ぶらんこ(一幕)
岸田國士



夫の同僚


茶の間  朝


妻  (チヤブ台の上に食器を並べながら)あなた、さ、もう起きて下さい。

夫  (奥より)起きてるよ。一体何時だい。

妻  毎朝、わかつてるぢやありませんか。

夫  そんな時間か。

妻  いやね、どんな時間だと思つてらつしやるの。

夫  (跳ね起きるらしく)さうか。(間)カマキリは、まだ来ないだらう。

妻  (あたりに気を兼ね)およしなさいよ、そんな大きな声で…………。

夫  (現はれる)昨夜はね、素敵もなく面白い夢を見たよ。

妻  (相手にならずに)歯磨のチユーブが破れてるから、気をつけて頂戴。

夫  (台所へ行きながら)鼠は出なかつたかい、昨夜は。

妻  (相変らず膳の上に気を取られて)あなた、昨日の朝、何処へお置きになつたの。昨夕お湯へはいらつしやらなかつたし……。

夫  (楊子を使ひながら)今日は、一つ、風呂へはいるかな。

妻  もう駄目ね、一昨日の牛蒡は……。

夫  さあ……。おれも、今迄、いろんな夢を見たが、これくらゐ不思議な夢を見たことがない。

(間)

実に愉快な夢なんだ。

妻  手拭はあつたの。

夫  あつた。

夢だからつて馬鹿にはできない。

おれが、かう云ふと、お前はすぐに、夢があてになるもんですかと来る。

それや、夢で金持ちになつたからつて、何も、ほんとに、金持ちになると限つちやゐないさ。

そんなことを、あてにする馬鹿があるもんか。


(間)

夢は、どこまでも夢さ。

それでいいんだ。

ところで、夢といふやつは、空想とは、また違ふんだ。

夢は、やつぱり、一生のうちで、実際に在つたことなんだ。

眠つてゐる間に、ちやんと起つたことなんだ。

妻  葱が煮え過ぎても知りませんよ。

夫  葱……今日は、葱の汁か……。

さうか。

(顔を洗ふ音。やがて、手拭で顔を拭きながら現はる。

妻は、入れ違ひに、台所から釜を提げて来る)

妻  お櫃をもう一つ買ふのね。

夫  (手拭を釘に掛け、長火鉢の前にすわり)煙草を一つぷく喫ひたいな。

妻  いいわ、時計と相談してね。

夫  (煙草に火をつけながら)まだ大丈夫。(外を見るやうにして)好い天気だな。

(間)

つまり、夢に対するおれの興味は、夢そのものの面白さに在るんだ。

妻  (飯をよそふ)

夫  夢は、おれを退屈さから救つてくれる。

夢は、おれに、人生の木陰を教へてくれる。

妻  (汁をつける)

夫  昨日と今日……今日と明日……その間に、おれは金のかからない旅をする。

楽しい旅だ。

おれに取つて、夢は、現実の一部なんだ。

希望だとか、理想だとか……そんな空虚なもんぢやない。

妻  (箸を取り上げ)あなたは、よくさう、夢が見られるのね。

夫  羨ましいか。そこで、昨夜の夢だが……(箸を取る)

妻  その前に、此の間の出張手当を、早く取つて来て頂戴。

夫  あ、さうさう。九円七十銭……こいつこそ、夢でもいい……と、思ふのは間違ひで、今日は、是非、取つて来る。

(沈黙)

妻  今朝は、卵なしよ。

夫  どうして。

妻  買つとくのを忘れたの。

夫  よし、さう出なくつちや……。

「忘れた」

何んといふ好い言葉だ。

一切の醜さ、一切の暗さ、一切の苦しみ、恐ろしさを覆ふ言葉だ。

忘れてくれ、忘れて……何もかも、忘れてくれ。

妻  (きまりわるさうに)あら、ほんとに忘れたのよ。

夫  ますますいい。(間)それに、今日の飯は、上出来だ。

妻  (強いて笑顔を作り)炭がね……。

夫  (妻の顔を見て)あ、ほんとだよ。

妻  さう? ……(涙ぐむ)

夫  馬鹿、馬鹿……お前は、夢を見ないから、いけないんだ。

たまに見れば下らない夢しか見ない。

妻  だつて、どんな夢が面白いんだか、わからないんですもの。

夫  なるほど、いつか話した夢は、あんまり込み入つてて、お前にはわからなかつた。

わからなかつたから、面白くなかつたんだ。

昨夜のは、きつと、わかる。わかるやうに、話してやる。

お前は、おれの妻だ。おれが、どんな夢を見たか、

それくらゐのことは、知つてなけれや。

妻  (夫の茶碗を取り、飯をつける)たくさんつけてよ。

夫  おい、おい。

妻  また、お昼までに、お腹が空くわよ。

夫  (茶碗を受け取りながら)それは、まだ、おれが小さい時分のことらしい。

小さいと云つても、十六か十七……

変に世の中が寂しい頃だ。

(間)

いつも云ふ通り

おれには、友達といふものが無かつた。

遊ぶと云へば

一人で

蜻蛉を捕るか

冬なら

日の当る裏山の斜面で

遠くの森を

毎日毎日

絵にかく──

それが楽しみだつた。

妻  いやよ、そんなに、お醤油したぢをかけちや。

夫  おれは、子供の時分、よく醤油を、飯にかけて食つたよ。

妻  毒だわ。

夫  お前は、何んでも、毒にしちまふね。

そこで、その夢だ。

おれは、あてもなく

その森の中へ、はひつて行つた。

毎日、絵にかいた、その森さ。

夜なんだよ。それがね。

妻  それより、こつちのが漬かり加減よ。

夫  夜なんだ。それが……

奥へはひつて見ると

森は──その絵にかいた森は

とてつもなく、大きな森なんだ。

露西亜か、南米か……

そんな処に在りさうな

人跡未到の大森林さ。

妻  (何か云はうとする)

夫  まあ、黙つて聴いてろ。

夜なんだぜ、それが……。

おれは怖いとは思はなかつた。

ちつとも怖いとは思はなかつた。

ただ、むやみに、悲しかつた。

おれは、不図、自殺を思ひ立つた。

妻  もう沢山、そんな話は……。いいの、あなた、そんなにゆつくりしてゐて……。

夫  いいから、しまひまで聴け。

自殺を思ひ立つた。

そこで

一本の樹の枝を見つけて

それへ帯をひつかけた

頭の上で、その両端を結びつけ

いよいよ

首を吊らうとしたんだ。

妻  (顔をそむけ)あなた!

夫  いいか

するとだよ……

すると、誰かが、後ろから、おれの肩を叩くぢやないか。

妻  人がゐたの。

夫  人なもんか。可愛い娘さ、それがね、十二三の……。

笑ひながら、おれの顔を見てるぢやないか。

(間。妻は夫が膳の上に置いた茶碗を取つて再び手に持たせる)

見てるんだよ。

どつかで会つたことがあるなあ──

さう思ひはしたが、どうしても思ひ出せない。

妻  あとで、わかつたの。

夫  待て待て。

(急いで飯をかきこみ)

すると、向うから、馴れ馴れしく

──何にしてるの──つて訊くんだ。

おれは

ブランコをこしらへてるんだつて云ふと

──ぢや、一緒に乗つて、遊びませう──つて云ふから

おれは

帯が、これぢや、短か過ぎるつて云つたんだ。

妻  (吹き出す)そんな……。

夫  (真面目に)さう云つたんだ。

(間)

すると

──そんなら、あたしのを繋ぎませう──つて

メリンスの、赤い帯をほどくんだ。

妻  (笑ふ)いやよ。

夫  ほどくんだよ。

(間)

仕方がないから

ブランコをこしらへて

二人で乗つたよ。

(間)

木の幹がぐらぐらツと揺れる。

頭の上で、だしぬけに、けたたましい羽ばたきが聞えたと思ふと……森中の鳥が、一どきにガヤガヤと啼き出した。

二人は

思はず、ブランコの上で抱き合つたさ。

妻  (やや暗い顔になり)もう、お茶……?

夫  お茶だ。

(間)

お茶だけれど……

それから先さ、面白いのは……。

妻  ぢや、その先は、今夜ね。もう、靴を穿く時間よ。

夫  今日は、ブルドツクにしよう。磨いてあるね。

妻  (起ち上つて洋服を出す)

夫  (それとなく、妻の方を見ながら)その時だよ、その娘の顔を、よくよく視たのは。

わからない。が……誰かに似てるんだ。

どこかで見たか、会つたか、話しをしたか……。

妻  (靴下を検めながら)今日は、何処へも上らないでせう。

夫  上らない……つもりだ。む、待つてくれ……よし、上らない。

兎に角

何時か、何処かで、どうかした女なんだ。

誰だと思ふ。

妻  わかつてますよ、そんなこと、さ、また、待つて頂くのは、お気の毒ですわ。

夫  誰だと思ふ。

妻  誰でもよござんすよ。

あなたは、いつでもよ……朝の忙しい時に限つてそれなんですもの。

晩なら、もつと、ゆつくりするでせう。

夫  ゆつくりする。

しかし、もう、印象が新鮮でない。

頭の後ろの方が、まだ、夢に漬かつてゐるやうな朝の気持……

こいつは、晩まで、もたないよ。

事務所の、埃臭い空気を吸ふと、もう駄目だ。

恐ろしいものさ。

帰つて来て、お前の顔を見ると、それや、元気は出る。

元気は出る……が、ただそれだけだ。

お前は、あんまりはつきり見えすぎるよ。

(間)

しかし、もう着換へる。

カマキリの奴、今日は遅いぢやないか。

(茶を一と息に飲み干し、起ち上つて、着物を脱ぎ始める)

妻  (手伝ひながら)もう、これぢや暑いわね。

夫  (喉の奥から妙な声を出して唱ふ)

タラ ラ ラ ラ ラ ラア

タララ タララ タララア

タララ ラ ラ

タララ ラ ラ

タラ ラ ラ ラ ラ ラア

妻  (服の塵を払ひながら、優しく放げ出すやうに)

何を無茶苦茶歌つてるの!

夫  無茶苦茶だ?

自分が知らない歌はなんでも無茶苦茶か、

(間)

処で、お前は、わかつてると云つたね。

その娘が、似てゐるといふ女は、誰だ。

をかしいぢやないか……。

だつて、おれが、お前を始めて見たのは、お前が幾歳の時だ。

十九か……

いや、二十か……

さうだね。

お前が十二三の頃は、どんな顔をしてゐたか、それが、おれに、わかる筈はないぢやないか。

妻  写真を見たでせう。

夫  さうか……

なるほどね。

お前は、また、恐ろしく、落つ着き払つてるね。

痛快だよ……しかし……

疑ひも、そこまで、無くなれば。

序に、おれが、どんなに幸福かといふことも信じてほしいね。

妻  あたしも……幸福よ。

夫  うまい、うまい、その調子……。

(間)

いいかい

その娘が、どこか、お前に似てるんだよ。

いいや、それより、お前そつくりなんだ。

つまりお前なんだ。

しかし、そこが、夢の面白い処さ。

おれは、さう気がついて、驚きもしなければ、まごつきもしない。

十六のおれは

十二のお前を抱いて

悠々

ブランコの上で夜を明かした。

妻  はい、チヨツキ。

夫  ブランコは

力を入れないでも、楽に漕げた。

(間)

房々したお前の髪の毛が、前にかがむ度毎に、おれの顔に、もつれかかる。

お前は、それが面白いと云つて、わざわざ顔を近づけて来るんだ。

妻  (笑ひながら)まあ……。

夫  ブランコは

ひとりでに、揺れてゐるやうだつた……。

(間)

木の葉を漏れて来る薄明りが

仰向くたんびに

今度は

お前の顔を銀色に染めるんだ。

おれは

貪るやうにお前の眼を見つめた。

……お前は、やつぱり、笑つてゐるんだ。

妻  (夫の肩に頭をもたせかける)

夫  が、やがて、お前は、うとうとと眠り出した。

おれも、うとうとと眠り出した。

(長い沈黙)

それから先は、お前が知つてゐる通りなんだ。

勿論、世界は、丸で違ふさ。

(間)

さうさう、覚えてるかい……

あの翌朝、おれたちは、すぐ、この家へ引越して来たね。

なんだ、これや(部屋ぢうを見廻す)

これでも、人間の住む家か……

人間が愛し合ふ家か。

(間)

処が、昨夜はさうぢやないんだ。

森だと思つたのは、宮殿さ。

ブランコのつもりでゐたのは、やはらかな、あたたかい、天鵞絨の吊床なんだ。

妻  吊床つて、なあに

夫  吊床を知らないのか。吊床さ、そら……大人の寝る揺藍ゆりかごさ。

妻  宮殿なの……?

夫  うん……。

その宮殿が、決して、ありふれた、お伽噺式の宮殿ぢやない。

(外の格子戸が開く音)

声  おい、まだか。

妻  (惶てて夫の肩より離れ)それ御覧なさい、また遅れたわ。

夫  (惶ててチヨツキの釦をはめながら)いやいや、遅れない。(大声にて)なんだ、やつぱり行くのか。今日は休むのかと思つてた。

声  どら……。

(声の主、茶の間に首を出す)

妻  あら、いけません、こんなとこへ……。

同僚  おや、もう、帰つて来たのか。や、奥さん、お早う。

妻  いくらせかしても、これですの。

夫  丁度いい。まあ、話の先を聴け。その宮殿と云ふのが、決して、ありふれた、お伽噺式の宮殿ぢやないんだ。

妻  (上着を着せながら)そこは違ひますよ。もつと上……。

夫  宮殿といふ言葉は悪いかも知れない。一切の装飾が、ただ、住むものの為めの装飾なんだ。

同僚  面白いぢやないか。しかし、さういふ装飾があり得るかね。

夫  あり得るさ。第一、吊床が奇抜なんだ。そのブランコさ、つまり……。

同僚  どのブランコ……。

夫  どのつて……。

妻  いやな片桐さん、ほん気になつて聞いてらつしやるわ。(夫に)およしなさいよ、もう、あなた。

同僚  一体、何の話だい。

妻  夢なんですよ、この人の……。そら、例のですよ。

(夫にハンケチ、時計、金入などを渡す)

同僚  なあんだ、さうか。

夫  君は、しかし、夢の面白さがわかる男だ。ただ、自分では、一向、見ないやうだね。

同僚  見ない。処で、奥さん……。

夫  君は、ブランコに乗つたことがあるか。

同僚  ないよ。実はね……。

夫  よしよし、その話は後で聴く。昨夜の夢といふのはかうなんだ。

(巻煙草に火を点けながら)

おれが、まだ、十六七の頃……世の中が、変に、かう、寂しい頃だ。

(玄関の方に行きながら)

それでゐて、いろいろの事を、知るともなしに、覚える頃だ。

(姿が消える)

同僚  実はね、君、弱つたことになつたんだ。

夫の声  弱ることはないぢやないか。

妻  (玄関に出る)

同僚  (起き上がらうともせず、言葉つきは夫に、心持は妻にと云つた具合に)いや、それがね、急に、国から、おやぢがやつて来るつて云ふんでね。やつて来るのは、かまはないが……。

夫の声  さ、行かう、行かう。

同僚  行くさ。そこで、どうでせう、奥さん、今晩だけ……。

夫の声  いいよ、いいよ、どうにかなるよ。さあ……(同僚の手を引張るらしく)おれの夢を聴いてからにしろ。

同僚  (起き上る。姿がかくれる)それがね、奥さん……。

夫の声  よし、よし、こいつの知つたことぢやない。さ、出ろ、出ろ。

妻の声  まあ……(と、何かに驚いて)行つてらつしやい。

(格子の閉ぢる音)

妻  (現はる。長火鉢に向ひ頬杖をつく。ひとりでに、微笑がうかぶ)

夫の声  (やや遠く)そこで、おれは十六の少年だ……。

世の中が

変に……

おい、何処へ行くんだ。

同僚の声  一寸、待て……急用だ。

夫の声  こん畜生……早く、しちまへ。人が来るぞ。

(どちらから始めるともなく、二人の調子外れな口笛が、一つ時、縺れるやうに聞えてくる)


──幕──

底本:「岸田國士全集1」岩波書店

   1989(平成元)年118日発行

底本の親本:「チロルの秋」第一書房

   1927(昭和2)年615日訂正第3刷発行

初出:「演劇新潮 第二年第三号」

   1925(大正14)年41日発行

※底本の親本は第2刷まで、「岸田國士戯曲集」とされていました。

入力:kompass

校正:門田裕志

2011年124日作成

2016年413日修正

青空文庫作成ファイル:

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