留守(一幕)
岸田國士
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中流家庭の茶の間──奥の障子を隔てて台所──衣桁には、奥さんの不断着が、だらしなく掛かり、鏡台の上には、化粧品の瓶が、蓋を開けたまま乱雑に並んでゐる。
女中のお八重さんが、長火鉢にもたれて、講談本を読んでゐる。
台所で、「御免下さい」といふ女の声。
お八重さん (起つて行き)あら、もう、後じまひすんだの、早かつたのねえ。御覧なさい、あたしはまだ、そのままよ。どうせお帰りは遅いんだから、何時だつてできるわ。お上んなさいよ。そんなとこに立つてないで……。
女の声 ぢや、上らして貰ふわ。まあ。……。(と云ひながら、茶の間にはひつて来る。お隣の女中おしまさんである)
お八重さん 一寸、見て頂戴……だらしのないことを……。
おしまさん あんた?
お八重さん いいえ、奥さんよ。
おしまさん うちの奥さんは、それや几帳面よ。鏡台なんか、女中にはいぢらせないの。こんな風ぢや、箪笥の鍵だつて、かけてかないでせう。(かう云ひつつ、箪笥の抽斗を引張る。果して、抽斗が開く)
お八重さん こら、こら、なにをする。
おしまさん (流石に、恥ぢて、抽斗を閉める)
お八重さん さ、ここへお坐んなさい。(座蒲団をすすめる)
おしまさん (坐つて長火鉢の縁をなで)しやれた火鉢だね。うちのより上等だ。
お八重さん 手入をしないから駄目だよ、お金ばかりかけたつて……(茶器を取り出し、茶をついで出す)何をうろうろ見てるのさ。
おしまさん ううん、何か珍しいものはないかと思つて……。
お八重さん いま、色々見せるよ。あんたんとこは、何時に帰るの、今日は。
おしまさん 夕飯を何処かで食べて来るつて云つてたよ。奥さんがまた、洋食かなんかねだるのさ。旦那さんは、鰻が好きなんだよ。
お八重さん あら、うちのもさうだよ。今日は、だけど、余所でおよばれなんだつて、……。あんた、知らない、そら、よく来る夫婦連れさ、奥さんの方が背が高い……。あれ、画かきだつて云ふけど、さうは見えないね。
おしまさん 知らないよ、そんな人……。
お八重さん 知らないことがあるもんですか。よく、大きな声で笑つてるぢやないか。
おしまさん お前さんとこは、みんな大きな声で笑ふから、誰が誰だかわかりやしない。
お八重さん さう云へば、あんたんとこは笑はないね。
おしまさん 可笑しいことがないんだもの。
お八重さん 可笑しいことがないつていふのは、不思議だね。お茶が冷めるわよ。さうさう、あれを出さう。(ブリキの缶から、塩せんべいを出し、二つほど、おしまさんの膝の上にのせる)
おしまさん かまはないで頂戴。
お八重さん 今月から、また一円上げて貰つたわよ。
おしまさん ぢや、十六円だね。この近所で十四円なんてとこは、あんまり無いよ。おかずでもよけれやだけど……。
お八重さん そこは、うちの奥さんはわかつてるよ。昨夜も半襟をくれたよ。(起つて行つて、かけ古しの半襟を持つて来る)これでそんなにかけてないんだよ。
おしまさん (一寸手に取つて見るが、さほど興味を惹かれぬらしく)寒いだらう、あんたの部屋……。
お八重さん 寒いとも……。あんたの部屋は……。
おしまさん お話にならないよ。それに、蒲団がぺらぺらと来てるから……。よつぽど、うちから持つて来ようかと思つてるんだけど……。序でがなくつてね。
お八重さん あんたは、さうしてくれるうちがあるからいいわね。どうなつたの、あの話……。
おしまさん ……?
お八重さん ほら、何時か、さう云つたぢやないの、誰だか、あんたをくれつて云つてる人があるつて……。
おしまさん さうだつたかね。
お八重さん 自分のことを忘れてれや、世話はないや。いくらもあるからわすれるんだらう。
おしまさん さうかも知れない。どんな話だつけね。
お八重さん なんでも、役場の書記をしてる人だとかつて……。年は少しとつてるけれど、浪花節がうまいつて……それから、小金を蓄めて、人に貸したりなんかしてるつて……。違ふのかい。
おしまさん ああ、さうさう。あの話ね……。あれより、もつと、好いのがあるんだよ。
お八重さん あんまり択るのはおよしよ。かすをつかむよ。
おしまさん それはね、在郷軍人なんだけれどね、一寸、男前がいいんだよ。
お八重さん それ、いいぢやないの。
おしまさん 苦労をするから、いやだ。(間)ねえ、お八重さん、また髪を結つてくれない。
お八重さん ああ、いいとも……。今日は、ゆつくり結へるから……。
おしまさん (奥さんの鏡台の前にすわり)此処でいいのかい。
お八重さん かまやしないよ。
おしまさん 奥さんみたいに、鏝をあてようかしら……。
お八重さん (おしまさんのうしろに廻り、髪を解きはじめる)
おしまさん この家の半分ぐらゐでいいから、早く、自分の家を持ちたいね。
お八重さん かういふ鏡台を置いてかい。
おしまさん あんた、どんな亭主を持つてみたい。
お八重さん 知らないわよ。そんなこと……。
おしまさん 知らないことがあるものか。百姓はいやだらう。
お八重さん 百姓だつて、字の読める百姓ならいいよ。
おしまさん 字を読んでどうするのさ。
お八重さん 一緒に、本を読むんだよ。
おしまさん どんな本……?
お八重さん 面白い本があるよ。
おしまさん 自分独りで読めばいいぢやないか。
お八重さん それぢや面白くないよ。読んだことを、また話し合はなくつちや……。
おしまさん さうかねえ。あたしや、字なんか読めなくつてもいいから、何か、歌のうたへる人がいいね。
お八重さん 一緒に歌ふの。
おしまさん 歌ふのを聞いてるのさ。あたしや、男のどこに惚れるかつて云へば、声に惚れるね。
お八重さん あんたは、歌が好きだからね。何時かも、お台所で、何か歌つて、叱られてたぢやないの。
おしまさん 歌をうたふのがどうしてわるいのさ。うたはうと思つてうたふんぢやない。独りでにうたつちまふんだから仕方がありやしない。
お八重さん 痛かない? よく抜ける毛だこと……。
おしまさん かまはずにやつておくれ。
お八重さん 随分汚れてるわね。
おしまさん 洗ふひまがないんだもの。
お八重さん あたしも、これで、二月目よ。
おしまさん 女中は、頭なんか洗はないものだと思つてるんだから……。
お八重さん うちの奥さんの毛は、いい毛だよ。
おしまさん うちの奥さんは、真中が禿げてる……。
お八重さん (おしまさんが、なに気なく化粧水の瓶を取り上げたので)それいくらだか知つてる?
おしまさん これかい。ヘチマコロンみたいなものだね。いくらだつていいや。
お八重さん ヘチマコロンが八本も買へるんだから……。
おしまさん あたし、近頃、顔へ変なものが出来てしやうがないんだけれど、これをつけたらなほるかしら……。
お八重さん およしよ、減るとわかるよ。
おしまさん (鏡台の抽斗をかきまはし)こんな処に、慰斗がはひつてら……。
お八重さん そんなにうつむいちや、駄目だよ。
おしまさん あんた、ひびが切れたところへ何つけてる。
お八重さん なんにもつけてない。
おしまさん 一と通り所帯道具を揃へるにや、いくらぐらゐかかるかね。
お八重さん そん時になつて考へても遅かないよ。
おしまさん あんたんとこの旦那さんは、女中にはどんな風だい。
お八重さん どんな風つて……。
おしまさん やかましいかい。
お八重さん そんなにやかましかないよ。
おしまさん 黙つてる方かい。
お八重さん 黙つてる方だね。
おしまさん お酒は飲むんだらう。
お八重さん どうしてそんなことを聞くのさ。
おしまさん よく、女中にからかふ旦那さんがあるんだつてね。
お八重さん ……。
おしまさん あたし、一寸、聞き込んだけれどね、近所で、あんたのことを、いろんな風に云つてるよ。
お八重さん どんなこと?
おしまさん それがね、うそかほんとか知らないけれど、奥さんが、ほら、いつか入院してらしつたことがあるだらう──あんときのことさ──なんでも、夜遅くまで、あんたと、旦那さんとの話声が聞えたつて、……。
お八重さん いつさ、それは……。
おしまさん だからさ、奥さんが病院にはひつててうちにゐないだらう、その間に、旦那さんとあんたとが変だつたつてことさ。あたしや、知らないよ、そんなこた……。
お八重さん 誰が、さう云つた。
おしまさん 誰だか知らないよ。みんなさう云つてるよ。──いいぢやないか、さうなら、さうで……。
お八重さん だつて、そんなこと、ありやしないもの……。好い加減なことばかり……。
おしまさん 痛い。そこに、カサブタがあるんだよ。
お八重さん どこ……ここ? 御免なさい。
おしまさん でも、旦那さんは、ちやんと、するだけのことはしてくれるんだらう。
お八重さん なにがさ。変なことを聞くのはよして頂戴よ。もう、髪を結つてあげないから……。
おしまさん 髪は髪、旦那さんは旦那さんでいいぢやないか。──世間にいくらだつてあることだもの……。だけど、しつかりしなきや、駄目だよ。玩具になつてるのが能ぢやないんだからね。まさかの時にや、奥さんにさう云つてやるくらゐの腹でゐなけれや、話はつかないよ。
お八重さん だつてそんなことないんだからいいわ。
おしまさん 奥さんは、幾月入院してたんだつけね。
お八重さん 初め一月半、それから二度目には二月……。
おしまさん それごらん……大ていわかるよ、誰が見たつて……。
お八重さん みんながさう云つてるつて、それやほんとなの。
おしまさん ほんととも……。誰にだつて訊いてごらん。魚屋だつて、八百屋だつて知つてるよ。
お八重さん まあ……。
おしまさん だけど、心配することはないよ。ああいふ人達は、あたし達の味方だからね。ただ、人が知らないと思つて、大きなことを云ふと、憎まれるんだよ。さうね、幼稚園の一軒置いて隣りに、石の門の立つた二階家があるだらう。あそこの奥さん、丸髷を結つた一寸イキなひとさ、見たことあるだらう、あの奥さん、なんだと思ふ? お妾だつてさ。それに、たまに来る男を、「うち」が「うち」がつて云ひふらすんだつて。近所で、それを知らないうちは、旦那さんは、何か商売で家をあけるんだと思つてたんだらう。処が、さうぢやないつていふことになると、そらね、今まで大きな顔をしてたのが可笑しくなるだらう。もうみんなが馬鹿にしちまつて、碌に挨拶もしないんだつてさ。
お八重さん ……。
おしまさん お前さんは、また、それとは違ふよ。なんと云つても相手は御主人なんだし、それに、これまで、気だての好い娘だつていふんで通つてるあんたのことだから、誰も、それを知つたつて、悪く思やしないさ。
お八重さん 誰が云ひふらしたんだらう、そんなこと……。
おしまさん 誰も云ひふらしやしないさ。ひとりでに知れて行くのさ。
お八重さん (途方に暮れて)困つちまふわ、あたし……。
おしまさん 奥さんは、まだ知らないんだらう。
お八重さん うすうす感づいてるらしいの。
おしまさん それや、大変だ。感づいてるつて、どういふ風に……。
お八重さん 旦那さまの御用を、わざとあたしに云ひつけたりなにかなさるの。
おしまさん さういふことがあつてからかい。
お八重さん それや、つい、近頃のことだけれど……。少し根が固かない?
おしまさん (頭に手をやつて)いいえ、これで結構……。ほんとに上手だわ。ありがたう。ここ、このままにしといていいの。
お八重さん あたしが、あとで片づけるからいいわ。
おしまさん (長火鉢のところに戻り)そいで、何か、あてつこすりのやうなことを云ふんぢやないの。
お八重さん そんなことは別におつしやらないけれど……この間、変なことがあつたの。
おしまさん どんなこと?
お八重さん 旦那さまのお留守に、今まで、来たこともない若い学生さんみたいな人が来たのよ。
おしまさん 男の?
お八重さん ええ、男の……。
おしまさん 上つたの。
お八重さん まあ、聴いてらつしやいよ。さうしたらね、奥さんがねあたしにかう云ふの──その男が帰つてから後でよ──今日あの人が来たつていふことは、旦那さまには内証だよ。その代り、旦那さまの方にも、あたしに内証のことがある筈だから、それは、あたしが知らないつもりにして置くからつて……。
おしまさん (感心して)さうかい。さういふことがあつたかい。
お八重さん どう、もう一つ、おせんべ……。
おしまさん ああ、おくれ。
お八重さん (せんべを与へながら)あんまり減つてるとわかるから、もうこれだけよ。
おしまさん わからないもんだね。内幕つてものは……。
お八重さん それからつていふもの、奥さんはそれやあたしをよくするの。
おしまさん あひみ互つてことがあるからね。
お八重さん だけど、いつまでも、こんな風にしてていいのかねえ。相談しよつたつて、相談する人はなし……。
おしまさん 旦那さんに、さう云つてみたらいいぢやないの。
お八重さん なんてさ。
おしまさん なんてさつて、あたしの知つたことかね。
お八重さん だつて、あたし、旦那さまの顔を見ると口が利けなくなるんだもの。
おしまさん どうして?
お八重さん どうしてだか……。
おしまさん 罪なことをするよ、ほんとに、……。だから、男はきらひさ。
お八重さん あたし、奥さまに悪いから、お暇を頂かうと思ふの。
おしまさん 奥さんに悪いよりなにより、あんたが、それぢや、可哀さうだよ。
お八重さん さうかしら……。
おしまさん 暇なんか取らなくつていいから、どつかへ、家を持たせてお貰ひよ。月々百円も出して貰つてさ、暢気に暮したらいいぢやないか。
お八重さん あたし、お妾なんかになるのはいやだわ。
おしまさん ぢや、奥さんを逐ひ出して、その後釜に据わるといい、お前さんにその腕があるかい。
お八重さん そんなことはできないけれど、このままならこのままで、人からいろんなことを云はれたくないんだよ。なんでもないのに変なことを思はれてちやつまらないからね。
おしまさん ……。
お八重さん しかし、これから先、どうなるかわからないよ、こんな調子ぢや……。
おしまさん おどかすねえ。そいぢや、今までは、そんなことはなかつたんだね。
お八重さん しつツこいつたら……。それでがつかりしたつて云ふんでせう。憚りさま、あたしも、それほど、おめでたく出来てやしないよ。ふんばる処ぢやふん張るよ。
おしまさん (壁にかけた三味線を見てゐる)
お八重さん あんた三味線弾けるんだらう。
おしまさん ああ、でも、しばらく弾かないから……。
お八重さん 弾いてごらんよ。(起たうとする)
おしまさん いいよ、そんなこと……。およしよ、見つともないから……。
お八重さん だつて、かうしててもしやうがないぢやないの。何かして、遊ばうよ。あんた、戸締りはして来たの。
おしまさん ああ、して来たよ。何処かへ行かうか。
お八重さん そんなことしてる暇はないわ。
声 (台所で)こんちはあす……。
お八重さん (驚いて起ち上り)どなた……。
声 毎度ありがたうす。
お八重さん あ、八百屋さん?
声 玉葱を持つてまゐりあした。
お八重さん お苦労さま、そこい置いといて頂戴……。
おしまさん うちのはどうしたの、八百屋さん……。
声 へ?(のぞいて)あ、あんたかい。どうしたの。お留守……?
おしまさん うちい行つても締まつてるから、そこい置いとくといいわ。あたしが、持つて帰るから……。まだ廻るの?
声 いいえ、今日は、あんたのとこでおしまひ……。
おしまさん ぢや、上つて、遊んで行かない。
声 だつて、悪いや……。
おしまさん いま、二人で、あんたの噂をしてたんさ……。
声 常談云つてらあ……。
おしまさん 常談なもんかい、ねえ、お八重さん。
お八重さん まあ、お茶でも飲んでらつしやいよ。
声 足がよごれてらあ。
お八重さん そこに雑巾があるでせう。(起つて行く)
声 ほんとに、いいのかい。
おしまさん いいんだよ。晩にならなきや帰つて来ないんだから……。
お八重さん (座にかへり)こんなに散らかつてるけれど……。
おしまさん 座蒲団をお出しよ。お客さんのがあるだらう。
お八重さん (一寸躊躇するが、思ひきつて、座敷から立派な座蒲団を持つて来る)
おしまさん さあ、どうぞ、こちらへ……。
八百屋さん (頭へ手をのせ)変だなあ。大丈夫かい。
おしまさん もつと、こちらへおいでよ……二人の間へ……。
八百屋さん (恐縮して)この上へかい、ええい、かまふこたねえや。(坐る)
おしまさん 巻煙草は、お八重さん。あ、あすこにある。(自分で立つて行つて、座敷から煙草を持つて来る)さあ、お喫ひ下さい。
八百屋さん 煙草なら、持つてるよ。
おしまさん 持つてたつていいから、こつちをお喫ひよ。二ほんや三ぼん、わかりやしないよ。
お八重さん (茶を酌んで出す)
八百屋さん おほきに……(あたりを見まはす)
おしまさん おせんべでも出したら……。
八百屋さん かまはないでおくれよ。
お八重さん (しかたがなしに、缶をあけ、せんべを八百屋さんの方へ出す)
おしまさん (二三枚つまみ出し、八百屋さんに)さ、一つ……。
八百屋さん ありがたう。そんなことしていいのかい。
おしまさん お前さんの知つたことぢやないよ。黙つておあがり。あ、それから、お八重さん、あたし、一寸そこまで買物に行つて来るから、八百屋さんを引止めといてちやうだいよ。
お八重さん 何処へ行くの。
おしまさん いいから待つてらつしやい。すぐ帰つて来るから……。
八百屋さん おれも、ゆつくりしちやをれないんだよ。
おしまさん なに云つてるんだい。勝手な時ばかり油を売つてるくせに……(起つて出て行く)
八百屋さん (独言のやうに)いつたい全体、これや、何事だい。
お八重さん ねえ、八百屋さん、あんた、何か、わたしのことを云ひ触らしやしない、よそへ行つて……。
八百屋さん どんなこと?
お八重さん どんなことつて、ありもしないことをさ。
八百屋さん ありもしねえことつて、どんなこと?
お八重さん 知らなきや、知らないでいいんだよ。
八百屋さん 知らないよ。
お八重さん おしまさんが、何か云やしない、あたしのことで……。
八百屋さん いつ?
お八重さん いつかさ。云はないかい。云はなきや、云はないでいいんだよ。
八百屋さん 云はないよ。
長い沈黙。
お八重さん 世間つて、うるさいものね。
八百屋さん (もぢもぢしながら)おれに関係のあることかい。
お八重さん (意外らしく)お前さんに関係のあることつて、何さ。
八百屋さん ううん、あんたと、おれと、どうかうつていふやうなことぢやねえのかい。
お八重さん あんたと……?(吐き出すやうに)そんなことぢやないよ。
八百屋さん (身の置き処に困り)さうか、そいぢやいいや。
長い沈黙。
お八重さん おしまさんてば、うそばつかし。
八百屋さん おら、もう、帰るよ。
お八重さん 待つといでよ。今、おしまさんが帰つて来たら云ふことがあるから……。
八百屋さん おれがゐなくちやいけねえのかい。
お八重さん ああ、あんたがゐてくれた方がいいの。(間)そんならさうで、あたしも考へがあるから……。
八百屋さん どういふ話なんだい、お八重さん……。おれに云つてくれたつていいぢやないか。何か、二人のことでつまらねえことを云つたんだらう、あの女……。
お八重さん ……。
八百屋さん おれや、そんなことを、云はれるやうなことをした覚えはねえんだがなあ。
お八重さん お前さんに関係はないんだから心配しなくつてもいいんだよ。
八百屋さん やつぱり、どつかしら、さう見えるんだね。
お八重さん さう見えるつて?
八百屋さん 此処の家へ来る時の様子が違ふんだね、いくらかくしてても……。
お八重さん 何をかくしてるのさ。
八百屋さん (極めて云ひにくさうに)さう問ひつめなくつたつていいぢやないか。
お八重さん ……?
八百屋さん どうせおれなんかにや、はなもひつかけちやくれめえと思つて、今まで黙つて辛抱してゐたけれど、よそ目にもそれとわかるんなら、いつそ、一と思ひに白状すらあ……。──お八重さん、おれや、あんたの顔を見ない日にや、頭が重たくつてしやうがねえんだよ。
お八重さん ……(あつけに取られて八百屋さんの顔を見戍る)
八百屋さん おしまさんはどんなことを云つてたか知らねえけれど、おれの方のことだけは、間違ひのねえところを云つたに相違ねえ。あんたの迷惑にはなつたかも知れねえが、今云ふ通り、おれがなにも喋べつたわけぢやねえ。おれを悪く思はないでおくれよ。
お八重さん ……。
八百屋さん おしまさんが帰つてくれやわかるこつた。
この時、台所から、おしまさんがはひつて来る。二人は、同時に、おしまさんの顔を見上げる。
おしまさん お待ち遠さま。いま、おすしをさう云つて来たの。(二人のただならぬ気色に、やや不安を抱くが、例の無頓着さで)お楽みのとこぢやなかつたのかい。
八百屋さん ┐
├(同時に)おしまさん。
お八重さん ┘
おしまさん なにさ、改まつて……。
長い沈黙。
お八重さん あんたは嘘つきね。
八百屋さん つまらねえこたあ云つこなしにしようぢやねえか。お互に迷惑だぜ。
おしまさん どうしたつて云ふのさ、あたしが何を云つたつて云ふの。
お八重さん もう忘れたの。
おしまさん ああ、あのこと? あのことなら、もう云つこなし……。さうさう、八百屋さんはなんにも云やしなかつたつけ……。
お八重さん ぢや、誰が云つたの。
おしまさん 魚屋さんだつたかしら、それじや……。そんなこと、はつきり覚えてやしないよ。魚屋さんかも知れないよ。
八百屋さん 常公がかい。あいつがなんだつて、おれのことを……。
おしまさん お前さんのことなんかぢやないよ。
八百屋さん ぢや、何かい、あいつも、お八重さんに……。
お八重さん (あわてて)あんたは、黙つといでよ。話が違ふんだから……。
八百屋さん ……。
お八重さん そんなら、魚屋さんに聞いてみるわよ。
おしまさん 聞いてごらんよ。だけど、そんなことを聞いてどうするの。あんたの恥になるだけぢやないか。
お八重さん 何が恥さ、え、何が恥になるのさ。あたしやね、この人の前で云つとくけどね、そんな、みだらなことをする女ぢやないんだからね。自分と一緒にしてもらふまいよ。
おしまさん あたしが、いつ、みだらなことをした。え、人聞きのわるいことを云ふもんぢやないよ。
八百屋さん まあ、まあ。……。
お八重さん あんたは、そんな人とは思はなかつたよ。
八百屋さん お八重さん、さうまあ怒らずに、ここんところ、おれに免じて、仲直りをしたらどうだね。おしまさんも、悪気でそんなことを云つたわけぢやあるめえ。お八重さんの潔白なこたあ。おれが保証する。おしまさんも当て推量で、いろんなことを云ふなあ、よくねえ。若造のおれが、こんな口を利くなあ、生意気なやうだが、おれも仲にはひつて、お八重さんに気の毒でならねえ。
お八重さん お前さんは黙つておいでつたら……。
おしまさん あたしが悪るかつた。ね、勘忍しておくれ。そんなつもりで云つたわけぢやない。話の調子で、つい、あんな風なことを云つてしまつたんだよ。これが、あたしの悪い癖さ。八百屋さんも、気を悪くしないやうにね。
八百屋さん (てれて)なあに、おれや、そんなこと……。
おしまさん だけど、あんたを悪者にしちやつてさ。
八百屋さん (お八重さんの方を盗み見ながら)そんなこたねえ。
おしまさん お八重さんは正直だからね。
八百屋さん (またお八重さんの方を盗み見る)
お八重さん 八百屋さんはいくつ?
八百屋さん おれかい。あんたより一つ上だよ。
お八重さん あら、あたしの年をどうして知つてるの。
八百屋さん (おしまさんの方を見る)
おしまさん あたしが云つたのさ。なんの話からだつけね。
お八重さん (機嫌をなほして)あんたは、ほんとにお喋べりね。
長い沈黙。
おしまさん 八百屋さん、あんたにお嫁さんを世話しようか。
八百屋さん もうよしてくれつたら、その話は……。
おしまさん だつて、これが初めてだよ。
八百屋さん (お八重さんに気兼ねしながら)また怒られようと思つて……。
おしまさん そんなことで怒るものがあるものか。いやならいやつてお云ひよ。
八百屋さん (空元気をつけて)いやだよ。
お八重さん (寂しく笑ひながら)さうさう、おしまさんなんかに頼むと、ろくなことはないよ。
おしまさん そいぢや。誰だか云はうか。
八百屋さん (ゐたたまらず)おら、もう帰る……(起ち上らうとする)
お八重さん (声を立てて笑ふ)
おしまさん うそだよ、うそだよ。(八百屋さんの手を引張り)あんたも若いね。
お八重さん もう、からかふのはおよしよ。
台所で「お待遠さま、毎度ありがたう……」といふ声。
おしまさん (起ち上り)御苦労さま。(出て行く、やがて、すしを盛つた皿を持つてはひつて来る)
お八重さん まあ……そんなに沢山……?
おしまさん たまにこれくらゐのことをしなくつちや……。
八百屋さん あんたがおごるのかい。
おしまさん 遠慮しないでおあがり。
お八重さん おしたぢを持つてくるわ。(台所に行つて、小皿醤油注ぎなどを持つて来る)
おしまさん ここのうちは、海苔巻が一番うまいんだつて……。さ、お取りよ。
三人思ひ思ひにおすしを頬張る。
八百屋さん なんだか知らねえが、喉がつまつて、思ふやうにはひらねえや……。
三人とも、また、黙々としてすしを食ひつづける。長い間。
底本:「岸田國士全集3」岩波書店
1990(平成2)年5月8日発行
底本の親本:「落葉日記」第一書房
1928(昭和3)年5月25日発行
初出:「文藝春秋 第五年第四号」
1927(昭和2)年4月1日発行
※複数行にかかる中括弧には、けい線素片をあてました。
入力:kompass
校正:門田裕志
2012年2月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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