春の暗示
北原白秋



25. Ⅲ. 10.

午後三時過ぎ、

 薄黄水仙の浅葱あさぎの新芽枯れたる芝生のなかに仕切られたる円形或は長方形の花壇のなかに二寸ばかり萌えいづ。その幾何学的なる配列のつつましさよ、風かすかにかよふ。

 水噴かぬ錆びたる噴水の露盤より静かに滴る水滴。

 温室前の厚葉シユロランの高きそよぎ。キミガヨランの長きしだり葉に日は光り、南洋土人の頭飾の如くにうちゆらぐ。

 植物園事務室より出で来りし、若き紳士の紺の背広に赤皮の靴のやはらかなる、薄黄水仙のほとりをぞゆく。

 異国の人来る。男は萌黄もえぎのソフトをかぶり、女は褪紅の外套を着け、その後より鮮紅せんこうの帽かむりし二人の男女の小児爽やかに走りゆく。転づるは French か、角ぐみそめし桜の二列ふたならびの並木の間の人道を、枯草の辺りを青くして低きかなめ垣の長きこみちに添ひて、ハリエニシダの花黄なる彼方へとぞゆく。日は黄にして軟かく、冷めたけれどもこゝろよき春の風吹く。

 とある枯れたる芝生の隅に整はぬ円形を作りあまたの迎春花ワウバイの小さくして色黄なる花葉もなき枯枝に咲けり。高さは人の足もとにうち見らる。

 砂敷けるこみちのほとり沈丁の花冷めたき風に甘く鋭し。

 少年二人カンヷスを手にさげて静心なく歩みゆく。濡れたる油絵具のにほひ新し。

 老緑色の小さき園標ゑんへうに記したる白き文字の淡青さよ。『このおくの下に庭あり。』

 暗くして青きインバネスのマワシの下に冷めたく白き指のみ見せて黄なる蜜柑みかんをむきつつ我はゆく……

 枝ぶりよきサンシユユの花の小さくして黄なる数かぎりなき哀愁よ、四時過ぎの日光をうけて風にそよげる。

 人ごゑきこゆ、女のやさしき砂を踏む足音も……

 色うすき、あるは華美はでなる羽織のちりめんのしとやかさよ、女の一人は淡青うすあをのリボンをぞ髪につけたる。

 サンシユユとこみちを隔てて向へるツタウルシの木の小さきこまかなる花、その枝に毛虫の繭ひとつ透きて見ゆ。

 遠き下町の夕とどろき、豆腐屋のラッパ、長く曳く小さき汽笛、鉄板の音。

 小鳥ちろちろと鳴く。

 湿しめれる粉つぽくして赤みある黒き土のそこここに、枯れたる小草の淡き淡き乳黄色と、そのなかに萌えいでたる葱色の草わかばの新しき配調を見よ。仏蘭西がへりの若紳士の軽く着けたるいきな背広のにほひする。

 丁字形の白ペンキの二尺ばかりの立標に W. C. と小さき横文字にて書きたる、そのつつましさに淡紫うすむらさきの花をすりつけて過ぎしは誰ぞ。

 日の光は形円きトベラノキに遮られて空気ひややかに風うすく匐ひくねれるサンザシに淡紅緑の芽は蕾み、そのもとに水仙の芽ぞ寸ばかり地をきてうちそよぐ。とある小枝に寥しくしていそがしき小さき白粉色おしろいいろの蜘蛛のおこなひよ。その糸の色なき戦慄……

 つゝおと一二発……

 眼をあげよ、今、くわつと明りし二本ふたもとの楠の梢を、サンシユユの黄なる花の光を、枯草の色を、淡青きヒヤシンスの芽のにほひを。

 そこらに声したる人もはや去りぬ。

 鳥は園の周囲まはりに鳴き、園丁の鍬に掘りかへさるる赤土のやはらかなるあるかなきかの湿潤しめりのなかのわかき新芽のにほひよ、冷めたけれども力あり。

 老緑色の足もとの小さき園標は日にそのさみしき半面をあてたる。その淡青き白き文字のかすかなる黄なる反射よ。『園内の草は早生といへども摘み取るべからず』云云。

 とちの枯木のもとに画架を立てたる青年画家は、静物の硝子杯と皿と水さしと醋ゆき林檎とを描きくづしたる古カンヷスの上に、まづ新らしき樹の幹の White と Blue とを塗りはじめたる。すでにかげりそめたる夕日は彼の男の描けるサンシユユの黄なる枝の花に、そを見る歯痛の人の顔一面に巻きつけたる白き繃帯に、わがむく蜜柑の皮の黄橙色オレンヂいろにさみしく光りつつあり。わが歩みは檜の日かげより丘のはづれの小亭へ、その傍の径を下りて睡蓮科の生ひひたれる小さき池のほとりへゆく。

 日の光はここにて淡き黄緑となり、冷くして透明なる水は薄らに顫へ、きたなきココア色の泥のなかに蠢く虫ありて、水草のかげに油すこし浮く。そのうへに八つ手のやはらかなる乳金色の花穂はこの小さなる領内にうらわかき貴公子の如く佇めり。

 三分ののちわれはまた広き池のほとりの老緑色のベンチに腰かく。園丁来りて踏板の上に並べほしたる靴ぬぎのよごれたる毛をはたく、チヨコレートの如き埃立つ。

 ここをまた蜜柑むきつつ日かげを厭ひて我はゆく……

 Tobaccos と白く抜ける煙草の赤き紙標見ゆ。敷島を買はんとて寥しき売店に入るほどの饑ゑたる心と、ひとりあるきのなにとはなき哀愁に日も暮れんとするさみしさよ。

 また小亭のベンチの老緑色のつつましきまでのなつかしさに一人ひとりゆきて休憩やすみたる十分ほどの静けさは独身のわかき男ならでは味ひ知らぬ憂愁の境ぞかし。この間に華美なる姿して金縁の眼鏡かけたる Blue-Stocking のともがら二人三人淡紅の梅花のもとをゆく。肉色のクリームの如き梅の花は厭ふべし。かのわかき女の冷めたき白歯と、はしたなき English の会話とはことに興なし。我はただ花下の若草の上を日光の匐ひ来りてかなたの小さきベンチの脚に射せる淡黄緑のあるかなきかのかげのみを見つめたり。

 マチれば火は風に消えて巻煙草のけむり一すぢのぼるほどにさみしき鐘は鳴る……盲唖院晩餐の鐘。

 小石踏みつつ後を通る紳士の右の手にもてる新聞紙の包はや薄青し。

 太く細き汽笛……新築中の槌の音……街の小児らの声……わが遂に歩み入る竹林の青さ、日かげはされて新しく、わがインバネスに、ノートの罫に、径を超えて空木うつぎの幹にて衰へ、キンギンボク、毒ウツギの青き葉は暮れやらぬ陰影のなかにありて小砂利のあかりに鋭く嘆く。

 猫柳のぼやぼやは銀紫にして、その下の廃れたる池の面には沈まんとする太陽の半円浮び、そが黄にして赤き光薄れ揺らぎつつ青みを帯べる銀の冷たさに拡がる。

 豆腐とうふイ……豆腐イ……

 テウチ胡桃くるみの淡紫の幹──坂をのぼりきりたるところより貯蔵庫(柑子類の植物を入れたる)の煉瓦壁見ゆ。何時も何時もわが歩みの目標となる軟かなるその壁の色はまだ芽にいでぬ薬草のにほひいたき畑のあなたに暮れゆかんとす。

 植物園の鐘鳴る。

 事務室の辺より四十ばかりの憐れなる女淡青の風呂敷包を背に負ひ、手には粗末なる蜜柑函を持ちて歩み来る、木材のにほひ空虚なる函に新し、この女西洋館前のだらだら坂を下りてゆく時その淡黄にて力なき壁の夕日を振りかへる。彼処には簇立せるシユロランの高き幹黒く、硝子窓にカーテン薄汚なく入口の扉は半ば斜に開きたり。藁づとの褪めたる色、ハヒビヤクシンの傾斜面の暗青色の静止──短艇ボートの船腹の如き雲灰白色の別館の上に薄れんとし、ヒマラヤ杉ひとり早春の風に戦ぐ。大きなる魚の青き骨のごとく。

 そのかげよりまた四十前後の女園丁三人手拭の頬冠りして出で来る。坂を下るとき、そのなかの素足の女半ば青きシラガミススキの蔭にゆきて、青き弁当の包を取り出しながら連のあとより急ぎゆく。

 われもまた出て去る。

 入口の看守はさみしげに座り、ユヅリハの葉柄の赤きが暮れんとして、とざさぬくぐりの間よりかなたの街の薄ら明をさしのぞき……さしのぞく……

底本:「花の名随筆3 三月の花」作品社

   1999(平成11)年210日初版第1刷発行

底本の親本:「白秋全集 15」岩波書店

   1985(昭和60)年2

初出:「創作 一巻三号」

   1910(明治43)年5

※初出時の表題は「春のSUGGESTION(植物園スケツチの一)」です。

入力:岡村和彦

校正:noriko saito

2011年19日作成

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