當選の日
太宰治



(一) まづしい作家のこと


 こんど、國民新聞の短篇小説コンクールに當選したので、その日のことを、正直に書いて見ようと思ふ。私は、ことしのお正月に、甲府の人と平凡な見合ひ結婚をして、けれども私には一錢の貯金も無し、すぐに東京で家を持つわけに行かなかつた。家の敷金として、百圓くらゐ用意しなければならぬし、その他家財道具一切を買はなければならぬし、そのためには、どうしても、もう百圓は必要であらうし、とにかく、結婚當時の私には、著てゐる著物と、机と夜具、それだけしかなかつたのであるから、ずゐぶん心苦しいことが多かつた。はじめ私たちは、どこか山奧の安い宿でも見つけて、そこにかくれて、私はとにかく仕事に努め、家を持てるだけのお金を得ようと、そんなことも相談してゐたのであつたが、さいはひ、甲府の實家のちかくに六圓五十錢の、八疊、三疊、一疊の小さい家が見つかり、當分ここでもいいではないか、山の宿より安あがりかも知れんと、しちりんや、箒やバケツを買つて、その家に收まつた。敷金もここは要らないのである。


 甲府のまちのはづれで、坐つてゐても、部屋の窓から、富士がちやんと見える。葡萄棚もあり、枝折戸もあり、何よりも値が安く、六圓五十錢なので、それが嬉しかつた。汽車の響きがかすかに聞えて來るくらゐで、夜は、八時すぎると、しんとしてゐる。

「いいかい。侘びしさに、負けてはいけない。それが、第一の心掛けだと、僕は思ふ。」

 私は、多少口調を改めて、そんなことを家内に教へた。私自身、侘びしさに負けさうで、心細かつたからでもある。


 この家で、一ばんはじめに書いた小説は、黄金風景といふ十枚たらずの短篇であつた。その短篇が、こんどコンクールに當選してゐたのである。私は、當選などとは、ほんたうに、それこそ夢にも思つてなかつた。私はこれまで、私の性格、體質などに就いて、ずゐぶん誇張されて言ひ傳へられ、たしかに私にも不用意な點があつて、明かにそれは私のいたらぬところであつたけれど、あらぬ傳説が一部の人たちに信じ込まれてゐた樣子で、たいへん評判がわるかつた。當選などは、思ひも寄らぬことで、家内にも、また家内の實家の人たちにも、「こんど、國民新聞で短篇小説のコンクールがあつて、私も書くのだが、まあ、おしまひから二、三番のところ、と思つてゐて下さい。いいえ、ほんたうに、さうなんです。」と何かの機會に、さう言つて、笑つたことがあるけれども、そのとき、家内の母は、ひとり笑はず、正直に淋しさうな顔をして見せて、私はそれに氣がつき、おそろしく、しよげてしまつたことがある。


(二) 四人のひとを尊敬する


 四月廿二日の朝、私は、こんど出版する豫定の「愛と美について」といふ書き卸し短篇集の校正刷を、床の中で受け取つた。その校正刷と一緒に、速達のハガキが來てゐて、それには、上林氏と太宰とが、コンクールに當選した、といふことが書かれてゐて、はじめ、私は、ぼんやりしてゐた。何も、思はなかつた。ただ、見てゐた。だんだん、事情が分明して來て、それから、

「おい、おい。」と臺所の家内を呼んで、そのハガキを見せた。

「へんねえ。」家内も、一瞬、へんな顏をした。

「とにかく、驛へ行つて、新聞を買つて來よう。」そのハガキには、廿二日の新聞に詳細發表してあります、と書いてあつたのである。


 驛まで、歩いて、十五分くらゐかかる。朝の八時すこしまへで、學校に急ぐ中學生の列が、黒くぞろぞろ、つづいてゐた。歩きながら、だんだん嬉しくなつて來た。當選といふ事實が、はつきり掴めて來たのである。ふと、中學に合格したときの氣持が、思ひ出されて、あの時のうれしさも、こんなだつた。一瞬で、周圍の景色が、からつと晴れたやうな、自分が急に身の丈一尺のびて、ちがふ人種になつたやうな、やはり、晴れがましい氣持であつた。家内の實家の母に、だい一ばんに、その新聞を見せたかつた。驛で新聞買つたら、それを、實家の郵便受箱に知らぬふりして、投げ込んで置かうか、とさへ思つた。母は、私のやうな一物もない貧書生に娘を與へて、さぞ内心、淋しいことであらう。大決意を以て與へたのに、ちがひない。私は、少しでも母の、よろこぶさまを見たかつた。私には、實の生みの母もあるのだが、いろいろの事情から、いまは音信不通になつてゐて、親孝行したくても、なかなか、それの許されない立場に在るのであるから、せめて、この家内の母にだけでも子としての務めを、ほんのわづかでも、無力の私にできる小さい範圍内でも、何かしたいと念じてゐるのだ。


 停車場の賣店には、國民新聞が、一部殘つてゐた。私は、五錢を投じてそれを買つた。停車場の待合室のベンチに腰をおろして、その新聞をひらいて見た。私の寫眞が、上林氏の寫眞と並んで載つてゐた。私の顏は、少し修正されて、色が白く印刷されてゐた。けれども、やはり泣きべそをかいてゐる樣な顏であつた。私には、四票はひつてゐた。四人。私はぎゆつと眞面目になつた。力づよく思はれたのである。四人。四人のひとが私のいままでの惡評を押しのけて、敢然と投票した。美しいと思つた。嚴肅なものを感じた。襟を掻き合せたい氣持であつた。四人。すぐそのうちの二人の顏が浮んで來た。あとの二人は、私の知らぬ人かもしれない。私はこの四人を忘れては、ならない。私は素直に言ひます。私はこの四人を永久に尊敬する。


 
(三)無事之好日


 その新聞をふところに入れて、家へかへつた。さすがに、實家のポストには投入しかねた。家内にも、見せたかつたのである。

 家内は、その新聞を讀んで、

「でも、よかつたわねえ。上林さんと御一緒で、あたし、とても安心だわ。あなたおひとりだと、あなただつて、お苦しいでせう?」

 私は、家内をほめたく思つた。私も、上林氏と一緒なので、それが、とくに心強く、それに、──これは記名投票なのだから、公表しても差し支へ無いと思ふが──私の眞劍の一票は、上林氏の寒鮒に、いれて在るのだから、私のよろこびも二重になつてゐたのである。私は、朝ごはんまへに、校正のはうを片附けてしまふつもりで、机にむかつたら、ひよつこり母がたづねて來た。母は、甲府のランドラアとかいふハイキングの會で、山高の神代櫻へ行く人を募集してゐるさうだから、行つてみたらどうか、團體だといろいろ説明もしてもらへるだらうし、それに旅費が安い、一圓くらゐだから、この機會に行つたらどうか、毎日そんなに仕事ばかりしてないで、少しは氣晴らしをしたらどうか、と私たちに一日の行樂をすすめに來てくれたのである。


「ああ、それから、この御本は、どうも、ありがたう。」と、せんだつて私のところから借りて行つたシメノンの探偵小説を風呂敷から出して、

「うまいですね。この、シメノンたらいふひと。」母は、ことし六十五歳であるが、デユマや、コナン・ドイルの傳奇探偵物語の類を好むのである。英語だつて、少し讀めるのである。「このひとのもの、他に何か無いかな。」

「ええ、それよりも、」私は、國民新聞を取り出して「ここに、ちよつといいことが出てゐます。」

 私も家内も笑つてゐるので、母も、自然に笑ひ出して、

「なんだらう。眼鏡が無ければ、よく讀めないので。おや、おや、寫眞が出てゐますね。」

「僕が、いつかお知らせしたでせう? 國民でコンクールやつて、僕は評判がわるいから、びりから二、三番だらうつて。」

「さうですか?」母はきよとんとしてゐた。きれいに忘れてしまつてゐるらしかつた。


 だまつて新聞を讀んでゐた。讀んでしまつてから、

「黄金風景つて、どんな小説なんですか? 私は、まだ讀んでゐないよ。」作品を讀んでみないことには、母にも、當選の事實が信じられない樣子であつた。何かしら、不安らしかつた。

「それがねえ、あんまり自信ないのです。とてもお見せできません。お情で當選したのですよ。」さう言つて、けれども、お情、と言ひ切つてしまつては、まじめに投票して下さつた四人の人に、すまないぞ、と思つた。そこのところが、言ひ表はすのに、むづかしかつた。

 神代櫻へは、わざわざ團體で行かなくても、私たちだけで、のんびり見物に行きませう、賞金もらつたら、そのお金で行きませう、さうしませう、と三人で話をきめた。


 母がかへつて、私は校正にとりかかり、ひるごろまでに濟まして、晩い朝ごはんをたべ、それから、〆切のせまつてゐる小説を少しづつ書きつづけ、そのうちに、しきりと侘びしくなつて來た。

「おい、たいしたことでも、ないんだね。」

「いいえ、私、これくらゐの喜び、いちばん幸福に思ふの。五百圓、千圓もらふより、上林さんとふたりで、五十圓づついただいて、ずゐぶん美しいわ。」

 私は、日沒のころまで、仕事をつづけた。實家の妹が、家内に袷を一枚、持つて來て、

「これ、お母さんが、ねえさんにあげなさいつて。」ごはうびのつもりかも知れない。

 夜は、また速達で校正刷が來て、十二時ちかくまで、それにかかつてゐた。

底本:「太宰治全集11」筑摩書房

   1999(平成11)年325日初版第1刷発行

初出:「國民新聞 第一七〇四六号~一七〇四八号」

   1939(昭和14)年59日~11日発行

入力:小林繁雄

校正:阿部哲也

2011年1012日作成

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