新頌
北原白秋
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海道東征
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男声(独唱竝に合唱)
神坐しき、蒼空と共に高く、
み身坐しき、皇祖。
邈かなり我が中空、
窮み無し皇産霊、
いざ仰げ世のことごと、
天なるや崇きみ生を。
国成りき、綿津見の潮と稚く、
凝り成しき、この国土。
邈かなり我が国生、
おぎろなし天の瓊鉾、
いざ聴けよそのこをろに、
大八洲騰るとよみを。
皇統や、天照らす神の御裔、
代々坐しき、日向すでに。
邈かなり我が高千穂、
かぎりなし千重の波折、
いざ祝げよ日の直射す
海山のい照る宮居を。
神坐しき、千五百秋瑞穂の国、
皇国ぞ豊葦原。
邈かなり我が肇国、
窮み無し天つみ業、
いざ征たせ早や東へ、
光宅らせ王沢を。
女声(独唱竝に合唱)
大和は国のまほろば、
たたなづく青垣山。
東や国の中央、
とりよろふ青垣山。
美しと誰ぞ隠る、
誰ぞ天降るその磐船。
愛しよ塩土の老翁、
きこえさせその大和を。
大和はも聴美し、
その雲居思遥けし。
美しの大和や、
美しの大和や。
男声女声(独唱竝に合唱)
日はのぼる、旗雲の豊の茜に、
いざ御船出でませや、うまし美々津を。
海凪ぎぬ、陽炎の東に立つと、
いざ行かせ、照り美しその海道。
海凪ぎぬ、朝ぼらけ潮もかなひぬ、
艫舳接ぎ、大御船、御船出今ぞ。
あな清明け、神倭磐余彦、その命や、
あな映ゆし、もろもろの皇子たちや、その皇兄や。
行でませや、おほらかに大御軍、
まだ蒙し、遥けきは鴻荒に属へり。
慶を皇祖かく積みましき、
正しきを年のむた養ひましぬ。
神柄や、幾万、年経りましき、
暉や、かつ重ね、代々坐しましぬ。
和み霊、また和せ、ただに安らと、
荒み霊、まつろはぬいざことむけむ。
大御稜威い照らすと御船出成りぬ、
日の皇子や、御鉾とり、かく起ちましぬ。
日はのぼる、旗雲の照りの茜を、
いざ御船、出でませや、明き日向を。
海凪ぎぬ、満潮のゆたのたゆたに、
いざ行かせ、照り美しその海道。
海凪ぎぬ、朝ぼらけ潮もかなひぬ、
艫舳接ぎ、大御船、御船出今ぞ。
男声(独唱竝に合唱)
御船出ぞ、大御船出、
御伴船挙りさもらへ、
御伴びと挙り仰げや。
揺りとよめ科戸の風と
声放て、東に向きて。
大御船真梶繁ぬき、
照りわたる御弓の弭、
あな清明け、神にします、
あな眩ゆ、皇子にします。
はろばろや大海原、
涯なしや青水沫、
揺りとよめ大き国民、
大君に、
この神に、
讃へ言、
寿詞申せや。
荒海の、
荒海の潮の八百道の、
八潮道の、
潮の八百会に、ハレヤ、
とどろ坐す速開津姫に、
朝開、朝のみ霧の
遠白に、
末鎮み
鎮まらせ、
み眼すがすがと笑ませとぞ、
きこしめせと申さく
み船謡。
ヤァハレ
海原や青海原。
ヤァハレ
青雲やそのそぎ立、
その極み、こをば。
我が海と大君宣らす、
我が空と皇孫領らす。
ヤァハレ
潮漚のとどまるかぎり、
舟の舳の行き行くきはみ。
ヤァハレ
島かけて、八十嶋かけて、
大海に舟満ちつづけて。
見はるかし大君宣らす、
四方つ海皇孫領らす。
ヤァハレ
国土や、大国土。
ヤァハレ
国の壁そのそぎ立、
その極み、こをば。
我が国と大君宣らす、
我が土と皇孫領らす。
ヤァハレ
青雲のそぎ立つきはみ、
白雲の向伏すかぎり。
ヤァハレ
谷蟆のさわたるきはみ、
馬の爪とどまるかぎり。
見はるかし、大君宣らす、
四方つ国皇孫領らす。
ヤ
狭の国は広くと、
ヤ
嶮し国平らけくや。
ヤ
遠き国は綱うち掛け、
もそろよと、
もそろと、
国引くと、引き寄すと。
あなおほら、大君宣らす、
あなをかし目翳しおはす。
善しや、善しや、弥栄。
とどろとどろ、弥栄。
男声独唱
海原や青海原、
海道の導や、早や槁根津日子、
速吸の水門になも、その珍彦。
童声或は女声合唱(童ぶり)
亀の甲に揺られて、
潮の瀬に揺られて、
かぶりかうぶり海の子、
棹やらな、附いまゐれ、
波かぶりかぶるに、
み船へと移らせ、
名をのれ早や早や、
み船へまゐ出るは
臣ぞとそれまをす。
国つ神と這ひこごむ。
潮みづく国つ神、
海豚の眼見よな、
遠眼、鋭眼、慧しな、
羽ぶり羽ぶりおもしろ。
男声女声(交互に唱和竝に合唱)
菟狭はよ、さす潮の水上、
豊国の行宮。
ああはれ足一騰宮とよ、行宮。
足一騰宮は、行宮と
青の岩根に一柱坐す。
足一騰宮に参出ると、
大わたの亀や、川のぼり来る。
足一騰宮の大御饗、
誰が献る、はるか雲居に。
足一騰宮は菟狭津彦、
朝さもらふ、夕さもらふ。
足一騰宮は湍の上や、
足一つ騰り、雲の辺に坐す。
ええしや、をしや、
ええしや、をしや。
男声女声(交互に唱和竝に合唱)
かがなべて、日を夜を、海原渡り、
かがなべて、将た歳を、宮遷らしき。
ああはれ、その幾歳、
ああはれ、その行き行き。
年ごとに、御伴船、いや数殖えぬ、
つぎつぎに、御従びと、またいや増しぬ。
ああはれ、また春秋、
ああはれ、そが海山。
月の端や、足一騰宮、
一年や、筑紫の崗田の宮。
多祁理とも、阿岐の埃の宮、
たづたづや、七年や。あはれ。
吉備にして、また八年、高嶋の宮、
大和はも遠しとよ、高千穂よ遥けしと。
かがなべて、日を夜を、海原渡り、
かがなべて、将た歳を、宮遷らしき。
ああはれ、その幾歳、
ああはれ、その行き行き。
満ち満つや、み蓄、早やかく成りぬ、
天の下ことむけむ、秋今成りぬ。
ああはれ、えしや、
ああはれ、今ぞ秋や。
男声(独唱竝に合唱)
青雲の白肩の津、その津に、
雄たけびぞ今あがる、御船泊てぬ。
いざのぼれ大御軍、
いざ奮へ丈夫の伴。
浪速の辺に騒ぐ味鳧や、その渚を、
追ひ押しに押しのぼり、み楯竝めぬ。
いざのぼれ大御軍、
いざ奮へ丈夫の伴。
日下江の蓼津、その津に、
雄たけびぞ今あがる、大御軍。
いざのぼれ、大和は近し、
いざ奮へ丈夫の伴。
浪速の潮なし遡ると、
我が行かば何はばむ、長髄彦。
いざのぼれ、大和は近し、
いざ奮へ丈夫の伴。
男声女声(独唱斉唱竝に合唱)
神坐しき、蒼雲の上に高く、
高千穂や槵触峯。
邈かなりその肇国、
窮みなし天つみ業、
いざ仰げ大御言を、
畏きや清の御鏡。
国ありき、綿津見の潮と稚く、
光宅らし、四方の中央。
邈かなりその国生、
かぎりなし天つ日嗣、
いざ継がせ言依さすもの、
勾玉とにほひ綴らせ。
道ありき、古もかくぞ響きて、
つらぬくや、この天地。
邈かなりその神性、
おぎろなしみ剣よ太刀、
いざ討たせまつろはぬもの、
ひたに討ち、しかも和せや。
雲蒼し、神さぶと弥とこしへ、
照り美し我が山河。
邈かなりその国柄、
動ぎなし底つ磐根、
いざ起たせ天皇、
神倭磐余彦命。
神と坐す大稜威高領らせば、
八紘一つ宇とぞ。
邈かなりその肇国、
涯も無し天つみ業、
いざ領らせ大和ここに、
雄たけびぞ、弥栄を我等。
建速須佐之男命
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建速須佐之男命
枯山の巻
をを、をを、
をを。
神ぞ居れ、喚び哭く
冥き神、
神性や、霹靂と
猛猛し、ひと柱、
しや、須佐之男命、
建須佐之男、
速須佐之男、
ひたぶるや、益良神と
暴ぶる荒御魂の大童
雄叫び、
泣きいさち、
韛踏み、
蹴ゑはららかすや、
纏き、放つ湯津爪櫛、
美豆良振り乱り、
拳たたき、
掻い垂らす、胸前や
振り分つ八握髭、
鳴りとよむ御統の御珠、頸珠、
手纏、釧や、
ゆらかす足玉の緒もゆらに
揺り立て、
揺り荒べば、
凄まじ、この生み終の神、
さながらや、海阪の昂騰
押し移る
神立雲、
早手風、飛ぶ電光、
とどろ立つ蒼の虬、
閃めく掻爪の焦ちを、巻き崩れて
覆す鱗魚の大降り雨、
かく嘆けば、
かく哭き喚べば、
泣き腐し、泣き噪れば、
うち冥む世のことごと、
降り腐すそのことごと、
海河も泣き涸らすと、
しとど垂る長霖雨や、ああ、
光無し、時無し雨、
日も無し、
夜はも無し、
ただ恋し、妣の国、
ただ遠し、根の堅洲国、
欝にただ、欝に泣き隠りぬ。
をを、をを、
をを。
神ぞ居れ、喚び哭く
冥き神、
おどろしき神性の、
ひたぶるの人性の、
しゑや、縦しや、善き悪しき、
ただ歎く暴風雨の神、
霧立つや八雲立つ
出雲の子ら、
大族、国造の祖先神、
しや、建速須佐之男命、
この命ぞ、
秀に見る空のさきざき、
眼に見る国のまほろば、
たたなづく青垣山は
青山の石根、木の立、
神弱り、泣き腐すと、
神さぶと、枯山と泣き枯らすと、
息長の息嘯の風と
雨呼ばひ、哭き喚び、泣き隠れば、
日を竝べて、夜を竝べて、かく歎けば、
欝にただ欝に冥む。
かくなれば、世の神神、
をを、神神、
清明けき、ひとしほに和御魂、
顕らけく、美くしき、
常そよぎ、奇ふる神、
山と野の精霊、
大山津見、
鹿屋野比売二柱の神、
そが持ち分けて生みませる神、
もろもろの生きの産巣、
大地の草分、木の神久久野智神、
末ずゑの岐れの神、
澄みわたる神境や、
斎槻、湯津真椿、
葉広熊白樹、
厳橿や、白檮や、処女檀、
ああ、黒檜、雲懸るさるをがせ、
雪の上の白樺や、
水上の石楠の神、
柊や、ひらきそよご、
繁み立つ馬酔木、黒木、
磐村の犬大羊歯、
沼辺には茅萱、葦、髪がやつり。
もろもろの鏡葉や、
霞針、繊き葉の神、
落葉木や、
若萠の光る木の芽、
花隠る杪欏。
そを何ぞ、泣き枯らすもの、
日に奪ひ、夜に奪ひ、雨ふらせば、
ありとある立のことごと、
ありとある色のことごと、
勢無し、臥り撓むと、
すべしなし、立ちも滅ぶと、
水の気尽き、素力尽き、
ああはや、匂失せぬ。
をを、をを、
をを。
神ぞ居れ、喚び哭く、
冥き神、
しや、童、速須佐之男、
大天や高天原、
日は治らせ、大日孁貴、
さもこそや夜之食国、
夜は治らせ、月よ月読、
海原、吾はえ治らさじ、
言依させ、吾は聴かじ、
神柄ぞ、暴ぶる神、
胆太の眦裂くと、
言挙ぐと、泣きいさち、
抗ふと、おぞえ吼え立つ。
かく、吼え立てば、
大海よ、滄海原、
引き引きに歪み退き、
潮干るや、干潟泡立ち、
沸き立つや、蠍なすもの、
菊石なす、鰻なすもの、
鰓の怪や、飛ぶ翼の竜、
八剣の蜥蜴草食み、
始祖鳥荒き歯に咋ふ。
青水泥ひどらが沼、
蟠るぬめり蟒、
憚らず
曠野巨牛、
畏る無し
禍つ狼。
をを、をを、をを、
かく経れば、降りつづく雨をもちて、
蛆沸き、鯘れ、蒼蠅なす神神のおとなひ、
万づ四方つ神の災、
高津鳥の災、
昆ふ虫の災、
脂なす、逆吐き、嘔吐り、
生み、殺め、疼き、呻ぶ
もろもろの邪、
曲り、朽ち、饐ゑ、死ぬる物の穢、
常無く、火の気無く、
耀かず、祓ひ了へず、
下心澱み、
清まず、障り、
嚏り、瘧り障り、
蘝しく、焦だたしく、
苦しく、息づかしく、
瘡病、掻き淫ると、
醜つ神、追ひ挑むと、
ことごとや世のことごと、
堰きたぎち、
泣き、言問ひ、
挙り泣き、泣きなづみて、
ああはや事起りぬ。
をを、をを、
をを。
神ぞ居れ、喚び哭く、
冥き神、
果しなし、泣きいさつと、
海岸や上高岸、
巌窟なす岩戸、沙面、
腹這ふ大海胆の
紅殻や、生死殻、
錆釘のここだくの釘
その根、幹疎にうち埋めて、
開き葉の高張りや、
大葉蘇鉄、
をを、をを、
をを、
滴るや長雨しづき、
水松布なす美豆良雫き、
苔むすや、股、臂、
細螺と珠い這ひ、
畳菰褌破れ裂け、
小鈴落ち、脚結紐解け、
はららぐと、その短裳、
空見ず、ただ歎けば、
海見ず、ただ歎けば、
しや、伊邪那岐大神、
埒も無し、建須佐之男、
汝、
言依さす国は治らさず、
何もかも泣きいさちる、
父の御神詔りたまへば、
伊邪那美よ、僕が母、
妣坐せば、
根の堅洲国、
僕は恋し、罷りゆかずば、
ただ哭くと泣く。
ゑや、愚かや、
な住みそ、さば、此の国原、
行け、罷れ、
神柄ぞ、もとな流浪へ、
神やらひやらひたまふと、
ああはれ、建須佐之男、
眼も白み、追ひやらはれ、
泣き涸らし、はた、嗤ひぬ。
大陸序曲
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跳躍する
跳躍する奔牛は是れ、
厳たる意志力、
陀々羅踏む肉塊の黒旋風、
響き搏つ角、
響き搏つ角、
角は見よ、蒼き兜の大前立。
此処は鄂博──蒙古児陀羅海、
春ながら冬、
霾らす、霾らす茫漠たる内蒙古、
涯しなき視野、
東へ東へと移動しつつある沙漠の
凛然たる寒気の底に於て。
おお、眼だ、──昼闌けた円日、
耀く耀く十方の日あし、
しかもまた金色の光を奪ふ
濃い青の上空である。
微塵の星、
よく磨かれた気流。
光は光をうつ、
影は影と、
萠え立つ草の芽も何処かにある。
誰知らぬ物の窪にも
何か湛へる。
──何事かある。
跳躍する、
跳躍する奔牛の意志に乗つて、
思ひもかけぬとどろきが来る。
すばらしい、憤に似た
光るばかりの或物が来る。
跫音が来る。
根があつた。
高粱の枯れた畝竝、
黄色い土、
積み竝べた土糞、
ああ、それだけ。
木があつた、
ひとつひとつに
影を落した枯木であつた。
ああ、それだけ。
平らかな、或は柔かい
うねりのなぞへ、
日向はほどよく温んでゐた。
ああ、それだけ。
幌車が遥かを通つた。
白い馬に赤が三頭、
土けむり、
ああ、それだけ。
茫漠とした南満洲、
はてしのない川、結氷、
銃眼のある土塀、
風、風、風、
ああ、それだけ。
苦力よ、
四等車の苦力よ、
小さな日だ、
十三時半──十五時半、
汽車はただ駛つてゆく、
駛つてゆく。
ああ、それだけ。
ひた疲れ、ああ、このごと
路の端にねむる人、
命なり、赤き陽に
こんこんとうち伏しぬ。
正しきはまじろがず
天地に面ふらず、
戦士、守護神、
身をさらし、髭も凍る。
なべて見よ、この姿、
昼も夜もここに無し、
祖国のみ、民族の
血と肉と、一つのみ。
まつろはず、信なき
満蒙のかの匪賊。
憤る、憤るもの、
力なり、ためらはず。
戦へば勝つ人も
眠る間無し、小床無し、
せめて今、銃叉むと
ひきかぶるものも無し。
涙せよ、この姿、
昼も夜もここに無し。
ここにあり、土のうへ、
ひたぶるにねむる人。
日向の高千穂の峯
山の肩黝きに
風すでに矢羽根切りて
響きわたり、空へ翔けぬ。
おお、神々、
神つどひ、早も立たすと、
暁、来たり立たすと、
戟を手に、東の方
目翳しましつ。
蒼雲よ、国原
いまだ覚めず、
野も川もをさなくて
形成さず。
動けり、ただ、
雲の上の湖の魚
顎朱に燃えて。
日の出なり、
ああ、朝日子、
千別くと、雲のかぎり千別くと、
小さきかなや、浄きかなや、耿と照りぬ。
種子ありき、神産び玉と凝るもの、
かく在りき、在りて生き、香は蘊みぬ。
土なるや、大き陸蒙古の底ひふかく、
隠らひぬ、鉱と石との隙埋もれ。
時ありき、日も知らず、星も別かず、
ただ在りき、かく在りて千五百万の歳。
驚けよ、この命、霊びに若し、
讃めあげよ、かく古りてかく全けし。
世々ありき、人は興り、地に満ち満ちき。
国興り、将た滅び、また代々ありき。
霾るや、黄なる沙、嵐と哮び、
漲るや、洪き水、天傾ぶけぬ。
なほ在りき、生きの芽の命薫すと、
俟つありき、つひに来るそが黎明。
海を越え、空を蔽ひ、とどろ来るもの、
地響や、音爆ぜて翼搏つもの。
誰ならず、日の御裔、久米大伴が後、
神々の我が跫音、大皇軍。
俟つありき、大き陸、今かがやけり、
さ緑や、はてしなくよみがへるもの。
種子ありき、神産び玉と照るもの、
命なり、息づくと芽ぶきそめぬ。
しづかなり夏空、
軍の真上、
畏ろしく形無きもの
風をはらむつかのま。
敵なりや、稚き
将た生物、
現れ、また現れ、
視野は透る。
響無し、声も無し、
気息のみ
輝やかし時秒のみ
満ち、いきるる
ひたおもて、黄の土。
軍はあり、草をかつぎ
山のごとしづもる戦車、
晴眼にひたと向ひ、
未だ放たず。
そのはじめ、天地
創られて新に、
俟つありき、何ごとかの
一の動き。
どとと射つ我か、彼か、
このたまゆら、
勝つ者の正しき狙ひ
神のみぞ知ろしめすらむ。
陰はあり巨き戦車、
据われり休らひのあひだ、
道のべ、
響なす蒼蠅のみ
集り集る。
ねぶたし、ただ
疲れはてて、
空も無し、仇も無し、
戦、小止み。
命なり、張り満つる
五日、六日、
夜も無し、朝も無し、
飲まず、食はず。
我射ちぬ、彼射ちぬ、
しかも大暑、
何ごとのしらすぞとも
知らず、射ちぬ。
強しとも弱しとも
誰か分かむ。
ねぶたし、ただに瞼の
重く垂り来。
もぐりて、深くもぐりて、
兵なり、我ら、ねむる。
戦車よ、鉄の戦車、
しばしを、
ああ、しばしを光蔽へ。
ねぶたし、
ただに眠ると、
何も無し、我も無し、
ひた土に額押しあて。
真昼ぞ、ただ虚しき。
饑ゑたりや、饑うるともいざ、
生きむとも死なむとも
将た思はず。
ねぶたし、ただねぶくて
早や識らず戦も、弾丸も、
ねぶたし、眠らしめて
つかのま母の声聴かしめ。
突撃、
突撃するもの、
突くなり、突きまくり、
ひた刺し、刺しつらぬき、
銃床逆手もろに
飛び入り、はたきのめし、
はたくや、たたき斃す、
これのみ、ただこれのみ。
突撃、
突撃するもの、
ひたぶる、ひたぶるなり、
生死無し、邪無し、
戦ひ、戦ひ恍れ、
突き刺し、たたき斃し、
声のみ、息あるのみ、
我あり、跳ぶあるのみ。
突撃、
突撃する時、
ただ見る、命ある、醜き、
顔ゆがめ、眼ひらき、
恐れに、胆へし消え、
わななき、わななくもの。
敵なりや、彼なりや、
将た知らず、
斃れに、ただ斃れぬ。
響きて、ひと斃れぬ。
清明古調
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白須賀は昔の宿、
ただ白し、ものさびて、
その蔀、はひり戸、
なべてみな同じ障子。
ただわびし、軒竝の
同じ型、
出で、はひる人すらや、
同じ影。
音も無し、なにひとつ、
埃づくものも無し。
草屋のみ、
弱き日のあたりたる。
いづこぞ遠江灘、
潮見坂ほどちかくて、
薄ら曇る低き空を
風も来ず。
冬ながら、その屯、
ほのなごむ家がまへ、
ここ過ぎて、きびしとも、
おもほえず、寒しとも。
白須賀は旧街道、
朱の鶏冠ふりたてて
軍鶏の居れども。
そは暮のひとあかりのみ。
閑けさよ、三宝寺池、
桜咲き、
桜の枝に
人居りて釣竿垂れぬ。
閑けさよ、三宝寺池、
石神井や、
鉾杉むら、
影は沈む、緑青の水の面。
閑けさよ、三宝寺池、
昼闌けし日ざしに
枯れ枯れの葦、
片明る菱、浮萍。
閑けさよ、三宝寺池、
潜き鳥、かいつぶりの
よく響きて、
ともすれば連れ走る、頭のみぞ。
閑けさよ、三宝寺池、
雲は行き、
春は雲間に
なにとなくまだなごみぬ。
真夏なり、
鉄塔のよき間隔、
ちちと、ちちと、
飛び撓む
鳥。
子らよ、観よ、
噴きあがる雲、
青萱と田の稲と
照りうつる
空。
真昼なり、
街道のバスの埃、
スロープのさみどりに
開く窻、
ああ、八月。
唐辛子
花咲きて、
ほのぼのと
人と家、
炎天の野に歪みぬ。
幽けさや、この日なかの
邃き木の木しづく。
開けよ、声を雉子、
外の霞に。
たふとさや、神苑の
光る陽の橿若葉、
閑けさや、黝み闌くる
こもごもの青と緑。
とどめじ、塵ひとつ、
玉の砂敷きならして、
清々し、参道の
うねる径、こを行かばや。
芝生や、緩るきなだり、
宝物殿、
白きは隠る夏の
花のえご、香の一本。
よく観よ、和み霊に
吾が幼子、
亀の子の揺る影を、
鰭、さざなみ。
しづもれよ、昼間嵐、
現ながら、
ほのぼのと雲は立ち、
神と人息吹きかよふ。
閑かだ、
幽かな谷ふところ、
何か野鳥が来て動かす
枯葉雑木。
よく晴れた
塵ひとつない空、
木ぶかい庭、
まだ寒いその清明。
簡素だ、
飛び飛びの石、
萱の屋に衝き上げ門、
ここは西山荘。
微かだ、
罅われた地膚に
影が移る、古木の梅が、
咲くには早いその匂が。
ああ、さうして
音が徹る一つに、
あ、心字池、
大日本史の精神、その響が。
悠々たる老楽、
いさぎよい魂、
わたしは聴く、水の音に、
義公を、水戸の黄門。
清明けさや、この雪、
ふりおける雪につみ、
木々につみ、
燈籠にしろくつみぬ。
神垣や、このあした、
石走る水の音の
うちひびき、
氷柱みな新なり、日の光に。
この雪に跡つくる、
兎なり、跳び跳びて。
すがしきは笹の芽食む
毛の柔もの、幼し。
満ち満つ忝さ、
何事も畏くて、
息づきぬ、
国の秀の山高きに。
神ながら、この道に
ああ我や言ふすべなし、
大皇子の生れまして
春まさに雲ぞ騰る。
拍手、
拍手ぞ、ただ。
清しきは雪に立つもの、
白樺の林よ、げに
しろき木肌、
そは真処女。
幽けさよ、雪の渓に
直立ち、ほそき幹の
雪よりも光帯びて。
日は曇り、しろき真昼、
声も無し、このかがやき、
風も無し、色ひといろ。
閑けさよ、興安嶺、
ひえびえとけむる梢、
鷹すらも一羽飛ばず。
何すとか、ここに住む
白系露西亜、
貧しきは浄らかに窻ひらきて。
白夜ともほのあかる
空ひととき、
白樺の林よ、げに
光る神々。
青淀の岩壁をかく穿つもの、
滲みいづる滴りの淡水とは誰か思はむ。
など知らむ、しばしばも吹き通ふ雲、
上ぬめる繊き根のありとある脈さぐるを。
末そよぐ蔦の葉や、わづかにも紅み交ると、
み冬なり、石走る滴りの、また雫くと。
目も澄むや、岩角や、よく開きて、
濃き藍の竜胆ぞ、よく冷えたる。
本栖湖のへうべうたる、
往き、消ゆる
薄墨の雲に、
しろがねの燻して。
たださへや幽けきに、
懸巣啼きて、
雨は隠る木のま、
不二の裏べ。
山の上の畏こさよ、
月円く
現れて、
また白し、隈だちつつ。
来るのみ、過がふのみ、
雲しばしば、
霧らひつつ、動きつつ、
後清けく。
神は坐すや、この暁、
ああ、波皺、
風を思ふ姫鱒は水に棲みて、
また沈みぬ。
煙霞余情
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丸彫に我を彫る。
この眼の刃。
丸彫のこの木彫
細かくも、素に荒くも。
丸彫のこのもしさ
我彫らむ、みづからを皆。
丸彫のてづつなさ、
触れつつも、この己れ。
丸彫よ、息つめて、
息かけて、いとほしと。
丸彫のうるはしさ、
こを見よと我思ふ。
丸彫に刻むもの、
我ならず、何かある。
丸彫に彫りあげて、
その白き手に献げまし。
微笑はそよ風、
かぎりなく果なきもの、
奥ふかき湖のさざなみ。
微笑は眼に湛へ、
おのづから頬にのぼるもの、
声無くして調ある声。
微笑は明るくして
つつましく玉つつむ絹、
炷きこめぬ、そのまごころ。
微笑のやさしさは
愛し児の上かかる愛。
常秘めて常に満ちぬ。
微笑を保てよ、
閑かなる世の母、
昼ながら﨟たき月、
ありなしの雲さながら。
微笑はそよ風、
かぎりなく果なきもの、
ただにあれ、影なき眉
輝きは君にあらむ。
風に思ふ、
微風よ、
かくのごと閑かなる日ざしありやと。
菊のはな匂ふ日なた
なにか遊ぶ女童の
振りかへるに。
おもほえね時の移り、
空しとも、迅しとも、
ただなごむを。
女童は遊ぶのみ、
さだめなき秋の日の
それぞとも眼に見えねば。
しばらくは事もなし、
蜻蛉羽のゆきかひの
時ひかる道しるべ石。
風にそよぐ
陽のいろや、
月のごとをりふしを遠く行きぬ。
ふるさとや、わが母の
この山の手、
昔見しさながらを
ただしづかに。
闌けたり櫨若葉、
池も見えて、
壁赤き山の家の
ひとつふたつ。
築石や、棚畑や、
ふかき昼を
日の照り、
時うつる、この片岨。
影はあり、独佇つ
よき童、
おもざし、我かとも、
いま見上げつ。
鷽鳥よいづくにか
鳴き、くくみて、
色、匂、さまわかず、
風なるか、空なるかも。
北の関、南の関、
この道の手、
我は見る、我が昨日の
をさなごころ。
気色のみ、
風にのみ
言づてむ、
この匂を。
水の上に
ふる雨の
しばしばも
輪に点ちつつ。
旅やどり
すべなしや、
窻に見て
日をおくれば。
ほのぼのと
咲く花の
よき樗、
夏となりぬる。
色はあり、声にのみ、
こさめひたき、
雫のみこまかなる
この朝あけ。
花はあり、影にのみ、
ひとりしづか、
香のみ寂びたもつ
杉よ檜。
巣は懸る、高くのみ、
ウメノキゴケ、
気色のみ、母鳥や
姿、羽ぶり。
現あり、しろくのみ
濡るる光、
卵のみ、おそらくは
四つか五つ。
色はあり、声にのみ、
こさめひたき、
雫よ雫よと、
ただ幽かに。
言問はむ、
鉄塔の上に坐す円かなる月読の神、
二三すぢ細み引く茜の雲。
刈りしほと麦は刈り入ぬ。
昼貌のほめきも過ぎぬ。
いざ挙げむ琥珀のグラス、
時惜む夕ひぐらし。
影のみの紫ながら
野に色む靄もあるなり。
虚しきは
虚しきは酒のみかは、
影のみの色もあるなり。
晩冬の月に思ふ遊子は
潔く酒盃を噛む。
凛烈たる霜、
霜は湖畔の鉄塔を噛む。
灰銀の煙突を噛む。
鴨だ、光つて潜く
青首鴨は葦かびを噛む。
ああ。轣轆と礫は噛む、
車だ、唐辛子を積む車だ、
犬よ、その真紅のこぼれを噛め。
春だ、すぐ、
こごえて酒盃を噛む。
もの憂さや、老酒や、
瓜子はとり食めども、
にほひなし、昼はまだ
彩燈の切子硝子。
空なりや、
雲に行く日のまぼろし、
ゆゑわかず、うつつなし、
女童は言問へども。
梅雨ぐもり
影にのみ、﨟たけて、
低くのみ
烏秋の飛びたわむと。
濡れがちや、
朱の寂びや、
反り棟の碾瓦、
赤嵌楼。
瓜子、瓜子は眼の下の小さ黒子
歯にあてつつ、
歯にあてつつ、
愚しく美しく時は過ぎぬ。
註。瓜子(西瓜のたね) 烏秋(台湾烏)
赤嵌楼(蘭人の所謂プロヒレンチヤ城なり)
蕃童は羗仔を射る。
蕃童は弓矢手ばさみ、
蕃刀を玉と取り佩く。
蕃童は母をうしろに、
敢て立つ、岩根蹴放つ。
蕃童は朱砂をよろしと、
風向ふ草をよろしと。
蕃童は羗仔を射る、
竜眼の木ぐれうかがふ。
長唄 元寇 |
長唄 元寇
天に連る玄界の
際涯はいづく壱岐対馬、
夕浪千鳥群れかへる
蜑の小舟のそれならで、
山かと高き兵船の
満々と張る真帆の数、
櫓に撓むる石火矢に
軍皷の調旌旗とどよもし、
舳艫相接ぐ九百余艘、
入日に染まる船脚や
とどろと洗ふ潮の手を、
しや、ひた押しの陣がまへ
松浦さしてぞ押し寄せたる。
雲の峯
涌くや渚のさきさきに
駅馬しきりに嘶けば、
驚破こそ夷敵来襲と
上下ひとしく色を失ひ、
また風騒ぐ谷の松、
今に知る法華経の行者日蓮が諷諫、
まさしく、他国
侵逼難とは之なんめり。
抑々蒙古ときこゆるは
草莽にして胡沙を馳駆し、
万里北に蔓つて
勢漢土に臨むや、
金を滅し、宋を傾け、
余威高麗に及んでは
しばしば本朝をもうかがふ。
世界呑吐の元の野望
敢て挫かん鉄石の、
この人ありや執権時宗、
観ずれば明鏡止水のごとく、
断じては山河ことごとく震ふとかや。
曳くや竜の口、
冴は一刀、
死者の素頭刎ねざまに
大喝してぞ立つたるは、
げにおそろしき国つ胆、
由々しくもまた勇ましし。
星月夜、
鎌倉山のほのぼのに
早や駈け向ふ東国勢を待たばこそ、
今を危急の国難とて、
すなはち挙る鎮西は、
探題太宰ノ少弐、
菊池、大友、
島津、竹崎の将兵を初めとして、
所在の土豪、
庶民、婦女子に至るまで、
必定は公武一丸、
老も若きも、
恥あらば、
死ねや死ねとぞ、
有り合ふ鎧、物の具引きかけ、引き締め、
えいやえい、
えいおう、
おうおうえいや、
えいえいえい、
弓馬刀杖とりどりに
我も我もと馳せ集る。
日の本は
一天万乗の大君にましまして、
我が御代を
かかる乱れのあさましや、
神に御願をかけまくも、
忝くもおん命召させたまはむ、
代らめと
歎かせたまふ畏こさよ。
朝潔、
五十鈴の川の御手洗水や、
幣を手向の男山、
勅使下向と聞くからに
御陵の杉の昼闌けて
日の色添ふる蝉しぐれ、
護摩の煙のしまらくも
籠り絶えせぬ寺々山々、
いづれは異国調伏の、
はららはららと大般若心経、
物々しくぞ奉る。
敵は名に負ふ大陸の
銅羅のかけひき、騎乗の功者。
縦しや火遁の術ありとも
我に鍛への太刀剣、
香取鹿嶋の神代より
正大ここに鍾れば
やはかゆるがむ此の備、
照覧あれや皇天皇土。
海行かば水漬く屍、
山行かば草むす屍、
また顧みぬ防人の
昔ながらの雄たけびや。
水城、博多は多多良が浜の防塁、
別しては箱崎の宮の大前、
一歩も上げじ許すなと、
獅子奮迅に射放ち落せば、
波を潜つて軽舸の面々、
漕ぎ寄せ、漕ぎ寄せ、
日本国は四国の住人河野ノ通有、
いで物見せん、夷原、
月は弓張る幸先に、
倒す檣渡りに船と
乗りかけ、つけ入り、斬り込んだり。
頃しも弘安四年、閏七月の朔日、
ああら不思議や、
京にては
晴れに晴れたる夏空に
一朶の黒雲神立ち現れ、
白羽はいだる鏑矢の
見る見る輝き鳴動して、
たちまち西へと飛び去りける。
それかあらぬか志賀の嶋、
海の中道、灘かけて、
俄に起る一夜の颶風。
あやめもわかぬ暗闇に
裂けてつんざく稲妻や、
滝なす雨は百雷の
音と轟く物凄さ。
騰るは天の竜巻と
逆巻き喚ぶ狂瀾怒濤、
頼め頼めの錨も何の
船は木の葉の漂ふごとく、
ちやりやきりり、
きりやきりり、
ちやりやきりり、
きりやきりり、
ちぎるる鎖、命の友綱、
舷々相うち潰えて、
さしもの元賊十万、
あはれや千尋の底の藻屑となり了んぬ。
これぞ神風。
勅をして
祈るしるしの神風に、
寄せくる波ぞ
かつ砕けつる。
寄せくる波ぞ
かつ砕けつる。
制作年表
|
昭和五年
十三時半の風景
昭和六年
路傍にねむる 跳躍
昭和七年
三宝寺池 真夏
建速須佐之男命 丸彫
昭和八年
晩冬詩情 竜胆
本栖湖 月に寄せて
白須賀 神苑
雪暁
昭和九年
雪朝 道の手
水の上 こさめひたき
台南旅情 蕃童
日なた
昭和十年
西山荘 微笑
白樺
昭和十一年
暁天
昭和十二年
狙ひ 熟眠
突撃
昭和十三年
種子
昭和十四年
長唄 元寇 海道東征
巻末記
|
此の詩集『新頌』は些か皇紀二千六百年記念として上梓するものである。
収むるところ、三十一篇、その数は至つて尠い。ただ重要作としての長篇三品があつて幾分の量を加へてゐる。長唄「元寇」は別として、詩は前集『海豹と雲』(昭和四年版)以後の作品の中、その精神と詩風に於て、ほぼ同型のものを選んでここに蒐めた。
一に貫通するところのものは日本精神であり、整律するところのものは万葉以前の古調に庶幾く、概ね四音五音六音の連鎖である。この傾向はもともと、『海豹と雲』の「古代新頌」その他に因を発し、今日に及んでゐる。私の最近の主流を成すものである。私としての蒼古調である。
思ふに、古人の胆を掴むにはその感動律を奪ふに如くはない。蒼古に溯つて之を求めようとした真意はここにある。
かくしてここに収めた諸作品は概ね同種同律のものであつて、之は編纂の主意が単一と整斉に存するからである。
この詩風以外の、短詩短唱、或は小曲風のものはまた別冊として編輯の上刊行する予定である。近代風の詩作品もまたここには割愛した。でこの蒼古調は私の詩風のすべてを示すものではないのであるから、右は諒承せられたい。
さて、ここに本集収録の作品に就いて、章を別つて、少しく解説して置く。
この交声曲詩篇は、皇紀二千六百年奉讃の芸能祭に際し、日本文化中央聯盟の嘱に依り特に作詩したものであつて、信時潔氏之を作曲し、今秋、上演の予定である。なほ、この交声曲は、今度の国家的祝典に際しその公式のものとして選定、東京音楽学校に於て発表、畏くも 皇后陛下の行啓を仰ぐ筈になつてゐる。
作詩に就いては、眼疾最悪の時に当り、ほとほと難渋した。読みも書きもならない状態にあつたのである。で、古事記日本書紀等のそれらの資料は、妻や娘に、習字帖大に筆写してもらつた。無論大方は読ませて聴いた。作も口述が主であつた。機構が稍々大きく、歌ふものとしての整斉を節々句々或は字脚、アクセントの上に必要とし、相当に複雑してゐるので、眼を瞑つてただ心頭に案配し調律することは容易でなかつた。
さて、この「海道東征」はもともと 神武天皇讃歌として日向御進発より橿原の宮に於ける御即位に至る迄の結構を初念としたが、創作中、白肩ノ津御上陸に筆が及ぶ頃は既に制限された紙数を費して了つた。実演に要する予定の時間をも超過することになり、全体の三分の一に達せずしてうち切るの止むなきに至つた。で、早めながら、天業恢弘の一章を以て、一応の締めくくりをつけた。何れは之を前篇として、中篇後篇を成すべきであり、三部作として完うしたい考であるが、今は之を独立した一篇のものとして置く。
なほ、かうした交声曲詩篇の創作は、自身にとつて最初のものであり、日本に於て、その範例を見ることを得なかつたので、眼が見えぬ上に、全くの暗中模索であつた。しかしどうにか口述を了つてみると、更に進んでこの形式に向ふ気組もできて来たやうである。
昭和七年盛夏、自分達の季刊誌『新詩論』の創刊に際し、油然たる感興を得て書き下した。この「建速須佐之男命」はこの「枯山の巻」に続いて、「参上りの巻」「宇気比の巻」「出雲の巻」を纏める筈であつたが、偶々その発表誌を喪つた為め、中絶して了つた。
主として古語古調を用ゐたのは、古事記以来の古語を自己の薬籠中に一応の整理を為て置きたかつたのである。生かすだけは自分のものとして生かすべきだと思つたのである。のみならず、品詞の古語の使用が頻出する為の調和の上からも考へられたのであつた。自由詩形としたのは、曩に謂ふところの古人の感動律を掴むに最も適切と信ずる表現を欲したからである。なほ思ふところがあつて、この篇には漢語を一語をも使用しなかつた。
内容の本筋は古事記に依拠し、日本書紀とその異本とを参酌した。構成に就いては、自己の解釈を以てし、更に近代の感覚と文化史的想像とを以てした。須佐之男命に就いての私の解釈は私としての見解である。私は彼の命を必しも暴悪神として居らぬ。童心ある勇猛の、極めて男性的な英雄神とし、また偉大なる、最も人間らしい神として考へてゐる。
なほ、私は何れは古事記を近代人の知性と感覚とを以て、改めて解釈しなほさうと考へてゐる。さうして之を詩に移入したくひそかに希つてゐる。で、この一篇は之等の片鱗に過ぎない。
事大陸に関したものを主として蒐めた。私が満洲に遊んだのは、その事変前であつたが、何となく風雲の穏かならぬものが感じられた。「跳躍」の中には何か来るべきものの跫音が示唆されてゐる。
「種子」の一篇は、交声曲「大陸」の序曲となるべきものである。
今次の事変に於ける作詩は未だ極めて尠い。恰も眼疾に罹り、その機を失つた。他日の集成を期したい。
清明心を以て直入しようとした自然景情の幾篇であつた。中には依頼された雑誌の向によつて、多少平易な表現を用ゐた作もある。但し、之等の古調は私のものである。
余情のみ、ただ幽かな煙霞。
この長唄「元寇」は皇紀二千六百年祝典に際し、かの「海道東征」と同じく日本文化中央聯盟の嘱により作歌した。長唄としては私の処女作である。作曲は稀音家浄観翁の手に成る。
内容に就いて云へば、元寇といふ一大国難に於ける日本精神の顕現を骨子とした。所謂公武一丸となつて神洲を守護し、外敵にあたる。而も上御一人をはじめ奉り、下は庶民に至るまで正しく挙国一致の体勢のもとに、国体の尊厳と、皇道の大本、然してまた日本武士道の精華とを表現しようとした。世にいふ神風もさることながら、尽すべきことを尽して蒙古勢を撃破し得た執権時宗の胆と、皇軍の忠勇無比とがこの篇の眼目となるのである。この長唄は本年四月二十六日、歌舞伎座に於て公演せられた。各流家元をはじめ長唄界総動員の豪華演奏で、空前の盛事であつた。因みにその夜の出演者は左の通りである。
作曲 稀音家 浄観
作調 福原 百之助
作調 望月 太左吉
第一段 第二段 第三段
杵屋 六左衛門 杵屋 佐吉 笛 梅屋 竹次
長 杵屋 藤吉 三 杵屋 佐次郎 小皷 福原 百之助
中村 六松次 味 杵屋 佐三郎 小皷 福原 春之助
唄 杵屋 六真次 線 杵屋 勝吉治 大皷 梅屋 左十郎
杵屋 勝五郎 杵屋 太十郎 太鼓 梅屋 金太郎
第四段 第五段
吉住 小三郎 稀音家 浄観 笛 望月 長之助
長 吉住 小太郎 三 稀音家 三郎治 笛 住田 又三郎
吉住 小七郎 稀音家 六四郎 小皷 望月 左吉
吉住 小文郎 味 稀音家 四郎助 小皷 望月 吉三郎
吉住 小桃圃 稀音家 四郎吉 大皷 望月 吉之助
唄 吉住 小鉱次 線 稀音家 四郎太郎 太鼓 望月 長四郎
吉住 小五郎 稀音家 八郎 太鼓 望月 寿蔵
第六段
吉住 小四郎 稀音家 和三郎 笛 望月 長之助
長 吉住 小桃次 三 稀音家 六四郎 笛 住田 又三郎
吉住 小真次 稀音家 五郎 小皷 望月 左吉
吉住 小兵衛 味 稀音家 六郎 小皷 望月 吉三郎
吉住 小吉郎 稀音家 和三助 大皷 望月 吉之助
唄 吉住 小伝次 線 稀音家 三郎 太鼓 望月 長四郎
吉住 小三八 稀音家 和喜次郎 太鼓 望月 寿蔵
第七段
稀音家 六四郎
稀音家 六郎治
稀音家 八郎
吉住 小真次 稀音家 四郎助
吉住 小七郎 稀音家 四郎吉
吉住 小源次 稀音家 四郎太郎
吉住 小五郎 稀音家 和喜次郎
吉住 小伝次 三 稀音家 四郎雄
吉住 小三郎 長 吉住 小平次 稀音家 五郎
長 吉住 小三蔵 吉住 小吉郎 稀音家 六郎
吉住 小四郎 吉住 小郁郎 味 稀音家 和三助
唄 吉住 小桃次 吉住 小兵衛 稀音家 三郎
吉住 小太郎 吉住 小文郎 稀音家 四郎兵衛
吉住 小桃圃 線 稀音家 六八郎
長 松永 和風 吉住 小敞次 稀音家 和桃次
唄 杵屋 六左衛門 吉住 小鉱次 稀音家 四郎滋
吉住 小靖次 稀音家 和三次郎
稀音家 浄観 吉住 小健次 稀音家 四郎作
三 杵屋 勝太郎 吉住 小都蔵 稀音家 四郎一
味 稀音家 和三郎 吉住 小喜蔵 稀音家 六吉次
線 杵屋 佐吉 吉住 小雅次 稀音家 六一郎
杵屋 栄蔵 唄 吉住 小寛次 稀音家 政次郎
吉住 小紀彦
吉住 小喜雄 笛 望月 長之助
吉住 小英次 笛 住田 又三郎
吉住 小与作 小皷 望月 左吉
吉住 小三八 小皷 望月 吉三郎
大皷 望月 吉之助
太鼓 望月 長四郎
太鼓 望月 寿蔵
制作年表は簡単にした。詳しい創作及び発表目録は、各年の白秋年纂『全貌』に採録してあるゆゑ、参照していただきたい。この期間は短歌の創作に没頭した為に、詩作は極めて尠かつた。
底本:「白秋全集 5」岩波書店
1986(昭和61)年9月5日発行
底本の親本:「新頌」八雲書林
1940(昭和15)年10月15日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本には底本の親本の「表紙」「本扉」の写真、「中扉」の「詩集 皇紀二千六百年記念」、「中扉裏」の「八雲書林刊」が冒頭にありますが省きました。
入力:岡村和彦
校正:川山隆
2011年2月11日作成
2011年12月6日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。