母犬
小川未明
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どこから、追われてきたのか、あまり大きくない雌犬がありました。全身の毛が黒く、顔だけが白くて、きつねかさるに似て、形は、かわいげがないというよりは、なんだか気味悪い気がしたのであります。だから子供たちは、この犬を見ると、石を拾って投げつけたり、なにもしないのに、追いかけたりしました。犬はますますおどおどとして、人の顔を見れば逃げるようになりました。
ペスやポチは、みんなからかわいがられているのに、なぜ、この犬だけ、みんなからきらわれるのだろうかと、敏ちゃんは、ふと、犬を見たときに考えたのでした。自分だって、このあわれな犬をいじめたことがあるのですが、考えると、わるいことをしたような気がしたのでした。
「こんどから、僕は、もう、あの犬をいじめないことにしよう。」と、敏ちゃんは、思いました。
ところが、偶然にも、ある日、敏ちゃんのうちのお勝手もとへ、その顔だけ白い犬がやってきてのぞきました。よほど、おなかがすいていたとみえて、なにかたべるものをさがしていることがわかりました。
「まあ、なんて、気味のわるい犬でしょう。」と、女中がいって、水をかけようとしたのを敏ちゃんは、やめさせました。そして、
「まっておいで!」と、犬に向かっていいながら、奥へ入って、昨夜、食べ残してあったパンを持ってきました。
パンは、もう堅くなっていましたが、このおなかのすいた犬にとっては、どんなにかおいしいごちそうであったでしょう。犬は、敏ちゃんの、しんせつにいってくれた言葉がわかったようにじっとして、待っていました。
「さあ。」と、いって、敏ちゃんはパンの一切れを犬に投げてやりました。
犬は、喜んで食べると思いのほか、それを口にくわえると、あわただしく、逃げていってしまいました。
「それごらんなさい、坊ちゃん、まあ、なんて、にくらしい犬でしょう?」と、女中は、あきれました。
「ほんとうに、やな犬だね。」と、敏ちゃんもあんな犬に、なにもやらなければよかった、ああいう犬だから、みんなに、いじめられてもしかたがないのだという考えが起こったのであります。
「もう、きたって、なんにもやるものか。」と、敏ちゃんはいいました。
ある日、敏ちゃんは、学校から帰りに、この犬が、やはりなにかくわえて、わきめもふらずに原っぱをかけて、あちらのすぎ林の中へゆくのを見ました。
「どこへゆくのだろうか。」と、敏ちゃんは、思いました。
このとき、林の中から、ワン、ワンという、犬のなき声がきこえてきました。敏ちゃんは、きっと犬どうしのけんかが起こったのだろうと思いましたから、すぐいってみる気になってかけ出しました。そして、林に近づくと、そっと中のようすをうかがいました。
すると、どうでしょう、そこには二匹の小犬がいて、いま母犬のもってきてくれた、魚の骨を争いながら、小さな尾をぴちぴちとふって喜んでたべているのでした。
「あ、わかった! このあいだのパンも、自分がたべずに、小犬のところへ持っていったのだ。」と、敏ちゃんは知りました。
母犬は、自分がたべずに、子供のたべるのを見て、さも満足しているようでしたが、この間にも、たえず、林の外の方へ気をくばって、もしや、どこからか敵がおそってきはしないかと、注意を怠りませんでした。
敏ちゃんは、これを見て、母犬の子供に対するやさしい愛情は、人間のお母さんが、子供に対するのと、すこしも変わりのないのに、ひどく感心しました。
敏ちゃんは、この平和な犬たちをおどろかしてはならないと、そっと、その林からはなれました。
それから、敏ちゃんは、この黒犬を心から愛するようになりました。ほかの子供らが、この犬を見て石を投げようとすると、敏ちゃんはやめさせました。
「君、この犬は感心なんだよ。」と、自分の見たことを、話しました。これをきくと、ほかの子供たちも、
「りこうな、いい犬だね。」と、感心しました。
もう、子供たちは、この犬をいじめなくなりました。敏ちゃんの家の女中も敏ちゃんから話をきいて、感心して、その後、ペスやポチにやらなくても、魚の骨などを、この宿無しの、かわいそうな犬のくるまでとっておいてやりました。
「子供があって、どんなにおなかが、すくでしょう。」と、女中は、同情しました。
底本:「定本小川未明童話全集 10」講談社
1977(昭和52)年8月10日第1刷
1983(昭和58)年1月19日第6刷
※表題は底本では、「母犬」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井裕二
2015年5月24日作成
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