第二海豹と雲
北原白秋
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飛べよ、深山懸巣、
神神はまた目ざめぬ。
磐が根に注連縄ひきはり、
幣帛にしで結ひ垂れ、
真榊の、鏡葉の音さやさやに
うち清めて。
啼けよ早や深山懸巣、
日は若し、かの稚神、
ひむがしはすでにかぎろふ。
少女たち、黄菊には古代のかをりがある。
純粋に日本の寂びと気品がある。
ああ、この静かな菊の香の苑に坐らう。
少女たち、黄菊には九重のみけしきがある。
雲の上の日と月のにほひもする。
わかい帝の御いきづかひが聞える。
少女たち、黄菊には御鏡の明りがある。
森厳な賢所のみけはひも澄む。
皇后宮も白い唐衣でお出ましになる。
少女たち、黄菊には紫宸殿の午後が光る。
高御倉の金の鳳、玉旛の玉や、青地錦、
かうがうしい黄櫨染の御袍も拝される。
少女たち、黄菊には聖駕の軋みもこもる。
儀仗兵の旗槍もちらちらつづく。
ああさうして、日本の民族の新らしい祝福が来る。
しろがねのさざなみみれば
くれなゐのはちすのにほひふふむらむ。
つくばえのあかれるみれば、ささにごり、
おしどりのつがひのおよぎしぬばるる。
はてなきかもよ、よひよひの
みのわひろごるわがこころ。
寂びつくす冬のながめを
小さき騎士馬駈けにけり。
いまぞ撤け、黄の飛行船、
消息の銀のちらちら。
十月、
大都会東京の午後一時二時、
日光がばかに白かつた、立体的で。
市民は高層なビルヂングの近景を、
いつもの通り右往左往してゐた、豆のやうに、
紅や青や紫や、パラソルの花、花、花、
自動車は疾駆した、旋廻した、昆虫の騒乱。
俺は空想した。ああ、この瞬間。
カーキ色の飛行船が爆発した、空の遥かで。
ぷすとただ光つて消えた点、──人、人、人。
十月、
誇張すると天を摩す屋上庭園の酒卓で
俺は古風な遠眼鏡を引伸ばしながら、
いつか失くした童心を探索してゐる。
よい花は空気をおくる。
落下傘月から放つ。
ああ、よいむすめよ、
今晩は笛が鳴ります。
青い孔雀の白い脛、
月はその爪みがいてる。
扇の冠、緑玉、
そよりともせぬ闇のうち。
丈の濃青の、頬の横を、
蒸すは黝朱の初夜の雲。
秘めよ、女性よ、すくなくも、
樫は花時、夜の時。
ああ、月は射す、刻刻に、
光は膝を匍ひのぼる。
張れよ、孔雀よ、尾の羽根の
渦の金紗の濃むらさき。
夜ふかき墓地に
音して、
ささとし、
落つる花あり。
幻ならず、
雲間に
むらがる霊の
しづまり。
闌けたり、
花はおどろく、
ささとし、
しきり落ちつつ。
梢よ、
月に照られて、
音あり、
暗き葉をうつ。
聖上の御悩重らせたまひぬ。
ああ、日の暮、
寒靄に人ゆき消え、
立木くろずみ、
公園の辻、ポスト赤し。
聖上の御悩重らせたまひぬ。
街の方、
鈴、車、ラヂオ、人ごゑ、
此処にして立ち聴けば、ただ
何か深く、
また暗くとどろくなり。
聖上の御悩重らせたまひぬ。
靄に点くイルミネーシヨン、
高架線、
すれちがふ省線電車、
ああ、スパーク、
師走月、
風も吹く、風も吹くなり。
おほぎみのみやまひおもし、
おほぎみのみやまひおもし。
いたいけの掌をあはせつつ、
みつよつの子もぬかづきぬ。
寒の月てらす玉垣、
霜はただふりそそぐなり。
貧しい冬の横丁でも
煙突のけむり夜になり、
窻に灯のつく安ホテル、
月の反つたがなほとよい。
枯木は高い欅です。
白い月ゆゑ、
昼の千鳥もつれないか。
波よ、来い来い、
坊やが浜から招きます。
白い波ゆゑ、
白い月ゆゑつれないか。
月は童に笑みかける。
まだ日中ゆゑ遊べよと。
童は月を観て遊ぶ。
はじめて白い月を観て。
波の音よ、
唐黍の毛のかすかな紅よ、
遠いあなたの笛の音よ。
なのりそといふ藻を
まだ知らぬ女の子よ、
なのりそといふ藻は
小鳥がたべる、
いんや、さかながたべる。
さて、ほんたうはおまへが、
もうすこしたたねばわかるまい。
ほれ見い、真珠いろの月が出てゐる。
月の光がさしました。
枯れた葡萄に、
日時計に。
月の燻しになりました。
ちらばる色も、
縫ふ影も。
月に消え消え飛ぶものよ。
ほの紫の
連れ鳥よ。
月の遥かになりました。
見果てぬ夢よ。
あの頃よ。
澄みきつた中天に
めり込んだ小ひさな満月、
白孔雀の尾だ、あの円光は。
起きて来い、坊や、
ふり仰げ、真上を。
小つちやい、小つちやい坊や。
ほのあかい蓮の蕾は
露にすずしい水鳥の
胸ふくらめてゐるやうで、
ほのぼのと夜が明けまする。
『パン屋さん、お早う。』
『や、お早う。』
ほのかなるそよ風のうち、
わが頬早や春を感じぬ。
ああ、わが子よ、
庭に来よ、善きものや見む、
善き朝、善き善きしめり、
をさなかる蝶もうまれむ。
白き白き光して来む。
北海道函館の郊外、湯の川といふところにトラピストの修女院があります。男子禁制の地です。天使園といふのがそれです。
君こそは童貞女よ。
イエズス キリストの花嫁。
あかつきの鈴蘭。
月の夜の亜麻。
君こそは童貞女よ。
花時の天使園。
かがやきの歌弥撒。
アンゼラスの鐘の音。
君こそは童貞女よ。
聖母マリヤの使ひ女。
しろがねの微笑。
牛の乳しぼりの木履。
君こそは修道女よ。
ローマ、カトリツクの寵児。
燃えそめし聖燈。
葡萄棚の駒鳥。
君こそは君こそはまこと童貞女よ。
昼見えぬ小さき星。
向日葵を刈る間も
主へかよふくちつけ。
帆のかげか、
船か、そは、
体はなし、
ただすすみぬ。
オホーツクの
海のはて、
時あかる
縁、しろがね。
たよりなし、
うそさむし、
かひやぐら
黄に、うつつに。
神ありや、はた虚しや、
かもかくに
思ふ我のみ。
海阪や、
越えなづむ
波、波、波、
ただうねりぬ。
金色の
円き月
炎はなち、
山のきは
はや黒し、
冴えかへりて。
ただ畳む
入江、岬
波、漣。
遠遠し、
また近し、
この明さを。
松が根の
はだら雪
まだ凝りて。
人はゆく
ひたひたと、
影はつけぬ。
柘榴は飛ぶ
人の手より、
空中の
円光と赤。
海の波たうたうとして
しろがねなり。
まぶしさ、
このはるけさ。
真昼の、せつない
一瞬の抛物線。
夜はくらい。沖はしづんで、
寄せ波の音ばかりする。
闌けて聴く浪の音には
モーターのとどろきもする。
ぬか星に犬も吼えてる。
セメン樽ころがしてゐる。
月の出はまだまだ遅い。
横雲の断れる寒さだ。
満潮の闇の音には
饑そそる騒めきがある。
ただ一つ、向日葵か、いな、
突堤の、線の灯あしだ。
ああ、浜だ、燐の眼をした
人がゐる。ほういほういだ。
日の光波に照り満ち、
ゆくところ頻吹かざるなし。
耿として
わたれ、むら鳥、
目路遠く秋はあるなり。
しろい一重の木いちごに、
朱のレッテルのマッチ函、
昼は昼とて、
夜は夜とて、
身ぢかな春のあかるさよ。
壺の一重の木いちごに、
擦るはマッチの燐のかず、
煙草ばつかり
すひほけて、
あそぶこころのけぶたさよ。
すぐろな壺の
もものはな、
ただ投げ挿した
枝の秀に、
青くチヨピリと葉が萠えて、
いつか毛ばだつ蕋のつや。
『おおい、煙草だ。』
春が逝く。
向うに
あかいもものはな、
棕櫚の葉に
鳴る
日のひかり。
蛾はまだ
飛べず、
この窻の
硝子に
羽うらひつつける。
寝室に
薄き紫、
書斎には
白の燭光。
竹、
竹、
竹、
一つほつとり、
北窻に
オレンヂの球。
夜はふけぬ、
ねむれ、鶯、
春の雪
幽かに沁むや。
青磁に金のほそきは
二三冊、鏡花全集、
しろい花、壺の木いちご、
蔓まろし、素焼の土瓶
湯気はまだそこらにふけど、
あてもなやわれの消息。
犬蓼の花やらむ。
日に照りてこまごまし紅、
道も狭にこぼれ咲きたり。
その道を、
やうやくに拾ひ歩める
吾が愛児なる。
虫も鳴け、露もあがれよ。
吾が子こそ地には立ちたれ、今日あきらかに。
日天子、
月天子、
りりりと虫は鳴きまする。
子どもは母に添ひまする。
雁も野づらに落ちまする。
篁に遊ぶ童は
素肌にて、
さびしかるらむ、一人にて、
前ゆすり、
後ゆすり、
竹の葉洩れの暑き陽を
ちりやちりちり、
ちりやちりちり、
見て楽しめり。
小さき童のつむりにも
月の光はしたたれり。
草の葉しるき土のうへ、
影は風とし揺りそよぐ。
母の乳に添ふみどり児の
小さきつむりのめづらしさ。
月の光に白萩の
夜はこぼれて香ににほふ。
竹のはやしは明るくて
秋風のみぞ満ちにける。
今宵まどけき月天子
かぐや姫をか召したまふ。
もくせいがにほふよ。
となりからにほふよ。
ひとりでゐればにほふよ。
たかむらにこもるよ。
月の光がみちたよ。
胡麻の実は早くも肥えて、
ふたつづつ茎をはさみぬ。
胡麻の花下べよりちり、
秀にのこる、まだほのあかし。
いとなめよ、地は震ふとも、
茎高に熟れよ、胡麻の実。
ああ、秋よ、
つくづくと鳴く蝉あれば、
音爆ぜて
飛行機は飛ぶ、かの高天に。
いが栗のあをきがうちは
つくづくと鳴く蝉ありき。
栗は落ち、土は震へど、
日のあたりつねにかはらず、
落栗をひとりひろはむ。
かすかなは
白い蛾の
まだ死なぬ翅。
みなぎるは
寺庭の
残暑の陽。
秋はやや
曳かれつつある
白い蛾の眼に映るのみ。
光り、
かげり
息づきつつ。
蝶を追ふ
光る風並。
風並の
そよぐ青萱。
この道の
はてしなさ。
空はあり、
空の奥。
風は追ふ。
蝶を追ふ。
鮮麗なは良夜の
一二等星。
月のあるのを忘れて
童は飛ばしてゐる竹の蜻蛉を。
いつまでもいつまでも竹の蜻蛉は光つてゐる。
薄にまるまる露の二たま
ぽろんぽろんと何か鳴る。
身について来た浪の音だよ。
竹の根の曼珠沙華だよ。
うたはただほのぼのとの、
よいにほひでの、
さいたばかしのはなのやうでの、
しなのたかい、いきづかひでの、
それはさびしいたましひのほほゑみでの、
さうありたいとおもふがの、
みなさまどうぢやの。
花の盛りはちんころぐさの花でさへ、
ただもう、ふんはりとしましての、
よいにほひの、
好いたらしいよいおいろの、
にくげといふものつゆもない。
花のさかりはよいもののう、
わかいうちぢや、
なんでもわかいうちぢやとよ。
曇り日の
あるかないかのそよ風に、
ほうつほうつと楊の絮が飛ぶわいの、
かはせみの巣のあたりまで往たわいの、
かはせみは居らなんだよ、
ただ、いたちが疱瘡で寝てゐた。
黄の花の二つや三つや、
棕櫚の葉ずゑに巻きのぼり、
ほつと、はづれて、
咲いさがりたり、
何花か、咲いさがりたり。
さて、知らぬとも、
すでについたる実の形の
ふらりひよろりとする実ゆゑ、
おもしろのへちまや、
おもしろのへちまやと、
妻が申しき。
妻が申しき。
鴫が立つ、
鴫が立つ、
ただそれのみの秋でおりやるよ。
おりやるよ、のう、
そこな坊さま、
いそがしやれよと、風も通つた。
ああもう秋ぢやな。
一所不住の沙門ぢやで、
山松風も聴いて行かうぞ。
花はかるかや、われもかう、
笹のほとりの女郎花、
ながめながめて見て行かう。
さて、白い
七日八日の月も見て、
昼餐の料やいただかう。
昼餐の料やいただかう。
秋が深いで、
虎の瞳も深うなる。
山松風も高うなる。
だがな、寒山、
虎の背なかは温かいぞよ。
しつしつ、温かいぞよ。
総角の唐子、唐子よ、
子を売ろよ、売ろよ、子を売ろ。
春の日は永や、のどかや、
ふれ売の大きな藺笠や。
黄の服の唐子、唐子よ、
かつがれて、籠にゆられて。
春の日は永や、のどかや、
前うしろ傾ぐになひや。
幼子よ、唐子、唐子よ、
まろき目を寄せて、集めて。
春の日は永や、のどかや、
売られゆく身とも知らずや。
総角の唐子、唐子よ、
物珍ら、街を眺めて。
春の日は永や、のどかや、
風吹けば絮の柳や。
選りどりよ、唐子、唐子よ、
子を売ろよ、売ろよ、子を売ろ。
春の日は永や、のどかや、
水の江の橋の眼鏡や。
美の、忍従の徳により、
彼は正しく讃められん。
彼はただひとり寂びつつ、
いや高き「上無き時」を楽しみぬ。
おのづから神に通ひぬ。
住みついてゐても、はつ冬
豆柿の点点に来る
鳥のちひささ。
わたしは見てゐる、目白のむれを。
鈴なりの豆柿よ。冬晴のあをぞらよ。
わたしは写してゐる、食べほれてゐる目白の一羽を。
あ、ちよつとお待ち、鉛筆を削ります。
目白だ。
こぼれるやうな目白だ。
あ、鵯が来た。
目白が散つた。
百舌が来た。
鵯が逃げた。
枝を移つた、翔つた、百舌が。
ああ、冬ばれ、
鈴なりの赤い赤い豆柿。
わたしはまた、待つてゐる。
目白を、鵯を、百舌きちを。
ちちりちちりと、まだ、
鳴く虫がある。
子はつまづいてはづした
膝つこぶの関節。
月は黄いろに光らぬ
電灯の線である。
松風だ、松風だ。
鳥の毛のやうな飛び雲だ。
枯枇杷の完き姿、
雀と大きな百舌、
残り陽の孟宗
ざさんさ、
めづらしい浪のざさんさ。
ああ、それだけの清明に、いま、
パッと電灯がついたのである。
ざさんさ
ああ、ざさんさ。
ほうい ほうい ほうい、
霜が濃いぞ、鶫よ。
葦の芽あをむ水ぎはに、
黒髪梳くや子の母、
うなじの白さ、つめたさ、
遠山雪のはるけさ。
黒髪丈に濡らして
裳の裾しぼる海女あり。
ついたちふつかの月ゆゑ、
夕汐騒のかすけさ。
鼓うちつつ、冴えつつ、
舟にて通ふ沼の女、
芽柳かすむ朝とて
黒髪風になびきぬ。
坊やよ、あの絵馬を見い。
ほうれ、馬が遊んでゐる。
白い馬、
葦毛の馬、
黒い馬、
跳ね立つ馬、
寝てゐる馬、
並んで水をのんでゐる馬、
泳いでゐる馬、
向うの向うを眺めてゐる馬、
ふりかへる馬、
ひとりぽつちの馬、
出てくる馬、
消えてゆく馬、
何千何百とゐる馬、
裾野いつぱいの馬、
馬は馬同志群れてゐる。
風は薄を吹いてゐる。
底本:「白秋全集 5」岩波書店
1986(昭和61)年9月5日発行
底本の親本:「白秋全集第四巻」アルス
1931(昭和6)年1月17日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:岡村和彦
校正:大沢たかお
2012年8月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。