福沢諭吉
ペンは剣よりも強し
高山毅
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この伝記物語を読むまえに────────────
「天は人の上に人をつくらず、
人の下に人をつくらず。」
明治のはじめ、「学問のすすめ」で、いちはやく
人間の自由・平等・権利のとうとさをとき、
あたらしい時代にむかう日本人に、
道しるべをあたえた人。
それまでねっしんにまなんだオランダ語をすてて、
世界に通用する英語を、独学でまなんだ人。
アメリカやヨーロッパに三度もわたり、
自分の目でじっさいにたしかめた、
外国のすすんだ文化や思想をしょうかいし、
大きなえいきょうをあたえた人。
上野の戦争のとき、砲声をききながら、
へいぜんと講義をつづけた人。
福沢諭吉は、ながい封建制度にならされた人々を
目ざめさせるのは、学問しかないと、
けわしい教育者の道をえらびました。
いま、慶応義塾大学の図書館には、
「ペンは剣よりも強し。」
のことばが、ラテン語で書かれています。
諭吉の一生は、この理想でつらぬかれました。
日本の民主主義を考えるとき、
わたしたちはいつも、
諭吉にたちかえらなければなりません。
夏のはじめのある日の午後のことでした。
十二、三さいになる少年が、九州の中津(大分県)の町を、むねをはってあるいていました。こしに大小の刀をさしているので、士族(さむらいの家がら)の子どもとすぐわかりますが、ふるぼけたふろしきづつみを左の小わきにかかえ、小さなとっくりをその手にさげています。どうやら少年は、町に買いものにきたかえりのようでした。
町人たちは、さも、ふしぎなものをみたといわんばかりに、少年のうしろすがたをゆびさして、ささやきあいました。
「おさむらいの子が、まっ昼間、どうどうと、びんぼうどっくりをさげて、買いものにくるとは、おどろいたな。」
「まったくだ。ちかごろは、おさむらいも、ふところぐあいがよくないとみえて、一しょう(一・八リットル)どっくりをさげて買いにみえるが、はずかしそうにほおかむりをして、しかも、日のくれがたとか、夜になってから、買いにくるというのが、ふつうだからな。」
「まあ、おさむらいには、士族としての体面(せけんにたいするていさい)があるからな。それを、あのようにどうどうと……いったい、どこの子どもだろう。」
町人たちがはなしている、その少年は、じりじりとてりつける太陽にあせばんだのか、ときおり、右手で、ひたいのあせをふきながら、士族やしきへかえっていきました。
やがて、少年がたちどまったのは、門こそありますが、ふるぼけた、そまつなかやぶきやねの家でした。
「ただいま、かえりました。」
少年が、げんかんからはいると、
「おかえり、諭吉。ごくろうだったね。とちゅうで、知りあいの人にあわずにすんだかね。」
と、お母さんのお順がやさしくむかえました。
「ええ、だれにもあいませんでした。でも、だれかにあったって、わたしはへいきです。自分の金で、ものを買うんですから、すこしもはずかしいことはありません。」
「そうとも、そうとも。よくいってくれました。母さんは、そのことばをきいて、とてもうれしいんだよ。うちがびんぼうでも、おまえがいじけないでそだってくれるということがね。……そうそう、かえってきてすぐでわるいけれど、たんすがあかなくなったから、ちょっとなおしてもらえないかしら。」
「いいですとも。あかなくなったのは、どのたんすですか。」
諭吉のひとみは、きゅうにいきいきとかがやき、刀をいつものところにおくと、たんすのある部屋にかけこむようにしてはいっていきました。
「このたんすのひきだしなんだけどね。」
あとからついてきたお母さんのいうのをきいて、諭吉は、そのひきだしのあちらこちらをしらべはじめました。それから、かぎをつっこんで、まわしてみましたが、なかなかあきません。
「これは、かぎがこわれたんですね。くぎでなければ、あかないかもしれません。」
「そうかい。では、くぎをつかって、あくようにしておくれ。」
お母さんは、台所のほうへさっていきました。
諭吉は、くぎをもってきて、そのさきをまげて、かぎあなにさしこんで、あっちにまわしてみたり、こっちにまわしてみたり、いろいろとくふうをこらしました。顔のあたりを、かが四、五ひき、うるさくとんでいるのを手でおいはらいながら、かんがえこんでいます。両足をかわりばんこにあげているのは、かにさされないためでもありますが、便所にいきたいのをがまんしているためでもありました。それほど、ひきだしをあけるのにいっしょうけんめいになっていたわけです。
そのうち、ひきだしがすっとあきました。
「お母さん、あきましたよ。」
といったとたん、こらえていることができなくなったのでしょう、諭吉はバタバタと便所へはしりました。
ところが、そのとき、兄さんの三之助が、ほご紙(ものをかきそこなって、不用になった紙)を部屋いっぱいにひろげて、整理をしていました。
いつもなら諭吉は、便所へいくのに、その部屋をとおらないのですが、いまはいそいでいるものですから、近道をして、つい、ほご紙をふんでしまったのです。すると、
「こりゃ、まてっ、諭吉。」
と、兄さんが大きな声でしかりつけました。
「おまえは、目がみえぬのか。これをみなさい。なんとかいてある。奥平大膳大夫と、とのさまのお名まえがかいてあるではないか。」
と、えらいけんまくです。八つ年上の兄さんのいうことですから、しかたがありません。諭吉は、
「ああ、そうでございましたか。でも、わたしは、つい、しらなかったものですから。」
と、いいわけをしました。
「しらなかったで、すむか。目があればみえるはずだ。とのさまのお名まえを足でふむとは、なんたることか。臣子の道(けらいや、子のまもるべきこと)をわきまえない、ふこころえものだぞ、おまえは。」
「わたしは、とのさまを足でふんだわけではありません。たまたま、わたしのふんだほご紙に、とのさまのお名まえがかいてあっただけのことです。」
「だまれっ、とのさまのお名まえのかいてあるものを、足でふみつけたことは、とのさまをふみつけたとおなじことだ。お父上が生きておられたら、これをなんといわれるか、かんがえてみるがよい。」
日ごろは弟思いの兄さんが、ほんとうにかんかんになっておこっているのです。諭吉は便所にはやくいきたいので、いまは、あやまるよりほかに方法がないとおもいました。
「これは、わたしがわるうございました。これからは気をつけますから、かんにんしてください。」
と、おじぎをしてあやまり、いそいで便所にいきました。やっと、ときはなされたような気持ちになりました。
しかし、気がおちついてくると、兄さんのことばには、なっとくのできないものがあります。
(なんだ、とのさまの頭をふんだというのではない。ただ、名をかいてあるほご紙をふんだだけのことだ。紙の上の字など、かまうことはないじゃないか。それを、兄さんはあんなにおこったりして……。)
と、諭吉はふまんにおもい、そして、紙の上の文字を、ただたいせつにするということに、うたがいがわいてきました。
兄さんがいうように、とのさまの名のかいてあるほご紙をふみつけてわるいのなら、神さまの名まえのかいてあるおふだをふんだら、どうなるだろうか。こうかんがえた諭吉は、さっそく、その夜、神だなから、おふだを一まいとって、こっそり足でふんでみました。ところが、べつにかわったことはおこりませんでした。
(うん、なんともない。これはおもしろいぞ。よし、こんどは、便所にもっていって、ためしてみよう。)
おもいきって、便所の中へおとしてみました。なにごとかおこったら、すぐとびだせるように用意して、こわさのために手足のふるえるのをがまんして、じっとようすをみていました。しかし、やはりなにごともおこりません。
(そうれ、みろ。兄さんがよけいなことをいってしかったが、あんなことをいうのはおかしいんだ。)
と、諭吉はあんしんもし、また、かたくしんじることができたので、とくいにもなりました。
しかし、こればかりは、兄さんにはもちろん、お母さんにもねえさんにもはなせません。はなせば、きっとしかられるにちがいありませんから、一人でそっと、自分の心の中にしまっておきました。
諭吉は、兄さんのいうことになっとくがいかず、それをそのままにしておかずに、じっさいにためしてみて、自信をえたわけでした。すると、もっと、いろいろなことをためしてみたくなりました。
諭吉のおじさんの家の庭のかたすみに、おいなりさんをまつった小さなほこらがありました。それを、大人たちは、しんみょうな顔つきでおがんでいますが、いったい、おいなりさんの正体はどんなものか、それをしりたくてたまりません。しかし、大人たちは、神さまの正体をみるなどということは、だいそれたことで、ばちがあたって目がつぶれたり、手や足がまがってしまうぞ、とおどかすばかりで、諭吉によくわかるようなせつめいをしてくれません。そこで、
(よし、ぼくがみてやろう。)
と、ある日、あたりに人のいないのをみすますと、いなりのほこらのとびらを、そっとひらいてみました。おっかなびっくりであけたのですが、そのとたんに、
「なあんだ、石ころじゃないか。」
と、おもわず声をだしたほどでした。ほこらの中には、なんのへんてつもない石ころが、一つはいっているだけではありませんか。
みたところ、道ばたにころがっている石ころと、ちっともかわったところはありません。これに、なにかとくべつに神さまの力がやどっているのでしょうか。もし、そうだとすれば、この石ころをほうりだして、そのへんにころがっているべつの石をほこらにいれたら、どんなことになるでしょうか。大人たちは、にせのおいなりさんをありがたがらなくなるでしょうか。
諭吉は、それをためしてみるために、ほこらの石をとりかえておきました。
べつだん、なんのかわったこともおこりません。それどころか、あくる朝、おいなりさんをみにいくと、近所のおばあさんが、おみきとあぶらあげをそなえて、なにやら口の中でぶつぶつとなえながら、しんみょうにおがんでいるではありませんか。
(あっはっはっ。ばかなおばあさんだな。ぼくの入れた石ころに、おみきとあぶらあげをあげておがむなんて……。)
と、諭吉は、おかしさをこらえて、その場をたちさりました。
けれども諭吉は、このことを、だれにもはなしませんでした。はなせば、しかられるにきまっているし、自分でも、けっしてよいことをしたとはおもっていなかったからです。それでも、このいたずらによって、神さまのばちがあたるなどということは、ありはしないのだということを、諭吉ははっきりとしることができました。
諭吉は、このように、自分でなっとくのできないことについては、自分でじっさいにためしてみるという、しっかりした少年でした。おまけに手さきがきようなので、家ではたいへんちょうほうがられていました。
いどにものがおちたといえば、どういうふうにしてあげたらよいか、その方法をかんがえだして、わけなくひきあげました。しょうじをはることなど、うまいもので、家のしょうじはもちろん、しんるいからたのまれて、はりにいくこともありました。げたのはなおもすげれば、たたみばりを買ってきて、たたみのおもてがえまでやりました。ですから、ひまさえあれば、木のきれをけずって、なにかをつくっていました。
あのおいなりさんの正体をみてからも、諭吉の生活には、べつだんかわったことがありませんでした。
一年たって、また夏がやってきました。
ある日、お母さんがせんたくをしようとして、たらいをもちあげると、たががゆるんでいたのでしょうか、ばらばらにこわれてしまいました。あたらしいたらいを買うほかないとおもわれました。しかし、諭吉は、このばらばらにこわれたたらいをなおす役をひきうけました。
たけをわって、たがのわをつくるのは、たいへんむずかしい仕事ですが、諭吉はいろいろとかんがえて、とうとう、もとどおりのたらいになおしてしまいました。自分ながら、よくやれたものだと、いささかとくいになって、
「どうです、お母さん。こんなにりっぱになりましたよ。みてください。」
といいました。
お母さんやねえさんは大よろこびでしたが、兄さんは、あまりよい顔をしません。
「諭吉、たらいのたがをなおすのもよいけれど、すこし勉強をしたらどうだ。さむらいの子が、字をならわず、まるで職人がやるようなことばかりしているのは、みっともないぞ。」
せっかく、いい気持ちになっているところへ、このようにきびしくいわれたので、諭吉はむっとしました。
「兄さんは、わたしに勉強しろというんですか。いやなことだ。勉強なんて、わたしはだいきらいです。」
「では、きくが、おまえは、これからさき、なんになるつもりだ。」
「そうですね。まあ、日本一の大金持ちになって、おもうぞんぶんお金をつかってみたいものですね。」
「なにっ、大金持ちになりたいだと? 諭吉、おまえは、それでもさむらいの子か。さむらいの子というものは、お金もうけなどかんがえてはならんぞ。おまえは、まだ小さかったからおぼえてもいまいが、お父上はな、さむらいの子が金かんじょうなどならうものじゃないといって、わたしがかよっていた手ならいの先生が、かけざんの九九をおしえたら、そんな先生のところへ子どもをあずけられないといって、おこられたことがあるくらいだ。お父上は、りっぱな学者だった。その血をひいたおまえが、勉強はだいきらいだなんていって、はずかしいとおもわぬか。」
「わたしは、勉強がきらいなんですから、しかたがないじゃありませんか。それに、さむらいの子がお金のことをいって、どうしてわるいんですか。うちだって、もっとお金があったら、どんなにいいか。兄さんだって、心の中では、そうおもっているくせに。」
「へりくつをいうな。おまえのさきざきのことをかんがえて、勉強するようにすすめてやっているのに、おまえは、それがわからんのか。なんというばかものだ。そこへすわれ、お父上にかわって、おまえのしょうね(こころね)をたたきなおしてやるから。」
兄さんは、そばの木刀をとって、諭吉のほうへ、あらあらしい足どりでつめよりました。このとき、
「おまちなさい、三之助っ。」
と、お母さんが、中にわってはいりました。
「兄弟げんかはいけません。諭吉の勉強ぎらいは、母さんにもせきにんがあります。家がまずしいものだから、つい、諭吉に家の手だすけばかりをしてもらっていました。諭吉には、母さんから勉強するようにいいきかせますから、この場はかんにんしてやっておくれ。」
木刀をもってたっている兄さんの足もとに、お母さんはきちんとすわって、頭をたたみにすりつけんばかりにして、たのみました。兄さんも、こしをおろして、木刀をかたわらにおき、お母さんのまえに、だまって頭をさげていました。お母さんのうしろには、諭吉がおなじように、頭をさげていました。
それから二週間もたったでしょうか。よくはれた日のお昼ちかくに、着物はぼろぼろ、かみはぼうぼうの女こじきが、諭吉の家の門の外にたち、はいろうか、はいるまいかと、ためらっていました。それを、せんたくものをほしていた諭吉のお母さんが、目ざとくみつけました。
「まあ、おチエじゃないか。ひさしぶりだね。さあ、こちらへおはいり。」
と、庭のほうへよびいれました。おチエはすなおに庭のほうへはいってきましたが、右手で頭をなんべんもかいています。
「おや、おチエは、また、しらみをわかしたとみえるな。さあ、そこへおすわり。わたしがとってあげるから。」
と、庭の草の上にすわらせ、
「諭吉や、ちょっときて、てつだっておくれ。」
と、土間で木ぎれをけずっている諭吉に声をかけました。諭吉は、すぐにでてきましたが、
「ああ、また、しらみたいじですか。おチエは、からだがくさいから、いやだなあ。」
と、鼻をおさえながらいいました。
お母さんはいつも、おチエのしらみをとってやるのでした。そのとったしらみを、庭石の上におきます。しらみははいだそうとします。それを、小石をもってつぶすのが、諭吉の役目でした。諭吉は、こればかりは、きたなくて、きたなくて、むねがわるくなるようでした。でも、お母さんのいいつけなので、いつもがまんして、てつだいました。
おチエは、中津の町では、だれからもばかにされていました。それなのに、諭吉のお母さんは、士族としての身分などにこだわらず、よくおチエのめんどうをみてやるのでした。
「まあ、こんなに、しらみがうようよわいていては、おチエもかゆかったろうね。これからは、かみをよくあらうようにして、しらみをわかすんじゃないよ。」
と、まるでおさない子どもにでもいうように、おチエに教えさとしながら、しらみをつぎつぎにとります。諭吉も、いそがしくしらみをつぶします。
おチエは、さもうれしそうに、ときおり、にたっとわらってみせています。そのうち、頭がかゆくなくなって、気持ちがよくなったのか、おチエは、ねむたそうに、こっくりをはじめました。
「さあ、そっとしておいてやりましょう。諭吉、おチエの顔をみてごらん。よいゆめでもみているのか、うれしそうな顔をして、まるでほとけさまみたいじゃないか。」
と、お母さんがいいました。諭吉は、
「ええっ。」
とおどろきましたが、そういわれて、おチエの顔をみると、なるほど、お母さんのいうことがわかるような気持ちがしました。
これまで女こじきをいたわるお母さんを、ふうがわりなお母さんだとおもっていたのですが、人間は、わけへだてなくしんせつにしなければならないということがわかり、
「お母さんはえらいな。」
と、あらためてお母さんをそんけいしたくなりました。
「諭吉や、母さんは、このあいだから、おまえにいってきかせようとおもっていたことがあります。おまえは、兄さんに、なんになるつもりだときかれて、大金持ちになりたいとこたえましたね。けれど、兄さんのいわれるように、勉強はやはりしてもらいたいとおもいます。なくなられたお父さまは、おまえをおぼうさんにしたいといわれていたんですよ。」
「えっ、わたしをおぼうさんにするって、ほんとうですか、お母さん。」
「ほんとうですとも。それには、すこし、わけをはなさなければ、おまえには、わからないかもしれないが……。」
こういって、お母さんがはなしてくれたのは、つぎのようなことでした。
諭吉のお父さんは、福沢百助といい、中津のとのさまのけらいでした。ひじょうにしょうじきで、まじめな人であり、また、学問のすきな、すぐれた漢学者でした。けれども、身分がひくいために、つまらない役職にがまんしていなければなりませんでした。
それは、江戸幕府のおわりにちかいころでしたが、そのころの日本の社会は、まだ、さむらいがいちばんえらいとされていました。町人やひゃくしょうたちは、いつも、さむらいにいじめられていました。
さむらいの家に生まれたものは、どんなにつまらない人間でもさむらいになり、いばることができました。町人やひゃくしょうの子どもは、いくらすぐれた人間でも、さむらいにはなれませんでした。また、さむらいの中でも、身分のたかいものと、ひくいものとにわけられていて、身分のひくいさむらいの子は、身分のたかいさむらいの子より上の役目につくということは、ゆるされませんでした。
そんなわけで、諭吉のお父さんは、りっぱな人でしたが、つまらない役目にしか、つくことができませんでした。
中津のとのさまは、大阪の堂島にくらやしきをかまえていました。このくらやしきは、どこのとのさまももっていたもので、自分の国でとれる米や、名産・特産の品々を、このくらやしきにおくってきて、それを大阪の商人に売りわたして、自分の国の財政をまかなうことになっていました。
諭吉のお父さんは、そのくらやしきにつとめて、回米方という役についていました。回米方というのは、このくらやしきにおくりこまれてきた米の見はりの番をしたり、商人に売ったりする仕事で、ずいぶん、せきにんのおもい役目でした。けれども、そのころのさむらいは、刀をつかうような役につくものはだいじにされますが、お金のかんじょうなどをする役目のものはみさげられていました。この回米方もまた、みさげられる役目だったのです。
諭吉は、そのお父さんのすえっ子として大阪で生まれました。いちばん上が兄さんの三之助で、その下に三人のねえさんがありました。女の子が三人つづいたあとに、男の子が生まれたのですから、お父さんは大よろこびでした。
「おまえが生まれたときは、やせてはいたけれど、ほねぶとで、じょうぶそうな大きなあかちゃんだったものだから、さんばさんが、『ちちをたくさんのませれば、りっぱにそだちますよ。』というのをきいて、お父さまは、たいへんおよろこびになってね、『これはよい子だ。十か十一になったら、お寺へやって、りっぱなおぼうさんにしよう。』とおっしゃったのですよ。そののちも、口ぐせのように、『おぼうさんにしたい。』とおっしゃっていました。
ところが、おまえがかぞえ年で三つのときに、お父さまはなくなられました。それで、母さんは、おまえたちをつれて、中津へかえってきたわけだけどね。もし、お父さまが生きておられたら、おまえは、いまごろは、どこかのお寺の小ぞうさんになっているところだよ。」
と、お母さんがいいました。
「でも、わたしは、おぼうさんはきらいです。お父上は、どうして、わたしを、おぼうさんにしようとなさったのですか。」
「さあ、それは、母さんにも、よくわかりませんがね。まあ、りっぱなおぼうさんになるには、勉強をうんとしなければなりません。お父さまは、学問のすきなかたでしたから、おまえに勉強をしてもらいたかったのじゃないかとおもいます。どうだろ、おぼうさんになっては……。」
「おぼうさんになるのだけは、かんべんしてください。そのかわりに……。」
「そのかわりに?」
「勉強をします。」
諭吉のしんけんな顔つきをみて、お母さんは、いかにもうれしそうに、にっこりとしました。
「さあ、それでは、おチエがまもなく目をさますでしょう。おにぎりでもつくってやることにしましょう。わたしたちも、お食事をしなくてはならないしね。」
気持ちよさそうにひるねをしているおチエの顔をみながら、お母さんは、台所のほうへはいっていきました。あとにのこった諭吉は、おぼうさんにならずにすんだので、ほっとしました。
勉強をすることは、このあいだ、兄さんからいわれて、なるほどとおもい、自分でも、やらなければならないな、とかんがえるようになっていたので、それほど苦にはならなかったのです。勉強なんてだいきらいだといっていた諭吉が、すすんで勉強するといいだしたことを、お母さんからきいて、兄さんはとてもよろこびました。
といっても、いまのような学校はありませんから、勉強するといえば、ちかくにある塾(むかしの学校)にかようほかありません。そこへかよって、漢字がいっぱいつまった中国の本をならうのです。それを漢学といいました。生徒は、七、八さいの小さな子から十三、四さいまでのものばかりで、諭吉がいちばん年上ですから、たいへんきまりがわるいことでした。けれども、負けん気のつよい諭吉は、
「なあに、いまにみろ、みんなにおいついてやるから。」
と、心をふるいたたせて、むちゅうで勉強にはげみました。そのため、みるみるうちに、おなじ年ごろの子どもたちにおいつき、やがて、その子どもたちをおいこしてしまいました。
塾は二、三回、かわりましたが、その中で、いちばんたくさん本をならったのは、白石常人先生でした。漢学がおもでしたが、諭吉は歴史がすきで、すきな本は、何回もよみ、暗記してしまうほどでした。
十五、六さいごろになると、諭吉は、ふるいおきてや、わるいならわしにたいして、まえよりもいっそう、ぎもんをもつようになりました。身分のちがいということは、子どもどうしの中にもあったからでした。第一に、ことばづかいがちがうのです。諭吉たち下っぱの家のものは、身分の上の家の子にむかっては、
「あなたが、ああおっしゃった、こうなさった。」
と、ていねいにいわなければならないのにたいして、あいては、
「きさまは、ああいった、こうしろ。」
といったちょうしです。
塾のせいせきは、諭吉のほうが上ですし、からだもつよくしっかりしていながら、頭があがりません。それは、親の家がらや身分がちがうためにできたわけへだてでした。それが、諭吉にはくやしくてくやしくてたまりません。すると、お父さんが、自分をおぼうさんにしようとした気持ちがわかってくるようでした。
諭吉のお父さんは、学問のあるりっぱな人でしたが、身分がひくいために、つまらない役目にがまんしていなければなりませんでした。ところが、おぼうさんだけは、出世する道があったのです。たとえ、さかな屋のむすこや、ひゃくしょうの子であっても、いっしんふらんに勉強し、しゅぎょうをすれば、えらいおぼうさんになる道がひらけていました。そうなれば、さむらいはもとより、もっと上にいるとのさまや将軍にも、せっきょう(ときおしえること)をすることができますし、とうとばれ、うやまわれもしたのです。
お父さんは、そこに目をつけて、
(子どもに、自分とおなじように、いきのつまりそうにきゅうくつで、ふこうな一生をおくらせたくない。もって生まれたさいのう⦅生まれつきの力⦆を、のびるだけのばさせてやりたい。)
きっと、そうかんがえられたのだ、と諭吉はおもいました。
(おお、そうだったのか。それに気がつけば、もっとはやく勉強にとりかかるのだったのに。これはぼやぼやしておれないぞ。だが、わたしがおぼうさんになれば、わたし自身はすくわれるかもしれない。けれども、おなじような人がせけんにはたくさんいるのだ。それらの人々のふこうをほうっておくわけにはいかない。
いちばんだいじなことは、このようなふるいおきてや、わるいならわしを、一日もはやくうちやぶることだ。封建制度をなくすことだ。封建制度こそ、お父さんのかたきだ。にくいにくいかたきだ。)
と、諭吉は、はっきりかんがえるようになりました。
ところが、封建制度というものは、ながいあいだにきずきあげられたものですから、ちっとやそっとの力でくずれるものではありません。そのころの日本は、どの土地も、このふるいおきてでおさめられていましたが、とりわけ、九州のいなかである中津は、それがつよいのでした。
ですから、この町をとびだして、すこしでも自由なところにいかなければ、一生、このままでおわってしまう、と諭吉はしみじみとかんがえるようになりました。
兄さんの三之助は、お父さんのあとをついで、下っぱの役人になっていました。いとこたちも、仕事についているものは下っぱの役人ばかりでした。三、四人あつまると、身分のたかい家のむすこが、たいした力もないのに、よい役についていばるとか、自分たちは、力があっても、どうにもならぬのだ、とふへいをもらしあいました。
諭吉も、そのふへいにはおなじ思いでしたが、ぐちのいいあいになったのでは、いみのないことだとおもいました。そこで、こういうのでした。
「まあ、そんな話はやめようじゃありませんか。この中津にいるかぎりは、なんべん、そんなことを、ぐずぐずいっても、役にたちませんよ。ふへいがあったら、でていくことですね。でていかないのなら、ふへいをいったってはじまりませんよ。」
「いったな、諭吉。ばかに大きな口をきくではないか。それなら、きみは、中津をでていくというのか。」
「さあ、それは、なんともいえませんがね。」
あまり、はっきりしたことをいえば、どんなうるさいことがおこるかもしれませんから、諭吉はことばをにごしました。しかし、このころから、心の中では、中津からでていくことを決心して、その決心を、なんとしてでも実行しようと、おもいさだめました。
そうして、ひそかにじゅんびをはじめたのでした。ちょうど、白石先生のところでいっしょに勉強している生徒の中に、諭吉よりももっとまずしい人が二人いました。その二人は、あんまを内職にして、勉強しているのでした。
そのことをきいて、諭吉は、
(これは、よいことをきいた。自分も、そのうち中津からとびださなければならないが、あんまを内職にすれば、兄さんからお金をだしてもらわなくてもすむ。)
そうおもって、さっそく、その二人に、あんまをおしえてもらい、しきりにけいこをしました。もともと、手さきがきようなので、すぐこつをおぼえ、お母さんをじっけんのあいてにしました。
「白石先生のところでは、学問ばかりおしえるのかとおもっていたら、あんまのやりかたもおしえてくださるのかね。ああ、いい気持ちだ。諭吉のうでまえは、なかなかたいしたものだよ。」
と、お母さんは大よろこびです。
もとより、お母さんは諭吉が中津をとびだそうとしていることをしりません。けれども、諭吉は、その日のくるのを、じっとまっていたのでした。
そうして、諭吉がかんがえていることのあらわれる日が、目にみえないところで、すすんでいました。時代が大きくうごいてきていたのです。
諭吉のまちのぞんでいたときが、やがておとずれました。それは、諭吉が二十一さいとなった、安政元(一八五四)年二月のことでした。
そのまえの年の六月に、アメリカから、ペリーが軍艦四せきをひきいて浦賀(神奈川県)にやってきて、
「国をひらいて、ぼうえきをしようではないか。」
と、はげしくせまりました。いやだというなら、大砲をうちこんでも、うんといわせるといういきおいでした。これは、江戸幕府にとっては、たいへんむずかしいもんだいでした。
というのは、江戸幕府は、それまで、およそ三百年ちかくのあいだ、外国とのつきあいをせず、品物のとりひきなどもしないことにしていました。ですから、世界の国々のようすは、なにもわかりませんし、また、どうなっているかをしろうともしませんでした。これを「鎖国」といいます。つまり、国をとじて、外国をしめだしてしまったわけでした。ただ、中国とオランダとだけは、長崎でぼうえきをすることがゆるされていました。
なぜ、幕府が国をとざしたかといいますと、それは、キリスト教が日本にはいってくるのをおそれたからでした。中国とはとなりどうしで、まえまえからのつきあいであり、キリスト教の国ではないから、そのままつきあったのですが、オランダとは、キリスト教を日本へひろめないというやくそくで、ぼうえきをしていました。
ところが、こんど、キリスト教をしんずるアメリカが、日本に国をひらかせて、自由にぼうえきをやろうといってきたのです。こまった幕府は、ペリーのさしだしたアメリカ大統領からの手紙だけをうけとりました。ペリーは、へんじは一年のちにもらうからといって、かえっていきました。
さあ、それからがたいへんでした。国をひらこうという考えの人と、外国人はみなおいはらえという考えの人と、日本は二つにわかれました。しかも、京都の天皇のがわは、国をひらきたくない考えだったので、幕府は、外国との板ばさみになったかっこうでした。
でも、ぐずぐずしてはいられません。一年たったら、ペリーがまたやってきます。もしも、「アメリカのいうとおりにはできない。」というへんじをすれば、軍艦から大砲をうってくるかもしれません。そこで、幕府は、品川のおきに、砲台(大砲をすえたじん地)をつくって、江戸(いまの東京)の城をまもろうとしました。そのためには、砲術(大砲のつかいかた)をまなばなければならないと、やかましくいわれはじめました。
あちこちのとのさまたちのあいだでも、けらいに砲術をまなばせることがはやってきました。もちろん、中津にも、このことがつたわってきました。人々は、にわかに砲術というものに心をむけはじめました。
その砲術をまなぶには、オランダからまなぶよりほかありません。それには、どうしてもまずオランダ語を勉強して、オランダ語でかいた本がよめるようにならなければなりません。
ある日、兄さんの三之助が、諭吉をよんで、いいました。
「どうだ、諭吉。オランダ語を勉強して、原書(外国語でかかれた本)をよんでみる気はないか。」
いきなり、こんなことをいわれたので、諭吉は、目をまるくしました。それに、原書ということばははじめてきいたことばなので、
「その原書っていうのは、なんですか。」
とききかえしました。
「オランダ語でかいた本のことだよ。日本語にも、かなりほんやくされているけれども、だいじなところだけをみじかくかいたり、ときには、まちがってほんやくしたところがあるそうだ。だから、砲術をほんとうにしるには、自分で、その原書をよまなければならないんだ。」
「ずいぶんむずかしいんでしょうね。」
「それは、むずかしいにきまっているさ。けれども、原書をよむことができれば、ほんとうのことがわかるからおもしろいぞ。どうだ、やってみないか、諭吉。」
「やりましょう。どうせ、人のよむものなら、横文字であろうが、なんであろうが、やれないということはないでしょうから。」
諭吉の負けずぎらいな気持ちが、むくむくと、むねの中にわきあがって、そういわせました。
「そうだとも。おまえなら、その気にさえなれば、きっとやれるとおもうよ。」
と、兄さんは、にっこりわらいました。
けれども、中津には原書もなければ、おしえてくれる先生もありません。オランダのことばを勉強するには──それを蘭学といっていました──、長崎へいかなければなりません。長崎だけが、そのころの西洋の文明がながれこむ、一つのまどのようなところだったのです。
さいわいなことに、兄さんが、役所の用事で長崎へでかけることになったので、諭吉もいっしょにいくことになりました。
(中津からとびだしたい。)
という諭吉のきぼうは、こうしてかなえられたのでした。
数日ののち、長崎についた諭吉は、桶屋町の光永寺という寺にいきました。ちょうどそのころ、中津の家老(大名・小名のけらいの長)の子の奥平壱岐というわかいさむらいが、砲術の研究のためにやってきて、ここにとまっていたからです。それで、この人にたのんで、お寺にやっかいになりましたが、半年ほどのちには、やはり壱岐のせわで、砲術研究家の山本物次郎という人の家で、はたらきながら、オランダの学問をまなぶことになりました。
ところが、山本先生は目がわるくて、本をよむことが不自由なので、諭吉は、世の中のうごきなどについて、いろいろな先生がたの漢文でかいたものをよんであげたり、手紙をかわりにかいてあげたりしなければなりません。また、山本先生にはむすこが一人ありましたが、その子に漢文をおしえる家庭教師の役も、仕事の一つでした。
それから、山本先生の家はくらしむきは大きいのですが、びんぼうで借金があるものですから、そのいいわけをしたり、ときにはお金をかりにいかなければなりません。下男(男の使用人)が病気になれば、水くみもしました。女中(女のおてつだいさん)にさしつかえがあれば、台所のてつだいもしました。ふきそうじはもちろん、先生がふろにはいられると、せなかをながしてあげたり、生きもののすきなおくさんの飼っているいぬやねこのせわもしなければなりません。
こんなに、うちの中のざつようでもなんでも、諭吉は、すこしもいやな顔をしないで、かいがいしくはたらくので、先生ばかりでなく、おくさんにも、女中にも、家じゅうで、たいへんちょうほうがられました。
そのころの砲術家は、じっさいに大砲をつくったり、大砲のうちかたのけいこをするわけではありませんでした。ただオランダの砲術の本をいろいろもっているということと、それをよんでせつめいができるというだけでした。
その本をお礼をとってかしたり、それをうつしたいといえば、うつすためのお礼をとるというわけで、そのお礼が山本家の収入になります。その本をかすのも、うつすのも、山本先生は目がわるいので、みな諭吉がかわってやりました。
大砲をつくるための設計図がほしいとか、出島のオランダやしきをみたいとかいってくる人があります。それらのせわをするのも山本先生の仕事でした。設計図など、諭吉は、じっさい大砲をうつのはみたこともないのですが、図面をひくだけなら、もともと手さきがきようなものですから、わけはありません。さっさと図をひいたり、せつめいをかいてわたします。
諭吉は、全国からあつまってくる人たちをあいてにして、まるでもう、十年もまえから砲術をまなんだ、りっぱな砲術家だとおもわれるほどに、人にあってこたえられるようになりました。
こうした、いそがしい仕事を、てきぱきとやってのけるあいまには、諭吉は自分の勉強をもわすれませんでした。もともと長崎にでてきたもくてきは、原書がよめるようになるということでしたから、オランダ流の医者や、オランダ語のつうやくをする人の家などにいって、いっしんふらんに原書の勉強をしました。諭吉は、原書というものをはじめてみて、
(これはむずかしいぞ。)
とおもいました。それはむりもありません、アルファベット二十六字をおぼえてしまうのに、三日もかかったのですから。けれども、五十日、百日と日がたつにつれて、だんだんよめるようになり、いみもわかるようになってきました。
こうなると、おもしろくないのは、奥平壱岐でした。壱岐は身分のたかい家老のむすこで、諭吉より十さいぐらい年上です。はじめはせんぱいぶって、あれこれとおしえてくれていたのですが、そのうちに、砲術についても、オランダ語についても、諭吉のほうが上になって、壱岐はそれまでとはあべこべに、諭吉からおそわらなければならなくなりました。それが、壱岐にはしゃくのたねでした。
それなら、いっしょうけんめいに勉強すればよいはずですが、なにしろおぼっちゃんのことですから、自分でどりょくするということがありません。ただ、諭吉が目の上のこぶのようにおもわれてきました。そこで、わるぢえをおもいつきました。
諭吉が長崎へきてから、一年あまりたったときでした。中津の藤本元岱という、医者をしているいとこから、とつぜん手紙がとどきました。
「お母上さまが、おもい病気になられました。すぐかえってこられるように。」
といういみの手紙でした。よんでいく諭吉の顔からは、みるみるうちに血のけがひいていきました。
兄さんの三之助は、なくなったお父さんとおなじように、大阪のくらやしきにつとめており、三人のおねえさんはみなよめ入りして、ふるさとの中津のうちには、年をとったお母さんのお順が一人いるだけなのです。
それにしても、あんなにじょうぶなお母さんが、いったいどうなさったのかと、うそのようにおもわれてなりません。けれども、どうじに、一人心ぼそくねておられるお母さんのすがたをおもうと、諭吉は、じっとしていられないほどでした。その手紙をくりかえしよんで、諭吉は男なきになきました。
ところが、ふと、いとこからは、もう一通の手紙がきていることに気がつきました。それをいそいでよんだ諭吉の顔には、血のけがよみがえってきました。
「お母上さまのご病気というのは、うそです。じつは、こういうわけがあって……。」
と、その手紙には、つぎのようなことがかかれていました。
それは、奥平壱岐のしくんだひきょうなはかりごとだったのです。諭吉が長崎へきたとき、壱岐はおなじ中津のものだというので、めんどうもみてくれたし、なつかしがりもしました。けれども、自分よりも身分のひくい諭吉が、勉強がどんどんすすんでいき、ひょうばんのよくなっていくのをみて、これでは、自分のねうちがさがってしまうとおもいこみました。
なんとかして、諭吉を長崎からおいだしてしまおうとかんがえて、そのことを中津の父親にしらせてやったのでした。父親というのは家老ですが、自分のむすこにたいしてはとてもあまい親ばかでしたから、諭吉のいとこ藤本元岱をよびつけて、
「諭吉が長崎にいては、せがれ壱岐の出世のじゃまになるから、中津へよびもどしてくれ。ただし、そのりゆうには、母が病気だといってやれ。」
と、きびしいめいれいです。家老じきじきのめいれいですから、ことわるわけにいきません。
「かしこまりました。」
とこたえて、諭吉のお母さんにも話をして、そうだんのけっか、おもてむきは、家老のめいれいどおりの手紙をかいて、もう一通には、このいきさつをかいて、
「ほんとうは、お母さんは元気ですから、けっして心配するな。」
とかいてやったのでした。
これをよんだ諭吉のむねは、いかりのために、ばくはつしそうになりました。
(なんというひきょうなわるぢえだ。よしっ、この手紙をみせて、壱岐をとっちめてやろう。)
と、いちじはかっとなりましたが、
(いやいや、まてよ。いま、ここでけんかをしたところで、身分がちがうから、こっちがまけるにきまっている。それに、壱岐だって、それほど悪人ではないのだ。)
と、ぐっとがまんをしました。
(けれども、こういうことをきいては、この長崎にもいたくない。お母さんがお元気なんだから、中津へかえることもない。どうすればよいか。)
と、さんざんにかんがえこんだすえ、
(そうだ、江戸へいこう。江戸にも、りっぱな先生がおられるはずだ。)
こう決心した諭吉は、なにもしらないふりをして、壱岐のところへ、おわかれのあいさつにいきました。
「じつは、中津のいとこから、母がきゅうに病気になったから、すぐかえってくるようにとしらせてまいりました。ふだんは、いたってじょうぶなほうでしたが、わからないものです。いまごろはどういうようすでしょうか。とおくはなれていますと、気になってなりません。」
と、心配そうに、いろいろのべたてますと、壱岐も、さもおどろいたような顔をして、
「それは、きのどくなことじゃ。さぞ心配であろう。とにかく、一日もはやくかえったほうがよかろう。しかし、母上の病気がなおったら、また、長崎へこられるようにしてやるから。」
と、なぐさめ顔にいうのでした。
「それでは、おさしずどおり、さっそく国へかえりますが、お父上さまにおことづてはございませんか。いずれかえりましたら、お目にかかります。また、なにかおとどけする品物がありましたら、もってまいります。」
と、一どわかれをつげて、つぎの朝、またいってみますと、壱岐は自分の家にやる手紙をだして、これをやしきへとどけてくれ、それからお父上にあったら、これこれつたえてくれといい、またべつに、諭吉のお母さんのいとこにあたる大橋六助という人にあてた手紙をとりだして、
「これを大橋のところへもっていけ。そうすると、きさまがまた長崎へでてくるのにつごうがよいだろう。」
といって、わざとその手紙にふうをせずに、あけてみよといわぬばかりにしてありますから、
「なにもかも、いさいしょうちいたしました。」
と、ていねいにわかれをつげました。うちにかえって、ふうなしの手紙をあけてみますと、
「諭吉は母の病気につき、どうしても国へかえるというから、しかたなしにかえらせるが、まだ勉強のとちゅうの身のうえだから、また長崎へでてくることができるように、そちが、よくとりはからってやれ。」
というもんくです。諭吉は、これをみて、ますます、しゃくにさわりました。
(いまごろは、けいりゃくがうまくいったと、とくいになっているにちがいない。このさるまつ⦅壱岐のあだ名⦆めっ、ばかやろう。)
と、はらの中で、さんざんののしりました。けれども山本先生にも、ほんとうのことはいえません。もし、この話がわかって、奥平というやつはひどいやつだというようなことにでもなれば、わざわいはかえって諭吉の身にふりかかって、どんなめにあうかしれません。それがこわいので、
「母が病気になりましたので、中津へかえらなければならなくなりました。」
といって、いとまごいをしました。
ちょうどそのとき、中津からくろがね屋惣兵衛という商人が長崎にきていて、用事がすんだので、中津へかえることになっていました。諭吉は、その男といっしょにかえろうとやくそくをしておいたのですが、もとより中津へかえるつもりはありません。心は江戸へむかっていました。といっても、江戸にはたよっていくところがありません。
さいわい、江戸から長崎へ勉強にきている書生なかまに、岡部という青年がいました。しっかりした人物ですし、そのお父さんは、江戸で医者をしていました。
「ひとつ、きみにおねがいがあるんだけど。もし、わたしが江戸へいったら、きみのお父さんの家のげんかん番にしてくれるよう、きみからたのんでもらえまいか。」
とたのみますと、
「いいとも。日本橋にいって、医者の岡部ときいてもらえば、すぐわかるよ。」
と、さっそく手紙をかいてくれました。
こうして、三月のなかばごろのある日、諭吉たちは長崎をたって、諫早(長崎県)へむかいました。そこへついたのは、月のあかるいばんでしたが、諭吉は、くろがね屋にむかっていいました。
「ところで、くろがね屋。おれは長崎をでるときに、中津へかえるつもりであったが、きゅうにかえるのがいやになった。これから下関へでて大阪へむかい、それから江戸へいくことにした。ついては、めんどうでも、このにもつと手紙をとどけてはもらえまいか。」
「それは、とんでもないことです。あなたのような年のわかい、旅になれないおぼっちゃんが、一人で江戸へおいでになるなんて。」
と、くろがね屋は、びっくりしてとめました。けれども、諭吉はかたく決心したことです。くろがね屋とわかれて、一人旅をつづけ、下関から船にのりました。
ところが、この船は、京・大阪などを見物にでかける人々をのせた船でしたから、そのとちゅうでも、あちらこちらのみなとによって、見物をしたり、船の中では、ごちそうをひろげて酒もりをしてさわいだり、まことに船のすすみぐあいがおそいのです。
諭吉は、勉強にでかけようとはりきっているのですから、ばかばかしくてしかたがありません。十五日めに、やっと明石(兵庫県)についたとき、船からおろしてもらいました。これから大阪まであるこうというのです。それでも船よりははやく大阪につくことがわかったので、船からおろしてもらったのでした。
大阪までは十五里(やく六十キロ)あるとききました。お金がないものですから、すきばらをかかえて、とぼとぼとあるきつづけました。宿屋にとまることもできません。夜になって、さびしいくらい道をとおっているときなど、
(わるいやつがでてこなければよいが。)
と、おもわず、刀のつかをにぎっていることもありました。足をひきずりながら、やっとの思いで大阪の兄さんのところにたどりついたのは、夜の十時すぎでした。
兄さんは、たいへんおどろきましたが、くわしいわけをきくと、
「そうだったのか、よくわかった。だが、長崎からここにくるには、中津によってくるのが道のじゅんというものだ。それを、おまえはお母さんのおられる中津をよけてきた。まあ、わたしがここにいなければともかく、おまえとここで顔をあわせながら、このまま江戸へいかせたとあっては、まるで兄弟がぐるになってやったようで、お母さんにもうしわけないではないか。お母さんは、それほどにはおもわれないかもしれないが、どうしてもわたしの気がすまない。江戸へいかなくとも、大阪にだって、よい先生がありそうなものだ。そのことをかんがえてみてくれ。が、今夜は、おまえはつかれているだろうから、ゆっくりやすんだらよかろう。」
と、やさしくいたわってくれました。
諭吉は、かぞえ年で三つのときに、中津へかえり、こんど十八、九年ぶりで、大阪へきたのですが、くらやしきのまわりには、まだ諭吉のことをおぼえているものがたくさんありました。ですから、あくる日になると、諭吉がきたことをしって、これらの人々があつまってきました。
「おお、ほんとに大きくなられた。やっぱり、あかちゃんのときのおもかげが、どこかにのこっていますね。」
などといって、なみだをながさんばかりに、よろこんでくれる人もいました。諭吉のおもりをしてくれた武八じいさんは、自分のまごがきたようなよろこびかたで、堂島のあたりをあるきながら、
「のう、わかぼっちゃま。おまえさまのお生まれなすったとき、このわしは夜中に、あの横町のさんばさんのところへむかえにいったもんです。そのさんばさんは、いまもたっしゃにしておるようです。それから、よくおまえさまをだいて、毎日毎日、すもうのけいこ場をのぞきにいったものですが、あれがそうです。」
と、ゆびさしておしえてくれました。それをきいていると、諭吉は、むねがいっぱいになって、おもわずなみだをこぼしました。
こんなわけで、諭吉は、自分が旅にある身とはおもえず、ほんとうに、ふるさとにかえったような気持ちがしました。
そこで、兄さんのすすめもあることだし、大阪で勉強することにし、緒方洪庵という先生の塾にはいることになりました。
塾は「適塾」といい、船場の過書町(いまの東区北浜三丁目)にありました。緒方先生はすぐれた町医者で、オランダ語とオランダ医学をおしえていて、おおぜいの書生がいました。
諭吉が適塾にはいったのは、安政二(一八五五)年三月のことでした。先生は諭吉にむかって、
「いままで、どんな勉強をしてこられたのかね。」
とたずねました。
「はい、きまった先生はございません。長崎で、いろいろな先生からならいました。」
「では、これをよんでごらん。」
先生がさしだした本を、諭吉はしばらくみていましたが、やがてよみはじめました。これまでに勉強したことをおもいだしながら、日本語にほんやくしていきました。
「ほほう。本場の長崎で勉強しただけあって、きみは、よみかたがうまい。」
とほめてくれたので、諭吉がおもわずにっこりしますと、
「だが、どうも、きみは正式な勉強をしてないようだね。土台がしっかりしていない。外国語のいみをただしくくみとるには、文法、つまりことばのきまり、やくそくだね、それをよくしっていなければいけない。文法は文章の土台だ。きみは、文法を、あたらしく第一歩からやりなおすひつようがあるね。」
といわれ、がっかりしてしまいました。
けれども、そのまま、へこたれてしまうような諭吉ではありません。
「ようし、はじめからやりなおしだ。」
もちまえの負けじだましいをだして、がんばりましたから、諭吉の勉強はどんどんすすんでいきました。兄さんはいつも、そばではげましてくれたり、いろいろと力になってくれました。
ところが、つぎの年の正月ごろから、兄さんがリューマチという病気をわずらって、右手の自由がきかなくなりました。
そのうちに、こんどは諭吉が腸チフスにかかりました。それは、適塾の兄でしである岸という人が、腸チフスにかかったのをかんびょうしていて、うつったのでした。たいへんおもくて、これでもう死んでしまうのではないかとおもわれる日が、いく日もつづきました。
緒方先生は、ひじょうに心配して、いろいろとめんどうをみてくれました。そのおかげで、四月ごろには外にでてあるくことができるようになりました。兄さんも、だいぶんよくなりました。
ちょうど、そのころ、兄さんの役所のつとめがおわり、中津の町へかえることになったので、諭吉も、なつかしいお母さんのそばで、病後のからだをやしなうことになりました。
兄さんといっしょに船にのってかえったのは、五、六月のことでした。
(もう二どと中津へなんか、かえるものか。)
と、かくごをきめていた諭吉ですが、お母さんのつくってくださるりょうりをいただいていると、目にみえてけんこうをとりもどしてきました。兄さんのリューマチも、いますぐあぶないというようすもないので、八月にふたたび大阪にもどって、勉強をはじめました。
ところが、秋になってまもない九月十日ごろ、お母さんから、九月三日に兄さんがなくなったから、すぐかえってくるようにとの知らせがありました。びっくりした諭吉は、すぐさま中津へかえりました。そうしきはおわっていましたが、かわいいあととりむすこをなくしたお母さんと、やさしい兄さんをなくした諭吉とは、手をとりあって、かなしみあいました。
兄さんがなくなったので、諭吉は、福沢家のあととりとなり、中津藩の役所に毎日、つとめなければならなくなりました。けれども、心の中では、中津にいることが、いやでいやでたまりません。
ある日、おじさんのところでなんの気なしに、大阪へまたいきたいとはなしますと、
「ばかなことをいうな。福沢家のあととりとなったからには、この中津で、役所の仕事にはげまなければいけない。よそへいって、おまけに、せけんできらわれているオランダの学問をしたいなんて、とんでもない話だ。」
と、おそろしいけんまくで、しかられてしまいました。
そのころ、中津藩の空気は大の西洋ぎらいでしたから、諭吉の気持ちなどさっしてくれるものがないのも、むりはありません。そこで、諭吉は、お母さんにさんせいしてもらうほかに方法がないとかんがえ、そのゆるしをえるじきをねらっていました。
そうしたある日、諭吉は、長崎からかえってきた奥平壱岐のところへあいさつにいきました。壱岐は諭吉を長崎からおいだした人ですが、家老のむすこですから、しらぬ顔をしているわけにもいきません。ひさびさのあいさつをかわし、よもやまの話に花をさかせているうちに、壱岐は、一さつの原書をとりだして、
「ときに、どうじゃ。この本は、長崎で手に入れたオランダの築城書(城のつくりかたの本)だ。めずらしいものじゃろうが。なにしろ、わずか二十三両で買ったほりだしものだからな。」
と、じまんそうにみせました。
諭吉は、大阪の適塾で、医学や物理の本をみたことはありますが、まだ築城書をみたことはありません。それに、ペリーがきてからは、日本国じゅうで、海のまもりや、陸の城づくりの話で大さわぎをしているときでしたから、諭吉は、いっそうこの本をよんでみたくなりました。しかし、かせといったところで、かしてくれるはずはありません。でも、うまくおだてたら、ひょっとしたら、という考えがうかんだので、
「いや、これは、まったくすばらしい本です。それを二十三両でお買いになったなんて、ほんとうにほりだしものです。オランダ語の勉強がうんとすすまれたから、こういうほりだしものをみつけられたんですね、きっと。わたしなどには、一年や二年でよみとおせるものではございません。けれども、せめて、絵図ともくじだけでも、一とおりはいけんしたいものですが、いかがでしょう、四、五日、かしていただけませんか。」
おもいきって、こう、きいてみました。すると、壱岐は、ほめられたのが、よほどうれしかったとみえて、
「ああ、いいとも。四、五日でよいなら、もっていきなさい。」
といいました。よろこんだ諭吉は、壱岐の気持ちがかわらぬうちにと、原書をだいじにかかえて、いそいで家にかえってきました。
さっそく、羽ペンと墨汁と紙を用意して、二百ページあまりの築城書を、かたっぱしからうつしはじめました。なにしろ、人にしられてはたいへんなので、家のおくにひっこみ、だれにもあわず、昼も夜も、力のかぎり、むちゅうになってうつしました。
このとき諭吉は、城の門番をするつとめがありました。三日に一どは、その番がまわってきます。その日だけは、昼はうつすことができません。しかし、夜になると、こっそりとはじめて、朝、城の門があくまでうつしました。顔ははれぼったくなり、病人のようにみえました。
横文字をうつすこともたいへんですが、もしも、このことが壱岐にわかったら、ただ原書をとりかえされるだけではすまないかもしれません。いろいろとむずかしいことになるだろうとおもうと、その心配は一とおりではありません。
(まるで、どろぼうをしているようなものだ。)
と、壱岐にたいして、わるいとおもいましたが、
(でも、壱岐はわるだくみで、自分を長崎からおいだしたんだから、まあ、これで、あいこというものだ。)
と、自分で自分のやっていることをいいわけしてなぐさめ、とうとう、二十日ばかりでうつしおえました。
「せっかくおかしいただいたのですが、もくじをみても、ちんぷんかんぷんで、なにがかいてあるのか、よくわかりませんでした。それで、つい、おそくなってしまいました。」
諭吉が、こういってかえしますと、壱岐は、かえって、うれしそうな顔つきをしました。これで、壱岐には、なにもしられずにすみ、諭吉はほっとしました。
とどうじに、諭吉は、このぬすみうつした築城書をよんでみたくなりました。それには、大阪へいって、みっちり勉強しなければなりません。けれども、年とったお母さんが、どんなにさびしがるだろうとおもうと、諭吉の心はまよいました。でも、おもいきって諭吉がはなしますと、お母さんは、気持ちよくゆるしてくださいました。
大阪へいくとなると、あとのしまつをしておかなければなりません。兄さんの病気などで、借金がだいぶありました。そこで、家のどうぐなどを売りはらって、それをかえしてしまいました。
しかし、諭吉は、これまでとはちがって、福沢家のあととりとなったのですから、藩のゆるしがなければ、中津から一歩も外へでることができません。蘭学の勉強にいきたいというねがいをだしました。すると、したしくしているかかりの人が、
「蘭学しゅぎょうというのは、さきにれいがないし、ぐあいがわるい。砲術しゅぎょうにいきたいというねがいにしたほうがよい。」
と注意してくれました。
「しかし、緒方洪庵先生といえば、大阪でもゆうめいな医者ですよ。その医者のところへ砲術しゅぎょうにいくというのは、おかしいではありませんか。」
諭吉がたずねますと、
「いや、そうしたほうがよい。そうでないと、なかなかゆるしがでないから。」
というのでした。
かたちやていさいだけにこだわる役所のやりかたをばかばかしくおもいましたが、とにかく、そういうねがいにかきかえてだしますと、かかりの人がいったとおり、ゆるしがでました。
大阪へふたたびやってきた諭吉は、すぐ緒方先生のところへいきました。二か月ぶりにあった先生に、諭吉は、中津であったいろいろなことをほうこくし、かりた原書をうつしてしまったこともはなしました。
「そうか。それは、ちょっとのあいだに、けしからぬことをしたような、また、よいことをしたようなものじゃな。はっはっは。」
とわらいながら、ことばをつづけて、
「ところで、いまの話で、おまえには、どうしても学資(勉強するためのお金)がでないことがわかったから、わたしがせわをしてやりたい。しかし、ほかにも書生がいることだし、おまえ一人にえこひいきするようにみられては、おたがいによくない。どうだろうな、その、おまえがうつしたという築城書は、おもしろそうだから、それをおまえにほんやくしてもらうということにしては……。うん、それがよい。そうしなさい。」
と、しんせつにいってくれました。
諭吉は、よろこんで、その日から、適塾にねとまりして、勉強することになりました。ここには、日本じゅうのあちこちから、西洋医学の勉強をこころざす青年や、諭吉のように、医学ではなく、ただ蘭学をまなびたいという青年たちが、八、九十人もあつまってきておりました。塾にねとまりしているものもおおぜいいました。
この塾では、はじめて入学したものには、上級生が、ガランマチカ(文法)をおしえ、やさしい文のよみかたとやくしかたをおしえました。これがすむと、セインタキス(文章法)をおしえ、すこしむずかしい文をならわせます。この二つがわかるようになると、あとは、自分で勉強をすすめていくのです。
勉強のていどによって、クラスが七つか八つにわかれていて、クラスごとに五人とか十人とかがあつまって、一人ずつじゅんばんに原書をよんで、日本語にやくします。これを会読といいますが、わからないところがあっても、だれにもきくことはできません。ただ、ドクトル=ズーフというオランダ人のつくった、大きな「ハルマ」という字引をひいて、自分でかんがえるのでした。
原書といっても、塾にあるのは、物理学と医学の本だけで、一つのしゅるいのものは一さつずつしかなく、ぜんぶで十さつばかりでした。そこで、おおぜいの生徒が勉強するには、くじで、じゅんばんをきめて、めいめいに原書を半紙に四、五まいぐらいうつしとるわけでした。それに字引は一さつしかありませんから、たいへんでした。
会読は、毎月きまった日に六回ぐらいおこなわれました。よくできた人には白まる、できなかった人には黒まる、わりあてられた文章がぜんぶできたものには、白い三角のしるしをつけます。これで三か月つづけて白い三角をもらった人は、一つ上のクラスにすすむことがゆるされました。ですから、ふだんは兄弟のようになかのよい生徒たちも、このときばかりは、はげしいきょうそうになりました。
諭吉は、まえに勉強していたので、こんどは中級のクラスにはいりました。夕食をすますと、すぐ一ねむりして、夜の十時ごろに目をさまし、それからずっと本をよみます。明けがた、台所のほうで朝食のしたくのはじまる音をきくと、もう一どねむり、朝食ができあがるころにおきて、すぐ朝ぶろにいき、かえって朝食をすますと、また本をよむといったありさまでした。
そのため、せいせきはぐんぐんあがって、とうとう、塾にある本をぜんぶよんでしまい、力もついてきました。こうして、三年たつうちに、諭吉は、先生からみとめられて、塾長になりました。
けれども、諭吉は勉強の虫になったわけではありません。おおいに勉強するとともに、かなりないたずらもやってのけ、おおいにあそんだのです。
新入生は、緒方先生に入門料をおさめますが、そのとき塾長の諭吉にも、いくらかのお礼をもってきます。月に新入生が四、五人もあれば、ちょっとした金額になります。これでなかまをさそって牛肉屋へいって、牛なべをつつきながら、酒をのみました。そのころ牛なべをつつくのは、品のわるいものがやることで、いれずみをした町のごろつきと、適塾の書生とにかぎられていました。諭吉は、子どものときからの酒ずきだったものですから、ずいぶんお酒をのみました。
こづかいがなくなると、ズーフの字引をうつします。あちこちの藩から、字引をうつしてくれという注文がありますので、そのうつし代をかせぐわけです。それでも、こづかいにこまって、しかも、酒がのみたいというときには、こんなこともやりました。
道修町のくすり屋にくまがとどいて、そのくすり屋の主人が、適塾の書生さんに、かいぼうをしてみせてもらいたいと、たのんできました。それはおもしろいというので、諭吉は医者しぼうではないからいきませんでしたが、塾から七、八人がそろってでかけていって、かいぼうにとりかかり、これがしんぞうで、これが肺、これがかんぞうだ、とせつめいしてやると、
「まことに、ありがとうございました。」
といって、くすり屋の主人は、さっさとかえってしまいました。これは、適塾の書生にかいぼうしてもらえば、くすりにするくまのきもが、うまくとれるとかんがえてしくんだものですから、くまのきもさえとれれば、用事がすんだわけでした。
塾の書生たちには、このことがわかっていますから、おさまりません。諭吉が中心となって、くすり屋にかけあう手紙をかき、使者にいくのはだれ、おどかすのはだれ、と、それぞれの役をきめて、かけあいにいきました。くすり屋の主人も、これにはこまったとみえて、ひらあやまりにあやまり、酒を五しょうに、にわとりとさかななどをお礼としてだしました。
「これはしめた。」
とばかり、その夜、諭吉たちがおおいにのんだのは、いうまでもありません。
ところが、この酒のみのことで、諭吉は大しっぱいをやりました。夏の夜のことでした。大阪の夏はあついので、諭吉たちは、まるはだかでねることにしていました。諭吉が二かいの部屋にねていますと、下から女の人の声で、
「福沢さん、福沢さん。」
とよびます。諭吉は夕がた酒をのんで、いまねたばかりです。
「うるさいなあ。いまごろ、なんの用があるのか。」
と、むっとして、まるはだかのままとびおきて、はしごだんをおりて、
「なんの用だ。」
と、ふんぞりかえったところ、なんと、緒方先生のおくさんではありませんか。にげようにもにげられず、諭吉は酒のよいがいっぺんにさめてしまいました。おくさんも、きのどくにおもったのか、なにもいわず、おくのほうにひっこんでしまわれました。
諭吉は、そこではんせいをしました。
(酒をのんでいたから、こんなしっぱいをしたのだ。よしっ、酒をやめてしまおう。)
それから、ぷっつりと酒をやめました。なかまのものは、びっくりしました。中には、
「なあに、三日ぼうずで、すぐにのみだすにちがいない。」
と、ひやかし半分にみているものもありましたが、十日たち、十五日たっても、酒をのみません。
高橋という親友が、
「きみのしんぼうはたいしたものだ。みあげてやるぞ。しかし、人間というものは、たとえわるいならわしでも、きゅうにやめることはよくない。きみが、いよいよ酒をのまぬことに決心したのなら、そのかわりにたばこをはじめたらどうか。人間には、なにか一つぐらいたのしみがなくてはいけないぞ。」
と、しんせつらしくいってくれました。
諭吉は、たばこはだいきらいで、これぐらい、なんのたしにもならぬものはないと、さんざんにわる口をいっていたのですが、高橋のいうことも一つのりくつだとおもい、たばこをはじめました。はじめのうちは、からくてくさくて、いやでしたが、だんだんになれていき、一か月もたつうちには、たばこのみになってしまいました。
いっぽう、酒のほうもわすれることができません。いけないとはしりながら、ちょいと一ぱいやってみました。すると、もう一ぱいのみたくなります。けっきょく、酒はまたのむようになり、たばこものむようになってしまいました。
諭吉たちのやることは、せけんの人々からみると、いたずらとしかみえませんが、じつは研究ねっしんのせいでした。諭吉たちは、いつも原書と首っぴきでじっけんにはげみました。
あるとき、ろしゃ(塩化アンモニウムのべつの名)をつくってみることになりました。それにはまず、アンモニアをつくらなければなりません。アンモニアはほねからとりますが、ほねのかわりに、うまのつめのけずりくずを、たくさんもらってきて、とっくりの中に入れ、外がわに土をぬりました。
また、すやきの大きなかめを買ってきて、しちりんのかわりにし、火をどんどんおこして、その中へ、とっくりを三本も四本も入れて、うちわでバタバタあおぎました。すると、とっくりの口につけたくだのさきから、たらたらと液がながれてきました。これがアンモニアですが、そのくさいこと、くさいこと、塾のせまい庭でやっているのですから、たまりません。
緒方先生のうちのほうでも、気持ちがわるくなって、ごはんもたべられない、ともんくがでました。いやなにおいが着物にしみこんでしまって、夕がた、ふろ屋にいくと、着物ばかりか、からだにまでくさいにおいがしみついていて、みんなからはいやがられるし、いぬさえもほえついてきました。
「このごろ、適塾の書生さんたちは、酒どっくりをちっともかえしてくれないが、どうしてだろう。」
酒屋のおやじさんが、こっそりさぐらせると、なにかひどくくさいにおいのするもののじっけんにつかっているというのです。
酒屋はその後、なんといっても酒をもってこなくなりました。これには、みんなこまりました。
このときのじっけんでは、アンモニア水をつくれたものの、かたまらず、かんぜんなろしゃになりませんでしたし、あまりくさいので、いったんうちきることにしました。しかし、せっかくできかかったものをやめてしまうのは、学者のふめいよだというので、二、三人のものは、淀川に船をうかべて、じっけんをつづけました。
ところが、風むきによって、そのくさいにおいが、川から町のほうへながれていくので、またそこからもんくがでました。それで、川上のほうへのぼったり、川下のほうへくだったりしながら、研究をつづけるというありさまでした。
このように、適塾の書生たちは、ときにしっぱいしたり、ときには、せけんの人々からしかられるようなこともしましたが、どれもこれも、青年らしい、あたらしいことをしりたいという、はげしい気持ちのあらわれでした。自分たちだけが、西洋のすすんだ学問にせっしているのだというほこりが、みんなの心の中にありました。そうして、本をよむだけでなく、じっさいに自分でやってみて、あたらしい知識を身につけ、世の中に役だつ学問をすすめようと、勉強にうちこんでいるのでした。
こうした適塾の生徒の中から、わかい革命家の橋本左内、軍人・政治家の村田蔵六(のちの大村益次郎)、医療の制度をあらためた長与専斎、日本赤十字社をつくった佐野常民など、のちに幕末から明治にかけてかつやくした人たちがでました。
むろん、諭吉も、その中の一人でした。勉強をすればするほど、諭吉は西洋の学問のすすんでいることがわかり、日本も、おそかれはやかれ、これをもっとねっしんにとり入れなければならない日がくるにちがいない、とかんがえるようになってきました。
適塾でねっしんに勉強している諭吉のもとへ、とつぜん、江戸の中津藩奥平家のやしきから、使いのものがやってきました。それは安政五(一八五八)年の秋の日のことで、諭吉は二十五さいになっていました。こんど蘭学の塾をひらくことになったから、その先生になってほしいというのです。これは藩のめいれいですから、諭吉はしょうちして、いよいよ江戸へいくことになりました。
諭吉は、べつにけらいなどいりませんが、藩からけらい一人ぶんの旅費がでましたので、塾のなかまに、だれか江戸へいきたいものはないかといいますと、岡本周吉と原田磊蔵という友人が、いっしょにつれていってくれともうしでましたので、三人で東海道をあるいて、江戸へむかいました。江戸についたのは、十月もおわりごろで、もう、すこしうすらさむいきせつでした。
木挽町汐留(いまの新橋のふきん)にある奥平やしきにいきますと、鉄砲洲(築地)にある中やしきの長屋をかしてくれるということでした。諭吉は岡本と二人でそこにすんで、塾をひらくことになりました。
もう一人、いっしょにきた原田は、下谷の大槻というお医者のところへいきました。
諭吉のところへは、そのうちに、オランダ語をならいに、生徒がぼつぼつやってきはじめました。中津藩の子どもばかりでなく、ほかからも入門するものがあって、十人あまりの生徒に、諭吉は、毎日オランダ語をおしえていました。
ところで、この長屋は、そのときから八十八年まえの明和八(一七七一)年に、前野良沢や杉田玄白たちが、オランダのかいぼう学(生物のからだをきりひらいて研究する学問)の本を、くしんしてやくした場所なのでした。それは「解体新書」といって、日本のあたらしい医学にたいへん役だちました。
そのことをきいた諭吉は、ふかいかんげきをおぼえ、
「よしっ、この塾を、江戸でいちばんりっぱな蘭学塾にしてみせるぞ。」
とはりきりました。
それにつけても、江戸の蘭学者たちの力はどれほどのものであろうか、それをしっておきたいとおもいました。
ある日、島村鼎甫という蘭学者をたずねてみました。島村はやはり緒方先生のところでまなんだことのある医者で、江戸にきて、オランダの本のほんやくなどをしているのでした。ですから、二人はすぐしたしくなりましたが、このとき、島村は、生理学(生物のからだのはたらきを研究する学問)の原書をほんやくしているところで、その本をもってきて、
「ここのところが、どうもわからなくてよわっていたところだ。きみ、ひとつ、やってみてくれないか。」
といいました。諭吉がよんでみますと、なるほどやくしにくいところでした。
「ほかの人にも、そうだんしてみましたか。」
「ええ、もう、友だち五、六人にはなしてみたんだが、どうしてもわからないというんだ。」
そこで諭吉は、三十分ばかりかんがえているうちに、ちゃんとわかってきたので、島村にせつめいしてやりますと、
「なるほど、そうか。やはり、大阪じこみはたいしたものだ。」
と、諭吉の力をほめてくれました。これで、蘭学は大阪のほうがすすんでいたことがわかり、諭吉は、心の中でほっとあんしんしました。
それからのちも、諭吉は、原書の中から、むずかしい文章をひっぱりだして、
「ここは、むずかしくてわかりませんが、どうやくしたらよいでしょうか。」
ともちかけて、いろいろな学者たちの力を、それとなくためしてみましたが、あまりすぐれた人はみあたりませんでした。
ですから、諭吉が、やがて江戸一番のひょうばんをとるようになったのも、あたりまえのことといわなければなりません。諭吉はまことによい気持ちでした。てんぐにさえなっていました。ところが、諭吉のそのてんぐの鼻をへしおるような、たいへんなことがおこったのです。
嘉永六(一八五三)年の六月に、アメリカからペリーがやってきて、開国をせまったことは、まえにかいておきましたが──幕府は、一年のちに神奈川(いまの横浜)で、アメリカとのあいだに和親条約(おたがいになかよくしようというとりきめ)をむすびました。ところが、それだけでは、日本をほんとうに開国させたということにならないので、アメリカは、ぜひ、修好通商条約(商売のとりきめ)をむすぼうとかんがえるようになりました。そのため安政三(一八五六)年に、ハリスがアメリカの総領事として、伊豆の下田(静岡県)へやってきて、幕府とこうしょうしました。
けれども、日本の中では、外国人をおいはらえといううんどうがさかんになり、幕府としては、これをおさえる力がなく、なかなかはっきりしたたいどがきまりません。京都の朝廷(天皇がた)も、修好通商条約をむすぶことにははんたいでした。いっぽう、ハリスからのさいそくはつよくなりました。そこで、大老の井伊直弼は、自分だけの考えで、この条約にはんをおしてしまいました。
その日は、諭吉が江戸へでてくる四か月ほどまえの、安政五(一八五八)年六月十九日のことでした。
つづいて、オランダ・ロシア・イギリス・フランスの四か国とも条約をむすび、すでに日米和親条約で開港されていた下田・箱館(函館)にくわえて、ちかいしょうらい、神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)のみなとをひらくことがきめられました。
よく年には、横浜に外国人がやってきて、ぼうえきをすることがゆるされました。これまでは、小さな漁村だったのですが、きゅうにいきいきとした町になりました。このあたらしくひらけた横浜を、諭吉はぜひみておきたいとおもいました。
そこで諭吉は、ま夜中の十二時ごろに江戸をでて、夜の東海道をあるいて、夜明けごろに横浜につきました。さっそく海岸のほうへいってみました。けれども、みなととしてひらけたばかりなので、まだ外国人のすがたもすくなくて、きゅうごしらえのそまつな西洋館が、ぽつぽつたてられ、店がいくつかならんでいるだけでした。
それらの店を、諭吉はめずらしそうに、きょろきょろとみまわしながら、あるいているうちに、
「はてな。」
と、首をひねりました。どの店のかんばんをながめても、店さきにならんでいるしなものをみても、かいてあることばが、さっぱりよめないではありませんか。外国人どうしがはなしていることばも、諭吉のとくいなオランダ語とはちがっているようで、なにがなにやら、すこしもいみがわかりません。
さんざんあるきまわったすえ、ある一けんの店によって、オランダ語ではなしかけてみました。すると、店の主人はドイツ人でしたが、さいわい、オランダ語のわかる人でした。
諭吉の発音がわるいので、うまくつうじませんが、紙にかけばわかるというので、諭吉がかいてみせますと、
「おお、あなたは、オランダ語、なかなかうまいことあるね。でも、ここでは、まったく役にたたない。英語でなければだめ。みんな、英語しゃべっている。かんばんも、なにもかも英語ばかりね。」
と、店の主人からいわれました。
「そうか、英語でなければだめか。」
と、諭吉はかんがえこんでしまいました。
店の主人がすすめたオランダ語と英語との会話の本など、二、三さつを買うと、諭吉は、おもい足をひきずって、江戸へかえってきました。
ちょうど夜中の十二時ちかくでしたから、まるまる二十四時間、諭吉はあるいていたわけで、へとへとにつかれきっていました。けれども、それは、あるきつかれたからだけではありません。五、六年もかかって、いっしょうけんめい勉強したオランダ語が、なんの役にもたたないことを、じっさいにしって、がっかりさせられたからでした。
「なんというばかなことをしたものだ。」
と、諭吉はなきたいくらいでしたが、
「でも、くよくよしていてもはじまらぬ。よし、こんどは英語の勉強をするんだ。」
諭吉は、そのつぎの日から、英語の勉強にとりかかりました。
とはいっても、いったい、どこで、だれに英語をおそわったらいいのか、さっぱりけんとうがつきません。そのころの江戸には、英語をおしえてくれる先生など、一人もいませんでした。でも諭吉は、あきらめないで、あちこちたずねているうちに、耳よりな話をききました。それは、長崎でつうやくをしている森山多吉郎という人が、いま江戸にきて、幕府のご用をつとめているが、英語ができるといううわさをきいたのです。
諭吉はたいへんよろこんで、さっそく、森山をたずねていきました。森山は、諭吉のねっしんなたのみをきいてはくれましたが、幕府の仕事がいそがしくて、おしえてくれる時間がなかなかありません。
「それでは、まあ、せっかくならいたいということですから、毎日、朝はやくおいでください。役所へでかけるまえに、おしえてあげましょう。」
といってくれました。
そこで、諭吉は、朝はやくおきて、鉄砲洲から森山先生のすんでいる小石川まで、八キロメートルあまりを、てくてくとあるいてかよいはじめました。ところが、森山先生の家についてみると、
「きょうはおきゃくがきているから。」とか、
「もうすぐ役所へでかけなければならないから。」
といってことわられ、毎朝のように、むだ足をふみつづけました。それでも、諭吉は、こんきよくかよいました。森山先生はこれをみて、きのどくにおもい、
「どうも朝はだめだから、あすからは、ばんにきてみてください。」
といいました。
それで諭吉は、こんどは夕がたにかよいはじめましたが、森山先生は、あいかわらずいそがしくて、おしえてくれるひまがありません。およそ三か月ほどかよいましたが、とうとう、なにもおしえてもらえませんでした。おまけに、森山先生も、それほど英語ができるわけでもないことがわかりましたから、諭吉は、森山先生からおそわることをあきらめてしまいました。
それからは、小さい字引を手に入れて、自分一人で英語の勉強に力をそそぎました。けれども、おもうようにはすすみません。
(これは、一人ではだめだ。おなじようななやみをもっている友だちをみつけて、いっしょに勉強すれば、きっとすすむにちがいない。)
こうおもった諭吉は、友だちの神田孝平にあってはなしてみますと、
「じつは、わたしもやってみたのだが、さっぱりわからない。もう、こりごりだ。まあ、きみは、いつでも元気がいいから、おおいにやってみることだね。」
と、あいてになってくれません。
そこで、こんどは、村田蔵六(のちの大村益次郎)にすすめてみました。すると、
「なにも、そんなくろうをすることないじゃないか。やめたほうがよい。ひつような本なら、オランダ人がほんやくするから、それをよめばよいじゃないか。」
といわれてしまいました。
これではしかたがないので、三番めに原田敬策のところへいってはなしてみますと、
「そうか、それはおもしろい。ぜひやろう。二人ならば気がつよい。どんなことがあっても、やりとげようじゃないか。」
と、さんせいしてくれました。
こうして、なかまをみつけることのできた諭吉は、それからというものは、すこしでも英語をしっている人があれば、すぐにたずねていって、おしえてもらうといったありさまでした。
だんだん勉強をしていくうちに、英語がオランダ語にかなりにていることがわかってきました。そうして、英語の力がめきめきとすすんでいきました。
「このたび、アメリカへいかれるそうですが、わたしをぜひつれていってください。」
と、諭吉はつてをもとめて、はじめてあった幕府の軍艦奉行木村摂津守喜毅に、しんけんにたのみこんでいました。それは、安政六(一八五九)年の冬のある日のことでした。うん、うんと諭吉のことばをきいていた木村は、
「よろしい。それほどのぞまれるのなら、つれていってあげよう。」
と、その場でしょうちしてくれました。
じつは、幕府は、まえにとりきめたやくそくにしたがって、条約書をとりかわすために、アメリカへ新見豊前守・村垣淡路守・小栗豊後守の三人を使節として、おくることになりました。この使節たちは、アメリカからむかえにきた船、ポーハタン号にのって太平洋をわたるわけですが、それといっしょに、幕府は、日本の軍艦咸臨丸をアメリカへいかせることにしました。それにのりこむのは、軍艦奉行の木村摂津守喜毅です。
軍艦というからには、たいそう大きな船のようにきこえますが、わずか二百五十トンで、みなとの出はいりだけにじょうきをたき、あとはただ、風をたよりにすすんでいかなければならない、ちっぽけな船でした。
乗組員は艦長の勝麟太郎(海舟)ら九十六人、ほかに日本の近海を測量にきて、なんぱしたアメリカの海軍士官ブルック大尉ら十人がのりました。
咸臨丸は、万延元(一八六〇)年一月十九日、使節たちをのせた船よりも一足さきに浦賀を船出しました。
冬のことですから、北風がつよく、くる日もくる日も、あらしにおそわれました。船は木の葉のようにゆれ、たかい波はかんぱんにおどりあがり、うっかりしていると、人間もころがされるしまつで、みんな青い顔をしていました。けれども、日本人が自分たちの軍艦で、はじめて太平洋をわたるのだというほこりがあるので、みんな力をあわせて、あらしとたたかいました。こうして、日本暦で二月二十六日に、ぶじにサンフランシスコにつきました。
サンフランシスコの人々は、たいへんなかんげいぶりをみせました。ちょんまげに、はおりはかまをつけ、こしに刀をさした日本人のかっこうが、ものめずらしかったせいもありましょうが、ちっぽけな船で太平洋のあら波とたたかってきたということに、よりおおく感動したのにちがいありません。馬車にのせて、りっぱなホテルにあんないし、町のおもだった人々が、あとからあとからとおしかけて、下にもおかないもてなしぶりでした。あらしにもまれてこわれた咸臨丸も、ただでなおしてくれました。
諭吉は、西洋の本をたくさんよんでいたので、だいたいのようすはしっていたのですが、じっさいに目でみるのははじめてです。そうして、百聞は一見にしかず、ということわざのとおりだと、つくづくかんじました。
日本ではとても高価なじゅうたんが、部屋いっぱいにしきつめてあって、アメリカ人がその上をくつのまま、へいきであるいているのにもおどろきましたが、どの家にもガス灯がついていて、夜も昼のようにあかるいのを、うらやましくおもいました。また、いろいろのあつまりで、アメリカ人が、男と女と手をくんでダンスをやるのをみて、びっくりしました。
諭吉は、電信や、めっき工場、さとうの製造所などもみてまわりましたが、みな本でよんでいることばかりなので、そのしくみにはさほどおどろきませんでした。
わからないのは、政治や社会のしくみでした。ある日、諭吉はたずねてみました。
「ワシントンの子孫のかたは、いまどうしていますか。」
「さあ、どうしていますかねえ。ワシントンにはたしか、むすめがいたはずですから、だれかのおくさんになってるんでしょうね。」
このへんじには、おどろいてしまいました。
アメリカの初代大統領のジョージ=ワシントンといえば、日本では鎌倉幕府をひらいた源頼朝か、江戸幕府をひらいた徳川家康とおなじようなものです。徳川家のものがずっと将軍をついでいる日本とくらべて、なんというちがいでしょう。
もちろん、諭吉はアメリカが共和国で、大統領が四年ごとの選挙でかわることはしっていました。が、じっさいにアメリカ人からきいて、なんともふしぎな気がしました。
諭吉は、いっしょにいった中浜万次郎とはなしあって、ウェブスターの辞書を一さつずつ買いました。これが日本にウェブスターの辞書がはいったはじめです。
中浜万次郎は、ジョン=マンともいい、土佐(高知県)のりょうしでした。あらしにあってひょうりゅうしているところを、アメリカの捕鯨船にすくわれ、アメリカで勉強して運よく日本にかえり、幕府につかえ、つうやくとしてのりくんでいたのです。
すこしおくれて、サンフランシスコについた条約とりかわしの使節たちが、ワシントンへいくのとはんたいに、諭吉たち咸臨丸の一行は、日本へひきかえすことになり、五十日あまりをすごしたサンフランシスコをあとにして、とちゅうハワイによってから、日本へもどりました。なつかしい日本にかえりついたのは、もう木々のわか芽が、みどりの葉にかわる五月のはじめのことでした。
諭吉がいなかったわずかのあいだに、日本のようすはとてもかわっていました。京都の朝廷と江戸幕府とのあらそいがはげしくなり、国をひらくことにさんせいの人と、外国人をおいはらえという人たちのあいだには、いまにもたたかいがおこりそうな、ふあんな空気がただよっていました。そうして、この年の三月三日には、桜田門外で、水戸の浪士(主人をもたないさむらい)が、幕府が開国したことをおこって、そのせきにん者である大老の井伊直弼をおそうというじけんまでありました。
しかし、アメリカのりっぱな文明を自分の目でみてきた諭吉は、これを日本にとり入れなければならないとおもいました。
そこで、諭吉は、鉄砲洲の塾にもどると、もうオランダ語をおしえることはやめて、英語ばかりおしえることにしました。しかし、英語をおしえるといっても、諭吉は、字引をたよりに、一人で勉強したわけですから、英語を自由によみこなすことはできません。ですから、生徒におしえながら、自分もいっしょに勉強するのでした。
そうしているうちに、木村摂津守のせわで、諭吉は、幕府の外国方(いまの外務省のような役所)のほんやくがかりとしてつとめることになりました。それは、外国からさしだしてくる文書を、日本語になおす役でした。おかげで、世界の国々のようすがよくわかりますし、英語の勉強にも役だちました。
この年がくれて、文久元(一八六一)年になると、諭吉は、おなじ中津藩の上級士族、土岐太郎八の次女錦とけっこんしました。
ところが、その十二月に、諭吉はヨーロッパへいくことになりました。それは、幕府がこんどはヨーロッパ各国へ使節をおくることになり、諭吉はほんやくがかりとして、くわわることをめいぜられたからです。外国奉行の竹内下野守・松平石見守・京極能登守の三人が使節で、その役目は、まえにやくそくしていた江戸・大阪・兵庫(神戸)・新潟でとりひきをはじめるのを、すこしのばしたいという話しあいをするためでした。
使節の一行は、イギリスの軍艦オージン号にのりこみ、品川から出発しました。一行は四十人たらずでしたが、外国では、たべものが不自由だろうというので、白米を何日ぶんも船につみこんだり、宿がくらくてはこまるとおもい、ろうかにつける金あんどんや、ちょうちん・ろうそくまでそろえてもっていきました。まるで、大名が東海道をとおって、宿屋にとまるときとおなじような用意をしたわけでした。
ところが、パリについてみると、まったくむだなじゅんびをしたことに気がつきました。あんないされたのは、ホテル=デ=ローブルという、五かいだての、お城のように大きいホテルでした。部屋が六百、はたらいている人が五百人もおり、おきゃくも千人ぐらいはとまれるほどの広さでした。部屋には、冬だというのに、あたたかな空気がほかほかとここちよくながれ、部屋にもろうかにも、ガス灯がいっぱいついていて、夜もまるで昼のようにあかるいのです。それに、すばらしいごちそうがでました。
ですから、せっかく用意してきた金あんどんや、ちょうちんなどは、はずかしくてだせません。また、たくさんの白米も、すっかりじゃまものになってしまいました。そこで、せわがかりの下役の男に、ただでもらってもらうというありさまでした。
シガー(たばこ)とシュガー(さとう)をまちがえて、たばこを買いにやったら、さとうを買ってきたというような、わらい話のようなしくじりもありましたが、もっとけっさくもうまれました。
ある夜、諭吉がホテルのろうかをあるいていくと、使節のけらいが、ろうかでしゃちこばって、ぼんぼりをもって番をしているではありませんか。なにごとかとおもってよくみると、使節の一人が、大便をしに便所にいったおともでした。便所の二つもあるドアはみなあけはなされ、そのおくでは、いまや一人の使節が、日本流に用をたしているのが、まる見えです。ろうかは、外国の男女がいききしているのですから、はずかしいったらありません。
びっくりした諭吉は、そのおもてにたちふさがって、ものもいわずにドアをしめ、それから、けらいにわけをはなしてやりました。
こうしたしくじりをやりながら、使節の一行は、フランス・イギリス・オランダ・ドイツ・ロシアの国々をたずねて、やく一年間、ヨーロッパの旅をつづけました。イギリスでは、議会があって、政党というものが、おたがいに政治のやりかたや、意見のうえであらそい、せんきょによって勝ったほうの政党が国の政治をやるしくみになっているときかされましたが、諭吉には、よくのみこめませんでした。
しかし、こんどの旅行ではじめて鉄道にのって、そのべんりなことがわかり、すべての点で、西洋がすすんでいることをじっさいにしったので、諭吉は、政治のやりかたについても、きょうみをもちました。
ロシアでは、医者が病人のしゅじゅつをするところをみせてくれました。諭吉は、だいたんな人間であるくせに、子どものときから、血をみるのがだいきらいだったものですから、医者がメスを入れて、ぱっと血がとびだすのをみると気持ちがわるくなり、気がとおくなってしまいました。いっしょにいったものが、諭吉を外につれだし水をのませると、やっと正気にかえりました。
ところが、使節のつとめは、うまくいきませんでした。話しあいやかけひきが、へただったせいもありましょうが、そのころの日本の国内では、外国人をおいはらえといううんどうがさかんで、外国人をただむやみにきったりきずつけたりするじけんが、いくつかおこったからです。
そのため、はじめフランスへいったときには、ひじょうによろこんでむかえられたのに、各国をまわって、ふたたびフランスへもどったときには、まるで、にくいかたきにでもあったように、つめたいあつかいをうけなければなりませんでした。
それは、ちょうどこのとき、日本で生麦じけんがおこったという知らせが、フランスへつたえられたからでした。
薩摩(いまの鹿児島県)のとのさまの行列が、江戸をたって国へかえることになり、東海道の生麦村(いまは横浜市内)をとおっていたとき、横浜にきていたイギリス人がうまにのってやってきて、ばったりぶつかったのです。
そのころ、大名行列といえば、道ばたの家は雨戸をおろし、とおりかかったものは道をよけて、とおくから土の上にすわって、とのさまののったかごをおがまなければならないほどでした。そんなことをイギリス人はしりませんから、行列をよこぎろうとしたのです。それを、ぶれいものというので、きりころしてしまいました。
これにたいして、イギリスは幕府にこうぎをしましたが、フランスも、このような日本人のやりかたをふんがいしたからです。
諭吉は、このヨーロッパ旅行で、日本は国をひらいて、西洋の文明をとり入れなければならないという考えをつよめました。そこで、役所からうけとったお金の大ぶぶんで、原書をたくさん買ってかえってきました。
けれども、日本ではあべこべに、外国人をおいはらえといううんどうがさかんになり、諭吉のように、外国の本をよみ、ヨーロッパがえりの人間だといえば、いつ、なにをされるかわからない、ぶっそうな世の中になっていました。こういううごきは、まえまえからあったのですから、諭吉は、べつにこわいともおもっていなかったのですが、友だちのいく人かが、じっさいにあぶないめにたびたびあっているので、
(これは気をつけなければいけない。)
とかんがえなおしました。
そうしたある日、本をよみふけっている諭吉の部屋に、女中があわててはいってきました。
「みょうなおきゃくさまがいらっしゃいました。」
「どんな人かね。」
「大きなかたで、目はかた目で、ながい刀をさしています。」
「そりゃ、ぶっそうな人のようだが、名はおたずねしたか。」
「はい、おききしましたが、お目にかかればわかるからとおっしゃって……。」
どうも、うすきみがわるいとおもったので、諭吉は、しょうじのすきまから、そっとげんかんのほうをのぞいてみました。すると、そこには、緒方先生のところでいっしょに勉強していたことのある原田水山という友だちがたっているではありませんか。ほっとした諭吉は、げんかんへでていって、おもわず、大きな声で、
「このばかやろう。なぜ、名をいわなかったんだ。こわい思いをさせやがって、ひどいやつだ。」
とどなりつけました。
そのあとで、二人は大わらいをしましたが、西洋の学問をしていた人々は、いつも、こんな思いをくりかえしていたのです。まことに、あぶない世の中でした。それとどうじに、日本の国も、ひじょうにあぶないせとぎわにたたされていました。
外国人をおいはらえという人々は、ちょっとしたことがあると、すぐ外国人をきりころすようならんぼうをしました。生麦じけんもその一つで、これは尾をひきました。イギリスは、つよい艦隊をおくって、幕府にたいしてへんじをもとめ、フランスもいっしょになって、おそろしいたいどで、幕府をせめたてました。
イギリスからの文書を、諭吉はほんやくさせられましたが、イギリスがどんなにつよい決心をもっているかがわかり、どうなることかと心配になりました。いつ、戦争になるかもしれないありさまでした。
けれども、幕府が、イギリスのいいぶんをきき入れて、たくさんのお金をはらったので、さいわい戦争にはなりませんでした。でも、幕府のよわい外交をふんがいした地方の藩では、外国の軍艦にいくさをしかけて、けっきょく、さんざんなめにあわされるようなじけんが、ひきつづいておこりました。
このようなさわがしさの中で、緒方洪庵先生が、急病でなくなりました。それは、文久三(一八六三)年六月十日のことでした。緒方先生は幕府のおかかえ医者となって、大阪から江戸にきて、下谷にすんでいました。諭吉は、二、三日まえに先生をたずね、元気な先生と、いろいろ話をしてきたばかりでした。そのお通夜には、緒方先生の教えをうけたものが、たくさんあつまってきました。その中に、村田蔵六(のちの大村益次郎)もいましたので、諭吉が、
「おい、村田くん、いつ、長州(いまの山口県)からかえってきたんだ。下関では、たいへんなさわぎをおこしたようだな。じつにばかなことをしたもんだよ。あきれかえった話じゃないか。」
とはなしかけますと、村田は、目にかどをたてて、いいました。
「なんだと。外国の軍艦をほうげきしたのがわるいというのか。」
「そうとも。まるできちがいざたじゃないか。」
「き、きちがいとはなんだ。けしからんことをいうな。長州では、外国人をおっぱらうことに、藩のほうしんがきまっているんだ。あんな外国のやつらに、わがままをされてたまるものか。外国人はぜんぶおいはらうにかぎるよ。」
と、えらいけんまくです。これでは、まるで話になりません。
諭吉は、村田とはなすことをやめました。そうして、いっしょに西洋の学問をまなんだ村田でさえ、このように外国人をおいはらえというありさまですから、いよいよ、自分のことばやおこないに気をつけて、このあらしの時代を生きていかなければならないと、かくごをしました。
(国民のみんなが、世界のようすをよくしり、日本が、どんなに文明におくれているかがわかったならば、きっと、ゆうきをふるいおこして、あたらしく力づよい日本をつくろうと、どりょくするにちがいない。それには、国民が、もっとものしりにならなければならない。そうだ、国民を教育しなければだめだ。よし、わたしは、その教育者になろう。さいわい、こんどまた、アメリカへいってくることになった。いろいろと見ききしてこよう。)
諭吉は、アメリカに注文した軍艦を、ひきとりにいく幕府の使節の一行にくわわって、二どめのアメリカの旅にでかけていきました。ときに、慶応三(一八六七)年の正月のことでした。
諭吉は、そのまえに、大小の刀一本ずつをのこして、あとはぜんぶ売りはらってしまいました。
(これからの世の中は刀なんていらない。)
とかんがえたからです。
「先生っ、たいへんです。上野のほうがくで黒いけむりがたちのぼっています。火の手も、ちらちらともえあがりました。」
かけこんできた生徒の一人が、いきをはずませてしらせました。それまでしずかだった講堂が、きゅうにざわめいてきました。
ドカーン、ドドドーン。
はげしい大砲の音が、それにわをかけました。
「あっ、また、大砲だ。」
と、耳に手をやる生徒もあれば、本をおいて、いきなり、外へとびだそうとする生徒もありました。
このとき、諭吉は、生徒たちを講堂にあつめて、経済学の講義をしているところでしたが、
「しょくん、おちつきたまえ。ここまで、たまはとんできはせん。」
と、一こというと、あとはなにごともなかったように、講義をつづけていました。生徒たちも、それにつりこまれて、いつのまにか、外のさわぎも、大砲の音も気にならず、講義に耳をかたむけていました。そうして、やがて、時間となりました。
「さあ、やねの上にあがって、上野のけむりでもみたまえ。ペンの力は剣の力よりもつよいということを、よくかみしめてね。」
諭吉は、講義をおわって、にっこりわらい、講堂からでていきました。生徒たちは、
「わっ。」とばかり、かけだしました。
自分の部屋へもどった諭吉は、たいへんまんぞくそうでした。生徒たちが外の大さわぎの中で、ねっしんに講義をきいてくれたことが、うれしかったのです。それは、慶応四(一八六八)年の五月十五日のことでした。
この日、上野では、江戸へはいった官軍と彰義隊とのあいだに戦争があり、そこから八キロメートルばかりはなれた慶応義塾まで、大砲の音がきこえてきました。生徒たちは塾のやねの上にあがって、しきりに上野のほうをみているようすですが、諭吉は、慶応義塾をこの新銭座にうつしたことが、いかによかったかと、ひそかにかんがえるのでした。
諭吉は、そのまえの年の六月にアメリカからかえってきましたが、そのかえりの船の中で、幕府のわる口をいったというので、きんしん(きまったすまいから、ある期間、外出をきんじられること)をめいじられました。家の中ではなにをしてもよいが、役所へでてきてはならないというのです。諭吉にとっては、かえって生徒におしえるのにぐあいがよいくらいでした。
幕府は、その十月に、政権(政治をおこなうけんり)を朝廷にかえしました。源頼朝が、鎌倉に幕府をひらいてからは、日本の政治は武士がおさめていて、天皇はただのかざりにすぎなかったのですが、このときから、天皇を上にいただくあたらしい政府が政治をとることになりました。
けれども、諭吉は、あたらしい政府に不安をもっていました。なぜなら、朝廷は、まえから、国をひらくことにはんたいしていたからです。もしも、そのあたらしい政府が、外国をきらい、外国人をおいはらえといいだしたなら、どうなるでしょうか。外国と戦争をひきおこすようなことになり、よわくて小さい日本は、つよくて大きい外国に、うちまかされてしまうにちがいありません。
(そうなったら、あの小さい子どもたちがかわいそうだ。)
諭吉は、庭であそんでいるわが子の一太郎と捨次郎のすがたをみながら、かんがえこみました。
(この子どもたちには、戦争というかなしいめにあわせたくない。日本が、一日もはやく、平和なあかるい文明国になってくれるとよい。まあ、いまの大人たちはだめだが、わかい人々は、きっと、自分のこういう気持ちをわかってくれるにちがいない。よし、わたしは、わかい人たちのために、あたらしい教育の仕事をしよう。それには本をたくさんかいて、西洋のようすをしってもらわなければならない。)
このように決心した諭吉は、まえよりも塾をさかんにしようとかんがえました。
ところが、塾のある鉄砲洲の奥平家のやしきは、外国人のすむところになるというので、幕府にとりあげられることになりました。そこで、諭吉は、芝の新銭座に有馬というとのさまの土地を買って、塾をたてたのでした。
そのころ、幕府がたの勝海舟と、朝廷がたの西郷吉之助(隆盛)の話し合いによって、江戸城はぶじにあけわたされましたが、それにはんたいの人々がかなりあって、彰義隊と名のり、上野の山にたてこもったりしていました。ですから、いまにも戦争がはじまりそうで、江戸の市中はざわついていました。
こんなときに、ひろい土地を買い、大きな家をたてようとするのですから、人々はおどろいてしまいました。しかし、仕事のないときですから、大工たちはよろこんでやすいちんぎんではたらいてくれ、なかなかりっぱな塾ができあがりました。それに年号をとって、「慶応義塾」と名づけたのでした。
そうして、五月十五日、上野では、官軍と彰義隊のあいだに戦争がはじまり、彰義隊は、まけてちりぢりばらばらになり、寛永寺もやけてしまいました。しかし、慶応義塾では、しずかに講義がおこなわれたのでした。諭吉の教育の仕事は、こうして戦火をくぐりぬけて、しだいにくりひろげられていくことになりました。
彰義隊の負けいくさにおわったあと、幕府がわの人たちは、東北地方にのがれ、二本松や会津若松や、北海道箱館(函館)の五稜郭などで、官軍にてむかい、つぎつぎにやぶれていきました。幕府の海軍のせきにん者だった榎本武揚も、この五稜郭でとらえられたのでした。
このように世の中がさわがしかったので、幕府の学校はつぶれてしまっていましたし、あたらしい政府は、まだ学校をつくることまでには手がまわりませんでした。慶応義塾だけが、西洋のあたらしい学間をおしえていたわけです。そこで、生徒の数も、二百人、三百人をかぞえるようになりました。
そのころのある日のことでした。九州から、慶応義塾にはいりたいと、はるばるやってきた青年がありました。りっぱな身なりからかんがえて、さむらいの子であることはまちがいありません。青年は、ちょうどであった町人ふうの男に道をたずねました。
「これこれ、慶応義塾へは、どういけばよいのか。」
きかれた男は、じつにていねいにおしえてくれました。おしえられたとおりにいくと、いどがあって、そのそばで、一人のおやじがまきわりをしていました。
「これこれ、おやじ、慶応義塾はここか。そうして入り口はどこか。」
とたずねると、これまた、しんせつにおしえてくれました。
こうして、塾の中へはいってくると、さきほど、道をおしえてくれた町人ふうの男が、塾頭の小幡先生で、まきわりをしていたおやじが、なんと福沢先生ではありませんか。その青年は、あなでもあればはいりたいほど、ひやあせをかきました。
慶応義塾は、こんなふうに、民主的なふんいきをもっていました。そうして、明治四(一八七一)年に、慶応義塾は、新銭座から三田へうつりました。
諭吉は、三田に慶応義塾をうつしたとき、自分のすむ家もたてましたが、大工にたのんで、家のゆかをふつうよりたかくして、おし入れの中からゆか下へもぐってにげだせるようにしました。それは、そのころ、ふるい考えをもつ人が、西洋のあたらしい学問をしているゆうめいな人をころすことがはやっていたからです。慶応義塾をひらいた諭吉は、しだいにひょうばんのまとになってきたので、日ごろから、けいかいをしていたわけでした。
そのまえの年の明治三(一八七〇)年、諭吉は、いのちにかかわるような腸チフスにかかりました。まだすっかりなおりきらないからだで、東京へお母さんをよぶために、中津へでかけました。中津は、ふるさとでもあるし、しんるいやしっている人もおおいので、気をゆるしていました。ところが、この町でも、諭吉はねらわれていたのです。
諭吉のまたいとこに、増田宋太郎という青年がありました。十三、四さいばかり年が下で、家もちかく、朝ばん、にこにこしてやってくるので、諭吉は、
「宋さん、宋さん。」
とよんで、したしくつきあっていました。この宋さんが、じつは、諭吉のようすをさぐるためにやってきていたのでした。
あるばんのこと、諭吉のところにしりあいのおきゃくがあって、お酒をのみながら、二人はさかんにはなしあっていました。そのとき、そっと庭にしのびこんで、このようすをうかがっている青年がありました。青年は、おきゃくがはやくかえっていって、諭吉がねるのをまっていたのですが、話はなかなかおわりそうになく、十二時がすぎ、一時がすぎても、おきゃくはかえりそうにもありません。
青年は、とうとうあきらめて、たちさっていきましたが、これこそ、諭吉のねこみをおそってころそうとたくらんでいた宋太郎だったのです。諭吉は、それをこのときにはしらなかったのですが、四、五年たってからきかされて、びっくりしました。自分の身のまわりに、いのちをねらうものがいたのでした。
そればかりではありません。家の中のかたづけをおわって、諭吉は、お母さんとめいとをつれて、東京へかえることになり、船にのるため、中津から四キロメートルほど西の鵜の島までいって、宿屋にとまりました。宿屋のわかい主人は、これをみると、使いのものをこっそりと中津へはしらせ、
「今夜こそ、福沢をころすのにもってこいの機会だ。」
としらせました。
ところが、この知らせをうけて、中津では、だれが諭吉をころしにいくかで、あらそいがおこり、ぎろんをしているうちに、夜があけてしまいました。これで諭吉は、ぶじに船にのり、いのちびろいをしたわけですが、神戸の宿屋についてみると、東京の塾頭の小幡から、手紙がきていました。
「きくところによりますと、ちかごろは大阪や京都もおだやかでなく、先生をつけねらっているものがあるそうですから、神戸についたら、なるべく人にしられないように気をつけて、すぐ東京へかえってきてください。」
諭吉は、お母さんに、京都や大阪などを、ゆっくり見物させて、よろこばせてあげようとおもっていただけに、がっかりしました。でも、お母さんに、ほんとうのことをはなしたら心配するので、きゅうな用事ができたことにして、見物をやめ、いそいで東京にかえりました。
諭吉がねらわれたのは、このときだけではありません。それから二年ほどたって、諭吉が関西にでかけたとき、宋太郎は大阪にきていて、ひそかに諭吉をころそうとするけいかくをたてていました。ところが、宋太郎は、ふるさとのお母さんがおもい病気になったので、きゅうに中津へかえらなければなりませんでした。そこで、なかまの朝吹英二に、この仕事をたのんでかえりました。
朝吹は、ちょうど諭吉がとまった、諭吉のいとこの医者の家で書生をしていました。ですから、諭吉は、大阪にいるあいだは、この朝吹を自分のおともにしていたのです。
(これはうまくいくぞ。)
と、朝吹は、すきをうかがって、あんさつしようとしていました。
たまたま、諭吉は、わかいころせわになった緒方先生の家によばれて、朝吹をつれていきました。先生はもうなくなられていたわけですが、先生のおくさまと、なつかしい思い出話をしているうちに、夜もふけて十時ごろになりました。おくさまのすすめで、諭吉はかごにのり、そのわきに朝吹がついていました。もう人どおりはなく、さびしい夜ふけの町に、かご屋の足音ばかりが音をたてていました。
(いまだ。)
と、朝吹は刀に手をかけて、すっと、かごにしのびよりました。そのとたんに、
ドドドド、ドンドン。
と、たいこがなりました。ふいの音に、朝吹はびっくりしてしまい、手をひっこめてしまいました。それは、ちかくのよせ(落語や講談などのかかる小屋)のたいこの音で、かえりの人がぞろぞろでてきたので、朝吹はもうどうすることもできませんでした。諭吉は、なにもしらず、家へかえることができました。
こんなことがあってから、朝吹は、諭吉の話をいろいろときいて、ときにはぎろんをしましたが、だんだん、この人はほんとうに日本のためをおもっている人だ、とかんがえるようになりました。そうして、自分のかんがえていたこと、やろうとしていたことが、まちがっているようにおもわれたので、諭吉にすっかりはなしてあやまり、慶応義塾にはいりました。
これをきいて、宋太郎は、
「朝吹はけしからんやつだ。」
と、はらをたてましたが、その宋太郎も、自分のわるかったことをさとって、諭吉にあやまり、やがて慶応義塾にはいってきました。
「自分のわるかったことに気がついて、あらためるというのは、りっぱなことだ。」
と、諭吉は、二人をほめました。
このように諭吉は、一どは自分をにくんで、ころそうとまでした人間でも、わるいとさとってあやまってくれば、すなおにゆるしてやり、勉強させたり、身のうえのこまかいめんどうもみてやったのでした。そうして宋太郎は、のちに西南の役で西郷隆盛の部下となり、城山で死んだのですが、朝吹は慶応義塾をさかんにするうえで、なくてはならぬ人になりました。
諭吉は、ただしくないこと、ひきょうなこと、いくじなし、男らしくないことは、だいきらいでした。ですから、そういうことをみたりきいたりすると、かんしゃく玉をばくはつさせて、じっとしていることができませんでした。仙台の洋学者大童信太夫をたすけだしたり、千葉の長沼村の人々のために、力をつくしたこともありますが、ここでは、その一つのれいとして、榎本武揚をすくった話をとりあげておきます。
榎本武揚が、北海道の五稜郭にたてこもって、あたらしい政府にてむかい、とらえられたことは、まえにかきましたが、そののち、武揚は東京におくられ、とりしらべをうけてから、ろうやに入れられていました。
ところが、武揚の家にはなんのたよりもなく、ゆくえさえはっきりしらされていませんでしたから、年のいったお母さんや、ねえさんやおくさんは、たいへん心配していました。
そこで、武揚の妹のおっとである江連という人から、諭吉のところへ手紙でといあわせてきました。江連は幕府の外国奉行をしていたので、諭吉とはしりあったなかでした。江連は当時、榎本の家族といっしょに静岡にすんでいたのですが、手紙には、つぎのようにかいてありました。
「榎本はどうしているのでしょうか。江戸にきているといううわさは風のたよりにきいたのですが、それもたしかめることができません。母やきょうだいが心配していますので、江戸のしんるいにといあわせましたが、だれも、自分が政府ににらまれるのをおそれてか、ただの一どもへんじをくれません。あなたにきいたら、なにかようすがわかるだろうと、かんがえて、お手紙をさしあげるわけです。ごぞんじのことがあったら、どうぞおしらせください。」
よみおわった諭吉は、きのどくだな、とおもいました。ことに、年とったお母さんがかわいそうでなりませんでした。
もともと、諭吉は、榎本武揚という人間をしってはいましたが、ふかいつきあいをしたことはありません。ですから、武揚がろうやに入れられているといううわさはきいたことがありますが、べつに、それいじょうは気にもとめていなかったのです。しかし、江連の手紙をみて、しんるいのものたちが、政府ににらまれるのをおそれて、へんじをよこさないということをしって、そのひきょうなたいどにふんがいしました。
(なんというはくじょうな、ひれつなやつらだ。幕府の人間は、みな、これだからいけない。よし、おれが一人でひきうけてやる。)
こうおもいたった諭吉は、すぐに、あちらこちらに手をまわしてしらべました。さいわい、武揚はまだころされず、ろうやにとらわれの身となっていました。
「ころされるかどうか、そこのところはどうもわかりませんが、とにかく、ただいまのところは、病気もせず、元気でいます。」
としらせてやりました。すると、江連から、
「母と姉が、東京へいきたいといいますが、いってもよいでしょうか。」
といってきました。
「わたしは、政府からにらまれてもかまわないから、どうぞ、東京へでていらっしゃい。」
諭吉が、こうへんじをかいたので、二人はよろこびいさんで、諭吉のところにやってきました。そうして、武揚のようすをたずねたり、ひつようなものをさし入れたりしているうちに、武揚のお母さんは、一どでいいから、むすこにあいたいといいだしました。
諭吉は、なんとかして、あわせてやりたいとおもいましたが、どうしたら、あわせられるのか、それがわかりません。あれやこれやとかんがえたすえ、武揚のお母さんにあいがん書というものをかいてださせることをおもいつきました。その文章は、お母さんがかいたもののようにして、諭吉がかいてやりました。
「せがれの釜次郎(武揚のこと)が、朝廷のお心にそむきまして、つみをおかしたことは、まことにおそれおおいことでございますが、釜次郎はひじょうな親思いもので、父が病気のときはよくかんびょうしてくれました。この親思いものが、あんなに大きなつみをおかしましたのは、あくまのしわざでございましょうか、いまさらなげきかなしんでも、もはや、とりかえしのつくことではございません。死刑になりましても、けっしておうらみはいたしません。けれども、わたくしのいのちも、もうながくはございません。できることなら、せがれの身がわりにしていただきたいところですが、せめて、一ど、あわせてはいただけないでしょうか。」
こんなことを、こまごまとかいて、それをねえさんが清書をし、お母さんが、つえをついて、とぼとぼと役所まであるいていってさしだしました。これをよんだ役人は、たいへん心をうごかされて、すぐに面会をゆるしてくれました。
さあ、そうなると、諭吉は、なんとかして武揚のいのちをたすけてやりたいとおもいました。すると、たいへんつごうのよいことがおこりました。
ある日、政府の役人が、オランダ語のノートをもってきて、ぜひ、日本語にほんやくしてほしいとたのみました。諭吉は、それをめくってよんでいくうちに、
「これは、しめたぞ。」
とよろこびました。このノートは、武揚が、オランダへ学問をしにいったとき、勉強した航海術の講義をうつしたものでした。武揚は五稜郭にたてこもったときにも、これをだいじにもっていましたが、いよいよこうさんしたとき、
「国家のために役だたせてください。」
という手紙をそえて、官軍の参謀黒田清隆におくったのでした。諭吉は、そのノートだとわかりましたので、これをうまくつかって、武揚をたすけようとおもいついたのです。
そこで、諭吉は、はじめのほうだけすこしほんやくして、
「これは、航海になくてはならぬりっぱなものです。しかし、ざんねんなことに、これは講義をきいてかいたものですから、その本人でないと、わからないところがあります。本人はだれだかしりませんが、これがぜんぶほんやくできたら、わが国にとってたいへん役にたつものとおもわれます。」
諭吉は、その本人が武揚であることを、ちゃんとしってはいましたが、わざとしらないふりをして、そのノートを政府にかえしました。そうすれば、武揚のいのちがたすかるかもしれないとかんがえたからです。
それとどうじに諭吉は、黒田清隆とはしりあったなかでしたから、
「どうでしょうか。榎本という男は、たいへんなさわぎをやったのだから、死刑になっても、しかたがないのだけれども、一どいのちをとれば、あとからどうすることもできない。人間のいのちというものは、なによりもたいせつなものですから、いのちだけはたすけてやったほうが、よいのじゃないですか。」
ともちかけました。
「わしも、榎本という男のえらいところはしっている。だが、ろうやに入れられて、生きながらえている気持ちが気にくわない。どうして、いさぎよく死なぬのだろうか。」
「とんでもない。武揚が死んでしまえば、それっきりです。しかし、あれほどの人間を生かしておけば、日本の国のために、どれほど役にたつかしれません。」
「なるほど、きみのいうことも、一つのりくつだな。」
黒田は、諭吉の話に心をうごかされ、武揚をたすけるために、力になってくれることをやくそくしてくれました。
こうして、明治五(一八七二)年、武揚は、ゆるされてろうやからでてきました。けれども、そのお母さんは、病気ですでになくなっていました。武揚は、その後、公使や大臣になって、日本の国に役だつ人になりましたが、その武揚をたすけだしたのは、諭吉その人でした。
諭吉は、慶応義塾であたらしい教育をし、「文部省は竹橋にあり、文部大臣は三田にいる。」と、せけんでいわれたほどですが、それとどうじに、出版に力を入れました。本をだして、一人でもおおくの人に、自分の考えをわかってもらい、西洋のすすんだ文明をとり入れてもらいたいと、いっしょうけんめいにげんこうをかきました。そうして出版社にまかせておいたのでは、そのいいなりのお礼しかもらえないことがわかりましたので、自分で出版社をつくりました。
その出版社は慶応義塾のしき地の中にたてて、主任には、いつか大阪で諭吉をねらった朝吹英二をあて、職工をたくさんやとい入れ、製本所もつくりました。諭吉のかいた本ばかりでなく、すぐれたものはどんどん出版しました。
諭吉が本をかくのは、日本人の考えかたをあたらしくするのがもくてきでしたから、できるだけやさしい文章をかくようにどりょくしました。そうしてできあがった文章は、ばあやによんできかせて、わかるかどうかをたしかめてから、はっぴょうするというやりかたでした。
諭吉のかいた本はたくさんありますが、その中でゆうめいなのは、「西洋事情」「世界国尽」「学問のすすめ」などです。これらの本は、どれもやさしくていねいに、だれにでもわかるようにかかれていたので、ひっぱりだこで、人々によまれました。
ことに大きなえいきょうをあたえたのは、
「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらずといえり……。」
ということばではじまる「学問のすすめ」でした。
この本で、諭吉は、人間はだれもがびょうどうでなければならないことを、はっきりとかきました。地位とか家がらとか、お金のあるなしで、さべつがつけられてはならないというのです。そうして、かりに、人間としてとうといとか、いやしいとかのくべつがあるとするならば、それは学問をしたか、しないかのちがいであるから、だれでも学問をするようにどりょくしようではないか、というのでした。
その学問というのは、ただむずかしい文字をおぼえたり、わかりにくいふるくさい文章をよんだり、和歌をよんだり、詩をつくったりするようなことではなく、「人間ふつう日用にちかき実学」だといいました。そうでない学問は、なぐさみの学問にすぎないというわけでした。
近代的な考えかたを、そのものずばりにはっきりいったので、ふるい考えかたの人々は、まっかになっておこりました。しかし、それらの人々の中にも、これをよんでいくうちに、諭吉のかたよらない考えかたや、ただしい意見に感心してくるものもでてきました。
あたらしい政府も、いままでの外国ぎらいをやめて、諭吉の「西洋事情」をさんこうにして、アメリカやヨーロッパの文明をとり入れて、あたらしい政治をおこなうようになりました。
明治四(一八七一)年には、いままでの藩をやめて、あたらしく県をおくことになりました。とのさまも、政府の役人とおなじになったわけです。そうして、諭吉にたいしては、役人になって、政府の仕事をやってもらいたいと、しきりにたのんできました。諭吉は、病気といって、ことわりつづけました。
神田孝平・柳川春三は、諭吉とおなじ洋学者でしたが、政府からたのまれて、役人になっていました。その神田孝平が、ある日、諭吉をたずねてきて、
「どうだ、福沢、もう一どかんがえなおして役人になってくれないか。そうすれば、ぼくと柳川は、とてもたすかるんだ。幕府とちがって、すぐれたものはどんどん出世もできるし、政府の身分のたかい人も、きみにぜひきてほしいといっているのだ。」
と、ねっしんにすすめました。
「いや、わたしはごめんだね。役人にはなりたくないし、役人で出世したいなど、一どもかんがえたことはない。わたしは平民、ただの国民でいいのだ。」
と、諭吉は、きっぱりとこたえました。
「どうして、きみは役人をきらうのかね。」
「そうだね。まず第一に気にいらないのは、役人がからいばりをするからだ。
第二に、きみのまえではいいにくいことだが、役人ぜんたいが下品なことだ。
第三には、幕府にちゅうぎそうな顔をしていたものが、幕府がつぶれると、すぐさまあたらしい政府のほうへついて、すこしでもよい地位をえようと血まなこになっていることだ。そうして地位があがると、いばりちらす。そこのところが気にくわない。
第四には、国民だ。士族はもちろん、ひゃくしょうや町人の子どもでも、すこしばかり文字がわかるやつは、みんな役人になりたがっている。役人になれぬまでも、政府にちかづいていって、なにか金もうけをしようとたくらんでいる。そうして、せっかくあたらしい世の中になったのに、国民は役人にへいこらしている。しっかりとひとりだちをして、自分をたっとぶという精神がない。これでは、日本はひらけない。
わたしは、役人にならないで、ほんとうに自由で、ほんとうのひとりだちの生活とは、こういうものだと、せけんの人々に、ひろくみせてやりたいとおもうのだ。」
「いやに、役人をやっつけるじゃないか。まるで、ぼくに役人をやめさせようとしているみたいだ。」
「そんなことはない。きみは、それでいいんだ。きみの考えどおり役人になったんだからね。自分の考えどおりにものごとをおこなうのが、ほんとうに男らしい人間なんだ。わたしは、役人がきらいだから、役人にはならない。きみが役人になったのを、わたしがさんせいするように、きみは、わたしが役人にならないのをみとめてくれなくっちゃ、いけない。」
「なるほど、きみのりくつにあっては、まけだ。」
神田は、あきらめて、わらいながらかえっていきました。
こういった諭吉ですから、ある人が、諭吉のてがらをたたえて、政府がひょうしょうしなければならないといいますと、諭吉は、
「とんでもない。わたしは、自分がすきだから、塾をひらいたり、本をかいたりしてきたわけだ。それをほめるとか、むくいるとかいうのは、おかしい。とうふ屋がとうふをつくり、車屋が車をひくのと、おなじことではないか。わたしをひょうしょうするというのなら、そのまえに、となりのとうふ屋からひょうしょうしてもらいたいものだね。」
と、いかにも平民らしい答えかたをしました。
諭吉は、このように役人にはならず、せけんのいっぱんの人々とともに生きながら、教育者として、また本をかいて、自由と民主主義の光をたかくかかげて、どうどうとすすんでいきました。西南の役もおわった明治十二(一八七九)年の七月には、国会論をかきあげて、慶応義塾の出身者がへんしゅうしている報知新聞に、社説として一週間ほど、毎日はっぴょうしました。
福沢諭吉の名まえはださないで、文章も諭吉がかいたのだと、わからないようにくふうしてのせました。これはたいへんなひょうばんになって、国会をひらかなければならないというぎろんが、ひじょうにたかまってきました。
そのため、政府も、明治十四(一八八一)年に、国会を明治二十三(一八九〇)年にいよいよひらくというやくそくを、しなければならなくなったほどでした。
諭吉は、さらに明治十五(一八八二)年に、「時事新報」という新聞を発行し、政治・教育・外交・軍事・婦人もんだいなどについて、論文をのせました。
「ああ、また、しょうじをやぶったな。なかなか元気があって、見こみがあるぞ。」
「まあ、元気があってよいなんておっしゃって。女の子ですから、もうすこし、おとなしくしてくれるといいんですが……。」
「いやいや、女の子だって、元気があるほうがいいよ。」
諭吉は、自分のむすめが、しょうじをやぶるのをながめながら、おくさんと、こんな話をかわしながら、よろこんでいました。ふつうのうちのお父さんだったら、子どもがしょうじをやぶったり、いたずらをしたりしたら、たいていは大きな声でしかるものですが、諭吉はちがっていました。
明治十六(一八八三)年、諭吉は五十さいになっていましたが、この年の夏、四男の大四郎が生まれたので、諭吉は四男五女、あわせて九人という、おおぜいの子だからにめぐまれました。その子どもたちを、わけへだてなく、かわいがったのはいうまでもありません。
子どもたちは自由でかっぱつであったほうがいい、と諭吉はかんがえていましたから、おくさんともよくはなしあったうえ、きるものはそまつにしても、えいようだけはじゅうぶんにとらせるように気をつけました。
ですから、家の中で、子どもがあばれまわっても、いっこうにしかりません。勉強よりも、からだをじょうぶにすることのほうがだいじだ、と諭吉はかんがえていたからです。そこで、子どもが、八、九さいになるまでは、おもうままにあばれさせて、からだをじょうぶにすることだけを、いちばんのもくひょうにしました。七、八さいになると、はじめて勉強をさせることにしましたが、もちろん、からだのことは、いつも気をつけました。したがって、福沢家では、
「きょうは、おとなしくよく勉強したね。」
などといって、ほめられることはありませんでした。それよりも、小さな子どもが、
「きょうは、遠足があって、とてもとおかったけれど、がんばってあるいて、先生にほめられました。」
とか、その上の子が、
「きょうは、たいそうがあって、走りきょうそうで一ばんになりました。」
とかいうと、
「それはえらかったね。では、ごほうびをあげよう。」
こういったちょうしで、勉強よりも、うんどうができたほうが、ほめられるのでした。
それから、家の中では、ひみつなことはいっさいないということにしていました。なんでも、ざっくばらんにはなしあうことにしていました。ですから、諭吉が子どものわるいところをとがめると、子どものほうも、諭吉のわるいところをいうというありさまで、ほんとうにあかるい家庭でした。
そのころ、しつけのきびしい家では、主人が外出するときは、家じゅうのものがげんかんにおくってでて、手をついておじぎをしたり、かえってきたときには、また、げんかんにでむかえるというのがならわしでしたが、諭吉は、けっして、そんなことはやらせませんでした。諭吉は外出するといっても、げんかんからでるとはきまっていません。台所からさっさとでていくことだってありました。かえるときも、そのとおりで、そのときの足のむいたほうからでていったり、はいったりしていました。
あるとき、出入りの商人がきて、いいました。
「先生、わたしのうちには、また女の子が生まれました。こんどこそ、男の子が生まれてほしいとおもっていましたので、がっかりしました。」
これをきいた諭吉は、
「女の子で、どうしてわるいのかね。じょうぶでさえあれば、いいじゃないか。せけんでは、男の子が生まれると、『たいそうめでたい。』といい、『女の子であってもじょうぶなら、まあまあめでたい。』などといっているが、わたしは、そんなつもりでいっているのではない。男の子と女の子のちがいがあろうわけがない。そこにかるいおもいはないはずだ。わたしは、九人の子がみんな女の子だって、すこしもざんねんとはおもわないね。ただ、男の子が四人、女の子が五人というふうに、半分ずつで、いいあんばいだと、おもうだけだ。女の子が生まれて、がっかりすることなんてないな。」
「先生のお話をおききしていましたら、なるほど、女の子でもわるくないという気がしてきました。じつは、家内が、女の子が生まれたというんで、わたしいじょうにがっかりしているところです。ありがとうございました。さっそく、家にかえって、家内に先生のお話をきかせてやって、元気をつけてやります。」
その商人は、いそいそとかえっていきました。
諭吉は、口さきでいうだけではなく、毎日の生活でも、ざいさんをわけるときにも、男の子と女の子をすこしもくべつせず、まったくおなじでした。それは、諭吉が、女性を見くだしたりはけっしてしなかったからにちがいありません。そこで諭吉は、おくさんをそんけいし、諭吉夫婦はひじょうになかよく、むつまじくくらしました。諭吉は一夫一婦をしゅちょうし、もちろん、自分でもそれを実行しました。
このように諭吉は、民主主義というものをよくりかいし、これを、せけんの人々にわかりやすい文章でといただけではなく、自分で実行したのでした。それを、すべてのことにわたって、つらぬきとおしていました。
諭吉は、くんしょうだの、しゃくい(きぞくのくらい)だのというものが、だいきらいでした。くんしょうをぶらさげていても、どうということはないとおもっていましたし、明治になって、やっと身分からかいほうされたのに、またまた、しゃくいをつくって、身分のくべつをつけるというのは、こっけいなことだとおもっていたからです。
明治三十一(一八九八)年に、諭吉は脳出血でたおれ、いのちがあぶないとつたえられたとき、政府は、諭吉に、しゃくいをさずけようとしました。その知らせがあったとき、家族をはじめ、慶応義塾の人々は、諭吉の考えをよくしっていましたので、そうだんのうえ、それをことわりました。
諭吉は、さいわい、よくなりましたが、この話をきいて、
「ああ、よくことわってくれた。」
と、心のそこからよろこびました。
こうして、明治三十四(一九〇一)年、諭吉は、六十八さいの正月をむかえました。それは、あたらしい世紀、二十世紀のはじめの年でした。
慶応義塾のわかい学生たちは、ふるい十九世紀をおくり、あたらしい二十世紀をむかえるために、一九〇〇年十二月三十一日、にぎやかな会をひらきました。そのうちに夜はあけて、一月一日、年始のあいさつにきた人々に、諭吉はいいました。
「いよいよ二十世紀だ。十九世紀の日本は、封建制度がつづき、これをなくするために、ずいぶん、ごたごたした世の中だった。けれども、日本はあたらしい世の中をむかえたのだ。ふるいことはみんなわすれさって、かくごをあらたにしてがんばろうではないか。」
諭吉の目はあかるくかがやき、希望にみちた顔は、とてもわかわかしくみえました。ですから、
「福沢先生は、元気になられた。」
と、だれもがあんしんをし、よろこんだのでした。
ところが、その一月もおわりにちかいころ、諭吉は、きゅうに病気でたおれました。脳出血が、ふたたびおこったのでした。そうして二月三日、とうとうその一生をおわりました。
おもえば、福沢諭吉こそ、民主主義の光をかかげた、明治の大きなともしびでありました。いや、明治だけではなく、大正、昭和とつづき、今日のわたくしたちにとっても、なお大きなともしびであるといわなければなりません。
底本:「福沢諭吉」講談社火の鳥伝記文庫、講談社
1981(昭和56)年11月19日第1刷発行
2009(平成21)年2月9日第51刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2011年11月28日作成
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