鳴門秘帖
鳴門の巻
吉川英治
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さて、その後またどうしたろうか、お千絵様は?
かの女の今の環境はしずかであった。爽やかな京の秋がおとずれている。
部屋の前はひろい河原で、玉砂利と雑草とを縫う幾すじもの清冽は、加茂の水と高野川の末がここで落ちあっているのだと、和らかい京言葉をもつ小間使に教えられた。
そこは、京の下加茂にある、所司代の茶荘であった。柳の並木を境に、梶井伏見家などの寮園があり、森の隣には日光別坊の屋根が緑青をのぞませている。
河原に向った数寄屋作りは、お千絵のために建てたように居心地のピッタリ合った部屋だった。
お千絵はそこの窓から、毎日、加茂の水を見ていた。今も、侍女とは口もきかずに、じっと、そうしているのである。
「弦之丞様……弦之丞様は?」
と、ひねもす河原に啼いている虫とひとつに、思いつめて水を見ている。
しかし、その愛人の消息はおろか、まだ自分自身の境遇さえ、いったい、どう変って、どこへ向っているのか、夢のようで思い当たれないお千絵であった。
病気は、江戸にいた頃から、少しずつよくなっていたので、墨屋敷以来のことは、かすかに想像がついた。けれど、周囲の者は、あの乱心が二度ぶり返ってきたら、こんどこそは癒るまいと医者の注意をうけているので、何をたずねても、肝腎なことは、少しも話してくれなかった。
「お千絵様、殿様はいつもこうおっしゃっておいででございます──」と、そばに侍く小間使がいうのである。
「ある時節がまいりますまで、あなたは松平家の御息女のおつもりで、夏は夏を、秋は秋をたのしんで、気を賑やかに、わがままに、こうしておいでになればよろしいのじゃと……」
「だって私は……」とお千絵は、慰められる言葉にいつも気が沈んで……。
「そんな気もちになっていられませぬ」
「なぜでございますか。殿様の仰せつけ、お気がねはいりませぬのに」
「でも、誰ひとりとして、私のたずねることに、はっきり返辞をしてくれたことがない」
「それは、お千絵様、あなたのお体を思うからでございます」
「……じゃあ私は……といっても、また教えてくれないかも知れぬが、どうして、この京都へくるようになったのでしょう?」
「別に深い意味でございませぬ。あなた様のお体を預かっている松平左京之介様が、京都の所司代にお更役になったので、それにつれて私たちまで、江戸のお下邸からこちらへ移ってまいりました」
「そして、よく私を慰めて下さった、常木鴻山様は?」
「御用があって、大阪表へお越しになったとやら? ……それもよくは存じませぬが」
「じゃ、そなた、万吉という人を知りませぬか」
「存じませぬ」
「お綱という人の噂は?」
「聞いたこともございませぬ」
「では……法月弦之丞という方の御様子を、どこかで耳にしたことはないかえ?」
侍女は困った顔をして部屋の外へ目をそらした。そして、いいものを見つけたように、
「あ、今日もまた、昨日のお客様が奥で殿様をお待ちになっておりまする」
と、お千絵の気をまぎらわそうとして、
「あのお武家様おふたりは、はるばる江戸から御密談で上ったお方でございます。江戸と聞けば、お千絵様もおなつかしゅうございましょう」
と、顔をさし覗いた。
なんの意味もなく、急に涙がさしかけてきたので、お千絵は窓へ顔を逃げた。
侍女が何かの用に立ってゆくのを知った後も、そこにもたれて、この頃の癖のように、加茂の水をみつめていた。ピチ、ピチ、と小魚のはねる流れの瀞に、糺の森をこしてくる初秋の風がさざ波を立てている……。
見る心は違うが、庭向うの別室に来ているふたりの侍も、しきりと、そこから見える四明ヶ岳や、向うの河添いをゆく大原女の群れなどを珍しそうに見廻していた。
ふたりは、昨日京へ着いたばかりの、江戸町奉行の使いであった。その用向きを伝えて二条千本屋敷の所司代を訪れたところ、下加茂の茶荘で逢おうからといわれて、昨日も今日も、ここへ来て左京之介を待つ者であった。
にわかな役替えで、二条城へ移ってきたばかりの左京之介には、公務のうけつぎがつかえていて、体をぬく隙がなかった。ふたりは、今日もおよそ待ちくたびれを覚悟している。
と、その無聊な目が、ふと、お千絵の姿を見出して、
「や、似ている女もあるものではないか」
とささやきだした。
「あの横顔……な、どうだ」
「ウウム、なるほど」
「左京之介様には御息女がなかった。御寵愛の女なら、まさかここへはおくまい。誰だろう、あの女性は?」
「たいそう沈んでいる、憂わしげな姿だ。しかし、いわれてみると、姿まであの書付と同じようではないか」
ふたりは、一種の好奇心をもってうしろに置いた振分をほどき、所司代へ公務をつたえたついでに、京町奉行所へ寄って打合せをするはずの一束の書類を出した。
そして、一枚ひろげたのは、女の人相書である。それをお千絵と見くらべていた。
南町奉行所の用命をおびて江戸から出張してきたふたりの上役人は、急に、振分からとり出した女の人相書と、庭向うの小窓によっているお千絵の横顔とを見くらべて、しばらく小首をかしげあっていたが、
「ウーム、似ている」
「生うつしだ!」
と、小声を重ねて、不審がっていた末、
「場所がここでなければ、どんな姿をしていようと、無論、有無をいわすのではないが……」と、ひとりが呟いた。
「役儀がら糺してみなければ気がすまぬが、まさか、松平家の茶荘に、女掏摸がアアしている筈はないからの」
「しかし、念のため、人違いにしろ一応……」と一人が懐疑の誘惑にやまれぬように、とうとう、庭下駄をはいて、お千絵の姿を、もっと間近から見なおそうとした。
ところが、そこへ、左京之介が見えられたという知らせである。で、茶荘の用人が、すぐ別席へと案内に立った。
庭に出ていた者は、あわてて席へ戻り、ひとりのほうもちょっとうろたえて、ひろげていた人相書を振分の下へ挟んでそこへ置いたまま、所司代と逢うべき密室へ通されて行った。
左京之介が待っていた。
智慧伊豆信綱の血をひいている人だけに、どこか才気煥発の風がある。それに今度は、難治の京都へ移って、所司代の要務をみることになったので、かれは寝るまもない忙しさに追われながら、一面得意でもあった。
ふたりは、その前へ、窮屈に手をつかえて、
「南町奉行付の与力、中西弥惣兵衛でございます」
「私めは、評定所与力、熊谷六次郎と申すものにござります」
と、挨拶をした。
ウム、と左京之介はうなずいてみせるだけだった。評定所与力と町与力ふたり組で密使をよこしたのは何か、公然と大目付のくるよりは重要な使いだな、と察している。
案の定、ひとりの与力は肌につけてきた密封の公書を左京之介の前へさしだして、
「評定所七の日の御決定書でございます。御覧の上は、封皮へ御入手のおしるしをいただきとう存じまする」といった。
「大儀だった」
左京之介はその場では読まないで、封皮の黒印だけを切り破り、証を与えてふたりへ返した。
公の密書には返辞がないのが普通である。返辞のいる場合には、改めて別な密使をこっちから立ててやる。或いは、空文を持たせて、本ものはわざと通常の文書の定飛脚にまぎれこませてやったりする例がある。で、内容はとにかく、中西、熊谷、ふたりの役目はそれですんだことになった。
左京之介はその後で、まだ読まない評定所からの書状をもって居間へ入った。
ここは公務の疲れをいやす茶荘で、上屋敷でも下屋敷でもないところから、十分、くつろげる家である。しかし、また二条の役所へ戻る用もあるとみえてかれは袴を解かない。
人なき一室で、とっくりとそれを読んでゆくうちに、かれの眉宇に、ある決意がうごいた。それがもたらした評定所の議決に共鳴した様子であった。
問題は──かれが心ひそかに待っていた蜂須賀家の剔抉であった。阿波へは、ひそかに弦之丞をやってある。将軍家の意思もほぼある程度までうごかしてある。しかし、要路の者たちの議がまとまらないので、かれは、所司代として京都へのぞみながら、まだ充分に、反幕府の癌と睨む公卿たちへ手をのばしかねていた。
ところが、今かれの手へ届いた書状によってみると江戸表にも一つの事件が起こった。長沢町の柳荘堂山県大弐、三千人の門下を擁して、ひそかに、京の堂上方、阿波の蜂須賀、宇治の竹内式部などと気脈を通じて、ある大事を着々とすすめているというのだ。
密訴の者があって、それを知った幕府の老中たちが、今さらのように狼狽している様が、左京之介に見えるようだった。
「迂遠なものだ……」と彼は苦笑して、たびたび、それについて予言したことが、証拠だてられてくるのを愉快に思った。
「しかし、弦之丞はどうしたであろうか。彼さえ、首尾よく戻ってくれば、もう、反逆人どもの機先を制して、徳島城をはじめ天下の野心家どもを、一網に取りくじいでいい時分だが」
と、辛辣な腕のうずきをおぼえた。
「誰じゃ?」
左京之介は不意に立って、廊下を二、三度行き戻りする小侍を呼び止めた。
「は、最前の方でござります」
「最前の?」と、解せぬように反問していると、そこへまた用人のひとりが奥から出てきて、
「どうも見当たりませぬ」
と、左京之介には覚えのないことを復命した。
「なにが、見当たらぬのじゃ」
「はい、只今お帰りになった、江戸表のお役人ふたりが、振分を持ってお帰りでございましたが、その下へ、取り急いで四ツに折った紙片を忘れて行ったと、また戻ってみえたのでござります」
「ふム? ……しかし紙片とは何なのか。あまり漠然ではないか」
「よくお話になりませぬが、なんでも、これから京都町奉行所の方とお打合せをするための人相書だそうでございます」
まがきの萩に、一枚の紙きれが吹きつけられていた。
ひと風さわさわとそよいだら、今にも、萩の枝を離れて加茂の河原へ逃げてゆきそうに、先刻からヒラヒラしている。
いくら座敷をたずねても見当たらない筈であった──風の悪戯? ──こんなところに運ばれていたのである。
青くなって、取りに戻った江戸の与力両名は、ぜひなく、後の発見を用人に頼んで帰ったが、用人は雑事にまぎれてふたりが帰るとともに忘れていた。
で、萩に吹きよせられている紙片は、誰にも探しだされずにあるが、ふと目にとめたのは窓によっていたお千絵様。しかしまた、お千絵は皆がそんなに騒いでいたものとは知らない。
ただ、さっきからの空虚な目のやりばとしていた。
すると。
白い紙きれはまた少しの風に萩の枝を離れて、お千絵の視線を慕ってきた。
「おや?」
かの女は初めて好奇の眼を見ひらいて、竹縁から庭下駄をはいた。そして、元の窓へ返ってきてよく見ると、西判の生紙に美女の顔が描いてある。絵には違いないが、雅味も線の妙味もなくて、おそろしく無駄を省いた人相本にあるような描き方であった。
だがお千絵は、それを見たとたんに不思議とひきつけられて、思いがけない人に逢ったような動悸さえうった。
「どこかで見たようなお方? ……」
と、ジッと見つめていると、単調な線描きの女の顔が、自分に微笑を向けてくるように感じられだした。
魚眼という張りのある眼、彫りのふかい鼻すじ、眉の形、いい唇、個々に見れば見るほど、なおどこかで記憶のある女の顔であった。
その側にはまたこういうことが書いてあった。
──身長並、痩せ形、髪くろく色白、右の眉尻に黒子、他に特徴なし、年二十四、当時無宿、江戸浅草孔雀長屋人別、紋日の虎五郎娘、女賊見返りお綱。
──右兇状の女スリ上方すじへ立廻りたる形跡これあり似より下手人召捕りのせつは人相書照合一応江戸南町奉行まで示達あるべきもの。
「あっ……」
お千絵は針で突かれたような記憶をさました。
駿河台の墨屋敷で、すでに焼け死ぬところを助けだしてくれた恩人! あの紅蓮の火をくぐって、切り破った板壁の穴から、「お千絵様!」と呼びかけた顔を、かの女は今まざまざと眼に浮かべて、唇をふるわせた。
「女スリ? ……あのお綱様が、おそろしい女賊? ……」嘘のような気がする。いや、嘘にちがいないとお千絵は信じた。
現に、自分は、弦之丞の消息を忍ぶにつれて、たえず、この女のことをも忘れたことがなかった。なぜかしらぬが、常にある思慕が燃えている。どうかしてもいちど会いたいと念じている。
その女の人相書であろうとは?
「いまわしい……きっと誰かの悪戯であろう」
お千絵様は口惜しく思った。
「鴻山様のお口が洩れたこともあったが、お綱様とおっしゃるお方は、そんな、悪いお人ではないわけじゃ」
細かに破り裂いて、河原へ捨ててしまおうと思ったが、また、この不愉快な人相書も、あの女の似顔と思えば、慕わしい気も起こって、しばらく膝にのせて眺めていた。
「お千絵様」
いつの間にか、後ろに立っていた小間使のお君が、
「──何を見ていらっしゃいますの? ……」とそばへ坐った。
「こんなものが、あの萩垣根の下に落ちていたので」
「まア! ……」とお君は仰山に、「この女の顔とあなた様と、生うつしでございますよ」
不用意に、突然そういってしまってから、小間使のお君はハッと思った。
お千絵の顔色もうすく変っていた。
「これはあの、さっき、江戸表からお越しになった与力方が、殿様とお話中に見えなくして、たいそうさがしておりました人相書、御用人様へ返してあげて下さいませ」
子供をすかすように取りあげて、せかせかと持って行った素振を、かの女は、いつになくひがんで見ていた。
その晩から、お千絵はまた寝苦しい様子……秋の長夜。
「生うつし!」と口走ったお君の言葉も、妙に心のこだわりとなって、無意味を有意味に考えられてならない。
それに。
周囲の者はみな左京之介に命じられて、かの女にかの女の境遇を知らせまいとしていたが、お千絵の心は、だんだんに、その秘密の霧をとおして、断片的ないろいろの不審を、想像の糸でかがっていた。
そして、おぼろに輪郭を察してきた。
禍いと悩みは知ることから起こりがちなものだ。かの女の心も外へうごきかけている。
──それから四、五日後であった。
「お千絵殿……お千絵殿……」
と、寝所の戸の外で呼ぶものがある。
加茂は暗い深夜であった。
その晩も、寝つかれずに悩んでいたかの女は、また時たって、
「お千絵どの」
と、どこかで呼ぶ声に、つい雨戸を開けた。
見ると──
細い明りがさしたのを知って、すぐ垣の際まで寄ってきた男が、
「こなたへ──」
と、萩の外から顔を伸ばして手招きをしている。
ゾッと身の毛を立てて、お千絵は戸を閉めてしまった。そして、巣にもぐった小鳥のように、おびえた目をして、夜具の中で動悸を抑えた。
真夜半である。河の水音が雨のようだ。
「小間使たちを起こそうかしら……」お千絵はふるえながら考えていた。そして、後悔していた。
「なぜ私はうかつに戸などを開けたのだろう?」と。
しかし、心の迷いがあるから、茫漠としたものへあせる気がうごいているから。という自省はその時お千絵にはなかった。
「今のお方……」
外の男は、そこを去らずに、根よく声をかけていた。
「もし、お千絵殿。弦之丞殿から、頼まれてまいったものだが……」
「えっ、弦之丞様に?」
お千絵はまた起き上がった。
内と外で、しばらく返辞を待つ心が探りあっていた。あたりの虫の音がまたしげく聞かれる程、外の影もジッとしている。
「お千絵どの」
「はい」
釣り込まれるように返辞をしてから、いよいよ身を硬めている。
「わしは山科の僧院にいる寄竹派の普化僧です。同じ僧院に、法月弦之丞というものが近頃まいっておる。彼に逢ってみれば分るが、わしとは別懇な間がら、その宗友に頼まれてきたのですがな」と独語のように外でいう。
「オオ、では……」と皆まで聞かずに、お千絵の恐怖は別なものにおどって、乱れ筥の衣類をかけ、帯を結んで戸を開けなおした。そして、おずおずと竹縁に出ると、
「ぜひ、あなたに会いたいといって、弦之丞殿が待っておられる」
と、向うの影が、前のように手招きした。
お千絵はもう弦之丞自身が、そこへ来ているような気もちに誘われていた。ありあわす小間使の草履をはいたかの女の足は、一寸先の闇に向いて、なんの分別もなかった。
ふらふらと柴折を押して、庭の外へ出てみると、深い天蓋をかぶった虚無僧の姿が、河原のヘリをスタスタと先へ歩いてゆく。
「用があるならば待っていそうなものを」と、お千絵はそこでまたちょっと不審を起こして足を止めた。すると、先の虚無僧の影、ヒラリとふりかえって、
「早く」
と、手を振ってまたさしまねいて行く──。
「もし……」
糸にひかれているように、お千絵は思慮もなく走った。ひとたび闇へ進んだかの女は、闇の怖ろしさを忘れていた。
そして、追いすがらずにはいられない場合のように、
「……弦之丞様は、弦之丞様は?」
と影について息をせいた。
「まだ。まだ。まだ!」
虚無僧は次第に大股になって行った。河原づたいから三本木の仮橋を東へ渡って、少し町屋を離れると、岡崎の畷にかかるさびしい藪のあちらこちらにかまぼこ小屋の影が幾つか見えはじめた。お千絵はもう息がつづかなくなって、
「待って下さいまじ! ……もし!」
と半ば、涙声になって虚無僧の袂にすがりついた。
「なんだい?」
と、対手の声は急に冷たく尖がって、
「黙ってサッサと歩きねえよ。そしたら、やがてお前の好きなお方と逢わせてやる」
「露にしめって、草履の緒が、少しほぐれかけてまいりましたので……」
「じゃ、裸足になりねえな」
「山科の僧院とやらまでは、これからまだ、たんと道のりがございましょうか」
「そうさな」
冷然と、高台寺の黒い峰の背を指さして、
「あの山の向う側だと思えばいい」
「そこの普化宗の僧院にまいれば、あの……弦之丞様が私を待っておいで遊ばすのでございますね?」
「弦之丞?」
突然、その虚無僧、クックッと妙な笑いをこみあげて、
「なるほど、あいつが深い執心だけあって、お千絵様はまるで初心だ。これじゃ、策にのせても一向騙し甲斐がねえな」
みはっている純な眼は、何を嘲られているのか、解せないふうだった。
怪しげな虚無僧姿の男、やがて、白ばッくれた調子で言い放した。
「ナニ、僧院へ行けば弦之丞がいるかって? 誰がそんなことをいったい? 弦之丞なんてやつが今頃そこらにいてたまるものか」
「ええッ」
お千絵は水をかけられたようにすくんだ。
騙された!
そう知って逃げ退こうとした時は、もう自分の腕くびが、固く対手につかまれていた。
「第一、山科に虚無僧寺なんてあったかい? おめえはほんとに、可愛らしいお人形様だ」
「じゃあ……そなたは……」必死に男の指を一本一本もごうとして悶えながら、
「さっき、弦之丞様に頼まれて来たといやったのは、この身を、誘いだす虚言であったのか」
「知れている!」
「ア、あれッ──」
「おッと、お姫様、手を折りますぜ、今になって逃げようたッて、遅蒔だ」
「おのれ、無体なことをしやると……ちッ……離して! 離してッ」
「何も無体はしやしねえ。弦之丞には逢わせかねるが、江戸表以来何人よりは一番そなたに執心だった、人情深い男に逢わせてやろうと思って、この間から、しきりに心を砕いていたんだ」
「……シ、知らぬッ、離せ」
お千絵が帯をさぐるのを、男は冷笑して見ていた。唯一の守り刀は、腕をつかみ取られた途端に、道のむこうへ捨てられていた。
鷲の爪にかかった小鳥の弱さを知ると、お千絵は、今さら屋敷の者に無断で、この真夜中に見知らぬ人間についてきた自分のあさはかが悔いられて、泣くにも泣けぬ心地がした。
「この先はもう岡崎の田圃だ。人通りといえば南禅寺の坊さんか、家といえばかまぼこ小屋があるばかり。救いを呼んだところでムダだからよしたがいい。それよりは、何のために、俺がお前を手招きしたか、そのほうがもっと知りたくはないか。エ、お千絵殿」
「……頼みじゃ、後生じゃ、どうぞ、私をここで帰して下さいませ」
「勝手なことをいうもんじゃない。自分からついてきたんじゃねえか。まあ俺の話を聞け、その上、逃げようとも人を呼ぶとも勝手の思案にしろ」
と、天蓋のかげには怖ろしい眼が光った。
「──江戸墨屋敷にいた当時から、そなたに生涯の恋を賭けている男というのは、近い日のうちに、すばらしい出世の鍵を握って上府することになっている。また、栄達のついでに、宿望の恋人のほうも、ぜひこの際探しだして携えて帰りたいから、支度をして待っていてくれと、実は、こう俺が頼まれているのだ」
男は、そこで言葉の息をついた。
墨屋敷──あの焼けた自分の邸を、どうしてこの人間が知っているのであろうか? お千絵はいよいよ身が縮むようになって、
「どうぞ、情けと思うて、私をここから帰して下さい。加茂のお屋敷を無断で出ては、左京之介様や鴻山様に、申しわけがありませぬ」
と、ありのままの心に叫んだ。
一方は、そんな哀訴に耳もかさないで、
「いいさ、いいさ。末の心配などは、男にすべて任せるこッた」と別な意味にすげ違えて、
「──今もいった通り、そなたを連れて帰ろうという男は、今度徳川家にとってある重大な殊勲をかがやかせて立ち帰るそうだ。そこで安く積っても四千石や五千石の捨扶持と、笹の間詰番頭のお役付が、帰る先にはブラ下がっている。同時にお千絵様と婚礼の式をあげ、昔にまさる駿河台の墨屋敷に納まろうという寸法、それが、彼の宿望なンだ」
と、ニヤリとした。
「──しかし、以上の話だけでは、まだ胸に落ちまいから、彼という人間の姓名だけを洩らしておこう。いいかい、お千絵殿、つまり未来の良人と侍く人の名だぜ──それは、あの旅川周馬さ! おれかい! おれはやはり駿河台にいた組仲間の一人で、彼とは竹馬の悪友だ。けれど、腕こそ立たないが、悪智悪謀、すべてにかけて、周馬はおれの先輩と敬っている男なので、実は前から」
不意に、ぷツリと、言葉を切ったかと思うと、いきなりお千絵の口へ手拭を押しこんだ。
そして、ザワザワと一方の藪へ隠れるとともに、ひとつの四ツ手籠の灯が、白川橋の方角から飛んでくる。
垂れをあげて刀にもたれ、うつらうつらと駕の中の武士、編笠をうつむけて居眠っていたらしいが、そこまで来ると、駕屋の爪先に何かカラリと蹴られた音があったので眼をさまして、
「これ、駕屋」
「へい」
「ちょッと待て、駕をおろせ」
と、不意に足を止めさせた。
「──何か今、息杖の先で、刀の鞘のようなものを蹴りはせぬか」
「さあ? ……」
「でなければ、短刀、そんな物を」
「何しろ、千本屋敷まで急げとおっしゃったんで、夢中で駆けておりましたので」
「ウム、気がつかなかったか。では、その提灯を揚げてみろ。イヤ、この辺へ……」
「へい」
と、棒鼻からはずした提灯を取って、駕屋がそのあたりをかざして見せると、侍は、駕から半身をのり出して、黄色く浮きあがった夜露をジッと眺め廻していた。
笠の紐に、二重に結ばれた頤をさし覗くと、がっしりした中年以上の武家、それは、大阪表から久しく姿を見せずにいた常木鴻山であった。
剣山は常時の態にかえった。
麓のかためも形ばかりに解かれた。
あれから、夜明けに、山を下って龍耳老人が、
「ふたりは、わしが討ってとった」
と、力強くいったことばを、誰とて信じて疑わない。
当然、そうあるべき帰結のように、耳から耳へ瞬伝した。
「隠密を殺せば不吉がおこる、殺してはならぬという蜂須賀家の掟じゃ。それを破って殺してきた。ことのついでと、死骸も谷間へ蹴こんできたが、ほっておいて、後日の咎めを待つよりは、このこと、わしから太守へ御報告に出かけよう」
いったん川島へ帰った老人は、原士仲間へこういって旅装をしなおし、従僕次郎ひとりを連れて、徳島の城下へ出かけて行った。
その途中で、次郎がきいた。
「龍耳軒様」
「ウム」
「どうも私には分りませぬ」
「なにが?」
「剣山のことでございます」
「あの時のわしの処置を知っているのはお前だけだ。面白かろう、徳島の城下へ行って評判するか」
「ど、どういたしまして、決して、おくびにも洩らしは致しません」
「そう秘密にせんでもよろしい。いずれ、今にばれてくる。殺さぬものを殺したといったところで、その人間がいつまで世間を歩かずにはいないからな」
「で、なおのこと、次郎めには、あなた様の心のうちが解せませんので」
「よいではないか、分らなければ分らぬなりで」
「ところが、分らぬこと程、よけいに聞いてみたいので困ります」
「貴様、やはり秘密をしゃべる性だな」
「しゃべらぬつもりでございますが、やはりそんな性に見えましょうか」
「冗談じゃ。お前は口が固い」
「では、お話し下さいませ」
「またか」
「うるさい奴でございます」
「考えてみろよ。分るじゃないか」
「ずいぶん考えておりますが」
「法月弦之丞という男、どうも、わしの気に入ったのさ。好きな人間は殺せまいが、おぬしにしたところでな」
「ははあ、それだけでございますか」
「理由をつければ幾らもある。第一、弦之丞やお綱を殺さぬことは、蜂須賀家のおんため、後にいたっていいことなのだ」
「なぜでございましょう」
「幕府の怒りを少なくする」
「でも公然と、討幕の兵をさえ挙げますのに」
「ところが、それはものにならない。いざとなる間際の日に、必ず、堂上二十七家のうちから、グラつきだす者が出て、禁門お味方と称する西国大名も、素早く旗色を引っこめる。まずそこいらがオチで、後はまた、幾十年かの歳月を待たなければ、ほんとの尊王攘幕の声はあがるまい」
「とすると、お家はどうなりましょう」
「一番損な立場になる。阿波守様のあの御気質がそれを招いた。上手にという技巧をなさらないお方だからな」
「ではなおさら、弦之丞を無事に江戸へ帰すのは、お家の不利でございませぬか」
「あれは江戸の武士であっても徳川家の味方ではない。大義の正しいことを心得ておる人物だ。むずかしくいえば、思想的には尊王家で、身は江戸方に籍を置く人間なのだ。したがって、かれの肉親や周囲のきずなは、みな幕府の人につながっている。かれの沈鬱はそこにある。また、わしの見解があやまったにしろ、ひとりや二人の人物を助けたとて、大勢の上にどれほどな違いを来たすものじゃない。ことに、弦之丞が詳密な報告を江戸にせぬまでも、もう御当家や堂上のもくろみは、うすうす徳川家の気どるところとなっておる。その証拠には京都の所司代が役替えになった。辣腕のきこえある松平左京之介が、二条城へ入れ代ったのは、ひッ腰の弱い公卿たちにとって、おそろしい脅威であろう。まだいけない、機はほんとうに熟してはこない。所詮、阿波守様のお考えはものにはなるまい。そうしてみれば、弦之丞を助けてやったことは、個人として武士道的、また蜂須賀家のおためとしても、決して悪い結果にはならん」
次郎にはわからぬ点もあったが、常に天下の機微をみている老人のことば、ひとつの信仰をもって聞いた。
「悪いというのは、何よりも、この際、無謀な兵をあげてしまうことだ。やってしまってはおしまいだ。幕府に気味悪がられる程度はいいが、弦を放っては万事休す。──で、わしは徳島城へやってきた、何でもかでも、阿波守様に、その無謀を思い止まらせんためじゃ。命がけで諫言する! な、次郎、わかったであろう」
徳島へついてみると、城下はすばらしく景気だっていた、出丸廓の竣工と、おびただしい買上げもので黄金が町へ降っている。
そして、城普請のできた祝いに、城下は五日の踊りがある騒ぎだった。
鳴門音頭、そこぬけ囃子。
一昨日、昨日、今日とつづいている城下の踊りは、夜半にかけても倦むいろなく、絃歌と仮装の踊りの陣が、幾組もいく組も、灯に彩られた徳島の町々を渦にまいて流れていた。
踊りの陣にまじる人は、武士と町人の階級なく、若い娘と後家の恥らいなく、老人も青年も、百姓も船夫も、流行病にかかったように、疲れるまで踊りぬく。
蜂須賀家の名祖蓬庵公以後、二、三代の頃から、国によろこびある時に、こういう習慣ができたという。
「これや、見ておく値打がある」
と、旅川周馬はお十夜をムリに誘って見物に出た。
ふたりは剣山から一緒に帰った竹屋三位卿の屋敷にいる。三位卿の屋敷といっても、めったにかれはそこに落ちついていないが、元槍組頭の住んだ別宅を阿波守から貰っていた。
その日も有村はいない。
城中に祝宴があるので出かけた。出丸廓落成の賜酒である。有村はまた、いい気持で鼓でも鳴らしているのであろう。夜になっても下城しなかった。
で──周馬とお十夜は町へ出かけた。
「踊らないか、周馬」
踊りの輪を眺めながらお十夜が冗談にいうと、周馬は羨ましそうに。
「踊りたいな。踊りたいよ、拙者も」
「踊ったらいいじゃねえか、遠慮はいらない」
「だが、踊れない……」
「でたらめでいいのさ、あの中へ飛びこめば、ひとりでに踊れてくる」
「手振のことじゃない。あの気持になりきれないというのだ。お十夜、お前、踊ってみる気になれるか」
「そうだな……」と考える。
「踊れまい」
「ばかばかしいのが先に立って」
「実はそこに、自分を裸体にさせない気持が潜んでいるからさ。見たまえ、夢中になって踊っている人間は皆ムキ出しの人間だ──」
と、周馬はニキビを押しながら、踊りの流れを軒下へよけて、
「遠い昔は、踊りたいと思えば、いつでも踊るのが人間の当り前な動作で、それを、賢そうな顔をして、冷視している人間なぞはいなかったろうと思うよ」
「そうかな?」
「そうとも、本能だもの」
「くだらねえ講釈、よそうぜ。──踊る阿呆に踊らぬ阿呆、どうせ阿呆なら踊らにゃ損じゃ──って歌っていやがる。なんだか、あてこすられているようだ」
「真理だ、皮肉だ」
「そんなに感服するなら踊れよ、周馬」
「貴公もおれも踊れない人間だ。ああして、何もかも忘れ果てて踊るべく、あまりに屈託があり過ぎる」
「おれや今のところ、屈託も何もねえつもりだが」
「嘘をつけ、お十夜。周馬をそんなに甘くみるな」
「いやにからんだ言い方をする!」
「そうさ、そっちで水臭い真似をするから、拙者にしたって面白くない」
「何をひがんでいるんだ。踊りを見に来て、そんなまずい面をして歩く奴があるもんか。オイ周馬、今夜はおれが奢ろうぜ。松源か、万辰か、淀屋か」
「どこへでも案内してくれ、少し、飲みながら談判がある」
「おそろしい権柄だな、怒るなよ、周馬。死んだ天堂が、草葉の蔭で笑っているぜ──。またあいつが持前を出してジブクッているって──、だが、おれは気の練れた悪玉だ、いくらお前が、駄々をこねたって、天堂みたいに煙管のガン首をほうりもしねえし、その代りにまた、お前のいうことをすなおにきく人間でもねえんだ。まア、つまらねえ不平を持たずに、おれの奢る酒でも飲んで、気のくさくさを取って話すなら話してやろう」
新町川のそばにある浜茶屋へ、孫兵衛は黙って先に入ってしまった。
「ついてくるならついてこい、いやなら帰れ!」そういわないばかりの態度。
周馬の眉間にムッとした色が燃える。が、孫兵衛が強く変ったのを見ると、にわかに、腰の弱い妥協性を出して、
「おい、お十夜お十夜」と、茶屋の門口へまですがってゆき、そこで、
「貴公、何か少し勘ちがいをしている。そう悪くとらんでもいいじゃないか」
また、何かくどくどと言いわけをしているうちに、赤前だれの茶屋の女が、秋草を植えこんだ奥の浜座敷へふたりを案内した。
気まずくなった気持はなかなか溶けないで、孫兵衛も旅川周馬も、黙って、手酌の苦い杯をかさねている。
「なんだか酒がうまくねえ」
こじれたお十夜は、酔うほど青くなり、周馬は胸にいちもつ、かれの狂酔を恐れるように、
「おれが悪かったよ……」
とうつむいていた。
「なにもお前のせいじゃない。おれの気分で、今夜は酒がうまくねえんだ」
周馬が折れて出たので、お十夜の機嫌も少し和らいだ。
「イヤ、拙者があまり愚痴ッぽかった」と、その上にも相手のこじれたふうをなだめて──「重々拙者の狐疑心が悪い。まあ不快を溶いてくれたまえ。酌ごうか、一ツ」
「ウム」
お十夜は不承不承に杯を出したが、幇間のように屈してくる周馬を見ると、それ以上怒れもせず、
「おれや、奥歯に物の挟まったような話は、大嫌いだからな」と、熱いのをグッと乾して、周馬へ渡した。周馬もすぐ応じて酌ぎ返しながら、
「どうも拙者には一ツよくない性格がある。物を明らさまにいえないことだ」
「いったいお前は陰険だ。同じ悪党なら悪党らしく、おれのように図太くなれ」
「まったく拙者は陰険だ。計画的な悪事はやりとげてみせるが、貴公のように、線の太い押しのある真似はできない」
「ばかに今夜は下手に出るぜ」
「いや、これからは、永く貴公の下風に立つよ。どうか弟だと思って、足らないところは遠慮なく叱ってくれ。けれど、お十夜……」
「ウム?」孫兵衛はだいぶ気分をなおして、しきりと、手酌をかさねていた。
「──貴公を兄と慕っているだけに、あれを秘密にしているのは、どう考えても水臭くっていけない。ふたりの友情にヒビの入る原因というものだ」
「何を?」
「剣山でよ」
「剣山で……?」と、孫兵衛はそらうそぶく。
「天堂一角の亡骸を見つけた時、かれの死首がくわえていた一ツの秘冊を、貴公、すばやく懐中へ隠したじゃあないか。その後、どうして拙者に実を明さない」
「何も、秘し隠しにしやしねえ」
「じゃ、見せてくれてもいいではないか」
「それ程、大したものじゃねえというのに、お前もばかにアレを気にしているな」
「それや、拙者にしたって気になるよ。あの洞窟から天堂がつかみだした物は、当然、甲賀世阿弥が何か書き止めておいた重要な遺書に違いないからの……」と、周馬の眼ざしが額ごしに、杯を含んでいる対手へ光った。
「ふン……」と、孫兵衛は薄笑いを含んでいたが、
「じゃ話すが、実は、あれや何の値打もねえものだぜ」
「なぜ?」と、周馬は、思わず鋭くなった自身に気がついて、食慾のない箸の先にわざと小皿の料理を突ッついていた。
「──見たところ、血で書いたような文字が、小法帖の鳴門水図のあきへべた一面に書いてあったが、てんで、読みようのない文言、何が何の意味やら分らねえんだ」
「なるほど、それはそうあるはず。隠密組には、甲賀派、伊賀派、おのおの別な暗語、隠語ができている。世阿弥のものも、おそらくその隠文で綴ってあるに違いない」
「そうか、そりゃ俺も初めて知った」
「だから物は何事も打明けてみるものだよ。して、その一帖は、今も貴公がそこに持っているのか」
「なアに。三位卿をへて太守のお手元へ差し出してしまった」
「また見えすいた嘘をいうぜ」と、周馬は冗談のようにいって、
「そんなにじらさずに、拙者に見せてくれてもいいじゃあないか」
「いや、めったにお前には見せられない。なぜといえば、周馬! おめえはまだ江戸と気脈を通じている! ……」
青白く酔った唇から、匕首のような語句が吹かれて出る。
周馬は黙然と、鯛の眼肉をセセっていた。
孫兵衛は酔ってきた。
「……てめえは口先じゃ、御当家へ推挙してくれの、俺を兄と思っているのと、うめえことをいっているが、ど、どうして! まだなかなか毛色の分らねえ獣だ」
「……それで?」
「と──おれは睨んでいるのさ!」
「ふウン……」
「この間から、俺が黙って様子を見ていれば、京都の山科在へ、二、三度、妙な手紙を出したらしい」
「出している」
「内通していやがるんだろう! 所司代へ出した密書だろうッ」
周馬は対手の酒癖を知っているように、好きに猛らしておいて、冷然と──
「そんなものか、あれあ、色女の用向きだ」
と澄ましていた。
「し、白をきるなッ……周馬」
「酌ごうか、もうひとつ」
「くッ、く……」
「どうしたえ? おい、お十夜孫兵衛殿」
「ううウ……」
「しっかりしたまえ」
「……よ、酔った! あーッ苦しい!」と、孫兵衛、いきなり、膳の上へ、妙な形にかがみこんでしまった。
不意に、部屋の中の灯を周馬が吹ッ消すと、それとともに、水明りの映る浜座敷の丸窓へ、ボウと、ふたりの虚無僧の影法師がさした。
それから一刻もたったろうか。
孫兵衛は胃の腑からこみ上げる苦い唾液をふくんで、ムックリと首をもたげた。
浜座敷のひと間はまッ暗だった。新町川に燃える祭りの灯に、そこの天井板へかすかな波紋がゆれている。
橋を練りわたる踊り手の列や、また、ほかの座敷はみな宵のような賑わいだが、自分のまわりだけが、明りをさらわれて墓場のようだった。
周馬の姿が見えない!
何よりも先に、こう気がついたことで、孫兵衛ははじかれたように突ッ立った。
「あの野郎、悪く下手になっていたが? ……」
かれはあわてて手を鳴らして、仲居を呼ぼうとするらしかった。が、ふと、頭巾の結び目が解けているのに気がついて、
「あっ! ち、畜生」
思わず胴ぶるいをさせて、ドッタリと坐ってしまった。
「うぬ、おれの袖やふところの中まで、すっかり探って行きやがったな……」
と、ハミ出している胴巻や、めくり返されている襟元などを掻きあわせている間に、かれの両眼、焼酎火のような憤怒がトロトロと燃えあがった。
「だ、だれかいねえか! 仲居! やい! 仲居はいねえのか」
──その仲居たちはさっきから、庭先へなだれてきた花笠、手拭、道化面などの人々と一緒に、乱舞の渦にまきこまれ踊り狂っているたけなわなので、孫兵衛のそれほどな呶鳴り方も通らなかった。
「ちぇッ、こうしちゃアいられねえ、悪くすると周馬の野郎め、後へ戻っておれの留守を……」と、わななく怒りの手に、そぼろ助広をつかんだ孫兵衛、いざるようにして縁側へ出たが、そこの沓石へ片足をおろした途端に、ガッと、苦い水が口から走った。
「いけねえ! ……どうもただな痛みじゃねえ。うーム……」と、強気だが、よほど胸苦しいとみえて、縁側に仰むけに寝てしまった。そして、腰の印籠を引ッちぎり、二ツに割って中の薬を頬ばるように口へ入れた。
手を伸ばして、盃洗の水を……。
ゴク、ゴク……と飲み干すと一緒に、指を口にさし入れて、のめるように庭へ下りる。
しばらくかがみ込んでいるうちに、毒気のさめた孫兵衛の顔──白く青味の蔭をもって、常の悪相に加えて、ひときわ鋭い険が立った。
「青二才奴!」
助広をひっさげて走りだした。
茶屋の裏であったか表だったか、出た所すら彼自身知っていない。疾風という勢いであった。
なにせよ、三味、笛、太鼓の囃子、鹿の子や赤い布や笠や手拭が渦巻く町を走っていた。
悪魔そのままな形相をして!
そして、仮の住居、住吉島の屋敷へ飛んで帰った。
門が開かない。
されば周馬と一緒にここを出た時は、召使のない屋敷なので、表門は閂をおろし、裏門から出たのである。当然、開かない筈。
だが、この際、裏門へ廻ってゆくのも面倒と、見越しへ手をのばしてヒラリと跳ね越え、いきなり案じられる一間の外へ駈けて行った。
と──雨戸が一枚はずれている。
三位卿帰ったらしい様子もなし、下男も門番もいないこの家に、先に入ったものがあるとすれば、それは、周馬以外に思いあたる人間はない。
だのに? ──かれが塀を越えると一緒に、その、はずれている雨戸の内から、風のように出ていったのは、ふたりの虚無僧。
たしかに、天蓋、わらじ、鼠木綿の対の姿──。
「やッ? ……」
それは孫兵衛の危惧を五里霧中にさせた。かれはそこに周馬が家探ししている影を、何より心配にして駆け戻ってきた。──だのに、そこから風のごとく消え去ったのは虚無僧のふたり連れ。
「はてな? ……」と、いぶかしさにうたれているまに、虚無僧は開け放しになっている裏門から闇へ走りだしてしまった様子。
あとには、行燈が灯っていた。
とにかく、かれは一応、その部屋の安否をたしかめなければ胸さわぎがしずまらない。そこには、彼が剣山で手に入れた秘帖、世阿弥の血書が隠蔽してある。
周馬にちょっと口を辷らしたとおり、孫兵衛にはあの秘冊に血汐の細字で綴られている隠密組の隠語が読めないのであった。けれど、世阿弥が精血をそそいだ遺書というだけでも、それが、いかに蜂須賀家にとっても幕府にとっても、重大な渦乱をまき起こすひとつの鍵であるかは想像に難くない。
乃至、それをつかむ者には、出世の鍵だ!
どう転んでも、あの鍵をさえ握っていれば、生涯安楽な大禄にありつけることはあきらかだ。
「周馬の奴がジロジロするのもムリはない」
と常に、油断はせずに、肌身を離さずにいると見せて、実は、その部屋の床脇にある、色鍋島の壺の底へ隠しておいたのだ。
「あッ! 盗られたッ──」
部屋へ入るやいなや、何より先に、その壺の中へ手をつっこんだ孫兵衛は、みるまに顔色をかえて叫んだ。
けれど──壺はまったくの空ではなかった。秘帖にかわる別な物が、かれの指先にゴソとさわった。
壺の底には巻紙がまるめ込んであった。
何か? と孫兵衛、ズルズルと畳へ長くひき伸ばしてみると、どうだろう! まるで悪戯書きをしたような大きな文字で、墨黒々、こんな文句がなすってある。
あわれむべき小悪よ!
汝はきょうまで余の手先に踊らされていた悪魔の子分だ!
ういやつ!
秘帖は貰ってゆく!
おれは元来阿波を見物にきた閑人ではない!
一角はこの嘲笑と徒労を知らずに死んだ幸福者!
さらば、余は急がねばならぬ、帰府のゆくてには出世の栄座と恋人と新しき屋敷とが待っているので!
去るにのぞんで名乗っておこうか! おぼえておけ! 大府駿河台墨屋敷の隠密組旅川周馬。
庭前の大石にあたって色鍋島の大花瓶、ガラガラッと粉になって砕けた。真ッ青になったお十夜が、無念のあまり投げつけた力に──。
「岡崎の港だ!」
痛烈な響きを弾みにして、かれは吠えて立った。
だがまた、ふと不審を起こして、巻紙の一端をつかんでみる。
見ると、巻紙には筋目の痕がついてある。だのに、鳥の巣のように丸めこんであったのはなぜだろう?
と怪しむとひとしく、またかれの錯覚を起こしてくるのは、帰った途端に、この部屋から消え去った謎めいた虚無僧の幻影。
周馬が秘帖を盗み去った後へ、あの虚無僧がここへ入り、同じ花瓶に目をつけて、手紙を読みかけているところへ、自分が帰ってきたものと判断すれば、一応前後のつじつまが合うように考えられるが、その虚無僧ふたりが、そも何者で? なんの目途? すべて孫兵衛には見当がつかない。
しかし、今はそれを考えて、前後の処置をとっている落ちつきも時間もなかった。
何はともかく、本土に近い海路の咽喉岡崎の港──撫養街道を駆けぬけて周馬を追い越し、そこできゃつを引っ捕えなければならぬ。
うまうまと永い間、こっちのふところへ飛び込んでいて、あくまで一角や自分へ加担をするとみせかけ、最後のどたん場へ来て、仮面をぬぐやいな、秘帖をさらって逃げたニキビ侍! きゃつを捕えて思いしるほど懲らしめてくれねば、お十夜の腹の虫がおさまらない。
きゃつを油断のならない人物とは、疾くから思わぬのでなかったが、永い道中をともにし、苦艱にも本心をみせず、常に冗談や軽口を言いあうにつれて、
「あいつも、うわべは悪人であるが、真に愛すべきところがあるよ!」
などと、一角がいうので自分までが、いつか周馬を皮相に見、かれの道化の所作を信じたことが不覚だった。
もともと、かれは江戸で、お千絵様という女性を墨屋敷の穴蔵部屋へ押し込めていた当時からして、金箔付の隠密組のひとりという身柄は、こっちも知っていたのに!
返す返すも不覚だった。
といって、もう追いつく沙汰じゃあない。そんな愚痴や繰言は、逃げてゆくきゃつの嘲笑を値打づけるばかりだ。
「くそウ! そう鮮やかな芸当を、まんまとやり遂げさせてたまるものか」
お十夜は、ふたたび、裏門を蹴って町へ走りだした。
城下の辻は夜もすがらの笛だ、太鼓だ! 踊ってる! 踊ってる! 踊ってる! かれが韋駄天と飛んでゆく先、走ってゆく先の町には、必ず幾組もの男女が仮装して、囃子とともに踊りの渦を巻いている。
「ちイッ!」と、かれは歯ぎしりを噛んだ。
まるでこの人間どもは、おれの今を囃していやがる。おれのこの形相を嘲笑っていやがる。
なにが面白い⁉
何がなんで踊りを踊る晩なんだ。
全身はあぶら、額にも汗をしぼって、お十夜の息はあらく苦しげだった。
いきなり、景気のいいひと群れの踊りの輪を駆けぬけた時、かれは、そぼろ助広を抜いていた。
──どッと、孫兵衛の狂気じみた影が、十数間も先へ駆けぬけてから、うしろにあたって、今さらのように、ヒイーッとたまげる声がして、歓楽の人渦はぶっ掛けられたような血を見てさわぎあっていた。
網雪洞にほの暗く照らされた本丸から二の丸への廻廊を、何か、あわただしい声と跫音とがなだれてくる。
「お退りなさい」
「お退りなさい!」
徳島城の奥用人たちは、手をひろげて、ひとりの興奮した老人を、廊下へ押し出してくるのであった。
「殿様は、ただならぬお怒りですぞ」
「お目どおりはならんという御諚!」
「お沙汰をお待ちなさい!」
最前までこの城中も、奥は夜宴に、お表は賜酒の無礼講で、たいそう平和であったのが、この老人ひとりの言葉から、たちまち、凄愴な気が城内にみなぎってしまった。
「邪魔をするなッ」
龍耳老人は額に太い筋を立てていた。
「わしは原士の長、郷高取謁見格、お前たちが退れの、下におれのというのは僭越じゃ。殿様にもう一言いわねばならぬことがある、離せ」
「いや、上意です」
「かまわん! 御立腹をおそれて諫言はできぬ、御当家のために、わしはあえて非礼をするのだ、殿様がまた、病床に臥すまでやッつけてやる」
「なんとおっしゃろうが、お目通りはかないませぬ。老人! あなたも少々気がたかぶっておいでられる」
「ばかな」
「とにかく、お表の間へ退って、ご休息をなさるがよろしい」
家臣たちは頑として老人の意思を拒んだ。そして無理にひと間へつれ込んで錠口を隔ててしまうと、そこへ竹屋三位卿が、おそろしく青ざめた顔色をして通った。
「──殿のおことばを伝えます」
こう言い放して厳格にかまえた。
「…………」
老人は不平にみなぎっていたが、とにかく上意を聞くべく、態度を改めて坐りなおる。
「高木龍耳軒!」
三位卿は読みあげるようにひと息で言った。
「──其方儀、藩の御法を無視し、おのれ一個の我意をもって、弦之丞を逃がしたとは不都合至極、その上御前をおそれぬ暴言、死を与うべきやつなれど、乱心であろうとありがたい御斟酌、即刻、川島へひきとって、後のお沙汰を待っておれ」
それに対して、老人が何か叫ぼうとするまに、有村は身をかわすように、フイと部屋の外へ出てしまった。
大手の玄関へ出てみると、そこにも若侍の多くが右往左往して騒いでいた。
すでに盟約のある公卿大名の密使たちと、手筈をすませて、この秋、将軍家が日光参廟の機会に、大事をあげようと阿波守の目算がすっかりついていたところ──。
そこへ突然、龍耳老人が登城したのであった。目通りに出ると面をおかして、大事の不成功を予言した。そしてその無謀と時機でないことを痛烈に直諫し、あえて、阿波守の意にさからったので、興たけなわであった鳴門舞の夜宴は、殿の激怒と、老人の抗争の声とでめちゃめちゃになってしまったのである。
──で、それからのこの騒動。
何よりも、阿波守や三位卿が驚いたのは、法月弦之丞を逃がしていると老人のいった一言である。
「わたくし一存の信念をもって、御当家後事のおんためと、かれの一命助けました」と、老人は平然と御前で言ってのけた。
乱心者ッ!
阿波守が気色をかえて奥へ立つと、三位卿も鼓をほうりだして、太守の後を追った。
狼狽と困惑は、徳島城を暗澹にした。
奉行所へ、船手組へ、各郡代官所へ、急に手配りを命ずべく、若侍の早馬が次々に大手の橋から城下へわかれる。
その中にまじって、ひとり、有村も阿波守の旨をうけて、別な方角へムチを打った。
撫養街道を真一文字に岡崎の船関へ。
淡路街道と丁字形になる追分から北へ走って、林崎のひろい塩田の闇に、潮焼小屋の竈のけむりが並木越しに白く眺められた頃である。
「あ、あぶないッ」
と有村、突然に手綱をしぼったので、馬は棒立ちになって横へ狂った。
すると、馬蹄をかわしてふりかえったひとりの影、そのまま、ムチを持ちなおして急ごうとする有村の鞍つぼへ飛びかかってきた。
「孫兵衛ではないか」
と、馬上からだしぬけにいわれて、
「お? ……」
と、一方は、暗闇を探るような眼。
あぶなく、悍馬に蹴られるところであった人影は、城下から一散に旅川周馬を追ッかけてきた、お十夜であった。
「どこへゆく? 孫兵衛」
「あ、三位卿。あなたはどこへ?」
「孫兵衛! 実にしまったことが起こった」
有村は気が急いているので、口輪に泡をかませながら馬をグルグル廻していた。
「えっ、何か?」
「されば! 味方の内に思わぬ異端者があって、大事はついにくつがえされたぞ」
「周馬でござろう! 裏切者は」
「イや、原士の長だ」
「えッ、龍耳老人?」
「法月弦之丞を討ったといつわり実は剣山から逃がしおった! あの、お綱という女までも」
と、手綱に口惜しさをふるわせる。
「じゃアあの時……ウーム……」
と呻いたまま、孫兵衛も茫然。
落寞たる夜風がふたりを払ってゆく。
「ちぇッ、いまいましいおやじ」と、孫兵衛は歯ぎしりをかみ鳴らした。
「そして、どういうことになったんで」
「なんといっても、きゃつは原士を自由に動かす権力家、殿のお怒りもなみではないが、目下の場合に内部から騒乱が起こってはならぬと、ひとまず川島へ蟄居を命じ、それより先に、弦之丞めをという手配になった。そこで、わしはこれから岡崎の船関へいそごうと思う」
「ウウム、なんてえ凶い晩だろう。おまけに、まだこっちにも大変なことが起こっていますぜ」
「なに、この上にも、一大事があるッ?」
「周馬のやつが寝返りをうって、この孫兵衛の手もとから、世阿弥が、書き残した秘帖をさらって逃げたんで」
「秘帖? ……」
「法帖形の半面に、鳴門水陣の図がひいてあって、そこへ」
「あ! それは剣山で、わしがいつか落したものだ」
「その余白へいちめんの細字、血汐で書いた隠密の暗号文字。そいつをさらって周馬のやつ、たッた今、風を食らって逃げだしやがった」
「オオ、それも江戸へやっては大変だ」
有村は落馬しそうな目まいを感じながら、拳でこめかみを打っていた。
「察するに、世阿弥の血書は、かれが半生に知り得た阿波の秘密全部であろう。それが幕府の手へ入っては、もう万事休すとせねばならぬ。壮図の覆滅はもちろん、一味堂上の人々、盟約のある諸侯、みな断絶か自滅か、アア、それ以外にえらぶ道はない」
あぶみを踏ン張って悲痛な吐息をもらした。
孫兵衛はその時、住吉島の家で自分と入れちがいに影を消した、ふたりの虚無僧を思いうかべていた。
「もしや、あれが、弦之丞とお綱ではなかったろうか」
いまさら、しきりと、そう考えだせてならない。
「そうだ!」
慄然として毛穴がよだつ。
「──弦之丞とお綱にとっても、なくてはならないあの秘帖だ。ふたりがまだ生命のあるものとすれば、当然、つけ狙っていたろう。ことによると周馬とおれとの話も、どこかで聞かれていたかもしれねえ。そして周馬が家探しをして出た後へふたり忍んでゆき、そこへおれが帰ったんじゃねえかしら? ……」
その想像を足して有村に逐一のことを話していると、さらにまた五、六騎、大地をうってくる蹄の音が、闇の街道を乱れあってきた。
そこに、有村の姿を見ると、
「オオ!」バラバラと馬首をあつめてきて、口々に、各方面の模様を告げる。
城下、諸街道の口、海の要所、すでに十分な手が廻ったが、まだ弦之丞に似よりの者も見当らない。残るは、岡崎口、鳴門の方面。
で、万一の場合を案じて、阿波守から命じられた人々、ここへ三位卿の助勢に追いついてきた。それは、藩のうちでも屈指な剣道家ばかりで、中にただひとり、筑後柳川の藩士がいた。
柳剛流をよく使うことで、斯道のものに相当な敬意を払われている湧井道太郎──四、五日まえに、柳川の使者についてきて徳島城にいあわせた。
周馬のことを城内へ報じるため、中のひとりを徳島へ帰して、三位卿まッ先に急ぎだした。
お十夜はその者の馬を借り、道太郎や他の人々とあとに続く──だが、騎馬にかけては三位卿、めったに余人の追従をゆるさない。
またたくまに岡崎の船関。
「すわ!」
乗りつけてみると案の定、水はここの堤をきったか、関の警鼓が陰々と鳴っていた。
「さては!」
と、馬をすてるが早いか、ばらばらと一同、番所の黒門へかかる。
柵門に常備の六尺がいないので、駆けこんで、波うち際の桟橋に立ってみると、湖水のような土佐泊の内海、どッぷりと暗い水上いったいに、御用提灯をふる無数のかんこ船とかんどり船。
半刻ほど前。
見張のきびしい岡崎の船関をやぶって、対岸水浦へ、矢のように逃げた小舟がある。
関所やぶり!
番所の警板が急をつげると、たちまち無数のかんこ船、捕手のかざす御用提灯の火を盛って、蛍をブチまけたように海上へ散らかった。
浦から浦へそれを伝える太鼓、いんいんと水にひびいてものすごい。
が──その前後に明らさまに手形を示し、鳴門村へ越えたふたりの虚無僧を何人も疑わなかった。かれは明け方に鳴門の渦潮を見物する者と称して、土佐泊へ上陸ったが、そこから忽然と影をかくしていた。
やがて……。
疲れたように警鼓の音もやみ、捕手の灯の数も減るともなく気抜けして、別な方角へ散ってしまった頃。
紀貫之の歌碑がある潮明寺の床下からソロリ……と這いだして、目を光らせ、かがみ腰に、あたりをうかがっている人間がある。
旅川周馬だった。
周馬は、大丈夫──と見る、ソッと立って、貫之堂の端に腰をおろして、足拵えをなおしにかかった。
ポト! と冷やッこい雫が襟もとへ落ちてくる。
びっくりしたように首すじを撫でて上を仰ぐと、松の枝が堂の屋根にかぶさっている。しかし、それを揺するものは静かな潮風。
「ある……ふン……」
周馬はニンマリと笑って、内ぶところへ両手を突っこみ、品物を確かめながらその触覚を楽しんでいるふうだ。
お綱から一角が奪い、一角の死骸からお十夜がかすめ取った世阿弥の秘帖は、とうとう思うつぼに、自分のふところへ転げこんで納まっている。
ふところの体熱は、今、しっかりと幸福の卵をだいて孵している! かれはそう思って、また微笑を禁じ得なかった。
「天堂一角もお十夜も、おれから見れば善人だよ」
周馬はひとりで空うそぶいた。
「いや、世の中自体が甘えもンだ。これでおれが帰府すれば、幕府のやつらは驚嘆して、旅川周馬様の隠密術に礼拝するぜ。お上は御加増、御賞辞とくる。駿河台の世阿弥のあとに宅地をたまわり、栄光一身にあつまってくるンだからありがたい、滑稽だな、皮肉なもんだな、運というサイコロは」
──なんだか彼はおかしさがこみ上げてきた。
「ちょっとした頭の働き──下手か上手かの違いで、骨を折ってヘタばる奴と、楽をしてうまい汁を吸う者とができる。まあよかったよ! これでお千絵様の方さえ首尾よく運んでくれれば、万事上々吉。申し分のないところだが……」
つぶやきながら、そこを立った。
捕手の網も、もうだいぶゆるんでいるとは思ったが、大事をとって忍び忍び潮明寺の門を出ようとすると、
「あっ? ……」
出会いがしら?
ひとりの虚無僧が、ちょうど今、門を入ってこようとした。そして、周馬の姿を見つけたとたんに、飛鳥のごとく後へ戻って、闇へ低く──
「弦之丞様ッ……弦之丞様ッ……」
と、呼びたてている様子。
「やッ? ……」──周馬は度を失った。おぼえのある女の声、そしてたしかに、弦之丞と呼んだ。ふたりはとッくに、龍耳老人の手にかかって、世に亡いものと信じていた旅川周馬。
水をかけられたように、ぎょッとして、元の貫之堂まで、夢中で駆け戻ってきた。
「はてな? ……」とそこで、
「お綱……どうもお綱のようだった。しかし、あいつや弦之丞が生きている理由はないのだが」
と、ジッと生唾をのんですくまっていると、境内を斜めに切って、疾風のように自分の方へ駈けてくるふたつの天蓋が闇をかすッて見える。
周馬はあわててまた逃げ出した。
庫裏の横から裏へ廻ると、そこには永い土塀があった。うしろを見ると、虚無僧ふたり、のがさじという勢いで追いかけてくる。
土塀のそばに一本の椋の木があった。
それへ跳びついて手をかけると、
「周馬ッ、周馬──ッ」
と後ろの者は、もうすぐそこまで飛びこんできた。
「あっ、法月!」
かれの体は栗鼠のように木の枝を回転して、その勢いで、土塀のミネへ片足を伸ばす。
パラパラッと青い椋の実と、そして、椋の葉の露がこぼれた。
途端に。
下へ駈けよった虚無僧の手が、
「待てッ、旅川!」
と、次の片足をつかんだのと、かれが夢中で、椋の枝から手を放したのと一緒だった。
足をつかまれて、土塀の上にしがみついた周馬。
「うぬッ」
抜き落しに、一刀、下の影をサッと薙ぐと、その勢いと、放された不意とで、ドンと土塀の向うがわへ、もんどりうって転げ落ちた。
「お綱ッ──」
という声を頭上で聞いた。
腰をなでている間もない周馬、夢中で走ったかと思うと、また突然、雑木の窪地へドドドドッとすべりこむ。
椋の木の上には、天蓋の虚無僧、すぐその後に、手をのばして叫んでいる。
「お綱ッ、拙者につかまれ!」
「はい」
「手を、手を」
上から引きあげて、枝づたい、土塀へ移るやいな、ふたつの影、ヒラリと外側の闇へとび降りた。
「あ痛ッ……」
塀を越えたはずみに弦之丞、右の肩を椋の枝にはねられて、まだ癒えきらぬ鉄砲傷、抱きしめてキッと唇を噛んだ。
「あ……またそこのお痛みが」
ふと、お綱の声であった。吾にもあらず寄りつくのを、振りもぐようにして眸は先に、
「いや、気づかうなッ」と鋭く──「それよりはあの秘帖を! 秘帖を! ウヌ、旅川周馬ずれに」
と、まッしぐら。
窪地の茂みへ一散に駈け下りて、逃げゆく影をのがさじと追いまくる。
周馬は時々、狐のような目をしてふりかえりながら、
「弦之丞? 弦之丞? 弦之丞?」
と、口の裡で叫びつづけた。どうして彼が生きているのだろう⁉
逃げても逃げても天蓋の影、屈せずに後を慕ってくるので、周馬の元結なしの総髪はベットリと汗にぬれ、頬、耳、手の甲、茨に掻かれた血のすじで赤くなった。
雑木帯の丘の窪を出ると、裸石の層が崖をなしてつづいている。周馬は必死でその石山の背を這って行った。
時々ふところへ手をやった。そして、あることを確かめた。秘帖はいつかしら生命以上の値うちになって、かれに抱きしめられている。
ドドドドブン……ザアーッ……と珠を洗うような波の音。
闇に白くうねうねと鳴門へつづく千鳥ヶ浜。
──二丈あまりの石山の上から、旅川周馬、目をねむって飛びおりた。ザクッと、足が埋まりこんだが、案の定そこは砂地──しめたッ──と躍る姿は海風にばたばた鳴って、つづく限りの波明りに添い、時々、どぶりッと飛沫に足をすくわれながら、無二無三、逃げていった。
「おッ、足痕」
一瞬のまをおいて、同じ波うち際を二ツの影が疾駆する! 潮風が傷に沁みるのか、弦之丞は右腕のつけ根をつかむようにおさえて駈けた。途中で、サッと空へ舞ったのは、風にさらわれたお綱の天蓋──そして夜目にも白いあの素顔は、ふさふさとした黒髪を散らして。
千鳥ヶ浜、二十余町、またたくまに駈けちぢめた。そして、やがてジッと立つならば、鳴門の渦潮百千の鼓の遠音とも聞えるであろう頃。
「あ、あっ!」
と、先の周馬が狼狽した。
行く手をさえぎっている砂山の松木立から、ボカリと浮きだした朱文字の提灯。
問わでわかる船関の役所じるしだ。
「ちぇッ」と周馬、舌うちを鳴らして──「まずい所へ来やがった」
あわてて横へ飛んでそれたが、向うもいちはやく怪しいと知って、かれの先へ廻るようにバラバラと迫ってきた。
振り向けた黄色い明りに、ひと目、対手の影を見ると先は愕然と、
「オオ、関所やぶりの旅川周馬だッ」とうしろへどなった。
そして提灯を振りあげたが、その時、周馬の抜いた大刀は、かがみ腰に横へ流れて、男の胴を通っていた。
「なにッ、周馬だ?」
と三、四人、血煙の立った所へ、砂を蹴ってとんでくると、すばやく、周馬は位置をかわして、かえって、それを追ってきた男女の虚無僧に、
「や、や、やッ!」
偶然! そこで稲妻と稲妻とがぶつかったように、会うやいな、こっちも向うも、パッと後へ飛びひらいて、
「オオ、てめえは弦之丞とお綱だなッ」
と叩きつけるようなお十夜孫兵衛の声であった。
「ウーム」と弦之丞、天蓋をむしり取って、
「──三位卿と孫兵衛であるか!」
「いい所であった」
と、そぼろ助広、抜いて躍らんとする先に、対手は疾風──
「お綱ッ」
と叫んで、それにかまわず、先の周馬を追おうとした。
秘帖をもって逃げる周馬と、剣山を脱してきた弦之丞にお綱。
そのいずれへ向おうか? 瞬間、三位卿は迷ってしまった。
明瞭な分別もなく、大きな声で何か叫んだ。そして自分も疾走しながら、皎刀を手に振っていた。
二、三度、お十夜が斬りつけた時、弦之丞の手からひらめいた刀は左剣であった。
「きゃつ、右の腕が利かないぞ!」
孫兵衛も、三位卿も、柳剛流の使い手、道太郎も、それを知って、ひとしく心強く感じた。
意外な敵が横からひとつ殖えたため、周馬はかえって、そのまに小半町ほど逃げ越していた。しきりと道は登りになる。と思うと──轟ッ──とすさまじい潮の渦鳴り!
崖松をすかして下をのぞくと真っ白だ。乱岩に散る波の銀屑である。そして白い無数の渦潮、或いは青黒い渦である。
そこの岬からひと跨ぎに見える淡路の鳴門崎までの間十五間、飛島、裸島の岩から岩を拾ってゆけば、歩いても渡れそうだが、そうはゆかない。
しかし、関を破って一散に、ここへ逃げてきた周馬である。本土へのがれる確信と相応な用意はしてある筈だ。
ヒュッと何か投げたかと思うと、松にひとすじの縄を廻して、その結び目を送るが早いか、スルスルと断崖を辷って行く──。
そこを降りれば岬の根に、手ごろな舟が幾つもあった。鳴門若布を採る舟である。周馬はヒラリとそれに乗って、大胆にも渦巻く狂浪の中へ突いて出た。有名な大鳴門! おそろしい渦の海峡! そこへなんたる無謀だろうと思われたが、実は彼、この渦潮の海峡を難なくわたる秘密の瀬を知っていた。
どうして? といえば。
最初にそれへ気がついたのが三位卿で、ここの天険に軍船の配置をする場合のため、克明に鳴門一帯を測量した時、水陣図のおぼえ書に、その渦路の秘密も書き加えておいた。
まだ書きかけであった鳴門水陣の一帖は、その後、かれが剣山で落し、甲賀世阿弥の血汐とぎらん草の汁に染まって、転々、今では周馬のふところの裡にある。
で──周馬は怖れ気もなく、木の葉みたいな若布舟を、渦まく海潮へ漕ぎ入れた。
「ざまア見ろ!」
かれは絶壁を仰いで渦の中から嘲笑した。
「あははははッ……もう追ッつくめえ。斬りあえ! 斬り合え! そこで弦之丞とお十夜と、お綱と三位卿とで、双方傷だらけになるまで斬りあっていろ。ばかめッ。そのまにおれは本土へ帰るよ。じゃア阿波の国! おさらばだぜ!」
浪にゆられながら、快を叫んでいたが、旅川周馬、まだよろこぶのは少し早かった。
海蛇のごとき一本の捕縄が、突! あるまじき渦潮の中からおどりだして、櫓をつかんでいる周馬の首へピューッ、水を切って巻きついた。
「あっッ──」
縄をつかむとその力で、舟はグルグル潮に巻かれた。そして飛島の岩の蔭からも、それに曳かれてまた一艘渦に誘われて廻ってくる。
舟と舟をつなぐ不思議な捕縄!
それは渦に巻かれ込みながら、両方の危険を助けあっていた。──しかし、周馬にとってはまったく不意な敵である。致命な縄だ。
「えいッ、畜生」
片手に巻き込んだ捕縄を、いきなり前差で切って払った。
ぶつッと縄が切れてはねる! とたんに周馬その者は、剣光を空にひらめかし、ドンと舟底へもんどりを打つ。
一抹の浪しぶきが、横に砕けて舟影をくるんだかと思うと、どうなったか、その最後は分らずに、周馬の舟は征矢のように流されていった。
「いけねえッ」
と、後の一艘は絶叫している。
「巻かれこんだぞ! 悪い渦に!」
「鈎をッ」
「アっ、岩だ、底を噛まれた」
「なに、大丈夫だ、鈎を早くッ」
「おっと!」
舟の中に、クルクル舞いしていた男ふたり、ひとりがつかんだ鈎綱を、ヤッと一ツの岩へ投げかけた。
幾たびかはずし、幾たびか死神の棲む渦の中心へ誘われようとして、ようようゆるい瀬へのがれ出し、岬の岸へガリガリッと手繰り着けると、
「ウム、しめた!」
と、ひとりはすばやく磯へ飛びあがって、
「今の野郎といい、さっきの、浦一帯の提灯といい、どうもこの辺がちょっと臭い。とにかくおれは様子を見てくるから、後の舟をしっかり頼むぜ」
と、登るたよりもなさそうな絶壁の岩脈をズウと見上げた。
そこを見上げると、周馬が断崖へ垂らしておいた一本の綱が目にとまる。
「おお、今の奴の置き捨てだな」
男はグンと引っぱって試した上に、それへつかまったが、また舟の者を顧みて、
「大勘──」と呼んだ。
「おう」
「この上へあがると、たしか、阿波守の潮観のお茶屋があるはずだ」
「ウム」
「事件は今夜だという気がするが、もし夜が明けたら、おれはそこへ潜っているから、帰らなくっても、心配してくれるな」
「承知した、安心して探ってきねえ」
そう返辞をする声は、弦之丞とお綱を剣山の手まえまで見送って星越から土佐境へ逃げた、日和佐の棟梁大勘であった。
「おれも若布採りに化けすまして、幾日でも鳴門の辺をウロついている」
「ウム、若布採りは思いつきだ」
「変ったことがあったら合図だぜ」
「合点だ、忘れやしねえ」
男は綱にすがって絶壁に足をかけ、ひと握りずつ手繰ってゆく。
ふりあおいでいる大勘は、腋の下に冷たいものを感じた。
飛沫の霧と、強い海風は、綱にすがってのぼる男の裾を吹き払って、かれの努力をさえぎっている。
その男?
かれは天満の目明し万吉だ。
弦之丞とお綱とが、阿波へわたる船出の間際に、猫間川に兇刃をあびて、桃谷の家にむなしく怨みをのんでいた万吉。
その後──。
腰、肩、二ヵ所の深い太刀傷も、平賀源内の外科の治療をうけて、思いのほか早く癒えた。
かれは弦之丞がお吉に残していった手紙から、体が本復するとすぐに四国屋のお久良をたずねた。
そこには、お三輪と乙吉が、預けられていた。そして常木鴻山は、居所もさだめず、何かの画策のため、奔走しているという。
万吉は自分の落伍に落胆していた。ところが、ある夜、抜荷屋の船から上陸って、四国屋の寮へしのんできた男がある。
それが、大勘だった。
こうして、ふたりは淡路から鳴門附近に幾日か小舟をただよわせて、弦之丞がその後の消息を探っていた。
常に気をつけている岡崎の船関で、今夜、時ならぬ警鼓がひびき、浦曲や鳴門の山にかけて、しきりと、提灯の点滅するのを海から眺めたふたりは、
「今夜だ!」
そう叫びあって飛島の蔭へ舟をつけた。
関所破り!
その声は、弦之丞とお綱が、剣山から斬りぬけてきた騒ぎに違いない。と──思っていると、旅川周馬、秘密の渦路へ若布舟をのりだして逃げてきた。
──飛んだのは万吉が、絶えて久しぶりに腕っかぎり試みた、方円流二丈の捕縄。
しかし、距離、闇、渦、飛沫──それを周馬と知らず、周馬のふところにこそ、大事な秘帖が奪いとられているとも知らず──渦と渦と渦の間に、別れ去ったのはぜひもなかった。
……一方。
周馬が断崖へ辷り降りてから間もなく、千鳥ヶ浜の方からその影をつけてきたのは、弦之丞とお綱。──さらにそれを追っかけてくる者は、お十夜であり、三位卿であり、柳川藩の湧井道太郎であった。
この場合、弦之丞は、後からくるお十夜を先に討つべきか、それとも、旅川周馬を先に追おうか? 前後の敵、腹背の難──さすがに迷いみだれていた。
が、疾駆する間に、かれは、私意や憎悪にとらわれて、人を目標とする剣争のムダなことを悟った。
鍵! 阿波の秘密を語る鍵! 幸福の扉をひらく大事な鍵!
世阿弥が精血をそそいだ隠密遺書。
それが眼目だ。
今は──それが最後の努力をかける焦点だ。あれを周馬の手で江戸へ持たれて、かれの野望に功名をとげさせては、自分の周囲にある者の不幸さ加減はどうだろう。
いや、生ける者の不幸とともに、あの秘帖にそそぎこまれてある、甲賀世阿弥の尊い血汐に対して会わせる顔があろうか。
「わしの精血を恥かしめるな、わしの苦心を悪人に利用せしめるな、わしは浮かばれぬぞ! 秘帖を趁え! 秘帖を趁え」
暗い天に、そういう、しわがれた世阿弥の声がきこえるようだ。
周馬の影が、渦潮のしぶきに見失われた頃、ふたりは、かれが残した梢の綱を見つけて、手をかけた。
ばらばらとこぼれゆく岩のかけらに、磯の下からよじ登ってきた万吉。
「あっ……」
土に目をふさいで、途中の岩角へ足を休ませた。──と知らずにお綱と弦之丞の体は、ズズズズ──と急激にかれの頭の上へ辷ってきた。
刹那。
断崖の上へ来た一閃刃、梢をしなわせている綱を切った。
同じ綱を頭の上から辷り降りてきた者があるので、万吉は、驚きとともに小松の枝をつかみ、綱を離して崖の途中に身をかわした。
とたんに。
目の前をふたりの虚無僧が、落ちるような勢いで辷って行った。
「あっ!」と、のぞき込んだ時に、綱は切れて空から磯へ落ちた。
「戻って来いよーッ」
しばらくすると、下で、大勘の呼ぶ声があわただしく聞こえる。その前に万吉は、足がかりを探していたが、いくら急いて呼ばれても、にわかに、おいそれとは降りられぬ。
「早く来い」
「おウ、今ゆく」
大勘はまだ何か狂ったように叫んでいる。そして万吉を早く早くと呼ぶのを止めない。
綱の切られたせつな、弦之丞もお綱ももう磯の砂辺に近かったので、さしたる怪我もうけなかった。
大勘のおどろき、奇遇のよろこび。
それを早く万吉に知らせてやりたいと呼び立てるのだった。
万吉はすッ飛んできた。
「おお……」
「そちか! ……」
「や? ……お綱さんッ……」
海潮の激音と風の間に、きれぎれな声がかすれて飛んだ。白い激浪の泡立つ瀬戸に、四人の影はひとつ舟の中にかたまった。
──みるまに渦潮のかなたへ。
夜が明けた。
竹屋三位と、お十夜と湧井道太郎は、淡路の蔭をゆるく縫う番船の胴の間に仆れていた。
夜来の疲れで、刀を抱いて、寝ていた。
柔和な海面。
ソヨソヨと撫でる微風。
秋の陽だけがカッと強く帆や船板や、三人の肩に照りついている。
* * *
「おい、お千絵様。おめえがそうメソメソ泣いてばかりいると、飯も酒もまずくってしようがねえ」
旅川周馬と同腹になって、お千絵を山科の自分の家へかどわかしてきた偽虚無僧──今はそれを脱いで垢じみた博多の帯に黒紬を着流している堀田伊太夫。
煤だらけな浪宅に竹脚の膳をすえ、裂いた松茸に鮒の串焼、貧乏徳利をそばにおいて、チビリ、チビリ、昼の酒。
あぐらをくんだ毛脛まで真っ赤にして、伊太夫、濁った眼をドンヨリとお千絵様にすえて、
「いい加減にしやアがれ」
と、口をゆがめた。
大津絵が貼りまぜしてある押入れ戸棚のすみに、お千絵は、小さくうずくまっていた。
「ばかな女だ!」
グイと、横にくわえた鮒焼の串で、ムシャムシャ食ったあとの歯をせせりながら、毒々しいことばづかい。
「──考えてみるがいい、お前は親も屋敷も身寄りもねえひとりぼっち、孤児だろう、宿なしだろう。──それを旅川が不憫がって、自分の妻に立て、駿河台の元の屋敷に住むように──いや、それよりもっと栄耀をさせてやろうというんじゃねえか。何をメソメソ泣くことがあるんだ」
「嫌です……」
お千絵は泣きふしながら頭をふった。
「嫌だ?」
「…………」
「罰があたるぞ、冥利を知らねえと」
「いやです……」
「生意気な」
くわえていた鮒の串を弾いて、堀田伊太夫、膝を立てかけてきたので、お千絵は思わず身をちぢめた。
と、かれは、縁がわの方へ足を運んだ。
飛脚屋が何か渡して、破れ垣根の外へ出てゆくのを見送ってから、
「……噂をすれば……」
うなずいて封を切る。
そして切った封を裏返してみて、
「──おう、旅川はもう大阪表へ来ていたのか」
とつぶやきながら読みだした。
伊太夫の顔の筋が異様にひきしまってきた。読むと、周馬は今大阪の某所に潜伏しているとのこと、しかし秘帖をとり返そうとする阿波の追手や、弦之丞が血眼なので、容易に姿を出すことができない。
で、そのために、万一を思って、この手紙にも居所を書かないが、自分は今、今の潜伏している場所を出るために、鳴門の渦潮をのがれ出た時以上の苦しみをしているという消息。
「ウム、なるほど」
伊太夫はうなずいて次へ移った。
──しかし、ここまで来て、いつまで躊躇してはいられない。隙をうかがって勇敢に江戸へ向って立とう。
日は、およそ××日。
落ちあう場所は──大阪から河内裏街道をとって大津へ迂回するつもり──その方が人目に立つまいと思う。で、途中の禅定寺峠を待ちあわす場所と定めておく。
どっちが早くとも、必ず、一方の来るを待つこと。
早駕三挺ご用意。十分に酒代をくれ、道中肩つぎなし、なるべくは通し約束、賃銀にかけかまいなく、足ぶし腕ぶしの達者をえらんでおくこと。
等、等、等、なおさまざまにわたるしめしあわせであった。
日の来るのを待つらしく、酒のみの堀田伊太夫、ロクにない浪宅の道具を片っぱしから屑屋に売っては、気前よく酒をのんでいる。
その朝は、いきなりお千絵に猿ぐつわをかけて、押入れに押しこみ、板戸の外から錠をおろして戸外へ出かけた。
黄八丈に襟かけの丹前、茶いろになった白博多へ、ボロ鞘の大小を落してはいるが、江戸へ帰りゃあという意気がある。
朝酒に赤い額をして、
「駕屋で達者なやつを、六人もというと……この村にはあるめえな」
と山科を出て行った。
肩つぎなしに江戸まで通しの利きそうな、雲助の達者を探し集めに。
──道具もなければ人もいない留守の浪宅はがらんとしている。たまたま赤とんぼがぶつかってくる。
すると、窓の外で、
「ははあ、駕をあつらえに行きやあがったな」
と、伊太夫を見送って、竹格子の外へ、のっそり顔を出した乞食があった。
月代もひげも伸びきって、頬は青くこけているが、よく見ると、まだ真の乞食道に徹しきって安心して生きているほど余裕のある乞食ではなかった。どこかにまだ落ちぶれきれぬ所と、自分の姿を知っているふうがある。そわそわしている。
のそり、のそり、きたない足で畳の上へあがってきた。そして、家のまん中に立って、
「ふうん……?」
うなりながら、見廻していた。
「……なんにもねえや、徳利と茶碗、火鉢が一ツ、あとは、戸棚に女? ……」と感心して、それから悠々と壁に懸けてあった振分の真田紐を解いた。
周馬から伊太夫へ来た手紙だけをひき抜き、あとは元の通り壁へかけた。
むさぼるように、その手紙を読みはじめて、
「オオ……ウウム……じゃ、最後に周馬のやつが? ……こりゃ大事、江戸へ……蜂須賀家の致命傷だ……ウム、なるほど、それで……そうか」
乞食の顔に紅味がさしてきた。
驚いたりうなずいたりして、しきりと、手紙の文面をくり返していたその乞食は、森啓之助の成れ果てた姿であった。
──三位卿に面罵されて足蹴にまであった上、女の死体を抱えて、安治川屋敷を放逐された侍らしくない侍。
お米の死骸はその晩のうちに、大川へ捨てたが、その時の女の死顔と血のにおいは、いつまでもかれについて廻った。
木賃宿でひどい永病いをやった揚句、大阪から影を隠したかれは、やがて、岡崎田圃のかまぼこ小屋に死霊と世間におびえた目をして、ものうげに倒れていた。
ある晩のこと。
そのかまぼこ小屋の近くで、怪しげな偽虚無僧が、品のよい娘を威嚇しているのを見て後をつけた。
毎日、浪宅のまわりをウロウロしている間に、その堀田伊太夫と旅川と微妙な関係があるのを知って、いっそう気をつけていると、その旅川周馬からの飛脚。
あの日も、菰をかぶって、かれは、窓の外にかがみこんでいたのだ。
「ウム……」周馬の手紙をふところにねじ込んで──「そうだ!」と啓之助、今、いつになく生々と顔色をかがやかせた。
「──帰参のかなう日が来たぞ。この、重大なことを安治川屋敷へ知らせてやれば、その功は、おれの前の不始末の罪を償って余りがある。三位卿も孫兵衛も、嫌だって、おれの帰国をとりなさないわけにはゆくまい」
泥の足痕を畳に残して、盗ッ人猫のように台所から出てゆこうとすると、
「アア! もしッ……」と不意に、うしろの押入れで苦しそうな女の声。
「おや」
ふりかえってみると、中から揺すぶる板戸の錠前がガタガタとおどっていた。
「どなた様か存じませぬが、こ、ここを、どうぞ出して……。でなければ、二条千本屋敷の松平様へ、わたくしがここにいることを急いでお知らせ下さいまし」
「あ、いつかの晩、かどわかされてきた娘だな……」とはすぐに分ったが、啓之助の心はもう別なほうへ逸っていた。──と知らずに、戸棚の中の悲しい声が、なおも何事か訴えているまに、かれの姿は、裏の竹藪を駆けぬけていた。
あられのぶッ裂き羽織に、艶の光る菅笠、十手袋をさして、布わらじを穿いている。誰の目にも、一目瞭然たる、その筋の上役人。
勧修寺の池だった。
その役人と配下の者数名が、わらじがけの足をそろえて、池のふちを歩いてくると、こっちへ向って駆けてきた乞食が、ふいと、反対のほうへ戻りだした。
「? ……」
眉をよせて立ち止まった菅笠。
かれは、所司代への密使をかねて、江戸南町奉行所の命をうけ、お綱の人相書を携えてその逮捕に上方へ来た、敏腕の与力、中西弥惣兵衛である。
京奉行所の諒解をえて、弥惣兵衛は、人相書の女スリを召捕るため、先頃から京大阪の間にその手がかりを嗅ぎ廻っていた。
今、挙動の妙な非人を見ていた弥惣兵衛は、
「あいつ、ふところに何か持っているな」
と、顎をすくっていった。
さきごろ、下加茂の茶荘へふたりの密使が訪れてきて以来、次いで、二条城、或いは所司代の千本屋敷へ、江戸からの密書密使のたえまがない。
何か起こるぞ。
そういう空気が京都に濃くなった。
重なる役人は帰宅をとめられ、目を赤くして、固く口を結んでいた。
「中西弥惣兵衛と申す方から御急報でござります」
連日の多忙に疲れている下役の者が、こういって、所司代左京之介の役室の次の間へ、一封の書状を置いた。
祐筆がうけとって近侍にわたす。近侍から左京之介の手へ。
かれは衝立を隔てて、常木鴻山と何か低声で密談していた。
「──中西?」
いつぞや茶荘へ人相書を取りに戻った、与力のひとりを思い浮かべながら封を切った。
中に巻きこんである別な手紙があった。それは、中西弥惣兵衛が勧修寺の池のほとりで、挙動のあやしい非人をとらえて糺してみた結果、思いがけなく手に入った、旅川周馬の筆跡である。
「さては」
左京之介は二つの文面を読みくらべて、
「お千絵をかどわかしたのも旅川の指し金であったと見える。おお、しかも明日は、禅定寺で待ちあわせて」
「な、なんでござりますと? ──」鴻山は待ちきれずに膝を進めて、同じ所に目を辿らせた。
「やっ、周馬め、秘帖をつかんで江戸へ」
「ウム、そうなっては、弦之丞の立場があるまい」
「ござりませぬとも!」
鴻山は暗然と──強く、
「すぐに、早飛脚を立てて、この手紙のままを、万吉の家へ廻して急を知らせてやりとう存じます」
「よかろう、さっそく、取り計らっておくように」
「承知いたしました。では、一刻も早く」
「待とう」と、ひき止めた。
「は」
「お千絵のほうは?」
「──なんとも心がかり、拙者自身で、山科の伊太夫とかいう浪人の家へ出向いて見ることにいたします。いずれ、安否はまた途中から使いを立てまする」
周馬の筆跡を状筥に厳封して、早飛脚を大阪の桃谷に立たせ、かれ自身はひとりで、いつもの深編笠、山科の村へ入って、堀田伊太夫というものの住居を探り歩いた。
しかし。
かれがそこを尋ねあてた時にはもう家主の男が、中の塵を掃きだして、戸を締めにかかっていた。
訊くと。
堀田伊太夫は、午ごろ、にわかに三挺の駕を雇ってきて、家を明け渡し、江戸へ帰ったという話。
禅定寺までは半日の道のり、周馬の手紙に明日とあるので、さまでに急がなかった不覚を悔いて、鴻山は、大津へ出る本街道を逆に醍醐から、西笠取のほうへ、それらしい影を血眼でさがして行った。
…………
構えにふさわしくない所司代公用の赤状筥が、桃谷の目明し万吉の門口へ届いた。
「なんであろう?」
と、お吉は不安に思いながら、それを持って中二階へ上がってゆく。
ふりかえってみれば、剣山の険、岡崎の船関、鳴門の渦潮──、よくも、ここまで戻ってこられたものと、いまさら、自身さえ不思議な心地がして、お綱はそこの中二階にいるのであった。
周馬の身辺をつけ廻しつ、めったに、家にいることのない万吉と弦之丞、ふたりもちょうどいあわせて、
「おお、どこから?」
あわただしく状筥をひらきあった。
吉報!
その刹那のお綱の笑顔。弦之丞の鬱雲のはれてみえる眉。万吉のよろこびよう。それは何にたとえようもない。
時機は来た──悪魔め!
万吉は雀踊りしたい気もちを抑えて、幾たびも、鴻山の手紙についてきた、周馬の筆跡をみつめた。
大阪へ上陸った旅川周馬は、身辺の危険をさとって、わずかな縁故をたよりに、酒井讃岐守の蔵役人、本田某の屋敷の奥に身を匿ってもらっている。
ほとぼりのさめたところと隙を狙って、江戸へ走ろうという魂胆。──なぜかまた、本田某は周馬の口に乗せられて、あくまで彼を匿いだてした。
奸智な狐の隠れこんだ穴が悪い。
大阪城代の蔵屋敷、ことに、本田某は酒井家の権臣で、指もささせぬぞというふうがあった。どうしても周馬がその門を出ないうちは、秘帖を奪り返すこともできない。
阿波のほうでも、うすうす周馬の潜伏をつきとめてはいた。
しかし、これも手が出ない。
初めは万吉も阿波のほうでも、根くらべに、昼も夜中も蔵屋敷を見張っていたが、これでは、周馬がそこを出るはずがないと察して、わざと近頃は、双方で少し見張りをゆるめていた折。
吉報は思わぬ方角から来たものである。
それからしばらく、中二階ではひそかな話し声がつづく。
お吉は、静かに箪笥をあけて、調えておいた肌着や用意の品をもって、静かに、二階の梯子を通った。
やがて、家の中から天蓋をつけた男女の影が、姿をそろえて、土間にわらじをはきかけた。お吉は先に外へ出て、空の模様を気づかったり家のまわりを見張っている。
「じゃ、おふたり様」
と、後について、草履を突っかけて外へ出た万吉。
「明日」
とだけいって、意味は言外に、小腰をかがめると、
「ウム」
弦之丞もうなずいただけで、そこから左右に袂を分ちかけたが、女は女同士のお綱とお吉、両方からすり寄って何かしきりと、別離を惜しんでいる様子。
ふっ……と涙ぐましいものがこみあげてくるのをまぎらすべく、万吉は、ひと足先に駆けだした。
まもなく、かれが行きついた家は、四国屋の寮であった。
そこでも、お久良とは裏縁の立ち話で用向きだけを告げるとまたすぐに、忙しそうに出て行った。
* * *
「御門番。おい、御門番」
同じ夜の宵の口。
安治川屋敷の袖門のかげに立って、あたりをはばかるような声が呼んでいる。
「御門番」
それも、よくよく思いきって呼ぶのらしく、一声かけては、またあとへ戻ったり、うろうろと帰ってきたりして、その揚句にやはり、
「ちょッと顔を貸してくれんか、オイ、御門の衆」
と、こわごわ首をさし伸ばしている。
「誰じゃい」
と、不承不承な喜平の返辞がやっと聞えた。
コトンと、六尺棒を突く音がして、てらりとした薬鑵頭が出てくると、
「おう、喜平だな」
と、妙に人なつこく、外の影が寄ってきた。
「なんだ、てめえは……」
門番の喜平おやじ、六尺棒を中に隔てて、わざと、近寄りがたい構えをする。
そういわれると、対手は急に、穴へでも入りたそうにうつむいた。酒菰をかぶっているので人相はわからないが、とにかく、乞食であることは、一目で分る。
「──物乞いじゃないか、てめえは、ふざけた奴だ、顔を貸せの、喜平だのと」
「すまなかった、実は……」
「なにが実はだ、この野郎、少し抜作とみえるわえ、さあさあ向う河岸へ渡んな、向う河岸へ」
きたない物でも退けるように、六尺棒の先で小突くと、そいつをつかんで、唐突に、
「おいッ、お、おれは、森啓之助だよ……」
と顔を寄せた。
あッけにとられて、
「ヘエ……?」と、いったまま喜平おやじ、しばらく対手を見つめていたが、なるほど、森啓之助にちがいはない。
「どうなさいましたえ? ……森様」
「面目ない。実に、きまりが悪い」
「お屋敷を出た後に、たいそうひどいご病気で難渋していらっしゃるというお噂は聞きましたが」
「しかし、今夜は、きまりが悪いも面目ないもいっていられない急用で、山科から急いできたのだ。三位卿はいるか?」
「先頃からお越しでございます」
「……どう考えても、あの人には会えない」
「なんぞ火急な御用でも?」
「お家の興亡にかかわるほどの大事をお告げしに来たのだ、あの、天堂は」
「剣山で御最期です」
「えっ、一角が死んだ? フーム、そうか。孫兵衛はどうしているな?」
「いらっしゃいまする」
「じゃ、気の毒だが、ちょッとここまで顔を貸すように伝えてくれないか」
そう頼んで、塀の蔭にうずくまっていた。
啓之助が何か火急なことを告げにきたと聞いて、孫兵衛は、何かというふうに、奥から出てきた。
ふたりは、ちょろちょろと水のせせらぐ小溝の縁にしゃがみあって、足のしびれるほど長い時間を費やしている。
「もういちど、お船手へ帰参のなるように運動をしてくれぬか」というのが、啓之助の要求するところで、その代りに、旅川周馬の行動について、かれが山科で、ふと知り得たところは、残らずその媚に話してしまった。
物蔭には、三位卿、そっとたちぎきして、苦笑していた。
そして、孫兵衛と啓之助が話しているまに、屋敷の中へ隠れて、湧井道太郎にそのことを伝え、一方、原士へ何かの支度を命じだした。
外ではお十夜。
「よいことを報らせてくれた。とにかく、三位卿の耳へ入れてくる」
と、啓之助を残して、屋敷の中へ隠れた。
内部ではもうなんとなく物々しい空気だった。
有村と密談しばらく、やがてふたたび、門の外へ姿をあらわして、
「おい……」と、塀に貼りついている影を手招きする。
耳打ち……。
「ウム、ウム、じゃ、おれはそのほうへ」
啓之助はうなずいて、酒菰に肩をつつみ、周馬の潜伏している土佐堀の蔵屋敷へ向って飛んで行った。
かれはそこで旅川周馬の出立を見届け、安治川屋敷の者たちは、未明、淀川を小舟でさかのぼって大阪の外に出、枚方の茶店で支度、津田の並木で周馬の来るのを待ち伏せようという約束。
で、啓之助は、
「このひと役さえ首尾よくやってのければ、元の船手組へ帰参ができるだろう」と懸命なところだ。
酒菰をかぶって蔵屋敷の用水桶のかげに、犬のように寝ている中に、土佐堀の櫓韻、川面からのぼる白い霧、まだ人通りはないが、うッすらと夜が明けかけてくる。
と。かなたの浜蔵の廂の蔭にも、前の晩から寝ている男があった。
宿をとりそこねた旅人のように、頬冠りをして、その上へ菅笠、あたりの藁を集めて腰に敷き、浜蔵の壁に腕ぐみでぐんにゃりとよりかかっている。
だが、眼だけは、たえず真向うの酒井家蔵用人本田頼母の屋敷に注意していた。啓之助はそれを天満の万吉だとは夢にも知らなかったが、万吉の方では疾くから気がついていた。
間もなく──もう雀の声が聞かれる頃、ガタン、蔵屋敷の閂が鳴る、寝不足そうな仲間が箒を持って掃く、用人らしい男が出てゆく。
だが、周馬らしい者は出てこない。
「おや?」
万吉がちょっと目を放している間に、啓之助は、すっぽり、菰をかぶって用水桶の蔭から這いだしていた。
で、万吉も、あわててそこを立ち上がる。
ちょうどその時、細目に開かった裏門の隙から、スッと外へ出てきた男があった。
柿色の投頭巾に、横筋の袖無、丸ぐけの太い紐で、胸に人形箱をかけた、この頃町でよく見る飴売りの傀儡師という姿の者。
中から四、五人の声が、門の内でその傀儡師を見送った。男も挨拶をつげ、礼をのべているふうだったが、すぐと、要心深い挙動をして、霧の深い町の辻へスタスタと大股に歩きだした。
「……オオ周馬!」
菰をかぶった啓之助は町側の向うを、そして、万吉はこっち側を、中に挟んでつけて行った。
「傀儡師──なるほど、考えやがったな。今日ということを知らなけりゃ、うまうまと、あいつに出し抜かれていたかもしれねえ」
万吉は笠に隠した横目で、巧妙なそして周馬らしい機智の変装ぶりを眺めながらついてゆく。
玉造口から河内路へふみ出して、鴫野へくると周馬は茶店で一服した。万吉も物腰を変えて同じ軒下の床几へ腰をおろし、朝飯をとりながら、いよいよ飴売り傀儡師、周馬に相違ないことをたしかめてよろこんだ。
茶店を出ると、またどこからか、酒菰をかぶった啓之助が、後先について歩いてくる。で万吉は、いちはやく、阿波方のものも今日のことを知って、周馬の行く先を要すべく待ちかまえているのを察した。
「はて、邪魔な野郎だ、どうしてやろうか? ……」と万吉、私部の並木あたりから、何かしきりと考えていたが、その頃から、わざと少し周馬におくれて、前へゆく酒菰へ、
「おい、お菰さん」
と、手をあげた。
啓之助、ちょっとふりかえったが、聞こえぬ振りをして急ごうとすると、万吉はまた、
「待たねえか、そこへゆく物乞い」
「ヘエ、私のことですか」
先を気にしながら立ち止まった。
「そうよ、合力してやろうと思って、せっかく人が呼んでいるのに、なんですぐに待たねえんだ」
「ありがとうぞんじます……ですが」
「ですが、なんだ」
「少し、先を急いでいますので」
「ふふん……」お菰の肩を叩いて冷やかすように、
「よしねえ、今日は、急いだところでムダだろう」
「? ……」
「それよりは、怪我のねえところで、成行きを見ていねえ、悪いことはいわねえから」
「やッ」啓之助は初めて気がついて、
「てめえは万吉だなッ」
と、胸板を突いてくるのを、
「何をしやがる」
と、十手でその手を叩きつけた。
啓之助は驚いて前へ駆けた。しかし、二、三間ゆくといつのまにか体についていた捕縄に引かれて反動的にぶっ仆れる。
グルグル巻きに縛りあげて、万吉は啓之助を藪の中へ抱え込んだ。首のない石地蔵が仆れてあった。そいつを抱かせてもうひと巻き縄をかけ、ヒラリと、藪から並木へ戻った。
「オオ」
あなたを見ると、周馬の姿はもう遠い……。
江戸に限りのない栄達を夢み、お千絵に思いの遂げられるのを夢みして、旅川周馬の足は軽い!
──急ぐほどに津田の追分。
そこで、弾んできた周馬の足はハッとすくんだ。
けれど、考えてみると、自分の姿は、人形箱と柿色の頭巾袖無にくるまれていた。かれは、図太く多寡をくくって、折から混んできた、野菜車や旅人や小荷駄の群れの往来にまじって、ゆっくりと通りぬけた。
「ああ、びっくりした」
次の立場を眺めてから考えた。
「どうして嗅ぎつけやがったのだろう?」
津田の辻の葭簀を張った一軒の家に、たしかに、阿波の侍と、三位卿らしい者と、おぼえのあるお十夜の頭巾が見えた。皆、物々しい装いでかたまっていた。
「あぶねえ、あぶねえ」
薄氷をふんできたような心境が、後になってゾッと背すじを這いあがった。
おびえがさめて安心がつくと、周馬、こんどは先頃手紙をやっておいた堀田伊太夫の方の首尾を案じだした。
お千絵を山科まで連れだしたということは、その前にかれから知らせをうけていたが、うまく今日、時刻を計って、禅定寺峠の麓へ来あわせてくれればいいが? ……
とかく、それも悪くない心配だ。空想は道のりを忘れさせて、いつか郷の口、程なく静かな村をぬける。禅定寺の山門と真ッ黄色な銀杏の梢があなたに見えた。
鵯の声がする、百舌鳥が高く啼いている。ハラハラハラハラ扇形の葉が降りしきっている。
寺は峠路の口にあった。
先に来ていれば、たいがいこの辺にいるはずと思ったが、見当らないので、周馬は山門の石段の下に腰を下ろし、しばらく、秋の陽ざしに温まっている。
柿色の投頭巾に、銀杏の葉が三ツ四ツ溜った。
「おや、飴売り」
「人形使いの飴屋さん」
そこいらへ栗拾いに来た子供たちが、知己を見つけたように周馬のまわりへ寄ってきた。
じろじろとかれの姿を見て、何か物いいたそうであったが、首をあげた周馬の目のおそろしさに驚いて、無邪気な少童少女は、散るともなく、顔を見あって、こそこそ村のほうへ帰ってしまう。
その後は、絵のような秋の木洩れ陽の中を、ひとりの尼が通ってゆく。
一刻ばかりの間の変化はこれだけであった。
だが、周馬は退屈しなかった。
待つという空な時間を、こんな愉悦にみちて、恍惚と過ごすなんていうことは、一生のうちにそうめったにはない。どっち道、楽園の扉は開いて、おれはそこへ、迎え入れられるばかりになっているのだ。少しは、待つのもよかろうではないか。
そう考えて落ちついていると──。
やがてであった。
しっかりした道中駕三挺に背丈のそろった駕かき、別に、肩代りが二人ついて、こなたへさしてくるのが見えた。
禅定寺の門前にかかると、ぴたりと足が止まる。一挺のタレをはねて堀田伊太夫、
「ご苦労」
と、草履をとらせて外へ出た。
「オオ伊太夫、ここだ、ここだ」
と、周馬は手をあげて、その姿を呼んだ。
「やあ、旅川。ばかにちょうどよく出会ったな」
「少しもちょうどいいことはない。最前から生あくびをかんで待ちくたびれているんだ」
「実は、山科のほうは、昨日のうちに引き払って出たんだが、途中からつけてくる、うさんくせえ奴をまくために、思いのほか暇どってしまった」
「そうか……がまず、何より心配なのはお千絵だが?」
「お察し申すよ」
「笑ってくれるな、真剣だ」
「あの駕の中にいるから、ひと目覗いてきたらどうだ」
「そういわれると、少しテレるな。しかし、あらかた得心している様子かな?」
「どうして、これからウンといわせるには、まだなかなか骨が折れるふうだぜ」
「江戸へ着くまでの間には、なんとか始末がつくだろう。オ……駕が来れば、もうこんな物をつけている必要はなかった」
胸にかけていた人形箱、頭巾、袖無、脱いでひとつにクルクルとまとい、自分の乗るべき空駕の中へ突っ込んだ。
下には周馬、いつもの黒紬の袷を着ていた。膝行袴はそのままで見苦しくない。道中差は野刀一本、身軽のせいか、なんだかサバサバとした気持になった。
ついでに、もうひとつの駕をのぞいて、
「お千絵殿、少し駕の外でも眺めてはどうだな」と、垂れを解いた。
霜除けをかぶった牡丹花のように、お千絵様は中にかがまっていた。
手には縄、ほつれ髪、青い顔には猿ぐつわ。
「お千絵殿、江戸にいたころから見ると、だいぶ頬がやつれましたなあ」
周馬は、駕の棒にもたれて、白い襟もとへ賤しげな目を落した。
「……だが、美女のやつれというやつは、美しさに研がかかって、いっそう凄艶という趣が深い。おう、泣いていらっしゃるか、あまり久しぶりでうれし涙が出るのでしょうな……周馬もお懐かしく思いますよ、いろいろあれ以来のお話もあるがまあ、それは宿へでも着いて」
覗きおろしていた体をだんだん駕の前へかがみこませた。そして、わざとらしく、
「可哀そうに」
と、お千絵の猿ぐつわだけはずしてやる。
「──むごいようだが、手のほうは道中だけ辛抱して貰おうか。その代り江戸表へ入りさえすれば、どんな気まま、どんな華奢も自由としよう、旅川周馬様の奥方、まんざら悪い身分ではないでしょう」
と、からかい半分、頬へ指をついてゆくと、冷やかに、覚悟を決めてきたお千絵の耳元が、怒りに血の色をさしてきた。
きりっと吊りあがった蘭瞼が、周馬の軽薄な唇をひるまずに睨まえて、
「気の狂った男! お前はなにをいっているんです」
「狂ってはいない、真剣だ」
「千絵には、何の意味やらいうことが分りませぬ」
「おぬしは拙者の妻だぞということをいい聞かせているのじゃないか。もしお千絵殿、そなたがよく性分をご存じの旅川ですぞ、ムダな足掻きや愚痴はおよしなさい」
「おだまり、千絵はまだ、そなたのような人非人を、良人とゆるした覚えはない」
「ちッ、また優しさに狎れやがると、駿河台の穴蔵部屋で、ヒイヒイ叫んだような痛い目に会わしてくれるぞ。こういうふうにッ」
と、襟がみをつかんで引きずり出した周馬、無情な平手でお千絵の頬をピシリと打った。そしてまた打ち、また打ちした。それが一種の快感であるように、周馬は打つ手を止められなかった。
自分の腕が疲れた時に、蹴こむようにお千絵を駕にぶちこんで、
「おい堀田、出かけようぜ」
と、見ぬふりをして休んでいる駕屋へも声をかける。伊太夫は冷かすように、
「旅川、お前は案外、女には手荒だな」
「そうでもないが、つけあがるからよ。それにお千絵の姿を見ると、なんだかおれは昔から撲りたくなる癖がある」と、駕のタレに隠れた。
「旦那!」
駕屋はそろって肩を入れた。
「やりますぜ──峠の上りへ」
「オオ、やってくれ」
ギシッ。三つの駕尻が上がる。
「陽のあるうちに越えきれるかな」
「まだまだ」と、駕かきはいさぎよく杖をふり初めて、
「こんなくらいじゃゆっくりでさ」
タッタッタッと加速度に足がそろってくる──禅定寺の大屋根から吹きおろす秋らしい力のある風に、満地の銀杏落葉が旋風を描いて舞いめぐったかと思うと──その黄風の渦を衝いて突然!
「待て待てッ、その駕に用がある」
否やをいわせず、棒鼻を突き返して大手をひろげた虚無僧と虚無僧。
ひょいと、まン中の駕の内から、顔を出した周馬が、あっ弦之丞! とおどろいて向うへ抜けだそうとすると、お綱がすばやく駈け寄って、
「おのれ」
と、駕の簀とともに、周馬の横鬢を切ってかすめる。
「わっ……」と、満顔に染まる血を吹いて、周馬、やぶれかぶれの声で、
「伊太夫、手を貸せッ」
お綱へ盲目刀を振るって、バッと中から飛びだしたが、とたんに、伊太夫を居合討ちに仆した弦之丞が──飛鳥──左手使いの冷刃を逆薙ぎに流して、
「卑怯者──ッ」
と肋骨をはねつける。
「うーむッ……」とおめいたが、旅川周馬、血達磨のように染まってまだ走った。しかし、それも六、七間、りゅうッと風を泳いできた捕縄に足を巻かれて地ひびきを打つ。
万吉であった。お綱も駆けよった。
弦之丞はすぐに止刀を刺してふたりへいった。
「お綱、秘帖を奪りかえせ」
万吉やかの女の手がよろこびにふるえながら周馬の死骸を探った。まだ体温のある胸、胴巻、背中、袴腰……はては脚絆の紐までといて検めたが、どうしたのだろう? 目的の秘帖はどこからも出てこない。
呆然と心にみる黒い霧が、三人の歓喜を、一瞬に、吹き荒した。と、その時、あなたの疎林を一群の人が疾走してくる。
疎林の影をよぎってまっしぐらにこなたへ向ってくる一群の武士、まごうべくもあらず、安治川屋敷の原士たちと、三位卿、孫兵衛、助太刀の湧井道太郎がその先頭。
朝まだきに淀川を上がって、津田の辻の茶店に、啓之助の知らせを待っていた人々は、その肝腎な伝令が、途中の藪だたみに石地蔵を抱いて沈んでしまったため、思わぬ手違いをふんで、それと、気がついた時には、すでに先の周馬よりは、二里もおくれていたのであった。
「来やがった!」
周馬の体に秘帖が隠されていないので、もしやと、伊太夫の死骸をみていた万吉は、それにも絶望しながら、近づいてくる殺気を眺めた。
一難、また一難。
周馬は斬り仆したが大事な秘帖は見当たらない。弦之丞はまだ右腕の銃痕がまったく癒えていないし、駕のうちには、かよわいお千絵様がいる。
どうしよう? この場合を。
万吉の足どりにも狼狽がからみついた。
ともあれ、かれは急いでお千絵の縄目を切ることを先にした。──と、もう安治川屋敷の者はすぐそこまで近づいて、鮮血を踏んで立ったお綱と弦之丞の姿を指さしながらひしめいて迫る。
「ウム、まいったな、またここへも」
弦之丞は動じない唇元でつぶやいたが、さすがに、事ここまで運んできながら、ついに、秘帖を手に見ない落胆のかげはどこかにさびしい。
と。早口でふりかえった。
「お綱ッ。そちはお千絵どのを助けて、禅定寺の峠へしばらく姿を隠しておれ。早く行け、お千絵どのをつれてこの場を退け!」
「お、それがいい」
と万吉はお綱の帯をもって引きずるように後ろへ連れた。驚きと疲れとに、夢心地でいるお千絵の手をつかませて、
「ここにいてはかえって弦之丞様の足手まとい、早く早く」と手を振って峠路へ追い立てる。
この際、何をいい返す間があろう! お千絵の嫋々した体を抱くようにして走りだしたお綱がふりかえって見た時には、もう、弦之丞万吉ふたりの姿が、陣をなす白刃の光と、さんさんと降りかがやく銀杏の葉にくるまれていた。
左手といえど弦之丞の夕雲流には少しの不自由さも見えなかった。またたくまに数人の手負いが、大地に仆れ、禅定寺の石垣の根へ這った。
この日のかれの働きに、やや左刃の弱さかと思われた点は、ひと太刀で絶命するような斬れぶりのないことだった。瞬一瞬、手負いは増して行ったが、まだ一名の死者も出ない。そしてやがてまた、弦之丞自身も数ヵ所のかすり傷をうけた。
万吉も道中差をふりかぶって、命をまともに斬り廻った。腕というよりはその暴れかたに、阿波方の者は衆の力を雄敵ひとりへ集めきることができない。それに、かなり修養のあるものでも、こう乱闘になると血があがってくる、ところへ散りしきる落葉の旋舞が視覚を眩惑させて、ともすると弦之丞の左刃ひとつに駈け廻される。
その間に。
たえずかれの背後をつけて、ひるむのを罵っていた三位卿は、ぶっ仆れている駕の一つの内から、傀儡師のもち歩く一個の人形箱が蹴とばされているのを見た。
その箱のそばにまた、気息奄々たる原士と堀田伊太夫の死骸が仆れている。そして、その人形箱は砕けていた。
首の細いお染人形や久松人形も血泥によごれて、箱と一緒に踏みつぶされていたが、ふと、有村が隙を狙って拾い取ったのは、その人形とともに箱の中から飛びだしていた桐油紙で包んだ一帖の秘冊。
「おッ!」
つかんだ触覚で秘帖と分った。
「しめたッ──」と三位卿、翡翠が魚をさらったように、それをつかんで飛び立ったが、とたんに、目をつけた万吉が、横合から引っ奪くって、
「秘帖あった!」
道中差を振るってヒラリと飛び退き、
「弦之丞様、秘帖は万吉が手に入れましたぞ!」
と、かれに力をつけさせるべく叫んだ。
今や、道太郎とお十夜を対手に斬ッつ斬られつ──
「オオ、お綱の手へ──お千絵をたのむ」
剣戟のあいだに弦之丞のかすれ声。
「合点です!」と、高く返辞を投げたものの、万吉はたじろがざるを得なかった。
柳剛流の猛者湧井道太郎と、悪鬼のように斬ってかかる孫兵衛の死にもの狂いに、さしもの弦之丞、刻一刻と苦闘に迫っている。
右の股、左の小手に一ヵ所、浅からぬ傷さえうけた様子である。
「死ぬ気だな──弦之丞様は?」と万吉、どうしてもそこを去りかねて、道太郎の横を衝こうとすると、
「何をぐずぐずしているのじゃ。万吉、早く行かぬかッ」と弦之丞がまた叱りつけた。
ぜひなく万吉。
「おのれその秘帖を」
と追いすがる有村へ、脇差を投げつけて、両手でおさえたふところの秘冊! 幾多の犠牲をかけられて奪り奪られした阿波の大秘! 宝石のように抱きしめながら、お綱のあとを追って禅定寺の峠路を熱い息で駆けのぼる。
──危機は刻々とせまる、かくて、弦之丞の青白い眉間は、死相をあらわしてきたのではないかと思われた……。
そこを避けて、一方、禅定寺の寂しい峠路。
お綱は、心をあとに残して、半ば、喪心しているお千絵を助けながら登ってゆく。
あの人のことである、今に血路をひらいて、きっと追いついてくるに違いない。と、道々もふりかえっては、お千絵のために安全な地を探した。
ひとつの山蔭を廻った時である。
仰むいてみた崖の上を、幾人もの足が土をくずして駆けたかと思うと山蔭にすがって、ばらばらと目の前へ辷り降りてきた役人らしい者があった。
寝耳に水といおうか。
菅笠、割羽織を着けたひとり、岩のごとく道を塞いで立つかと思うと、威圧のこもった音声で、
「見返りお綱、御用だッ──」
と、なんたる不意! 眼に痛いような磨きすました十手を向けた。
「あっ……」と、お綱は真っ青になった。
「浅草孔雀長屋の女スリ見返りお綱、旧悪の兇状はのこらずお上のお調べずみとなって、人相書は上方へも廻ったぞ。わしは、召捕りのために向った江戸与力中西弥惣兵衛じゃ。いずれにしてものがれぬ場合、お手数をわずらわさずに、江戸奉行の手当をちょうだいして神妙に縛につけッ!」
この時ほど、お綱の気の弱々しく、そして総身のすくんだことはなかった。
旧悪! まったくお綱の記憶は自分の過去のそれを忘れていた。ことに今この場合、突然、女スリと呼びかけられた刹那の驚きは、胸のわるいめまいと、浅ましい嘆きだった。
よろめきそうな足を、一心にふみしめていたかの女は、やがて、喉に乾びつくような声を捕手へ投げた。
「後生です、ま、待って下さい! ……」
「なに?」
弥惣兵衛は意外なというふうに、
「支度をする間か」
「いえ……ここしばらくの間……幾日かたてば、きっと、奉行所へ私から名乗って出ます」
「だまれ、法は峻厳、枉ぐべからざるもの、さような自由は相成らん。縛につかぬとあらば、押しくるんで召し捕る分じゃ」
「ああ! わたしは、もう心から生れ代ったお綱だと思っていたが……」
「御法のさばきをうけぬうちは、汝の罪は滅していない、どこまでも兇状が追って廻るのじゃ」
「でも今は、たとえ何とおっしゃっても、また、この上罪が重なろうとも、お縄をうける訳にはゆきません」
「ぜひがない!」
弥惣兵衛は身を退いて、
「それ、召し捕ってしまえ」
「お願いです! ……」新藤五の刀を構えながら、お綱は、神に祈るように、
「お見のがし下さいまし、お慈悲! お願いでございます」
「手抗いするかッ」
「どうしても、あることの終りを見届けないうちには──」
叫ぶのも終らぬまに、捕手は前後から打ってかかった。絶体絶命、縄をうけるか切りぬけるか、このふたつよりない切迫。
お綱は突然ひとりを切った。わッと捕手の退くところを、お千絵の手をつかんで必死に駆けだした。
わっと乱れたが、すぐにまた捕手は彼女へ追いかかった、「御用」「御用」「御用」それは仮借のないごずめずが針の山へ罪のものを追いあげてゆく責め声のように。
中西弥惣兵衛は割羽織をぬぎすてて、
「うぬ、捕った!」
のめるようにかけだして、きゅっと捕縄の一端をしごいたが──その時、一人の男、宙を飛んでくるなり弥惣兵衛の腕にしがみついて、
「待ってくれ」と絶叫した。
「何?」
手もとを狂わせて、弥惣兵衛は、腹立たし気な目をその男にくれた。
「私は天満の目明し万吉と申すものでござります──。しばらく、御猶予を願いとう存じます」
「だまれ、そちは天満組の名をかざしてこの捕り物に故障をいおうとするか」
「いえ、決してそういうわけではございませぬが、今ここでお綱がお手あてになりましては、ある一つの事件と、さる方々の上に、実に当惑する難儀がひそんでおるのでございます。で、どうか、今この場だけを御寛大に」
「いや、うすうすそんな様子も察しているが、わしの役儀は町方与力だ。たとえ、事情や場合はどうあろうと、あくまで、法縄は公明に十手は正大にうごかなければならん」
と中西弥惣兵衛、頑として肯く気色はない。
「ごもっともでございます、けれど、わっしも天満組の目明し、必ずそちらのお役目に泥をぬるようなことは致しませぬ。どうか枉げてもお綱のお手当は、暫時、万吉にお任せおき願いとう存じます」
中西与力も強硬だが、万吉もまた、熱誠を面にあらわして頼むのだった。
それにうたれたか弥惣兵衛は、
「では、天満組の目明し」
「へい」
「誓って、そちの手でお綱に縄をかけて、このほうへ渡すというか!」
と、開きなおった。
「…………」万吉はグッと返辞につまってしまった。けれど、顔色を悟られないうちに、キッパリと断言しなければ、弥惣兵衛の叱咤がふたたびお綱を追うであろう。
鉛の熱湯をのむよりは苦しい、あとはどうこの気持がもてるか、自分にさえ分らぬ万吉、目をねむって一時のがれに、
「え……へい、きっと、承知いたしました」
「間違いあるまいな!」と強く念を押して、
「では、そちが召捕ってくる猶予として一刻ほど待ってつかわそう。ウム、あの七刻下りの陽が、あなたの奥甲賀の山間に落ちるまでだぞ」
そう言いわたして中西弥惣兵衛は、少し横道に隠れ、附近の山神の祠に捕手の者をまとめて、江州甲賀あたりの連峰の上にうすれかけている秋の陽の釣瓶落しを待つのであった。
「アア……」
ひとつの難を切り抜けてホッと息をつくと、万吉は瞬間、頭の髄がぼうとしてしまった。いつか阿波をのがれてきた夜、あの黒い渦潮に舟をグルグルグルグル廻されたまま、何としても出られなかった時と同じような気持である。
が、こんなことで、と万吉は自分にむちを打って心をしめなおした。そして、白い尾花が斑になびいている向うの平地に、お綱とお千絵の姿を見つけて足を早めた。
すると、思わぬ所の崖道から、低い木をゆすぶって、誰か、
「万吉か?」と呼びとめた。
「オオ」ふりかえってみると、弦之丞であった、血ぬられた太刀を左にさげて上がってきた。
「そちが秘帖を持って駆けだした後を、湧井道太郎が追いかけて行ったが、別条はなかったか」
「へい、道太郎にも逢いませぬし、秘帖もここに持っております」
「それが案じられて拙者も近道を廻ってきたのじゃ。しかし、まだ油断はならぬぞ。わしの後からは原士をつれた孫兵衛と有村、また道太郎めもやがて追いついてくるに相違ない」
と話しながら、布を裂いて万吉に左の小手傷をしばらせていると、突然、すぐ向うの草原にあたって、お綱の絶叫と、けたたましいお千絵の悲鳴が流れた。
「やっ?」
「──道太郎じゃ! いつの間に」
「卑怯なやつ」
ふたりは足を飛ばして駆けた。いつのまに抜け道をしたか、ひとりの巨漢が白刃をかざして、小鳥のようなお千絵を追っかけ廻している。そして自分の身に代えて防いでいるのはお綱であった。
それさえハラハラさせられているところへ、また忽然と一方からおどり立って女ふたりを取り囲んだ者がある。お十夜孫兵衛と三位卿だ。──万吉は宙をとんでゆく間にそれを見て、アア駄目だ! もう危ない! と思わず腰をついてしまいそうになった。
ところが──意外の上にまた一ツの意外が重なった。
逃げ場を失ったお千絵様、芒の根につまずいて、あわや、道太郎の烈しい大刀の下になった時、意外ではあるまいか、かえってその道太郎が、もののみごと、袈裟がけにされてぶッ仆れたのである。
驚きひるむ原士の前に、降って湧いたように立っていた編笠は、前の日、山科から三挺の駕の行方を追跡していた常木鴻山。
「やあ、阿波の人々、そこにいる三位卿もよく聞かれい!」と、かれは道太郎を斬った勢いで大音をあげた。
「──今日を期して幕府の大命雷発、京都では公卿の間に、いっせい所司代の陰謀しらべが開始され、上下騒動をきわめておるぞ。同時に、町々は浪人の狩立て、江戸表では長沢町の山県大弐、一昨夜南町奉行所の捕手にからめられて、一味のこらず、揚屋入りとあいなった。また、宇治の竹内式部へも召捕りの人数が向い、公儀より正式に徳島城へ向って、大目付副使、ふたりの上使が立てられ、すでに今朝は大阪を出発した筈──もう多くの弁にも及ぶまい、すなわち、陰謀露顕、惜しむべし、蓬庵公以来の阿波二十五万六千石、近くお取潰しのお沙汰であろうぞ!」
機智は功を奏して、鴻山の高くいった声は、青天のへきれきほど阿波方の者を驚かせた。
むらがってきた原士は、足もとの大地を揺すられたように、剣をつかんでいる手すらも茫然と、
「ウーム、では、幕府に先手を打たれたのか」
と、悲痛なつぶやきに、暗澹な面持を見あってしまった。
突如──それは三位卿の、口から血を吐いたような叫びであった。
「大事は破れたッ……ああ京都……王室の御迷惑、諸卿の難儀……罪は有村にある」
とたんに、かれは頸動脈に刃をあてて、おのれの身を芒むらへ、どうと、横ざまに仆したのであった。
「やっ?」
「あ、有村様ッ」
「おおっ、三位卿が自刃された」
八、九人の原士は、かれのまわりへ黒くなって集まった。だが、抱き起こされた三位卿はもう悲壮な死顔をしていた。
慷慨の気にとむ白皙の青年公卿がいさぎよい自害は、さすがに、そこへ駆け寄ってきた弦之丞の心をもうった。
鴻山も万吉も、口もとを固くして、それを見つめる。
「かれも一個の志士であった。世に遇わない不幸児であった。もし、尊王討幕の実があがる暁はあっても、ついにかれは無名の一公卿に終るだろう」
人は知らず、弦之丞だけは、ひそかに一掬の涙をもって、かれの死を見まもった。
すると、その様子などには目もくれないで、ひとり無念そうにたたずんでいた孫兵衛は、衆皆、有村の自殺に気をとられている隙をみて、
「ええ、気が弱えッ」
と自他を罵るごとくいって、またも、不意に大刀を揮った。
かれの眼に映じたものは第一にお綱であった。狙われたお綱は、サッと見た流刃に肩をちぢめたが、吹かれた髪の毛を助広の尖にかすられた。
「うぬ、てめえと弦之丞だけは」
悪鬼は破れかぶれとなって、
「──冥途の道づれだッ」
と盲目的に斬ってかかるやつを「野郎!」と万吉、飛びついて孫兵衛の腕くびをねじおさえ、
「もうこの辺が運のつきだろう、往生ぎわをよく観念してしまえ」
捕縄の輪をこかそうとすると、
「ちッ、くそでもくらえ!」柄がしらに小手を叩かれて、万吉はかれの足もとへもんどり打つ。孫兵衛は狂った夜叉のように、こんどは常木鴻山へ跳びかかった。鴻山は身をかまえてとび開く。万吉ははね起きて捕縄を走らせた。──が捕縄はかれの刃に当たって用をなさなかった。
荒れ狂う助広の光に、草の葉が塵になって飛んだ。ともう、孫兵衛は次の行動に移っていた──お綱の避けた姿を見て、それをふりかぶって行ったのである。
だが、途端に孫兵衛、わッと獣じみた呻きをあげ、爪先立ちに身をもがいた。最前から見すましていた弦之丞が、左剣、わき腹をえぐったのだ。
お綱お綱と、鴻山に声をかけられて、かの女はハッと吾に返った。新藤五の刀で夢中で孫兵衛の右手を斬って落した時、弦之丞もえぐった刃をスッと放して対手の体を反対に突いた。
「ううっ……」と、仰むけにぶっ仆れたお十夜は、ひとつ、大きな波を肋骨に打って、こんこんと噴きでる黒血の中に断末をとげた。
「…………」
瞬間は無言。
皆、ほっと、息を吐いているばかりだった。
原士の残る者たちは、阿波本国の取潰しと聞いて、闘う気もくじけ、いつのまにか三位卿の死骸を抱えて、麓のほうへ逃げ散っていた。
「……頭巾を? ……」
兇悪な孫兵衛を討ち止めるとともに、ふと、剣山での父の死を目にうかべて、熱い涙がにじみだしてくるのを感じていたお綱は、どこかで、こういう声にささやかれた。
「孫兵衛の頭巾を? ……」
それは、世阿弥が、死のまぎわに、口に洩らしかけてこと切れた謎のことばであった。
このことは、桃谷の家で、弦之丞にも万吉にも話してあった。で今、弦之丞は止刀を刺した後に、孫兵衛のその頭巾をさし伸べた。
鴻山も一種の猟奇心に駆られてジッと立っている。今は、解かれることを拒み得ないお十夜頭巾。
めくりだされるものはなんであろうか? 一同、思わず固唾をのんで、弦之丞の手に解かれてゆく黒布に眸を吸われていると、
「しばらく」
と、一同の後ろから、ゴソゴソと草むらをかき分けて、そこへ、這いかがんだ者がある。
「? ……」
甲虫のように、手をついた男を見ると、かつて見かけたことのない、町人とも武士ともつかぬひとりの侏儒だ。
だしぬけに風態見当のつかぬ侏儒が、「しばらく!」といってそこへかがまったので、この場合ではあったが皆、思わずいぶかしげにふりかえると、
「私の役目は、今日をもって終りました。それについてお願いの儀、お聞き届け願いとうございます」
と、ばかにていねいな切口上で、その侏儒がまたいった。
「そちはいったい何者であるか?」
こう訊ねたのは鴻山である。
侏儒はやや怖るるような目色をしたが、
「はい、私は阿波の者でござります」と悪びれずに──「ご承知でもございましょうが、原士の長、龍耳老人とおっしゃる方の飛耳張目に使われまする者で、永年の間、私のいいつけられていた役目は、関屋孫兵衛の頭巾を監視することでございました。──関屋孫兵衛をご承知のお人でも、私の影を、きょうまで見たお方はございますまい、けれど手前はここ数年来、かれが江戸へまいれば江戸へ、上方へくれば上方に、寸刻も離れることなく、影と形のように、つきまとうていたのでございます」
侏儒は、その隠身の働きぶりを、やや自慢らしい顔で話しつづける。
「──で手前は役目としまして、月に一度は某所某時刻で、きっと孫兵衛の頭巾のうちをあらためることになっておりました。そして、龍耳老人に別状のない儀を知らせてまいりました。けれど、その関屋孫兵衛も、ここに最期を遂げましたからには、自然、手前の役目も終ったわけで、もう用のない体、阿波へ立ち帰ろうと存じまする」
万吉もお綱も、奇異な侏儒の話は、幻奇な物語を聞くような心地がしていたが、弦之丞には、かれの頭巾と侏儒の関係が、今は明らかにうなずけて、鴻山に代って一歩前へ出た。
「龍耳老人、あの方なら拙者も存じておる。してそちが今、吾々に願いがあるといったのは、どういうことであるな?」
「ほかでもございませんが」
「うむ、申してみい」
「関屋孫兵衛の首をお貰い申したいのでございます。かれの首を持って、阿波へ立ち帰りたいと存じますので」
「孫兵衛の首をくれろというのか」
「役目を終りました証として、頭巾ぐるみ、川島郷へ持って帰りたいのでございます」
「しかし、待て、一応は、かれの頭巾を検めてみねば」
というと、侏儒は心得たさまで、
「もう徳島城の御陰謀も、幕府のほうへ知られました今日、ほかの、小さな秘密を固持する必要はございますまい。──といったところで、それはこのたびの事件とは、まったく縁のない、別のものでございますが」
「おお、ではそちの手であれを解くか」
「明らさまに申し上げましょう、しばらく、そこにお待ちを願います」
こういうと侏儒は、矮短な身を起こして、孫兵衛の死骸のそばへ歩いていった。
その酸鼻に、面をそむける様子もなく、孫兵衛の頭巾の上からもとどりをつかみ、胸をもって押しつけるような形をしていたかと思うと、ぶっすり、首を切り離して草の上へ置き、短い刃物の血糊を拭いて、ニヤリと意味のない、不気味な笑みをこちらへ向けた。
「……?」
斬りさいなんでも飽きたらない仇とはいえ、侏儒の刃物で無造作に切りはなされた孫兵衛の生首には、お綱も思わず面をそむけたくなった。
いつか、お千絵は、まだやまないふるえを歯の根にかんで、お綱の裾にすがっていた。
弦之丞、鴻山、万吉。
いよいよ不思議な侏儒の所作を見まもって、そこに立ち並んでいる。
侏儒は、首となった孫兵衛の頭巾を、その人々の凝視の前にとって見せた。
「関屋孫兵衛の悩みはこれでございました」
黒布を剥いでみればお十夜孫兵衛、死首ながら立派な男前である。
兇悪遂に身をほろぼした、かれの凄味と、断末の無念そうな眉間の影は消えていないが、頭巾をとれば年頃まだ三十に足らず、白蝋青隈の死相、ほつれ毛たれて耳朶に一点の血、生ける時の兇相よりは、むしろ美男に見えたくらいである。
髪は浪人たぶさに結っている。
「月代を剃ること、また、これを自由に抜くことなりませぬ」と、かれの母が遺言で、龍耳老人に誓わせられたその頭には、何が与えられてあったろうか!
侏儒が黒布を解いたせつなに、生首の髷に、さんらんと、見る者の眼を射るものが挿してあった。そして月代の青額には、当時、きびしい禁教の象徴として忌みおそれられている十字架の傷が痕になって残っていた。
髷にさしてあったさんらんたる美光の品も、それにゆかりのある、泰西名工の彫琢、白金彫聖母マリヤの笄なのであった。生首の髷に挿されてある白金のマリヤの笄──それをみると、話の先に、侏儒はなぜか、ぼろりと涙をこぼしたのである。
弦之丞をはじめ五人の人々が、固唾をのむ疑惑の目の前に、それから、涙をこぼしながら、侏儒の話すことであった。
泰西彫工の鏤刻、かがやかしい白金のマリヤ像肉彫の笄。
──ごらん下さいまし、これがどうして、孫兵衛の髷に縫われ、また、抜けない約束のものとなったでしょう?
ご存じはございますまい。
これも阿波では他国へ秘密としていた一ツでございますから。
関屋孫兵衛の母。
あのお方は、イサベラ様とおっしゃいます。元和以前、海をこえて、日本へ宣教に来られた、スペインの女修士、ご承知でもございましょう。五十五聖徒の殉教者のひとり、老女ルシヤ様のつれていた娘が、後に、天草の原ノ城へ入りました。
孫兵衛の母者人イサベラ様はマリヤの笄とともに、その異国の人の血をひいてきたお方でございます。ほんとに円満な、聖母そのままな、慈愛の深いお方でした。
あのお方のことを思うので、私はつい涙ぐまれるのでございます……。
そんないいお人のイサベラ様の子に、悪魔孫兵衛が生れました。なんという皮肉、イサベラ様は生涯孫兵衛のことでご苦労なさいました。死ぬまぎわまで……。
ですが。
どうしてそういう人が、阿波にいるかというご不審をおもちでしょう。川島郷の七人衆の原士、あの方々も寛永の昔、島原の一揆戦がみじめな敗れとなった時、天草灘から海づたいに、阿波へ漂泊してきた落武者の子孫なのでございました。
孫兵衛の母イサベラ様の幾代目かの御先祖──黄金色の髪の毛に愛くるしい琥珀の眼をもった異国娘も、その時、武装した切支丹武士に手をひかれて、阿波の海辺へ上がりました。
そのような話、冬ごもりの炉べりでは、私の子供の時など、よく年寄から聞かされたものでございます。
当時、阿波の御領主は、有名な義伝公で、あのとおり豪邁で、徳川家に楯をついたお方──天草の余党はあの君のお情けで、阿波の奥地へ棲むようになりました。原士の中に七家の切支丹族が今日まで連綿としてきて、しかも、秘密に信仰を保ってこられたのは、ひとつの奇蹟と申されます。
マリヤの笄は代々孫兵衛の家につたえられ、仏間と見せかけて実は祈祷の部屋である柱の切嵌めに埋めて、七家のものの信仰の像とあがめておりました。その笄が、今孫兵衛の髷に刺さっておるこの品なのでございます。
慈恩の笄でございます、母性愛の光でございます、子を憂うる孫兵衛の母が、いまわの際の意見を縫いつけた呪縛の針でございます。
申すまでもなく、切支丹は禁教。
天主を口にとなえることはおろか、刀の鍔の裏に、十字に似た模様が彫ってあっただけでさえ、逆磔になった侍がありまする。
月代に十字の傷痕、髷にマリヤの笄を刺された孫兵衛は、まったくひとつの呪縛にかかりました。
頭巾をとけば禁教者とみなされ、月代をのばし笄を抜きすてれば、イサベラ様の臨終の枕元で、七家の衆立会いで誓わせられたとおり、龍耳老人の暗殺の手が下ります。そして私という者が、たえず影にいて、それを監視してまいったのですから、さすがの悪魔孫兵衛も、あれで、自分の思う悪事を百にひとつもやれなかったのでございます。
孫兵衛の悩み。
十夜頭巾の呪縛。
もう、これで、皆様にも、すべてお分りでございましょう。
けれど私は、孫兵衛の永い間の苦痛よりも、その悩みを子に与えて、かれを改悟させようとした、イサベラ様の臨終のお心持を、お察し申さずにおられませぬ。
信仰の力もございましょう。しかし、女親の愛、ことに悪人の子をもったイサベラ様、深い慈愛をお見せ下さいました。弦之丞殿の手にかかって、孫兵衛はついに無残な死を遂げましたようなものの、もし、愛の呪縛がなかったら、もっと世の中に悪名を売り、一族を亡くして、その身も、刑吏の錆槍でえぐられたに違いありますまい。
慾でかかった仕事とはいい条、恩義のある阿波方に組して、これ以上の悪名をのがれただけでも、母親のお心に届いております。
で……手前、孫兵衛の首を郷里に持ち帰り、龍耳老人や七家の衆に、この次第をつぶさに話し、白金の笄は、イサベラ様の墓石の下へお返しいたしたいと存じますので。
どうか、孫兵衛の首は笄をさしたまま、私におつかわし願いとうございます。はい、最前お頼みと申しましたのは右様な次第、皆様、このとおり、両手をついてお願い申しまする。
と、侏儒は話し終って頭を下げた。それと一緒に、ほっと、誰ともなく息をついた。
黙然と、うす目を閉じて、侏儒の語るのを聞いていた弦之丞は、その時、何思ったか、万吉の手からお綱へ渡されていた秘帖をとって、ピリッと、二ツに引き裂いた。
「あっ?」
色をかえた人々の目は、とびつくように、弦之丞の手もとを見あった。
「よし、孫兵衛のことは、そちの自由にするがよい」
キッパリといった上に弦之丞は、二つに破った秘帖の一半を、侏儒の手へさずけた。
「これは?」
「これは龍耳老人へおくる弦之丞の寸志じゃ。帰国の上は、何もいわずに、孫兵衛の首級にそえて、お渡しいたしてくれい」
ああ、さてはと、いちどは驚目をみはった万吉も鴻山も、弦之丞の言外にある心を汲んで、ひそかに思った。
お綱と弦之丞とは、さきに、剣山でとうていのがれ得ぬはずの危地を、龍耳老人のために救われている。それは、老人の思想と主家の将来を思うところによるとはいえ、救われた者には、大なる恩義であらねばならぬ。
理由もいわずに弦之丞が、せっかく手に入れた秘帖の一端を裂いて老人へ贈ったのは、それに酬う武道の情義であった。いいかえれば、恩讐を超えた心と心の答礼だった。
「ありがとうぞんじます」
侏儒はそれをふところに納め、孫兵衛の首級を袖にくるんで、
「では、皆様」と、もう一度辞儀をして、阿波川島の郷里へ帰るべく、急ぎ足に麓の近道を拾っていった。
後に思いあわせれば──。
徳島城の城地没収、二十五万石取潰しの審議が老中議判となった時、唯一の証拠である、世阿弥血筆の秘帖の一部が裂きとられてあったため、そこの数ヵ条の肝腎な個所が不明となり、蜂須賀家の申しひらきが幾分か立って、あやうく断絶の憂き目をまぬがれ、重喜の永蟄居だけで、一大名の瓦解を見ずに落着したのは、まったくその時、侏儒のふところに持ち帰された一紙片の力といえるもので、思えば弦之丞が龍耳老人へ酬いたものは、大きな贈り物であった。
しかし、それは後日になって、当面の人たちだけが思い当たって感謝したことだ。……今、侏儒の姿が麓へ小さく隠れてゆくのを見送っている弦之丞には、頬の微笑と、快い感情の波が人知れず胸にうった。
かれは手に残った秘帖の一部を鴻山に渡して、これは自分の使命のしるし、所司代松平左京之介殿の手をへて、幕府へ委細の復命をたのみたいといった。
「いや」
と鴻山は固く辞退した。
「この事件になんの功もない拙者が、それを携えて幕府の歓待にのぞむのは僭越でもあり、第一資格のない自身として恥入りまする。京都の左京之介様、また江戸表でも将軍家をはじめ、貴殿の肉親の人々も、どれほどか、噂をきいてそこもとの偉功をたたえて待っているか知れますまい。いわば栄ある凱陣の将、拙者も万吉もほかの者も皆、御同道申しあげよう。ぜひとも、それは御自身で江戸表へ」
と、すすめるのを、弦之丞は手を振って、
「御厚意のほどはありがたく思いまするが、実は、自分の一個の存念で、このまま、江戸へは帰らぬ覚悟でござります」
「えっ」
と鴻山は、その心を計りかねるように、
「そりゃ、なぜでござるか?」と弾みこんでまたすぐに、
「何か、徳川家に対して、ご不平でも? ……」と探るように顔色を見た。
なぜ?
それはお綱にも万吉にも、同時に怪しまれたことだった。ことに、お千絵はなつかしい人の姿を目の前にしながら、まだあたりの人の手前、ひとことも口をかわされないでいたが、にわかに悲しげな色が眉を曇らしている。
「決して」
弦之丞は鴻山の言葉を否定して、
「不平などはみじんござりませぬ。そう誤解して下されては困る。そのことは、とうから心にもっていた拙者の宿望です。──幸いにして、なかるべき筈の一命をたもち、父祖食禄をうけてきた幕府へも、いささか報恩の労をつくし得たことは、法月家の不肖児弦之丞としてできすぎた僥倖。なんで、それが誇り、なんで、望外な出世をのぞみましょうや。ただ、慾には、この微功をもって、お千絵殿の家名が立ち、また、ほかの方々にも何らかのお沙汰がありとすれば、拙者の本分、これ以上はないのでござる」
「いや、それでは、お千絵殿をはじめ、他の者も、第一この鴻山にしても、自身の本望はとげたにしても寝ざめのよくない心地がする。ぜひ、貴殿もいちどは江戸へ御帰府あるようにおすすめいたす。いや、お願いする!」
と、鴻山は熱をこめて言った。
その言葉は、お千絵の秘している心を代弁してくれるようであった。同時に、万吉もいわんとする気持を鴻山がつくしてくれたような気がした。
しかし、お綱の考えはどうであったろうか? すくなくも今のお綱の胸のうちは千々にみだれているに違いない。ひとり、襟に深く手をさし入れてうつむいている姿を見ても、その悩ましさが思いやられる。
いつか陽脚が傾いてきた。紫のひだを濃くしてゆく山の姿は夕暮の近さを示してきた。
と──あなたの小高い林をぬけてくる人数が見えた。奥甲賀の山間に陽がおちるまでと約束した、与力中西弥惣兵衛と、その手の捕方の影であった。
弦之丞はまたこういった。
「自分は純然たる幕府方の人間のようであって、まことは幕府に忠実な者ではござらぬ。それは今、秘帖の一半を裂いて阿波へ返してやった不審な行為でもお分りになろう」
と、あくまで、鴻山の切なすすめを拒んで、
「──底意を申せば、弦之丞めも、当今、皇学尊重のふうを非義とは存じられませぬ、むしろ、ひそかに王室の御衰微をなげいている一人なのでござります」
と、矛盾な気持を初めて明かした。
江戸に籍をおく身であって、一面、反幕府派と称せらるる皇学中心の運動をも、どうしても否定しきれないところに、かれの憂鬱が常にあった。
その矛盾を乗りこえて、かれをここまで勇躍させてきた力は、幕府のためというよりも、剣山で龍耳老人に告白したとおり、恋、義理、涙、そういうきずなにはきわめて弱いかれの個性──凡人凡智の情熱である。
今またその告白をくり返して──
「なんでこのふた心と矛盾を抱いて、これ以上、幕府の栄禄を食み得ましょうか!」
というのだった。
「多少、江戸表にも、心のひかれることがない身ではござらぬが、果てしのない凡情の延長へ辿ってゆくより、むしろこのまま帰府を断念して、元の虚無僧、一管の竹笛に余生を任して旅に終るほうが、自由で本望に思われます。拙者のためにと仰せ下さるならば、もうこの上のおすすめ、ひらに御無用に願いたい」
もう鴻山にも万吉にも、出世の無理強いをすすめるようなありあわせな厚意は、かれの真実と潔癖の前にいいだされなくなった。
で──黙然とうなだれてしまったが、その沈黙がくるとすぐに、わっと、こらえを破って泣く声をきいた。
はっと、皆の目は、泣き伏したお千絵の姿に吸いつけられる。
お千絵は最前から弦之丞の心もちをきいているうちに、あたりが真っ暗におぼえる程な失望に血を激しながら、今ここで、自分の心をいいだす勇気もなく、目の前を通りすぎて行こうとする運命に対しても、悲しむよりほかの力をもたないかの女であった。
「ああ……」
しかし、その痛々しい姿は、弦之丞の心をみだし、また責める。
ひとつの矛盾をしりぞければ、また新しくひとつの矛盾がなだれてくる。
神のごとき純なお千絵に、生涯の傷手を与えて去ることは、かの女を幸福にすべく起った初志をみずから裏切っていないだろうか。
また、ちょうど同じこの禅定寺峠で、去年の夏──お千絵様を! と合掌して落命した唐草銀五郎に対しても、破誓の罪がないだろうか。
理性はそれを問う、良心は弦之丞にそれを責める。
といって?
ここまで永い苦難をともにしてきたお綱を。ああ、お綱をどうしよう?
弦之丞も今はそのお綱を、分りきっている嘆きの底に突き落して顧みぬほど、冷やかにはなりきれない。
ましてや、ふたりは義理のある仲である。かれも、それを思いこれを思う時は、凡智の男になって断腸の思いがするのだ。いや、弦之丞でなくとも、誰かよくこの数奇に結ばれた運命を公平に裁き得るだろうか。
「ゆるしてくれ」
苦しい、心の遠くで、
「旅だ、果てのない旅だ。わしは未来の靄に姿をぼかして行こう。忘れてくれ、お綱も、お千絵も……」
と思いきる。
ふと、かれは唇のふるえを噛んで、あらぬ方へ面をそむけた。
さっきから、お綱は何ごともいわず、化石したように、じっとうつむいたきりであったが、苦悶の横顔に、ありありと弦之丞の胸を察して、今は、いたたまれないような気持に迫られていた。
と──不意に、お綱は自身から、悲嘆や愛執や、すべての情感を切り破って出るように、
「もし! ……」
と叫んで、その人の足もとへ、ふっさりした黒髪を体ぐるみ投げ伏せた。
「弦之丞様!」
両手をついて、紙のような顔色をあげたが、目や鼻へ熱いものが胸もとからこみあげて、激情の剃刀でズタズタに切り裂かれてゆくような神経は、まとまりもなく乱れた脈を全身にうって、
「弦之丞様! もし弦之丞様! 今のおことば、ご無理ではございませぬが、お可哀そうなお人のために、どうか、江戸表へ帰って上げて下さいまし、わ、わたしも、一緒になってこの通りお願いします……、お、お千絵様をつれて、どうぞ江戸へ……」
と一念になって言ったが、自分でも何を叫んでいるのか分らない悩乱にくるまれていた。
榛の木の上に、夕月が浮いて出た。
その時。
ガサ、ガサとこっちへ寄ってきた中西与力と捕手の者は、もう約束をすぎて、夕月さえ見る刻限となったので、少し、じれだしながら、咳払いをした。
無情を公明という法縄十手は、ともすると、折や場合に仮借なく、暗い榛の木の蔭からここへ飛ぼうとする気色!
ギクッと胸に釘を打たれながら天満の万吉、前には、お綱の今の言葉に泣くまいとする程男泣きの涙がもろくこぼれるし、うしろのほうへは、人知れずハラハラと気がねをして、
「頼む、頼む、もう少しの間」
と、それも口には出せず、目まぜで哀願しているのであった。
中西弥惣兵衛の考えでは、万一そこにいる者たちが違約をして、お綱を逃がすことがないとも限らぬ──という懸念があるので、そっと、麓から捕手の加勢を呼びあげて、十分に手を固め、目も放たずに見張っていた。
万吉は板ばさみの苦境に立った。
固い言質をとられている!
自身十手もちの目明しでありながら、十手にびくびくおびやかされなければならない万吉も、弦之丞がもつ苦しみとともに、これまた、人情が生んだ不思議な矛盾だ。
「どうぞ思いなおして、お千絵様のために、江戸へ帰って上げて下さいまし」
と、重ねて手をついて頼むお綱の手を、吾知らず、弦之丞はすくい取っていた。
「お前の心はよく分る!」
というように。
指へ痛くしびれてくるふるえが、お綱の涙をいっぺんに誘いかけた。だが、お綱は、ここでは決して泣き顔を見せまいとして、暴風のような激情と闘っていた。
「わしは幕府へ仕える気がすすまぬのだ。ゆるしてくれ、このわがままを。何と思いなおしても、江戸へ帰る気にはなれない拙者だ。で……それよりは、お前たち姉妹こそ」
と弦之丞は、お千絵の顔をジッと見て、
「ゆく末、むつまじく暮らしてくれ」
と力をこめて、ふたりにいった。
「えっ……?」
お千絵は耳を疑った。
姉妹? 誰と?
今、弦之丞はそういったのではないか。と泣きはれた目をみはったが、思い当たったものか、サッと顔の色をさめさせて、その眸を、お綱のほうへ向けかえたのであった。常木鴻山も、今はつつんでいた仔細を話して、お千絵に義理の姉をひきあわせる時機であろうと考えて、唇をうごかしかけたが、
「いいえ! いいえ!」
と、その間もないような早口で、お綱はすべてをさえぎって、名乗ることも避けて言った。
「弦之丞様、もうなんにも申しますまい。江戸へ帰ってくれともお頼みいたしません。ですけれど、たとえ旅から旅でお暮らしなさるにしても、お千絵様の身だけは永く見てあげて下さいね……ご、後生でございます。お綱があなたに最後のお願いは、たった、それひとつでございます。それさえかなえて下されば、わ、わたしは、自分があなたと暮らす身になったのと同じように、うれしいと思います! ……本望です! ……江戸の女の負け惜しみではございませぬ、心の底から、蔭にいても、おふたりのお幸せを祈っています」
「…………」
「返辞はどうなさいました。おっしゃって下さい、弦之丞様、承知したというひと言! それを聞いて、わたしはもう……行かなければならない所があるのです。そこへ、迎えが来ている体でございますから」
「や! ……」とふりかえる弦之丞。
鴻山もお千絵も、いつぞやの人相書を思いあわせて、初めて、救いがたいお綱の危機が、支度をしてのぞんでいる態に気がついた。
弦之丞は何ともいえぬすくみを、自身におぼえた。そして、棒立ちになっている万吉とともに、暗然とした顔を見あわせてしまったが、やがて、衝きあげる感情にたまらなくなって、ふたりとも声を洩らさず、背中合せに腕を曲げて、熱涙のたばしる瞼をおさえていた。
──待ちくたびれた様子の捕手は、果てしがないと見てか、急にいらいらとした空気をゆるがせて、
「まだか!」
と、むこうで呶鳴りだした。
エヘン! と職分、ただそれにだけ忠実な中西弥惣兵衛は、再三咳ばらいをして、かれの耳へ冬の風より辛く、刻限の約束をうながした。
「おお……」と万吉。
あれ程な男も、今は、目睫にせまった当惑と、足もとの情涙に、意気地もなくうろたえて、手を合して、拝まないばかりに。
「もうしばらく……もうしばらく」
と、一時きざみに、弥惣兵衛や捕手の影へ向って、はかない猶予を頼むのであった。
その、切なげな万吉の立場は、お綱の心に映っている。
で──覚悟をきめたらしく、ほつれ髪を指で梳いて、
「それでは、皆さま」
と、声を澄ませた。
一涙の痕もみせず、泣いていない顔は、ただ白かった。仮面のように、うごかない表情の白さだった。
「とうとう時節がまいりました、おそろしい程間違いなく、旧悪の埋合せを取りに来ました。けれど、見返りお綱の兇状を、いっそ、牢舎で洗われてくることは、先が楽しみのような気がいたします。で……皆さま、そういうわけで、私だけは、ここからひと足お先にお別れ申さなければなりませぬ。……永い間、ずいぶんお世話になりました。さようならば、ご機嫌に……法月弦之丞様、お千絵様、常木様、万吉様」
ひとりひとりへ会釈をして、梳であげる鬢の毛に肱を白く、ツイと立ったかと思うと、その痛ましい足どりの影へ──
「ア……お綱さま」と、お千絵が悲しげな声を風にかすらせる。
「おお、お綱、待て」
と、弦之丞も、剣をとる時の彼とは別人のように、みだれた音を重ね呼びに、
「──お綱、お綱」
と無意識に止めたが、それにさえ、耳をおさえて逃げるように、かの女は、疲れきった姿の細い影法師を、ふらふらと、青い月の色へよろめかせて行った。
大地いッぱいに光る草露は、みんな、泣かぬ自分の涙かとも思えて、
「ああ、ぜひがねえ」
今は! ……と天満の万吉。
惑いがちな私情に鞭打って、そのうしろから走りだした。ガッキと口にくわえた銀みがきの十手は、心を鬼にもつうわべの牙。
飛び寄ったが万吉、うしろから廻した手はいたわるようにそっと抱き止めて、
「お綱、御用……」
と、力のない涙の捕縄。
やわらかに掛けて廻した。
かの女の指は帯のうしろで、自分から捕縄をつかんでいた。そして、かれと自分との奇しき因縁を回顧するように、
「……万吉さん」
と、感慨を目にこめてふりかえった。
すぐに、中西弥惣兵衛は組子をつれてバラバラと駆けてくる。
捕渡しの法則どおり一札を渡されたが、万吉には見る気力もなく、縄尻が先方の手に移るとともに、お綱はもうなんら同情もない人相書一枚の女スリとして扱われた。
「歩けッ!」
と、月にひとすじのむごたらしい縄が、黒い影と影とをつないで、万吉も鴻山もお千絵も思わず面をそむけさせられた。
ひとり、弦之丞だけは、黙然とそこを去って、あなたの榛の木のかげへ歩んでいた。
すると、ちょうどその夕暮に、麓の禅定寺の寺男に様子を聞きただしていた女が、ふたりの幼い者の手をひいて、月明りをたよりに、この峠へ息をせいて登ってきた。
「さぞ疲れたろう、くたびれたろうね。お前たちの足では無理な道だったもの。けれど、寺の人の話から推して考えてみても、きっと、この上にいるに違いない。もう少しの道だろうから、辛抱おしよ、ね、我慢をして歩いておくれ」
こういっているのは四国屋のお久良。
「おばさん、おいらはちっとも足が痛くないよ、こんな道ぐらい何でもないや」
と、それに答えて元気なのは、手をひかれている乙吉だった。
「あたいだって……」
と姉のお三輪も負けない気でいう。
「暗くっても怖くはない。お綱姉さんに会えるんだもの。ねエ、おばさん」
「ほんとに、お綱姉さんはこの上にいるの?」
と、乙吉はその尾について、足を弾ませながら、連れられてゆくお久良の手をグングンと引っ張って行く。
「昨夜わざわざ万吉さんが、禅定寺で落ちあうからと、寮へ知らせてきたことだから、決して、嘘じゃないだろう、お綱さんは、きっとお前たちを待っていますよ」
「うれしい!」
「あたいの姉ちゃん! お綱姉ちゃん!」
ふたりは童心を躍らせた。
月光はむごく冴えつける。
お綱は、あさましい自分の影を大地に見た。
「お前は、なんていう数奇な因果を、ひとりであつめた人間だえ? ……」と他人になって、その影を、しみじみといたわり慰めてやりたかった。
そして──
「歩けッ」「いそぐんだ!」
と、口癖にどなる捕手に縄尻を突かれて、峠の坂路を、暗い沼へ辷ってゆくような気持で、ひと足ずつ、名残おしい人々からも遠ざかってゆくのであった。
が──より以上、切ない、胸苦しいかたまりは、むしろ、無情な成行きを、傍観的に見送っていなければならない、後の人々に残された。
お千絵は泣きはれた目を──鴻山は憮然とした腕ぐみを──また万吉は魂を抜かれたような哀別を──みな茫然と下りてゆく影へ送っていた。
それが、見えなくなった後も、喪心した人間のごとく、じっと立ちつくしている。夜虹のような天の川と秋風のささやきがその上にあった。
突然! 谷底へでも突き落とされたような悲鳴が、ヒイーッと山の静寂を破った。それは、ただの恐怖や単純な驚きとは思えぬ、強く胸を衝ってくる稚い者の絶叫だった。
「姉ちゃアン! 姉ちゃんを助けてッ……」
と、たった一声。
「あっ……そうだ!」
と万吉は、初めて、どやされたように思いだしたことがあって、
「悪かった! 途中で出っ会したか。ウウム、こういうことになるなら、知らせておくんじゃなかったのに」
と、足もとも見ずに、駈け下りて行った。
と、やがて万吉は、お久良と一緒に汗をかいて、泣きわめくお三輪と乙吉を、ひきずるように抱えてきた。
けれど聞き分けのない童心は、どんなになだめすかす言葉もうけ入れないで、あらん限りの声を木魂につンざかせて、
「いやだ、おさえちゃいやだッ」
「助けてよう! 姉ちゃんがつれられてゆく」
「お綱姉ちゃアん! ……」
「離してッ、おさえちゃいやだ。おじさん、ばか! ばか! ばか!」
と、抱き止めるものの手を夢中で引ッ掻いた。
だがそれも、どこからか、思いがけない一節切の音が流れてくるとともに、たかぶっていた幼い神経をなだめられて、シーンと深い静寂に返ってバッタリと泣きやんだ。
葛、山萩、女郎花、雑草にまじる青白い蕎麦の花、盛りあがった土のまわりに、離々と露をたたえている。その土まんじゅうの上にのせてある一ツの石こそ、前の年、この禅定寺峠で、犠牲的な死をとげた唐草銀五郎の空骸を埋けた跡の目じるし。
弦之丞はそこへ来ていた。
瞑目していた。
心の平調をとり戻すことにかれは苦しんだ。そして、ふと珍しく一節切の竹を手にとって、歌口をしめした。嫋々とすさびだされる音は、かれの乱れた心腸をだんだんにととのえてきた。無我、無想、月の秋。
大津時雨堂の夜が思いだされる。銀五郎は自分の望みが達しられた今日、うれしい手向と聞くであろう。かなたの木の蔭でも、万吉やお千絵やお久良や、ほかの者も、みな影を一ツに寄せて聞きとれていた。──そして、なおまだ遠くへは行くまい縄付のお綱も、せめて、淡い満足を感じて月にニッコとしたであろう。よしや、月夜の風邪、また新しい寒さを骨身に沁みてよび起こされても、かの女の好きな山千禽の曲。
* * *
却説。江州甲賀の山奥木賊村庄屋家記によると、弦之丞は両刀をすて、農となってその地で終っている。子孫があった点や隠栖した土地の縁故を考えても、明るい山村の耕地に、麦を踏み、鍬をもって、良人とともに働いた女性は、お千絵であったと思われる。
かれが裂いて返した秘帖の一片で、阿波は一城とりつぶしの厄をまぬがれ、禁門堂上の騒擾もきわめて軽微にすんだ。が、阿波守重喜だけは、当面の人物だけに、すぐ家督を子の千松丸にゆずり、親族秋元摂津守へ預けの身となった。
後に、秋元家から徳島へ帰ったが、幽閉は解かれず、籠居およそ四十二年、三十五歳から七十余歳まで例のない終身蟄居のまま、文化十四年三月、謫所で生涯をおえている。
一国の大名として稀有なかれの不幸が、なんとなく、剣山の終身牢を思わせるような生涯だったのは奇であるが、死後二十年の後には、かれの理想どおり、尊王の声が国内にみちていた。
江戸へ差立てになるかと思ったお綱は、京都町奉行所の仮牢を、たった一晩の牢舎でゆるされて出た。
無論、背後に、松平左京之介の庇護があった。
鴻山はすぐにお綱の身がらを引取りに出た。けれど、かの女はその夜、両手にお三輪と乙吉を連れて出たまま、どこともなく姿を隠した。お綱のあの性格が、どこまでもそういう運命を作るようにできているのか、ついに、その行方さえ知らずとなん。
底本:「鳴門秘帖(三)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1989(平成元)年10月11日第1刷発行
2009(平成21)年2月2日第21刷発行
※副題は底本では、「鳴門の巻」となっています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:トレンドイースト
2013年2月27日作成
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