、そこは知れきっていることだが、うやうやしく恩命を謝して、
「いずれ、一門評議のうえ、あらためて」
と、答えて、問題の延引策を取っていた。
その後も、度々、長子を上洛せよと、曹操のほうから催促がくる。朝廷を擁しているだけに、彼の命は、すでに彼の命にとどまらない絶対権をおびていた。
「母君。いかがしたものでしょう」
孫権はついに、老母の呉夫人の耳へも入れた。
呉夫人は、
「あなたにはもう良い臣下がたくさんあるはずです。なぜこんな時こそ、諸方の臣を招いて衆智に訊いてみないのか」と云った。
考えてみると、問題は、子ども一人のことではない。質子を拒めば、当然、曹操とは敵国になる。
そこで、呉会の賓館に、大会議をひらいた。
当時、呉下の智能はほとんど一堂に集まったといっていい。
張昭、張絋、周瑜、魯粛などの宿将をはじめとして、
彭城の曼才、会稽の徳潤、沛県の敬文、汝南の徳枢、呉郡の休穆、また公紀、烏亭の孔休など。
かの水鏡先生が、孔明と並び称して──伏龍、鳳雛といった──その鳳雛とは、襄陽の龐統のことだが、その龐統も見えている。
そのほか、汝陽の呂蒙とか、呉郡の陸遜とか、瑯琊の徐盛とか──実に人材雲のごとしで、呉の旺なことも、故なきではないと思わせられた。
「いま曹操が、呉に人質を求めてきたのは、諸侯の例によるものである。質子を出すは、曹操に服従を誓うものであり、それを拒むことは、即敵対の表示になる。いまや呉は重大な岐路に立ち至った。いかにせばよいか、どうか、各位、忌憚なくご意見を吐露していただきたい」
張昭が議長格として、まず席を起ち、全員へこう発言を求めた。
こもごもに起って、各自が、説くところ論じるところ、種々である。
質子、送るべし。
となす者。
質子、送るべからず。
と、主張する者。
ようやく、会議は、二派にわかれ、討論果てしなく見えたが、
「周瑜に一言させて下さい」と、初めて彼が発言を求めた。
呉夫人の妹の子である周瑜は、先主孫策と同い年であったから、孫権よりは年上だが、諸大将のうちでは、最年少者であった。
「そうだ、周瑜のことばを聞いてみよう。説きたまえ」
人々は、しばらく彼に耳をかした。
周瑜は、起立していう。
「僭越ですが、私は、楚国の始めを憶いおこします。楚ははじめ、荊山のほとり、百里に足らない土地を領し、実に微々たるものでしたが、賢能の士が集まって、ついに九百余年の基をひらきました。──いまわが呉は、孫将軍が、父兄の業をうけて、ここに三代、地は六郡の衆を兼ね、兵は精にし、粮は豊山を鋳て銅となし、海を煮て塩となす。民乱を思わず、武士は勁勇、むかうところ敵なしです」
「…………」
彼の演舌を聞くのは初めての人々もあったらしく、多くは、その爽やかな弁と明白な理論に、意外な面持を見せていた。
「……しかるに、何を恐れて、いま曹操の下風に媚びる必要がありましょう。質子を送るは、属領を承認するも同じです。招かれれば、呉将軍たりと、いつでも都へ上らねばならぬ、然るときは、相府に身をかがめ、位階は一侯を出ず、車数乗、馬幾匹定め以上の儀装もできません。いわんや、南面して、天下の覇業を行わんなど、思いもよらぬ夢でしょう。──まずここは、あくまで、無言をまもり質子も送らず、曹操のうごきを見ている秋ではないでしょうか。曹操が真に漢朝の忠臣たる正義を示して天下に臨むなら、その時初めて、国交を開いても遅くはありません。またもし、曹操が暴逆をあらわし、朝廷に忠なる宰相でないようなら、その時こそ、呉は天の時を計って、大いに為すある大理想をもたねばなりますまい」
「……然り矣」
「そうだ。その時だ」
述べおわって、周瑜が、席へついても、しばらくは皆、感じ合ったまま、粛としていた。
意見は、完全に、一致を見た。無言のうちに、ひとつになっていた。
この日、簾中に、会議のもようを聴いていた呉夫人も、甥の周瑜の器量をたのもしく思って、後に、近く彼を招き、
「おまえは、孫策と同年で、一月おそく生れたばかりだから、わが子のように思われる。これからも、よく孫権を扶けて賜も」と、ねんごろなことばであった。
かくて、この問題は、呉の黙殺により、そのままになってしまった。が中央の威権は、いたく傷つけられたわけである。
曹操も、以来、使いを下してこなかった。──或る重大決意を、呉に対して抱いたであろうことは想像に難くない。
宣戦せざる宣戦──無言の国交断絶状態にはいった。
が、長江の水だけは、千里を通じている。
そのうちに。
建安八年の十一月ごろ。
孫権は、出征の要に迫られた。荊州の配下、江夏(湖北省・武昌)の城にある黄祖を攻めるためだった。
兵船をそろえ、兵を満載して、呉軍は長江をさかのぼってゆく。
その軍容はまさに、呉にのみ見られる壮観であった。
この戦では、初め江上の船合戦で、呉軍のほうが、絶対的な優勢を示していたが、将士共に、
「黄祖の首は、もう掌のうちのもの」
と、あまりに敵を見くびりすぎた結果、陸戦に移ってから、大敗を招いてしまった。
もっとも大きな傷手は、孫権の大将凌操という剛勇な将軍が、深入りして、敵の包囲に遭い、黄祖の麾下甘寧の矢にあたって戦死したことだった。
ために、士気は沮喪し、呉軍は潰走を余儀なくされたが、この時、ひとり呉国の武士のために、万丈の気を吐いた若者があった。
それは将軍凌操の子凌統で、まだ十五歳の年少だったが、父が、乱軍の中に射たおされたと聞くや、ただ一名、敵中へ取って返し、父の屍をたずねて馳せ返ってきた。
孫権は、いち早く、
「この軍は不利」と、見たので、思いきりよく本国へ引揚げてしまったが、弱冠凌統の名は、一躍味方のうちに知れ渡ったので、
「まるで、凌統を有名にするために、戦いに行ったようなものだ」と、時の人々はいった。
翌九年の冬。
孫権の弟、孫翊は、丹陽の太守となって、任地へ赴いた。
なにしろ、まだ若い上に、孫翊の性格は、短気で激越だった。おまけに非常な大酒家で、平常、何か気に入らないことがあると、部下の役人であろうと士卒であろうと、すぐ面罵して鞭打つ癖があった。
「殺ってしまおう」
「貴様がその決意ならば、俺も腕をかす」
丹陽の都督に、嬀覧という者がある。同じ怨みを抱く郡丞の戴員と、ついにこういう肚を合わせ、ひそかに対手の出入りをうかがっていた。
しかし、孫翊は、若年ながら大剛の傑物である。つねに剣を佩いて、眼気に隙も見えないため、むなしく機を過していた。
そこで二人は、一策を構え、呉主孫権に上申して、附近の山賊を討伐したい由を願った。
すぐ、許しが出たので、嬀覧はひそかに、孫翊の大将辺洪という者を同志に抱きこんで、県令や諸将に、評議の招きを発した。評議のあとは、酒宴ということになっている。
孫翊も、もちろん欠かせない会合であるから、時刻がくると、身仕度して、
「じゃあ、行ってくるぞ」と、妻の室へ声をかけた。
彼の妻は、徐氏という。
呉には美人が多いが、その中でも、容顔世に超えて、麗名の高かった女性である。そして、幼少から易学を好み、卜をよくした。
この日も、良人の出るまえに、ひとり易を立てていたが、
「どうしたのでしょう。今日に限って、不吉な卦が出ました。なんとか口実をもうけて、ご出席は、お見合わせ遊ばして下さいませ」
しきりと、ひきとめた。
けれど孫翊は、
「ばかをいえ、男同士の会合に、そうは行かないよ。ははは」
気にもかけず出かけてしまった。
評議から酒宴となって、帰館は夜に入った。大酒家の孫翊は、蹌踉と、門外へ出てきた。かねてしめし合わせていた辺洪は、ふいに躍りかかって、孫翊を一太刀に斬り殺してしまった。
すると、その辺洪をそそのかした嬀覧、戴員のふたりが、急に驚いた態をして、
「主を害した逆賊め」と、辺洪を捕え、市へ引きだして、首を斬ろうとした。
辺洪は、仰天して、
「約束がちがう。この悪党め。張本人は、貴様たちでないか」
と、喚いたが、首は喚いている間に、地へ落ちていた。
嬀覧の悪は、それだけに止まらない。なお、べつな野望を抱いていたのである。
一方、孫翊の妻の徐氏は、良人の帰りがおそいので、
「もしや、易に現れたように、何か凶事があったのではないか」
と、自分の卜が的中しないことを今はしきりに祷っていた。気のせいか、こよいに限って、燈火の色も凶い。
「どうして、こんなに胸騒ぎが……?」
ふと、帳を出て、夜の空を仰いでいると、中門のほうから歩廊へかけて、どやどやと一隊の兵が踏みこんできた。
「徐氏か」
先頭のひとりがいう。
見ると、刀を横たえた都督嬀覧だった。
兵をうしろに残して、ずかずかと十歩ばかり進んでくると、
「夫人。あなたの良人孫翊は、こよい部下の辺洪のため、会館の門外で斬り殺された。──が下手人辺洪は、即座にひッ捕えて、市へひきだし首を打ち落して、讐を取った。──この嬀覧があなたに代って仇を打ってあげたのだ」
恩きせがましく、こういって、
「もう悲しまぬがよい。何事もこれからは、嬀覧がお力になってあげる。この嬀覧にご相談あるがよい」と、腕をとらえて、彼女の室へはいろうとした。
「…………」
徐氏は一時茫然としていたが、軽く、腕を払って、
「いまは、何も、ご相談を願うこともありません」
「では、また参ろう」
「人の眼もあります。月の末の──晦日にでも」
徐氏が涙を含まないのみか、むしろ媚すら見える眸に、嬀覧は独りうなずいて、
「よろしい、では、その時に」と、有頂天になって帰った。
底知れぬ悪党とは、嬀覧のごときをいうのだろう、彼は疾くから徐氏の美貌をうかがって毒牙を磨いていたのである。
徐氏は、悲嘆のうちに、良人の葬儀を終って、後、ひそかに亡夫の郎党で、孫高、傅嬰という二人の武士を呼んだ。
そして、哭いていうには、
「わが夫を殺した者は、辺洪ということになっているが、妾は信じません。真の下手人は、都督嬀覧です。卜のうえでいうのではない、証拠のあることです、そなた達へ向って、口にするも恥かしいが、嬀覧は妾に道ならぬ不義をいどみかけている。妻になれと迫るのです。……で、虫をころして、晦日の夜に来るように約束したから、そのときは、妾の声を合図に、躍りかかって、良人の仇を刺して賜も。どうかこの身に力をかして賜もれ」
忠義な郎党と、彼女が見抜いて打明けた者だけに、二人は悲涙をたたえて、亡君の恨み、誓って晴らさんものと、その夜を待っていた。
嬀覧は、やって来た。──徐氏は化粧して酒盞を清めていた。
すこし酔うと、
「妻になれ、否か応か」
嬀覧は、本性をあらわして、徐氏の胸へ、剣を擬して強迫した。
徐氏は、ほほ笑んで、
「あなたのでしょう」と、いった。
「もちろん、俺の妻になれというのにきまっている」
「いいえ、良人の孫翊を殺させた張本人は」
「げっ? な、なんだ」
徐氏は、ふいに、彼の剣の手元をつかんで、死物狂いに絶叫した。
「良人の仇っ。──傅嬰よ! 孫高よ! この賊を、斬り伏せておくれっ」
「──応っ」
と、躍りでた二人の忠僕は、嬀覧のうしろから一太刀ずつあびせかけた。徐氏も奪い取った剣で敵の脾腹を突きとおした。そして初めて、朱の中にうっ伏しながら哭けるだけ哭いていた。
孫高、傅嬰の二人は、その夜すぐ兵五十人をつれて、戴員の邸を襲い、
「仇の片割れ」と、その首を取って主君の夫人徐氏へ献じた。
徐氏はすぐ喪服をかぶって、亡夫の霊を祭り、嬀覧、戴員二つの首を供えて、
「お怨みをはらしました。わたくしは生涯他家へは嫁ぎません」と、誓った。
この騒動はすぐ呉主孫権の耳へ聞えた。孫権は驚いて、すぐ兵を率いて、丹陽に馳せつけ、
「わが弟を討った者は、われに弓を引いたも同然である」
と、一類の者、ことごとく誅罰した後、あらためて、孫高、傅嬰のふたりを登用し、牙門督兵に任じた。
また、弟の妻たる徐氏には、
「あなたの好きなように、生涯を楽しんでください」と、禄地を添えて、郷里の家へ帰した。
江東の人々は、徐氏の貞烈をたたえて、
「呉の名花だ」と、語りつたえ、史冊にまで名を書きとどめた。
それから三、四年間の呉は、至極平和だったが建安十二年の冬十月、孫権の母たる呉夫人が大病にかかって、
「こんどは、どうも?」と、憂えられた。
呉夫人自身も、それを自覚したものとみえる。危篤の室へ、張昭や周瑜などの重臣を招いて遺言した。
「わが子の孫権は、呉の基業をうけてからまだ歳月も浅く年齢も若い。張昭と周瑜のふたりは、どうか師傅の心をもって、孫権を教えてください。そのほかの諸臣も、心をあわせて、呉主を扶け、かならず国を失わぬように励まして賜もれ。江夏の黄祖は、むかしわが夫の孫堅を滅ぼした家の敵ですから、きっと冤を報じなければなりませぬ……」
また、孫権にむかっては、
「そなたには、そなただけの長所もあるが、短所もある。お父上の孫堅、兄君の孫策、いずれも寡兵をひっさげて、戦乱の中に起ち、千辛万苦の浮沈をつぶさにおなめ遊ばして、はじめて、呉の基業をおひらきなされたものじゃが、そなたのみは、まったく呉城の楽園に生れて楽園に育ち、今、三代の世を受けついで君臨しておられる。……ゆめ、驕慢に走り、父兄のご苦労をわすれてはなりませんぞ」
「ご安心ください」
孫権は、老母の手を、かろく握って、その細さにおどろいた。
「──それから張昭や、周瑜などは、良い臣ですから、呉の宝ぞと思い、平常、教えを聞くがよい。……また、わたくしの妹も、後堂にいる。いまから後は、そなたの母として、仕えなければいけません」
「……はい」
「わたくしは、幼少のとき、父母に早くわかれ、弟の呉景と、銭塘へ移って暮しているうち、亡き夫の孫堅に嫁したのでした。そして四人の子を生んだ。……けれど、長男の孫策も若死してしまい、三男の孫翊も先頃横死してしもうた。……残っているのは、そなたと、末の妹のふたりだけじゃ、……権よ。あのひとりの妹も、よく可愛がってやっておくれ。……よい婿をえらんで嫁がせてくださいよ。……もし、母のことばを違えたら、九泉の下で、親子の対面はかないませんぞ」
云い終ると、忽然、息をひきとった。
枕頭をめぐる人々の嗚咽の声が外まで流れた。
高陵の地、父の墓のかたわらに、棺槨衣衾の美を供えて、孫権はあつく葬った。歌舞音曲の停まること月余、ただ祭祠の鈴音と鳥の啼く音ばかりであった。
喪の冬はすぎて、歳は建安十三年に入った。
江南の春は芽ぐみ、朗天は日々つづく。
若い呉主孫権は、早くも衆臣をあつめて、
「黄祖を伐とうではないか」と評議にかけた。
張昭はいう。
「まだ母公の忌年もめぐってこないうちに、兵を動かすのは如何なものでしょう」
周瑜はそれに対して、
「黄祖を伐てとは、母君のご遺言の一つであった。何で喪にかかわることがあろう」と酬いた。
いずれを採るか、孫権はまだ決しかねていた。
ところへ、都尉呂蒙がきて、一事件を披露した。
「それがし龍湫の渡口を警備しておりますと、上流江夏のほうから、一艘の舟がただよい来って、二十名ほどの江賊が、岸へ上がって参りました」
呂蒙はまず、こう順を追って、次のように話したのである。
「──すぐ取囲んで、何者ぞと、取糺しましたところ、頭目らしき真っ先の男がいうには──自分ことは、黄祖の手下で、甘寧字を興覇とよぶ者であるが、もと巴郡の臨江に育ち、若年から腕だてを好み、世間のあぶれ者を集めては、その餓鬼大将となって、喧嘩を誇り、伊達を競い、常に強弓、鉞を抱え、鎧を重ね、腰には大剣と鈴をつけて、江湖を横行すること多年、人々、鈴の音を聞けば……錦帆の賊が来たぞ! 錦帆来! と逃げ走るのを面白がって、ついには同類八百余人をかぞうるに至り、いよいよ悪行を働いていたなれど、時勢の赴くを見、前非を悔いあらため一時、荊州に行って劉表に仕えていたけれど、劉表の人となりも頼もしからず、同じ仕えるなら、呉へ参って、粉骨砕身、志を立てんものと、同類を語らい、荊州を脱して、江夏まで来たところが、江夏の黄祖が、どうしても通しません。やむなく、しばらく止まって、黄祖に従っておりましたが、もとより重く用いられるわけもない。……のみならずです、或る年の戦いに、黄祖敵中にかこまれて、すんでに一命も危ういところを、自分がただ一人で、救い出してきたことなどもあったが、かつて、その恩賞すらなく、あくまで、下役の端に飼われているに過ぎないという有様でした。──しかるにまた、ここに黄祖の臣で蘇飛という人がある。この人、それがしの心事にふかく同情して、或る時、黄祖に向い、それとなく、甘寧をもっと登用されては如何にと──推挙してくれたことがあったのです。すると黄祖のいうには、──甘寧はもと江上の水賊である。なんで強盗を帷幕に用うべき。飼いおいて猛獣の代りに使っておけば一番よろしい。──そう申したので、蘇飛はいよいよそれがしを憐れみ、一夜酒宴の折、右の事情を打明けて──人生いくばくぞや、早く他国へ去って、如かじ、良主をほかに求め給え。ここにいては、足下はいかに忠勤をぬきん出ても、前科の咎を生涯負い、人の上に立つなどは思いよらぬことと教えてくれました。……ではどうしたらいいかを、さらに蘇飛に訊くと、近いうちに、鄂県の吏に移すから、その時に、逃げ去れよとのことに、三拝して、その日を待ち、任地へいく舟といつわって、幾夜となく江を下り、ようやく、呉の領土まで参った者でござる。なにとぞ、呉将軍の閣下に、よろしく披露したまえと──以上、甘寧つぶさに身の上を物語って、それがしに取次ぎを乞うのでございました」
「むむ。……なるほど」
孫権を始め、諸将みな、重々しくうなずいた。
呂蒙は、なおこう云い足して、報告を結んだ。
「甘寧といえば、黄祖の藩にその人ありと、隣国まで聞えている勇士、さるにても、憐れなることよと、それがしも仔細を聞いて、その心事を思いやり……わが君がお用いあるや否やは保証の限りではないが、有能の士とあれば、篤く養い、賢人とあれば礼を重うしてお迎えある明君なれば、ともあれ御前にお取次ぎ申すであろうと、矢を折って、誓いを示したところ、甘寧はさらに江上の船から数百人の手下を陸へ呼びあげて──否やお沙汰の下るまで慎んでお待ちおりますと──ただ今、龍湫の岸辺に屯して、さし控えておりまする」
「時なるかな!」と、孫権は手を打ってよろこんだ。
「いま、黄祖を討つ計を議するところへ、甘寧が数百人を率いて、わが領土へ亡命してきたのは、これ潮満ちて江岸の草のそよぐにも似たり──というべきか、天の時がきたのだ。黄祖を亡ぼす前兆だ。すぐ、甘寧を呼び寄せい」
こう孫権の命をうけ、呂蒙も大いに面目をほどこして、直ちに、龍湫へ早馬を引っ返して行った。
日ならずして、甘寧は、呉会の城に伴われてきた。
孫権は、群臣をしたがえて彼を見た。
「かねて、其方の名は承知しておる。また、出国の事情も呂蒙から聞いた。この上は、ただわが呉のために、黄祖を破るの計は如何に、それを訊きたい。忌憚なく申してみよ」
孫権はまずいった。
拝礼して甘寧は答える。
「漢室の社稷は今いよいよ危うく、曹操の驕暴は、日とともにつのりゆきます。おそらく、簒奪の逆意をあらわに示す日も遠くありますまい」
「荊州は呉と隣接しておる。荊州の内情をふかく語ってみよ」
「江川の流れは山陵を縫い、攻守の備えに欠くるなく、地味はひらけて、民は豊かです。──しかしこの絶好な国がらにも、ただ一つ、脆弱な短所があります。国主劉表の閨門の不和と、宿老の不一致です」
「劉表は、温良博学な風をそなえ、よく人材を養い、文化を愛育し、ために天下の賢才はみな彼の地に集まると、世上では申しているが──」
「まさにその通りです。けれどそれはもっぱら劉表の壮年時代の定評で、晩年、気は老い、身に病の多くなるにつれ、彼の長所は、彼の短所となり、優柔不断、外に大志なく、内に衰え、虚に乗じて、閨門のあらそいをめぐり、嫡子庶子のあいだに暗闘があるなど、──ようやく亡兆のおおい得ないものが見えだしました。討つなら今です」
「その荊州に入るには」
「もちろん江夏の黄祖を破るのを前提とします。黄祖は怖るるに足りません。彼もはや老齢で、時務には昏昧し、貨利をむさぼることのみ知って、上下、心から服しておりませぬ」
「兵糧武具の備えはどうか」
「軍備は充実していますが、活用を知らず、法伍の整えなく、これを攻めれば、立ちどころに崩壊するだろうと思います。──君いま、勢いに乗って、江夏、襄陽を衝き、楚関にまで兵をおすすめあれば、やがて、巴蜀を図ることも難しくはございますまい」
「よく申した。まことに金玉の論である。この機を逸してはなるまい」
孫権はすぐ周瑜に向って、兵船の準備をいいつけた。
張昭は、憂えて、
「いま、兵を起し給わば、おそらく国中の虚にのって、乱が生じるでしょう。せめて母公の喪のおすみになるまで、国内の充実にお心を傾けられてはどうですか」と、敢て苦言した。
甘寧は、さえぎって、
「それ故に、国家は今、蕭何の任を、ご辺に附与するのである。乱を憂えられるなら、よく国を守って、後事におつくしあるようねがいたい」
「すでにわが心は決まった。張昭も他事をいうな。一同して、盃を挙げよう」
孫権は、一言をもって、衆議を抑えた。
そして、また甘寧にむかい、
「其方をさし向けて、黄祖を討つことは、例えばこの酒の如しじゃ。一気に呑みほしてしまうがよい。もし黄祖を破ったら、その功は、汝のものであるぞ」
と、盃になみなみと酒をたたえて与えた。
かくて、周瑜を大都督に任じ、呂蒙を先手の大将となし、董襲、甘寧を両翼の副将として、呉軍十万は、長江をさかのぼって江夏へおしよせた。
鴻はみだれて雲にかくれ、柳桃は風に騒いで江岸の春を晦うした。
舳艫をそろえて、溯江する兵帆何百艘、飛報は早くも、
「たいへん!」
と、江夏に急を告げ、また急を告げてゆく。
黄祖の驚きはひと通りではない。
が、──先に勝った覚えがある。
「呉人の青二才ども、何するものぞ」
蘇飛を大将として、陳就、鄧龍を先鋒として、江上に迎撃すべく、兵船をおし出し、準備おさおさ怠りない。
大江の波は立ち騒いだ。
呉軍は、沔口の水面をおもむろに制圧し、市街の湾口へとつめてきた。
守備軍は、小舟をあつめて、江岸一帯に、舟の砦を作り、大小の弩弓をかけつらね、一せいに射かけてきた。
呉の船は、さんざん射立てられ、各船、進路を乱して逃げまどうと、水底には縦横に大索を張りめぐらしてあることとて、櫓を奪われ、舵を折り、
「大勢、ふたたび不利か」と、一時は、周瑜をして、眉をくもらせたほどだった。
時に、甘寧は、
「いで。これからだ」と、董襲にもうながし、かねてしめし合わせておいたとおり、決死、敵前に駆け上がるべく、合図の旗を檣頭にかかげた。
百余艘の早舟は、たちまち、江上に下ろされて、それに二十人、三十人と、死をものともせぬ兵が飛びのった。
波間にとどろく金鼓、喊声につれて、決死の早舟隊は、無二無三、陸へ迫ってゆく。
或る者は、水中の張り綱を切りながし、或る者は、氷雨と飛んでくる矢を払い、また、舳に突っ立った弓手は、眼をふさいで、陸上の敵へ、射返して進んで行った。
「防げ」
「陸へ上げるな」
敵の小舟も、揉みに揉む。
そして、火を投げ、油をふりかけてくる。
白波は、天に吼え、血は大江を夕空の如く染めた。
黄祖の先鋒の大将、陳就は岸へとび上がって、
「残念、舟手の先陣は、破られたか。二陣、陸の柵をかためろ」
声をからして、左右の郎党に下知しているのを、呂蒙が見つけて、
「うごくなっ」と、近づいた。
岸へとび上がるやいな、槍をふるって突きかけた。──陳就は、あわてて、
「やっ、呉の呂蒙か」と、剣をふるって、防ぎながら、
「気をつけろ。もう敵は上陸っているぞ」
と、部下へ注意しながら逃げ惑った。
こうまで早く、敵が陸地に迫っていようとは思っていなかったらしい。呂蒙は、
「おのれ、名を惜しまぬか」と、陳就を追って、うしろから一槍を見舞い、その仆れたのを見ると、大剣を抜いて、首をあげた。
舟手の崩滅を救わんものと、大将の蘇飛は、江岸まで馬をすすめてきた。──それと見た呉軍の将士は、
「われこそ」と、功にはやって、蘇飛のまわりへむらがり寄ったが、燈にとびつく夏の虫のように、彼のまわりに、死屍を積みかさねるばかりだった。
すると、呉の一将に、潘璋という剛の者があった。立ち騒ぐ敵味方のあいだを駆けぬけ、真っ直ぐに、蘇飛のそばへ近づいて行ったかと思うと、馬上のまま引っ組んで、さすがの蘇飛をも自由に働かせず、鞍脇にかかえて、たちまち、味方の船まで帰ってきた。
そして、孫権に献じると、孫権は眼をいからして、蘇飛を睨みつけ、
「以前、わが父孫堅を殺した敵将はこいつだ。すぐ斬るのは惜しい。黄祖の首と二つ並べて、凱旋ののち父の墓を祭ろう。檻車へほうりこんで本国へさし立てろ」
と、いって、部下に預けた。
呉はここに、陸海軍とも大勝を博したので、勢いに乗って、水陸から敵の本城へ攻めよせた。
さしも長い年月、ここに、
(江夏の黄祖あり)
と誇っていた地盤も、いまは痕かたもなく呉軍の蹂躙するところとなった。
城下に迫ると、この土地の案内に誰よりもくわしい甘寧は、まッ先に駆け入って、
「黄祖の首を、余人の手に渡しては恥辱だ」と、血まなこになっていた。
西門、南門には、味方が押しよせているが、誰もまだ東門には迫っていない。黄祖はおそらくこの道から逃げだして来るだろうと、門外数里の外に待ち伏せていた。
やがて、江夏城の上に、黒煙があがり、望閣楼殿すべて焔と化した頃、大将黄祖は、さんざん討ちくずされて、部下わずか二十騎ばかりに守られながら東門から駆けだして来た。
すると、道の傍らから、鉄甲五、六騎ばかり、不意に黄祖の横へ喚きかかった。甘寧は先手を取られて、
「誰か?」と見ると、それは呉の宿将程普とその家臣たちであった。
程普が、きょうの戦いに、深く期して、黄祖の首を狙っていたのは当然である。
黄祖のために、むなしく遠征の途において敗死した孫堅以来、二代孫策、そしていま三代の孫権に仕えて、歴代、武勇に負けをとらない呉の宿将として──
「きょうこそは」と、晴れがましく、故主の復讐を祈念していたことであろう。
けれど、甘寧としても、指をくわえて見てはいられない。
出遅れたので、彼はあわてて、腰なる鉄弓をつかみとり、一矢をつがえて、ちょうッと放った。
矢は、見事に、黄祖の背を射た。──どうと黄祖が馬から落ちたのを見ると、
「射止めた! 敵将黄祖を討った!」
と、どなりながら駆け寄って、程普とともに、その首を挙げた。
江夏占領の後、二人は揃って黄祖の首を孫権の前に献じた。
孫権は、首を地になげうって、
「わが父、孫堅を殺した仇。匣にいれて、本国へ送れ。蘇飛の首と二つそろえて、父の墳墓を祭るであろう」と、罵った。
諸軍には、恩賞をわかち、彼も本国へひき揚げることになったが、その際、孫権は、
「甘寧の功は大きい。都尉に封じてやろう」といい、また江夏の城へ兵若干をのこして、守備にあてようとはかった。
すると、張昭が、「それは、策を得たものではありません」と、再考をうながして、
「この小城一つ保守するため、兵をのこしておくと、後々まで、固執せねばならなくなります。しかも長くは維持できません。──むしろ思い切りよく捨てて帰れば劉表がかならず、兵を入れて、黄祖の仕返しを計ってきましょう。それをまた討って、敵の雪崩れに乗じて、荊州まで攻め入れば、荊州に入るにも入りやすく、この辺の地勢や要害は味方の経験ずみですから二度でも三度でも、破るに難いことはありますまい」
と、江夏を囮として劉表を誘うという一計を案出して語った。
「至極、妙だ」
孫権も、賛成して、占領地はすべて放棄するに決し、総軍、凱歌を兵船に盛って、きれいに呉の本国へ還ってしまった。
さてまた。
檻車にほうり込まれて、さきに呉へ護送されていた黄祖の臣──大将蘇飛は、呉の総軍が、凱旋してきたと人づてに聞いて、「そうだ、以前、自分が甘寧を助けてやったこともあるから……甘寧に頼んでみたら、或いは助命の策を講じてくれるかもしれない」と、ふと旧誼を思い出し、書面を書いて、ひそかにその手渡しを人に頼んだ。
凱旋の直後、孫権は父兄の墳墓へ詣って、こんどの勝軍を報告した。
そして功臣と共に、その後で宴を張っていると、
「折入って、お願いがあります」と、甘寧が、彼の足もとに、ひざまずいた。
「改まって、何だ?」と、孫権が訊くと、
「てまえの寸功に恩賞を賜わるかわりとして、蘇飛の一命をお助けください。もし以前に、蘇飛がてまえを助けてくれなかったら、今日、てまえの功はおろか一命もなかったところです」
と、頓首して、訴えた。
孫権も考えた。──もし蘇飛がその仁をしていなかったら、今日の呉の大勝もなかったわけだと。
しかし、彼は首を振った。
「蘇飛を助けたら、蘇飛はまた逃げて、呉へ仇をするだろう」
「いえ、決して、そんなことはさせません。この甘寧の首に誓って」
「きっとか」
「どんな誓言でも立てさせます」
「では……汝に免じて」と、ついに蘇飛の一命はゆるすといった。
それに従って、甘寧の手引きした呂蒙にも、この廉で恩賞があった。以後──横野中郎将ととなうべしという沙汰である。
するとたちまち、こういう歓宴の和気を破って、
「おのれッ、動くな」
と怒号しながら、剣を払って、席の一方から甘寧へ跳びかかってきた者がある。
「あっ、何をするかっ」
叱咤しつつ、甘寧も仰天して、前なる卓を取るやいな、さっそく相手の剣を受けて、立ち向った。
「ひかえろっ! 凌統っ」
急場なので、左右に命じているいとまもない。孫権自身、狼藉者をうしろから抱きとめて叱りつけた。
この乱暴者は、呉郡余杭の人で、凌統字を公績という青年だった。
去ぬる建安八年の戦いに、父の凌操は、黄祖を攻めに行って、大功をたてたが、その頃まだ黄祖の手についていたこの甘寧のために、口惜しくも、彼の父は射殺されていた。
そのとき凌統は、まだ十五歳の初陣だったが、いつかはその怨みをすすごうものと、以来悲胆をなだめ、血涙をのみ、日ごろ胸に誓っていたものである。
彼の心事を聞いて、
「そちの狼藉を咎めまい。孝子の情に免じて、ここの無礼はゆるしおく。──しかし家中一藩、ひとつ主をいただく者は、すべて兄弟も同様ではないか。甘寧がむかしそちの父を討ったのは、当時仕えていた主君に対して忠勤を尽したことにほかならない。今、黄祖は亡び、甘寧は、呉に服して、家中の端に加わる以上──なんで旧怨をさしはさむ理由があろう。そちの孝心は感じ入るが、私怨に執着するは、孝のみ知って、忠の大道を知らぬものだ。……この孫権に免じて、一切のうらみは忘れてくれい」
主君からさとされると、凌統は剣をおいて、床にうっ伏し、
「わかりました。……けれど、お察し下さい。幼少から君のご恩を受けたことも忘れはしませんが……父を奪われた悲嘆の子の胸を。またその殺した人間を、眼の前に見ている胸中を」
頭を叩き、額から血をながして、凌統は慟哭してやまなかった。
「予にまかせろ」
孫権は、諸将と共に、彼をなぐさめるに骨を折った。──凌統はことしまだ二十一の若年ながら、父に従って江夏へおもむいた初陣以来、その勇名は赫々たるものがある。その為人を、孫権も愛で惜しむのであった。
後。
凌統には、承烈都尉の封を与え、甘寧には兵船百隻に、江兵五千人をあずけ、夏口の守りに赴かせた。
凌統の宿怨を、自然に忘れさせるためである。
呉の国家は、日ましに勢いを加えてゆく。
南方の天、隆昌の気がみなぎっていた。
いま、呉の国力が、もっとも力を入れているのは、水軍の編制であった。
造船術も、ここ急激に、進歩を示した。
大船の建造は旺だった。それをどんどん鄱陽湖にあつめ、周瑜が水軍大都督となって、猛演習をつづけている。
孫権自身もまた、それに晏如としてはいなかった。叔父の孫静に呉会を守らせて、鄱陽湖に近い柴桑郡(江西省・九江西南)にまで営をすすめていた。
その頃。
玄徳は新野にあって、すでに孔明を迎え、彼も将来の計にたいして、準備おさおさ怠りない時であった。
「──はてな。一大事があるといって、荊州から、迎えの急使がみえた。行くがよいか。行かぬがよいか?」
その日、玄徳は、劉表の書面を手にすると、しきりに考えこんでいた。
孔明が、すぐ明らかな判断を彼に与えた。
「お出向きなさい。──おそらく、呉に敗れた黄祖の寇を討つためのご評議でしょう」
「劉表に対面した節は、どういう態度をとっていたがよいだろうか」
「それとなく、襄陽の会や、檀渓の難のことをお話しあって、もし劉表が、呉の討手を君へお頼みあっても、かならずお引受けにならないことです」
張飛、孔明などを具して、玄徳はやがて、荊州の城へおもむいた。
供の兵五百と張飛を、城外に待たせておき、玄徳は孔明とふたりきりで城へ登った。
そして、劉表の階下に、拝をすると、劉表は堂に迎えて、すぐ自分のほうから、
「先ごろは襄陽の会で、貴公に不慮の難儀をかけて申しわけない。蔡瑁を斬罪に処して、お詫びを示そうとぞんじたが、当人も諸人も慚愧して嘆くので心ならずもゆるしておいた。どうかあのことは水にながして忘れてもらいたい」と、いった。
玄徳は、微笑して、
「なんの、あのことは、蔡将軍の仕業ではありません。おそらく末輩の小人輩がなした企みでしょう。私はもう忘れております」
「ときに、江夏の敗れ、黄祖の戦死を、お聞き及びか」
「黄祖は、自ら滅びたのでしょう。平常心のさわがしい大将でしたから、いつかこの事あるべきです」
「呉を討たねばならんと思うが……?」
「お国が南下の姿勢をとると、北方の曹操が、すぐ虚にのって、攻め入りましょう」
「さ。……そこが難しい。……自分も近ごろは、老齢に入って、しかも多病。いかんせん、この難局に当って、あれこれ苦慮すると、昏迷してしまう。……ご辺は、漢の宗族、劉家の同族。ひとつわしに代って、国事を治め、わしの亡いあとは、この荊州を継いでくれまいか」
「おひきうけできません。この大国、またこの難局、どうして菲才玄徳ごときに、任を負うて立てましょう」
孔明はかたわらにあって、しきりと玄徳に眼くばせしたが、玄徳には、通じないものか、
「そんな気の弱いことを仰せられず、肉体のご健康につとめ、心をふるい起して、国治のため、さらに、良策をお立て遊ばすように」
とのみ云って、やがて、城下の旅館に退ってしまった。あとで、孔明が云った。
「なぜお引受けにならなかったのですか」
「恩をうけた人の危ういのを見て、それを自分の歓びにはできない」
「──でも、国を奪うわけではありますまいに」
「譲られるにしても、恩人の不幸は不幸。自分にはあきらかな幸い。……玄徳には忍びきれぬ」
孔明は、そっと嘆じて、
「なるほど、あなたは仁君でいらっしゃる」と、是非なげに呟いた。
そこへ、取次があった。
「荊州のご嫡子、劉琦さまが、お越し遊ばしました」
玄徳は驚いて出迎えた。
劉表の世子劉琦が、何事があって、訪ねてきたのやら? と。
堂に迎えて、来意を訊くと、劉琦は涙をうかべて告げた。
「御身もよく知っておられるとおり、自分は荊州の世継ぎと生れてはいるが、継母の蔡氏には、劉琮があるので、つねにわしをころして琮を跡目に立てようとしている。……もう城にいては、わしはいつ害されるかわからない。玄徳、どうか助けてください」
「お察し申しあげます。──けれど、ご世子、お内輪のことは、他人が容喙して、どうなるものでもありません。苦楽種々、人の家には誰にもあるもの。それを克服するのは、家の人たるものの務めではありませんか」
「……でも。ほかのことなら、なんでも忍びもしようが、生命が危ないのです。わしは、殺されたくはない」
「孔明。なにかよい思案はないだろうか。ご世子のために」
孔明は、冷然と、顔を横に振って答えた。
「一家の内事、われわれの知ることではありません」
「…………」
劉琦は、悄然と、帰るしかなかった。玄徳は気の毒そうに送って出て、
「明日、ご世子のお館まで、そっと孔明を使いにやりますから、その時、こういうようにして、彼に妙計をおたずねなさい」と、なにか耳へささやいた。
翌日、玄徳は、
「きのう世子のご訪問をうけたから、回礼に行かねばならぬが、どうしたのか、今朝から腹痛がしてならぬ。わしに代って、ご挨拶に行ってくれぬか」と、孔明にいった。
で──孔明は、劉琦の館へ出向いた。すぐ帰ろうとしたが、劉琦が礼を篤くして、酒をすすめるので、帰ろうにも帰れなかった。
酒、半酣の頃、
「先生にお越しを賜わったついでに、ぜひご一覧に供えて、教えを仰ぎたい古書があります。重代の稀書だそうです。ひとつご覧くださいませぬか」
彼の好学をそそって、ついに閣の上に誘った。孔明は、室を見廻して、
「書物はどこですか」と、不審顔をした。
劉琦は、孔明の足もとに、ひざまずいて、涙をたれながら百拝していた。
「先生、おゆるし下さい。あなたをここへ上げたのは、きのうおたずね致した自分の危難を救っていただきたいからです。どうか、死をまぬがれる良計をお聞かせ下さい」
「知らん」
「そんなことを仰っしゃらずに」
「なんで、他家の家庭の内事に立ち入ろう。そんな策は持ち合わせません」
袂を払って、閣を下りようとすると、いつのまにか、そこの梯を下からはずしてあった。
「あ? ……ご世子には、孔明をたばかられたな」
「先生をおいては、この世に、訊く人がありません。琦にとっては、生死のさかいですから……」
「いくらお訊ねあろうと、ない策は教えられません。難をのがれ、身の生命を完うなされたいと思し召すなら、ご自身、智をふるい、勇をおこして、危害と闘うしかないでしょう」
「では、どうしても、先生のお教えは乞えませんか」
「疎きは親しきを隔つべからず。新しきは旧きを離間すべからず。このことばの通りです」
「ぜひもございません」
琦は、ふいに剣を抜いて、自分の手で自分の頸を刎ねようとした。
孔明は、急に、押しとどめて、
「お待ちなさい」
「離してください」
「いや、良計を教えましょう。それほどまでのご心底なら」
「えっ、ほんとですか」
琦は、剣をおいて、孔明の前にひれ伏し、急に眼をかがやかした。
孔明は、ねんごろに話した。
「むかし、春秋の時代に晋の献公の夫人には、二人の子があった。兄を申生といい、弟を重耳という」
例話をひいて、劉琦に教えるのである。劉琦は、全身を耳にして熱心に聞いていた。
「──ところが、やがて献公の第二夫人の驪姫にもひとりの子が生れた。驪姫はその子に国を継がせたく思い、つねに正室の子の申生や重耳を悪くいっていた。けれど献公が見るに、正室の子はいずれも秀才なので、驪姫が讒言しても、それを廃嫡する気にはなれずにいた……」
「その申生は、さながら、私のいまの境遇とよく似ております」
「──で、驪姫は、春あたたかな一日、献公を楼上に迎えて、簾のうちから春園の景をうかがわせ、自分はひそかに、襟に蜜を塗って申生を園に誘いだしたものです。──すると、多くの蜂が当然、甘い蜜の香をかいで、驪姫の髪や襟元へむらがってきました。……あなやと、なにも知らない申生は驪姫の身をかばいながらその襟を打ったり背を払ったりしました。楼上から見ていた献公はそれを眺めて、怖しく憤りました。驪姫にたわむれたものと疑ったのです。──以来申生を憎むことふかく、年々に子を邪推するようになりました」
「ああ。……蔡夫人もそんな風です。いつかしら、理由なく、私も父の劉表にはうとんじられておりまする」
「一策が成功すると、驪姫の悪は勇気づいて、また一つの悪策をたくらみました。先后の祭のときです。驪姫はそっと供え物に、毒を秘めておいて、後、申生にいうには母上のお供え物を、そのまま厨房にさげてはもったいない。父君におすすめなさいと。申生は驪姫にいわるるまま父の献公へそれをすすめた。ところへ驪姫が入ってきて、外からきた食物を試みず召上がってはいけません──そういって一箇を犬へ投げ与えた。犬は立ちどころに血を吐いて死んだ。献公はうまうま驪姫の手にのって申生を殺してしまわれた」
「ああ、そして弟の重耳のほうは、どうしましたか」
「次には、わが身へくる禍いと重耳は未然に知りましたから、他国へ走って、身をかくしました。そして十九年後、初めて世に出た晋の文公は──すなわちそのむかしの重耳であったのです。……今、荊州の東南、江夏の地は、呉のために黄祖が討たれてから後守る人もなく打捨ててあります。ご世子、あなたが、継母の禍いをのがれたいと思し召すなら、父君に乞うて、そこの守りへ望んで行くべきです。重耳が国を出て身の難をのがれたのと同じ結果を得られましょう」
「先生。ありがとう存じます。琦は、にわかになお、生きてゆかれる気がしてきました」
彼は、幾度も拝謝して、手を鳴らして家臣を呼び、降り口に梯子をかけさせて、孔明を送り出した。
孔明は立ち帰って、このことを、ありのままに、玄徳に告げると、玄徳も、
「それは良計であった」と、共に歓んでいた。
間もなくまた、荊州から迎えの使いが来た。玄徳が登城してみると、劉表はこう相談を向けた。
「嫡男の琦が、なにを思い出したか、急に、江夏の守りにやってくれと申すのじゃ、どういうものであろうか」
「至極、結構ではありませんか、お膝もとを離れて、遠くへ行くことは、よいご修行にもなりましょうし、また、江夏は呉との境でもあり、重要な地ですから、どなたかご近親をひとり置かれることは、荊州全体の士気にもよいことと思われます」
「そうかなあ」
「総じて、東南の防ぎは、公と御嫡子とで、お計りください。不肖劉備は、西北の防ぎに当りますから」
「……むむ。聞けば近ごろ、曹操も玄武池に兵船を造って、舟手の教練に怠りないという噂じゃ。いずれ南征の野心であろう。切にご辺の精励をたのむぞ」
「どうか、ご安心下さい」
玄徳は新野へ帰った。
この当時である。曹操は大いに職制改革をやっていた。つねに内政の清新をはかり、有能な人物はどしどし登用して、閣僚の強化につとめ、
(事あれば、いつでも)という、いわゆる臨戦態勢をととのえていた。
毛玠が東曹掾に任じられ、崔琰が西曹掾に挙げられたのもこの頃である。わけて出色な人事と評されたのは、主簿司馬朗の弟で、河内温の人、司馬懿、字を仲達というものが、文学掾として、登用されたことだった。
その司馬仲達は、もっぱら文教方面や選挙の吏務にあったので文官の中には、異色を認められていたが、軍政方面には、まだ才略の聞えもなかった。
やはり軍部に重きをなしているのは依然、夏侯惇、曹仁、曹洪などであった。
一日、南方の形勢について、軍議のあった時、その夏侯惇は、進んでこう献議した。
「いま劉玄徳は、新野にあって、孔明を師となし、しきりに兵馬を調練しておるとか、捨ておいては後日の大患。まず、この邪魔石を取りのぞいて、しかる後、次の大計にのぞむのが順序でしょう」
諸大将のうちには、異論を抱くらしい顔色も見えたが、曹操がすぐ、
「その儀、よろしかろう」といったので、即座に、玄徳討伐のことは、決定を見てしまった。
すなわち、夏侯惇を総軍の都督とし、于禁、李典を副将とした十万の軍団は編制され、吉日をえらんで発向することとなった。
その間に、荀彧は、二度ばかり曹操の前で、異論を立てた。
「──聞説、孔明というものは、尋常一様な軍師ではないようです。かたがた、いま軽々しく、玄徳に当ることは、勝っても、利は少なく、敗れれば、中央の威厳を陥し、失うところが大きいでしょう。よくよくここはお考えあっては如何ですか」
夏侯惇は、そばで笑った。
「玄徳、孔明など、いずれも定まった領地もない野鼠の輩でしかない。そのお説はあまりに取越し苦労すぎる」
「いやいや、将軍、決して玄徳は侮れませんぞ」
ふいに、横あいから、荀彧に加勢していった者がある。見ると、先頃まで新野にいて親しく玄徳の近況を知っている徐庶であった。
「おお、徐庶か──」と、曹操は彼の存在を見出して急にたずねた。
「新たに、玄徳の軍師となった孔明とは、そも、どんな人物か」
「諸葛亮、字は孔明、また道号を臥龍先生と称して、上は天文に通じ、下は地理民情をよくさとり、六韜をそらんじ、三略を胸にたたみ、神算鬼謀、実に、世のつねの学徒や兵家ではありません」
「其方と較べれば……?」
「それがしなどは、較べものになりません。それがしを蛍とすれば孔明は月のようなものでしょう」
「それほどか」
「いかで彼に及びましょう」
すると、夏侯惇は、徐庶のことばを叱って、さらに、大言した。
「孔明も人間は人間であろう。そう大きな違いがあってたまるものではない。総じて、凡人と非凡人との差も、紙一重というくらいなものだ。この夏侯惇の眼から見れば若輩孔明のごときは、芥にひとしい。第一、あの黄口児はまだ実戦の体験すら持たないではないか。もしこの一陣で、彼を生捕ってこなかったら、夏侯惇はこの首を自ら丞相の台下に献じる」
曹操は、彼のことばを壮なりとして、欣然、出陣の日は、自身、府門に馬を立てて、十万の将士を見送った。
一方。新野の内部には、孔明がそこに迎えられてきてから、ちょっと、おもしろくない空気が醸されていた。
「若輩の孔明を、譜代の臣の上席にすえ、それに師礼をとらるるのみか、主君には、彼と起居を共にし、寝ては牀を同じゅうして睦み、起きては卓を一つにして箸を取っておるなど、ご寵用も度が過ぎる」という一般の嫉視であった。
関羽、張飛の二人も、心のうちで喜ばないふうが、顔にも見えていたし、或る時は、玄徳へ向って、無遠慮にその不平を鳴らしたこともある。
「いったいあの孔明に、どれほどな才があるのですか。家兄には少し人に惚れこみ過ぎる癖がありはしませんか」
「否、否」
玄徳は、ふっくらと笑いをふくんで、
「わしが、孔明を得たことは、魚が水を得たようなものだ」と、いった。
張飛は、不快きわまる如き顔をして、その後は、孔明のすがたを見かけると、
「水が来た。水が流れてゆく」
などと嘲った。
まことに、孔明は水の如くであった。城中にいても、いるのかいないのか分らない、常に物静かである。
或る時、彼はふと、玄徳の結髪を見て、その静かな眉をひそめ、
「何ですか、それは」と、訊ねた。
玄徳には一種の容態を飾る好みがあるらしい。よく珍しい物で帽を結い、珠をかざる癖があるので、それをとがめたらしいのである。
「これか。……これは犁牛の尾だよ。たいへん珍しい物だそうだ。襄陽のさる富豪から贈ってよこしたので、帽にして結わせてみた。おかしいかな」
「よくお似合いになります。──が、悲しいではありませんか」
「なぜ」
「婦女子の如く、容姿の好みを遊ばして、それがなんとなりますか。君には大志がないしるしです」
孔明がやや色をなしてそう詰問ると、玄徳はいきなり犁牛の帽をなげうって、
「なんで、本心でこんな真似をしよう。一時の憂さを忘れるために過ぎぬ」と、彼も顔容を正した。
孔明は、なおいった。
「君と劉表とを比べてみたらどうでしょう?」
「自分は劉表に及ばない」
「曹操と比べては」
「及ばぬことさらに遠い」
「すでに、わが君には、この二人にも及ばないのに、ここに抱えている兵力はわずか数千に過ぎますまい。もし曹操が、明日にでも攻めてきたら、何をもって防ぎますか」
「……それ故に、わしは常に憂いておる」
「憂いは単なる憂いにとどめていてはなにもなりません。実策を講じなければ」
「乞う、善策を示したまえ」
「明日から、かかりましょう」
孔明はかねてから新野の戸籍簿を作って、百姓の壮丁を徴募しておいた。城兵数千のほかに、農兵隊の組織を計画していたのである。
次の日から、彼はみずから教官となって、三千余人の農民兵を調練しはじめた。歩走、飛伏、一進一退、陣法の節を教え、克己の精神をたたき込み、刺撃、用剣の術まで、習わせた。
ふた月も経つと、三千の農兵は、よく節を守り、孔明の手足のごとく動くようになった。
かかる折に、果たして、夏侯惇を大将とする十万の兵が、新野討滅を名として、南下してくるとの沙汰が聞えてきたのである。
「十万の大兵とある。如何にして防ぐがよいか」
玄徳は恐怖して、関羽、張飛のふたりへもらした。すると張飛は、
「たいへんな野火ですな。水を向けて消したらいいでしょう」
と、こんな時とばかり、苦々しげに面当てをいった。
些末な感情などにとらわれている場合ではない。玄徳は二人へいった。
「智は孔明をたのみ、勇は二人の力にたのむぞ。よいか。くれぐれも」
張飛と関羽が退がって行くと、玄徳はまた孔明を呼んで、同じように、この急場に処する対策を依嘱した。
「ご心配は無用です」
孔明はまずそういってから、
「──ただ、この際の憂いは、外よりも内にあります。おそらくは関羽、張飛のふたりが私の命に伏しますまい。軍令が行われなければ、敗れることは必然でしょう」
「実に困ったものだ。それにはどうしたらいいだろう」
「おそれながら、わが君の剣と印とを孔明にお貸しください」
「易いこと、それでよいか」
「諸将をお召しください」
孔明の手に、剣と印を授けて、玄徳は諸将を呼んだ。
孔明は、軍師座に腰をすえ、玄徳は中央の床几に倚っていた。孔明は、厳然立ちあがって、味方の配陣を命じた。
「ここ新野を去る九十里外に、博望坡の嶮がある。左に山あり、予山という。右に林あり、安林という。──各〻ここを戦場と心得られよ」と、まず地の理を指摘して、「──関羽は千五百をひきいて予山にひそみ、敵軍の通過、半ばなるとき、後陣を討って、敵の輜重を襲い、火をかけて焚殺せられよ。張飛は、同じく千五百の兵を、安林に入れて、後ろの谷間へかくれ、南にあたって、火のあがるを見るや、無二、無三、敵の中軍先鋒へ当ってそれを粉砕し給え。──また、関平と劉封とは各五百人を率して、硫黄焔硝をたずさえ、博望坡の両面より、火を放って敵を火中につつめ」
次に、趙雲を指命して、
「ご辺には先手を命じる」と、いった。
趙雲が、よろこび勇むと、孔明はたしなめて、
「ただし、一箇の功名は、きっと慎み、ただ詐り負けて逃げてこられよ。勝つことをもって能とせず、敵を深く誘いこむのが貴公の任である。ゆめ、全軍の戦機をあやまり給うな」と、さとした。
そのほか、すべての手分けを彼が命じ終ると、張飛は待っていたように、いきなり孔明へ向って大声でいった。
「いや、軍師のおさしず、いちいちよく相分った。ところで一応伺っておきたいが、軍師自身は、いずれの方面に向い給うか」
「わが君には、一軍をひきい、先手の趙雲と、首尾のかたちをとって、すなわち敵の進路に立ちふさがる──」
「だまれ、わが君のことではない。ご辺みずからは、どこで合戦をする覚悟かと訊いておるのだ」
「かく申す孔明は、ここにあって新野を守る」
張飛は、大口あいて、不遠慮に笑いながら、
「わははは、あははは。さてこそさてこそ、この者の智慧のほどこそ知られけり──だ、聞いたか、方々」と、手をうって、
「主君をはじめ、われわれにも、遠く本城を出て戦えと命じながら自分は新野を守るといっておる、──安坐して、おのれの無事だけを守ろうとは……うわ、は、は、は。笑えや、各〻」
孔明は、その爆笑を一喝に打ち消して、涼然、こう叱りつけた。
「剣印ここにあるを、見ぬか。命にそむく者は、斬るぞっ。軍紀をみだす者も同じである!」
眸は、張飛を射すくめた。奮然張飛は反抗しかけたが、玄徳になだめられて、不承不承、出ていった。嘲笑いながら、出陣した。
表面、命令に従って、それぞれ前線へ向っては行ったが、内心、孔明の指揮をあやぶんでいたのは関羽、張飛だけではなかった。
関羽なども、張飛をなだめていたが、
「とにかく、孔明の計があたるか否か、試みに、こんどだけは、下知に従っていようではないか」
と、いった程度であった。
時、建安十三年の秋七月という。夏侯惇は十万の大軍を率いて、博望坡(河南省・新野の北方)まで迫ってきた。
土地の案内者をよんで、所の名をたずねると、
「うしろは羅口川、左右は予山、安林。前はすなわち博望坡です」と、答えた。
兵糧輜重などを主とした後陣の守りには、于禁、李典の二将をおき、自身は副将の夏侯蘭、護軍の韓浩の二人を具して、さらにすすんだ。
そしてまず、軽騎の将数十をつれて、敵の陣容を一眄すべく、高地へ馳けのぼって行ったが、
「ははあ。あれか。わははは」と、夏侯惇は、馬上で大いに笑った。
「何がそんなにおかしいので」と、諸将がたずねると、
「さきに徐庶が、丞相のご前で、孔明の才をたたえ、まるで神通力でもあるようなことをいったが、今、彼の布陣を、この眼に見て、その愚劣を知ったからだ。──こんな貧弱な兵力と愚陣を配して、われに向わんとは、犬羊をケシかけて虎豹と闘わせようとするようなもの──」
と、なお笑いやまず、自分が曹操の前で、玄徳と孔明を生捕って見せると大言したことも、これを見れば、もう掌にあるも同様だと云い足した。
すでに敵を呑んだ夏侯惇は、先手の兵にむかって、一気に衝き崩せと号令をかけ、自身も一陣に馳けだした。
時に、趙雲もまた彼方から馬を飛ばして、夏侯惇のほうへ向ってきた。夏侯惇は、大音をあげていう。
「鼠将玄徳の粟を喰って、共に国をぬすむ醜類、いずこへ行くか。夏侯惇これにあり、首をおいてゆけ」
「何をっ」
趙雲は、まっしぐらに、鎗を舞わしてかかってくる。丁々十数戟、いつわって、たちまち逃げ出すと、
「待てっ、怯夫っ」と、夏侯惇は、勝ち誇って、あくまで追いかけて行った。
護軍韓浩は、それを見て、夏侯惇に追いつき、諫めていった。
「深入りは危険です。趙雲の逃げぶりを見ると、取って返して誘い、誘ってはまた逃げだす様子、伏兵があるにちがいありません」
「何を、ばかな」
夏侯惇は一笑に付して、
「伏勢があれば伏勢を蹴ちらすまでだ、これしきの敵、たとえ十面埋伏の中を行くとも、なんの恐るるに足るものか。──ただ追い詰め追い詰め討ちくずせ」
かくて、いつか彼は博望の坡を踏んでいた。
すると果たして、鉄砲のとどろきと共に、金鼓の声、矢風の音が鳴りはためいた。旗を見れば玄徳の一陣である。夏侯惇は大いに笑って、
「これがすなわち、敵の伏勢というものだろう。小ざかしき虫けらども、いでひと破りに」
と、云い放って、その奮迅に拍車をかけた。
気負いぬいた彼の麾下は、その夜のうちにも新野へ迫って、一挙に敵の本拠を抜いてしまうばかりな勢いだった。
玄徳は一軍を率いて、力闘につとめたが、もとより孔明から授けられた計のあること、防ぎかねた態をして、たちまち趙雲とひとつになって潰走しだした。
いつか陽は没して、霧のような蒸雲のうえに、月の光がかすかだった。
「おうーいっ、于禁。おういっ──しばらく待て」
うしろで呼ばわる声に、馬に鞭打って先へ急いでいた于禁は、
「李典か。何事だ」と、大汗を拭いながら振向いた。
李典も、あえぎあえぎ、追いついてきて、
「夏侯都督には、如何なされたか」
「気早の御大将、何かは猶予のあるべき。悍馬にまかせて真っ先に進まれ、もうわれらは二里の余もうしろに捨てられている」
「危ういぞ。図に乗っては」
「どうして」
「あまりに盲進しすぎる」
「蹴ちらすに足らぬ敵勢、こう進路のはかどるのは、味方の強いばかりでなく、敵が微弱すぎるのだ。それを、何とて、びくびくするのか」
「いや、びくびくはせぬが、兵法の初学にも──難道行くに従って狭く、山川相せまって草木の茂れるは、敵に火計ありとして備うべし──。ふと、それを今、ここで思い出したのだ」
「むむ。そういわれてみると、この辺の地勢は……それに当っている」
と、于禁も急に足をすくめた。
彼は、多くの兵を、押しとどめて、李典にいった。
「ご辺はここに、後陣を固め、しばらく四方に備えてい給え。……どうも少し地勢が怪しい。拙者は大将に追いついて、自重するよう報じてくる」
于禁は、ひとり馬を飛ばし、ようやく夏侯惇に追いついた。そして李典のことばをそのまま伝えると、彼もにわかにさとったものか、
「しまったっ。少し深入りしたかたちがある。なぜもっと早くいわなかったのだ」
そのとき──一陣の殺気というか、兵気というものか、多年、戦場を往来していた夏侯惇なので、なにか、ぞくと総身の毛あなのよだつようなものに襲われた。
「──それっ、引っ返せ」
馬を立て直しているまもない。四山の沢べりや峰の樹かげ樹かげに、チラチラと火の粉が光った。
すると、たちまち真っ黒な狂風を誘って、火は万山の梢に這い、渓の水は銅のように沸き立った。
「伏兵だっ」
「火攻め!」
と、道にうろたえだした人馬が、互いに踏み合い転げあって、阿鼻叫喚をあげていたときは、すでに天地は喊の声にふさがり、四面金鼓のひびきに満ちていた。
「夏侯惇は、いずれにあるか。昼の大言は、置き忘れてきたか」
趙雲子龍の声がする。
さしもの夏侯惇も、渓川におちて死ぬものやら、馬に踏まれて落命するなど、おびただしい味方の死傷を見ては、ひっ返して、趙雲に出会う勇気もなかったらしい。
「馬に頼るな。馬を捨てて、水に従って逃げ落ちよ」
と、味方に教えながら、自身も徒歩となって、身一つを遁れだすのがようやくであった。
後陣にいた李典は、
「さてこそ」
と前方の火光を見て、急に救いに出ようとしたが、突如、前に関羽の一軍があって道をふさぎ、退いて、博望坡の兵糧隊を守ろうとすれば、そこにはすでに、玄徳の麾下張飛が迫って、輜重をことごとく焼き払ったあげく、
「火の網の中にある敵、一匹ものがすな」と、後方から挟撃してきた。
討たるる者、焼け死ぬ者、数知れなかった。夏侯惇、于禁、李典などの諸将は輜重の車まで焼かれたのをながめて、
「もう、いかん」と、峰越しに逃げのびたが、夏侯蘭は張飛に出会って、その首を掻かれ、護軍韓浩は、炎の林に追いこまれて、全身、大火傷を負ってしまった。
戦は暁になってやんだ。
山は焼け、渓水は死屍で埋もれ、悽愴な余燼のなかに、関羽、張飛は軍をおさめて、意気揚々、ゆうべの戦果を見まわっていた。
「敵の死骸は、三万をこえている。この分では無事に逃げた兵は、半分もないだろう」
「まず、全滅に近い」
「幸先よしだ。兵糧その他、戦利品も莫大な数にのぼろう。かかる大捷を博したのも、日頃の鍛錬があればこそ──やはり平常が大事だな」
「それもあるが……」と、関羽は口をにごらしながら、駒を並べている張飛の顔を見て云った。
「この作戦は、一に孔明の指揮に出たものであるから、彼の功は否みがたい」
「むむ。……計は、図にあたった。彼奴も、ちょっぴり、味をやりおる」
張飛はなお幾らかの負け惜しみを残していたが、内心では、孔明の智謀を認めないわけにはゆかなかった。
やがて、戦場をうしろに、新野のほうへ引きあげて行くと、彼方から一輌の車をおし、簇擁として、騎馬軍旗など、五百余の兵が近づいてくる。
「誰か?」
と見れば、車のうえには悠然として軍師孔明。──前駆の二大将は糜竺、糜芳のふたりだった。
「オオ、これは」
「軍師か」
威光というものは争えない。関羽と張飛はそれを見ると、理屈なしに馬をおりてしまった。そして車の前に拝伏し、夜来の大捷を孔明に報告した。
「わが君の御徳と、各〻の忠誠なる武勇によるところ。同慶の至りである。」
孔明は車上から鷹揚にそういって、大将たちをねぎらった。自分よりはるかに年上な猛将たちを眼の下に見て、そういえるだけでも、年まだ二十八歳の弱冠とは見えなかった。
やがて、またここへ、趙雲、関平、劉封などの諸将も各〻の兵をまとめて集まった。
関羽の養子関平は、敵の兵糧車七十余輛を分捕って、初陣の意気軒昂たるものがあった。
さらに、白馬にまたがった玄徳のすがたが、これへ見えると、諸軍声をあわせて、勝鬨をあげながら迎えた。
「ご無事で」
「めでたく」
「しかも、大捷を占めてのご帰城──」と、人々はよろこび勇んで、新野へ凱旋した。旗幡翻々と道を埋め、土民はそれを迎えて拝舞雀躍した。
孫乾は、留守していたので、城下の父老をひきいて、郭門に出迎えていた。その老人たちは、口をそろえて、
「この土地が、敵の蹂躙から免れたのは、ひとえにわがご領主が、賢人を厚くお用いなされたからじゃ」と、玄徳の英明をたたえ、また孔明を徳として仰いだ。
しかし孔明は誇らなかった。
城中に入って、数日の後、玄徳が彼に向って、あらゆる歓びと称讃を呈しても、
「いやいや、まだ決して、安心はなりません」と、眉をひらく風もなかった。
「いま、夏侯惇の十万騎は、残り少なに討ちなされて、ここしばらくは急もありますまいが、必定、この次には、曹操自身が攻め下って来るでしょう。味方の安危如何はその時かと思われます」
「曹操がみずから攻めてくるようだったら、それは容易ならぬことになる。北方の袁紹ですら一敗地に滅び、冀北、遼東、遼西まで席巻したあの勢いで南へきたら?」
「かならず参ります。故に、備えておかなければなりますまい。それにはこの新野は領堺も狭く、しかも城の要害は薄弱で、たのむには足りません」
「でも、新野を退いては」
「新野を退いて拠るべき堅固は……」
と、孔明は云いかけて、そっとあたりを見まわした。
「ここに一計がないでもありません」
と、孔明は声をはばかって、ささやいた。
「国主の劉表は病重く、近頃の容態はどうやら危篤のようです。これは天が君に幸いするものでなくてなんでしょう。よろしく荊州を借りて、万策をお計りあれ。それに拠れば、地は広く、嶮は狭く、軍需財源、すべて充分でしょう」
玄徳は顔を横に振った。
「それは良計には違いなかろうが、わしの今日あるは、劉表の恩である。恩人の危うきにつけこんで、その国を奪うようなことは忍び得ない」
「このさい小乗的なお考えは捨て、大義に生きねばなりますまい。いま荊州を取っておかなければ、後日になって悔ゆるとも及びませぬ」
「でも、情にもとり、義に欠けるようなことは」
「かくいううちにも、曹操の大軍が襲来いたしたなら、何となさいますか」
「いかなる禍いにあおうと、忘恩の徒と誹られるよりはましである」
「ああ。まことに君は仁者でいらせられる!」
それ以上、強いることばも、諫める辞もなく、孔明は口をつぐんだ。
さてまた夏侯惇は、口ほどもない大敗を喫して、命からがら都へ逃げ上り、みずから面縛して──死を待つ意味で罪人のように眼隠しをほどこし──畏る畏る相府の階下にひざまずいた。
(面目なくて会わせる顔もありません)といわぬばかりな姿である。
曹操は出座して、それを見ると苦笑した。
「あれを解いてやれ」と、左右の者へ顎でいいつけ、階を上がることをゆるした。
夏侯惇は、庁上に慴伏して、問わるるまま軍の次第を報告した。
「何よりの失策は、敵に火計のあることをさとらず、博望坡をこえて、渓林のあいだへ深入りしすぎた一事でございました。ために丞相の将士を数多うしない、罪万死に値します」
「幼少より兵学を習い、今日まで幾多の戦場を往来しながら、狭道には必ず火攻めのあることぐらい気づかないで軍の指揮ができるか」
「今さら、何の言い訳もございません。于禁はそれをさとって、それがしにも注意しましたが、後悔すでに及ばなかったのであります」
「于禁には大将軍たる才識がある。汝も元来の凡将ではない筈。この後の機会に、今日の恥をそそぐがよい」と叱ったのみで、深くも咎めなかった。
その年の七月下旬。
曹操は八十余万の大軍を催し、先鋒を四軍団にわかち、中軍に五部門を備え、後続、遊軍、輜重など、物々しい大編制で、明日は許都を発せんと号令した。中太夫孔融は、前の日、彼に諫めた。
「北国征略のときすら、こんな大軍ではありませんでした。かかる大動員をもって大戦にのぞまれなば、おそらく洛陽、長安以来の惨禍を世に捲き起しましょう。さる時には、多くの兵を損い、民を苦しめ、天下の怨嗟は挙げて丞相にかかるやも知れません。なぜならば、玄徳は漢の宗親、なんら朝廷に反いたこともなく、また呉の孫権たりといえど、さして不義なく、その勢力は江東江南六郡にまたがり、長江の要害を擁しているにおいては、いかにお力をもってしても……」
「だまれ。晴れの門出に」
曹操は叱って、「なお申さば、斬るぞ」と、一喝に退けてしまった。
孔融は、慨然として、府門を出ながら、
「不仁を以て仁を伐つ。敗れざらんや。ああ!」
と、嘆いて帰った。
附近にたたずんでいた厩の小者が、ふと耳にして、主人に告げ口した。その主人なる男は日頃、孔融と仲のわるい郄慮だったから、早速、曹操にまみえて、輪に輪をかけて讒言した。
些細なことをとらえて、棒ほどに訴える。
そして、主たる位置にある人の誇りと弱点につけこむ。
讒者の通有手段である。
そんな小人の舌に乗せられるほど曹操は甘い主君では決してない。けれど、どんな人物でも、大きな組織のうえに君臨していわゆる王者の心理となると、立志時代の克己や反省も薄らいでくるものとみえる。人間通有の凡小な感情は、抑えてのないまま、かえって普通人以上、露骨に出てくる。
無能な小人輩は、甘言と佞智をろうすことを、職務のように努めはじめる。曹操のまわりには、つねに苦諫を呈して、彼の弱点を輔佐する荀彧のような良臣もいたが、その反対も当然多い。
「どうも孔融は、丞相にたいして、お怨みを抱いているようです。……昨夕も退庁の際、ひとり言に、不仁を以て仁を伐つ、敗れざらんや──などと罵って帰りましたし、日頃の言行に照らしても、不審のかどがいくらもありますし」
讒者は、弁をふるって、日頃から胸にたたんでおいた材料を、舌にまかせて並べたてた。
「──いつでしたか、丞相が禁酒の法令を発しられましたときも、孔融は笑って、天に酒旗の星あり、地に酒郡あり、人に喜泉なくして、世に何の歓声あらん。民に酒を禁じるほどなら、今に婚姻も禁じるであろう、などと途方もない暴説を吐いておりましたし」
「…………」
「また。あの孔融はですね。ずっと以前ですが、朝廷の御宴の折、赤裸になって丞相を辱めた禰衡──あの奇舌学人とは──古くから親交がありまして、禰衡にあんな悪戯をさせたのも、後で聞けば、孔融の入れ智慧だったということです」
「…………」
「いえ、まだまだ、それのみではありません。彼は荊州の劉表とは、ずいぶん以前から音信を交わしております。また玄徳とは、わけても昵懇と聞いておりますゆえ、この辺の虚実は彼の邸を、突然襲って家探ししてごらんになれば、きっと意外な証拠が現れるのではないかと思われます。──明日、荊州へご発向の前に、ぜひその一事は、明らかに調べてご出陣ありますように」
「…………」
かなり長いあいだしゃべらせておいた。曹操は一語も発せずにいたが、非常にいやな顔つきをしていた。そして聞くだけ聞き終るといきなり、
「うるさい、あっちへ行け」
と、顎をあげて、蠅のように、その家臣を目さきから追い払った。
さすがに、讒者の肚を、観破したのかと思うと、そうでもない。いや、その反対だったのである。
たちまち廷尉を呼んで、
「すぐ行け」と、何かいいつけた。
廷尉は、一隊の武士と捕吏をひきつれ、不意に孔融の邸を襲った。
孔融は、なんの抵抗をするまもなく、召捕られた。
召使いのひとりが奥へ走って、
「たッ、大変ですっ。ご父君にはいま、廷尉に捕縛されて、市へひかれて行きました!」
と、そこにいる孔融の息子たちへ、哭き声で知らせた。
二人の息子は、碁を囲んで遊んでいたが、すこしも驚かず、
「──巣すでに破れて、卵の破れざるものあらんか」
と、なお二手三手さしていた。
もちろん、たちまち踏みこんできた捕吏や武士の手にかかって、兄弟とも斬られてしまった。
邸は炎とされ、父子一族の首は市に梟けられた。
荀彧は、後で知って、
「どうも、困ったものです」と、苦々しげに云ったきりで、いつもの如く、曹操へ諫言はしなかった。諫言も間に合わないし、また無言でいるのも、一つの諫言になるからであろう。
曹操みずから、許都の大軍をひきいて南下すると、頻々、急を伝えてくる中を、荊州の劉表は、枕も上がらぬ重態をつづけていた。
「御身と予とは、漢室の同宗、親身の弟とも思うているのに……」
病室に玄徳を招いて、彼は、きれぎれな呼吸の下から説いていた。
「予の亡い後、この国を、御身が譲りうけたとて、誰が怪しもう。奪ったなどといおう。……いや、いわせぬように、予が遺言状をしたためておく」
玄徳は、強って辞した。
「せっかくの尊命ですが、あなたにはお子達がいらっしゃいます。なんで私がお国を継ぐ必要などありましょう」
「いや、その孤子の将来も、御身に託せば安心じゃ。どうかあの至らぬ子らを扶け、荊州の国は御身が受け継いでくれるように」
遺言にひとしい切実な頼みであったが、玄徳はどうしても受けなかった。
孔明は後にその由を聞いて、
「あなたの律義は、かえって、荊州の禍いを大にしましょう」と、痛嘆した。
その後、劉表の病は重るばかりな所へ、許都百万の軍勢はすでに都を発したと聞えてきたので、劉表は気魄もおののき飛ばして、遺言の書をしたためて後事を玄徳に頼んだ。──御身が承知してくれないならば、嫡子の劉琦を取立てて荊州の主に立ててくれよというのであった。
蔡夫人は、穏やかならぬ胸を抱いた。彼女の兄蔡瑁や腹心の張允も、大不満を含んで、早くも、
「いかにして、琦君を排し、劉琮の君を立てるか」を、日夜、ひそひそ凝議していた。
──とも知らず、劉表の長男劉琦は、父の危篤を聞いて、遠く江夏の任地から急いで荊州へ帰ってきた。
そして旅舎にも憩わず、直ちに城へ入ってくると、内門の扉はかたく彼を拒んで入れなかった。
「父の看護につこうものと、はるばる江夏から急いできた劉琦なるぞ。城門の者、番の者、ここを開けい。通してくれよ」
すると、門の内から蔡瑁は声高に答えた。
「父君のご命をうけて、国境の守りに赴かれながら、無断に江夏の要地をすてて、ご帰国とは心得ぬお振舞い。いったい誰のゆるしをうけてこれに来られたか。軍務の任の重きことをお忘れあったか。たとえご嫡子たりともここをお通しするわけには参らん。──疾く疾くお帰りあれ、お帰りあれ」
「その声は、瑁伯父ではないか。せっかく遠路を参ったのに、門を入れぬとは無情であろう。すぐ江夏へ帰るほどに、せめて父君にひと目会わせてくれい」
「ならぬ!」と、伯父の権を、声に加えて、蔡瑁はさらにこッぴどくいって、追い払った。
「病人にせよ、会えばお怒りときまっている。病を重らすだけのことだ。さすれば孝道にも背くことに相成ろう。不孝をするため、わざわざ来られたわけでもあるまい!」
劉琦はややしばらく門外にたたずんで哭き声をしのばせていたが、やがてしおしおと馬をかえして立ち去った。
秋八月の戊申の日、劉表は、ついに臨終した。
蔡夫人、蔡瑁、張允などは、偽の遺言書を作って、
=荊州の統は、弟劉琮を以て継がすべし
と披瀝した。
蔡夫人の生んだ二男劉琮は、その時まだ十四歳であったが、非常に聡明な質だったので、宿将幕官のいるところで、或る折、
「亡父君のご遺言とはあるが、江夏には兄上がいるし、新野には外戚の叔父劉玄徳がいる。もし兄や叔父がお怒りの兵を挙げて、罪を問うてきたら何とするぞ」
と、質問しだしたので、蔡夫人も蔡瑁も、顔いろを変えてあわてた。
すると、末席にいた幕官の李珪という者が、劉琮の言へ即座にこたえて、
「おう若君、よくぞ仰せられました。実に天真爛漫、いまの君のおことばこそ、人間の善性というものです。君臣に道あり、兄弟に順あり、お兄君をしのいでお継ぎになるなど、もとより逆の甚だしいものです。いそぎ使いを馳せて江夏より兄君を迎えられ、琦君を国主とお立て遊ばし、玄徳を輔佐としてまず内政を正し、しかる後、北は曹操を防ぎ、南は孫権にあたり、上下一体となるのでなければ、この荊州の滅乱はまぬかれません!」と、はばかる色もなく直言した。
蔡瑁は、赫怒して、
「みだりに舌をうごかして、故君のご遺言を辱め、部内の人心を攪乱する賊臣め。黙れっ、黙りおろうっ」と、大喝しながら、武士と共に、李珪のそばへ馳け寄って、「これへ出ろ」と、引きずりだした。
李珪は悪びれずになおも、
「国政にあずかる首脳部の方々からして、順をみだし、法をやぶり、何とて他国の侵攻を防ぎ得ましょうや。この国の亡ぶは眼に見えている」と、叫んでやまなかったが、とたんに蔡瑁が抜き払った剣の下に、あわれその首は斬り落されていた。
死屍は市の不浄墳に取り捨てられたが、市人は伝え聞いて、涙を流さぬはなかったという。
襄陽の東四十里、漢陽の荘麗なる墓所に、故劉表の柩は国葬された。蔡氏の閥族は、劉琮を国主として、これから思うままに政をうごかしたが、時まさに未曾有の国難の迫っている折から、果たしてそんな態勢で乗り切れるかどうか、心あるものは危ぶんでいた。
蔡夫人は、劉琮を守護して、軍政の大本営を襄陽城に移した。
時すでに、曹操の大軍は刻々南下して、
「はや宛城に近し!」
とさえ聞えてきたのである。
幼主と蔡夫人を主座に仰ぎ、蔡瑁、蒯越以下、宿将群臣たちは日々評議に余念なかった。
「一戦いなみ難し」とする軍の主戦論は、濃厚であったが、文官側になお異論が多い。
就中、東曹の掾公悌は、
「三つの弱点がある」と、国内の不備をかぞえて、非戦論を主張した。
その一は、江夏の劉琦が、国主の兄でありながら、まったく排け者にされている不満から、いつ荊州の背後を突くか知れないという不安。
二には、玄徳の存在である。しかも玄徳のいる新野は、この襄陽と江水ひとつをへだてた近距離にある。おそらく玄徳の向背はこの際、はかり知れないものがあろうという点。
三つには、故太守の歿後、まだ日も経っていないので、諸臣の不一致、内政の改革、あらゆる備えが、まだ完き臨戦態勢に至っていない──というのであった。
「その説に自分も同感である。自分をもっていわせれば、さらに三つの不利がある」
と、続いて山陽高平の人、王粲字は仲宣が起って戦に入る三害を力説した。
一、中国百万の軍は、朝廷をひかえ、抗するものは、違勅の汚名をうける。
一、曹操は威雷電のごとく、その強馬精兵は久しく名あるところ。荊州の兵は、久しく実戦の体験がない。
一、たとえ玄徳をたのみとするも、玄徳のふせぎ得る曹操ではない。もしまた、曹操に当り得るほどな実力を彼に附与すれば、なんで玄徳が、わが君の下風に屈していよう。
公悌のいう三弱、王粲のあげた三害、こう数えたてれば、荊州は到底、中国百万の軍と雌雄を決して勝てる強味はどこにもない。
結局、降服の道しかなかった。即ち、和を乞うの書をたずさえて、襄陽の使いは南進中の曹操の軍へ、急遽派遣されたのであった。
百万の軍旅は、いま河南の宛城(南陽)まで来て、近県の糧米や軍需品を徴発し、いよいよ進撃に移るべく、再整備をしていた。
そこへ、荊州から降参の使いとして、宋忠の一行が着いた。
宋忠は、宛城の中で、曹操に謁して、降参の書を奉呈した。
「劉琮の輔佐には、賢明な臣がたくさんいるとみえる」
曹操は大満足である。
こう使いを賞めて、「劉琮を忠烈侯に封じて、長く荊州の太守たる保証を与えてやろう。やがてわが軍は、荊州に入るであろうから、その時には、城を出て、曹操の迎えに見えるがいい。──劉琮に会って、その折、なお親しく語ることもあろう」と、いった。
宋忠は、衣服鞍馬を拝領して、首尾よく荊州へ帰って行った。
その途中である。
江を渡って、渡船場から上がってくると、一隊の人馬が馳けてきた。
「何者だっ、止れっ」
と、誰何されて、馬上の将を見ると、この辺の守りをしていた関羽である。
「しまった」
と思ったが、逃げるにも逃げきれない。宋忠は彼の訊問にありのままを答えるしかなかった。
「何。降参の書をたずさえて、曹操の陣へ使いした帰りだと申すか?」
関羽は、初耳なので、驚きに打たれた。
「これは、自分だけが、聞き流しにしているわけには参らぬ」
有無をいわせず、後は、宋忠を引ッさげて、新野へ馳けた。
新野の内部でも、この政治的な事実は、いま初めて知ったことなので、驚愕はいうまでもない。
わけて、玄徳は、
「何たることか!」
と、悲涙にむせんで、昏絶せんばかりだった。
激しやすい張飛のごときは、
「宋忠の首を刎ねて血祭りとなし、ただちに兵をもって荊州を攻め取ってしまえ。さすれば無言のうちに、曹操へやった降参の書は抹殺され、無効になってしまう」
と、わめきちらして、いやが上にも、諸人を動揺させた。
宋忠は生きた心地もなく、おどおどして、城中にみなぎる悲憤の光景をながめていたが、
「今となって、汝の首を刎ねたところで、何の役に立つわけもない。そちは逃げろ」
と、玄徳は彼をゆるして、城外へ放ってやった。
ところへ、荊州の幕賓、伊籍がたずねてきた。宋忠を放った後で、玄徳は、孔明そのほかを集めて評議中であったが、ほかならぬ人なのでその席へ招じ、日頃の疎遠を謝した。
伊籍は、蔡夫人や蔡瑁が、劉琦をさしおいて、弟の劉琮を国主に立てたことを痛憤して、その鬱懐を、玄徳へ訴えに来たのであった。
「その憂いを抱くものは、あなたばかりでありません」と、玄徳はなだめて後、
「──しかも、まだまだあなたの憂いはかろい。あなたのご存じなのは、それだけであろうが、もっと痛心に耐えないことが起っている」
「何です? これ以上、痛心にたえないこととは」
「故太守が亡くなられて、まだ墳墓の土も乾かないうち、この荊州九郡をそっくり挙げて、曹操へ降参の書を呈したという一事です」
「えっ、ほんとですか」
「偽りはありません」
「それが事実なら、なぜ貴君には、直ちに、喪を弔うと号して、襄陽に行き、あざむいて幼主劉琮をこちらへ、奪い取り、蔡瑁、蔡夫人などの奸党閥族を一掃してしまわれないのですか」
日頃、温厚な伊籍すら、色をなして、玄徳をそう詰問るのであった。
孔明も共にすすめた。
「伊籍のことばに、私も同意します。今こそご決断の時でしょう」
しかし玄徳は、ただ涙を垂るるのみで、やがてそれにこう答えた。
「いやいや臨終の折に、あのように孤子の将来を案じて、自分に後を託した劉表のことばを思えば、その信頼に背くようなことはできない」
孔明は、舌打ちして、
「いまにして、荊州も取り給わず遅疑逡巡、曹操の来攻を、拱手してここに見ているおつもりですか」と、ほとんど、玄徳の戦意を疑うばかりな語気で詰問った。
「ぜひもない……」と、玄徳は独りでそこに考えをきめてしまっているもののように──
「この上は新野を捨てて、樊城へ避けるしかあるまい」と、いった。
ところへ、早馬が来て、城内へ告げた。曹操の大軍百万の先鋒はすでに博望坡まで迫ってきたというのである。
伊籍は倉皇と帰ってゆく。城中はすでにただならぬ非常時色に塗りつぶされた。
「とまれ、孔明あるからには、御心をやすんじ給え」
玄徳をなぐさめて、孔明はただちに、諸将へ指令した。
「まず、防戦の第一着手に、城下の四門に高札をかかげ──百姓商人老幼男女、領下のものことごとく避難にかかれ、領主に従って難を避けよ、遅るる者は曹操のためかならずみなごろしにならん──としるして布令なす事」と、手配の順に従って、なお、次のように云いわたした。
「孫乾は西河の岸に舟をそろえて避難民を渡してやるがよい。糜竺はその百姓たちを導いて、樊城へ入れしめよ。また関羽は千余騎をひきいて、白河上流に埋伏して、土嚢を築いて、流れをせき止めにかかれ」
孔明は、諸将の顔を見わたしながら、ここでちょっと、ことばを休め、関羽の面にその眸をとどめて云い足した。
「──明日の夜三更の頃、白河の下流にあたって、馬のいななきや兵のさけびの、もの騒がしゅう聞えたときは、すなわち曹軍の潰乱なりと思うがよい。上流にある関羽の手勢は、ただちに土嚢の堰を切って落し、一斉に、激水とともに攻めかかれ。──さらに、張飛は千余騎をひっさげて、白河の渡口に兵を伏せ、関羽と一手になって曹操の中軍を完膚なきまで討ちのめすこと」
孔明のひとみは、関羽から張飛の面へ移って云いつける。張飛はらんとした眼をかがやかして、大きくそれへうなずく。
「趙雲やある!」
孔明が、名を呼んだ。
諸将のあいだから、趙雲は、おうっと答えながら、一歩前へ出た。
「ご辺には、兵三千を授ける」
孔明はおごそかにいって、
「──乾燥した、柴、蘆、茅など充分に用意されよ。硫黄焔硝をつつみ、新野城の楼上へ積みおくがよい。明日の気象を考えるに、おそらく暮れ方から大風が吹くであろう。勝ちおごった曹操の軍は、風とともに、易々と、陣を城中にうつすは必然である。──時にご辺は、兵を三方にわけて、西門北門南門の三手から、火矢、鉄砲、油礫などを投げかけ、城頭一面火焔と化すとき、一斉に、兵なき東の門へ馳け迫れ。──城内の兵は周章狼狽、ことごとくこの門から逃げあふれて来るであろう。その混乱を存分に討って、よしと見たらすぐ兵を引っ返せ。白河の渡口へきて関羽、張飛の手勢と合すればよい。──そして樊城をさして急ぎに急げ」
あらましの指令は終った。命をうけた諸将は勇躍して立ち去ったが、なお糜芳、劉封などが残っていた。
「二人には、これを」と孔明は、特に近く呼んで、糜芳へは紅の旗を与え、劉封には青い旗を渡した。いかなる計を授けられたか、その二将もやがておのおの千余騎をしたがえて、──新野をさること約三十里、鵲尾坡の方面へ急いで行った。
曹操はなおその総軍司令部を宛城において、情勢を大観していたが、曹仁、曹洪を大将とする先鋒の第一軍十万の兵は、許褚の精兵三千を加えて、その日すでに、新野の郊外まで殺到していた。
一応、そこで兵馬を休ませたのが、午の頃であった。
案内者を呼びつけて、
「これから新野まで何里か」と、訊くと、
「三十余里です」と、いう。
「土地の名は」と、いえば、
「鵲尾坡──」と、答えた。
そのうちに、偵察に行った数十騎が、引返してきていうには、
「これからやや少し先へ行くと、山に拠り、峰に沿って陣を取っている敵があります。われわれの影を見るや、一方の山では、青い旗を打ち振り、一方の峰では、紅の旗をもってそれに答え、呼応の形を示す有様、何やら充分、備えている態がうかがわれます。どうもその兵力のほどは察しきれませんが……」
許褚は、その報を、受けるやいな、自身、当って見ると称して、手勢三千を率いて、深々と前進してみた。
鬱蒼とした峰々、岩々たる山やその尾根、地形は複雑で、容易に敵の態を見とどけることができない。しかし、たちまち一つの峰で、颯々と、紅の旗がうごいた。
「あ。あれだな」
凝視していると、また、後ろの山の肩で、しきりに青い旗を打ち振っているのが見える。何さま信号でも交わしている様子である。許褚は迷った。
山気は森として、鳴りをしずめている敵の陣容の深さを想わせる。──これはうかつにかかるべきでないと考えたので、許褚は、味方の者に、
「決して手出しするな」と、かたく戒め、ひとり駒を引返して、曹仁に告げ、指令を仰いだ。
曹仁は一笑に付して、
「きょうの進撃は、このたびの序戦ゆえ、誰も大事を取るであろうが、それにしても、常の貴公らしくもない二の足ではないか。兵に虚実あり、実と見せて虚、虚と見せて実。いま聞く紅旗青旗のことなども、見よがしに、敵の打ち振るのは、すなわち、我をして疑わしめんがためにちがいない。何のためらうことがあろう」と、いった。
許褚は、ふたたび鵲尾坡から取って返し、兵に下知して、進軍をつづけたが、一人の敵も出てこない。
「今に。……やがて?」と、一歩一歩、敵の伏兵を警戒しながら、緊張をつづけて進んだが、防ぎに出る敵も支えに立つ敵も現れなかった。
こうなると、張合いのないよりは一層、無気味な気抜けに襲われた。陽はいつか西山に沈み、山ふところは暗く、東の峰の一方が夕月にほの明るかった。
「やっ? ……あの音は」
三千余騎の跫音がはたと止まったのである。耳を澄まして人々はその明るい天の一方を仰いだ。
月は見えないが水のように空は澄みきっていた。突兀と聳えている山の絶頂に、ひとりの敵が立って大擂を吹いている。……ぼ──うっ……ぼうううっ……と何を呼ぶのか、大擂の音は長い尾をひいて、陰々と四山にこだましてゆく。
「はてな?」
怪しんでなおよく見ると、峰の頂上に、やや平らな所があり、そこに一群の旌旗を立て、傘蓋を開いて対座している人影がある。ようやく月ののぼるに従って、その姿はいよいよ明らかに見ることができた。一方は大将玄徳、一方は軍師孔明、相対して、月を賞し、酒を酌んでいるのであった。
「やあ、憎ッくき敵の応対かな。おのれひと揉みに」
許褚は愚弄されたと感じてひどく怒った。彼の激しい下知に励まされて、兵は狼群の吠えかかるが如く、山の絶壁へ取りすがったが、たちまちその上へ、巨岩大木の雨が幕を切って落すようになだれてきた。
一塊の大石や、一箇の木材で、幾十か知れない人馬が傷つけられた。
許褚も、これはたまらないと、あわてて兵を退いた。そして、ほかの攻め口を尋ねた。
彼方の峰、こなたの山、大擂の音や金鼓のひびきが答え合って聞えるのである。
「背後を断たれては」と、許褚はいたずらに、敵の所在を考え迷った。
そのうちに曹仁、曹洪などの本軍もこれへ来た。曹仁は叱咤して、
「児戯に類する敵の作戦だ。麻酔にかけられてはならん。前進ただ前進あるのみ」
と、遮二無二、猛進をつづけ、ついに新野の街まで押し入ってしまった。
「どうだ、この街の態は。これで敵の手のうちは見えたろう」
曹仁は、自分の達見を誇った。城下にも街にも敵影は見あたらない。のみならず百姓も商家もすべての家はガラ空きである。老幼男女はもとより嬰児の声一つしない死の街だった。
「いかさま、百計尽きて、玄徳と孔明は将士や領民を引きつれて、いち早く逃げのびてしまったものと思われる。──さてさて逃げ足のきれいさよ」と曹洪や許褚も笑った。
「追いかけて、殲滅戦にかかろう」という者もあったが、人馬もつかれているし、宵の兵糧もまだつかっていない。こよいは一宿して、早暁、追撃にかかっても遅くはあるまいと、
「やすめ」の令を、全軍につたえた。
その頃から風がつのりだして、暗黒の街中は沙塵がひどく舞った。曹仁、曹洪らの首脳は城に入って、帷幕のうちで酒など酌んでいた。
すると、番の軍卒が、
「火事、火事」
と、外で騒ぎ立ててきた。部将たちが、杯をおいて、あわてかけるのを、曹仁は押し止めて、
「兵卒どもが、飯を炊ぐ間に、あやまって火を出したのだろう。帷幕であわてなどすると、すぐ全軍に影響する。さわぐに及ばん」と、余裕を示していた。
ところが、外の騒ぎは、いつまでもやまない。西、北、南の三門はすでにことごとく火の海だという。追々、炎の音、人馬の跫音など、ただならぬものが身近に迫ってきた。
「あっ、敵だっ」
「敵の火攻めだっ」
部将のさけびに曹洪、曹仁も胆を冷やして、すわとばかり出て見たときは、もう遅かった。
城中はもうもうと黒煙につつまれている。馬よ、甲よ、矛よ、とうろたえ廻る間にも、煙は眼をふさぎ鼻をつく。
さらに、火は風をよび、風は火をよび、四方八面、炎と化したかと思うと、城頭にそびえている三層の殿楼やそれにつらなる高閣など、一度に轟然と自爆して、宙天には火の柱を噴き、大地へは火の簾を降らした。
わあっと、声をあげて、西門へ逃げれば西門も火。南門へ走れば南門も火。こはたまらじと、北門へなだれを打ってゆけば、そこも大地まで燃えさかっている。
「東の門には、火がないぞ」
誰いうとなく喚きあって、幾万という人馬がわれ勝ちに一方へ押し流れてきた。互いに手脚を踏み折られ、頭上からは火の雨を浴び、焼け死ぬ者、幾千人か知れなかった。
曹仁、曹洪らは、辛くも火中を脱したが、道に待っていた趙雲にはばまれて、さんざんに打ちのめされ、あわてて後へ戻ると、劉封、糜芳が一軍をひきいて、前を立ちふさいだ。
「これは?」と仰天して、白河のあたりまで逃げ去り、ほっと一息つきながら、馬にも水を飼い、将士も争って、河の水を口へすくいかけていたが、──かねて上流に埋伏していた関羽の一隊は、その時、遠く兵馬のいななきを耳にして、
「今だ!」
と、孔明の計を奉じて、土嚢の堰を一斉にきった。さながら洪水のような濁浪は、闇夜の底を吠えて、曹軍数万の兵を雑魚のように呑み消した。
渦まく水、山のような怒濤、そして岸うつ飛沫。この夜、白河の底に、溺れ死んだ人馬の数はどれ程か、その大量なこと、はかり知るべくもない。
堰を切り、流した水なので、水勢は一時的ではあった。しかしなお、余勢の激流は滔々と岸を洗っている。
僥倖にも、曹仁、曹洪の二大将は、この大難から辛くもまぬかれて、博陵の渡口まで逃げてきたが、たちまち一彪の軍馬が道を遮断して呼ばわった。
「曹軍の残兵ども、どこへ落ちてゆくつもりだ。燕人張飛がこれに待ち受けているのも知らずに」
ここでもまた、潰滅をうけて、屍山血河を作った。曹仁の身もすでに危うかったが、許褚が取って返し、張飛と槍を合わし、万死のうちから彼を救った。
張飛は、大魚を逸したが、
「ああ愉快、久しぶりで胸がすいたぞ。これくらい叩きのめせば、まずよかろう」
と、兵を収めて江岸をのぼり、かねてしめし合わせてある玄徳や孔明と一手になった。
そこには劉封、糜芳などが、船をそろえて待っていた。
玄徳以下の全軍が対岸へ渡り終ったころ、夜は白みかけていた。
孔明は、命を下して、
「船をみな焼き捨てろ」と、いった。
そして、無事、樊城へ入った。
この大敗北は、やがて宛城にいる曹操の耳に達した。曹操は、すべてが孔明の指揮にあったという敗因を聞いて、
「諸葛匹夫、何者ぞ」と、怒髪をたてて罵った。
すでに彼の大軍は彼の命を奉じて、新野、白河、樊城など、一挙に屠るべく大行動に移ろうとした時である。帷幕にあった劉曄が切にいさめた。
「丞相の威名と、仁慈は、河北においてこそ、あまねく知られておりますが、──この地方の民心はただ恐れることだけを知って、その仁愛も、丞相を戴く福利も知りません。──故に玄徳は、百姓を手なずけて、北軍を鬼の如く恐れさせ、老幼男女ことごとく民のすべてを引き連れて樊城へ移ってしまいました。──この際、お味方の大軍が、新野、樊城などを踏み荒し、その武威を示せば示すほど、民心はいよいよ丞相を恐れ、北軍を敬遠し、その徳になつくことはありません。──民なければ、いかに領土を奪っても、枯野に花を求めるようなものでしょう。……如かず、ここはぜひご堪忍あって、玄徳に使いをやり、彼の降伏を促すべきではありますまいか。玄徳が降伏せねば、民心のうらみは玄徳にかかりましょう。そして荊州のお手に入るのは目に見えている。すでに荊州の経略が成れば、呉の攻略も易々たるもの。天下統一のご覇業は、ここに完きを見られまする。──何をか、一玄徳の小悪戯に関わって、可惜、貴重な兵馬を損じ、民の離反を求める必要がございましょうか」
劉曄の献言は大局的で、一時いきり立った曹操にも、大いにうなずかせるところがあった。しかし曹操は、
「それなら一体誰を、玄徳のところへ使いにやるか」
ということになお考えを残しているふうだった。
劉曄は一言のもとに、
「それは、徐庶が適任です」と、いった。
ばかをいえ──といわぬばかりに曹操は劉曄の顔をしり目に見て、
「あれを玄徳のもとへやったら、再び帰ってくるものか」
と、唇をむすんで、大きく鼻から息をした。
「いやいや、玄徳と徐庶との交情は、天下周知のことですが、それ故に、もし徐庶がご信頼を裏切って、この使いから帰らなかったりなどしたら、天下の物笑いになります。彼以外に、この使いの適任者はありません」
「なるほど、それも一理だな」
彼はすぐ幕下の群将のうちから、徐庶を呼びだして、おごそかに、軍の大命をさずけた。
徐庶は、命を奉じて、やがて樊城へ使いした。
「なに、曹操の使いとして、徐庶が見えたと」
玄徳は、旧情を呼び起した。孔明と共に、堂へ迎え、
「かかる日に、ご辺と再会しようとは」と嘆じた。
語りあえば、久濶の情は尽きない。けれど今は敵味方である。徐庶はあらためていった。
「今日、それがしを向けて、あなたに和睦を乞わしめようとする曹操の本志は、和議にあらず、ただ民心の怨嗟を転嫁せんための奸計です。これに乗って、一時の安全をはかろうとすれば、おそらく悔いを百世に残しましょう。不幸、自分はあなたの敵たる陣営に飼われる身となり、今は老母も死してこの世にはありませんが、もしこの使いから帰らなければ、世人はそれがしの節操を疑い、かつ嘲り笑うでしょう。──ぜひもない宿命、ただ今の一言を、呈したのみで立ち帰りまする」
と、すぐ暇を告げ、なお帰りがけにもくり返していった。
「逆境また逆境、さだめし今のお立場はご不安でしょう。しかし以前と事ちがい、唯今では、君側の人に、諸葛先生が居られます。かならずあなたの抱く王覇の大業を扶け、やがて今を昔に語る日があることを信じております。それがしは老母も死し、何一つ世のために計ることもできない境遇に置かれていますが、ただひとつ、あなたのご大成を陰ながら念じ、またそれを楽しみにしていましょう。……では、くれぐれもご健勝に」
徐庶が帰って、曹操に返辞をするまでのあいだに、玄徳は、ふたたび、城を捨て、ほかに安らかな地を求めなければならなかった。
せっかく誘降の使いをやったのにそれを拒絶したという報告を聞けば、曹操はたちまち、
(民を戦禍に投じたものは玄徳である)
と、罪を相手になすって百万の軍にぞんぶんな蹂躙を命じ、颱風の如く攻めて来ることはもう決定的と見られたからである。
「襄陽に避けましょう。この城よりは、まだ襄陽のほうが、防ぐに足ります」
孔明のすすめに、もちろん、玄徳は異議もなかったが、
「自分を慕って、自分と共に、ここへ避難している無数の百姓たちをどうしよう」
と、領民の処置を案じて、決しきれない容子だった。
「君をお慕い申し上げて、君の落ち行く先なら、何処までとついて来る可憐な百姓どもです。たとえ足手まといになろうと、引き具してお移りあるべきでございましょう」
孔明のことばに、玄徳も、
「さらば──」と、関羽に渡江の準備を命じた。
関羽は、江頭に舟をそろえ、さて数万の百姓をあつめて、
「われらと共に、ゆかんとする者は江を渡れ。あとに残ろうと思う者は、去って旧地の田を耕すがいい」と、云い渡した。
すると、百姓老幼、みな声をそろえて、共に哭いて、
「これから先、たとえ山を拓いて喰い、石を鑿って水を汲むとも、劉皇叔さまに従って参りとうございます。ついに生命を失っても使君(玄徳のこと)をお恨みはいたしません」と、いった。
そこで関羽は、糜竺、簡雍などと協力して、この膨大なる大家族を、次々に舟へ盛り上げては対岸へ渡した。
玄徳も、舟に移って、渡江しにかかったが、折もあれ、この方面へ襲せてきた曹軍の一手──約五万の兵が、馬けむりをあげて樊城城外から追いかけてきた。
「すわや、敵が」と聞くなり岸に群れ惑う者、舟の中に哭きさけぶ者、あやまって河中に墜ちいる者など、男女老幼の悲鳴は、水に谺して、思わず耳をおおうばかりだった。
「あわれや、無辜の民ぐさ達、我あらばこそ、このような禍いをかける。──我さえなければ」
と、玄徳はそれを眺めて、身悶えしていたが、突然、舷に立って、河中に身を投げようとした。
左右の人々はおどろいて玄徳を抱きとめた。
「死は易く、生は難し。もともと、生きつらぬく道は艱苦の闘いです。多くの民を見すてて、あなた様のみ先へ遁れようと遊ばしますか」
と、人々に嘆き諫められて、玄徳もようやく死を思い止まった。
関羽は、逃げおくれた百姓の群れを扶け、老幼を守って後から渡ってきた。かくてようやく皆、北の岸へ渡りつくや、休むまもなく、玄徳は襄陽へ急いだ。
襄陽の城には、先頃から幼国主劉琮、その母蔡夫人以下が、荊州から移住している。玄徳は、城門の下に馬を立て、
「賢姪劉琮、ここを開けたまえ、多くの百姓どもの生命を救われよ」と、大音をあげた。
すると、答えはなくて、たちまち多くの射手が矢倉の上に現われて矢を酬いた。
玄徳につき従う数万の百姓群の上に、その矢は雨の如く落ちてくる。悲鳴、慟哭、狂走、混乱、地獄のような悲しみに、地も空も晦くなるばかりだった。
ところが、これを城中から見てあまりにもその無情なる処置に義憤を発した大将があった。姓は魏延、字は文長、突如味方のなかから激声をあげて、
「劉玄徳は、仁人である。故主の墳墓の土も乾かぬうちに、曹操へ降を乞い、国を売るの賊、汝らこそ怪しからん。──いで、魏延が城門をあけて、玄徳を通し申さん」と云い出した。
蔡瑁は仰天して、張允に、
「裏切り者を討て」と命じた。
時すでに、魏延は部下をひきいて、城門のほうへ殺到し、番兵を蹴ちらして、あわや吊橋をおろし、
「劉皇叔! 劉皇叔! はやここより入り給え」
と、叫んでいる様子に、張允、文聘などが、争ってそれを妨げていた。
城外にいた張飛、関羽たちは、すぐさま馬を打って駆け入ろうとしたが、城中の空気、鼎の沸く如く、ただ事とも思われないので、
「待て、しばし」と急に押し止め、
「孔明、孔明。ここの進退は、どうしたらいいか」と、訊ねた。
孔明は、うしろから即答した。
「凶血が煙っています。おそらく同士打ちを起しているのでしょう。しかし、入るべからずです。道をかえて江陵(湖北省・沙市、揚子江岸)へ行きましょう」
「えっ、江陵へ?」
「江陵の城は、荊州第一の要害、銭糧の蓄えも多い土地です。ちと遠くではありますが……」
「おお、急ごう」
玄徳が引っ返して行くのを見ると、日頃、玄徳を慕っていた城中の将士は、争って、蔡瑁の麾下から脱走した。折ふし城門の混乱に乗じて、彼のあとを追って行く者、引きも切らないほどだった。
そうした玄徳同情者のうちでも最も堂々たる名乗りをあげた魏延は、張允、文聘などに取囲まれて、部下の兵はほとんど討たれてしまい、ただ一騎となって、巳の刻から未の刻の頃まで、なお戦っていた。
そして遂に、一方の血路を斬りひらき、満身血となって、城外へ逸走してきたが、すでに玄徳は遠く去ってしまったので、やむなくひとり長沙へ落ちて、後、長沙の太守韓玄に身を寄せた。
さて、玄徳はまた、数万の百姓をつれて、江陵へ向って行ったが何分にも、病人はいるし、足弱な女も多く、幼を負い、老を扶け、おまけに家財をたずさえて、車駕担輿など雑然と続いて行く始末なので道はようやく一日に十里(支那里)も進めば関の山という状態であった。
これには、孔明も困りはてて、遂に対策もないかのように、
「身をかくす一物もないこの平野で、もし敵につつまれたら、ほとんど一人として生きることはできますまい。もうご決断を仰がなければなりません」
と、眉に悲壮なものをたたえて玄徳にこう迫った。
落ちて行く敗残の境遇である。軍自体の運命すら危ういのに、数万人の窮民をつれ歩いていたのでは、所詮、行動の取りようもない。
「背に腹はかえられません」
孔明は諭すのであった。玄徳の仁愛な心はよく分っているが、そのため、敵の殲滅に会っては、なんの意味もないことになる。
「ここは一時、涙をのんでも、百姓、老幼の足手まといを振り捨て、一刻もはやく江陵へ行き着いて、処置をお急ぎなさらなければ、ついに曹軍の好餌となるしかありますまい」
というのであった。
が──玄徳は依然として、
「自分を慕うこと、あたかも子が親を慕うようなあの領民を、なんで捨てて行かれようぞ。国は人をもって本とすという。いま玄徳は国を亡ったが、その本はなお我にありといえる。──民と共に死ぬなら死ぬばかりである」と云ってきかなかった。
このことばを孔明から伝え聞いて、将士も涙を流し、領民もみな哭いた。
さらばと、──孔明もついに心をきめて、領民たちに相互の扶助と協力の精神を徹底させ、一方、関羽と孫乾に、兵五百を分けて、
「江夏におられる嫡子劉琦君のところへ急いで、つぶさに戦況を告げ、江陵の城へお出会いあるべしと、この書簡をとどけられよ」と、玄徳のてがみを授けて、援軍の急派をうながした。
さてまた。
曹操はその中軍を進めて、宛城から樊城へ移っていた。
入城を終るとすぐ、書を襄陽へ送って、
「劉琮に対面しよう」と、申し入れた。
幼年の劉琮は怖ろしがって、「行くのはいやだ」と、云ってきかない。そこで名代として、蔡瑁、張允、文聘の三人が赴くことになったが、その際、劉琮へむかって、そっと、すすめたものがある。
「いま曹軍を不意に衝けば、きっと曹操の首を挙げることができます。すでに荊州は降参せりと、心に驕りきって油断しておりますから。──そこで、天下は荊州になびきましょう。こんな絶好な機会などというものは、二度とあるものではありません」
これが蔡瑁の耳に入ったので、調べてみると、王威の進言だと分った。
蔡瑁は怒って、
「無用な舌を弄して、幼少の君を惑わすもの」
と、斬罪にしようとしたが蒯越のいさめによって、ようやく事なく済んだ。
こんな内輪もめがあったのも、過日来、玄徳同情者の裏切りや脱走が続いて以来その後も、藩論区々にわかれ、武官文官の抗争があり、それに閨閥や党派の対立もからまって、荊州は今や未曾有な動揺をその内部に蔵していたからである。
しかし蔡瑁は強引に、この内部混乱を、曹操との講和によって、率いて行こうと考えていた。──で、彼が曹操にまみえて、降服の礼を執ることや、実に低頭百拝、辞色諂佞をきわめたものだった。
曹操は、高きに陣座して蔡瑁以下のものを、鷹揚に見おろしながら、
「荊州の軍馬、銭糧、兵船の量は、およそどのくらいあるのか」と、たずねた。
蔡瑁は、答えて、
「騎兵八万、歩卒二十万、水軍十万。また兵船は七千余艘もあり、金銀兵糧の大半は、江陵城に蓄え、そのほか各地の城にも、約一年余ずつの軍需は常備してあります」
と、つつむ所もなかった。
曹操は満足して、
「劉表は存命中、荊州王になりたがっていたが、ついに成らずに死んだ。自分から天子に奏請して、子の劉琮は、いつかかならず王位に封じてやるぞ」と、約束した。
この日、曹操はよほど大満悦だったとみえ、さらに、蔡瑁を封じて、平南侯水軍大都督とし、また張允を助順侯水軍副都督に任命した。
ふたりは深く恩を謝して、自国の降服を、さながら自己の幸運のごとく欣然として帰って行った。
「丞相はあまりに人を識らなすぎる。あんな諂佞の小人に、高官を授けて、水軍をまかせるおつもりだろうか」
彼らの帰ったあとで、慨然と、はばからずこう放言していた者は、荀攸であった。
曹操は、それを遠くで聞くと、ニヤと唇を歪めながら、荀攸のほうを見て、
「われ豈人を識らざらんや!」と、耳あらば聞けといわぬばかりに云い返した。
「わが手の兵は、すべて北国そだちの野兵山兵ではないか。水利水軍の法、兵舷の構造改修などくわしく知るものはほとんどない。いまかりに彼らを水軍の大都督副都督とするも、用がすめばいつでも首にしてしまえばいい。──さりとは、荀攸も、人の肚の見えないやつだ」
面と向っていわれたのとちがって、これはかえって耳に痛い。荀攸は閉口して、顔を赤らめながら姿をかくしてしまった。
一方、蔡瑁と張允は、襄陽へ帰るやいな、蔡夫人と劉琮のまえに出て、
「上々の首尾でした。やがてはかならず、朝廷に奏請して、あなた様を王位に封じようなどと──曹丞相は上機嫌で申されました」などと細々話した。
翌日、曹操は、襄陽へ入城すると布令て来た。蔡夫人は劉琮をつれて、江の渡口まで出迎え拝礼して、城内へみちびいた。
この日、襄陽の百姓は、道に香華をそなえて、車を拝し、荊州の文武百官もことごとく城門から式殿の階下まで整列して、曹操のすがたを拝した。
曹操は、中央の式殿に、悠揚と陣座をとって、腹心の大将や武士に、十重二十重、護られていた。
蔡夫人は、子の劉琮に代って、故劉表の印綬と兵符とを、錦の布につつんで、曹操の手へあずけた。
「神妙である。いずれ、劉琮には、命じるところがあろう」
曹操は、それを納め、諸員、万歳を唱えて、入城の儀式はまず終った。式がすむと彼は、まず荊州の旧臣中から蒯越をよび出して、
「予は、荊州を得たことを、さして喜ばんが、いま足下を得たことを衷心からよろこぶ」
といって──江陵の太守樊城侯に封じた。
以下、旧重臣の五人を列侯に封じ、また王粲や傅巽を関内侯に封じた。
それから、ようやく、劉琮にむかって、
「あなたは、青州へ行くがよい。青州の刺史にしてあげる」と至極、簡単に命じた。
劉琮は、眉を悲しませて、
「わたくしは、官爵に望みはありません。ただいつまでも亡父の墳墓のあるこの国にいたい」
と、哀訴した。
曹操は、にべもなく、かぶりを振って、
「いやいや、青州は都に近い良い土地がら、ご成人ののちは、朝廷へすすめて、官人にしてあげる用意じゃ。黙ってゆかれるがいい」と、突っ放した。
ぜひなく、劉琮は母の蔡夫人と共に、数日の後、泣く泣くも生れ故郷の国土をはなれた。そして青州への旅へ立ったが、変りやすい人ごころというものか、つき従う供の者とて幾人もなく、ただ王威という老将が少しばかり郎党を連れて、車馬を守って行ったきりだった。
そのあとである。曹操はひそかに于禁をよんで、なにか秘密な命令をさずけた。于禁は屈強なものばかり五百余騎をひッさげて、直ちにあとを追いかけた。
ここ何川か、何とよぶ曠野か、名知らぬ草を、朱にそめて、凄愴な殺戮は、彼らの手によって決行された。──蔡夫人や劉琮の車駕へ、五百騎の兵が狼群のごとく噛みついたと思うと、たちまち、昼間の月も血に黒ずんで、悲鳴絶叫が、水に谺し、野を馳けまわった。
老将王威もまた、大勢に囲まれて、敢なく討死し、そのほか随身すべて、ひとりとして、生き残った者もなかった。
于禁は四日目に帰ってきた。
そのあいだ曹操は落着かない容子に見えた。しきりに結果を待ちわびていたらしい。
「ただいま立ち帰りました。遠く追いついて、蔡夫人、劉琮ともに、かくの如く、首にして参りました」
于禁の報告に接して、初めてほっとした態である。劉表の血族は、これでほぼ絶えたに近い。運の末こそ哀れである。──曹操は一言、
「よし」と、云ったきりであった。
また彼は、多くの武士を隆中に派して、孔明の妻や弟などの身寄りを詮議させていた。
曹操が孔明を憎むことはひと通りでなかった。
「草の根を分けても、彼の三族を捕えてこい」
という厳命を発している。命をうけた部将たちは、手下を督励して、かの臥龍岡の旧宅をはじめ近村あまねく捜し求めたが、どうしても知れなかった。すでに孔明はこのことあるを知って、家族を三江の彼方へくらまし、里人も皆、彼の徳になついているので、曹操の捕手にたいして、何の手がかりも与えなかった。
こんなことに暇どっている一方、曹操は毎日、荊州の治安やら旧臣の処置やら、また賞罰の事、新令発布の事など、限りもない政務に忙殺されていた。
「丞相。──お茶など献じましょうか」と、或る折、侍側の荀攸は、わざと彼の繁忙を妨げて云った。
「茶か。そうだな、一ぷく喫しようか」
「忙裏の小閑は命よりも尊し──とか。こういう時、一喫の茶は、生命をうるおします」
「ときに税務の処理は、片づいたか」
「税務よりは、もっと急がねばならないことがおありでしょう」
「何じゃ、そんなに急を要することとは」
「玄徳以下の者が、ここを逃げ去ってから、もう十日余りとなります。彼らがもし江陵の要害に籠り、そこの金銀兵糧などを手に入れたら如何なさいますか」
「あっ、そうだ!」
曹操は、突然、卓を打って突っ立ちながら、
「忙におわれ、些末に拘泥しておって、つい大局を見失っていた。荀攸! なぜ其方は、もっと早く予に注意しなかったのだ」
「──でも、当の敵を、お忘れある筈はないと思っていましたから」
「ばかをいえ。こういそがしくては、誰しも、つい忘れることだってある。早く軍馬の用意を命じ玄徳を追撃させい」
「ご命令さえ出れば、決してまだ手おくれではありません。玄徳は数万の窮民を連れているので、一日の行程わずか十里という歩み方です。鉄騎数千、疾風のごとく追わせれば、おそらく二日のうちに捕捉することができましょう」
荀攸はすぐ諸大将を城の内庭に集めた。令を下すべく曹操が立って見わたすところ、荊州の旧臣中では、ひとり文聘の姿だけが見えなかった。
「なぜ文聘はこれへ来ないか」
と、呼びにやると、ようやく文聘はあとから来て、列将の端に立った。
「何ゆえの遅参か。申しひらきあらばいえ」
曹操から譴責されて、文聘は、愁然とそれに答えた。
「理由はありません。ただ恥かしいのです。故劉表に託されて、自分は常に漢川の境を守り、もし、外敵の侵攻あるとも、一歩も敵に主君の地は踏ませじ──と誓っていたのに、事志とたがい、遂に、今日の現実に直面するに至りました。──その愧を思えば、なんで人より先に立って人なかへ出られましょう」
さしうつ向いて、文聘は涙をたれた。曹操は感動して、
「いまの言葉は、真に国へ報じる忠臣の声である」
といって、即座に彼の官職をひきあげて、江夏の太守関内侯とした。
そして、まず、玄徳追撃の道案内として、文聘にそれを命じ、以下の大将に鉄騎五千をさずけて、「すぐ行け!」とばかり急きたてた。
数万の窮民を連れ歩きながら、手勢はわずかに二千騎に足らなかった。
千里の野を、蟻の列が行くような旅だった。道の捗らないことはおびただしい。
「江陵の城はまだか」
「まだまだ道は半ばにすぎません」
襄陽を去ってから、日はもう十幾日ぞ。──こんな状態でいったらいつ江陵へ着くだろうと、玄徳も心ぼそく思った。
「さきに江夏へ援軍をたのみにやった関羽もあれきり沙汰がない。──軍師、ひとつ御身が行ってくれないか」
玄徳のことばに、孔明は、
「行ってみましょう。どんな事情があるかわかりませんが、この際は、それしか恃む兵力はありませんから」と、承知した。
「ご辺が参って、援軍を乞えば、劉琦君も決して嫌とは申されまい。──ご辺の計らいで、継母蔡夫人の難からのがれたことも覚えておられるだろうから……」
「では、ここでお別れしましょう」
孔明は兵五百をつれ、途中から道をかえて、江夏へいそいだ。
孔明と別れてから二日目の昼である。ふと、一陣の狂風に野をふりかえると、塵埃天日をおおい、異様な声が、地殻の底に鳴るような気がされた。
「はて、にわかに馬のいななき躁ぐのは──そも、何の兆だろう」
玄徳がいぶかると、駒をならべていた糜芳、糜竺、簡雍らは、
「これは大凶の兆せです。馬の啼き声も常とはちがう」と呟いて、みな怖れふるえた。
そして、人々みな、
「はやく、百姓どもの群を捨て先へお急ぎなさらねば、御身の危急」
と、口を揃えてすすめたが、玄徳は耳にも入れず、
「──前の山は?」と、左右に訊いた。
「前なるは、当陽県の水、うしろなる山は景山といいます」
ひとりが答えると、さらばそこまでいそげと、婦女老幼の群れには趙雲を守りにつけ、殿軍には張飛をそなえて、さらに落ちのびて行った。
秋の末──野は撩乱の花と丈長き草におおわれていた。日もすでに暮れかけると、大陸の冷気は星を研き人の骨に沁みてくる。啾々として、夜は肌の毛穴を凍らすばかりの寒さと変る。
真夜中のころである。
ふいに、人の哭きさけぶ声が、曠野の闇をあまねく揺るがした。──と思うまに、闇の一角から、喊声枯葉を捲き、殺陣は地を駆って、
「玄徳を逃がすな」
と、耳を打ってきた。
あなや! とばかり玄徳は刎ね起きて、左右の兵を一手にまとめ、生命をすてて敵の包囲を突き破った。
「わが君、わが君。──はやく東へ」
と、教えながら、防ぎ戦っている者がある。見れば、後陣の張飛。
「たのむぞ」
あとを任せて、玄徳は逃げのびたが、やがて南のほう──長坂坡の畔りにいたると、ここに一陣の伏兵あって、
「劉予州、待ちたまえ、すでにご運のつきどころ、いさぎよくお首をわたされよ」
と、道を阻めて、名乗り立った一将がある。
見れば、荊州の旧臣、文聘であった。彼は、義を知る大将と、かねて知っていた玄徳は、
「おう足下は、荊州武人の師表といわれる文聘ではないか。国難に当るや直ちに国を売り、兵難に及ぶやたちまち矛を逆しまにして敵将に媚び、その走狗となって、きのうの友に咬みかかるとは何事ぞ。その武者振りの浅ましさよ。それでも足下は、荊州の文聘なるか」と、罵った。
──と、文聘は答えもやらず、面を赤らめながら遠く駆け去ってしまった。次に、曹操の直臣許褚が玄徳へ迫って来たが、その時はすでに張飛があとから追いついていたので、辛くも許褚を追って、一方の血路を切りひらき、無二無三、玄徳を先へ逃がして、なお彼はあとに残って、奮戦していた。
しかし、張飛の力も、無限ではない。結局、一方の敵軍を、喰い止めているに過ぎない。
その間に、なおも、玄徳を目がけて、
「遁さじ」
「やらじ」
と、駆け追い、駆け争って来る敵は、際限もなかった。逃げ落ちて行く先々を、伏兵には待たれ、矢風は氷雨と道を横ぎり、玄徳はまったく昏迷に疲れた。睫毛も汗に濡れて、陽も晦い心地がした。
「ああ。──もう息もつけぬ」
われを忘れて、彼は敢て馬からすべり降りた。五体は綿のごとく知覚もない。
「……おお」
見まわせば、つき従う者どもも、百余騎しかいなかった。彼の妻子、老少を始め、糜竺、糜芳、趙雲、簡雍そのほかの将士はみな何処で別れてしまったか、ことごとく散々になっていたのである。
「百姓たちはどうしたか。妻子従者の輩も、一人も見えぬは如何にせしぞ。たとい木石の木偶なりと、これが悲しまずにおられようか」
玄徳はそういって、涙を流し、果ては声をはなって泣いた。
──ところへ……糜芳が満身朱にまみれて、追いついてきた。身に立っている矢も抜かず、玄徳の前に膝まずいて、
「無念です。趙雲子龍までが心がわりして、曹操の軍門に降りました」
と、悲涙をたたえて訴えた。
「なに、趙雲が変心したと?」玄徳は、鸚鵡返しに叫んだが、すぐ語気をかえて、糜芳を叱った。
「ばかなことを! 趙雲とわしとは、艱難を共にして来た仲である。彼の志操は清きこと雪の如く、その血は鉄血のような武人だ。わしは信じる。なんで彼が富貴に眼をくらまされて、その志操と名を捨てよう!」
「いえいえ、事実、彼が味方の群れを抜けて、まっしぐらに、曹軍のほうへ行くのを、この眼で見届けました。確かに見ました」
すると、横合いから、
「さてこそ。ほかにもそれを、見たという声が多い」
と、呶鳴って、糜芳のことばを、支持したものがある。
殿軍を果たして、今ここへ、追いついてきた張飛だった。
気の立ッている張飛は、眦を裂いていう。
「よしっ。もう一度引っ返して、事実とあれば、趙雲を一鎗に刺し殺してくれねばならん。君にはどこぞへ身をかくして、しばしお体をやすめていて下さい」
「否々。それには及ばぬ、趙雲は決してこの玄徳を捨てるような者ではない。やよ張飛、はやまったこと致すまいぞ」
「何の! 知れたものではない」
張飛はついにきかなかった。
二十騎ばかりの部下をひきつれ、再びあとへ駆けだして行く。すると一河の水に、頑丈な木橋が架かっていた。
長坂橋──とある。
橋東の岸に密林があった。張飛は部下に何かささやいて、二十騎を林にかくした。部下は彼の策に従って、おのおの馬の尾に木の枝を結いつけ、がさがさと林の中をのべつ往来していた。
「どうだ、この計りごとは。まさか二十騎とは思うまい。四、五百騎にも見えようが」
ほくそ笑みして、彼はただ一人、長坂橋の上に馬を立てた。そして大矛を小脇に横たえ、西のほうを望んでいた。
──ところで、噂の趙雲は、どうしたかというに。
彼は襄陽を立つときから、主君の眷属二十余人とその従者や──わけても甘夫人だの、糜夫人だの、また幼主阿斗などの守護をいいつけられていたので、その責任の重大を深く感じていた。
ところが、前夜の合戦と、それからの潰走中に、幼主阿斗、二夫人を始め、足弱な老幼は、あらかた闇に見失ってしまったのである。
趙雲たるもの、何で、そのまま先を急がれよう、彼は、血眼となって、
「君にお合せする顔はない」
と、夜来、敵味方の中を、差別なく駈けまわって、その方々の行方をさがしていたのだった。
面目──面目──何の面目あってこのまま主君にまみえん?
「生命のある限りは」
と、趙雲は、わずか三十余騎に討ちへらされた部下と共に、幾たびか敵の中へ取って返し、
「二夫人は何処? 幼君はいずれにおわすぞ」
と、狂気のごとく、尋ねまわっていた。
そうして、四方八面、敵味方の境もなく、馳けめぐっている野にはまた、数万の百姓が、右往左往、或いは矢にあたり、石に打たれ、または馬に蹴られ、窪に転び落ちなど、さながら地獄図のような光景を描いていた。親は子を求め、子は親を呼び、女は悲鳴をあげて夫を追い、夫は狂奔して一家をさがし廻るなどと、その声は野に満ち、天をおおうばかりである。
「──やっ? 誰か」
草の根に血は溝をなして流れている。趙雲はふと見たものに、はっとして駒を下りた。
うっ伏している武者がある。近づいて抱き起してみると、味方の大将、簡雍であった。
「傷は浅いぞ、おうッいッ、簡雍っ──」
簡雍は、その声に、意識づいて、急にあたりを見廻した。
「あっ、趙雲か」
「どうした? しっかりせい」
「二夫人は? ……。幼主、阿斗の君は、どう遊ばされたか?」
「それは、俺から聞きたいところだ。簡雍、おぬしはここまでお供してきたのか」
「むむ、これまで来ると、一彪の敵軍につつまれ、俺は敵の一将を討ち取って、お車の側へすぐ引っ返してきたが、時すでに遅しで」
「や。生擒りとなられたか」
「いや二夫人には、阿斗の君を抱き参らせて、お車を捨て、乱軍の中を、逃げ走って行かれたと──部下のことばに、すわご危急と、おあとを追って行こうとした刹那、流れ矢にあたったものか、後ろから斬りつけられたのか……その後は何もわからない、思うに、気を失っていたとみえる」
「こうしてはおられぬ。──簡雍、おぬしは君のおあとを慕って急げ」
と、趙雲は彼を扶けて、駒の背に掻い上げ、部下を付けて先へ送らせた。
そして、彼自身は、
「たとえ、天を翔け、地に入るとも、ご眷族の方々を探し当てぬうちは、やわか再び、君のご馬前にひざまずこうぞ」と、いよいよ、鉄の如き一心をかためて、長坂坡のほうへ馬を飛ばしていた。
一隊の兵がうろうろしていた。手をあげて、
「趙将軍。趙将軍」と、彼を見かけて呼ぶ。
それは、車をおす役目の歩卒たちである。趙雲は、振り向きざま、
「夫人のお行方を知らぬか」と、たずねた。
車兵はみな指を南へさして、
「二夫人には、お髪をふりさばき、跣足のままで、百姓どもの群れにまじり、南へ南へ、人浪にもまれながら逃れておいでになりました」と、悲しげに訴えた。
「さては」と趙雲は、なおも馬を飛ばすこと宙を行くが如く、百姓の群れを見るごとに、
「二夫人はおわさぬか。幼君はおいでないか」と、声を嗄らしながら馳けて行った。
するとまた、数百人の百姓老幼の一群に会った。趙雲が馬上から同じことばを声かぎりくり返すとわっと泣き放ちながら、馬蹄の前に転び伏した人がある。
甘夫人であった。
趙雲は、あなやと驚いて、鎗を脇に挟んで鞍から飛びおりざま、夫人を扶け起して詫びた。
「かかる難儀な目にお遭わせ申しましたのも、まったく臣の不つつかが致したこと、何とぞお怺えくださいまし。してしてまた、糜夫人と阿斗の君のお二方には、何処においで遊ばしますか」
「若君や糜夫人とも、初めはひとつに逃げのびていたが、やがて一手の敵兵に駈け散らされ、いつかはぐれてしもうたまま……」
涙ながら甘夫人が告げているまに、辺りの百姓たちはまた、騒然と群れを崩して、蜘蛛の子のように逃げ出した。
曹仁の旗下で、淳于導という猛将があった。
この日、玄徳を追撃する途中、行く手に立ちふさがった糜竺と戦い、遂に糜竺を手捕りにして、自身の鞍わきに縛りつけると、
「きょう第一の殊勲は、玄徳をからめ捕ることにあるぞ。玄徳との距離はもう一息」
と、淳于導はなおも勢いに乗って、千余の部下を励ましながら、驟雨の如くこれへ殺到してきたものだった。
逃げまどう百姓の群れには眼もくれず、淳于導は、趙雲のそばへ駆け寄ってきた。玄徳の一将と見たからである。
「やあ、生捕られたは、味方の糜竺ではないか」
趙雲は、その敵と鎗をまじえながら、驚いて叫んだ。
猛将淳于導も、こんどの相手は見損っていた。かなわじと、あわてて馬の首をめぐらしかけた刹那、趙雲のするどい鎗は、すでに彼の体を突き上げて、一旋! 血を撒きこぼして、大地へたたきつけていた。
残る雑兵輩を追いちらして、趙雲は糜竺を扶けおろした。そして敵の馬を奪って、彼を掻き乗せ、また甘夫人も別な駒に乗せて、長坂橋のほうへ急いだ。
──と。
そこの橋の上に、張飛が馬を立てていた。さながら天然の大石像でも据えてあるような構えである。ただ一騎、鞍上に大矛を横たえ、眼は鏡の如く、唇は大きくむすんで、その虎髭に戦々と微風は横に吹いていた。
「やあっ。それへ来たのは、人間か獣か」
いきなり張飛が罵ったので、趙雲もむッとして、
「退がれっ。甘夫人の御前を──」と、叱りとばした。
張飛は、彼のうしろにある夫人の姿に、初めて気がついて、
「おお、趙雲。貴様は曹操の軍門に降伏したわけじゃなかったのか」
「何をばかな」
「いや、その噂があったので、もしこれへ来たら。一颯のもとに、大矛の餌食にしてやろうと、待ちかまえていたところだ」
「若君と二夫人のお行方をたずね、明け方から血眼に駆けまわり、ようやく甘夫人だけをお探し申して、これまでお送りしてきたのだ。して、わが君には?」
「この先の木陰にしばしご休息なされておる。君にも、幼君や夫人方の安否をしきりとお案じなされておるが」
「さもあろう。では張飛。ご辺は甘夫人と糜竺を守って、君の御座所まで送りとどけてくれ。それがしは、またすぐここから取って返して、なお糜夫人と阿斗の君をおたずね申してくる」
云い残すや否や、趙雲は、ふたたび馬を躍らせて、単騎、敵の中へ駆けて行った。
すると彼方から十人ほどの部下を従えた若い武者が、ゆったりと駒をすすめて来た。背に長剣を負い、手に華麗な鎗をかかえている容子、然るべき一方の大将とは、遠くからすぐ分った。
趙雲はただ一騎なので、近づくまで、先では、敵とも気がつかなかったらしい。不意に名乗りかけられて若武者はひどく驚愕した。従者もいちどに趙雲をつつんだが、もとより馬蹄の塵にひとしい。たちまち逃げ散ってしまい。その主人たる若武者は、あえなく趙雲に討たれてしまった。
その際、趙雲は、
「や。いい剣を持っている」と、眼をつけたので、すぐ死骸の背から剣を奪りあげてあらためてみた。
剣の柄には、金を沈めて、青釭の二字が象嵌されている。──それを見て、初めて知った。
「あ。この者が、曹操の寵臣、夏侯恩であったか」──と。
伝え聞く、侯恩は、かの猛将夏侯惇の弟であり、曹操の側臣中でも、もっとも曹操に愛されていた一名といえる。──その証拠には曹操が秘蔵の剣「青釭・倚天」の二振りのうち、倚天の剣は、曹操みずから腰に帯していたが、青釭の剣は、侯恩に佩かせて、
「この剣に位負けせぬほどな功を立てよ」
と、励ましていたほどである。
青釭の剣。青釭の剣。
趙雲は狂喜した。
かかる有名な宝剣が、はからずも身に授かろうとは。
「これは、天授の剣だ」
背へ斜めにそれを負うやいな、趙雲はふたたび馬へ跳びのって、野に満つる敵の中へ馳駆して行った。
そのとき曹操の軍兵はすでに視野のかぎり殺到していた。逃げおくれた百姓の老幼や、離散した玄徳の兵を、殺戮して余すところがない。趙雲は義憤に燃ゆる眦をあげて、
「鬼畜め」
むらがる敵を馬蹄の下に蹂躙しながら、なおも、声をからして、
「お二方あっ。お二方はいずこに」
と、糜夫人と幼主阿斗の行方を尋ねまわっていた。
すでに八面とも雲霞の如き敵影だったが、彼は還ることを忘れていた。すると、傷を負って、地に仆れていた百姓の一人が、むくと首を上げて、彼へ叫んだ。
「将軍将軍。その糜夫人かも知れませんよ。左の股を敵に突かれ、彼方の農家の破墻の陰へ、幼児を抱いて、仆れている貴夫人があります。すぐ行ってごらんなさい。つい今し方のことですから」
指さして教え終ると、そのまま百姓は息が絶えた。
趙雲は、飛ぶが如く、彼方へ駆けて行った。なかば兵火に焼かれたあばら家が、裏の墻と納屋とを残して焦げていた。馬をおりて、そこかしこを見まわしていると、破墻の陰で、幼児の泣き声がした。
「おうっ、和子様っ」
彼の声に、枯草をかぶって潜んでいた貴夫人は、児を抱いたまま逃げ走ろうとした。しかし身に深傷を負っているとみえて、すぐばたりと仆れた。
「糜夫人ではありませんか。家臣の趙雲です。お迎えに来ました。もうご心配はありません」
「……おお、趙雲でしたか。……うれしい。どうか、和子のお身をわが良人のもとへ、つつがなく届けて下さい」
「もとよりのこと。いざ、あなた様にも」
「いいえ! ……」
彼女は、強くかぶりを振った。そして阿斗の体を、趙雲の手へあずけると、急に、張りつめていた気もゆるんだか、がくとうつぶして、
「この痛手、この痛手。……たとえふたたび良人のもとへ還っても、もう妾の生命はおぼつかない。もし妾のために、将軍の馬を取ったら、将軍は和子を抱いて、敵の中を、徒歩で行かねばならないでしょう。……もうわが身などにかまわず、少しも早く和子のお身をこの重囲の外へ扶け出して下さい。それが頼みです。臨終の際のおねがいです」
「ええ! お気の弱い! たとえ馬はなくとも、趙雲がお護りして行くからには」
「オオ……喊の声がする。敵が近づいて来るらしい。趙雲、何でそなたは、大事な若君を預りながら、なお迷っているか。早くここを去ってたも。……妾などは見捨てて」
「どうして、あなた様おひとりを、ここに残して立去れましょう。さ、その馬の背へ」
駒の口輪を取って引き寄せると、糜夫人は突如身をひるがえして、傍らの古井戸の縁へ臨みながら、
「やよ趙雲。その子の運命は将軍の手にあるものを。妾に心をかけて、手のうちの珠を砕いてたもるな」
云うやいな、みずから井戸の底へ、身を投げてしまった。
趙雲は、声をあげて哭いた。草や墻の板を投げ入れて、井戸をおおい、やがて甲の紐をといて、胸当の下に、しっかと、幼君阿斗のからだを抱きこんだ。
阿斗は、時に、まだ三歳の稚なさであった。
阿斗を甲の下に抱いて、趙雲が馬にまたがると、墻の外、附近の草むらなどには早、無数の歩兵が這い寄って、
「この内に、敵方の大将らしいのがいる」
と、農家のまわりをひしひしと取巻いていた。
──が、趙雲は、ほとんど、それを無視しているように、馬の尻に一鞭加え、墻の破れ目から外へ突き出した。
曹洪の配下で晏明という部将がこれへきた先頭であった。晏明はよく三尖両刃の怪剣を使うといわれている。今や趙雲のすがたを目前に見るやいな、それを揮って、
「待てっ」と、挑みかかったが、
「おれをさえぎるものはすべて生命を失うぞ」
と、趙雲の大叱咤に、思わず気もすくんだらしく、あっとたじろぐ刹那、鎗は一閃に晏明を突き殺して、飛電のごとく駆け去っていた。
しかし行く先々、彼のすがたは煙の如く起っては散る兵団に囲まれた。馬蹄のあとには、無数の死骸が捨てられ、悍馬絶叫、血は河をなした。
時に、一人の敵将が、背に張郃と書いた旗を差し、敢然、彼の道をふさいで、長い鎖の両端に、二箇の鉄球をつけた奇異な武器をたずさえて吠えかかってきた。それは驚くべき腕力と錬磨の技をもって、二つの鉄丸をこもごも抛げつけ、まず相手の得物をからめ取ろうとする戦法だった。
「しまった」と、さしもの趙雲も、この怪武器には鎗を奪られ、さらに応接の遑もないばかり唸り飛んでくる二箇の鉄丸にたじたじと後ずさった。
(──今は強敵と戦って、功を誇っている場合ではない。若君のお身をつつがなく主君へお渡し奉るこそ大事中の大事)
そう気づいたので趙雲は、急に馬を返して、張郃の猛撃を避けながら馳け出した。
と、見て、張郃は、
「口ほどもない奴、それでも音に聞ゆる趙雲子龍か。返せっ」
と、悪罵を浴びせながらいよいよ烈しく追ってきた。
趙雲の武運がつきたか、ふところにある阿斗の薄命か。──あッと、趙雲の声が、突然、埃につつまれたと思うと、彼の体は、馬もろとも、野の窪坑におち転んでいた。
「得たりや」と、張郃はすぐ馬上から前かがみに、一端の鉄丸を抛りこんだ。ところが、鉄丸は趙雲の肩をそれて坑口の土壁にぶすッと埋まった。
次の瞬間に、張郃の口から出た声は、ひどく狼狽した叫びだった。粘土質の土壁に深く入ってしまった鉄丸は、いかに彼の腕力をもって鎖を引っ張っても、容易に抜けないからであった。
その隙に、趙雲は躍り立って、
「天この若君を捨てたまわず、われに青釭の剣を貸す!」
と、歓喜の声をあげながら、背に負う長剣を引き抜くやいな、張郃の肩先から馬体まで、一刀に斬り下げて、すさまじい血をかぶった。
後に、語り草として、世の人はみなこういった。
(──その折り、坑のうちから紅の光が発し、張郃の眼がくらんだ刹那に趙雲は彼を仆した。これみな趙雲のふところに幼主阿斗の抱かれていたためである。やがて後に蜀の天子となるべき洪福と天性の瑞兆であったことは、趙雲の翔ける馬の脚下から紫の霧が流れたということを見てもわかる)
しかし、事実は、紫の霧も、紅の光も、青釭の剣があげた噴血であったにちがいない。けれどまた、彼の超人的な武勇と精神力のすばらしさは、それに蹴ちらされた諸兵の眼から見ると、やはり人間業とは思えなかったのも事実であろう。紅の光! ──それは忠烈の光輝だといってもいい。紫の霧! ──それは武神の剣が修羅の中にひいて見せた愛の虹だと考えてもいい。
ともあれ、青釭の剣のよく斬れることには、趙雲も驚いた。この天佑と、この名剣に、阿斗はよく護られて、ふたたび千軍万馬の中を、星の飛ぶように、父玄徳のいるほうへ、またたくうちに翔け去った。
この日、曹操は景山の上から、軍の情勢をながめていたが、ふいに指さして、
「曹洪、曹洪。あれは誰だ。まるで無人の境を行くように、わが陣地を駆け破って通る不敵者は?」
と、早口に訊ねた。
曹洪を始め、そのほか群将もみな手を眉にかざして、誰か彼かと、口々に云い囃していたが、曹操は焦れッたがって、
「早く見届けてこい」と、ふたたび云った。
曹洪は馬をとばして、山を降ると、道の先へ駆けまわって、彼の近づくのを見るや、
「やあ。敵方の戦将。ねがわくば、尊名を聞かせ給え」と、呼ばわった。
声に応じて、
「それがしは、常山の趙子龍。──見事、わが行く道を、立ちふさがんとせられるか」
と、青釭の剣を持ち直しながら趙雲は答えた。
曹洪は、急いで後へ引っ返した。そして曹操へその由を復命すると、曹操は膝を打って、
「さては、かねて聞く趙子龍であったか。敵ながら目ざましい者だ。まさに一世の虎将といえる。もし彼を獲て予の陣に置くことができたら、たとえ天下を掌に握らないでも、愁いとするには足らん。──早々、馬をとばして、陣々に触れ、趙雲が通るとも、矢を放つな、石弩を射るな、ただ一騎の敵、狩猟するように追い包み、生け擒ってこれへ連れてこいと伝えろ!」
鶴の一声である。諸大将は、はっと答えて、部下を呼び立てた。──たちまち見る、十数騎の伝令は、山の中腹から逆落しに駆けくだると、すぐ八方の野へ散って馬けむりをあげて行く。
真の勇士、真の良将を見れば、敵たることも忘れて、それを幕下に加えようとするのは、由来、曹操の病といっていいほどな持ち前である。
彼の場合は、士を愛するというよりも、士に恋するのであった。その情熱は非常な自己主義でもあり、盲目的でもあった。さきに関羽へ傾倒して、あとではかなり深刻に後悔の臍を噛んでいるはずなのに、この日また常山の子龍と聞いて、たちまち持ち前の人材蒐集慾をむらむらと起したものであった。
趙雲にとって、また無心の阿斗にとって、これもまた天佑にかさなる天佑だったといえよう。
行く先々の敵の囲みは、まだ分厚いものだったが、趙雲は甲の胸当の下に、三歳の子をかかえながら、悪戦苦闘、次々の線を駆け破って──敵陣の大旆を切り仆すこと二本、敵の大矛を奪うこと三条、名ある大将を斬り捨てることその数も知れず、しかも身に一矢一石をうけもせず、遂に、さしもの曠野をよぎり抜けて、まずはほっと、山間の小道までたどりついた。
するとここにも、鍾縉、鍾紳と名乗る兄弟が、ふた手に分かれて陣を布いていた。
兄の縉は、大斧をよくつかい、弟の紳は方天戟の妙手として名がある。兄弟しめし合わせて、彼を挟み討ちに、
「のがれぬ所だ。はやく降れ」と喚きかかった。
さらに、張遼の大兵、許褚の猛部隊も、彼を生け擒りにせんものと、大雨のごとく野を掃いて追ってきた。
「──あれに追いつかれては」
と、趙雲も今は、死か生かを、賭するしかなかった。
おそらく彼にしても、この二将を斃したのが最後の頑張りであったろう。前後して縉と紳の二名を斬りすてたものの、気息は奄々とあらく、満顔全身、血と汁にまみれ、彼の馬もまたよろよろに成り果てて、からくも死地を脱することができた。
そしてようやく長坂坡まで来ると、彼方の橋上に、今なおただ一騎で、大矛を横たえている張飛の姿が小さく見えた。
「おおーいっ。張飛っ」
思わず声を振りしぼって彼が手をあげた時である。執念ぶかい敵の一群は、もう戦う力もない趙雲へふたたび後ろから襲いかかった。
「救えっ、救えっ張飛。おれを助けろっ──」
さすがの趙雲も、声あげて、橋のほうへ絶叫した。
馬は弱り果てているし、身は綿のように疲れている。しかも今、その図に乗って、強襲してきたのは、曹軍の驍将文聘と麾下の猛兵だった。
長坂橋の上から、小手をかざして見ていた張飛は、月にうそぶいていた猛虎が餌を見て岩頭から跳びおりて来るように、
「ようしっ! 心得た」
そこに姿が消えたかと思うと、はや莫々たる砂塵一陣、駆けつけてくるや否、
「趙雲趙雲。あとは引受けた。貴様はすこしも早く、あの橋を渡れっ」と、吠えた。
たちまち修羅と変るそこの血けむりを後にして、趙雲は、
「たのむ」
と一声、疲れた馬を励まし励まし、長坂橋を渡りこえて、玄徳のやすんでいる森陰までやっと駆けてきた。
「おうっ、これに──」
と、趙雲は、味方の人々を見ると、馬の背からどたっとすべり落ちて、その惨澹たる血みどろな姿を大地にべたと伏せたまま、まるで暴風のような大息を肩でついているばかりだった。
「オッ、趙雲ではないか。──して、そのふところに抱えているのは何か」
「阿斗公子です……」
「なに、わが子か」
「おゆるし下さい。……面目次第もありません」
「何を詫びるぞ。さては、阿斗は途中で息が絶えたか」
「いや……。公子のお身はおつつがありません。初めのほどは火のつくように泣き叫んでおられましたが、もう泣くお力もなくなったものとみえまする。……ただ残念なのは糜夫人のご最期です。身に深傷を負うて、お歩きもできないので、それがしの馬をおすすめ申しましたが、否とよ、和子を護ってたもれと、ひと声、仰せられながら、古井戸に身を投げてお果て遊ばしました」
「ああ、阿斗に代って、糜は死んだか」
「井には、枯れ草や墻を投げ入れて、ご死骸を隠して参りました。その母の御霊が公子を護って下されたのでしょう、それがしただ一騎、公子をふところに抱き参らせ、敵の重囲を駆け破って帰りましたが、これこのとおりに……」
と、甲の胸当を解いて示すと、阿斗は無心に寝入っていて、趙雲の手から父玄徳の両手へ渡されたのも知らずにいた。
玄徳は思わず頬ずりした。あわれよくもこの珠の如きものに矢瘡ひとつ受けずにと……われを忘れて見入りかけたが、何思ったか、
「ええ、誰なと拾え」
と云いながら、阿斗の体を、毱のように草むらへほうり投げた。
「あっ、何故に?」
と、趙雲も諸大将も、玄徳のこころをはかりかねて、泣きさけぶ公子を、大地からあわてて抱き取った。
「うるさい、あっちへ連れて行け」
玄徳は云った。
さらにまた云った。
「思うに、趙雲のごとき股肱の臣は、またとこの世で得られるものではない。それをこの一小児のために、危うく戦死させるところであった。一子はまた生むも得られるが、良き国将はまたと得がたい。……それにここは戦場である。凡児の泣き声はなおさら凡父の気を弱めていかん。故にほうり捨てたまでのことだ。諸将よ、わしの心を怪しんでくれるな」
「…………」
趙雲は、地に額をすりつけた。越えてきた百難の苦も忘れて、この君のためには死んでもいいと胸に誓い直した。原書三国志の辞句を借りれば、この勇将が涙をながして、
(肝脳地にまみるとも、このご恩は報じ難し)
と、再拝して諸人の中へ退がったと誌してある。
曹操は景山を降りた。
旗や馬幟の激流は、雲が谿間を出るように、銅鑼金鼓に脚を早め、たちまち野へ展がった。
そのほか。
曹仁、李典、夏侯惇、楽進、張遼、許褚、──などの陣々騎歩もすべてその方向を一にして、長坂坡へ迫って来た。
「趙雲の逃げて行った方角こそ、すなわち玄徳のいる所にちがいない」と、それに向って、最後の殲滅を加え、存分な戦果を捕捉すべく、ここに全軍の力点が集中されたものらしい。
すると彼方から文聘とその手勢が、さんざんな態になって逃げ乱れてきた。仔細を問うと、
「長坂橋の畔まで、趙雲を追いかけて行ったところ、敵の張飛という者が、ただ一騎で加勢に駆けつけ、丈八の蛇矛をもって、八面六臂にふせぎ立て、ついに趙雲をとり逃がしたばかりか、味方の勢もかくの如き有様──」
と、いう文聘の話に、許褚、楽進などみな歯がみをして、
「さりとは腑がいなき味方の弱腰。いかに張飛に天魔鬼神の勇があろうと、この大軍と丞相の威光を負いながら、追い崩されて帰るとは何事だ。いで、われこそ彼奴を──」
と、諸将は争って、橋のこなたまで殺到した。
そこの一橋こそ、河をへだてた敗敵にとっては、恃みの一線である。いかにここを防がんかと、さだめしひしめき合っているであろうと予想してきてみると──こは抑いかに、楊柳は風もなく垂れ、水は淙々と奏で、陽ざしもいとうららかな長橋の上に、ただ一騎の人影が、ぽつねんと、そこを守っているきりだった。
「……はてな?」
疑いながら、諸将は駒脚をなだめて、徐々と橋口へ近づいて行った。──見れば、丈八の矛を横たえ、盔を脱いで鞍にかけ、馬足をしっかと踏み揃えた大武者が、物もいわず、動きもせず、くわっと、睨みつけていた。
「あっ、張飛だ」
「張飛」
思わず口々をもれる声に──馬は怖れをなしたか、たじたじと、蹄を立てて後ろへ退がった。
「…………」
張飛はなお一語も発しない。双の眼は百錬の鏡というもおろかである。怒れる鬼髯は左右にわかれ、歯は大きな唇を噛み、眉、眦、髪のさき、すべて逆しまに立って、天も衝かん形相である。
「あれか、燕人張飛とは」
「知れたもの。いかに張飛であろうと」
「敵は一騎だ」
「それっ」
と、諸将は互いに励ましあって、あわやどっと、その馬蹄を踏み揃えて橋板へかかろうとしたとき、
「待てっ」と、うしろで止めた者がある。一人の声ではない。李典、曹仁、夏侯惇など、ことごとく軍勢の中にもまれて、その中に雄姿を見せていた。
「丞相のご命令だ。待てっ。はやまるなっ──」
続いて後ろのほうに聞える。諸将はさっと橋畔の左右へ道を開いた。どうどうと押し流れてくる軍馬も旗もみな橋口をあまして河の岸を埋めた。
やがて、中央の一軍団は林のような旄旗と五彩幡をすすめてきた。中にも白旄黄鉞の燦々たる親衛兵にかこまれている白馬金鞍の大将こそ、すなわち曹操その人であろう、青羅の傘蓋は珠玉の冠のうえに高々と揺らいで、威風天地の色を奪うばかりだった。
「うかと、孔明の計にのるな、橋上の匹夫は敵の囮だ。対岸の林には兵がかくしてあるぞ」
と、曹操はまず、はやりたつ諸将を制してから、くわっと、張飛をねめつけた。
張飛は動じる態もなかった。
かえって、全身に焔々の闘志を燃やし、炬の如き眼を爛と射向けて、
「それへ来たものは、敵の総帥たる曹操ではないか。われこそは、劉皇叔の義弟、燕人張飛である。すみやかに寄って、いさぎよく勝負を決しろ」
と、呼ばわった。
声は長坂の水に谺し、殺気は落ちかかる雷のようであった。そのすさまじさに、曹操の周囲を守っていた者どもは、思わず傘蓋を取り落したり、白旄黄鉞などの儀容を崩して、あッとふるえおののいた。
いや、その雷圧は、曹軍数万の上にも見られた。濤のような恐怖のうねりが動いたあと全軍ことごとく色を失ったかのようであった。
さわぎ立つ諸将をかえりみながら曹操は云った。
「今思い出した。そのむかし関羽がわれにいった言葉を。──自分の義弟に張飛というものがある。張飛にくらべれば自分の如きはいうにたらん。彼がひとたび怒って百万の軍中に駆け入るときは、大将の首を取ることも嚢の中の物をさぐって取り出すようなものだ──予にそういったことがある。さだめし汝らも張飛の名は聞いていたろう。いや怖ろしい猛者ではある!」
そういって、驚嘆している傍らから、突然、夏侯覇という一大将が、
「何をばさように恐れ給うか。曹軍の麾下にも張飛以上の者あることを、今ぞ確とご覧あれ」
と喚きながら、馬の蹄をあげて、だだだだっと、橋板を踏み鳴らして、張飛のそばへ迫りかけた。張飛はくわっと口をあいて、
「孺子っ。来たかっ」
蛇矛横にふるって一颯の雷光を宙にえがいた。
夏侯覇は、とたんに胆魂を消しとばして、馬上からころげ落ちた。その有様を見ると、数十万の兵はなお動揺した。曹操も士気の乱れを察し、にわかに諸軍へ、
「退けっ」
と、令して引っ返した。
退け──と聞くや軍兵はみな山の崩れるように先を争い合った。ふしぎな心理がいやが上にも味方同士を混乱に突きおとしてゆく。誰の背後にも張飛の形相が追い駆けてくるような気がしていた。鉾を捨て、鎗を投げ、或いは馬に踏みつぶされ、阿鼻叫喚が阿鼻叫喚を作ってゆく。
そうなると、実際、収拾はつかないものとみえる。曹操自身すら、その渦中に巻きこまれ、馬は狂いに狂うし、冠の釵は飛ばすし、髪はみだれ、旗下どもは後先になり、いやもうさんざんな態であった。
ようやく、追いついてきた張遼が、彼の馬の口輪をつかみ止めて、
「これは一体、どうしたということです。たかがただ一人の敵にこれほどまで、狼狽なさる必要はありますまいに」と、歯がみをしながらいった。
曹操は初めて、夢のさめたような顔して、全軍の立て直しを命じた。そしてやや間が悪そうに、
「予が怖れたのは決して一人の張飛ではない。橋の彼方の林中に敵の埋兵がたえず騒めいていたので、また何か孔明が策を設けているのではないかと、きょうは大事を取って退却を命じたまでだ」
と、いった。
その時、彼のてれ隠しを救うにちょうどよい煙が揚った。敵は長坂橋を焼き払って退いたというのである。そう聞くと曹操は、
「橋を焼いて逃げるようでは、やはり大した兵力は残っていないに相違ない。しまった、すぐ三ヵ所に橋を架け、玄徳を追いつめろ」と、号令をあらためた。
玄徳主従とその残兵は、初め江陵へさして落ちてきたのであるが、こんな事情でその方角へはとうてい出られなくなったので、にわかに道を変更して、沔陽から漢津へ出ようと、夜も昼も逃げつづけていた。
玄徳の生涯のうちでも、この時の敗戦行は、大難中の大難であったといえるであろう。
曹操も初めのうちは、部下の大将に追撃させておいたが、
「今をおいて玄徳を討つ時はなく、ここで玄徳を逸したら野に虎を放つようなものでしょう」
と荀彧らにも励まされてか、俄然数万騎を増派して、みずから下知に当り、
「どこまでも」と、その急追をゆるめないのであった。
ために玄徳は、長坂橋(湖北省・当陽、宜昌の東十里)附近でもさんざんに痛めつけられ、漢江の渡口まで追いつめられてきた頃は、進退まったくきわまって、
「わが運命もこれまで──」と、観念するしかないような状態に陥っていた。
ところが、ここに一陣の援軍があらわれた。さきに命をうけて江夏へ行っていた関羽が、劉琦から一万の兵を借りることに成功して夜を日についで馳けつけ、漢江の近くでようやく玄徳に追いついてきたものであった。
「ああまだ天は玄徳を見捨て給わぬか」
こうなると人間はただ運命にまかせているしかない。一喜一憂、九死一生、まるで怒濤と暴風の荒海を、行くても知れずただよっているような心地だった。
「ともあれ、一刻も早く」と、関羽の調えてくれた船に乗って、玄徳たちは危うい岸を離れた。──その船の中で、関羽は糜夫人の死を聞いて、大いに嘆きながら、
「むかし許田の御狩に会し、それがしが曹操を刺し殺そうとしたのを、あの時、あなた様が強ってお止めにならなければ、今日、こんな難儀にはお会いなさるまいものを」
と、彼らしくもない愚痴をこぼすのを、玄徳はなだめて、
「いや、あの時は、天下のために、乱を醸すまいと思い、また曹操の人物を惜しんで止めたのだが──もし天が正しきを助けるものなら、いつか一度は自分の志もつらぬく時節がくるだろう」
と、いった。
するとその時、江上一面に、喊の声や鼓の音が起って、河波をあげながらそれは徐々に近づいてくる様子だった。
「さては、敵の水軍」と玄徳も色を失い、関羽もあわてて、船のみよしに立って見た。
見れば彼方から蟻のような船列が順風に帆を張って来る。先頭の一艘はわけても巨大である。程なく近々と白波をわけて進んでくるのを見ると、その船上には、白い戦袍へ銀の甲鎧を扮装ったすがすがしい若武者が立っていて、しきりと此方へ向って手を打ち振っている。
「叔父、叔父。ご無事ですか。さきにお別れしたきり小姪の疎遠、その罪まことに軽くありません。ただ今、お目にかかってお詫び申すつもりです」
彼の声もやがて聞えてきた。すなわち江夏城から来た劉琦なのである。
玄徳、関羽のよろこびはいうまでもない。舷々相ふれると、玄徳は琦の手をとって迎え入れ、
「よくこそ、私の危急に、馳けつけて下すった」と、涙にくれた。
また、数里江上を行くと、一簇の兵船が飛ぶが如く漕ぎよせてきた。──一艘の舳には、綸巾鶴氅の高士か武将かと疑われるような風采の人物が立っていた。すなわち諸葛亮孔明だった。
ほかの船には、孫乾も乗っていた。──一体どうしてここへは? 人々が怪しんで問うと、孔明は微笑して、
「およそこの辺にいたら、各〻と落合えるであろうかと、夏口の兵を少し募って、お待ちしていただけです」と、あまり多くを語らなかった。
危急に迫って、援軍をたのんでも、援軍の間に合う場合は少ないものであるが、それの間に合ったのは、やはり孔明自身行って、関羽や劉琦をよく動かしたからであろう。
しかし、それをつぶさに語るとなると、自分の口から自分の功を誇るようなものになるので、孔明は、
「さし当って、次の策こそ肝腎です。夏口(漢口附近)の地は要害で水利の便もありますから、ひとまず彼処の城にお入りあって、曹操の大軍に対し、堅守して時節を待たれ、また劉琦君にも江夏の城へお帰りあって、わが君と首尾相助けながら、共に武具兵船の再軍備にお励みあるが万全の計でしょう」と、まず将来の方針を示した。
劉琦は、同意したが、
「それよりも、もっと安全なのは、ひとまず玄徳どのを、私の江夏城へおつれして、充分に装備をしてから、夏口へお渡りあっては如何ですか。──いきなり夏口へ入られるよりもそのほうが危険がないと思われますが」と、一応自分の考えも述べた。
玄徳も孔明も、
「それこそ、然るべし」と、意見は一致し、関羽に手勢五千をつけて、先に江夏の城へやった。そして何らの異変もないと確かめて後、玄徳や孔明、劉琦などは前後して入城した。
こうして、すでに長蛇を逸し去った曹操は、ぜひなく途中に軍の行動を停止して、各地に散開した追撃軍を漢水の畔に糾合したが、
「他日、玄徳が江陵に入っては一大事である」
と、さらに湖南へ下ってそこを奪い、一部の兵を留めて、すぐ荊州へ引っ返してきた。
荊州には、鄧義とか劉先などという旧臣が守っていたが、もう幼主劉琮は殺され、襄陽はおち、軍民すべて曹操の下に服してしまっているので、
「もはや誰のために戦おう」と、城門をひらいてことごとく曹操に降服してしまった。
曹操は荊州に居すわって、いよいよ対呉政策に乗り出した。
──呉を如何にするか。
これは多年の懸案である。しかもこの対策に成功しなければ、絶対に統一の覇業は完成しないのである。
「檄文を作れ」
荀攸に命じて、檄を書かせた。もちろんそれは呉へ送るものである。
いま、玄徳、孔明の輩は、その余命をわずかに江夏、夏口に拠せて、なお不逞な乱を企ておる。予、三軍をひきいて、疾くこれに游漁す。君も呉軍をひきいて、この快游を共にし給わずや。漁網の魚は、これを採って一盞の卓にのぼせ、地は割譲て、ながく好誼をむすぶ引出物としようではないか。
という意味のものだった。
ただし曹操としても、こんな一片の文書だけで、呉が降参してこようなどとは決して期待していない。いかなる外交もその外交辞令の手もとに、
(これがお嫌なら、またべつなご挨拶を以て)といえる「実力」が要る。彼は呉へ檄を送ると同時に、その実力を水陸から南方へ展開した。
総勢八十三万の兵を、号して百万ととなえ、西は荊陜から東は蘄黄にわたる三百里のあいだ、烟火連々と陣線をひいて、呉の境を威圧した。
この時、呉主孫権も、隣境の変に万一あるをおそれて、柴桑城(廬山、鄱陽湖の東南方)まで来ていたが、事態いよいよただならぬ形勢となったので、
「今こそ、呉の態度を迫られる時が来た。曹操についたが得策か、玄徳と結んだがよいか。ここの大方針は呉の興亡を決するものだ。乞う、そちの信じるところを忌憚なく聞かしてくれい」
呉の大賢といわるる魯粛は、孫権から直々にこう問われた。
魯粛は慎重に、孫権の諮問にこたえた。
「劉表の喪を弔うという名目をもって、私が荊州へお使いに立ちましょう」
「……そして?」
「帰途ひそかに江夏へおもむき、玄徳と対面して、よく利害を説き、彼に援助を与える密約をむすんで来ます」
「玄徳を援助したら、曹操は怒って、いよいよ鋭鋒を呉へ向けてくるだろう」
「いや、ちがいます。玄徳の勢いが衰退したので、曹操はたちまち呉へ大軍を転じて来たものです。故に、玄徳が強力となれば、背後の憂いがありますから、曹操は決して、思い切った侵攻を呉へ試みることはできません」
魯粛は、なお説いて、
「私がお使いに立てば、それらの大策の決定は後日に譲るまでも、とにかく荊州から江夏にわたる曹操、玄徳、両方の実状をしかとこの眼で見てくるつもりです。それも重要な前提ですから」
と、いった。
呉の国のうごきは今、呉自身の浮沈を決する時であると共に、曹操の大軍にも、江夏の玄徳の運命にも、こうして重大な鍵をもっていた。
江夏の城中にあっても、その事について、度々、評議するところがあったが、孔明はいつも、
「呉は遠く、曹は近く、結局われわれの抱く天下三分の理想──すなわち三国鼎立の実現を期するには、あくまで遠い呉をして近い曹操と争わせなければなりません。両大国を相搏たせて、その力を相殺させ、わが内容を拡充する。真の大策を行うのはそれからでしょう」
と、至極、穏当な論を述べていた。
「だが、そううまく、こちらの望みどおりにゆけばよいが?」
と、これは、玄徳だけの懐疑ではない。誰しも一応はそう考える。
これに対して、孔明は、
「ごらんなさい。今にきっと呉から使者が来るにちがいありません。然るときは、わたくし自身、一帆の風にまかせて、呉国へ下り、三寸不爛の舌をふるって、孫権と曹操を戦わせ、しかも江夏の味方は、そのいずれにも拠らず、一方のやぶれるのを見てから、遠大にしてなお万全な大計の道をおとりになるようにして見せます。──戦わば必ず勝つ戦いを戦うこと、三歳の児童も知る兵法の初学です」
──こう聞いても、人々はなお釈然となれなかった。むしろ不安にさえなった。
「孔明は何か非常な奇蹟でもあらわれるのをそらだのみにして、あんな言を吐いているのではないか」
そう思われる節がないでもないからである。
ところが、その奇蹟は、数日の後、ほんとうに江夏を訪れて来た。
「呉主孫権の名代として、故劉表の喪を弔うと称し、重臣魯粛と申される方の船が、いま江頭に着きました」と、いう知らせが、江岸の守備兵から城中へ通達されてきたのである。
「どうして軍師には、この事あるを、ああはやくからお分りになっておられたのか?」
ざわめく人々の問いに、孔明は、
「いかに強大な呉国でも、常勝軍と誇る曹兵百万が、南下するに会っては、戦慄せざるを得ないにきまっている。加うるに呉は富強ではあるが実戦の体験が少ない。境外の兵備の進歩やその実力をはかり知っておらぬ。──で、ひとまずは、使者を派して、君玄徳を説きつけ、あくまで曹操の背後を衝かせておくの策を考えるものと私は観た」と語り──また劉琦をかえりみて、呉の孫策が死んだ時、荊州から弔問の使者が会葬に行ったか否かをたずねて、琦がその事なしと答えると、
「それごらんなさい。呉と荊州とは、累代の仇。今それをも捨てて使者をよこしたのは、喪を弔うの使いではなく、実は虚実をさぐるための公然たる密命大使であることが、その一事でも明らかでしょう」と、笑って説明した。
やがて魯粛は賓閣へ迎えられた。彼は、劉琦に弔慰を述べ、玄徳には礼物を贈って、
「呉主孫権からも、くれぐれよろしく申されました」
と、まずは型の如き使節ぶりを見せた。
後、後堂で酒宴となり、こんどは玄徳から遠来の労をねぎらった。
魯粛は、酔い大いに発すると、玄徳へ向ってずけずけ訊ね出した。
「あなたは年来、曹操から眼の仇にされて、彼と戦いをくり返しておいでだから、よくご存じであろうが──いったい曹操という者は、天下統一の大野心を抱いているのでしょうか、それとも慾心はただ自己の繁栄に止まっている程度でありましょうか」
「さあ? ……どうであろう」
「彼の帷幕ではいま、誰と誰とが、もっとも曹操に用いられておりましょうな」
「よく知らぬが」
「では──」と、魯粛はたたみかけて、
「曹操の持つ総兵力というものは、実際のところ、どのくらいでしょう」
「その辺も、よくわきまえぬ」
何を問われても、玄徳は空とぼけていた。これは孔明の忠告によるものだった。
魯粛は少し色をなして、
「新野、当陽そのほか諸所において、曹操と戦ってきたあなたが、敵について、何の知識もないわけはないでしょう」と、詰問ると、玄徳はなお茫漠たる面をして、
「いや、いつの戦いでも、こちらは、曹操来ると聞けば、逃げ走ってばかりいたので、くわしいことはまったく不明です。ただ孔明なら少しは心得ているであろうが」
「諸葛亮はどこにおられますか」
「いま呼んでおひきあわせ致そうと考えていたところだ。誰か、孔明を召し連れてこい」
玄徳の命にひとりが立ち去って行くと、やがて孔明もここへ姿をあらわして、物やわらかに席に着いた。
「亮先生。──自分は先生の実兄とは、年来の親友ですが」と魯粛は、個人的な親しさを示しながら、彼に話しかけた。
「……ほ。兄の瑾をよくご存じですか」と、孔明もなつかしげに瞳を細めた。
「されば、このたびの門出にも、お会いしてきました。何やらお言伝でも承って参りたいと存じたが、公のお使い、わざと差し控えてきましたが」
「いや、余事はおいて、時に、わが主玄徳におかれては、かねてより呉の君臣に交友を求め、相たずさえて曹操を討たんと欲しられていますが、貴下のお考えでは如何であろうか」
「さあ、重大ですな」
「自惚れではありませんが、呉もまたわれわれと結ばなければ、存立にかかわりましょう。もしわが主玄徳が、一朝に意気地を捨てて、曹操につけば、これ自己の保身としては、最善でしょうが、呉にとっては脅威でしょう。南下の圧力は倍加するわけですから」
ことばは鄭重だがその言外に大国の使臣を強迫しているのである。魯粛は恐れざるを得なかった。孔明のいうような場合が実現しない限りもないからである。
「自分は呉の臣ですが──劉皇叔のために──個人としてここだけのことをいえば、貴国の交渉如何によっては、わが主孫権も決して動かないことはなかろうと信じられます。ただ、その使節は大任ですが」
「では、脈があるというわけですな」
「まあ、そうです。幸い、亮先生の兄上は、呉の参謀であり、主君のご信頼もふかいお方ですから、ひとつ先生自身、呉へ使いされたらどうかと思いますが」
そばで聞いていた玄徳は顔のいろを失った。呉の計略ではないかと考えたからである。魯粛がすすめれば勧めるほど、彼は許す気色もなかった。
孔明は、なだめて、
「事すでに急を要します。信念をもって行ってきます。どうかお命じください」
と、再三、許しを仰いだ。そして数日の後には、ついに魯粛と共に、下江の船に乗ることを得た。
長江千里、夜が明けても日が暮れても、江岸の風景は何の変化もない。水は黄色く、ただ滔々淙々と舷を洗う音のみ耳につく。
船は夜昼なく、呉の北端、柴桑郡をさして下っている。──その途中、魯粛はひそかにこう考えた。
「痩せても枯れても、玄徳は一方の勢力にちがいない。その軍師たり宰相たる重職にある孔明が、身に一兵も伴わず、まったくの単身で、呉へ行くという意気はけだし容易な覚悟ではない。──察するに孔明は一死を胸にちかい、得意の弁舌をもって、呉を説かんとする秘策をもっているものであろう」
同船して、幾日かの旅を共にしているうち、彼は悲壮なる孔明の心事に同情をよせていた。けれどまた、
「もし、孔明に説かれて、主君孫権が玄徳のために曹操と戦うような場合に立ち到るときは──勝てばよいが、負けたらその罪は?」
と、責任が自分に帰してくることをも、多分におそれずにいられなかった。
で、魯粛は、船窓の閑談中に、それとなく孔明に入れ智慧を試みたりした。
「先生。──先生が孫権とお会いになったら、かならずいろいろな質問が出ましょうが、曹軍の内容については、何事も知らぬ態をしておられたほうが得策かも知れませんな」
「どうして?」
孔明は、魯粛の肚を読みぬいているように、にやにや笑っていた。
「いや、どうといって、べつに深い理由はありませんが、あまり詳しいことを述べると、そう敵の内容をつまびらかに知っているわけはないから、曹操と同腹して、呉を探りに来たのではないか──などと疑われるおそれもありますからな」
「ははは。そんなお人ですか、孫将軍は」
魯粛はかえって赤面した。とうてい他人の入れ智慧などにうごかされる人物ではないとみて、魯粛もその後は口をつつしんだ。
やがて船は潯陽江(九江)の入江に入り、そこから陸路、西南に鄱陽湖を望みながら騎旅をすすめた。
そして柴桑城街につくと、魯粛は孔明の身をひとまず客館へ案内して、自身はただちに城へ登った。
府堂のうちでは折しも文武の百官が集まって、大会議中のところだった。魯粛帰れり! とそこへ聞えたので孫権は、
「すぐ、これへ」と、呼び入れて、彼にも当然、一つの席が与えられた。
孫権は、さっそく訊ねた。
「荊州の形勢はどうだった?」
「よく分りません」
「なに、分らぬ。──はるばる、江をさかのぼって、その地を通過しながら、何も見てこなかったのか」
「いささか、所感がないでもありませんが、それがしの視察は別にご報告申しあげます」
「むむ……そうか」
と、孫権も敢て追及しなかった。そして手もとにあった檄文の一通を、
「これ見よ」といって、魯粛へ渡した。
曹操からの「最後通牒」である。われに降って共に江夏の玄徳を討つや。それとも、わが百万の大軍と相まみえて、呉国を強いて滅亡へ導くつもりなりや否や、即刻、回報あるべし──という強硬なる半面威嚇、半面懐柔の檄文だった。
「このためのご評議中でございましたか」
「そうだ。……早朝から今にいたるまで」
「して、諸員のご意見は」
「いまなお、決しないが……満座の大半以上は、戦わぬがいいということに傾いておる」
そういって、孫権がふたたび沈吟すると、張昭そのほかの重臣は皆、口を揃えて、
「もし、呉の六郡と、呉の繁栄とを安穏に保ち、いよいよ富強安民を計らんとするなれば、ここは曹操に降って、彼の百万の鋭鋒を避け、他日を期すしかありません」
と、不戦論を唱えた。
百万の陸兵だけならまだ怖れるに足らぬとしても、曹操の手には今、数千艘の水軍も調っている。水陸一手となって、下江南進して来た場合、それを防ぐには、呉の兵馬軍船も大半以上損傷されるものと覚悟しなければならない。
不戦論を主張する人々は、こぞってその非を鳴らした。
「たとえ勝ったところで、その消耗からくる国の疲弊は、三年や四年では取り返しつきますまい、降伏に如くなしです」
評議は長くなるばかりだ。孫権の肚はなお決まらないのである。彼はやや疲れを見せて、
「衣服をかえてまた聴こう」
と席を立って殿裡へ隠れた。衣をかえるとは、休息の意味である。
魯粛はひとり彼について奥へ行った。孫権は意中を察して、
「魯粛。そちは最前、別に意見があるといったが、ここでならいえるであろう。そちの考えではどうか」と、親しく訊ねた。
魯粛は、重臣間に行われている濃厚な不戦論に接して、反感をそそられていた。その気持は、孔明に抱いていた同情とむすびついて、勃然と、主戦的な気を吐くに至った。
「宿将や、重臣の大部分が、云い合わせたように、わが君へ降参をおすすめする理由は、みな自己の保身と安穏をさきに考えて、君のお立場も国恥も大事と考えていないからです。──彼らとしては、主君をかえて、曹操に降参しても、すくなくも位階は従事官を下らず、牛車に乗り、吏卒をしたがえ、悠々、士林に交遊して、無事に累進を得れば、州郡の太守となる栄達も約束されているわけです。それに反して、わが君の場合は、よく行っても、車一乗、馬数匹、従者の二十人も許されれば、降将の待遇としては関の山でしょう。もとより南面して天下の覇業を行わんなどという望みは、もう死ぬまで持つことはできません」
当然、若い孫権は動かされた。彼はなお多分に若い。消極論には迷いを抱くが、積極性のある説には、本能的にも、血が高鳴った。
「なお詳しいことは、臣が江夏からつれてきた一客を召して、親しくそれにお訊ね遊ばしてごらんなさい」
「一客とは誰か」
「諸葛瑾の弟、孔明です」
「お。臥龍先生か」
孫権も彼の名は久しく聞いている。しかも自分の臣諸葛瑾の弟でもある。さっそく会いたいと思ったが、しかし、その日のこともあるので評議は一応取止め、明日また改めて参集すべし──と諸員へ云いわたした。
次の日の早朝、魯粛は、孔明をその客館へ誘いに行った。前の夜から報らせがあったので、孔明は斎戒沐浴して、はや身支度をととのえていた。
「きょう呉君にお会いになって、曹操の兵力を問われても、あまり実際のところをお云いにならないほうがよいと思います。何ぶん、文武の宿老には、事なかれ主義の人物が大半以上ですから」
魯粛は、親切にささやいたが、孔明には、別に確たる自信があるものの如く、ただうなずいて見せるだけだった。
柴桑城の一閣には、その日、かくと聞いて、彼を待ちかまえていた呉の智嚢と英武とが二十余名、峩冠をいただき、衣服を正し、白髯黒髯、細眼巨眼、痩躯肥大、おのおの異色のある威儀と沈黙を守って、
(さて。どんな人物?)と、いわぬばかりに居並んでいた。
孔明は、すがすがしい顔をして、魯粛に導かれて入ってきた。そして居並ぶ人々へ、いちいち名を問い、いちいち礼をほどこしてから、
「いただきます」
と、静かに客位の席へついた。
その挙止は縹渺、その眸は晃々、雲をしのぐ山とも見え、山にかくされた月とも思われる。
(さてはこの人、呉を説いて、呉を曹操に当らせんため──単身これへ来たものだな)
さすが呉国第一の名将といわれる張昭は、じろと瞬間に、そう観やぶっていた。
一同こもごもの挨拶がすむと、やがて張昭は、孔明に向って云った。
「劉予州が、先生の草廬を三度まで訪ねて、ついに先生の出廬をうながし、魚の水を得たるが如し──と歓ばれたという噂は、近頃の話題として、世上にも伝えられていますが、その後、荊州も奪らず、新野も追われ、惨めな敗亡をとげられたのは一体どういうわけですか。われわれの期待は破られ、人みな不審がっておりますが」
皮肉な質問である。
孔明はじっと眸をその人に向け直した。
張昭は、呉の偉材だ。この人を説服し得ないようでは、呉の藩論をうごかすことは至難だろう。──そう胸には大事を期しながら、孔明はにこやかに、
「されば、──もしわが君劉予州が荊州を奪ろうとなされば、それは掌を返すよりたやすいことであったでしょう。けれど君と故劉表とは同宗の親、その国の不幸に乗って、領地を横奪するがごとき不信は、余人は知らず、わが仁君玄徳にはよくなさりません」
「これは異なことを承る。それでは先生の言行に相違があるというものだ」
「なぜですか」
「先生はみずから常に自分を春秋の管仲、楽毅に比していたそうですが、古の英雄が志は、天下万民の害を除くにあり、そのためには、小義私情を捨てて大義公徳により、良く覇業統一を成しとげたものと存ずるが──いま劉予州をたすけて、今日の管仲たり楽毅たらんと任ずるあなたが、出廬たちまち前後の事情や私心にとらわれ、曹操の軍に遭うては、甲を投げ矛をすてて、僻地へ敗走してしまうなど、どう贔屓目に見てもあまり立派な図とは思われぬが」
「はははは」
孔明は昂然と笑って、
「いや、あなた方のお眼に、そう映るのは無理もありません。大鵬という鳥がある。よく万里を翔破します。しかし大鵬の志は燕雀の知る限りではない。古人もいっている──善人が邦を治めるには百年を期して良く残に克ち殺を去って為す──と。たとえば重い病人を治すには、まず粥を与え、やわらかな薬餌から始める。そして臓腑血気の調うのを待って、徐々、強食をすすめ、精薬を以てその病根をきる。──これを逆にして、気脈もととのわぬ重態に、いきなり肉食猛薬を与えたら、病人の生命はどうなりましょう。いま天下の大乱は、重病者の気脈のごとく、万民の窮状は、瀕死の者の気息にも似ている。これを医し癒さんに、なんで短兵急にまいろうか。──しかも天下の医たるわが劉予州の君には、汝南の戦にやぶれ、新野の僻地に屈み、城郭堅からず、甲兵完からず、粮草なおとぼしき間に、曹操が百万の強襲をうけ給う。これに当るはみずから死を求めるのみ。これを避けるは兵家の常道であり、また百年の大志を後に期し給うからである。──とはいえ、白河の激水に、夏侯惇、曹仁の輩を奔流の計にもてあそび、博望の谿間にその先鋒を焼き爛し、わが軍としては、退くも堂々、決して醜い潰走はしていません。──ただ当陽の野においては、みじめなる離散を一時体験しましたが、これとて、新野の百姓老幼数万のものが、君の徳を慕いまいらせ、陸続ついて来たために──一日の行程わずか十里、ついに江陵に入ることができなかった結果です。それもまた主君玄徳の仁愛を証するもので、恥なき敗戦とは意義が違う。むかし楚の項羽は戦うごとに勝ちながら、垓下の一敗に仆るるや、高祖に亡ぼされているでしょう。韓信は高祖に仕え、戦えど戦えど、ほとんど、勝ったためしのない大将であるが、最後の勝利は、ついに高祖のものとしたではありませんか。これ、大計というもので、いたずらに晴の場所で雄弁を誇り、局部的な勝敗をとって功を論じ、社稷百年の計を、坐議立談するが如き軽輩な人では、よく解することはできますまい」
ことばこそ爽かなれ、面こそ静かなれ、彼の態度は、微塵の卑下も卑屈もなかった。
張昭は沈黙した。さしもの彼も心を取りひしがれたような面持に見えた。
一座やや白けたかと見えた時である。突として立った者がある。会稽郡余姚の人、虞翻、字は仲翔であった。
「率直にお訊ねするの不遜をおゆるしありたい。いま曹操の軍勢百万雄将千員、天下を一呑みにせんが如き猛威をふるっておるが、先生には何の対策かある。乞う、吾々のために聴かせ給え」
「百万とは号すが、実数は七、八十万というところでしょう。それも袁紹を攻めては、その北兵を編入し、荊州をあわせては、劉表の旧臣を寄せたもの、いわゆる烏合の勢です。何怖れるほどなものがありましょう」
「あははは。いわれたりな孔明先生。あなたは新野を自燼し、当陽に惨敗し、危うく虎口をのがれたばかりではないか。その口で、曹操如きは怖るるに足らんというのは、ちとおかしい。耳をおおうて鈴を盗むの類だ」
「いや、わが劉予州の君に従う者は、少数ながら、ことごとく仁義の兵です。何ぞ、曹操が残暴きわまる大敵に当って、自ら珠を砕くの愚をしましょう。──これを呉に較べてみれば、呉は富強にして山川沃地広く、兵馬は逞しく、長江の守りは嶮。然るにです、その国政にたずさわる諸卿らは、一身の安きを思うて国恥を念とせず、ご主君をして、曹賊の軍門に膝を屈せしめようとしておられるではないか。──その懦弱、卑劣、これをわが劉予州の麾下の行動と較べたら、同日の談ではありますまい」
孔明の面は淡紅を潮している。言語は徐々、痛烈になってきた。
虞翻が口を閉じると、すぐまた、一人立った。淮陰の歩隲、字は子山である。
「孔明──」こう傲然呼びかけて、
「敢て訊くが、其許は蘇秦、張儀の詭弁を学んで、三寸不爛の舌をふるい、この国へ遊説しにやってきたのか。それが目的であるか」
孔明は、にことかえりみて、
「ご辺は蘇秦、張儀を、ただ弁舌の人とのみ心得ておられるか。蘇秦は六国の印をおび、張儀は二度まで秦の宰相たりし人、みな社稷を扶け、天下の経営に当った人物です。さるを、曹操の宣伝や威嚇に乗ぜられて、たちまち主君に降服をすすめるような自己の小才をもって推しはかり、蘇秦、張儀の類などと軽々しく口にするはまことに小人の雑言で、真面目にお答えする価値もない」
一蹴に云い退けられて、歩隲が顔を赤らめてしまうと、
「曹操とは、何者か?」と、唐突に問う者があった。
孔明は、間髪をいれず、
「漢室の賊臣」と、答えた。
すると、質問した沛郡の薛綜は、その解釈が根本的に誤謬であると指摘して、
「古人の言にも──天下は一人の天下に非ず、すなわち天下の天下である──といっておる。故に、尭も天下を舜に譲り、舜は天下を禹に譲っている。いま漢室の政命尽き、曹操の実力は天下の三分の二を占むるにいたり、民心も彼に帰せんとしておる。賊といわば、舜も賊、禹も賊、武王、秦王、高祖ことごとく賊ではないか」
「お黙りなさい!」
孔明は、叱っていう。
「ご辺の言は、父母もなく君もない人間でなければいえないことだ。人と生れながら、忠孝の本をわきまえぬはずはあるまい。曹操は相国曹参の後胤で、累世四百年も漢室に仕えてその禄を食みながら、いま漢室の衰えるを見るや、その恩を報ぜんとはせず、かえって、乱世の奸雄たる本質をあらわして簒虐をたくらむ。──思うにご辺は天数循環の歴史を、現実の一人間の野望に附加して、強いて理由づけようとしておられるらしい。そういうお考え方もまた逆心といえる。借問す、貴下は、貴下の主家が衰えたら、曹操のように、たちまち主君の孫権をないがしろになされるか」
呉郡の陸績、字は公紀。
すぐ続いて、孔明へ論じかけた。
「いかにも、先生のいわるる通り、曹操は相国曹参の後胤、漢朝累代の臣たること、まちがいない。──しかし劉予州は如何に。これは自称して、中山靖王の末裔とはいい給えど、聞説、その生い立ちは、蓆を織り履を商うていた賤夫という。──これを較ぶるに、いずれを珠とし、いずれを瓦とするや。おのずから明白ではあるまいか」
孔明は、呵々大笑して、
「オオ君はその以前袁術の席上において、橘をふところに入れたという陸郎であるな。まず安坐してわが論を聞け。むかし周の文王は、天下の三分の二を領しながらも、なお殷に仕えていたので、孔子も周の徳を至徳だとたたえられた。これあくまで君を冒さず、臣は臣たるの道である。──後、殷の紂王、悪虐のかぎりを尽し、ついに武王立って、これを伐つも、なお伯夷、叔斉は馬をひかえて諫めておる。見ずや、曹操のごときは、累代の君家に、何の勲だになく、しかも常に帝を害し奉らん機会ばかりうかがっていることを。家門高ければ高きほど、その罪は深大ではないか。見ずやなおわが君家劉予州を。大漢四百年、その間の治乱には、必然、多くの門葉ご支族も、僻地に流寓し、あえなく農田に血液をかくし給うこと、何の歴史の恥であろう。時来って草莽のうちより現われ、泥土去って珠金の質を世に挙げられ給うこと、また当然の帰趨のみ。──さるを履を綯えばとて賤しみ、蓆を織りたればとて蔑むなど、そんな眼をもって、世を観、人生を観、よくも一国の政事に参じられたものではある。民にとって天変地異よりも怖ろしいものは、盲目な為政者だという。けだし尊公などもその組ではないか」
陸績は胸ふさがって、二の句もつげなかった。
昂然、また代って立ったのは、彭城の厳畯、字は曼才。
「さすがは孔明、よく論破された。わが国の英雄、みな君の弁舌におおわれて顔色もない。そも、君はいかなる経典に依ってそんな博識になったか。ひとつその蘊蓄ある学問を聴こうではないか」
と、揶揄的にいった。
孔明は、気を揮って、それへ一喝した。
「末梢を論じ、枝葉をあげつらい、章句に拘泥して日を暮すは、世の腐れ儒者の所為。何で国を興し、民を安んずる大策を知ろう。漢の天子を創始した張良、陳平の輩といえども、かつて経典にくわしかったということは聞かぬ。不肖孔明もまた、区々たる筆硯のあいだに、白を論じ黒を評し、無用の翰墨と貴重の日を費やすようなことは、その任でない」
「こは、聞き捨てにならぬことだ。では、文は天下を治むるに、無用のものといわれるか」
駁してきたのは、汝南の程秉であった。孔明は面を横に振りながら、
「早のみ込みをし給うな。学文にも小人の弄文と、君子の文業とがある。小儒はおのれあって邦なく、春秋の賦を至上とし、世の翰墨を費やして、世の子女を安きに惑溺させ、世の思潮をいたずらににごすを能とし、辞々句々万言あるも、胸中一物の正理もない。大儒の業は、まず志を一国の本におき、人倫の道を肉づけ、文化の健全に華をそえ、味なき政治に楽譜を奏で、苦しき生活にうるおいをもたらし、暗黒の底に希望をもたらす。無用有用はおのずからこれを導く政治の善悪にあって、腐文盛んなるは悪政の反映であり、文事健調なる──その国の政道明らかなことを示すものである。──最前から各〻の声音を通して、この国の学問を察するに、その低調、愍然たるものをおぼゆる。この観察はご不平であるや、如何に」
すでに満座声もなく、鳴りをひそめてしまったので、ここに至って、こう孔明のほうから一問した。
けれど、それに対して、もう起って答える者のなかった時、沓音高く、ここへ入ってきた一人物があった。
──一同、その一沓音にふりかえって、誰かと見ると、零陵泉陵の産、黄蓋、字は公覆といって、いま呉の糧財奉行、すなわち大蔵大臣の人物だった。
ぎょろりと、大堂を見わたしながら、天井をゆするような声で、
「諸公はいったい何しとるんかっ。孔明先生は当世第一の英雄じゃ。この賓客にたいし、愚問難題をならべ、無用な口を開いていたずらに腸を客に見するなど、呉の恥ではないか。主君のお顔よごしでもある。慎まれいっ」
そして孔明に向っては、きわめて慇懃に、
「最前からの衆臣の無礼、かならずお気にかけて給わるな。主君孫権には、はやくより清堂を浄めて、お待ちしておりまする。せっかくな金言玉論、どうかわが主君にお聴かせ下さい」
と、先に立って、奥へ案内して行った。
ばかな目を見たのは、むきになって討論に当った諸大将であった。もとよりこれは黄蓋が叱ったわけではない。誰か孫権へ告げた者があって、孫権の考えから、賓客のてまえ、こう一同にいわざるを得なくなり、黄蓋が旨をふくんできたものにちがいない。何にせよ、それからの鄭重なことは国賓を迎えるようであった。黄蓋と共に、魯粛も案内に立ち、粛々、中門まで通ってくると、開かれたる燦碧金襴の門扉のかたわらに、黙然、出迎えている一名の重臣があった。
「おお……」
「おお……」
孔明は、はたと足をとめた。
その人も、凝然と、彼を見まもった。
これなん、呉の参謀、孫権が重臣、そして孔明にとって実の兄たる諸葛瑾であった。
久しいかな、兄弟相距ち、また相会うこと。
幼い者が手をつなぎあって、老いたる従者や継母などと一緒に、遠く山東の空から南へ流れ流れて来た頃の、あの時代のお互いのすがたや、惨風悲雨の中にあった家庭のさまが、瞬間、ふたりの胸にはこみあげるように思い出されていたにちがいない。
「亮。この国へ見えられたか」
「主命をおびてまかり越しました」
「見ちがえる程になった」
「家兄にも……」
「呉へ来たなら、なぜ早く、わしの邸へ訪ねてくれなかったか。旅舎からちょっと沙汰でもしてくれればよかったのに」
「このたびの下江は、劉予州のお使いとして来ましたので、わたくしの事は、すべて後にと控えていました。ご賢察くださいまし」
「それも道理。──いやいずれ後でゆるりと会おう。呉君にもお待ちかねであらせられる」
諸葛瑾は、呉の臣に返って、うやうやしく賓客を通し、飄として、立ち去った。
豪壮華麗な大堂がやがて孔明の目前にあった。珠欄玉階、彼の裳は、一歩一歩のぼってゆく。
やおら身を掻い起して、それへ立ち迎えに出てきたのは、呉主孫権であるこというまでもない。
孔明は、ひざまずいて再拝した。
孫権は鷹揚に、半礼を返し、
「まず……」
と、座へ請じた。
その上座をかたく辞して、孔明は横の席へ着いた。
そして玄徳からの礼辞を述べた。声音すずやかで言葉にもむだがない。対する者をして何かしら快い感じを抱かせるような風が汲みとられる。
「遠路、おつかれであろう」
孫権はねぎらう。
文武の大将は遠く排列して、ただひそやかに一箇の賓客を見まもっている。
孔明の静かなひとみは、時折、孫権の面にそそがれた。
孫権の人相をうかがうに碧瞳紫髯──いわゆる眼は碧にちかく髯は紫をおびている。漢人本来の容貌や形態でない。
また腰かけていると、その上躯は実に堂々と見えるが、起つと腰から下がはなはだ短い。これも彼の特徴であった。
孔明は、こう観ていた。
(これはたしかに一代の巨人にはちがいない。しかし感情昂く、内は強情で、精猛なかわりに短所も発し易い。この人を説くには、わざとその激情を励ますのがよいかも知れぬ)
香の高い茶が饗された。
孫権は、孔明にすすめながら、共に茶をすすって、
「新野の戦はどうでした。あれは先生が劉予州を扶けて戦った最初のものでしょう」
「敗れました。兵は数千に足らず、将は五指に足りません。また新野は守るに不適当な城地ですから」
「いったい曹操の兵力は──実数はです──どのくらいのところが本当でしょう」
「百万はあります」
「そう号しているのですな」
「いや、確実なところです。北の青州、兗州を亡ぼした時、すでに四、五十万はありました。さらに、袁紹を討って四、五十万を加え、中国に養う直属の精鋭は少なくも二、三十万を下るまいと思われます。私が百万と申しあげたのは、この国の方々が、曹操の実力百五、六十万もありといったら驚かれて気も萎えてしまうであろうと、わざと少なく評価してお答えいたしたのです」
「それにのぞむ帷幕の大将は」
「良将二、三千人。そのうち稀代の智謀、万夫不当の勇など、選りすぐっても四、五十人は数えられましょう」
「先生の如き人は?」
「私ごときものは、車に積み、桝で量るほどいます」
「いま、曹操の陣容は、どこを攻めるつもりであろうか」
「水陸の両軍は、江に添って徐々南進の態勢にあります。呉を図らんとする以外、どこへあの大量な軍勢の向け場がありましょうや」
「呉は、戦うべきか、戦わないがよいか」
「は、は、ははは」
ここで孔明は軽く笑った。
ぽいと、かわされたかたちである。孫権は気がついたもののごとく、急に慇懃の辞をかさねて、
「──実は、魯粛が先生の徳操をたたえること非常なもので、予もまた、久しくご高名を慕うていたところなので、ぜひ今日は、金玉の名論に接したいと考えていたのです。願わくば、この大事に当ってとるべき呉の大方向をご垂示にあずかりたい」
「愚存を申しあげてもよいと思いますが、しかしおそらく将軍のお心にはかないますまい。お用いなき他説をお聴きになっても、かえって迷う因ではありませんか」
「ともあれ拝聴しましょう」
「では忌憚なく申しあげる。──四海大いに乱るるの時、家祖、東呉を興したまい、いまや孫家の隆昌は、曠世の偉観といっても過言ではありません。一方、わが劉予州の君におかれても、草莽より身を起し、義を唱え、民を救い、上江遠からず曹操の大軍と天下をあらそっています。これまた史上未曾有の壮挙にあらずして何でしょう。然るに、恨むらくは、兵少なく、地利あらず、いま一陣にやぶれて、臣孔明に万恨を託され、江水の縁を頼って、呉に合流せんことを衷心ねがっているわけであります。──もし閣下が、偉大なる父兄の創業をうけて、その煌々たるお志をもつがんと欲するなれば、よろしくわが劉予州と合して、呉越の兵をおこし、天下分け目のこの秋にのぞんで、即時、曹操との国交をお断ちなさい。……またもしそのお志なく、到底、曹操とは天下を争うほどな資格はないと、ご自身、諦めておいでになるなら、なおほかに一計がなきにしもあらずです。それは簡単です」
「戦わずに、しかも国中安穏にすむ、良い計策があるといわるるか」
「そうです」
「それは」
「降服するのです」
「降服」
「そのお膝をかがめて、曹操の眼の下に、憐みを乞えば、これは呉の諸大将が閣下へすすめている通りになる。甲を脱ぎ、城を捨て、国土を提供して、彼の処分にまかせる以上、曹操とても、そう涙のないことはしないでしょう」
「…………」
孫権は、黙然と首を垂れていた。父母の墳にぬかずく以外には、まだ他人へ膝をかがめたことを知らない孫権である。──孔明はじっとその態を見つめていた。
「閣下。おそらくあなたのお心には」──孔明はなおいった。孫権のうつ向いている上へ、云いかぶせるようにいった。
「大きな誇りをお持ちでしょう。またひそかには、男児と生れて、天下の大事を争うてみたいという壮気も疼いておられましょう。……ところが呉の宿将元老ことごとく不賛成です。まず安穏第一とおすすめ申しあげておる。閣下の胸中も拝察できます。──けれど事態は急にしてかつ重大です。もし遅疑逡巡、いたずらに日をすごし、決断の大機を失い給うようなことに至っては、禍いの襲いくること、もう遠い時期ではありませんぞ」
「…………」
孫権はいよいよ黙りこむ一方であった。孔明はしばらく間をおいてまた、
「何よりも、国中の百姓が、塗炭の苦しみをなめます。閣下のお胸ひとつのために。──戦うなら戦う、これもよし。降参するならする、これもまたよしです。いずれとも、早く決することです。同じ降参するなら、初めから恥を捨てたほうが、なお幾分、あなたに残されるものが残されるでしょう」
「……先生っ」と、孫権は面をあげた。内に抑えつけていた憤懣が眼に出ている、唇に出ている、色に出ている。
「先生の言を聞いておると、他人の立場はどうにでもいえる──という俗言が思い出される。いわるる如くならば、なぜ先生の主、劉予州にも降服をすすめられぬか。予以上、戦っても勝ち目のない玄徳へ、その言そのままを、献言されないか」
「いみじくも申された。むかし斉の田横は、一処士の身にありながら、漢の高祖にも降らず、ついに節操を守って自害しました。いわんやわが劉予州は、王室の宗親。しかもその英才は世を蓋い、諸民の慕うこと、水に添うて魚の遊ぶが如きものがある。勝敗は兵家のつね、事成らぬも天命です。いずくんぞ下輩曹操ごときに降りましょうや。──もし私が、閣下へ申しあげたような言をそのままわが主君へ進言したら、たちどころに斬首されるか、醜き奴と、生涯さげすまれるにきまっております」
云い終らないうちである。
孫権は急に顔色を変えて、ぷいと席を起ち、大股に後閣へ立ち去ってしまった。
小気味よしと思ったのであろう。屏立していた諸大将はぶしつけな眼や失笑を孔明に投げながらぞろぞろと堂後へ隠れた。
ひとり魯粛はあとに残って、
「先生。何たることです」
「何がですか」
「あれほど私が忠告しておいたのに、私があなたに寄せた同情はだいなしです。あんな不遜な言を吐かれたら孫将軍でなくても怒るにきまっています」
「あははは。何が不遜。自分はよほど慎んで云ったつもりなのに。──いやはや、大気な人間を容れる雅量のないおひとだ」
「では別に何か先生には、妙計大策がおありなのですか」
「もちろん。──なければ、孔明のことばは、空論になる」
「真に大計がおありならば、もう一応、主君にすすめてみますが」
「気量のものを容れる寛度をもって、もし請い問わるるならば、申してもよい。──曹操が百万の勢も孔明からいわしめれば、群がれる蟻のようなものです。わが一指をさせば、こなごなに分裂し、わが片手を動かさば、大江の水も逆巻いて、立ちどころに彼が百船も呑み去るであろう」
烱々たる眸は天の一角を射ていた。魯粛は、その眸を、じっと見て、狂人ではないことを信念した。
孫権のあとを追って、彼は後閣の一房へ入った。主君は衣冠をかえていた。魯粛はひざまずいて、再度すすめた。
「ご短慮です。まだ孔明は真に腹蔵を吐露してはおりません。曹操を討つ大策は、軽々しくいわぬといっています。そしてまた、何ぞ気量の狭いご主君ぞと、大笑していました。……もう一度、彼の胸を叩いてごらん遊ばしませ」
「なに、予のことを、気量の狭い主君だといっていたか」
孫権は、王帯を佩きながら、ふと面の怒気をひそめていた。
重大時期だ。国土の興亡のわかれめだ。孫権は、努めて思い直した。
「魯粛。もう一度、孔明にその大策を質してみよう」
「ああ、さすがは。──よくぞご堪忍がつきました」
「どこにおる」
「賓殿にあのままでいます」
「誰も来るな」
随員をみな払って、孫権はふたたび孔明の前へ出た。
「先生、ゆるし給え。弱冠の無礼を」
「いや自分こそ、国主の威厳を犯し、多罪、死に値します」
「ふかく思うに、曹操が積年の敵と見ているものは、わが東呉の国と、劉予州であった」
「お気づきになりましたか」
「しかし、わが東呉十余万の兵は、久しく平和に馴れて、曹操の強馬精兵には当り難い。もし敢然、彼に当るものありとすれば、劉予州しかない」
「安んじたまえ。劉予州の君、ひとたび当陽に敗れたりとはいえ、後、徳を慕うて、離散の兵はことごとくかえっております。関羽がひき連れてきた兵も一万に近く、また劉琦君が江夏の勢も一万を下りません。ただし、閣下のご決意はどうなったのですか。乾坤一擲のこの分れ目は、区々たる兵数の問題でなく、敗れを取るも勝利をつかむも、一にあなたのお胸にあります」
「予の心はすでに決まった。われも東呉の孫権である。いかで曹操の下風につこうか」
「さもあらば大事を成すの機今日にあり! です。彼が百万の大軍もみな遠征の疲れ武者、ことには、当陽の合戦に、あせり立つこと甚だしく、一日三百里を疾駆したと聞く。これまさに強弩の末勢。──加うるにその水軍は、北国そだちの水上不熟練の勢が大部分です。ひとたび、その機鋒を拉がんか、もともと、荊州の軍民は、心ならずも彼の暴威に伏している者ばかりですから、たちまち内争紛乱を醸し、北方へ崩れ立つこと、眼に見えるようなものです。この賊を追わば、荊州へ一挙に兵を入れ給うて、劉予州と鼎足のかたちをとり、呉の外郭をかため、民を安んじ、長久の治策を計ること、それはまず後日に譲ってもよいでしょう」
「そうだ。予はふたたび迷わん。──魯粛魯粛」
「はっ」
「即時、兵馬の準備だ。曹操を撃砕するのだ。諸員に出動を触れ知らせい」
魯粛は、駈け走った。
孔明に向っては、ひとまず客舎へもどって、休息し給えと云いのこして、孫権は力づよい跫音を踏みしめながら東郭の奥へ入った。
おどろいたのは、各所に屯していた文武の諸大将や宿老である。
「開戦だっ。出動。出動の用意」という触れを聞いても、
「嘘だろう?」と、疑ったほどであった。
それもその筈で、つい今し方、賓殿の上で、孔明の不遜に憤った主君は、彼を避けて、奥へかくれてしまったと、愉快そうに評判するのを聞いていたばかりのところである。
「間違いだろう、何かの」
がやがやいっている所へ、魯粛は意気ごみぬいて、触れて廻ってきた。やはり開戦だという。人々は急にひしめきあった。色をなして、開戦反対の同志をあつめた。
「孔明に出しぬかれた! いざ来い、打ち揃って、直ぐさま君をご諫止せねばならん」
張昭を先に立て、一同気色ばんで、孫権の前へ出た。──孫権も、来たな、という顔を示した。
「臣張昭、不遜至極ながら、直言お諫めしたい儀をもって、これへ伺いました」
「なんだ」
「おそれながら、君ご自身と、河北に亡んだ袁紹とを、ご比較遊ばしてみて下さい」
「…………」
「あの袁紹においてすら、あの河北の強大をもってすら、曹操には破られたではございませぬか。しかもその頃の曹操はまだ、今日のごとき大をなしていなかった時代です」
張昭の眼には涙が光っていた。
「伏して、ご賢慮を仰ぎまする。──ゆめ、孔明ごとき才物の弁に、大事を計られ、国家を誤り給わぬように」
張昭のあとについて、顧雍も諫めた。ほかの諸大将も極言した。
「玄徳はいま、手も足も出ない状態に落ちている。孔明を使いとしてわが国を抱きこみ、併せて、曹操に復讐し、時至らば自己の地盤を拡大せんとするものでしかない」
「そんな輩に語らわれて、曹操の大軍へ当るなど、薪を負うて猛火の中へ飛びこむようなものです」
「君! 火中の栗をひろい給うなかれ!」
この時、魯粛は堂外にいたが、様子を見て、
「これはいかん」と苦慮していた。
孫権はやがて、諸員のごうごうたる諫言に、責めたてられて、耐えられじと思ったか、
「考えておく。なお考える」といって、奥なる私室へ急ぎ足にかくれた。
その途中を、廊に待って、魯粛はまた、自分の主張を切言した。
「彼らの多くは文弱な吏と、老後の安養を祈る老将ばかりです。君に降服をおすすめするも、ただただ、家の妻子と富貴の日を偸みたい気もち以外に何もありはしません。決して、左様な惰弱な徒の言に過られ給わぬように、しかと、ゆるがぬ覚悟をすえて下さい。家祖孫堅の君には、いかなるご苦労をなされたか。また御兄君孫策様のご勇略はいかに。おふた方の血は正しくあなた様の五体にも脈々ながれているはずではございませぬか……」
「離せ」
ふいに、孫権は袂を払って、室の中へ身をひるがえしてしまった。後堂前閣の園をここかしこに、
「戦うべしだ」
「いや、戦うべからず」
と喧々囂々、議論のかたまりを持って流れ歩いてくる一組が、すぐ近くの樹陰にも見えたからであった。
何せよ、議論紛々だった。一部の武将と全部の文官は、開戦に反対であり、一部の少壮武人には、主戦論が支持されていた。それを数の上から見れば、ちょうど七対三ぐらいにわかれている。
私房にかくれた孫権は、病人のように手を額に当てていた。寝食も忘れて懊悩悶々と案じ煩っていた。東呉の国、興ってここに三代、初めての国難であり、また人間的には、彼という幸福に馴れた世継ぎが、生れて初めてここに与えられた大きな試煉でもあった。
「……どうしたのです?」
食事もとらないというので、呉夫人が心配して様子を見に来た。
孫権は、ありのまま、つぶさに話した。当面の大問題。そして藩内の紛乱が、不戦主戦、二つに割れていることも告げた。
「まだまだ、そなたは坊っちゃまですね、そんなことでご飯もたべなかったのですか、何でもないではありませんか」
「この解決案がありますか」
「ありますとも」
「ど、どうするんですか」
「忘れましたか。そなたの兄孫策が、死にのぞんで遺言されたおことばを」
「……?」
「──内事決せずんばこれを張昭に問え。外事紛乱するに至らばこれを周瑜に計るべし──と仰っしゃったではなかったか」
「ああ……そうでした。思い出せば、今でも兄上のお声がする」
「それごらんなさい。日頃も父や兄を忘れているからこんな苦しみにいたずらな煩悶をするのです。──内務はともかく、外患外交など、総じて外へ当ることは、周瑜の才でなくてはなりますまい」
「そうでした! そうでした!」
孫権は夢でもさめたように、そう叫んで、急にからりと面を見せた。
「早速、周瑜を召して、意見を問いましょう。なぜ今日までそれに気がつかなかったのだろう」
たちまち彼は一書を認めた。心ききたる一名の大将にそれを持たせ、柴桑からほど遠からぬ鄱陽湖へ急がせた。水軍都督周瑜はいまそこにあって、日々水夫軍船の調練にあたっていた。
周瑜は、呉の先主、孫策と同じ年であった。
また彼の妻は、策の妃の妹であるから、現在の呉主孫権と周瑜とのあいだは、義兄弟に当るわけである。
彼は、盧江の生れで、字を公瑾といい、孫策に知られてその将となるや、わずか二十四歳で中郎将となったほどな英俊だった。
だから当時、呉の人はこの年少紅顔の将軍を、軍中の美周郎と呼んだり、周郎周郎と持てはやしたりしたものだった。
彼が、江夏の太守であったとき、喬公という名家の二女を手に入れた。姉妹とも絶世の美人で、
──喬公の二名花
と、いえば呉で知らない者はなかった。
孫策は、姉を入れて妃とし、周瑜はその妹を迎えて妻とした。──が間もなく策は世を去ったので、姉は未亡人となっていたが、妹は今も、瑜のまたなき愛妻として、国もとの家を守っていた。
当時、呉の人々は、
(喬公の二名花は、流離して、つぶさに戦禍を舐めたが、天下第一の聟ふたりを得たのは、また天下第一の幸福というものだ)といって祝福した。
わけて、青年将軍の周瑜は、音楽に精しく、多感多情の風流子でもあった。だから宴楽の時などでも、楽人の奏でる調節や譜に間違いがあると、どんなに酔っているときでも、きっと奏手の楽人をふりかえって、
(おや。いまのところは、ちょっとおかしいね)
と、注意するような眼をするのが常だった。
だから当時、時人のうたう中にも、
曲ニ誤リアリ
周郎、顧ミル
という歌詞すらあるほどだった。
こういう周瑜も、今は孫策亡きあとの呉の水軍提督たる重任を負って、鄱陽湖へ来てからは、家にのこしてある愛妻を見る日もなく、好きな音楽に耳を洗ういとまもなく、ひたすら呉の大水軍建設に当っていた。
しかもその水軍がものいう時機は迫っていた。魏の水陸軍百万乃至八十万というものが南下を取って、
我ニ質子ヲ送リ、
我軍門ニ降ルカ
我ニ兵ヲ送リ、
我粉砕ヲ受ケルカ
と、すこぶる高圧的に不遜な最後通牒を呉へ突きつけてきているという。
もとより周瑜がそれを知らないはずはない。しかし、彼の任は政治になく、水軍の建設とその猛練習にある。──今日も彼は、舟手の訓練を閲して、湖畔の官邸へひきあげて来ると、そこへ孫権からの早馬が来て、
「すぐさま柴桑城までお出向きください。国君のお召しです」
と、権の直書を手渡して帰って行った。
「いずれは……」と、かねて期していたことである。周瑜は、ひと休みすると、すぐ出立の用意をしていた。ところへ、日頃、親密な魯粛がたずねて来て、
「いま、お召しの使いがあったでしょう。実は、その儀について、あらかじめ提督にお告げしておきたいことがあって参ったのです」と、孔明の来ている事情から、国臣の意見が二つに分れている実情などをつぶさに話し、──それに加えて、ここで呉が曹操に降伏したら、すでに地上に呉はないも同様であると、自分の主張をも痛論した。
「よろしい。ともかく、孔明と会ってみよう。──柴桑城へ伺うのは、孔明の肚を訊ねてみてからでも決して遅くはあるまいからともかく彼をつれて来給え。それまで登城をのばして待っているから」
周瑜のことばに、魯粛は力を得て、欣然、馬をかえして行った。──すると、同日の午過ぎ、またもや、張昭、顧雍、張紘、歩隲などの非戦派が、打ち揃ってここへ訪れ、
「魯粛が来たのでしょう。実に怪しからん漢だ。何の故か、彼は孔明のために踊らされて、国を売り、民を塗炭の苦しみに投げこもうと、ひとりで策動しておる。──この危機と岐路に立って、提督はいったいどういうご意見を抱いておられますか」
と、周瑜を囲んで、論じ立てるのであった。
四名の客を見くらべながら周瑜はいった。
「各〻のご意見はみな、不戦論に一致しているわけかな?」
「もちろん吾々の議決はそこに一致しています」
顧雍の答を聞いて、周瑜は大きくうなずきながら、
「同感だな。実は自分も疾くから、ここは戦うべきに非ず、曹操に降って和を乞うのが呉のためだと考えていたところだ。明日は柴桑城にのぼって、呉君にも申しのべよう。きょうはひとまずお帰りあるがいい」と、いった。
四名は喜んで立ち帰った。しばらくするとまた、一群れの訪客が押しかけてきた。黄蓋、韓当、程普などという錚々たる武将連である。
客間に通されるやいな、程普、黄蓋などこもごもに口をひらきだした。
「われわれは先君破虜将軍にしたがって呉の国を興して以来、ひとえに一命はこの国に捧げ、万代鎮護の白骨となれば、願いは足る者どもです。然るにいま、呉君におかれては、碌々一身の安穏のみを計る文官たちの弱音にひかれて、遂に、曹操へ降伏せんかの御気色にうかがわれる。実に残念とも何ともいいようがありません」
「たとえ吾々の身が、ずたずたにされようとも、この屈辱には忍び得ない。誓って、曹操の前に、この膝は屈せぬつもりです。──提督はそも、この事態にたいし、いかなるご決心を抱いておらるるか。きょうはそれを伺いに来たわけですが」と、周瑜を囲んでつめ寄った。
周瑜は、反問して、
「では、この座にある方々は、すべて一戦の覚悟を固めておるのか」
黄蓋は主の言下に自分の首すじへ丁と手を当てて見せながら、
「この首が落ちるまでも、断じて、曹操に屈伏せぬ心底です」と、いった。
ほかの武将も、異口同音に、誓いを訴え、即時開戦の急を、激越な口調で論じた。
「よしよし、この周瑜も、もとより曹操如きに降る気はない。しかし、きょうの所はひとまず静かに引揚げたがいい。事は明日決するから」と、なだめて帰した。
夕方に迫って、また客が来た。刺を通じて、
「──これは闞沢、呂範、朱治、諸葛瑾などの輩ですが、折入って、提督にお目にかかりたい」
なお附け加えて、
「国家の一大事について」と申し入れた。
この人々は、いわゆる中立派であった。主戦、非戦、いずれとも考えがつかないために来たのである。
周瑜は、その中にある諸葛瑾を見て、まず問うた。
「あなたはどう考えているのですか。あなたの弟諸葛亮は、玄徳のむねをうけて、呉との軍事同盟をはかり、共に曹操に当らんという使命をもって来ておる由だが」
「それ故に、てまえの立場は、非常に困っております。私は孔明の兄だとみられておりますから。──で、実は、わざと商議にも関わらず、心ならずも局外に立って、この紛論をながめているわけです」
「それは、どうかと思うな」と周瑜は唇もとをゆがめて、
「ご辺の立場は分るが、兄であるとか弟であるとか、そんなことは私事だ。家庭の問題とはちがう。孔明はすでに他国の臣。ご辺は呉の重臣。おのずから事理明白ではないか。呉臣として、貴公の信ずるところは、戦いにあるのか降伏にあるのか」
瑾は、沈黙していたが、
「降参は安く、戦は危うし。呉の安全を考えるときは、戦わぬに限ると思います」
と、やがて答えた。
周瑜はゆがめていた唇もとから一笑を放って、
「では、弟の孔明とは、反対なお考えだな。なるほどご苦衷だろう。──ともあれ大事一決の議は、明日、それがしが君前に伺った後にする。今日は帰り給え」
かくてまた、夜に入ると、呂蒙だの、甘寧だのという名だたる将軍や文官たちが、入れ代り立ちかわり、ここの門へ入ってはたちまち出て行った。それは実におびただしい往来だった。
夜が更けても、客の来訪はやまない。そして、
「即時開戦せよ」
という者があるし、
「いや、和を乞うに如かず」
と、唱えるものがあるし、何十組となく客の顔が変っても、依然、いっていることは、その二つのことをくり返しているに過ぎなかった。
ところへ、取次ぎの者が、そっと主の周瑜に耳打ちした。
「魯粛どのが、仰せに従って、ただ今、孔明をつれて戻って見えられましたが」
周瑜も小声でいいつけた。
「そうか。では、ほかの客にはそっと、べつな部屋へ通しておけ、奥の水亭の一室がよかろう」
それから周瑜は、大勢の雑客に向って、
「もう議論は無用にしてくれ。すべては明日君前で一決する。各〻は立ち帰って明日のために熟睡しておくべきだろう。そのほうがどんなに意義があるかしれん」と、燭を剪って、
「わしも今宵はもう眠るから」と、追い返すように告げて別れた。
詮方なく一同が帰ってゆくと、周瑜は衣をかえて、魯粛と、孔明とを待たせてある水閣の一欄へ歩を運んできた。──どんな人物であろう?
これは主客双方で想像していたことであろう。周瑜のすがたを見ると、孔明は起って礼をほどこし、周瑜は、辞を低うして、初対面のあいさつを交わした。
鄱陽湖の水面は夜を抱いて眠っていた。ひそかな波音が欄下をうつ。雲をかすめて渡る鳥の羽音すら燭にゆれるかのようである。恍惚──寂寞のなかに主客はややしばし唇をつぐみ合っていた。
楚々──いとも楚々として嫋やかな佳嬪が列をなしてきた。おのおの、酒瓶肉盤をささげている。酒宴となった。哄笑、談笑、放笑、微笑。孔明と周瑜とはさながら十年の知己のように和やかな会話をやりとりした。
そのあいだに、
孔明は周瑜をどう観たか。
周瑜は孔明の腹をどう察したか。
傍人には知る限りでない。
やがて、座をめぐる佳人もみな退いて、主客三人だけとなったのを見すまして、魯粛は単刀直入に彼の胸をたたいてみた。
「提督のお肚はもう決まっておりましょうな。最後の断が」
「決まっておる」
「戦いますか。いよいよ」
「……いや」
「では、和を乞うおつもりなので?」
と、魯粛は眼をかがやかして、周瑜の面を見まもった。
「やむを得まい! どう考えてみたところで」
「えっ、然らば、提督までが、すでに曹操へ降参するお覚悟でおられるのですか」
「そういえば、はなはだ屈辱のようだが、国を保つためには、最善な策じゃないかな」
「こは、思いがけないことを、あなたのお口から承るものだ。そもそも、呉の国業は、破虜将軍以来、ここに三代の基をかため、いまや完き強大を成しておる。この富強は、われわれ臣下の子孫をして、懦弱安穏をぬすむために、築かれてきたものではありますまい。一世堅君のご創業の苦心、二世策君の血みどろなご生涯。それによって建国されたこの呉の土を、むざむざ敵将操の手にまかしていいものでしょうか。汲々、一身の安全ばかり考えていていいでしょうか。それがしは思うだに髪の毛が逆立ちます」
「──が、百姓のため、また、呉のためであるなら仕方がないではないか。そうした三世にわたるわれわれの主家孫一門のご安泰を計ればどうしても」
「いやいやそれは、懦弱な輩のすぐ口にする口実です。長江の嶮に拠って、ひとたび恥を知り恩を知る呉の精猛が、一体となって、必死の防ぎに当れば、曹軍何者ぞや、寸土も呉の土を踏ませることではありません」
さっきから黙って傍らに聞いていた孔明は、ふたりが激越に云い争うのを見て、手を袖に入れ、何がおかしいのか、しきりと笑いこけていた。
周瑜は、孔明の無礼を咎めるような眼をして、敢てこう詰問った。
「先生。あなたは何がおかしくて先刻からそうお笑いなさるのか」
「いや何も提督に対して笑ったわけではありません。余りといえば、魯粛どのが時務にうといので、つい笑いを忍び得なかったのです」
傍らの魯粛は、眼をみはって、
「や、何をもって、この魯粛が時務にくらいと仰っしゃるか。近頃、意を得ないおことばだ」
と、色をなして、共に、孔明の唇をみまもった。
孔明はいった。
「でも、考えてもご覧なさい。曹操が兵を用いる巧みさは、古の孫子呉子にも勝りましょう。誰が何といったところで、当今、彼に匹敵するものはありません。──ただ独りわが主君劉予州は、大義あって、私意なく、その強敵と雌雄を争い、いま流亡して江夏に籠っておりますが、将来のことはまだ未知数です。──然るに、ひるがえって、この国の諸大将を見るに、どれもこれも一身一家の安穏にのみとらわれていて、名を恥じず、大義を知らず、国の滅亡も、ほとんど成り行きにまかせているとしか観られない。……そういう呉将の中にあって、粛兄ただ一名のみ、呶々、烈々、主義を主張してやまず、今も提督にむかって、無駄口をくり返しておらるるから、ついおかしくなったまでのことです」
周瑜はいよいよ苦りきるし、魯粛もまた甚だしく不快な顔をして見せた。孔明のいっていることは、まるで反戦的だからである。折角、周瑜へ紹介の労をとっているのに、まるでその目的も自分の好意も裏切っているような口吻に、憤りを覚えずにいられなかった。
「では、先生には、呉の君臣をして、逆賊操に膝を屈せしめ、万代に笑いをのこせと、敢ていわないばかりにおすすめあるわけですか」
「いやいや決して、自分は何も呉の不幸を祈っているわけではない。むしろ呉の名誉も存立も、事なく並び立つように、いささか一策をえがいて、その成功を念じておるものです」
「戦にもならず、呉の名誉も立派に立ち、国土も難なく保てるようになんて──そんな妙計があるものだろうか」
魯粛が、案外な顔をして、孔明の心をはかりかねていると、周瑜もともに、その言に釣りこまれて、膝をすすめた。
「もし、そんな妙計があるなら、これは呉の驚異です。願わくは、初対面のそれがしのために、その内容を、得心の参るよう、つぶさにお聴かせ下さらんか」
「いと易いことです。──それはただ一艘の小舟と、ふたりの人間の贈物をすれば足ることですから」
「はて? ……先生のいうことは何だか戯れのように聞えるが」
「いや、実行してご覧あれば、その効果の覿面なのに、かならず驚かれましょう」
「二人の人間とは? ……いったい誰と誰を贈物にせよといわれるのか」
「女性です」
「女性?」
「星の数ほどある呉国の女のうちから、わずか二名をそれに用いることは、たとえば大樹の茂みから二葉の葉を落すよりやさしく、百千の倉廩から二粒の米を減らすより些少な犠牲でしょう。しかもそれによって、曹軍の鋭鋒を一転北方へかえすことができれば、こんな快事はないでしょう」
「ふたりの女性とは、そも、何処の何ものをさすのか、はやくそれを云ってみたまえ」
「まだ自分が隆中に閑居していた頃のことですが──当時、曹軍の北伐にあたって、戦乱の地から移ってきた知人のはなしに、曹操は河北の平定後、漳河のほとりに楼台を築いて、これを銅雀台と名づけ、造営落工までの費え千余日、まことに前代未聞の壮観であるといっておりましたが……」
孔明は容易に話の中心に触れなかったが、しかも何か聴き人の心をつかんでいた。
「曹操ほどな英傑も、やはり人間は遂に人間的な弱点におち入りやすいものとみえます。銅雀台──。銅雀台のごとき大土木をおのれ一個の奢りのために起したということこそ、はや彼の増長慢のあらわれと哀れむべきではありませんか」
「先生。それよりは、何が故に、ここにふたりの女性さえ彼に送れば、魏の曹軍百万が、呉を侵すことなく、たちまち北方へかえるなどという予断が下せるのか。その本題について、はやくお話を触れていただきたいものだが」
周瑜は二度も催促した。魯粛の聞きたいところもそこの要点だけだ。何を今さら、銅雀台の奢りぶりなどを、ここで審さに聞く必要があろうか──といわんばかりな顔つきである。
「いや、北国の知人の話は、もっと詳しいものでしたが、では大略して、要をかいつまんで申しましょう。──その曹操は、銅雀台の贅に飽かず、なおもう一つ大きな痴夢を抱いているというのです。それは呉の国外にまで聞えている喬家の二女を銅雀台において、花の晨、月の夕べ、そばにおいて眺めたいという野心です。聞説、喬家の二名花とは、姉を大喬といい、妹を小喬と呼ぶそうで、その傾国の美は、夙にわれわれも耳にしているものです。──思うに、古来英雄の半面には、こうした痴気凡情の例も、ままあるのが慣いですから、この際早速、提督には、人を派して、喬家の門へ黄金を積み、二女を求めて、曹操へお送りあれば、立ちどころに彼の攻撃は緩和され、衂らずして国土の難を救うことができましょう。──これすなわち范蠡が美姫西施を送って強猛な夫差を亡ぼしたのと同じ計になるではありませんか」
周瑜は顔色を変じて、孔明のことばが終るや否、
「それは巷の俗説だろう。先生には、何か確たる根拠でもあって、そんな巷説を真にうけておられるのか」
「もとより確証なきことはいわん」
「ではその証拠をお見せなさい」
「曹操の第二子に、曹子建というものがある。父の操に似てよく詩文を作るので文人間に知られています。この子建に向って、父の操が、銅雀台の賦を作らせていますが、その賦を見るに、われ帝王とならばかならず二喬を迎えて楼台の花とせんという操の野望を暗に歌っています。それがあたかも英雄の情操として美しい理想なるかの如く──」
「先生にはその賦を覚えておられるか」
「文章の流麗なるを愛して、いつとなく暗誦じていますが」
「ねがわくはそれを一吟し給え。静聴しよう」
「ちょうど微酔の気はあり、夜は更けて静か。そぞろ私も何か低吟をそそられています。──どうかご両所とも盞をかさねながら、座興としてお聴きください」
孔明は、睫毛をとじた。
細い眸を燈にひらく。そして、静かに吟じ出した。抑揚はゆるく声は澄んで、朗々、聴く者をして飽かしめないものがある。
明后ニ従ッテ嬉遊し層台ニ登ッテ情ヲタノシム
中天ニ華観ヲ立テ飛閣ヲ西城ニ連ヌ
漳水ノ長流ニ臨ンデ園果ノ滋栄ヲ望ミ
双台ヲ左右ニ列シテ玉龍ト金鳳トアリ
二喬ヲ東南ニ挟ンデ長空ノ螮蝀ノ如ク
皇都ノ宏麗ニ俯シ
雲霞ノ浮動ヲ瞰ル
群材ノ来リアツマルヲ欣ンデ
飛熊ノ吉夢ニカナイ
春風ノ和穆ヲ仰ギテ百鳥ノ悲鳴ヲ聴ク……。
──ふいに、卓の下で、がちゃんと、何か砕ける音がした。周瑜が手の酒盞を落したのである。そればかりか彼の髪の毛はそそり立ち、面は石のごとく硬ばっていた。
「あ。お酒盞が砕けました」
孔明が、吟をやめて、注意すると、周瑜は憤然、酔面に怒気を燃やして、
「一箇の杯もまた天地の前兆と見ることができる。これはやがて魏の曹軍が地に捨て去る残骸のすがただ。先生、べつな酒盞をとって、それがしに酌し給え」
「何か提督には、お気にさわったことでもあるのですか」
「操父子の作った銅雀台の賦なるものは、先生の吟によって今夜初めて耳にしたが、辞句の驕慢はともかく、詩中にほのめかしてある喬家の二女に対する彼の野望は見のがし難い辱めだ。断じて、曹賊のあくなき野望を懲らしめねばならん」
一盞また一盞、みずから酒をそそいで、彼の激色は火のような忿懣を加えるばかりである。孔明はわざと冷静に、そしてさもいぶかしげな眉をして問い返した。
「むかし匈奴の勢いがさかんな頃、しばしば中国を侵略して、時の漢朝も悩まされていた時代があります。当時天子は御涙をのんで、愛しき御女の君をもって、胡族の主に娶わせたまい、一時の和親を保って臥薪嘗胆、その間に弓馬をみがいたという例もあります。また元帝が王昭君を胡地へ送ったはなしも有名なものではありませんか。──なんで提督には、今この国家の危殆にのぞみながら、民間の二女を送るぐらいなことを、そう惜しんだり怒ったりされるのですか」
「先生はまだ知らぬのか」
「まだ知らぬかとは……?」
「喬家の二女は、養われて民間にあったことは事実だが、姉の大喬は疾くより先君策の室にむかえられ、妹の小喬は、かくいう周瑜の妻となっておる。いまのわが妻はその小喬なのだ」
「えっ、ではすでに、喬家の門を出ていたので。これは知らなんだ。惶恐、惶恐。知らぬこととは申せ、先ほどからの失礼、どうかおゆるし下さい。誤って、みだりに無用な舌の根をうごかし、罪、死にあたいします」
と、孔明は打ち慄えて見せながら平あやまりに詫び入った。周瑜は、かさねて、
「いや、先生に罪はない。先生のいう巷の風説だけならまだ信じないかも知れぬが、銅雀台の賦にまで歌っている以上、曹操もそれを公然と揚言しているのであろう。いかで彼の野望に先君の後室や、わが妻を贄に供されよう。破邪の旗、膺懲の剣、われに百千の水軍あり、強兵肥馬あり、誓って、彼を撃砕せずにはおかん」
「──が、提督、古人もいっております。事を行うには三度よく思えと」
「いやいや、三度はおろか、きょうは終日、戦わんか、忍ばんか、幾十度、沈思黙考をかさねていたかしれないのだ。──自分の決意はもううごかない。思うに、身不肖ながら、先君の遺言と大託をうけ、今日、呉の水軍総都督たり。今日までの修練研磨も何のためか。断じて、曹操ごときに、身を屈めて降伏することはできない」
「しかし、ここから柴桑へ帰った諸官の者は、口を揃えて、周提督は、すでに和平の肚ぐみなりと、諸人のあいだに唱えていますが」
「彼ら、懦弱な輩に、何で本心を打明けよう。仔細は輿論のうごきを察しるためにほかならない。或る者へは開戦といい、或る者へは降伏といい、味方の士気と異論の者の顔ぶれをながめていたのである」
「ああさすがは」
と、孔明は、胸をそらして、称揚するような姿態をした。周瑜はなお云いつづけて、
「いま、鄱陽湖の軍船を、いちどに大江へ吐き出せば、江水の濤もたちまち逆しまに躍り、未熟な曹軍の船列を粉砕することもまたたく間である。ただ陸戦においては、やや彼に遜色を感じるものがないでもない。ねがわくは先生にも一臂の力をそえられい」
「そのご決意さえ固ければ、もとより犬馬の労も惜しむものではありません。けれど呉君を始め、重臣たちのご意志のほども」
「いやいや、明日、府中へ参ったら、呉君には自分からおすすめする。諸臣の異論など問題とするにはあたらない。号令一下。開戦の大号令一下あるのみだ」
柴桑城の大堂には、暁天、早くも文武の諸将が整列して、呉主孫権の出座を迎えていた。
夜来、幾度か早馬があって、鄱陽湖の周瑜は、未明に自邸を立ち、早朝登城して、今日の大評議に臨むであろうと、前触れがきているからである。
やがて、真っ赤な朝陽が、城頭の東に雲を破って、人々の面にも照り映えて見えた頃、
「周提督のお着きです」と、堂前はるかな一門から高らかに報らせる声がした。
孫権は威儀を正して、彼の登階を待ちかまえていた。それに侍立する文武官の顔ぶれを見れば、左の列には張昭、顧雍、張紘、歩隲、諸葛瑾、虞翻、陳武、丁奉などの文官。──また右列には、程普、黄蓋、韓当、周泰、蒋欽、呂蒙、潘璋、陸遜などを始めとして、すべての武官、三十六将、各〻、衣冠剣佩をととのえて、
「周都督が肚にすえてきた最後の断こそ、呉の運命を決するもの」
と、みな異常な緊張をもって、彼のすがたを待っていた。
周瑜は、ゆうべ孔明が帰ると、直ちに、鄱陽湖を立ってきたので、ほとんど一睡もしていなかった。
しかしさすがに呉の傑物、いささかの疲れも見せず、まず孫権の座を拝し、諸員の礼をうけて、悠然と席についた姿は、この人あって初めてきょうの閣議も重きをなすかと思われた。
孫権は、口を開くなり直問した。
「急転直下、事態は険悪を極め、一刻の遷延もゆるさないところまで来てしまった。都督、卿の思うところは如何に。──忌憚なく腹中を述べてもらいたいが」
「お答えする前にあたって、一応伺いますが、すでにご評定も何十回となくお開きと聞いています。諸大将の意見はどうなのですか」
「それがだ。和戦両説に分れ、会議のたび紛々を重ねるばかりで一決しない。ゆえに卿の大論を聞かんと欲するわけだ」
「君に降参をおすすめした者は誰と誰ですか」
「張昭以下、その列の人々だが」
「ははあ……」と、眸を移して、
「張昭がご意見には、この際、戦うべからず、降参に如くなしとのご方針か」
「しかり!」
と張昭は敢然答えた。すこし小癪にさわったような語気もまじっていた。なぜならば、昨日、周瑜の官邸で面談したときの態度と、きょうの彼の容子とは、まるで違って見えたからである。
「なぜ曹操に降参せねばならんのだろうか。呉は破虜将軍よりすでに三世を経た強国。曹操のごとき時流に投じた風雲児の出来星とはわけがちがう。──ご意見、周瑜にはいささか解しかねるが」
「あいや。提督のおことばではあるが、時流の赴くところ、風雲の依って興るところ、決してばかにはなりますまい」
「もちろん。──しかし、東呉六郡をつかね、基業三代にわたるわが呉の伝統と文化は、決してまだ老いてはいない。いや隆々として若い盛りにあるのだ。呉にこそ、風雲もあれ、時流もあれ、豈、一曹操のみが、天下を左右するものであろうぞ」
「彼の強味は、何よりも、天子の勅命と号していることです。いかにわれわれが歯がみしてもこれに対しては」
「あははは」と、一笑して「──僭称の賊、欺瞞の悪兵。故にこそ、大いに逆賊操を討つべきではないか。彼が騙りの名分を立てるなら、われらはもって朝命を汚す暴賊を討つべしとなし、膺懲の大義を世にふるい唱えねばならん」
「さはいえ、水陸の大軍百万に近しと申す。名分はいずれにせよ、彼の強馬精兵に対するわれの寡兵と軍備不足。この実力の差をどうお考えあるか」
「優数常に勝たず。大船常に小船に優らず。要は士気だ。士気をもって彼の隙を破るのは、用兵の妙機にある。──さすがに、御身は文官の長。兵事にはお晦いな」
と、苦笑を送った。
容貌の端麗に似あわず、周瑜には底意地のわるい所がある。君前、また衆臣環視のなかで、張昭を躍起にさせておいて、その主張をことごとく弁駁し、嘲笑し去って和平派の文官達の口を、まったく封じてしまったのである。
その上で。
彼は、やおら孫権に向って、自己の主張を述べ出した。
何のことはない。今まで張昭を論争の相手にしていたのは、ここでいおうとする自己硬論を引っ立てるワキ役に引きだしていたようなものだった。
「曹軍の強勇なことは確かだが、それも陸兵だけのことだ。北国育ちの野将山兵に、何で江上の水軍があやつれよう。馬上でこそ口をきけ、いかに曹操たりとも、わが水軍に対しては、一籌を輸するものがあろう」
まず和平派の一論拠を、こう駁砕してから、
「また、より以上、重要視すべきは、国そのものの態勢と四隣の位置でなければならん。わが呉は、南方は環海の安らかに、大江の嶮は東方をめぐり、西隣また何の患いもない。──それに反して魏は、北国の平定もつい昨日のこと、その残軍離亡の旧敵などたえず曹操の破れをうかがっていることはいうまでもない。後ろにはそうした馬超、韓遂の輩があり、前には玄徳、劉琦の一脅威をひかえ、しかも許都の中府を遠く出て、江上山野に転戦していることは──われら兵家の者が心して見れば、その危うさは累卵にひとしいものがある。……いわばこの際は彼みずから呉境へ首を埋める墳を探しにきたようなものだ。この千載一遇の機会を逸すばかりか、ひざまずいて、彼の陣前に国土をささげ恥を百世にのこすも是非なしと断じるなどは、まことに言語道断な臆病沙汰というほかはない。君公、願わくはまずそれがしに数万の兵と船とを授け給え。まずもって、彼の大軍を撃砕し、口頭の論よりは事実を示して、和平を唱える諸員の臆病風を呉国から一掃してごらんに入れます」
和平派は色を失った。
驚動を抑えながら、固く唇をとじ合ったまま今はただ一縷の望みを、呉主孫権の面につないでいた。
「おう周都督。いみじくもいわれたり。曹賊の経歴を見れば、朝廷にあっては常に野心勃々。諸州に対しては始終、制覇統一の目標に向って、夜叉羅刹の如き暴威をふるっている。袁紹、呂布、劉表、およそ羅刹の軍に呪われたもので完き者は一名もない。ただ今日まで、ひとりこの孫権が残されていたのみだ。豈、坐して曹賊の制覇にまかせ、袁紹、劉表などの惨めな前例にならおうぞ」
「では、君にも、開戦と、お心を決しられましたか」
「卿は、全軍を督し、魯粛は陸兵をひきい、誓って、曹賊を討て」
「もとより、呉のために、一命はかえりみぬ覚悟ですが、ただなおご主君が、微かでも、ご決心をにぶらすことはなきやと、臣のおそれるのはただそれだけです」
「そうか」
孫権はいきなり立って、佩いている剣を抜き払い、
「曹操の首を断つ前に、まずわが迷妄から、かくのごとく斬るっ!」
と、前の几案を、一揮に、両断して見せた。
そしてその剣を、高々と片手にふりあげ、
「今日以後、ふたたびこの問題で評議はすまい。汝ら、文武の諸大将、また吏卒にいたるまで、かさねて曹操に降伏せんなどと口にする者あらば、見よ、この几案と同じものになることを!」
大堂の宣言は、階下にとどろき、階下のどよめきは中門、外門につたわって、たちまち全城の諸声となり、わあっ──と旋風のごとく天地に震った。
「周瑜。わしの剣を佩いて征け」
孫権は、その剣を、周瑜にさずけて、その場で、彼を呉軍大都督とし、程普を副都督に任じ、また魯粛を賛軍校尉として、
「下知にそむく者あらば斬れ」と、命じた。
「断」は下った。開戦は宣せられたのである。張昭以下和平派は、ただ唖然たるのみだった。
周瑜は、剣を拝受して、
「不肖、呉君の命をうけて、今より打破曹操の大任をうく。それ、戦いにあたるや、第一に軍律を重しとなす。七禁令、五十四斬、違背あるものは、必ず罰せん。明暁天までに、総勢ことごとく出陣の具をととのえ、江の畔まで集まれ。所属、手配はその場において下知するであろう」
と、諸員へ告げた。
文武の諸大将は、黙々と退出した。周瑜は家に帰るとすぐ孔明を呼びにやり、きょうの模様と、大議一決の由を語って、
「さて。先生の良計を示し給え」
と、ひそかにたずねた。
孔明は、心のうちで「わが事成れり」と思ったが、色には見せず、
「いやいや、呉君のお胸には、なおまだ一抹の不安を残しおられているに違いありません。寡は衆に敵せず──このことは、ご自身にも、深く憂いて、恟々と自信なく、如何にかはせんと、惑っている所でしょう。都督閣下には、労を惜しまず、暁天の出陣までに、もう一度登城して、つぶさに敵味方の軍数を説き示し、呉君に確たる自信をお与えしておく必要があるかと思われるが」
と、すすめた。
いやしくも呉の一進一退は、いまや玄徳の運命にも直接重大な関係を生じてきたとみるや、孔明が主家のために、大事に大事をとることは、実に、石橋を叩いて渡るように細心だった。
「──実にも」
と同意して、周瑜はふたたび城へ登った。もう夜半だったが、あすの暁天こそ、呉にとっては興亡のわかれを賭した大戦にのぞむ前夜なので、孫権もまだ寝もやらぬ様子だった。
すぐ周瑜を引いて、
「夜中、何事か」と、会った。
周瑜は、いった。
「いよいよ明朝は発向しますが、君のご決心にも、もうご変化はありますまいな」
「この期に至って、念にも及ばぬことではないか。……ただ、いまも眠りにつきかねていたのは、如何せん、魏に対して、呉の兵数の少ないことだけだが」
「そうでしょう。実は、その儀について、退出の後、ふと君にもお疑いあらんかと思い出したので、急に、夜中をおしてお目通りに出たわけですが。……そもそも、曹操が大兵百万と号している数には、だいぶ懸値があるものと自分は観ております」
「もちろん多少の誇大はあろうが、それにしても、呉との差はだいぶあろう。実数はどのくらいか」
「測るに……中国の曹直属の軍は十五、六万に過ぎますまい。それへ旧袁紹軍の北兵の勢約七、八万は加えておりますが、もともと被征服者の特有として、意気なく、忠勇なく、ただ麾下についているだけのもの。ほとんど怖るるに足りません」
「なお、劉表の配下であった荊州の将士も、多分に加わっているわけだが」
「それとて、まだ日は浅く、曹自身、その兵団や将には、疑心をもって、よく、重要な戦区に用いることはできないにきまっています。こう大観してくると、多く見ても、三十万か四十万、その質に至っては、わが呉の一体一色とは、較べものになりますまい」
「でも、それに対して、呉の兵力は」
「明朝、江岸に集まる兵は、約五万あります。君には、あと三万を召集して、兵糧武具、船備など充分にご用意あって、おあとからお進み下さい。周瑜五万の先陣は、大江をさかのぼり、陸路を駈け、水陸一手となって、曹軍を突き破って参りますから」と、勇気づけた。
そう聞いて孫権は初めて確信を抱いたものの如く、なお大策を語りあって、未明にわかれた。
まだ天地は晦かった。夜明けにはだいぶ間がある。周瑜は、家に帰る道すがら、
「さてさて孔明という人間は、怖ろしい人物である。常に呉君に接して間近に仕えているわれわれ以上、呉君の胸中を観ぬいて少しも過っていない。人心を読むこと鏡にかけてみる如しとは、彼の如きをいうのだろう。どう考えても、その慧眼と智慮は、この周瑜などより一段上と思わなければならん」
嘆服するの余り、ひそかに後日の恐怖さえ覚えてきた。──如かず、いまのうちに孔明を殺しておかないと、後には、呉の禍いになろうも知れぬ。
「……そうだ」
自邸の館門をはいる時、彼はひとりうなずいていた。すぐ使いをやって、魯粛をよび、
「呉の大方針は確定した。これからはただ足下とわが輩とが、よく一致して、君侯と呉軍のあいだに立ち、敵を破砕するあるのみだから、──孔明のような介在は、あっても無益、かえって後日の癌にならないとも限らない──どうだろう? いっそ今のうちに、彼を刺し殺しては」
と、ひそかに計ってみた。
魯粛は、眼をみはって、
「えっ、孔明を?」
と、二の句もつげない顔をした。
「そうだ、孔明をだ」と、周瑜はたたみかけて──「いま殺しておかなければ、やがて玄徳を扶け、魏と呉との死闘に乗じて、将来、あの智謀でどんなことを企むかはかり知れない気がしてならん」
「無用です、絶対にいけません」
「不賛成か、足下は」
「もとよりでしょう。まだ曹操の一兵も破らぬうちに、すくなくもこの開戦の議にあずかって、たとえ真底からの味方ではないにしても、決して敵ではない孔明を刺してしまうなどは、どう考えても、大丈夫たる者のすることではありません。世上に洩れたら万人の物笑いとなりましょう」
「……そうかなあ?」
さすがに、決しかねて、周瑜も考えこんでいる容子に、魯粛は、その懐疑を解くべく、べつに一策をささやいた。
それは、孔明の兄諸葛瑾をさしむけて、この際、玄徳と縁を断ち、呉の正臣となるように、彼を説き伏せることが、最も可能性もあり、また呉のためでもあろう──という正論であった。
「なるほど、それはいい。ひとつ折をみて、諸葛瑾にむねを含ませて、孔明を説かせてみよう」
周瑜もそれには異存はなかった。──が、かかるうちに早、窓外の暁天は白みかけていた。周瑜も魯粛も、
「では、後刻」
と別れて、たちまち、出陣の金甲鉄蓋を身にまとい、馬上颯爽と、江畔へ駆けつけた。
大江の水は白々と波打ち、朝の光耀は三軍に映えている。勢揃いの場所たる江の岸には、はや旌旗林立のあいだに、五万の将士ことごとく集まって、部署、配陣の令を待ちかまえていた。
大都督周瑜は、陣鼓のとどろきに迎えられて、やおら駒をおり、中軍幡や司令旗などに囲まれている将台の一段高い所に立って、
「令!」
と、全軍へ向って伝えた。
「──王法に親なし、諸将はただよく職分に尽せ。いま魏の曹操は、朝権を奪って、その罪のはなはだしさ、かの董卓にもこえるものがある。内には、天子を許昌の府に籠め奉り、外には暴兵を派して、わが呉をも侵さんとしておる。この賊を討つは、人臣の務めたり、また正義の擁護である。それ戦いにあたるや、功あるは賞し、罪あるは罰す。正明依怙なく、軍に親疎なし、奮戦ただ呉を負って、魏を破れ。──行軍には、まず韓当、黄蓋を先鋒とし、大小の兵船五百余艘、三江の岸へさして進み陣地を構築せよ。蒋欽、周泰は第二陣につづけ。凌統、潘璋は第三たるべし。第四陣、太史慈、呂蒙、第五陣、陸遜、董襲。──また呂範、朱治の二隊には督軍目付の任を命ず。以上しかと違背あるな」
その朝、諸葛瑾はひとり駒に乗って、街中にある弟孔明の客館を訪ねていた。
急に周瑜から密命をうけて、孔明を呉の臣下に加えるべく説きつけに行ったのである。
「おう、よくお越し下された。いつぞや城中では、心ならず、情を抑えておりましたが、さてもその後は、お恙もなく」
と孔明は、兄の手をとって、室へ迎え入れると、懐かしさ、うれしさ、また幼時の思い出などに、ただ涙が先立ってしまった。
諸葛瑾も共に瞼をうるませて、骨肉相擁したまま、しばしは言葉もなかったが、やがて心をとり直して云った。
「弟。おまえは、古人の伯夷叔斉をどう思うね」
「え。伯夷と叔斉ですか」
孔明は、兄の唐突な質問をあやしむと同時に、さてはと、心にうなずいていた。
瑾は、熱情をこめて、弟に訓えた。
「伯夷と叔斉の兄弟は、たがいに位を譲って国をのがれ、後、周の武王を諫めて用いられないと、首陽山にかくれて、生涯周の粟を喰わなかった。そして餓死してしまったが、名はいまに至るまでのこっている。思うに、おまえと私とは、骨肉の兄弟でありながら、幼少早くも郷土とわかれ、生い長じてはべつべつな主君に仕え、年久しく会いもせず、たまたま、相見たと思えば、公の使節たり、また一方の臣下たる立場から、親しく語ることもできないなんて……伯夷叔斉の美しい兄弟仲を思うにつけ、人の子として恥かしいことではあるまいか」
「いえ、兄上。それはいささか愚弟の考えとはちがいます。家兄の仰っしゃることは、人道の義でありましょう。また情でございましょう。けれど、義と情とが人倫の全部ではありません、忠、孝、このふたつは、より重いかと存ぜられます」
「もとより、忠、孝、義のひとつを欠いても、完き人臣の道とはいえないが、兄弟一体となって和すは、そもそも、孝であり、また忠節の本ではないか」
「否とよ、兄上。あなたも私もみなこれ漢朝の人たる父母の子ではありませんか。私の仕えている劉予州の君は、正しく、中山靖王の後、漢の景帝の玄孫にあたらせられるお方です。もしあなたが志をひるがえして、わが劉皇叔に仕官されるなら、父母は地下において、どんなにご本望に思われるか知れますまい。しかも、そのことはまた、忠の根本とも合致するでしょう。どうか、末節の小義にとらわれず、忠孝の大本にかえって下さい。われわれ兄弟の父母の墳は、みな江北にあって江南にはありません。他日、朝廷の逆臣を排し、劉玄徳の君をして、真に漢朝を守り立てしめ、そして兄弟打揃うて故郷の父母の墳を清掃することができたら、人生の至楽はいかばかりでしょう。──よもや世人も、その時は、諸葛の兄弟は伯夷叔斉に対して恥じるものだともいいますまい」
瑾は、一言もなかった。自分から云おうとしたことを、逆にみな弟から云いだされて、かえって、自分が説破されそうなかたちになった。
その時、江の畔のほうで、遠く出陣の金鼓や螺声が鳴りとどろいていた。孔明は、黙然とさしうつ向いてしまった兄の心を察して、
「あれはもう呉の大軍が出舷する合図ではありませんか。家兄も呉の一将、大事な勢揃いに遅れてはなりますまい。また折もあれば悠々話しましょう。いざ、わたくしにおかまいなく、ご出陣遊ばしてください」と、促した。
「では、また会おう」
ついに、胸中のことは、一言も云いださずに、諸葛瑾は外へ出てしまった。そして心のうちに、
「ああ、偉い弟」と、よろこばしくも思い、また苦しくも思った。
周瑜は、諸葛瑾の口からその事の不成立を聞くと、にがにがしげに、瑾へ向って、
「では、足下も、やがて孔明と共に、江北へ帰る気ではないか」と、露骨にたずねた。
瑾は、あわてて、
「何で呉君の厚恩を裏切りましょう。そんなお疑いをこうむるとは心外です」と、いった。
周瑜は冗談だよ、と笑い消した。しかし孔明に対する害意は次第に強固になっていた。
孔明の使命はまず成功したといってよい。呉の出師は思いどおり実現された。孔明はあらためて孫権に暇を告げ、その日、すこし遅れて一艘の軍船に身を託していた。
同舟の人々は、みな前線におもむく将士である。中に、程普、魯粛の二将もいた。
程普は由来、大都督周瑜と、余りそりのあわない仲だったし、こんどの出師にも、反対側に立っていたが、いまは口を極めて、周瑜の人物を賞揚していた。
「何といっても、まだ若いし、どうかと実は危ぶんでおったが、今朝、江岸の勢揃いに、将台に立って三軍の令を云い渡した態度と威厳は、実に堂々たるものだったそうな──伜の程咨もそう云いおりました。稀代な英傑が呉に生れたものだと」
魯粛もそれへ相槌を打って、
「いやあのお方は、青年時代、ひどく風流子のようにいわれ過ぎていたが、どうしてどうして外柔内剛です。これから戦場に臨んでみたら、いよいよその本質が発揮されるでしょう」と、いった。
程普は、いかにもと、打ちうなずいて、
「自分なども今までは、周都督の人物にたいし、認識を欠いていた一人であったが、今日以後はいかに此方らが年長であろうと実戦の体験にくわしかろうと、問うところではない。ひたすら周都督の命令によって忠節をつくそうと思う。──実は慚愧にたえないので、出舷の前に、都督に会って、そう偽りのない気もちを語り、旧来の罪を謝して来たわけだ」と、しきりに懺悔していた。
孔明もそこにいたが、二人のその話には、何もふれて行かなかった。独り船窓に倚って、恍然と、外の水や空を見ていた。
三江をさかのぼること七、八十里、大小の兵船は蝟集していた。江岸いたるところに水寨を構え、周瑜はその中央の地点に位する西山をうしろにとって水陸の総司令部となし、五十里余にわたって陣屋、柵門を構築し、天日の光もさえぎるばかり、翻々颯々、旗幡大旆を植えならべた。
「孔明もあとから来ているそうだが……」
と彼はその本陣で、魯粛に会うとすぐいった。
「誰か、迎えにやってくれないか」
「これへお召しになるのですか」
「そうだ」
「では、誰彼というよりも、自分で言って参りましょう」
魯粛は、すぐ江岸の陣屋へ行って、そこに休息していた孔明を伴ってきた。
周瑜は、雑談のすえ、
「ところで、先生にお教を乞いたいことがありますが」
「何ですか」
「白馬、官渡の戦いについて」
「あれは袁紹と曹操の合戦でしょう。私に何が分りましょう」
「いや、先生の蘊蓄ある兵法に照して、あの戦いに寡兵を以てよく大軍を打破った曹操の大捷利は、何に起因するものなるかを──それがしのために説き明かしていただきたいので」
「士気、用兵の敏捷、もとより操と紹との違いもありましょうが、要するに、曹軍の奇兵が、袁紹側の烏巣の兵糧を焼き払ったことが、まずあの大捷を決定的なものにしたといっても過言ではありますまい」
「ああ、愉快」と、周瑜は膝を打って、
「先生のお考えもそうでしたか、自分もあの戦いの分れ目はその一挙にあったと観ておった。──思うに今、曹操の兵力は八十三万、わが軍の実数はわずか三万、当年の曹操はまさにその位置を顛倒して絶対優勢な側にある。これを破るには、われもまた、彼の兵糧運送の道を断つが上策と考えるが、先生以て如何となすか?」
「彼の糧地はどこか突きとめてありますか」
「百方、物見を派して探り得ておる。曹操の兵糧はことごとく聚鉄山にあるという。先生は少年の頃から荊州に住み馴れ、あの辺の地理には定めしおくわしいであろう。彼を破るは、共に主君の御為、ひとつ決死の兵千余騎を貸しますから、夜陰、敵地に深く入って、彼の糧倉を焼き払って下さらんか。──あなたをおいては、この壮挙を見事成し遂げる人はいない」
孔明はすぐさとった。これは周瑜が、敵の手をかりて、自分を害そうとする考えであるに違いない──と。
が彼は、欣然、
「承知しました」と、ことばをつがえて帰って行った。
そばにいた魯粛は、周瑜のためにも孔明のためにも惜しんで、後からそっと孔明の仮屋をうかがってみた。
帰るとすぐ、孔明は鉄甲を着け、剣を佩き、早くも武装して夜に入るのを待ちかまえている様子である。魯粛はこらえかねて、姿を見せ、気の毒そうにたずねた。
「先生、あなたは今宵のご発向に、必勝を期して行かれるのですか。それとも、やむなき破目と、観念されたのですか」
孔明は、笑いを含んで、
「広言のようですが、この孔明は、水上の船戦、馬上の騎兵戦、輸車戦車の合戦、歩卒銃手の平野戦、いずれにおいても、その妙を極めぬものはありません。──何で、敗北と諦めながら出向きましょう」
「しかし、曹操ほどな者が、全軍の生命とする糧倉の地に、油断のあるはずはない。寡兵をもって、それへ近づくなど、死地に入るも同様でしょう」
「それは、貴公の場合とか、また周都督ならそうでしょう。そう二者が一つになっても、ようやくこの孔明の一能にしかなりませんからな」
「二者にして一能にしかならんとは、どういうわけですか」
「陸戦にかけては魯粛、水軍にかけては周瑜ありとは、よく呉の人から自慢に聞くことばです。けれど失礼ながら、陸の覇者たるあなたも、船戦にはまったく晦く、江上の名提督たる周閣下も、陸戦においては、河童も同様で、なんの芸能もありません。──思うに、完き名将といわるるには、智勇兼備、水陸両軍に精しく、いずれを不得手、いずれを得手とするが如き、片輪車ではなりますまい」
「ほう。先生にも似あわしからぬ大言。この魯粛はともあれ、周都督を半能の人と仰せらるるは、近頃ちとおことばが過ぎはしませんか」
「いや、試みに、眼前の事実をごらんあれば分ろう。この孔明に兵千騎を託して、それで聚鉄山の糧倉が焼き払えるものと考えているなどは、まったく陸戦に晦い証拠ではありませんか。──われもし今宵討死せば、周都督の愚将たる名は一時に天下にとどろくでしょう」
魯粛は驚いて、倉皇と立ち去ったが、すぐそのことを、周瑜の耳に入れていた。
由来、周瑜も感情家である。時々、その激血が理性を蹴る。いまも魯粛から、孔明の大言したことを聞くと、
「なに、この周瑜を、陸地の戦いには、まったく暗い愚将だといったか。半能の大将に過ぎないといったのだな。……よしっ、すぐもう一度、孔明のところへ行って、孔明の出陣を止めてきてくれ。こよいの夜襲には、われ自ら進んで、かならず敵の糧倉を焼払ってみせる」
孔明に侮られたのを心外とするのあまり、意を決して、自身の手並のほどを見せ示そうとする気らしい。直ちに幕下へ発向の触れをまわして、兵数も増して五千余騎となし、夜と共に出で立つ準備にとりかかった。
かくと魯粛から聞いて、孔明はいよいよ笑った。
「五千騎行けば五千、八千騎行けば八千、ことごとく曹操の好餌となって、大将も生け捕られるであろう。周都督は呉の至宝、そうさせてはなるまい。足下は親友、よく理を説いて、思い止まらせてあげたがよい」
そしてなお、魯粛に言を託して、
「いま、呉とわが劉予州の君とが、真に一体となって曹操に当れば、大事はきっと成るであろう。相剋し、内争し、相疑えば、かならず曹操に乗ぜられん。──またこのたびの出師にその戦端を陸地から選ぶは不利。よろしく江上の船戦をもって、第一戦の雌雄を決し、敵の鋭気をくじいて後、徐々陸戦の機をはかるべきであろう」と、云ってやった。
すでに一帯の陣地は黄昏れかけている。周瑜は馬を呼んでいた。五千の兵は、薄暮の中に勢揃いして、粛然、出立の令を待っているところであった。
そこへ魯粛が駆けてきて、孔明のことばを周瑜に伝えた。周瑜は聞くと、耳をそばだてて、
「ああ。おれの才は、ついに孔明に及ばないか」と、痛嘆した。
急に彼は、出立を取消した。聚鉄奇襲の計画をあきらめてしまったのである。彼も決して暗愚なる大将ではない。孔明にいわれないでも、そのことの危険は充分に知っていたからだった。
しかし、その夜の挙は見合わせたにしても、孔明に対する害意に変更は来さなかった。むしろ孔明の叡智を恐れるのあまり、その殺意は、いよいよ深刻となり陰性となって、周瑜の胸の奥に、
(後日、またの機会に)
と、独りひそかに誓われていたにちがいなかった。
──こうした南方の情勢一変と、孔明の身辺に一抹の凶雲がまつわって来つつある間に、一方、江夏の玄徳は、そこを劉琦の手勢に守らせて、自身とその直属軍とは、夏口(漢口)の城へ移っていた。
彼は、毎日のように、樊口の丘へ登って、
「孔明は如何にせしか」と、長江の水に思慕を託し、また仰いでは、
「呉の向背や如何に?」と、江南の雲に安からぬ眸を凝らしていた。
ところへ、近頃、遠く物見に下江って行った一艘が帰帆してきて、玄徳に告げることには、
「呉はいよいよ魏軍へ向って開戦しました。数千の兵船が、舳艫をならべて遡航しつつあるとのこと。また、三江の江岸一帯、前代未聞の水寨を構築しています。さらに、北岸の形勢をうかがうに、魏の曹操は、百万に近い大軍をもって、江陵、荊州地方から続々と行動を起し、水陸にかけて真黒な大軍団が、夜も昼も、南へ南へと移動しつつあります」と、あった。
玄徳はその報告の半ばまで聞かないうちに、もう脈々たる血のいろを面にあらわし、
「さては、わが策成れり」
と歓び勇んだ。
元来、玄徳は、よほどなことがあっても、そう欣舞雀躍はしない性である。時によると、うれしいのかうれしくないのか、侍側の者でも、張合いを失うほどすこぶるぼうとしていることなどある。
だが、この時は、よほど内心うれしかったようである。すぐ夏口の城楼に、臣下をあつめて、
「すでに、呉は起ったのに、今もって、孔明からは何の消息もない。誰か、江を下って、呉軍の陣見舞いにおもむき、孔明の安否を探ってくる者はないか」と、いった。
糜竺がすすんで望んだ。
「不才ながら、てまえが行って来ましょう」
「そちが行ってくれるか」
玄徳は、適任だと思った。
糜竺はもともと外交の才があり臨機の智に富んでいる。彼は山東の一都市に生れ、家は郯城きっての豪商であった。──いまは遠い以前となったが、玄徳が旗挙げ早々、広陵(江蘇省・揚州市)のあたりで兵員も軍用金も乏しく困窮していた頃──商家の息子たる糜竺は、玄徳の将来を見こんで、その財力を提供し、兵費を賄い、すすんで自分の妹を、玄徳の室に入れ、以来、今日にいたるまで、もっぱら玄徳軍の財務経理を担当して来たという帷幕の中でも一種特異な人材であった。
「そちが行ってくれれば申分はない。頼むぞ」
安心して、玄徳は彼をやった。糜竺はかしこまって、直ちに、一帆の用船に、薫酒、羊肉、茶、そのほか沢山な礼物を積んで、江を下った。
呉陣の岸について、番の隊将に旨をつたえ、すぐ本営に行って周瑜と会った。
「これは、ねんごろな陣見舞いを」
と、周瑜は快く品々をうけ、また使い糜竺をもてなしはしたが、
「どうか、ご主君劉予公へ、よろしくお伝え賜りたい」
と、どこかよそよそしく、孔明のうわさなどには、一切ふれてこなかった。
翌日、また次の日と、会談は両三回に及んだが、周瑜はいつも、話題の孔明に及ぶことを避けていた。
糜竺は三日目の朝、暇を告げに行った。すると、周瑜は初めて、
「孔明もいまわが陣中にあるが、共に曹操を討つには、ぜひ一度、劉予公も加えて、緊密なる大策を議さねばなるまいかと考えておる。──幸いに、玄徳どのが、これまで来会してくれれば、これに越したことはないが」と、いった。
糜竺は、畏まって、
「何と仰せあるか分りませんが、ご意向の趣は、主君劉予州にお伝えしましょう」
と約して帰った。
魯粛はそのあとで、
「何のために、玄徳を、この陣中へお招きになるのですか」
と、周瑜の意中をいぶかって訊ねた。すると、周瑜は、
「もちろん殺すためだ」と、平然と答えた。
孔明を除き、玄徳を亡き者にしてしまうことが、呉の将来のためであると、周瑜はかたく信じているらしいのである。その点、魯粛の考えとは非常に背馳しているけれど、まだ曹操との一戦も開始しないうちに、味方の首脳部で内紛論争を起すのもおもしろくないことだし、先は、大都督の権を以てすることなので、魯粛も、
「さあ、どういうものですかな」
と、口をにごす程度で、あえて、強い反対もしなかった。
一方、夏口にある玄徳は、帰ってきた糜竺の口から委細を聞いて、
「では自身、さっそく呉の陣を訪ねて行こう」
と、船の準備をいいつけた。
関羽をはじめ諸臣はその軽挙を危ぶんで、
「糜竺が行っても孔明に会わせない点から考えても、周瑜の本心というものは、多分に疑われます。態よく、返書でもおやりになっておいて、もう少し彼の旗色を見ていてはいかがですか」
と、諫めたが、玄徳は、
「それでは、せっかく孔明が使いして実現した同盟の意義と信義にこちらから反くことになろう。虚心坦懐、ただ信をもって彼の信を信じて行くのみ」といってきかない。
趙雲、張飛は、留守を命ぜられ、関羽だけが供をして行った。
一船の随員わずか二十余名、ほどなく呉の中軍地域に着いた。
江岸の部隊からすぐこの由が本陣の周瑜に通達された。──来たか! というような顔色で、周瑜は番兵にたずねた。
「玄徳は、どれほどな兵を連れてやって来たか」
「従者は二十人ぐらいです」
「なに二十人」
周瑜は笑って、
(わが事すでに成れり!)
と、胸中でつぶやいていた。
ほどなく、玄徳の一行は、江岸の兵に案内されて、中軍の営門を通ってきた。周瑜は出て、賓礼を執り、帳中に請じては玄徳に上座を譲った。
「初めてお目にかかる。わたくしは劉備玄徳。将軍の名はひとり南方のみではなく、かねがね北地にあっても雷のごとく聞いていましたが、はからずも今日、拝姿を得て、こんな愉快なことはありません」
玄徳が、まずいうと、
「いやいや、まことに、区々たる不才。劉皇叔の御名こそ、かねてお慕いしていたところです。陣中、何のご歓待もできませんが」
と、型のごとく、酒宴にうつり、重礼厚遇、至らざるなしであった。
その日まで、孔明は何も知らなかったが、ふと、江岸の兵から、今日のお客は、夏口の劉皇叔であると聞いて、
「さては?」
と、愕きをなして、急に、周瑜の本陣へ急いで行った。──そして帳外にたたずみ、ひそかに主客の席をうかがっていた。
本来、この席へ招かれていいわけであるが、孔明には、玄徳が来たことすら、聞かされていないのである。
以て、周瑜の心に、何がひそんでいるか、察することができる。
「……?」
帳の外から宴席の模様をうかがっていた孔明の気持は、まさにわが最愛の親か子が、猛獣の檻に入っているのをのぞいているような不安さであった。
──が、玄徳は、いかにも心やすげに、周瑜と話しているふうだった。
──ただ、その背後には、剣を把って、守護神の如く突っ立っている関羽が見える。──孔明はそれを見て、
「関羽があれに侍立しているからは……」
と、少し安心して、そっと屋外へ出ると、飄然、江岸にある自分の仮屋のほうへ立ち去った。
よもや、孔明がついこの席の外にたたずんでいるとも知らない玄徳は、周瑜との雑談の末、軍事に及び、ようやく話も打ち解けてきたので、そばにいた魯粛をかえりみて、
「時に、臣下の孔明が、久しくご陣中に留っておるそうですが、ちょうどよい折、これへ呼んでいただけますまいか」と、いってみた。
すると、周瑜がすぐ返事を奪って、
「それは造作もないことだが、どうせ一戦は目前に迫っておること。曹操を破って後、めでたく祝賀の一会という時に、お会いになったらいいではないか」
と、すぐ話をわきへそらし、ふたたび、曹軍を討つ軍略や手配などを、しきりに重ねて云い出した。
関羽は、主君の袂をひいて、うしろからそっと眼くばせした。──そのことに触れないほうがご賢明ですよ、と注意するのであった。玄徳もすぐさとって、
「そうですな。では今日の御杯も、これくらいでお預けしておきましょう。いずれ、曹操を討ち破った上、あらためて祝賀のお慶びに出直すとして──」
と、うまく席を立つ機をつかんで別れた。
余りにあざやかに立たれてしまったので、周瑜もいささかまごついた形だった。実は、玄徳を酔わせ、関羽にも追々酒をすすめて、この堂中を出ぬまに、刺殺してしまおうと、四方に数十人の剣士力者を忍ばせておいたのであった。
それを、つい、うまく座をはずされてしまったので、合図するいとますらなく、周瑜も倉皇と、轅門の外まで見送りに出て、空しく客礼ばかりほどこしてしまった。
駒に乗って、本陣を去ると、玄徳は、関羽以下二十余人の従者を具して、飛ぶが如く、江岸まで急いできた。
──と、水辺の楊柳の蔭から手をあげて、
「ご主君、おつつがもなく、お帰りでしたか」と、呼ぶ人がある。
見れば、懐かしや、孔明ではないか。玄徳は駒の背から飛び降りて、
「おお、孔明か」と、駈け寄り、相抱いて、互いの無事をよろこんだ。
孔明は、その歓びを止めて、
「私の身はいま、その象においては、虎口の危うき中にいますが、しかし安きこと泰山の如しです。決してご心配くださいますな。──むしろこの先とも、お大事を期していただきたいのは、わが君の行動です。来る十一月の二十日は、まさしく甲子にあたります。お忘れなく、その日は、ご麾下趙雲に命じて、軽舸を出し、江の南岸にあって、私を待つようにお備えください。いまは帰らずとも、孔明は必ず東南の風の吹き起る日には帰ります」
「先生、どうして今から、東南の風の吹く日が分りますか」
「十年、隆中の岡に住んでいた間は、毎年のように、春去り、夏を迎え、秋を送り、冬を待ち、長江の水と空ゆく雲をながめ、朝夕の風を測って暮していたようなものですから、それくらいな観測は、ほぼはずれない程度の予見はつきます。──おお、人目にふれないうちに、君には、お急ぎあって」
と、孔明は、主君を船へせきたてると、自分も忽然と、呉の陣営のうちに、姿をかくしてしまった。
孔明に別れて、船へ移ると、玄徳はすぐ満帆を張らせて、江をさかのぼって行った。
進むこと五十里ほど、彼方に一群の船団が江上に陣をなしている。近づいて見れば、自分の安否を気づかって迎えにきた張飛と船手の者どもだった。
「おおよくぞ、おつつがなく」
一同は、無事を祝しながら、主君の船を囲んで、夏口へ引揚げた。
玄徳の立ち帰った後──呉の陣中では、周瑜が、掌中の珠を落したような顔をしていた。
魯粛は、意地わるく、わざと彼にこういった。
「どうして都督には、今日の機会を、みすみす逸して、玄徳を生かして帰してしまわれたのですか」
周瑜は自分の不機嫌を、どうしようもない──といったように、
「始終、関羽が玄徳のうしろに立って、此方が杯へやる手にも、眼を離さず睨んでおる。下手をすれば、玄徳を殺さないうちに、こっちが関羽に殺されるだろう。何にしても、あんな猛犬が番についていたんでは、手が出せんさ」
噛んで吐き出すような返事であった。魯粛はむしろ呉のために、彼の計画の失敗したことを歓んでいた。
この事あってからまだ幾日も経たないうちのことである。
「魏の曹操から書簡をたずさえて、江岸まで使者の船が来ましたが?」とのしらせに、
「通せ。──しかし曹操の直書か否か、その書簡から先に示せといえ」
と、周瑜は、帷幕にあって、それを待っていた。
やがて、取次ぎの大将の手から、うやうやしく彼の前へ一書が捧げられた。書簡は皮革をもって封じられ、まぎれもない曹操の親書ではあった。
──けれど周瑜は、一読するや否、面に激色をあらわして、
「使者を逃がすな」と、まず武士に云いつけ、書簡を引き裂いて、立ち上がった。
魯粛が、驚いて、
「都督、なんとされたのです」
と、訊くと、周瑜は、足もとへ破り捨てた書簡の断片を、足でさしながら罵った。
「それを見るがいい。曹賊め、自分のことを、漢大丞相と署名し、周都督に付するなどと、まるで此方を臣下あつかいに認めておる」
「すでに充分、敵性を明らかにしている曹操が、どう無礼をなそうと、怒るには足らないでしょう」
「だから此方も、使者の首を刎ねて、それに答えてやろうというのだ」
「しかし、国と国とが争っても、相互の使いは斬らないというのが、古来の法ではありませんか」
「なんの、戦争に入るに、法があろうか。敵使の首を刎ねて、味方の士気をふるい、敵に威を示すは、むしろ戦陣の慣いだ」
云いすてて帳外へ濶歩して行った。周瑜は、そこへ使者を引き出させて、何か大声で罵っていたが、たちまち剣鳴一戛、首を打ち落して、
「従者。使いの従者。この首はくれてやるから、立ち帰って、曹操に見せろ」と、供の者を追い返した。
そして、直ちに、
「戦備にかかれ」と、水、陸軍へわたって号令した。
甘寧を先手に、蒋欽、韓当を左右の両翼に、夜の四更に兵糧をつかい、五更に船陣を押しすすめ、弩弓、石砲を懸連ねて、「いざ、来れ」と、待ちかまえていた。
果たせるかな曹操は、使者の首を持って逃げ帰ってきた随員の口々から、云々と周瑜の態度を聞きとって、「今は」と、最後の臍をかため、水軍大都督の蔡瑁、張允を召し出して、
「まず、周瑜の陣を破れ、しかる後に、呉の全土を席巻せん」と、いいつけた。
江上は風もなく、四更の波も静かだった。時、建安十三年十一月。荊州降参の大将を船手の先鋒として、魏の大船団は、三江をさして、徐々南下を開始していた。
夜は白みかけたが、濃霧のために水路の視野もさえぎられて、魏の艨艟も、呉の大船陣も、互いに、すぐ目前に迫りあうまで、その接近を知り得なかった。
「おうっ、敵の船だっ」
「かかれっ」
突如として、魏の兵船は、押太鼓を打ち鳴らしながら、白波をあげて、呉船の陣列を割ってきた。
時に、呉の旗艦らしい一艘の舳に立って、海龍の盔をいただいた一名の大将が、大音をあげて魏船の操縦のまずさを嘲った。
「荊州の蛙、北国の鼬どもが、人真似して軍船に乗りたる図こそ笑止なれ。水上の戦とは、こうするものだぞ。冥土の土産にわが働きを見て行くがいい」
と、まず船楼に懸け並べた弩弓の弦を一斉に切って放った。
曹軍の都督蔡瑁は、人もなげな敵の豪語に、烈火のごとく怒って自ら舳に行こうとすると、すでに弟の蔡薫が、そこに立って、敵へ云い返していた。
「龍頭の漁夫、名はないのか。われは大都督の舎弟蔡薫だ。遠吠えをやめて、船を寄せてこい。一太刀に斬り落して、魚腹へ葬ってくれるから」
すると、遠くで、
「甘寧を知らないのは、いよいよ水軍の潜りたる証拠だ。腰抜けな荊州蛙の一匹だろう。大江の水は、井の中とはちがうぞ」
罵るやいな、甘寧は自身、石弩の弦を引きしぼって、ぶんと放った。
数箇の石弾は、うなりを立てて飛んで行ったが、その一弾が、蔡薫の面をつぶした。あっと、両手で顔をおおったとき、また一本の矢が、蔡薫の首すじに突っ立ち、姿は真逆さまに、舳を噛む狂瀾の中に呑まれていた。
まだ舷々相摩しもせぬ戦の真先に、弟を討たれて、蔡瑁は心頭に怒気を燃やし、一気に呉の船列を粉砕せよと声をからして、将楼から号令した。
靄はようやくはれて、両軍数千の船は、陣々入り乱れながらも、一艘もあまさず見ることができる。真赤に昇り出ずる陽と反対に、大江の水は逆巻き、咬みあう黒波白浪、さけびあう疾風飛沫、物すさまじい狂濤石矢の大血戦はここに展開された。
蔡瑁を乗せている旗艦を中心として、一隊の縦隊船列は、深く呉軍の中へ進んで行ったが、これは水戦にくらい魏軍の主力を、巧みに呉の甘寧が、味方の包囲形のうちに誘い入れたものであった。
頃を計ると──
たちまち、左岸から韓当の一船隊、右岸から蒋欽の一船群、ふた手に、白い水脈をひきながら、敵の主力を捕捉し、ほとんど、前後左右から、鉄箭石弾の烈風を見舞った。
蕭々、帆は破れ、船は傾き、魏の船団は一つ一つ崩れだした。船上いっぱい、朱となって、船が人力を離れて、波のまにまに漂いだすのを見ると、
「それっ、あれへ」
と、呉の船は、その鋭角を、敵の横腹へぶつけて、たちまち木ッ端微塵とするか、或いは飛び移って、皆殺しとなし、それを焼き払った。
こうして、主力が叩かれたため、後陣の船は、まったく個々にわかれて、岸へ乗りあげてしまうもあるし、拿捕されて旗を降ろすもあるし、そのほかは、帆を逆しまに逃げ出して、さんざんな敗戦に終ってしまった。
甘寧は、鐘鼓を鳴らして、船歌高く引きあげたが、戦がやんでも、黄濁な大江の水には、破船の旗やら、焼けた舵やら、無数の死屍などが、洪水のあとのように流れていた。
そのたくさんな戦死者は、ほとんど魏の将士であった──かくとその日の戦況を耳にした曹操の顔色には、すこぶる穏やかならぬものがあった。
「蔡瑁を呼べ。副都督の張允も呼んでこい」
大喝、何が降るかと、召し呼ばれた二人のみか、侍側の諸将もはらはらしていた。
敗戦の責任を問われるものと察して、蔡瑁、張允の二人は、はや顔色もなかった。
恟々として、曹操の前へすすみ、かつ百拝して、このたびの不覚を陳謝した。
曹操は、厳として云った。
「過ぎ去った愚痴を聞いたり、また過去の不覚を咎めようとて、其方たちを呼んだのではない。──要は、将来にある。かさねて敗北の恥辱を招いたら、その時こそ、きっと、軍法に正してゆるさんが、この度だけはしばらく免じておく」
意外にも、寛大な云い渡しに、蔡瑁は感泣してこういった。
「もとより、味方敗軍の責めは、われらの指揮の至らないためにもありますが、もっとも大きな欠陥は、荊州の船手の勢が総じて調練の不足なのに比して、呉の船手は、久しく鄱陽湖を中心に、充分、錬成の実をあげていたところにあります。──加うるにお味方の北国兵は、水上の進退に馴れず、呉兵はことごとく幼少から水に馴れた者どもばかりですから、江上の戦においても、さながら平地と異ならず、ここにも多分な弱点が見出されます」
それは曹操も感じていることだった。しかし、この問題は、兵の素質と、長日月の訓練にあることなので、急場には如何ともすることができないのである。
「では、どうするか」との問いに、蔡瑁は次のような献策をもって答えた。
「攻撃を止めて、守備の態をとることです。渡口を固め、要害を擁し、水中には遠くにわたって水寨を構え、一大要塞としておもむろに、敵を誘い、敵の虚を突き、そして彼の疲れを待って、一挙に、下江を図られては如何でしょう」
「ムム、よかろう。其方両名には、すでに水軍の大都督を命じてあるのだ。よしと信じることならいちいち計るには及ばん、迅速にとり行え」
こういうことばの裏には、曹操自身にも、水上戦には深い自信のないことがうかがえるのである。両都督の責めを間わず、罪をゆるして励ましたのも、一面、それに代るべき水軍の智嚢がなかったからであるといえないこともない。
いずれにせよ蔡瑁、張允のふたりは、ほっとして、軍の再整備にかかった。まず北岸の要地に、あらゆる要塞設備を施し、水上には四十二座の水門と、蜿蜒たる寨柵を結いまわし、小船はすべて内において交通、連絡の便りとし、大船は寨外に船列を布かせて、一大船陣を常備に張った。
その規模の大なることは、さすがに魏の現勢力を遺憾なく誇示するものだったが、夜に入ればなおさら壮観であった。約三百余里にわたる要塞の水陸には篝、煙火、幾万幾千燈が燃えかがやいて、一天の星斗を焦がし、ここに兵糧軍需を運送する車馬の響きも絡繹と絶えなかった。
「近頃、上流にあたる北方の天が、夜な夜な真赤に見えるが、あれは抑、何のせいか」
南岸の陣にある呉の周瑜は、怪しんで或る時、魯粛にたずねた。
「あれは、曹操が急に構築させた北岸の要塞で、毎夜、旺に焚いている篝や燈火が雲に映じているのでしょう」
魯粛が、さらに、くわしく説明すると、周瑜はこのところ甘寧の大捷に甘んじて、曹軍怖るるに足らずと、大いに驕っていたところであったが、急に不安を抱いて、いちど要塞の規模を自身探ってみようと云いだした。
「敵を知るは、戦に勝つ第一要諦だ」
と称して、一夜、周瑜はひそかに一船に乗りこみ、魯粛、黄蓋など八名の大将をつれて、曹軍の本拠を偵察に行った。
もちろん危険な敵地へ入るわけなので、船楼には、二十張の弩弓を張って、それぞれ弩弓手を配しておき、姿は、幔幕をめぐらしておおい隠し、周瑜や魯粛などの大将たちは、わざと鼓楽を奏して、敵の眼をくらましながら、徐々、北岸の水寨へ近づいて行った。
星は暗く、夜は更けている。
船は、石の碇をおろし、ひそかに魏の要塞を、偵察していた。
水軍の法にくわしい周瑜も、四十二座の水門から寨柵、大小の船列、くまなく見わたして、
「いったい、こんな構想と布陣は、誰が考察したのか」
と、舌を巻いて驚いた。
魯粛は、その迂遠を嘲って、
「もちろん荊州降参の大将、蔡瑁、張允の二人です。彼らの智嚢は、決して見くびったものではありません」と、いった。
周瑜は、舌打ちして、
「不覚不覚。今日まで、曹操のほうには、水軍の妙に通じた者はないと思っていたが、これはおれの誤認だった。蔡瑁、張允を殺してしまわないうちは、水上の戦いだからといって、滅多に安心はできないぞ」
語りながら、なお船楼の幕のうちで、酒を酌み、また碇を移し、彼方此方、夜明けまではと、探っていた。
──と、早くも、魏の監視船から、このことは、曹操の耳に急達されていた。何の猶予やあらんである。それ捕擒にせよとばかり、水寨の内から一陣の船手が追いかけてきた。
けれど、周瑜の船は、いち早く逃げてしまった。水流にまかせて下るので船脚はいちじるしく早い。遂に、取逃がしたと聞いて、翌朝、曹操はひどく鋭気を削がれていた。
「敵に、陣中を見すかされては、またこの構想を一変せねばならん。こんな虚があるようなことで、いつの日か、呉を破ることができるものぞ」
すると、侍列の中から、
「丞相、嗟嘆には及びません。てまえが周瑜を説いて、お味方に加えてみせます」
と、いった者がある。
人々は、その大言に驚いて、誰かとみると、帳下の幕賓、蒋幹、字は子翼というものだった。
「おう、幹公か。足下は周瑜と親交でもあるのか」
「それがしは九江の生れなので、周瑜とは郷里も近く、少年時代から学窓の友でした」
「それはよい手がかりだな。もし呉から周瑜をはずせば、呉軍は骨抜きになる。大いに足下の労に嘱すが、行くとすれば、何を携えてゆくか」
「何もいりません。ただ一童子と一舟を賜わらば充分です」
「説客の意気、そうなくてはならん、では、早速に」
と、彼のため一夕、旺なる壮行会を設けて、江に送った。
蒋幹は、わざと、綸巾をいただき、道服をまとい、一壺の酒と、一人の童子をのせただけで、扁舟飄々、波と風にまかせて、呉の陣へ下って行った。
「われは周都督の旧友である。なつかしさのあまり訪れて来た。──と称する高士風のお人が今、岸へ上がってきましたが?」
と、聞いて、周瑜は、からからと笑った。
「ははあ、やって来たな、曹操の幕賓になっているとか聞いていた蒋幹だろう。よしよしこれへ通せ」
彼は、その間に、諸大将へ計りごとをささやいて、
「さて、どんな顔をして来るか」と、蒋幹を待っていた。
やがて蒋幹は、それへ案内されてきて、眼をみはった。いや面喰らったといったほうが実際に近い。華やかな錦衣をまとい、花帽をいただいた四、五百人の軍隊が、まずうやうやしく轅門に彼を出迎え、さて営中に入ると、同じように綺羅な粧いをした大将が、周瑜の座を中心に、星の如く居流れている。
「やあ、幹公か。めずらしいご対面、おつつがないか」
「周都督にもご機嫌よう、慶祝にたえません」
蒋幹は、拝を終ると、特に、親しみを示そうとした。
周瑜も、意識的にくだけた調子で、
「途中、よく矢にも弾にも狙われず来られたな。こんな戦時下、はるばる、江を渡って、何しに来られたのだ。……曹操から頼まれてお越しになったのじゃないかな。あはははは、いや冗談冗談」
と、相手の顔色が変ったのを見ながら、すぐ自分で自分のことばを打消した。
蒋幹は内心、どきとしたが、さあらぬ態で、
「これはどうも、迷惑なお疑いですな。近頃、閣下のご高名が呉に振うにつけても、よそながら慶祝にたえず、竹馬の友たりし頃の昔語りでもせんものと、お訪ねしてきたのに。──曹操の説客ならんとは、心外千万じゃ」
と、わざと面ふくらせて見せると、周瑜は笑って、その肩を撫で、かつなだめて、
「まあ、そう怒りたもうな。へだてなき旧友なればこそ、つい冗談も出るというもの。……何しろ、よく来てくれた。陣中、歓待しもできないが、今夜は大いに久濶をのべて楽しもう」
と、共に臂を組んで、酒宴の席へ誘った。
堂上堂下に集まった諸将はみな錦繍の袖をかさね、卓上には金銀の器、瑠璃の杯、漢銅の花器など、陣中とも思われない豪華な設けであった。
主客、席につくと、喨々、得勝楽という軍楽が奏された。周瑜は起って、幕下の人々へむかい、
「この蒋幹は、自分とは同窓の友で、今日、江北から訪ねてくれたが、決して、曹操の説客ではないから、心おきのないように」
と、客を紹介したはいいが、変な云いまわしをして、いよいよ蒋幹の心を寒からしめた。
のみならず、諸大将の中から、太史慈を呼び出して、自分の剣を渡し、
「こよいは懐かしい旧友と共に、夜を徹して、楽しもうと思うが、もし遠来の客に非礼があってはならぬ。お客が第一の迷惑とされることは、曹操の説客ならずやと、白眼視されることである。だからもしこの席上で、曹操とわが国との合戦のことなど、かりそめにも口にする者があったら、即座に、この剣をもって斬って捨てい」と、命じた。
太史慈は、剣をうけて、席の一方に立っていた。蒋幹はまるで針の莚に坐っているような心地だった。
周瑜は、杯をとって、
「出陣以来、酒をつつしんで、陣中では一滴も飲まなかったが、今夜は、旧友幹兄のために、心ゆくまで飲むつもりだ。諸将も客にすすめて、共に鬱気をはらすがいい」
と、快飲し始めた。
満座、酒に沸いて、興もようやくたけなわであった。佳肴杯盤はめぐり、人々はこもごも立って舞い謡い、また囃した。
「長夜の歓はまだ宵のうち、すこし外気に酔をさまして、また飲み直そう」
周瑜は、蒋幹と臂を組んで、帳外へ拉して行った。そして陣中を逍遥しながら、武器兵糧の豊富にある所を見せたり、営中の士気の旺なる有様をそれとなく見せて歩いた。
そして、以前の席へ、戻って来たが、その途々にも、
「貴公とおれとは、同窓に書を読み、幼時から共に将来のことを語ったこともあるが、今日、呉の三軍をひきい、身は大都督の高きに在り、呉君は自分を重用して、自分の言なら用いてくれないことはない。こんなにまで、立身しようとは、あの頃も思わなかったよ。ゆえに今、古の蘇秦、張儀のような者が来て、いかに懸河の弁をふるってこの周瑜を説かんとしても、この心は金鉄のようなものさ。いわんやひと腐れ儒者などが、常套的な理論をもって、周瑜の心を変えようなんて考えてくる者があるとすれば、これほど滑稽なことはない」と、大笑した。
蒋幹の体はあきらかにふるえていた。酔もさめて顔は土気いろになっている。周瑜はまた、宴の帳内へ彼を拉して、
「やあ幹兄。すっかり酒気が醒めたようじゃないか。さあ、大杯でほし給え」
と、杯を強い、さらに諸大将にも促して、後から後からと杯をすすめさせた。
杯攻めに会っている蒋幹の困り顔をながめながら、周瑜はまた、
「今夜、ここにいるのは、みな呉の英傑ばかりで、群英の会とわれわれは称している。この会の吉例として、それがしの舞いを一曲ご覧に入れよう。──方々、歌えや」
そういうと、彼は剣を抜いて、珠と散る燭の光を、一閃また一閃、打ち振りながら舞い出した。
大丈夫処世兮立功名
功名既立兮王業成
王業成兮四海清輝
四海清兮天下泰平
天下泰平兮吾将酔
吾将酔兮舞霜鉾
周瑜は剣を振ってかつ歌いかつ舞い、諸将は唱和して、また拍手歓呼し、夜は更けるとも、興の尽くるを知らなかった。
「ああ、愉快だった。幹公、今夜はご辺と同じ床に寝て、語り明かそう」
蹌踉として、周瑜は蒋幹の首にかじりつき、ともに寝所へ転びこんだ。
──と同時に、周瑜は、衣も脱がず帯も解かず、泥酔狼藉、牀をよそに、床の上へ仆れて寝てしまった。
「都督、都督。……そんなところへ寝てしまわれてはいけません。お体の毒です。風邪でもひいては」と、蒋幹は幾度かゆり起してみたが、覚めればこそ、いびきを増すばかりで、房中もたちまち酒蔵のような匂いに蒸れた。
ただただ胆を奪われて、宵のうちから酔えもせず、ただ恟々としていた蒋幹は、もちろんここへ入っても容易に眠りつくことができなかった。
夜はすでに四更に近い。陣中を巡邏する警板の響きがする。……周瑜はとみればなお前後不覚の態たらくだ。残燈の光淡く、浅ましい寝すがたに明滅している。
「……おや?」
蒋幹はむくと身を起した。卓上に多くの書類や書簡が取り散らかっている。下にこぼれ落ちている五、六通を拾ってそっと見ると、みな陣中往来の機密文書である。
「……?」
怪しく手がふるえた。──蒋幹の眼は細かに動いて、幾たびも、周瑜の寝顔にそそがれ、また、書簡の幾通かを、次々に、迅い眼で読んで行った。
愕然、彼の顔色を変えさせた一片の文字がある。見おぼえのあるような手蹟と思って、ひらいてみると、果たして、それは曹操の幕下で日常顔を見ている張允の手簡ではないか。
蔡瑁、張允啓白。
それがしら、一旦、曹に降るは、仕禄を図るに非ず、みな時の勢いに迫らるるのみ。今すでに北軍を賺めて寨中に籠めしむ。みな生らが復仇の意謀にもとづいてかく牽制するところの現われなり。
今し、南風に託し、一便の牒状をもたらしたまわば、即ち、内に乱を発し、曹操の首を火中に挙げて呉陣に献ぜん。是れ、故国亡主の怨をすすぐ所にして、また天下の為なり。早晩人到り、回報疾風のごとくあらんことを。敬覆、深く照察を乞い仰ぐ。
「う、う。……うーむ」
ふいに周瑜が寝返りを打った。蒋幹はあわてて燈火をふき消した。そしてしばらく様子を見ていたが、また大いびきをかいて寝入ったらしいので、自分もそっと、衾を打ちかついで牀のうえに横たわっていた。
──すると、帳外の扉を、誰かコツコツと叩く者がある。蒋幹は息をころしていた。やがて佩剣の音が入ってきた。周瑜の腹心の大将らしい。しきりにゆり起して、何かささやいている声がする。
周瑜は、やっと起き上がった。そして蒋幹のほうを見て、
「この寝所へ、自分と共に寝こんだやつは、一体どこの何者だ」
などと訊ねている。
腹心の大将が、それは閣下のご友人とかいう蒋幹です、と答えると、非常に愕いた様子で、
「なに、蒋幹だと。それはいかん。……なぜもっと静かにものをいわんか」
と、急に、相手の声をたしなめながら、帳の外へ出て行った。
二人は、かなり長い間、何か立ち話をしているようであったが、時々、張允とか、蔡瑁とかいう名が、会話のうちに聞えてきた。
そのうちにまた、べつな声で、北国訛りの男が何かしゃべりだした。呉の陣中に北兵がいるのはいぶかしいと蒋幹はいよいよ聞き耳をそばだてていた。
男はこの陣中の者ではない。江北から来た密使と見える。蔡大人とか、張都督とか、蔡瑁、張允のことを尊称していることばつきから見ても、彼の部下か、或いはそれに頼まれてきた人間ということは想像がつく。
「……さては何か諜し合わせに」と、先刻、拾った書簡を思いあわせて、蒋幹は身の毛をよだてた。さても、油断のならぬことよ、心もおどおどして、もう空寝入りしているのも気が気ではない。
やがてのこと──密使の男と、ひとりの大将は、用談がすんだとみえて、跫音ひそかに立ち去った。周瑜もすぐ寝室へもどってきた。そして今度は、帳を引いて、寝床の中へ深々ともぐりこんだ。──夜明けの待ち遠しさ。蒋幹は薄目をあいて窓外ばかり気にしていた。いい按配に、周瑜は再び大きな寝息をかき始めている。そして、窓の辺りが、ほのかに明るくなりかけた。
「……うーむ。ああ、よく眠った」
蒋幹はわざと大きく伸びをしながらそう呟いてみた。周瑜は眼を覚まさない。しめたと、厠へ立つふりをして、内房から飛び出した。外はまだ暁闇、わずかに東天の空が紅い。
陣屋の轅門まで来ると、
「誰だっ?」
番兵に見咎められて、一喝を浴びた。蒋幹はぎょっとしたが、強いて横柄に構えながら、
「周都督の客にむかって、誰だとは何事だ。わしは都督の友人蒋幹じゃが」
と、肩を高くして振向いた。
番兵らはあわてて敬礼した。蒋幹は悠々と背を向けたが、番兵たちの眼から離れると、風の如く駈け出して、江岸の小舟へ飛び乗った。
曹操は彼の帰りを待ちかねていた。周瑜の降伏を深く期待していたのである。だが、立ち帰ってきた蒋幹は、
「どうもその事はうまく行きませんでした」と、まず復命した。
あきらかに、曹操の面は失望の色におおわれた。しかし──と、蒋幹は唇を舐めてそれに云い足し、
「より以上な大事を、呉の陣中から拾ってきました。これをもって、いささかお慰めください」
と、周瑜の寝室から奪ってきた書簡の一つを差し出した。
味方の水軍都督蔡瑁、張允のふたりが、敵へ通謀して、しかも曹操の首を打つことは、逆意でも裏切りでもなく、故主劉表の復讐であると、それには揚言しているではないか。
「すぐ、二人を呼べ」
彼の忿怒は、尋常でなかった。武士の群れはたちまち走って、二人を捕えて来た。──犬畜生でも見るように、曹操は、はッたと両名を睨めつけて、
「出しぬけに、先手を喰って貴様たちは、さぞ度胆をつぶしたろう。身のほどわきまえぬ悪計を企むと、運命というやつは、たいがい逆に転んでくるものだ。──誰でもよしっ、この剣をもって、そいつらの細首を打ち落せ」と、佩剣を武士に授けた。
蔡瑁、張允は仰天して、
「何をご立腹なのか、それがしどもには考えもつきません。理由を仰せ聞かせ下さい」
と、蒼白になっていった。
曹操は耳をかさず、
「ふてぶてしい下司ども、これを見ろ。これは誰の書簡だ」
と、例の一通を、二人の眼の前に投げつけた。張允は見るやいなや、
「あっ、偽書だ。こんな、敵の謀略にのって」
と、跳び上がったが、その叫びも終らないうちに、後ろにまわっていた武士の手から、戛然、大剣は鳴って、その首すじへ振り落された。つづいて、逃げようとした蔡瑁の首も、一刀両断のもとに転がっていた。
その後すぐ呉の諜報機関は、蔡瑁、張允の二将が曹操に殺されて、敵の水軍司令部は、すっかり首脳部を入れ替えたという事実を知った。
周瑜は、それを聞いて、
「どうだ、おれの計略は、名人が弓を引いて、翊ける鳥を射的てたようにあたったろうが」
と、魯粛へ誇った。
よほど得意だったとみえて、なお問わず語りに、
「あの蔡瑁、張允のふたりが、水軍を統率している間は油断がならぬと、先夜のこと以来、憂えていたが、これでもう魏の船手も怖るるに足らん。早晩、曹操の運命は、この掌のうちにあろう」
と、いって、またふと、
「──だが、この深謀を、わが計と知るものは、今のところ、味方にもないが、或いは孔明だけはどう考えているかわからん。ひとつ、ご辺がさあらぬ顔して、孔明を訪れ、彼がこのことを、なんと批判するか探ってみぬか。それも後々の備えに心得ておく必要があるからな」と、つけ加えた。
翌日、魯粛は、孔明の船住居を訪れた。一艘の船を江岸につないで、孔明は船窓の簾を垂れていた。
「この頃は、軍務に忙しく、ついご無沙汰していましたが、お変りありませんか」
「見らるる如く、至って無聊ですが……実は、今日にも一度出向いて、親しく周都督へ賀をのべたいと思っていたところです」
「賀を? ……ほほう、一体、何のお慶びがあって?」
「あなたがご存じないわけがないが」
「いや、忙務におわれていたせいか、まだ何も聞いてません。賀とは、何事をさして、仰っしゃるのか」
「つまり周都督が、あなたをここにつかわして、私の胸をさぐらせようとなすったそのことです」
「えっ……?」
魯粛は、色を失って、茫然、孔明の顔をしばらく眺めていたが、
「先生。……どうしてそれをご承知なのですか」
「おたずねは愚です。蒋幹をすら首尾よくあざむき得た周都督の叡智ではありませんか。今に自然おさとりになるにちがいない」
「いや、どうも、先生の明察には愕きました。そう申されては、一言もありません」
「ともあれ、蒋幹を逆に用いて、蔡瑁、張允を除いたことは、周都督として、まことに大成功でした。仄聞するに、曹操は二人の亡きあとへ、毛玠、于禁を登用して、水軍の都督に任じ、もっぱら士気の刷新と調練に旦暮も怠らず──とかいわれていますが、元来、毛玠も于禁も船軍の大将という器ではありません。やがて自ら破滅を求め、収拾にも窮せんこと火をみるより明らかです」
何から何まで先をいわれて、魯粛は口をひらくこともせず、ただ呆れ顔していた。そして非常に間のわるい気もするので、無用な世間ばなしなどを持ち出し、辛くも座談をつくろってほうほうの態に立ち帰った。
彼の帰りかけるとき、孔明は、船の外まで送って来て、こう彼の口を誡めた。
「本陣へお戻りになっても、すでに孔明がこのたびの計を知っていたということは、周都督へも、どうかいわないでおいて下さい。──もし、それと聞けば、都督はまた必ずこの孔明を害そうとなさるにちがいない。人間の心理というものはふしぎなものに作用されがちですからな」
魯粛は、うなずいて彼と別れて来たが、周瑜の顔を見ると、隠していられなかった。──ありのままを復命して、
「孔明の烱眼には、まったく胆をつぶされました。あながち、きょうばかりではありませんが」
と、つい周瑜に向って、すべてを仔細に語ってしまった。
魯粛の復命を聞いて、周瑜はいよいよ孔明を怖れた。烱眼明察、彼のごとき者を、呉の陣中に養っておくことは、呉の内情や軍の機密を、思いのまま探ってくれと、こちらから頼んで、保護してやっているようなものである──と思った。
と、いって、今さら。
孔明を夏口へ帰さんか、これまた後日の患いたるや必定である。たとい玄徳を呉の翼下にいれても、彼の如き大才が玄徳についていては、決して、いつまでそれに甘んじているはずはない。
その時に到れば、孔明が今日、呉の内情を見ていることが、ことごとく呉の不利となって返って来るだろう。──如かず、いかなる手段と犠牲を覚悟しても、いまのうちに孔明の息の根をとめてしまうに限る!
「……そうだ、それに限る!」
周瑜が独りして大きく呟いたので、魯粛はあやしみながら、
「都督。それに限るとは、何のことですか」と、たずねた。
周瑜は、笑って、
「訊くまでもあるまい。孔明を殺すことだ。断じて彼を生かしておけんという信念をおれは改めてここに固めた」
「理由なく彼を殺せば、一世の非難をうけましょう。呉は信義のない国であると謳われては、呉のために、どうでしょうか」
「いや、私怨をもって殺すのはいけないだろう。しかし公道を以て、公然殺す方法がなくもあるまい」
数日の後、軍議がひらかれた。呉の諸大将はもちろん、孔明も席に列していた。かねて企むところのある周瑜は、評議の末に、ふと話題をとらえて、
「先生、水上の戦いに用うる武器としては、何をいちばん多量に備えておくべきでしょうか」
と、孔明をかえりみて質問した。
「将来は、船軍にも、特殊な武器が発明されるかもしれませんが、やはり現状では、弩弓に優るものはありますまい」
孔明の答えを、思うつぼと、うなずいて見せながら、周瑜はなお言葉を重ねた。
「むかし周の太公望は、自ら陣中で工匠を督して、多くの武器をつくらせたと聞きますが、先生もひとつ呉のために、十万の矢をつくっていただけまいか。もとより鍛冶、矢柄師、塗師などの工匠はいくらでもお使いになって」
「ご陣中には今、そんなに矢がご不足ですか」
「されば、江上の大戦となれば、いま貯蔵の矢数ぐらいは、またたく間に費い果たして、不足を来すであろうと考えられる」
「よろしい。つくりましょう」
「十日のうちにできますか」
「十日?」
「無理は無理であろうが」
「いや、あすの変も知れぬ戦いの中。十日などと長い期間をおいては、その間に、どんなことが突発しようも知れますまい。十万の矢は、三日の間に、必ずつくり上げましょう」
「えっ、三日のうちに」
「そうです」
「陣中に戯言なし。よもお戯れではあるまいな」
「何でかかることに、戯れをいいましょう」
散会した後の人なき所で、魯粛はそっと周瑜へいった。
「どうもおかしい。孔明のきょうの言葉は、肚にもない詐りではないでしょうか」
「諸人の前で、好んで不信の言を吐くはずはあるまい」
「でも、三日の間に、十万の矢がつくれるわけはありません」
「あまりに自分の才覚を誇り過ぎて、ついあんな大言を吐いてしまったのだろう。自ら生命を呉へ送るものだ」
「思うに、夏口へ逃げ帰るつもりではないでしょうか」
「いかに生命が惜しくても、孔明たる者が、笑いをのこして、醜い逃げ隠れもなるまいが……しかし念のためだ、孔明の船へ行って、またそれとなく彼の気色をうかがって見給え」
夜に入ったので、魯粛は、あくる朝、早目に起き出て、孔明の船を訪ねた。
孔明は、外にいて、大江の水で顔を洗っていた──やあ、お早ようと、晴々いいながら近づき、楊柳の下の一石に腰かけて、
「きのうは、ひどい目にあいましたよ。粛兄としたことが、どうもお人が悪い」
と、平常の容子よりも、しごくのどかな顔つきに見える。
魯粛も、強いて明るく、
「なぜですか。それがしが人が悪いとは」
「でも、大兄は、孔明があれほど固くお口止めしたのに、すぐありのまま、周都督へ私の意中をみなしゃべってしまったでしょう。ゆえに私は、周都督から油断のならぬ男と睨まれ、三日のうちに十万の矢をつくるべし──と難題を命じられてしまいました。もしできなかったら、軍法に照らされ、必ず斬罪に処せられましょう。何とかよい思案を授けて、私を助けてください」
「これは迷惑な仰せを承るもの。都督が初め十日以内にといわれたのを、先生自ら三日のうちにして見せんと、好んで禍いを求められたのではありませんか。今さら、それがしにも、どうすることもできはしませぬ」
「いや、都督へ向って、約を解いて欲しいなどと、取りなしをおねがいする次第ではない。ご辺の支配下にある士卒五、六百人ばかりと、船二十余艘とを、しばらく孔明のためにお貸しねがいたいのだが」
「それをどうするので?」
「船ごとに、士卒三十人を乗せて、船体はすべて、青い布と、束ねた藁でおおい、この岸に揃えて下されば、三日目までに、必ず十万の矢をつくりあげ、周都督の本陣まで運ばせます。──ただしまた、このことも、決して周都督にはご内密にねがいたい。或いは、都督がお許しなきやも知れませんから」
魯粛は立ち帰って、またもその通りに周瑜へ告げた。──余りにも孔明の云いぶんが奇怪でたまらないので、いったいどういう肚だろうかを、周瑜の意見に訊ねてみたい気もあったからである。
「……分らんなあ?」
周瑜も首を傾けて考えこんだきりであった。こうなると、ふたりとも、孔明が何を考えて、そんな不可思議な準備を頼むのか、やらせてみたい気がしないでもない。
「どうしましょう」
「まあ、やるだけのことを、やらせて、見ていたらどうだ。──充分、警戒は要するが」
「では、ともかく、船二十艘に望みの兵を貸してみましょうか」
「むむ。……しかし、油断するな」
「心得ています」
第二日目の日も過ぎて、三日目の夜となった。それまでに、二十艘の兵船は、孔明のさしず通り、藁と布ですっかり偽装を終り、各船に兵三十人ずつ乗りこんで、むなしくなす事もなく、江岸につながれていた。
「先生、いよいよ日限は、こよい限りですな」
魯粛が、様子を見に来ると、孔明は待っていたように、
「そうです、こよい一夜となりました。ついては、大儀ながら粛兄にも、一緒に来ていただけますまいか」
「どこへですか」
「江北の岸へ」
「何をしに?」
「矢狩りに参るのです。矢狩りに……」
孔明は、笑いながら、怪訝がる魯粛の手をとって、船の内へ誘い入れた。
夜靄は深くたれこめていた。二十余艘の兵船は、おのおの、纜から纜を一聯に長くつなぎ合い、徐々と北方へ向って、遡航していた。
「とんと、分りません」
「何がです」
「この船団の目的と、先生の心持が」
「は、は、は。今に自然お分りになりますよ」
先頭の一船のうちには、孔明と魯粛が、細い燈火の下に、酒を酌み交わしていた。
微かな火光も洩らすまいと、船窓にも入口にも帳を垂れているが、時折どうと船体をうつ波音に灯も揺れ、杯の酒も揺れる。
「まるでこれは、覆面の船ですな、二十余艘すべて、藁と布で、くまなく船体を覆いかくしたところは」
「覆面の船。なるほど、覆面の船とは、おもしろい仰せではある」
「どうお用いになる気ですか、一体、これを」
魯粛はしきりに知りたがって訊ねたが、孔明はただ、
「この深い夜靄がはれたら分りましょう。まあ、ご心配なく」
と、ばかりで、杯を舐めては、独り楽しんでいるかのようであった。
しかし、魯粛としては、気が気ではなかった。舳艫を連ねて北進して行く船は、行けども行けどもさかのぼっている。
「もしやこのまま、二十余艘の軍船と兵と、この魯粛の身を土産に、夏口まで行ってしまうつもりではあるまいか?」
などと孔明の肚を疑って、魯粛はまったく安き思いもしなかった。
その夜の靄は南岸の三江地方だけでなく、江北一帯もまったく深い晦冥につつまれて、陣々の篝火すらおぼろなほどだったから、
「かかる夜こそは、油断がならぬ。諸陣とも、一倍怠るなよ」
と、曹操は宵のうちから、特に江岸の警備に対して、厳令を出していた。
彼のあたまには始終、(呉兵は水上の戦によく馴れている。それに比して、わが魏の北兵は、演習が足りていない)という戒心があった。
敵の数十倍もある大軍を擁しながらも、なお驕らず、深く戒めているところは、さすがに曹操であり、驕慢が身を亡ぼした沢山な先輩や前人の例を見ているので、その轍を踏むまいと、常に反省していることもよくうかがわれる。
──で、その夜のごときも、部下を督励したばかりでなく、彼自身も深更まで寝ていなかった。
すると、案の定、夜も四更に近い頃、江上遠く、水寨のあたりで、喊の声がする。
「すわ!」
と、彼と共に、不寝の番をしていた徐晃、張遼の二将が、すぐ本陣から様子を見に駆けだしてみると、呉の船団が、突忽と、夜靄を破って現れ、今し水寨へ迫ってきた──とのことに、張遼、徐晃は驚いて、
「呉軍の夜襲です」
と、あわただしく曹操へ知らせた。
「あわてるに及ばぬ」
かねて期したることと、曹操は自身出馬して、江岸の陣地へ臨み、張遼、徐晃をして、すぐさま各射手三千人の弩弓隊を、三団に作らせ、水上の防寨や望楼に拠らせて一斉に射させた。
吠える波と、矢たけびに夜は明けて、濃霧の一方から紅々と旭日の光がさしてきた頃、江上にあった怪船団の影はもう曹操の陣営から見えなくなっていた。
「曹丞相よ、夜来のご好意を感謝する。贈り物の矢はもう充分である。──おさらば!」
孔明は、江を下ってゆく船上から、魏の水寨を振向いていった。
彼を乗せた一艘を先頭として、二十余艘の船は、満身に矢を負って、その矢のごとく下江していた。
厚い藁と布をもって包まれた船腹船楼には、ほとんど、船体が見えないほど、敵の射た矢が立っていた。
「計られたり!」
と、あとでは曹操も気がついたのであろう、無数の軽舸をもって追撃させたが、孔明はさっそくゆうべから無数に獲た矢をもって射返した。しかも水は急なり、順風は帆を扶けて、たちまち、相距つこと二十余里、空しく魏船は、それを見送ってしまった。
「どうです粛兄。このたくさんな矢が、数えきれますか」
孔明は、魯粛に話しかけた。──魯粛はゆうべから孔明の智謀をさとって、今はまったく、その神算鬼謀に、ただただ舌を巻いて心服するのみだった。
「とうてい、数えきれるものではありません。先生が三日のうちに、十万の矢をつくらんと約されたのは、つまりこのことでしたか」
「そうです。工匠を集めて、これだけのものをつくろうとすれば、十日でもむずかしいでしょう。なぜならば、周都督が工人どもの精励をわざと妨げるからです。──都督の目的は、矢を獲るよりは、孔明の生命を得んとなされているのですからな」
「あ、あ。それまでご存じでしたか」
「鳥獣すら殺手をのばせば、未然に感得して逃げるではありませんか。まして万物の霊長たるものが、至上の生命に対して、なんで無感覚におられましょうや」
「真に敬服しました。それにしても、夜来の大霧を、どうして前日からお知りになっておられたろうか。それとも偶然、ゆうべのような絶好な夜靄にめぐりあったのですか」
「およそ、将たる人は、天文に通じ、地理に精しく、陣団の奇門を知らずしては、いわゆる将器とはいわれますまい。雲霧の蒸発などは、大地の気温と、雲行風速を案じ合すれば、漁夫のごとき無智な者にすら、予測のつくことです。三日のうちと周都督へ約したのも、そうした気象の予感が自分にあったからなので、もう意地悪く周都督が、わざとこのことを、七日先や十日先に仰せだされたら、孔明もちと困ったにちがいありません」
淡々として孔明は他人事みたいに語るのである。すこしも智を慢じるふうは見えない。
ただ今朝の雲霧を破って、洋々と中天にのぼる旭光を満顔にうけて独り甚だ心は楽しむかのように見えただけである。
やがて、全船無事に、呉の北岸に帰り着いた。兵を督して、満船の矢を抜かせてみると、一船に約六、七千の矢が立っていた。総計十数万という量である。
それを一本一本あらためて、鏃の鈍角となったのは除き、矢柄の折れたのも取捨て、すぐ使用できる物ばかりを、一把一把に束ねて、十万の矢は、きれいに山となって積みあげられた。
魯粛の語る始終を周瑜はさっきから頭を垂れて黙然と聞いていたが、やがて面をあげて、
「ああ……」
と、長大息すると、ありありと慚愧の色をあらわして、慨然とこういった。
「誤てり、誤てり。ふと小我にとらわれて、ひたすら孔明の智を憎み、孔明を害さんとばかり考えていたが、彼の神機明察、とうていわれらの及ぶところではない」
さすがに周瑜も一方の人傑である。省みて深く自分を羞じ、魯粛を走らせて、すぐ孔明を迎えにやった。
やがて、孔明が見えたと聞くと彼は自ら歩を運んで、轅門の傍らに出迎え、慇懃、師の礼をとって上座へ請じたので、孔明はあやしんで、
「都督、今日の過分は何がゆえのご優遇ですか」と、問うた。
周瑜は偽らず、
「正直にいう。それがしは遂にあなたの前に盔を脱ぎました。どうか今日までの非礼はおゆるしください。また、魯粛から承れば、敵地に入って敵の矢をあつめ、その十万本を見事、運んでこられた由。天来の妙計、ただただ驚嘆のほかはありません」
「はははは。そんな程度の詐術小計。なんで奇妙とするに足りましょうや。むしろ大器の者の恥ずるところです。いや、汗顔汗顔」
「お世辞ではありません。古の孫子呉子もおそらく三舎を避けましょう。きょうはお詫びのため、先生を正客にして一盞さしあげたい。魯粛とそれがしのために、願わくは、なお忌憚ないご腹中を聞かせ給わらぬか」
席をあらためて、酒宴に移ったが、その酒中でも、周瑜はかさねて云った。
「実はきのうも呉君孫権からお使いがあって、一日も早く曹操をやぶるべきに、空しく大兵大船をとどめて何をしているぞとのお叱りです。とはいえまだ不肖の胸には必勝の策も得られず、確たる戦法も立っておりません。お恥かしいが、曹操の堅陣に対し、その厖大な兵力を眼のあたりにしては、まったく手も脚も出ないというのが事実ですから仕方がない。どうか我々のために先生の雄策を以て、かの大敵を打ち破る手段もあればお教えください。かくの通り、頭を垂れておねがいします」
「なんのなんの、足下は江東の豪傑、碌々たる鈍才孔明ごときが、お教えするなどとは思いもよらぬ。僭越です。良策など、あろう筈もない」
「由来、先生はご謙遜にすぎる。どうかそういわないで胸襟をおひらき下さい。──先頃、この魯粛を伴うて、暗夜、ひそかに江をさかのぼり、北岸の敵陣をうかがいみるに、水陸の聯鎖も完く、兵船の配列、水寨の構築など、実に法度によく叶っている。あれでは容易に近づき難い──と、以来、破陣の工夫に他念なき次第ですが、まだ確信を得ることができないのです」
「……しばらく、語るをやめ給え」と、制して孔明もややしばし黙考していたが、やがて、
「ここに、ただひとつ、行えば成るかと思う計がある。……が、都督の胸中も、まったく無為無策ではありますまい」
「それは、自分にも、最後の一計がないわけでもないが……」
「二人しておのおの掌のうちに書いて、あなたの考えと私の考えが、違っているか、同じであるか開き合ってみようではありませんか」
「それは一興ですな」
直ちに硯をとりよせると、互いに筆を頒ち、掌に何やら書いて、
「では」
と、拳と拳を出し合った。
「いざご一緒に」
孔明はそういいながら掌をひらいた。周瑜も共に掌をひらいた。
見ると──
孔明の掌にも、火の一字が書いてあったし、周瑜の掌にも、火の字が書かれてあった。
「おお、割符を合わせたようだ」
二人は高笑してやまなかった。魯粛も盃を挙げて、両雄の一致を祝した。ゆめ、人には洩らすなかれと、互に秘密を誓い合って、その夜は別れた。
このところ魏軍江北の陣地は、士気すこぶる昂らなかった。
うまうまと孔明の計に乗って、十数万のむだ矢を射、大いに敵をして快哉を叫ばせているという甚だ不愉快な事実が、後になって知れ渡って来たからである。
「呉には今、孔明があり、周瑜もかくれなき名将。ことに大江をへだてて、彼の内情を知る便りもありません。ひとつお味方のうちから人を選んで、呉軍の中へ、埋伏の毒を嚥ませてはいかがでしょう」
謀将の荀攸は、苦念の末、こういう一策を、曹操へすすめた。
埋伏の毒を嚥ます──という意味は、要するに、甘いものに包んだ劇毒を嚥み下させて、敵の体内から敵を亡ぼそうという案である。
「さあ。それは最上の計だが、しかし兵法では最も難しい謀略といわれておるもの。──まず第一にその人選だが、誰か、よい適任者がおるだろうか」
曹操のことばに、荀攸は、考えを打ち明けた。
「先頃、丞相がご成敗になった蔡瑁の甥に、蔡和、蔡仲という者がいます。叔父蔡瑁がお手討ちになったため、いま謹慎中の身でありますが」
「おお。さだめし予を恨んでおるだろうな」
「そこです。当然誰もがひとしく、そう考えるであろうところこそ、この策謀の狙いどころであり、また重要な役割を果たしましょう」
「では、蔡和、蔡仲のふたりを用いて、呉へ入れるというのか」
「さればで。──まず丞相が二人を召されて、よく彼らの心をなだめ、また利と栄達をもって励まし、江南へ放って、呉軍へ騙って降伏させます。──敵はかならず信じます。なぜなら、丞相に殺された蔡瑁の甥ですから」
「しかし、かえって、それをよい機に、ほんとに呉へ降って、味方の不利を計りはしまいか。予を、叔父の讐と恨んで」
「大丈夫です。荊州には、蔡和、蔡仲の妻子が残っています。なんで、丞相に弓が引けましょう」
「あ。なるほど」
曹操はうなずいて、荀攸の心にまかせた。翌る日、荀攸は、謹慎中の二人を訪うて、まず赦免の命を伝えて恩を売り、やがて伴って曹操の前へ出た。
曹操は二人に酒をすすめ、将来を励まして、
「どうだ、叔父の汚名をそそぐ気で、ひとつ大功を立ててみぬか」と、計画を話してみた。
「やりましょう」
「進んで御命を拝します」
二人とも非常な意気込みを示した。曹操は満足して、このことが成功したあかつきには、恩賞はもちろん末長く功臣として重用するであろうと約した。
「お心を安んじて下さい。かならず周瑜、孔明の首を土産に帰ってきます」
大言をのこして、蔡兄弟は、次の日出発した。もちろん脱陣の偽装をつくってゆく必要がある。船数艘に、部下の兵五百ばかり乗せ、取る物も取りあえず、命がけで脱走してきたという風を様々な形でそれに満載した。
帆は風をはらみ、水はこの数艘を送って、呉の北岸へ送った。──折ふし呉の大都督周瑜は、軍中を巡察中だったが、いま敵の陣から、二人の将が、兵五百をつれて、投降してきたと聞くと、明らかに喜色をあらわして、
「すぐ召しつれて来い」と、営中に待ちかまえていた。
やがて蔡和、蔡仲はきびしく護衛されながら引かれて来た。周瑜はまず二人へたずねた。
「足下たちは、なぜ、曹操のもとを脱して、わが呉へ降って来たか。武門の人間にも似合わん不徳な行為ではないか」
悄然と、二人は頭を垂れて、落涙をよそおいながら答えた。
「われわれ両名は、曹操のために殺された魏の水軍司令、蔡瑁の甥にございます。──叔父の瑁は、罪もなく討たれたものの、故主の成敗を、悪しざまにいい呪えば、これも反覆常なしと、人は眉をひそめましょう。家父とも頼む叔父に死なれ、主と仰ぐ人には忌まれ疑われ、寄るに陣地なく、遂に江北を脱してこれへ参りましたもの。──願わくはそれがし両名の寸命を用いて、良き死場所をお与えください」
周瑜は、即座に、
「よろしい。誓って、呉のために尽す気ならば、今日以後、わが陣中に留まるがいい」
と、これを甘寧の配下に附属させた。
ふたりは、心中に、
(仕済ましたり)
と、舌を吐きながらも、表面はいと悄々と、恩を謝して退出した。
魯粛は、そのあとで、
「都督、大丈夫ですか」と、疑わしげに、彼の心事を確かめた。
周瑜は、得々として
「さしも忠臣といわれた蔡瑁なのに、罪もなく殺されては、彼の親身たるもの、恨むまいとしても、恨まずにはおられまい。曹操を離れて、われに来たのは、けだし、南風が吹けば南岸へ水禽が寄ってくるのと同じ理である。何を疑う余地があろう」と笑うのみで、省みる風もなかった。
魯粛は、その日、例の船中で孔明に会ったので、周瑜の軽忽な処置を、嘆息して語った。
すると、孔明もまた、にやにや笑ってばかりいる。何故、笑い給うかと、魯粛がなじると、
「余りに要らぬご心配をしておられるゆえ、つい笑いがこぼれたのです」
と、孔明は初めて、周瑜の心に、計のあることに違いないと、自分の考えを解いて聞かせた。
「蔡和、蔡仲の降参は、あきらかに詐術です。なんとなれば、妻子は江北に残しておる。周都督も、それはすぐ観破されたに相違ないが、互いに江をへだてて、両軍とも戦いによき手がかりもないところ──これは絶好の囮と、わざと、彼の計に乗った顔して、実はこちらの計略に用いようと深く企んでおられるものと考えられる」
「ああ、なるほど!」
「どうです、ご自身でも笑いたくなりはしませんか」
「いや笑えません。どうしてそれがしは、こう人の心を見るに鈍なのでしょう。むしろ己れの不敏に哀れを催します」と、深く悟って帰った。
その夜、呉陣第一の老将黄蓋が、先手の陣からそっと本営を訪ねて来て、周瑜と密談していた。
黄蓋は孫堅以来、三代呉に仕えてきた功臣である。白雪の眉、烱々たる眸、なお壮者をしのぐものがあった。
「深夜、お訪ねしたのは、余の儀でもないが、かく対陣の長びくうちに、曹操はいよいよ北岸の要寨をかため、その船手の勢は、日々調練を積んで、いよいよ彼の精鋭は強化されるばかりとなろう。しかのみならず、彼は大軍、味方は寡兵、これを以て、彼を討つには火計のほかに兵術はないと思う。……周都督、火攻めはどうじゃ、火術の計は」
「しっッ」と周瑜は、老将の激しこむ声音を制して、
「おしずかに、ご老台。あなたは一体、誰からそんなことを教えられましたか」
「誰から? ……馬鹿をいわっしゃい。わしの本心から出た信念じゃ」
「ああ、ではやはり、ご老台の工夫とも一致したか。──ではお打明けするが、実は、降人の蔡仲、蔡和の両名は、詐って呉へ投じてきたが、それを承知で、味方のうちに留めてあります。敵の謀略の裏をかいて、こちらの謀略を行わんためにです」
「ふむ。それは妙だ。してその降人を、都督には、どう用いて、曹操の裏をかくおつもりか? ……」
「その奇策を行うには、呉からも曹操の陣へ、詐りの降人を送りこむ必要がある。……が、恨むらくは、その人がありません。適当な人がない」
周瑜が嘆息をもらすと、
「なぜ、ないといわるるか」
黄蓋は、せき込むように、身をすすめて、詰問った。
「呉国、建って以来、ここ三代。それしきのお役に立つ人もないとは、周都督のお眼がほそい。──ここに、不肖ながら、黄蓋もおるつもりでござるに」
「えっ。……ではご老台が、進んでその難におもむいて下さるとか」
「国祖孫堅将軍以来、重恩をこうむって、いま三代の君に仕え奉るこの老骨。国の為とあれば、たとい肝脳地に塗るとも、恨みはない。いや本望至極でござる」
「あなたにそのご勇気があれば、わが国の大幸というものです。……では」
周瑜は、あたりを見まわした。陣中寂として、ここの一穂の燈火のほか揺らぐ人影もなかった。
何事か、二人はしめし合わせて、暁に立ち別れた。周瑜は、一睡してさめると、直ちに、中軍に立ち出で、鼓手に命じて、諸人を集めた。
孔明も来て、陣座のかたわらに床几をおく。周瑜は、命を下して、
「近く、敵に向って、わが呉はいよいよ大行動に移るであろう。諸部隊、諸将は、よろしくその心得あって、各兵船に、約三ヵ月間の兵糧を積みこんでおけ」と命じた。
すると、先手の部隊から、大将黄蓋がすすみ出ていった。
「無用なご命令。いま、幾月の兵糧を用意せよと仰せられたか」
「三月分と申したのだが、それがどうした」
「三月はおろか、たとえ三十ヵ月の兵糧を積んだところで無駄な業、いかでか、曹操の大軍を破り得よう」
周瑜は、勃然と怒って、
「やあ、まだ一戦も交じえぬに、味方の行動に先だって不吉なことばを! 武士ども、その老いぼれを引っくくれ」
黄蓋も眦を裂いて、
「だまれ周瑜。汝、日頃より君寵をかさに着て、しかも今日まで、碌々と無策にありながら、われら三代の宿将にも議を諮らず、必勝の的もなき命をにわかに発したとて、何で唯々諾々と服従できようか。──いたずらに兵を損ずるのみだわ」
「ええ、いわしておけば、みだりに舌をうごかして、兵の心を惑わす痴れ者め。誓って、その首を刎ね落さずんば、何を以て、軍律を正し得ようか。──これっ、なぜその老いぼれに物をいわしておくか」
「ひかえろ、周瑜、汝ごときは、せいぜい、先代以来の臣ではないか。国祖以来三代の功臣たる此方に、縄を打てるものなら打ってみよ」
「斬れっ。──彼奴を!」
面に朱をそそいで、周瑜の指は、閻王が亡者を指さすように、左右へ叱咤した。
「あっ、お待ち下さい」
一方の大将甘寧が、それへ転び出て、黄蓋に代って罪を詫びた。
しかし黄蓋も黙らないし、周瑜の怒りもしずまらなかった。果ては、甘寧まで、その間から刎ね飛ばされてしまう。
「すわ、一大事」と諸大将も、今はみな色を失って、こもごもに仲裁に立った。いやともかく大都督周瑜に対して抗弁はよろしくないと、諸人地に額をすりつけて、
「国の功臣、それに年も年、なにとぞ憐みを垂れたまえ」と、哀願した。
周瑜はなお肩で大息をついていたが、
「人々がそれほどまでに申すなれば、一時、命はあずけておく。しかし軍の大法は正さずにはおけん。百杖の刑を加えて、陣中に謹慎を申しつける」と、云い放った。
即ち、獄卒に命じて杖百打を加えることになった。黄蓋はたちまち衣裳甲冑をはぎとられ、仮借もなく、棍棒を振りあげてのぞむ獄卒の眼の下に、無残、老い細った肉体を、しかも衆人監視の中に曝された。
「打て、打てっ、仮借いたすなっ。ためらう奴は同罪に処すぞ!」
怒りにふるえ、猛りに猛って、周瑜の耳は、詫び入る諸将のことばなど、まるで受けつけなかった。
「一打! 二打 三打!」
杖を持った獄卒は、黄蓋の左右から、打ちすえた。黄蓋は地にうッ伏して、五つ六つまでは、歯をくいしばっていたが、たちまち、悲鳴をあげて跳び上がった。
そこをまた、
「十っ……。十一っ……」
杖は唸って、この老将を打ちつづけた。血はながれて白髯に染み、肉はやぶれて骨髄も挫けたろうと思われた。
「九十っ。九十一っ……」
百近くなった時は、打ちすえる獄卒のほうも、へとへとに疲れていた。もちろん黄蓋ははや虫の息となって、昏絶してしまった。周瑜もさすがに、顔面蒼白になって、睨めつけていたが、唾するように指して、
「思い知ったか!」
云い捨てると、そのまま、営中へ休息に入ってしまった。
諸将はその後で、黄蓋を抱きかかえ、彼の陣中へ運んで行ったが、その間にも、血は流れてやまず、蘇生してはまたすぐ絶え入ること幾度か知れないほどだったので、日頃、彼と親しい者や、また呉の建国以来、治乱のあいだに苦楽を共にしてきた老大将たちは、みな涙をながして傷ましがった。
この騒ぎを後に、孔明はやがて黙々と、自分の船へ帰って行った。そして独り船の艫にいて、船欄から下をのぞみ、何事か沈吟にふけりながら、流るる水を見入っていた。
魯粛は、彼のあとを追ってきたらしく、孔明がそこに腰かけていると、すぐ前に現れて話しかけた。
「どうも、きょうのことばかりは、胸が傷みました。周都督は、軍の総司令だし、黄蓋は年来の先輩。諫めようにも、あのお怒りでは、かえって、火に油をそそぐようなものですし……ただはらはらするのみでした。──けれど、先生は他国の賓客であり、先頃から周都督も、心から尊敬を払っておられるのですから、もし先生が、黄蓋のために取りなして下さればとは、ひとり魯粛ばかりでなく、みなそう思っていたらしく見えました。……然るに、先生は終始黙々、手を袖にして、ついに一言のお口添えもなさらず、ただ見物しておられた。……それには何か深いお考えでもあったのですか」
「はははは、それよりもお訊きしたいのは、貴公こそ、何故、この孔明を欺こうとはなさるるか」
「や? これは異な仰せ。あなたを呉へお伴れして参ってから以来、それがしはまだあなたを欺いたことなど一度もないつもりですが」
「──ならば、貴公はまだ、兵法に秘裏変表の不測あることをご存じないとみえる。周瑜が今日、朱面怒髪して、黄蓋に百打の笞を刑し、憤然、陣中の内争を外に発してみせたのは、みな曹操をあざむく計である。何でそれを孔明が諫めよう」
「えっ、ではあれも計略ですか」
「明白な企み事です。──が、粛兄。孔明がそういったということは、周都督へは、必ず黙っていて下さいよ。問われても」
「……ははあ! さては」
魯粛は、気の寒うなるのを覚えた。けれどなお半信半疑なここちで、その夜、ひそかに帳中で、周瑜と語ったとき、周瑜から先にこう云い出したのを幸いに、糺してみた。
「魯粛、きょうのことを、陣中の味方は皆、どう沙汰しているね」
「滅多に見ないお怒りようと、みな恟々としておりますよ」
「孔明は? ……何といっておるかね」
「都督も、情けないお仕打ちをするといって、哀んでおりました」
「そうか! 孔明もそういっていたか」と手を打って、
「初めて孔明をあざむくことができた。孔明がそう信じるほどなら、このたびのわが計は、かならず成就しよう。いや、もう図にあたれりといってもいい」
周瑜は会心の笑みをもらして、初めて魯粛に心中の秘を打ち明けた。
ここ四、五日というもの黄蓋は陣中の臥床に横たわったまま粥をすすって、日夜呻いていた。
「まったくお気の毒な目にあわれたものだ」
と、入れ代り立ちかわり諸将は彼の枕頭を見舞いに来た。
或る者は共に悲しみ、或る者は共に傷み、また或る者はひそかに周瑜の無情に対して共に恨みをもらした。
日ごろ親しい参謀官の闞沢も見舞いに来たが、彼のすがたを見ると、暗涙をたたえた。黄蓋は、枕頭の人々を退けて、
「よく来てくれた。誰が来てくれたよりうれしい」と、無理に身を起して云った。
闞沢は、傷ましげに
「将軍はかつて、何か、周都督から怨まれていることでもあったのか」と、訊ねた。
黄蓋は顔を振って、
「何もない……。旧怨などは何もない」
「それにしては、余りに今度のことは理に合わないご折檻ではありませんか。傍目にも疑われるほど……実に苛烈すぎる」
「いや、ご辺のほかには、真実を語るものはない。それ故に、見えられるのを心待ちにしていたのだ」
「将軍。察するところ、過日、衆人の中であの責苦をうけられたのは、何か苦肉の計ではないのですか」
「しッ。……静かにされよ。……して、それをば、如何にして察しられたか」
「周都督の形相といい、あの苛烈きわまる責め方といい、あまりに度を過ぎたりと思うにつけ……日頃のあなたと都督の交わりをも想い合わせて、実は九分までは察していました」
「ああ、さすがは闞沢。よく観られた。まさにその通りにちがいない。不肖、呉に仕えて、三代のご恩をうけ、いまこの老骨を捧げても、少しも惜しむところはない。……故に、自らすすんで一計を立て、まず味方を欺かんがためにわざと百打の笞をうけたものじゃ。この苦痛も呉国のためと思えば何でもない」
「さてはやはりそうでしたか。……が、それまで思いこまれた秘策をひとりこの闞沢にのみお打ち明け下すったのは、この闞沢をして将軍の懐刀とし、それがしに曹操へ使いする大役を仰せつけたいお心ではありませんか」
「そうだ。まことに、ご辺の察する通り、ご辺をおいて、誰にこの大事を打ち明け、さらに、大事の使いを頼めようか」
「よくこそ、お打ち明け下さいました。私を知って下さるものです」
「では、行ってくれるか?」
「大丈夫、ひとたび、信をうけて、なんで己れを知る人に反けましょうぞ。世に出て君に仕え、剣を佩いて風雲に臨みながら、一功も立てずに朽ちるくらいなら、生きていても生きがいはありません。まして老将軍すら、一命を投げ出して、計りごとにかかっておられるのに、どうして小生らが、微生を惜しみましょう」
「ありがたい」
黄蓋は彼の掌をとって、じぶんの額にあてながら、涙をながした。
「事、延引しては、機を誤るおそれがある。将軍、そうきまったら、直ちに、曹操へ宛てて一書をおかきなさい。それがしが、如何にもしてそれをたずさえて参りますれば」
「おお、その書簡はすでに人知れず認めて、これに隠してある」
枕の下から厚く封じた一通を手渡した。闞沢はそれを受取ると、さりげなく暇を告げ、夜に入ると、いつか呉の陣中からすがたを消していた。
それから幾夜の後とも知れず、魏の曹操が水寨のほとりで独り釣糸を垂れている漁翁があった。
悠々千里の流れに漁りして、江岸に住んでいる漁夫や住民は、もう連年の戦争にも馴れていて、戦いのない日には、閑々として網を打ち、鈎を垂れているなど、決してめずらしい姿ではなかった。
──だがこのところ、ひどく神経の鋭くなっている曹軍の見張りは、あまりに漁翁が水寨に近づいて釣しているので、
「怪しい老ぼれ?」
と見たか、たちまち走舸を飛ばしてきて、有無をいわさず搦め捕り、そのまま陸へ引ッ立てて行った。
軍庁の一閣に、侍臣は燭をとぼし、曹操は寝房を出て、この深夜というに、ものものしく待ちかまえていた。
(呉の参謀官闞沢が、一漁翁に身をやつし、何ごとか曹丞相に謁して、直言申しあげたいとのこと──)と、耳おどろかす報らせが、たった今、曹操の夢を醒ましたのであった。
これに依ってみると、水寨の番兵に捕まった漁翁は、魏の陣中へ引かれてくるとすぐ、
(自分こそは、呉の参謀闞沢である)と、自ら名乗ったものとみえる。
──程なく。
曹操の面前には、みすぼらしい一竿翁が、部将たちに取り囲まれて引かれてきた。──が、さすがに一かどの者、端然と、階下に座をとり、すこしも周囲の威圧に動じるふうも見えなかった。
曹操も厳かにいう。
「汝は、敵国の参謀官とか聞いたが、何を血迷うて、予の陣営へ来たか」
「…………」
黙然と、見つめていたが、やがて闞沢は、ふふふふと、唇を抑えて失笑した。
「見ると聞くとは大きな違い。曹丞相は、賢を愛し、人材を求むること、旱に雲霓を望むごとしと、世評には聞いていたが……。いやはや……これでは覚束ない。──ああ黄蓋も人を知らずじゃ! こんな似非英雄に渇仰して、とんでもないことをしてしまったものだ」
独り嘆じるが如く、うそぶいた。
曹操は、眉をひそめた。──変なことをいう漢かなといぶかったのであろう。急に怒る色もなく、
「敵国の参謀たるものが、単身、しかも漁翁に身を変えて、これへ来る以上、その真意を糺すは、当然であろう。なぜ、それについて、しかと答えぬか」
「さればよ! 丞相。これに来る以上、それがしとても、命がけでなくては能わぬ。然るに、血迷うて何しにきたかなどと、決死の者に対して、揶揄するような言を弄さるるゆえ、思いつめてきた張合いも抜け、思わず思うまま嘆息したのじゃ」
「呉を滅ぼさんは、わが畢生の希いである。その目的に添うことならば、あらためて非礼を謝し、謹んで汝の言を聞こう」
「丞相にとっては天来の好事である。敬うて聞かれよ。──呉の黄蓋、字は公覆、すなわち三江の陣にあって、先鋒の大将をかね呉軍の軍粮総司たり。この人、三代があいだ呉に仕え、忠節の功臣たること、世みな知る。──然るを、つい数日前、寸言、周都督に逆らえりとて、諸大将のまっただ中にていたく面罵せられたるのみか、すでに老齢の身に、百打の刑杖を加えられ、皮肉裂け、血にまみれ、気は喪うにいたる。諸人、面をそむけ、ひそかに都督の酷薄をうらまぬはない。それがしは、黄蓋と古くより親交あり、日頃、兄弟の交わりをなせるものから、蓋老、病床に苦吟しつつ、ひそかに一書を認め、それがしに託して、丞相に気脈を寄せらる。──もとより骨髄に徹する恨みを、はらさんがためでござる。幸いにも、黄蓋は武具兵粮を司どる役目にあれば、丞相だに、諾! とご一言あれば、不日、呉陣を脱して、呉の兵糧武具など、及ぶかぎり舷に積載してお味方へ投じるでござろう」
眼をみひらき、耳を欹てて、曹操は始終を聞き入っていたが、
「ふーむ。……して、黄蓋の書面なるものを、それへ持参したか」
「肌に秘して、持ち参りました」
「ともあれ、一見しよう」
「……いざ」
と、闞沢は、侍臣の手を通して、書面を曹操の卓へ提出した。
曹操は、几の上にひらいて、十遍あまり読み返していたが、どんと拳で案を叩きながら、
「浅慮浅慮。これしきの苦肉の計に、いかでこの曹操が詐られようか。明白なる謀略だ。──それっ、部将輩、その船虫みたいなむさい老爺を、営外へ曳きだして斬ってしまえ」
云いすてるや否、黄蓋の書状は、その手に引き裂かれていた。
闞沢は、自若として、少しもさわがないばかりか、かえって、声を放って笑った。
「あははは。小心なる丞相かな。この首を所望なら、いつでも献上しようものを、さりとは、仰山至極。音に聞く魏の曹操とは、かかる小人物とは思わなかった」
「だまれ。かような児戯にひとしい謀計をたずさえて、予をたばからんとなすゆえ、汝のそッ首を刎ねて、わが軍威を振い示さんは、総帥の任だというのに、汝こそ、何がおかしいか」
「いや、それを嗤うのではない。余りといえば黄蓋が、曹操などという人物を買いかぶっているのを愍笑したまでだ」
「無駄だ。巧言を止めろ。われも幼少から兵書を読み、孫子呉子の神髄を書に捜っている。別人ならば知らぬこと、この曹操がいかで汝や黄蓋ごとき者の企てに乗ろうぞ」
「いよいよおかしい。いや笑止千万だ。それほど、蛍雪の苦を学びの窓に積み、弱冠より兵書に親しんできたという者が、何故、この闞沢のたずさえて来た書簡に対し、一見、真か嘘か、その実相すらつかみ得ないのか。世の中にこれほどばかばかしい自慢はあるまい」
「では、冥途のみやげに、黄蓋の書簡をもって、予が詐術なりと観破した理由をいって聞かせてやろう。しかと耳の垢を払って聞くがいい──書中、黄蓋がいっているように、我への降参が、本心からのものならば、かならず味方に来る時の日限を明約していなければならん。然るに書中にはその日時には何も触れておらぬ。これ、本心にない虚構の言たる証拠であろう」
「これは、異な説を聞くものだ。みだりに兵書を読めばとて、書に読まれて、書の活用を知らぬものは、むしろ無学より始末がわるい。そんな凡眼で、この大軍をうごかし、呉の周瑜に当るときは、たちまち、敵の好餌──撃砕されるにきまっている」
「何、敗れるにきまっていると」
「然り、小学の兵書に慢じ、新しき兵理を究めず、わずか、一書簡の虚実も、一使の言の信不信も、これを観る眼すらない大将が、何で、呉の新鋭に勝てようか」
「…………」
ふと、曹操は唇をむすんで、何か考えこむような眼で、じっと、闞沢を見直していた。
闞沢は、自身の頸を叩いて、
「いざ、斬るなら、早く斬れ」と、迫った。
曹操は、顔を横に振って、
「いや、しばしその生命は預けておこう。この曹操がかならず敗戦するだろうということについて、もう少し論じてみたい。もし理に当るところがあれば、予も論じてみる」
「折角だが、あなたは賢人を遇する礼儀も知らない。何をいったところで無益であろう」
「では、前言をしばらく詫びる。まず高論を示されい」
「古言にもある。主ニ反イテ盗ミヲナス安ンゾ期スベケンヤ──と。黄蓋いま、深恨断腸、三代の呉をそむいて麾下に降らんとするにあたり──もし日限を約して急に支障を来し、来会の日をたがえたなら、丞相の心はたちまち疑心暗鬼にとらわれ、遂に、一心合体の成らぬのみか、黄蓋は拠るに陣なく、帰るに国なく、自滅の外なきに至ります。故にわざと日時を明示せず、好機を計って参らんというこそ、事の本心を証するもの、またよく兵の機謀にかなうもの、これをかえって疑いの種となす丞相の不明を、愍れまずにいられません」
「むむ、その言はいい」
曹操は、大きくうなずいた。
「まことに、一時の不明、先ほどからの無礼は許せ」
彼はにわかに、こう謝して、賓客の礼を与え、座に請じて、あらためて闞沢の使いをねぎらい、酒宴をもうけて、さらに意見を求めた。
ところへ、侍臣の一名が、外から来て、そっと曹操の袂の下へ、何やら書状らしいものを渡して退がった。
「ははあ……。さては呉へまぎれ込んでいる蔡和、蔡仲から、何かさっそく密謀が来たな」
と感づいたが、闞沢は何げない態をつくろって、しきりと杯をあげ、かつ弁じていた。
酒のあいだに曹操は、蔡和、蔡仲からの諜報を、ちらと卓の陰で読んでいたが、すぐに袂に秘めて、さり気なくいった。
「さて闞沢とやら。──今はご辺に対して予は一点の疑いも抱いておらん。この上は、ふたたび呉へかえって、予が承諾した旨を黄蓋へ伝え、充分、諜しあわせて、わが陣地へ来てくれい。抜かりはあるまいが、くれぐれも周瑜にさとられぬように」
すると、闞沢は、首を振って断った。
「いや、その使いには、ほかにしかるべき人物をやって下さい、てまえはこれに留まりましょう」
「なぜか」
「二度と、呉へ帰らんなどとは、期してもおりません」
「だが、ご辺ならば、往来の勝手も知る、もしほかの者をやったら、黄蓋も惑うだろう」
再三、曹操に乞われて、闞沢は初めて承知した。──なお曹操が自分の肚をさぐるためにそういったのではないかということを闞沢は警戒していたのである。
──が、今は曹操も、充分、彼の言を信じて来たもののようだった。闞沢は仕すましたりと思ったが、色にも見せず、他日、再会を約して、ふたたび帰る小舟に乗った。その折も曹操から莫大な金銀を贈られたが、
「大丈夫、黄金のために、こんな冒険はできませんよ」
と、手も触れず、一笑して、小舟を漕ぎ去った。
呉の陣所へもどると、彼はさっそく黄蓋と密談していた。黄蓋は事の成りそうな形勢に、いたく歓んだが、なお熟慮して、
「初めに疑っていた曹操が、後にどうして急に深く信じたのだろう?」と、糺した。
闞沢は、それに答えて、
「おそらく、てまえの弁舌だけでは、なお曹操を信じ切らせるには至らなかったでしょうが、折も折、蔡和、蔡仲の諜報が、そっと彼の手に渡されたのです。──てまえの言を信じない彼も腹心の者の密報には、すぐ信を抱いたものと見えます。しかもその密諜による呉軍内の情報と、てまえの語ったところとが、符節を合わせた如く一致していましたろうから、疑う余地もないとされたに違いありません」
「むむ……なるほど。ではご苦労だが足ついでに、甘寧の部隊へ行って、甘寧のもとにおる蔡和、蔡仲の様子をひとつ見ておいてくれんか」
闞沢は、心得て、甘寧の部隊を訪ねて行った。
唐突な訪れに、甘寧は、彼のすがたをじろじろ見て、
「なにしに見えたか」と、訊ねた。
闞沢が、いま本陣で、気にくわぬことがあったから、無聊をなぐさめに来たというと、甘寧は信じないような顔して、
「ふーム……?」と、薄ら笑いをもらした。
そこへ偶然、蔡和、蔡仲のふたりが入ってきた。甘寧が、闞沢へ眼くばせしたので、闞沢も甘寧のこころを覚った。
──で、わざと不興げに、
「近ごろは、事ごとに、愉快な日は一日もない。周都督の才智は、われわれだって充分に尊敬しているが、それに驕って、人をみな塵か芥のように見るのは実によくない」
と、独り鬱憤をつぶやきだすと、甘寧もうまく相槌を打って、
「また何かあったのか、どうも軍の中枢で、そう毎日紛争があっちゃ困るな」
「ただ議論の争いならいいが、周都督ときては、口汚なく、衆人稠坐の中で、人を辱めるから怪しからん。……不愉快だ。実に、我慢がならぬ」
と、唇を噛んで憤りをもらしかけたが、ふと一方にたたずんでいる蔡和、蔡仲のふたりを、じろと眼の隅から見て、急に口をつぐみ、
「……甘寧。ちょっと、顔をかしてくれないか」
と、彼の耳へささやき、わざと隣室へ伴って行った。
蔡和と蔡仲は、黙って、眼と眼を見合わせていた。
その後も、闞沢と甘寧は、たびたび人のない所で密会していた。
或る夕、囲いの中で、また二人がひそひそささやいていた。かねて注目していた蔡和と蔡仲は、陣幕の外に耳を寄せて、じっと、聞きすましていたが、さっと、夕風に陣幕の一端が払われたので、蔡和の半身がちらと、中の二人に見つけられたようだった。
「あっ、誰かいる」
「しまった」と、いう声が聞えた。
──と思うと、甘寧と闞沢は、大股に、しかも血相変えて、蔡和、蔡仲のそばへ寄ってきた。
「聞いたろう! われわれの密談を」
闞沢がつめ寄ると、甘寧はまた一方で、剣を地に投げて、
「われわれの大事は未然に破れた。すでに人の耳に立ち聞きされたからには、もう一刻もここには留まり難い」と、足ずりしながら慨嘆した。蔡和、蔡仲の兄弟は、何か、うなずき合っていたが、急にあたりを見廻して、
「ご両所、決して決して絶望なさる必要はありませぬ。何を隠そう、われわれ兄弟こそ、実は、曹丞相の密命をうけ、詐って呉に降伏して来た者。──今こそ実を打ち明けるが、本心からの降人ではない」と、いった。
甘寧と闞沢は穴のあく程、兄弟の顔を見つめて、
「えっ、それは……真実なのか」
「何でかような大事を嘘いつわりにいえましょう」
「ああ! ……それを聞いて安堵いたした。貴公らの投降が、曹丞相の深遠な謀計の一役をもつものとは、夢にも知らなかった。思えばそれもこれも、ひとつの機運。魏いよいよ興り、呉ここに亡ぶ自然のめぐり合わせだろう」
もちろん、先頃から、甘寧と闞沢が、人なき所でたびたび密談していたことは──周都督に対する反感に堪忍の緒を切って──いかにしたら呉の陣を脱走できるか、どうしたら周都督に仕返しできるか、またいッそのこと、不平の徒を狩り集めて、暴動を起さんかなどという不穏な相談ばかりしていたのであった。わざと、蔡兄弟に、怪しませるようにである。
蔡和、蔡仲の兄弟は、それが巧妙な謀計とは、露ほども気づかなかった。自分たちがすでに謀計中の主役的使命をおび、この敵地の中に活躍しているがために、かえって相手の謀計に乗せられているとは思いもつかなかった。
裏をもって謀れば、またその裏をもって謀る。兵法の幻妙はこの極まりない変通のうちにある。神変妙通のはたらきも眼光もないものが、下手に術をほどこすと、かえって、敵に絶好な謀計の機会を提供してしまう結果となる。
その晩、四人は同座して、深更まで酒を酌んでいた。一方は一方を謀りおわせたと思いこんでいる。
が、共に打ち解け、胸襟をひらきあい、共に、これで曹丞相という名主のもとに大功を成すことができると歓びあって──。
「では、早速、丞相へ宛てて、一書を送っておこう」
と、蔡仲、蔡和は、その場で、このことを報告する文を認め、闞沢もまた、べつに書簡をととのえてひそかに部下の一名に持たせ、江北の魏軍へひそかに送り届けた。
闞沢の書簡には、
──わが党の士、甘寧もまた夙に丞相をしたい、周都督にふくむの意あり、黄蓋を謀主とし、近く兵糧軍需の資を、船に移して、江を渡って貴軍に投ぜんとす。──不日、青龍の牙旗をひるがえした船を見たまわば、即ち、われら降参の船なりとご覧ぜられ、水寨の弩を乱射するを止めたまわんことを。
と、いう内容が秘められてあった。
しかし、やがてそれを受取った日、さすがに曹操は、鵜呑みにそれを信じなかった。むしろ疑惑の眼をもって、一字一句をくり返しくり返しながめていた。
いまの世の孫子呉子は我をおいてはなし──とひそかに自負している曹操である。一片の書簡を見るにも実に緻密冷静だった。蔡和、蔡仲はもとより自分の腹心の者だし、自分の息をかけて呉へ密偵に入れておいたものであるが、疑いないその二人から来た書面に対してすら慎重な検討を怠らず、群臣をあつめて、内容の是非を評議にかけた。
「……蔡兄弟からも、さきに呉へ帰った闞沢からも、かように申し越してきたが、ちと、はなしが巧過ぎるきらいもある。さて、これへの対策は、どうしたものか」
彼の諮問に答えて、諸大将からもそれぞれ意見が出たが、その中で、例の蒋幹がすすんで云った。
「面を冒して、もう一度おねがい申します。不肖、さきに御命をうけて、呉へ使いし、周瑜を説いて降さんと、種々肝胆をくだきましたが、ことごとく、失敗に終り、なんの功もなく立ち帰り、内心、甚だ羞じておる次第でありますが──いまふたたび一命をなげうつ気で、呉へ渡り、蔡兄弟や闞沢の申し越しが、真実か否かを、たしかめて参るならば、いささか前の罪を償うことができるように存じられます。もしまた、今度も何の功も立てずに戻ったら、軍法のお示しを受けるとも決してお恨みには思いません」
曹操はいずれにせよ、にわかに決定できない大事と、深く要心していたので、
「それも一策だ」と、蒋幹の乞いを容れた。
蒋幹は、小舟に乗って、以前のごとく、飄々たる一道士を装い、呉へ上陸った。
そのとき呉の中軍には、彼より先に、ひとりの賓客が来て、都督周瑜と話しこんでいた。
襄陽の名士龐徳公の甥で、龐統という人物である。
龐徳公といえば荊州で知らないものはない名望家であり、かの水鏡先生司馬徽ですら、その門には師礼をとっていた。
また、その司馬徽が、常に自分の門人や友人たちに、臥龍・鳳雛ということをよくいっていたが、その臥龍とは、孔明をさし、鳳雛とは、龐徳公の甥の──龐統をさすものであることは、知る人ぞ知る、一部人士のあいだでは隠れもないことだった。
それほどに、司馬徽が人物を見こんでいた者であるのに、
(臥龍は世に出たが、鳳雛はまだ出ないのは何故か?)
と、一部では、疑問に思われていた。
きょう、呉の中軍に、ぶらりと来ていた客は、その龐統だった。龐統は、孔明より二つ年上に過ぎないから、その高名にくらべては、年も存外若かった。
「先生には近頃、つい、この近くの山にお住いだそうですな」
「荊州、襄陽の滅びて後、しばし山林に一庵をむすんでいます」
「呉にお力をかし賜わらんか、幕賓として、粗略にはしませんが」
「もとより曹軍は荊州の故国を蹂躙した敵。あなたからお頼みなくとも呉を助けずにおられません」
「百万のお味方と感謝します。──が、いかにせん味方は寡兵、どうしたら彼の大軍を撃破できましょうか」
「火計一策です」
「えっ、火攻め。先生もそうお考えになられますか」
「ただし渺々たる大江の上、一艘の船に火がかからば、残余の船はたちまち四方に散開する。──ゆえに、火攻めの計を用うるには、まずその前に方術をめぐらし、曹軍の兵船をのこらず一つ所にあつめて、鎖をもってこれを封縛せしめる必要がある」
「ははあ、そんな方術がありましょうか」
「連環の計といいます」
「曹操とても、兵学に通じておるもの。いかでさような計略におちいろう。お考えは至妙なりといえど、おそらく鳥網精緻にして一鳥かからず、獲物のほうでその策には乗りますまい」
──こう話しているところへ、江北の蒋幹が、また訪ねてきたと、部下の者が取次いできたのだった。
それを機に、龐統は暇をつげて帰った。
周瑜は、それを送って、ふたたび営中にもどると、天地を拝礼して、喜びながら、
「われにわが大事を成さしむるものは、いまわれを訪う者である」と、いった。
やがて、蒋幹は、案内されて、ここへ通ってきた。──この前のときと違って、出迎えもしてくれず、周瑜は、上座についたまま、傲然と自分を睥睨している様子に、内心、気味わるく思いながらも、
「やあ、いつぞやは……」と、さりげなく、親友ぶりを寄せて行った。
すると周瑜は、きっと、眼にかど立てて、
「蒋幹。また貴公は、おれを騙そうと思ってきたな」
「えっ……騙そうとして? ……あははは、冗談じゃない。旧交の深い君に対してなんで僕がそんな悪辣なことをやるもんか。……それどころではない。吾輩は、実は先日の好誼にむくいるため、ふたたび来て、君のために一大事を教えたいと思っておるのに」
「やめたがいい」
周瑜は噛んで吐き出すように、
「──汝の肚の底は、見えすいている。この周瑜に、降参をすすめる気だろう」
「どうして君としたことが、今日はそんなに怒りッぽいのだ。激気大事を誤る。──まあ、昔がたりでもしながら、親しくまた一献酌み交わそう。そのうえでとっくり話したいこともある」
「厚顔なる哉。これほどいっておるのにまだ分らんか。汝、──いかほど、弁をふるい、智をもてあそぶとも、なんでこの周瑜を変心させることができよう。海に潮が枯れ、山に石が爛れきる日が来ろうとも断じて、曹操如きに降るこの方ではない。──先頃はつい、旧交の情にほだされ、思わず酒宴に心を寛うして、同じ寝床で夢を共にしたりなどしたが、不覚や、あとになって見れば、予の寝房から軍の機密が失われている。大事な書簡をぬすんで貴様は逃げ出したであろうが」
「なに、軍機の書簡を……冗談じゃない、戯れもほどほどにしてくれ。何でそんなものを吾輩が」
「やかましいっ」
と、大喝をかぶせて、
「──そのため、折角、呉に内通していた張允、蔡瑁のふたりを、まだ内応の計を起さぬうちに、曹操の手で成敗されてしまった。明らかに、それは汝が曹操へ密報した結果にちがいない。──それさえあるに、又候、のめのめとこれへ来たのは、近頃、魏を脱陣して、この周瑜の麾下へ投降してきておる蔡和、蔡仲に対して、何か策を打とうという肚ぐみであろう。その手は喰わん」
「どうしてそう……一体このわしを頭から疑われるのか」
「まだいうか。蔡和、蔡仲は、まったく呉に降って、かたく予に忠節を誓いおるもの。豈、汝らの妨げに遭って、ふたたび魏の軍へかえろうか」
「そ、そんな」
「だまれ、だまれっ。本来は一刀両断に斬って捨てるところだが、旧交の誼みに、生命だけは助けてくれる。わが呉の軍勢が、曹操を撃破するのも、ここわずか両三日のあいだだ。そのあいだ、この辺につないでおくのも足手まとい。誰かある! こやつを西山の山小舎へでもほうりこんでおけ。曹操を破って後、鞭の百打を喰らわせて、江北へ追っ放してくれるから」
と、蒋幹を睨みつけ、左右の武将に向って、虎のごとく云いつけた。
武士たちは、言下に、
「おうっ」
と、ばかり蒋幹を取り囲んで、有無をいわさず営外へ引っ立てて行った。そして、一頭の裸馬の背に掻き乗せ、厳しく前後を警固して西山の奥へ追い上げた。
山中に一軒の小舎があった。おそらく物見小舎であろう。蒋幹をそこへほうり込むと、番の兵は、昼夜、四方に立って見張っていた。
蒋幹は、日々煩悶して、寝食もよくとれなかったが、或る夜、番兵に隙があったので、ふらふらと小舎から脱け出した。
「逃げたいものだが?」
山中の闇をさまよいながら、しきりと苦慮してみたが、麓へ降りれば、すべて呉の陣に満ちているし、仰げば峨々たる西山の嶮峰のみである。折角、小舎は出てきたものの、
「どうしたものぞ」と、悄然、行き暮れていた。
すると彼方の林の中にチラと燈火が見えた。近づいてみると、家があるらしい。林間の細道をなお進んでゆくと、朗々読書の声がする。
「はて? ……こんな山中に」
柴の戸を排して、庵の中をうかがってみるに、まだ三十前後の一処士、ただひとり浄几の前に、燈火をかかげ、剣をかたわらにかけて、兵書に眼をさらしている様子である。
「……あ。襄陽の鳳雛、龐統らしいが」
思わず呟いていると、気配に耳をすましながら庵の中から、
「誰だ」と、その人物が咎めた。
蒋幹は、駈け寄るなり、廂下に拝をして、
「先日、群英の会で、よそながらお姿を拝していました。大人は鳳雛先生ではありませんか」
「や。そういわるるなら、貴公はあの折の蒋幹か」
「そうです」
「あれ以来、まだ、呉の陣中に、滞留しておられたか」
「いやいやそれどころではありません。一度帰ってまた来たために、周都督からとんだ嫌疑をかけられて」
と、山小舎に監禁された始末を物語ると、龐統は笑って、
「その程度でおすみなら万々僥倖ではないか。拙者が周瑜なら、決して、生かしてはおかない」
「えっ……」
「ははは。冗談だ。まあお上がりなさい」
──と、龐統は席を頒けて燭を剪った。
だんだん話しこんでみると、龐統はなかなか大志を抱いている。その人物はかねて世上に定評のあるものだし、今、この境遇を見れば、呉から扶持されている様子もないので、蒋幹はそっと捜りを入れてみた。
「あなた程の才略をもちながら、どうしてこんな山中に身を屈しているんですか。ここは呉の勢力下ですのに、呉に仕えているご様子もなし……。おそらく、魏の曹丞相のような、士を愛する名君が知ったら、決して捨ててはおかないでしょうに」
「曹操が士を愛する大将であるということは、夙に聞いておるが……」
「なぜ、それでは、呉を去って、曹操のところへ行かないので?」
「でも、何分、危険だからな。──かりそめにも、呉にいた者とあれば、いかに士を愛する曹操でも、無条件には用いまい」
「そんなことはありません」
「どうして」
「かくいう蒋幹が、ご案内申してゆけば」
「何。貴公が」
「されば、私は、曹操の命をうけて、周瑜に降伏をすすめに来たものです」
「ではやはり魏の廻し者か」
「廻し者ではありません。説客として参ったものです」
「同じことだ。……が偶然、わしが先にいった冗談はあたっていたな」
「ですから、ぎょっとしました」
「いや、それがしは何も、呉から禄も恩爵もうけている者ではない。安心なさるがいい」
「どうですか、ここを去って、魏へ奔りませんか」
「勃々と、志は燃えるが」
「曹丞相へのおとりなしは、かならず蒋幹が保証します。曹操にも活眼ありです、何で先生を疑いましょう」
「では、行くか」
「ご決意がつけば、こよいにも」
「もとより早いがいい」
二人は、完全に、一致した。その夜のうち、庵を捨て、龐統は彼と共に、呉を脱した。
道は、蒋幹よりも、ここに住んでいる龐統のほうが詳しい。谷間づたいに、樵夫道をさがして、やがて大江の岸辺へ出た。
舟を拾って、二人は江北へ急いだ。やがて魏軍の要塞に着いてからは、一切、蒋幹の斡旋に依った。
有名なる襄陽の鳳雛──龐統来れり、と聞いて、曹操のよろこび方は一通りではなかった。
まず、賓主の座をわけて、
「珍客には、どうして急に、予の陣をお訪ね下されたか」
と、曹操は下へも置かなかった。龐統も、この対面を衷心から歓んで見せながら、
「私をして、ここに到らしめたものは、私の意志というよりは、丞相が私を引きつけ給うたものです。よく士を敬い、賢言を用い、稀代の名将と、多年ご高名を慕うのみでしたが、今日、幹兄のお導きによって、拝顔の栄を得たことは、生涯忘れ得ない歓びです」
曹操は、すっかり打ち解けて、蒋幹のてがらを賞し、酒宴に明けた翌る日、共に馬をひかせて、一丘へ登って行った。
けだし曹操の心は、龐統の口から自己の布陣について、忌憚なき批評を聞こうというところにあったらしい。
だが、龐統は、
「──沿岸百里の陣、山にそい、林に拠り、大江をひかえてよく水利を生かし、陣々、相顧み相固め、出入自ら門あり、進退曲折の妙、古の孫子呉子が出てきても、これ以上の布陣はできますまい」と、激賞してばかりいるので、曹操はかえって物足らなく思い、
「どうか先生の含蓄をもって、不備な点は、遠慮なく指摘してもらいたい」
と、いったが、龐統は、かぶりを振って、
「決して、美辞甘言を呈し、詐って褒めるわけではありません。いかなる兵家の蘊奥を傾けても、この江岸一帯の陣容から欠点を捜し出すことはできないでしょう」
曹操はことごとくよろこんで、さらに、彼を誘って、丘を降り、今度は諸所の水寨港門や大小の舟行など見せて歩いた。
そして、江上に浮かぶ艨艟の戦艦二十四座の船陣を、誇らしげに指さして、
「どうですか、わが水上の城郭は」と、意見を求めた。
ああ──と龐統は感極まったもののごとく、思わず掌を打って、
「丞相がよく兵を用いられるということは、夙に隠れないことですが、水軍の配備にかけても、かくまでとは、夢想もしていませんでした。──憐むべし、周瑜は、江上の戦いこそ、われ以外に人なしと慢心していますから、ついに滅亡する日までは、あの驕慢な妄想は醒めますまい」
やがて立ち帰ると、曹操は営中の善美を凝らして、ふたたび歓待の宴に彼をとらえた。そして夜もすがら孫呉の兵略を談じ、また古今の史に照らして諸家の陣法を評したりなど、興つきず夜の更くるも知らなかった。
「……ちょっと失礼します」
龐統はその間に、ちょいちょい中座して室外に出ては、また帰って席につき、話しつづけていた。
「……ちと、お顔色がわるいようだが? どうかなされたか」
「何。大したことはありません」
「でも、どこやら勝れぬように見うけらるるが」
「舟旅の疲れです。それがしなど生来水に弱いので四、五日も江上をゆられてくると、いつも後で甚だしく疲労します。……いまも実はちと嘔吐を催してきましたので」
「それはいかん、医者を呼ぶから診せたがいい」
「ご陣中には、名医がたくさんおられるでしょう。おねがいします」
「医者が多くいるだろうとは、どうしてお察しになったか」
「丞相の将兵は、大半以上、北国の産。大江の水土や船上の生活に馴れないものばかりでしょう。それをあのようになすっておいては、この龐統同様、奇病にかかって、身心ともにつかれ果て、いざ合戦の際にも、その全能力をふるい出すことができますまい」
龐統の言は、たしかに曹操の胸中の秘を射たものであった。
病人の続出は、いま曹操の悩みであった。その対策、原因について軍中やかましい問題となっている。
「どうしたらよいでしょう。また、何かよい方法はありませんか。願わくはご教示ありたいが」
曹操は初め、驚きもし、狼狽気味でもあったが、ついに打ち割ってこういった。
龐統は、さもあらんと、うなずき顔に、
「布陣兵法の妙は、水も洩らさぬご配備ですが、惜しいかな、ただ一つ欠けていることがある。原因はそれです」
「布陣と病人の続出とに、何か関聯がありますか」
「あります。大いにあります。その一短を除きさえすればおそらく一兵たりとも病人はなくなるでしょう」
「謹んでお教えに従おう。多くの医者も、薬は投じてもその原因に至っては、ただ風土の異なるためというのみで、とんと分らない」
「北兵中国の兵は、みな水に馴れず、いま大江に船を浮かべ、久しく土を踏まず、風浪雨荒のたびごとに、気を労い身を疲らす。ために食すすまず、血環ること遅、凝って病となる。──これを治すには、兵をことごとく上げて土になずますに如くはありませんが、軍船一日も人を欠くべからずです。ゆえに、一策をほどこし、布陣をあらためるの要ありというものです。まず大小の船をのこらず風浪少なき湾口のうちに集結させ、船体の巨きさに準じて、これを縦横に組み、大艦三十列、中船五十列、小船はその便に応じ、船と船との首尾には、鉄の鎖をもって、固くこれをつなぎ、環をもって連ね、また太綱をもって扶けなどして、交互に渡り橋を架けわたし、その上を自由に往来なせば、諸船の人々、馬をすら、平地を行くが如く意のままに歩けましょう。しかも大風搏浪の荒日でも、諸船の動揺は至って少なく、また軍務は平易に運び、兵気は軽快に働けますから、自然、病に臥すものはなくなりましょう」
「なるほど、先生の大説、思いあたることすくなくありません」
と、曹操は、席を下って謝した。龐統は、さり気なく、
「いや、それも私だけの浅見かもしれません。よく原因を探究し、さらに賢考なされたがよい。お味方に病者の多いなどは、まず以て、呉のほうではさとらぬこと。少しも早く適当なご処置をとりおかれたら、かならず他日呉を打ち敗ることができましょう」
「そうだ、このことが敵へもれては……」と、曹操も、急を要すと思ったか、たちまち彼の言を容れて、次の日、自身中軍から埠頭へ出ると、諸将を呼んで、多くの鍛冶をあつめ、連環の鎖、大釘など、夜を日についで無数につくらせた。
龐統は、悠々客となりながら、その様子をうかがって、内心ほくそ笑んでいたが、一日、曹操と打ち解けて、また軍事を談じたとき、あらためてこういった。
「多年の宿志を達して、いまこそ私は名君にめぐり会ったここちがしています。粉骨砕身、この上にも不才を傾けて忠節を誓っております。ひそかに思うに、呉の諸将は、みな周瑜に心から服しているのは少ないかに考えられます。周都督をうらんで、機もあればと、反り忠をもくろむもの、主なる大将だけでも、五指に余ります。それがしが参って三寸不爛の舌をふるい、彼らを説かば、たちまち、旗を反して、丞相の下へ降って来ましょう。しかる後、周瑜を生け捕り、次いで玄徳を平げることが急務です。──呉も呉ですが、玄徳こそは侮れない敵とお考えにはなりませんか」
そのことばは、大いに曹操の肯綮にあたったらしい。彼は、龐統がそう云い出したのを幸いに、
「いちど呉へかえって、同志を語らい、ひそかに計をほどこして給わらぬか。もし成功なせば、貴下を三公に封ずるであろう」と、いった。
ここが大事だ! と龐統はひそかに警戒した。まんまと詐りおおせたと心をゆるしていると、案外、曹操はなお──間ぎわにいたるまで、こっちの肚を探ろうとしているかも知れない──と気づいたからである。
で、彼は、曹操が、
(成功の上は、貴下を三公に封ずべし)というのを、言下に、顔を横に振って見せながら、
「思し召はありがとうございますが、私はかかる務めを、目前の利益や未来の栄達のためにするのではありません。ただ民の苦患をすくわんがためです。どうか丞相が呉軍を破って、呉へ攻め入り給うとも、無辜の民だけは殺さないようにお計らい下さい。そればかりが望みです」
と、ことばに力をこめて云った。
曹操も、その清廉を信じて、彼の憂いをなぐさめ顔にいった。
「呉の権力は討っても、呉の民は、すぐ翌日から曹操にとっても愛すべき民となるものだ。なんでみだりに殺戮するものか。そのことは安心するがいい」
「天に代って道をしき、四民を安んじ給うを常に旨とされている丞相のこと。丞相のお心は疑いませんが、何といっても、大軍が目ざす敵国へなだれ入るときは、騎虎の勢い、おびただしい庶民が災害に会っています。いま仰せをうけて江南に帰るに際し、なにか丞相のお墨付でも拝領できれば、小家の一族も安心しておられますが」
「先生の一族はいま何処に居住しているのか」
「荊州を追われ、ぜひなく呉の僻地におります。もし丞相から一礼を下し置かれれば、兵の狼藉をまぬかれ得ましょう」
「いと易いこと」と、曹操はすぐ筆をとって、当手の軍勢ども、呉へ入るとも、龐統一家には、乱暴すべからず、違背の者は斬に処す──と誌し、大きな丞相印を捺して与えた。
龐統は心のうちで、彼がこれまでのことをする以上は、彼もまったく自分の言にすっかり乗ったものと思ってもいいなと思った。しかしそのほくそ笑みをかくして、あくまでさあらぬ態をまもり、
「では行ってきます」と、恩を謝して別れた。
「周瑜に気どられるなよ」と、幾たびも念を押しながら、曹操は自身で営門まで見送ってきた。龐統は別れを惜しむかの如く、幾たびも振り返りながら、やがて外陣の柵門をすぎ、江岸へ出て、そこにある小舟へ乗ろうとした。
するとさっきから岸の辺に待ちうけていたらしい男が、この時、つと楊柳の陰から走り出して、
「曲者、待て」と、うしろから抱きついた。
龐統は、ぎょっとして、両の脚を踏んばりながら振り向いた。
その者は、身に道服を着、頭に竹の冠をいただいている。そして怖ろしい剛力だった。いかに身をもがいてみても、組みついた腕は、びくともしないのであった。
「曹丞相の客として、これに迎えられ、いま帰らんとするこの方にたいして、曲者とは何事だ、狂人か、汝は!」
叱りつけると、男は、満身から声をふりしぼって、
「白々しい勿体顔。その顔、その弁で、丞相はあざむき得たかも知れんが、拙者の眼はだまされぬぞ。──呉の黄蓋と周瑜がたくみに仕組んだ計画のもとに、先には苦肉の計をなして、闞沢を漁夫に窶して送り、また蔡仲、蔡和などに書面を送らせ、いままた、汝、呉のために来て、大胆不敵にも丞相にまみえ、連環の計をささやいたるは、後日の戦いに、わが北軍の兵船をことごとく焼き払わんという肚に相違ない。──何でこのまま、江南に放してよいものか。さあもう一度中軍へ戻れ」
ああ、百年目。
大事はここに破れたかと、龐統はたましいを天外に飛ばしてしまった。
彼は観念の眼を閉じた。
万事休す──いたずらにもがく愚をやめて、龐統は相手の男へいった。
「いったい何者だ、おぬしは? 曹操の部下か」
「もとよりのこと」と男は、彼のからだを後ろから羽交い締めにしたまま、
「──この声を忘れたか。この俺を見わすれたか」と重ねて云った。
「何? 忘れたかとは」
「徐庶だよ、俺は」
「えっ、徐庶だと」
「水鏡先生の門人徐元直。貴公とは、司馬徽が門で、石韜、崔州平、諸葛亮などの輩と、むかし度々お目にかかっている筈──」
「やあ、あの徐君か」と、龐統はいよいよ驚いて、彼の両手から、その体を解かれても、なお茫然立ちすくんで、相手のすがたを見まもりながら、
「徐庶徐庶。君ならば、この龐統の意中は知っているはずだ。わが計を憐れめ。もし貴公がここでものをいえば、この龐統の一命はともかく、呉の国八十一州の百姓庶民が、魏軍の馬蹄に蹂躙される憂き目におちるのだ──億兆の呉民のために、見のがしてくれ」と、哀願した。
すると、徐庶は、
「それはそっちの云うことでしょう。魏軍の側に立っていえば、呉の民は救われるか知らぬが、あなたをここで見のがせば、味方八十三万の人馬はことごとく焼き殺される。殲滅的な憂き目に遭う。──豈、これも憐れと見ずにはおられまいが」
「ううむ。……ここで君に見つかったのは天運だ。いずれともするがいい。もともと、自分がこれへ来たのは、一命すらない覚悟のうえだ。いざ、心のままに、殺すとも、曹操の前へひいて行くともいたせ」
「ああさすがは龐統先生」と徐庶は、その顔色も全身の構えも、平常の磊落な彼にかえって、
「もう、ご心配は無用」と、微笑した。そして、「実を申せば、以前、それがしは新野において、劉皇叔と主従のちぎりを結び、その折うけたご厚恩は今もって忘れ難く、身は曹操の陣へおいても、朝暮、胸に銘記いたしておる。──ただこれ一人の老母を曹操にとらわれたため、やむなくその麾下に留まっていたものの、今はその老母も相果ててこの世にはおりません。……が皇叔とお別れの折、たとえ曹操のもとへ去るとも、一生のあいだ、他人の為には、決して計を謀らずと、かたくお約束いたしてきた。故に、それがしこの陣にあって、先頃から曹操の許へ、ひそかに往来ある呉人の様子をうかがって、ははあ、さてはと、独り心のうちでうなずいてはいたが、誰にも、その裏に裏のあることは語らずにいたのです」
と、初めて本心を打ち明け、龐統の驚きをなだめたが、さて困ったように、その後で相談した。
「……ですから、拙者は、何も知らない顔をしているが、やがて貴兄が呉へかえって、連環の計、火攻めの計など、一挙にその功を挙ぐるにいたれば、当然、かくいう徐庶が、魏の陣中にあって、焼き殺されてしまう。何とか、これを未然に遁れる工夫はないものでしょうか」
「それはいと易いことだ」と、龐統は、耳に口をよせて、何事かささやいた。
「なるほど、名案!」
徐庶は、手をうった。それを機に、龐統は舟へとび乗る。──かくて二人は、人知れず、水と陸とに、別れ去った。
程なく、曹操の陣中に、誰からともなく、こういう風説が立ち始めた。それは、
「西涼の馬超が、韓遂と共に、大軍を催して、叛旗をひるがえした。都の留守をうかがって、今や刻々、許都をさして進撃している……」
というまことしやかな噂で、遠征久しき人心に多大な衝動を与えた。
都門をさること幾千里。曹操の胸には、たえず留守の都を憶う不安があった。
西涼の馬超、韓遂の徒が、虚をついて、蜂起したと聞いたせつな、彼は一も二もなく
「たれか予に代って、許都へ帰り、都府を守る者はないか。風聞はまだ風聞に過ぎず、事の実否は定かではないが、馳せ遅れては間にあわん。──誰ぞ、すぐにでも打ち立てる面々は名乗って出よ」と、群臣を前にしていった。
「拙者が赴きましょう」
すすんでその役目を買って出たのは徐庶であった。他の諸将は、この呉を前にしてのこの大戦に臨みながら、都へ帰るのはいさぎよしとしないような面持で誰も黙っていたところである。曹操は快然とうなずいて、
「徐庶か。よしっ、行け」と迅速に直命した。
「かしこまりました。身不肖ながら、叛軍いかに気負うとも、散開に斬りふさぎ、要害に守り支え、もし急変があればふたたび速報申しあげます」
と、頼もしげに云い放ち、即刻三千余騎の精兵をひきいて都へ馳せ上った。
「まず、彼が行けば」
と曹操は、一応安心して、さらに、呉を打破ることへ思いを急にした。
時。建安十三年の冬十一月であった。
風しずかに、波ゆるやかな夜なればとて、曹操は陸の陣地を一巡した後旗艦へ臨んだ。その大船の艫には、「帥」の字を大きく書いた旗を立て、弩千張と黄鉞銀鎗を舷側にたてならべ、彼は将台に坐し、水陸の諸大将すべて一船に集まって、旺なる江上の宴を催した。
大江の水は、素絹を引いたように、月光にかすんでいた。──南は遠く呉の柴桑山から樊山をのぞみ、北に烏林の峰、西の夏口の入江までが、杯の中にあるような心地だった。
「ああ楽しいかな、男児の業。眸は四遠の地景をほしいままにし、胸には天空の月影を汲む。俯して杯をとれば、滾々湧くところの吟醸あり、起って剣を放てば、すなわち呉の死命を制す……じゃ。呉は江南富饒の土地である。これをわが手に享けるときは、かならず今日予とともに力を尽す諸将にも長くその富貴をわけ与えるであろう。諸員それ善戦せよ。この期をはずして悔いをのこすな」
曹操は、大杯をかさねながら、こう諸大将を激励し、意気虹の如くであった。
諸将もみな心地よげに、
「われわれが長き鍛錬を経、また、君のご恩沢に甘んじてきたのも一に今日に会して恥なからんためであります。何で、おくれをとりましょうや」
と、武者ぶるいしながら、各〻杯の満をひいた。
酔いが発すると、曹操は、久しく眠っていた彼らしい情感と熱とを、ありありと眸に燃やしながら、
「みな、彼方を見ないか」
と、呉の国の水天を指さした。
「──あわれむべし、周瑜も魯粛も、天の時を知らず、運の尽きるを知らぬ。彼らの陣中からひそかに予に気脈を通じて来おる者すらある。そうしてすでに呉軍の内輪に心腹の病を呈しておるのだ。いかでわが水陸軍の一撃に完膚あらんや」
曹操は、なおいった。
「これ、天の我を扶くるものである」
と、もちろん彼は士気を鼓舞激励するつもりでいったのである。
が、そばにいた荀攸は、酔をさまして、
「丞相丞相。めったに、さようなことは、お口にはしないものです」
と、そっと袖をひいて諫めた。
曹操は、呵々と肩をゆすぶって、
「この一船中にあるものは、みな予の股肱の臣たらざるはない。舷外は滔々の水、どこに異端の耳があろうぞ」と、気にとめる風もなかった。
興は尽きない。曹操の多感多情はうごいて止まないらしい。彼はまた、上流夏口のほうを望みながら云った。
「呉を討った後には、まだもう一方に片づけなければならんちんぴらがおる。玄徳、孔明の鼠輩だ。いや、この大陸大江に拠って生ける者としては、彼らの存在など鼠輩というもおろか、目高のようなものでしかあるまい。いわんやこの曹操の相手としては」
酒に咽んで、彼は手の杯を下におき、そのまましばし口をつぐんだ。
皎々の月も更け、夜気はきわだって冷々としてきた。いかに意気のみはなお青年であっても、身にこたえる寒気や、咳には、彼も自己の人間たることをかえりみずにはおられなかったのであろう。ふと声を落して、しみじみと語った。
「予もことしは五十四歳になる。連年戦陣、連年制覇。わが魏もいつか尨大になったが、この身もいつか五十四齢。髪にも時々霜を見る年になったよ。だが諸君、笑ってくれるな。呉に討入るときには、予にも一つの楽しみがある。それはそのむかし予と交わりのあった喬公の二娘を見ることだ」
こんな述懐を他人にもらしたことは珍しい。こよいの彼はよほどどうかしていたものと思われる。すっかり興にひたって心もくつろぎ、また彼自身の感傷を彼自身の詩情で霧のような酔心につつんで思わず出たことばでもあろう。
喬家の二女といえば、呉で有名な美人。時来らば江北に迎えんと、曹操はかねて二娘の父なる人にいったことがある。その後、呉の孫策、周瑜が二女を室に迎えたとも聞えているが、彼はまだ未練を捨てきれなかった。もし呉を平げたあかつきには、かの漳水の殿楼──銅雀台に二女を迎えて、共に花鳥風月をたのしみながら自分の英雄的生涯の終りを安らかにしたいものだと、今なお心に夢みているのだった。
諸将は、彼の述懐をきくと、われらの丞相はなお多分に青年なりと、口々に云ってしばしは笑いもやまず、
「加盞加盞」
と彼の寿と健康を祝した。
時に帆檣のうえを、一羽の鴉が、月をかすめて飛んだ。曹操は左右に向って、
「いま鴉の声が、南へ飛んで行きながら啼くのを聞いたが、この夜中に、何で啼くのか」
と、たずねた。
侍臣のひとりが、
「されば、月のあきらかなるまま、夜が暁けたかと思って啼いたのでしょう」と、早速に答えた。
「そうか」
と曹操は、もう忘れている。そしてやおら身を起すと、船の舳に立って、江の水に三杯の酒をそそぎ、水神を祭って、剣を撫しながら、諸大将へさらに感慨をもらした。
「予や、この一剣をもって、若年、黄巾の賊をやぶり、呂布をころし、袁術を亡ぼし、さらに袁紹を平げて、深く朔北に軍馬をすすめ、ひるがえって遼東を定む。いま天下に縦横し、ここ江南に臨んで強大の呉を一挙に粉砕せんとし、感慨尽きないものがある。ああ大丈夫の志、満腔、歓喜の涙に濡る。こよいこの絶景に対して回顧の情、望呉の感、抑えがたいものがある。いま予自ら一詩を賦さん。汝らみな、これに和せよ」
彼は、即興の賦を、吟じ出した。諸将もそれに和して歌った。
その詩のうちに、
月は明らかに星稀なり
烏鵲南へ飛ぶ
樹を遶ること三匝
枝の依るべきなし
という詞があった。
歌い終った後、揚州の刺史劉馥が、その詩句を不吉だといった。曹操は興をさまされて赫怒し、立ちどころに剣を抜いて劉馥を手討ちにしてしまった。酔いがさめてからそれと知った彼はいたく沈痛な顔をしたが、その後悔も及ばず、子の劉煕に死骸を与えて厚く故郷へ葬らせた。
数日の後。
水軍の総大将毛玠、于禁のふたりが、曹操の前へ来て、謹んで告げた。
「江湾の兵船は、すべて五十艘六十艘とことごとく鎖をもって連ね、ご命令どおり連環の排列を成し終りましたれば、いつご戦端をおひらきあるとも、万端の手筈に狂いはございません」
「よし」
すなわち曹操は、旗艦に上がって水軍を閲兵し、手分けを定めた。
中央の船隊はすべて黄旗をひるがえし、毛玠、于禁のいる中軍の目印とする。
前列の船団は、すべて紅旗を檣頭に掲げ、この一手の大将には、徐晃が選ばれる。
黒旗の船列は、呂虔の陣。
左備えには、翩々と青旗が並んで見える。これは楽進のひきいる一船隊である。
反対の右側へは、すべて白旗を植え並べていた。その手の大将は夏侯淵。
また。
水陸の救応軍には、夏侯惇、曹洪の二陣がひかえ、交通守護軍、監戦使には、許褚、張遼などの宗徒の輩が、さながら岸々の岩を重ねて大山をなすがごとく、水上から高地へかけて、固めに固めていた。
曹操は小手をかざして、
「今日まで、自分もずいぶん大戦に臨んだが、まだその規模の大、軍備の充溢、これほどまで入念にかかった例しはない」
われながら旺なる哉と思い、意中すでに呉を呑んでいた。
「時は来た」と、彼は、三軍に令した。
即日、この大艦隊は、呉へ向って迫ることになった。
三通の鼓を合図に、水寨の門は三面にひらかれ、船列は一糸みだれず大江の中流へ出た。
この日、風浪天にしぶき、三江の船路は暴れ気味だったが、連環の船と船とは、鎖のために、動揺の度が少なかったので、士気は甚だふるい、曹操も、
「龐統の献言はさすがであった」と、歓びをもらしていた。
だが、風浪がやまないので、全艦艇は江を下ることわずか数十里の烏林の湾口に碇泊した。この辺までも陸地は要塞たることもちろんである。そしてここまで来ると、呉の本営である南の岸は、すでに晴天の日なら指さし得るほどな彼方にあった。
「丞相。また不吉なりと、お気にさわるやも知れませんが、ふと、この烈風を見て、心にかかりだしたことがありますが」
程昱がこう彼に云い出したのである。
「何が不安か」
と、曹操が聞くと、
「なるほど、鎖をもって、船の首尾を相繋げばこういう日にも、船の揺れは少なく、士卒の間に船暈も出ず、至極名案のようですが、万一敵に火攻めの計を謀られたら、これは一大事を惹起するのではありますまいか」
「はははは。案ずるをやめよ。時いま十一月。西北の風はふく季節だが、東南の風は吹くことはない。わが陣は、北岸にあり、呉は南にある。敵がもし火攻めなど行えば自ら火をかぶるようなものではないか。──呉に人なしといえ、まさかそれほど気象や兵理にくらいものばかりでもあるまい」
「あ。なるほど」
諸将は、曹操の智慮にみな感服した。何といっても、彼に従う麾下の将士は、その大部分が、青州、冀州、徐州、燕州などの生れで、水軍に不馴れな者ばかりだったから、この連環の計に不賛成をとなえるものは少なかった。
かくて、風浪のやや鎮まるのを待つうちに、もと袁紹の大将で、いまは曹操に仕えている燕の人、焦触、張南のふたりが、
「不肖、幼少から水には馴れている者どもです。ねがわくはわれわれに二十艘の船をかし給え、序戦の先陣を仰せつけ下されたい」と、自身から名乗って出た。
「そちたちは皆、北国の生れではないか。船二十艘を持って、何をやるというのだ。児戯に類した真似をして、敵味方に笑われるな」
と、叱っただけで、曹操は二人の乞いをゆるさなかった。
焦触、張南は大いに叫んで、
「これは心外な仰せです。われらは長江のほとりに育ち、舟を操ること、水を潜ること、平地も異なりません。万一、打ち負けて帰ったら軍法に糺して下さい」
「意気は賞めてつかわすが、何もそう逸って生命を軽んじないでもいい。──それに大船、闘艦はすべて鎖をもってつなぎ、走舸、蒙衝のほかは自由に行動できぬ」
「もとより大船や闘艦を拝借しようとは申しません。蒙衝五、六隻、走舸十数艘、あわせて二十もあればよいのです」
「それで何とする気か」
「張南と二手にわかれて、敵の岸辺へ突入し、呉の気勢をくじいて、このたびの大戦の真先に立ちたいのです」
焦触は熱望してやまない。それほどにいうならばと、ついに曹操も彼の乞いを容れた。
「しかし、二十艘では危ない」
と、大事をとって、別に文聘に三十艘の兵船をさずけ、兵五百をそれに附した。
ここで一応、当時の船艦の種別や装備をあらまし知っておくのも無駄であるまい。大略、説明を加えておく。
闘艦=これは最も巨きくまた堅固にできている。艦の首尾には石砲を備えつけ、舷側には鉄柵が結いまわしてある。また楼には弩弓を懸連ね、螺手鼓手が立って全員に指揮合図を下す。ちょうど今日の戦闘艦にあたるものである。
大船=と呼ぶふつう兵船型のものは、現今の巡洋艦のような役割をもつ。兵力軍需の江上運輸から戦闘の場合には闘艦の補助的な戦力も発揮する。
蒙衝=船腹を総体に強靱な牛の皮で外装した快速の中型船。もっぱら敵の大船隊の中を駆逐し、また奇襲戦に用いる。兵六、七十人は乗る。
走舸=これは小型の闘艦というようなもの、積載力二十人あまり、江上一面にうんかの如く散らかって、大船闘艦へ肉薄、投火、挺身、あらゆる方法で敵を苦しませる。
──このほかにもなお、雑多な船型や、大小の種類もあるが、総じて船首の飾りや船楼は濃厚な色彩で塗りたて、それに旌旗や刀槍のきらめきが満載されているので、その壮大華麗は水天に映じ、言語を絶するばかりである。
さて──。
呉の陣営のほうでも、決戦の用意おさおさ怠りなかった。駈けちがい駈けちがい軽舸のもたらしてくる情報はひきもきらない。
また、附近の山のうえには、昼夜、物見の兵が江上に眼を光らし、芥の流れるのも見のがすまいとしていた。
今。──そこに監視していた部将と兵の一団が、突然、
「来たっ」
「おうっ、敵の船が」
と、大きく叫んだかと思うと、だだっと駈け降りて来て、周都督の本陣のうちで呶鳴っていた。
「二列、二手にわかれた敵の蒙衝と走舸が、波をついて、こなたへ襲せてきます。敵です! 敵です!」
それと共に、山の上からは、物見のあげた狼煙のひびきが、全軍へわたって、急を報らせていた。
「すわ」
周瑜もすぐ轅門に姿をあらわしたが、ひしめく諸将に向って、
「立ちさわぐには及ばん。たかの知れた小船隊だ。たれか進んで、江上に打砕き、序戦の祝いに手柄を立ててみる者はないか」といった。
韓当、周泰のふたりが、
「仰せ、承りました」
と、すぐ江岸から十数艘の牛革船を解き放ち、左右から鼓を鳴らして敵船へ迫って行った。
周瑜は陣後の山へ駈けのぼって行った。望戦台から手をかざして見る。江上の接戦はもう飛沫の中に開かれている。
快速の舟艇ばかり三、四十が入り乱れて矢を射交わしている様子。魏の焦触、張南のふたりは、遮二無二、岸へ向って突進をこころみ、
「第一に陸地を踏んだ者には、曹丞相に申しあげて、軍功帳の筆頭に推すぞ。怯むな面々」
と、声をからして奮戦を励ました。
呉の大将韓当は、それを防ぎ防ぎ自身、長槍を持って一艇の舳に立ち現れ、
「御座んなれ、みな好餌だ」と、横ざまに艇をぶつけて行った。
焦触は、何をとばかり、矛をふるって両々譲らず十数合ほど戦ったが、風浪が激しいため、舟と舟は揉みに揉みあい、勝負はいつ果てるとも見えない。
ところへ、呉の周泰がまた、船を漕ぎよせて、
「韓当韓当。いつまでそんな敵に手間どるのだ」
と、励ましながら、手の一槍を風に乗って、ぶうんと投げた。
敵の焦触は、見事、投げ槍に串刺しにされて、水中へ落ちた。彼の副将張南は、それと見るや、
「おのれっ」と、弩を張って、周泰の舟へ近づきながら、雨あられと矢を向けてきた。
周泰は舷の陰にひたと身を伏せたまま、矢面をくぐって敵艇へ寄せて行ったが、どんと、船腹と船腹のあいだに勢いよく水煙があがったせつなに、おうっと一吼して、相手の船中へ躍りこみ、張南をただ一刀に斬りすてたのみか、その艇を分捕ってしまった。
かくて水上の序戦は、魏の完敗に終り、首将ふたりまで打たれてしまったので、魏の船はみだれみだれて風波の中を逃げちらかった。
「──おう、おうっ、味方の大捷だ。江上戦は有利に展開したぞ」
望戦台の丘に立ってこれを見ていた周瑜の喜色はたいへんなものである。──が、戦況の変はたちまち一喜一憂だ。やがて彼のその顔も暗澹として、毛穴もそそけ立つばかり不安な色を呈して来た。というのは、敗報をうけた曹操が、小癪なる呉の舟艇、一気に江底の藻屑にせん、と怒り立って、そのおびただしい闘艦、大船の艨艟をまっ黒に押し展き、天も晦うし、水の面もかくれんばかり、呉岸へ向って動き出してくる様子なのである。
「ああ、さすがは魏。偉なるかな、その大船陣。われ水軍を督すること十年なれど、まだこんな偉容を水上に見たことはない。いかにしてこれを破るべきか」
眼に見ただけで、周瑜はすでに気をのまれたかたちだった。懊悩戦慄、ほどこすべき術も知らなかった。
すると突然、江上の波は怒り、狂風吹き捲いて、ここかしこ数丈の水煙が立った。そして曹操の乗っている旗艦の「帥」字の旗竿が折れた。
「──あれよ」と、立ち騒ぐ江上の狼狽ぶりが眼に見えるようだった。臨戦第一日のことだ。これは誰しも忌む大不吉にちがいない。間もなく連環の艨艟はことごとく帆をめぐらし舵を曲げて、烏林の湾口ふかく引っ返してしまった。
「天の佑けだ。天冥の加護わが軍にあり」
と、周瑜は手をたたいて狂喜した。しかるに、江水を吹き捲いた龍巻は、たちまち一天をかき曇らせ、南岸一帯からこの山へも、大粒の雨を先駆として、もの凄まじく暴れまわって来た。
「あッ」
と、周瑜が絶叫したので、まわりにいた諸大将が仰天して駈けよってみると、周瑜のかたわらに立ててあった大きな司令旗の旗竿が狂風のため二つに折れて、彼の体はその下に圧しつぶされていたのだった。
「おおっ、血を吐かれた」
諸人は驚いて、彼の体をかかえ上げ、山の下へ運んで行ったが、周瑜は気を失ってしまったものらしく途中も声すら出さなかった。
よほど打ち所が悪かったとみえる。周瑜は営中の一房に安臥しても、昏々とうめき苦しんでいる。
軍医、典薬が駈けつけて、極力、看護にあたる一方、急使は、呉の主孫権の方へこの旨を報らせに飛ぶ。
「奇禍に遭って、都督の病は重態におちいった」
と聞え、全軍の士気は、落莫と沮喪してしまった。
魯粛はひどく心配した。呉魏決戦の火ぶたはすでに開かれている折も折だ。早速、孔明の住んでいる船へ出かけ、
「はや、お聞き及びでしょうが、どうしたものでしょうか」と、善後策を相談した。
孔明は、さして苦にする容子もなく、かえって彼に反問した。
「貴兄はこの出来事についてどう考えておられるか」
「どうもこうもありません。この椿事は、曹操には福音であり、呉にとっては致命的な禍いといえるでしょう」
「致命的? ……そう悲観するには当りません。周都督の病たりとも、即時に癒えればよいのでしょう」
「もとよりそんなふうに早くご全快あれば、国家の大幸というものですが」
「いざ、来給え。──これから二人してお見舞してみよう」
孔明は先に立った。
船を下り、驢に乗って、二人は周瑜の陣営奥ふかく訪ねた。病室へ入って見ると、周瑜はなお衣衾にふかくつつまれて横臥呻吟している。──孔明は、彼の枕辺へ寄って、小声に見舞った。
「いかがですか、ご気分は」
すると周瑜は、瞼をひらいて、渇いた口からようやく答えた。
「オオ、亮先生か……」
「都督。しっかりして下さい」
「いかんせん、身をうごかすと、頭は昏乱し、薬を摂れば、嘔気がつきあげてくるし……」
「何がご不安なのです。わたくしの見るところでは、貴体に何の異状も見られませんが」
「不安。……不安などは、何もない」
「然らば、即時に、起てるわけです。起ってごらんなさい」
「いや、枕から頭を上げても、すぐ眼まいがする」
「それが心病というものです。ただ心理です。ごらんなさい天体を。日々曇り日々晴れ、朝夕不測の風雲をくりかえしているではありませんか。しかも風暴るるといえ、天体そのものが病み煩っているわけではない。現象です、気晴るるときはたちまち真を現すでしょう」
「……ウムム」
病人は呻きながら襟を噛み、眼をふさいでいた。孔明はわざと打ち笑って、
「こころ平らに、気順なるときは、一呼一吸のうちに、病雲は貴体を去ってゆきましょう。それ、さらに病の根を抜こうとするには、やや涼剤を用いる必要もありますが」
「良き涼剤がありますか」
「あります。一ぷく用いれば、ただちに気を順にし、たちまち快適を得ましょう」
「──先生」
病人は、起ち直った。
「ねがわくは、周瑜のため、いや、国家のために、良方を投じたまわれ」
「む、承知しました。……しかしこの秘方は人に漏れては効きません。左右のお人を払って下さい」
すなわち、侍臣をみな退け、魯粛をのぞくほか、房中無人となると、孔明は紙筆をとって、それへ、
欲レ破二曹公一宜用二火攻一
万事倶備只欠二東風一
こう十六字を書いて、周瑜に示した。
「都督。──これがあなたの病の根源でありましょう」
周瑜は愕然としたように、孔明の顔を見ていたが、やがてにっこと笑って、
「おそれ入った。神通のご眼力。……ああ、先生には何事も隠し立てはできない」
と、いった。
季節はいま北東の風ばかり吹く時である。北岸の魏軍へ対して、火攻めの計を行なおうとすれば、かえって味方の南岸に飛火し、船も陣地も自ら火をかぶるおそれがある。
孔明は、周瑜の胸の憂悶が、そこにあるものと、図ぼしをさしたのである。周瑜としては、その秘策はまだ孔明に打ち明けないことなので、一時は驚倒せんばかり愕いたが、こういう達眼の士に隠しだてしても無益だとさとって、
「事は急なり、天象はままならず、一体、如何すべきでしょうか」
と、かえって、彼の垂教を仰いだのであった。
孔明は、それに対して、こういうことをいっている。
「むかし、若年の頃、異人に会うて、八門遁甲の天書で伝授されました。それには風伯雨師を祈る秘法が書いてある。もしいま都督が東南の風をおのぞみならば、わたくしが畢生の心血をそそいで、その天書に依って風を祈ってみますが──」と。
だが、これは孔明の心中に、べつな自信のあることだった。毎年冬十一月ともなれば、潮流と南国の気温の関係から、季節はずれな南風が吹いて、一日二日のあいだ冬を忘れることがある。その変調を後世の天文学語で貿易風という。
ところが、今年に限って、まだその貿易風がやってこない。孔明は長らく隆中に住んでいたので年々つぶさに気象に細心な注意を払っていた。一年といえどもまだそれのなかった年はなかった。──で、どうしても今年もやがて間近にその現象があるものと確信していたのである。
「十一月二十日は甲子にあたる。この日にかけて祭すれば、三日三夜のうちに東風が吹き起りましょう。南屏山の上に七星壇を築かせて下さい。孔明の一心をもって、かならず天より風を借らん」
と、彼は云った。
周瑜は、病を忘れ、たちまち陣中を出て、その指図をした。魯粛、孔明も馬を早めて南屏山にいたり、地形を見さだめて、工事の督励にかかる。
士卒五百人は壇を築き、祭官百二十人は古式にのっとって準備をすすめる。東南の方には赤土を盛って方円二十四丈とし、高さ三尺、三重の壇をめぐらし、下の一重には二十八宿の青旗を立て、また二重目には六十四面の黄色の旗に、六十四卦の印を書き、なお三重目には、束髪の冠をいただいて、身に羅衣をまとい、鳳衣博帯、朱履方裙した者を四人立て、左のひとりは長い竿に鶏の羽を挟んだのを持って風を招き、右のひとりは七星の竿を掲げ、後のふたりは宝剣と香炉とを捧げて立つ。
こうした祭壇の下にはまた、旌旗、宝蓋、大戟、長槍、白旄、黄鉞、朱旛などを持った兵士二十四人が、魔を寄せつけじと護衛に立つなど──何にしてもこれは途方もない大形な行事であった。
時、十一月二十日。
孔明は前日から斎戒沐浴して身を浄め、身には白の道服を着、素足のまま壇へのぼって、いよいよ三日三夜の祈りにかかるべく立った。
──が、その一瞬のまえに、
「魯粛は、あるや」と、呼ばわった。
壇の下からただちに、
「これにあり」と、いう声がした。
孔明はさしまねいて、
「近く寄りたまえ」と、いい、そして厳かに、
「いまより、それがしは、祈りにかかるが、幸いに、天が孔明の心をあわれみ給うて、三日のうちに風を吹き起すことあらば、時を移さず、かねての計をもって、敵へ攻め襲せられるように──ご辺はこの由を周都督に報じ、お手ぬかりのないように万端待機せられよ」と、念を押した。
「心得て候う」とばかり、魯粛はたちまち駒をとばして、南屏山から駈けおりて行った。
魯粛の去ったあとで、孔明はまた壇下の将士に戒めて云いわたした。
「われ、風を祈るあいだ、各〻も方位を離れ、或いは私語など、一切これを禁ず。また、いかなる怪しき事ありとも、愕き騒ぐべからず。行をみだし、法に反く者は立ちどころに斬って捨てん」
彼は──そう云い終ると、踵をめぐらし、緩歩して、南面した。
香を焚き、水を注ぎ、天を祭ることやや二刻。
口のうちで、祝文を唱え、詛を切ること三度。なお黙祷やや久しゅうして、神気ようやくあたりにたちこめ、壇上壇下人声なく、天地万象また寂たるものであった。
夕星の光が白く空にけむる。いつか夜は更けかけていた。孔明はひとたび壇を降りて、油幕のうちに休息し、そのあいだに、祭官、護衛の士卒などにも、
「かわるがわる飯を喫し、しばし休め」と、ゆるした。
初更からふたたび壇にのぼり、夜を徹して孔明は「行」にかかった。けれど深夜の空は冷々と死せるが如く、何の兆もあらわれて来ない。
一方、魯粛は周瑜に報じて、万端の手筈をうながし、呉主孫権にも、事の次第を早馬で告げ、もし今にも、孔明の祈りの験しがあらわれて、望むところの東南の風が吹いてきたら、直ちに、総攻撃へ移ろうと待機していた。
また、そうした表面的なうごきの陰には、例の黄蓋が、かねての計画どおり、二十余艘の兵船快舟を用意して、内に乾し草枯れ柴を満載し、硫黄、焔硝を下にかくし、それを青布の幕ですっかり蔽って、水上の進退に馴れた精兵三百余を各船にわかち載せ、
「大都督の命令一下に」
と、ひそやかに待ち構えていた。
もちろんこの一船隊は、初めから秘密に計を抱いているので、そこでは黄蓋と同心の甘寧、闞沢などが、敵の諜者たる蔡和、蔡仲を巧みにとらえて、わざと酒を酌み、遊惰の風を見せ、そしていかにもまことしやかに、
(どうしたら首尾よく味方を脱して、曹操の陣へ無事に渡り得るか)
と、降伏行の相談ばかりしていたのである。
次の日もはや暮れて、日没の冬雲は赤く長江を染めていた。
ところへ、呉主孫権のほうからも、伝令があって、
「呉侯の御旗下、その余の本軍は、すでに舳艫をそろえて溯江の途中にあり、ここ前線をへだつこと、すでに八十里ほどです」と、告げてきた。
その本陣も、ここ最前線の先鋒も中軍も、いまはただ周瑜大都督の下知を待つばかりであった。
自然、陣々の諸大将もその兵も、固唾をのみ、拳をにぎり、何とはなく、身の毛をよだてて、
「今か。今か」の心地だった。
夜は深まるほど穏やかである。星は澄み、雲もうごかない。三江の水は眠れるごとく、魚鱗のような小波をたてている。
周瑜は、あやしんで、
「どうしたということだ? ……いっこう祈りの験は見えてこないじゃないか。──思うにこれは、孔明の詐り事だろう。さもなければ、つい広言のてまえ、自信もなくやり出したことで、今頃は、南屏山の七星壇に、立ち往生のかたちで、後悔しているのではないかな」
呟くと、魯粛は、側にあって、
「いやいや、孔明のことですから、そんな軽々しいことをして、自ら禍いを求めるはずはありません。もうしばらく見ていてご覧なさい」
「……けれど、魯粛。この冬の末にも近くなって、東南の風が吹くわけはないじゃないか」
ああ、その言葉を、彼が口に洩らしてから、実に、二刻とて経たないうちであった。一天の星色次第にあらたまり、水颯々、雲䬒々、ようやく風が立ち始めてきた。しかもそれは東南に特有な生暖かい風であった。
「やっ? 風もようだが」
「吹いて来た」
周瑜も魯粛も、思わず叫んで、轅門の外に出た。
見まわせば、立て並べてある諸陣の千旗万旗は、ことごとく西北の方へ向ってひるがえっている。
「オオ、東南風だ」
「──東南風」
待ちもうけていたことながら二人は唖然としてしまった。
突然、周瑜は身ぶるいして、
「孔明とは、そも、人か魔か。天地造化の変を奪い、鬼神不測の不思議をなす。かかる者を生かしておけば、かならず国に害をなし、人民のうちに禍乱を起さん。かの黄巾の乱や諸地方の邪教の害に照らし見るもあきらかである。如かず、いまのうちに!」
と、叫んで、急に丁奉、徐盛の二将をよび、これに水陸の兵五百をさずけて、南屏山へ急がせた。
魯粛は、いぶかって、
「都督、今のは何です?」
「あとで話す」
「まさか孔明を殺しにやったのではありますまいね。この大戦機を前にして」
「…………」
周瑜は答えもなく、口をつぐんだ。その面を魯粛は「度し難き大将」と蔑むように睨みつけていた。その爛たる白眼にも刻々と生暖かい風はつよく吹きつのってくる。
陸路、水路、ふた手に分れて南屏山へ迫った五百の討手のうち、丁奉の兵三百が、真っ先に山へ登って行った。
七星壇を仰ぐと、祭具、旗など捧げたものは、方位の位置に、木像の如く立ちならんでいたが、孔明のすがたはない。
「孔明はいずこにありや」と、丁奉は高声にたずねた。
ひとりが答えた。
「油幕のうちにお休み中です」と、いう。
ところへ、徐盛の船手勢も来て、ともに油幕を払ってみたが、
「──おらんぞ」
「はてな?」
雲をつかむように、捜しまわった。
不意に討手の一人が、
「逃げたのだ!」と、絶叫した。
徐盛は足ずりして、
「しまった。まだ、よも遠くへは落ちのびまい。者ども、追いついて、孔明の首をぶち落とせ」
と、喚いた。
丁奉も、おくれじと、鞭打って馬を早めた。麓まで来て、一水の岸辺にかかると、ひとりの男に会った。かくかくの者は通らなかったかと質すと、男のいうには、
「髪をさばき、白き行衣を着た人なら、この一水から小舟を拾って本流へ出、そこに待っていた一艘の親船に乗って、霞のごとく、北のほうへ消えました」
徐盛、丁奉はいよいよあわてて、
「それだ。逃がすな」
と、相励ましながら、さらに、長江の岸まで駈けた。
満々と帆を張った数艘が、白波を蹴って上流へ追った。
そしてたちまち先へ行く怪しい一艘を認めることができた。
「待ち給え、待ち給え。それへ急がるる舟中の人は、諸葛先生ではないか。──周都督より一大事のお言づけあって、お後を追って参った者。使いの旨を聞きたまえ」
と、手をあげて呶鳴った。
すると果たして、孔明の白衣のすがたが、先にゆく帆の船尾に立った。そして呵々と笑いながら此方へ答えた。
「よう参られたり、お使い、ご苦労である。周都督のお旨は承らずとも分っておる。それよりもすぐ立ち帰って、東南の風もかく吹けり、はや敵へ攻めかからずやと、お伝えあれ。──それがしはしばらく夏口に帰る。他日、好縁もあらばまたお目にかからん」
声──終るや否、白衣の影は船底にかくれ、飛沫は船も帆もつつんで、見る見るうちに遠くなってしまった。
「逃がしては!」と、徐盛は、水夫や帆綱の番を励まして、
「追いつけ。孔明の舟をやるな」と、舷を叩いて励ました。
先へ舟を早めていた孔明は、ふたたび後から追いついて来る呉の船を見た。孔明は、笑っていたが、彼と船中に対坐していた一人の大将が、やおら起って、
「執念ぶかい奴かな。いで、一睨みに」
と、身を現して、舷端に突っ立ち、徐盛の舟へ向って呼ばわった。
「眼あらば見よ、耳あらば聞け。われは常山の子龍趙雲である。劉皇叔のおいいつけをうけて、今日、江辺に舟をつないで待ち、わが軍の軍師をお迎えして夏口に帰るに、汝ら、呉の武将が、何の理由あって阻むか。みだりに追い来って、わが軍師に、何を働かんといたすか」
すると、徐盛も舳に立ち上がって、
「いやいや、何も諸葛亮を害さんためではない。周都督のお旨をうけ、いささか亮先生に告ぐる儀あり。しばらく待ち給えというに、なぜ待たぬか」
「笑止笑止。その物々しい武者どもを乗せて、害意なしなどとは子どもだましの虚言である。汝らこれが見えぬか」と、趙子龍は、手にたずさえている強弓に矢をつがえて示しながら、
「この一矢を以て、汝を射殺すはいとやすいが、わが夏口の勢と呉とは、決して、対曹操のごときものではない。故に、両国の好誼を傷つけんことをおそれて、敢て、最前から放たずにいるのだ。この上、要らざる舌の根をうごかし、みだりに追いかけて来ぬがよいぞ」
と、大音を収めたかと思うと、とたんに、弓をぎりぎりとひきしぼって、徐盛のほうへ、びゅっと放った。
「──あっ」と、徐盛も首をすくめたが、もともとその首を狙って放った矢ではない。矢は、彼のうえを通り越して、うしろに張ってある帆の親綱をぷつんと射きった。
帆は大きく、横になって、水中に浸った。そのため、船はぐると江上に廻り、立ち騒ぐ兵をのせたまま危うく顛覆しそうに見えた。
趙雲は、からからと笑って、弓を捨て、何事もなかったような顔して、ふたたび孔明とむかい合って話していた。
水びたしの帆を張って、徐盛がふたたび追いかけようとした時は、もう遠い煙波の彼方に、孔明の舟は、一鳥のように霞んでいた。
「徐盛。むだだ。やめろやめろ」
江岸から大声して、彼をなだめる者があった。
見れば、味方の丁奉である。
丁奉は、馬にのって、陸地を江岸づたいに急ぎ、やはり孔明の舟を追って来たのであるが、いまの様子を陸から見ていたものと見え、
「とうてい、孔明の神機は、おれ達の及ぶところでない。おまけに、あの迎えの舟には、趙雲が乗っているではないか。常山の趙子龍といえば、万夫不当の勇将だ。長坂坡以来、彼の勇名は音に聞えている。この少ない追手の人数をもって、追いついたところで、犬死するだけのこと。いかに都督の命令でも、犬死しては何もならん。帰ろう、帰ろう、引っ返そう」
手合図して、駒をめぐらし、とことこと岸をあとへ帰って行く。
徐盛もぜひなく、舟をかえした。そして事の仔細を、周瑜へ報告すると、
「また孔明に出し抜かれたか」と、彼は急に、臍をかむように罵った。
「これだから自分は、彼に油断をしなかったのだ。彼は決して、呉のために呉の陣地へ来ていたのではない。──ああ、やはり何としてでも殺しておけばよかった。彼の生きているうちは、夜も安らかに寝られん」
一度は、深く孔明に心服した彼も、その心服の度がこえると、たちまち、将来の恐怖に変った。いっその事、玄徳を先に討ち、孔明を殺してから、曹操と戦わんか。──などと云い出したが、
「小事にとらわれて、大事を棄つる理がありましょうか。しかも眼前に、あらゆる計画はもうできているのに」と、魯粛に諫められて、迂愚ではない彼なので、たちまち、
「それは大きにそうだ!」
と、曹操との大決戦に臨むべく、即刻、手分けを急ぎだした。
底本:「三国志(四)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1989(平成元)年4月11日第1刷発行
2008(平成20)年12月1日第54刷発行
「三国志(五)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1989(平成元)年4月11日第1刷発行
2010(平成22)年5月6日第56刷発行
※「輌」と「輛」の混在は底本通りです。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2013年7月11日作成
2015年7月24日修正
青空文庫作成ファイル:
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