動員挿話[第一稿]
岸田國士
|
宇治少佐
鈴子夫人
馬丁友吉
妻 お種
従卒太田
女中よし
明治三十七年の夏
東京
宇治少佐の居間。──夕刻
従卒太田が軍用鞄の整理をしてゐる。
宇治少佐が和服姿で現はれる。
少佐。もう大概揃つたか。
太田。はあ。
少佐。家の者には会つとかんでもいゝのか。
太田。…………。
少佐。なんなら、此処で会つてもいゝぞ。お母さんに来るやうに云つたらどうだ。
太田。駄目です。泣かれると却つて五月蠅いですから……。
少佐。ぢや、もう、今日はいゝから、隊へ帰れ。明日はもう来なくつてもいゝ。馬丁を呼んでくれ。
太田。はあ……(その辺を片づけて)では、帰ります。御判をどうぞ……(証明書に捺印したる後、一礼して起ち去る)
少佐。あ、それから、副官に、今夜はもう用はないつて、さう云へ。
太田。はあ。副官殿に、今夜はもう御用はないと申します。
少佐。(腕を組んで、何事か考へ込む)
夫人現はる。
夫人。後のことは、ほんとに、御心配なさらないで……。
少佐。心配してやしないさ。
夫人。ぢや、何を考へていらつしやるの。
少佐。何も考へてやしない。
夫人。うそばつかし……(夫の顔を見つめてゐるが、いきなり、その膝に泣き伏す)
少佐。(途方にくれて)おい、どうしたんだ。誰か来ると見つともないから、さ、ちやんとして……。(夫人が、からだを起すと同時に、馬丁友吉がおづおづ現れる。)
少佐。や、御苦労……。もつと、こつちへはひれ。寝藁は、新しいのと更へたね。
友吉。はあ。
少佐。そこで、早速だが、お前の決心を聞きたいんだ。どうだ、一緒に行くか。
友吉。…………。
少佐。戦争に行けば、勿論、命はないものと覚悟をせにやならん。副馬の世話は、勿論馬卒にさせるが、正馬だけは、お前の受持だ。おれの行くところへは、何処へでもついて来るんだ。弾丸の下をくゞる元気があるか。(間)いや、元気があるなしの問題ぢやない。お前は軍人ぢやないんだから、戦争で死ぬ義務はないさ。戦争に行くのはいやだと云つたつて誰も何んとも云やしない。お前がゐてくれゝば、おれは助かる。あの馬は、お前にだけは馴れてゐるし、それに、あの通り手のかゝる馬で、一寸、初めての者には勝手がわからない。うつかりすると、取り返しのつかないことをされさうだが、それは、まあ、こつちの都合で、お前は、お前で、自分の都合を考へるがいゝ。(間)軍人の馬を預かつてゐれば、日頃こんな時の覚悟も、まあ、してるだらうと思ふが、念の為め、聞いて見るんだ。遠慮なく返事をしてくれ。
友吉。…………。
少佐。こつちへ残して行くものゝ世話は、勿論、引受ける。なんなら、万一の用心に生命保険ぐらゐついといてやつてもいゝ。
友吉。…………。
少佐。そのからだで、その年で、一体なら兵隊に取られてゐる筈なんだ。それを思や、戦争に行くのは当り前だ。なあ、さうぢやないか。
友吉。…………。
少佐。どうだ、一緒に行つてくれんか。人間どうせ一度は死ぬんだ。畳の上で死んでも一生は一生……。汽車に轢かれて死んでも一生は一生だ。国家の大事に、潔よく命を投げ出せば、それだけ、死花を咲かせることになるんだ。男子の本懐ぢやないか。
夫人。ほんとにさうよ。あたしも、お前さんが旦那さまのお伴をしてくれゝば、どんなに気丈夫だか知れやしない、お神さんは、あたしが大事に預つてゝあげるわ。
友吉。(頭を掻く)
少佐。なあ、さうしろ。これから代りを見つけようたつて、大変だ。(間)給料は、倍にするし、お上からも手当は出る。(間)その上、無事に帰れば、従軍徽章も頂戴できるわけだ。こんな名誉なことはないぜ。
夫人。それに、危いつたつて、普通の兵隊さん見たいなことはないんでせう。
少佐。うん、それやまあ、いくらか安全さ。なに、命は大丈夫だよ。馬丁が戦争に出ることなんか殆どありやせん。さつき、あゝ云つたのは、一寸、おどかして見たまでさ。
夫人。ね、さうでせう。だから、どう、折角旦那さまもあゝおつしやるんだから、お伴させて頂いたら……。
友吉。(思つ切つて)ぢや、一つ、嬶に相談して見ます。
少佐。(夫人の方をちらと見て)それがよからう。だが、お神さんは、お前、女だぜ。
友吉。へえ。
少佐。行く方がいゝか、行かない方がいゝか、さう聞けば、行かない方がいゝつて云ふにきまつてるだらう。(間)お前がかうと決心をして、おれは行くんだと云つてしまへば、それを行くなとは云ふまい。お前のお神さんも日本の女だらう。
友吉。へえ。でも……。
少佐。でも、なんだ。
友吉。でも、一寸相談して見ませんと……。
少佐。(笑ひながら)よし。お前の女房孝行は、今始まつたことぢやない。相談して見ろ、(間)あ、それより、今、おれが、こゝへ、お神を呼んで聞いて見てやらう。その方がいゝ。
友吉。へえ。
少佐。それでいゝか。
友吉。(しかたがなく)へえ。
少佐は、夫人に眼くばせをする。夫人起つて奥に行く。
少佐。おれを見ろ、おれを……。おれは、誰にも相談なんかしやせんぞ。
友吉。(困つて)へゝゝゝゝ。
少佐。お前は、女房の云ふことなら、何んでも聞くか。
友吉。(頭をかき)嬶は何時も、あたしのからだは、あんたのもの、その代り、あんたのからだは、あたしのものつて、さう申しますもんで……。
少佐。馬鹿云へ。そんなら、主人はどうだ、主人は……。お前のからだは、主人のものぢやないのか。
友吉。へえ、それやもう……そのつもりでをります。
少佐。そんなら何も文句はないぢやないか。
友吉。ですから、勤めの時間は、旦那さまのなんで……。
少佐。さうでない時間は、女房のものだと云ふのか。
友吉。まあ、さういふわけで……。
少佐。さうすると、なるほど、女房の許可を得んけれや、戦争に連れて行くことは出来んわけだな。
友吉。夜、こちらからお暇が出ますと、もう、あの部屋から外へ出ることさへやかましいんで……。
少佐。果報者だよ、お前は……。(戯談のやうに)もつと、しつかりしろ、しつかり……。あゝ、もう、その面を見るのもいやになつた。
此の時、夫人が、友吉の妻、お種を伴つてはひつて来る。
お種、丁寧に会釈をする。
少佐。あらまし、話は聞いてるだらうが、こんど、日本と露西亜と戦争をすることになつたんだ。それについて、一つお前に相談があるんだが、聞いてくれんか。
お種。そのお話なら、もう承らなくてもわかつてをります。宿は、お伴をいたし兼ねます。
少佐。それや、どうして……。
お種。別れるのがいやで御座います。
少佐。そこを一つ……。
お種。いえ、さきほどから、とつくり考へました。どうしても別れることはできません。
友吉。お種……。
お種。お前さんは黙つておいでなさい。この人がなんと申しませうと、わたくしが不承知で御座います。此の人は、戦争に行かなければならない人では御座いません。どうか、御連れ下さることは御勘弁を願ひます。兵隊に取られたのなら致方御座いません。さうでないものには、さうでないものゝ役目がある筈で御座います。いえ、たとひ兵隊に取られましても、戦争がいやならし方が御座いません。此の人は、戦争など出来る人ぢや御座いません。それや臆病なんで御座います。わたくしが睨んでさへ縮み上るんで御座います。鉄砲の音を聞いたら、それこそ、腰をぬかしませう。
友吉。そんなことはないさ。
お種。(叱るやうに)あんた。(間)今迄、かうして御厄介になつて置きながら、かういふ場合に、勝手なことを申して、さぞ恩知らず、人でなしと思召しませうが、こればかりは、御主人様のお為めを考へてはをられません。もつと、なんとか、お断りの致しやうも御座いませうけれど、なまじ、作り事を申し上げて、動きの取れない羽目になりましてもと存じまして、あからさまに申し上げます。どうか、これだけは、我儘をお許し下さいませ。お願ひで御座います。
少佐。わかつた。それなら、たつてとは云ふまい。その代り、今日限り、主従の縁を切る。気の毒だが、他で仕事の口を見つけてくれ。
友吉。…………。
お種。致し方御座いません。その覚悟だけは致してをります。お許しさへあれば、宿は何処かで仕事を見つけ、わたくしは御留守宅で奥さまの御手伝でもと存じてをりましたが、それも御迷惑とあれば、二人ともお暇を頂きます。(間)では、旦那さま、御機嫌よろしう。おからだをおいとひ遊ばしますやう……。奥さまも、どうか、御気丈夫でいらつしやいますやうに……。また何か御用が御座いましたら、何時でも御使ひ下さいませ。さ、あなたも、御挨拶をなさい。
友吉。(頭をさげる)
お種。旦那さまに、立派なお手柄をお立て遊ばすやうにつて。さうおつしやい。
友吉。(また頭を下げる)
少佐。永々、御苦労だつた。個人として、充分感謝をする。(紙入れから紙幣を取り出し)これは少しだが、当分の生活費に……。
お種。いえ、それは御辞退いたします。いろいろお物入のところ、それでは、あまり恐れ入ります。少しばかり、貯えも御座いますから、その御心配は御無用に願ひます。では、旦那さま、奥さま、御免遊ばせ。
友吉。(小声にて妻に)明日の朝、鞍は、誰が置く。明日は早いんだぜ。
お種。明日だけ、お前さんが来てしたらいゝでせう。
少佐。いや、それには及ばん。おれが自分で置く。おれの馬には、そんな卑怯者の手で、出陣の鞍を置かせたくない。(憤然と起つて奥に去る)
お種。(キツとなつて、少佐の後を見送る)
夫人。種お前の気持は、あたしにはよくわかつてる。なんにも云はないで、今日は引取つておくれ。
お種。(黙つてうつむく)
長い沈黙。
夫人。よく旦那さまの前で、あれだけのことが云へたね。
お種。すみません。
夫人。いゝえ、あたしはなんとも思つてやしないよ。
お種。一生懸命で御座いました。たゞ、もう……。
夫人。わかつてるよ。
長い沈黙。
お種。奥さま、もう、お目にはかゝりません。
夫人。今は、まあ、さういふことにして置かう。旦那さまの立場から云へば、御無理もないのさ。お馬のことゝ云へば、普段から、何をほうつてもといふ方なんだから、頼りになすつてゐた友吉に、あゝ出られて見れば、がつかりなさるのも、まああたり前さ。それに、また、誰でも、自分たちのやうに、戦争があれば、お国の為めに命を投げ出すものと思つていらつしやるんだから、一人でも、男として、戦争に行きたくないと云ふものがあれば、その人の立場などは考へずにいきなり不都合呼ばはりをなさるつていふ始末なのさ。頑固一徹の軍人気質だと思つて、お前も、わるく取らないでおくれ。
お種。飛んでもない……。
夫人。お前は、それでも、主人一人の機嫌を損じたゞけで、夫の命を拾ふことが出来たわけだけれど、あたしなんか、どんなに騒いで見たところで、行くといふものを引止めるわけにいかないんだからね。
お種。その代り、御名誉といふものが御座います。万一、どんなことがおありになつても、それだけの酬ひが御座います。わたくし共では、例へお国の為めと申しましたところで、そのお国が、目をかけてゐては下さいません。
夫人。そんなことはないわ。
お種。いえ、それだからと申すんでは御座いません。実際、夫に死なれて、そんな酬ひがなんになりませう。わたくしが、此の人と一緒になりましたのは、此の人が、陸軍の馬丁だからではないんで御座います。それに引きかへて、こちらの旦那さまのやうな、立派な御身分の方は、その御身分だけの気高い御心掛がある筈で御座います。そのお心掛けは、私共にはわかりません。通用いたしません。わたくし共に取りまして、名誉は紙屑と同じことで御座います。猫に小判と申しますが、全くその通りで御座います。奥さま、陸軍の馬丁が、死んで神さまに祀られると申せば、馬がきつと、鼻をふくらします。馬でなくつて、わたくしが、ふき出してしまひます。
夫人。あたしだつて、なにも、うちの旦那さまが神さまに祀られることを、有がたいとは思つてやしないよ。
お種。それは、まあ、さうで御座いませうけれど、こちらの旦那さまが、神さまにおなりになつても、人は不思議には思ひません。それだけ、平生から神様に近い方でいらつしやるんで御座いませう。何千人といふ人間が、今でも、旦那さまの前では、お辞儀をすることになつてゐるんで御座いますからね。
夫人。それやまあ、さうだけれど……。
お種。戦争と申せば、あれは、芝居のやうなもので御座いませう。舞台映えのする役者でないと、芝居が面白くは御座いません。こちらの旦那さまのやうに、勲章を沢山おつけになつて、長い剣をおもちになつて、立派な髭をお生やしになつてゐらつしやる方でないと、この人のやうに、不恰好な法被を着て、青いへちまのやうな顔をして、馬の口を取つてゐるんでは、見物が、「引込めツ、大根」と怒鳴ります。
友吉。そんなこたあ、ねえさ……。
お種。いえ、ほんとですとも……。なにも、そんなにしてまで、舞台へ出なくつてもよろしいぢや御座いませんか。
夫人。うちの旦那さまは、ほんとに戦争がお好きなのか知ら。
お種。お好きなればこそ、軍人におなりになつたんで御座いませう。
夫人。さうか知ら……。
お種。奥さまも、軍人さんがお好きなればこそ、旦那さまのところへお片づきになつたんで御座いませう。
夫人。そればかりではなかつたけれど……。
お種。それも御座いましたでせう。
夫人。あの頃は夢中だつたからね。
お種。恐れ入ります。おや、こんなお喋舌をしてよろしいんで御座いませうか。
夫人。ほんとに……。ぢや、今日は兎に角、さういふことにして……。旦那さまがお出ましになつたら、また改めて、今後のことを相談することにしよう。
お種。どうかよろしく。
夫人。ぢや、折角の思召だから、これは、そつちへ収めておいたらいゝだらう。(紙幣を取り上げる)
お種。どうしませう、あんた。
友吉。(頭をかいてゐる)
お種。頂いときませうか。
友吉。そんなら、頂いとかう。
少佐の声。(奥より)鈴子! 鈴子!
夫人。はい、只今……。(奥に去る)
友吉。(涙を拭き)おれにはやつぱり、旦那のお伴をした方がよくはねえか知ら……。
お種。どうしてさ。
友吉。世間の奴等に大きな顔が出来るやうな気がするんだ。
お種。さうして?
友吉。あれや、もと宇治少佐の馬丁で、戦争に行くのを怖わがつた男だつて云はれて見ろ。
お種。あたしが、どうもなきや、それでいゝでせう。
友吉。おれや、戦争は怖くはねえんだ。
お種。だから、それでいゝぢやないの。(間)死ぬのが怖いんぢやないつていふ証拠なら、何時でも見せてやれるわ。
友吉。(お種の顔を見る)
お種。何も東京にゐなくつたつていゝんでせう。
友吉。旦那にも済まねえつて気がするんだ。
お種。あんたのからだは誰のものなの。
友吉。お前のものさ。
お種。それ御覧なさい。(友吉の手を取る)さ、早く、何処かへ行きませう。何処か遠い処へ……。大阪へ行かない。大阪なら、あたしの叔父さんがゐるわ。
友吉の部屋、──前場の翌日。
お種が行李をつめてゐる。女中のよしが上り口に立つて、それを見てゐる。
お種。こら、どれもこれも、みんな奥さまのお流れよ。
よし。随分たまつたわね。
お種。これ、あんまり派手だから、あんたに置いてかうか。
よし。いゝわよ、持つてらしやいよ。知れるとわるいわ。
お種。軍人の奥さんなんかになるもんぢやないわね。
よし。普段はいゝけれどね。
お種。奥さま、何かおつしやつてやしなかつた、あたしのこと。
よし。いゝえ、別に。
お種。早く、代りが見つかるといゝけれど……。独り者で、いくらもありさうなものね。
よし。旦那さまは、もう今晩から、隊の方にお泊りになりつきりなんですつて……。
お種。お発ちになるまで?
よし。えゝ。今朝、奥さまとお別れの水盃つていふのをなすつたわよ。
お種。さういふところが違ふのね。
よし。奥さまは、でも、お眼をすつかり泣き膨らしていらしつたわ。
お種。坊つちやまは、今日は、学校は。
よし。もう、とつくにいらしつたわ。
お種。奥さまのおそばにゐてゝあげて頂戴。あたしは、何んだか、気がひけて……。
よし。そんなこと云つてないで、一寸顔をお出し下さいな。
此の時、鈴子夫人が現れる。
夫人。まあ、荷物ごしらへはあとにして、話しに来ておくれよ。
お種。只今、一寸……。
夫人。旦那さまも、今日は、あの通り、御機嫌を直してお発ちになつたんだし、あたしに、なにも遠慮はいらないだらう。友吉だつて、代りの見つかるまで、旦那さまのおそばにゐなくつちやならないんだから、お前も、さうあはてゝ出て行く用意をしなくつたつて……。
お種。はい、それはもう……。
夫人。動員完結までには、四五日かゝるらしいから、それまでに見つかればいゝだらう。まあ、ゆつくりしておいでよ。どうせ、此の部屋は、誰も使はないんだからね。先々の計画が立つまで、いくらゐたつていゝよ。
お種。有りがたう御座います。
夫人。あたしも、軍人を夫にもつたからには、何時かかういふことがあるだらうと覚悟してゐたんだけれど、こんなに早くこんなに急に、今日といふ日が来ようとは、夢にも思つてゐなかつた。
お種。でも、旦那さまは、きつと、御無事でお帰りになりませう。
夫人。そんな気安めは云はないでおくれ。当てにならないことを当てにするほど恐ろしいことはないよ。(間)泣言は云ふまいと思ふんだけれど、つひ、お前の顔を見たら……。
お種。御察しいたします。わたしなどは、奥さま方から御覧になれば、はしたない女で御座いますけれど、奥さまの今のお心持ちは、わかりすぎるほどわかつてゐるつもりで御座います。わたくしのやうな真似は、奥さまにはおできにならない、そこがまた、わたくしどもの真似たくも真似られない奥さま方の御立派さで御座います。いえ、ほんとに、今朝、お玄関で、旦那さまをお見送りしながら、わたくしは、なんだか、かう、恐ろしい力にうたれました。それは、旦那さまの、勇ましい御出陣姿を拝見したからばかりでは御座いません。あの時、奥さまは、坊つちやまのおつむにお手をおかけになつてたゞ黙つて、お目をお伏せになりました。坊つちやまが、いつもの通りに、「行つてらつしやい」とおつしやると、奥さまは、急に、坊つちやまをお引寄せになつて、淋しくお笑ひになりました。
夫人。まあ、詳しく見てたのね。
お種。見てをりましたとも……。(間)奥さま、わたくしは、あの時、自分がどんなに見すぼらしい女かといふことがよくわかりました。でも、それは、致し方御座いません。わたくしたちには、かうしなければならないといふことがないんで御座います。
夫人。気楽でいゝわ、その方が……。
お種。その代り、いつも、眼の前は、真暗で御座います。時によると、身の毛がよだつやうな恐ろしいことが付いてをります。(間)一人では、とても生きて行けません。
夫人。どんなこと、恐ろしいことつて……。
お種。お宅へ伺ふまへに出会つたやうなことで御座います。
夫人。知らなくつてよ。まだ聞いてないでせう。
お種。…………。
夫人。あたしに云へないこと?
お種。いゝえ申上げるのはかまひませんが、あの人の耳にはひりますと、どんなことが起るか知れませんから……。
夫人。ぢや、それはまあ、後で聞くとして、どう、少し、話しに来ない、あつちへ……。
お種。お昼に帰つて来るかもわかりませんから、一寸用意だけ致して置きます。すぐ伺ひます。
夫人。ぢや、あたしにかまはず、用意をしたらいゝわ。あたしは、もう少しこゝでお喋舌をして行くから……。よしや、お前はそんなとこに立つてないで、向うの用意をして来ておくれ。今日は、どなたか見えるかも知れないよ。
よし。はい。奥さまはお昼は何を召上ります。
夫人。蓮の煮たのが残つてたね。お鮭でも焼いといて貰はうか。
よし。はい。(去る)
夫人。早いもんだね。もうかれこれ一年になるね。
お種。あん時は、ほんとにお心配をかけまして……。
夫人。済んでしまへば何んでもないことだけれどね。
お種。あの時も旦那さまは御立腹になりました。丁度昨晩のやうに、お叱りを受けました。
夫人。さう〳〵。しかし、あの時のお前は、昨夜のやうに、しつかりはしてゐなかつたよ。下を向いたまゝ、何をおつしやられても、黙つてゐたつけね。
お種。(笑ひながら)きまりの悪い思ひを致しました。
夫人。そんなにきまりが悪るさうでもなかつたけれど……。
お種。あら、奥さま。
夫人。兎に角しほらしい娘だつたよ。
お種。大胆なことを致しました割りにはね。
夫人。大胆と云へば、友吉は、あの頃の方がテキパキしてやしなかつたか知ら……。御亭主の悪口になるけれど、此の頃は、から生意地がないぢやないか。お前があんまり八釜し過ぎるんだらう。
お種。あの人は、どうして何時までも、あゝ子供なんでせう。二十七にもなつて……。
夫人。子供に見えるんだね、お前から見ると……。あん時、旦那さまの前で、「お種さんを私に下さるわけには参りませんでせうか」つて、キツパリ云ひ切つた元気は、今、何処へ行つたんだらう。
お種。それは、わたくしが、知恵をつけたんで御座います。
夫人。さうだらうね。(間)処で、お前が、こゝへ来る前に出遇つたことつていふのはどんなことなの。
お種。奥さま、びつくりなさいますわ。
夫人。…………。
お種。わたくし、監獄へはいつたことが御座いますの。
夫人。え?
お種。それ御覧遊ばせ。
夫人。でも、どんなことをしてさ。
お種。お話をすると長くなりますけれど、わたくし、以前、一度、男に欺されましたんですの。それで、その男に復讐をしてやりました。
夫人。…………。
お種。お驚きになつちやいけません。その男を殺してやらうと思ひましたの。
夫人。まあ。
お種。あ、帰つて参りました。
成る程、此の時、友吉が悄然として現はれる。
夫人。代りが見つかつたの。
友吉。へい、いえ。
夫人。よく暇が取れたわね。
お種。どつか悪いんぢやない。
友吉。いゝや。
夫人。旦那さまから、何かお伝言でもありやしなかつた。
友吉。実は、たうとう、私がお伴することになりましたんで……。
お種。どう云ふの、それは……。
友吉。旦那が、やつぱり、おれに行つてくれつておつしやるんだ。
お種。だつて、あんた、昨夜、あれだけ……。
友吉。だからよ、更めての御相談だ。それに、聯隊の将校で、今迄ついてる馬丁を連れて行かない方は一人もないんだ。おれだけ残るつて云ふのは、如何にも具合が悪いんだ。
お種。人は人、あんたはあんたぢやないの。
友吉。さうはいかねえ。おれや、決心した。そのつもりで、支度をしてくれ。
お種。それで、あたしはどうなるの。どうしてくれるの。
友吉。一緒に連れて行くわけにや、行くめえ。奥さんのおそばで、暮してゐてくれ。
夫人。それや、もう、さうすれば、あたしは……。だけど、よく決心がついたわね。
お種。あんた、昨夜約束したことは忘れたの。
友吉。忘れやしねえ。忘れやしねえけれど、今日、隊で、仲間の奴等に会つたら、急に元気がついたんだ。
お種。そんな元気がなにになるの。
友吉。おい、お種。辛棒してくれ。頼む。おれの顔も立てさしてくれ。
お種。そんな顔をたてたつて誰が感心するもんか。奥さまの前だけれど、あんたが行くつて云つたつて、あたしが行かせませんよ。
友吉。そんな無茶なことを云つたつて……。
お種。何が無茶なの。
夫人。まあ、さう、お互に乱暴なことは云はないで、よく相談をして見たらどう。友吉がさういふ決心なら、種の方でも一度考へ直して見てさ。ぢや、あたしは、あつちへ行つてるから。友吉も、たゞ世間への意地なんか捨てゝ、お神さんの身にもなつておやり。さうして、穏やかに、二人で話をつけるがいゝ。(去る)
友吉とお種とは、しばらく無言のまゝ対ひ合つてゐる。
お種。あんたは、ほんとに行く気なの。
友吉。うん。
お種。旦那にどう云はれたの。
友吉。旦那に云はれたからぢやねえ。おれが行きたくなつたんだ。
お種。だつて、さつき、あんたは、旦那から是非行つてくれつて、さう云はれたからだつて云やしない。
友吉。それもあるが、それより、おれが心得違ひをしてたつてことがわかつたんだ。
お種。心得違ひつて、どういふの。
友吉。お前には、わからん。
お種。どうして。
友吉。もう何も云つてくれるな。おれは行くんだ。だから、黙つて行かしてくれ。
お種。(急に調子を変へて)あんたは、あたしも可愛くはないの。もう、そんなに変つちまつたの。
友吉。そんなことぢやねえ。そんなことゝ話が違ふ。
お種。よくつて、あたしは、あんたがゐなけれや生きて行けない女よ。あたしを可哀さうだとは思はない。毎日毎日、生きてるか死んでるかわからないあんたのことを想ひつゞけて、だんだん瘠せて行くあたしのことを考へて御覧なさい。
友吉。ぢや、うちの奥さんを見ろ。おんなじことぢやないか。
お種。ちがふ、ちがふ、あれは女ぢやない。自分の好きな人が、見す見す命を取られに行くのを、平気でゐる女が、どうして女と云へるものか。さもなけれや、旦那の後姿に、他の男の顔を映して見てゐるんだ。いや、いや、いやだつたら、行つちまつちや……(友吉の肩に縋る)
友吉。困るなあ。
お種。あたしは、小さい時から苦労をして来たのよ。今だつて、あんたにはわからない苦労があるわ。たゞ、あんたと一緒にゐるだけで、その苦労が苦労にはならないの。後生だから、思ひ止つて頂戴。戦争に行くのが偉いなら、戦争に行かないことだつてえらい筈よ。さうでせう、生きてゐるのは苦しいわ。死ぬより苦しいわ。苦しみませうよ。一緒に、二人きりで、誰の力も藉りずに……。
友吉。……。
お種。おだてられちや駄目よ。あんたには、ほかにいくらだつて仕事があるわ。
友吉。(ぼんやり)あの馬は、おれが行かないつていふことを、何時の間にか感づいてゐた。今朝、これが最後だと思つて、人参を買つて行つてやつたら、どうしても食はうとしないんだ。
お種。お腹が大きかつたのよ。
友吉。いゝや、違ふ。それで、おれは、こいつ知つてるなと思つて、戯談に、「行くんだよ、行くんだよ」つて云つたら、大きな口を開けやがつた。
お種。つまんないことを云ふのはお止しよ。
友吉。死ぬやうなへまな真似はしねえから、今度だけ行かしてくれ。
お種。死ぬ死なないより、離れてるのがいやなんだからしやうがないの。
友吉。すぐ病気になつて帰つて来るよ。
お種。病気になんかなつて帰つて来て欲しかないわ。このまゝ、かうしてゐちやどうしていけないの。(友吉を両腕で抱きかゝえる)え、どうしていけないの。
友吉。どうしてだか知らねえが、やつぱりいけねえんだ。
お種。あんたは、あたしがいやになつたのね。
友吉。さうぢやねえつたら、わからないかなあ。
お種。ぢや、あたしがかうしてるから行つて御覧なさい。
友吉。(行く真似をしかける)
お種。行くなら、かうするわよ(友吉の喉を締める真似をする)
友吉。おい、止せ。
お種。ぢや、どうしても行く気なの。
友吉。そんなことしちや、息がつまるぢやねえか。
お種。(急に手をゆるめ)そんなら、あたしを殺してから行くならいゝわ。
友吉。そんなことしたら、行く前につかまつちまはあ。
お種。あたしが、自分で死んであげるわ。
友吉。そんなことして貰ひたかねえよ。
お種。貰ひたくなくつても、してあげるわ。よくつて、見てらつしやい。(急いで、流しから刃物を持つて来る)
友吉。(戯談にして)あぶねえつたら……。(刃物を取り上げようとする)
お種。(それを渡すまいとする)
友吉。云ふことを聴かねえか。
お種。それは、こつちで云ふ台詞よ。こら……。(と云ひながら、いきなり、刃物を自分の喉に擬する)
友吉。(慌てゝそれを制する)
お種。放して……放して……。
友吉。おい、馬鹿、止さねえか。(刃物をもぎ取る)
お種。死ぬのには、別の方法がいくらもあつてよ。
友吉。(途方に暮れて)悪巫山戯はよしてくれ。
お種。巫山戯てると思つてるの、あんた。
長い沈黙。
友吉。旦那には、行くつて云つて来たんだ。
お種。そんなことはどうでもいゝぢやないの。また行かないつて云へばそれまでゞせう。それが云へないの。そんなら、黙つて、うつちやらかしとけばいゝわ。さ、何処かへ行つちまひませう。早く荷物ごしらへをして頂戴。荷物なんかどうだつていゝわ。さ、何を愚図々々してるの。
友吉。待て。奥さんにだけ、何んとか云つてかう。
お種。そんなことしてる場合ぢやないわ。あの人たちは自分の都合を考へてるだけよ。こつちのことなんぞ、どうだつてかまはないのよ。さ、見つかると厄介だわ。あんたは、そのまゝでいゝの。(帯をしめ直す)
友吉。まあ、待て、おれは逃げるのはいやだ。逃げたと云はれるのはいやだ。旦那に、一言、さう云つて来る。
お種。さうして、また、こゝへ帰つて来て、やつぱり、行くことにしたつて云ふんでせう。それくらゐなら、こゝでどつちかに決めませう。(脅迫するやうに)行くなら行く、行かないなら行かない、それとはつきり云つて頂戴。あたしにも覚悟があるから……。
友吉。…………。
お種。あたしを欺す気ぢやない。
友吉。そんなこたねえ。
お種。そんならどつち。
友吉。おれにや、どうしていゝかわからん。お前のいゝ通りにする。
お種。あたしにもわからないわ。あんたのいゝ通りになさい。
突然、夫人が現はれる。
夫人。それを、あたしが決めて上げよう。友吉は行かなくつてもいゝ。二人は、今からすぐ、何処かへおいで。あとは、あたしが引受けるから……。
友吉。(恐縮して)へえ、面目次第も御座いません。こいつがわからず屋なもんですから……。
お種。恐れ入ります、奥さま。では、どうかよろしく。一寸、御免遊ばせ(かう云ひ捨てゝ小走りに外へ出る)
夫人。心配しなくつてもいゝよ。どうせ、お前のやうな人は、旦那さまのお役には立つまい。
女中のよしが慌しく入り来る。
よし。奥さま、大変で御座います。お種さんが……(あと声が出ない、たゞ、外の方を指さしてゐる)
夫人。種がどうしたのさ。
よし。井戸で御座います、井戸……。
夫人と友吉は、愕然として、外に走り出る。
底本:「岸田國士全集3」岩波書店
1990(平成2)年5月8日発行
底本の親本:「太陽 第三十三巻第一号」
1927(昭和2)年7月1日発行
初出:「太陽 第三十三巻第一号」
1927(昭和2)年7月1日発行
入力:kompass
校正:門田裕志
2012年1月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。