隣村の子
小川未明
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良吉は、重い荷物を自転車のうしろにつけて走ってきました。
その日は、あつい、あつい日でした。そこは大きなビルディングが、立ち並んでいて、自動車や、トラックや、また自転車が往来して、休むようなところもなかったのです。
そのうち、濠端へ出ると、車の数も少なくなり、柳の葉が風になびいていました。そしてガードの下に、さしかかると、冷たい風が吹いてきて、躰がひやりとしました。
「ここで、すこし休んでゆこう。」と、良吉は、自転車を止めて、さながら、坑のあちらの、ちがった、世界からでも吹いてくるような、風を胸に入れていました。
暑い日に、働いている人々が、たまたま、こんな涼しいところを見いだしたときの喜びというものは、どんなでしょう。それは、一通りではありません。
「ここは、いいところだな。」と、良吉は、思いました。良吉のほかにも、日ごとにここで休んで、いった人があったとみえて、タバコの空き箱や、破れた麦わら帽子などが、捨ててありました。なんの気なしに、ガードの壁を見ると、白いチョークで、落書きがしてあったので、それを見るうちに、子供らしい字で書かれた、……県……村……という文字が目に入りました。
「おお、これは私の生まれた、隣村の名だ。」と、良吉は、その文字に吸いつけられたように近づきました。そして、もっとなにか書いてなかろうかと、さがしたけれど、それしか文字が書いてありませんでした。
「だれが、書いたのだろうな。」と、彼は、さびしさのうちにも、なつかしさを感じたのであります。
彼は、また、思いました。
「きっと、自分のような、村から出た子供だろう。そして、ここを通るときに、ふと故郷のことを思い出したのだろう。」
なぜなら、良吉の村も、この隣の村も、青い青い、海に面した村であって、夏になると、涼しい風が、このガードを通ってくる風のように、冷たく、かなたの、沖から吹いてきたのだから。
良吉は、しばらく、ぼんやりとして、これを書いた子供の姿を想像していましたが、急に下を向いて、あたりをさがしました。すると半分土にうずもれて、チョークのかけらが、壁のきわに落ちていました。
彼は、それを拾うと、指さきで土を落としました。そして、壁に書いてある、落書きに並べて良吉は、自分の村の名を書き、そのかたわらにM生としたのであります。良吉の姓は、村山であったからです。
自分たちの村が並んでいるように、このガードの壁に、村の名が並べて書かれたのでも、良吉にとっては、このうえなく、なつかしいのでした。彼は、それを見て、にっこりと笑いました。
それから、また自転車に乗って、道を急いだのでありました。
彼は、小学校を卒業すると、すぐ都会の呉服屋へ奉公に出されました。それから、もう何年たったでしょう。彼は、勉強して、末にはいい商人になろうと思っているのでした。
彼は、都会へ出るとき、まだ小さかったから、汽車の中では、故郷が恋しくて泣きつづけました。そのことを忘れません。また、奉公をしてからも、夢の中で、お母さんと話をして、目がさめてから、しくしくと泣いたこともありました。
そんなことを思うと、隣村から、この都会にきている、顔を知らない少年もやはり自分と同じように、はじめは、泣いたであろう、また、さびしかったであろう。そして、自分が、片時も故郷のことを忘れぬように、その少年も、自分の村を忘れないであろうと思うと、その顔を見ない少年が、なんとなく、慕わしくなりました。
良吉は「遠くからきて、働いているのは、けっして、自分ばかりでない。」と、考えると、また、勇気づけられもしました。
それから、半月ばかりたってから、良吉は、ふたたび用たしのために、ガードの下を通りかかりました。そのとき、彼は、なんで落書きのことを思い出さずにいましょう。
「あの落書きは、まだ書いてあるかな。あれから、もし隣村の子が見たら、なにかまた書いたかもしれない。」
彼は、一種のはかない希望と、なつかしみとをもって、自転車を止めてみました。自分の村の名も、隣村の名も、並んであのときのままになっていたけれど、しかし、それ以外になにも新しく書かれてはいませんでした。
「隣村の子は、その後ここを通らなかったのだろう?」と、良吉は、思いました。そしてどうか、その子が無事であるようにと、良吉は、心のうちで祈ったのでした。
底本:「定本小川未明童話全集 10」講談社
1977(昭和52)年8月10日第1刷発行
1983(昭和58)年1月19日第6刷発行
※表題は底本では、「隣村の子」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:仙酔ゑびす
2012年5月6日作成
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