迷子になつた上等兵(ラヂオドラマ)
岸田國士



星野少尉

臼田軍曹

小西上等兵

兵卒A

同B

同C

同D

荒物屋の主人

その妻

その娘


大正二三年頃の秋


ある歩兵聯隊の夜間演習が東京近在の農村を中心として行はれる。


小銃の音が二三発、遠くで聞える。

やがて、小砂利を蹈む七八人の靴音。


星野少尉  此の将校斥候の任務、わかつたね。富岡、云つて見ろ。

兵卒A  はい。──星野将校斥候は、前哨中隊の前方約千五百米の……。何川だか忘れました。

星野少尉  ひる川……。

兵卒A  蛭川沿岸を捜索し、成し得れば敵の前哨本隊及び……。

星野少尉  お前は駄目だ。黒部、お前云つてみろ。

兵卒B  はい。──始めからでありますか。

星野少尉  始めからでなくつてもいい、わかつてゐれば……。

兵卒B  ……成し得れば、敵の本隊及前哨線の位置を報告すべし。をはりツ!


銃声二発、足音止む。


臼田軍曹  (声をひそめ)小隊長殿、もう敵の歩哨線は、其処であります。


長い沈黙。


星野少尉  馬鹿! そんなところにからだを出してをる奴があるか。

臼田軍曹  あの橋のところで銃声がしました。

星野少尉  斥候の衝突だよ、まだ歩哨線までは大分ある。おい。小西上等兵、お前、垂水を連れて、あの橋のところまで行け。異状がなかつたら銃を挙げるんだぜ。


二人の走り出す足音。


臼田軍曹  小隊長殿、月が出ました。

星野少尉  うん、月が出た。


長い沈黙。──遠くでけたたましい犬の啼声。


臼田軍曹  ほんとの戦争でもこんなものでせうか。

星野少尉  さあ……。こんなものかも知れん。

臼田軍曹  近いうちに戦争があるでせうか。

星野少尉  あるだらう。

臼田軍曹  何処とですか。

星野少尉  始まつて見なけれやわからんよ。敵といふやつは意外なところにゐるものだ。──富岡、眠つちやいかんよ。


二三人の笑ひを噛み殺す気配。


臼田軍曹  今度の聯隊長殿は大分猛烈ですな。

 夜間演習が三晩続いたことは始めてです。

星野少尉  お祭が三晩続いたと思ふさ。富岡の国の方ぢや、今頃、何とか祭りつていふのがあるんだらう。──おい、どうした、また眠つてるのか。

兵卒A  蛭川であります。

臼田軍曹  何を寝とぼけやがんでえ。


また、二三人の笑ひ声。


星野少尉  さ、合図をしてる。行かう。足音を立てないやうに、駈歩かけあし


やはらかな土を踏む音。草叢のゆれる昔。銃声四五発。長い寂寞。やがて、其処此処に虫の声。


臼田軍曹  小西、大丈夫か。

小西上等兵  今、敵の斥候と衝突しました。多分、潜伏斥候だらうと思ひます。撃退しました。

星野少尉  よし。この道を退却したね。

小西上等兵  はあ。

星野少尉  臼田軍曹、一寸、懐中電燈を照らしてくれ。地図を見るから……。(地図をひろげる音)ははあ、この先の十字路が曲者だな。本道を避けて行かう。おれの後をついて来い。銃を樹の幹にぶつけるな。──そんなにかたまらずに……。


三四人の高い靴音が近づいて来る。


──この辺だらう。

──さうであります。

──二人きりだつたか。

──はあ、二人きりであります。

──うちの見習士官はぼやぼやして、駄目ぢやねえか。歩哨配置もろくに出来ねえなんて、士官学校で何を習つて来たんだい。

──歩哨守則は自分で適当に作れつて云はれました。

──そんな小哨長があるもんけえ、おれやあ、これでも、去年の機動演習にや、小隊長代理をやつたんだからなあ。講評は満点さ。

──今年の暮には、曹長になれるでせう。

──うん、順番はとうに来てるんだ。


かういふ話声が足音と共にだんだん遠ざかる。


星野少尉  誰だ、あれや。

臼田軍曹  十一中隊の堀越軍曹であります。

星野少尉  捕虜にしてやらうか、あの男……。

兵卒C  小隊長殿、脚絆が解けましたから、締め直してもよろしくありますか。

星野少尉  よし。

臼田軍曹  さつき、休憩中に巻き直しとけつて云つたらう。どうしてやつとかんのか。

星野少尉  よし、よし。早くやれ。──小西上等兵の家は、この辺だらう。

小西上等兵  はあ、この先の村であります。

星野少尉  一寸帰つて見たくはないか。

小西上等兵  先週の日曜に帰つたばかりでありますから……。

星野少尉  今夜あたり家の辺をうろうろしてると、それこそ、敵の捕虜になるぜ。──もういいか。前進!

兵卒D  軍曹殿、向うに何か見えます。

臼田軍曹  何が……。お前の眼がどうかしとる。

兵卒D  いいえ、動いてます。

星野少尉  何処だ。

兵卒D  あそこであります。

星野少尉  あそこは、お前……。なるほど、動いてるね。ぢや、そばへ行つて見て来い。

兵卒D  一人で行くんでありますか。

星野少尉  おれが後からついて行つてやる。

兵卒D  敵だつたら、どうしたらよろしくありますか。

星野少尉  お前、そんなことがわからんのか。

兵卒D  わかりました。

星野少尉  さあ、行け。


間。


兵卒D  うえツ。

星野少尉  なんだ。

兵卒D  乞食であります。


長い沈黙、風の音。


星野少尉  止れ! 姿勢低く!


二三発の銃声。


臼田軍曹  歩哨に違ひありません。複哨です。

星野少尉  小西上等兵、お前、富岡を連れて、中隊へ報告。いいか。──星野将校斥候報告、敵の複哨は……ああ、略図を書くから、それを持つて行け。

小西上等兵  はあ。


続いて、また、二三発の銃声。


星野少尉  将校斥候は、これから、歩哨線を潜つて、前哨中隊の位置を確めて来るつもりだつて、さう云へ。

小西上等兵  小西は、中隊に帰つて、この報告を中隊長殿に差上げます。それから、将校斥候は、これから前哨中隊の位置を確め……。

星野少尉  うん、よし、早く行け。道はわかるね。

小西上等兵  富岡、来い。なんだ、びつこをひいてるのか。


二人の走り出す足音。この足音はかなり長く続く。

銃声が二三発、極く近くに聞える。


小西上等兵  いけねえ、敵の斥候だ。こつちから廻らう。溝があるから気をつけろ。(一人の転ぶ音)馬鹿、だから、気をつけろつて云つてるぢやないか。──こんな気持の好い晩に、手めえ見たやうな奴と二人で歩くなあ、おれもよつぽど因果だつてことよ。あの森を見てくれ、え、おい、あの森のてつぺんを……。今にいいところへ連れてつてやるから、ついて来い。この道は、おれが学校へ行く時分毎日通つた道だ。この麦の穂は、毎日、一本づつ、笛にして吹いた麦の穂だ。駄目だよ、そんなに俺の方へ寄つかかつて来ちやあ……。いやに、黙つてるぢやねえか。どうしたい。夜道は嫌ひか。


遠くで五六発の銃声。


小西上等兵  やつちよるね。富岡、手めへ、一つ、相談があるが、聴いてくれるか。向うに五六軒、家が見えるだらう。あの一軒がおれの目当だ。瓦が光つてる、あの一軒よ。そんなにびつくりするこたあねえ。誰も泥棒にへえらうた云はねえ。


更に遠くで二三発の銃声。続いて、二三人の喊声。


小西上等兵  しみつたれた声を出しやがる。わかつたか。泥棒にへえるんぢやねえ、おれの知つてる家だよ、あれや、可愛い娘のゐる荒物屋だ。よせやい、そんなに早く歩くなあ。あそこで、熱い茶かなんか一杯貰つてさ、一時間ばかり、ぐつすり眠てみたらと思ふんだが、どんなもんだい。なに、其処を、おれがうまくやらうつてんだ。お前、この辺で、一つ、腹痛はらいたを起してくれや。なに、腹が痛い。そいつは困つたな。うん、辛抱できんか。待て、待て、そんなところでしやがんぢまつちやいかん。あそこまで歩け。いいから、おれの肩へつかまつて、歩け。あそこまで行けば、人家があるによつて、どこか一軒、気の毒だが叩き起して、しばらく横にして貰ふ、といふ段取りになる。中隊へ帰つて、おれは、さう報告をするから、手めえ、そばから、余計な口を出すなよ。腹痛が少し癒つたところといふ顔つきをしてゐろ。わかつてるぢやねえか。かう、少し、瞼の力を抜いてよ、鼻の孔をいつぱいに拡げてさ、口は不断の通り開いてればいいから、腰を時々左右にひねつて、どこんところが痛かつたか、思ひ出してみるやうな風をするのさ。


けたたましい犬の吠え声。


小西上等兵  やい、黒、おれだい、おれだよ、貞助だよ。暗くつて見えなけれや、鼻で嗅ぎ分けろ、犬らしくもねえ。


戸を叩く音。


小西上等兵  今晩は、もう寝たかね。

声  どなた……。だれだい。

小西上等兵  貞助だよ。わからんかね。おれだよ、下沢の貞助……。小西上等兵がわからねえか。

声  あら、貞さん……。


戸の開く音。


声  どうしたの、今頃……。

小西上等兵  さつきからの鉄砲の音で、おれのことを想ひ出さないなんて、ちつとばかり薄情だな。

声  まあ、そんなら、今晩の演習は、あんたの、聯隊だつたの。

小西上等兵  きまつてらあな。みんな寝たの。

声  今、寝たところなの、こんな格好して……。

小西上等兵  なんだつていいやな。

別の声  貞さんかい。冗談ぢやない。

小西上等兵  お父つつあん、今晩は……。

主人  よく、外されたね。

娘  剣附鉄砲を持つてるよ。

主人  いぢるぢやねえ。まあ、上つたら、そんなところに立つてないで……。時間はあるのかい。

小西上等兵  あるやうな、ないやうな……。お湯が沸いてたら、一杯貰はうと思つて……。だが、もう駄目かな。

娘  今まで沸いてたんだから、すぐだわ。

小西上等兵  ぢや、ここで、いつぷくさせてもらはう。いいよ、蒲団なんか……。

主人  連れの衆があるんだらう。

小西上等兵  なに、部下の奴さ。おい、富岡、こつちへはひれ。

主人  どうか、ずつと……。やあ、どうしなすつた、その靴は……。

小西上等兵  さつき、溝へはまりやがつてね、ぼや助なもんだから……。

主人  それで、戦争は、どつちが勝つたね。

小西上等兵  無論、こつちさ。


遠くでやや激しい銃声。


主人  まだ、やつてるね。

小西上等兵  あれや、ほかの組だ。ああ、草臥れた。なにしろ、五晩、ぶつ通しで眠らないんだからね。

主人  五晩……。

小西上等兵  さうさ、やりきれるもんか。

主人  貞さんは、五晩、眠らないんだとさ。

妻  御免なさい、こんななりで……。五晩……。よく、からだがもつね。早くお茶を持つておいで……。それから、棚の上に何んかあつたらう。

娘  少しぬるいかも知れなくつてよ。

小西上等兵  (茶を啜りながら)かういふ格好で、あんた達に会はうたあ、思はなかつたよ。

娘  重いでせう、その背中に背負つてるもの……。

主人  背嚢つて奴だ。さうさう、そんなもの、取つたらいいぢやないか。ちつとの間でも肩が休まらね。

小西上等兵  なに、慣れれば、こんなもの……。


やや近くで銃声。


主人  こつちへ来るやうだぜ。

小西上等兵  富岡、お前、表で見張りをしてろ。

主人  かまはないのかい。

小西上等兵  こつちは、もう、任務はすんだんだ。


銃声、次第に遠ざかる。


小西上等兵  あんた達、わしにかまはずに、もう休んで下さい。

妻  まだ、早いんだから……。ほんとに、あんた、楽になんなすつたら……それこそ、背中のもんでも卸ろして……。

小西上等兵  ぢや、さうさして貰ふか。どつこいしよつと……。

妻  これはなにさ。お弁当……。

小西上等兵  それは、飯盒つてね、飯を炊く道具さ。

妻  自分で炊くの。

小西上等兵  感心だらう。おしんちやんよりや、上手かも知れないぜ。

娘  あら、そいぢや、中を見せて御覧よ。

小西上等兵  中かい。中はもう空だよ。(飯盒を外から叩いて見せる)家ん中へはひつたら、急に眠気がさして来た。すまないが、此処で、一と息、休まして貰ひたいなあ。このままでいいから……。

妻  さあさあ。でも、そいぢや、窮屈だらうに……。二階へ上つて、しばらく横になんなすつたら……。

主人  それがいい、おしん、二階へ床を取つてあげな。


階段を駈け上る足音。


小西上等兵  それぢや、あんまり、済まねえなあ。

妻  なあに、どうせ、二階は空いてるんだもの。

主人  時間は大丈夫なんだね。

小西上等兵  一時間や二時間はいいんだが、そこは、みんなに心配はかけない。一時間だけ眠らうと思へば、一時間たつと、ちやんと目が覚めるんだから……。

主人  修業だね。

小西上等兵  それに、あいつが、番をしてるから、時間が来たら起させる。おい、富岡、此の時計で、十二時半になつたら、銃の遊底をガチヤガチヤさせろ。敵にも味方にも発見されないやうに、気をつけるんだぞ、いいか。此の戸は閉めて置いた方が安全だ。


戸を閉める音。


小西上等兵  此の靴下は醜態だ。

妻  かまふもんかね、寒いから、穿いてればいいのに……。

小西上等兵  ぢや、御免なさい。飛んだ演習になつちまつた。

妻  二階に、おしんがゐるから、寝巻を出させておくんなさい。

主人  お前、一寸、上つて……。

妻  あのが知つてるからいいんですよ。

主人  ぢや、まあ、ゆつくり……。十二時半だね。わしも気をつけてゐよう。

小西上等兵  知らせずに帰るかもわからないから……。


階段を上る音。


娘  これで寒くはないか知ら……。

小西上等兵  寒いもんか。沢山だ。あんたは何処へ寝るの。

娘  あたしは下……。

小西上等兵  下か。

娘  寝巻は、これを著て頂戴……。これ死んだ兄さんの……。

小西上等兵  ふうん、才公の……。大丈夫かい……なんて、うそだよ。ああいいよ、そんなもの、畳まなくつたつて……。

娘  これ、汗なの。

小西上等兵  涙かも知れないよ。

娘  誰の涙……。

小西上等兵  おれの……。

娘  どうして泣くの。

小西上等兵  会へないから……。

娘  ふふん。

小西上等兵  なんだい、ふふんたあ。

娘  ふふんは、ふふんよ。

小西上等兵  洒落たことを云ふと、かうだぞ。

娘  いやだつたら……痛い。

小西上等兵  こらしよツと……やれ、やれ、極楽だ。

娘  肩んとこへ、何か著せてあげませうか。

小西上等兵  その手を、かうやつてあてておくれ。

娘  いけないツ。可笑しいからさ。

小西上等兵  おやすみ、そいぢや……。

娘  おやすみなさい。


長い間。


娘  もう眠たの。


間。


娘  うそ寝よ。


間。


娘  今度は何時来られるの。


間。遠くで激しい銃声。


娘  あたしね。奉公に出たくなつちやつた。


表で犬を呼ぶ口笛。


娘  あの人、一人、ほうつといていいの。


また口笛──続いて。


兵卒A  来い、来い、此処へ来い、黒、此処へ来い。うん、どうした。鉄砲の音がこはいか。意気地なしだなあ。さ、おれと一緒にゐろ。

娘  なんか云つてるわよ。

兵卒A  うん、よし、よし、寂しかつたか。遊びに行くとこはないのか。駄目だよ、そんなことしたつて……。お前にやるもんなんかないよ。

小西上等兵  静かにしろつて、さう云つておくれ、おしんちやん。

娘  あたし、そんなこと云へないわ。


跳ね起きる気配。窓を開ける音。


小西上等兵  おい、富岡、何処だと思つてるんだ。敵前だぞ。声なんか立てる奴があるか。


窓の閉まる音。


兵卒A  (いくらか声をおとし)話をしちや、いけないとよ。そいぢや、おれが抱いててやる。いやか。どうしていやだ。おや、怪我をしてるな。喧嘩をしたらう。外出止めだぞ。


また、銃声が聞える。


小西上等兵  どうして家がいやなのさ。

娘  こんな田舎、つまらないつたらないわ。

小西上等兵  だから、おれと東京で家を持つさ。

娘  あんな、うまいこと……。ちやんと聞いて知つてるわよ。

小西上等兵  聞いて知つてる? 何を……。誰に……? おれのことなんか喋舌る奴はゐない筈だぜ。

娘  それが知れて来るから不思議だわ。

小西上等兵  つまらないことを云ふもんぢやない。おれには、おしんちやんといふひとが、たつた一人、ここにあるきりだ。今夜、かうして来たのも、ただ眠いからぢやないぜ、おれや、草臥れてなんかゐやしない。


銃声。


兵卒A  こら、こら、そんなに騒ぐと敵に見つかるぞ。貴様は、斥候の任務といふことを知つとるか。


銃声。風の音。


兵卒A  また惶てる。実戦ならおれはお前を斬り棄てなけれやならんぞ。(間)かうしてゐるひまに、時間は経つてくれるんだらうな。(間)貴様が畜生でなけれや、おれは、頼みたいことがあるよ。


銃声。


小西上等兵  わかつたらう、ね、だから、それでいいぢやないか。さ、話がきまつたら、おれは、もう起きるよ。

娘  まだ帰つちやいや。

小西上等兵  帰りやしないよ。其処と此処ぢや話がしにくいぢやないか。


突然、激しい銃声。──方々で犬の吠え声。

続いて、「退却ツ」といふ声。


星野少尉  臼田軍曹、大至急、中隊へ報告、──敵は夜襲の準備をなしつつあり、それだけ、いいか。

臼田軍曹  わかりました。


慌しき駈歩。


星野少尉  みんな、惶てるんぢやない。実戦でさういふ風なら、おれはお前たちを残らず斬り棄てなけれやならんぞ。あの人家のあるところまで駈足をするな。あの、瓦の光つてゐる二階家、みんな見えるか。──銃に装填してないものはないか。今のうちに弾丸たまめろ。


近く、二三発の銃声。


星野少尉  伏せツ!


長い沈黙。


星野少尉  前進!


小砂利を蹈む靴の音が、しばらく続く。犬の吠声。


星野少尉  誰だツ!(間)誰だツ。なんだ、富岡ぢやないか。こんなところで何をしてる。どうしたんだ。(間)黙つてちやわからん。中隊へ報告はしたのか。なに、まだだ。小西上等兵はどうした。何処へ行つたんだ。

兵卒A  上等兵殿は、さつきまでをられました。

星野少尉  何処にゐたんだ。

兵卒A  富岡のそばにであります。

星野少尉  見失つたのか。

兵卒A  富岡が見失つたのではありません。

星野少尉  上等兵の方でお前を見失つたと云ふのか。

兵卒A  はあ、さうであります。

星野少尉  それで、お前は、ここでうろうろしてゐるのか。

兵卒A  待つてゐるのであります。

星野少尉  見失つたものを待つてゐても仕様がないぢやないか。さういふ時は、一人で中隊へ帰るんだ。上等兵が敵弾に当つて斃れたと思へば、それでいいんぢやないか、そんなことぢや、戦争の役に立たんぞ。一緒に来い。

兵卒A  行つてもよろしくありますか。

星野少尉  よからうぢやないか。──駈歩かけあし


駈歩の遠ざかる音。長い間。


娘  かんにんして頂戴。ね、いいこと……。この次ぎよ、きつと……。


銃声次第に激しくなり、その音が連続的に近づいて来る。やがて、ばつたり止む。

「演習止め」の喇叭が、朗らかに鳴り響く。


小西上等兵  たうとう、おれは迷子になつた。


──をはり──

底本:「岸田國士全集3」岩波書店

   1990(平成2)年58日発行

底本の親本:「牛山ホテル」第一書房

   1929(昭和4)年1125日発行

初出:「文藝春秋 第六年第三号」

   1928(昭和3)年31日発行

入力:kompass

校正:門田裕志

2012年220日作成

青空文庫作成ファイル:

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