粟田口霑笛竹(澤紫ゆかりの咲分)
粟田口霑笛竹(澤紫ゆかりの咲分)
三遊亭圓朝
鈴木行三校訂
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さて今日から寛保年間にございました金森家の仇討のお話で、ちとお話にしては堅くるしゅうございますから、近い頃ありましたお話の人情をとりあわせ、世話と時代を一つにして永らくお聞きに入れましたお馴染のお話でございますが、ちと昔の模様でございまして、草双紙じみた処もございます。粟田口國綱と云う名剣が此の金森家にございます。これはその北條時政の守刀で鬼丸と申します名刀がございました、これと同作でございまする。かの國綱の刀の紛失から末が敵討になりまする。このお話の発端は、寛保三年正月の五日でございます。昔も今も変りませんのは、御婦人は春羽根をつき毬をついてお遊びなさいます。男の児は紙鳶といって凧を揚げるというのが春の遊びで、どこともなく陽気なものでございます。一体空を見るのは薬だというので、皆仰向くような遊びでございますから、紙鳶をびい〳〵〳〵と揚げますれば、是非子供は空を見なければなりません。また羽根を突けば必ず空を見る。只今あの皆様が椅子にかゝってコップで御酒を飲る時は、仰向いてグーッと飲まなければならんような事になって居りまする、つまり人間の健康のために致すことで、アノ羽根を突くのをよく〳〵聞いて見ますれば、あれは蚊に喰われないまじないだと申しました方がございますから、どういう訳かと質ねましたらば、子守が児を負いまして、カチーリ〳〵と羽根を突くと云うと、むくれんじの玉の返る処が蜻蛉という虫に似て居りますから、蜻蛉返りと云って、くる〳〵ッと返る、蜻蛉と云うものは蚊を捕り喰う虫だと云うので、赤ん坊の頭を蚊に喰わさんがためにカチーリと羽根を突き、くる〳〵ッと返ると蚊が逃げるんだそうですから、一体は夏つかなければならんものだが、何ういう訳か正月羽根を突くことになりましたが、昔の羽子板は誠に安っぽいものでございます、只今でも何うかすると深川八幡の市で売って居りまするのは、殿さま、かみさま、さんじゃさまとか云う昔風の絵が書いて有りますが、只今は役者の押絵で誠に美しい大きいのが流行ります。近年は羽子板の外へ刀を持った手などの出たのが有りまして、羽子板の大さが六尺三寸と云うので、まさか、朝飯前には中々持ち切れません、それでカチーリ〳〵と突きますが、能く突けたもので、親の教より役者の押絵の方が大事だと見えて、
女「いえ、これは貸しません、私のは大切な新駒屋のだから中々貸されません、似顔へ吉野紙を当てゝしまって置くのですから」
男「そんな事を云わないで貸しておくれよ、追羽根をするんだから」
女「顔を汚すといけないからさ」
男「じゃア宜い、塵取でも持って来よう」
と正月は必ず追羽根を突きまする。丁度其の頃湯島切通しに鋏鍛冶金重と云う名人がございました。只今は刈込になりましたが、まだ髷の有る時分には髪結床で使う大きな鋏でございます。鍛えが宜しいから、ジョキリと一鋏で剪れるが、下手な人のこしらえた鋏で剪ると、バラ〳〵に先が散ばって幾度こいても揃いませんから、また剪ると額の処へ細かい毛がはら〳〵落ちて、余りぞっと致しません。金重の鍛った鋏はジョキリと一鋏で真直に剪れるので大層に行われました。金重は六十五になりますが、無慾な爺さんでございます。只た一人年寄子でお富と云う娘がございましたが極別嬪でございます、年は十八に相成りますが、誠に世間でも評判の好い娘で、少し赤ら顔の質だが、二重瞼で鼻筋の通った、口元の可愛らしい、笑うと靨と申してちょいと頬に穴があきますが、どういう器械であくか分りませんけれども、その穴は余程深く、二分五厘有ったと云います、誰が尺を突込んで見たか、髪の毛の艶が好く、中肉中丈で、お臀の小さい、踵の締った、横骨の引込んだ上ものでございます。一人娘ゆえ秘蔵に致し気儘に遊ばして置きましたが、日暮方から羽根を突きに往って帰りません。此の家に恭太郎という弟子がございましたが、親方にも当人にも年の分らない、色気もなく喰い気一方の腑抜な男でございます。金重は大人ゆえ愚なものほど愛して居りました。
金「恭太や〳〵」
恭「えゝ」
金「お富は何処へ往たのう」
恭「表のての字の前で羽根を突いてたよ」
金「往って呼んで来な、日が暮れるからさっさと御飯を食べてお寐なさいと云って呼んで来な」
恭「あいよ」
と云いながら外へ出て参りました。その横町を真直に出ると、ての字と云う居酒屋の前が広く成って居りまする処で、カチーリ〳〵とお富は友達と羽根を突いて居りまする傍へ恭太郎が来て、
恭「おい、お富さん、お富さん」
富「何んだよウ」
恭「あの親方がもう止せってえから、羽根を突くのは明日におしよ、日が暮れると暗く成るよ、お飯を喰べないと腹が空るとさ、早く寐ないと眠く成るとさ」
富「何を同じような事をいうのだよ、あいよ今直ぐに帰るから少し待っておいで……きいさん上げますよ、宜うございますか、さア上げますよ」
カチーリとはずれで駈けて突く機みに通り掛りの人の腮をポンと突きましたが、痛いもので、年始廻りの供の帰りが、首に大きな風呂敷を掛け、千草の股引白足袋に雪踏を穿いた小僧が腮を押え泣声を出して、
小「あの娘でございます、突然に来て私の腮を払ったので、あいた〳〵〳〵」
若「宜いや仕方がない、腹ア立つもんじゃアないよ」
小「腹ア立つッて立ないッて、人の腮を払って置きながら謝りもしないで、彼処のお飾松の処へ隠れて、そうしてお前さん私を見て居やアがる、あんな奴は有りません、いや此処へ来て謝まれ」
若「そんな事を云うもんじゃアない、笑い顔をしろ」
小「痛くって笑い顔は出来ません、小言を云って下さいよ」
若「彼方も面目なくって間が悪いから、慌てゝお飾松の蔭へ隠れたのだが、若しお前の方が板で彼方が腮ならばお前が謝らなければなるまい」
小「詰らない事を仰しゃる、あたりまいでございます、小言を云っておくんなさいよ、私の腮を払われたから」
若「払われたら目出度いではないか、宅の安兵衞が去年の暮に払われないとって心配をしてえたが、まだ松もとれないのに払われたら結構じゃアないか」
小「ウーン、掛廻りじゃアありませんし、若旦那はあんなことばかり云ってる、鳶頭小言を云っておくれよ」
鳶「おゝ娘さん冗談じゃアねえぜ、羽根を突くならもっと端ぱたへ寄って突きねえ、人に怪我をさせて何うするんだ、冗談じゃアねえぜ、広え処で羽根が突きたけりゃア地面を買って突くが宜いや」
小「鳶頭これ御覧、腮から鼻から耳へかけて払われたんだ」
鳶「それじゃア、正月の耳鼻腮痛だ」
小「鳶頭まであんなことをいうのだものを」
若「そんな事を云うもんじゃアない、何でも春は心を柔しく持って賑やかにしてなければいけない」
と宥めて居りまする。息子の年頃は二十三四で、色のくっきりと白く、鼻筋の通った、口元の締った眉毛の濃い、薄く青髭が生えて居りまして、つや〳〵しい大結髪で、けんぽう行義あられの上下に、黒斜子の紋附を着、結構な金蒔絵の印籠を下げ、茶柄に蝋鞘の小脇差を差して居りますから、年始帰りと見えます。
若「さア〳〵往こう、これから腹を立つものじゃアないよ」
と小僧を宥めている、物の云いよう男振りと云い、真に情の有りそうなお方と世間知らずの生な娘もぞっと身に染む恋風に、何処の人だか知れませんが好い息子さんだと思い初め、ぼんやりとして後姿を見送って居りました。これが因果の始りでございます。無闇に男振や顔形を見て人に惚れべきものでは有りません。姿形じゃア心意気が分りません。心意気を見ないで惚れてはならんと圓朝が咎める訳は有りませんから惚れても宜しいが、実は何処町何丁目何番地何の誰と云うことを区役所へ往って戸籍をあらって、其の人の身分を調べた上に、智慧が有るとか財産が有るとか、官員に成っても勅任にでもなれる人には惚れても宜いが、只顔の綺麗なのを見て浮気な岡惚をするのは、今開化の世の中には智慧のない話でございますが、そこがそれ恋は思案の外で、お富は彼の息子は何処の方とも知らず、只何時までも立止まって見て居りました。
恭「おい、お富さん、だから親方が早くお帰りと云ったんだよ、お侍さんの腮などを払って」
富「お侍さんじゃアないよ」
恭「でも上下を着て、はさみ箱を担いで、お槍を立てゝ居たぜ」
富「なアにあれは、年始帰りのお人だよ」
恭「早く家へお帰りよ」
富「今帰るよ、きいさん、みいちゃん、左様なら、また明日」
と云い捨てゝ宅へ帰って臥りましたが、何う云う因果か寝ても覚めても現にも、彼の息子の顔が眼先を離れませんで、漸々鬱ぐような事に成りましたゆえ、親父も心配いたしましたが、金重はもうこれ六十五でございます、不図風を引いたのが原因で漸々病が重くなり、僅か二十日ばかり煩って死去りましたが、江戸表には別に身寄り親類も有りませんが、下総の矢切村から金重の妹が出て参りました。お富のためには真実の叔母ゆえ、後懇に野辺の送りも済ませてから、丁度七日の逮夜の日に、本郷春木町の廻りの髪結で長次さんと云う、色の浅黒い、三十二三になる小粋な男が遣って参りました。
長「え御免ねえ、真平御免ねえ」
恭「あい、おいでなさい」
長「兄さんの名は何とか云ったっけ、ポン太さんじゃアねえ恭太さんか、親方にそう云っておくれ、去年の十月誂らえた二挺の鋏はもう出来上ったかって」
恭「鋏は出来やアしないよ」
長「出来やアしねえって、親方が請合ったのだぜ」
恭「請合ったって出来ねえよ、何うしたって出来やアしねえ」
長「困るナア、出来なけれア出来ると云って請合わなけりゃア宜いに、困るナア、親方にそう云っておくれ、お老爺さんは何うした」
恭「何うしたって眼を眠って固くなって、冷たくなったから、桶の中へ入れッちまったのだ」
長「フウーン……じゃアお老爺さんは死んだのか、これはどうも惜いことをしたのう、名人を一人なくなしちまった、日本中の髪結が何のくらい困るか知れやアしない、そういう事と知ったら二十挺ばかり誂らえて置いて、後で売れば何のくらい儲ったか知れねえのに、惜いことをした、此の人は、斯う云う気だから力を落さねえのだな、おいお老爺さんが死んだら困るだろう」
恭「ウヽ親方が死んだって哀しくはねえが、親方のいる時分にア何か喰いてえと云えば直に買ってくれたが、親方が死んじゃア何も買って喰えねえから、己も一緒に桶の中へ入れて呉れろってったが、生きている中はいけねえって入れて呉れねえのだ、いけアしねえ」
長「可愛そうに、それが人情だ、娘さんはさぞ力を落したろう」
恭「なにそんな物はおっことしゃアしないよ」
長「さぞ泣いたろうね」
恭「毎日泣いてるよ、だからね、矢切村の叔母さんが出て来て、そう泣くんじゃアない、今日は精進もんで御飯ア食わせるとよ」
長「そんなら今日は七日か」
恭「なに今日は二十六日だ」
長「はゝ面白いことを云う人だなア」
と云ううちお富は奥から店へつか〳〵と出て参り、
富「親方おいでなさい」
長「誠に何うも、私ア些とも知らなかったのですが、今恭太さんから聞いて驚いたんですが、あんなに御丈夫でおいでなすったのにね、とんだ事でござえやした、嘸まアお力落しでござえやしょう」
富「有難うございます、お誂らえの鋏はまだ出来ずに居りまして誠に相済みません」
長「どう致しやして、鋏どこじゃアござえやせん、実に惜いことをいたしやした、宝物をなくしたようなもので、何のくらい私共は困るか知れやせん」
小「おい長次さん何うしたんだ」
長「あゝ恟りした、後から突然に突ッついちゃアいけねえ」
小「おまえくらい怠ける髪結はないって、大旦那が大層腹ア立っているぜ、嘘ばかり吐いて丁場を明けたり、若旦那を遊びに誘い出したりして悪い髪結だって」
長「嘘を吐いて明けるわけじゃアねえが、此家の親方がおめでたく成ったので悔に来たんだが、明日は屹度往きますから宜しく、また濱田へお使いかえ」
小僧はけゞんな顔にてお富を見ながら、
小「おや、この娘さんだ、此の間私が若旦那のお供して年始廻りに歩いた帰りに、私の腮を払ったのは」
富「おやまアどうも、誠に相済みませんでした」
小「あゝ、この姉さんは口を利く、私は唖かと思った」
長「何をいうのだ、それじゃア明日は屹度往きますから宜敷、左様なら、姉さん、あの小僧さんを宜く知っておいでゞすね」
富「なに此の間五日の日に、私が羽根を突きかけて、あの小僧さんの腮を払って気の毒とは思いましたが、間が悪いから隠れてお詫もしませんでしたが、あなた宜くあの小僧さんを御存じですねえ」
長「私の大切なお店で、紀伊國屋という質両替屋です」
富「あなた其店へ入っしゃるの」
長「えゝ」
富「そこに二十二三で色の白い好い男の若旦那がいらっしゃいますか」
長「え、伊之助さんと云う一人子息で好い若旦那でさア、若旦那に済みません事でもございますか」
富「有るくらいでは有りませんの」
長「私は毎日往って、撫で附けて上げ、一日置きに若旦那の髪を結います」
富「お前さんのような汚ない方が、おや御免なさいよ、あなたが若しその若旦那のお髪をお結いなさるのならば、過日羽根を突いて小僧さんの腮を払った娘がございますが、お詫をしたくも間が悪いのと恟りしたので、御挨拶も致しませんで、誠に馬鹿な娘と思召しましょうが、間が悪いのでお詫も致しませんと、宜くあなたからお詫をなすって下さいまし」
長「若旦那は男が好いから岡惚れをしてはいけません」
富「あら、そんな訳では有りませんが、お内儀がお有んなさいますかえ」
長「えゝ、嫁を探してるんだが、お世話アするような嫁さんがねえんです」
富「おっこちが有りましょうね」
長「そんな事はどうだか知りません、だがね堅え子息さんでございますが、此の頃足を近く廓へどん〳〵と花魁を買いに往っても、若旦那が惚れて何うの斯うのと云う方ではない、たゞ浮れに往きなさるが、ほんの保養で、松葉屋の八重花花魁を買ってゝ、これへ時々往くばかりなのさ」
富「花魁などと云うものは本当に仕合せでございますねえ、あんな美しいお方がお金をもって遊びに来て下さるのねえ」
長「その代り忌なのが有りますから埋合せでございましょう、花魁は随分苦しいことも有りましょう、傍に居るのも忌な客でも一緒に寝なけりゃアならないからねえ」
富「本当にそうでございますね、松葉屋の八重花さんと仰しゃるのは吉原でございますか」
長「えゝ、京町でございます」
富「親方少し待って下さいまし」
と云いながら奥へ這入り、暫くして鋏を手に持ち出て参り、
富「是はアノ宅のお父さんが鍛って置いたお誂えのすえが一挺残ってあるんですが、お役に立つか立たないか知りませんが、お使い料になすってくださいな」
長「えゝ、これは宅のお爺さんが鍛った、これは有難い、大切に遣いやす、それじゃア若旦那への言附けは八百ばかり云いましょう、大きに有難う、左様なら」
と長次が帰りました。お富は本郷春木町の紀伊國屋という質両替屋の若旦那と初めてわかりましたが、あの若旦那にお目にかゝるのは、吉原の花魁でなければ逢われないことだと不図思い違いをいたしました。何かの本に浮気娘は女郎を羨ましがると云うことが有りましたが、それに父の金重は無慾の人でございますから、娘へ残します処の物とてもございません。少しく借財が残ったぐらいの事で、死にます時の遺言に己も人に知られた金重だから恥かしくない石塔を建てゝくれろと云うので、立派な石塔を建てゝ借財の極りをつけ、是でちゃんと自分の身の立つというように致しますには、金子が入りますことゆえ、お富が叔母と相談して私を吉原の松葉屋へ娼妓に売り、その身代でお父さんの石塔を建てゝ吊い料にして下さいませんと、お父さんの耻になりますからと申しますと、田舎気質の叔母ゆえ泣いて止めるのを聴入れず、お富は自身に松葉屋へ駈込んで頼みますと、半藏も感心して、
半「誠に親孝行な事だ、器量と云い姿と云い申分がないから、お前さんの入用だけの金子を上げますが、親類が得心でなければ証文は出来ません」
と云うので、叔母を呼び相談のうえ談がつき、其の頃百二十両に身を売ったと云うから、余程別嬪でございます。身の代は皆な叔母に預け、金子を持たして帰す。叔母は残らず跡の始末を致し、金重の家を仕舞って下総の矢切村に帰りました。
お話二つに分れて、是も同年正月五日の話でございます。紀伊國屋伊之助の許嫁の娘は、深川万年町に岡本政七という諸侯方のお目利をする小道具屋で、この妹娘が紀伊國屋の息子と許嫁の約束に成って居ります。此の家に重三郎という番頭が居ります。年齢二十七まで奉公を致した堅い人でございますが、御酒の上が悪いので、御酒をたべると様子が違う。酒は謹まなけりゃならんから止せと、親にも云われて、弁天様へ願掛をして酒を断ちましたが、扨こうなるとまた飲みたいものと見えます。金森さまへ主人の代として年礼に参りまして、御馳走にお屠蘇が出ましたが、三合入の大盞で目出度く祝せというので、三杯続けたから三三が九合で、後は小さいお盞と云われたが、屠蘇でも余計に飲めば何んなものでも酔いますが、重三郎も酔いましたが、昨年の十一月お下げになりましたお刀をかき入れを致して、二日の研初に研上げも出来ましたから、一度御覧に入れて、それから廿日正月までに、お鞘の塗から柄糸を巻上げますのは間に合いますと、そこは酔っていても商売ゆえ、後藤祐乘の作にて縁頭に赤銅斜子に金の二疋のくるい獅子の一輪牡丹、金の目貫は英一蝶の下絵を宗珉が彫りました銘作でございます。鍔は信家在銘で山水に釣り人物で、お鞘に塗は相違なく間に合いますから、柄糸は黒の五分に致しますと申し上げ、お下げになったのを自分が大切に脊負って外へ出ましたが、屋敷内にいた時は気が張って居りますから酔が出ませんが、外へ出ると一時に酔が発したから、歩くにも足元が定まらんので、小僧が心配を致し、介抱しながら漸く永代橋を担いで通った様なもので、佐賀町通りをひょろ〳〵参りまして、佐賀町川岸から仙台川岸を向うに見て、十間ばかり往くと、番頭は袴を穿き羽織を着たなりでベタ〳〵と大地へ坐ってしまい、動きません。今と違って若春は余寒も強く、松の内は夜に入ると人ッ子一人通りませんから寂として居りまして、往来はぱったり有りません。日光颪がビー〳〵と吹来る。
小「番頭さん〳〵、もう少しだから往きましょう、番頭さん〳〵」
と呼んでも重三郎は正体なく酔ぱらい、まわらぬ舌で、
重「あゝ宜しいよ〳〵」
小「宜しくは有りませんよ、其処へ坐っちゃアいけません、此処は家の中じゃありません、表でございます、こんな処に居ては淋しいし、寒くって堪りません、もう少しだからサア往きましょう、直にお店でございますよ番頭さん」
重「常吉〳〵」
小「此処に居ますよ」
重「あゝ有難いナア、今日往ったのは何というお屋敷だか知ってるか」
小「芝の金森さまのお屋敷でございますよ」
重「能く覚えて置け」
小「覚えていますよ」
重「芝だぞ」
小「知ってますよ、もう少しだから、さアお出でなさいよ」
重「宜いじゃないか、今日は己が旦那に二百両も三百両も儲けさせる事をして居るから、少しぐらい酒を飲んで酔っても宜いんだ、有難いことだ、金森さまの御重役で稻垣小左衞門さまというお方は七百五十石お取りなさるお方だ、そのお方がちゃんと上下を着けて己の前へ手を突いてお辞儀をして、重三郎目出度いのうと仰しゃるから、へえ御意にございます、毎年相変らず主人の代りに手前が参り誠に目出度いナア、へえ〳〵お目出度うございます、相変らずどうぞと云うと、手前は主人政七よりも馴染が深いなア、御意にございます、格別のお馴染で有難う存じます、酒を禁ったかえ、禁ちました、そんなら屠蘇を飲め、殿様から拝領の松竹梅の大盞で飲め、己が酌いで遣ろう、へえ有難うございますと云って己は三杯飲んだ」
小「お前さんは酒を三杯飲んだろうが、私は待ってる間にお餅を二タ切焼いて呉れたぎりだから腹が空って仕様がない、もう直に戌刻になりますから早く往きましょう」
重「こゝに脊負ってるこれを覚えて置け、刀屋になるのなら是を覚えて置かなければならんぜ、粟田口國綱という勝れた逸物だ、刀屋にならば能く覚えて置け、五郎入道寳龍齋正宗、伯耆の安綱、皆神棚へ上げて御神酒を供え拝んでも宜いくらいの物だから、よく覚えて置け、あゝ有難い」
小「番頭さん、犬の糞の上へ手を突いちゃアいけませんよ」
重「なに犬の糞結構有難い目出度い」
といって動きませんから、小僧も呆れ果てた故、早く帰って主人へ知らせようと思いまして、ばた〳〵駈出してまいりました。番頭は何か独り言を云いながら彼方へパタリ此方へパタリ遣って参ると、五六間先に一挺の四ツ手駕籠が下りている様子、只今では人力ですが、其の頃は駕籠に乗って歩いたもので、正月のことゆえ、ちょっと輪飾が後に附いて居ります。駕籠の煽りをポカリと揚げて中から出た侍は、山岡頭巾を真深に冠り、どっしりした無紋の羽織を着、仙台平の袴を穿き、四分一拵えの小長い大小を差し、紺足袋で駕籠から足袋はだしの儘つか〳〵と重三郎の傍へ寄るより早く、粟田口の這入った箱へ手を掛けて無理に取ろうと致します。重三郎は小僧にも持たせずに自分が脊負って来るくらいですから、驚いて大声を揚げ、
重「泥坊〳〵」
と呶鳴ると、彼の侍は突然腰に帯して居た一刀を引抜く刃の光に、重三郎は堪らんと心得て逃げたが、横へ切れゝば宜いのに真直に往ったから仙台堀へ駈込んだが、暫くして浮み上り、がぶ〳〵遣ってる処を上からスーッと一刀浴せたが、水の中ゆえ鋒鋩が肩へ中ったか何うだか様子は分りません。侍は刀を提げたなりで水面を透して見て居り、暫く経って後へ退り、懐中から小菊の紙を出して刀を拭いましたが血染もない様子ゆえ、其の儘鍔鳴をさせてピタリと鞘へ収め、刀箱の風呂敷包を解き、中から取出して見ると、白茶地亀甲形古錦襴の結構な袋に這入って居ります。其の儘袋ぐるみ腰に差し、箱も風呂敷も川に投込みまして悠々として後の方へ下りますと、舁夫が一人駕籠の後に肝を潰して小さくかたまり、真青になって居ります。
侍「これ、そこに居るのは何者だ」
舁「へい〳〵、へい〳〵只今往って参りました」
侍「おゝ若い者か、小菊や煙草を買って来てくれたのか」
舁「へえ直に往って参りますつもりでございましたが、大きに遅くなりました」
侍「いや存じの外早かった、手前先程から其処に居たか、また今帰って来たか」
舁「へえ今……もう少し先刻のような……今のような、ちょいと廻って直に帰りました」
侍「何を申す、それでは只今の様子を見たな」
舁「へえ少しばかり拝見を致しました」
侍「これには少し仔細の有る事だから口外して呉れるなよ」
舁「決して他言は致しません」
侍「その代り手前には多分の手当を遣ろう」
舁「なに旦那さま、お手当さえ下されば随分お手伝も遣るくらいで」
侍「中々気丈な奴だ、サ、こゝへ来い、手当を遣ろう、向うの仙台侯のお長家下に二人ばかり頭巾を冠ってる奴が居るようだが、気を附けてくれ」
舁「へえ、二人、何処に」
と、うっかり舁夫が向川岸を見る隙を覘いすまし、腰を居合に捻って不意に舁夫の胴腹へ深く斬りかけ、アッと声を立てる間もなくドンと足下にかけたから、舁夫はもんどりを打ってドブりと仙台河岸へ落ると、傍に一艘の荷足船が繋いで居りまして、此の中に居たものは伊皿子台町の侠客で荷足の仙太という人で、力は五人力有って、不死身で無鉄砲という危険な人で、始終喧嘩の仲人をしたり、喧嘩をするので生疵の絶えない人ですが、親父が死んでから余程我も折れましたが、生れつきの侠だから、斯ういう悪人を見ると我慢が出来ません、船の中へザブリと水が跳込んだから苫を上げてもうろく頭巾を冠ったなり、と見ると侍が抜身を提げて立って居りますから、心の中で人を馬鹿にしやアがる、こんな野郎が此の町中をのそ〳〵歩きやアがるんで、夜商人の蕎麦屋だの家台店などは何のくれえ困るものが有るか知れねえから、殴り倒してやろうと思い、手頃の板子を一枚持って、止せば宜いのに、上潮ばなで船がガッシリ岸へ着いて居りまするから、仙太は身軽にひらりと岸へ飛び上り、彼の頭巾を冠った侍の後へ廻る、途端に向うから提灯を点つけて駈けて来る人があります。
政七「何処だ〳〵、常や」
小「何でも此処の地べたへ坐ってたんです」
政「お下げになった大切な御刀を脊負ってながら本当に何てえことだろう」
小「何でも此処らに違いないんです」
と云いながら提灯を振廻し、うろ〳〵方々を見廻す中に、侍が閃つく長いのを持って立って居たのを火影に見たから、小僧は驚き提灯を投り出して向うへ逃げ出したから提灯は燃え上る、政七は何が有ったのか分りませんけれども、小僧がキャーと云って逃げるに驚いて、無闇にこれも一緒に後から逃げました。荷足の仙太は提灯の燃上る火影に熟々と侍の姿を見済まして板子を取直し、五人力の力を極めて振り冠り、怪しい侍の腰の番を覘い、車骨を打砕こうという精神でブーンと打込みますると、悪事をいたすくらいの侍ゆえ腕に覚が有ると見え、ひらりと飛び上りながらスーッとまた長刀を引抜き、仙太郎の鼻の先へ、閃くところの鋒尖を突き附けられ、流石の仙太郎も驚き慌てゝ船の中へ飛込み、繋縄を解いて是から無闇に船を漕いだが、後から追掛けて来るような心持で川中へ漕出すが、上潮始で楽ゆえ段々漕上って、よう〳〵万年橋の下へ船を突込みました。此の時に彼の刀屋の番頭重三郎は川の中へ投り込まれたが泳を存じておりますというは、羽根田で生れた人ゆえ少い時から海の中に這入って泳ぎつけて居ります。なれども、袴羽織に小袖を着て、小脇差を差している上に印籠を下げて居りますゆえ、泳げるものでは有りませんから、がぶ〳〵しながら石垣へよう〳〵這い上ると、万年の橋詰でございます、河岸へ立上りますに、ブーと吹きおろす寒風に袖も袂もつらゝのように氷って、ずぶ濡れゆえ、酔が醒めてみると夢のような心もちで、判然分りませんけれども、お刀は慥かに己が脊負ってお屋敷から出たに違いないが、河岸縁へ来て、己が正体なくなって土地へ坐った時に、常が往こう〳〵と云った事は微かに覚えて居るが、泥坊が脇差を抜いたから驚いて己が川へ駈け込んだのか投り込れたのか些とも分らないが、お刀を脊負って来たに違いないのが、無いからには取られちまったのか、あゝ飛んだ事をしちまった、これが小僧の使いじゃアなし、三十近い年をして、お大名からお下げになった大切なお刀を泥坊に取られると云うは、災難とは云いながら、お屋敷さま御伝来の大切な御宝刀で有るぞよと、稻垣さまが仰しゃった事を慥に覚えているが、これが紛失るとお屋敷の方も大騒ぎになるだろうし、また主人へはお屋敷から何んな難題がかゝって来るか分らない、こりゃア迚も生きている事は出来ないて、面目ないから寧そ一思いに死ぬより外に仕方がない、寧そのこと身を投げようか、いや己は身を投げても死ねゝえや、斯ういう時には生じいに泳ぎを知ってるのはいけないナア、首を縊って死のうかしらん、併し能く往来中の松の樹の枝などへぶら下ってるのが有るけれども、随分ざまの悪いもんだ、己の耻を曝らすばかりじゃアない、主人や親までの恥になる、困ったなア……あゝ好いことがある、この橋の欄干に帯を縛ってぶら下れば、船で通る者ばかりしか見られない、船頭などに見られたっても構わないから、此処からそうしよう、併しナア正月五日に首を縊ることになろうとは思わなかった。と云いながら羽織を脱ぎ、袴を取り、帯を解き、真田の下締を締めまして、黒紬の紋附を着たなり欄干へ帯を縛り附け、脇差や印籠を一緒にして袴の上へ取捨て、片手にて欄干へ捉まり、片手にて輪にしたる帯を首に巻き附け
「あゝ己の死ぬのは心柄だから仕方はねえけれども、己が此処で死んだという事を、羽根田にいる親父が聞いたらば嘸恟りするだろう、虫が知らせたのか去年の暮の二十日だっけ、久し振りで親父の処へ尋ねて行き、一両小遣を遣ったらば、何で己に小遣をくれるのだ、己は梨子を一荷担いで歩き、幾籠売っても一両の金は儲からないのに、己に一両も小遣いを呉れられるような身の上に成ったは、御主人さまのお蔭だから、御主人を大事に思うなら、好な酒だから飲むなじゃアないが、手前が一己立になるまでは酒だけ止めてくれろよ、と手を突いて頼むと云われたから、お父さん、そんなら私は羽根田の弁天様へ酒を禁とうと云って、親父と手を引合って弁天さまへ参詣して願掛けをしたが、酒を禁って置きながら味淋でも呑んで酔えば同じことだ、味淋酒というからこれも矢張酒だ、どうぞ堪忍しておくんなさい、どうも済みませんが、災難で、これも皆約束事と諦めておくんなさい、先立ちます、また万年町の御主人も嘸悪い奴と思召しましょう、後でお屋敷から難題が掛って来たら、何のくらい御立腹になるか知れませんが、どうも私には致方はございません、その代り私が死にましてもお刀の処は私が幽霊になって尋ね探し、御難儀のかゝらないように致して…お係りの稻垣様のようなおやさしい御重役を、しくじらせるような無調法を致し、事に依ったら切腹でも仰付けられるようなことが有っては済まない、あゝ何んと云っても酒からだ、意見を云われても是だけが止まないからだ、何たる因果なことだなア」
と男泣に後悔して居りましたが、また気を取直し、何程思ったって悔んでも返らない事だ、仕方がない南無阿弥陀仏〳〵と口の中にて念仏を唱えながら、スーッと手を放す、途端にグッと縊れるものだそうで、行って御覧なさい、何のくらい苦しいか知れますまい。
すると、橋の下に繋いでいた船の舳端に立って居ました男が、此の体を見て、重三郎の腰を抱えて、
男「おい、これさ待ちねえ泡ア喰っちゃアいけねえってば」
重「お放しなすって、どうぞ殺して下さい」
男「おい、そう動いちゃアいけねえと云うに、まア気を落着けて己のいうことを聞きねえ」
と云いながら首ッ玉へ巻き附けた帯を解き、船へ下し、
男「どうせ死のうとするからにゃア種々事情が有って能々の事だろう」
重「へえ、どうしても生きては居られません、種々深い訳がございますので、お止めなすっても中々一通りの訳じゃアございません、みんな私の不調法から多数の人の難儀になる事ですから、どうかお殺しなすって」
男「これさ、お前が独で悔んで居たのを皆な聞いたが、泡を喰っちゃアいけねえぜ、死ぬのは何時でも死なれる事だ、斯うやってお前を助けて置き、そんなら死になさいとは云えねえじゃアねえか、膝とも談合という事があるから、まア着物でも烘って温けえ物でも喰いながら緩りと話をするが宜い、慌てゝも仕様がねえ、己が屹度お前の助かるようにして遣ったら宜かろう」
重「そう致しますには肝腎の紛失した物が出なければいけないのでございます」
男「だからよ、〓(判読不可)物が出るように己がするから、それまで己の云うことを聞いてくんな、炭団の頭を叩って見な、まだ少しは火が有るだろう、泡ア喰ってまた川の中へポカリをきめちゃアいけねえよ、そんな事をすると苫へふん縛るよ、宜いか、紛失った物は出るような工夫をするから、その相談をするまで待ってくんな」
と船を漕出し、永代橋を越して御浜沖へ出て、あれから田町の雁木へ船を繋けまして、
男「エヽコウ潮時が悪いもんだから滅法界に遅くなった、なにしても寒くって堪らねえから何処かで一杯飲ろうか」
重「いえどう致しまして、私は御酒と聞くと敵でございます」
男「違えねえ、そんなら温けえ御飯でも喰いな」
と口の利きようは粗いようだが真実の男で、手を引いて馴染の夜明しの居酒屋へ這入ってまいり、
男「お爺さん」
爺「いや親方大層遅く、今夜は深川へお泊りのような話だったが」
男「泊る積りだったが帰って来た、爺さん其の衝立を二重に建てゝおくれ、そうして火を沢山入れて、火鉢を二つばかりよこしてくんな、何か温かい物が出来るかえ」
爺「蛤鍋が出来ます」
男「それアいけねえ」
爺「独活鱈が出来ます」
男「そいつは強気だ、他に何か出来るかえ」
爺「柱豆腐」
男「そりゃア結構、それから熱くして一本燗けて来て呉れ、兄さん此方へお這入り、己がお前をマア〳〵と云って無闇に船の中へ押込んで漕ぎ出したから何処へ連れて往くのかと思ったかも知れねえが、己ア伊皿子台町にいる仙太と云うもので、船も五六艘あり、野郎共も宅に居て、何うやら斯うやら暮して居るものだが、餓鬼の時分から喧嘩ッ早く、無法で随分親父に苦労をさせたが、彼処の喧嘩の中人に這入って謝ってくれと頼まれ、中え這入り、出刃庖丁でジョキ〳〵遣られた事も有って、何のくれえ親父が苦労をしたか知れねえが、三年あとに親父が死ぬ時に、短慮功を為さずと遺言され、それから些とばかりおとなしくなったが、気の暴えのは性質だから止まねえのよ、今日高輪から乗合船で客を送り、深川へ上げて佐賀町の友達の処で用を達し、仙台河岸へ船をもやって一服喫ってると、船の中へザブリと水が跳ね込んだから、何だと思って苫を撥ねて向うを見ると、頭巾を冠った侍が長えのを引抜いて立って、投り込まれたのは舁夫のようだッけ、斬って投り込んだのだかどうだか様子は分らねえが、何しても斯んな侍を打棄て置けば、多勢の人の難義になると思ったから、板子を持ってそッと其の侍の後へ廻り、どやそうとすると、ひょいと飛びやアがって引っこ抜いたから、驚いて船へ逃込み、慌てゝ川中へ漕ぎ出しながら、と見ると船の中に財布が一つ有った、縞の財布よ、其の中に金が三両二分に端たが些とばかりと印形が這入ってたから、遺し主へ知らせて遣りたいと思って、万年の橋間で船を繋って、また一服喫ってるとお前が上でよめえ言を云いながら帯を首へ巻き附けて、了簡違えをしたので、屋敷の役人は腹ア切るとか、主人に何んな難題が掛るとか、親父が恟りして死ぬだろうとおろ〳〵泣いていると、その落る涙が己の額へポタリ〳〵中ったので、あゝ気の毒な人だ、己も腹一杯親に苦労をさせたが、此の人は嘸マア困るだろうと思って、いらざる事だが無理にお前を助けたのだ、お前の物を盗んだ奴は己が打ん殴ろうとした侍だ……此の財布は事に寄ったらお前が落したもんじゃアねえか」
重「はい〳〵」
と云いながら手に取上げて見ました。
重「誠に思い掛けない事でございます、この財布の中には印形に金が三両二分と二百五六十文這入って居りますので」
と打返し見て、
重「これでございます、あなたがこれをお拾いなさるというは誠に不思議なことでございます」
仙「そればかりじゃアねえ、よく聞きねえ、その侍を打ん殴ろうとしたから侍の姿形は悉皆知ってるから、宜いかえ、お前が幽霊になって刀の詮議をするよりか、生きていて知れりゃア死ぬにゃア及ぶめえ、刀せえ出れば死なくッても宜いんだろう、己も乗り掛った船だ、殊に侍の姿を知ってるんだからお前と二人で方々詮議に歩こう、その刀は滅法に善い刀だという事だから、無闇と質に置いたりする事は出来めえと思う、また質に置けば斯ういう品が何うとか、質屋へ、着物ならば古着屋へお触が廻るから、売ることも質に置くことも出来ねえに違えねえから、その侍は当分自分の差料にして居るだろうという考えだ、違ってるか知れねえがお前と己と二人で手拭で鼻ッ冠りをして、矢ッ張己のようないなせな股引腹掛で、半纏を引掛けて人繁しい処を歩いて、もし怪しい侍が居たら、己の方からポカリと突当って置いて悪体を吐くと、怪しからん奴だ斬ッちまうと云う隙を覘って、その刀を捥取ってお前に渡すから、紛失した刀だと思ったらそれを持って何処へでも逃げちめえねえ、己は後で其の侍と喰い合おうと死に合おうと構わねえからよ」
重「へい、それは誠に御親切な事で有難う存じますが、あなたがまたお怪我でもなさるような事があると誠に相済みませんが」
仙「なに己アふじみだから二寸や三寸斬られても痛くねえという妙な性質だから、無法に喧嘩を仕掛ける心底だ、お前が死んでしまえば役人に主人にお父さんにお前と四人が死なゝけりゃアなるめえから、己が一人死んでも四人助かる方が割じゃアねえか、だから己の云う事を聞いておくれ」
重「でも見ず知らずのあなたに御迷惑を掛けては相済みません」
仙「見ず知らずだッて宜いから己に任せねえ」
と云ってる処へ表から舁夫さんでございましょうか、十二分に酔ってヒョロ〳〵しながら這入って参り、
舁「お爺さん今晩は」
爺「いや安さん、おくれ仕事でたんまり有ったね」
舁「甘え仕事もねえのサ……親方御免なせえ……お爺さん熱くして一本酣けておくれ、お爺さん、カラどうも酔が醒めちゃア生地がねえんだ、寒い時と怖え時は酒でなくッちゃア凌げねえから、熱くして一本酣けておくれ」
爺「大分御機嫌ですね」
舁「親方どうも大きな声をしてお八釜しゅうございます、え、おいお爺さん、己ア此処迄に四度飲んで来たが、直ぐに酔が醒めるんだ、醒めるから又居酒屋へ飛び込んで飲って来たが、丁度五度目だよ、慄えて仕様がねえから、もっと熱くしておくれ、肴ア何か一品ばかり摘んで持って来ておくれ、何でも宜い、塩気せえ有れば宜いやア、おいお爺さん、今日のう寅の野郎と己と二人で新橋に客待をしてえると、え、おい駕籠に乗る人担ぐ人と云うが、おらッちは因果だな、若え旦那が通ったから御都合まで廉く参りましょうと云うのだ、辻駕籠の悲しさには廉くっても仕事をする方が割だぜ、オーそうだと云う訳だ、え、おいお爺さん、頭巾を冠った侍が来て、おい若衆深川の木場までやれ、へい畏りました、駕籠賃はいくら遣ろう、御如才はごぜえますめえが、此処から余程ありますから六百遣って下せえ、もっと沢山遣るから気を附けろよ、有難いッてんで……おい此方を向いて聞きねえよ面白え話だ、そうするとお爺さん、ピョコ〳〵担いで霊岸島まで往くと、鰻で飯を食うから駕籠を下せと云うから、旦那大黒屋は疾うに売切れて有りません、春は早く仕舞いやすというのに、宜いから下せ、へーッてんで下すと、その侍が鰻屋へ這入ると、此の通り売切れ申候という札が出してあります、存じて居る、貴様の所の鰻は宜いから態々来たのを、己に食わせんと云う事はあるめえ、手前の家になければ外の鰻屋から買って来て割いて焼いて出せ、望みだと云うと、侍でおっかねえもんだから大黒屋の番頭がそれから奥へ通した、若衆は縁側へ廻れというから縁側へ廻ると、彼家の事だから丼は出来ねえや、あれえのを焼いて酒を一本ずつ出してよ、待たして気の毒だから待賃を二分ずつ遣るってえんだ、え、おいお爺さん、辻駕籠に出てよ駕籠賃が六百で祝儀が二分宛ッてえのは無えや、寅が目度てえ正月だという訳だ」
と一ト口飲み
「もう少し好い酒を売れば宜いに、少し悪くなったな」
とまた飲みました。
安「お爺さん、そうするとね、其処へ一本差した海鼠襟の合羽を着た侍が這入って来てね鰻を食いながらコソ〳〵話をして、その侍が先へ帰っちまってから飯を食ってサ、若衆遣れ、へえ畏まりましたッてんで、ヒョロ〳〵担いで永代橋を渡って、仙台河岸の手前の佐賀町から河岸の方へ廻って往くと、若衆駕籠を下せ、大黒屋の床の間の側の棚へ紙入を忘れて来た、金は沢山じゃア無えが、書物が大切だから取って来いよ貴様、へえッてんで此方は取りに帰って、これ〳〵というと、若衆飛んだ云い掛ったことを云うな、有ればちゃんと取って置くよと云うから、そう仰しゃるが外のお客と間違やアしませんか、売切れ申候という札を出して置く処へ無理に上ったのだから、他にお客はねえ馬鹿野郎、そう御免ねえ、初手から小言をいわれに帰ったようなものだ、佐賀町河岸へ帰って見るとお前、その侍が長いのを抜きやアがって棒組の寅の野郎をポカーリと斬りやアがって、川ん中へポンと投り込んだから、フウというわけだ」
爺「フウーンそれはとんだ事だね」
安「飛んだにも跳ねたにも、己ア転がっちゃッた、え、おいお爺さん、初めッから怖え侍ならば油断をしねえが、やさしい声で若衆や気を附けて遣って呉れッて、鰻屋で一本酣けて二分の祝儀だ、畏りましたと云うと、金は宜いが書附が大事だ、棚へ上げて来たから取って来いよ、へえッてんでお前往って、これ〳〵というと大黒屋では飛んでもねえ事をいう、大黒屋の名前に障るから、そんな物が有れば取って置く、何んだ、へえと云って仕方がねえからピョコ〳〵帰って来て、佐賀町から河岸へ廻って往くと、おいお爺さん、その侍が鼻の先へ長いのを引っこ抜いて、ポカリと寅の野郎を斬って、川の中へ投り込んだから己あウンと云って這ッちまったよ」
爺「怖かったろうねえ」
安「それを云うんだ、怖え時と寒い時は酒でなければ凌げねえから幾度も飲んで来たんだ、思え出しても身の毛立つようだ、最初から胡散な侍だと思えば気を附けるが、やさしく若衆や砂打場……じゃアねえ、ナニ木場まで遣ってくれ、御飯は食わせるよ、へえ有難うごぜえやすッてんで、二分ずつの祝儀だからうめえと思ってると、大黒屋へ紙入を忘れて来て、金は宜いが書附が大切だと仰しゃるから、帰って来てそう云うと、お前冗談いうな、へえと小言を云われに来たようなもんだ、詰らねえと思ってヒョロ〳〵帰って、仙台河岸へ廻ると、おい其の侍がスーッと長いのを鼻の先へ」
爺「それはもう度々聞いたよ」
安「嘘を吐きねえ、これからさきを知ってるか」
爺「さきは存じません」
安「それ見ろ、ポンと寅を川ん中へ投り込んだ時にゃア、己あフーッてって這ッちまった、あの長え永代橋を四ン這に這って向うまで渡って、箱崎の鐵爺さんの屋台店へ飛び込んで、一杯〳〵と云ってグーッと引掛けたが、銭がねえんだが馴染の顔だからね、これ〳〵の災難に逢って布団の間へ財布を忘れて来て、取りに往く事が出来ねえから明日の晩まで貸しておくれというと、安さん何時でも宜いってえから安心して飲んで、酔って見ると気が強くならア、何んでえ篦棒め侍が何んでえという訳だ、外へ出て酒が醒めるとまた思出して怖くなるからまた飲み〳〵して、丁度五度目だ」
爺「さぞ怖かったろうね」
安「だからよ、それを云うんだ、酒を飲めば凌がアさ」
爺「そうだろうね」
という話を此方で聞いていた仙太郎が重三郎に向い、
仙「えゝ重さん、妙な事があるもんだね、刀は出るぜ、おい若衆」
安「へえこれは何うもおやかましゅうごぜえやす」
仙「今聞けば飛んだ災難だったね、おゝ初々しく飛んだひどいめに逢ったね」
安「へえひどいめに逢いやした、寅の野郎は川ん中へ投り込まれて愍然でごぜえやす、嬶アが泣くだろうと思うと愍然でね」
仙「うん、併しお前が斬られ無えのがめっけもんだ」
安「へえ命の助かッただけが此方の儲けもんでごぜえやす」
仙「その侍は初ッから頭巾を冠ってたかえ」
安「えゝ冠っていやした」
仙「そうか」
と云いながらいくらか金を紙へ包んで前へ差出し、
仙「これは誠に少ねえんだが縁起直しに上げるから一杯遣っておくれ」
安「これは誠に有難うごぜえやす、宅のお爺さん、此処においでなさる親方さんは何処の親方さんか知らねえが、わっちのような者に金を呉れるてえのは何だか危険だ」
仙「ハヽヽ、なに危険なことはねえ、大丈夫だよ、若え衆己は伊皿子台町にいる荷足の仙太だよ」
安「えゝ仙太親方だえ、こりゃどうもお見それ申しやした、道理で一両呉れたと思った、御免なすッて下せえやし、私は初音屋にいる安てえ者ですが、此の土地にいて親方を知らねえと云うのは本当に外聞の悪りいくれえのもので、吉原でも日本橋でも何処の川通りだって、荷足の仙太と云やア随分名代の無鉄……ナニ誠にその剛い人だと云って誰でもお前さんは知ってやす、いつか五十軒で喧嘩の時に、お前さんが仰向に寝て、サア殺せと仰しゃッた時は誰も殴てなかったとね、仕事師手合が五十人許り手鍵を持って来たが、打てなかったくれえだから組合の者が皆なそう云って居やす、あのくれえな無法……ナニ誠に気丈な人だってね、これはどうも誠に有難うごぜえやす」
仙「時に少し聞きたいが、今の侍の容貌は何ういうのだえ」
安「袴ア穿いて、大小を差して、羽織を着て、頭巾を冠ってたから顔は分りやせん」
仙「成程頭巾を冠ってちゃア顔は見えめえ」
安「だが私は縁側へ腰をかけて居たが、侍が鰻を喰う時にゃア頭巾を取って喰いやした」
仙「違えねえ、些とは覚えてるか」
安「ちっと処じゃ有りやせん、あの侍の面は死んでも忘れねえ」
仙「こいつアどうも有難え……いゝ事がある、兎も角今夜は己の処え来て泊んねえな」
安「親方の処えかえ」
仙「少し話が有るんだ、御馳走するぜ、頼みてえ事も有るから一緒に往ってくんねえな」
安「私などは宅の無えものだから、へえ有難うごぜえやす、じゃアどうか願えやす」
仙「お爺さん、此の若え衆さんの勘定も一緒に取ってくんな……なに、つりはいらねえよ」
と是から仙太郎が駕籠屋の安と重三郎の二人を連れて我家へ立帰りました。此方は岡本政七は翌朝早く重三郎を捜しに出ますと、万年の橋詰に袴印籠脇差と羽織が脱ぎ捨てゝあり帯が欄干に縛り附けて有りますから、これは大方重三郎が、大切なお刀を取られ、言訳なくして身を投げて死んだに相違有るまい、なさけない事である、死んだ記に衣類を脱ぎ捨て帯を縛り附けて置いたものだろうと、旧来奉公していた者ゆえ、主人始め家内も娘も皆心配致し、涙をこぼして捜しましたが、何うしても大切のお刀ゆえ何うしたら宜かろうと気を揉んで居りました。すると翌六日の夕方に、稻垣小左衞門という粟田口國綱のお係りの役人が、年頭のお帰りがけと見えて、麻上下の上へどっしりとした脊割羽織を召し、細身の大小を差して、若党草履取をつれて岡本政七の宅へ参り
「頼もう」
「どなたさま……稻垣さま」
と云うので驚いて廻り縁から奥の座敷へ通し、茶煙草盆を出し、政七も出て参り下座に坐り、慇懃に両手を突き、
政「へえ新年御目出度う存じます、旧冬はまた何かと段々お引廻しでございまして、お屋敷の方を事無うお勤めを致しましたのも、偏に旦那さまのお蔭さまと蔭ながら申暮して居りました、当年もまた相変らずお願い申します」
小「はい新年で誠に目出度い、旧臘はまた相変らず歳暮を自宅の下の者までへ心附けくれられて、誠に有難い、また相かわらず重三郎を其の方の代としての年頭で、年玉の品々を忝けのうござる」
政「何う致しまして……え、まア〳〵お天気も続いて宜しく、夜に入っては寒いようでございますが、先ずまア誠に善い春でございます」
小「はい左様で」
と云っている処へ出てまいりましたはお雪という政七の妹娘でございます。正月の事ゆえこってりと化粧が出来、結構な着物を着て居りますから猶更美しく見えます。尤も近辺でも評判の娘で、しとやかに遠山台を持ってまいりまして、小左衞門の前へすえて、挨拶をいたします。
小「ハヽア政七、これが其方の妹か、ウーン成程美い器量だ、慥か本郷辺の紀伊國屋という質両替屋とかへ縁附ける約束になって居るとかいう事を、ちらりと番頭から聞いたが、嫁入盛りだの……はいお目出度う……就てはソノ火急な事であって嘸ぞ困ったろうが、昨日番頭が國綱のお刀を持って帰られたろうな」
政「へえ」
小「二十日正月までに拵える事に相成ったが、彼の國綱は存じて居るであろうが、鬼丸同作であると云うは、北條のもとめによって國綱山城の粟田口より相州山の内に来り、時頼の為に鍛えたる鬼丸、其の時に二口打ったるを、一腰が鬼丸にて、一腰が今御当家にある國綱なれば、どうか鬼丸作りに致せとの仰せなれば、至急の事には相成るまいのう、政七」
政「へえ、成程先達て集古十種と申す書物で見ましたが、一端かき入れを致して其の上を栗色の革にて包みまして、柄はかば糸にて巻き、目貫は金壺笠に五三の桐でございまして、鍔袋もやはり栗色革、裏は浅桐絹の切をつけ、紫紐は一尺九寸でございましたと存じます」
小「成程其の道とは申しながら詳しく存じて居るのう、それに付今一度取寄せる様にとの仰せゆえ至急取りに参ったが、是へ出してくりゃれ」
政「へえ」
と云いましたが、忽に面色が真青になり、おど〴〵口もきかれません様子。
小「何う致した政七」
政「へえ……」
小「イヤサ、早く是へ出してくれよ」
政「へ……」
小「コレ政七、昨夜重三郎はお刀を脊負って帰ったか」
政「サ……左様でございます」
小「それで安心致した、それなれば早く是へ持って参れ」
政「へい〳〵、何ともハヤ申上げようもございませんが、重三郎は余りお屠蘇を沢山に頂戴致しまして、前後も分りませんように酩酊致しましたが、お屋敷に居るうちは気が張って居りましたから、御刀は丁稚にも持たさずに自分が脊負って参りましたが、途中から酔いが出て頓と歩かれませんようになり、漸く佐賀町の河岸まで参ると正体なくなりまして、地びたへ坐って仕舞い動きませんので、小者が駈けて来て知らせましたから、私が直ぐに駈付けましたが、重三郎の行方は知れませんで其傍に怪しい侍が抜身を提げて立って居りましたを見て、小僧は驚き提灯を投り出して逃げ出しますから、私も驚き、共に逃げ帰りましたが、今朝程万年橋の上に重三郎の衣類脇差印籠などが取捨てゝございまして、行方が知れませんから、重三郎は大切な御刀を取られて申し訳なく、万年から入水したものと見えます、誠に相済みません事で」
小「これは怪しからん、これ政七、余の品とは違い、当家伝来の御宝剣を失って只相済みませんでは置かれんぞ」
政「へえ、誠にどうとか致そうと存じまして、種々心配致して居りまするので、此の上ともまた何の様な詮議も致しまして、お刀を見出して、お屋敷へ持参致す心得でございますからどうか切めて一月もお日延が出来れば願いたいものでございます」
小「ウン…それは紛失したもので有るから日延を願って見まいものでもないが、一月経つうちに其の國綱が出れば宜いが、若し出ん時は何う致す」
政「へえ」
小「必らず出るという目途はあるまい、慥に認めた処はないのだろう」
政「へえ、確かりした認めはございません」
小「何うも当惑致したなア……いや是は私が悪い、この稻垣が行届かなかったのだ」
政「いえ、何う致しまして左様でございません」
小「いや左様でない、禁酒致しおる重三郎に、祝酒とは云いながら屠蘇を勧めたは私が悪かった、又酔っておる者に大切な物を持して帰し、殊に夜中なり、何うも私が過だ、重三郎はお刀を失い申訳なき為め万年橋から入水したと上へ届をした処が……重三郎は如何にも気の毒な事だ……飛んだ災難であったが、屋敷からまた其の方に何の様な御難題が掛って来まいものでもない、それで済めば宜いが、私は係り中の事ゆえ何の様なお咎めがあるか、切腹仰せ付けられるか、お手討になるか、癇癖の強い殿様だから軽くいっても追放仰せ付けられるには相違ない……これは斯う致そう、兎も角も屋敷へ帰って私から家老までへ斯様に申し入れよう、稻垣小左衞門小屋に於て賊が忍び入って紛失したと、私一人の越度にして、貴様や重三郎へ迷惑の掛らない事にしよう、何の道しくじる稻垣、致し方はない、私が家事不取締不埓至極という厳しい御沙汰を受けて切腹仰せ付けられるも知れないが、それより外に致し方はない、誠に困ったが拠ないから宜しい、其の趣に届けるから、屋敷から何んな問合せがあっても、お刀はまだ此方へお下げにはならんと云い張れ、そうせんとまた宅に障るばかりでなく、親の代から年来の出入も差止められたら難儀をするだろうから、左様心得ろ」
と云い渡され、政七は気の毒が一杯にて漸く顔を上げ、
政「貴方さまお一人へ御迷惑をかけましては済みません」
小「掛けても致し方がない、それまでの事だ、マア宜い、年来馴染であったが、これがもう手前の顔の見納めになるかも知れん…どうも仕方がないから直ぐに帰りましょう」
と心ある侍ゆえ少しも荒い小言も云わず、覚悟を極めて屋敷へ帰りまして、是からお届けになるという、一寸一息吐きます。
引続きます、粟田口國綱の事からして主人の難儀になると思い、入水致して相果てようとした重三郎を仙太郎が助け、舁夫の安吉を連れまして宅へ帰り、其の晩二人を泊めましたが、仙太郎の女房お梶には何事だか頓と分りません。翌朝になりますと、舁夫の安さんは知らん処へ泊ってきまりが悪いから早く起き、寝衣のまゝで水を汲んだり表を掃いたり、掃除の手伝を致して居ります。
梶「ちょいとあにさん、昨宵泊った人は何に」
仙「あれか、一人は深川の万年町の刀屋の番頭さんだ」
梶「あの、もう一人の裸体で働いてる人は何に」
仙「あれは辻駕籠の安という者だ」
梶「あの人は水を汲んだり板の間を拭いたり、キョト〳〵間の悪そうな顔をして働いてるよ……申し安さんとか、もう宜いから足を洗って此方へお上んなさいなねえ」
仙「おい安さん此方へ来ねえ」
と云われ、安吉はおず〳〵上って参りましたが、窮屈そうに頭ばかり撫でながら、
安「こりゃア誠にどうも姐さんでごぜえやすか、碌々御挨拶も致しやせんで、へえ昨夜は喰え酔ってやしたから、何う云うわけで此方へ泊ったか分りやせん、目が醒めて見るときまりが悪くってね、へえ何か乱暴でもやりやアしねえかと心配でごぜえやす」
梶「なにも済まない事は有りません、甲斐〴〵しく骨惜みをしないで宜く働いておくれで、お気の毒だから良人のに聞いてた処で、まアお休みなさいよ」
安「へえ有難うございやす」
仙「番頭さん、重助さん……じゃアねえ重三郎さんかえ、此方へおいでよ〳〵」
重「へえ」
と立って参り、仙太郎の前へ坐る。
仙「お梶、此の人がソノ刀屋の番頭さんの重さんと云うのだ」
梶「おやそうかい、お初にお目にかゝります、昨夜おいでなすって碌々御挨拶を致しませんで、何にもお構い申しません、何んだか酷く鬱いで、隅の方へ引込んで考えてばかり居なさるが、何ういう訳で」
仙「これには種々深い訳のある事だ、重さんマア心配しずに此方へおいでよ」
重「へい、昨夜は出ましてまだ碌々御挨拶も致しませんが、此の度はまた何ともお礼の申そうようはございませんが、親方のお言葉に甘えて飛だ御厄介に相成り、誠に有難う存じます」
仙「そんなに丁寧にしちゃアいけねえ、ぞんぜえ者だから……安兄い此処え来ねえ、此の人がソノ、万年町の岡本という刀屋の番頭さんで此の芝のお出入り屋敷へ……重さん何とかいう屋敷だっけ、ウン金森さ、其の屋敷へ年始に往った処が、帰りにお誂えの刀が下ったのだ、それが先祖から伝わるところの滅法に好い物なんだ……すると、此の人は酒嗜きで、酒を禁されてる処へ無理に屠蘇を勧められて、一升許りなぐったのだ、屠蘇だって沢山飲めば酔うからね、酷く酔っちまッて、佐賀町川岸で動けねえ処を怪しい侍にその刀をふんだくられちまッて、宅へ帰る事も出来ず、主人や親に済まず、お屋敷へも言訳が無えからって、万年橋の欄干へ帯を掛けて首を縊ろうとする処を、己が思え掛けなく助けて船へ入れ、お連れ申して来たのだ」
安「そりゃア初々しく飛んだ御災難でお気の毒様な」
仙「安さん其の刀を盗んだ侍は、昨夜のう己も佐賀町河岸で見たが、お前がソノ新橋から乗せたという頭巾を冠った侍だ」
安「えゝ、それは驚きやしたねえどうも、ソノ寅の野郎をポカリと斬ったのも其の侍だが、侍と聞くと身の毛がよだつようだ、フーン成程」
仙「己も番頭さんを助けて何うしたら好かろうと云うと、その取られた刀が出なければ何の道言訳がねえから死ぬと云うので、己も困ったが、一旦助けたからにゃア何うかして其の刀の所在を詮議をして、刀を此の人へ戻して遣り、万年町の店へ帰して遣りたいので、段々其の刀の事を聞いて見れば、大層名高えものだから、何処へ売っても直に知れちまい、世の中に少えものだから、当分質に置くことも、売ることも外へ預けることも出来ねえ品で、預けたところが直に足が附くから、己の思うには当分は自分の差料にするより外に仕様がねえ、そこでその侍の形恰好は己が知ってるが、安さん面ア知ってるだろうな」
安「知ってるぐれえじゃア有りやせん、酔ってゝも忘れやせん」
仙「お前が見知人よ、姿形は己が知ってるし、刀の目利は此の番頭さんが自分でなくしたのだから知ってるから三人で人ざかしい処を歩いて、お前は侍の面を知ってるんだから、あの侍だと教えてくれゝば、己は咬りついても差してる刀をふんだくるつもりだ、もし長えのを引こ抜きやアがれば、自身番へ引摺って往く、また頭巾を冠ってやアがれば、此方から突当って、なんでえ太え奴だと喧嘩を吹っ掛けて、其の侍と喰い合っても刀をふんだくって番頭さんに渡して遣れば、後で死に合うとも何うしても宜いのだから、番頭さんもいなせな拵えでゴテ〳〵をきめて、鼻ッ冠りで人ざかしい処へ刀の詮議に歩くが好い、安さんは日に幾らになるか知らねえが、日当は己が払うから、駕籠を休んで己と一緒に刀の詮議に往ってくんねえな」
安「こりゃア驚いた、そいつは御免なせえ、いけやせん」
仙「いけねえッてお前が喧嘩アするんじゃアねえ、己がするのだ」
安「ですがね親方の乱暴……ナニ強いのは知ってますが、侍に此方から突当るんだから親方怪我アしやすぜ」
仙「大丈夫だよ、性来不死身だから斬られても大丈夫だよ」
安「ですがね私は不死身じゃアねえから」
仙「教えてさえくれりゃアお前は逃げても好いんだ」
安「そう旨く逃げられりゃア好いが、昨夜で覚えが有りやす、恟りして、どんと腰が抜けちまッて、あの長え永代橋を這い続けに這って逃げたくれえだからね」
仙「己が斯う遣って力を入れるのは、この人の命が助かる許りじゃアねえ、主人や屋敷の役人まで皆都合が宜くなる事だ、己だって見ず知らずのもんだ、みんな人の為だぜいやだと云えば了簡が有るぞ」
安「なに出掛けます〳〵」
と仕方がないから請合いました。番頭重三郎は気の毒に思いますから、
重「申し親方、何卒そればかりは勘忍して下さい」
と云ったが聞きません。女房も心配だから小声で、
梶「ちょいと〳〵何ういう訳なんだえ」
仙「なにイもっと大きな声して云え」
梶「お前まア宜く考えて御覧よ、お父さんが死ぬ時に何と云ったえ、短慮功をなさずと云われて、彼れからはお前も懲りて喧嘩のけの字もしないように成ったが、人の為と云ったッて今聞けば侍へ此方から突当って喧嘩アするとお云いだが、そんな事をしては死んだお父さんの位牌に済むまい」
仙「生意気なことをいうな、己が酔興でするんじゃアねえ、此の人の命が助かる人の為にするんだ」
重「どうぞ親方姐さんだッて御心配でございますから御尤もで」
仙「そんな事はいけねえ、云い出しちゃア聞かねえ」
と何うしても聞かず、仕方が無いから重三郎も安吉も仙太郎の跡に従いて歩きましたが、重三郎は着つけない褞袍を着、股引を穿き、手拭を鼻ッ冠りにして仙太郎の跡から従いて歩きますが、心配な事で、なれども更に似た侍も見当らず、空しく尋ねて歩いて居りました。お話二つになりまして、粟田口國綱の刀紛失致しましてから重三郎の行方知れず、主人も心配致して居りまする処へ稻垣小左衞門が参りましたが、重三郎の罪を身に引受け、別に厳しゅう咎めもなく屋敷へ帰られました事で、実に岡本政七方では一通りの心配ではございません。また此の重三郎の親父は梨子売を致す重助と申す者で、川崎在の羽根田村に身貧に暮して居りまするが、去年の暮から年の故か致して寒気に中る、疝気が起ったと見えまして寝て居ります。丁度正月の七草の事でございます、独身者ゆえ看病人も有りませんが、近所の人が来ては看病をしてくれますが、万事行届かん勝でございます、なれども田舎気質のものは親切でございますゆえ、村方の者が代る〴〵来ては世話をいたしてくれます。
重「申しお婆アさん、もう宜いから帰っておくんなせえ、もう大概で宜いよ」
婆「なに心配しねえでも宜い、私ア帰ってまた後から金右衞門どんとこの婆アさまが来ると云ったが、お前も老る年じゃアあるし、大切にしなけんばなんねえからね」
重「はい有難う、こう遣って代り〳〵御親切にマア皆様が来ちゃア、やれこれ云っておくんなさるので、はい、誠に有難うごぜえます、私も定命より余程生き延びて居りますから、もう死んでも惜しくねえ身体ですが、只た一人の忰がマア堅えもんでごぜえまして、万年町のお店へ奉公に遣って、永く勤めて居りますが、来年は年が明けるから、店を出して下さると御主人さまが仰しゃるから、そればかり楽みにねお婆さん、私も重え梨子を担いで其の日を送りますが、ナニまだ死ぬ了簡もねえけれど、斯うやって年イ老って煩らうとねえ心細えが、定命より十五年も生延びてるから、何時死んでも好いようなものゝ、若しもの事があって死に目に逢わねえと忰が後で愚痴イ出ようかと思えますのさ、イヤハヤもういけませんがね、ちょっくらお暇を戴きに與吉どんを頼んで遣ったが、まだ帰らねえが、不断とは違い正月はお忙しいから、忰にお暇を下されば好いが、下さるめえとは思うが、あゝ云う行届いた旦那さまゆえ、親の病気と云って遣ったんだからお暇を下さるかも知れねえのさ」
婆「お前んとこの息子どんはおとなしくって仕合せだが、おらの宅の新太の野郎なんざア、ハア放蕩べえぶって、川崎べえ往ってハア三日も四日も宅へ帰らねえで困るが、お前ん処の息子どんは本当にやさしげで仕合せだよ」
重「ハア誠におとなしくして居ります、去年の暮などは忙しい中を態々来てくれて、私に小遣を一両呉れましたが、それも是も皆な御主人さまのお蔭だから、御主人さまの御恩を忘れねえで奉公を大切にしろと云いつけて遣りましたよ、もう使は帰りそうなものだ」
婆「いまに帰るべえ」
と話をして居る処へ帰って来たのは、此の村の人で、年齢二十二三になる男で、尻を端折り、寒さをも厭わずスタ〳〵帰って参り
男「爺イさま案じて居さしッたろう、大きに遅くなっただアよ、店へ往った処が重さんは一昨日の晩出たきり帰らねえてえ、何処え往ったか知んねえかと聞いて見たが、何処え往ったかいまがに知んねえから、方々捜し廻ってるが、解らねえから今日宅のお内儀さまが川崎の大師様へお参りながら此方へ寄るッてったから、いまに来れば分るだよう」
重「はい大きに有難う、誠に遠ッ処に御苦労さま、婆アさま腹ア空ったろう、何もないがお飯ア喰って往くが宜い」
婆「己ア帰るからお前大切におしなせえよ」
重「お婆アさん誠に有難う、大きに御苦労さま、癒るとお礼をしますよ」
婆「なにそんな事を心配しなえでも宜うがアす、また後に来るだよう」
と出て行きました。
重「親切に宜くまア毎日〳〵来ておくんなさる、有難いことだ、それに付けて重三郎が出たぎり帰らねえと云うのは、道楽でも始めやしねえか、そんな奴ではねえが、なにしろお内儀さんが入らっしゃるくれえでは、先さまでも能々案じなさる事が有って相談に入らっしゃるんだろうが、何ういう失策をしたか知らん、併しおいでなすっても己が塩梅が悪いから、お茶も上げる事は出来ねえから、水気は抜けてるが、へえしでもむいて上げよう」
と云いながらよう〳〵床から這い下りてへえしという囲い梨の這入った籠をそばへ引寄せる途端に表へ下りたのは、其の頃の山駕籠でございます。駕籠の脇に連添う一人の老女は、お高祖頭巾を冠り、ふッくりと綿の這入りし深川鼠三ツ紋の羽織に、藍の子もち縞の小袖の両褄を高く取って長襦袢を出し、其の頃ゆえ麻裏草履を結い附けに致しまして、鼠甲斐絹の女脚半をかける世の中で、当今ならば新橋の停車場からピーと云えば直に川崎まで往かれますが、其の頃は誠に不都合な世の中で、川崎まで往くのに、女の足では一晩泊りでございます。小僧さんが風呂敷包みを脊負って草臥足で後から参りますと、駕籠から出たのは娘でございます。これもお高祖頭巾を冠り縞縮緬のはでやかな小袖に、上には寒さ防けに是も綿入羽織を引掛けて居ります。
母「お前何うした、草臥れやしないかい」
娘「いゝえ、お母さんこそお草臥れでございましょう、あなたはお寒かろうと存じまして、お代り申しましょうと云っても、お代りなさらないで、歩いて入っしゃいましたから」
母「いえ、わたしは歩くから寒くはないが、お前は駕籠の中だからさぞ寒かろう」
と云いながら後を振かえり、
母「常吉や重助の宅は此処かえ」
小「へえ私は一遍お使いに参りましたから存じて居りますが、此処でございます、誠に汚ない宅で」
母「これ、そんな事を云うもんじゃないよ、御免なさい、重助さんの宅は此方かえ」
重「はい〳〵、どうぞ此方へ、お跡は私が閉めますから、お閉めなさらないでも宜しゅうございます、戸がガタピシ致しますから、さア此方へどうぞ、マア宜くこんな汚い処へ入らしって下さいました、おや〳〵お嬢さんも御一緒でごぜえますか、どうぞ此方へ、おゝ〳〵小僧さんもか、どうか其処へ腰をお掛けなすって、さア〳〵此方へ」
と上座へ据え、慇懃に両手を突き、
重「まことに御無沙汰を致しましてごぜえます、私もたいした事でもごぜえませんが、去年の暮の押詰りに寒さを引込みまして、少し疝気が発って腰が痙りますので、商売にも出られませんで引込んで居りますので、春はお忙しかろうと存じますが、塩梅の悪いので彼に逢いたいと存じまして、重三郎を少しの間お暇を願いに遣りました処、一昨日出たぎり帰らねえとの御沙汰で恟り致しました、ヒョッとして道楽でも始めてお店を明けるような事が有りますりゃア私が合点致しません、何だって十二の時から大恩を受けた御主人に御苦労をかけるような事が有りますりゃア、私は只ア置かねえと、そう申して居りましたので、おやまだ御挨拶も致しませんで、まず明けましてお目出度う存じます、旧冬は何角有難う存じます、私もまア一寸ねお歳暮に上ろうと存じて居りますうちに煩い付きまして、毎年二十八日に上るんでございますが、お歳暮にも御年頭にも出られません、礼が欠けますと何だか気になります、折角お出でなすってもお茶も上げられませんような訳で」
母「いえもう構っておくれでない、お前も案じて居るだろうが、お前の処から人が来たので、政七も心配してね、どうぞ往って話をしなければならないが、人頼みの口上ではわからない事、他の者は出されないと云うので、私が来たのだが、重三郎は一昨日の晩出たぎり帰らないのは何うした事かと思って、私も心配して諸方を尋ねたが、居ないのだが、重三郎は主人の代に毎年芝の金森様のお屋敷へ年始に往くのだが、一昨日も其のお屋敷へ往くのもお誂えのお刀を下拵えをして御覧に入れたのが、またお下げになったのを、其のお刀を持ったなり帰らないから、忰も心配していると、此の常吉が遅く帰って来て、小僧の云うには、お屠蘇を戴き過して動けないように酔って仕舞い、常吉の手に合わないから、仕方なしに重三郎を佐賀町河岸へ置いたなりに宅へ知せに来たと云うから、政七も驚いて駈けて往くと、其処に重三郎は居なくって、怪しい侍が頭巾を冠って刀を抜いて立って居たから、驚いて逃げ帰ったような訳で、すると翌朝万年橋の上に重三郎の袴や帯脇差と印籠が捨てゝ有ったから、重三郎はその侍に大切な御刀を取られ、言い訳なさに万年橋へ目標を残して身を投げて死んだろうかと云うのは、此方の鑒定だよ」
重「へえ、あの野郎……あの野郎、誠に申訳もございません、何んと何うも飛んだ事になりましてございます……重三郎の死骸は何処へ上りましたか」
母「死骸はまだ知れないから、屹度身を投げて死んだと極った訳ではないけれども、何処を捜しても行方の知れない処を見れば、多分身を投げたろうという鑒定だが、お前が聞いたら嘸恟りするだろうと思うと、誠に云うのもお気の毒だけれども、云わない事は分らないが、お係りのお役人さまも其のお刀ゆえに御切腹になるかも知れない程の事、また私の方へも何んな難題がかゝって来るか知れないから、重三が死んでも申し訳の立つ訳ではないのだから、実に宅は転覆るような騒ぎで、それに丁度政七も重三郎も厄年だから、川崎の大師さまへ参って護摩をあげて厄除をし、どうぞ一刻も早く重三の行方の知れるようにお願い申そうと思って、私が娘を連れて大師さまへお参りをし、お籤を戴きながら来て、お前に知せる訳なんだよ」
重「はい〳〵そんな事とは些っとも存じませんで、お店もお忙がしかろうけれども、私も老年のことだから、ポックリ死ぬような事が有りますと、あの野郎が後で死目に会わなかったと愚痴でも出ちゃアならねえと思いまして、虫が知らせたのか急に会いたくなりましたから、お忙がしい処とは存じながら、お暇を取りに使いを頼んで遣りましたので、お内儀さん毎度申しまする通り、彼が四才の時に母親が亡なりましたが、乳呑み盛りでございますから、私が梨を両方の籠へ入れるのを、一方の籠の梨を少し減しまして、それへ彼奴を載せ、忰と梨とを私がこう担いで、乳を貰いながら商売を致して、何うやら斯うやら十二の年齢まで丹誠して、お店へ奉公に遣りましても、種々御丹誠下さいましたから、段々と私などより物も覚え、来年は暖簾を分けてやると仰しゃったと申しますから、私もそれを楽みに毎日重い梨を担いで歩き、六十の坂を越しながら斯うやってわく〳〵して居りまするのは、仮令何んな死ぬ程の事が有っても、これ〳〵の訳で死なゝければならないと一言ぐらい相談に参っても宜いのでございます、親を残して先立ちます其の上、御主人様へ御心配をかけ、自分は死んでも追付かないような事をして、姿の見えないような事を致しましたは、誠に親不孝な奴で、皆さまへも何ともハヤ申そうようのない不忠でございまして相済みません、今朝も七草粥を祝おうと存じますとピシリと箸が折れましたゆえ気にかけて居りますと、隣の婆アさんが箸は木で拵えたものだから、折れることも有ろうと申して、祝し直してくれましたが、矢張それが前表で虫が知らせたのでございましょう」
内「私も少さい時分から丹誠して、忰と同じように生い立ったものゆえ、何んな事が有ってもお内儀さん何うしたら宜かろうと云うのも、私に云い難い事は雪に云いさえすれば相談になるものを、併し彼はお酒をたべるとどうも御酒の上が悪いが、不断は猫のようなおとなしい男だから、思案に余って軽はずみな事でもしたかと思うと可愛相だから、私も娘も実に心配して居るのだよ」
重「はい〳〵私は他に子はございませんから、若し彼の野郎が身でも投げて死んでしまえば定命より十五年も生き延びた私故、直ぐに身でも投げるか首でも縊って死ぬより外に仕方はございません」
内「あれサ、そんな事を云っては困るよ、重三は死んだか生きたか分らない内に、お前が軽はずみな事でもした後へ、ひょっくり重三が帰って来て御覧、それこそ却って嘆きを掛けるようなものだよ、時節を待っておいで、私も出入の者に頼んで川筋を捜さして見るから、余り心配して身体に障っちゃアいけないよ」
重「はい〳〵、自分の申す事ばかり申しまして済みません、旦那様へお目に懸ってお詫びごとも致しませんが、あなたさまから宜しく仰しゃって下さいまし」
内「私も永く話をして居たいが、気が急くし、まだ是から川崎の大師さまへお参りに往くのが遅くなるから帰りましょう、遅くなったら新田屋へ泊って帰ろうと思います、お前身体を大切におしよ、重三の事も案じずにおいで、出入の者へ頼んで置いたから、多分死ぬような事も有るまいと思うよ、大方面目ないので何処かへ身を匿して居るかも知れないよ」
雪「重三が帰ってさえ来れば私もお母さんと共々にお兄イさまの方は願ってお詫びごとをして上げるから、余り気を揉まないでおいでよ」
重「はい誠に有難う存じます、実に何ともお詫の申そう様もございません、何うぞあなた……左様でございますか、お帰りで、誠に何もお愛想もございませんで」
と云いながら梨の籠を引よせて、
重「これでも剥いて上げましょうと存じましたが、私のような汚い手で剥くのは何でございますから、小僧さん是をね、お土産にお持ちなすって下さいませんか」
内「おゝ〳〵有難う、折角だからお貰い申します、沢山は要らないがお珍らしいから少し貰って参りましょう」
重「かこいゆえ味はわるうございましょうが、素性の宜いのでございますから、小僧さんお前さんは重うございましょうが、持って往って下さいまし、お前さんにも二個上げますから」
小「これは有難う、歩くと喉が渇くから袂へ入れて咬りながら往きます、この風呂敷は大きいから大丈夫、宜うございます」
内「じゃアお前気を附けておいで、駕籠やさん、どうぞお頼み申しますよ」
雪「お母さま少しお代り遊ばせな」
母「私は歩きたいから歩いて往くが、おまえ寒くはないかえ、海端だから風がピュー〳〵吹くから、宜いかえ」
と云いながら重助に向い、
母「左様なら、じゃアお前どうぞ今云った通り身体を大切にしなければならないよ」
重「はい有難う存じます、どうぞ旦那さまへ宜しく仰しゃって下さいまし、お嬢さま御機嫌宜しゅう、若い衆さん気を附けて下さい、小僧さん御苦労さま」
小「へい、お辞儀をしようとして屈むと梨が転がり出しますから頭を下げませんが、ちゃんと心の内でお辞儀をして居ります」
内「そんな事を云うじゃアないよ」
と云いながら出て行くのを、重助は上り端まで這い出して見送る。舁夫はトットと急いで参る。母親と小僧は後から心を附けて、すた〳〵と羽根田の弁天の方へ参りますると駕籠を見失いました。
小「駕籠が見えなくなりましたよ」
内「見えなくなる訳はないが何処へ往ったろう」
小「あの舁夫はいけない奴だと思います、全体宅から連れて来れば宜かったんですが大森から乗ったもんですからいけないんです、悪口計りきいて居ましたよ、皆な一緒に駕籠へ乗ってくれゝば宜いに、女や小僧の足と附合って一緒に歩くんだから本当に担ぎ難くッていけねえ、それも祝儀でも沢山呉れゝば宜いが呉れねえッて忌な奴です、人の悪そうな奴でしたよ」
母「宜いから急ぎなよ、羽根田の弁天さまの武蔵屋に居るに違いないから、先へ立って急いで往きなよ」
小「へい宜しゅうございます」
と小僧は梨を脊負ったなり駈けて参りまする。突当りは海で、一方は磯馴松の林の堂、手前に武蔵屋と云うちょっと小料理を致す家が有りまする。正月は大師さまへのお参りは有りませんから客を致しませんので、表はピタリ障子が閉って居りまする、処へ小僧が参り、
小「御免なさい、真平御免下さい」
女房「はい蛤を上げますかえ」
小「なに、あの、駕籠へ乗った嬢さんが此方へ来やアしませんか」
女房「今においでなさいましょうからマアお掛けなせえましよ、蛤を上げますかえ」
小「蛤などは何うでも宜いが、お高祖頭巾を冠って羽織を着たお嬢さんが来やアしないか」
女房「まアだおいでなせえませんが、まア明けて一服お吸いなせえましよ、蛤を上げますかえ」
小「このお内儀さんは蛤に取附かれて居るか知ら」
母「此処へ来ないたって一筋道じゃアないか」
小「だからへんてこらいな舁夫だと云うのです、お嬢様を何処へ連れて往きアしませんか」
母「まさか道を間違える事も有るまい」
と云いながらスッと中へ這入り、
母「お茶を一杯おくれ」
女房「蛤を上げますかえ」
小「私が来ると蛤々ッてえますが、可笑な内儀さんだ」
母「蛤も御酒もようございます、何も喫べたくはないが、私は駈けて来たので恐ろしく草臥れたよ、したが大森の山本で誂えてくれたのだから、まさかに間違いは有るまいが、草臥足ゆえお茶でも呑んで待って居よう、今に来るだろう」
と云ってると、表はピッタリ障子が閉って居りまするが、障子越に聞える一節切で、只今は流行らんが、其の頃は大層流行致しましたもので、既に日光様のお吹きなさいましたのをまむちと申し、里見義弘の吹きましたるを嵐山と名付け、一休禅師の所持を紫と申し、文屋康秀の持ちましたる一節切を山風と申します、其の頃は大いに流行りましたが、田舎に参りまして一節切を吹くのは稀で、其の音古雅にして、上手な人が吹きますと修行者とは思われませんような音色でございます。
母「これ常吉や、あの修行者に私は手の内を上げましょうよ」
女房「通ってお呉んなせえよ、銭は出ないよ」
母「いえ私が上げますから」
と云いながらお捻りを拵えて小僧に渡す、小僧はこれを持って参り、障子を明けると鼠無地の道行振のようなものを着て、下は木綿か紬か分りませんが、矢張鼠無地の小袖でございます、端折を高く取って木剣作の小脇差を差し、二十四節の深編笠を冠り、合切嚢を斜に掛け、鼠の脚半に白足袋に草鞋で、腰に大きな包を巻き附けて居ります、極く人柄の好い服装の拵え、品格のよろしい修行者でございます。
母「何うぞ其処から上げておくれ」
小「へえ、お修行を上げますよ」
とお捻りを手に渡すと、修行者は手に報謝を受けながら、笠の内から暫く覗いて居りましたが、お捻りを懐に入れて編笠を脱ぎ、右手に提げながらズッと中へ這入って来たのを見て驚きましたというは、此の人は金森家で四百五十石頂戴致した稻垣小左衞門の嫡子小三郎と云うもので、とって二十三歳、色白くして鼻筋通り、口元の締った、眼のきりッとした立派な人ですが、服装が変って居りますから岡本の内儀は肝を潰して、
内「誠に思い掛けない、何うして、斯ういう処でお目にかゝろうとは存じませんでしたが、何うもお見掛け申したとは思いましたが、貴方さまとは気が附きませんでした」
小「私もおまえが此処に居ようとは思わなかった、一昨日重三がお屋敷へ参り、災難とは云いながら誠にお気の毒な事に相成ったから、早速右の次第を上へお届けをした処が、家事不取締り以ての外と云う厳しい御沙汰で、父親は百日の間謹慎を仰付けられ、百日間に國綱のお刀の出ん時には父は切腹仰付けられるか、追放仰付けられるか知れん、それゆえに重役渡邊外記と相談のうえ、実は少々心当りの事も有って、美濃の群上へお刀を捜しに参るのだが、私は常にこの羽根田の弁天を信心致すからこれへ参って、刀詮議のため今晩は此の弁天堂へ通夜をして、祈念を致す心得で参ったが、これへ来ると図らずお前に逢ったが、誠に思いがけないことで」
内「どうも重三郎の不調法からあなた方さまへとんだ御苦労を掛けまして、立派な御方さまが修行者のお服装に成って遠国へ往かッしゃる事になりましたのも、皆な彼が不調法からでございます、私も実は重三郎の親が此の羽根田に梨売をして居りますから、それへ重三郎のことを知らせる心得で、政七も厄年でございますから、厄除に川崎の大師へ参詣ながら参りましたのでございますが、娘を駕籠へ乗せて連れて参りましたが、舁夫が何処へ担いで参りましたか見失いましたので、今に参ろうかと存じまして此処に待受けて居りまするので」
小「ふーむ、娘を乗せた駕籠を、羽根田から川崎へ渡る渡口より北に当る梨畑の下で一寸見掛けたが、お前の娘の乗った山駕籠には、上に百合形更紗の派出な模様の風呂敷包が結い附けては無かったか、駕籠の中には頭巾を冠った婦人が一人居る様子であったが、顔は分らなかった」
内「あれまア、それでございます、渡の方へ参りましたか」
小僧「だから彼はいけないと云うので、危険な奴ですよ、強請言ばかり云ってましたから、お嬢さんが勾引されるといけませんぜ」
小「お前は川崎の大師へ参詣して宿屋は何処へ泊る積りだ」
内「はい、新田屋でございます」
小「それでは新田屋の方から名主へ掛り、手を以て尋ねれば知れん事も有るまい、私も又見当ることが有ったら新田屋まで送り届けるから急いで往くが宜い」
内「はい、有難う存じます、種々お話もしとうございますが、娘のことも心に掛りますから御免を蒙りまする、常吉や、さア急いで往きな」
常吉「こんな時に梨なぞをくれるから重たくって駈られやアしません」
と云いながら二人とも一生懸命に駈けて参りました。するうちに日は段々と暮れかゝって参りますると、田舎の人は頑固でございますから、
女房「お気の毒でごぜえますが、困りますから外へ出て往っておくんなせえましよ」
小「大きにお邪魔を致した大分早く暮れて来ましたな、宜しい〳〵今出ますよ、決してお邪魔は致しません」
と云いながら其処を立ち出で弁天堂へ参りまして、包みを下し、賽銭を上げ、頻りに心の内に弁天を祈念して、何卒粟田口國綱の刀一刻も早く手に入りまして、親父の百日間の謹しみの速かに免れるように、弁才天女の御利益を以て粟田口國綱の行方の分るように守らせたびたまえ。と頻りに弁天を念じて居りまする内に、日はトップリと暮れ切りました。あゝ今夜は此の弁天堂へ通夜をして、夜が明けたれば出立しようと心得て居ると、どう〳〵ッと松ヶ枝に中りまする風音、どぷり〳〵という春の海では有りますけれども、岸へ打付ける海音高く、時はまだ若春のことで、人ッ子一人通りません。すると裏手の松林の中で、
「ヒー人殺し」
という金切声、何うも女の声のようだが、人殺しと聞いては捨てゝ置かれんことだと云うので、荷物を其処へ置いて木剣作りの小脇差を帯したなりで、つか〳〵と出て来て見ると、文身だらけのでッぷりと肥った奴が、腰の処へ襦袢様なものを巻き附け、一人は痩せこけては居るが骨太な奴と二人で、一人の娘を松の根株へ押え附け、
甲「娘さん泣いても騒いでも仕様はねえ、此の浜には船一艘繋いで居ようじゃなし、人ッ子一人通りゃアしねえ、なにを泣くのだ、ぐず〳〵しやアがると殺してしまうぞ、さ命が惜くば己っちのいう事を聞け」
乙「こゝの名物□□を賞翫しようか、ギャア〳〵泣いても仕様がねえ」
と云いながら一人が娘の□□□□□り、既に□□めにかゝる様子を見て、小三郎は驚き、いきなり飛かゝって、娘の上に乗し掛っている奴の褌の結び目と領首を取捕まえて後の方へ投ると、松の樹へ打附けられ、脊筋が痛いからくの字なりになって尻餅を搗き、腰を撫って居りまする。一人が
「おや」
と見る所を草鞋穿の足を上げてドンと腮を蹴ったから
「アッ」
と云いさま後へひッくりかえる。
乙「こん畜生、やい何処から出やアがッた、ヤア安、起ろよ、やい、手前何処から出やアがッた此ん畜生」
小「不届至極の奴だ、軟弱い娘を斯様な淋しい処へ連れて参り、辱めようと致す勾引だな、許し難い奴なれども修行の身の上だから何事も神仏に免じて許して遣る、殺しても宜い奴だが其の儘許して遣るから、さっさと往け」
甲「おや此ン畜生、生意気な事を云やアがる、出し抜けに出やアがッて何んだろう」
乙「先刻羽根田の商人家の前で笛を吹いてた乞食だ、生意気な此の野郎殴れ」
と原文に三島安という東海道喰い詰めの奴で、息杖を取って打って掛ったが、打たれるような人じゃア有りません、真影流の奥儀を極めた小三郎なれば、少しも騒がず左右から打込んで来る息杖の下を潜りながら、木剣作りの小脇差を引抜いて刀背打ちに一人の肩口をしたゝかに打つ、打たれて一人は斬られたかと心得、ドッと前へのめるようにして逃出す、これを見ると一人は驚いて息杖を投り出し、同じく跡からパラ〳〵〳〵と逃げ出す。
小「不埓至極な奴だ、これ女中嘸驚いたろう」
娘「はい何方のお方様か存じませんが、危い処をお助けくださいまして誠に有難う存じます」
小「お前のお母さんは川崎の新田屋に参って居るから、心配なく私と一緒に往きなさい、私は怪しい者ではない、私は金森家の侍で、親父はお前の宅へ往ってお前の親御とは馴染の事だから心配なく、まア〳〵一緒に往きなさい、私が新田屋まで送り届けて上げよう」
と是から小三郎がお雪を新田屋へ送り届けると、母も小僧も大きに悦び、
母「思い掛けないことでお助け下さいまして、お礼の申そうようはございませんから、お餞別代りに聊かではございますが」
と金子を差出したが、小三郎は金子を受けませんで、
小「何うか私が国から帰るまで丈夫で居なさい、私は直に立ちますゆえ、此処から早く三人共に帰るように」
と申し残して出て往く。翌日に相成ると早々母は娘のお雪を連れて万年町の宅へ帰りました。これから稻垣小左衞門は百日経ってもお刀が出ません処からお暇が出ると云う、稻垣小左衞門浪々のお話でございまする。
お話二つに分れて、松葉屋に抱えになりました鋏鍛冶金重の娘お富は、まだ目見え中でございますが、目見え中と云うものは主人が内所に置いて様子を見ます。
主「何うも女は美いが歩きつきが悪いな、ちと屈む癖があるから反らせるが宜い、お前烟草を人に付けて出すのに、それでは色気がない、斯うすると宜い」
と教えて貰う。種々主人が様子を見て、親族得心の上で印形を致しますのですが、其の頃の証文というものは何うしても損のいかないような手堅いもので、証文が極まると二階の大きい花魁のお世話になると云う、大きい花魁と云うのは其の家のお職とか二枚目とかいう立派な仲の町張りの花魁が、若いおいらんを突出しますので、抑突出しの初めからという文句が有りますから、大きい花魁が万事突出し女郎の支度をして遣るんだそうで、夜具布団から襠から頭飾のものから、新造禿の支度まで皆その大きい花魁が致します。主人は一両でも出しません。主人と云うものは徳なもので。若緑という二枚目の花魁がお富の世話を致しますが、誠に親切もので、お富は時々内所へ来て小さくなって居ります。愈々証文が極って、此の三月の宵節句と節句の二日の内に突出して、五町を廻らなければならんので心配致して居りまする。処へ縁と云うものは妙なもので、彼の紀伊國屋の伊之助が髪結の長次を連れて、八重花と呼ぶ花魁のところへ浮れに参りました。
新造「若旦那お風呂に這入んなまし」
と云うので長次と一緒に下の廊下を通ると、内所の暗い処にぼんやりして居たお富がふいと見ると、伊之助ゆえ飛立つように思いましたが、おぼこゆえぐず〳〵して居るのを長次が見附け、
長「もし〳〵若旦那〳〵」
伊「えゝ」
長「あの暗い処にいる娘は鋏鍛冶金重という上手な爺さんの娘ですが、親が死んで石塔料の為に自分から此家へ駈込んで身を売ったと云うことです」
伊「美い器量だのう」
長「余程美い娘です。何かお前さんに物云いたそうに此方をジロ〳〵見てモジツカして居ますが、お前さんに余程惚れてますぜ、なに本当の事さ、私を追かけて来て鋏を一挺呉れて、何うか若旦那に宜くお詫をッてんで、どうも余程惚れてますよ、私が浮世の義理に一寸逢って来ますから、あのなに、花の香さん、若旦那をお連れ申しておくれ」
と云いながら長次はお富の傍へ遣って参り、
長「お富さん」
富「おや親方、まア面目次第もございません、私は斯んな処へ這入りました」
長「面目ない処じゃアない、皆なが誉めて居やす、錨床の鐵が来て、あの娘さんのような感心なものは無え、親の為に自分から駈込んで身を売るというのは実に感心だ、世間には浮気をして茲へ来るものは多いが、親の為に来る者は少いッてね、口の悪い野郎だがお前さんには驚いて居やすよ」
富「有難うございます、あの今親方と一緒においでなすったのは紀伊國屋の若旦那でございますか」
長「忘れねえネ、八重花という花魁と馴染んで遊びにおいでなすったんですが、若旦那の方では惚れも何もしないが花魁の方ではポッと来ているくらいだが、若旦那は堅いから、ツンとしまって居て、時々私が合口だもんだから、長次往こうと仰しゃってお供で来るけれども、何うかすると日暮れ方から来て戌刻前に帰る事もあるし、夜来れば翌朝は店を開けねえ内に帰らねえと大旦那の首尾が悪いのだが、大番頭さんが粋な人で合図をしてくれるから、斯うやって時々来られるのださ」
富「親方私はあなたに少しお願いが有りますが叶えてくださいますか」
長「なにを私に」
富「あのね、私は此の三月のお節句から何うしてもお女郎に成ってお客を取るようになるのでございます」
長「フン、へえ結構でごぜえやす」
富「どうも始めてお客を取る時が怖くっていけないから、私が始めて出ます時に……あのね……若旦那が……私を可愛相と思召して……買って下さる事が出来ましょうか、貴方願って下さいませんか」
長「紀伊國屋の大将をかえ、それはいけねえ、どうして厳ましい、茶屋へでも知れた日にゃア大騒ぎだ、それはいけねえ、私共が登る処のチョン〳〵格子なら、あのお多福と見立替という事が出来るけれども、只玉を二つ払えば宜いという訳にはいかねえから、それはいけねえ」
富「どうぞお願いですからそうして下さいな、私は本当に怖くっていけませんから、後生ですから願って見て下さいましな、其の代り私の身が立ちますと屹度お礼をしますから」
長「お礼ッたって、それは私にはいけねえから、若旦那のお気に入りの幇間の正孝に談をして見ますから、待っておいでなさい」
と慌てゝ立上り柱へ頭をコツリ、
長「あゝ痛い何うも」
と座敷へ参り、
長「大きに遅くなりました」
伊「強気に長いな、馴染の女とたかいぜ」
長「お前さんのお蔭で大黒柱へ才槌頭を打附けやした」
と云いながら伊之助の耳元へ口を寄せ、
長「大変な訳です、素人の時分からあなたに岡惚で、此の三月の節句から仲の町へ出ると云うんで」
番新「あら長次はん、何んだねえ若旦那へ智慧エ附けてさ、憎らしいよ、花魁が心持が悪いよ、大きな声で云いなましなね」
長「大きな声では云われんことだ、質店の若旦那だから」
と瞞かしながらまた小声で、
長「後生お願いだから後で何んな御馳走でもしますからってヤイノ〳〵でしょう」
番新「なにを智慧エ附けるんだよ、長次はんコソ〳〵話などをして」
と云ってる処へ櫻川正孝という幇間が襖を明けて這入って参りました。
伊「いや師匠待ってたよ」
長「正孝さん遅いじゃアねえか」
正「これはどうも、へい、花魁御早く御上りなさいまして、前夜は仲通りさんの相変らずの癖でしょう、大きいので続けて五杯遣ったので大変に酔っちまって、大きに失礼を致しました、そろ〳〵何か取掛りやしょうか」
長「なに師匠一寸此方へおいでよ」
正「若旦那此の間此の親方が、旦那遊びをするってんで、安尾張か稲弁へ往こうというのですが、可笑い何んだッて、長次さんの踊を始めて見ました、変な形の踊りでしたが、あのぼってりしてえるのは余程親方に初会惚れですぜ」
長「そんな事は宜いから此方へ来ねえ」
と云われ正孝は長次の口元へ耳を差附け、
正「え……なに……何んだか小声でさっぱり分りません……くすぐったいね、他聞を憚る儀ですと……ウン成程……へえ〳〵それはいけません……へい成程……フン……それはいけませんや、何うしたって是れはどうもいけません、お取持をした事が知れた日にゃア私が直に茶屋をしくじり、二階を止められるぐらいは仕方がないが、そんな事をすればどうしたって正孝の首が三つ有っても足らないから、是はどうもいけません」
と極小さな声で云うと、
番新「花魁見なましよ、長次はんがまた正孝はんを捕まえてコソ〳〵話をしてえるよ、横着ものだよ」
正「いえなに長次さんが正孝に岡惚と来てえるんで、正孝此方へ来いってんで、こう傍へもたれ掛り、幇間と耳こすりをしたいってんで」
と云い紛らし、また長次に向い低声にて、
「八重花花魁が此の月末にはお目出度スーッとお身請になりますから、花魁が素人に成っちまって、後へ下のがニューッと出る処を突出の初日からなんすれば、何も障りがなくって宜しい、其の時にはそれはまた心得て居やす」
番「あれ見なまし、じれったいよ、何時までもコソ〳〵話をしてさ、正孝はん傍へ往きなますな」
正「いえ此方が親方に岡惚てるんで、こう親方の膝へ手を突いて見たいんで」
と瞞かして其の場は済まして帰りましたが、成程此の月末になると八重花は身請になりましたから、お富は若草と改名して、翌月の宵節句から出ましたが、突出しの夜から伊之助はお富の若草を揚げましたが、初会惚れ処ではないのでございます、素人の時分から思い染めている伊之助でありますから真実に致しますこと一通りでない。仲の町の花魁の見識で、お客に烟草をつけて遣るなどということは余程馴染にならなければ出来ませんが、初りから伊之助の足袋の洗濯までもしようと云う真実ゆえ、伊之助も悪からず思い、足を近く来ますので、此の事が仲の町にぱッと致しました。若草さんは外のお客に出ない花魁、まるで紀伊國屋の伊之助さんのお内儀さんのようだ、御新造だという噂が立ちましたから、別に買いに来る客も有りません、稀にあっても座敷切りで、お客へは出ないという書附を伊之助と取合った仲でございます事がぱッと致しますと、芸妓幇間に仕着も出さなければならず、総羽織を出すと云うので、廓の金には詰るが習い、伊之助も漸々家の方も不首尾になり、金に手支えて参りました。すると九月になり、節句前の事でお父さんの耳へ這入ったから、固い人ゆえ中々承知致しません、何んでも勘当をしなければ許嫁の万年町の岡本へ対して済まないから、久離切って勘当をするというので、番頭の安兵衞は粋な人ゆえ、兎に角私に預けて下さいまし、当分懲しめの為に二階住居をなさればそれで宜しい、私が見張っていて外へ出さんことに致しますと云う事になりましたが、伊之助は番頭に向い、
伊「どうぞお願いだから、もう一遍遣っておくれ、これっ切に往かないから昼遊びだけ許しておくれ、黙って往かないで居ては少し義理が悪い事がある、紀伊國屋の伊之助と云やア仲の町でも知られた顔だから店のひけるまでには屹度帰って来るが、後生だから昼遊びだけ遣ってくれろ」
と頼むので、番頭の安兵衞が幾らか金を工夫して、
安「これだけ上げますが、其の代り店のひける前に帰って入っしゃらないと、もう私は決してお詫びごとを致しません、御勘当に成っても知りませんよ」
伊「宜いとも、屹度帰って来る」
と是から金を懐中して髪結の長次を誘い、遊びに参りましたが、若草は勤めの中で懐妊して五月目でござりましたが、是れは滅多に無い事で、余程惚れなければ身重になる事はございますまい。若草は素人臭く懐妊したとも云兼て居りまする。伊之助は別れの遊びでございますから、どうも賑やかにはいきません、何を見ても可笑しく無いから早く切上げ、伊之助と若草は屏風の中へ這入りましたが、伊之助はぼんやりして居ります。
若「申し若旦那〳〵、伊のはん」
伊「えゝ」
若「どうしてもこれっきりしか来られないの」
伊「そうサ三百七十両という大穴を明けた処七十両だけは安兵衞が償って呉れたが、あとの三百両だけの始末の出来る間、二階住居をして居て、流れの質や両替の方でどうか工夫をして、穴を埋めるようにして上げますと安兵衞が親切に云ってくれたから、親父の方の首尾はおっ着いたが、今日は番頭に頼んで何んでもかんでもひけ前には屹度帰るからと云って、漸々暇を貰って来たくらいだから、もう三年ばかりは何うしても来る事は出来ないので」
若「おまはん茲で金が出来て、お父さんの首尾さえ附けば、今までの通り主が来られるような事になりんすか、そうなら私がお金を才覚しようじゃア有りまへんか」
伊「その金は何うして出来るんだえ」
若「外に出来る目途もないけれども、仲の町の井桁伊勢屋から来るお侍の、青髭の生えた色の白い丈の高いお客は、来て〳〵来抜くが、わちきは厭やーでなりまへんから、碌々気休め一つ云いまへんが、あの客を取留めれば三百両や四百両の才覚は出来ますから、そうしてお金を拵え、三百両だけ主に上げるから、身の立つようにして呉んなまし、主の来られないものを無理に来てくれろと云うと、却って主の身に障りんしょうから、月に三度ずつは屹度逢いに来てくんなまし、茶屋まで来て顔だけ見せて呉んなまし」
と云われ、何と思ったか伊之助は急に気色を変えました。
伊「此方だって月に一遍か二遍忍んで逢いに来たいが、来られるか来られないか知れないから、その井桁伊勢屋から来る色の白い美い男の客をお取りな」
若「主の身の立つ事だし、月に三度ずつも逢われる事なら、そのお客を取留めて見ようじゃア有りまへんか」
伊「取留めるとも取留めないとも御勝手におしな、私も紀伊國屋の伊之助だ、お前に深く買い馴染んで、持物のようになってるお前が、外の客を取って、それから金を引出して私の身を立てる様な見っともないことは出来ないが、そのお客を取りたいならお取りな、是迄も他のお客は取らないと云っておいたって、内々取ってたか何だか分るものか、お取りな、何うせ女郎の千枚起請という譬の通りで、屏風一重中で云った事は、皆反故同様だ」
とあら〳〵しくいう伊之助の顔を若草は怨めしそうに見て涙声になり、
若「あら伊のはん私もたゞならぬ身の上に成っていますから、月に一遍ずつでも主の顔を見るのを苦界のうちの楽みにしているのざますから、年に一度でもようございますから、顔でも見せておくんなましな」
伊「顔を見せ度くっても三年ばかりはもう来られないのだ、今日も無理に来たくらいなのだから、そんな事を云われちゃア心持が宜くないじゃアねえか、末は夫婦と仮にも誓紙まで取り交した仲だのに、そう云う了簡では仕様がないから、私はもう是ぎり逢わねえとして帰るから、お前は其のお客を取るが宜い、善いお客だからお取りよ、私が馬鹿だから是まで誑されてたんだ、帰るから羽織を出しておくれ」
若「あゝいう事を云いなます、おまはんが帰るったって帰しまへんよ」
伊「帰さねえって帰らなければならないのだよ」
若「帰るんなら私の身上を極めてっから帰んなまし」
伊「お前の身上どころか此方の身体が極らねえのだ、二階住居になるか勘当をされるか分らねえのだから、お前は勝手に其の客をお取りな、仲の町の花魁が何んなお客を取ろうが、毎晩替る枕だもの、お客を取ったって此方で何んとも云えない訳だから仕方はないが、苟めにも書いた物を私に渡して置きながら、それを反故にして……反故にされても何んともいうことは出来ないから、あの客を取るが宜い、結構だ、子供が出来たというのも誰の子だか分りゃアしない、疾うからあの客を取ってるのかも知れやアしない、私は帰るよ」
と云い放ち立ち上る。若草は泣きながら、
若「申し若浪はん、若旦那がお帰りだと云いますよ」
番新「あい何うしたんだね」
と屏風をあけて、
番新「何うしたの、帰るの、お戯けなますな、坐んなまし」
伊「坐れませんよ」
番新「そんなことを云わずに寐て往きなましよ、花魁何を腹ア立たしたの」
若「あの井桁伊勢屋の客衆の事を若旦那に話したら腹を立って、これぎり来ないと云いなますから悲しくってなりまへん」
番新「そう、若旦那それは斯ういう訳なんです、花魁がおまはんの事を心配して泣いて騒いでいなますが、他の座敷の花魁とは違い、おまはんの胤まで出来て、他のお客へは出ないから、主人の首尾も悪いが、これまで随分主人の為にも成ってるけれども、どうも極りが悪いから、それにまたおまはんの身の上が、金でお詫が出来るなら、何うかして拵えて上げたいが、馴染で来るお客は無し、困ったものと心配して居なますから、主の為なら仕方がないから井桁伊勢屋から来る客をお取留めなましと、私が花魁に勧めたのざますのサ、前から取ってるの何んのって、そういう心の花魁か花魁でないか大概分りそうなものざいますね」
伊「合槌を打って旨く云ってる、花魁と番頭新造は極って居るぜ」
番新「あゝいう事を云うんだもの、本当におまはんは花魁殺しだよ、時々おまはんは花魁を打って帰る事があるが、他の花魁なら只は置きまへんが、座敷の花魁ばかりは些とも逆らわずに泣倒れて、打たれながらも嬉しがってゝ、おまはんが帰った後で何時でも癪を起し、わちきが介抱するんざいますが、五日か六日も経つとおまはんが来ると癪が治まるんですが、今度は三年も来られないとお云いなますなら、三年の間癪が治りまへんと、世話アするのは私一人、辛うざます、素人の嬢さん見たような花魁に世話ばかり焼かして苦労ばかりさせて、本当に悪らしいよ、床へ這入って緩りと寐物語りをして、相談ずくにしていきなましよ」
伊「いやだよ帰るよ」
番新「仕様がないね、あの、長次はんを呼んで来なよ、あの娘や、何んだって今ッから居睡りをしているんだよ、いけねえ餓鬼だよ、長次はんを見て来て呉んなましよ、喜勢川はんの座敷に居なますよ」
禿「あい、長次はん〳〵〳〵」
長「おい〳〵何んだ、どうしたの、えゝ申し若旦那何んだってお帰んなさる」
伊「お前は遊んでおいでよ」
長「お前さんが帰るなら私も一緒に帰りやすが、亥刻までに帰れば宜いんでしょう、何うなすったのです」
伊「何うなすったッてお前は遊んで往きなよ、喜勢川は真物だから泊って往きねえ」
長「真物も何も有りゃアしません、あなた何をそんなに腹ア立ったの」
伊「何んでも宜い、己は帰るよ」
長「若旦那そう癇癪を起しちゃアいけねえ、若浪さん、なにを……ソレお気に入りの正孝さんを呼んで来なよ」
番新「あい、あの娘や、ちょいと正孝はんを呼んで来てくんなましよ」
と正孝を呼びに遣ると、他の座敷に居りましたから直に飛んで参り、ピョコ〳〵しながら、
正「若浪さん何ういう訳で……フーン、それはいけません、若旦那先ずトロリとお寝みなさい」
伊「トロリも何もいらないや」
正「何ういうお腹立か知りやせんが、私は誠にお帰し申し度くない、実はな、あれが何時もの通りまた十日か五日目においでになってお顔が見られるなら何んですが、三年も来ないと仰しゃると此方は島流しにでも逢ったような心持ですから、お帰し申したくない、花魁も泣いて入らっしゃるから、ちょいとおよって入らっしゃい、花魁の心を安めてからお帰りとなさい」
伊「何んでえ、仲の幇間だから花魁の贔屓をしねえな「幇間ドラを打たして陣を引き」と云う川柳の通りで、己が勘当にでもされたらば唾も引掛けやしめえ」
正「是は恐入りやす、貴方が御勘当になれば私はあなたをベロ〳〵甜めますよ、あなたが御勘当になれば揚屋町の裏辺の小粋な処へ世帯をお持たせ申して、私が仕送りをして御不自由はおさせ申しませんで、万事お世話を致しやしょう」
伊「己は帰る、己の足で己の宅へ帰るに何も無理に引止める訳は有るめえ」
正「お引止め申す訳では有りませんがあの通り花魁が泣いて入らっしゃるから」
番新「申し若旦那をお帰し申すと聞かないよ」
正「若旦那が帰る〳〵と仰しゃるのは何う云う訳なんです」
番新「ナニ井桁伊勢屋のお客の事からさ」
正「これはどうも、これは恐入った、若旦那それでは貴方まるで花魁を苛めるようなもので、花魁がお可愛相です、あのお客に花魁が惚れるのなんてえことがありますものか、彼奴は何処ともなしに女に嫌われるように生れ附いてるんでしょう、女除けのお守りでも持ってるのか、変に色が白くって、じゞむさくて妙でげす、ハヽそれはあなたが無理でげしょう、そんな事を仰しゃるようではまだお遊びがお若い」
と云われ、伊之助は勃ッとしていきなり扇で正孝の頭をピシャリ。
正「アヽ痛い」
伊「どうせ己は遊びは知らないから、馬鹿にされて斯んな目に逢ったのだ、帰るッたら帰る」
と止められると猶帰るというが見得の場所の習いで、ドン〳〵〳〵と梯子を駈け下る、若草は本間の方へ泣き倒れる。番頭新造は泣きながら跡から追いかける。正孝も長次も続いて参ります。
番新「藤助どん、お願いだから若旦那の履物を出すと聴かないよ」
伊「早く履物を出せというのに」
若者「へい」
番新「出すときかねえよ」
伊「出しねえというに」
と無理やりに履物をひッたくって表へ飛び出し、無闇に駈出して大門を出る。跡から続いて正孝と長次が追いかけ、
長「若旦那〳〵」
正「これはどうも恐入った、大変にお飯を喰べ過ぎて居るから駈けると横腹が張って堪らない」
伊之助はズン〳〵土手の方へ参る。両人はドシ〳〵追掛けて田町へ下りずに先の方へ無闇に駈出しましたから、
正「若旦那何処へ往くのです」
伊「何んだッて一緒にくッついて来たんだよ」
正「でもあなた、花魁が前からあの侍を取留めて居るならお断りは致しませんが、客にして居るだろうとお疑りでありましょうが、あの花魁に限って決してそんな事の無いというは正孝が知って居ります」
伊「惚けをいうようだが互に書附まで取交して、私は決して他の客へは出ないから交際でも他へ登ってくれるなと云うから、己も他へは登ったことはありゃアしない、互に斯う云う書附まで取替せて置きながら、他の客を取りたいと云うから、勝手に取れと云うのだ」
正「花魁が何んで彼なお客に惚れましょう、私は大嫌い、あの屁っぴり侍の屁ッチョロな、彼のくらいいやなお客は有りません、あの屁っぴり侍」
と云ってる後に頭巾を冠ってどっしりした羽織を着、大小を落し差しにした立派なお侍がいきなり正孝の袖を取り、
侍「屁っ放り侍とは何んだ」
正「オヤ、これはどうも、イエ誠に恐入りました、御免遊ばせ」
侍「コレ屁っ放り侍とは何んだ」
正「イエ殿様、貴方の事を申したのではございません、他に屁ッチョロの様な人が有りますから、貴方が後に入っしゃる事とも知らず、つい申しましたが、お侍さまで入っしゃるから貴方の事を申したと思召しましょうが、決して左様ではございませんので」
侍「イヤ、己のことを云わんにしろ武士は相見互いだ、貴様は吉原町の幇間じゃアないか、客の機嫌気褄を取って、祝儀を戴き、其の日を送る幇間たる身の上でありながら、何んだ屁っぴり侍とは、不埓な奴だ」
正「どうぞ御勘弁遊ばして」
侍「幇間の分際で武士に悪口を申す不届奴、勘弁相成らん、打ッ放しちまう」
と云われ正孝は真青に成って謝って居りますから、伊之助も心配し長次も驚いて居りました。
伊「おい長次や、お前ちょっと詫ごとをしてやんなよ、正孝が可愛相だから」
長「ですがね、連だと云って私も一緒にやられると詰らねえから」
伊「それだから往来の通りがゝりの積りで詫に這入るが宜いじゃねえか」
長「大事ですね、あなたが出て来たから、こんな事になります」
と云いながら遣って参り、
長「へー〳〵」
侍「何んだ手前は」
長「へえ、私はホンの往来の通りがゝりの者でござえやすが、へえ、何か此の者が殿様に対して不調法を申し上げて、御立腹を受けまして驚き入りまして、見兼て仲へ這入りました訳柄でごぜえやすが、へえ、どうか御勘弁を願いたいもので」
侍「ナニ往来通りがゝりのもので連でないと申すが、両人で悪口して居たのを存じて居る、両人ともに捨置かれん手打ちにするから参れ」
と云われ二人ともかたまってしまい、口も利けません。すると日が暮れてまだ間がない頃でございますから、追々人が出て参り、忽ち黒山のようになりました。
甲「何んです〳〵」
乙「何だか侍が幇間を斬ると云ってるんです」
甲「何を不調法したんです」
乙「何でも幇間がソノ何ですね、お客さまに屁エ放っ掛けたとか云うのが始まりで」
甲「へえお侍に屁を放っ掛けたんですとえ、酷いぞんざいな事をしたもんですね、おならをお侍に放っ掛けたんですか」
丙「いえ然うじゃ有りません、お侍さんの方でおならを致したので」
乙「へえ」
丙「幇間は口が悪いもんですから屁放り侍と云ったので、侍が後へ帰って来て、何だ出もの腫れものだ、したら何うした、屁放り侍とは何だと斯ういうのが喧嘩の初りで」
甲「理不尽な、自分でして置きながら何も斬るほどのことはない、たかがおならじゃア有りませんか、酷い奴もあるもんですねえ」
丁「ナニ然うじゃアない、もと居た奉公人だそうで、あの幇間が旧時あの侍の処に奉公した仲間で、それが何か持逃げをしてプイと居無くなってたのが、幇間に成って居るから、捨置かれん、何故己の事を蔭で悪くいうと怒ってるので」
戊「然うじゃアないそうで、酷い事をするもので」
甲「何でげす、何したんです」
戊「ナニあの侍の物を取りに掛ったので、幇間の振で掏摸をしたんで」
甲「そう此方へ押しちゃアいけませんよ」
巳「何でげす〳〵、転覆えしたのかえ、もう燃え出したかえ」
庚「何です」
巳「鍋焼饂飩が荷を下し始めた処で転覆えしたと云うから」
辛「もう生れましたかね」
壬「何だえ」
辛「何だか乞食が産をしてるッていうことを聞きました」
と何だか解らずにごた〴〵して居りまする処へ、通りかゝったのは、舁夫の安吉と重三郎を連れて荷足の仙太郎が刀の詮議に土手へかゝって参ると、人立が有りますから、仙太郎も立止り覗いて見て、
仙「安、安」
安「へえ」
仙「あの侍は仙台河岸の侍に似てえるようだが、何うだろう」
安「へえ……あれじゃアありますめえ」
仙「誰を見ても怖がって彼じゃアねえ〳〵と云やアがる……何うしたんですエ……幇間が……、成程、悪口を利いたんで……安、己があの侍に喧嘩ア吹ッかけて、あの頭巾をふんだくるから、汝遠くで面ア見てえて、仙台川岸の侍だったら、大きな声で其奴だアーと呶鳴れ、そうしたら己が咬り附くから、重さん、しッかりしなくッちゃアいけねえぜ」
と云い捨てゝ、
仙「え御免ねえ〳〵」
と多勢の人を掻き分け侍の傍へ摺り寄り、
仙「えお侍、訳は知りませんがこれは仲の幇間で、一人は通り掛りの者だ、弱え町人を捕めえて御詫を云わなくッても宜かろう、エお侍」
侍「汝は何だ、何をいう」
仙「私は通りがゝりのものだが、見兼たから仲へ這入ったのだ、弱え町人を斬るの殴るのと仰しゃるが、弱えものを助けるのが本当のお侍だ」
侍「なにをいう、怪しからん奴だ、汝は此の者の詫に這入ったのか、何に這入ったのだ、此の者どもは悪口を申して無礼を働いた故、捨置かれんから手打にするんだ、汝は何だ」
仙「エ、色里へ来て塗箸見たような物を一本半分差して、斬るの殴るのと威張って、此の頃道哲へ来て追剥をするのは手前かも知れねえ」
侍「此奴棄置かれん事を申す」
仙「棄置かれんなら己を斬れ、サア抜け」
と云いながら後を見返り、
仙「オー重さん抜くぜ、安や宜いか」
侍「イヤ余程白痴けた奴だ、強いて斬られたいというならば斬って遣る」
仙「サア斬れ〳〵」
侍「宜しい、望みに任して斬って遣る、命がないから左様心得ろ」
仙「サア抜け〳〵」
と身体を摺り附ける。
侍「無礼至極な奴だ」
仙「汝の方が余っ程無礼だ、己が仲人に這入ったのに頭巾を冠って、挨拶をするってえ事が有るか、頭巾を取れヤイ、面ア出して見せろヤイ」
侍「其の方は棄置かれんが両人は助けて遣る」
と突き離され、長次正孝の両人は悦び、実に竜の口を免れたような心地にて、
正「有難うぞんじます、何処のお方か存じませんが、この御恩は決して忘れません」
と二人は厚く礼を云い、伊之助を引ぱって連往きます。伊之助も怖いから三人で漸々逃げて、また大門を這入って松葉屋へ登りました。それなら出て来なければ宜いに。あとに仙太郎は侍の傍へ摺り寄って来ました。
侍「望みに任して斬って遣るから覚悟をしろ」
仙「サア斬れ〳〵」
侍「此奴棄置かれん」
と云いながら刀の柄へ手をかけました。是から刀を抜くという詮議の処でございます。
さて引続きのお話は寛保三年九月二十日の晩に、吉原土手で荷足の仙太郎が頭巾目深の怪しの侍に出逢いまして、どうも仙台河岸で見た侍に似て居るからと云うので、無法に喧嘩をしかけたが、たとい人の為でも、侍に喧嘩を仕掛けて刀の詮議をしようと云うのは実に剛胆な事でございます。左様な男達という様な馬鹿らしい人は近年開けてなくなりました。今侍は刀の柄へ手を掛けて抜きにかゝりましたが、仙太郎の身構えが如何にも気象な奴でございますから、心の中にて此奴中々尋常の奴ではない、少し何か心得て居る奴であろう、殊に胆力の据わった者、生じいな事をして耻を掻いてはならんと、心有る侍と見えまして、
侍「イヤ町人免してくれ、これは私が悪かった、成程お前のいう通り吉原土手の色里へ参って長い物を差して、斬るの殴るのと云ったは、酒興の上とは云いながら大きに私が悪かった、其の方の云う処は至極尤だ、此の通り手を下げて詫るから免してくれ」
仙「ナニ免さねえ、手前抜くと云ったからサア抜け、武士に二言は有るめえ、抜くと云ったら抜かずにゃア居られめえから、サア抜け」
侍「私が悪いから何うか免してくれ、酔が醒めて見れば白刃を振って町人を嚇かし、土地を騒がしたは私が悪いから謝まる」
仙「いやだ、抜くといったら抜きねえナ、エオイ、武士に二言は有るめえ、ナニ免してくれと膝まで手を下げて詫るというなら、コレ頭巾を冠って謝まるものもねえもんだ、本当に詫言をするんなら頭巾を取って詫びなせえ、頭巾を取れ」
と頭巾〳〵と云われるだけに彼の侍も無気味になったと見えたか、大声にて、
侍「免せ」
と云いながら袖を打っ払って雪踏を脱ぎ捨て、跣足の儘駈け出す。
仙「此の侍」
と云いながら追掛けて往くと、野次馬が大勢居りますから、
野「あの侍逃がすな」
と後からバラ〳〵付いて参ります、侍は土手下へ駈け下りましたが何処を何うしたか見失いました。仙太郎は大門を這入り、仲の町から京町揚屋町と段々探しましたが、残念ながら見失なってしまいましたが、何でも出るに違いない、吉原に這入ったからにゃ、女郎屋へ登ったろうから、明日の朝は大門を出るに違いねえと、五十軒の武蔵屋へ泊って侍の出るのを附けて居りましたが、取逃がしたか見失なったか知れませんから、仙太郎は空しく立帰りました。伊之助は其の晩また松葉屋へ登りましたが、一旦喧嘩をして出た跡ゆえ、向でも容易には帰しませんから遅くなり、遂に大引け過ぎまで居りましたから、伊之助不図気が附き、
伊「サア遅くなった、店が引けるまでには屹度帰る、そんならと云って来たんだから」
と長次と二人とも慌てゝ外へ出ました。
伊「アヽ飛だ事をした、店の引ける前に帰ると云ったのに、斯んなに遅く今時分帰ったら、番頭が腹を立って、親父に此の事を告げれば勘当になるかも知れない、それとも今夜の内に帰るか〳〵と首尾をして置いてくれたか、何にしてももう仕方がないから、堀へでも往って駕籠へでも乗って帰ろうか、何うしようか」
長「番頭さんの方は余り遅くなりましたが、何しろ駕籠へでも乗っていらっしゃいな、先刻あなたは腹を立てたからいけねえんです、侍の事で詰らねえちん〳〵などを起したから、斯んなに遅くなって仕様がありゃアしません、あんな侍などに何んで花魁が惚れる訳は有りゃアしませんや」
伊「己もまさか惚れる気遣は有るめえと思うが、これッ切り来られねえもんだから、ツイちん〳〵を起して、無理な事を云ったのよ」
長「そんなら駈出さなければ宜うごぜえやすに、私も一遍見やしたが、忌な侍で、本当にあんな馬鹿侍は有りゃアしません」
というと、後で
「馬鹿侍とは何んだ」
と云われ、二人は恟りして道哲の方へ無闇に逃出しましたが、跡から侍が追掛けてまいるので、己が足音か跡から追掛けて来る侍の足音か分りませんが、何だか傍へ来たような心持がいたしますから、急いで道哲を駈下りる時に、運の尽きか髪結長次が転んだが、伊之助は跡へ帰って助けることは出来ないから無闇に逃げて往くと、後の方でバタリ、キャーと悲鳴を上げましたから、若しや長次は斬られやアしないかと思いましたが、あとへは帰られませんから、一生懸命に堀まで来て、竹屋の家を叩き起して、侍に追いかけられたから泊めてくれろというと、内儀がそれは飛んだ事でございます、御心配なしにお泊んなさいと云うので、其の晩は泊って、翌朝小船で帰りましたが、本郷の宅では大騒ぎで、翌朝になると髪結の長次が斬殺されて居るというので、女房が紀伊國屋へ泣声で参り、
「若旦那のお供をして参りましたから斯様な目に逢いましたので、御検死沙汰から何や角や貧乏の中で仕様が有りませんから、私は死ぬより外に仕様が有りません」
とキャア〳〵狂気のようになって騒ぐゆえ、捨置かれんから、お店から多分の金子を出して長次の死骸を引き取り、葬式まで出して遣るような事でございますから、世間に対して伊之助を捨置くわけには参りませんゆえ、久離きって勘当するというのを、番頭の安兵衞が宥めて、
「只た一人の若旦那ゆえ、私が気を附けて外へお出でなさらないように致しましょう、またお母さまも御心配な事でしょうから、懲らしめの為に当分のうち窮命なさるように、私が万事計らいましょう」
と云って堀切村に別荘がございますから、伊兵衞という固い番頭を附けて、伊之助を堀切の別荘に押込めて置きましたが、今まで遊んだ子息さんが押込められて、頑固な番頭さんが附いて居るのでございますから、只吉原の事ばかり案じて、若草は何うして居るか、九月が腹帯だと云ったから、来年の二月は臨月だが、首尾好く赤ん坊が産れるか、まだ己の此処に押込められてる事は知るまい、切めて手紙でも遣りたいと硯を引寄せ、筆を取り上げ文を書こうとすると、
伊兵衞「若旦那、何をなさるのです」
伊「そんな怖い顔をしなくっても宜いじゃアないか、私が悪ければこそ斯んな淋しい処に来て、小さくなってるので、余り徒然だから発句でも詠ろうと思ってちょいと筆を取ったのだよ」
伊兵衞「そんなら宜うございますが、吉原へ文でも贈る思召かと思いまして、心配いたしました、あなたお句が出来ましたら拝見致しましょう」
伊「止しましょうよ」
伊兵衞「若旦那どちらへいらっしゃる」
伊「何処へ往くったって些と庭でも歩かないと毒だろうじゃアないか」
伊兵衞「御一緒に参りましょう、生垣が低うございますから、跨いで逃出しでもなさると私がしくじりますから……若旦那何処へいらっしゃる」
伊「あんまり退屈だから本でも出しに蔵へ往くのだよ」
伊兵衞「お蔵へ御一緒に参りましょう」
と世の中のことを知らない人間だから、何を見ても分らんで仕様がありません。芝居の櫓を見て烟突と間違えるような人で。
伊兵衞「若旦那どちらへいらっしゃる」
伊「便所へ往くのだよ」
伊兵衞「御一緒に参りましょう」
と便所まで附いて行くというようなわけで、伊之助は段々鬱々致しまして、これが病気の原因に相成り、どッと寝付くような事になっても、看病人が有りませんから手当が行届きません事で、幾ら可愛い息子でも懲しめのために押込めて置くのですから、お母さんにも看病は出来ません、何うしたら宜かろうと心配をすると、番頭の安兵衞が、
「好い事が有ります、幸い万年町の刀屋のお嬢さんを若旦那の枕元へ呼んで、看病をおさせ申せば、若い同士ゆえ手がさわり足がさわりして、若しそう云う事になりますれば、吉原のことも遂に去るもの日々に疎く、忘れるような事になりましょうから、早く御新造をお持たせ申すが宜うございます、万事私にお任せなさい」
とこれから安兵衞が万年町へ参り、政七に面会し、伊之助は病気のところ看病人が無いので困りますから、嬢さまを貸して下さいと云えば、政七も義理でございますから、お連れなさいというのでこれから娘が来て看病をいたしました。
お雪の看病は真の看病で、手当の行届きますこと一通りでありません。一体看病というものは婦人に限りますな、どうも男ではいけません。看病婦と申して、どうも婦人の方が手当りが宜しい、男の骨太の手で抱き上げられると痛いが、婦人の嫋やかなむッくりした手や何かですと余程心持が宜いと云います。殊に許嫁の嬢さんで、年齢は十八でございまして、別嬪ではあるし、譬えにもいう通り饑じい時のまずい物なしで、お腹の空いた時においしい物が来たようなもので、若旦那がめしあがる事に成ったが、素より許嫁だから誰憚らずめしあがっても、何も仔細は有りません。漸々病気も癒り、遂にこのお嬢さまがぼてれんと成りましたが、吉原の若草は九月帯と云う時に別れたぎり、嬢さんが来て翌月身重になりましたから、両人ながら身重に成りましたが、自然と吉原の方は忘れがちになるような事で。若草は左様なこととは知らず、伊之助の音信のないは春木町の二階住居に成ったことか、切めて髪結の長次さんでもよこしてくれゝば宜いにと、世間の事を知らん花魁でございますから、伊之助の事を思い細る内に、漸々病気になりますと、松葉屋の主人は粋な人ゆえ、
主「花魁決して心配おしでない、気から病が出るというがお前の病気は気から出たのだが、来年の二月は屹と癒るから心配しずに山谷の別荘に往って緩り養生をするが宜い、若浪や(番新の名)詰らないものを食い合わして、身体に障るような事ではならないよ、喰べ物に気を附けて遣んな、軽はずみな事をしてはいけないよ、伊之さんの顔を潰すような事はしないから、安心して養生をしな」
と云うは堕胎薬などを飲んで身体に中るような事が有ってはならんから、産み落した暁には伊之助さんの方へ小児を渡して、お前の身の立つようにしてやると云わぬばかりの謎で、若草、若浪も嬉しく思いましたから、その儘山谷の別荘に参りまして、養生をして居ります。とフト耳に這入ったのは、堀切の別荘に伊之助さんが押込められて窮命して居ると聞きましたから、お可愛そうだと思いましたが、吉原の者を頼んで遣っては、却って若旦那の身の為に成るまいから、誰が宜かろうというと、若浪が
「私の考えでは矢切村の叔母さんを遣んなまし、叔母さんを遣んなますと、あゝいう堅気の叔母さんが往くんですから、先方でも訝しく思わないで、却って事が解りましょう」
と是から急に手紙を書いて下総の下矢切村へ出し、どうか伊之助さんの方へ談を附けてくれろと云うので、早速矢切の叔母さんが出て往きました。これが間違いの始めで、解る人ならば相談の埓が明きますが、分らん人で、お釈迦さまから渡を越えると直に向うが下矢切村でございますけれども、江戸へとては十六の時に来た切で、浅草の観音さまを其の時初めて拝んだという人で、供に附いて来た男は、鋏鍛冶金重の宅に居た恭太郎という馬鹿な奴で、先方は奉公中一晩でもお店を明けたことのない頑固な番頭さんがちゃんと扣えて居りまする所へ掛合いに参ったのでございますから、余程面倒で、
叔母「恭太や、少し其処え待ちて居ろよ、はい御免なせえましよ、紀伊國屋の伊之助さんの別荘は此方でござえますか」
伊兵衞「はい入らっしゃいまし、何方さまから入らっしゃいました」
叔母「はい私は下総の矢切から参りましたが、伊之助さんがの別荘は此方でごぜえますか、あの矢切村のおしのという婆アが参ったとそう仰しゃって下せえまし」
伊兵衞「左様でございますか、下総の矢切などという処には別に御懇意なお方はないわけで」
しの「マア御免なせえまし」
と上へあがり振反って、
しの「恭太や、其処え腰イかけて待ちて居ろよ……能く天気イ続きます」
伊兵衞「手前は紀伊國屋宗十郎の手代伊兵衞と申すもので、若主人伊之助は昨年より少々不首尾なことがありまして、只今まで斯様に淋しい処に押込められて窮命に成って居りますから、誰方がおいででも若主人にはお逢わせ申しません、手前が預ってる事でこざいますから、斯様な次第で有ると一々私に仰せ聞けられますれば、また私から若主人へ申し聞けますから、私がお取次を致しましょう」
しの「左様でごぜえますか、始めましてお目にかゝります、私は矢切村のおしのと云うやくざ婆アでござえますが、幾久しくお心安く願えます」
伊兵衞「ヘイ〳〵、お茶を持ってお出で、へー何に御用で」
しの「私は吉原の松葉屋の若草の真実の叔母でござえますよ」
伊兵衞「へえ、これは飛だ事で、花魁の叔母さんが何しにおいでなさいました」
しの「ハイ私も暫く音信も致しません、また参りもしませんが、此の夏の植付頃に一度其の話の事に就て参りまして、伊之助さんがにもお目に懸ったこともごぜえますが、此度ア手紙が来て、叔母さん、ちょッくら来てくンろ、相談ぶちてえ事が有ると云うから、参って見た処が、若草は吉原には居ねえで、松葉屋の寮とかいうのが山谷にごぜえまして、其処え這入って、塩梅が悪くって打ッ転がって寝て居るでごぜえますから、私も魂消て塩梅が悪いかと尋ねますと、叔母さん面目ねえが勤めの中で赤子が出来したよと云うから、私も魂消て、何うして赤子を出来したかと尋ねると、伊之助さんと夫婦約束をして、他のお客へは出ねえから、素人同様の身体ゆえ赤子が出来たが、主人の慈悲で養生しろってえから、こうやってるが、来年の二月は臨月だアけれども、子を生んだ暁にゃア伊之さんは赤ん坊の父親だから引取って貰わなければならねえのだが、伊之さんも堀切の寮で窮命してえるというから、私も案じられて、焦れて塩梅が悪くなったくれえだが、他の者を使えには遣れねえが、叔母さんは堅気だから往って貰えてえが、伊之さんの処へ往って、子供を引取ってくれるか、私の方で里へ遣るか、他へくれようかという処は、伊之助さんがお目に懸らねえば分らねえこんだし、それが極らぬ内は産む事も出来ねえし、伊之助さんの様子も案じられるから、塩梅が悪くはねえかと尋ねながら、相談をぶって来てくんろッて頼まれて参ったのでごぜえますから、どうか伊之助さんに逢わしてお貰え申し度いもので」
伊兵衞「それは怪しからん事で、何うもお前さんの様な物の理合の解らん御方は有りません、若主人は全くその若草花魁のために斯んな淋しい処に窮命して居る身の上ですから、その花魁は若主人のためには敵です、悪魔でございます、その何うも花魁が身重に成ッたって、毎晩替る枕の勤めの身でありながら、きっと伊之助の子と定った事はありますまい、貴方は此方を大家と心得て入らしったか知りませんが、今の伊之助も前々の身の上ではありません、只今にも勘当をされる次第に成って居りますから、息子株では有りません、今にも追出されゝば乞食になるかも知れませんから、こゝへ何百両とかいう金を出して、斯う云う事にしようと云うことには、只今の身の上では三文も出来ません、へえ何う致しましてへえ、只今では伊之助も後悔致して、吉原のよの字も若草のわの字も忌だと申してへえ、驚ろいて居りますへえ、何う致しましてへえ、何うぞお帰りなさってへえ」
しの「いえ私は無理に金を貰えに来た訳じゃねえから金はいらねえが、他のお客には出ねえ若草だから、伊之助さんがの児と定ってるが、産み落した暁にお前の方で育てる事が出来なければ己ア方で里に遣っても大くするが、それともお前の方で引取るとも、金を附けて他へくれて父なし児にするのは不便だが、伊之助さんがの為にならねえなら、仕方がねえから、その金も己の方で出すが、その相談だから伊之助さんに逢わなければ相談が出来ねえのでごぜえます」
伊兵衞「それが解らんじゃ有りませんか、どうか他へ遣って呉れろ、里に遣ってくれろと伊之助の言葉が掛れば伊之助の児と定りましょう、伊之助が春木町に居た時分に、お前さん一人に惚れてるとか何とかいう欺しに乗り、それが為に斯ういう窮命をして居りますのに、そんな強請騙り見たような、へ…変な事を云っても三文も出来ませんへえ、手前が此処に居りますのは、吉原から左様な事を申してくるかと思って、それが為に附け置かれる身の上ですへえ、何う致しまして、只た今お帰りなすって」
と云われおしのは少しく気色を変え、
しの「何んだッて、強請騙りとは何んだえ、己ア矢切村でハア小畠の一段も持ってるものが、堀切くんだりまで強請騙りには参りませんよ、そんな人情の解らねえ事をいっても駄目だ、伊之助さんのことを心配して、塩梅は悪くはねえかと、若草は痩こけて煩ってるくれえ伊之助さんのことを思ってるのに、伊之助さんは若草のわの字も吉原のよの字も忌だといえた義理じゃあんめえ、慥かに夫婦約束の書附まで取替わせた間柄だから、何も無理に金を貰いに来たわけじゃねえよ、お前さまのような人には何を云っても話が解らねえから、伊之助さんがに逢わなけりゃア私は帰りませんよ」
伊兵衞「オヤ、此の狸婆アぐず〴〵いうと表へ突出すぞ」
しの「さア突き出せ、このけつめど野郎」
伊兵衞「なにを云やアがる」
と訳の解らんものは仕様がありません。おしの婆さんを表へ突き出そうとすると、供に来たのは馬鹿の恭太郎ゆえ、いきなり草履下駄を脱いで、
恭「此の野郎見ろ」
と番頭の頭を殴つ、番頭も怒り出し、無茶苦茶に胸倉を取って表へ二人を突出し、ポンと掛金をかけてしまう。叔母は地べたへ転り、
しの「アヽ若草は斯んな事とは知らないで、伊之助のことを思って病み耄けてるが、伊之助は吉原のよの字も若草のわの字も忌に成ったような不人情な心だから、自分が逢わないで物の解らねえ奉公人を出して、己を外へ突出しやアがって、斯んな疵まで出来しやアがって」
と口惜涙に泣き沈む。
恭「叔母さんお泣きでないよ、今己が柿を買って遣るから」
しの「なにをいう此の馬鹿野郎」
と立上り、杖をついて漸く若草のもとへ帰り、右の一伍一什を煩らっている若草に話すと、そんなら伊之助さんの心がかわりはしないかと思い詰め、カッと逆上せて熱い涙をこぼし、身を震わして騒ぐのを見て、
番新「花魁間違いだよ、伊之はんはそんな方ではないが、あゝいう人だから奉公人任せにして置くから、訳の解らない奴が出て何か云ったんでしょう、腹も立ちましょうが叔母さん間違いざますよ、お前さんが其様にいうと猶々花魁の病気に障ります、花魁今云った通り伊之助はんは決してそんな人ではありません」
と云い宥め、叔母には小遣を持たして帰しました。跡で若草は弥々伊之助の事が心配になり、クヨ〳〵思うから、漸々と御飯も食べられないようになりました、永煩いの処へ食が止ったゆえ若草は次第に痩せ衰え、ホンと云う息遣いが悪うございまして、泣いてばかり居ります。若浪も心配して種々な事を云って慰めるけれども聞入れません。間違いの出来ます時にはいけないもので、幇間の正孝が若草の処へ見舞に往こうと云うので、ちょっと紅更紗の風呂敷に二葉屋の菓子折を包んだのを提げて山谷橋へかゝりました。
其の時此方から来たのは表徳と云う人で、表具屋の徳兵衞さんというのですが、誰いうとなく表徳〳〵と呼び、幇間でもないのに幇間の真似をして、世間の人にはひろく交際が有る、有名な人は皆知って居る、此の間芝居見物のとき成駒屋の部屋で鰻飯を喰って昼寝をして来たなどと嘘ばかり吐いてる人で、酷く酒に酔い、向からヒョロ〳〵やってまいり、正孝を見て、
徳「イヤ大師匠」
と言葉をかけられ、正孝は誰だッけ、顔は二三度見たが名が分らねえと考えながらも、
正「相変らず大景気で」
徳「師匠誠に暫らく、お忘れかえ」
正「イヤどうも忘れる処じゃアねえが、誰だっけ、強気と不器用だからチョイと胴忘れをしたが、お前の名前は」
徳「イヤお忘れかえ、表徳だアね」
正「ウン表徳さんよ、違えねえ、相変らず、何処へ」
表「今日は五名ばかりで善四郎さんへお飯ア喰いに往かねえかというから、有難えッてんで往って見ると、一杯に塞がってゝ上も下もいけねえと云うので、是れから上手へ往こうというのだが、腹が空って堪らんから、ちょいと底を入れようというので重箱へ往って、鯰で飯を喰ったが、あとの連中は上手へ往って、柳橋のおちよと千吉を呼んで浮れる訳だが、表徳は御免を被り廓へ往ってチョン〳〵格子か何かで自腹遊びをする積りで御免を被って師匠に逢おうと思ってると、此処で出会すなんざア不思議でしょう」
正「今日は強気と野暮に(折を上げて)アノそれ売出しの若草花魁の病気見舞に往くのです」
徳「師匠一緒に往こうじゃア有りませんか」
正「君は若草花魁を知ってるのかえ」
徳「存じませんよ」
正「知らなけりゃア往っても無駄だぜ」
徳「ナニネ、お客のお供をして二階でも通る時に花魁から表徳さんとでも声をかけられゝば強気と私も沽券が宜しいじゃ有りませんか、だから師匠が往くなら後から従いて往ってサ、師匠から聞きましたが花魁は御病気だそうで、お大切になせえッてナことを云えば宜いんでしょう、是非御一緒に」
と云うので正孝も荷になりますが仕方がありませんから、
正「そんならば連れて往くが神妙にしなくっちゃアいけねえぜ」
徳「宜しい心得た」
正「さア此処だ、へえ御免なさい〳〵」
寮番男「おやおいでなさい、お上りナ」
正「新助どん誠に御無沙汰を致しました、実は桐生へ往きまして、一昨日帰りまして、新八松屋で聞いて驚きましたが……これは詰らないものですがお土産に」
と差出すを男が受取り、
男「少し待っておいで」
と云い捨てゝ奥へ這入る。と間もなく番頭新造の若浪が出て参りまして、
番「おや能く来なましたネ、上んなましよ」
正「佐羽さんに誘われて慾張り旁々桐生へ往きましたが、一昨日帰って松新で聞きますと、花魁が御病気で山谷のお寮に在っしゃるという事ですから、早速お見舞いに出ましたので」
番「やっぱり一件の事だから仕方がないの、九月の一件から段々と病気になッちまって、本当に可愛相に、他の花魁と違って素人も同じ事だから、一時に思い詰るのは尤もだが、気の晴れることは些ッともないんざますよ、まア正孝はん上んなましよ、彼処に立ってる人は何」
正「あれは途中でヒョイと逢ったんですが、大変な奴なんで、ズボラな酷い奴で、先方から慣々しく一緒に連れてッて呉れろというからお前花魁を知ってるのかえと云うと、お目には懸らないが、ちょいとお目に懸って置くと、廊下でお目に懸っても沽券が宜いッてんで無理に従いて来たんで」
番「宜うざますよ、淋しい処だから呼びなましよ」
正「中々大変な奴で、御病気の処なぞへ呼ぶ奴じゃ有りやせん、変なやつなんで、表具屋徳兵衞とかいうので、表徳というんだそうで」
番「宜うざますよ、此方へ上んなまし、ちょいとヒョットコさん、おや御免なまし表徳さん這入んなましよ」
徳「へえ御免なさい、誠にどうも、今山谷橋で大師匠に逢って聞いてすっかり驚いちまって、只アーッと云って鬱いじまって、小さくなって師匠の後から従いて来るくらいな事で花魁の御様子を伺い、お脈を拝見したいというわけで」
正「そんな大きな声をしてはいけないよ、花魁は鬱ぐ病だから、チト神妙にして、少し待っておいで」
徳「好い屏風だネ、金地に牡丹の花があって、赤い尾を振り舞してるのは猩々でげすかえ」
正「ナンノ石橋だよ、え御免なさいまし」
番「此方へ這入んなまし、花魁正孝はんが来たの、そこへ這入んなましよ」
というので、通って見ると、病間は入側附きの八畳の広間で、花月床に成って居ります。前に褥を取り、桐の胴丸形の火鉢へ切炭を埋け、其の上に利休形の鉄瓶がかゝって、チン〳〵と湯が沸って居りまする。十一月の事で寒いから二つの布団の上に小蒲団を敷き、藤掛鼠の室着の上へ縫もようの掻巻袍を羽織り、寒くなると夜着をかける手当が有りまする。床には抱一上人の横物はとりまして、不動さまに道了さまと塩竈さまのお輻と掛け替り、傍に諸方から見舞に来た菓子折が積んで有りまするが、蒸菓子の方は悪くなるから先へ手を附け、干菓子の方は下積に残って居りまする。其の他道了さまのお丸薬に帝釈さまのお水が有りまする、此方の唐木の違棚には、一切煎茶の器械が乗って居りまして、人が来ると茶盆が出る、古染附の茶碗古薩摩の急須に銀瓶が出る、二ツ組の菓子器には蒸菓子と干菓子が這入ってありますという、万事手当が届いて居りまする。若草は藤掛色の室着を羽織り、山繭の長襦袢に、鴾色のしごきを乳の下から、巾広にして身重の腹を締めて居りまする。髪は乱れたのを結び直して、また毀れたので鬢の毛が一杯に顔から襟に掛って居りまするが、美人の煩ってるのは酷く美いもので、色の青い上に少し黄ばみが有ります、身重になりますと、いやアに生白くなりまするもので、黒檀柄の火箸を一膳火鉢の中へ突入れて之を杖に額を当てゝ、只伊之助の事ばかりくよ〳〵と思い続け、泣いてばかり居ります。
番「花魁アノ正孝はんが来なましたよ、松新で花魁の病気のことを聞いて、好なものを持って来なましたから起直って、些と気の紛れるようにしなましよ、花魁お起きなましよ、そう遣って居ると火気が顔へ当って逆せ上るから顔を上げなましよ涙で灰がかたまるざますよ、正孝はん此方へ這入んなましよ」
正「へえ花魁誠に御無沙汰を致しやした、斯んなにお悪くはないと思いましたが、大層お悪い御様子で、時々お起きなすって、斯う遣って坐って入らっしゃるのですか」
番「しようがないの、おまはんは知るまいが、本当に腹の立つ事があって花魁の病気も重るだろうと思う事があるの、あのね此の間田舎の叔母さんを呼んで向へ遣った処が、突転ばして返し、吉原のよの字も若草のわの字も忌だと云ったとかいう事を、叔母さんは正直だもんだから其の通り花魁に話したから、それから些ともお飯がいけないの」
正「若旦那の堀切に入らっしゃる事を些とも知りませんでしたが、一昨日帰って間もなく桐半で聞いたくらいの訳で、お見舞に往きたいと思ってますが、そんな奴が這入ってゝ詰らねえ事を云うから困るんです、尾に尾を附け、輪に輪をかけて事を大きくするようなもので」
番「花魁、正孝はんが面白い人を連れて来なましたよ、ヒョットコさんとか何とか云うお酒に酔ってゝ面白いことを云うの、正孝はん呼びなましよ」
正「あれは此処へ入れる人間じゃございません、花魁の御様子を見まする所では中々入れられませんから止しましょう」
番「這入んなましよ、アノ、チョイと表徳さん這入んなましよ」
徳「へいこれはどうも、御免を蒙ります、これは始めまして表徳で、只モウお酒が好きだから、表徳大酒のお開帳が始まりましたくらいのもので、花魁の御病気の御様子を聞いて……お医者さまをと仰しゃれば、私は余程名医を知って居りますから、佐藤先生でも橋本先生でも淺田先生でも、直に往って来いと仰しゃれば、ヘーッてんで直に先生の手を持って引張って参ります……これは驚きました、これは大変な御病気で」
正「神妙にしてくれなくッちゃアいけねえぜ、御様子が是れだから」
徳「これはちょっと驚きました、両国の花火で船と川ばかりで」
正「詰らねえ洒落を云ってはいけねえ、若旦那は堀切へ押込めにおなりでも、お宅がお宅だから何うかなりそうなものですよ」
徳「堀切へ押込められたという若旦那は、紀伊國屋の若旦那かえ」
正「イヨ是れは感心〳〵だ、公は紀伊國屋の若旦那のことを知ってるのは感心だ」
徳「師匠、エお前は知ってるのかえなどゝ云われるくらい強気と詰らねえものはないがネ、私も紀伊國屋の若旦那を知ってるどころじゃアない、紀伊國屋は幇間の方ではないが、経師屋の方でお出入だ、あの十畳の広間は、表徳当月の二十八日までに天井を凸凹なしに遣ってくれ、へえ、宜しい心得たというので遣ったが、あのくらいな若旦那は沢山ない、男が美くって厭味が無くって、身丈恰好が好くって、衣服が本当で、持物が本筋で、声が美くって、一中節が出来るというのだから女はベタ惚れ、うッかり外を歩くと女が打突って来て女の瘤が七つも一緒に出来るというくらいの若旦那だが、済してゝ其様に安く売る身体じゃアねえと云ってるくらいのもので」
正「実に若旦那の事を知ってるのは感心だね」
徳「あのくらいな若旦那を押込めたのは解らねえので、併しお父さんは固いから大切にしてる処へ、芸者だか何んだか知らないが惚れた奴が出来て、其処へスタ〳〵コラ〳〵を始めたゆえに堀切へ押込められた処が、心持がわるいもんだから塩梅が悪くなり、看病人は誰が宜かろうというと、深川の刀屋のお嬢さんは許嫁だからと云うので、これが看病人に来た」
正「イヤこれは何うも驚いた、饒舌家だから直にすっぱ抜きをして困る、大変なものを連れて来た、表徳さん下がろう」
徳「花魁に聞かし度いねえ、若旦那の飯の喰ッ振が気に入っちまった、鰈のお肴か何かの時は其の許嫁のお嬢さんが綺麗に骨を取って肉をむしって、若旦那私がむしって上げますと云って、丁寧にむしって出すのを、甘え〳〵と喰うくらいの事じゃねえ、余り仲が好過ぎてネ、遂々赤ん坊が出来た」
正「おや大変〳〵お出でよ〳〵」
と無闇に外へ連れ出し、
正「恐入ったネ表徳さん、主は困るじゃア無えか、主は伊之さんの事を知って居ながら花魁の事を知らずかえ、伊之さんと花魁とは夫婦同様の仲で、勤めの中で伊之さんの胤を宿してるのに、伊之助さんから何とも音信が無いので、花魁は煩ってるのだ、公酷いネ、許嫁のお内儀が来て居るばかりではなく、御飯の喰ッ振から赤ん坊の出来たなどは余り手酷いじゃないか」
徳「これは恐れ入った、そういうこととは知らずに云ッちまったが、これは驚いた、もう一遍往って云い直して来ようか」
正「猶悪い」
とよう〳〵二人が表へ出た跡で、若草は事の間違いより伊之助を怨み、伊之助のところへ若草の怨霊が出ますというお話でございますが、一寸一と息吐いて申し上げまする。
幇間の正孝と表徳が帰った跡で、若草は伊之助が許嫁の女房を呼んで、我物顔に楽んで居る、それゆえ叔母さんが往った時にも、自分が出て逢おうでもなく、不待遇いをしたうえ、叔母さんの胸倉を取って表へ突出し、疵まで附けて帰すような不実な人とも知らず、生涯身をまかせようと力に頼んだは私の過り、主人にも朋輩にも義理の悪いようになったは、皆な私が思い違いであるが、そればかりでなく、七月になる胤まで妊したは情ない、何うしたら宜かろうと、胸に迫って只身がこうブル〳〵と顫えるほど口惜しかったと見えます。若浪は真実に介抱を致します。番頭新造というものは只今ではございませんが、前には有りましたもので、この若浪は花魁の為に身を粉に砕いて心配を致します真実なものでございます。
番「申し花魁、おまはん今あの話を聞いて嘸口惜しかろう、あの正孝も正孝だよ、くだらない奴を連れて来てサ、いけ騒々しいベラ〳〵喋べって、彼様な奴を連れて来たからいけねえのだ、悪らしいよ、花魁ばかりでなく私も本当に腹が立ったの、能く考えて見なまし、これまで伊之はんの事で気を揉んでいるのも知らないで、許嫁の女房を自分の傍へ引寄せているということを聞けば、誰だッて腹の立つのは尤もざます、私もしみじみ腹が立ったから、花魁伊之はんのことをフッツリ諦めてしまいなまし、伊之はんの事を諦めて、胸にさえ思う事がなければ、おまはんの病気は癒るとお医師様がそう云ったじゃア有りまへんか、兎も角も身二つに成ッちまって、病気も癒り、元のように仲の町へ出てサ、おまはん善い人を取留めて立派なお客に身請をされて、あんぽつにでも乗り、黒鴨を連れて紀伊國屋の前を是見よがしに通ってやんなまし、本当に口惜しいんざますが、おまはんのようにそうクヨ〳〵してえると身体に障るばかりじゃないよ、たゞの身体じゃアないから、確かりしておくんなましよ、花魁、何うしたの、しっかりおしよ……花魁……花魁」
と云われ若草は苦しい様子で、
若「あいよ、私は本当に馬鹿に成ったの、能く素人は女郎はお客を誑すなどゝ、私も素人の時分には云ったけれども、私ばかりはお客に欺されて、主人にも朋輩にも済まない義理になり、其のうえ斯んな身重に成って、今更何うする事も出来ない身の上に成った者を振棄てゝ、許嫁のお内儀はんを自分の傍へ呼んで置き、私の方へは文一本遣さずに、そのお内儀はんと楽んでいる伊之はんの心がしみ〴〵怨めしい、私は考えれば考えるほど口惜しゅうざます、伊之はんに欺されたのが口惜しゅうざますよ」
番「アヽそうとも、本当に可愛相ざますよ、本当におまはんは口惜しかろう、だが彼様な人は諦めておくんなましよ、確かりしなましよ、おまはんも親族兄弟もなし、私も親族兄弟がないから、お互に素人に成ったらば姉妹になろうと、おまはんがいいなました時には嬉しいと思っていたんざますよ、済まないがおまはんを妹のように力に思ってるのだから、伊之はんの事さえ諦めておくんなはれば、おまはんの病気も癒るのだよ、身体が達者にならないと身二つになる事が出来まへんよ、お願いざますから確かりしておくんなまし……花魁何うぞしなんしたかえ……花魁、花魁」
若「あい……思えば〳〵不実な……怨めしいは伊之助はん」
と四辺を見れば腹の立つは、伊之助と若草の比翼紋の附いた物ばかり、湯呑から烟管の彫から烟草入から、傍にころげて有る塗枕の金蒔絵の比翼紋を見て、
若「アヽ此の比翼散しも徒ら事になったか、怨めしい、それほど不実の人とは知らず、勤の中一夜でも外の客へは交さぬ枕」
としけ〴〵枕の紋を視詰めて居ましたが、火鉢の中へ黒檀柄の火箸を突込み是を杖にして居た故、力が這入って火の中へ這入り、真赤に焼けて居る火箸を取って、
若「おのれ伊之助さん、譬え許嫁の女房でもおめ〳〵添わして置こうか、怨めしいのは伊之助はん」
と塗枕の比翼紋の、男の紋の方へ火箸をあて、ジーッと力に任せて突ッ通すと、プーと烟が顔へかゝりました。若草は鬢髪を逆立て、片膝を立て、怨めしそうに堀切の方を延上って見詰めた時の凄いこと、実に生ながらの幽霊でございます。
番「申し花魁、確かりしなましよ花魁……何うしなましたの、確かりしなましよ花魁、そんな姿になって気でも狂ったら何うしなますえ、しッかりして呉んなましよ花魁……エヽ、あの娘や、何うしたんだねえ、御嶽山のお水を持っておいでよ、なにをグズ〳〵してるんだよ、今ッから居寝りなんぞしやアがって、花魁、しッかりしなましよ、サこれを呑んで気を附けなけりゃいけまへんよ花魁」
若「あい〳〵」
若浪は若草を抱き上げ、湯呑を口に宛てがうとゴックリと一口水を飲み、フー〳〵という息遣いでございます。暫くして、
若「若浪はん、私は伊之さんのことは、今日からフッツリと思い諦めたから、サバ〳〵したんざますよ、今夜はとけ〴〵と寝られようかと思うんざますから、少し脊中を撫ってくんなまし」
番「宜うざます、少し落着いて寝てくんなましよ、落着くとおまはんの病気もなおるんざます」
若「じゃア枕に着いて横に成りましょう」
番「然うしなまし、私が附いてるから大丈夫ざます」
と慰めながら若浪が頻に撫って居りまする内に、次第〳〵に若草はスヤ〳〵と疲れて寝る様子ゆえ、伊之さんの事を諦めて能く寝てくんなますかと若浪も心嬉しく、看病疲れにグッスリと寝附くと、真夜中に若草そっと起上って匿してある手箱の中から取出したは、親鋏鍛冶金重が鍛えたる、小刀には大きいが短刀には少し小さき、金重と銘の打った合口で、金重の歿るときに、女の嗜みだから、これを形見にとて譲られた合口を持ったなり、褥をいざり出て、そっと音のしないように雨戸を明け、室着の儘で裾を敷いたなりで、そろ〳〵と飛石伝いに、敷松葉の一ぱいに敷詰めて有る横庭に下りると、余り大きくは有りませんが、葉のこづんだ赤松が一本有りまする処まで参り、ホッと漸く息を吐いて、鉢前のゴロタ石を拾って左の松ヶ枝に合口を宛がい、片手には石を持ち、
若「口惜い伊之助はん、人に怨みが有るものか無いものか、今に思い知らせる、覚えて居なまし」
と云いながら打附けると、若草は病に疲れて居りますから其の儘コロ〳〵と敷松葉の上に転がったが、また松ヶ枝に掴まって漸く起き上り、石を持ってまた打つけて伊之助を呪る、精神の恐ろしいことには、伊之助は瞬く間に左の足が痛んで来るという怪談の処は後に致して、此処でお話が二つに分れて、稻垣小左衞門は百日経っても國綱の一刀の行方が知れず、手掛りが頓とないので、家事不取締り、不埓至極の至りで有ると云うので、追放仰せ附けられ、致し方がないから旧来居りまする家来は残らず暇を出し、諸道具は知る者の処へ預けたり、要らん物は皆売払いました。すると丈助と申す新参ではございますが忠義な家来が有りまして、
丈「私は貴方のお傍は離れません、若旦那のお帰りまではお傍にお附き申します、何うぞお連れ下さいまし」
小「連れて往きたいが何処へも往く処がない」
丈「私の在所は葛飾の真間の根本ゆえ、明家が有りましょうから往かッしゃいまし」
小「私は商いを仕様とも、日雇取をいたしましても、あなた御一人だけはお過し申します」
というのでこれから、入用の手荷物だけを船へ積んで、真間の根本へ参りますると、幸い明家が有りましたから、名主へ話をして店を借りましたが、其の頃は武家というのでお百姓は驚いて居りますと、鎗が来たり鎧櫃が来たりするから、近辺では大したお方だと尊むことで、小左衞門は金も沢山持って居りましたろうが、坐して食えば山も空しの喩えでございますから、何か食い続きの出来るようなことは有るまいかと云うと、丈助が私が商いをいたしましょう、少し店を直せば宜うございますと、是から大工を呼んで来て模様替の造作をして、商売の出来るように致しました、この丈助は男でありながら煮炊をしたり、すゝぎ洗濯までいたします。夜は御老体ゆえに腰などを撫って上げるという、実に忠義一図なことでございます。商売を致しますところが、勝手を心得ませんが、稻垣小左衞門は重役のことで困らん方ゆえ、丈助や商いをするなれば高く売ってはならんぞ、廉う売れ、そうすれば買う者も助かり此方も益になるのだ、何でも身体に骨を折って施しと心得て廉う売れと言付かり、滅法安く売るので、諸方へ知れて方々から買いに参りまする。市川新田、八幡、船橋、国分村、小松川、松戸辺から買いに来ます。大した繁昌で、田舎の店では種々な物を売ります、酒、醤油、味噌、飴菓子、草履、草鞋、何となく売りまする、末には丈助は朝から晩まで手廻らないように売れますると、近辺の商人が売れなくなって困るところから、寄合を附けました。
甲「帳元さん、マア何ういう考えか知んねえが、先方へ往って話いしたとこが、元侍だから駄目だよ、商売などはしたくはねえが、食い続きが出来ねえからするんだ、廉く売ったッて、なにもお前等の方で咎める理合はあんめえてエいって掛合に往ったって駄目だハア」
乙「お侍でも仮令百姓でも理合に於て二つはねえ、おらッちが商売をするッて、えらア田地イ持ってるものはねえから、世間並に売れば宜いに、法外に廉く売るもんだから、己がの方が暇になるのだから、何も商売を止めるじゃアねえが、仲間入をして帳元並みに売って貰えてえといったら解ろうに」
甲「それを云ったがだめだよ、廉く売ったって己を咎める理合は有んめえ、何で咎めるかサア返答ぶて、斯う云う、己ア元侍だ、百姓風情が兎や角う咎めだてをすれば打斬てしまうと脅かすだア」
丙「だからよ商売を止めるじゃねえが、仲間入をして世間並に売って貰えてえて云うに、打斬るてえ理合は有んめえ」
甲「此処でそんなに呶鳴っても先方まで聞えねえ、作右衞門どん、お前さんは年寄では有るし、月番だから先方へ往って言柔かに話をぶッて来て貰えてえが、往って来ておくんなせえな」
作「先方へ往って話をするんだがネ、元は侍だが食い方に困るから商売をするッて、それを咎める理合は有ンめえと云う処を押して、此方で兎や角ういえば殺されると云うんだ」
と評議の永い事滅多に押附きません。作右衞門は頼まれたから仕方なく遣って参りました。
作「ハイ御免なせえ」
丈「入っしゃいまし、何を上げますナ」
作「買物買いに来たのじゃ有りませんが、少し旦那様にお目に懸って、お談し申してえ事が有ってめえりました」
丈「なる程、何方のお方で」
作「ハイ当村で酒渡世を致します作右衞門と申すものでごぜえます」
丈「左様でございますか、旦那さま村方のお方がおいででございます」
小「そうか、さア〳〵此方へ御遠慮なく」
作「先ず天気イ続きます」
小「ハイ私は新参もので、当所不慣ゆえ何かと又村の衆には御厄介になります事もございましょう、幾久しゅう御別懇に願います、只今では改名して稻垣屋小助と申す、慣れない商売をいたしまするもの、何かとまたお指図を願います」
作「ハイ今日出ましたのは他の訳でもございませんが、ソノマアお前様はお侍のことで商売のことは御存じも有りますめえが、江戸の商売と違えまして、田舎では商人の仲間に帳元と云うものが立って居りやして、その帳元へ寄合をして、何処に市が有ろうとも十夜が有ろうとも、皆帳元の方から、何の品物は幾らに売れと云う割合を持って出る訳で、帳元へ這入らねえと商は出来ねえ訳でごぜえますが、それを御存じねえから、成たけ廉く売るので、遠くから買いに来るようになったので、村方の小商売をするものに田地をえら持ってるものは有りませんから、おらア方へ買えに来ねえで誠にハア食い方にも困るような訳でごぜえますから、何うかマア商人並に仲間入りをして、其の上で何うか帳元並に売って御貰え申せば宜いので、帳元が立って居りますから、私と一緒に直においでなすって、商人の仲間入りを願えてえで、帳元総代に作右衞門が出てめえりました訳で、どうか何分御聞き済みを下されば、誠にハア皆も悦ぶことでごぜえます」
小「至極御尤もなことで、イヤモウそうで御座いましょうが、とんと手前商いのことは知りません、家来がやると申すので始めましたのだけれども、廉う売るのを咎めるのは些と訝しいように心得ます、私が物を廉く売ると申して無闇に廉く売るのでは有りません、多分に買い出すと廉くなる上に、多分の利を見ずに廉う売るので、諸方より多人数買いに来るから、骨は折れますが、斯ういたせば買うものも益になれば、私も益になります次第、それを悪いとおッしゃれば、それは商人の仲間入もしたいが、ちと致しにくい、何故と申すに、商人の仲間入を致しては何うも私が古主へ帰参の妨げになりまする、今にもお召返しになれば鞍置馬に跨り、槍を立って歩く身のうえ、然るに食い方に困って十夜や祭の縁日なぞに出て、香具渡世の仲間入を致したといわれては、何うも同役の者に聞えても恥るわけなれば、仲間入の儀は平にお断りを申します、あなたも廉く売るときっと売れますよ、高く売れば品は沢山出ない、たま〳〵一か二つ出ればそれで沢山儲けて沈着いて在らっしゃるが、私どもはガチ〳〵して廉く売って、利を数で見て居りまする、あなたの方でも廉く売れば屹度売れますから廉くお売りなさい、だが仲間入の処は平にお断り申す、何うぞ帳元へ宜しく」
作「ハア駄目だア」
と仕方がないから立帰ってこの由を話すと、皆な腹を立てゝ、これは捨置かれん、何うしたら宜かろうと云うと、国分村に萩原束という浪人が居りまして、貸金の催促方なぞに頼まれて掛合に往きまして、長柄へ手を掛け、威かして金を取って参りますから、調法ゆえ百姓が頼みますので、萩原さんを頼んで掛合に遣ろうと云うところから多分の鼻薬を遣わしたので、
束「宜しい、武家と申してお百姓を威かし不法な事を申す、手前掛合って仕儀に依っては、素首を打ち落して見せる」
と是から萩原束が真赤に酔って、耳のあたりまで真黒に頬髭の生えている顔色は、赤狗が胡麻汁を喰ったようでございます。盤台面の汚い歯の大きな男で、朴歯の下駄を穿き、脊割羽織を着て、襞襀の崩れた馬乗袴をはき、無反の大刀を差して遣って参り、
束「御免下さい」
丈「入らっしゃいまし、何を上げますな」
束「買物買ではない、御主人へ会いに来た、国分の萩原束と申すものである、宜しく」
丈「旦那さま、国分の萩原束とかいう浪人ものがお目に懸りたいと申して、真赤な顔をして、袴を穿いて、長いのを差して、居合抜き見たような方が参りました」
小「此方へお通し申せ」
というので丈助は出て参り、
丈「此方へお通りなさい」
束「御免を蒙る」
小「さアどうぞこれへ〳〵、好うこそのおいで、手前は稻垣屋小助と申す小商売を致すもの、此の後とも御贔屓に御用向を仰せ聞けられますように」
束「ヤア是は始めまして、手前は国分に居る萩原束という浪人の身の上で、其の日の食い方に困る、それが為に実は御繁昌な商人へ無心に参るので、あなたは大して御繁昌で、実に何うもお忙がしい事で、それゆえ御無心に参ったのだが、何うか浪人の身の上を憐れ不便と思召してお恵みを願いたい、お聞済み下さい」
小「ハヽヽヽ左様でございますか、併し何う致しまして、人さまへお恵み処では有りません、自分の食い方に困るところから漸く小商売を致しますくらいで、自分の腮が干上りますくらいの訳ゆえ、外の又御繁昌なお商人へ往ってお頼みが宜しい」
束「イヤ是非とも願い度いネ、何処の店でも店開き当日には先方から手前方へ頼みに参り、間違いでも有ってはならんからと、店番をして呉れろと云って、拙者は何処へも頼まれて往く、と申して酒が貰いたいという訳ではないが、貴公は村方の帳元へ一言の談もなく、勝手次第に窃んで来るか知らねえが、方外の廉売をするので、村方の商人一同迷惑を致して居るくらいだから、是非とも願う、お思召を下さい」
小「左様なら心持で宜しいか」
束「宜しい」
小「これ丈助」
丈「へえ」
小「銭笊の中から銭を三文持って来い」
丈「へえ」
と持って来ましたのを態とからかいに小左衞門は束の前へならべて、
小「甚だ軽少ではござるが、ホンの心ばかりで」
といわれ萩原束は怒気面に現われて、
束「此奴愚弄致すな、此の方も武士でござる、イヤサ拙者を三文や四文の銭を貰いに参った乞食と心得て居るか、宿無じゃア有るめえし、三文計りの銭を出すとは無礼至極な奴だ」
小「でござるから只今承わったので、心持で宜いと仰しゃッたから、私の上げたい心持は三文で、モウ五文とは進げられん心持で、それゆえに多分のことは出来んと前々からお掛合申したところ、心持で宜いと仰しゃったから出したが、それが悪くば其の余はなりません」
束「黙れ、これ手前は銭金を無心に参ったのではないが、村方の商人が難渋を致す処から再度掛合に参っても侍を権にかい、土民輩と侮って不法な挨拶をして帰すので、村方の商人が難渋致すによって、拙者に掛合ってくれろと申して参ったから出たのだが、今日から商人の仲間入をして帳元並に売ればよし、左もなくば三文出して束を乞食扱いにしたから容赦は致さんぞ、拙者も武士だ、免さんぞ、浪人しても萩原束大小を質には入れん」
と云いながら眼を怒らし肩を張り、長刀を引附ける。
小「ハヽヽヽヽヽそれじゃア何んですかネ、侍は浪人を致すと皆大小を質に入れて、お前さんばかり質に入れんと云うので、貴方は鼻高々と然う云われるか知らんが、手前も元は侍、今は浪人して斯く零落の身に成っても大小は未だ質入れは致しません、幾口もございます、先祖伝来の品もござる、御覧に入れましょうか、鎧櫃も有る、鎗も是に懸り居ります、傍らにはこの通り種子ヶ嶋の鉄砲に玉込もして有る、狼藉者が来てゴタ〴〵致す時は、止むを得ずブッ払う積りで、火縄を附ければ直に射てることに成って居る、それが如何致した」
と束の胸先へ狙を附けましたから驚いて、
束「暫くお待ち下さいまし、手前喰酔ってまいりまして、兎や角、御無礼を申し上げ、お気に障ったかも知れませんが、其の段は幾重にもお詫をいたしますが、暫くお待ち下さい、何ういう機みで玉が出まいものでもない」
小「いえ〳〵狼藉者が参って兎や角申せば、この引金をガチリと押せば玉がパチンと出て、貴方の鳩尾辺へ中るように……」
束「マア〳〵暫く、何ういう機みで玉が出まいものでもない、拙者喰酔って参り御無礼を致した段は幾重にもお詫び申すからお気に支えられませんように危いと申すに」
小「左様なら拙者が心ばかりの三文を持って往って下さるか」
束「へえ頂戴致します〳〵、有難いことで、何れまた出ます、鉄砲は危ない、怪我という事がありますから」
と萩原束は真青になって帰りました。
小「丈助何方の方へ帰ったの」
丈「国分村の方へ帰って往きましたが、馬鹿な奴ですナ」
小「村方の商人に頼まれて来たんだの、悪い奴だ」
丈「来た時には真赤な顔をして来ましたが、帰る時には真青になって帰りました、逃げて帰る時には刀の長いのは見っともないもので」
小「馬鹿な奴を玉込もしない鉄砲でおどして遣った」
と此の事は稻垣小左衞門が勝って笑って居りましたが、さて物は負けて置きたいもので、これが稻垣小左衞門の災難の始まりで、遂に命を落す程の事になるという、仇討の端緒でございます。
さて引続いてお聞に入れました松葉屋の若草は、伊之助を咀いまして、庭の松の樹へ小刀を打ち付けるという処まで弁じましたが、この小刀には金重と銘が打ってございまする。これは若草の親の作で、女の身嗜みだと云って、小刀には余程大きい、合口には些っと小さいが作物でございます。是を形見として娘お富へ呉れましたのを打ち付けたので、先達も福地先生から承わりましたが、大宝令とか申しまして、文武天皇さま時分に法則も立ちまして、切物は仮令鋏でも小刀でも刀でも、我銘を打つ事に致せという処の法令で、是だけは、只今漸々世の中が開けまして、外国の法に成りましたけれども今に残り居りまするのは、鋏でも、ちょっと十銭ぐらいの小刀のようなものでも銘が打ってございます、二千年も昔から幾世将軍の代る度に法則は変りましたが、こればかり今に残り居るというのは誠に妙なことでございます。此の若草が松ヶ枝に金重の銘のある小刀を打付け、精神を凝して呪いましたが、丁度廿一日目の満願の日に当って、伊之助の足の左の親指が痛み始めてまいりましたが、酷く痛み出し、堪え兼ます程でございます。親父も一人息子の事だから心配致し彼方此方から名医を頼んで来て見せましたが、其の頃はまだ医術も開けません時分ゆえ頓と分りません、是も敢て若草が松の木へ小刀を打ち附け、伊之助の足を呪ったためでもございますまいが、或お方は理が有ると仰しゃいました、樹と云うものは逆さまに立って居るもので、根の方が頭で、梢の方が足だと云いましたが、そうかも知れません、根の方で水気を吸い揚げ、漸々手足へ登るように枝葉の繁りまするので、人間も口で物を喰い、胃でこなし、滋養分は血液に化して手足へ循環致すと同じことで、相という字は木篇に目の字を書きますが、坐相寝相などゝいいまして、相の字は木へ目を附けた心だといいますが、御婦人の寝相が能くなくってはいけません、男の坐相の宜いのは立派なもので、お立派な方が坐ると、ウンと両膝を開き、下腹を突き出し、腰を据えていらっしゃりますから、山が揺り出して来たようで、押ても突いても動かんように見えまするは誠にお立派なもので、私どものように膝を重ねて坐り、ヒョイと触っても仰向にひッくりかえるような危い形は余り好く有りません、又御婦人の寝相は至って大切なもので、お嫁に入らしッてもお寝相が悪いために追い出される事が有りますから、夏向なぞは寝相を能くしないといけません。悪くするとお母さんからお前枕を頭へ結い付けて置きな、足を結ってお寝なぞとお小言が出ますが、これは誠に感心致しませんもので、伊之助は何ういう訳だか左の足が痛み出しましたが、これは若草が松の枝へ小刀を打ち付けたのが感じましたものか、また、然ういう病が発する時節になったのかも知れませんが、一通りならん痛みでございますゆえ、名医が来て段々これを診ると、脱疽という病で、其の頃脱疽の療治などは長崎へ往かなければ見ることは出来んそうで。
医「先ず是はどうも極難症で、脱疽に相違ない、至極の難症にして多く鬼籍に入るを免れずと医書に有る、鬼籍というのは過去帳のことで、仏さまの過去帳につくを免れずと云うのは死ぬより他に仕方は無いが、最初の内に早く切断法を施せば全治を万一に見ることが出来よう」
と、種々むずかしい講釈が有りましたれども、切るのは否だから、神信心を致したり伺を立てたり、種々な事を致しますと、何処で伺を立てゝも御鬮判断をして貰っても死霊と生霊との祟りだと云われて見れば、神経だから家中が心配致し、事によったら吉原の花魁が怨んでは居ないか、遊女というものは能く人を祈るなどというから、祈ったのではないかと大番頭の安兵衞、伊兵衞始め一同心配して居りまする事が、チラリと耳に這入りましたから主人も気にし始めると、トロリとすると夢に見る。また伊兵衞という番頭は若草の叔母を突出したので、一層心の中で怖って居りますると、二階から毛が落ちて来たから手に取上げて見ると、ねば〳〵と血が附いて居たなどというは、女中が室から下へ落したのかも知れませんが、然うなると、する事為す事怪しいことばかりでございます、翌年の二月になっても何うしても伊之助の足は切らんければならんと云うので、御名医が恐ろしく能く切れる刃物を持って参り、御親類立合でなければならんと云うのですが、当今なぞは切るのは造作もございません。順天堂の佐藤進先生は切るのは御名人でいらっしゃいます、先達て私がお宅へ上りました時に、鼻を高くして貰いたいと云うお方が来ましたから、無理なことを仰しゃると思って見て居りますと、高く成ったから不思議で、何うなさるかと思うと、額の肉を殺いで鼻へ附けて、段々高くしたんですが、飴細工みたようで、少し腫物が痛いと云うと、フと斬って、イヤ癒ったろうと云うのですが、自由自在な事でございます。なれども昔は開けませんから苦しんで居りまする、今親類立合と云うので、仕方がないからお父さんも出て来るようなことに成りまして、皆心配して居りますると、吉原の櫻川正孝という幇間は親切な男ゆえ、菓子折を持って、其の頃のことだから小舟で見舞に堀切の別荘へ来ましたが、幇間なぞというと、極堅気の宅では嫌う者ゆえ、正孝は来は来たが、昇って宜いか悪いか知れませんから、窃っと覗いて見ると、頑固な番頭の伊兵衞さんが上り口の次の間に坐って居りますから、こわ〴〵に門の中へ這入り、
正「へえ御免、御免下さいまし」
伊兵衞「ハイおいでなさい」
正「えゝ本郷の春木町の、えゝ紀伊國屋の伊之助さまの、えゝ御別荘は慥か、えゝ、此方でございますか」
伊兵衞「へえ紀伊國屋の別荘は此方でございますが、あなたは何方から入らっしゃいました」
正「へえ私は、へ……廓の幇間でございまして、櫻川正孝と申しまするもので、若旦那様には種々御贔屓を戴きましたから、疾うにお見舞に上りませんければなりませんのでございますが、斯ういう身の上でございますから遠慮致しまして、是まで伺いませんでしたが、大分お悪い御様子だと承りましたから、一寸御病間で、お顔だけでも拝見して帰りたいと存じまして参りました、これは誠に詰らないものではございますが、旦那様はお嗜で入らっしゃいますから、少々ばかりですが、ホンのお見舞のしるしまでに」
伊兵衞「ハア左様ですか、これは何うも、お名前は何んと仰しゃいますえ」
正「廓の幇間で櫻川正孝と申します」
伊兵衞「少々お待ち下さい」
と伊兵衞が折を持って病間へ参りまする。嫁のお雪が十畳の広間を往ったり来たりして不動さまへお百度をあげて居りますると、其の内だけ伊之助はトロ〳〵寝られますから、寂として居る処へ伊兵衞が参り、
伊兵衞「若旦那様おやすみでございますか、若旦那さま、若旦那さま」
伊「あい〳〵、あゝ今少し寝付いた処だのに、大な声をして起しちゃア厭だよ」
伊兵衞「何だか吉原から法印さまが入らっしゃいまして、御祈祷をして上げたいと仰しゃいます」
伊「法印さまなぞを呼んじゃア厭だよ、枕元でガチャ〳〵お加持をするので、尚お逆せ上って痛くっていけねえから止してくんな」
伊兵衞「何だかお見舞の印にお供物を少々計りだが、有難いのだから差上げると申しました」
伊「吉原から法印さまの来るってえのは変だの、坊さんかえ、総髪かえ」
伊兵衞「いえ、それがどんずり奴なので」
伊「何んと云うお名だえ」
伊兵衞「正孝院さまとか云いました」
伊「ハヽア分った、お前は世の中のことを知らない人間だの、それは吉原の幇間の正孝が来たのじゃアねえかえ、幇間の事は幇間というぜ」
伊兵衞「ヘイ左様でございますか、一寸往って聞いて見ましょう」
と云いながら出て参り、
伊兵衞「へえ只今ツイお名前を伺いそくないましたが、あなたは法印さまでいらっしゃいますか」
正「へえ〳〵これは何うも恐れ入りやしたネ、法印さまと間違えられたのは始めてゞ、尤も法螺を吹くから法印の形は少し有りますが、私は櫻川正孝と申しまする幇間でございます」
伊兵衞「へえ道理で、そんな事を仰しゃいました、まアお上りなさいまし」
正「御免下さいまし」
伊兵衞「さア此方へ」
と案内して廊下伝いに病間へ連れて参りまして、
伊兵衞「申し若旦那、正孝院という御方が入らっしゃいました」
伊「此方へお這入り〳〵」
正「これは何うも大変にお悪いんでげすナ、其の後は誠に御無沙汰を致しました、一寸お見舞に上りたいと存じながら、斯ういう身の上でございますもんですから遠慮をするだけ御無沙汰になりましたが、今日はお顔だけ拝見して、御病気の御様子を伺う心底で出ました」
伊「正孝能く来てくれた、幇間も多い中で来てくれたのはお前ばかりだ、己も足を切ると云う訳だが、皆道楽をして親に苦労させた罰だと思っているがネ、能く来てくれた、緩り遊んで往きねえ」
正「御足を切るというのは強気といけませんから、切らずに御全快になるような事をお話し申したいんですが」
と傍に人の居るを憚る様子を眼で知らせました。
伊「伊兵衞や彼方へ往ってお茶でも入れて菓子の好いのを貰ったのがあるから、あの甘味で茶の佳いのを持って来てくんな、用が有れば呼ぶから……ピッタリ襖を閉めて行っておくれ……師匠、もっと傍へ寄りな」
と云われ、正孝は前へ摺寄り、伊之助の足の腫上りし様子を見て、
正「これはどうも大変な色に御脚が腫れましたね」
と云いながら四辺を見まわし、小声になりまして、
正「時に若旦那お話を致しますが是れは御脚を切るにゃア及びませんぜ、若旦那、あなたは松葉屋の花魁がおなくなりに成ったことを御存じないのでしょう」
伊「えゝ……若草が死んだかえ」
正「ホラ〳〵御存じない、それだから知らないことぐらい仕様のないものは無い、知らずに居ればボヤ〳〵もえ出しますからね、何ういう行間違いか知りませんが、花魁はあなたのお胤を宿してゝも、あなたが此方へ御窮命になりましたから、日文矢文を送りたくっても、そうもなりません処から、花魁がくよ〳〵思い詰め、お塩梅が悪くなりました、てもなく恋煩いで、あなたの処へ人をよこしたくっても無闇のものを出されないから、堅気の田舎ものが宜かろうと云うので、下総の矢切村にいる花魁の叔母さんを寄越しました、堅い叔母さんですが、全体若浪さんの思い付が悪いんで、その田舎の叔母さんを此方へよこしたのが間違いの種で、叔母さんが談を付けにまいると、此方の奉公人が出て、強談に来たとか云って、御門の外へ投り出したので、顔を摺剥き、叔母さんが大変に怒って花魁に焚き付けたのが始まりで、する事なす事がみんなへまに成るもので、私が花魁の病気見舞に往く積りで出掛けると、途中で表徳に出ッくわし何んでも一緒に連れて往って呉れろというから、荷にして山谷の御寮へ往くと、其奴が詰らない出語をしやアがって、伊之助さんはお内儀さんを持って、赤さんまで出来たなぞと喋ったもんですから、花魁が貴方を怨み出し、夫婦仲好く楽しんで居るから、それで手紙も寄越さないのだな、余りな不実な人だ、口惜いと口へ出しちゃア云わないが、腹の中で火の燃える様に思ってる中に、この二月臨月の時なぞは、一通りならねえ口惜がりようで、矢切村の叔母さんが花魁の枕元に坐って居て、紀伊國屋の伊之助のお蔭で斯んなになったのだから、死んだら屹度取殺せよ、己も祈り殺すぞよというと、花魁はそれでなくっても貴方を取殺そうと思ってる処へ、叔母さんにけしかけられたもんですから、むっくりと病褥の上へ起き直り、利かない身体で膝へ手を突いて、此方を睨んだときの顔つきというものは、若浪さんが然ういいましたが、恐ろしい顔をしましたってネ、叔母さん永い眼で視ておいでなさい、屹度私は伊之助さんを取殺すよというと、叔母さんが取殺せよ、取殺すよ、取殺せよと掛合にいうのだから恐ろしいじゃアありませんか、其の儘にお前さん花魁が引附けかゝる時にオギャアと産れたのは貴方のお胤で、可愛らしい男の児だったと云いますが苦しみの中で産れた赤子だから育つわけはありません、二声ばかり泣くとそれっ切り息が絶えたので、花魁はそれを見ると直に血が上っておめでたく成っちまったんですが、その死んだ花魁に死んだ赤子さんを抱かせて、早桶へ入れる時には、実に目も当てられない始末で、叔母さんが紀伊國屋を絶やさないで置くものかと云って、船で其の早桶を持って田舎へ帰ったといいますが、それからというものは気味が悪いので、あの美い花魁のお座敷が明いてゝも誰もいやがって這入らないと云うは、花魁が床の間の処にチャンと坐ってるんで、私も此の間座敷を勤めて遅く廊下を通ると、こんな大きな顔が出たから、驚いて尻餅を搗きながら、能く見たら台屋が大台を持って帰って往くのをお化と間違えたのですが、一切そういうものが見えるようなわけで、余程怖いんですが、そういう訳ですから、私の考えますには、貴方足などを切るより、何でも其の田舎の叔母さんの機嫌をスッカリ取っちまって、重々済みません、どうか堪忍しておくんなさいって、叔母さんを此方へ抱き込み、親類に成っちまって、お前の云うことは何んでも聞く、頬辺でも甜めさせるから堪忍してくれろと縋り附いて、機嫌を取って、花魁の御法事御供養をなさい、お金はかゝりますが、仕様が有りません、藤沢寺の遊行上人か祐天和尚でも弘法大師でも有難い坊さんを大勢頼んで来て、大法事か何かして、花魁が成仏得脱さえすれば、貴方の御病気は癒るんですぜ、この事を早くお知らせ申すのは知ってますが、鈍剃奴がピョコ〳〵参るのも何んとか思われるだろうと御遠慮をして居るくらい苦しいことは有りません」
伊「そうかえ、実に有難う、然う云えば師匠夢ともなく現ともなく、この月始まりから若草が私の傍へ来て、黙って夜中に坐ってるが、その時は私の足が痛い事は酷いよ」
正「これは御免を蒙ります、話しを聞くとぞッとします、早く帰りましょう、船で来ましたから」
伊「まア宜いじゃアないか、日が暮れたからお飯でも喰べて往きねえな」
正「まア御免を蒙りましょう、本当に驚きましたナ、叔母さんが掛合に来たときに、突倒ばして帰すような、頑固なものを飼って置くから、貴方の御病気を引出したんで、貴方にも似合わねえ、其様な奉公人を置いてはいけませんよ」
伊「その番頭は今取次に出た伊兵衞というものだ」
正「道理で私を法印と間違えました、これは突飛しましょう、彼の様子では、あんな奴をなぜ飼って置くのです、早く追い出しておしまいなさいまし」
など云ってるところへ伊兵衞が出て参りましたから、正孝は驚きながら、
正「これは入らっしゃいまし」
伊兵衞「誠に遠方の処態々お訪ね下され御真実なことで、私は伊兵衞と申しますものでございますが、只今お次で残らず御様子を伺いました」
正「これはどうも大変私は直にお暇をいたしましょう……ナニそれはソノ何んで、本町の伊兵衞さんと同じ名が不思議ですな」
と間が悪いからごまかしてピョコ〳〵帰りましたが、伊兵衞も怖いから大番頭の安兵衞とも相談して、早く花魁の御法事御供養をしようと云うので、これから伊兵衞安兵衞の二人は、下総の下矢切村の若草の叔母の家を尋ねてまいりまして、此処だと思い、と見ると生垣が有りまして、這入口に大きな榎が有り、土間も小広うございます。安兵衞が生垣の外から怖々覗いて見ると、金重の弟子の恭太郎という馬鹿な奴が上り端に腰を掛けて、足をブラ〳〵やって遊んで居りまする。奥に叔母のおしのが居ります。
安「伊兵衞どん、お前少し其処に待っておいで、お前が不調法をしたんだから、私が中へ這入って、一通り詫ごとを云ってからお前を連れて往くから」
と云い捨てゝ中へ這入り、
安「御免下さいまし〳〵」
恭「何だえ」
安「えゝ若草さんという花魁の叔母さんのお宅は当方ですか」
恭「おいらの叔母さんは彼処に居るよ」
安「イエ松葉屋の若草花魁の叔母さんのお宅は当方ですか」
恭「おいらの叔母さんは彼処に居るってえに」
しの「恭太郎や何んだよ」
恭「何んだか知らねえが、おいらの叔母さんだとよ」
しの「どなたか知りませんが、馬鹿野郎で取次一つ出来ねえもんでがすが、何か御用が有らば此方へ這入っておくんなせえましよ」
安「左様なら御免なさい」
と怖々安兵衞が上り端へ手を突いて見ますと、叔母さんは夜な〳〵祈ると見えまして、祈り労れたか小鼻も落ち、眼も窪み、頬肉も殺いで取ったように落ちてしまい、胡麻塩まじりの髪が領のところへ纒い附きまして、痩せた手を膝へ突き、息遣いが悪く、ハッ〳〵と云いながら、
しの「さア此方へお上んなさいまし私は少し塩梅が悪くってネ、其処まで立って往くも苦艱でござえますから、何うかあんた此方へ這入っておくんなせえましよ」
安「ヘイ〳〵」
と中へ這入り、丁寧に辞儀して、
安「あなたが松葉屋の花魁若草さんの叔母さんで入らっしゃいますか」
しの「はい私が若草の叔母でごぜえますが、あんたは何処から」
安「ヘイ手前は本郷春木町の紀伊國屋宗十郎の手代安兵衞と申します、主人の忰伊之助の事に就いて、今日わざ〳〵御当家様へ出ましたわけで」
というより叔母は気色を変え、
しの「何だと、本郷春木町の紀伊國屋の番頭が己ア宅へ何しに来た」
安「これまでとんと花魁のおかくれになりました事を存じません、と申すは、若主人伊之助が放蕩致しました事について、堅気な家でございますから奉公人の示しにもなりませんし、本家や親類の前へ対しても捨置かれんと申して、堅い気象の主人でございますから、忰を堀切の別荘へ押込めて、窮命させて置きましたので、花魁の方へ手紙一本上げる事も出来ないわけで、すると昨年の十一月から伊之助が業病に取附かれまして、その足へ腫物が出来まして、どうも痛んで堪えられないばかりでなく、放棄って置くと漸々腹の中まで腐れ込むと医者が申しますで、種々と加持祈祷も致しましたが、どうも思うように全快致しませんから、愈々不具になるまでの事と諦めまして明日は切る、明後日は切ると医者の方はいい延べて置きました」
安「昨日吉原町の幇間がまいりまして、だん〴〵の話の末全く花魁の念で然ういうことになったのだから、足を切るには及ばない、叔母さんに詫ことをして、花魁の御法事御供養をして上げたら宜かろうと、真実に教えてくれましたゆえ、伊之助も其の時始めて花魁のおかくれになったことを聞いたので驚きました、私は些とも存じませんわけで、花魁は御懐妊になっておいでなすったという事でしたが、私が存じて居れば何うにでも成りましたものを、そんなことは心得ませんで、堀切の別荘を預かって居ります伊兵衞と申すものが、叔母さんのおいでの時に何か不調法を致しましたそうですから、さぞ〴〵御立腹でございましょうが、一図に伊之助を守って居りまして、他の者がまいっても若主人へは逢わせんようと、大主人から云いつけてございますので、訳の解らん人間ゆえ、一図に主人大事と思い詰めましたところから、叔母さんに怪しからん御無礼なことを致しましたという事ですが、どうか一つ御立腹でもございましょうが、幾重にも私がなり代りましてお詫をいたします、あなたのお心持も解け、花魁の御法事御供養をいたしますれば、伊之助の病気も癒りますわけゆえ、実は伊之助が参るべきですが、何分駕籠でもまいられんくらい、それがため私が出ましたが、何うか御勘弁をねがいたいもんで、私がなり代ってお詫を申し上げますから」
しの「なにお詫をするって、今になって魂消てそんなことをいって来てもだめだよ、若草は勤めの中でも他のお客へ出て肌を触らねえ、汝エ家の伊之助を亭主と思って、夫婦約束の書付まで取替わせた仲だから、伊之助が押込められたてえことを聞いて、ハア気の毒なことだと思って心配ぶってだん〴〵塩梅が悪くなり、殊に勤めの中で赤子まで出来して居るだから、己も可愛相だと思って掛合に往けば、ムシャクリ出しやアがッて、己の身体へ傷までつけて帰すような事をしたアだもの、若草だっても此の怨みを霽さずに置くものか、若し此の儘に死ねば三日経たねえうちに伊之助を取殺すと云って死んだから、伊之助は足ぐれえ腐れましょうよ、足どころじゃアねえ今に頭迄腐れますべえよ、気味ア宜いだよ、おれも今に見ろ、伊之助の宅へ草を生やさずには置かねえと思ってるくれえだから、若草の念いでも其のくれえのことは有りましょうよ、今更死んだ者の心の解けようも機嫌の直りようもねえから、とやかく云わずに早く帰れ」
安「どうも重々御尤もでございますが、何うか其処を一つ幾重にもお詫をいたしまして、叔母さんのお身の上がお便りのないお方ならば、伊之助の方から何の様にもお手当を致します、引取られるのが否と仰しゃるのならば、田舎でいらっしゃッても、月々のものでも差上げて、叔母さんを伊之助のお母さん同様に御孝行をつくしたいと申しまして、へえ」
しの「駄目だよ、伊之助から何を貰ったって快く口へ這入るかえ、今になって兎や角そんなことを云って来やアがっても駄目だ、サッサと帰れ、今に取り殺して遣るから、其の時になって魂消るな、兎や角云えば汝も只は置かねえぞ、早く帰らねえと此の薪割を叩き附けるぞ」
安「いえ何うぞ御勘弁を願います……困りましたナ、御立腹は御尤でございますが、私も子供の使じゃアなし、主人の代りにまいりましても、御立腹が解けませんで、へえ然うでございますかと云って此の儘は帰られませんから、切めて花魁のお墓参りでもいたし、お花でも手向けて帰りませんでは、私の参りましたかどが立ちませんから、御立腹でもございましょうが、花魁のお寺さまだけ教えて下さるわけにはまいりませんか」
しの「伊之助の手から線香一本手向けて貰っても、若草は嬉しくは受けめえが、お前は何にも知らねえで使に来たんだから、汝がには気の毒だから、寺の名前だけ教えてくれる、中矢切の法泉寺といいやす」
安「ヘイ〳〵有難うございます」
と慄えながら外へ出て参りまして、伊兵衞に向い、
安「おい伊兵衞どん、お前が往かなくって本当に宜かった」
伊兵衞「どんな様子でした」
安「実に驚いた、アー怖い、田舎気質の叔母さんが思い詰めて祈ってるに違いない、実に怖い顔だったよ、不思議だネ、何うも何処で見ても死霊と生霊の祟りだという処は中ってるじゃアねえか、私を突出しやアがッてって恐ろしく怒って、私に薪割を打付けるといったが、お前が這入れば大変だった」
と話しながら往く後から、だしぬけに、
侍「ヤイ、これヤイ」
伊兵衞「ヘイ、真平御免下さいまし」
侍「不埓至極の奴だ、何と心得る、エー江戸市中とは違うぞ、かゝる田舎の反圃中で侍に突当る奴が有るかえ」
伊兵衞「へえ、うッかり此方を向いて話をして居りましたものですからツイ……何うも誠に相済みません、何うぞ御勘弁を願います」
侍「勘弁相成らん、侍たるものへ突当って」
安「旦那さま御立腹でございましょうが、私の連でございます、二人で怖い話をして、此方を向いて参りましたゆえ、つい旦那さまに突当りましたか知りませんが、何うか御勘弁を願います」
侍「イヤ勘弁罷りならん」
と云いながら二人の胸倉を取り、
侍「サア両人とも己と一緒に矢切山へ往け、斯う押えたら雷が鳴っても放さん、暫く人を斬らんが、丁度幸い新刀が手に入ったから試して遣るから、己と一緒に矢切山へ往け、両人ともに首を打落してやる」
と云われ、二人はワナ〳〵慄えて居りますと、此の時矢切の渡場へ舟を繋けて上りましたのは荷足の仙太でございます。人のうわさには金森家の浪人が八州のお捕方を斬払って、矢切山へ隠れたという噂を聞いて、刀の詮議の手掛りにもなろうかと、仙太郎が重三郎と舁夫の安吉とを船に載せて、矢切の渡口へ船を繋いで、三人上へ上り、
仙「何だえあれは、喧嘩かえ、お百姓さん何だえ」
村の百姓「何だか知んねえが、侍が町人を打っ斬るてえだよ、あの二人は成田参りかも知んねえが、通りがかりに侍へ往き当ったとかいうので、侍が腹ア立って、侍に往き当たるてえことはねえ、両人とも打っ斬るから矢切山へ歩べッてえんだが、可愛相でがんすネ」
仙「乱暴な奴だな、あの侍は何だえ若衆」
甲「あれは国分村の萩原束という浪人もので、方々の人を打っ斬る〳〵ッてえやアがッて嚇かしたり、何処の料理屋へ往っても、銭なしで酒をクン呑んじまッてから、国分の束を知らねえかと威張るおっかねえ人だよ」
仙「然うかえ、安ヤイ、あの侍は顔ア出してやアがるが、あんな奴では有るめえ」
安「エー、まるで変って居やす」
仙「新身の刀を試すといって居やアがるから、ヒョッとして彼様な奴が持って居めえもんでもねえから、己が一番あの侍のところへ飛び込み、殴り付けて、あの刀をふんだくるから、重さん逃げてはいけねえよ、日外の怪しい侍の手下かも知れねえ」
重「親方まるで違いますからお止しなさい、怪我でもなさるといけませんぜ」
仙「ナニ大丈夫だ、エ御免ねえ、ヤイ侍、大概にしろ、殴るぞ、ヤイ」
侍「何だ手前は」
仙「己は通りがゝりのものだが、弱い町人を掴めえて嚇しやアがッて、長えのを振り廻わし、斬るの殴るのッて、ヤイ此の侍、殴り付けるぞ」
侍「イヤこれは何うも怪しからん奴だ、侍たるものに向って無礼を働くと、この両人と共に手前も手討にいたすぞ」
仙「ナニ生意気な事をいうと殴り付けるぞ」
侍「オヤ此奴無礼至極免し難い」
仙「免し難ければサア己を斬れ、其の新身の刀を引ッこ抜け、侍」
侍「斬らんでウヌ、両人は免して遣るから往け」
と突放されて、安兵衞も伊兵衞も悦びまして、栗林の間へ逃げ込みましたが、吉原土手で仙太郎に逢った侍は心有るものゆえ、振ッ払って逃げましたが、国分の束は心がないから、いきなり引ッこ抜くが早いか、仙太郎は少しく起倒流を習って居りますから、飛び込んで侍の足柄を撈って投り出すと、バタリと仰向けに倒れる上へ乗しかゝりましたので、萩原束は組み敷かれ、苦しそうな声で、
束「御免を蒙る」
仙「黙れ、ウンー」
束「これは痛い、御免……アヽ痛い、参った」
仙「こんなものを振り廻わしやアがッて、重さん逃げちゃアいけねえ、何処へ往ったんだ、安ヤイ」
安「オーイ」
仙「あんな処に居やアがる」
といううち、安吉も出て参り、
「親方しッかりなせえ、わッちが居るから大丈夫だ」
仙「重さん物は試しだ、これを見ねえ」
と束の刀を投り出すを受取り見て、
重「これは蹈めません、鈍刀で、稍く一両二分ぐらいなものでございます」
仙「こんなものを差しやアがッて、斬るの殴るのッておどしやアがッて畜生め、此の村には己の親類があるから、向後暴すときかねえぞ、てめえの面を見覚えのために印を附けて置こう、刺青をして置いて遣るから然う思え、重さん、矢立を差してるなら此処へ出しねえ………斯う十文字にして、汝の根性は曲ってるからまた……斯う三角なものを刺って置いて遣る」
束「これは御免を蒙る、御丁寧な御挨拶で」
仙「これで宜いからサッサと往け」
と突放されて、侍はホウ〳〵の体で逃げて往く。これから仙太郎は重三郎を連れて矢切山へ乗込み、刀の詮議をいたすという、一寸一息致しましょう。
偖も稻垣小左衞門は、家来の丈助と共に葛飾の真間の根本へ参りまして、荒物渡世をいたして居りまする内に、其の年も相果て、翌年の二月になりますると、真間の藤梅も散り、桃や桜がそろ〳〵咲き初めましたが、小左衞門はとんと外出を致しませんで、奥にばかり引籠り、うつ〳〵致して居りまするので、家来の丈助も心配でございますから、
丈「もし旦那さま〳〵」
小「あい」
丈「あなたはお野掛けがお嗜でいらっしゃいましたが、此の程はさっぱり野歩きもなさいませず、河岸端へもいらっしゃいませんが、些と御保養を遊ばしては如何でございます、あなたのお案じも私は能く存じて居りまするが、さっぱり若旦那さまの方からお音信がございません、昨年から引続き満一年の余になりまするのに、お手紙一つまいりませんから、お案じは御尤と存じますけれども、屹度若旦那さまからの御書面は芝のお上屋敷へ届いて居るに違いありますまい、大旦那様はまだお屋敷に居らっしゃると思っていらっしゃるに違いありませんから、渡邊さまの処に御書面が滞って居ましょうと考えますが、私もお上屋敷へは参られませんけれども、買出しかた〴〵江戸へ参り、お出入の八百屋にでも頼んで、渡邊さまへ御手紙が届いて居りましたらば戴いてまいりましょうと思いますが、あなた余りくよ〳〵と若旦那様の事をお案じ遊ばして、御病気にでもお成りなさいますと、実に私は心配でございますから、何うか貴方些と御保養遊ばしてお気の散じますようになすって、お身体を養って下さいますのが何よりでございます、今日是からお野掛けは如何で、私がお供を致しますから」
小「あい〳〵、丈助誠に忝けない、旧来居った家来共も皆暇を取って別れ〳〵になれば、私が此処に居ることを知って居るものも有ろうけれども、一人も訪ねてくれる者も無いに引替え、手前は新参でありながら、主従苦楽を共にして、斯様な処に来て、商いの買出しから、殊に男の手で濯ぎ洗濯までもしてくれるので有難い、手前がいなければ小左衞門は実に困るのだ、誠に忝けない、家来とは思わない、今予は家来に助けられて居るが、時来って失った國綱のお刀がお屋敷へ返るような事になれば、手前には何の様にも此の恩返しをせんければならんノウ」
丈「アヽ旦那さま、勿体ないことを仰しゃいます、何う致しまして、私は旦那さまの御高恩を戴いて居りまするから、身体で出来まする事なれば、何の様な事でも致しまして、旦那さまお一人だけの事は御苦労を掛けません心得で居りまするが、若旦那さまは御気象が御気象でいらっしゃいますから、お煩いは有るまいとは思いますが、何分お案じ申し上げますゆえ、旦那さまは猶更御心配でいらっしゃいましょうと存じます」
小「あい、忰も慣れぬ旅をしたのだが、あの気象だから山に掛るとも峠を越そうとも、何の様な者が出ても、是まで丹誠して置いたゆえ、武芸は一通り心得居れば、五人や八人狼藉者が討って掛っても驚くような腕前ではないが、忰の留守中に追放を仰せ付けられたから、斯様な片田舎住居をして居る事を、忰も知らずに居るかと思うと、こゝが親子の情で、雨に付け風に付け案じられて、今頃は何処に居るか、こう云う雪の降る時には何処の宿屋で冬籠をして居ることか、それとも難所を越えて雪中に病でも求めなければ宜いがと存じて心配するが、お前にまで心配させてはならんから、今日は気を変えてブラ〳〵と八幡の八幡宮へでも参詣致そうか」
丈「へい、それが宜しゅうございましょう、左様なれば彼のお蒔絵のお瓢箪へ、宜いお酒が参りましたが、高くって売りにくうございますから、あのお酒を入れて参りましょう、多量は召上りませんが、私はお下物拵らえをいたしましょう」
小「それじゃア兎も角野掛けの支度をしておくれ」
丈「へえ畏りました」
とこれから丈助が種々の物を拵えまして、小左衞門は野掛装束になり、丈助を連れて八幡の八幡宮へ参詣をして、ブラ〳〵市川新田を帰り路になりましたが、菜の花が盛りでございます、彼の市川新田の出外れの処に弘法寺と深彫のある一の石塚が建っており、あれから右へ曲ると真間の道で、左右が入江になっており、江には片葉の芦が生えて居りまするが、あれは何処にも生えて有りまする。其処に真間の継橋という名高い橋がありますが、立派かと思うと、板と板と両方から継合せたから継橋というのだそうで、何にも面白く有りません。東の方は手児名の社、その後は瓶の井より水が流れ、これより石坂を登ると、弘法寺の堂の前に二葉の紅葉、秋の頃は誠に景色の好い処でございます。小左衞門は丈助を連れて入江に付いて一筋道をやって来ると、今船から上ったというような姿で、人足が法被を腰に巻き附け、小太い竹の息杖を突き、胴中を細引で縛った長持を二人で担ぎ、文身といっても能い文りではございません、紺の木綿糸を噛んで吐き附けた様な筋彫で、後からギシ〴〵やって参りまするから、細路ゆえ二人が避ける、人足がよろけるとたんに丈助の持って居た蒔絵のしてある瓢へ、長持の棒ばなが当りましたから堪りません、瓢は砕けて酒がこぼれる。すると丈助は屋敷に居りました見識が商人になっても失せませんから横柄に、
丈「ヤイ人足待て、怪しからん奴だ、旦那さまに相済まん、一番結構なお瓢箪へ長持を打っ付けやアがッて、毀しちまって、不埓至極の奴だ、気を付けて歩け」
人足「ナニー、安ヤイ下せ、生意気なことを云うな、汝ッちは酒を喰ってヒョロ〳〵蹌けて歩くから悪いんだ、其の瓢箪が百両百貫するもんか知らねえが、手前が打っ付けて置きゃアがッて何を云やアがる」
と云いながら打ち掛る。
小「これは怪しからん、乱暴なことを申す、余程酷い奴だ、粗怱だから物を毀すも宜しいが、自分で不調法をして置きながら打ってかゝるという事が有るか、不埓な人足だ、以後たしなめ、此の度は免すからサッサと往け」
人足「ナニーこの老爺殴ってしまえ」
と原文に三嶋安という東海道喰い詰めの悪党ですからきゝません、いきなり息杖を押っ取り、左右からブーンと風をまいて打って掛る、
小「おのれ」
と云いさま後へ飛び退りながら細身の刀を引抜き、刀脊打に原文の肩をドンと打ちましたが、腕が冴えておりますから余程応えたと見えまして、アッと云って転りながら横道へバラ〴〵と逃げる。
安「この野郎」
と打ってかゝる処を、ひッ払って腕を打つ、打たれて三嶋安は斬られたと心得、キャッと云いさま同じく細道へ逃げ込んでしまうのを、追い掛けもせず跡を見送りながら、
小「悪い奴だからチト懲してやらんといかん」
丈「不埓至極の奴でございます」
小「それは御用の長持ではないか、会符でも立って居るか」
丈「酷い奴でございます、私は虫が知らせましたので、このお瓢箪は余り宜いから持って出まいと存じましたが、本当にいけない事をいたしました、継ぎ合すことは出来ますまいか」
小「粉に欠けたものが何うなるものか、捨てゝ置け〳〵」
丈「デモ勿体のうございますから……」
小「何故大地を甜める、汚ならしい、塵でも這入ってるといかないから止せ……御用の会符でも立って居るか見ろ」
と云いながら長持の傍へ寄ると、長持の中でヒーと女の泣声がいたしまする様子。
小「丈助」
丈「ヘイ」
小「長持の中で婦人の泣声がいたすようだが、あんな悪い奴らだから、事に寄ったら女でも勾引して担いで来たかも知れんぜ」
丈「なんとも云えません、ヘイ……この蔦の葉の処が、大きく欠けましたんですから、是だけ何うかしたら直りそうなもので」
小「瓢箪はもう大概にしろ、仕方がないワ、早く此の縄を解いて見ろ」
丈「へえ」
と是から丈助が縄を解き、蓋を明けて見ると、長持の中には一人の娘が縛られて、猿轡と申して口の中へ何か小さい片布を押込み、其の上を手拭にて堅く結り、島田髷はガックリと横に曲り、涙が伝わって襦袢の半襟が濡れて居りまする。着物は黄八丈の唐手の結構な小袖に、紫繻子に朱の紋縮緬の腹合せの帯でございますが、日暮方ゆえ暗くってはッきり様子は解りませんけれども、誠に上品な器量の宜しい娘でございまする。
小「私は通りがゝりのものだが何も心配せんでも宜しい、礼は後でも宜しい……ナニ勾引されたと……成程こういう娘を勾引すような奴だもの、人の物を毀して無闇に打ってかゝる処じゃアない……何しても娘子怪我が無くって宜かった、丈助長持は其処へ捨て放しにして置いて宜しい」
と是から娘を連れて宅へ帰り、行灯を点けて娘の様子を能く見ると、年齢十八九にもなりましょうか、品の好い、おんもりとした世にも稀な美人でございます。
小「いえもう其様にお礼を仰しゃらんでも宜しい、先ずマアお怪我がなくって宜った、御両親は嘸御心配をなすったでしょう……ナニ江戸から勾引されたとえ」
娘「はい、私は浅草田原町のものでございます」
小「うむ〳〵浅草の田原町で」
娘「この下総の矢切村に私の乳母が居りまするとのことゆえ、それを尋ねてまいりまする道で、帝釈さまの手前の土手のところに駕籠屋が居りまして、しきりに乗れ〳〵と勧めますので、供の老爺が申しまするには、足も疲れたろうし、まだ道も余程有るから乗ったが宜かろうと申しまするゆえ、私も彼のような悪い者とも存じませず、家来の老爺も並の駕籠屋と存じまして、うっかり乗りましたのでございますが、駕籠の方は早いものでございますから、供の老爺が幾ら駈けても追附かれんように舁夫が急ぎますので、私も駕籠の中で心配致して、供の老爺が来るまで少し待っておくれと申しましても、聞き入れませず急ぎまして、私を森の中へ担ぎ込み、予て企んだものと見えまして、森の中に長持がございまして、その蓋を取って私を高手小手に縛めて中へ入れられましたが、其の時は殺されることかと存じて居りますると、それから私を船へ乗せる様子は長持の中でも存じて居りましたが、実に現のような心持で参りましたのでございましたが、貴方さまのお助けで、思い掛けなく危い処を免れまして、誠に有難う存じまする」
小「それは〳〵、御家来が嘸案じて居られるでしょう、お前さんはお器量が宜いから悪い奴らが企んで、左様な事をしたのであろう、どうも誠にお前さんはお人柄で、御尊父様も嘸案じて居られましょうから、私が送り届けて上げるから宜しいが、御尊父は何御商法をなさる、何うも人柄の好い嬢さんだ」
娘「はい、親父は町道場を出して、剣術の指南を致しますものでございまする」
小「フン剣客先生かえ、道理でお人柄が好いと思いました、私も嗜の道だから随分懇意なものも有りますが、何流でござるか」
娘「はい、一刀流でございまする」
小「今流行だからね、一刀流の名高いお方には随分知る人も有りまするが、失礼ながら親御の尊名は何と仰しゃるな」
娘「はい石川藤左衞門と申しまする」
と云われて小左衞門は驚き、
小「エヽ石川藤左衞門……ウー左様ならお前は其の娘のみゑかえ」
みゑ「はい貴方は何うして私の名を御存じでいらっしゃいます」
小「是は何うも実に不思議だ、忰小三郎と許嫁の約束を致した嫁とも知らずに助けたが、石川のみゑかえ、これ丈助、石川のみゑじゃと……エヽモウ瓢箪はよいにして置け、予て話した忰の許嫁の娘であるぞ」
丈「それはお目出度い事でございました」
みゑ「はい、誠に思い掛けない事でお嬉しゅう存じます」
小「それは実に図らざる事であったが、まア〳〵宜かった、私は稻垣小左衞門だよ」
みゑ「あれまア伯父さま、貴方さまをお尋ね申して、芝のお屋敷へ参りました処が、御浪人なすったとの事で、方々お尋ね申しましたよ」
小「左様か、私も御尊父をお尋ね申したいと心には思って居たが、只上州烏川の辺に住むとのみ聞いて、確とした処を存ぜんことゆえ御無沙汰に相成ったが、私も不図した事でお暇には成ったものゝ、お前は少い時分から小三郎に許嫁をしたもの故、お父様が浪人しても、忰の方へお前を貰おうと、其の相談もしたいと思って居ったが、江戸においでの事は知らなかった……ナニ浅草の田原町へ町道場を出して……彼の、フン、あのくらいの腕前の人は当今余り無いテ、私も今では見らるゝ通り斯様な荒物渡世をして、何うやら斯うやら其の日を送る身の上と成りました、栄枯盛衰は浮世の習いとはいいながら、実に変り果てたるわけだて、御尊父は御壮健かえ、誠に壮健な方だが、相変らずお酒も飲るかえ……ナニ泣くか、何うした、其様に泣かんでも宜い、何うした、何か間違でも有ったか」
みゑ「はい、昨年十一月三日の暮れ方でございまする、王子の権現さまから帰り掛けに、お父さまは何者とも知れず、日暮ヶ岡にて鉄砲で撃殺されました」
小「エヽ……イヤそれは何うも……ウン遺恨だネ……ウン尋常に遣ったら中々五人や八人掛ったって討たれる様な石川氏ではないが、飛道具では何うも致し方が無い、併し卑怯至極な奴だ、何でも夫れは知って居る奴に遺恨を受けたものだね、併しお前は幼年の折にお母さまがおかくれに成ってしまい、親一人子一人の石川氏が然ういう事に成っては誰を力に致すか」
みゑ「はい伯父さまも御存じでございましょうが、旧く居りまする勇助と申す老爺が、たとえお父さまがおかくれに成っても、稻垣さまと許嫁のお約束になって居りまするから、お連れ申すと申しまして、芝のお屋敷へ参って伺いますと、伯父さまも旦那さまも御浪人なすったとの事ゆえ、何う致そうかと存じて泣き明して居りますると、勇助が気を取直してくれまして、そう心配しない方が宜しい、この矢切村にしのと申しまして私に乳をくれました婆が居りまするから、その乳母を便って参りまする道で災難に遇いましたが、思い掛けなく伯父さまにお目通りをいたしましたは、全く親父が草葉の蔭から守ってくれましたのでございましょう」
小「至極左様、大きにそうかも知れない、併し心配するな、私は殿様から預り中に、御家御伝来のお刀を紛失致し、それがために忰は少し心当りがあって美濃へまいった、尤も手掛りが無ければ、何時帰るか知れんと云って出たが、今に音信は無いけれども、遠からず帰国致そうが、そうすれば小三郎のためにも舅の仇たる悪者を尋ね探して、必ずお前の怨みも石川氏の怨みも晴させる、私の眼の黒い内は力になるから心配せずにおいで、丈助御馳走は兎も角、早々百姓を頼んでナ、これの家来の勇助がウロ〳〵探して居るだろうからな、早速近辺のものを頼んで、手分をして勇助の行方を探させろ」
というので方々探しましたが、一向知れません。五日の間頓と手掛りがございません。すると五日目の日暮方にお百姓が一人這入って参り、
百「御免なせえまし」
丈「イヤー清助さんおいでなさい」
百「此間鴻の台を見たいという話だからお寺へ頼んだ処が、何んだか浪人者が山へ匿ねたとか云うんで、八州さまが調べに来て八ヶましいので、知んねえものは入れねえだが、おらが納所へ頼んでネ、真間の根本にいるお侍さんで、商えをして居る、固え大丈夫の人が山を見てえと云うんだがと頼むと、そんだら連れて来うと斯ういうわけで己ハア先方へ頼んで置いたから、私イ案内して連れて往くべえと思って来たアだ」
丈「それは有難う存じます、今仕事をしまったのかえ」
百「只た今野辺仕事をしまって来たばかりだ」
丈「旦那さま、予てお頼みの清助さんが参りまして、総寧寺さまへ頼んで案内をして上げようと申して来ましたが、これから貴方いらっしゃいませんか」
小「それは何うも御親切な事で誠に有難う存じます、私も壮年の折に一度見たこともあったが、実に絶景の処で、何うかもう一度見たいと思っていたが、それは誠に有難い、丈助お前それじゃア留守を頼むよ」
丈「私は此の土地に生れながら灯台下暗しで鴻の台はとんと存じませんから、何うか御同道を願います」
小「左様か、それでは、みゑ、お前は留守居をして、若し買物買が来たら、今日は余儀ないことで他出致しました、御用向がございますならば明日願いますといって……宜いか」
と是から瓢箪に酒を入れ、残菜入に有合せのものを詰め、身支度をいたし、清助という百姓の案内で、少し遅くなりましたけれども真間の根本をなだれ上りに上って参ると、総寧寺の大門までは幅広の道で、左右は大松の並樹にして、枝を交えて薄暗きところを三町ばかりまいりますると、突当りが大門でございますが、只今はまるで様子が違いましたが、其の頃は黒塗の大格子の大門の欄間は箔置にて、安国山と筆太に彫りたる額が掛っておりまする、向って左の方に葷酒不許入山門とした戒壇石が建って居りまする。大門を這入ると、半丁ばかりは樹木は繁茂致して、昼さえ暗く、突当りに中門がございまするが、白塗りにて竜宮の様な妙な形の中門で、右の方はお台所から庫裏に繋っており、正面は本堂で、曹洞派の禅林で、安国山総寧寺と云っては名高い禅寺でございます。
百姓「玄堂さん〳〵、此間頼んで置いた根本の荒物屋の老爺さまを連れて来たから、玄堂さん案内して上げておくんなせえ」
玄「イヤ勝手に這入って往きなさい」
百「案内は出来ねえかえ」
玄「案内は出来ねえ」
百「わしらも時々枯枝を取りに来て道イ知ってるから、私が案内をしますべえ、サア参りましょう」
小「何うか願います」
と是からだん〳〵山手へ附いて参りまする。
小「若い時分に一度見たことは忘れんもんだ、これは太鼓塚……これは夜啼石とて里見在城の折に夜な〳〵泣いて吉凶を告げたという夜啼石だ、これは要害の空濠で、裏手の処は桜ヶ陣と申して、里見在城の折には搦手で在ったという、何うも実に好い景色の処だ」
と云いながらだん〴〵山手へ附いてまいりますると、鐘ヶ淵という処に出まする。
小「オヽ見覚えがある、これはその鐘ヶ淵といい、これは鐘掛の松と申して、里見在城の折にはこれへ陣鐘を吊して打鳴したという、其の時北條が攻め入って松を斬落したので、陣鐘が此の淵へ沈んでしまい、今に此処に其の陣鐘が沈没致して水中に存して居るそうで、黄門光圀卿が毛綱でこれを引揚げようとしたが揚らなかったという、鐘ヶ淵と唱える処だ、或は豊島刑部左衞門秀鏡の陣鐘にして、船橋の慈雲寺の鐘なりともいう」
丈「へい成程」
小「此処が大見堂という二代の上様が大いに見るという額を掛けられた処である、御府内一目に見ゆる処と仰しゃった故、摺火打で煙草を呑む事はやかましい場所じゃ」
丈「へえ、誠にお精しいことで、実に好い景色でございますナ、何だか鴻の鳥が巣を喰ったから鴻の台と申すとかいう事を聞きましたが、本当でございましょうか」
小「いや、是は国府の台で、千葉之介常胤舎弟國府五郎胤道の城跡であると申すを、此の国府の台を訛伝えて鴻の台と申すのだろうが、慥か永禄の七年甲子の正月七日八日の戦いは激しかったという、向う葛西領の敵手は北條氏綱氏康父子が陣を取り、此方は里見安房守義弘、太田新六郎康資、同苗美濃守資正入道三樂齋など頗る処のものが籠城をして居る、其の頃は鉄砲が流行らんから矢戦であったが、此方は遂に矢種が尽きたゆえ矢切村と申す、其の時に鴻の鳥が浅瀬を渡ったという、これは虚か実か分らんが、川幅は広いけれども鴻の渡るを見て北條の軍勢が浅瀬を渡って、桜ヶ陣より一時に取詰めた処から、かゝる名城も忽ちにして落城したというが、時節だのう、其の日は恰ど今日の如く夕暮で、入日の落るを見て北條が歌を詠じたと云う……えゝ何とか云った……オヽ……「敵は打つ心間なる鴻の台夕日詠めしかつ浦の里」と詠んだと申すて」
丈「へえ成程、お精しいことでいらっしゃいますな、誠に好い景色の処でございますな」
百「おらアはア時々木を切りに来るが、斯んなハア詰らねえ処を何だって江戸者は銭イ遣って見に来て、焚火イなどして酒エくん飲んで帰る人なんぞが有るけれど、考えると可笑しいだよ」
小「酒といえば瓢箪を持って来たろう、一杯めしあがれな」
百「私は酒大嗜で」
小「お嗜なら沢山めしあがれ」
百「お前さまが此方へ越してから荒物屋を始めたが、酒でも干物でも廉いんで大評判だよ、調法だってよ、仕入が皆江戸物を買って来るだから好いでや、此間の干魚なざア大層うまかったが、チト甘過るだ、己ア方では口のツン曲るようでなければ喰ったような心持イしねえんだ、あんたの処の酒は宜うがんすねえ……これはお酌有難うごぜえやす、へえ私は酒大嗜でごぜえやす」
小「沢山召上って下さい、丈助モット大きな物へ入れて来れば宜いに」
丈「貴方は沢山召上りませんし、それに三合入と申しますが、このお瓢箪は中々這入るもので、大丈夫四合は這入りましょう、清助さん、これを摘んでみなさいよ」
清「はい、これは何うも、何んだえ日光唐辛かえ」
丈「ナニ伽羅蕗で、まア上って御覧じろ」
清「……これは塩ッ辛くって宜うがんす、貴方の処に一節切という看板が掛ってるから買って見ようと思ってるのだが、あれは鮪のスキミだろうね」
小「ハヽアあれは一節切という笛の名でな、私は少しばかり指田流の笛を吹くから、ひょッとしてまた心有る人が習いに来ようかと思って看板を出して置くのサ」
清「イヤ笛なら駄目だ、村のもんに幾らも上手が有るよ、上の又七郎などが、鎌倉から小点から段々と大間へぶッ込んで往くとこなぞは実に魂消たもんだぜ」
小「私のは馬鹿囃の笛とは違うのでな」
丈「旦那様一曲お調べ遊ばしましては如何でございます」
小「何んぞ遣ろうかの、吾妻獅子のような長いものはいかんが、夕空の曲でも調べようかの」
丈「へい何うか願います」
小「今日は丁度霞立ってるから、水面を見ながら、向うは葛西領、此方は山風の一節切、これは文屋の康秀が吹いた笛で、先殿飛騨守さまへ笛を御教授申したところから拝領した品だが、私は何処へ往くにも首へ掛けて放さんが、昔鴻の台の城主里見安房守の吹いた笛は嵐山と申す、今此の方が此処で山風の笛を吹くというは誠に妙だナ、面白い、昔乘宗という一節切の名人が有って、谷に臨んで吹いたらば、猿が笛の音を聞きにまいったというが、殿さまへ御指南を致すとき水に向って吹くと誠に好い音色が致す、久々で忘れんために一曲調べましょうか」
と云いながら笛を取り出し構えましたが、小左衞門は松の根方へ足を掛け、歌口を沾して吹き出しましたが、その音色は尺八よりは一際静かで、殊に名人の吹くこと故に、心ないお百姓まで心耳を澄まして自ら頭を下げて聞くことになりますると、夕霞は深く立って、とんと景色は見えませんが、穏かな好い日でございます、新利根川の流に響いて何とも云われん能い心になり、興に入って頻りに夕空の曲を調べて居りますると、大見堂の後よりソッと出でたる侍は、黒い頭巾を目深に冠り、ドッシリした無紋の羽織着流しで、四分一拵えの大小を落し差しにいたし、つか〳〵と小左衞門の後へ忍び足でまいり、興に入って笛を吹いて居る稻垣小左衞門の腰のあたりをドンと出し抜に突くと、小左衞門は不意を打たれたから堪りません、逆トンボウを打って鐘ヶ淵へドブーンと陥りましたが、落ちながらも剣術の上手な人ゆえ油断が有りません、グルリと体を捻り、彼の侍の頭巾の上から髻をムッと捕えて放さぬゆえ、其の機みに頭巾の紐が切れましたが、切れなければ倶に引摺り込まれる処を、彼の侍は誠に運の好い奴でございまする。松の根方へ片手を掛けて身を引く途端に落ちて往く様子を見ると、小左衞門は左の手に一節切を持ち、右の手に頭巾を持ったなりモンドリを打って高嶺から市川の流へドブリと落入りましたから、丈助も百姓も恟りしてかたまってしまい、彼の侍の様子を見ることが出来ません。暫くして丈助が怖々ながら首を上げて様子を見ると、頭巾が取れたから顔はあり〳〵と見えます。年齢三十五六にして色白く、鼻筋通り、口元の締った眉毛の濃い、青髭の生えた大髻で、二十日も剃らない月代頭でございます。漸く起上って膝に付いた泥を払い、大小の抜けかゝったのを揺り上げ、松の根株へ片足を掛け、小左衞門が落入ったかと見おろしましたが、夕霞が深く立ってはッきり見分りませんから、彼の侍が鐘ヶ淵の水面を覗き込む、途端に安国山総寧寺の夕勤めの鐘の音が、微かにコーン〳〵と聞えました。この侍は何者か、一寸一息つきまして申し上げます。
彼の稻垣小左衞門を突落した侍は、金森兵部少輔の家来で、百六十石頂戴致しました大野惣兵衞と云うものでございますが、幼年の折から何うも心掛けが善くないため、遂にお屋敷をお暇になりました。斯く追放仰付けられたのも、稻垣小左衞門が殿さまへ申し上げたことがあるに依って、己がお暇になったと、飽までも稻垣を怨んで居りまする。これを遺恨に只今稻垣を鐘ヶ淵から突落しましたが、小左衞門の死骸が市川へ落入ったか落入らないか夕霞が深く立って、頓と分りませんから、膝に付いた泥を払いながら跡へ退ると、百姓が慄え上ってブル〳〵して居りまするを見て、
侍「これ、これ」
百「ハイ真平御免なせえ」
侍「其の方は先程からそれに居ったか」
百「ハイ先刻から此処に居りました、真平御免なせえまし、ハイ」
侍「イヤ何うもしやせん、少々遺恨有って斯く致したことであるが、必ず此の事を口外致すな」
百「ハイ口外致しません」
侍「コレ〳〵一寸と此処へ来い」
百「ハイ〳〵」
とブル〳〵慄えながらまいる。
侍「其の方は泳ぎを存じて居るか」
百「ハイ、ここ此の村で生立ちましたから、少けえ時分から新利根川へ這入っちゃア泳ぎましたから、泳ぎは知って居やす」
侍「左様か、もう少し傍へ来い、少し申し聞けることが有るから」
百「ヘイ」
と何心なく侍の傍へ寄るや否や、侍が腰を捻って抜き討ちに百姓の肋へ深く斬り込む。百姓はキャーと悲鳴を上げる間もなくドンと足下に掛けたから、百姓もモンドリを打ってドブンと落入りました様子を見て、懐から小菊を取出し、大刀の血を拭って鐘ヶ淵へ投げ込み、ピタリと鍔鳴りをさせて鞘に収め、悠々と安国山の大門を出て往きまするから、家来の丈助も跡からそっと見え隠れに大門を出て左へ切れ、細道の処まで附けて参り、
丈「申し〳〵大野さんえ、旦那エ、旦那」
大「オヽ丈助、早速の伝言で首尾好く往った」
丈「へえ宜い塩梅でございます、あなた國綱の刀を佩しておいでなせえますか」
大「シイー、他へ預けることも出来ん程の名刀で有るから困って居たが、丁度拵えが合って居たゆえ、斯の如く差料にして居るから、他へ知れる気遣いはない、大丈夫だ」
丈「旦那さま、石川の娘は中々怜悧でしっかりして居りますから、容易にお手に入れることは出来ませんぜ、併し私が何うか工夫をして見ますが、腕ずくで抱いて寝ようとすれば、舌を噛み切って死んでしまうくらい小三郎に情を立って居ますから、私が甘く工夫をし、旦那のお手に入れるようにしますが、其の時にはしッかり御褒美をおくんなせえ」
大「宜しい、これはホンの心ばかりだが、褒美の印だ、取って置け」
と幾らか金子を紙に包んで丈助に渡す。
丈「ヘイ〳〵今は褒美も何も入りません、小左衞門さえ死んでしまえば、彼処のものは縁の下の蜘蛛の巣まで皆な私の物だ、石川の娘の極りが附けば、またお前さんの処へ御沙汰を致しますぜ」
大「何分頼む、骨を折ってくれ」
丈「ヘイ大丈夫でごぜえます、当季何処においでなせえます」
大「手前の方の事の極りが付くまで、国分の萩原束の処に居る心底だ」
丈「彼奴は喰い酔ッてばかり居てお喋りだから、うッかりした事は云えませんよ、ヘイ左様なら」
と両人別れましたが、悪い奴は悪い奴で、此の丈助は大野と共謀になり、表に忠義と見せかけて小左衞門を鴻の台へ引出す手筈をいたしたので、かゝる悪人とも知らず、忠義なものと心得て目を掛けたが過まりで、情ないかな稻垣小左衞門は四十九歳を一期として、一節切と頭巾とを持ったなり落入りました。只今は川岸の土が崩れて余程平坦になりましたが、其の頃は削りなせる断崖で、松柏の根株へ頭を打付け、脳を破って血に染ったなり落ると、下を通りかゝったは荷足船で、彼の仙太郎等三人が松戸へ刀の詮議に往ったが、手掛りがなく空しく帰って参る船の胴中へ、小左衞門の死骸がドンと落ちましたから、重三郎も安吉も肝を潰して、
安「ヤア大変だ〳〵」
仙「何んだ、立って騒ぎやアがって」
安「だってサ血だらけな老爺さんが降って来たからサ老爺さんの降るような天気じゃアねえのに」
仙「ナニ馬鹿なことをいう……オヽ〳〵鴻の台から落こちたんだナ、喧嘩をしたか遺恨か知らねえが、老爺さんを酷いことをしやアがる、組打ちでもしたか相手の奴の冠り物をしっかり握って居るが、指を折らなけりゃア中々取れねえくれえ一生懸命に押えて居るが、妙な真黒の頭巾だなア、相手は侍か知ら、訝しな物を持ってる、笛か知ら、重さんお前は知ってるだろう、これは何だえ」
重「これは一節切と申しますが……オヽ是れはお屋敷へ出たとき拝領の山風と云う一節切だと仰しゃって、御自慢で二三度お見せなすった笛だが」
と云いながら死骸をよく見て肝を潰し、
重「ウー稻垣の旦那さま」
と死骸に取縋りました。
仙「オイ重さん何うしたんだ」
重「エヽ親方、これは稻垣小左衞門さまと仰しゃって、金森さまの御重役で、國綱のお係りのお役人でございますが、其の刀の為にお咎めを受けて、御浪人なすったと云うことは微かに聞きましたが、何処にいらっしゃることか御様子も知らずに居りました……誰が旦那さまを殺しましたか」
仙「フーム……それは何にしても飛だ事だった……お前この頭巾に見覚えが有るか、誰のだか分るか」
重「誰のだか分りませんが見覚えは有ります、お屋敷の御重役がお揃いに、あの芝口の紀の善という袋物屋へ誂えてお拵えに成った頭巾でございます、御覧なさい、此処に印が押して有るのは見聞の時に大勢が同じような頭巾だから解らなくなるといけないと云うので、裏に白羽二重のきれを縫いつけて、それへ各々の朱印を附けて有るのですが、誰のだか分りません」
仙「能く見ねえ、誰のだか分りそうなものだナ」
重「私が見ちゃ分りませんが、これは此の小左衞門さまの御子息の小三郎さまという方が御覧なさるか、また御重役方に聞きますれば分ります」
仙「フン、何にしても死骸の遣り場に困ったな」
安「これが親方と私ばかりだと、係り合になるといけねえから投り込んでしまう処だが、重三さんが乗っていたので死骸の分るというのが不思議です……アヽ、また向へ一人落ちて来ました、今日は滅法界に人の降る日だ」
仙「ハヽア此の鴻の台は上矢切だ、此辺に悪い奴が匿れて居るのかも知れねえ、何か手係りになる事も有ろうから、船を市川口へ繋けよう」
というのを重三郎と安吉が止めましたが聞きませんで、詮議に山へ上りましたが、何の手係りもなく空しく帰る事になりましたが、小左衞門の死骸の遣り場がないから船へ乗せて、仙太郎が伊皿子台町の宅へ帰って参りましたが、屋敷へ知らせて好いか悪いか知れません、と云って何時まで斯う遣っても置かれないと云うので、直ぐに白金台町の高野寺へ頼み、仙太郎の縁類の積りにして葬式も立派に致しましたから、小左衞門の死骸のことは誰にも知れんわけでございます。お話二つに分れまして、丈助は空涙を零しながら根本の宅へ帰って参りますと、おみゑは案じて居りまする。門口から、
丈「嬢さま只今帰りました、申しエ嬢さま只今帰りました」
みゑ「あい、明きますよ」
と云いながら紙燭を点けて土間へ下りてまいり、直に戸を明け、
みゑ「お父さまもお帰りになりましたか」
丈「はい」
と座敷へ上り、
丈「お嬢さま、何とも何うも申し上げようはございません、嘸あなたさまもお驚きだろうと存じますけれども、申し上げんことはお解りにはなりますまいが、旦那さまは鴻の台の鐘ヶ淵から何者とも知れず突き落されて、川の中へ落入りました」
みゑ「えゝ……それはまア何うした訳で」
と次第を聞くと、丈助がなまぞらを遣って瞞かしました。侫弁は甘くして蜜の如しという譬の通りで、誠しやかに遣るのは丈助の得手でございますから、おぼこ気のおみゑは真実の事と思い、
みゑ「アヽ情ない、お父さまは去年の十一月、何者とも知らず鉄砲に撃たれ、非業の死を遂げ、稻垣さまのお宅へ参ると間もなく、舅御さまも亦斯ういう非業な死をなさるとは何たる事か、私のような因果なものは世にあるまい何うしたら宜かろう」
と声を惜しまず泣伏しますから、丈助は腹の中でしめたと思いましたが、表面は真実そうに、
丈「私も御当家へ奉公致し、及ばずながら忠義一図に勤めて居り、今日もお供をして参りながら、旦那様が斯ういう事になりましては、実に何んとも申訳がございませんから、その悪侍の跡を追いかけましたが、侍は桜ヶ陣の繁みへ逃げ込み、遂に影を見失いどうもお嬢さまに顔向けが出来ませんから、一思いに腹を切って死のうかと存じましたれども、私の死ぬのは厭いませんが、あなたが入らしってまだ五六日しか経たないのに、旦那さまの死骸が知れなく成った其の上に、私が腹を切って死にますれば、何の為に帰らんかと、西も東も御存じのないあなたゆえ、嘸お困りだろうと存じますると、私は死ぬにも死に切れませんから、兎も角若旦那さまも程無うお帰りでしょうから、若旦那の仰せに任せて、手前は主人の供をしながら、当の仇を見遁すとは怪しからん奴だから腹を切れと仰しゃるか、手討にすると仰しゃるか知れませんが、何と仰しゃってもそれまでと覚悟を致して、惜しくもない命を生延びて帰りましたが、私を悪いと思召しますなれば直に斬って下さいまし」
と空涙を零して巧く遣りました。
みゑ「今更外に力と頼む人が無いから、若旦那のお帰りまで待っておくれ、何にもお前の不調法というでも有るまい、皆前世の因縁事だろうから待っておくれ」
と死を止めるを幸いに丈助も其の晩は寝んでしまい、翌日に成りますと、おみゑが不図考え、山を越すと矢切村だが、大方家来の勇助が乳母の処を便って往って居るかも知れないから、連れて往って呉れと云うので、是から丈助が供をして上矢切、中矢切、下矢切と段々山を下りてまいりますると、這入口の榎の有る家を見て、
みゑ「此処だよ」
丈「此処があなたの乳母の家ですか、思いがけない事でございますナ、此処は私の生れました家でございますが、私は若い時分から道楽を致しましたので、父親も母親も田舎気質の固いものでございますから、久離切って勘当され、今では生れた家でも足踏をする事が出来ませんので、私の母親は屋敷奉公をして来たという話を聞いて居りましたが、私は此家へは這入れません」
みゑ「あらまア丁度宜いじゃアないか、お前が乳母の子なら縁繋りの処へ奉公して、忠義に固く勤めたというので、舅御さまもお悦び遊ばしてのお話が有ったから、私が乳母に詫ことをして上げるから決して心配せずにおいでよ」
丈「へえ、それは有難うございますが、中々に固くって寄せ附けますまい、わるく固うございますから」
みゑ「私が詫をして上げると云うに、宜いからおいでよ」
と中へ這入り、
みゑ「お前少し其処に待っておいで……ハイ御免よ、私に乳をくれたおしのの宅は此方かえ、乳母の家は此方かえ」
恭「私の叔母さんの家は此処だよ……叔母さん何だか綺麗な女が来て、私に乳をくれって……お前大きな形をして乳を呑むと味噌ッ歯になっちまうよ」
しの「誰方だか知りませんが、どうぞ此方へ這入ってお呉んなせえまし、塩梅が悪いから立って往けねえでがんす」
と云うから、おみゑはずッと上へ昇り、
みゑ「何うもまア見違えるように、お前年を取ったねえ、私だよ」
しの「はい、何うも眼悪くって日暮方ははッきり見えませんが、誰方でがんすかえ」
みゑ「石川のみゑだよ」
しの「おやマア何とまア見違え申しやすように大くおなんなすってマア、何処においでなせえましたかえ、五六日前に勇助どんが己ア家へ駈込んで来ましてネ、お嬢さまは此方へ来ねえかと云うから、イヤ来ねえと云うと、それはえれえことに成った、駕籠へ嬢さまを乗せたら何処かへ担いで往ッちまって解らねえんだ、ハテ何うしたら宜かろうと云うから、随分道も能くねえが、悪い駕籠屋が嬢さまは器量好いだから勾引しやアしねえかと云ったら、勇助どんが男泣に泣くてや〳〵、魂消てハア斯う遣っては居られねえって駈け出すから、マア待ちなせえと、名主どんも有る村だから、名主どんへ届けて、お役人さまの手を借りてお探しなせえって、それから毎日松戸流山から小金ッ原まで探しちゃア帰って来て、知んねえっては泣くだよ、私もハア心配して神信心して居やしたが、何処に、エ……あれまア真間の根本といえば山を越せば直ぐだよ、知んねえと云うのはどう云うわけだか……おゝ自分の申す事ばかり申してまだ御挨拶も致しませんで、先ず御機嫌好うごぜえます、誠に御無沙汰ばかりに成りました、私もハア段々年は老るし、旦那さまは御浪人なすって上州の方へ往かしったとべえで、お宅が知んねえもんだからお尋ね申す事も出来ねえんでがんすが、あんたには乳を上げたから何だか我子の様に思われて、定めて大くおなんなすったろう、何うなすったろうと云ってネ、お案じ申す事がごぜえますが、ハア見違えるようにおなんなすってね、まア能く尋ねて下せえました」
みゑ「私は親類便りの無い身に成ったのよ」
しの「そうだってね、お父さまは鉄砲で撃ッ殺されたって、何とハア魂消た訳でがんすな、お便り少ねえ嬢さまゆえ、嘸哀しかんべえと勇助どんと話しいして居やしたが、実にお気の毒なわけで、何とも申そうようは有りません、あんな好いお方さまをね…あんたさま、今まで真間の何処においでなせえました」
みゑ「私が勾引されて殺されようとする処を、私の少さいうちに許嫁に成って居る、稻垣小三郎様のお父さまの稻垣小左衞門さまというお方が、御浪人なすっていらしって、そのお方に助けられて御厄介になって居ると、また其の小左衞門さまというお方が、昨日悪者のために鐘ヶ淵から突き落されてしまい、段々死骸を探したが今に知れないの」
しの「ホイヤ、マア、何とマアたまげますナ、情ねえまア、あんたさまは何とハア御運の悪いお方だかえ、併し今に勇助どんが帰って来たら飛ッ返るように悦びましょう、私も附いて居やすから御心配なさらねえでいらっしゃいましよ、何うかお供があらばこっちへお入れなせえましよ」
みゑ「乳母や、アノお前に逢うのが間が悪いと云って這入り兼て、表に立って居るのだが、何うか私に免じて逢ってやっておくれでないか」
しの「はい、誰方かハア知んねえが、お這入んなせえましよ、お嬢さまのお詫なら何んな人でも免さねえばなんねえから、まア這入んなせえましよ」
と云われて丈助はきまり悪る気にオズ〳〵しながら這入って参り、
丈「御免なさい」
と云いながら腰に差して居た脇差を抜いて傍に置き、慇懃に両手を突き、
丈「誠にお目にかゝれた義理じゃアございませんが、お嬢さまが詫ことをして遣ると仰しゃるので、面目ない顔を拭って参りました、ヘエ丈助でございます」
しの「アレ此の野郎……この野郎、汝、何うして此処え来た、お嬢さま、あんた何うして此の野郎を連れて入らっしゃいました、此の野郎、汝、何んだと、面目なくってお目にかゝられた義理じゃねえと、義理や人情ということを汝エ知ってるか、此の畜生野郎め、うぬ、お嬢さま是れは私には只た一人の忰でござえますが、若い時分から道楽べえぶッて仕様がねえので、あんた、父さまが心配して塩梅が悪く成ったのは此の野郎が二十四の時でごぜえます、婆アや枕元へ来うよと云いますから、何だえ老爺さまというと、忰の丈助は迚も汝がの力にはなんねえ駄目な奴だから、己ア死ぬと汝エ困るべえと思って金エ二十両貯えて置いたから、此れでちッとベエ、田地イ買って己死んでも葬式などを立派にしねえでも宜いから、汝エ食い方に困らねえようにするが宜エと、後の事を遺言しやすから、私イ泣き入って居る中に、能く寝り就いてしまいやすと、この野郎が裏から這入って立聞いしてえたもんと見えて、這入って来やアがって、その金エ引攫って逃げ出す音に目エ覚して、後姿を見れば此の野郎でがんすから、魂消て口い明いたっきり、おッ閉ることが出来やしなかった、すると老爺さまが怒って早く名主どんのお帳へ付けろ、親の首い縄ア掛ける餓鬼だと云って久離切って勘当してしまうと、父さまが口惜しがって、只た一人の忰だアが、己ア別に悪い事もしねえのに、何うしてあんなやくざな餓鬼が出来たか、もう縁側の端ッ辺へも寄付けてはなんねえと云いやしたが、お嬢様が連れて来たアだから逢うだけ逢って遣るから、サッサと出て往け」
丈「ヘイ、何とも言訳の申そうようはございません、孝行のしたい時分に親はなしという比喩の通り、私が御勘当に成りましてから、お父さまはおかくれに成ったと聞き、一人のお母さまゆえお目にかゝりたいと思って居りましたが、私が改心を致さなければお詫ことは出来ないから、屋敷奉公をして身を立てようと思いまして、金森家の御重役稻垣さまへ奉公致し、真鍮巻でも二本差し、奉公大事に勤めて居りますると、旦那さまには御運悪く御浪人なすって、実は此処へお伴れ申したいのですが、お母さまの前へ対し此方へ足を踏み込むことが出来ないので、真間の根本へ来て居りましたが、商売の買出しから、旦那さまの漱ぎ洗濯まで丹誠して、御介抱申し上げて居りましたゆえ、丈助や、手前のお蔭で己は助かる、再び屋敷へ帰参することも有れば、屹度侍に取立って遣ると仰しゃって入らっしゃる事は、お嬢さまも御存じでございますが、昨日私がお供をして鴻の台へ参りましたところ、何者とも知れず旦那さまは鐘ヶ淵へ突落され、其の儘死骸は知れず、お嬢さまが乳母を便りたいと仰しゃるからお供をして来て見れば、私の実家ゆえ、這入りかねて居りますると、詫ことをして遣ると仰しゃいますから上りましたので、お目にかゝれた義理じゃアございませんが、真に善人に成りましたことは、お嬢さまが御存じでございますが、何うかこれで御勘弁なすって下されば、これから心を入れ替えて、お側に居て孝行を尽したいと思いまする」
みゑ「舅御さまも、丈助を家来とは思われんくらいと仰しゃるほど辛抱人に成った事は、私が請合うから、何うか堪忍してやっておくれ」
しの「はい、汝は本当に辛抱人に成ったかえ、何んとマア魂消たな年は取ろうもんで、汝はもう幾歳に成る」
と指折かぞえて、
しの「今年はもう三十一に成ったえ、マアどうもネ本当に殿さまが家来とは思わねえと云うくれえの辛抱人に成ったか、おいまア他の者が詫ことをしたって勘弁は出来ねえんだが、御主人の嬢さまのお詫ことだから、父さまの位牌へも詫ことをしてやり、名主殿処のお帳も消すようなことにしようが……そう云えば尤らしくなったナ、肩巾が大く成ってや、少し様子が死んだ父さまに似て居る、立って見ろや、少し坐って見ろ、一廻り廻れや」
といろ〳〵なことを云いまして、親だから直に騙されました。その内勇助も帰って来ましたから、丈助は得意の侫弁を以て、是からお前さんと共に忠義を尽しましょう、若旦那さまがお帰りになりましたらば、石川さまと旦那さまの讐を探して仇を報いますよう、及ばずながらお互に若旦那とお嬢さまへお力添をして、若旦那のお屋敷へ御帰参の叶うように心掛けようではございませんかと云うと、勇助は正直な人ゆえコロリと瞞されて、丈助という人は真実な者と思って居りまする内に、二日程経ちますと、東海道藤沢から稻垣小三郎より父小左衞門へ宛てた書面が届きましたゆえ、披いて見れば、藤沢の煙草屋に逗留しているが、刀の手掛りが有ったから段々探すと、去る豪農の方にお刀のある事が分ったれど、これを手に入れるには金子が二百両なければならんから何うか早々金子二百両だけ丈助に持たして届けて下さるように、三日程遅れると手に這入りませんという意味の手紙でございました。
急な事ゆえ只今と違い、二百両という大金の才覚は容易に出来ませんから、丈助も心配して、
丈「己に女房があれば、夜鷹に売っても金の才覚をしようもの……あゝ二百両という大金を才覚のしようは無し、このお刀が手に這入らなければ若旦那は生涯埋れ木にお成りなさるゆえ、此処で取損なうは残念なことだ」
と誠しやかに申します。これはおみゑが小三郎の手筋を知りませんから、窃かに大野惣兵衞と諜しあわせ、小三郎からの書面を拵えて送りましたので、勇助は馬鹿正直の人ゆえ大層気を揉み、母も心配致しましたが、金の工面が出来ない。するとおみゑが、
みゑ「何うか私を売って其の身の代とやらでお刀を取戻し、お金を才覚して若旦那へお手渡しをして、其のお刀が手に入るようにしてあげて下さい、併し女子がそういう処へ身を沈めては、亡なられたお父さまには済まないが、良人のためになる事なれば左のみお叱りもあるまい、のう勇助」
と涙ながらに私の身を廓へ売ってくれろと頼みに、
勇「ハイ〳〵、私が附いて居りながら左様の事をおさせ申しては、御両親さまのお位牌に対して私が済みませんが、旦那さまのためには替えられません、左様なら手前が田原町に居りました時に、裏に居た女衒の小市という男を存じて居りましたから、これへ参って談をいたして見ましょう」
と是から勇助が出掛けて参り話をすると、丁度山口屋で女子が欲しいというので、それに小市はおみゑの形恰好は精しく存じて居りまするから、直に承引き、先方でも二つ返詞だろうが、金は幾ら入るのだと聞くから、二百両入るというと、兎も角お連れなさいというので、勇助は立帰り、此の話をして、是れからおみゑは乳母のおしのにも暇乞をして駕籠に乗り、泣の涙で別れを告げ、丈助勇助が附添いまして、江戸の田原町の小市の手から山口屋へ参って話をいたしまして、玉を見せると、品といい器量といい、起居振舞裾捌き、物の云い様まで一つも点の打ち処のない、天然備わった美人で、山口屋の主人もお侍のお嬢さまが夫のために自分から身を売りたいという心に惚れて、宜うがす、そういう訳なら判代や金利を引かず、手取二百両に成るように致しましょうと、親類得心の上で相談が附き、証文を致し、二百両の金子を丈助に渡し、
みゑ「若旦那小三郎さまにお目に懸ったらば能くお伝言をしておくれ」
と手紙を認めて小三郎に送る、其の文面にもお刀をお手に入れるために、済まない事とは知りながら、お断りも致さず、私は自儘に泥水に身を沈めましたが、一旦斯様な処へ這入りました身の上ゆえ、たとえ年が明けてもお側に参ることは出来ますまいけれども、親族便りのない身の上を不便と思召し、お小間使いなりとも、御飯焚なりとも厭いませんから、年季が明けた暁はお目を掛けて下さいまし、殊に父藤左衞門を討った仇は何者か存じませんが、相手は侍に相違ないと存じますから、とても女子の細腕で仇を討つことは出来ませんから、何うぞお助太刀下さるように是のみ頼み入るという処の、細かい手紙でございまする。これへ金子を添えて渡すを受取り外へ出ましたが、勇助は気抜がしたように成りまして、丈助と二人で葛西の柴又の帝釈の後の土手へ掛り、四丁ばかり参って、なだれに下りると下矢切の渡でございますが、田舎の渡しは滅多に渡る人が無いから、夜に入っては陰々として居りまする。勇助は気抜のしたようになり、
勇「丈助さん、イヤ何うも私は何んだか手の内の玉を取られたと云うのは此の事かと思うよ、お少さい時分からお守をしただけに別れが辛うございました」
丈「然うだろうね、オイ船頭さん船を矢切へ遣っておくれな、船頭さん」
百「船頭は居ましねえよ」
勇「居なくっちゃア困るな」
百「イヤ丈助さん」
丈「イヤ、これは喜代松さん、船頭は何処へ往っただな」
喜「船頭は曲金へ馬鹿囃子の稽古に往っただアよ」
丈「それは困ったが、お前船を漕ぐ事が出来るかえ」
喜「対岸へ往くぐらいは知ってるだが、一人で往くのも勿体ねえと思って人の来るのを待っていた処だ、丁度宜いからお乗んなせえな」
丈「じゃア勇助さん乗ろう」
と是から船に乗ると、百姓が繋縄を解いて棹を揚げて、上手の方へ押出し、艪杭を沾してだん〳〵と漕ぎ初めたが、田舎の渡船ぐらい気の永いものは有りません。
喜「宜い塩梅に天気イ能く続くね」
丈「お前は何時までも若いね」
喜「モウ年を老っちまって仕様がねえだ、若え時分に一緒に松戸の樋の口へ通う時分にゃア一晩でも女郎買をしねえと気が済まねえで、一度などは雨が降った時に簔を着て往った事が有ったが、まるで門訴でもするような姿で、お女郎買に往ったッけが、若え時分というものは仕様がねえもんだね、今じゃアお前の婆さんが悦んでるぜ、忰は固く成って私が仕合せだって、無えもんとした忰が帰って来て儲かりましたってよ、正直な婆さまだからね」
丈「ハア、若エ時分には散々お母に苦労をさせました…勇助さん此の水を御覧なさい、能く澄んでるでしょう、透通って底が見えるぐらいだのに、旦那さまのお死骸が何処を探しても知れねえというのは不思議で、其の癖出なくっても宜い百姓の清助の死骸ばかり揚ったから、私は何うも何んだか水を見ると心持が悪くなりますよ」
勇「然うだろうね、成程澄んでるね」
丈「アヽヽあんな大きな鯉が泳いでる」
勇「ドレ何処に」
とうっかり水を見る油断を見済し、後から丈助が勇助の腰をドント打って川の中へ突落す。勇助は
「アッ」
と云いながら水中へ落入りました。一刀流の剣術遣いの家に旧く勤め免許をも取った腕前ゆえ、討合では敵わんが邪魔になるのは此の勇助、泳ぎを知って居るかと聞くと泳ぎは徳利の仮声でブク〴〵だというから、何んでも水で殺すよりほかに仕方が無いと決心して、矢切の渡場で喜代松という船頭と共謀になっているとも知らず、迂濶乗った勇助を、川中でドブリを極めたのでございます。
喜「エー、うめえな、斯う云う事でなければ銭儲けはねえな」
丈「早く急いで漕ぎねえ」
と向岸へ急ぎますと、勇助は泳ぎを知らん処では有りません至って上手で、抜手を切って泳ぎながら、
勇「己を欺いて水中へ落し入れやアがッて、此の大悪人め、船を返せ〳〵」
と追掛けてまいるのを見て、船頭の喜代松は真青に成り、
喜「泳ぎを知んねえ処か……これは大変だ、上って来りゃア殺されるかも知んねえ、お前能く聞いてから遣れば宜かったのに」
丈「こん畜生、ナニ汝助けて置くものか」
といううち勇助は遂に船まで泳ぎ附け舷へ手を掛けて船を上ろうとしましたが、上ってまいれば忽ちに勇助のために斬殺されますので、丈助が錆た一刀を引抜き、勇助の頭脳へ割附ける。
「アッ」
と云いさま手を放し沈みましたが、船底を潜ってまた此方の舷へ手を掛け上りに掛るから、今は丈助も死物狂いでございますゆえ、喜代松の持って居た水棹を取って勇助の面部を望み、ピューと殴る。其の内船は漸々向河岸へ着きましたが、勇助はまた泳ぎ付き、舷へ手を掛け、船の中へ飛上ろうとする処を、喜代松に水棹を以て横に払われ、バタリと倒れたが、また丈助を狙って上って参りまする処を、丈助が狙い打に切つけ、たゝみかけて禿たる頭の脳膸を力に任せて割附ける。
勇「アッ……アヽおのれ丈助、能くも己を欺いて斯る処へ突入れたな」
と云いながら死物狂に成って上る処を、水棹で払われ、また続いて斬り掛けました事ゆえ、勇助も年が年なり、数ヶ所の手傷に身体自由ならず、其の儘船の中へ転り込み、身を震わし、それなりに成る、上へ乗しかゝり無茶苦茶に止めを差しました。折から朧月夜ゆえ向河岸まで能く見えます。
丈「オヤ喜代松、気が利かねえじゃアねえか、サッサと手伝って殴れば宜いのに、茫然して居やアがって間抜だなア」
喜「己だってハア魂消た、泳ぎを知んねえどこじゃアねえ、あのくれえ泳ぐものは此の村にも沢山ねえ程上手だから、上って来ればお前も己も打っ斬られると思ったら、魂消ちまって棹を取ることも何も知んねえだよ」
丈「えゝ、大きな声で喋るな、此の血だらけの死骸は他に仕方がねえから、河中へ漕出して深水へ沈めにかけるより仕様は有るめえが、何か重い物を身体に巻附けたいと思うが、あの団子を売る葮簀張の処に力持をする石が有るから、縄も一緒に探して持って来や」
喜「えゝホウ、実におッかねえたって何うすべえかと思ってたよ」
丈「愚図々々喋らねえでも宜いから早くあがれよ」
喜「おゝ」
と喜代松が岸へ上りますと、先程から此の葮簀張の処にノソリと立って居たのは金重の弟子の恭太郎という馬鹿な男で、と見て喜代松は恟り致し、
喜「誰だ、エ、誰だ、そこに居るは誰だ」
恭「おいらだよ」
喜「丈助どん〴〵」
丈「えゝ」
喜「おめえら宅の恭太兄いが彼処に立ってるだアよ」
丈「ナニ恭太が、何うして来やアがったか知ら、恭太」
恭「えゝ」
丈「手前何うして此処へ来た」
恭「己らはあの草団子を喰いてえと思って叔母さんに銭を貰ったから買に来たら、日が暮れて夜はねえッてえから塩煎餅買って、先刻から喰いながら此処に立ってたのよ」
丈「手前何か見やアしねえか、此の伯父さんと己と種々船の中で訳が有ったんだが、手前そんな事は気が附くめえのう、何も見たんじゃアなかろうなア」
恭「何だか己ア知らねえけんど、勇助さんという老爺さんを殺した事は知ってる」
丈「馬鹿だって油断はならねえなア」
喜「だから己が云わねえこッちゃアねえ」
安「御免下さい……御免下さい」
しの「はい誰方」
安「御免下さい」
と上り端に両手を突き丁寧に辞儀をいたし、
安「先達て一寸おたずね申しましたが、春木町の紀伊國屋の手代安兵衞でございまする」
しの「おゝ然うだっけや、誠にお見それ申しましたよマア、構わず此方へお上んなせえましよ」
と云われても前に怖気が附いて居りまするから、怖々台所口から上ってまいり、
安「先達は御立腹が解けませんで私は何ういたそうかと存じました処、お寺さまのお名前だけ承わりましたから、直に法泉寺さまへまいりまして、私が主人の代に御法事をいたしましたが、それで仏さまの御立腹が解けましたか解けませんか存じませんけれども、主人の心だけの御法事御供養をいたしました事は、定めてお聞及びでもございましょうが、何うかこれで一つ御勘弁を願いたいのでございまする」
しの「はい、村の者が江戸の大尽だか知んねえけんど、豪えもんだ、田舎には沢山ねえ法事だっけッて、村の若えもんや子供を招ばって餅い撒えたり、銭い撒えたりして、坊さまを夥多呼んで、大した法事だって、それから二度めに法事いした時には、中山のお上人さまを招ばって御祈祷をしたてえから、紀伊國屋でも魂消て若草の法事いするような心に成ったかえと思えば、私も少しは胸が晴れやしたよ」
安「誠に有難うございます、就きましては段々と伊之助の足も痛みますので、お医者が何んでも足を切らんければ癒らんと申しまするゆえ、主人も心配致しておりまするが、男のことゆえ大主人は諦めましても、只た一人の忰の事ゆえ、母親が諦めませんで、叔母さんのお心持が解け、怨みが晴れなけりゃア仏さまの怨みの晴れようはないわけだと申しまするので、ヘイ、何うか一つ叔母さまのお怨みをお晴し下されば誠に有難いことゆえ、実は叔母さまが私の方へでも入らしって、病人に会って下さるようなお思召になれば、病気も全快致しましょうかと存じまして、続いてお詫ことに出ましたのでございまするが、御勘弁に相成りまするならば何うか一つ願いたいもので」
しの「ナニ、そんなに謝らなくっても宜えよ、先達はお前さんにえれえ事を云いましたが、若草は私のためには一人の姪で、実は私の兄は鋏鍛冶をして江戸の湯島に居やしたが、離れてるから私も近しく往きもしねえけんど、其の兄の一人娘で、死ぬ時に私へ遺言して、汝の娘にしろってえから、私も彼にかゝって、死水を取って貰うべえと思ってる只た一人の若草に、あゝ云う死に様をさせたは伊之助ゆえと思うから、私も煮えるように肝が焦れてなんねえだが、お前さんから段々の話で私いだけは勘弁もしようけんど、死んだ若草は勤めの中で伊之助さんより他に男はねえと思え詰め、夫婦約束の書付まで取交せ、末は必ず斯うというわけになってたのに、伊之助が無沙汰で女房を持って、其の上手紙一本よこさねえで、吉原のよの字も、若草のわの字も厭だというような不人情な心なら、己が死ねば三日経たねえ内に伊之助を取殺すって、身を振って口惜しがったよ、その苦しい中で伊之助さんの胤の赤子を産んだが、そういう中で産れた赤子だから育つわけはねえから、二声三声泣いて直ぐにおッ死んでしまった、それを見ると若草は血が上っておッ死んだから、死んだ若草に死んだ赤ン坊を抱かして早桶へ入れて、此の矢切村へ持って来るまでと云うものは、私がハア船の中へぶッ転がって泣くほど口惜かったから、実は私も祈りましたが、おまえの方で法事供養をするくれえに思わば、私は勘弁もしようが、若草は成仏が出来めえから、若草に詫いするだらば他に仕様は無えが、若草の浮ぶようにして遣ってくんなさい」
安「へゝ何ういうことに致しましたらば浮ぶようになりましょう」
しの「夫婦約束を反古にして、起請というのは己ア知んねえが、熊野の権現さまへ誓を立てると烏ウ三羽死ぬとかいう話を聞いてるが、それだから死んだ若草を生きて居る心で、伊之助さんと若草の位牌と婚礼して、若草に沙汰なしで持った嫁子を離縁してくんなせえまし、影も形もねえけんども、口惜いと云う執念は残ってるだから、私から若草の執念を晴らすようにしべえから、若草の位牌と婚礼の盃をしてくれたらば、私も勘弁をしましょうよ」
安「ハイ、お位牌と婚礼を致しますかナ……成程、如何にも御尤さまでございますから、何うか工風を致しましょう、兎に角、主人へ話して見ましょう」
しの「兎に角と仰しゃっても、また何時あなたがおいでなせえますか知んねえから、私は今でも宜いんでがんすが……」
安「それは誠に恐れ入ります、斯ういう事は早い方が宜しい、実は明日か明後日是非とも足を切らなけりゃアならなくなって居りまする事ゆえ……左様ならば直においでを願いましょう」
と是から田舎気質の律義な婆アゆえ、若草の位牌を脊負って安兵衞の跡に従いて堀切の別荘へ参りました。安兵衞は直に宅へ連れ込もうかと思いましたが、お雪の兄の岡本政七が来て居りまするので、極りが悪いから、おしのを隣の家へ預けて置き、安兵衞だけ這入りました。
主人「おや〳〵安兵衞御苦労、明日のういよ〳〵先生が伊之助の足を切るんだが、親類立合でなければ切らんと云うので、傍で見るのは厭だけれども、仕方がないから船で出掛けて来たが、お前若草のお墓参りにでも往ったのか」
安「へえ、先達てあなたも彼ア云う怖い夢を御覧なさり、また何処で伺っても、御鬮を取っても死霊と生霊という処は怖いように中ってますナ」
主人「本当に怖いようだ」
安「私は現に其の婆さんの怖い姿を見た上に、薪割を打付けるとまで立腹したんですが、その婆さんを一目見たので祈ってる事が解りましたよ、婆さんの怨みも死んだ花魁の恨みも晴れさえすれば、若旦那の御病気は御全快になりましょうと思い、御足を切らぬようにと種々考えまして、怖々ながら今日婆さんの処へまいりますると、先達ての大した法事の様子も婆さんの耳に這入って居りまして、大きに心もちが解けた様子ゆえ、段々と話を致しました処が、己は勘弁もするが、死んだ若草の怨みは晴れないから、若草が生きている積りで位牌と婚礼をして貰いたい、それから若草花魁と若旦那とは夫婦約束の書付まで取交せた仲だのに、書付を反故にし、若草に無沙汰で他より嫁を貰ったのが立腹で死んだのだから、其の嫁を離縁してしまって、花魁の位牌と杯をしてくれたらば、若草が成仏するだろう、私の怨も晴れるというのですが、是は田舎気質の婆さんだから屹度晴れるかも知れませんよ、お呪咀さえ利きますから、実はその婆さんを一緒に連れてまいりました処、万年町さんが来て居らっしゃいますから隣の彌兵衞さんの宅へ婆さんを預けて置きましたが、御嫁子を離縁なすって、お実家へお帰しになりますれば、若旦那の御足を切らずとも御全快になりましょうと思いますが、如何でしょう」
と云うと、主人宗十郎は気色を変えて怒りまして、
主「コウ、安兵衞どん、お前は何歳におなりだ、え、何歳になるよ」
安「へえ、私は四十五歳」
主「ふざけなさんナ、おまえは十露盤を取ったり帳面を扱ったりさせれば一廉の人間だけれども、人を馬鹿にするも程が有るじゃないか、位牌と婚礼をしろって馬鹿〳〵しい、そんな事を真に受けて此処まで連れて来る奴もねえもんだ、そんな事はいかねえから矢切の婆さんを帰してくんなよ」
安「へえ……どうもそれが帰すと云うわけにはまいりません」
主人「なにが参りません、安兵衞どん能く考えて見な、万年町のお雪は子供の時分から私の方へ嫁に貰う約束をして置いたものだ、それを忰が自分の勝手に女郎と夫婦約束をしたのだから、お雪の方で怨んで宜い筋だ、殊に去年の秋から来て居て、彼の通り親切に忰の看病をするのは何うだえ、まだ年もいかないのに塩物断をしたり、断食をして座敷の内でお百度を踏んで祈念を凝す貞信の心を、神さまも守って下さるかして、あれがお百度をあげる内は伊之助がトロ〳〵寝られるという、あんな結構な嫁を何咎も無いのに離縁して、影も形も無い位牌と婚礼をするような馬鹿々々しいことを、婆さんに云われたとて、真に受けて帰って来るとは余程間抜な男だ、なりませんから帰してくんなさい」
安「重々御尤もでございますけれども、先達て貴方も夢を御覧なすったでしょう」
主人「酷く疲れた時にゃア夢を見ます、怖いと思うから夢などを見るのだ、なりませんよ」
安「只今に成って婆さんに帰ってくれろと申しますると何んなに怒るか知れません、私の喉笛へ喰い付きそうな権幕ですから」
主人「婆さんに喰い殺されてしまいなさいよ」
安「これはどうも……私も悪気で致しましたわけではありません、ねえお母さま」
母「申し旦那え、安兵衞だって悪気でお婆さんを連れて来たのではありません、先達のお伺もあゝいう事に出たし、斯うじゃないかと私も思って居りますくらいですし、禁厭も有りまするから、義理をいえば貴方の云う事は御尤もでございまするが、禁厭同様の積りで験しに雪の処を仮に離縁として、禁厭に遣って御覧なさいませんか」
主人「お前までが然ういう老耄したことを云いなすっては困るよ、それだからお前が皆な彼様な道楽者にしたのだ、チビ〳〵私に隠して遊びの金までお前が遣んなすったのだ」
母「何んぞというとあなたは私の所為に成さいますが、当人が病身だと云って、十九の時にあなたが彼を連れて往らしって、あなたが芸者を買ったと云うじゃア有りませんか、あなたがお若い時分のお馴染の、柳ばしのお糸という婆ア芸者を呼んだじゃア有りませんか」
主人「そんなことを今云わないでも宜いから、矢切の婆さんを帰しなよ、そうして斯んな詰らん事でお雪を離縁する事が出来るかえ、私の忰の病気が癒したいからお雪を離縁して、位牌と婚礼させるなんてえ馬鹿〳〵しい事が、好い年をして己の口から万年町の兄に云えますか、私には云えない、本当に馬鹿な話だから、サッサと帰しなよ」
安「ヘイ驚きましたな、帰れと云うのが一番怖いので伊兵衞お前然う云っておくれな」
伊「私には云えません、何ういたしまして、私が叔母さんを突ころばしたんですからな」
主人「ぐず〳〵云ってずに早く帰してしまいなよ、誰でも宜いから早くそう云いなと云うに」
安「誰だッて……困りましたな」
と皆心配致して居りまする処へ、襖を明けて這入って参りましたは岡本政七でございます。
政「お父さん、誠に御無沙汰を致しました」
主人「おや〳〵これは毎度また遠い処を御親切にお見舞なすって下さり、誠に有難う存じまする、追々陽気になりましたな、船でおいでではあろうが、遠い処ゆえ中々容易なことでは有りません、毎度また結構なお土産を有難うございまする、何んだかとうとう足を切ると云うので、厭々ながら出て参りました、私は血など出るのを見るのは大嫌いだが、仕方無しに出て参りました」
政「飛んだ御難病で嘸御心配な事でございましょう、少々お父さまにお願いがございまする、私のためには只た一人の可愛い妹でございますから、伊之助さんのような人に添わして置く気は有りませんから、是までの御縁と思召しまして、今の内ならば何うでもなりますから、何うぞ御離縁を願います」
主人「へえ……それは何んで離縁をしろと仰しゃいます」
政「何うも伊之助さんに添わして置くわけにはいかないので」
主人「それは何の御立腹で」
政「何の立腹もありませんが、足を切ってしまう不具の亭主を妹に持たして置くのが厭でございますから、何うか満足の人間を亭主に持たせたいのです」
主人「これは怪しからんことを仰しゃる、それはお前さん余りな事を仰しゃりますじゃアございませんか、お雪は私の処へ遣してしまえば、其の家を家とするが女の道で、左様じゃアありませんか、最早貰ってしまえば私の娘だ、たとえ兄さんでもお前さんの勝手に離縁は出来まい、また私の方でもお雪に離縁が出せるか出せないか考えて御覧じろ、出せないじゃア有りませんか」
政「出せないと仰しゃったって私は嫁に遣したんじゃア有りません、只伊之助さんの看病に遣したんです、不具の亭主などを持たしては置かれません」
主人「そんな事を云ったって世界の人に不具は有りませんか、夫婦に成ってから亭主が腕を折るとか足を挫くとか、眼が潰れるとかする度に夫婦別れを致しますかえ、私は出しませんよ」
政「出すも出さんも有りませんよ、私は連れて参ります、媒介人は有りますが、まだ結納の取替せも婚礼も致しません、只許嫁の誼みで病気中看病に遣しただけです、合せ物は離れ物だから私は上げる気は有りません、是でも私は万年町の名前人だから、私がならんと云えば破縁になるので、当人が何と申そうとも私は上げられません」
主人「イエ私は出しません」
安「まア〳〵宜うございます、旦那さま、まアお静かになさいまし」
政「私は何処までも連れてまいります」
主人「イエ何うしても私は出しません」
安「旦那まアあなたは彼方へ、万年町さん、どうも主人は彼の通りな昔気質の人物ゆえ、無一国な事を申しまして、誠に相済みませんが、どうか一つこゝの処だけを……」
政「此処の処だけも何も有りません跛足の亭主などを妹に持たしては置かれません、本当にお前さんの処へ縁付けて置くと、親類中に祝儀不祝儀の有った時に、ピョコ〳〵跛足を引かれて来られちゃア、私が困りますよ」
主人「篦棒な……然ういう了簡なら猶出せません」
政「そんなこと言ッたって斯んな処には置かれませんよ」
安「まア〳〵彼方へ」
とお父さんが居ては面倒ゆえ宥め透して船へ乗せ、本郷春木町へ帰しました。そこが女親は甘いものでございますから、
母「安兵衞や、お父さんが義理立をするは宜いが、只た一人の忰を不具にしても嫁が出されないと腹を立つも義理でございましょうが、忰が死んでも嫁は出せないとお云いだが、忰が死んで嫁が入りますか、本当に、併し私は伊之助に勧めても去状を書かせようと思ってる処へ先方で連れて帰ると云うのは幸いだ」
と母親は伊之助の枕元へ参りまして段々説得致しますと、伊之助は去状で此の苦痛が免れるなら、百本でも書きたいくらいでございますゆえ、そんならばと云うので三行半ゆえ訳は有りませんから、サラ〳〵と書いて安兵衞の手に渡すを受取り、政七の居る座敷へ出てまいりました。
安「万年町さん、エヽ仰せの通り若主人伊之助に御離縁状を書かせて持って参りました」
と差出すを受取り、
政「お父さんが出さないと云っても伊之助さんさえ離縁状を書いて下されば、それで宜しい」
安「いえ、何うか是はソノ当人の病気が全快致しますまでのホンのおまじない同様の訳でございますから、当人の病気が全快致しました上は、又何の様にもお話合を附けます事ゆえ、何うか御立腹なく願います、実は当人も出す気のないところを無理に勧めて書かせましたのですが、是は只仮にホンのモウ反故同様のもので」
政「何をいうのだ安兵衞さん、お前も立派な人じゃア有りませんか、離縁状を取らなければ他へ妹を縁付けることが出来ませんから貰う離縁状、反故には出来ません、冗談云っちゃアいけませんよ、お前さんの方では病気の癒るまでとか、おまじないの為とか思召しましょうが、当方では真面目に取りますから左様思召し下さいまし……雪や、雪、一寸お出で」
雪「はい」
と広間で不動さまへお百度を踏んで居りましたが、先程からの様子を薄々聞いて居りましたから、涙ぐんで出てまいり。
雪「お兄いさま、お呼びなさいましたか」
政「はいお出で……安兵衞さん妹の道具は後から取りに遣します、船が待って居りますから直に此の衣服で連れて帰ります……雪、伊之さんの処から離縁状が出ましたから直に宅へ帰りましょう、其の衣服でおいで、着物を着替るのも面倒だから」
雪「はい……私は何で御離縁になりました」
政「何だって離縁状が出たのだ」
雪「何の咎で私は出されますのでございます」
政「何の咎もないが伊之さんの気に入らんから出したのだろう」
雪「お気に入らんと仰しゃっても、私は是まで御看病をいたし、今になって御離縁をされますような覚えはございませんのに、御離縁になりますというは何ういうわけでございますか、悪い廉がございますならば幾重にもお詫を致しましょうから、貴方からも若旦那さまへお詫をなすって下さいまし」
政「詫ごとも何もいらない、もう離縁状を取ッちまったから仕方が有りませんよ、去られた家には片時も居られるわけのものでは有りませんから、一緒においでなさい」
雪「イエ、私は参りませんよ」
政「そんな事を云っては困りますよ、あんな不具の亭主を持たしちゃア置かれません」
雪「大きなお世話でございます、不具でも何んでも私の亭主でございまする、あなたのお世話には成りません、来年は必ず全快致しますよ」
政「そんな事を云っては兄さんが困りますよ」
雪「あなたのお困りなさるのはあなたの御勝手次第で、御離縁をお取り遊ばすなら何故一応私に話をなさいません」
政「それは重々私が悪いけれどもね、種々世間の義理ということが有りますから、さアおいでよ、不具の亭主なぞを持たして置かれますか」
雪「私は参りません」
政「そんな事を云っては困りますよ」
雪「困ると仰しゃっても、あなた私が当家へ参りまする時に何と御意遊ばしました、お前は伊之さんのようなあんな善い立派な亭主を持って誠に仕合せだ、伊之さんは男も美し、才気の有る人ゆえ、それだけの働きが有るから、他に妾ぐるいをなさるまいものでもないが、たとい何んな事が有っても悋気をして離れるような事があれば、二度と再び顔を見ない、紀伊國屋の家を出れば兄妹ではないとあなたが御意遊ばしたことが有りまするし、それに女は縁付いてまいりました家を家とするが女の道だと仰しゃったお言葉を守って、私は御看病をして居りまするものを、悪い廉も無いのに去られるわけは有りません、もし悪い廉がございますなら幾重にもお詫をいたしますから、何うか其の御離縁状を若旦那にお返しなすって下さいまし」
政「書付を返すというわけにはまいりません、もう取ッちまったんだから」
雪「あなたが御勝手にお取んなすったので、お父さまも私を出す思召はない御様子なのを、あなたが無理に喧嘩仕掛をして書付をお取んなすった事を私は薄々存じて居りまする」
政「安兵衞さん、彼方へ往って下さいよ、お前さんが其処に居ちゃアいけません……お前が此処に居ると伊之さんの病気が癒らんのだよ」
雪「いえ、私は一生懸命で不動様へ御願掛をして居りますから御全快になりますよ」
政「ナニお前さえ此処を出てしまえば、伊之さんの病気は癒ると云うのだよ」
雪「いえ、私は死んでも此家は出ません」
政「困りますねえ、お前は今まで兄さんの言葉を背いたことはないじゃアないか、第一私の恥にもなり、お母さんも心配なすって入っしゃるから、伊之さんばかりが男じゃ有りません、立派な処へまた縁附けるから一緒に往ってくれないと私が困りますよ」
雪「参りませんよ」
政「何故そうだ」
雪「今まではあなたのお言葉を背いた事は有りませんが、今度に限って私は背きます、出て行けと仰しゃるのは御無理でございますから」
政「困るじゃア有りませんか」
雪「困ると仰しゃっても私はもう七月に成りますもの」
政「それは知ってるよ、知ってゝ云うんだから、兄さんが重々無理だが、能く考えて御覧、お前が此家に居ると伊之さんの病気が癒らないから、お前を出しちまって、死んだ花魁の位牌と祝言の真似事するとか、婚礼の真似事をすれば癒ると云う事なのだよ、けれどもお父さまは義理が堅いから、仮令伊之助は死んでも嫁の離縁は決して出来ないと云うのだから、お前が何処までも剛情を張って、これなりで居れば、お前は宜かろうが、伊之助さんの病気が癒らないで足を切ったら何うする、お前もそれ程大事な亭主の病気が全快しないのではいけますまい、お前の悪くないことは私も知って居る、寝る目も眠らずに看病をして居るくらいのものに出て往ってくれろと頼むのは、実に悪い、私が悪い、けれども、何うしてもおまえを連れて帰らなければならない私の義理に成って居るのだよ、お父さまが忰は死んでも出さないと仰しゃるからって、私はおまえを置いては往かれませんから、私のいう事を聞いてくれなければ、宜うございます、兄さんは帰りがけに船の中から河の中へ飛び込んでしまいます、それでも宜いかえ、往っておくれよ、お前は離縁状を取って去られても貞心な立派な嫁だ、私も困るから往っておくんなさい」
雪「はい……まいります、まいりましょう」
と涙ながらに漸と申しますと、政七は態と大声で
政「不具の亭主を持たしちゃア置かれないから、サッサとお往でよ……番頭さん〳〵」
安「へえ何うも何とも何うも誠にお気の毒さまな訳でございますが、種々茲に何うもソノ変なことがございまするので、実にお嬢さまへは何ともお気の毒さまな訳で相済みませんが、ホンの当分おまじないを致しまする間と思召しを願います」
雪「どうぞアノお母さまにそう仰しゃって下さいまし、痛む方の御足へ斯う枕を取外す時には、何うも男の手では痛いから、女が宜いけれども慣れない中は痛いと仰しゃって、私にばかり仰せ附けでございますが、私が居りません後は、恐れ入りますけれども、今晩からお母さまにどうぞ私に代ってお柔らかにお枕の取替をなすって下さるようにお言伝を願います、まだ種々申したい事も有りますけれども、哀しくて胸がふさがり、何も申すことが出来ませんから、何うぞそれだけ仰しゃって下さいまし」
安「何うも変なことになって居りますのでございまして、何ともどうもハヤ」
政「馬鹿〴〵しい、早くおいでなさい、離縁を取ってしまえば其の亭主の足がおっぺしょれようとも構うものか」
と態と暴々しいことを云うのも此処の義理を思うからで、腹の中では不便とは思いましたが、拠なく政七は妹の手を引いて出てまいる。後へ入れ違って矢切の婆さまが這入って来るという、これから位牌と婚礼でございます。
さて此の度のお噺は位牌と婚礼を致す処でございます。位牌と婚礼を致しました者は天下に二人で、其の頃の紀伊國屋の息子と若草という遊女の位牌と婚礼致し、近くは澤村田之助が芸者の位牌と婚礼致しましたが、おかしな訳でございます。今田舎気質の婆さまが正直に若草の位牌を脊負って這入ってまいりました。
安「さア何卒叔母さん此方へお這入りなさい、御遠慮なしにずッとお這入りなさいまし、エヽお内儀さんえ、矢切村の叔母さんがおいででございます」
内「おや、さア何卒此方へ……お初にお目にかゝります、私は伊之助の母でございます、此の度はまた忰が年の往きません故何かと行届かん勝で、安兵衞が、私に打明けて話を致しますれば、斯んな事にも成りますまいものを、皆なお前が行届かないからだって小言を申して居りました、それにあなたも御立腹なさり、花魁も伊之助の胤まで孕して苦労をなすったという事ですが、それ程までに忰を思っておくんなすったは、御商売柄には似合わない真実なお人だってね、私どもが知って居りますれば、何の一人や二人の妾を置く人は世間に幾らも御座いますから、どうでも成ったものを、誠に惜しいことをしたってね、後悔致しましたが、今更仕方がございません、けれども、それがために斯んな病気に成りましたのですから、あなたの心も解けて御得心の上入らしって下すったのでしょうから、私も大きに安堵致しました、何うか幾久しく、これからは伊之助の真実の叔母さんにお成んなすって下されば、伊之助も又あなたのお力に成りまする心得でございますから、幾久しゅう願います」
しの「これはお初にお目にかゝります、私は矢切の婆アでございます、今度は又飛んだ行違えから伊之助さんがえれえ病になったと云うは、私どもで怨んでるという訳なんで、何とはア諦めの悪い婆アだと思えなさるか知りましねえけンども、若草も実は伊之助さんの事でいろ〳〵辛苦尽して、勤めの中での病み煩い、私も若え時分にア随分苦労をしたでごぜえます、がそれも得心の上なんでがんすから愍然げだと思召してね、影も形も無え若草と婚礼しろってえのは無理な訳でござえますが、それに今承りますれば咎も報も無え嫁ッ子さんが離縁になって兄さんが小言をいいながら船へ伴れ込むと、嫁さんが私のような詰らん身の上は無えって、泣きながら船へ這入るのを見て、何んとハアお気の毒なわけだアと思って、私イお隣で泣いていましたが、死んだ若草に意見の仕様も諦めさせ様も無えから、形も無えものを生きて居る心持で婚礼でもして下すったら、若草も成仏して、伊之助さんの病も癒ろうかと存じまして、私が参った訳でごぜえますから、何分にも何うか婚礼の真似事だけをネ番頭さん」
安「ヘイ宜しゅうございますが、御内儀さん、若旦那様も御病気の服装でも何んでしょうから、一寸御紋付物か何かのお支度を成さいましては如何です」
内「あれの物は一通り此方の土蔵に来て居るから出して着せましょう」
と黒斜子の五所紋の上へ行儀霰の上下を着け、病耄けて居る伊之助を、褥へ寄掛りを拵えて、それなりズル〳〵座敷へ曳摺り出しますと、
伊之助「もし叔母さんおいでなさい、誠に私は行届かない事から、叔母さんにまで御立腹をかけて何とも申訳が有りません、みんな私が悪いんですから、何うか私の業病の癒るようにお前さん守っておくんなさい」
しの「はい……えらく痩せたね、誠にお前様を見ると私は思え出しますが、若草もお前様の児まで出来して何うも案じるとも案じねえとも、昼夜お前様の事をいい〳〵泣明しておッ死んだアから、愍然だと思って婚礼をして遣ってお呉んなせえ、ね番頭さん」
安「へー左様で何でも早い方が宜しゅうございます、伊兵衞や灯火を持って来ねえ、お料理や何かの支度は出来たかえ」
伊兵衞「湯葉の大きいのがございませんのでお平が出来ません」
安「お前何を誂らえたんだ」
伊兵衞「何をってお料理を拵えますんです、お精進にて」
安「精進じゃアない、御婚礼だから蛤のお吸物に尾頭つきでなければ出されません」
伊兵衞「でもお位牌との婚礼ゆえ残らず御精進にいたしました」
安「生きて在らっしゃるつもりでするんだから、本当の婚礼の式でなければいけません、尾頭つきに何かお芽出度いものでなければ成りません」
しの「いえ何でも宜うがす、無駄だから、それに位牌を戴ける机を一脚」
安「ヘイ〳〵畏りました、伊兵衞や机を一つ持って来てくんナ」
伊「へい」
と机に花立や線香を持って来ました、
しの「いえナニ花立や線香は要りません」
安「生きていらっしゃる積りだから、そんな物を持って来ないでも宜いに」
と是から婆さんが机の上に位牌を飾る、其の内にお料理も出ました。
しの「さア何うぞ番頭さん、あなたが盃を若草から先へ酌いで遣っておくんなせえまし」
安「へえ此のお盃はお机の上へ載せますか、斯様なことは初めてでございますから何うも勝手が分りません、これへ酌ぎますか」
しの「はい」
安「宜しゅうございます」
と机の上へ据置いた若草の位牌の前へ盃を置き、なみ〳〵酒を酌ぎました。
しの「アヽ宜うござえます、これ若草汝は伊之助さんより他に男はねえと思え詰めて夫婦約束までしたが、お互えに物の間違えから児まで出来して、汝え先へ死んだが、今じゃア伊之助さんも汝がに済まねえといってな、義理いある嫁まで離縁して改めて汝と盃いするッてえが、此の煩ってる身体で嫁ッ子を出せば何のくれえ不自由だか知んねえのに、離縁して汝と盃いするッてえから汝も是から伊之助さんを、影身に附添うて、何うともして伊之助さんを守らねばなんねえぞ、これで汝の思う心も届き伊之助さんと盃いすれば斯んな嬉しい事は有るめえ、己も嬉しいから汝飲んで伊之助さんがに献すだアよ若草」
と田舎気質の婆さまが、さも〳〵位牌の前のところに若草が、病耄けた姿でこう首を伸べ、片膝を立てゝ其の上へ手を載せて生きて居るように云うので、伊兵衞も安兵衞も前々から種々怖い事ばかり引続いて有りますのですから、ぞッと総毛立ちました。
伊兵衞「南無阿弥陀仏〳〵」
安「何だ御婚礼に念仏をいう奴が有るものか」
と云ってると、不思議な事には誰も机の傍へ寄りもしないのに、位牌の前に据えた盃がひッくりかえり、酒が溢れてポタ〳〵滴りました。
安「お盃がひッくりかえって、お酒が溢れたのは御意に適わんのではございますまいか」
しの「ナニ若草が飲んだで御座えましょう、飲んだら汝え直に伊之助さんがに献すだアよ」
安「へえ召上ったのでございますか」
しの「あなた盃を取って献げて下せえな」
安「私には何うも取りにくうございます」
と云うは怖いからで、叔母が取って伊之助に献し、
しの「酌いで進げて下せえよ」
というので安兵衞が酌をする、伊之助は痛む方の足を出し盃を口元まで持って参りますと、不思議な事には軒端から一陣の風がドッと吹き入りますると、今まで点いて居ました灯火が一時に消えましたから、伊之助もぞッとするほど身の毛立って、思わず持って居ました盃をバタリと取落すと、痛む方の足へ酒が掛りまして、其の染る事というものは一通りなりませんから、
伊「アヽ痛い」
と思わず発した声にまた驚き、
伊兵衞「南無阿弥陀仏〳〵」
安「また念仏を始めた、灯が消えたから早く灯火を持って来な」
伊兵衞「へえ」
と怖々出て往ったが慌てゝおりますから、火打を出してカチ〳〵うちつけ漸やく灯火を点けてまいり、座敷の燭台へ移しました。するうちに始まりは大層染みたように思いましたが暫く過ぎると前より少しは痛みが去ったようでございまする。
伊之助「実に不思議な事だ、大きに凌ぎよくなった……兎に角今晩はお泊んなさい、芽出度く祝すから」
というのですが、芽出度いとは云い難いわけで、すると其の晩は伊之助の足の痛みが大きに軽くなりましたが、枕元には婆アも看病人も附いて居りまする。これは只今申しますると神経病とでもいうのでしょうが、あり〳〵と若草が伊之助の枕元に坐って居りまして、伊之助の腰のもとへ来ては細い手を出し、伊之助の腰を撫摩り致しまする姿を見た者が三人有ったといいまするが、只今斯様なお話を致しますると嘘のようで。これから段々伊之助の足の痛みも一日増しに快方に赴きました処へ、又上手なお医者が来て診察をして此の薬をお用いなさいと云うので、だん〴〵全快して参りましたから、叔母には多分の手当をして上げようと申しましたが、堅くって中々受けませんので無理やりに持たして田舎へ帰し、時々泊り掛に遊びに来て下さいと親類同様にして帰したから、此方の納まりは附きましたが、詰らんのは岡本の妹娘のお雪で、咎も無いのに離縁をされ、くよ〳〵して親の傍に居り、近処へも出ることが出来んというは、七月のお腹で去られたは何か悪い事でもして来たんじゃアないかと、世間の口を思い計りて湯に往くことも出来ませんから、兄が宅へ湯を立てゝ入れるような事にして居りましたが、歳のゆかん娘気に思い違いを致し、一層尼にでも成ろうと心を決し不図家出を致しましたが、向島の白髭の傍に蟠竜軒という尼寺がございます、是へ駈込んで参りましたが、其の頃道心堅固の尼が居りまして、名を美惠比丘尼と申して、年齢は五十四でございましたというが、まだ水々して居りまして、一寸見ると四十一二ぐらいで御座います、誠に若く見えます。木綿ではございますが、鼠の着物に鼠の腰衣を着け、気力の有りそうなお比丘尼でございまする。大層お弟子も在りまするが皆因縁の悪い者ばかり弟子に成りますのですから、満足の者は一人も居りません、唖頑聾或は悪い病を受けて鼻の障子が無くなって、云うことが解らなくって、足が歩く度にヒョコ〳〵跛足を引いて、時々転んだりするようなやくざものばかり居りまするが、門番は無いから門を這入り、こわ〴〵台所口へ這入った頃は、もう日がトップリと暮れました。奥の方では看経を致すものもあり、本堂でお経を上げて居るものもありまして、種々働いて居りまする。
雪「御免なさいまし……御免なさいまし」
尼「はい、何方からおいでだ」
雪「私は誠に因縁の悪い身の上の者でございますから、尼に成りたいと存じまして、態々参りましたもので、何うか尼様へお願いなすって、お弟子になすって下さるように、何うかあなたからお願い遊ばして下さいませんか」
尼「何方のお人じゃえ」
雪「深川の方の者でございます」
尼「そうですか」
と云いながら奥の方を振向き、
尼「思行さん、妙桂さん、アノ一寸和尚様に告げてお呉れな、深川の方の娘さんじゃそうだが、十八九に成る方で、因縁が悪いからお弟子になり、剃髪して尼に成りたいと云っておいでだから、一寸和尚様に告げてお呉れえ」
妙「ファイ」
と鼻の障子の無くなった尼が和尚の居間へ参り、
妙「お師匠はん何んひゃか深川辺の者やとひゅうて、十八九になる娘で御座えまふが、誠に因縁が悪いはら、尼に成りたいと申ひて来まひたが、如何致まひょう」
美惠「おまえの云う事はちょッとも解りやせん」
と云いすて、暫らく手を膝に置き、眼を閉じて考えて居りましたが、
美惠「イヤ〳〵その娘さんは因縁が悪うて尼には成られんから、お帰し、懐妊の身の上で有りながら尼に成っても無駄な話だ、身重の身体で尼に成られるものか、断って帰しなさい」
と低い声で云うようだが美惠比丘尼の云うことはピーンと台所まで響き、お雪の耳を貫ぬくように聞えましたから、お雪は心の中で、
雪「アヽ恐れ入ったお智識様、成程私は身重の身体で尼に成ろうと思ったは迷いで有った、アヽ因縁の悪い身のうえ、一層の事一思いに身を投げて死ぬより他に仕方がない」
とおろ〳〵泣きながら蟠竜軒を出て、向島の土手伝いに帰って参りますと、ポツリ〳〵と雨が顔へ当ります。只今は八百松という上等の料理屋が出来ましたが、其の時分あの辺は嬉しの森と云いまして、樹木の生茂りて薄暗うございまする。枕橋へかゝると吾妻橋が一目に見えまする。お雪は我家の方を向き、
雪「お母さま、お兄い様、先立ちては済みませんけれども、私は何の顔下げて何う世間の人に顔が合わされましょう、伊之さんとは迚も添えない私の不運、不孝者とお叱りもござりましょうが、不便の者と思召して下さいまし、南無阿弥陀仏〳〵」
と口の中にて称名を唱え、枕橋の欄干へ手をかけて、ドブンと身を跳らして飛込みにかゝると、後に手拭を鼻被りにした男が立って居りましたが、この様子を見るより早くお雪を抱止め、
男「姉さん泡を喰ッちゃアいけねえ、何だか様子が変だと思った……これサ待ちねえというに……それは何うせ能々のことに違えねえ、何だかわけは解らねえが、マア待ちねえというに、安やい」
安「ヘイ」
男「一寸此処へ来ねえ」
安「何でごぜえやす」
男「身投だ」
安「エヽ出ましたか、気味の悪い」
男「この娘さんだ」
安「ウン、綺麗な娘さんだ」
雪「誠に相済みません」
男「娘さん、そう無闇に泣いてばかり居ちゃア仕様がねえ、訳は大概極ってる、亭主に嫌われて離縁され、世間へ顔向けが出来ねえとか、内証に情夫が出来て親に面目ねえんで死ぬのか知らねえが、今の若さで親に先立て済む訳のものじゃアねえ」
安「本当にそうです、親兄弟に歎きをかけては済まねえ……美しい女ですね」
男「私は斯んな胡散な形姿をしてえるから、怪しい奴だと思おうが、私は伊皿子台町にいる船頭で、荷足の仙太郎という者です」
安「本当です、伊皿子の仙太郎親方という恐ろしい気象の親切なお方だから大丈夫だ、平気のへのへで居ねえ」
仙「何だ平気のへのへてえなア兎も角も船の中へお伴れ申せ」
安「宜うごぜえやす」
仙「危ねえから娘さんの手を曳いて上げな」
安「私がかえ得心ずくで斯んな美しい娘さんの手を曳いたのは生れて初めてだ」
仙「何だ背中へ手を掛けるな、一生懸命でおいでなさるのに」
と云いながら、枕橋を渡って、向うの枕橋を渡りにかゝると、又土手ッぷちで首を縊ろうとしている者が有りまするのを仙太郎が目早く見つけ、
仙「首縊りがあるぜ」
安「ヘエ、今夜は滅法界に人の死ぬ晩でげすナ」
仙太郎は首を縊ろうとする男の腰車を担ぎ抱止めて、能々見ると刀屋の番頭重三郎ゆえ恟り致し、二人を同伴して我家へ立帰りましたが、荷足の仙太郎の宅は伊皿子台町でございますが、只今もって残りおりまする豆腐屋がありますが、彼の家は草分だと申すことで、旧い家でございます。その豆腐屋の一軒置いて隣が仙太郎の宅で、好い家ではございませんが、表には荒い格子が嵌って、台所には腰障子が嵌めてありまして、丸に仙太というのが角字でついて居ります。鬼の女房に鬼神の譬え、似たもの夫婦でございまして、仙太郎の女房お梶は誠に親切者でございまするから、可愛相な者があれば仙太に内証で助けて遣りました者も多くあります。丁度申下刻に用を終って湯に往くというので、鳴海の養老の単物といえば体裁が宜いが、二三度水に這入ったから大きに色が醒めましたが、八反に黒繻子の腹合せと云っても、山が入って段々縫い縮めたから幅が狭く成って居りまする、其の上にお召縮緬の小弁慶の半纒を引掛け、手拭糠袋を持って豆腐屋の前を通りかゝると、六十の坂を五つ六つ越したかと見える巡礼の老爺が、汚れ果てた単物の上に負笈を掛け、雪卸しの菅笠を冠り、細竹の杖を突き、白い脚半も汚れて鼠色に成ったのを掛け、草鞋を穿き、余程旅慣れた姿の汚ない姿で、三十三番の内美濃の谷組の御詠歌を唄ってまいりましたが、巡礼の御詠歌を唄うは憐れなものでございまする。すると向うからガフーリ〳〵朴歯の下駄を穿き、鉄骨の扇を手に持ち、麻の怪しい脊割羽織を着、無反の大小を差し、何処で酒を飲んだか真赤に成って、頬から腮へかけて一ぱいに髭の生えて居る恐ろしい怖い顔の侍が、ヨロ〳〵ッと踉けてまいり、巡礼の老爺さんに突当ったから、老爺が転ぶと侍が其の上を飛び越して向うの泥濘へ転がりましたが、自分で突当って置きながら怒りまして、巡礼を捕らえ続け打ちに殴ちましたから、禿頭へ傷が出来ましたが、侍は尚お足を揚げて老爺さんを蹴返しました、物見高いのは江戸の習いゆえ大勢人が立ちましたが、誰有って止める人も有りませんから、仙太郎の女房が見兼て中へ這入り、威り狂っている侍に向い、
かぢ「まア待っておくんなさいお腹も立ちましょうが」
侍「イヽヤ勘弁相成らん、不埓至極の奴だ、往来の妨げをして、侍たる者の袴へコレ此の通り泥を附けて、拙者の折屈を突いたから俯ったのだ、勘弁相成らんから八山へ参れ、斬殺して遣るから」
かぢ「然うでも有りましょうが、斯んな老耋れた老爺を斬ったって殴ったって仕方がないじゃア有りませんか、それは重々悪いから此の通り私が謝まりまするから、どうぞ勘弁して下さい、斯んな者を斬ったって、なにもお前さんのお手柄にも成りませんじゃア有りませんか、成り代って私がお詫をしますから勘忍して下さいな」
侍「イヤ、了簡相成らん」
かぢ「お前さん何んですね、そんな事をいうと品川の女郎衆が笑いますよ」
侍「ヘン何を笑う」
と云いながら思わずおかぢを見ると、歳は三十二三で小粋な女でございますから見惚れて、
侍「これは何うも、お前は感服だねえ、斯様に大層見物もいるが、誰も皆恐れ入って止めに這入るものが無いのに、女の身として聊か憶する気色も無く、速かにこれへ出て挨拶をなさる御様子といい、御器量と云い実に感心した」
かぢ「感心も何も有りませんから私のいう事をきいて、私にまけて下さればお多福の鼻が高く成りますから、斯んなものにからかわずに、早く品川へでも往らしって、顔を見せて、あの娘を悦ばしてお上げなさいよ」
侍「イヤ何うも感服だね、様子の宜い御家内だ、宜しい全体勘弁を致すわけじゃアないんだが、女の身として侍を恐れず、中へ這入って挨拶する胆力に感服いたしたから、宜しい勘弁致そうが、お前にお世話に成って是なりに別れるのも甚だ何うも私の気が済まんから何処へ往って一杯遣ろう、エ、一寸一ぱい」
かぢ「いけませんよ、まア戴いたも同じことですから許して下さい」
侍「宜いじゃアないか、一寸何処かで一ぱい遣ろう、お手間は取らせん少しの間」
かぢ「いけません、困りますもの、後生だから勘忍して下さい、私のようなお多福でも亭主が有りますもの、お前さんのような粋なお侍と差でお酒なんかを飲むと、親指が嫉妬を焼いて腹を立ちますよ、お前さんがもっと男が悪ければ宜いけれども、余り様子が宜いから迷わアね」
侍「一々どうも旨いねえ、そんならば御尊宅へ出よう、お宅で御亭主の前で御家内へ一献差上げたい、斯様々々のわけで御挨拶をして下すったから、それなりお別れ申しては済まない、亭主のあるお身の上ということだから、左様なら御亭主の前で飲んだら宜かろうという訳でまいったと申して、御亭主へも面会して、三人で一緒に飲ろうじゃないか」
かぢ「狭くっていけませんよ鼻が閊えて這入られませんよ」
侍「イヤ是非ともお宅へ出よう、何うか先へ立ッてって下さい、お宅は何処だ」
かぢ「お宅だっていけないの、此の坂を下りてちょいと向うへ曲って、また左へ曲って、一廻り廻って向うの横町に附いて往くと、菓子屋だの蕎麦屋だの種々なものがあるから、其の間を這入って、突当りが手水場だから、其の傍の井戸へ附いて左へ曲って、右へ往って変な処をクル〳〵廻った角でございますのサ」
侍「些とも分らん、篦棒な、それじゃア別れに致そう、左様なら、誠に御無礼」
とガラ〴〵高下駄を引摺りながら往きますと、見物が馬鹿ヤイ、助平侍などとからかうものが有りまする。お梶は巡礼の老爺さんに向い、
かぢ「どうも酷いめに逢ったの、可愛相に大層傷が附いたの」
巡礼「はい、御新造様有難うございます、あのお方が踉けて来て突当りましたから、私が前へ転ぶと、私の上を飛び越して転がったのでございますのに、私を下駄で踏んだり蹴たりなさいました、私は蹴られても踏まれても宜うございますが、負笈には三十三番のお札所を打ってまいりましたから、お札が這入って居りますゆえ、彼の人の足でも曲らなければ宜いと存じまするくらいです」
かぢ「足からも血が出るようだよ」
巡礼「突飛ばされた時に石へ膝を突掛けましたので」
かぢ「おう〳〵大層黒血が流れる、私の宅はツイ一軒隔いて隣だが、直に癒る宜い粉薬が他処から貰って来てあるから宅へおいで」
と無理やりに連れてまいりまして、薬を取出し、老爺さんの膝に振かけて遣り、
かぢ「其の上を手拭で巻きな……そう手拭を引裂いてはいけない、幾らも有るから新しいのを遣るよ」
巡礼「はい有難う、御新造さま、誠に結構なお薬と見えて少し痛みが去りました」
かぢ「宜い薬だよ売り物には無いのだ、お前は芝の新網か橋本町辺から出るのかえ、何処かお前修行に出るとこが有るだろう」
巡「いえ、私は世帯を持って居りまして日々修行をいたす身の上では有りませんが、四国の八十八箇所、卅三番へもお札を打ちまして、漸く江戸へ帰って参りましたが、何うか江戸の八十八箇所へもお札を打ちたいと存じ、方々廻り、此の白金の高野寺が打納めでございますから、お詣りをして此処へ来かかりましたところ、お侍に蹴られましたから弘法さまのお叱りではないかと、日々浮ぶ悪い心を思い直して心配して居りまするが、誠に有難う存じまする」
かぢ「何処へ泊るのだえ」
巡「別に家もございませんから、お寺様のお台所へ寐かして戴いたり寺中の観音さまのお堂のお縁端へ寐たりいたして、何処と云って定まった家はありません」
かぢ「なにか因縁が悪いんだね、今夜は己の家へ泊めてやろう、少し志す仏さまが有るから、お汁に野菜でお飯でも喰べな」
巡「いえ、何ういたしまして、斯んな穢い老爺を」
かぢ「あれサ、宜いから泊んなよ、おらン家の亭主は慈悲深い人だから何も気遣するにゃア及ばねえ、事に依ると単物の一枚ぐれえくれるぜ、遠慮しねえが宜い、親方が帰ったら己が話をして遣るから」
巡「はい大きに有難う存じまする、助かります、お志とあれば頂戴致しましょう」
かぢ「そこの井戸で水を汲んで、足を洗って此方へ上んな」
と是から上へ上げ、御馳走をしまして、
かぢ「それじゃア疲労れてるだろうから、あの二畳へ往って木片を隅の方へ片付けて、薄縁を敷いてお寐」
とお老爺さんを寐かしましたが、お梶は貞女でございますから、亭主の帰らんうちは寐ません。そのうち段々夜が更けてまいりました。
仙「おいお梶」
かぢ「あい、寝やアしないよ、今明けるよ」
と戸を明け、
かぢ「あんまり遅いから何うしたかと案じて居たよ、安さん御苦労」
安「誠にお案じでございましょう、エヽ拠ない事があって、へい」
かぢ「重さんは何うした」
安「宜い塩梅に居たんで」
かぢ「何処に」
安「何処にたって枕橋で首を縊ろうとしてえたんで」
かぢ「あらまア何うも」
仙「這入ってから云え、立ってゝグズ〳〵云わなくっても宜い、重さん此方へお這入りなせえ」
重「へい」
とオズ〳〵這入りました。
かぢ「重さんまア何うしたんだねえ、私は亭主に何んなに小言を云われたか知れやアしないよ、死んでしまうという置手紙が出たもんだから、死ぬ程のことだのに、様子の知れねえことが有るものかって、私は本当に眼の球の飛び出るほど亭主に小言を云われたよ、そんな軽はずみな事をして」
仙「上りもしねえ内からぐず〳〵云うな、まア上ろう、お嬢さん此方へお這入んなせえ」
かぢ「おや〳〵おいでなさい」
仙「お、この嬢さんは枕橋から身を投げて死のうと云うとこをお助け申したのだ」
かぢ「何処のお嬢さんです」
安「何処のお嬢さんたッて、親方が此のお嬢さんを助けて来たんです」
かぢ「あらまアどうも、親方が命賭で気を揉んで、お前のために騒いで居るのに、浮気をして心中なぞをするのなんのってサ」
仙「何をいうのだ、そうじゃアねえ、グズ〳〵余計な事をいうな、お嬢さんマア此方へお上りなさい、お梶此のお嬢さんは番頭さんの御主人さまの、万年町の刀屋のお嬢さんなんだよ」
かぢ「それじゃア奉公をしているうちから深い中でいたのかえ」
仙「然じゃねえよ、いろ〳〵深いわけがあって身を投げようとする処を助けたんだ、妙じゃアねえか、両人を助けて船へ乗せると、互に顔を見合わせて、オヤ万年町のお嬢さんか、重三郎かというわけで、おつれ申して来たんだ、心中じゃない別々なんだよ、緩くり話をしなければ解らねえが、コウ重さんお前も不思議な縁で、去年の正月五日の晩万年橋の欄干で首を縊ろうとするとこを助け、恩にかけるんじゃアねえが、宜いかえ重さん、お屋敷へ刀が納まれば宜いと思って、目途の無い事でもねえというのは、売る事も質に置く事も出来ねえから、当分はあの侍が差料にして居るに違えねえと思って尋ねて居たが、盗んだ奴の形は己が知ってるし、顔ア安さんが知ってるから直に知れるだろうと思ってたが、いまだに分らねえから、お前が何時までも己の厄介に成ってるのは気の毒だ、一層死んだら親方に難儀を掛けめえ、苦労をさせめえと云って死のうとするんだから、己に義理を立てる積りだろうが、重さんが死んで仕舞えば万年町のお店へ何と云訳が出来よう、人の奉公人を助けたら知らせないと云うことはねえから、無沙汰で番頭さんを引留めて置いた云訳に、お刀を探し出してお店へ往く積りだったが、お前が死んでしまえば刀の目利をする者がねえ、己にゃア分らねえ、然うじゃアねえか、こう段々遅れに遅れたんだから、何うでも斯うでも刀を探し出さねえ内は万年町のお店へ往く事が出来ねえんだから、仙太も苦しい身の上に成ったは、よもやにひかされたのだ、番頭さんも神信心をして一生懸命に成ってるから、何うか刀が出るだろうと思うんだが、出ねえまでもお前を連れてッて詫ことをしなけりゃア己が押付かねえんだから、死ぬのは止めておくれ、そう泣いてたッていけねえ、気を確りしねえ、男らしくもねえ」
重「はいはい、何とも申し訳はございません、これまで種々御苦労を掛けた親方へ、何時までも御心配を掛けては相済みませんから、私さえ居ませんければ御迷惑も掛けまいかと思って、ツイ心得違いをいたしましたが、どうぞ御勘弁を願います」
仙「侍へ喧嘩を吹ッ掛けるなんてえ気違じみてるが、これも皆なお前のためだ、この嬢さんは他に何んとか云ッたっけ、そう〳〵紀伊國屋という滅法に立派な家へ嫁付たのだが、其の若旦那とかいうのが滅法に美い男なんで、他に情婦が有って、其の情婦が死んでしまって怨んで祟って何うとかして化物が出るとかいうので、此のお嬢さんと夫婦に成ってれば、其の若旦那の病が癒らねえから、仕方なしにお離縁になったが、大きな腹ア抱えて世間に顔向けが出来ねえ、外聞が悪くって生きて居られねえッて、枕橋から身を投げるとこを助けて、船へ乗ろうとすると、又重さんが首を縊ろうとしてえたから、また助けて船へ入れると、オヤお嬢さん、オヤ番頭かと云って主従邂うというは妙な事ではないか、そこで己の考えには、お嬢さんを万年町のお店へ送ってって上げて、実は番頭さんを去年助けたが、お刀が出たら〳〵と思って、今まで延々に成ったため御沙汰しねえは重々済みませんが、番頭さんを連れて来ましたと、お嬢さんをお助け申した廉で、番頭さんがお店へ帰れば方々手蔓も有って、刀の詮議も仕やすかろうと思うから、御主人へ話を付けるまでは、死ぬの生きるのッて軽はずみな事をしちゃア困るぜ」
と云ってる処へ、二畳の障子を明けて出て来たのは最前の巡礼の老爺さんでございますが、ものをも云わず重三郎の襟首を取って引倒して脊中を打ちました。
仙「何だ〳〵」
かぢ「この老爺さんは何うしたんだ、寝惚たのかえ」
仙「何だ此れは」
かぢ「先刻豆腐屋の前で侍に殴たれていて、可愛相だから連れて来て泊めたんだが、何だよお前」
巡礼「はいはい、これは親方さんでございますか、まだ御挨拶もいたしませんで、此の者を手込に致しまして誠に相済みません」
と暫く泣き沈み、涙を拭きまして、
巡「ヤイ、手前何うして此処に助かッてる、己は手前が此処に居ようとは知らずに居たが、へー親方、私はこの重三郎の親父で、羽根田に居りました梨子売の重助と申すものでございます」
仙「エヽお前が重三さんのお父さんかえ、何うも妙だなア」
重助「ヘイ〳〵お嬢さま、後で御挨拶を致します、此のお嬢さまは御存じで居らっしゃいますが、去年の正月七草の日に、お嬢さんとお内儀さんが私の処へ入らっしゃいまして、重三郎は大切なお刀を取られてしまい、申し訳なさに万年橋から身を投げて死んだろう、死骸は知れないがとのお話で御座いますから恟り致しました、私も他に子供もない只た一人の忰でございまして、来年の暖簾を分けて下さると云うのを楽みに、年寄の身で重い梨子を担いで商売を致し、便りに思って居りまする此奴が、身を投げて死んだと聞いた時には、寧そ一思いに死んでしまいたいと思いましたが、まさかに死ぬにも死なれず、前世の約束ごとゝ思いましたから、家を仕舞っておい笈を掛け、罪滅しのために西国三十三番の札所を廻りましたのは、ひょッと面目ないと思って田舎にでも匿れてゝ、喰うや喰わずに痩せ衰えて居はしないか、それとも淵川へ身を投げても、観音さまの御利益で海辺へ流れついて居やアしないかと思って、観音さまへ無理な御願を掛けてよう〳〵と四国を廻って、一年半ぶりで江戸へ帰って来て、此処で侍に殺されるところ、此方のお内儀さんに助けられ、此方さまの御厄介になったわけだが、此処のお家に手前が助かって居るとは、実に夢のようなことでございます、はい、今彼処で聞いていれば、親方さんが手前の命を助けて下さるのみならず、命賭けで刀の詮議までして下さる御親切、それを無にして駈け出したということだが、手前のように死にたがる奴はねえ、そんな事をして此方に済むかえヤイ」
仙「老爺さん待ちねえ、お前の云うことは尤もだが、まア安心しねえ重三さんは去年の二月こッそり羽根田へお前を探しに往ったら、だしぬけに居なく成ったから、大方身でも投げて死んだろう、海へでも飛び込んだかも知れないというので、親父が然ういうわけに成っちゃア生きては居られねえって騒ぐのを止めて置いたんだが、重三さんはお前を死んだと思い、お前は重三さんを死んだと思ったのが、互にたすかってゝ、遇うてえくれえ目出度え事はねえから、何も打つにゃアあたらねえ、誠に妙なわけだ」
重助「はい〳〵何ともハヤ御親切さまのお心掛け、お礼の申し上げようもございませんが、ツイ腹立ち紛れに手込な事をいたしました、どうか御勘弁を願います」
仙「ナニ勘弁も何も入りやアしねえ」
安「親子とも助かってゝ無事に遇うてえのは、こいつア妙だねえ、何だって親子主従が死のうとして、枕橋でお爺さんが首を縊ろうとしたり、お嬢さんが巡礼になったり、重さんが身を投げたりして皆助ったんだからね」
仙「何を間違ったことを云うのだ」
安「成程同しようだから間違います」
仙「こりゃアねエお爺さん、斯うしようじゃアねえか、丁度宜いことがある、此の詫ごとに万年町に往く時に……こいつア宜い、何にしよう、老爺さんがお嬢さんを助けた積りで往きねえナ」
重助「どう致しまして嘘はいけません、四国を歩きます時なぞに嘘を吐いては旅は出来ません」
仙「四国とは違わアな、お前が枕橋を通りかかって、お嬢さんを助けたことにしよう、お前口がきかれねえなら己が喋るが、其の廉で己の詫ごとをお老爺さんがするんだ、それから重さんの詫ことをして元々通りに納まる事にしようじゃアねえか」
重助「何分宜しゅう願います」
仙「なにしても目出度えから一杯燗けねえ、併し明日の朝ではお嬢さんが近所へ対して間が悪いだろうから、日暮までにお連れ申すという手紙を先方へ出して置こう」
と仙太郎の慈悲から図らざることで親子主従が無事に助かりましたが、短夜ゆえ忽ちに明けまして、翌朝仙太郎が子分に手紙を持たしてやり、嬢さまは私が屹度お送り申しますからお迎いには及びません、私が参るまでお宅にお待ち下さいということを書いて送り、日暮から所有の船へ梨売重助とお雪を乗せて漕ぎ出し、万年の河岸へ船を繋って陸へ上り、
仙「此家かの」
ゆき「何だか極りが悪いようで」
仙「嬢さんも老爺さんも少し待っておいで、エ御免なせえ」
小僧「ヘエ、おいでなさい」
仙「今朝手紙を上げて置きました伊皿子台町の荷足の仙太郎というもんで」
小「ヘエ」
仙「今朝手紙を出して置きやした伊皿子の仙太で」
小「ヘエ」
と云ってると、奥の方で主の政七が、
政「常吉や何だえ」
常「ヘエ、何んだかアノ兎のベンタラコが今朝ほど手紙を上げたって」
政「そんなお名前が有るものか、エ、なに、今朝手紙……伊皿子の親分がいらしったのではないか」
と店頭へ出て参り、
政「ヘエ、入らっしゃいまし、何方さまから」
仙「エヽ、お初にお目にかゝります、今朝手紙を上げた伊皿子の仙太郎でごぜえます」
政「これは〳〵さアどうぞ此方へ、お言葉に従いましてお待ち申して居りました」
仙「少しお前さんに逢い難い人が有るんですから、お嬢さんだけ先へお這入んなさい」
政「さア何うぞ此方へ」
仙「そう御丁寧では却って困ります、粗忽もんでごぜえますから、ヘイ、お初にお目にかゝります」
政「これは始めてお目通りを致します、予て御高名のお噂は承わって居りまするが、初めまして、エヽ此の度はまた妹の事に就きまして御真実に今朝ほど細々との御書面ゆえ、仰せに従いまして迎いにも出しませんで、お足労を受けて誠に恐れ入ります」
仙「そう左様然らばで口をきかれると強気と困るんですが、末永く何分お心安く願えます……えゝお嬢さん此方へお這入んなせえ、お嬢さんはお連れ申しましたが、どうか小言を仰しゃいませんように願えます、親御や御兄弟衆は思い過しをして小言を云うもんだが、また駈け出すようなことがあるといけませんよ」
政「御尤でございます」
仙「お嬢さん能く考えて御覧なさい、去られたって、浮気をしたの、悪い事をして追い出されたのでは有りません、云わば亭主のために出たので、些とも恥かしい事はない、殊に只の体じゃアない、もう是れ七月という身重の身体でありながら、軽はずみな事をしては、腹へ宿した胤は紀伊國屋の旦那の胤じゃア有りませんか、お前さんは兎も角も腹の胤まで闇から闇へ遣っては去られた御亭主に済みますまい、何にも知らねえ私の様なものゝいう事だから、生意気な野郎と思召しましょうが、何うかきいて下せえ、お嬢さん御得心でごぜえますか」
雪「はい、はい」
仙「じゃアお嬢さんも御得心ですから、何にもお小言は仰しゃいませんように」
政「ヘエ〳〵仰せに従い何にも申しません、お母さんアノ仙太郎親方が」
母「おや〳〵これはどうもお初にお目にかゝります、此の度はまた段々有難う存じまする、もう私は昨晩からマンジリとも寝はいたしませんで、心配致して居りますると、今朝程のお手紙でホッと致しましたが、近所の者は神隠しにでも逢ったのだろうかと申しましたが、まさかそんな事もあるまいが、何ういうわけで出たかと申して居りましたので、誠に有難う存じました……お前此方へお這入りよ、何ういうもんだ、私は何んなに心配したか知れないよ、あのくらい意見をしたのに、何も其様にくよ〳〵思うわけは無いじゃアないか、私に相談もしないで黙って駈け出して」
仙「お母さん、然う小言を仰しゃってはいけません」
母「イエ何にも申しません、誠に有難うございました」
仙「実はね此のお嬢さんを助けたのは私ではない、助けた人が他に有るのです」
政「ヘエ誰方さまで」
仙「オイ老爺さん、重助さん此方へお這入りよ」
重助「はい〳〵」
と恐る〳〵座敷へ這込み両手を突きまして、
重助「誠にハヤお目にかゝれた義理じゃございませんが、皆様お達者で誠にお嬉しゅう存じます」
政「オヤ羽根田の重三郎の父親が来ましたよ、お母さん」
母「オヤ呆れますね、身を投げたとか海へ這入って死んだとかいう者が有ったが」
重助「へい、実は一年半ばかり四国西国廻りをいたしまして、漸く江戸へ帰ってまいり、思い掛ないことで仙太郎親方のお助けを蒙りましたので」
仙「ナニ後は己から種々お詫ことも申し上げるから宜い、お嬢さんが枕橋から身を投げようとするところへ、此の人が江戸へ帰り、通りかゝってお嬢さんを助けたので」
重助「イエ然ういう訳じゃございません」
仙「余計な事を云っちゃアいけねえ、就きまして私がお詫ことをしにゃアならねえのは、全体重助さんに云って貰うのだが、口が利けねえッていいますから、私の詫ことを私が喋りますが、此方の番頭さんは去年の正月五日の晩に、刀を取られて面目ねえって、首を縊ろうとするところを私が助けて、今まで匿まって達者で居ますので」
政「へえーお母さん重三郎が達者で居りますと」
母「フーム、重三が達者でおりまするか」
仙「それに就きまして、刀せえ出ますればお詫ことが出来ると思って、私に少し心当りが有りますから、よもやに引かされて今まで延々になりましたが、だん〳〵永くなればなるで、尚お刀を持って来なければお前さんに顔を合わせる事が出来ねえと、一年半も尋ねあぐんだが知れねえんだけれども、今まで人の奉公人を無沙汰で家へ引摺り込んで、匿って置くは、訳の分らねえ奴と御立腹でごぜえやしょう、重々私が行届きません、誠に済まねえが、此の老爺さんに免じて何うか御勘弁を願えます」
政「はい、何う致しまして」
重助「それに侍の姿も御存じで、手掛りが有るというので、侍に突当って喧嘩をなすって、刀を捥ぎ取って詮議をなすって、忰のために命賭の御苦労をなすって下さいましたとのことで」
政「それは誠に何うも恐れ入りました、有難う存じます」
仙「旦那え、妙な事が有ります、私が刀の詮議に市川の方へ往くと、高嶺から船の胴の間へ落ちた死骸は、稻垣小左衞門さまという人で、片手に一節切を握り、片手には黒羅紗の頭巾を持って血まぶれに成って落ちたので、重三郎さんが知ってたから私が引取って、白銀の高野寺へ葬って、遺物の頭巾と一節切は預かってあります」
と前の次第を細やかに話しますると、政七は大きに驚き、また親切を喜びまして頻りに感心致しました。其のうち酒肴が出てまいります。
政「親方何にも有りませんが、一口献げて兄弟同様の誼みを結びとうござりまする」
と酒が始まりましたが短夜のことゆえ、大きに遅くなりました。
政「今晩は遅くなりましたからお泊んなさい」
仙「船を河岸へ繋けてありまするからお暇を致しましょう」
政「でもございましょうが」
と無理に止められて、重助と一緒に店二階へ寝ましたが、人の家は何うも寝附の悪いもので、モジッカして居りまする内に、段々更け渡り、世界が寂といたし、聞えるものは河岸へ中る浪の音、微かに茶飯屋と夜蕎麦売の声のみで、寂と更けますると小声で云っても聞えます。
男「神妙にしろ、ジタバタしたって仕方がねえ、汝の家にア五百や六百ねえことはねえ、命が欲しけれア金を出せ」
という声が仙太郎の耳へ這入りましたから、これはてっきり下へ泥坊が這入ったな、こいつは大騒動だと思い、
仙「オイ老爺さん」
重助「ハア〳〵」
仙「オイ重助さん起きなよ」
重助「はい〳〵これは何うも、ツイとろ〳〵と疲れて寝ました、お早うござい」
仙「早くはねえ、まだ夜中だ、下へ泥坊が這入って、金を出さなけりゃア叩ッ斬ると云ってるよ」
重助「ヘエ泥坊が何処から這入りました」
仙「何処から這入ったか分らねえが、慌てゝ騒ぐといけねえぜ、キャアとかパアとかいうと斬られるから静かにして居ねえ」
と云いながら四辺を見ましたが、手頃の棒が有りませんから、三尺を締め直して梯子の上り端まで来ると、上り端に六尺や半棒木太刀などが掛って居ります。能く商人の家には有りまするが、何の役にも立ちません、煤掃の時に畳を叩くぐらいのもので、仙太郎はこれを見て半棒を下して片手に提げ、抜足して、そッと梯子を下りて縁側伝いに来ると、障子が閉って居りまするが、泥坊が舌で穴を明けて覗いたと見えまして、小判なりに平ったく穴が明いておりまするから、仙太郎が覗いて見ると、顔を包んだ侍が二人、一人は着流しでございまする、目深に冠り物をして、きら〳〵長刀を畳へ突立て。
賊「ジタバタしても役にゃア立ねえ、金の有ることを知って這入ったのだ、金エ出せ〳〵」
と云ってる奴は余程胆の据った者の様子。
政「ハイ〳〵只今手元に有合せた金子は有りません、皆な職方へ渡しまして、手元には漸く四五十両しかございませんから、何うか是で御勘弁を願います」
と慄えながら云うと、
賊「エヽ虚言を吐け、五十や六十の目腐れ金は入らねえ、其処に寝ているのは何んだ」
政「これは母でございます」
賊「島田髷が見えるが美い女のようだが何んだ」
政「これは私の妹でございまする」
賊「抱いて寝ても宜かろう」
政「これは亭主のある身のうえ、殊に懐妊して七月に成りまするもの、何うぞ御勘弁を願います」
賊「妊婦か、色気が無えナ」
乙賊「何うせ役にゃア立たねえから、諦らめて、命が欲しけりゃア有金残らずサッサと出して仕舞ったが宜かんべえ」
と一人の田舎者が与して居ります、仙太郎は覗いて見ると長いのを政七の眼前へ突き附けて居る奴は余程度胸の善さそうな奴で、後へ下って居る二人の奴は提灯持と見えまして、手に持った刀の先がブル〳〵震えて居りますから、此の度胸の据った侍から先へ殴ろうと思い、八角に削った半棒を持ち、五人力の力を極めて賊の車骨を狙って打込みまするお話でございますが、一寸一息。
仙太郎が岡本政七方へ泊りました晩に、強盗が三人押入りまして、強談をいたして居りまするから、仙太郎が欄間に掛ってありました赤樫の半棒を取って、そッと忍んで、二階の梯子段を下り、縁側伝いに来て障子の外から覗いて見ますると、三人ともきら〳〵する長いのを政七の鼻の先へ突き附け、頻りと威し文句を並べ掛合って居りまするが、其の内に深く顔を包んで上座に居る奴が頭で、他は手下と見えまするから、此奴から先に片付けよういうので、仙太郎が五人力の力を半棒に込めて、ものをも云わず飛び込んで、突然に腰の番いをしたゝかに打ちますると、パタリと横に倒れました、すると一人の着流しの奴がバラリと身軽に庭へ飛んで下りて逃げ出しました。尤も泥坊は皆逃げ所を明けて置くものだそうで、一人の田舎ッぺえのおかしい言葉の泥坊は、提灯持と見えまして、この有様を見ると
「ワー」
と云いながら腰が抜けて動けなくなってしまいましたから、仙太郎が続け打ちに無闇に打ちますゆえ、政七はこれを見て驚きましたというのは仙太郎が助けに出たのを泥坊が一人殖えたのだと思い、ブル〳〵慄えて居りました。仙太郎は力に任せて二人の賊を続け打ちに打って居ります。
甲「アイタ… 御免蒙る、全く貧の盗みでござる、命ばかりはお助けを願う、どうぞお免お助けを願う、全く貧の盗みで、御免アヽ痛い〳〵…貧の盗みで」
仙「嘘を吐け、こんな光る物を引ッこ抜いて、人を威かしやアがッて物取をするからにゃア人を叩ッ斬り兼ねえ奴だ、ふん縛って突出すから然う思ってろ…旦那何処もお怪我はありませんか」
政「ハイ〳〵有難う存じまする、誰方かと思いましたら仙太郎親方でございますか、実に私は昨晩とけ〴〵寐ませんから、今晩はグッスリ寐ましたところへ、突然に抜刀で頬を打たれましたから、驚いて目を覚して見ますると、あなた鼻の先へぎらぎら致しまする刃物をつきつけられましたから、私は口も何も利けませんような訳で」
仙「御尤でごぜえます、庭からでも這入ったんでしょうが、本当に油断も隙もなりゃアしません、戸締りを能くして置かなくっちゃアいけませんぜ、一人逃げやアがッたが、此ん畜生ヤイ此の野郎」
甲「御免なさい、真平御免なさい、拠ろなく頼まれて這入ったので」
仙「拠ろなく窃盗に頼まれて這入る奴が有るか、ヤイ此ん畜生、頭巾を取れ、よう、何処の奴だ、ヤイ侍、頭巾を取れ」
と云いながら、無理無体に泥坊の冠っていた頭巾を引剥ぐと、面目ないから下を向いて居りまする。
仙「番頭さん、オイお願えだが縄を持って来ておくなせえ、縛っちまうから」
と番頭が細引を持って来るを受取り、二人ともグル〳〵巻に縛って置いて、一人の奴の頭巾を取ると、ちょん髷頭の野郎で、おなじく下の方を向いて居りまする一人の侍は大結髪で、頭を上げず頻りと下ばかり向いて居りますから、
仙「ヤイ、名前を云え、ヤイ名前を云わねえか、何処の野郎だか所を云えよ、ヤイ」
甲「浪人の身の上で、喰い方に困りまして、悪いこととは存じながら、ツイ心得違いをいたし、斯様な邪非道のことに相成りましたが、向後は速かに善心に立返りますから、幾重にも御憐愍をもちましてお見遁しを願います、苟も侍たるものが、何程零落したとて縄目にかゝりましては、先祖へ対し家名を汚し、此の上ない大罪でございますから、何うか幾重にもお助けを願います、向後は速かに改心いたしますゆえ、何うぞお見遁しなすって、お裏口からそッとお逃しなすって下さいまし」
仙「誰が逃す奴が有るものか、容易に云わねえな此ん畜生、ヤイ、手前はなんだ百姓だナ、此ん畜生、侍の風かなんかしやアがッて生意気な奴だ、ヤイ、此の大結髪の奴の名前を手前云え、何」
乙「私はハア拠なく頼まれやして這入ったんだから、何うか御勘弁を願えます」
仙「手前は何うでも宜いが、此奴の名前を云えよ、何処の奴だ、云わねえと打ッ殺すぞ」
乙「へえナニ、申します〳〵、私は下矢切村の渡場の船頭で喜代松と云うもんでごぜえます」
仙「ナニ渡場の船頭だ、そうか、シテ此の侍は何か矢張手前の田舎か」
喜「へえ、それは国分村の人でごぜえやす」
仙「名前を云えよ、名前を云わねえかよ」
喜「どうぞ御勘弁を願えやす」
仙「云わねえな、うぬ、云わねえと打ッ殺しちまうぞ」
喜「云います〳〵、萩原束という浪人者でごぜえやす」
仙「一人逃がして惜しい事をしたなア、お爺さん、おい爺さん、もう宜いから下りて来ねえよ、おい」
重助「へえ〳〵、家根へでも逃げ出しましょうか」
仙「もう宜いから下りて来なよ」
重助「何処から逃げますか」
仙「逃げるんじゃアねえ、泥坊を生捕ったから下りて来ねえというんだ」
重助「誠に強いお方でございますな」
仙「泥坊を捕えたから下りて来なよ」
重助「はい〳〵畏りました」
とブル〳〵慄えながら二階から下りてまいり、
重助「旦那マアお怪我が無くってマアお目出度う存じます、私は何処から逃げようかと思って居りました」
政「親方そう泥坊をぶん殴って、憖いに殺しては却って係り合になりますから、ふん縛って突出したら宜しゅうございましょう」
仙「うん、ナニ国分村の萩原だと、聞いた様な名前だな、此ん畜生ヤイ面ア上げろヤイ」
と云いながら大結髪を握んでグイと頭を引上げると、盤台面の眉毛の濃い鼻の下から耳へ掛けて一ぱいの髭で、何ういうことか額の処に十文字の小さい刺青が有りまする。
仙「オヤ此の野郎見たような面だなア」
というと、侍は驚いて
束「これは何うも、誠にどうも、エヽ再び御面会致そうとは心得ませんでした、何うかお助けを願う、重々恐入りました」
仙「此ん畜生…オヽ違えねえ、手前は此の春矢切の渡場で町人を斬るの殴るのッてってる処へ、己が這入って手前を殴き倒し、向後斯んな事をすると聴かねえッて、見覚えのために手前の額へ十文字の刺青をして遣ったが、まだ悪事が止まねえナ此ん畜生め」
束「誠にはや何とも恐れ入りました、再度尊公様にお目に懸ろうとは存じませんでした」
仙「此ん畜生、旦那此の春私が重三さんと安という駕籠舁を連れて、松戸へ刀の詮議に往った時に出会した侍なんで」
重助「お前さん了簡違いでございますぞ、泥坊をなさるとは何たるお心得違いで、私は四国西国を歩いて来たが、四国には泥坊と云うものはございませんよ、お泥坊さんお聞きなさい、弘法さまの戒めで人に物を盗られても必ず旧の家へ帰ることになるという、持って逃げても矢張り窃まれた家へ戻って来るという、それが弘法さまの御利益で」
仙「そんな事を盗賊に云ったって仕様がねえ、悪々しい顔面アしてえやがるナ」
重助「オヽこの侍だ、親方昨日お宅から一軒隔いて隣の豆腐屋の前で、私を下駄で踏んだ人はこの侍でございます」
仙「ヤイ此ん畜生、何故そんな事をしやアがった」
束「昨日は誠に失礼、あの折は喰べ酔って居りまして、だん〳〵御無礼を申しました」
仙「此ん畜生ヤイ」
とまた拳を挙げて打ちました。
政「親方のお打ちなさいますのを私が見ておりまするのも心持が悪うございますから、縄を掛けて、裏町に御用聞をする新吉という人が有りますから、早速人を遣って知らせましょう」
仙「一人逃げた奴が有るが、其奴の名前を白状しろ」
束「それはどうぞ御勘弁を」
仙「何うせ素ッ首の飛ぶ身体じゃアねえか、云わねえと打ッ殺すぞ」
喜「あれは己ア村の丈助というもんですが、此処な家は金も有り、家の様子を知ってるから大丈夫だ、己が案内をするから来う、汝え一緒に往って沢山盗めば、余計に立ち前をくれべえというから、拠なく私は頼まれて参りやしたので」
仙「フーン……旦那丈助と云う奴にお心当りが有りますかえ」
政「親方、なんでございます、稻垣さまの家来に丈助という奴が有りまして、折々私どもへ使いに参りましたが、事に寄ったらば其奴が這入ったのかも知れません」
仙「其の畜生に違えねえ、ふン捕めえれば宜かった、いめえましい事をしたな、ヤイ、丈助という奴は何処に居るか分らねえか、云えよ此の百姓、云わねえかよ」
喜「私がハア村の矢切に居たアだけンど、矢切に帰られねえ訳が有って、些とも帰らねえが、堀切の傍の八ツ橋畠に知ってる人が有って、其処え寝泊りするてえ話だが、はッきり何処に居るか知ンねえだよ」
仙「そいつは手先を頼むも面倒だから私が踏捕めえて遣ろう……モウ寝られもしねえから起ちまって、もう一遍お酒を戴こう」
と是から酒を飲んで居る内に夜が明けましたから、二人の泥坊は早々南のお役所へ突き出してしまい、仙太郎は船に乗って堀切の傍の八ツ橋畠へ遣ってまいり、だん〳〵様子を聞きましたが、とんと手掛りが分りません。二人は日ならずお調べに相成りますると、束は是まで数度人を害したことも有り、又喜代松は矢切の渡場で丈助と申し合せ、勇助を殺したる事を残らず白状致しましたゆえ、二人ともに斬罪になりましたが、実に悪い事は出来ないもので、こゝで仙太郎が重三郎の詫ことをいたし、主人の処へ出這入の出来るようなことになりましたが政七の云うには、却って私どもに居りまするよりは、親父も帰って来た事ですから、親子の者に世帯を持たして、通い番頭にしようというので、高橋を曲ると直に二軒目に明家がございまして、幸い造作も附いて有りますから、早速これを借りて、重三郎は日々万年町のお店へ通うことになりました。お話二つに分れまして、紀伊國屋伊之助でございまする、追々病気も全快いたしまして、歩く方が心持が宜いから、却って旅なぞをいたす方が病気も早く癒るであろうと云うので、不動さまへお願掛をしたことも有るから、お礼まいりかた〴〵往って、帰路に中矢切へ廻って、法泉寺へ往って、若草の追善供養の法事もし、序でに下矢切へ廻り、叔母にも会って来ようという積りで、これから吉原のお松という婆ア芸者と、幇間の正孝と、清八という下男を連れて成田へ参詣に出掛けまして、小和田の原へかゝりました頃は、日の暮々でございまする。
正「エヽ旦那え、旦那え」
伊「さッさと歩かなくっちゃアいけねえぜ、大変に遅くなっちまったのに、お松にからかうも程が有るじゃアねえか」
正「でげすがね、お松が若がって、余程可笑しいんでさア、両褄を取って白縮緬の褌をピラツカせて、止せば宜いのに鼠甲斐絹の女脚絆を掛けて、白足袋に麻裏草履を結い附けにして、馬が来ると怖いよーッて駈け出すんですが、馬の方で怖がってるんで、あのくらいな化物は有りませんや、本当に面白いんで」
伊「そう彼女にからかうなよ」
正「若がってるんですから、婆アと言われるのを厭がってるんで」
伊「今日は船橋の海老屋へ泊ろうか」
正「あなたは途中でお買物を成すったので、清八どんですか、大きな釜を提げて重たがってますぜ」
伊「師匠、彼れは葮簀張の茶見世に居た道具屋のハタ師が持っていたんだが、彼が真物なら強気と儲かるぜ」
正「へえ、なんでございます」
伊「おいらの眼が届かねえか知らねえが、話には聞いてる、これが蘆屋の姥口の釜と云って、織田信長から柴田が拝領したという釜なら、どんな事をして捨売りにしても五百両がものは有る、旨くいけば少なくっても何百両にはなるだろうと思うのだ」
正「へえ是はどうも恐れ入りやしたな、幾らでお買いなすったえ……一両二分で買ったものが五百両になれば、これは大したことでございますねえ」
伊「真物でなくっても筋が宜い釜だから屹度儲かる積りだ」
正「旦那なんざア違いますね、一寸休んで煙草を喫んだり何か為てえる内に、お目が利いてるもんだから、此のくらいな掘出し物をなさる事があるんですが、本当にこれが五百両になれば不動様の御利益ですね、儲かったら釜の祝いと云って仕着をお出しなさいな、羽織の紋や何かに釜はいけませんな可笑しい、釜屋堀*の六右衞門さんの家の仕着見たようですが、浴衣を染めて釜の模様……これも困りますが、何か釜の祝いと云って……全体男娼を買って遊ぶのが宜いんですが、何か面白い趣向がありましょう」
伊「何うかマア一つ大景気な事をしたいから儲かれば宜い、気を附けて往きねえ」
と云ってるところへ舁夫がまいり、
舁夫「どうせ船橋へ帰りですが、お廉く願え度えもんで、帰りですから一杯飲めりゃア宜いんで、帰り駕籠でござえやすから、お安く乗っておくんなせえ、まだ船橋まで余程有りますぜ」
正「いけねえよ若衆さん、それは御免を蒙ろう、私たちは皆足が達者で、後から来る婆さんの新造なんざア足が達者で、馬と一緒に駆けて歩くくらいのものだ」
舁夫「御冗談仰しゃらずに、お願えですから、ホンの飲代が有れば宜いんです、何うせ帰るんですからお安くやりやしょう」
正「成田へ来て駕籠へ乗るてえのは強気といけねえ、本当ならお前達二人を駕籠へ乗せて、私等二人で担ぎたいくらいのものだ」
舁夫「ウーン然うか、担いで貰おう、担いでおくんねえ、船橋まで幾らで担いで往くか知らねえが、担いでッて貰おう、サア担げ」
正「これは驚いた、コー何をいうンだよ」
舁「何をいうって、担ぎてえというから担げというのよ」
正「これは恐れ入った、うッかり洒落もいえねえナ」
舁「何うせおらッちア旅駕を担ぐものだ、洒落なんぞ知ってるものか、洒落は知らねえ」
正「若衆、そう突かゝって来られちゃア困るぜ、吉原にも成田の講中が極ってゝ、正五九月には参詣に往くのに、お前達も成田街道で御飯ア喰ってる人間じゃアねえか、私は吉原の幇間で、旦那に途中のダレの無いようにお供をして来たんだから、ちょいと担ごうぐらいの洒落も云おうじゃアねえか、それをとッこに取って担げなんぞと云うのは酷いねえ」
舁「汝えは幇間か何んだかおらッちは知らねえ、どうせ舁夫だから洒落なんざア知るもんか、おらッち二人を乗っけて担げよ、サア担がれよう、ヤイ担げ〳〵」
正「これはどうも驚いたねえ」
伊「師匠、お前が悪い、重いものを持ってるもんだから足元を見るのだ、それに女連だからよ、駄洒落などを云うから宜くない、少しばかり鼻薬を遣んなよ」
正「へえ、幾らか遣りましょう、私が言い損なったんですから、今日は私が散財致して旦那に御迷惑は掛けませんが、誰だッて云うじゃア有りませんか、当然の洒落で……サア若衆さん、私が悪かった、ツイ言い損なったのだがお前も気ぜんの悪いとこ、此方も不動さまへお参りに往ったんだから、種々不同が有るが、お前どうか是で一杯飲んで機嫌を直しておくれ」
と幾らか紙に包んで差出すを見て、
舁「何を云うんだ、おらッちは銭金を貰おうと云うんじゃアねえ、汝ッちが担ぐというから担げというのだ」
と云いながら拳を固めて正孝の頭をコツリ、正孝は頭を押えながら、
正「オヤこれは、拳骨はひどいね若衆さん、これで不足なら一緒に何処へでも出よう〳〵」
伊「おい〳〵何処へ往こうッたって小和田の原中じゃアねえか」
正「だから若衆さん、私が悪いから謝まってるのに、いきなり拳骨はひどいじゃアねえか」
と云うのも聞かず、原文に三島安という東海道喰詰の悪党ゆえ、左右からつか〳〵と進み寄り、物をも云わず一人が正孝の胸倉を取り、一人が伊之助の袖を押えたから、正孝も伊之助も真青に成る。芸者のお松も原中へペタリと坐って仕舞い、清八は釜を持ったなり尻餅を搗いてしまいました。二人の舁夫は、相手は女連れで金も有りそうだし、殊に高価の貨物を提げてるという事をチラリと聞いたから、間が宜くば暗い処へ引摺込み、残らず引ッ剥うという護摩の灰の二人で、誠に悪い奴でございます。するといつの間にか後に立って居りました人の行装は、二十四節の深編笠を冠り、鼠無地の着物に同じ色の道行振を着て、木剣作りの小脇差を佩し、合切袋を肩に掛けて、余程旅慣れて居ると見え、汚ない脚半甲掛草鞋でございます。この様子を見るとツカ〳〵と出て来まして、正孝の胸倉を取ってる舁夫の利腕を押えました、舁夫は痛いから手を放すと、
虚無僧「彼方へ往け……御心配なさいますな……悪い奴だ、此の方々は成田の道者ではないか、手前たちは成田街道で其の日を送る駕籠舁の身の上で有りながら、道者へ対して無礼を云掛けるとは免されん、捨置き難い奴なれど、修行の身の上なれば免して遣わすから、サッサと往け」
甲舁「此ん畜生、何処から出やアがった、此ん畜生ヤイ、出抜けに出やアがッて此ん畜生」
乙舁「此奴は佐倉の町で笛を吹いてやアがった乞食だ、この原中で旨え仕事をしようという中へ這入って邪魔アしやアがって、此の野郎から殴ってしまえ」
と左右から小太い竹の息杖を押取って打って掛りましたが、打たれるような人ではない、ヒラリと身を交わしながら、木剣作りの小脇差を引抜き、原文の持ってる息杖を打払い、踏込みさまズーンと肩口から乳の下へ斬下げる。斬られて原文は其の儘バタリと斃れる。三島安は此の有様を見て、
安「オヤ此の野郎」
と云いながら息杖を持って虚無僧の両足を払いますと、虚無僧はヒラリと飛上り、三島安の頭上から力に任せて切込めば、面部へかけて割付けられ、アッと云って片膝突くところを胴腹へ深く斬り込みましたから、二人とも其処へ倒れる、虚無僧は其の上へ片足かけて脊筋から肋へ深く突き通し、鍔元の血振いをしながら落着いて後へ退りました。人を斬って置きながら顔の色も変りませんのは余程胆の据ったもので、此の時に伊之助も正孝も危ういところは免れましたが、鼻の先でザクリ、バタリ、プーッと血烟が立ったんですから慄えて居りました。
伊「師匠お礼を云いなよ、何方のお方か存じませんが危いところをお助け下さり、誠に有難う存じまする、師匠お礼を云いなよ」
正「何うも斯んな嬉しい時には何ともお礼の出る訳のもんじゃアございません、ヘイ、何方のお方様か存じませんが、誠に有難うございます、実に命の親で……どうか私はお助けを願います」
虚「イエ〳〵あなた方は何うも為やアしません、何しろ飛んだ御災難で、御婦人連れですから、間が宜ければ追剥をしようと為掛けた悪い奴で」
正「全く追剥に相違有りません、私の胸倉を取りまして懐中へ手を入れて、胴巻が有るかと思って探した様子と云い、泥坊に違い有りません」
虚「私は昨年の春彼奴等を羽根田の浜辺で一度見たことが有りますが、一遍は助けて遣わしましたが、向後のために成りませんかと心得斬って捨てましたが、悪い奴ゆえ此の儘まいっても仔細ありません、届にも及びますまい、却って斬徳ぐらいのものでしょう」
伊「後でお係り合になるといけませんから、金子は何程掛っても宜しゅうございますから、お届け遊ばしては如何でございます、私ども剥がれますところをお助け下さいましたのでございますと申し立て、決して御迷惑に相成らんよう、何の様に金子を遣っても厭いは有りませんから」
虚「イヤ〳〵斬徳で届けるには及びません、手が血染になりましたが、悪いお手拭いが有りますなら戴きたい」
伊「ヘイ、正孝持ってるだろう」
正「ヘイこれに」
と差出すを受取り見て、
虚「斯んな結構なお手拭でなくッても宜しい」
伊「ナニ結構でも搆やア致しません」
正孝は口の中で、
「少々高い、エヽなに、アノ花会の手拭でございます」
彼の虚無僧は刀の血を拭って刃に障りはせんかと刃を見て鞘に納め、
虚「決して左様にお礼を仰しゃるに及びませんが、少々御無心がございます」
伊「へえ、何んな事でも否とは申しません」
虚「実は手前、遠国へ参って居り、久々にて当地へ帰りました者で、少々心当りの者が有って此の辺へ参り、成田へも参詣しましたが、此の辺に悪者が忍んで居るという噂が有って、八州の捕方がまいって厳しい詮議が有るので、一人旅の者は何処の宿屋でも泊めてくれませんので、誠に当惑を致します、就きましては手前は決して胡散の者では有りませんが、姓名は仔細有って申し兼るが、お連れ下さるまいか、何うかお連れの積りで合宿を願いたいので」
伊「へえ宜敷ゅうございまする、何んな事が有りましても、私は助けて戴きましたので、其のくらいの事はお安いことでございます、おまつや清八は何処へ往っちまッたか知ら、師匠皆んな見えなくなったね」
正「おいお松さん、アヽ原中へピッタリ坐ってまさア、オイ坐ってるだんじゃアない、サッサと往かないと斬徳〳〵」
と是から皆々伴れ立って船橋の佐渡屋へ泊り、お湯に這入りましてから伊之助は、
伊「師匠々々是へ来てしみ〴〵お礼をいいなよ、旦那さま誠に有難う存じました、嘸お疲れでございましょう」
正「今日のような有難いことは今までには無いので、この旦那さまには年来御贔屓に成りまして、羽織から着物帯煙草入駒下駄まで残らず拵えて戴いた時も随分嬉しかったが、その時より今度の方が余程嬉しゅうございました、物を貰いたいってえ幇間の了間は此のくらいのものでございますが、実に今日ばかりは何んだか私はポッとしちまって、夢中で居りましたが、それではいけねえと、一生懸命になって歩いてまいりましたが、旦那さまが笠を脱って、長いお刀へ手を掛けて、御立腹なすった時には、私も随分お武家方のお腹立にも出会しますが、ちん〳〵の御立腹とは違って、お顔の色が変ったと思うと、鼻の先でぴか〳〵サクーリは驚きました、ヘイ、私は始めて人殺を見ました、ヌーッというと血がブーッと吹き出しました」
虚「あのお話は御内々に」
正「ヘイ、ナ成程斬徳〳〵ッてな事に成ってますから、うッかりは云えませんが、私の役は余り宜い役じゃアありません、芝居だとつッころばしで家橘か我童小團次どこの役で、今考えると面白いが、旦那は立役で、後から出て笠を脱って舁夫を投り出して、笠を小脇に抱えてカラーリと見得があれば、舞台で狂言でしても立役が出ると宜い心持だから、親玉ア成田屋アと声を掛けたいが、それが当人だから何のくらい嬉しいか知れません」
虚「あのお話は余りなさいませんように」
正「ヘイ〳〵成る程斬徳〳〵ッてえ事に一切なりますんで」
虚「御主人何うか別段に御酒やお肴を沢山御馳走下すってはいけません」
伊「何う致しまして、何にもお構い申しません、海老屋と違って何にもありません」
虚「御主人あの床の間のお荷物の所に一節切が二管有りまするが、あれはあなたがお吹き遊ばすのか」
伊「いゝえ、これはホンの道具を些とばかり掘出しものを致しました時に、込んで買いましたが、笛をお吹き遊ばして居らっしゃるようでございまするが、お入用なら差上げても宜しゅうございます」
虚「少々拝見を願いまする、中々好い笛のようで」
伊「へい」
と差出す二管の笛を手に取って見ますと、一つは響と朱銘で出て居り、一つは初音と銀銘で出て居りますから驚きました。この虚無僧は稻垣小左衞門の忰小三郎でございます。
稻垣小三郎は、これは私が父小左衞門から笛の稽古をする時に、私が響を吹くと親父が初音を吹いて教えてくれた此の一節切、どうして此処に有ることかと驚きまして、
虚「これは何処の道具屋でお求めになりましたか、此の他に何か道具が出やア致しませんか」
伊「へえ、実は私は此の釜が掘出物の積りで釜を見込んで居りまするんですが、笛はホンのお供で取りましたので」
と云うから其の釜を見ると又驚きました、というは、先殿飛騨守さまから拝領の蘆屋の釜ゆえ、是はどうも思い掛けないことと考え、
虚「これは実は私の家に有りました品でございまするが、幾らでお求めに相成りましたか知らんが、私に取っては大切な道具でござるが、お求め遊ばしたお直段を仰せ聞けられますれば、手前から其の価を差上げますから、何うか手前へお譲を願いたいものでございます」
伊「へえ、貴方様のお屋敷から出ました品で」
虚「手前は只今は修行者の身の上になり下り零落いたしましたが、これは親父が上より拝領したもので、替箱が有り、二重三重の函へ箱書付も附いて居たものが、どういう事で斯様なことになりましたか頓と分りませんけれども、右の次第ゆえ何うか手前へお譲りを願いたいもので」
正孝は傍から伊之助の袖を引き小声で、
正「旦那、旦那」
伊「えゝ何んだよ」
正「上げてお仕舞いなさい、私どもの命を助けて下すったお礼に上げて下さいな、一両二分と思やアしませんぜ、五百両のお礼をする積りで上げて下さいよう」
伊「黙って居なよ、余計な口を出さねえでも宜い……へい私共は何も此の品でなければならないと云う訳で求めたのでは有りませんし、お屋敷から出ましたお品なら命を助けて戴きましたお礼に何か差上げたいと思って居りましたとこゆえ、そんな物で宜しければ残らず差上げたく心得ます」
虚「イヤ〳〵高金の物で有るからたゞ戴くわけはございません」
伊「代は申し上げることも出来ないほど実に安く買いましたゆえ」
正「旦那さま御心配は有りません屁の平気で……屁ということはうッかり云うとしくじりますが、大丈夫ですから黙って貰ってお置き遊ばせ」
伊「貴方の方では御大切なお品ゆえ何うか御心配なくお受け下さいまし」
虚「左様でござるか、それは誠に有難いことで、手前ことは只今の身の上では仔細有って姓名を明すわけには参りませんなれども、御尊名を伺い置きまして、手前世に出ますれば御尊家へお礼に出たいから、どうか御尊名の処を仰せ聞けられるように、お宅は何方で」
伊「手前は本郷春木町の、紀伊國屋宗十郎の忰伊之助と申しまする」
虚「本郷春木町の……アヽ左様か」
とこれは出入町人岡本政七の妹娘と許嫁だとかいう話が有ったが、さては紀伊國屋の伊之助と云うものは此の男かと思いましたが、はすはにものは云いません。
虚「何れ世に出れば御尊家へお礼に罷り出る」
と約し其の晩は寝てしまい、翌朝は連立ちて出ましたが、伊之助の連は八幡から横に折れて中矢切村の法泉寺へまいり、若草の法事を致し、叔母にも会って帰りました。此方の虚無僧は釜を提げて市川を越え、逆井を渡り、本所に出まして、二ツ目の橋を渡り、深川の万年町へ参り、岡本政七に面会しようと云うので万年町差して参ります。お話は戻りまして重三郎は仙太郎の世話で、高橋を曲ると直に二軒目の明家を借り、世帯を持ちまして昼は万年町の店へ通い、粟田口國綱の手掛りも有ろうかと、仲間の小道具屋を廻り、また深川八幡へ心願を掛けまして、頻りと刀の行方を詮索致して居りまするが、今に手掛りもございませんことで、或日重助は少し買物が有って出ましたが、ポツ〳〵雨が降り出して来ましたから、番傘を差して横町から出て来ますると、降が強く成りました。と見ると向うの家の軒下に修行者が立って居りまする。自分も永らく四国西国巡礼して居りましたから、旅疲れの人を見ると、自分の旅で難儀をしたことを思い出すと見えまして、
重「申し御修行者さん〳〵、お前さんは余程遠国を歩いて来たお方と思います、脚半の穿きようと云い草鞋の穿き振りと云い、余程旅で苦労なすったお方でなくッちゃア然う云うような身拵えの出来るわけのものじゃアないが、余程遠くを歩いたお方でしょう」
小「はい、九州辺を遍歴って余程長旅を致し、久々にて御府内へ立帰った身の上でございます」
重「そうでしょう、私の宅はツイ此処を曲ると直に二軒目でございますがねえ、幸い心ざす仏さまが有りまするが、あなた笛を吹いて修行をして居らっしゃるから、矢張虚無僧さんと同じような者ですかねえ」
小「まア〳〵ぼろんじの流れを汲みますもので」
重助「それじゃア此方へおいでなさい、何にも有りませんが茶飯が出来ましたから、味噌汁でも温めて御飯を上げたいから。心ざす仏さまへ御回向なすって下さいな」
小「お志しとあれば御免を蒙って罷り出ましょう」
重助「あなた雨具は有りませんか」
小「イエ所持して居りまするが直に晴れようかと存じまして見合せて居りますので」
重助「中々大降になりましょうよ、今時分の雨は降り出すと容易に止まないから、汚ない家ですが、まア此方へおいでなさい」
小「それは有難う存じます」
重助「矢っ張笛を吹いて御回向が出来るんでしょうねえ虚無僧さん」
小「はい、それは回向の曲、手向の曲と云うのが有りますから、笛で手向は出来まする」
重助「然うですってねえ、私が旅を致しました時に、虚無僧さんと合宿をしたことも有りまするが、其の虚無僧さんの話に邪慳一国なことをいう家で回向をする時は、笛で馬鹿野郎ヤイと吹いても知らないから、からかって遣る事が有るてえましたが、本当ですかね」
小「随分左様なことが無いでも有りません」
重助「然うでございましょうね」
と話しながら我家の門口へ参り、
重助「さアお這入りなさい、四国ではねえ只泊めてくれるのに、修業者でも御へんどさん〳〵と申して、主が足を洗ってくれるが、誠に人気の穏かな国で、それと云うのも弘法さまが何百年か昔にお戒め置きなすったからでしょうが、私は今日は四国の者の積りで貴方の足を洗って上げましょうか」
小「どう致しまして、それは恐れ入りまする、どうか盥へ水を頂戴して自分で洗う方が却って勝手でございまする」
と是から盥へ水を汲んで持って来てくれましたから足を洗って奥へ通りまして、重助は仏壇へ灯明を点けて線香を立て、
重「さア此方へ」
というので小三郎が仏壇の前へ坐る。
重「その真中に在るお位牌がなんですから、何うかそれへお手向を願います」
小「畏まりました」
重「御回向が済むと後で御膳を上げますよ」
小「誠にお志しの深いことで」
と云いながら懐から取出したのは昨夜図らず紀伊國屋の伊之助から貰った初音という一節切でございまする。今唄口を濡して手向の曲を吹こうと思い、ふと仏壇を見ると、隅の方に立掛けて有るのは山風の一節切で、その傍に黒羅紗の頭巾が有りまする、山風と蒔絵をした金銘が灯明の火影に映じ、金色がキラ〳〵見えまするゆえ、小三郎は不思議に思いまして、
小「御主人〳〵」
重「はい〳〵」
小「このお仏間に一節切が立掛けてありまするが、これはあなたの御所持の品かな」
重助「おゝ成程お前さんも笛を吹くから直にお目が附きますな、これは今日の仏さまの遺物でございまする」
小「へい、遺物でございますか」
と云いながら手に取上げて見て恟くりいたしました。というのは、先殿飛騨守公から父小左衞門が拝領したる品にて、常々肌身放さず秘蔵にいたし、何処へ往くにも首へかけ懐へ入れて歩いたほどの物が、どうして此処に立掛けてある事かと訝しみながら、
小「御主人少々伺いますが、此の笛を所持したものゝ命日と被仰って見ると、誠に思いがけないことでございまする、これは他に少ない品でござるが、何う云うわけで此方さまに有りまするか、とんと手前には分りませんが、この笛を所持いたして居りました人は何と申す人ですか」
重「私どもには笛の事なぞはさっぱり分りませんが、何でもこれはやかましい物なんだそうで、殿さまから拝領した笛なんだとかいう事を私の忰は能く存じて居りますが、これを持って居たお方は、旧は金森様というお大名のお重役で、稻垣小左衞門という方で、そのお方がお吹きなすった笛だそうです」
小「フーム、その小左衞門は何処に居りまするか」
重助「その小左衞門さまと云うお方はね、この笛と其処に在る黒羅紗の頭巾を持ったなりでね、悪い奴にでも欺されて突き落されたものか、鴻の台の鐘ヶ淵から逆トンボウを打って血みどり血がいになってお落ちなすって、お亡くなりなすったので」
小「エヽ小左衞門がなくなりましたか」
と云いさしさめ〴〵と泣き沈みましたも道理で、親一人子一人の小三郎ゆえ、実父の死去した事を聞き、堪え兼ねて男泣きに泣き出し、涙が膝へハラ〳〵と落ちまするのを重助が見て、
重助「お前さんお泣きなさいますね、失礼な事をお聞き申すようですが、あなたは稻垣小三郎さまと仰しゃるお方では有りませんか」
と云われて驚き気を取直し、涙を拭って笑顔を造り、
小「いえ〳〵手前は左様な者ではござらん、なれども手前も少々指田流の笛を吹きまするが、二と及ぶ者のない名高い稻垣小左衞門が左様の横死を致したかと同流の誼みでござるゆえ誠に惜しい事をしたと思い、見ず識らずの方なれども余り力が落ちましてツイ落涙をいたしました」
重助「いえお前さんお隠しなすっちゃいけません、あなたが小三郎さまなら、貴方のお帰りを私どもの忰はお待ち申して居りまする、私どもの忰は万年町の岡本と申す小道具屋の手代で、重三郎と申しまするが不調法をいたしお屋敷の大切なお刀を失したのでお係りの稻垣様が御浪人なすったばかりでなく、左様な死にようをなさいましたのも皆な私が不調法から起った事と、日々そればかり申し暮して居りまするが、私はその重三郎の親父で重助と申します者でございます」
小「ハイ……左様か、それは何うも思い掛けない、お前が重三の親御かえ」
重「それ御覧なさい、だからお隠しなすってはいけませんと申しましたので」
小「実は斯様な修行者の身の上になって居ながら、姓名を明かすは父の恥、故主の恥と心得て明らさまに申さなかったなれども、重三の親父なら他言は致すまいが、実は手前が稻垣小三郎でござる」
重「はい〳〵これは何うもはや」
と云いながら、後の方へ身を摺下り、慇懃に両手を突き、
重「誠にお初にお目にかゝりまするが、若旦那様がお帰りになって此の事をお聞き遊ばしたら、嘸お力落しだろうとお噂を申して居りました」
小「手前少々心当りがあって、一年半ほど諸国を遍歴り、九州までまいったが、少しも刀の手掛りもなく、少々気になることが有って、一先江戸へ立帰って、芝の上屋敷へまいって聞けば、親父はお暇になったとの事、尤もそれ程のお咎めもあるまいと思い、旅先から再度書状も送ったが、父より更に一本の返事のないも道理、同役の者に聞いて見ると、昨年の春より父は葛飾の真間の根本に居るということゆえ、参ってだん〳〵尋ねたが、とんと様子が分らず、帰って来る途中にて図らずお前に呼入れられ、我親の位牌と知らず仏間に向って回向を致し、思わず此の山風が眼に這入ったばかりで不思議に知れたる実父の横死、その命日に当り、此方へ呼入れられるとは実に父の引合せで、お前の家へ来るようなことになったのかも知れん、誠に女々しい奴と思し召すか知らんが、此の度ほど力の落ちたことはない、誠に残念な事をいたした」
と云いながらまたさめ〴〵と泣沈む。
重助「へい〳〵御尤もさまでございます……私どもの忰は貴方様のことばかり申して、誠に情ないことをした、私がお刀さえ失さなければ、チャンとしてお屋敷においでなさろうもの、私が不調法から斯んな非業の死に様をなすったと申しましては、毎日仏さまへお線香を上げる度に忰が泣くのでございますよ、昨年の正月五日の晩にお刀を奪られ、申し訳がないって万年橋で首を縊ろうとする処へ、通り掛ッたのは、伊皿子台町の荷足の仙太郎という誠に気丈な親方で、其のお人が助けて下さいまして、其の刀を取った侍の容恰好も見て居るし、それに見知り人も有るから何んのお手先を頼むには及ばん、己が探すと仰しゃって、御親切に侍に突当って刀を捥ぎ取って、人のために命賭でお刀の詮議をして下さいましたが、まだ知れません、けれどもその仙太郎親方のお蔭で重三郎も私も漸く万年町のお店へ出這入の出来るようなことになりましたが、不思議な事には、仙太郎親方と忰と一緒に松戸へお刀の詮議にまいりますると、船の胴の間へ落ちたのはお父様のお死骸でございましたが、御浪人なすって入っしゃるからお屋敷へ知らせる事も出来ませんから、何うしたら宜かろうと心配のうえ、仙太郎親方が自分の伯父様の積りにして、白金の高野寺へお葬式なさいましたが、御門主が来て、どうも立派な御葬式で有ったという話でござります、随分お屋敷の御葬式でも、あれには敵うまいという程で、立派な御供養がありましたが、仙太郎親方も貴方にお目にかゝりたいと其の事計り申してゞすが、誠に御親切なお方さまじゃア有りませんか」
小「はい、親どもの死骸を引取って葬式まで出して下さるとは実に恐れ入った事で、何うかお目にかゝってお礼を申したいもので」
重助「時々入っしゃいますが、伊皿子台町ですからお出なすっても造作も有りませんが、今に忰も帰って参りますから、何うか今晩は私の処へお泊り遊ばして、忰に御案内致させますから、明日仙太郎親方の処へ往ってお会いになったら宜しゅうございましょう、なか〳〵侠気のお人ゆえ、またお力になる事も有りましょう……旦那様、此の頭巾の裏に白い布があって、それへ印とかゞ押してあるそうです、此の品は忰の申しますには、お屋敷でお揃いに出来た頭巾ゆえ仇敵の手掛りになるかも知れない、大旦那は組討でも成すったものか、紐が切れたのを持ったなりでお落ちなさいましたとの事で、後日の証拠に取って置こうと、親方が取ろうとしましたが、固く握っておいでゆえ指を一本ずつ折って、漸く頭巾を取ったというくらいでございました」
小「左様でございますか」
と慌てゝ頭巾の裏を返して見ると、白羽二重の布が縫付けて有りまして、それへ朱印が押してございますのを熟々視て、
小「誠に何うも思い掛けないことで、これは実父が突落される臨終の一念で放さずに居たものと見える、あゝ天命は遁れ難いもので、これは分りました……ウーム彼奴の所為であろう」
重助「知れましたか、誰でございます」
小「これは矢張同藩でござって、大野惣兵衞という奴だが、壮年の折柄心掛けが宜しくないので、実父から一言殿様へ申し上げた処からお暇になったので、それを遺恨に心得、実父を欺いて高峯から突落すとは卑怯な奴で、大野が所為と知って居たらば濃州から帰るのではなかった、大野が親族は国に在るて」
重「悪い事は出来ないものでございますな、其の事を仙太郎親方や重三郎が聞きましたら嘸悦びましょう」
小「これが大野惣兵衞と知れましたからには、私は直に出立致して、遠からず大野惣兵衞の生首を引提げて帰って来たならば、其の功に依ってお屋敷へ帰参が叶うかも知れません」
重「へえ、これはお導でございますな、何にしても今晩はお泊り遊ばせ、今に忰も帰って参りましょうから」
小「イヤお前には初対面だし、重三でも居れば厄介に成りますが、重三が遅く帰って来るようでは気の毒だから、私は是から万年町の岡本方へ参って一泊致し、明朝また来て重三にも会いますから、いらん物は預かって置いて下さい、これは重くてならんが、大切の釜だから其の積りで確かり預かって置いて下さい」
重「成程初対面でございますから、それも然うでございましょう、万年町のお店へお泊り遊ばすなら、重三が帰って来ましたら、お店へ差出す事に致しましょう……これはお履き難いか知りませんが、此の下駄をお履きなすって、傘をさして往らっしゃいまし」
といいながら傘から下駄まで揃えて出しましたから、これを借り、
小「くれ〴〵も仙太郎親方にお礼を云わなければ、どうも気が済まんようで」
重助「はい〳〵仙太郎親方がお聞きなすったら、どんなにお悦びか知れますまい、左様なら御機嫌宜う」
小「大きに御厄介になりました」
と表へ出ました。武家はメソ〳〵泣かないものだが、外へ出ると小左衞門の横死を思い出し、胸に迫って流石に猛き気象だが、オロ〳〵涙を落しながら、番傘を片手に持ったなりクヨ〳〵と思い詰め、高橋を渡って霊岸の方へ曲る道へ下りにかゝると、向うから駈けて来た一人の男は仙太郎で、闇さは闇し、互に顔は知らず、間違いの出来る時には仕方がないもので、仙太郎が駈けてまいる途端に小三郎に突当りましたが、きかない気象だから、
仙「ヤイ気をつけて歩け、間抜け奴、この頓痴気」
小「何だ怪しからん奴だな、手前の方から突当って置きながら悪口を申すとは無礼至極な奴だ、此方は避けて歩いて居るに」
仙「なにイ此の間抜けめ、下を向いてグズ〳〵歩いて居やアがるからだ」
と云いながらツカ〳〵と寄って来て、
仙「この野郎」
と小三郎の胸ぐらを取り、五人力の拳骨で押え付けられた時には、流石小三郎も息が止りそうになりました。通常の者なら蹌けて倒れるところでございますが、小三郎は柔術も剣術も名人な人ゆえ力足を踏止めて、懐中より一節切を抜出し、仙太郎の利腕をモロにグッと落しますと、痛いからバラリと放すところをば、機をうたしてドンと仙太郎を投げる。仙太郎は始めて投げられて口惜しいけれども暫くは起る事が出来ません。
小「斯様な無法のことをすると、暴い侍だと此の首を打落されるぞ、以後たしなめ」
とコツ〳〵一節切で仙太郎の頭を打ち、逃げもせず急ぎも致しませんで、泰然と番下駄を履いたなり往ってしまう。仙太郎は口惜しいの口惜しくないのッて何うも我慢が出来ませんから、急いで重助の処へ駈けて参り、
仙「爺さん一寸明けてくんな、何か手頃の棒を出しねえよ」
重「親方何んでございます」
仙「何でも宜いやアな、早く出しなってえに、今喧嘩をして来たんだ」
重「喧嘩は止して下さいましよ、怪我でもするといけませんから」
仙「チョッ、エヽ早く出しな」
と叱られましたから有合せた棒を出して渡すを引ッ取って、其の儘駈出し、高橋を渡って海辺大工町を曲り、寺町から霊岸前へ先廻をして、材木屋の処に匿れて居て、侍の向う脛を打払って遣ろうと思い、頻りと覘って居りますると、向うから小三郎がクヨ〳〵しながら下を向いて遣って参ります処を覘い詰めて、いきなりに、
仙「覚えたか」
と云いながら腰車骨を覘って横に払いました。是からどうなりますか。
仙太郎は小三郎に逢いたいと思い、待って居りますが、小三郎も仙太の侠気に感服して逢いたいと思う二人が、知らぬ事とは申しながら、仙太郎が赤樫の半棒で打込みましたが、武辺の心得ある侍は油断のないもので、片手に番傘を持ったなり、ヒラリと四五尺ばかり飛び上って空を打たせ、下りながら木剣作りの小脇差を引抜きますと、刃の光が鼻の先へピカリと刀尖が出たから、仙太郎は驚いて棒を投り出したなりで、無茶苦茶に逃戻り、
仙「オイ爺さん明けてくんなよ」
重「ハイ私は何んなにお案じ申したか知れませんよ、お願いだから喧嘩は止めて下さい、私が死んでからして下さい」
と云われ仙太郎は悄々と、
仙「己はもう喧嘩は止めだ、若い時分はもう少し強かったが、年を老ると怯むから、うっかり喧嘩は出来ねえ」
重助「あなたが権幕を変えて出て往っしゃいましたから、私は跡で何んなにヒヤ〳〵して居たか知れません」
仙「なに、新橋の汐留の川岸から船が出ると、跡から芸者か丈助さん〳〵という声がするから、其の中に丈助さんという奴が居たので、丈助と云うのは手掛りの名だから、先の奴の顔を知らねえから重三さんに見せてえと思って、万年町のお店へ往くと、此方へは来ねえというから、此方へ来ようと思って高橋を渡ろうとすると、突当った奴が有るから、ナニ此の野郎殴り付けるぞ、何んだ手前気を付けろと、生意気なことを云ったから、胸ぐらを取ると、小癪なことをするなッて己を抛り投げて、棒で己の頭をコツ〳〵やって往きやアがったから、口惜しくって堪らねえから、棒を持って先へ廻り、車ッ骨をやろうと思うと、酷い強え奴で、ピョイと頭の上まで飛上りやアがったが、天狗を見たような奴だ、下りて来ながらスラリと抜きやアがッたから、危険だから逃げて来たが、魔がさしたんだなア、もう喧嘩ア止めだ」
重助「お前さん、人の宅へ来て頬被りしたなりは酷いじゃアありませんか」
仙「オヽ然うだっけ」
と頬被りの手拭いを脱ると、ジョキリと手拭ぐるみ髷のイチがそげて居りましたから、手を当てゝ見て、流石の仙太郎も肩から水をかけられるように、ゾッと総毛立ち、
仙「爺さん喧嘩ア止めだ……こいつは止めだ、滅法界に強え奴もあれば有るものだ、飛びながら抜きやアがッたが、刀尖が己の髷へ当って手拭ぐるみ殺ぐというのは、刀剣も善いのだろうが、何のくれえの腕前だか知れねえ」
重助「おゝ怖い事、おまえさん、もう少し下なら何うなさる」
仙「パクリと柚子味噌の蓋を見たように頭を殺がれるか、もう少し下ならコロリと首が落ちるんだ、オヽ怖かねえ、喧嘩は止めだ、酷い奴が有るものだ」
重助「冗談じゃアありませんよ、シタが彼の稻垣小三郎様が帰っておいでなすったよ」
仙「エヽ若旦那が何うして」
重助「此の先の軒下で笛を吹いて居た修行者が有ったから、四国の心持でお泊め申し回向を願うと、仏壇に立かけて有った一節切を見てお聞きなすったから、これ〳〵と申上げると男泣にお泣きなさるから、貴方は小三郎様かと云っても初まりはお隠しなすったが、私は重三の親父でございますというと、実は己が小三郎だとお打明け下されたが、其の時は私は何うも胸が一杯になりましてね」
仙「ウン〳〵嘸お力落しだったろう……それからお前アノ何を云ってくれたか、小左衞門様の死骸を引取って葬式を出した事を、お侍さんを町人が無闇勝手に引取って葬式を出したって、滅法界に怒ると困るがなア」
重助「いえ何うして怒るどころじゃア有りません、誠に御親切なお方さまだ、お目にかゝってお礼が申したい、実に感心なお方だ、侍も及ばんと仰しゃってゞございました」
仙「然うか、シテ何処へお出でなすった」
重「重三が居ないから、万年町へ往って泊ると仰しゃって、もう少し先刻岡本へいらっしゃいました」
仙「留めて置けば宜いに、それにアノ頭巾を見せたか」
重助「へえ、頭巾をお目に掛けたら、何とかいう人だと仰しゃったが、チャンと目標が有ったのが解って、仇討に出ると仰しゃいましたよ」
仙「然うか、何にしても会いたかったなア、これから万年町のお店へ往って来ようか」
重助「明日の朝おいでなさると仰しゃったし、忰も今に帰って来ましょうから、又人に突当って喧嘩でもなさるといけませんから、今夜はお泊んなさいな」
仙「じゃア然う仕様が、何だか気色が悪くっていけねえから酒を買って来てくれ」
と是から酒を飲んで其の晩は重助の家へ泊りましたが、翌朝早く起き、手拭を頭へ巻いて朝湯へまいりました。跡へ入違って重三郎と稻垣小三郎が連れ立って帰ってまいりました。
重助「何うした、滅多に宅を明けた事はねえに、昨夜帰らねえもんだから大変に心配をした」
重「昨夜は万年町のお店へ泊りました」
重助「おや〳〵若旦那さま、これは何うも、私は御一緒とは存じませんでした、さア〳〵何うぞ此方へ」
小「昨日は図らざる事で段々御厄介に成りました、あれから万年町へ参ると重三も来合せて、段々話も尽きないゆえ、重三は親父が案じるから帰ると云ったが、どうせ明朝は私も往くから一緒に参ろうと申して無理に引留め、お前に案じさせて誠に相済みません」
重助「いえ、どう致しまして」
重「だん〳〵私の不調法をお詫び申した処、お諦めの宜いお方ゆえ、皆定まる約束事だろうと仰しゃって、何とも別段やかましい事も仰しゃいませんで、それから店の主人も斯様なお行装にお成り遊ばしてお気の毒でと、種々お話が尽きない処から、ツイ遅くなりまして帰られませんでした」
重助「まア然うでございましたかえ」
小「何うもね実に万年町の政七も誠に真実な男で、仮令浪人して困ろうとも、私の宅の奉公人から出来たことゆえ、あなたお一人ぐらいは何うでも致しますから、何処へも往かずに二階に居てくれろと云われ、誠に忝ない力を得たようなものだが、私も仇討に出立せんければならぬが、手に入った品々は重役に預けて置き、私は一度濃州の郡上へ立越えます心得である」
重助「左様でございますか、それに重三や昨夜仙太郎親方がお前に逢いたいとおいでなすって、間もなく跣足で駈出して、暫らく経って帰っておいでだからお泊め申して……おや親方お帰んなさい、今親方の噂をしているところで……申し若旦那これが仙太郎親方でございます」
小「おや〳〵これはお初にお目にかゝります、手前は稻垣小三郎と申す不束の浮浪人此の後ともに幾久しく御別懇に願います」
仙「これは何うも、私はいけぞんぜえ者の仙太郎と申す、通常なら旦那様方にお目通りなんざア出来る身の上ではごぜえやせんが、私のような人間へお交際なさるようじゃア御運の無えのでごぜえやすが、お父様のことをお聞きなすって、嘸お力落しだろうって、あなたのお噂で夜を更かし、直きに夜が明けちまったようなことで」
小「万年町でもお前さんのお志の程を承わりまして、実に感服いたしました、御無礼な儀だがお身分とは違い、何うも見ず識らずの者を助けて下さるのみならず、人のために命を棄てゝも刀の詮議をして遣ろうとは、実に侍も及ばん処の御気象、如何にも珍らしいお方だと言って感心して居りました、又親共の横死の折には御懇ろなる御葬式で、これ〳〵と精しく万年町から聞きましたが、何とももってお礼の申し上げようはありません、千万忝うございまする」
仙「何ういたしまして、昨夜も爺さんと話をしたんですが、無闇にお侍の死骸を引取って、伯父の積りで葬式を出しましたから、若旦那が怒りゃアしねえかッて心配して居るんです」
小「どう致しまして昨夜も重三へ申しまするに何ともお礼の申そうようはないが、何うか其の伊皿子とやらのお宅へ参って、しみ〴〵お礼を申し上げたいと申して居たのですが、幸いおいでゞございまして、何ともお礼の申そうようは有りませんのに、若旦那などと仰しゃっては却って困ります、只今にては笛を吹いて修行をして歩く身の上ゆえ、乞食も同じことで、あなたの方がお身柄はずッと高いので、殊に私は兄弟もなく、また親戚も至って少ない身の上でございますから、此の後とも私を子分とも思召して、小三郎とお呼び捨てなすって、末永く力に成って下さるよう、貴方を侠客と見掛けて願いまする」
仙「それはどうも飛だ事」
と云いながら手拭で涙を拭き、
仙「誠にどうも勿体ねえ話でごぜえます」
とまた手拭をねじっては涙をふき〳〵頭を擡げ、
仙「こんないけぞんぜえものゆえ、貴方たちにお目にかゝっても御挨拶も出来ねえ人間だから、馬鹿な野郎と思召しましょうが、重さんに逢ってから是れまでは随分永え間の話ですが、私は其の侍の容恰好も知ってるから、岡ッ引に頼まねえで詮索をした処から遅くなっちまって、店へも済まなく成ったのですが、お父様を殺した野郎は分りましたか」
小「はい、これは大野惣兵衞といって矢張金森家の藩中で、三百石取った奴なれども、心掛けの善くないものゆえ、殿のお側へ置いてはお為になるまいと、一言御前体へ親父から申し上げた事が有るので、それがためにお暇になったのを遺恨に心得、親父を欺いて殺したものでしょうが、親父も一人や二人討って掛ろうとも無慚に殺されることは有りませんが、何うかいう係蹄に掛って、左様な横死をいたしたので、誠に残念なことでございますから、私は直様仇討に出立致し、遠からず大野の生首を提げてお屋敷へ帰ったらば、親方へはまた手前何の様にも御恩返しを致しまする」
仙「お願いですが一緒に私を連れてって下さいな、私は助太刀に従いてって一緒に仇討を遣りてえね」
小「エヽ何う致しまして」
仙「何うか供に連れてって下さい」
小「供と仰しゃっても、御家内様も子分衆もあるお方が、お宅は明けられますまい」
仙「ナニ、彼奴は私の居ねえ方が却って悦びやす、私が居ると種々な難儀をしている者を引摺込むので、留守の方がのう〳〵するってえます、それに野郎共が船え漕いでますから喰うにゃア困りませんから、お願えですが一緒に連れてって下せえ、助太刀に」
小「手前は誠に未熟不鍛錬の腕前でございまするなれども、大野の如き仇を討ちますのに助太刀を頼んだと云われては、故主へ対して手前が済みません、又同藩の者へ外聞というわけでも有りませんが、助太刀のことはお断り申しまする」
仙「成程これは外聞が悪かろう、船頭なんどに助太刀を頼んでは、お侍さんじゃアそうだろう……じゃアお供だけしてえね、途中で泥坊や追剥でも出た時にはぶん殴りてえね」
小「いや道中は却って穏やかなもので、御府内の方が却って無法な悪い奴が居りまする、現に昨夜も高橋のダラ〴〵下りで理不尽な奴が突当りましたが大力な者でした、手前が其の手を振解き投げたのを遺恨に心得先へ廻って横町から突然に腰を払われましたが、あの力で打たれては堪りませんが、手前も油断なく飛び上って、威しのために小脇差を引抜いたら驚いて逃げたが、理不尽な奴もあれば有るものです」
と云われて仙太郎は心の中で驚き、両手で頭を押えながら、
仙「モシ旦那……昨夜のはあなたかね……これは何うも爺さん飛んでもねえ事をした」
重助「それ御覧なさい」
と云われ仙太郎は頭を掻きながら、
仙「旦那ア何うも面目次第もねえ、だしぬけにエイと遣ったのは実は私なんで」
小「おや然うとは存じませんで甚だ御無礼を致しました」
仙「いや、此方が御無礼で、帰って見ると髷が殺げて髪を結うことが出来ねえんだが、旦那エ実に私ア驚きやした、あなたは華奢な細そりした小さい体躯だから、実はお案じ申したんですが、髷をジョキリと斬るくれえの腕前だから、仇が五人や十人出ても大丈夫だ」
小「あなたも中々の大力でお強いことで」
仙「余り強くもありません、もう少しで柚子味噌になるわけで、頭を殺がれるところだった」
小「誠に危ないことでした」
仙「私も殴たなくって好いことをいたしました」
小「手前も斬らなくって好いことを致した」
と歎きの中の可笑味で、互いにドッと笑いになりました。小三郎は其の晩重助の宅へ泊って、翌朝早く白金の高野寺へ参り、父小左衞門の法事供養をいたし、それから家老渡邊外記にも面会致し、蘆屋の姥口の釜に一節切を預け、表向きに大野惣兵衞を附覘い、敵討出立のお話でございます。
さて稻垣小三郎は、図らずも蘆屋の釜並に山風の笛が手に入りましたから、早速右二品を渡邊外記という金森家の重役へ預け、仇討の免状を殿様より頂戴致しまして、公然仇討に出立致しまして、其の後再度渡邊外記始め万年町の岡本政七、荷足の仙太郎、梨売重助等へ心に掛けて書面を送りました故に、小三郎は達者で居るということが分りまして、仙太郎も政七も安心致して、小三郎の帰国を待って居りますると、其の年の十一月頃から絶えて音信がございませんゆえ、何うなすった事かと皆心配致しましたが、何処から何処へ参ったことか、讐を探して歩く身の上ゆえ、頓と其の行先が分りませんので、梨売重助も心配して、お手紙一本お寄越しなさらない訳はないのだが、旅で煩って在っしゃるのではないかと案じられるから、売卜者に占て貰ったり、お伺を立てたりして居ります。其の頃向島の白髭に蟠竜軒という尼寺がございまして、それに美惠比丘尼という人が有りまして、能く人の未来の吉凶禍福を示しますので、これに帰依する信者も多分にございます。この比丘尼は坐禅をいたして大悟徹底し、事を未然に悟る妙智力を備えて居りまする。智識に成りますると山で坐禅をいたして居りましても、里のことは明かに分るという、応験化道極りなく百千年の前まで看ぬくというえらいお比丘尼で、五十余歳でございますが、年齢よりも十歳も若く見え、でっぷりして色白く、婦人の身でありながら種々なことを致します。お弟子もいかいこと居りますが、お弟子と同じように働き、立木を伐りまして薪などにいたす事は労苦ともしませんと云う、実に妙な尼でございます、重助は此れへ毎日〳〵参りまして、
重「名前は出しませんけれども、お尋ね申しますが、或お方が旅へ出まして、いまだに音信が有りませんが、御無事でいらっしゃいましょうか、お比丘さまお示しなすって下さいまし、私は実に案じられてなりません、まだお年若ゆえ、御病気とした処が御全快になりますれば、何とかモウお音信が有ろうと存じますのに、いまだにお音信が有りませんのは何うしたのでございましょう」
と聞かれて、美惠比丘尼は暫らく考えて居りましたが、
尼「いや老爺さん、心配おしでない、いまに音信が有ろう、不図邂逅うことが有るけれども、旅へ出て難義をなすっておいでの様子、殊に病難も見える」
と云われ、重助は力を得たから立帰って、仙太郎や政七へも此の話を致し、何卒小三郎さま道中にて凶事のないようにと神信心を致して居りました。さて小三郎の許から絶えて音信の無いわけで、小三郎は不図した感冒が原因で寐つくと逆上をいたし、眼病になり、だん〴〵嵩じて、末には霞んで見えないどころではなくバッタリ内障眼のようになりまして、手紙一本書く事も出来ませんから、刀の詮議も仇敵の探索も心に任せず、誠に残念に心得て、実に私は薄命の身の上であるが致し方はないから、一節切を吹いて人の軒先へ立ち一銭二銭の合力を受けながら江戸表へ立帰ろう、もし大野惣兵衞の居処が分れば、私は盲目ゆえ迚も仇は討てんから、屋敷の者を頼んで本懐を遂げよう、途中でも種々能い医者に聞いて手当もしたが、とんと其の甲斐がない故、此の身の上を政七や仙太郎に知らせたならさぞ心配致すであろうから手紙一本遣らないが、此の眼病では迚も刀の詮議も仇敵の所在も知れよう道理はない、世に捨てられた私の身の上、憖いに生恥を掻くよりも寧その事一思いに割腹して相果てようか、それとも此の眼病が治る事も有ろうかと種々考えましたが、イヤ〳〵迚も死ぬなら先祖の菩提寺へ詣で、亡父へ我身の薄命の申訳をなして、直に其の場で切腹しようと、漸く心を決して、江戸表へ立帰ってまいりました。お話二つに別れまして、山口屋の音羽でございます、是は稻垣小三郎の許嫁で、石川藤左衞門の娘おみゑという天下に勝れた美人でございますが、小三郎へ操を立て、他のお客へは枕をかわせ肌を許しませんというが、誠に無理な事で、傾城遊女の身の上で、揚代金を取って置きながら、お客に肌を許さんとは余り理のない話でございます。能くお客が立腹致しません。只今ならば直に警察署へ訴えになりまして相当の御処置が附きますが、其の頃は初会というと座敷限と云って、顔を見たばかりでお客が得心で帰り、二会目に馴染が附き、漸くお床と云う、それでも厭なら二度三度も振ることが有りますが、振られてもお客は人が好いから得心で帰り、あの花魁は振るから感心だ、振るというのは見識が高いからだと云って悦んで居たお方が昔は沢山有りましたが、誠に馬鹿気たもので。遊びに往くのに妙な装をしたものです。天明の頃彼の千蔭という歌詠みがございましたが、此の人は八丁堀の与力で、加藤と申す方でございまして、同じ与力に吉田という人がございます、華美な装をして吉原へまいりましたことがなにやらの書物にございましたが、千蔭先生は紫縮緬の紋付の対で、千蔭緞子の下着に広東織の帯を締めて遊びにまいったということが、今の目で見ると狂気じみて居りまする。吉田さんは黒縮緬の羽織に対服御納戸縮緬の下着に、緋博多の帯を締めたんですが、此の上もない華美な扮装でございます。其の時に千蔭先生は稻本のいなぎという名高い花魁を買って居りました。吉田さんも同じくいなぎを買って居りますが、互に知らずに居りました処、図らず互にいなぎを買っていることを聞き、ひらけて居りますから、
千「貴公も買って居るそうだが私も買って居る、これは甚だ不都合で、一人の遊女を両人で買うのはお互に心持が宜くないから、彼は貴公に差上げよう」
吉「いや貴公に」
と互に押附け合ったが、内々は惚れて居るから、
吉「左様なら花魁に極めて貰ったら宜かろう、花魁のいゝ方を取らせよう」
と是から番頭新造へ話をいたし番頭新造から此の事をいなぎに話すと、いなぎも承知し、二人共に仲の町の山口巴屋に並んで腰を掛けて居る処を、私が好いた人の手を引いて連れて往くのが真にいゝ人ざますよ。という返事が来たので、
吉「若し私が色男に取られたら何を散財しよう、黒縮緬の羽織を幇間へ残らず出そうじゃアないか」
千「もし私を情人に取ったら紫縮緬の羽織を仕着せしよう」
と互に約束をいたし、両方とも百枚ずつ誂えまして、山口巴屋に腰を掛けて、両人とも花魁の来るのを待って居りまする処へ、花魁がニヤリと笑いながら来ましたから、互に己か〳〵と考えを附けて、のり出すと、花魁は千蔭先生の手を取ってすーッと茶屋へ連れて往きましたので、吉田さんは赤面いたしましたが、昔の人は粋だから腹は立ちませんが、何しろ仕様がない、千蔭さんは情人に取られたから、拵えた百枚の羽織を幇間へ総羽織を出し、屋形船で中洲へ乗り出す、花魁が中で琴を弾き、千蔭先生が文章を作り、稲舟という歌が出来まして、二代目名人荻江露友が手をつけて唄いました。吉田さんは百枚の羽織を脊負込んで遣り場が有りません、紫縮緬が仲の町へ行渡って居りまして仕方がないから、深川へ往って、さて斯う〳〵いうわけで弾かれたが、百枚の羽織の遣り場がないから、深川の芸者に残らず着て貰いたい、恥を掻いて間が悪いから吉田の顔を立って着ておくれという、おゝ嬉しいこと、吉田さん私が着よう、私も着ようと深川の芸者が残らず羽織を着たから、深川の芸妓を羽織衆〳〵と称えるような事になりましたので、貰わぬ者まで自分で染めて黒縮緬の羽織を着たという、誠に華美なことで。昔は振られるのを悦ぶのが流行りましたものですが、今なら何のくらい怒るか知れません。悪くすると若衆を打擲致すなどゝいう乱暴なことになりますが、振られて粋がってたんですけれども、これは余り好い心持ではございません。然ういう華美な装を致しまするのを、延享年中の流行言葉で伽羅な装と云い、華美な装をする人を伽羅な人と云い、ちょっと様子の好い事を伽羅じゃアないかと云い、持物が伽羅だとか、着物が伽羅だとか、男振りが伽羅だとか云いましたが、何が伽羅だか分りません、一体人間が伽羅だ了簡が伽羅だと云うんですが、何んだか少しも分りませんから、伽羅と云う事を段々聞いて見ると、贅沢という言葉であるという。其の頃「此の露で伽羅墨練らん白牡丹」と云う句が有り「吉原の奢始めは笠に下駄」という川柳が有りますが、仙台侯は伽羅の木履を穿いて吉原へおはこびになり、水戸さまは鼈甲の笠を冠ってお通いなされたと云いますが、伽羅は大した事で、容易に我々は拝見が出来んくらい貴い物で、一木三名と申しまして、仙台の柴舟、細川の初音に大内の白梅、此の一木三名を木履に作って穿くような事は出来ませんが、お立派な下駄が脱ぎ捨てゝ有ったのを豆腐屋の亭主が拾ったが、其の頃の流行言葉で伽羅な下駄だと称えたのかも知れませんが、伽羅伽羅という言葉は誠に好い言葉でございまするな。只今ではオツと云いますが、オツというのも好い言葉でございます。其の時に伽羅大尽と云う人が華美な装をして来ましたが、紫緞子の羽織を着て緋博多の帯を締め、金造りの大小を差し、紫無地の壁チョロの深い頭巾を冠って吉原町へ這入りまするが、何時でも取巻の二人ぐらい連れて、一本差で、立派な家来が附いて参りまするのだが、山口屋七郎右衞門方の抱え遊女音羽は、実に勝れた太夫で、彼を身受けしようとか手に入れようかと思って、足を近しくまいりますが音羽は誠に厭やで、何うも虫が好きません、傍へ来られても慄っと致しまするから振ります。いくら来ても振って〳〵振り抜きますが、お客は来て来て来抜き、紋日の仕舞い何やかやまで行届かし、少しも厭らしい事を云わずに帰ります。音羽の方では振って帰すのゆえ手当は能く致しまして、何んな事でも否とはいいません、飲めない口だがチビ〳〵酒の相手を致し、
客「花魁茶会をしようじゃないか」
音「宜うざます」
客「花月をしようか」
音「宜うざます」
客「花を活けようか」
音「宜うざます」
客「碁を打とうか」
音「宜うざます」
将棊と云えば将棊を指すのですが、真に巧いもので、双六を振り歌を詠みます。かの伽羅大尽が筆を執ってスラ〳〵と認めた歌は「音に聞く音羽の滝のことあやも見なれぬ袖に浪のかくらん」というので、笑いながら音羽の許へ出すを受取り、しみ〴〵見て、此の歌を読んで居りましたが、
音「筆を貸してくんなまし」
と色紙を取ってスラ〳〵と筆を染め、
音「これは私の心ざます」
と云いながら伽羅大尽へ渡すを取上げ読んで見ると「寄る辺なき袖の白波打返し音羽の滝の音も愧かし」という返歌でございまするから、伽羅大尽は尚お惚れまして、
客「何うだ藤六」
藤「何うも実に感服でげすな、是に於て花魁の何うも……実に取敢ず即答の御返歌になるてえのは、大概の歌詠でも出来んことでございますのに、花魁は歌嚢俳諧嚢何んでも天稟備わった佳人なんで、大夫がお通いなさるも無理はないテ、何うもこれを花魁の前でいうと太鼓を持つようでござるが、大夫が夢中になって通っても宜しいんで」
客「いや花魁は私の傍へ坐って居るのも厭だろうが、私は嫌われても何ういうものか花魁の顔を見て居るだけでも心持が宜しい、と云って何も厭がるものを無理に枕を並べろというは野夫、只気に入ったものと並んで居るだけでも心持が宜しいて、なア、山田」
山田「実に手前は矢張其の通りで、貴方はお嫌いか知りませんが、男同士は是は別で、私は何んだか貴方に惚れてますよ」
客「己に貴様が惚れてるというのか」
山田「へえ、只モウ貴方の傍に斯うやって坐ってれば心持が宜いのですから、それがために何時でもお供をしてまいるわけですが……これは何うも此のお歌は花魁手前が頂戴致したいね」
音「それは真に出来が悪うざます、人に見せておくんなますな、黙ってゝくんなまし」
と云いながら立ち上り、ニヤリと笑ったなり次の間へ立ち、瀧の戸という番頭新造とヒソ〳〵話を致して居りますので、どうも仕方がない。伽羅大尽は来て〳〵来抜くが、何うも虫が嗜きませんから振るも道理、此の者は実父石川藤左衞門を三河島田圃に待受け、鉄砲にて打殺した大野惣兵衞という者でございますが、八橋周馬と偽名致し、伽羅大尽といわせておりまするが、音羽は幼年の時は一つ屋敷に居りましたが、大野の顔を知りませんから、近しくまいりますが、父の仇とも知りません、或時雪の降る日に碁を打って居りましたが、愛想だから態と二三目音羽が負けて対手の快いように致します。
伽「アヽ勝った」
と悦んで居る処へ酒を勧めたからグッスリ酔が廻り、伽羅大尽は碁盤の上へ俯伏してスヤリ〳〵と眠ってしまいました。隣座敷で番頭新造が、
番新「花魁え、おまはんは本当に感心じゃアありませんか……あら伽羅さんは碁盤の上へ俯伏して寐てしまったよ、額に碁石の痕が付きますよ、おまはんは幾度遣っても伽羅さんには敵わないのねえ、讐を取ってやんなましよ」
と云う声に驚き、ふと目を覚しキョロ〳〵身辺を見廻しながら溜息を吐き、
伽「アヽ何を」
番新「おやお目が覚めましたね、厭ですよオホヽヽヽヽ、額に碁石が二個くッついてますよ」
伽「アヽ大層酔った好い心持だ、肝を潰したが今何んだか讐を何んとか云ったが何んだ」
番「ナニ花魁がおまはんに二度負けたから、私が讐を討って遣んなましと云ったんざます」
伽「そうか……アヽ少し酒を飲み過して…山田今日は帰ろう、金吾も帰ろうかな」
山田「是からですか、今晩は貴方御一泊遊ばせな」
伽「イヤ少し気分が悪いから帰ろう」
と何時になくぐず附かずに帰りましたが、脛に疵持ちゃ笹原を走れぬという比喩の通りで、音羽の親藤左衞門を殺した身の上、若し此の事が知れはせぬかと思うからで、茶屋から番傘を借り、山田が差かけ、渡を越えて向島の土手へかゝってまいりますると、向うから破れ切った編笠を冠り、細竹の杖を突き、旅慣れた行装で、脚半甲掛も汚れて居りまする、ちら〳〵と降る雪の中を杖に縋って来た者は稻垣小三郎でございます。
稻垣小三郎が江戸へ這入って来ましたのは、白髭の蟠竜軒にいる美惠比丘尼は何でも能く中るが、別して病気のことなぞは功者だということを聞いたから、これへ往って我業病の全快するか為ないかを占て貰わんと、トボ〳〵遣ってまいったもので、此方は山田藤六が、
山田「さア〳〵土手へ上りましょう」
と土手へ上る途端に突当りました。其の頃侍は威張ったもので、町人や何かを見ると無法に見下し、
山田「コレ気を附けて歩け間抜め、気を附けて歩け、無礼ものめ」
小「これは怪しからん、私は盲人でございますから、斯様に路傍へ附いてまいりますのに、お目の見えるお方でありながら、貴方の方から手前へ突当って置き、彼是仰せられるは御無体かと心得ます」
山田「此奴、高慢なことをいうな」
とドンと突きましたから、小三郎はヨロ〳〵と蹌けて泥だらけの杖を彼の伽羅という結構な身装へ当て、泥を附けましたので、
伽「コレ山田、なんだ目の悪いものを突転ばして、コレ見ろ」
山田「これは……怪しからん奴だ、大夫の結構な召物へ泥を附けて」
小「あなたが突飛したから私が蹌けたので、盲目でございますから何のようなことを致しましたか存じませんが、それを彼是仰しゃっては困ります」
山田「此奴理窟ッぽいことを申して、盲目じゃアあるまい」
小「杖を突いて歩いて居るものを、盲目でないとお疑りなさるは御無理でございましょう」
山田「まだ理窟を申すか、偽盲目か改め遣る、笠を取れ」
と云いながら小三郎の冠った編笠へ手を掛け、無理に引取りましたから、小三郎は輪ばかり冠ったなりで、
小「あなた何をなさるんです」
と云いながらズッと寄って来る顔を見て、大野惣兵衞はぞっといたし、此奴己を讐と附け狙い、国表へ出立したことは先頃ほのかに丈助から聞いたが、此奴何ういう事で眼病に成ったか、内障眼のようだが、此処で逢ったは僥倖、此奴があっては枕を高く寐ることは出来んから、此処で討果してしまえば丈助も此方も安々と眠られる、幸いのことだと思い、雪は益々降出し、日の暮方ゆえ往来は止って居りますから、
八橋「これ〳〵盲人」
小「ハイ」
八「手前は盲目かも知れん、また此の者が何うしたか存ぜんけれども、予が服へ斯様に泥を附けて、其の上に理窟を申し、杖を以て手向い立をすれば許さんぞ」
小「誰方様かは存じませんが、手前は盲人でござるゆえ、誰方が側にいらっしゃるか心得ません、不調法が有ったら御勘弁下すっても宜しい訳、全体侍たるものが弱いものいじめをして歩くは宜しくないこと、あまりお情ない、俄盲目で感の悪いものを突飛すとはお情ない人々だ」
八「まだ口答えを致すか、此の者に何ういう事があったか知らんけれども、手前は此れに立って居るのに、服へ泥を附けて置きながら彼是と無礼を申せば斬捨てるぞ」
小「さアお斬りなさい、これは面白い、さア斬られましょう、手前は盲人でございますが、何咎もない者を無闇に斬って済みますか、さア斬られましょう、怪しからん事を仰しゃいます、罪ない者を斬るということはありますまい」
八「イヤ仮令盲人でも無礼があれば斬っても宜しい、許さんぞ」
と云いながらズラリと引抜く太刀の光りに、傍に居た山田藤六が恟りいたしまして、
山田「大夫マアお待ち下さいまし、御立腹は御尤ですが、如何にも感が悪いと見えまして、変なところを覗ってる様子は全く盲目に違いありませんから、お手討は余りお情ない……コレ謝まれ、全体手前が宜しくない、盲目滅法界に人さまのお身柄も分らんから無闇なことを申して、このお方は拙者の主人同様の大切なお方だから謝まれ〳〵」
小「イエ何も謝まる訳はありません、拙者の方では何も無礼は致しません」
八「だから許さんと申すのだ」
山「でげしょうが……アヽ危ない、マア〳〵全く盲人でございますから」
と宥めて居りますが、中々聴きません。
小「何をなさいます」
と云いながら古竹の杖を持って無闇に振廻しますが、盲目でこそあれ真影流の奥儀を極めた腕前の小三郎、寄り附かんように振廻す。
山田「コレ危ない、左様なことを致すからお手討に逢うようなことになるのだ……あなた盲目などを斬って罪を作るでもございますまい」
八「まだ手向いをするか、もう捨て置けん、斬らんで置こうか」
と云いつゝ飛込んで一討にと小三郎へ斬り掛りました其の刃の下へ、鼠の頭巾を冠った人が這入ってまいり、小三郎を後に囲いながら、
尼「私は通りがかりのものでございますが、何うか御勘弁なすって下さいまし、全く盲人の様子、殊に感の悪いものでございます、盲目根性と云って、なにか剛情な事を申しまして、お詫ごとをいたす術も心得ませんゆえ、お腹立でもございましょうが、なり代りまして私がお詫をいたしますから何うか御勘弁を」
八「手前だちの知って居ることじゃアない」
尼「私は白髭の蟠竜軒にいる尼でございまするが出家の身の上として、今斬られるということを聞きまして、其の儘見捨てゝ往くわけにはまいりません、人を助けるのは出家の役、全く盲人で、殊に感の悪いゆえ粗怱をいたした上に、剛情なことを申して居りまするから、御立腹は御尤もでございますが、何うか私にお免じ下さいまし」
と詫びる。山田藤六は何うかして斬らせたくないと思って居るところ故悦びながら、
山田「能く中へ這入ってくれた、誠に忝ない、大夫尼が這入りました、此奴が剛情を張るもんだから大夫がお腹をお立ちなさるのだ、コレ尼お止め申してくれ」
八「なにも手前の知ってる事じゃないから何も云うには及ばん、何うあっても斬らんければならん」
尼「どうぞ御勘弁を」
八「御勘弁たって勘弁相成らん」
尼「もしもお聞済みなく此の盲人を斬ると仰しゃれば、出家の身の上で此の中へ這入り、左様でございますかと此の儘に身を引く事は出来ません、仕方がありませんから此の上は此の者の代りに私をお斬り遊ばして下さいまし……お前さんも黙って居れば宜いのに、返し言をするから先方でも御立腹なさるのです……併しあなた私が斯う衣の片袖を此の者へ掛ければお助けなさる筈、お武家さまだけに御存じで入らっしゃいましょうがな」
八「いらざる処へ飛んだ者が出てまいった、宜しい、出家が中へ這入ったこと故其の衣に免じて許してやるが、無礼者め以後たしなめ」
小「私が何時無礼を」
尼「まア〳〵それはお前さんが善くない、然ういう性質だから眼も悪くなる、心を静かにしないで猛り狂うと、却って逆上して眼に障る、何事も私にお任せ」
小「はい〳〵」
山田「尼、誠に忝ない」
八「コレ盲人理窟張ったことを申すと了簡せんぞ、尼さッさと連れて往け〳〵」
尼「さア〳〵お前さん、私と一緒においで」
と是からなだれに美惠比丘尼が小三郎を連れて白髭の方へ参るのを八橋周馬が見送って居りましたが、
八「山田」
山田「ヘエ」
八「白痴め何んだって取支えて詫口なんぞを利くんだよ」
山田「ですが全くの盲人をお斬り遊ばすって常に似合わんことを仰しゃいますから、大きに驚きました」
八「手前だちは何も知らんからだ、山田少し耳を貸せ」
山田「ヘエ」
と耳を口元に差附け、
山田「ヘヽ……左様でございますか……フーン成程」
とコソ〳〵暫く囁いて居りましたが、慾というものは怖いもので、度胸のない奴ですが、
山田「宜しい、それでは今晩蟠竜軒へ忍び込んで様子を伺いましょう」
と是れから二手に分れて八橋周馬は堀切の八ツ橋畠へ帰り、山田藤六は蟠竜軒へ躡けてまいりました。此方は左様の事とは知らず帰ってまいりますと、多勢のお弟子が、
「お帰り遊ばせ〳〵」
美惠比丘尼は小三郎を三畳ばかりの部屋へ通し、
尼「さア〳〵此処へおいで、私は彼方へ往って看経をしまってから緩々と話をいたしましょうが、お前さん、軽はずみな事をなすってはなりませんよ、お前さんに会いたがって、毎日の様に当寺へお参りに来る人があるから、その話もしましょうが、ひょっと私が間違って居るか知りませんが、お前さんの眼病を酷く心配して居る様子ゆえお痛わしゅう存じます、あんな荒々しい侍に突掛ると並の身体ではないから、心を柔しく持たんとお身を果すことになりますよ」
小「千万忝のうござるが、如何にも無法で、木履を持ちまして私の肩を蹴って、二度目にまた耳のところを蹴ましたから、捨て置かれんと存じました、仮令修行を致す身の上でも、かゝる下郎のために父母の遺体を汚されたは如何にも心外でございます」
尼「いや皆なそれは約束事でよい人も零落れる事も有れば、また心掛けの善く無い人でも結構な暮しをして、日々のことに困らないのは前世の因縁であるから、何事も気を永くして時節の来るのを待たなければならない、また病も治らん事はありませんから緩りお寝なさい、明日は会いたいと云う人が屹度来ましょう、其の人に逢えばお前さんの身も立ちましょうからよ」
小「千万忝けない」
尼「何んぞ上げましょうか、寺だからお肴も何も無いが、温かいお粥でも拵えて雑炊のようなものを上げましょう、私は穀類はいけませんが蕎麦掻は喰べるから有りますよ」
小「誠に御真実に有難う存じます」
尼「お寒かろうから、もっと火を沢山持って来て上げな」
と是から行灯を持って参り、夜具を貸して寝かしてくれました、美惠比丘尼は居間に這入り看経を仕舞い、蕎麦掻を少し喰べてから薄い木綿の座布団を内仏の前へ敷き、足を組んで坐禅観法をいたし、無心になって頻りと公案をして居りまするが、雪は夜に入り深くなりますから一際しんと致しています。其の内にお弟子の尼達も昼の疲れと見えまして、皆スヤリ〳〵と寝附く。中には鼾の強い者もありまする。すると台所口から忍び込んだ山田藤六は、そっと縁側伝いに来まして、破れ障子から覗いて見て、障子越しに長物で突殺せば、大野惣兵衞から五十両褒美をくれるというので、慾張った奴で、剣術は少し心得ておりますが、至って臆病者でございます、怖々様子を覗いますと、小三郎は何を思いましたか不図起き上り、旅荷を引寄せ、合切嚢の中から取り出して、大野惣兵衞の冠った頭巾と、傍には國俊の木剣造りの小脇差を置きまして、小さい位牌を恭しく飾り、実父稻垣小左衞門が最後のときに握りつめたる仇の頭巾を手探りで前へ置き、慇懃に両手を突き、
小「アヽ残念でございます、お父さま誠に残念でございます、小三郎薄命にして斯る眼病に相成り、御尊父の妄執を晴らす事もお刀の詮議をいたすことも此の盲目では思いもよらず、又大野惣兵衞に出会いたす時あるとも、一刀とて怨むこともかなわぬとは、神仏にも見離されしか、斯の如き尾羽打ち枯した身の上になり、殊に盲目の哀しさには、口惜しくも匹夫下郎の泥脛に木履を持って」
と云いかけて身をふるわせ、
小「足下にかけられ、如何にも残念に心得ます、御両親より受けました遺体を汚せし不孝の罪、いかに盲目なればとて口惜ながら手出しも出来ず、此の儘に何時まで長らえ居りましても、素より稻垣の家を興す認めはござらん、生甲斐のない我が身の果、死する時に死せざれば死に勝るの恥あり憖いに生恥をかいて稻垣の苗字を絶し、殿さまの御家名を汚します不孝不忠の小三郎、只今此の処において切腹いたし相果てまする、場所も幸い尼寺、仮令仇は打ち得ずとも、悪人大野惣兵衞を組み敷いて首を掻き取ります心得で、只今この黒羅紗の頭巾を突き破り、惣兵衞の首を掻取り、直様此の場で切腹いたし、草場へ参った其の上で本意を遂げざるお詫をいたします、あゝ残念でございます」
といいながら、かの黒羅紗の頭巾を左の手に握り詰め、片膝へ敷据えて、右の手にて木剣作りの小脇差を引抜き、十分の怒を面に表わし、見えぬ眼にて黒羅紗の頭巾を睨みつけながら、
小「吾身不肖にして本懐を遂げずとも、秦の豫讓の故事に擬らえ、この頭巾を突き破るは実父の仇大野の首を掻き取る心思い知れや、大野惣兵衞」
と彼の頭巾をズタ〳〵に突き破り、國俊の小脇差を持ち直して我腹へ突立てようとする処へ、何時か忍び込んだ山田藤六が障子越しに、小三郎を突殺そうと覗っておりまするが、山田藤六が突かなくっても当人は腹を切るので、当人が腹を切らなくても、後に突殺す奴が来て居るから、稻垣小三郎の生命の助かりようは御座いません。
只今美惠比丘尼が坐禅観法中、稻垣小三郎が自殺をしようとするところへ、山田藤六が忍び込んで、これを刺殺そうといたします。夜はしん〳〵と更け渡り、雪は益々降りしきる。北窓に当る雪折竹の音サラ〳〵〳〵と聞えまするが、物音の思うように聞えんのは、余念が有るゆえに音を聞分けることが出来ませんので、草葉ですだく虫には種々有りまするが一緒に啼いて居りますると、何れが鈴虫か、松虫か、機織か、草雲雀か、とんと分りませんけれども、余念を去って沈着いて聞きますと分りますから、年を老った人が夜中に蟻の這うのも分るというは、心が据っておりますると、細かい物でも真の闇に見えるという、これを心眼と申しまして、精神が沈着いて無心になれば何でも速かに分りまするものと見えます。雪の降るのを聞いて居て、今何れだけ積ったというのも分るそうでございます。美惠比丘尼は能く分ると見えまして、坐禅中に小三郎の自殺しようとするのも、山田藤六が後から小三郎を突き殺そうとして居ることも、隣座敷に居りながらちゃんと見るが如く分ると見えます。今藤六が障子越しに突込みに掛る途端に大喝一声で、
尼「喝ー」
と云いました。死したるものゝ吐くを死喝といい、生きたるものが吐くを生喝という。この大喝一声は実に天地へ響く大声でございまして、ガーと云ったときには気の弱いものは胆を挫がれます。獅子出て吼ゆる時は百獣脳裂すというて、王獣が怒って吼える時は小さい獣の頭が砕けるというぐらいでございます、と比喩にも申しますことで、釋迦がいう事は羅漢でさえも脳裂するくらいの力が有ったといいます。今只た一言美惠比丘尼の「ガーッ」という一喝が山田藤六の耳へ響きますると、パタリと尻餅を搗いて気絶致しました。と云うと嘘のようですが必ず気絶するということです。稻垣小三郎は剣術も上手で胆力の据った人だが、耳元を突き透した一声に思わず知らず國俊の小脇差を取落したところへ、美惠比丘尼が小さい鉄の如意を持って出て参り、小三郎に向い、
美惠「まア何ういうもので其様な心得違いをなさるのじゃ、そんな事をするといけないから私がくれ〴〵云ったのだ」
小「お道場を汚そうといたし誠に相済みませんが、生甲斐のない此の身の上、強いてながらえて居りますれば家名を汚し、主名を辱かしめ、実に此の上ない大罪、何卒お見遁し下すって、御当庵にて自殺いたし相果てますれば、手前幸いの死処でございます」
美惠「いや、いくら死にたいと云って腹へ刀を突込んでも、死ぬ時節が来なければ死なれんものじゃ、また死ぬ時節が来れば何程助かりたいと思っても助かることは出来んものじゃから、慌てゝ死のうとするは迷いじゃ、宜くない思いちがいじゃゆえ、まア〳〵脇差をお渡し」
と無理に取上げ、後を振向き、
美惠「知行や、妙桂や、出ておいで、泥坊が這入ったよ、戸締りを宜くして置かないからだ、妙達や、宗榮や」
なかと呼びましたから、お比丘さん達が皆出て来て見ますると、抜身を投り出し、板の間の処に眼を廻して居りまするものがありますから、
知「何うしてマア此処へ賊が這入りましたろう」
妙「抜身を持って居ますよ」
宗「腰にもまだ差して居ります」
美惠「そっくり其の儘グル〳〵巻にして藪の中へ投り出してしまいな、また這入るといかんから」
と是から多勢寄って集って藤六を縛って外へ突出しましたが、藤六は終夜凍えるような目に逢いました、此方は美惠比丘尼が頻りに小三郎の死を止めて居りまする内に、夜も明け渡り、翌日になりますると、雪の明日ゆえ快晴でございます。巳刻半時分に参詣に来ましたのは高橋に居りまする梨売重助で、図らず小三郎に巡り逢い、
重「あなたはお情ない、何故私の処をお尋ね下さいません、仙太郎親方も万年町の旦那さまも貴方の事ばかり申してお案じ遊ばして在っしゃいますから、兎も角私の処まで入っしゃいまし、何の様な事でもお力になりましょう、あなたが軽はずみな事をなすって下さいますと、跡のものゝ嘆は如何ばかりか知れません、兎も角も」
と云うので蟠竜軒を連れ出し、高橋の宅へ帰ってまいり、急に仙太郎や万年町の主人を迎いにやりましたから、皆な来まして驚き、情ない御眼病で有る、兎も角もお世話を致しましょう、と其の頃の名医を頼んで段々と手当を致しました処が、お医者の云うには、ナニ丹誠したら治らんことも有るまいが、余程逆上をして居るし、殊に悪い血が有るが、手当をして見ようと云うので、岡本政七が私の宅へ引取って何の様にもお世話をしようと云えば、仙太郎が傍から斯ういう旦那ゆえ、お嬢さんやお母さんがちやほやすると御心配でもなさるといけないから、却って別にお家を持たして上げる方が気兼がなくって宜かろうと云うので、方々探すと、深川扇町に明家が有りましたから、此家へ小三郎を移らせ、雇い女を一人附けて気楽に暮させ、使い早間には何うせ遊んでいるからと安吉を附けて置き、政七も仙太郎も重三郎も折々来ては、小三郎の心を慰めることを申しまするが、小三郎は只々欝いで居まして、何時までも厄介に成って居るは気の毒だと云って、何にも商売は知らんが、少々は指田流の笛を吹くから、習いに来るものが有るなら教えてやりたいと云うので、門口へ指田流の標札をかけて一節切の指南を始めましたが、品の善い芸は習う人は稀でございます。たま〳〵木場辺の子供衆が二人三人まいりますが、これを相手にして居ると、お嬢さんが稽古にまいりまするので、奉公人が多勢附いてまいりまするから、月々可なりに手当をしてくれるゆえ、大きに小遣取りになりまする。其の年も果て、翌延享三年二月二十九日の晩に、浅草馬道から出火いたし、吉原へ飛火がしました。或は飛火がしたのではない、吉原からも出たのだと申します。此の火事で吉原が類焼したために、深川に仮宅が出来ましたから、深川の賑いは実に大したことで、小さい女郎屋は馬道山谷辺の船宿の二階などを借りて、立退中稼がせて居りまする。其の頃評判の遊女屋山口七郎右衞門の仮宅は深川仲町で、大した繁昌でございます。仮宅の時には好い花魁を買えることが有りまする。只今と違って昔は尚おゴタ〳〵挙ってまいり、名高い花魁を買って見たいと、身分の無いものは悪才覚をして山口屋へ登りまするが、立退中ゆえ万事届きませんでどさくさして居りまする。
客「何うしやアがったんでえ、若え衆」
と無闇に手ばかり叩く。
若「へい〳〵」
客「オヽ若え衆」
若「へい〳〵」
客「返事ばかりしてえやアがる、冗談じゃアねえぜ、オイ若え衆、此方へ這入んねえよ」
若「へい」
と障子を明けてお辞儀をする。
客「其処じゃア話が出来ねえから此方へ這入んねえ」
若「へい」
と首を擡げて恟り致し、
若「旦那悪戯をなすっては困ります、畳を残らず揚げて段々積み重ねちまって、其の上に乗ってらっしって何う致したんでございます」
客「オヽ若え衆、少しものをなくしたから畳を残らず揚げて見たが知れねえから、これから天井板を引剥して探して見ようかと思うから、踏台か何か持って来てくれ」
若「ヘイ〳〵何か紛失りましたか」
客「まア此方へ這入んねえ」
若「でも這入られません」
客「足の親指で爪立って這入んねえ」
若「ヘイ」
と中へ這入りながら、
若「何が紛失りましたか知りませんが、斯んな悪戯をなすってはいけません」
客「先刻の、番頭新造が花魁を一寸連れて来たかと思うと、直に居なくなッちまったんだが、慥に此処へ這入ったのに違えねえものが居なくなって見れば、この座敷は己が借りたもの、此処の主人が大金を出して抱えた花魁なら、大切な預り物よ、それが紛失っては己が済まねえから、畳を揚げたり天井板を引剥して探そうというのが分らねえか、此処に小さい箪笥が有るから引出まで明けて探したが、何にも無え様だ」
若「御冗談を仰しゃっては困りますナ、女郎衆は継針や二朱金では有りませんから、ピョコ〳〵畳の間に隠れることはありませんのに、煤掃でも始まったような事をなすっては困ります、ホンの立退中の仮宅でございますから行届きません勝でしょう、此の通りゴタ〳〵して居りますのに、悪戯をなすっては困ります、好い花魁は私どもの自由にはなりませんので、ヘエ」
客「箆棒奴、出されねえものなら何で客にして上げたのだ」
若「でございますが、好い花魁になりますとお初会の処は大概お座敷限りで」
客「生意気なことをいうな、仲の町の茶屋で顔を見て座敷限で帰るくれえな事は知ってるが、立退中だって斯んな宅を借りていやがッて、座敷もねえもんだ、物置き見たようなものだから叩っ毀しても宜いんだ、何うせ銭の有る人間じゃアねえから、足を近く来るのではねえや、大層な花魁だと名高いから、斯ういう時でなけりゃ会う事は出来ねえと思って、態々来たんだのに、早く出さねえと殴るぞ」
若「乱暴でげすな、お殴りは困ります、ヘイ〳〵、もう今にお出でゞございましょうが、花魁は御病身でげすから、お癪が痛くなることが折々有りますから、ヘイ」
客「なんだ、お癪が痛くなると、ヘン箆棒め、手前じゃア分らねえから、もう少し訳の分る奴をよこせ」
若「別に分るものは居ないので」
客「手前より些とは分るものが有るだろう」
若「些とぐらい私より分るものは居りまする」
客「分るものが有るなら其の分るものをよこせ」
若「丑刻過は不寝番の係で新助の係りではございませんから私の係りになります」
客「丑刻過は不寝番の係ぐれえの事は知ってらア、吉原の事を知らねえ人間だと思うのかえ、おつウ指図がましい、教えるような変なことを云やアがるが、吉原の作法を知ってるか」
若「吉原に奉公致して居りますから大概の事は存じて居ります」
客「それじゃア吉原町は以前は何処に在ったか手前知ってるか、昔慶長年中の相州の浪人で莊司甚右衞門というものが願って、遊女三千人の御免の場所を建置かれる事になったが、其の前は常磐橋御門から道三橋の近辺を柳町といって、又鎌倉河岸に十四五軒あって、麹町にもあり、方々に散ばって居たのを、今の吉原へ一纒めにしたので、吉原というのは、其の頃葭葦の生えて居たのを埋立ったから葭原というのだが、後に江戸繁昌を祝して吉の字を書いて、吉原と読ませるんだという事を聞いてるが、一体は花魁に大層な装をさせては済むわけのものではねえのに、朝飯前には持上らねえような帯を締めて、大層な装なんぞしては済むめえ、総縫金銀摺箔一切着せ申間じくという旧時の願い立とお触出しのお書付に違ってるんだ」
若「誠に何うも心得ませんで、ヘイ」
客「何にも面倒なことをいうのじゃアねえ、花魁に会わせりゃア宜いんだ、己ア伊皿子台町の者で、遠い処から来たものだから思いやれよ、手前の面は乙ウ青いなア」
若「へえ病身でげすから」
客「何か宜い薬でも飲んで身体をしっかりしねえ、厭にブテ〳〵肥ってやアがるナ、青脹れだな」
若「どうでもようございます」
客「只花魁の身の上が聞きてえのだから、早く呼んで来てくれ」
若「中々私などの手には乗りません花魁で、何か申しても返事も致しません、主人が言葉を掛けてもいけませんくらいなので、ヘエ、私は花魁方に使われて居る身の上でございますから」
客「こん畜生殴るぞ、腕がリュウ〳〵鳴るぜ」
若「腕なぞを鳴らしては困ります」
客「能く主人に然う云ってくれ、これっ限しか来ねえお客と見くびってるだろうが、己は花魁が来ても床いそぎのじん助とは違うから、やぼを云うのじゃアねえや、山口屋の音羽と云っちゃア名高い花魁で、大したものだ、亭主のために身を売ったというから、其の身の上話を聞きてえと思って来たんだから、一寸会わせろ」
若「ヘイ、只今直に、少々立込んで居りまするから、明方までにはお廻りになりましょう」
客「お神輿でも待ちゃアしめえし、お廻りになるってやアがる、殴るよ本当に、仲どんは止めちまや、可愛相に青脹れで、頭髪を剃ッちまいねえ、衣の勧化ぐれえはしてやらア」
若「ヘヽ何れまた」
と云い捨てゝ往きました。
客「オイ冗談じゃアねえぜ、オイ、逃げてしまやアがった」
するとまた隣座敷で、
客「若い衆さん、ちょいと若い衆さん、其処をお通りかえ、若い衆さん、ちょっと御尊顔を拝したいね、あなた」
若「ヘエ、これは何うもお淋しゅうございましょう、生憎立込みまして、花魁は只今じきおいでになりましょう」
客「成程明方までにはお廻りに成りましょうから、それまで目を覚して待ってましょう、あなたは青くはありませんね」
若「お隣ずからで聞いて居らッしゃって、おひやかしなすっては困ります」
客「誠に弱ったね、何か隣の真似をするじゃアないが、我々共が花魁を買い上げて、抱こして寐んね仕ようと云っちゃア些と増長した申し分だから、然うは云わないが、只花魁に一寸会って見たいので、歌を詠んだり碁を打ったり、花を活けたりして高尚ということを聞いたが、だん〴〵聞けば剣術の先生のお嬢さんだとか、お屋敷さんだとかいうことだが、何ういうわけで斯んな苦界へ沈んだかと御様子が聞きたくって来たんで、決して何うしようの斯う為ようのという訳ではありませんが、隣でバタ〳〵畳を揚げるというので、何分にも寝られません、あの騒ぎですものを」
若「へい、誠に御迷惑な訳で、まるで煤掃き見たようで、畳を積み揚げて、御丁寧に其の上に布団を敷いて坐ってるんですぜ、天井へ頭が支えて居りますので、誠に驚きました」
客「あゝ云うものを相手にして無理なことを云われゝば、誰だって虫があるから、何を云やアがる、手前ばかりがお客じゃアねえと突掛りたいとこだが、青脹れといわれても何といわれても逆らわずに居て、気の折れてるところは実に感服しやした、恐れ入りやした、これは何うしてなか〳〵苦労をしなければ出来ないわけだが、お前さんも余程苦労をしたね、やっぱり道楽のあげく、親兄弟に見放され、拠なく斯んな処へ這入ったのでげしょう、お前さんがまだね息子株の時分に、様子の好い花魁のとこへ足を近く通った末に、花魁に乙な臭いが有ったところから病を引受けたんでげしょう其の何うも青く白いのは、種々なことを御存じでしょう、親がやかましくって勘当をされ、親類には見放され、拠なく斯んな処へ這入って、濡雑巾を握んで板の間を這ってゝ、番頭新造や何かゞ我儘をいうことを聞いてるような身になりさがったのでしょう、女のために責め殺されて死にたいという念が有りましょう、お前さんはそれが願いでしょう」
若「ヘヽヽヽヽなに願いと云うわけではありませんが」
客「何でもお前さんは沢山遊んだ人に違いない、さん〴〵親不孝をした揚句、斯ういう処へ這入ったんでしょう」
若「ヘヽヽヽ」
客「然うでしょう、少し声がしゃがれてるし、一中節を習ったろう、あのーなにを唄ったろう……あれは端物だがいゝねえ、英一蝶の画に其角が賛をしたという、吉田の兼好法師の作の徒然草を」
若「へえ何方さまで」
客「お耄けでない、唄ったよ、お前が撥を持って、花魁の三味線でお前が変な声を出して唄ったという噂が残ってるよ」
若「御冗談ばかり仰しゃいます」
客「何うもお前は本当に苦労をした人に違いないが、お前が客で遊びに来る時分には、女郎衆が傍に居た方が宜いか居ない方が宜いか、何方が心持が宜かったえ」
若「ヘイ〳〵」
と頭を掻き、
若「真綿で首を締めるように仰しゃいましては困ります」
客「只ちょっと花魁にお目にかゝれば宜いんで、私は伊皿子台町じゃア有りませんよ、深川万年町の先でございます」
若「ヘイ〳〵」
と云い捨てゝ出て往き、
若「花魁エ〳〵」
音羽は次の薄暗い座敷で丈助に向い、
音「丈助どん能く来なました」
丈「其の後は存外御無沙汰を致しましたが、只々お案じ申し上げるのみでございますが、何分お音信さえも出来ませんと、若旦那さまも、あなたさまの事をお案じ申し上げ、日々あなたさまのお噂ばかりでございます、此の度はまた吉原町御類焼のことを承わり、お怪我がなければ宜いがとお案じでございますが、若旦那が色里へお這入りなさる事も出来ませんゆえ、早く往って様子を見て来いと申し付けられ、吉原へ往って見ますと、焼跡のみで分りませんから、段々聞きましたれば、当所へお立退きに成ったということを承わりましたから、取敢ず罷り出ました」
音「そう、私も毎日神信心をして若旦那の事ばかりお案じ申して、お刀がお手に這入ったら、もうお屋敷へお帰りになりそうなものだと思って居りますよ」
丈「へい、それが又あなた悪者に欺されてお刀を持って往かれ、永い間旅で御苦労をなさいました」
音「若旦那は嘸御難儀、それにお前方も共々難儀をしたろうね」
丈「悪者のために欺かされましたが、漸くの事でお刀はお手に這入りました、それには種々手蔓をもっていたしましたから、其の方へ遣物や、何や彼やで沢山物も掛りました、永い間あのお刀ゆえ若旦那の御辛苦というものは一通りでは御座いませんでしたが、急に当廿日までに芝のお屋敷へ御帰参に極りました」
音「それはまアお嬉しい事で、私はそればかり案じて居ましたが、それはまア何よりの事で、それに勇助は達者で居りますか」
丈「へい……勇助さんも永い間の旅で、年齢が年齢でございまして、私と違い大層苦労をなすったので大きに衰えました、お嬢さまにお目に懸りたいが、此の頃は持病の疝気で腰もたゝず、そう致すことも出来んから宜しゅう申し上げてくれろとの事でございました」
音「勇助はドッと寝ているか……それで能く来なましたね」
丈「就きまして只今では高輪八ツ山の前にお漁などに往らしった時分、お馴染の船宿の二階を借りて居らっしゃいまして、御帰参のお支度にかゝって居りますが、故郷へは錦を飾れの比喩ゆえ、切めてはお帰りの時には立派にしたいと若旦那さまも仰しゃいまするし、私共もお立派になってお帰りになるように致したいと存じまする、それに差支えますると云うは、明後日渡邊外記さまにお目に懸らなければなりませんから、お上下でお召も御紋附に致し、お大小の処もあゝいう訳で、お脇差一本でお出向きに成りましたのですから何やら彼やら差支えまするので、至急金子百両入用に付いては、勤めの中へ再度無心をいたし、苦労を掛けて済まんが、他に何うも頼み入れる処もないからと仰しゃってで、其の代りお屋敷へ帰参すれば直にお身受に成って、御重役様が媒人で芽出度く夫婦になるので、これは小三郎さまからの御書面でございます」
と懐から手紙を出して音羽に渡し、
丈「右の訳ゆえ誠に恐れ入りますが、今晩の中に金子百両だけ御才覚を願いますよう、丈助も若旦那さまに成り代って共々にお願い申します」
音「あい、然うざますか」
と云いながら文を取上げて封を押切り、読んで見ますると、女房に手を下げて頼むが如き文面で、何うしても丈助の企みとは、是れまでも欺むかれて居りましたゆえ知らぬも道理でございます。其の文中に何う有っても今晩中に百両の金子が無ければ、明後日渡邊外記に面会する事が出来ん、如何に尾羽打ち枯すとも斯る見苦しき身装で重役に対面もならず、屋敷の聞えも宜しく有るまい、殊にお刀を渡邊外記へ渡して、殿様へ御覧に入れるのも、何かと何うも今の処では不都合で有り、また家来共にもそれ〴〵身装の手当もせんければならんが、屋敷へ帰れば直に才覚してお前の身受をいたすから、何うぞ百両の金を調えて丈助に渡してくれろと云う文面ゆえ、貞実の音羽でございますから、
音「心配しなますな、何うか私が才覚をしようから待って居てくんなまし、大引け過までには何うかして見ましょう」
丈「いえ明けまでゞ宜しいのでございます」
音「少し待って居なまし」
と立上り、此の席を出て自分の座敷へ来まして、次の間の方へ番頭新造を呼んで相談致しましたが、音羽の許へ来る客は有りますけれども、二回目の返った例がないから無心をいう人がありませんが、此の番頭新造は親切ものゆえ、種々心配いたし、
番新「花魁無理だよ、能く考えて見なまし、おまはんは別に取り留めたお客もないのに、此の類焼の中で又しても〳〵そう〳〵内所へ談をした処が、おまはんが年季を増したのも幾度だか知れない、亭主のためとは云いながら、丈助さんの来る度にチビ〳〵上げたのも巨きい事じゃアないか、今度また急に百両、おいそらと云っても、斯んな立退中ざますもの、碌なお客はありやアしまへん、あんな乱暴もんの畳を揚げたり、布団を脊負たり、廊下を駈けたりする奴ばかり来るんざいますものをそんなお客を相手にしたっても仕方がないじゃア有りまへんか」
音「何かして工夫を」
番新「エ、それだって内所へは云えないもの……」
と暫く考えて居りましたが、やがて何かうなずきました。
番新「一人ねお金を沢山持っている客人があるのざんすよ、先刻私がねお召を着替なましって広袖へ浴衣を重ねて貸したのさ、初会客だが、目の悪い二十五六の好い男の、品の好い人だが、初めて斯んな処へ来て様子を知らんから何分頼むよと云うから、今花魁に然う云いますが、着物を畳んで置くから出しなましと云ったら、斯んな汚い着物だから畳まなくっても宜いと云うのを、無理に取って寝巻と着替えさせると、お酒は飲めないと云うから甘味を出して遣ったら、斯んな甘いお菓子まで手当をされて斯んな嬉しいことはないが、音羽の身の上は何ういうものか聞きたいと云うから、花魁はお屋敷さんのお嬢さんですが、種々訳があって亭主同様の人のために苦界に沈んでるんざいますと云ったら、能く然う云っておくれ、亭主のために斯んな辛い思いをしていることを、其の亭主が聞いたら嘸悦び、金があれば直に身受をするだろうって、お前さんのことを思いやって涙ぐんで居たが、本当に可愛相だアね、其の人が着物を着替る時に、紺縮緬の胴巻がバタリと落ちたら慌てゝ匿すから、私ア取りやアしないったら、ニヤリと笑顔をして居たが、彼は何んでもお金をボツ〳〵虎の子の様に貯めたに違いないんでしょうが、あの目の悪い客衆が百両ぐらいお金を持ってるようですから、彼れが馴染の客ならどうでもなるがねえ」
音「無心を云って見てくんなましよ」
番新「でも私には無心は云えないわ、馴染でも何でもない人だし、誠に彼様装をして、一生懸命にチビ〳〵貯めて持ってるんですから、貸せなんぞと云ったら肝を潰して見えない眼でもまわすといけないからさ、無駄だよ、斯んな好いお茶や甘味を食べたことはないと云うくらいだからいけまへんが、花魁無駄として、おまはん無心を云って見なましな」
音「それ〳〵中橋の繁さんが来ていると云うじゃアないか」
番新「あの人は色男がって、好い装をして、持物に凝ってゝお金の有る振をしていて、お金は持ってないが、私は繁はんの処へ往って機嫌を取って来るから、おまはん彼の目の悪い人の処へ往って、気休めの一言も云ってやんなましよ、宜うざますか」
と瀧の戸という番頭新造は出て往きました。後で音羽が箪笥の引出から出しましたは嗜みの合口でございます。其の内に引過に成りましたから、禿も壁に寄り掛って居寝りを致して居りまする。音羽はそッと行灯の許へ来て鞘を払って合口を見ますると、錆も出ない様子ゆえ鞘に納めて懐へ匿し、
音「どうも亭主の為には替えられない、こんな苦界へ沈んだのも稻垣様ゆえ、その稻垣さまが百両のお金が無ければ一生埋木になって朽ち果てると、よく〳〵なればこそ女房の私に手を突いて頼むような此のお文を見ては此の儘に捨てゝ置く事は出来ない、ふりに登ったお客なれどもお金をたんと持って居るとの事、目の悪い客衆に会い、私の無心を諾いて下さるか、若し否と云わば仕方がないから其の目の悪い客衆を刺殺して百両のお金を奪って丈助に渡し、若旦那さえ世に出れば私は縄に掛って解死人に立とうとも、私の身は何う成ろうとも、何うか若旦那の世に出るように」
と良人を思う一図意に屏風の許まで忍んで来ましたが、屏風の中に居る目の悪いお客と云うは即ち稻垣小三郎で、深川扇町に居りまするが、山口屋の抱え遊女音羽というものは、浅草田原町に町道場を出して居た石川という剣術遣いの娘だが、許嫁の亭主のために身を売って、他の客には肌を触れんという名高い花魁だ、度々無心に来る毎に良人に金を送るとは貞実な者だという噂を聞いたが、石川の娘で許嫁といえば私より他に無い筈だが、幼年の折に別れて顔貌を知らぬに付け込んで何者かに欺むかれ、斯る苦界に沈んで居るとは如何にも不憫、盲目の身で会っても益ないが、何うかして此の金をやりたいというので、渡邊外記から餞別に貰った百両を包み、重三郎に頼み、ちゃんと自分の名を書いて渡そうと思って登ったのでございますから、早く打明ければ宜かったのに、それ程私を思う石川の娘おみゑに、私が稻垣小三郎と云えば、斯様に盲人に成った姿を見たら嘸嘆くことだろうから、今晩は帰る方が宜しいと、百両の金をそっと寝巻に包んで、コソ〳〵帰ろうと致しまする処へ、音羽が合口を持って、良人のために此の客衆を殺そうと思い、一生懸命に怖々ながら屏風を明けて中へ這入り、稻垣小三郎を殺そうと致しまして、嗜みの合口を取出し、鞘を払って行灯の許へ来て見ると、まだ錆も出ぬ様子ゆえ、ピタリと鞘に納めて懐へ入れ、部屋着の服で屏風の許へ来て立って居りました。情ないことには互に顔を知りませんから、亭主の為に亭主を殺しにかゝりましたので、実に小三郎の身の上は危うい事でございます。すると次の間に立って居りましたのは番頭新造の瀧の戸で、
番新「花魁エ」
音「あい……恟りしたんざます」
番「ちょいと此処へ来なまし、まア沈着いて其処へ坐ってくんなましよ」
音「あい、おまはんは中橋さんの方へ往ったんじゃア有りませんか、何うして此処に居なましたの」
番新「少し気になることが有るから帰って来たんざますが、花魁今おまはんが懐から脇差見たようなものを出して、行灯の前で、こう鞘を払って、おまはんが見て居たのを、私は何をしなますかと思って、廊下の障子を明け掛けたが、怖いから立って見て居たんざますが、おまはんそんなものを懐へ入れて往くからには、彼の屏風の中の客衆を殺す気なんざますか」
音「静かにしなましよ」
番新「沈着いてくんなましよ、能く考えて見なまし、おまはんは小三さんの事というと気違のようになりますが、あの目の悪い客衆を殺せば、仮令小三さんが世に出ればとて、人を殺しちゃア斯う遣って居る事は出来まへん、解死人に立たなければなりますまい、能く考えて見なまし、亭主のために苦労をして、幾ら添いたいからと云っても、人を殺しちゃア小三郎さんと添えることは出来ないじゃアありませんか、後先見ずの無分別なことをしてくんなます、逆せ上がって仕舞うんざますよ、本当に馬鹿らしいじゃアありませんか、しっかりと沈着きなましよ」
といわれて音羽は沈着きはらい、言葉静かに、
音「瀧の戸はん、能く考えて見なまし、何んぼ私が悪党でも、眼の悪い客衆を刃物三昧して殺そうというような恐ろしい心は有りまへんよ、ふりに登った客衆ゆえ無心を云ってもお金を貸してはくれまいから、若し貸さないと云ったら、今夜に迫る手詰の金、迚も生きては居られないから自害をすると欺かして、無心を云って見ようかと思うんざます」
番新「いえ、嘘を吐きなまし、そんなことを云っても、おまはんの顔色が異ってるよ」
音「後生お願いだから、そんな大きな声でいうと客衆に聞えるから静かにしてくんなましよ」
番新「聞えるたって、あの茫然として居る柔しい人で、お酒が嫌いだというから、甘味でお茶でも飲んでゝ呉んなまし、生憎お客が立込んで花魁もおまはんに煙草一服吸い附けて飲ませる間もないのだから、腹ア立つか知りまへんが、是に懲りずに又来てくんなましよと云ったら、少しも厭らしい甚助らしい事をいわないで、今日ふりに来たのは只花魁の名高いことを聞いて来たのだが、花魁の身の上が聞きたい、以前はお屋敷さんだろうと聞くから、私ははっきり知りまへんが、種々訳があって斯んな所へ来ているんざいます、その許嫁の亭主の為にといい掛けると、下を向いて考えてたくらい可愛相なんざいますよ、彼の人を殺す……」
音「シッ……静かにして呉んなましよ、私は人を殺すなんという事はありまへん」
とコソ〳〵話をして居りましたが、幾ら小声でいっても大引近い頃ゆえ手に取るように屏風の中へ聞えましたから、小三郎は驚きまして、
小「此処に居ると殺される、私を小三郎と知らずに殺す心になるも、何者かに欺されて、私のために私を殺そうという音羽の真実、寧そ私が小三郎だと名告ろうか……イヤ〳〵憖じいに打明けて身の上を話したら、是程までに思ってくれる音羽ゆえ、私が俄盲目に成り、笛を吹いて修行をする身の上に零落れ果てたと聞いたら、嘸嘆く事で有ろうから、身の上を明かさずに帰る方が宜かろう、就いては渡邊外記から餞別として貰った此の百両、盲目に在って益ない金ゆえ、良人のために苦労する音羽にやりたい」
と思い、重三郎に頼んで上書まで致して有る包金を胴巻からこき出して、そッと寝衣にくるみ、帯を締直して屏風の中から出ながら、
「私は帰るからね、其処らに道行振が有ろうから取っておくれ」
番新「アッ、アヽ出て来たよ、……お願いざます後生だから沈着いてゝくんなまし」
といい捨て小三郎の傍へ参り、
番新「今漸く花魁が来ましたの、今お茶を入れて何か甘味を取りますから緩くり遊んでいって呉んなましな」
小「私は此処に居られん用事が有ったのを頓と忘れて居たが、今思い出したから直に帰ります、それから彼処へ寝衣を円めて置きましたが、あれを能く振ってね、だいなしに成って居るだろうから、振って見れば分るけれども、大方皺クチャに成って居ようから、能く畳んで置いておくんなさい」
番新「少し話が有るから待ちなましよ、おまはんは沈着いて呉んなましよ」
音「若しえ、おまはん生憎今夜はお客が立込んでお話もできず居たんざますが、漸々今客衆も皆な帰ったから、まア〳〵緩くり話でもしましょうから、待ちなましよ」
小「イヤ〳〵今夜は是非帰らんければならんが、四五日内にまた尋ねて来ますから、お前、身の上を大切にして、宜いかえ、夜更しをするしょうばいだから身体に障らんようにして、宜いかえ」
番新「だけれども花魁も心配していなますから、今夜は泊って往きなましよ」
小「然うしちゃア居られない」
番新「じゃア何う有っても帰んなますの」
といいながら、音羽の袖を引き小声で、
番新「花魁あの事を聞いたんざますよ、うっかりした事はいえませんね」
音「あのね、おまはんは何処へ帰りなますの」
小「あい、私はあの扇町というへ帰ります」
音「扇町という処は何処なんざますえ」
小「やっぱり深川の内で中木場を越えて四つ程橋を渡ると直に往かれます」
音「そう……それじゃア是から何処へ出て帰んなますえ」
小「是からマア私は眼が悪いので狭い道は歩き難いから、やっぱり土橋を渡って中木場の横町を曲ると真直に出られるから、然う往く積りです」
音「屹度直に扇町へ帰んなましよ」
小「私は直に帰ります」
音「少し待っておくんなまし、いう事がありんすから…瀧の戸はん、後生お願いなんざますが一本燗けて来てくんなまし」
と無理に小三郎を引止めて置き、音羽はそッと抜け出して丈助の匿れて居る暗い座敷へ参りまして、
音「丈助どん」
丈「ヘエ、誠に何うも毎度参りましては御無心を申し上げ、御迷惑な事は若旦那さまもお察しでございますが、能々と思召して下さい、御無理なお願いでございますが遅くなりましても聊か厭いません、夜明けまでにさえ金子が出来ますれば、若旦那さまの在らっしゃる高輪までは造作は有りません、船で帰っても訳はないのですが、御才覚のお手懸りがございましたか」
音「あい丈助どん、私も種々と心配したんざますが、何をいうにも立退の中なり馴染の客衆は無し、何うしてもお金が出来ないざますが、今夜ふりに登った客衆は百両ばかりのお金の塊を持ってるんざますが、初会のお客に無心をいったって貸して呉れよう道理は有るまいが、俄盲目の身の上で有りながら、私の心持でも推した様子で、急に帰るといい出したから、何処へ帰るんざますと聞いて見たら、扇町という処へ帰るんだが、中木場という処の土橋を渡れば真直に出られるという帰り道まで聞いたんざますが、私は此家を出るわけにはいきまへんから、おまはん其の目の悪い客衆の跡をソッと躡けて往って、人の居ない処で其の持って居るお金を貸してくれと、私になり代って頼んで見て呉んなまし、若し貸さないといったら仕方がありまへんから、丈助どん、殺生のようだが其の目の悪い客衆を殺しても其のお金を奪って若旦那へ上げて呉んなまし、おまはんには決して難儀は懸けまへん、其の罪は私が引受けて解死人とやらに立とうから、何事も皆若旦那のおため、私は斯ういう因果の身の上で泥水に沈んで見れば、仮令年が明けても若旦那のお傍へ往くことも出来ないような賤しい身に落ちたのざますから、若旦那さえ世に出れば私の身の上は何うなっても厭いません、おまはんには難儀をかけないから、若し無心をいって諾かない時は、洲崎の土手あたりの淋しい処で……なア、ようざますか、なア」
丈「ヘエ……宜しゅうございますが、何う致しまして、あなたにも御迷惑はかけません……アヽ命を捨てゝも若旦那を世に出したいという其の御貞心を、若旦那様がお聞きなすったらば、さぞ御落涙なされましょう……何んなお客でございますえ、盲目なら造作ア有りませんが」
音「其の内廊下へ来るだろうから少し此処に待っておいで」
丈「宜うございます」
番新「ちょいと花魁え……じゃアおまはん直に帰りなますの」
音「おまはん何うでも帰りなますかえ」
小「私は直に宅へ帰ります、大きにお世話になりました、また四五日内に来て緩々話を致すが、何分用事のあることを打忘れて長居を致した、また来て話をしましょうから、今夜は止めずに帰して下さい」
音「然うざますか、誠に済まない、待ちなまし、危のうざます、さア手を曳いて上げようから」
と音羽が小三郎の手を曳いて、瀧の戸と二人で漸くに小三郎を二階から下して廊下を通るのを、丈助が暗い処から延び上り小三郎の姿を見て驚き、此奴小三郎だナ、成程眼が悪くなって江戸へ帰ったという話を此の間大野から聞いたが、何処に居るか様子が分らねえで居たが、少せえ時分の許嫁で、互いに顔を知らねえから殺してくれろと音羽の頼みを幸い、洲崎の土手でばらしてしまい、大野の処へ往って己が小三郎を殺したから褒美をくれろといやア、百両ぐれえ出るに違えねえ、都合二両有れば大阪へ往って何んな商法にでも取附けると、主人と知って主人を殺す大悪人の丈助が、しめたと腹の中で悦んで居りましたが、小三郎は神ならぬ身の左様の事とは存じません。
音「そんなら何処へも寄らずに土橋を渡って洲崎の方へ往きなましよ、佐助どん送って上げなまし、気を附けて往きなましよ」
小「あい〳〵」
と出て行きました。
瀧の戸は気になるから跡へ取って返して、床の上に円めて有った寝衣を振って見ると、ぱたりと落ちた百両の包み金、音羽も恟りして、
音「何んざますえ」
番新「花魁、見なましよ、今の客衆がお金を置いて往きなましたの、あらまア何うも可愛相じゃアありまへんか、眼の悪い身の上で虎の子の様にして貯めたお金なんだよ、ぐず〴〵して此処に居て殺されては大変だ、命有っての物種だと思い、貯めたお金を置いてッたんざいやしょうが、お気の毒だよ」
音「どれお見せ」
と云いながら手に取上げて上書を見ると、金百両石川藤左衞門娘みゑどのへ、許嫁稻垣小三郎よりと書いて有りましたから、また恟り、エヽと呆気に取られ、オド〴〵しながら、
音「瀧の戸はん、見なましよ稻垣小三郎さまから私のところへ届けてくんなましたお金ざますよ」
番新「何を云うんざます、小三郎さまからお金がなければならねえッて、丈助どんを頼み、書附まで添えて無心によこし、今夜中に才覚しろというのは無理な小三さんだと思ってた、その小三さんが、お金を置いて往くとは何ういうわけなんざいましょう」
音「何ういうわけなんだかさっぱり分りまへんが、私は大変な事をしたんざいますよ」
番新「何うしなましたの」
音「おまはんに云ったら叱られようが」
と云いさし、顔へ袖を宛てゝ泣き沈み、
音「丈助どんに頼んであの客衆のあとを躡けさせ、無心を云って若し貸さない時には殺してお金を奪ってくんなまし、私が解死人に立つッて、帰り道まで教えたんざますが、何うしたら宜うございましょう」
番新「あらまア、可愛相に、小三さんがあの眼の悪い人を頼んでお金を持たしておまはんの様子を聞きによこしたのかも知れないよ」
音「私は少い時分に別れたから小三さんの顔は知りまへんが、品といい様子といい、誠に実の有りそうな人だったが、若しや彼の目の悪い客衆が小三さんなら何うしたら宜うございましょう」
番新「それ見なまし……あらまア、待ちなまし、何処へ駈け出しなます、藤助どんも伊助どんも寝ず番も居るから出られるもんじゃアありまへん」
音「でも私が往かずに居て殺さしては済みまへんから、何うか工夫して私を遣ってくんなまし」
番新「そんなら少し待ちなまし」
と番頭新造の瀧の戸が、駈け出して他の室から持って来て、
番新「これが丁度宜うざます」
と差出す品を見れば、仲木場の寺町辺の坊さんが内証で浮れに来た者ので、長合羽に頭巾がありましたから、音羽は櫛笄を取り、島田髷を揉み崩して山岡頭巾を冠って両褄を高く取り、長合羽を部屋着の上に着て、おかしな身装でお客の積りで瀧の戸が音羽の手を曳いて、そッと遣手部屋の前を通る。遣手衆は枕を附け洒落本を読んで居りましたが疲れてかバタリと本を落して、スヤリ〳〵と寝附いて居る様子ゆえ、音のしないように窃っと忍んで二階を下りてまいると、寝ずばんの藤助が居眠りをして居りましたから、これ幸いと瀧の戸が音羽の手を曳いて、跣足で土間へ下りにかゝるとき藤助が目を覚まし、
藤「瀧の戸さん誰方でございますか」
番新「今急に客衆がお帰りなはるんだが、藤助どん此処へ出ちゃアいけないよ」
藤「客衆がお帰りになるなら茶屋を呼びに遣りましょう、何方のお方で」
番新「ツベコベと何も云わねえで引込んで居なまし……花魁の処へ往って聞いて来なましよ」
藤「お茶屋は何方で」
と云いながら様子が訝しいから瞳を定めて能く見ると、透通って見えるような真白な足を出して、赤い蹴出がベラ〴〵見えましたから、慌てゝ立上りながら、
藤「おや花魁じゃアありませんか」
と云われた時には流石に音羽もどっきり致しましたが、此の儘に止まれば見す〳〵あの人を見殺しにしなければならない、仕方がないと心を決し、握り拳を固め、予て習い覚えた起倒流の腕前で藤助の横ッ面を殴る、殴られて藤助はアッと云って倒れたが、
藤「何をなさいます花魁、何方へお出でなさる」
と云いながら起上ろうとするる処を、
番新「藤助どん、何うしなました」
と云いながら藤助の結髪を取って引倒し、
番新「花魁早く往きなまし」
と大戸をガラ〳〵〳〵と明ける。音羽は跣足でバタ〳〵〳〵と洲崎の土手の方へ駈けて参りましたが、もはや間に合いません。小三郎は左様な事とは知らず、杖に縋って土橋を渡り、仲木場の方の曲り角の柵矢来の処まで来ますると、ドブリ〴〵と浪除杭へ打ち附ける潮の音が聞えまする。丈助は忍んで小三郎の跡を躡けてまいり、四辺を見まするとパッタリ往来も絶えました様子ゆえ、後から声をかけ、
丈「オヽお盲目さん、オイ其処へ往く按摩さん」
小「ハイ、手前は按摩じゃア無い、揉療治を致すものではないが、間違いでござりましょう」
丈「ナニ山口屋の音羽に頼まれて来たんだが、お前は懐に金え持ってるそうだが、何うか悉皆貸して貰えてえ、誠に無理な無心だが、急になければならねえ金だと云って花魁も気を揉んでるから、オイ按摩さん金を出しねえ」
といわれて小三郎はキッと身構え、
小「汝は何んだ、賊だな、音羽が左様のことで私に無心をいうわけはない、また金はもとより懐中には無いが、寄り附くと免さんぞ」
丈「ナニ音羽に頼まれたのだ、若し貸さなければ殺しても金を奪るんだ」
小「ナニ此奴が」
と云いながら柵矢来に寄附いて小楯に取り、腰に差して居た木剣作りの小脇差を引抜き、
小「寄れば免さんぞ、サア寄って見ろ」
と真影流の奥儀を極めた名人に二ツ三ツ振廻され、此方は剣術も何も知りませんから中々寄り附くことが出来ません。
丈「生意気な事をしやアがる、感の悪い癖にジタバタ騒ぐと叩っ斬って仕舞うぞ」
小「これへ参って見ろ、己も眼が悪いから斬られようが、其の代り汝も殺し、差違って死ぬから然う思え」
丈「ナニ、此ん畜生」
と閃つく長いのを引抜いて振り上げたが、寄らば斬らんと小三郎が前後左右へ振廻して居りまするから、寄り附けません。丈助は横着者ですから刀を抜いたなり息を殺して踞んで居りましたが、盲人の哀しさに、
小「ヤイ逃げ失せたか、ヤイ何処へ参った、これへ寄って見ろ、免さんぞ」
といいながら柵矢来を離れて段々前へ出まする処を、そッと後へ廻って、丈助が力に任せて小三郎の右の肩口をしたゝかに斬りました。斬られて小三郎は片手にて疵口を押えながら、
小「此奴汝れ斬ったな、何処に居るか」
と刀を振り廻す。丈助はまた小くなって暫く息を殺して居たが、
小「エヽ残念な、匹夫下郎の為に不覚を取って……ウーン何処に匿れて居るか、これへ参れ」
とまたうっかり前へ出る処を後へ廻り左の肩口へ斬りつける。
小「エヽ汝」
と云ったが敵いません事で、剣術は上手でも胆が据ってゝも、感の悪い盲目のことゆえ、匹夫下郎の丈助の為に二刀程斬られました。丈助は今度は突こうかと覘って居る処へバタ〳〵〳〵〳〵と駈けて来ましたのは山口屋の音羽でございますが、此の足音を聞き附け、人が来たかと驚き慌てゝ丈助はバラ〳〵〳〵と須崎の土手を折曲って逃げてしまう。音羽は一生懸命に駈けて来て見ると、小三郎が血に染ったなりで小脇差を振り廻して居りまするので、怖くて寄り附く事が出来ませんから、遠くにて、
音「申しえ、私は山口屋の音羽ざますが、おまはんがお金を百両置いてッてくんなまして、書附の様子では稻垣小三郎さまから私にくれたお金ざますが、小三さんに頼まれて来たおまはんは何という人ざますか、様子を聞かしてくんなまし、誠に済みまへんことだが、小三さんがお金を才覚してよこせという手詰に成り、罪のようだが若旦那のためにはかえられまへんから、丈助どんに言附けて、おまはんを殺そうとしたのも私ざますが、おまはんは小三郎さまに頼まれて来た人か、ひょっとして小三郎さまでは有りまへんか」
という声も涙に出かねて、オロ〳〵泣きながらいうを聞いて、
小「エヽ……お前は石川のみゑかえ、能く来てくれた、私は稻垣小三郎でござる」
音「エヽ……小三郎さまか」
といいながら、怖いのも打忘れて傍に寄り添い、取り縋り、
音「何うしておまはんは今夜名指しで登って置きながら、何故稻垣さまということを打明けておくんなはいまへん、おまはんはお金を置いて往きなはるくらいだのに、何んで丈助どんにお金を才覚しろという手紙を附けて遣しなました、実は私の身の上はこれ〳〵で、若旦那が東海道藤沢の莨屋から手紙を遣し、二百両のお金がなければ、粟田口國綱のお刀が手に這入らんとのことゆえ、お刀のために私は苦界へ沈みましたが、丈助が再度来てはこれ〳〵で、今までお金を才覚して送って居りましたが、あなたは御存じないことか」
と一伍一什を語りました。
小三郎は音羽の話を聞いて驚きましたが、
小「アヽ……左様か、私は永らく旅に居て、頓と江戸表の様子は存ぜんで居たが、新参者に丈助という若党が居たが、其奴私の偽手紙をこしらえてお前を騙し、斯様な処へ沈めたのであろう、私が旅で艱難苦労をした事や、お刀詮議のために辛苦をいたしたことを細やかに話したいけれど、此処は往来なり、受けた疵も幸い浅いゆえ、兎も角私の仮宅なる扇町まで手を曳いて往って呉れろ」
というので、音羽は手早く上締を取り、疵口を幾重にも巻き、小三郎を労わり、
音「亭主のために亭主を殺すとは、えゝ何たる事か、私のような因果なものは無い」
と泣きながら漸々に小三郎に聞き〳〵扇町へ参りますると、表は一寸生垣になって居る狭い宅だが、小綺麗な家作で、舁夫の安吉が働きにまいって居り、留守居や何かして居りまする。
○「安吉どん明けて下さい、安吉どん、ちょっと明けて下さい」
安「ヘエ……眼の悪い癖に夜出るからいけねえんだ……ヘエ只今明けます」
と云いながら立って参り、戸を明け、
安「お帰んなせえ、何方へ、お迎えに往きたくっても見当が分らねえから出る事が出来ねえんだ、お目が悪いから親方も心配してました」
小「誠に遅うなりました、今日は少々仔細あって仮宅へ往きました」
安「エヽ、仮宅なんぞへ往っちゃアいけません……オヤ真赤になって何うなすったんです」
小「帰り路に洲崎の土手で賊に出会い、過って手傷を受けたので」
安「エヽ……いけませんね、私ゃア親方に叱られやす、黙ってポイと仮宅なぞへ往っちゃアいけません、眼の悪いときには一番毒だとね、私が叱られるから困りやす」
小「イヤ〳〵決して心配せんでも宜しい、傷は浅いから……お前此方へお上り」
安「お連が有るんですか」
小「私の宅だから遠慮はいらん構わずズッとお上り」
音「御免なさい」
と云いながら頭巾を取って中へ這入ると立派な花魁姿ゆえ、
安「若旦那、なんですえ此女は」
小「これが其の山口屋の音羽という遊女なんだ」
安「困りますね、眼が癒りませんよ女郎なんぞ引張り出して来て、併しお若いから無理はねえが」
小「イヤ〳〵左様じゃない、予て話をした石川の娘で、許嫁のみゑだよ」
安「エヽ此のお嬢さんが、然うでございますか、仙太郎親方も様子を聞きたいって往きましたっけ」
小「エヽ左様か」
音「若旦那がまた種々おまはんにお世話になるという事を道々聞いたんざますが、誠に有難う」
安「これは何うも思い掛けねえことで、お噂を聞いていましたが、夜中能く主人が出しましたね」
小「イヤ〳〵実は廓を抜け出して来たのである」
安「マア兎も角疵口は大丈夫でございやすかえ」
小「イヤ決して心配はない、丁度宜い薬が有る、先達て美惠比丘尼が負傷をする事があろう、其の時に此の膏薬を貼れば悪血が発して眼病が癒るといって、十二枚膏薬を貰って来たが、仏壇の引出へ入れて有るから出してくれ」
と是れから膏薬を貼って居る処へ仙太郎が帰って参りました。仙太郎は音羽の身の上を聞きたいと思い、名指しで山口屋へ登りましたところ、音羽が逃げ出したという事を聞き、驚いて飛んで帰って参り、此の始末を聞きまして何にしても山口屋へ掛合うまで、花魁の身匿しをしなくっちゃアいけねえ、何うせ談は面倒になり、年季を増す事になるかも知れねえが、万年町へ談をしてお身受けをすることに致しましょう、大丈夫で、私が呑込みやした……負傷アなすったか……丈助は剣術を知らず、刃物も悪かったか横に殺いだぐれえだから心配はねえ、浅傷だったは勿怪の僥倖、何にしても此処に居ちゃアいけねえから、早く船へお乗んなせえ。と固より荷足船が参って居りまするから、これへ小三郎音羽の二人に安吉を乗せ、苫を掛けて、
仙「矢切の渡のお乳母さんの処へ往ってらっしゃれば、何処へも知れず、身匿しをするには至極宜いが、別に心配はありますめえね」
音「何も心配は有りませんが、何にしても若旦那が眼が悪いんざますから、私は神仏に願って御全快を祈りましょう」
仙「お嬢さま嘸お悦びでござえやしょう」
音「実に斯んな嬉しい事はありまへんよ」
仙「私がお送り申したいが、人目に立たねえ方が宜いから、私は直に帰りまして、万年町と相談して花魁のお身受けの相談がピッタリ極ったら、私がお迎えに出ますから、それまでコッソリ匿れていらっしゃい」
安「お目を大切になせえ、此処のところが肝心ですから、目には一チ毒だというから」
仙「余計なことを云うな」
と是から船を出して矢切の渡口へ船を繋け、上へあがり、おしのゝ門口へ参りました、音羽は勝手を存じて居りまするから中へ這入り、
音「乳母ア乳母ア、ちょいと明けてくんなまし、乳母ア山口屋の音羽ざますよ」
しの「誰か表へ来たようだよ、恭太や明けてやれよ」
恭「あいよ」
と戸口へ立ち、
恭「さア這入んねえ」
とガラ〳〵〳〵と重たい上総戸を明ける。
音「アノ山口屋の音羽ざますよ」
恭「やア叔母さん、あのね前来た花魁のお嬢さんが這入って来たよ」
しの「おやまア何うも能くまア、さアお上んなせえまし、私もハア何うかしてお目にかゝりてえと思って心配して居やしたが、能くまア来ておくんなせえました、此間は焼けた跡へ吉原へ駈けてまいりやんして探しやしたが、田舎もんだからハアさっぱり分らねえで帰って来やしたが、深川へ仮宅が出来たってえから、ちょっくらお尋ね申すべえと思ってる内に、段々日が遅れやしただ、能くまア、さア何うぞ此方へ……お連が有りやすかえ、何うぞあなた此方へお上んなせえまし」
小「御免下さい……初めてお目にかゝります、手前は稻垣小三郎であるが、永らく旅をいたして居たから頓と江戸の様子が分らんが、これに乳をくれた乳母が居ると聞きまして、態々お前を尋ねて来ました」
しの「おやまア何うも、なんとハア魂消ましたね、誠にハア思い掛けねえ事でござえます、これは何うも始めてお目にかゝります、私はおしのと申しやすやくざ婆アでござえやす、段々丈助が御厄介になります、あんな悪党野郎で御座えやすが、旦那さまの御丹誠で此の頃は正直に成りやして、親孝行や忠義てえ事を覚えやしたのも、みんな旦那さまの御恩だと、蔭ながら拝んで居りやすが、何んとハア貴方さまゆえにお嬢さまは、相談ずくとはいいながら吉原へ這入って、誠にハア何うも心配して居さっしゃったが、その甲斐があって、斯うやってお両人揃っておいでなさるてえのは誠にお嬉しいことで、よくまアおいでなせえました、丈助がお供で参りましたか」
小「いや〳〵、まア乳母や、いうも気の毒な事だが、丈助はお前とは相違して悪人である」
と是から丈助の悪事の一伍一什話をしたときには、田舎気質のおしのは肝を潰してぶる〳〵手を震わし、涙を膝へ落しまして、
しの「何んとまア、何うもまア、あの野郎魂消やしてや、嘸まア腹が立つとも悪い野郎とも、実にね悪党野郎でごぜえまして、牛裂にしても飽足らねえ奴の親だから、坊主が悪けりゃ袈裟まで悪いという譬の通りで、私の処なんどへお両人さまがおいでなさる訳はねえのでごぜえましょうに、私だけを人間と思い、お嬢さまに乳をあげた乳母だというので、心持を直して能くまア尋ねて来ておくんなせえました、私イはア実に魂消やした、あの野郎は若え時分に道楽をぶちまして、其の根性は中々直らねえと親父が見限って勘当しやして、決して宅へ寄せ附けるなと遺言してなくなりましたが、大切なお嬢さまが入らしって詫言をなさるから、全く改心したと思って免して遣りやしたが、あの野郎私を欺しやアがって、皆なあの野郎の企と知らねえで、永え間お嬢さまに苦しみを掛けて、其の上に嬢様から頼まれたからって、御主人さまのお顔を知って居ながら、殺すべえとしたは実に狗畜生にも劣った彼の野郎……宜うがアす、此の村にも役人も目明しも有りやすから、それを頼んであの野郎を探し廻って、そうして宅へ引寄せて、あなたさまはお眼が悪いし、嬢様は軟弱えから又あの野郎に逃げられでもすると仕様ががんせんから、強え人を頼んで来て、あの野郎を捕めえて置き、お前さまたちの怨みの霽れるようにしますべえから、緩くり宅に居て下せえまし」
といいさして泣沈みました。
音「私も実に欺かされたが、丈助はあれ程の悪人とは思いがけないことで」
しの「本当に然うでござえまする、私は何の因果でござえましょう」
と話してる処へ表の戸をトン〳〵〳〵。
男「御免なさい、ちょっと明けておくんなさい、お母さん明けておくんなさい」
しの「誰だかえ」
男「エヽ丈助でございます」
と云われて、おしのは低声になり、
しの「丈助が来やアがった…今明けるだが締りイ附いてるから、もう少し待ちてろ…若旦那お嬢さま、丈助が此処へめえりやしたが、若旦那さまはお目が悪し、お嬢さまは軟弱えから、あの野郎には敵いません、何うぞ少しの間此処に匿れてゝおくんなせえよ、私イ、ハア兎にも角にもあなた方にお怪我をさせねえように為ましょうから……今明けるから待ちてろ、恭太や、ちょいと此処へ来う」
恭「エヽ、なんだ」
しの「今丈助が此処へ這入って来ても、お両人さまが泊ってるという事をいうじゃアねえよ」
恭「アヽ何んともいやアしねえや、誰も彼処に居やアしねえって」
しの「馬鹿め、早く明けて遣んな」
というので恭太郎が土間へ下りてガラリと戸を明けると、丈助は一本差し、羽織を着て実体らしく、
丈「お母さん誠に暫く」
と這入って参りました。
小三郎と音羽の二人が、反故張障子の内の二畳の部屋に隠れて居るとは知らず、丈助は母親を首尾よく騙し遂せる心得で、わざと猫なで声で、
丈「お母さん誠に御無沙汰をいたしまして、お母さん、何うも都度〳〵書面を差上げなくっちゃアならねえんでございますが、むずかしい字で書いては読めもしまいから、ちょっと様子を知らせたいと思っても、何分御主人さまに附ッ切りゆえ、参る事も出来ないので、存じながら大層御無沙汰になって、誠に相済みませんが、何時もお変りなくお健かで私も満足致しました」
しの「まア何うして此処へ来た、誠に思えがけねえことで、私も会いてえ〳〵と汝がの事べえ思ってたアだが、若旦那さまやお嬢さまは何うしたアだ」
丈「へい、早速お知らせ申しますが細かい話は聞くのも御面倒でしょうが、実は若旦那小三郎さまのお手へ國綱のお刀が這入るばかりになった処、悪い奴が中へ這入りましたお刀を転買を致しましたところから、それがために若旦那は九州の方へまで往かっしゃるような事で、よう〳〵手に入りました、永い間の旅でしたが、只今では高輪の船宿で、伊勢屋と申す宅においでゞすが、此の事を御重役渡邊様へ達して、渡邊さまからお上へ伺いました処が、早々召返すようにというので、御苦労遊ばした甲斐があって、いよ〳〵御帰参になります、私も永い間辛労致しました甲斐が有って、若旦那さまさえ御帰参になれば此の上ない事ゆえ、何うかお悦びなすって下さいまし」
しの「それは何にしても芽出度えことだ、汝も骨を折った甲斐があり、若旦那も永え間心配をなすった甲斐があり、お嬢さまも吉原のような、あんな恐ろしい処へ身をいれて、苦艱をなすった甲斐が有ったアだ、おれも心配して、汝がに会いてえと思ったが、然うかえ、若旦那が御帰参になるようになったら、汝何うする気だ」
丈「若旦那さまの仰しゃるには、手前は一方ならず骨を折ってくれたから、侍分に取立てゝ遣ろうと仰しゃって下さいましたが、金子や品物でお礼を受けても使えばなくなってしまいますが、侍分にお取立になりますれば、此の身の幸い、また此のお刀がお屋敷へ帰って見れば、若旦那さまは必ず御出世でございましょう、前には五百石お取り遊ばしたお身柄ゆえ、八百石か千石にもお成りなさるに相違有りませんから、私も大した御扶持が戴けましょうから、然うしたらお母さんを斯んな処には置きません、直に屋敷へ引取って柔らかい着物を着せ、置巨燵をして楽をさせ、是まで御苦労をかけたお埋合せに孝行をいたします」
しの「何とまア嬉しい事だな、汝エはア是まで道楽ウぶって種々心配させたけんど、汝が殿さまの為に苦労したお蔭で、侍分にお取立になれば親を引取って坐布団の上で楽をさせべえと、生れ変ったような柔しげな心に成ったかえと思うと、私イはア誠に嬉しいだよ、死んだ父さまも嘸悦ぶべえと思うと嬉し涙が出るだよ」
丈「実はお泣きなすっても宜いくらいで、真に私も骨折甲斐が有ると思いまして、此の上ない悦びでございます」
しの「それに就いて、勇助どんは汝と一緒に若旦那へ従いて出たが、勇助どんは帰らねえが、なにか矢張り汝がと一緒か」
丈「へい、勇助どんは年を老っていますから、高輪の伊勢屋で若旦那のお傍に附いていまして、私だけ方々駈け摺り廻ってるんですが、若旦那がお屋敷へ御帰参になるので、実に大騒ぎというのは、お衣服から、大小からお荷物まで拵えて、華やかにしてお屋敷へ御帰参になるようにしなければならず、また私も侍分に取立てると仰しゃるんですから、今までと違いますれば、上下から小袖まで相当のものを買調えなければなりません、けれども若旦那のお買物に多分に費りますので、自分の支度金どころではありません、就きましてはお母さんは誠にお心掛けの宜いお人ゆえ、少し金子のお貯えが有るなら私に貸して下さいな、それに親父が正月名主さまの処へ年始に往く時に差した、あの大切にしていた脇差がありましたが、あれで間に合うからお父さまの形見に下さいな、能くお父様がこれだけは己も武士の果の印だと御自慢なすった事が有りましたが、あれをお譲りを願います」
しの「あゝ譲るとも、それに己も心にかけて、此の畠や田地を汝がに譲っても額が知れてるから、切めて金でも遣るべえと思って、己が身の上では巨く貯めた積りだが、父様の脇差も汝より他に譲るものはねえ、今出して来て遣るから少し待ちてろよ、能くマア汝エはアそんな柔しげな心になってくれたかと思うと、己アはア実に何だか飛立つ程嬉しいだよ」
丈「左様でしょう、これは何んなにお悦びなすっても宜しいので……恭太」
恭「エヽ何い」
丈「己の留守中にまた何か叔母さんに世話ア焼かせやアしないか」
恭「うゝん……今お前勇助さんが何処に居るって然う云ったね」
と云われて丈助は驚き、
丈「旦那さまのお傍に居るのよ」
恭「うゝん叔母さん嘘だよ、勇助さんはね、矢切の渡場でね、この叔父さんが殺しちまったんだよ」
と云われて丈助は弥々驚き、
丈「コヽ此ん畜生、ナ何を云やアがる、そんな馬鹿ア云やアがって」
恭「ナニ本当だよ、身体へね石を巻き附けて、利根川の深え処へ投り込んだんだよ」
丈「コ此ん畜生、ナ何を馬鹿ア云やアがる」
しの「エヽ馬鹿な奴のいう事だから構うなよ」
恭「それからアノネ叔父さんが己にお銭を四百くれて、黙ってろ〳〵ッて、喜代松という船頭と二人で、曲金から附いて来た泥坊だから殺したんだッたが嘘なんだよ、勇助さんは疾うに殺してしまったから、生きて居やアしねえんだよ」
丈「バ馬鹿、此ん畜生何を云やアがるんだ」
しの「エヽ馬鹿な奴のいう事を取上げて余計なことを云わねえが宜え、恭太もまた何もいうな……此んな愚な者のいう事だから、何も汝が小言をいうにゃア及ばねえ」
と云いながら立って戸棚から取出して来ましたは小脇差で、
しの「さアこれを見ろ、薄錆は出たが、父さまの形見だ、また金も是だけ有るから」
丈「へえお母さまは何うも誠にお心掛けの宜いことで、有難う存じます」
と脇差を取上げ、
丈「中々立派なもので」
しの「少し汝がに云い聞かせるが、己は何にも知らねえが、これは父様が御先祖さまから譲られた品だから、貧乏してもこればかりは放せねえ、貞宗とか何とかいう脇差だって、大切にしていたから、父さまが死んで以後出さねえもんだから、少し錆たアだよ」
丈「へえ」
と丈助がうっかりして居る処を、おしのは手早く小脇差の鞘を払い、丈助の横腹を目掛け、一生懸命力に任せてウーンと突込む。
丈「アヽ…お母さん何をなさる」
と前へのめる。
しの「動きやアがるな此の野郎、うぬ、殺さねえで置くものか、うぬ、己ハア気も何も違わねえ、汝え殺すべえと思ってる処へヌク〳〵と来やアがって、此の野郎〳〵」
丈「ウーム……お母さん、何だって己を殺す、何の咎で私を殺すのだ」
しの「誠にハア何とも言いようのねえ奴の癖に、能くまア己がの前で何の咎でなんてえ事が云える、汝ような鬼とも蛇ともいいようの無え悪党の子を持った己は、何うもお両人さまに済まねえからよ、よくも〳〵己が乳を上げた御主人さまのお嬢さまを若旦那の為だって欺かして、吉原の山口屋へお女郎に売りやアがって、其の身の代の二百両も若旦那へ上げるてえのは嘘で、皆な汝が費やアがって、うぬ」
と刀でこじる。
丈「アイツヽヽヽアイテヽヽヽお母さん何うぞ免してくれ、少し手を放してくれ」
しの「手を放せッて放すものか、何うせ汝エ殺すべえと思ってるんだ……コレ汝はそればかりじゃアねえ、今聞けば勇助どんも汝が殺したゞな、それから度々嬢さまの処へ往きやアがって、お嬢さまを欺くらかして偽手紙イなんぞをこせえて、若旦那さまの入用だって嘘べえ吐いて、金を取って費やアがって、うぬ、一昨日の晩も汝え山口屋へ往って、お嬢さまを欺かして百両取るべえとしたアだな、其の時に若旦那さまが匿れてお客に登ってるのを、お嬢さまは若旦那の顔を知んねえもんだから、亭主と知らずに汝がに殺してくんろと頼んだ時に、汝は眼があるから若旦那を知ってべえ、若旦那てえことを知ってながら跡を躡けてって、洲崎の土手で若旦那さまを騙し殺しに殺すべえと思って、斬り掛けやアがったとは、何んてハア何うも、呆れるとも呆れねえともいいようのねえ野郎で、其の上ヌク〳〵と此処へ来やアがって、只た一人の此の己の死金まで貪り取りに能く来やアがった、うぬ」
丈「ウーム…ハッ、ハ……おめえ何うしてそれを知ってるのだ」
しの「知ってねえかえ、汝より前にお嬢さまも若旦那さまもおいでが有って、婆やお前と違って丈助はこれ〳〵の悪党だが、廓を出て来たのだから少しの間匿れて居るんだと仰しゃって、おいでなすって、汝がの企の段々を聞いた時は、実に魂消たとも魂消ねえとも、若旦那や嬢さまに対しても汝を助けて置くことが出来ねえから、お役人を頼んでも汝を縛って、御公儀さまの御厄介に成って、汝をおっ殺すべえと思ってるところへ、汝が来るてえのは罰だ、只た一人の忰を親の身として殺したんだぞ野郎、御主人さまへ刃向え立をしたんだから、汝は磔刑にあがる程の悪党だが、親の慈悲だからまだしも此の畳の上で、お父さまの形見の脇差で斬殺して遣るから、有難えと思っておっ死んでしまえ……ヤア、おっ死んでしまえ……ヤア、おっ死んでしまえ」
丈「ウーム…ウームお母さん少し待って下さい」
と云いながら片手で袖を握り溢れ出る血を押え、ハッハッと息を吐く途端に、中矢切の総寧寺の勤めの鐘がゴーン〳〵と市川の流れに響いて聞えまする。二畳の室の反故張り障子の内で、小三郎が一節切を取って手向の曲を吹きました音色が、丈助の心耳へ聞えますると、アヽ悪いことをしたと、始めて夢の醒めた如く改心致し、母の手を握り詰め、ハッハッと外へ出るばかりの苦しき息をやっと遣う。
しの「目が醒めたか野郎、目が醒めたか、うぬ」
丈「ウーン……お母ア少し待ってくんな、余り強く遣ると己ア死んじまう、己の息が止っちまうと、若旦那さまのお尋ねなさる仇敵の匿れ家もお探しなさるお刀の手掛りも分るめえ、これまでの悪事のお詫ごとに残らず己がお話し申し上げてそうして死ぬから少し手をゆるめてくれ、ちイと手をゆるめてくれ」
しの「さアいってしまえ、汝エ知ってたらば残らずいッちまえ」
丈「ハッハッ、お母アお前のような正直ものゝ腹へ己のような不孝者が何うして胎ったかと、目が醒めて見りゃア、実に何うも済まねえことをした」
しの「済まねえ事をしたって今気イ附いたか」
丈「実は稻垣さまの処へ御奉公にあがってる内に、稻垣さまの下役に大野惣兵衞という奴が有ってノ、其奴が石川のお嬢さまに惚れて、時々己に鼻薬をくれちゃア種々頼むから、己も種々な悪事を諜し合わせている内に、其の大野惣兵衞はお暇に成ったが、浪人しても己を呼び出しちゃア頼む〳〵と云ってはくれる鼻薬に、つい目が眛れて、粟田口國綱も己が手引をして盗ましたのだ、また石川藤左衞門さまを日暮ヶ岡で鉄砲で打殺させた手筈をしたのも皆んな己、それから鴻の台の鐘ヶ淵から小左衞門さまを突落させた手引もおれがしたのだから、石川さまの仇敵も矢張り大野惣兵衞だが、今は八橋周馬と名を変えて、田地や山を買い、堀切の傍の別荘に居て、金貸しをしているが、その大野惣兵衞の差料にしている刀が粟田口國綱だから、早く其の刀を取返し、仇を討って御帰参になるようにして下せえ、今お前がいう通り、主人と知って刃向え立をした丈助だから、磔刑に上っても飽き足らねえ奴だが、畳の上でお母アの手に懸って死ぬのは親の慈悲ということを、今初めて覚えた……アヽわかった、お前も定めて悪かろうが、若旦那さまが此処へおいでになって、己の鬢の毛を一本〳〵引こ抜き、五分だめしにしてお胸を晴して下さるようにお詫ことをして下さい、誠に悪い事をしましたから、何うかお詫ことをして下さい」
とハラ〳〵と落涙して泣き沈みました。
しの「今になってそんなことを云やアがって、漸く悪いことをしたと気イ附いたか」
丈「わかりました、ハッ〳〵」
恭「叔母さん堪忍して遣んなよ、叔父さんが痛えッて大騒ぎイやってるからよ」
しの「エヽ黙ってろ、用にゃア足りねえが、汝も寧そ此の恭太郎見たように馬鹿にでも生れたらこんな苦労はしめえものに、生才覚が有るばかりで、斯んな悪をしやアがって」
といいさして奥の方をふり向き、
しの「若旦那さまもお嬢さまも、只今お聞きの通りの訳でがんすから、お嬢さま何うか此処へおいでなすって、あなたの御存分になすって、此の野郎の鬢の毛を一本〳〵引こ抜いてお胸を晴して下せえまし」
というのを聞き、反故張り障子を明けて出て来たのは、小三郎に音羽の二人で、
小「婆や其方は誠に男優りの気質である、現在の一人の忰を手にかけて殺すとは、実につらい事であろうが、私や音羽に義理を立て、お前が手を下して斯う計らい、また丈助も先非後悔して、刀の在所、仇敵の匿家まで教えて呉れた其の功に愛でゝ、永く苦痛をさするも不便ゆえ、この小三郎が介錯して取らせるぞ」
丈「へい〳〵誠に何うも面目次第もございません、面目次第もございません」
音「乳母ア始めの内は私はしがみ附きたいほど悪らしく思ったが、またお前の心根を考えて気を取直し、今まで此の室に這入ってしみ〴〵泣いて居たんざますが、お前は嘸つらい事だろうね」
しの「はい……はい、貴方がた、何うぞ御存分に此の野郎をジキ〳〵斬ってやっておくんなせえまし」
小「これ丈助、手前に斬られた疵口から悪血が発したため、眼病も大きに全快の端緒に赴き、少しずつは見えるように相成ったが、その八橋周馬とか申して堀切村に居る奴は、全く仇敵の大野惣兵衞に相違ないか、又國綱のお刀を差料にして居るに相違ないか」
丈「全くそれに相違有りません、実に面目次第もございません、大悪非道の私を悪いとも思召しませんで、若旦那さまが御介錯下さるとは有難う存じます……丈助は浮び上ります……他に子供も何も無い只た一人の母親でございます、私は悪い奴でございますけれども、母親は正直一図の少しも悪気のないものでございますから、何うか不便のものと思召しましてお目をお懸けなすって下せえまし……お母ア堪忍してくんねえ」
しの「今になって憖じいにそんな事はいわねえで、黙っておっ死んでしまえ、何うぞ若旦那さま、何時までも苦痛をさせたくねえでがんすから首を打落して下せえまし」
小「おゝ、尤もの事」
と小三郎は立上り、小脇差を引抜いて丈助の領元へあて、呼吸をはかって、
「エヽ」
と声をかけて打落すと、丈助の首はゴロ〳〵と土間へ転がり落ちました。
恭「ア、彼の叔父さんは酷い事をする、丈助さんの首を斬ッちゃった」
しの「静かにしろやい」
といいながら仏間に向い、おしのは念仏を唱えて居りまする。これから名主へ右の次第を届けて、丈助の死骸は中矢切の法泉寺へ葬り、事済に成りました。処へ仙太郎が小三郎音羽を迎いに参りましたから連立って帰りましたが、音羽の身受けの相談は極ったなれども、岡本政七方に居ては人出入も多いからというので、二人とも高橋の重三郎の宅へ参って居ました。おしの婆は只た一人の忰が斯ような悪人に生れ附いたのも前世の約束事だろうと思い諦め、所持の田畠を残らず人に譲り、恭太郎を連れて向島へ参りまして、白髭の蟠竜軒の美惠比丘尼の弟子になり、恭太郎諸共クリ〳〵坊主になりまして、姪の若草もまた子供も然ういうことになるも皆約束事だろうと思い、綾瀬川の渡口へ庵室を作り、念仏を唱えながら礫を拾って山のように積み上げるという、是から敵討になりまする。稻垣小三郎は高橋の辺なる重助方へまいり、段々療治を致して居りまする内に、美惠比丘尼のいう通り、眼病も次第〳〵に全快致しましたから、逃げられん内に早く仇討をしたいが、粟田口國綱の刀を先へ取返して置き、それから大野を討ち果したいと、種々手を廻して心配して居りました、お話二つに分れて堀切の別荘に居る紀伊國屋の伊之助は、病気全快してブラ〳〵遊んで居りまするところへ、幇間の正孝が侍を一人連れてまいり、
正「今日は、御免…えゝ御免」
伊「誰方か知りませんがお上んなさい、誰だえ」
といいながら出て参り、
伊「イヤ師匠か」
正「えゝ今日は」
伊「構わずずっと庭から廻って這入んなよ」
正「これは何うも、イヤお一人で……何うも好いお庭でげすな、お鉢前から下草誠に様子が好うがすな」
伊「そんなことをグズ〳〵云わねえでも宜いからおあがりよ」
正「実に御様子の好いお庭で、三日ばかりお客のお供で他へ往ってましたが、斯ういう広々とした景色の好い所は見られません……お一人でげすか」
伊「みんな摘草に出かけたよ」
正「成田以来お目にかゝりませんか、彼の時に若旦那が掘出物をなすったが、あの釜は幾らでしたっけ……然う〳〵一両二分ですか、それが二百両にもなると仰しゃったから、私も何うか彼アいう釜があって安かったらお目にかけて、二百両でなくとも五十両にでもなれば、幇間を廃める気でげすから釜の有る度に買って来ますが、碌なものは有りませんで、考えれば可笑しいなんと、舁夫に取捕まってね、あの時は、あなたも変な顔をなせえましたが、虚無僧さんが出て来て、編笠を脱って、エヽと遣ったんですが、私は人を斬るを始めて見ました、実に驚きました……フヽヽ、若旦那、今日ね、仲の町の客で、何時も取巻に来て、変に分らねえ奴なんでげすが、其の人が急に売りてえ刀があるんだが、手前は方々へ出這入るから世話アしてくれろってえ言いますから、若旦那はお目が利いてゝ、大概堀切に居らっしゃると思いやしたから、一緒に連れて来たんで、三百両ぐらいの価格は有るんだが、即金ならば百両でも宜いというんですが、それが三百両とか五百両とかになれば、私も大きにお世話の仕甲斐があるんですが、何うでげしょう」
伊「刀といえば己も買いてえ心持が有るんだが、其処へ其の品を持って来たのか」
正「エヽ彼所に変な訳の分からねえ侍が居るんでげすが、祝儀のくれッ振が悪いもんでげすから、何処の茶屋でも忌がられる山田さんてえ人が持って来ているんでげす」
伊「そんなら早く此方へお入れ申せば宜いのに……あなた何うぞ此方へ、お構いなくお這入り下さい」
山「いや御主人はお在宅で、御免」
伊「さア何うぞ此方へ、お構いなく」
山「御免を蒙る……、これは立派なお住居で」
伊「生憎誰も居りませんで……師匠菓子器の葢を明けとくと砂が這入っていけないから……あなた何うぞ此方へ、これはお初にお目に懸ります、私は紀伊國屋伊之助と申しまする至って不調法もので」
山「手前は山田藤六という者で、始めて会います、正孝がねえ、予て贔屓になるコレ〳〵の主人は大目利であるから、お世話を為ようという事だから、取敢ず罷り出たいと思っても、お宅が分らんと申したら、お寮においでだろうという事で出ましたがね、此の品は手前上役の者が売るのだが、余程価値ものなれども、此の度国表へ帰るに就いて、是は手放すのに誠に惜しいが、幾口も有るから手放すのだと申し、刀屋に見せると、差料を売ったという事がぱっとしては宜くないというので、心配なしにオイソレと云って、即金で買ってくれゝば百金で手放してしまう、併し次第に因って価値が有ったら、それだけの事にしてくれなければ困る」
伊「私は質を取って居りますが、小道具の方に目が届きませんけれども、番頭に目の利いてるものも御座いますから、お品を拝見致しましてから御相談をいたしましょう」
山「品はこれへ持参致した」
伊「兎に角拝見致しましょう」
といいながら風呂敷を解くと、中に袋入りに成っておりますから、押戴き、
伊「拝見を」
と風呂敷包から取出して見ると、白茶地亀甲形古金襴の袋で、紫羽二重の裏が附いておりまする結構な打紐を解いて、ズーッとこき出すと、鞘は別に念の入れようは有りません絽色で、丸繰形身入れ白に成っており、淵頭に赤銅七子で金の二疋の狂い獅子、目貫は横谷宗珉の一輪牡丹に、鍔は信家でございます。鮫は占城の結構なところ、柄糸は煮紺三分に巻き揚げ立派な物でございます。
伊「何うもお立派なもので」
山「我々には分らんが、売る当人は中々大した金をかけたのだろう、だが火急の事に相成って値売をしている訳にはいかんから、あなたの目利き次第で価値が有れば、一杯に買って貰いたい」
伊「お刀身を拝見致します」
と是から鞘を払って見ましたが、私は刀の見様などは存じませんが、先ず刀を真直に立って暫くの間こう遣って見ると、刀脊の三つ棟に相成ってるカサネの厚い所を見て、又こう袖を当てまして暫くの間鋩尖から横手下物打から鎬、腰刃の辺を見ますると、腰刃みだれ深くいたして丁子乱れに成って居りまして、二尺五寸余もあります。
伊「誠に結構なお品のように存じますが、これは御銘は誰でございます、作名は確と有りましょうな」
山田「それはもう正しい銘が有ります」
伊「誰でございます」
山田「誰だって、それは云えんが、金子を出して渡せば速かに銘を明そう」
伊「左様なら一寸おナカゴを拝見致しましょう」
山田「それはいけん、それがナカゴを何うも見せるという訳にはいかん、金子を渡してしまってからなら何うでも宜しい」
伊「何分にもお銘が分りませんと誠に何うも困りますが、お銘を仰しゃって下さるように願います」
山田「何うも然ういう訳にはいきません、売人に確と頼まれて居るんですから」
正「山田さん、ちょいとこれは何んてえ作銘だと仰しゃいな」
山田「然ういう訳にはいかんよ、大夫から確と頼まれてるんだから、愈々買うと云って金子を渡せば、ナカゴは見られるのだ」
伊「それでは少々お刀を拝借致しとうございます、番頭は少々心得ておりますから、番頭に見せるまで拝借を願います」
山田「然ういう訳にはいきません、直に引取るのなら格別、何うもお前の方へ預ける訳にはいかん」
伊「能く拝見致しました上では百両と仰しゃっても、二百両にでも三百両にでも、五百両にでも頂戴致します……左様なら後刻番頭を同道致しまして、お宅さまへ出ますが、何処へもお渡しなく私方へお譲りが出来ましょうか」
正「そんな事をするのも億劫でげすから、云わない積りで私まで内証で、耳打で、その作銘を一寸いって下さいな、云わねえくらい強気と訳の分らねえ事は有りやすめえ」
山田「然うはいかねえよ、それでは金子をもって大夫のお宅まで来て下さい」
伊「へえ、金子を持参して遅くも夕景までには頂戴に出ますが、何方さまでございます」
正「ナニ、あの、八橋畠の傍で、立派な御門が有って、生垣に成ってるお宅でげす」
山田「他へお見せなさるんではいかん、金子と引替でなければならんよ」
伊「へえ畏りました、後程相違なく私が出ます……師匠お前少し跡に残ってゝくんな」
正「へい……山田さん御免蒙ってお送り申しません」
伊「誠に何うも、左様なら」
山田「それでは後刻」
と山田藤六は帰ってしまいました。
正「あゝいう分らねえ奴なんで、時々変な洒落をいうんでげすがね、忌な心持になる洒落なんで……刀の銘を云ったっていゝじゃありませんか、此方で買うのだから、團十郎とか菊五郎とか左團次とかいわなければ給金が打てませんのにさ」
伊「あの刀に就いて少し心に当る事があるから、師匠気の毒だが船を言付けるから一緒に万年町まで往ってくれないか」
正「へえ、何処へでも往きましょう」
と是から屋根船を誂えて万年町の岡本政七方の桟橋へ船を繋けまして上り、門口から、
伊「誠に御無沙汰を致しました」
政「おや〳〵これは伊之助さん、能くおいでなさいました、私も一寸お尋ね申したいと存じながら、種々取込が有って、つい〳〵御無沙汰をいたしました、私も彼方の方へ保養旁々見舞に往きたいと思ってましたが……おや、誰かお連れが有るなら此方へ」
伊「ナニ彼は正孝という幇間で、師匠此方へ上んねえ」
正「これは始めまして、私は櫻川正孝と申しまする幇間で、春木町さまには毎々一通りなりません御贔屓を戴きます……御当家は宜い御商売でございますな、若旦那、此の位結構な御商売は有りますまい、お店は小くってキチンとしていても一寸箱の蓋を取ると金目の物が有ったり、ちょいと立掛けて有るお品でも千両二千両ッてんでげすから、此のくらい結構な御商売は無いと思います」
政「流石に職業とはいいながら、這入りながらお世辞は恐れ入りました」
正「いえ全く御世辞じゃアないので、真から湧出したのでげす、ちょいと彼の箱の中に在る目貫を一つ取っても千両にもなるんですが、盗めば直に露顕しますから瞞かすことは出来ませんが」
政「恐れ入りますな……先達て心当りが有りましたから、段々と聞いて見たら、いけないんで」
伊「今日師匠が連れて来た侍の持って来た品が、其れではないかと思うんですが、予てのお話とは乱れが少し違うようですが、國綱が山の内に居た時の乱れは何うとか、此の間重さんの話でしたが、刀を売りに来たから、買いましょうが作銘は誰でげすと云っても云わないんですが、何うしてもそれに違いないんです」
政「誠に何うも有難うございますが、何処からまいりましたので」
伊「八橋畠に居る人なんだそうで」
政「それは何うも、早速重三を呼びに遣りましょう」
と直に手紙を認め、高橋へ小僧に持たしてやると、荷足の仙太郎も何か仲直りの交際で、子分を二人連れて重三郎の処へ来て居りましたから、重三郎が披き見て飛立つ程の悦びで、これから小三郎音羽だけは姿の見えないように屋根船に乗らせ、仙太郎も重三郎も取敢えず政七方へ出てまいりました。
重三「只今はお手紙ゆえ取敢ず出ました」
政「今春木町が来て知らせたから直に呼びに遣ったのだ」
重「これは春木町さま、其の後は誠に御無沙汰をいたしました、此の度はまた御親切に有難う存じます、小三郎さまの仰しゃるのには、上の手をもって何んするような事では武士道が立たんと、其処に種々仔細がございまして、敵討をなさいませんければならない事に成って居りまするが、お刀を取ってしまわない内は踏込む訳にもいかないので、困って居りましたのです、誠に有難う存じます、夫に相違ないので」
伊「重三さん、お前さんが私の手代の積りで往って下さいな、私は金子を持って往きますから、百両なら百両其処へ金子を出すから、お前さん其の刀を持って先へ帰って下さい」
重「誠に有難う存じます…さア仙太郎親方お上んなさい」
仙「御免なせえ」
政「おや〳〵丁度好い処へ」
仙「今ね高橋へ来てえると、此方からのお手紙でしたが、何んとも何うも今まで苦労した甲斐が有って、此の上ねえ悦びで、まア何ういう手蔓で其の刀を持って来たので」
政「此処に居る正孝という幇間の世話で」
仙「お前かオイ正孝という幇間はお前か」
正「へえ」
仙「幇間なんてえものは彼方へべったり此方へべったりしてえやアがるから、向うの奴に何か吐すとたゞア置かねえぞ」
といわれ正孝は仙太郎の口の利きようの暴々しいのに驚きまして、けゞんな顔附きをして、
正「へえ、泥坊物でげすかな、係合になりやすからお世話アしなければ宜かった、驚きやしたな」
仙「本当に冗談じゃアねえぜ、向うの野郎に内通して何か云やアがると手前の首をヒン捻ッちまうからそう思え」
正「へえ首捻りや何かは驚きやす……おや、あなたはなんだ、オヽあなた、お前さんだ、誠に何うも」
とピョコ〳〵お辞儀をするので、
仙「何んだ〳〵」
正「アノそれ、いつぞやそれ四年後の九月の廿日、吉原土手で親方が中へ這入って下すって、侍がエーッてって刀を引こ抜いた時に助けて下すった親方に違いねえようで」
仙「ウーン……あの時の幇間はお前か」
正「モシ若旦那お礼を仰しゃいよう」
伊「私は親方には時々お目にかゝっているから疾うにお礼はいっちまったよ」
正「酷うございますね、然うなら早く知らせて下されば宜いのに……その節は親方誠に有難う存じました、私は助かりましたが、あの晩に長次さんはポカリと斬られちまいました、あの時の御恩は私は死んでも忘れませんあの時には誰も中へ這入って止め人がないところへ、親方が這入って下すって、無法といっては済みませんが、向うで驚いて手を放したので私は逃げられたので、それからというものは貴方のお顔が目に附いてゝ忘れませんが、お名前が知れないから只土手さま〳〵って、真に神の如く毎日〳〵拝んでましたが、此方でお目に懸るとは斯んな嬉しいことはありません、親方のためなら内股膏薬どころじゃア有りません、私は按摩膏に成って親方の方へピッタリ粘著いて離れませんので、お手伝いでも遣りましょう」
仙「それは有難い、何にしても斯んな結構なことはねえが、早くしなければ逃げられでもするといけねえから、早いが宜い、正孝も一緒に往きねえ、旦那は何うなさる」
政「私はまいりましても却ってお邪魔になるばかりで、何んのお役にも立ちますまいから御免を蒙りますが、重三郎と正孝さんとを伊之さんが連れて往って、お刀を先へ取っておしまいなさい、それに親方は子分を二人連れて往くと仰しゃるから」
仙「ナニ大丈夫でござえやす、遅くも今夜の亥刻時分までに帰って来て、芽出度祝いをしましょう」
と仙太郎が先へ立ち、後から三人が桟橋へ出まして、これから船へ這入りました。
正「若い衆さんお頼み申しますよ」
伊「師匠此方へお這入り」
正「へえ御免下さいまし」
小「これは誠にお久しゅうお目に懸りませんが、何時も相変らず御機嫌能く、誰方もお変りなくって」
伊「へえ、有難う存じます、貴方さまにも御機嫌宜しゅう」
小「これは正孝どの、久しゅう逢いません」
といわれて正孝はけゞんな顔をして、暫く考えて居りましたが、
正「おや、是は、成田街道で笠を冠って、笛を吹いてた方で……旦那誠に久々でお目に懸ります、これはどうも思いがけない、若旦那、あなたホラ私達を助けて下すった旦那なんで……お礼を仰しゃいよう」
伊「己は疾うにお礼は済んでるよ」
正「貴方のような皮肉なお方はありませんね、そんなら何故早く知らせて下さらないんで……あの時から何うも立派な方だと思いましたが、お大名さまでいらっしゃいますか」
伊「芝の金森さまというお大名の御重役で、稻垣小三郎様と仰しゃるお方なんだが、お刀紛失に就いて虚無僧のような真似をして、散々御苦労をなすったんだが、是から其のお刀を取りに往くのだ、斯ういう芽出度い事になったのも、お前のお蔭だよ」
正「へい、道理で彼奴はお刀の銘をいいませんでした」
正「これは何うもお立派な奥さまで、初めましてお目通りをいたします。私は正孝と申す幇間でございまする」
音「正孝はん、久しゅう会いまへんね」
正「おや……これは山口屋の花魁、これは驚きやした、種々な方に出会しますな、花魁え、何うもすっかり御様子が変りましたから間違いたんでげすが、花魁ばかりは何うも只の花魁じゃアない、お姫さまの筋の花魁だっていってましたが、成程これは成田街道で舁夫を投げた方の御新造に違えねえ」
伊「許嫁のお方々さまなんだが、互いに顔を知らず小三郎さまはお刀詮議のために遠国へお出の後で、お父さまを殺した奴は大野惣兵衞というもので、其奴が矢張りお刀を盗んで持ってるばかりでなく、石川さまを殺した奴ゆえ両家ともに敵に成ってる大野惣兵衞、然ういうわけだからお前と己と番頭さんと三人で先方へ往って、価値に構わず二百両でも三百両でも金子を投り出して其の刀を取上げてしまう、跡へ若旦那とお嬢さんが踏込んで往くという仇討ののっけの案内がお前だよ」
正「これは恐れ入りやす、これはどうも御免を蒙りましょう」
伊「御免を蒙るってえ奴が有るかえ」
正「だってサ敵討なんぞに幇間の出る訳のものじゃア有りません、煤掃きのドンパタやる時でさえ何の役にも立ちませんもの、敵討の処へ往ったら腰が抜けて這って逃げるくらいのものでげすから御免を蒙りやしょう」
仙「今若旦那や花魁の御恩は死んでも忘れねえと云ったじゃアねえか、殴るぜ」
正「これは恐れ入ります……宜うございます私は死にます〳〵、私は蔵前の売卜者に占て貰っても、お伺いをしても寿命が短かい、目の上に何とかいう黒子が現われてるといいましたが、土手で斬られ損ない、成田街道でも殺されるところを助かったのでげすから、三度の神は正直で、今度は殺されるんでしょうが、こんな事は正直でない方が宜しい」
と云って居る内に船が著きましたから、
伊「師匠お前案内をしねえ」
正「宜しい」
といいながら端折を高く取りましたので、
伊「そんなに尻を端折らないでも宜いじゃアねえか、さッさと這入んねえな、取次を頼みねえ」
正「えゝ、取ッ附き、取っ附じゃアねえ取次だ……お頼み申します〳〵」
と震え声でいう。
伊「変な声をするな、しっかり云いねえ」
正「お頼み申します」
山田「どーれ」
正「オウ恟りした」
山「おや〳〵これは何うも、大夫もお待兼だ、番頭さんを御同道かえ、正孝上んな、どうぞ此方へ」
伊「へー御免を蒙ります……さア正孝往きなよ」
と云われて正孝はかたまってしまい、両手を合せて拝みながら、
正「私は何うぞ御免を」
といい捨て表へ駆け出してしまう。是から伊之助と重三郎は座敷へ通ると、お茶烟草盆菓子などが出る内に、奥から出て来たのは八橋周馬で、何ういうことでございますか水色に染紋の帷子を着まして、茶献上の帯を締め、月代を少し生やして居ります。年齢三十七八、色白く鼻筋通り、口元の締った、眉毛の濃い、品の好い男で、ピタリと居り著いた処は成程五百石も取る見識が有り、其の上にこやかで、横着ものゆえ猫撫声を出して、
周「さア〳〵何うぞこれへ、始めまして手前が八橋周馬で、此の度火急に国表へ帰らんければならんので、丹誠して拵えた刀ゆえ惜しいものだが、然う〳〵幾口もは荷になって持って往くことが出来んに依って拠ろなく払ってしまうのだが、他へ見せれば何程でも二つ返事で金子を出そうけれども、名高いものゆえパッと致すと宜くないから、作銘の処は云わないようにと言付けて遣ったために、お前の方へ手数を懸け、誠に御面倒なことで」
伊「いえ何う致しまして、私にはとんと目が届きませんから番頭を連れて参りましたが、少々其のお腰を拝見致しまして、其の上代価の所は二百両でも三百両でもお好み次第に差上げまする心得で」
周「アヽ左様か」
と刀懸に懸けて有ったのを持って来て伊之助に渡すを、受取り、又重三郎に渡す。重三郎は拵えなどは見は致しません、直に引抜いて見ましたなれども、粟田口國綱の刀は見る度に乱が違うものだから、心を静めて熟々見ますると、疑いもない國綱なれば、刀を鞘に収め、
重「エヽこれに相違ございません」
といい捨て刀を持ったなり伊之助と一緒にバラ〴〵〴〵と表の方へ駆け出しましたから、八橋周馬は驚き、山田藤六も恟り致しました。
周「コレ待て賊」
といいながら追掛けて出る処へ、音羽小三郎の二人は襟を十字に綾取り、端折を高く取り、上締をしめ、小長いのを引抜き物をも言わずツカ〳〵と進んでまいり、今八橋周馬が敷台口へ下りようとする前に立塞りました。
小「おのれ大野惣兵衞、吾は稻垣小三郎なるぞ、父の仇覚悟致せ」
と身構えた様子を見て山田藤六は肝を潰して、玄関の長四畳の処へペタ〳〵と坐ってしまう。八橋周馬は物をもいわず奥の方へ逃げ込む。小三郎は跡から続いて追い掛ける。音羽は女ながらも胆の据ったもので、今腰が抜けて坐って居る藤六を振向きながら一刀浴せる。
藤「アー」
という声諸共にパタリと倒れて息絶える。小三郎は追い掛けながら、
小「おのれ逃げるとは卑怯であろう、丈助と其の方と合体して國綱の刀を盗み取り、三ヶ年以前父小左衞門を鴻の台にて殺せし大悪人、立派に侍らしく、逃げ匿れを致さんで尋常に勝負を致せ」
音「王子権現の帰り路に、三河島の茂みに待受け、鉄砲で父を打殺したに相違有るまい、それのみならず丈助といい合せ、だまして私を廓へ沈め、のめ〳〵と客に成り、能くも〳〵のめ〳〵と此の身を受出し女房になれと云いおったな、云おうようなき人非人最早逃げる道はないから覚悟をしろ」
大野「オヽ音羽か」
と言ったが惣兵衞も肝を潰し、大刀の鞘を払って振り上げたが、斬込む了簡もなく、只ウーン〳〵と云ってるばかり、小三郎は元より早業の名人ゆえ、
小「天命思い知ったか」
と斬り込むを、惣兵衞は一歩退いてチャリ〳〵と受け止め、チャ〳〵〳〵と二三合合せ、少しの隙を覗って惣兵衞が庭へ飛び下り、パタ〳〵〳〵と駈けてまいり、生垣を飛び越えて土手の方へ逃げ出す。
小「卑怯だ返せ」
音「逃げるとて逃がそうか」
と跡から追い掛ける。惣兵衞は土手伝に綾瀬の方へ逃げて往くと、ガヤ〴〵多勢黒山のように人が立って居りまして、バラ〴〵礫を投りました。此の石は矢切の渡口に居りましたおしのと恭太郎が、御名号を書いては積み上げたのが、山のようになって居りまする間へ匿れて居るのは、恭太郎に舁夫の安吉、重三郎、正孝などで、バラ〴〵石を投げると弥次馬も手伝って投ります。大野惣兵衞は最早目が暗んで居りますから、先には助太刀が有ると思い、後へ帰ろうとしたが、後からは小三郎音羽が追い掛けて参るので、これは堪らんと思い、刀を持ったなりドブリと綾瀬川へ飛び込むと、葮葦の繁った処に一艘船が繋いで居りましたが、苫を揚げて立出たは荷足の仙太郎で、楫柄を振り上げて惣兵衞の横面を殴る。
大野「アッ」
といいながら此方へ泳ぎ著き、上りにかゝる処を小三郎が飛び込んでズーンと惣兵衞の肩先深く斬り込む。
大野「アッ」
といって倒れるところを音羽が一刀斬り附ける、小三郎は惣兵衞の髻を掴んで上へ引揚げ、
小「ヤイ大野、其の方は卑怯な奴であるぞ、何うあっても汝の首を提げて屋敷へ帰らねば武道がたゝぬ、実に悪むべき奴であるぞ」
音「天命思い知ったか」
と二人して止めを差しましたは実に立派なことでございます。小三郎は泰然として少しも騒がず後へ退く処へ、船から仙太郎も上ってまいり、
仙「お芽出度うごぜえます、お怪我はごぜえませんか」
小「仙太郎親方本懐を遂げて此の上の悦びはございません」
仙「何んとも何うも申そうようはございません、先ずまアお芽出度うごぜえやした、止めはお差しなすったか、私も此奴じゃア何のくれえ苦労してえるか知れやせんから、少しばかり斬らして下さい、重さんも此処へ来ねえ」
重「ヘイ〳〵此奴でございますか、畜生め、四年以来一通りならない苦労をさせやアがって、此ん畜生め」
といいながら鬢の毛を一本〳〵引抜く、仙太郎も栄螺のような拳骨を固めポカ〳〵殴り、
仙「安やい、手前も此処へ来い」
安「誠にお芽出度うござえます…此ん畜生め、人に散々こええ思えをさせやアがッて」
と二ツ三ツ打つ。
伊「師匠此処へ来なよ」
正「私も一寸と向脛の毛を三本ばかり抜きましょう」
と云ってるところへ、向うからバラ〴〵と侍が駈けて参りましたから、小三郎は血に染った刀を提げたなり油断なく身構え、何者が来たかと思い、ト見ると重役渡邊外記が先へ立ち、金森兵部少輔さまの御舎弟八良五郎様がお野懸けの帰りで、稻垣小三郎の仇討ちのことをお聞き遊ばし、お出になりましたので、これから小三郎が粟田口國綱のお刀を殿さまに差上げました。金森八良五郎様もことのほかお悦びにて、稻垣小三郎は元へお召し返しに相成り、石川家も再興致しまして、音羽と小三郎とは夫婦になり、後に両人の中に子をもうけ、長男を以て石川の家を相続させまして、八百石にお取立になりまして、家長く栄えましたが、伊之助は全快に相成りましたゆえ、岡本政七の妹お雪を元々に婚姻致して、これも末長く中よく栄えました。また仙太郎は金森様のお舟御用を達しますという、末お芽出度いお話でございます。これで粟田口のお話は読切に相成りました。
底本:「圓朝全集 巻の三」近代文芸資料複刻叢書、世界文庫
1963(昭和38)年8月10日発行
底本の親本:「圓朝全集 巻の三」春陽堂
1927(昭和2)年1月28日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
ただし、話芸の速記を元にした底本の特徴を残すために、繰り返し記号は原則としてそのまま用いました。同の字点「々」と同様に用いられている二の字点(漢数字の「二」を一筆書きにしたような形の繰り返し記号)は、「々」にかえました。
また、総ルビの底本から、振り仮名の一部を省きました。
底本中ではばらばらに用いられている、「其の」と「其」、「此の」と「此」、「彼の」と「彼」は、それぞれ「其の」「此の」「彼の」に統一しました。
また、底本中では改行されていませんが、会話文の前後で段落をあらため、会話文の終わりを示す句読点は、受けのかぎ括弧にかえました。
※底本に混在している「衛」と「衞」、「嶋」と「島」「鐘ヶ淵」と「鐘が淵」、「美惠」と「三惠」、「長次」と「長治」、「寳」と「寶」、「芦屋」と「蘆屋」、「劔」「劒」は「剣」、「姙」と「妊」は、それぞれ「衞」、「嶋」、「鐘ヶ淵」、「美惠」、「長次」、「宝」、「蘆屋」、「剣」、「妊」に統一しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:小林繁雄
校正:門田裕志、仙酔ゑびす
2010年10月18日作成
2011年2月13日修正
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