チロルの秋(一幕)
岸田國士



時  一九二〇年の晩秋


処  墺伊の国境に近きチロル・アルプスの小邑コルチナ。


アマノ

ステラ

エリザ


ホテル・パンシヨンの食堂。午後七時。

ストーブの火が燃えてゐる。

ステラ、喪服、ヴエールで眼を覆つてゐる。珈琲を飲みながら、書物の頁を繰る。

エリザ、珈琲注ぎを持ちたるまま、傍らに立つ。

ほかに誰もゐない。



エリザ  明日はあなたがおたち、明後日はアマノさん……。

さうすると……

あとは、此のホテルも空つぽ……

沈黙

ステラ  汽車の時間はわかつて。

エリザ  まだ伯父さんが帰つて来ませんの。

もう一日お延ばしになつたら……。

ステラ  だつて、もう荷物ごしらへをしてしまつたんですもの……(間)

それに……

雪でも降り出すと厄介だし……。

エリザ  大丈夫ですわ、まだ……

牧場のサフランが咲いてゐるうちは……(間)

でも……急に寒くなりましたわね。

ステラ  折角、いい落ち着き場所を見つけたと思つてゐたのに……。

エリザ  あなたのやうに、夏はどこ、冬はどこつて、自由に旅行がなされる方は、おしあはせですわ。

ステラ  あたしも、出来ることなら、一と処に落ちついて暮したいの……(間)

これでもう、一人ぽつちの旅を二年……

何処へ行つても、何か知ら気に入らないことがあつて、かうやつて方々を歩き廻つてゐるんだわ。

エリザ  アマノさんも、そんなことをおつしやつてましたわ……

あの方も、お国をお出になつてから、随分になるんですつてね──

寒いのは、かまはないから、ここに置いてくれつておつしやるんですけど、あの方お一人の為めに、このホテルを開けて置くわけにも行きませんし……。

ステラ  (書物に眼を落として)フロレンスへいらつしやるんですつて、あの方……?

エリザ  さあ……。

それもまだ、はつきりお決めになつたわけぢやないんでせう。

あなたが、シシリイへいらつしやるつていふお話をしたら……

ステラ  (笑ひながら、眼をあげて)なんて?


此の時、アマノ、手にサフランの花束を持ちて入り来る。


エリザ  御ゆつくりでしたわね。

アマノ  遅くなつて済みません。(ステラの方に花束を差し出し)

綺麗でせう。

ステラ  (花束を受け取り、香ひを嗅ぎながら)あたしに?

まあ。御親切ね、あなたは。

アマノ  (食卓に着き、エリザに)今日はなに……?

エリザ  (皿を運びながら)鮎ですの。そのあとが、羚羊かもしかと栗……。

アマノ  奥さんは、もうおすみですか。

ステラ  (書物から眼を離さずに)ええ、お先へ……。

ごゆつくり召上れ。

アマノ  (食事をしはじめる)うまい。

ステラ  どこへいらしつたの、今日は。

アマノ  (やや皮肉な微笑を泛べ)例のところ……。

ステラ  (努めて気軽に)お城……?

アマノ  よく御存じですね。

ステラ  別に不思議はないでせう……(間)

さういふことがお好きね、あなたは。

アマノ  どういふこと……?

ステラ  人に見られないやうに、人のすることを見たりなんか……。

アマノ  見られてるから世話はない。

それに、あそこは公園です……。

あなたも、見られてわるいやうなことはなさらない。

ステラ  よしあしに拘はらずよ。

あたし、あの山に映る夕陽の色が好きなの……。

アマノ  荘厳ですね、あの眺めは。

ステラ  ミスチツクなところがあるでせう。

祈りの美しさね……。

アマノ  一体、チロルの自然は──生活もさうだが──宗教的な美しさを有つてゐます……。

あなたはクリスチヤンでせう。

ステラ  あたし、無宗教……。

アマノ  無信仰ぢやないでせう。

ステラ  どう違ふの……結局。

アマノ  僕は、まだ、あなたがほんたうに何処の方だか知らないんですよ。

ステラ  宿帳を御覧になればわかるわ。

アマノ  宿帳は宿帳ですよ。

あなたは、アメリカ人ぢやない(相手を見据ゑる)……

ステラ  さう?(かう云つて、珈琲の最後の一口を飲み干す)

アマノ  僕は、自分が日本人であることに、それほど注意してゐない。それだけ、人が何処人だといふことにも、あんまり興味がないんです。

われわれは、それほど、かけ離れた生活はしてゐないと思ひます。

ステラ  それやさうね。(席を立ち、長椅子に投げかかる)それやさうだわ。

沈黙

アマノ  奥さん、たうとうお別れしなければなりませんね。

ステラ  (言葉を用意してゐたやうに)一生の御別れかも知れないわね。

エリザ  お二人とも、また春になつたら、ここへいらつしやるんでせう。

いつか、さうおつしやつたわ。

ステラ  (笑ひながら)あたしは、あなたにさう云つたのよ。

アマノ  僕はどうだつたかなあ……。

何れにしても、一生の別れ……さういふ気がしますね。

わるい気持ぢやないな……お互にさうなら……。

ステラ  (半ば微笑を以て)ほんと……。

アマノ  旅をする人間の心持ちは、変なものですね。

友情に対しては、恐ろしいほど敏感になる……

そのくせ、情熱の前には、可笑しいくらゐ臆病です。

さうお思ひになりませんか。

ステラ  さあ……情熱つて……。

アマノ  ええ……。

僕は今日、つくづくさう思ひました。

ステラ  (耳を澄まして)エリザさん、聞えない……窓……。

エリザ  (急いで、一方の窓に馳せ寄り、カーテンを細目にあけ)どこ……。

アマノ  (面白がつて)こつちだ。

エリザ  (もう一方の窓に行き)うそ……。

ステラ  (笑ひながら)やつぱり、こつちよ、そら……。

エリザ  (そつちへ行き、今度は思ひ切つて窓を開け)

ここよ、ルナアト……。

どうしたの。

え、伯父さん?

町へ行つたの……。

まだいいのよ。

あら……

ぢや、どこで……? 今すぐ? ぢき行くから待つてて。(窓を閉める)

ステラ  ここへ連れていらつしやいよ、一度……。

エリザ  (そわ〳〵しながら、アマノに)ゆつくり召上つていいわ。

アマノ  ゆつくり……? 不思議だなあ……。

ぢや、食ふものは、みんな、ここへ出しといて……

勝手に食ふから……。

エリザ  (次の皿と珈琲を運び)ほんとにいいこと……?

アマノ  伯父さんに云ひつけようかな。

エリザ  さうしたら、逃げ出すばかりだわ、あたし……(くるりと廻る)

ステラ  さうさう……。

早く行つておあげなさい。

ぢれつたがつてるわ、あなたの少尉さん……剣をがちやがちや云はせて……。

エリザ  (もぢ〳〵して)たまにはいいのよ。

ステラ  おや……今頃から。

エリザ  (髪に手をあてながら、戸口に近づき)伯父さんが帰つて来たら、もう寝てるつて云つて頂戴ね。

アマノ  何処で……?

エリザ  (走り去りながら)いやな方。

アマノ  此の夏、或る独逸の士官に聞いたんですがね……

戦争中、仏蘭西の田舎を占領してゐた先生たちの中隊が、いよいよ引上げるつていふ日、村ぢうの若い娘たちが、道ばたで、声を立てて泣いたつて云ひますからね。

ステラ  いやな話ね。

アマノ  さうか知ら……。

ステラ  それに……(何か云はうとして急に口を噤む)

アマノ  あなたは、人間の情熱といふやうなものを、わりに、甘く見ておいでのやうですね。

ステラ  わりに……ですか。

アマノ  さうでせう。

ステラ  あなたこそ、日本の方らしくないのね。

アマノ  どうしたと云ふんです。

ステラ  いいえ、何んでもないの……。

もつと、日本の話を聞かして下さらない。

アマノ  (笑つて答へない)

ステラ  ちつとも、お国の話をなさらないのね、あなたは。

アマノ  あなたは……?

ステラ  長崎つて、佳いとこでせう。

アマノ  そんなことを聞いて、どうなさるんです。

ステラ  どうもしないけれど……。

アマノ  それより、あなたは、ほんたうは何処の方です。

ステラ  さつき、なんておつしやつて?

アマノ  僕がなぜ、それを知りたがるかつていふと、あなたは、ことさらに隠しておいでになるからです。

僕はあなたが、墺太利人であるよりも、伊太利人であることを望んでやしませんよ。

ステラ  知つてますわ。(間)

それはどうだか、わかるもんですか。

ぢや、あてて御覧なさい。

アマノ  あてますから、一度、あなたの御眼を拝見……(起ち上つて、ストーブのそばに行く)

ステラ  どうぞ……いくらでも……。

アマノ  ヴエールをどけて……。

ステラ  いけません、それは……。

アマノ  それ御覧なさい……。

あなたも、そんなことが、お好きなんですね。

ステラ  駄目よ、そんなことおつしやつたつて……。

アマノ  (ステラに背を向けたまま)ヴエールを透して見るあなたの御眼は……物を言はない口のやうなものです。

あなたの眼の中には、きつと、僕が今迄知らなかつたものが、あるに違ひない。

ステラ  もの好きね、あなたも……。

アマノ  いけませんか……(間)

あなたは、よく泣いておいでですね。

沈黙

ステラ  ……。

アマノ  あなたの涙は、夢から夢を伝はる涙でせう。

ステラ  (溜息)あたしの夢……それは、どんな夢だか御存じ……。

アマノ  (振り向いて)あなたの夢ですか……。

それは、現実のすべてを包む霧のやうな夢です。

あなたが、旅をなさる……それも、あなたに取つては、一つの夢……

読書をなさる……それも夢……。

恋をなさる……それも一つの夢……。

ステラ  待つて頂戴……。

かうして、あなたとお話しをしてるのは……。

うそ……。

第一、あたしは生きてゐます。

アマノ  あなたは、あなたの夢を生きておいでになる。

ステラ  そんなら……一つの夢をね。

アマノ  思ひ出でせう……悲しい、華やかな……。

よくあるやつだ。

ステラ  うれしさうね。

アマノ  ちつとも……(真面目に)

僕が、やつぱり、さうなんです。

沈黙

ステラ  さうおつしやるだらうと思つてゐました。

アマノ  云はなくつてもよかつたんです。

ステラ  ぢや、何かもつと、ほかの話しをしませう。

アマノ  ほかの話し……それもいいでせう。(間)

あなたが、いつも読んでいらつしやる本……あれはなんです。

ステラ  これ……? (手に持ちたる本を見せようとして、慌てて後ろへ隠し)

なんでもいいぢやありませんか。

もう、あたしに、何んにも訊かないで頂戴、ね。

質問は、一切、受け附けないことよ。

アマノ  それぢや、お話しができない。(間)

今迄、かういふ機会がなかつたんです。

食事がすむと、あなたは、いつも人を避けて、読書と瞑想に耽つておいでになる。

此の食堂以外、僕は、あなたに近寄ることすら出来なかつたんです。(間)

今日は、最後の晩ぢやありませんか。

ステラ  最後の晩……

それも、空想の遊戯ね。

アマノ  さうです……

その空想の遊戯を、もつと面白くする方法はありませんか……二人で……。

お断りして置きますが……

あしたの朝、あなたの馬車があの峠を越えたら、僕は永久にあなたの夢から消えてしまふ男です。

ステラ  あなたは、真面目に、そんなことをおつしやるの。

アマノ  さういふものぢやないでせうか。

旅人同志の心は、約束に縛られない友情で結びつけられるものです。

また握れるかどうか、わからない、さう思ひながら握る手に、旅らしい自由な力が籠るんぢやないでせうか……(間)

このチロルの山奥で、お互に身の上話しさへしたことのない二人が……

二度と再び会はないといふ誓ひを立てた上で、

久しく別れてゐた恋人のやうな一夜を明かして見たら……

どんなに、面白いでせう。(間)

よう御座んすか……

あなたは、夢を見ておいでになる……

もう一人、夢を見てゐる男がゐる……

二人の夢が、重なり合ふ……

ただ、それだけ……(間)

夢で遇つた二人が、夢で恋をする。

どうです……

さういふ恋を、一度、して見たいとは思ひませんか。

ステラ  あたしは、一人で夢を見てゐる方がいいの。

アマノ  あなたはあなたで、好きな夢を御覧なさい。

僕は僕で、好きな夢を見ます。

ステラ  それで、どうするの。

アマノ  あなたが愛していらつしやる男が、僕だとします。

ステラ  あなたが愛しておいでになる女が、あたし……?

アマノ  僕とあなたとではない……

あなたの恋人と、あなた……

僕の恋人と、僕……

とが、今、ここにゐるわけです。

ステラ  (笑ひながら)それから……?

アマノ  それからは、云はなくつてもおわかりでせう。

ステラ  それぢや、飯事ままごとね……

お芝居ね……。

アマノ  真剣なままごとです。

真剣なお芝居です。

さ、

あなたは、僕を愛してゐる……。

ステラ  だつて……。

アマノ  さうして置くんです。

ステラ  あなたは、あたしを愛してるの?

アマノ  ええ……。

下手な経験よりは、合理的な想像の方がいいんですよ。

さ、かうして、

あなたの恋人が、あなたの足許に跪いてゐます(跪かない)

ステラ  (笑ふ)

アマノ  笑つちやいけません。

ステラ  薪をくべませう。

アマノ  (薪をストーブにくべながら)僕は、あなたの心臓に耳を当てて、微かな囁きを聞き漏すまいとしてゐます。

あなたの唇から漏れる吐息を……(ステラの傍に近づき)

胸一つぱい吸ひ込まうとしてゐます。

あなたは、それを感じておいでになる。それは、夢です。

さ、

その夢の先を見ませう。(ステラの傍に寄り添ひて腰をおろす)

ステラ  (やや声をふるはせて)をかしいわ。

アマノ  をかしい……

をかしいと思ふから可笑しいんです。

子供の遊びを、大人が見てゐてはいけません。

(ステラの耳に口を寄せ)僕はあなたを愛してゐます……

心の底から愛してゐます。

僕は、あなたの美しさに、魂を奪はれてゐる男です……

月並だなあ……

然し、まあ、いい……聞いて下さい……

僕は、あなたの夢を乱したくない……。

僕も、僕の夢を乱したくない……。

恋を遂げた刹那の歓びは、永久に続くものではありません。

僕は、あなたを獲た瞬間に、あなたを失ひたいんです。

わかりますか、僕の云ふことが……。

……わからない。

僕が、あなたに愛されてゐると思ふ瞬間……

あなたの唇が、僕の唇に触れる瞬間、

その瞬間は、

僕の生涯を通じて、最も幸福な夢なのです……

先づ、僕の手を強く握り締めて下さい……(ステラの手を取る)

ステラ  (身ぶるひして)お芝居よ……

ほんとにお芝居よ……。

アマノ  (両手を取らうとして)怖はがつちや駄目……。

ステラ  (アマノの手を払ひのけて)いいえ、いいえ、いけません……。

あなたといふ方が、あたしの夢の中へ出て来てはいけません。

あたしは、それが一番……

あなたのやうな方なの……あたしの夢をさますのは……

アマノ  僕は、通りすがりの男です。

道ばたで、あなたの靴を磨いた男です。

汽車の中で、あなたに席を譲つた男です。

劇場で、あなたが、ハンケチを拾はせた男です……。

ステラ  (しんみり)あなたは、女の心を御存じないのね。

アマノ  (ステラの手を取り)無関心な女の心は読みやうがありません。

ステラ  (思ひ返したやうに、アマノの手を握り締め)いいわ……

ぢや、一緒にお芝居をしませう。

その代り、約束を忘れちやいやよ。

今夜だけ……

ね、よくつて……

今夜だけ……

(酔つたやうに)さ、もつと、何か云つて頂戴……

あたしは、淋しいの……

今夜は、どうしてだか、淋しいの……

今まで、見つづけてゐた夢が、これでおしまひになるのではないかと、思はれるほど、淋しいの……。

さ、

早く、何か云つて頂戴……。

アマノ  その前に、あなたの眼を、一度……

ね、ヴエールをどけて……(ステラの肩に手をかけ、引き寄せる)

おや……

どうして、泣くんです。

沈黙。

ステラ  (ヴエールを外し、涙をふく)

アマノ  何が、そんなに、悲しいんです。

ステラ  悲しかないのよ……

癖なの……。(アマノの方を見て微笑む)

アマノ  ああ、これ、これ……

この眼……(ステラを抱く)

ステラ  もつと、しつかり、抱き締めて頂戴……。

あたしは、あの人に抱かれてるのよ。

(だんだん熱を帯びて来る)あなたは、あたしの大好きな、大好きな人よ。

さ、もつと、強く……

なんて静かな晩でせう。

丁度、あの晩のやうね……

──昔だわ──。

あなた、ふるへてるの……(間)

あたしを騙しちや、いやよ。

あなたは、ひどい方……

今夜ぎりだなんて……

アマノ  (気がついたやうに)あなたは、いつまでも僕のものです。

此の腕が、骨になるまで、あなたを放しはしません。

ステラ  いや……そんな気味のわるいことを云つちや……。

それより、あなたのブロンドの髪が灰色になるまで……

あたしの黒い瞳が、鳶色になるまでつておつしやい。

アマノ  僕の髪の毛は、ブロンドぢやありません。

ステラ  そんなことは、どうでもいいのよ。

──どうせ、形容ですもの……。

怒らないでね。

あなたは、日本の方ね。

あたしのお母さん、長崎で生れたの……

ハマつていふ名……

アマノ  (驚いて、ステラの顔を見る)

ステラ  どうして、そんなに吃驚なさるの。

あたしの眼が黒いから……?

それや、しかたがないわ。

あなた、黒い瞳は、おきらひ……?

アマノ  (あらたまつて)ステラさん、僕に、ほんとのことを云つて下さい。

今、おつしやつたことは、常談ぢやないでせうね。

ステラ  いやよ……そんな、怖い顔をしちや……

アマノ  (固くなつて)もうお芝居はよしませう。

僕は、更めて、あなたにお願ひがあります。

あなたの身の上を打ち明けて下さい。

ステラ  あなたは、変な方ね。

アマノ  あなたには、僕の気持ちがわからないんですか。

ステラ  わかつても、わからなくつても、おんなじよ……

どうせ、お芝居ですもの……。

沈黙。

さ、そんな真面目くさつたことは、云はないで、

夢の続きを見ませう。

あたしの気が変つたら、もうおしまひよ。

アマノ  誤解しないで下さい──

僕には、ほんたうのあなたが、今、わかつたやうな気がするんです。

今まで知らなかつたあなたの眼の中に、僕は、自分の全生涯を見出したやうな気がするんです。

幸福な一瞬間では、満足ができないんです。

ステラ  (アマノの頸に腕を投げかけ)いいから、もつと、こつちへお寄んなさい。

何時だつたか知ら……

あの、イイン河の流れを見下ろす……

ヴイラ……何んでしたつけね……

いいの……

あたしが、始めて、あのヴイラに泊つた晩ね……

船遊びをした日よ……遅くまで……

あの晩……

あなたは、あんなに酔つてさ……

どうして、あんなに酔つたの?

あら、あたしが酔はせたの……(いきなり、アマノを抱き寄せて、唇をあてる)

駄目よ、そんなに黙つてちや。(間)

あたしの寝室は、あなたの隣りだつたわね……

あたしが、窓を開けると、あなたも窓をおあけになつたわね。

それから、どうでしたつけ……?

アマノ  (しかたなしに)それから、僕が咳払ひをしたんです。

ステラ  あ、さう、さう……

さうしたら……? あたしは……?

アマノ  あなたは、窓を閉めておしまひになつた。

ステラ  うそばつかし……

あたし、唄を歌つたんぢやありませんか……(小唄の一節を口吟む)

アマノ  その唄なら、覚えてゐます。

ステラ  ね。

それからが、あのバルコニーよ。

静かな晩だつたわね……

……星が出て……。

あなたが、そら、をかしいの、子供みたいに……

覚えてる……。

アマノ  それからが、チロルの旅……

コルチナの秋の夜……

星のかはりに、こら、ストーブの火が燃えてゐます……

ステラ  あんまり早すぎてよ……

あなたは、昔から、せつかちね。

アマノ  その途中は、もうたくさん……。

あした、僕も、あなたと一緒に、シシリイへ行きます。

ステラ  シシリイへ……

蛇がゐてよ。

アマノ  蛇、蛇もゐるでせう。

あなたは、冷たい大理石のゆかを、素足で歩くことが、お好でしたね。

ステラ  オレンヂ畑を吹いて来る風に、髪をなぶらせることも、好き……

さう、さう……

あなたは、笛がお上手ね。

アマノ  (暗い表情)笛ですか……

笛も吹きませう。

沈黙。

ステラ  どうしたの。

あたし、何か云つたか知ら……。

アマノ  いいえ。(間)

(冷やかに)誰と話しをしてゐるんです、あなたは……。

誰です、一体、その笛の上手なのは。

(気がついたやうに)馬鹿でせう、こんなことを訊くのは……

ぢや、それは、もう訊きますまい。(間)

然し、何んとでも、返事をして下さい……

此の僕に返事をして下さい。

眠くはありませんか。

ステラ  (笑ひたさうに)まだ疑つていらつしやるのね、あなたは。

ぢや、いいから、あたしを、何処へでも連れて行つて頂戴。

さうして、あなたの気の済むやうに……。

アマノ  いいえ、いいえ、そんなことぢやないんです。

僕は、あなたの夢をさましたくなつたのです。

夢を見てゐないあなたの心に、なんとか、ものを云はせて見たいんです。

さうら、

もう、あなたは、そつちを向くでせう。

(ステラの肩に手をかけ)どら……あなたの眼は、今、何を見てゐるんです。

誰を見てゐるんです。

ステラさん……

僕の声が聞えますか。

ステラ  (微かに)しばらく、黙つてて頂戴……

沈黙

あたし、どうして、かうなんだらう。

アマノ  ね、をかしいでせう。

何を探してゐるんです、あなたは。

ステラ  なんにも、探してなんぞゐませんわ。

アマノ  ぢや、僕に用はないんですね。

ステラ  あなたに……?

あなたは、どなた……? (間)

いいえ、あなたは、黙つていらつしやい。

……独りで考へるから。

アマノ  あなたは、ものを考へてはいけない。

あなたは、あなたの情熱が命ずるままに、からだを投げ出せばいい。

遠い幻を、いつまでも追ふことが、どれだけあなたを苦しめてゐるか、それにお気がつきませんか。

ステラ  ちつとも、苦しんでやしません……あたしは。

沈黙。

(殆ど悲痛な調子で)──さうよ……

あなたさへ、あたしの眼に触れないところにゐて下されば……

黙つてゐて下されば……

それより、

あなたといふ方さへ、全く識らなければ……(声がだんだん微かになる)

アマノ  それなら、僕に、どうしろと、おつしやるんです。

(勝ち誇るやうに)死んでしまへと、おつしやるんですか。

ステラ  (きつぱり)ええ、死んでおしまひなさい。

アマノ  (ステラの手を取り、飛び立つやうに)

ありがたう……

僕の命は、あなたに差上げます。

その代り、

あなたの心は、僕が……

ステラ  (遮るやうに、起ち上り)持つて行けるなら、持つていらつしやい。

沈黙。

アマノ  ステラさん……

ステラ  もう、何時頃でせう。(窓ぎはに行き、カーテンを開けて、外を見る)

また、ひどい霧……

アマノ  ストーブの火も消えました。

ステラ  ぢや、ぼつぼつ引上げませう。

沈黙。

アマノ  ステラさん……(起ち上る)

ステラ  さうね……

やつぱり、独りぽつちの方が、いいわね。

……夢だけ見てゐるんなら……。

アマノ  (苦笑しながら)眼が覚めた時です、遊び相手が欲しくなるのは。

ステラ  あなたも、折角の夢をさまさないやうになさい。

それでは、おやすみなさい。

アマノ  僕の夢は、すぐさめさうです。

ステラ  (笑ひながら)さうしたら、また、「夢ごつこ」をしにいらつしやい。

道は、御存じね。

アマノ  あんまり遠くへ行かないで下さい。

ステラ  (アマノに近づき)では、また、あしたの朝……(手の甲を差し出す)

さよならを云ひに、起きていらつしやい……きつと。

アマノ  さあ……(ステラの手に接吻し)

それは夢次第です。

ステラ  (笑ひながら)ええ、ええ、よう御座んすとも……(用心深く手を引く)

おやすみ。

アマノ  おやすみなさい。

ステラ  (後を見ずに出で去る)

アマノ  (ぢつとステラを見送る)

室外にて、エリザ、エリザと呼ぶ嗄れ声。

沈黙。


──幕──

底本:「岸田國士全集1」岩波書店

   1989(平成元)年118日発行

底本の親本:「チロルの秋」第一書房

   1927(昭和2)年615日訂正第3刷発行

初出:「演劇新潮 第一年第九号」

   1924(大正13)年91日発行

※底本の親本は第2刷まで、「岸田國士戯曲集」とされていました。

入力:kompass

校正:門田裕志

2011年124日作成

2016年413日修正

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