明日は天気(二場)
岸田國士



宿の女中 甲

宿の女中 乙

風呂番

番頭



真夏──雨の日

ある海岸の旅館──海を見晴らせる部屋


夫  (腹這ひになり、泳ぎの真似をしてゐる)

妻  (絵葉書を出す先を考へてゐる)

女中  (はひつて来る)

夫  (泳ぎの真似をやめて、新聞を読んでゐる風をする)

女中  ほんたうに毎日お天気がわるくつて、御退屈でございませう。

妻  ええ、でも、海へは何時でもはひれるんだから、かうして、静かな処で、雨の音を聴いてゐるのもいいわ。どうせ避暑に来たんだから、涼しいのが何よりよ。

女中  それやもう、お涼しいことは、なんて申しましても、お天気の日よりはね。これで、海岸と申しましても、日が照りますと、なかなか、ぢつとしてはゐられないんでございますよ。

妻  さうでせうね、でも、かういふ風だと、お客さまも少いでせう。

女中  はあ、もう、これで、ぼつぼつお引上げになる方もありますんですよ。東京の方も、お涼しいさうでございますね、昨今は……。

妻  そんなことはないでせう。あたしたちの来た日なんかは、少し曇つてたけれど、随分蒸し暑かつたわ。早くどつかへ行きたいつて、忙しいところを逃げ出して来たんですもの。

女中  さうでございますかね。昨晩、こちらの番頭さんが東京へ参りましたんですよ。一寸、用がございましたもんですからね。その番頭さんから、今朝、電話で、東京も昨晩から大雨で、浴衣一枚では寒いくらゐだつて申して参りましたんですよ。

夫  おい、君、東京の話はよしてくれ。折角、仕事の事を忘れて、二三日ゆつくり頭を休めに来たんだから……。

女中  おや、とんだ失礼を……。何か御用はございませんか。

夫  あつたら呼ぶから、まあ、君は引下つてくれ。

妻  なんですよ、あなたは……そんな無愛想なことをおつしやつて……。

女中  どうも、失礼いたしました。(出で去る)

妻  およしなさいよ、そんなに八ツ当りをなさるのは……。いいぢやないの、雨が降つてたつて……泳いでらつしやいよ、そんなに泳ぎたければ……。

夫  雨が降つてても泳げ……? 人が見たら気違ひだつて云ふぜ。

妻  畳の上で泳いでる方がよつぽど気違ひだわ。

夫  いつそ、東京へ帰らうか。

萎  もう一日ゐてみませうよ。なんだか、向うの空が明るくなつて来たやうだわ。若しかしたら、明日はお天気よ。

夫  ──東京は随分涼しいさうね。こちらは毎日暑くつて、海へ一度もはひりませんつて、さう、書け、端書に。

妻  あたし、百合子さんに、かう書いたの。──東京はさぞお暑いことでせう。こちらは、朝夕の散歩に羽織がいるくらゐにて……。

夫  朝夕の散歩……?

妻  まあ、聴いていらつしやい。──羽織がいるくらゐにて、日中は、海にはひり通しですから暑さ知らず……。

夫  やれやれ……。

妻  二三日の間に、恥かしいほど黒くなりました。

夫  おい。

妻  黙つてらつしやい。──今日あたり、船で沖へ出てみようかと相談をしてゐるところです。

夫  凄いな。そこにある端書、みんな、おなじ文句か。

妻  大同小異よ。

夫  だれだれへ出すの。

妻  これは百合子さんでせう。それから、これが、母さん。これが、お孝ちやん。これが、お隣の奥さん。これが、裏のお神さん……。

夫  おれは幸にしてお前と一緒にゐるから、さういふ端書を受け取らずに済むわけだね。全く、避暑に行く女を友に持つ勿れだね。おや、ほんとに明るくなつて来たぜ。

妻  小止みになつて来たわ。うれしい。

夫  これ、なんていふ泳ぎか知つてるか。

妻  蛙泳ぎでせう。

夫  よし、さうだ。これは……。

妻  それで、やつぱり、泳ぎなの。

夫  泳ぎさ。水府流だ。これが、抜手……。

妻  あたしには、どれを教へて下さるの。

夫  まあ、蛙だね。これが一番楽で、やさしい。一寸、此処でやつてごらん。

妻  いやよ、こんなとこぢや……。

夫  稽古をするのにや、此処の方がいいんだぜ。

妻  いや。

夫  可笑しな奴だな。お前は一度も海へはひつたことはないつて云つたね。

妻  ええ。

夫  怖がつちや駄目だよ。水に親しむことが一番大事だ。泳ぐ泳がないは別として、波にからだを浮かす時の気持は、これや、一寸、類がないぜ。強ひて類を求めれば……。さうさな、おれたちがはじめて恋を語つた日の、あの夢心地……。

妻  キザなことは云はないで下さい。

夫  どうしてキザなことだ。お前は、なんでも、それだからいけないんだ。物事を散文的にしか考へない。なるほど、われわれは、平生、無味乾燥な生活をしてゐる。おれは朝から晩まで、紙とインキと算盤の中に頭を突つ込み、お前は、朝から晩まで、綻びと七輪の間を往復してゐるのだ。おれたちの間に、もう、夢といふものはなくなつてゐた。いや、夢どころぢやない。おれたちは、もう、自分自身の姿さへ見失つてゐたのだ。

妻  ……。

夫  たまたま得た僅かの金と、僅かの暇とが、おれたちを、今、あれを見ろ、あの海のやうに、限りなく広い希望の前に立たせてゐるのだ。おい、聴いてるか。

妻  ……。

夫  おれたちは、今まで、これほど太陽に憧れた事があるか、近頃、おれが、これほど物に執着をもつたことがあるか。お前も女だ。おれの心の中に、恐らく永遠に消えようとしてゐた情熱が、今、再び、燃え上りつつあるのを感じないのか。え、感じないのか。

妻  ……。(ちらと夫の方を見る)

夫  どうして、そんなに不思議さうな顔をしておれを見るのだ。おれは、三日この方降り続く雨の為めに、気が狂つたのではない。


卓上電話の呼鈴が鳴る。


夫  (平気で)おれは、電話などに用はない。お前の、あの若々しい……。


呼鈴が、更に、けたたましく鳴り続ける。


夫  ええい、やかましい。(受話機を取り上げ)もし、もし、なんの用ですか。ええ、さうです。え、東京から……。東京の誰から……? 早くつないでくれ給へ。あ、もし、もし、さうです。ああ、君か、……。なんだ、どうした。え、うん、なあに……そんなでもないさ。

妻  どなた?

夫  小林さ。

妻  小林さん。

夫  いや、いや、そんなこたないがね。馬鹿云ふな。はははは。うん、なかなかいいとこだ。ああ、海は綺麗だよ。え、ああ、ゐるよ、ゐるとも……。嚊を連れてちや、だいなしさ。

妻  なんですつて……。

夫  ここにゐるよ。こつちを睨んでやがるよ。

妻  なんのお話……。

夫  なんの話だつて聞いてるよ。はははは。東京は暑いかい。さうか、昨夕からね……。こつちは、もつと涼しいよ。なに、海は平気だがね。ああ、今も出掛けようとしてゐるとこだ。

妻  あたしから奥さんによろしくつて、さう云つて頂戴ね。

夫  へえ、わからないもんだね。そいつあ、大変だらう。今ね、家内から、君の細君によろしくだとさ。うん、適当にやつてるよ。大将は出てるかい。ちえツ、うるせえな。帰る時にや帰るつて、さう云つてくれ。ゐない時だけ追ひ廻すつていふ寸法だね。や、さよなら、え、あ、あ、わかつた。さやうなら……。

妻  なんの御用……。

夫  用事なんかあるもんか。なんだ、雨が止んでるぢやないか。さ、今のうち、早く行かう。(あわてて浴衣を脱ぎすてる。下にはちやんともう、海水着を着込んでゐる)

妻  (これもいそいそと座を起ち)そんな風をしていらつしやるの。

夫  あたり前さ。海は、お前、すぐそこだよ。庭続きだよ。自動車へ乗つてでも行くつもりか。

妻  ぢや、あたしは……。

夫  お前だつて、それでいいさ。

妻  だつて、あたし、まだ海水着を着てなくつてよ。

夫  ぢや、早く着ちまへよ。

妻  あなた、外へ出てらつしやい。

夫  それより、海岸に着物を着替へる小屋がある筈だ。そのまま持つて行けばいい。

妻  人が見てやしない。

夫  愚図愚図してると、また降り出すかも知れない。さ、早く……。


二人はあたふたと外に出る。

それが、やがて、梯子段を降りてしまつたと思はれる頃、また、急に雨が降り出す。

何処かの部屋で蓄音機をかけてゐる。

その曲に足並を合せる如く、悄然として、夫婦が帰つて来る。二人は、黙つて、部屋の中にはひり、思ひ思ひに自分の座につく。何をするでもなく、ぼんやり、空を眺めてゐる。かすかな溜息。


長い沈黙。


やがて、夫は、鞄から旅行案内を出して、頁を繰りはじめる。

妻は、枕を持ち出して、昼寝の用意をする。


夫  おい、寝るのはよせ、この上、お前に寝ちまはれちや、おれはどうしていいかわからん。

妻  あなたもおやすみになつたら……。

夫  昨夕七時から、今朝九時まで、十四時間ぶつ通しに寝たものが、また寝ようたつて、それや少し無理ぢやないか。いくら、寝るより外にすることがないと云つたつて、おれたちは、遥々汽車に乗つて、大枚五円の宿料を払つて、名にし負ふ湘南の海水浴場に来てゐるのだ。少しは、気の晴れることもしてみようぢやないか。

妻  だつて、海水浴が駄目なら、仕方がないぢやないの。

夫  海水浴が駄目なら仕方がないと云つてしまはずに、そこを、なんとか誤魔化せないもんかなあ。

妻  あなたは傘をさして散歩でもしてらつしやい。あたしは、かうして、横になつてますわ。(寝転がる)

夫  傘をさしてか。傘は持つて来ないぜ。

妻  借りてらつしやいよ。

夫  お前は横になつてるのか。

妻  ええ。

夫  夫は傘を借りて散歩をなし、妻は横になつて退屈を味はふか。洒落にもならないや。

妻  だから、あたしが、こんな処へ来るよりは、着物の一枚もこしらへた方がいいつて、あれほど云つたのに……。

夫  もうわかつた。おれはこれから、旅行して来る。

妻  何処へいらつしやるの。

夫  気の向いた処、日本国中だ。

妻  ……。

夫  一つ、別府あたりへ行つてみるかな。

妻  旅行案内だけもつてね。

夫  勿論……。これほど金のかからない旅はない。旅行案内といふものは妙なものだね。汽車の時間を順々に見て行くと、からだも一緒に動いて行くやうな気がする。一種の錯覚かも知れんが、こいつを応用して、何か一つ、どえらい発見でもしでかすかな。

妻  ……。

夫  弁当と書いてあると、あの上等弁当の折の香までして来るから面白いぢやないか。

妻  何が面白いもんですか。

夫  面白くないか。お前にはそれが面白くない。だから、足の裏なんか、蚊に咬まれるんだ。まだ痒いかい。

妻  知りませんよ。

夫  大沼公園といふのは、なかなか景色がよささうだね。北海道へも、一度ぐらゐ行つたつて悪くないな。ええと、時間はどうなつてるかな。

妻  旅行をなさるなら、黙つてなすつて頂戴ね。

夫  黙つて旅行をしろ……? 所謂、唖の旅行といふ奴だね。


蓄音機の音止む。


夫  いろんなことを云ふやうだが、お前は近頃、何が食ひたい?

妻  ……。

夫  もう眠つたのか。

妻  ……。

夫  そんな筈はない。たつた今、欠伸を噛み殺してゐたぢやないか。

妻  ……。

夫  あくまで狸を粧ふつもりか。

妻  ……。

夫  お前がびつくりするやうなことを云つてやるが、それでもいいか。

妻  ……。

夫  ようし……。云ふぞ。大きな声を出すな。

妻  ……。

夫  おれは、さつき、十年前の恋人に遇つたよ。おれにそんな恋人のあつたことはお前も知るまい。今までその話はせずにゐた。お前の心を不必要に乱したくなかつたからだ。しかし、たうとう、お前にそれを打ち明けなければならない日が来た。そんなに息を殺さなくつてもいい。

妻  ……。

夫  向うはまだ独りでゐるらしい。純潔そのもののやうな目をもつた女だ。その目が、昔と少しも変つてゐないやうに、おれに対する気持も、そのまま昔と変りはないといふのだ。おれの方はどうだと云ふから、おれは云つてやつた。なんと云つてやつたか知つてるか。

妻  ……。

夫  おい、安心してる場合ぢやないぞ。

妻  (脇の下をゴシゴシ掻く)

夫  そんなところを掻いてる場合ぢやない。おれはなんと言つたと思ふ。おれはかう云つた。──あなたが、それほどまでに僕のことを想つてゐて下さるのはありがたいが、僕はもう自由ではありません。すると、そんな事は存じてをりますわ、と云つた。昨日もお二人が睦じさうに、廊下を歩いておいでになるところをお見かけしたんですもの。優しい上に、聡明な方らしいわね、奥さまは……と云ふんだ。おれは返事に困つて、あんな女はざらにありますと云つてやつた。

妻  (大きな息をする)

夫  ざらにあると云つただけでは、まだ云ひ足りないと思つたので、あれくらゐ鈍感な女は、一寸類がありませんよと云ひ直した。お前の前だが、それやほんとだからね。

妻  (枕を直す)

夫  すると、向うはなかなか如才がない。──でも、あなたのやうなお方と一緒にゐるには、その方が結句幸福ですわと云ふぢやないか。なぜですつて白ばくれた聞き方をすると、笑つてて返事をしないんだ。

妻  (かすかに鼾をかく)

夫  怪しげな鼾は手応へのあつた証拠だ。さ、なんとか云へ。

妻  ……。

夫  なんにも云ふことはないね。それぢや、先を続ける。──二人は、それで急に、昔しの親しみを取り返した。その間に、いろいろ細かい話もあつたが、それは略して、兎に角、東京へ帰つたら遊びに来てくれと云ひ出した。寂しく婆やと暮してゐるとまで附け足した。そこで、おれは、東京へ帰つたらなんて云はずに、今、これから、あなたの部屋へ行つて、ゆつくりお話をしたいと切り出してみた。どうせなんにもすることはなく、退屈しきつてゐるところだと云つてみた。毎日見あきてゐる女房の側を、さうして一つ時でも離れてゐたいとまで云つてみた。すると、その女の云ふことが振つてゐるぢやないか。──いいえ、それはいけません。あなたの奥さまといふ方を、あんまり近くに感じてゐるところでは、寛ろいだおもてなしもできません。その気持にもなれません。東京の住居は、それや静かな、奥まつたところにありますのよ。知らない人は、尋ねあてるだけに三時間もかかりますわ、といふことで、話は一寸跡切れた。湯上りの、透き通るやうな手を、縁側の手摺りに置いて、それとなく、何ものかを待つてゐる形だ。結ぶでもなく、開くでもなく、べにつ気なしに赤い唇が、心もちふるへてゐたよ。目は無論、渺茫たる水平線の彼方、思ひ出の花咲く国に注がれてゐるのさ。

妻  (寝返りをうつて、夫の方に向き直る。が、これこそ、口は自然に開くに任せ、鼻の孔は、耳鼻咽喉科の診察室に於ける如く、やや、あふ向き加減に奥の方まで見通せる姿勢である)

夫  (これを見て、思はず顔をそむけ)図々しく寝返りをうつたな。


廊下で、突然「おきんさん」と呼ぶ女中の声。


妻  (はたと目を覚し、或は目が覚めた風を装ひ、むつくり起き上り、寝ぼけ声で、或は何食はぬ顔で)もう、お風呂沸いてるでせうか。

夫  (たじたじとなり、それでも、疑ひ深く)眠つてたのか。

妻  (これには答へず、起ち上つて、手拭、石鹸、化粧道具など取り上げ、ふらふらと出て行く)

夫  (さも気抜けしたやうに、その後を見送る)


──幕──



翌日の夕刻


夫  (ワイシヤツ姿で鞄の支度をしてゐる)

妻  (火鉢で手拭をかわかしてゐる)

女中  (勘定書をもつて来る)まだ上りまでは大分時間がございますから、御ゆつくり……。

夫  (勘定書を引き寄せ)また近いうちやつて来るから、よろしく……。

女中  どうぞ、是非……。でも、折角明日はお天気らしうございますのに、もう一日お延ばしになることはできませんのですか。

夫  ああ、どうも、忙しいもんでね。なに、十分保養にはなつたよ。東京を離れるといふことが第一の目的なんだから……。天気の悪いのは何処にゐたつて同じだ。ぢや、これで……(勘定を渡す)

女中  (会釈して去る)

妻  いくらになつてますの。

夫  案外かからなかつたよ。

妻  予定通り……?

夫  まあ、そんなところだ。茶代でも奮発しとかうか。

妻  およしなさいよ、そんな無駄なこと……。それくらゐなら、もう一日ゐた方が気が利いてるわ。

夫  それができれば文句はないさ。あれ見ろ、あの空を……。今まで雨が降つてたなんて嘘みたいだ。

妻  会社の方は、もう一日、どうにかならないかしら……。

夫  さつきの電話さへなけれやね。──丸で腰に縄をつけられてるやうなもんだ。しかし、今度で、このおれが、如何に会社に取つて、重要な人物であるかといふことがわかつたわけだ。おれは明日の朝、少し遅れて行つてやるよ。さうして、少し不機嫌な顔附をしてゐてやる。係長の奴、きつと、そばへやつて来て、なんとかお世辞を云ふからね。おれは、無愛想に、鼻で返事をしてやるよ。

妻  あなたはそれでお気が済むでせうけれど、あたしは、帰つて、みんなになんて云ふんですの。どうかしたはずみに、一度も濡らしたことのない海水着でも見つけられてごらんなさい。いい恥さらしよ。

夫  恥さらしなんていふ言葉を使つてくれるなよ。お前がさう思ふなら、その海水着を、一寸鉄瓶の湯で濡らして置けばいいぢやないか。──第一、海にはひつたことが、さう自慢になると思ふかい。

妻  でも、いまいましいぢやないの。

夫  同感だ。しかし、物は考へやうでね。折角工面をして海岸へ出掛けたけれど、雨に降られ通しで、たうとう五日間一度も海へはひれなかつたなんていふ話は、人が聞いたつて、そんなに不愉快な話ぢやない。それどころか、聞く人間によつては、涙を流してよろこぶかも知れない。

妻  誰が涙なんか……。

夫  ましてこつちが、少し悄げてでもゐれば、なほさら滑稽でいいぢやないか。

妻  だつて、出掛ける時の景気つたらなかつたんですもの。

夫  いいぢやないか。実際景気のいい話なんだから……。さういふことはよくあるもんだ。予め、かういふことを慮つて、始めから悄然として家を出てみたところで、誰も感心しやしない。一体、お前に限らないが、お前の家の人達は、お母さんにしろ、姉さんにしろ、お孝ちやんにしろ、みんな、さういふところがあつていかんよ。


跫音がするので話をやめる。


女中  (現はれる。つりをもつて来る)どうもありがたうございます。

夫  (そのうちから、幾らかを取つて)あ、これ、少しだが茶代……。

女中  いいえ、こちらは、お茶代は頂かないことになつてをりますから……。

夫  さう。そいつはどうも、なんだな。それぢや、これは、色々お世話になつたから、君に。

女中  恐れ入ります。

夫  ええと、もう一人の女中さん、ちよいちよい、ここへ来た、あのひとはなんて云つたつけな、どしどし音を立てて歩くひと……。

妻  まあ、あんなことを……。

夫  いいぢやないか、ねえ、静かな方ぢやないよ。あのひとを呼んでくれ給へ。それから風呂番の若い衆もね。唖かい、あれや、君……。

女中  いいえ、ああいふ風なんでございますよ。よつぽどのことでもなければ、誰とも口を利かないんでございます。

夫  ああいふ風ぢや、よつぽどのことなんかありつこないや。

女中  では、お荷物がおできになりましたら、どうぞ……。(出で去る)

妻  女中にいくらおやりになつたの。

夫  一々心配することはない。お前は、東京へ帰るまで、重役の夫人になつたつもりでゐろ。

妻  東京へ帰つてからも、そのつもりでゐたいわ。

夫  ゐるがいいさ。お前は、根性まで安月給のお神さんだからいけない。

妻  だから丁度いいのよ。

夫  丁度いいとは……? おれを侮辱したつもりかい。そんなことを云ふなら、またお説教を始めるよ。

妻  お説教はもう沢山……。

夫  さうだらう。だが、なんだぜ、この機会に、お前に相談するんだが、もうそろそろおれの気持がわかつてくれなくつちや困るよ。お前は、世にも稀なる善良な女だ。どうして口をそんなに曲げるんだ。

妻  ……。

夫  お世辞でなく、お前は、おれの為めにこの世に生れて来たやうな女だ。

妻  ありがたう。

夫  だから、さう云つてるぢやないか。その点、おれは果報者だと思つてゐる。


この時、どしどし跫音を立てる女中と、猫背の風呂番とが前後して姿を現はす。


夫  あ、君たち、いろいろお世話さん……これは、ほんの少しだけれど……。

女中  どうも……。

風呂番  (黙つて頭を下げる)

女中  何か御用はございませんか。

夫  ありがたう、もう別に……。

女中  (会釈して去る)

風呂番  (これも起ちかける)

夫  あ、君は一寸待つてくれ給へ。君は、この土地の人かい。

風呂番  (ぼんやり相手の顔を見てゐる)

夫  この土地で生れたの。

風呂番  (軽く頭を下げる)

夫  どうだい、何か変つたことはないかい。

風呂番  (にやにや笑つてゐる)

夫  君はなかなか評判がいいぜ。

風呂番  (訝しげに相手を見上げる)

夫  おい、なんとか云ひ給へ。

風呂番  ……。

夫  君は、何か、決心をしてゐるんぢやないかい。

風呂番  ……。

妻  あなた、もう時間でせう。

夫  (風呂番の顔を見つめてゐる)

妻  ほんとに、もういいのよ。

風呂番  (会釈して立ち去る)

夫  (いまいましげに)恐るべき沈黙派だ。


長い間。


妻  あなたは、まあ、なんていふ方でせう。

夫  (突然自嘲的に笑ふ)

妻  (夫の顔を見る)

夫  あれで、あの男、おれをどう思つたらうね。

妻  普通の人だとは思ひませんわ。

夫  なんでもないことが思ふやうにはいかんね。

妻  うつかり人を馬鹿扱ひにすると、あべこべに軽蔑されますわ。

夫  はじめはそのつもりぢやなかつたんだ。ああいふ風に黙つてる男が、何か云ひ出せばきつと素晴らしいことを云ふだらうと、実は楽しみにしてゐたんだ。しかし、あの男は、きつと、素晴らしいことを考へてゐるよ。おれなんか勿論眼中にあるまいが、例へば、おれたち夫婦の生活について、何か、誰にも気のつかないやうな秘密を嗅ぎつけてゐるかもわからない。──おれたち自身にさへ気のつかないやうなね。どうも、そんな気がする。

妻  またそんな勝手な想像をしてらつしやるのね。

夫  さ、ぼつぼつ片づけろよ。忘れものはないね。


この時、番頭が現はれる。


番頭  もうおたちでございますか。生憎どうもお天気都合が……。

夫  いや、立つ時に晴れたから、まあいいさ。

番頭  もう、これで大丈夫だと思ひますが……。

夫  さうありたいもんだ。ぢや、この鞄と、そのバスケツト、それから、その細々したものを持つて降りて貰はうか。

番頭  切符は……。

夫  (紙幣を出し)これで買つといてくれ給へ。

番頭  畏まりました。東京駅二等……。

夫  三等だ。

番頭  へえ。(会釈して去る)

妻  帰りはみじめね。

夫  馬鹿云へ、今夜の予定を聞かしたら、そんなことは云へない筈だ。東京には何があると思ふ。オーヴアーランドがあるぜ、千疋屋があるぜ、お前の夏のシヨウルがある。

妻  どのシヨウル……?

夫  それから、まだ、いろんなものがある。

妻  いろんなものがあるわ、手の届かないところにね。

夫  また始まつた。手が届かなくつたつていいぢやないか。今度の海水浴だつてさうだ。このあひだまでは所謂手の届かない計画だつたんだ。それが、かうして実現できたぢやないか。

妻  実現できたと思つていらつしやるの。

夫  雨さへ降らなければね。

妻  それより、もう少し長くゐられればですわ。

夫  さう取るのか。なる程、不平は絶えない筈だ。しかし、お前、かうして、あの海を目の前に眺めてゐれば、海へはひつたのも同じぢやないか。この五日間、毎日、海へはひり通しだつたと、思へば思へないこともあるまい。

妻  ……。

夫  海の水は、ただ塩からいだけで、冷たい風呂へはひつたと思へば大した違ひはない。

妻  でも、広さが違ひますわ。

夫  広さは、手足を縮めてゐれば、おんなじだ。目をつぶつて、頭の上に蒼空を頂いてゐるつもりになればいい。

妻  ああして、あとからあとから打ち寄せて来る波の感じがしなければ……。

夫  波の感じは、からだを前後にゆすぶればわけなく出る。兎に角、海へはひるといふことは一つの冒険だからね。毎年、何処の海水浴場でも、二人や三人の溺死者がないことはないぢやないか。それに、川上みたいに、下手なモグリ込みなんかやると、金縁の眼鏡を失くしたりするし、金田の奥さんだらう、真珠の指環を波に浚はれたつて云ふのは……。

妻  安物だつたんですつて……。

夫  何れにしてもさ。それから、貝殻で足の指を切つたり、塩水がはひつて、中耳炎になる奴なんかいくらもゐる。

妻  さういふことをおつしやるのは、負け惜しみつていふのよ。あんなに海岸行きの効能を並べ立てて置きながら、今更、そんなこと、よく恥かしくなくおつしやれるわね。

夫  お前を慰めようと思つてさ。

妻  そんなら、あべこべに、もつとがつかりしてて頂戴。さういふ見えすいた気休めは、云ふ方でも、云はれる方でも、くすぐつたいばかりよ。残念なことは残念なことにして置かうぢやありませんか。二人だけでね。

夫  おや、おや、お前がその気ならわけはないさ。それぢや、今度は、残念なことにして置いて、何時かまた埋合せをしよう。それでいいだらう。よし、だが、おれは、飽くまでも、今度、お前と一緒に泳ぎの真似なんかしなくつて仕合せだつたと思つてゐる。

妻  ……。

夫  どうしてつて、お前はそのわけを聞きたがる必要はない。

妻  わかつてますわ。

夫  わかつてるなら云つてみろ。

妻  云はなくつても、わかつてますわ。

夫  お前は勘違ひをしてゐる。それぢや、かういふことがお前にわかるか。──何時か、そら、隣から蓄音機を預かつたことがあつたらう、旅行中、つかはないと錆びるからつて……。

妻  ええ。

夫  毎晩のやうに、有りつたけのレコードを、よく、飽きずにかけたもんだ。「ヴオルガの船歌」を空で覚えたのもあの頃だ。

妻  それから「スーヴニール」……。

夫  それさ。おれは、かねがね、朝起きがつらいたちだ。

妻  起しやうが悪いつて、毎朝お怒りになつたものですわ。

夫  毎朝、人間が、こんな風にして、折角の夢を破られるなんて殺風景の骨頂だ。せめて、枕もとで、例へば女学生の歌ふやうな歌でもいい、さういふ歌の声で、何時とはなしに、自然に、目を覚ましてみたら、さぞ幸福だらうと、おれは、かねがね思つてゐた。お前にそれをやれと云つても、どうせ、はいと云つてやる気遣ひはない。丁度、蓄音機が手許にあるのを幸ひ、一度、その空想を実現させてやらうと思ひ立つた。

妻  さうさう、そんなことがありましたね。

夫  先を云ふな。おれにしまひまで云はせろ。それで、ある晩、おれは、お前に頼んで置いた。──あすの朝、おれを起す時に、「もう時間ですよ」なんてガミガミ呶鳴らずに、黙つて、枕もとで蓄音機をかけてくれ。蓄音機で、「スーヴニール」かなんか掛けてくれ。おれは、その一曲が終るか終らないうちに、むつくり起き上つてみせる。さう云つて、おれは、床の中にもぐり込んだ。自分で自分の気むづかしい神経を持てあましてゐる矢先だ。何でもいい、早く夜が明けてくれ、空はなるだけ明るく、夢はなるだけ深く、かう心に祈りながら目をつぶつた。一本のビールがやうやく廻りかけてゐた。

妻  翌朝、ちやんと、おつしやる通りにしましたわ。

夫  あの時ばかりは、感心に、おれの云ふことを一度で聞いたね。忘れずに、お前は、おれの枕もとで、「スーヴニール」をかけた。

妻  一度終つたら、もう一度かけろつておつしやいましたわ。

夫  うむ。だが、あれは、もつと寝てゐたい口実でもなんでもない。夢現に聞えて来るあのヴアイオリンのメロデイーが、おれを、果して、幸福の絶頂に押し上げた。と思つたのは瞬間で、だんだん耳がはつきりして来るにつれて、つまり、お前がおれの枕もとで、蓄音機をかけてゐるのだといふことがわかつて来ると、おれの心は、何か、かう、痺れるやうな痛みを感じた、しまつたと思つた。おれは蒲団をかぶつてしまつた。

妻  泣いてらしつたんでせう。

夫  泣いたと思はれてもしかたがない。それほど、おれは、激しいシヨツクを受けた。蓄音機がもう一度「スーヴニール」を繰り返してゐる間、おれは、おれたちの幸福について考へた。おれたちの夢について考へた。おれたちの生活について考へた。

妻  あの日は、ほんとに晴々した顔をして御飯を上りましたわね。

夫  さうか。こんなことなら、毎朝でもかけて上げますつて、お前も云つたね。おれは、しかし、それを断わつた。

妻  でも、あの明くる朝から、一度呼べばきつとお起きになるやうになりましたわ。尤も、近頃は、また駄目になつたけれど……。

夫  かういふことは、お前に云つてもわかるまいが、おれは蒲団をかぶりながら、つらつら考へた。──こんなことをしてゐては大変だと……。おれは、もう少しで、蓄音機を蹴飛ばし、お前を連れて、何処か人のゐない、山奥かなんかへ隠れてしまはうと思つた。それは、大きな罪を犯した後の、自責にも似た心の動揺だ。恐ろしい悔恨だ。みじめな自己嫌悪だ。しかし、この気持は、お前に知らせたくなかつた。おれはぢつと心を鎮めた。

妻  あなたのおつしやることは、本当なのか、常談なのかわからないのね。

夫  おれにもわからない。


長い沈黙。


妻  もうなれつこになつたから、近頃はあんまり気にかけませんけれど、それでも、なんだか頼りないことがありますわ。

夫  気にかけることはいらんさ。今にわかるよ、おれが何をしようとしてゐるか。おれはただ、お前を幸福にすることしか考へてゐないんだ。

妻  またそんな……。

夫  信じないと云ふのか。常談だらう。そんなら、おれの新しい計画を話して聞かさうか。お前は何時か、荻窪へ行つた時に、芝生で囲まれた家を見て、かういふ家に住んでみたいつて云つたことがあつたね。

妻  どんな家でしたつけね。

夫  忘れたのか。そら、若い細君が、犬にじやれつかれて困つてゐたぢやないか。この春だよ。

妻  ああ家を捜しに行つた時……。

夫  さうさ。あの家は、たしか四間ぐらゐだつたね。いくらで建つと思ふ。

妻  ……。

夫  あれで二千円だよ。


この時、最初の女中が現はれる。


女中  あの、もうお時間でございますが……。

夫  あ、さう。(かう云つて、機械的に立ち上る)

妻  (ぼんやり、暮れて行く海の方を見て居る)


──幕──

底本:「岸田國士全集3」岩波書店

   1990(平成2)年58日発行

底本の親本:「落葉日記」第一書房

   1928(昭和3)年525日発行

初出:「改造 第十巻第一号」

   1928(昭和3)年11日発行

入力:kompass

校正:門田裕志

2012年14日作成

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