古い玩具(一幕六場)
岸田國士



時  千九百××年の夏より秋にかけて


処  仏蘭西


人物

白川留雄

ルイーズ・モオプレ

手塚房子

手塚正知

ポオレット

マルセル

ルイーズの下女

手塚の下女

ホテルの女中

無言役──老婦人、若い男二人、労働者風の男女。



プロロオグ


フォンテエヌブロオの古城──池のほとり──日盛り過ぎ。

白川留雄、池の欄干に倚り、鯉にパンをやつてゐる。長い間。

ポオレットとマルセル、腕を組みながら、留雄の後ろを通り過ぎる。


マルセル  それから、どうしたのさ。

ポオレット  (留雄のゐるのに気づき)お待ちよ、いつかのあれがゐるから……(留雄の肩に手かけ、馴れ馴れしく)何してるの。

留雄  (振り向いて、さほど驚いた様子もなく、心もち眉をよせて、ポオレットの顔を見る)

ポオレット  あたしよ、忘れたの。

留雄  (素気なく背を向けて)何か用か。

ポオレット  (ちらとマルセルに笑ひかけ)久しぶりね。

留雄  久しぶりだ。

ポオレット  それでおしまひなの。

留雄  (遠くへパンを投げる)

マルセル  駄目よ、行かう。

ポオレット  あんた、その後、西村さんに会つた。

留雄  会つたらどうした。

ポオレット  怒つてた。

留雄  怒つてると思ふなら、あやまりに行け。金が返せなければ、ほかの方法で話をつけるさ。(正面を向く)

ポオレット  いやなこつた、あんな猿。

マルセル  (留雄の顔を見つめ、何か思ひ出したやうに吹き出す)

ポオレット  (マルセルに)何がをかしいんだよ。(留雄の顔を見て、これも何か思ひ出したやうに、吹き出さうとして)およしよ、くだらない。(マルセルの背をたたく)

マルセル  (大袈裟に)あいた。あたしをモデルに使つてくれない。

留雄  君は猿が好きと見えるね(強いて笑はうとする)

マルセル  あんたは、そんなでもないわ。

留雄  (背を向けて)ありがたう、さ、向ふへ行つた。(パンを投げる)

ポオレット  (マルセルをにらむ真似して)マルセルがね、あんたと何処かへ行きたいつて。

留雄  残念だが今日は先約がある。

マルセル  誰かを待つてるの。

留雄  (黙つてパンを投げる)

ポオレット  この娘、支那語で、「ありがたう」つて云へるのよ。

留雄  うるさいなあ。

ポオレット  うるさいなあ。うるさけれや、勝手におしよ。(マルセルの手を引き遠ざかりながら)野蛮人。

留雄  (ポオレットの方をにらむ)

マルセル  (留雄を見返り)あの顔。


両人 姿を消す。長い間。

老婦人、手眼鏡を持ち、書物を読みながら通りすぎる。

若い男二人、舞踏の足取りにて、口笛を吹きながら通り過ぎる。

労働者風の男女抱き合ひながら通る。しばらくして、手塚房子現はる。


房子  よく根気が続くわね。

留雄  来て御覧なさい。面白いから……。白鳥がね、麺麭を食ふのに、鯉の頭が邪魔になるもんだから、もぢもぢしてるんですよ。

房子  (留雄に寄り添ひ)あなた暑くない。

留雄  いいえ。(間)手塚君たちは。

房子  もう来るわ、写真で大騒ぎ。ルイーズさんをあづまやに立たせるんですつて。あの人の趣味よ。

留雄  森へ行くんぢやないんですか。もう日が暮れるのに……。

房子  ほんと。立ち通しぢやたまらないわ。

留雄  手塚君はあしたからでしたね、ジュネエヴの会議は。

房子  ええ。だからお遊びにいらつしやいね。

留雄  だからつて云ふこともないけれど……一週間でせう。

房子  ええ。(間)ああ、さうさう、昨日、時子さんからお手紙をいただいたわ。

留雄  僕の処へも来ました。

房子  あなたのところへ、いくどお手紙を上げても返事を下さらないつて……わるいわ。お妹さんに、なにも罪はないぢやないの。

留雄  嫁入りするつて、あなたのところへも云つて来ましたか。

房子  ええ。軍人さんですつてね。感心だわ、あの方。

留雄  何が感心です。

房子  それよりね、あたし大事な役目を云ひつけられたの。

留雄  へえ。

房子  へえぢやないのよ。あなた、何かお父さんのところへ云つてお上げになつたでせう。そのことで大へん心配していらつしやるんですつて、みなさんが。

留雄  だつて、勝手に僕を呼び戻さうたつて、さうは行きませんよ。それも下らない女を押しつけられるんぢやね。

房子  下らなかないんだつて云ふぢやありませんか。時子さんの御話しぢや。

留雄  あいつ、余計なことを云ふんだなあ。

房子  それで、あなたどうなさるおつもり。

留雄  どうもかうもないぢやありませんか。

房子  お父さんが怒つていらつしやるんですつて。

留雄  おやぢがね。僕んとこへは、母が泣いてるつて云つて来ました。

房子  さうでせうとも。

留雄  あなたまでが……僕を説き伏せるつもりですか。

房子  説き伏せるなんて、そんな力はあたしにはないでせうけれど、時子さんが、お父さまとあなたとの間に立つて、一人で気を揉んでいらつしやるから、それがお気の毒ですわ。

留雄  あいつには、僕の心が丸でわかつてないんです。あなたにさう云ふ御親切があるなら、こんだ、御序の時、よく云つて聞かしてやつて下さい。僕は、日本で暮すより、こつちで暮す方が幸福なんだつて……。

房子  あなたはさうおつしやるけれど……


此の時、ルイーズ、大声にて笑ひながら走り来る。


房子  どうなすつたの。

ルイーズ  だつて、きりがないんですもの。あづまやがすんだと思つたら、こんだは噴水の前、それがすんだら橋の上、もういいのかと思つたら、またあの階段の上へあがれつておつしやるの。あたし、それで逃げて来たの。

房子  写真機を持つと全くおしまひ、あの人は。(笑ふ)

ルイーズ  (留雄の方を見て)まだ鯉と遊んでるの、あの方。

留雄  あなたのやうに飽きつぽくはありません。

ルイーズ  あしたから見ていらつしやい。

留雄  あさつてになつたらわかります。

房子  なに、あしたとか、あさつてとか。

ルイーズ  あしたから白川さんにポーズして頂くの。白川さんのお描きになるこつちの女が、みんなどこか知ら日本の女になるんでせう。だから、あたしが、その逆に、日本人を描いて見ようと思ふの。あたしなら大丈夫、どこから見ても日本人つて云ふ日本人が描けると思ふわ。

房子  それやねえ、日本人は顔の色が……。

ルイーズ  いいえ、さうぢやないの。眼よ、大事なのは。

留雄  (小声にて歌ひ出す)

Viens, tout est si doux,

Si plein de promesse!

………………………………

ルイーズ  (その後をうけて)

Un sourir en très grands yeux

房子  (ルイーズと合唱)

Me révèle un coin des cieux

………………………………

手塚  (写真機を三人の方に向け、歌が終つてルイーズと房子とが正面を向きたる刹那を写し撮り)ブラヴォオ!

房子  写真はこれから一人で撮りにいらつしやいね、どこへでも。

手塚  まあ、さう云ふな。ルイーズさんが来て下すつてよかつた。背景と完全に調和するんでね。

留雄  もう出掛ける。

手塚  (留雄に)君、一寸そこをどいて下さい。(ルイーズも去らうとするのを止めて)いいえ、あなたはどうぞそのまま。

ルイーズ  (遠ざかりながら、房子に)あなた、いらつしやいよ。

房子  いや、あたし。

手塚  ぢや、白川君でもいいや。成る可く、そつちを向いて……さう、もつと、うつむいて(写す)よろしい。

留雄  僕の背中は、よほどフォトヂェニックと見えるなあ。


一同笑ふ。


手塚  さ、行きませう。(先に立つて歩き出す)

ルイーズ  あたし、喉がかわいた。(歩き出す)

手塚  ビイルでもひつかけませう。

房子  留雄さん、いらつしやい。(ほかのものをやり過して、留雄に近づき)つまらないでせう。



第一場


ルイーズのアトリエ。午後四時。


ルイーズ  かまはないわ。あたしはあなたの肖像を描いてるんぢやないから。さ、しばらくこつちを向いてて頂戴。

留雄  ぢや、誰の肖像です。ただ日本人の肖像だと云ふんでせう。地理の挿絵か。

ルイーズ  何んとでもおつしやい。

留雄  (皮肉に)『人間の魂の微妙な旋律』はいいな。

ルイーズ  なんですつて。

留雄  そんなにじろじろ見ないで下さい。僕の顔の中に、あなたのおつしやるやうな面白いものはありつこないんだから。

ルイーズ  モデルは理窟を云はないのね。


(間)


留雄  あなたは日本人が好きだつて云ひましたね。

ルイーズ  (筆を止めずに)それがどうしたの。

留雄  それでは、或る一人の日本人を、仏蘭西人と同じやうに愛することが出来ますか。

ルイーズ  (筆を止めて)愛するつて、どんなに。

留雄  どんなにでも……、男として。

ルイーズ  (絵具を溶きながら)それならば、あなた、何処人だからと云ふ問題ぢやなくなるわ。

留雄  さうですか。寧ろ、何処人だから愛することが出来ないと云ふやうな場合があるでせう。

ルイーズ  さあ、それはどうですかね。兎に角、日本人はあんまり西洋の女を好かないつて云ひますわね。西洋の男が日本の女を好くほど……。

留雄  好き方にも色々あるでせうが。

ルイーズ  西洋の男が日本の女に惹きつけられる理由は、男として、そんなに名誉にならないつて或る人が云つてますね。

留雄  その反対の場合は。

ルイーズ  日本の男が西洋の女を好かない理由。

留雄  それも、男の名誉にはならないわけですね。

ルイーズ  (笑ひながら)まあ、さうでせうね。

留雄  こんどは、女の方から云つたらどうなるでせう。日本の女は西洋の男が……。

ルイーズ  好きらしくないわね。

留雄  近頃は、さうでもありませんよ。なかなか。

ルイーズ  駄目よ。西洋の男なんか。優しいやうでしつかりしてゐる日本の女が、なんだつて、女の御機嫌ばかり取つてるやうな男を……。理想が違ふんですからね。

留雄  そんなことはありませんよ。誰だつて踏みつけにされるよりは、ちやほやされた方がいいにきまつてゐる。

ルイーズ  あたしは、さうは思はないわ。日本の男は、ほんたうに女の味方だと思ふの、ほんたうに女の愛し方を知つてゐるんぢやなくつて。日本の男は、薄くつて温かい服みたいなものね。外から見ると寒さうだけれど、それにくるまつてゐる本人は、結構、温かいんだから文句はないわ。

留雄  薄くつて暖かいなんて云ふことは例外ですよ。薄けれや大概寒いんだ。

ルイーズ  厚ぼつたくつて寒いよりは、軽いだけましだわ。

留雄  重いと暖かいやうな気がしますよ。

ルイーズ  長く着てゐられないから同じよ。

留雄  なんだ。


(両人笑ふ。)


ルイーズ  然し、西洋の女が日本の男と結婚するのは考へものね。それも、日本の男つて云ふものが、ほんたうにわかつてゐれば別だけれど、さもないと、とんだ不幸な目に遭ふわね。その例がいくらもあるわ。

留雄  それや、さうですとも。殊に日本へ行つて暮しちやおしまひです。

ルイーズ  ある人の書いた本に、それもなかなか日本をよく見てゐる人なのよ、その本にね、西洋に来てゐる日本の青年はみんな行儀がよくつて、物わかりが早く、控へ目で、親切で、辛抱強い。殊に、西洋の女が悦びさうな可愛らしいお土産を、いつもポケツトの中に忍ばせてゐて、たまには、絹糸の結び目をほどく手品や、紙ぎれで動物の形をこしらへる芸当をやつて見せる誠に頼母しい青年だ。が、決して油断をしてはならないつて。(笑ひながら)ね、もうその先きはわかつてるでせう。

留雄  (苦笑しながら。)わかつたやうな、わからないやうな……

ルイーズ  まあ、それはわかつたとして、あたしに云はせれば、日本の男のほんたうの値打は、西洋風の生活でなしに、やつぱり純日本式の生活をして、始めてわかるんだと思ふの。洋服よりも羽織袴、椅子よりも座蒲団、ステツキよりも扇子、握手よりも此のお辞儀(頭を下げて見せる。)

留雄  シルクハツトよりもチヨン髷。

ルイーズ  (真面目に。)さうよ。西洋人の真似なんかして、どんなにあなた方は男振りを下げていらつしやるかわからないわ。

留雄  全く僕達は見つともないでせうね、あなた方の眼から御覧になると……

ルイーズ  見つともないよりも、お気の毒だわ。

留雄  ひどいなあ。どうも然し、こればかりは……。

ルイーズ  そこなのよ。なにもわざわざ西洋くんだりまで来て、折角の男振りを下げなくつても、ちやんとお国にいらつしつて、お花さんや、お雪さんに……

留雄  (相手の云ひ終らないうち。)真面目な話は真面目にしませう。

ルイーズ  (パレツトを置き、留雄を見る)真面目よ、あたし。(笑ひ出す)何んでしたつけね、話しの起りは、(考へて)さうさう、どうしてまた、そんなことを云ひ出したの、あなた。

留雄  そんなことつて。

ルイーズ  西洋の女が日本の男を愛することが出来るかつて云ふやうなこと……。

留雄  (ためらひながら)一寸、聞いて見ただけです。

ルイーズ  (意地わるく)あなたが、こんな問題にぶつかつてらつしやるんぢやないのね。

留雄  実は、ぶつかりさうなんです。

ルイーズ  あら、さうなの。で、相手の方の心持ちを疑つていらつしやるのね。

留雄  まだ疑ふところまでも行つてないんです。

ルイーズ  ぢや、その方には、あなたの心持ちはわかつてるの。

留雄  さあ、どうですか。わかつてゐるだらうと思ふんですが。勿論、さう云ふ話しにはまだ触れずにゐるんです。

ルイーズ  ぢやいつまでたつたつて、わかりつこないわ。

留雄  さうでせうかね。大概さう云ふ場合には、どちらかで、もう大丈夫だと云ふ時機を発見するものだと思ひますがね。

ルイーズ  どちらかでつて……両方共、同じ心持ちでゐればね、それはさうね。ぢやまだ其の時機が来ないんでせう。

留雄  そんな時機は永久に来ないんぢやないかと思ふんです。

ルイーズ  (再び画布に向ふ。落着かぬ様子)

留雄  またはじめるんですか。(立ちかけて)僕はもういいでせう。

ルイーズ  どうして。もう少し……ね。

留雄  (腰をおろす)

ルイーズ  (それとなく留雄の方を盗み見ながら)相手の方はどんな方。

留雄  (探るやうに)それはまだ云へません。

ルイーズ  いいぢやないの。あたしに隠さなくつたつて……。

留雄  あなたにだから隠すんです。

ルイーズ  (笑ひながら)まあ、あたし、そんなに信用がないのか知ら。(間)その方とどうしてお近づきにおなりになつたの。

留雄  友達のうちで……。

ルイーズ  お友達つて、日本の方。それとも……。

留雄  そんなこと、どうでもいいぢやありませんか。

ルイーズ  あたしも知つてるうち。

留雄  多分。

ルイーズ  手塚さんとこぢやないのね。

留雄  さうです。

ルイーズ  あら、手塚さんとこなの。あそこへ来る娘さんで……。あたし、会つたことがあるか知ら……その方。

留雄  それは、どうだか知りません。僕が行くときには、その人か、あなたか、どつちか一人にしか会はないから。

ルイーズ  (強いて笑ふまいとして)変だわね。あたしもよく行くんだけど。

留雄  何がそんなに可笑しいんです。だからあなたには云ひたくないんだ。

ルイーズ  笑つちやいけないの。ぢや、まじめ。(間)あなた、その方をほんとに愛していらつしやるの。

留雄  僕は一つしか愛し方を知りません。

ルイーズ  一度しか愛することが出来ないつておつしやらないわ。

留雄  それはどう云ふことです。一度愛を失つた人間が、他に愛を求めることは許されないんですか。

ルイーズ  そんな六ヶ敷いことぢやないの。

留雄  (立ち上り、ルイーズに近づく)ルイーズさん。あなたに是非お尋ねしたいことがあるんですけれど……。

ルイーズ  (いくらか平静を失つて)なあに、そのことで、(筆を止める)

留雄  今、仮に、あなたが、日本の男から、直接にかう云ふ話を持ち出されたらどうします。どう思ひます。

ルイーズ  (驚いたやうに)あたしが。

留雄  そうら、そんなに吃驚りなさるぢやありませんか。

ルイーズ  だつて、だしぬけにそんなこと聞いたつて。

留雄  だから、同じことです。その人にしても、僕がだし抜けに、こんなことを云ひ出したら、きつとびつくりするに違ひありません。それだけでも、二人の間に大きな障碍があるんです。(間)これが若し、仏蘭西人の口からだつたら、なんでもないことぢやありませんか。或る感動は与へるにしても、意外でも、不思議でもない恋愛の告白ぢやありませんか。

ルイーズ  それは違ふわ。(間)気にも留めてないやうな男の口から……。

留雄  気にも留めてない。そのひとがですか。

ルイーズ  その方と云ふわけぢやないのよ。(間)あなたの尋ね方がわるいんだわ。(無心に絵を見つめてゐる)

留雄  (せき込んで)ぢや、どうお尋ねすればいいんです。

ルイーズ  (笑ひながら)どんなことが聞きたいの、あなたは……。

留雄  (少しぢれて)もういいんです。わかりました。(ルイーズから離れて、長椅子に腰をかける)

ルイーズ  (パレツトを置き)何がわかつたの、をかしな方。(留雄と並んで掛ける)


(長い沈黙)


留雄  ルイーズさん、僕は駄目です。どうか察して下さい。あなたがおつしやるやうに、まだその時機ではないかも知れません。然し、もう黙つてはゐられないんです。黙つてゐるのが、云ひ出すのと同じ位、いや、それ以上恐ろしいやうな気がするんです。どうせ望みがないものなら、それを早く知つて、永久に来ないものを待つ苦しさから遁れたいんです。望みを失ふ悲しみは、どんなに大きくつても、大きければ大きい程、自分を強くするものです。自分を支配する力を与へてくれます。このままでは、自分の存在を否定することさへ出来ないのです。

ルイーズ  あなたは随分取越苦労をなさる方ね。その方だつて、はつきり御自分の心持ちがわかつてゐないかも知れないぢやありませんか。あなたが、今、たつてそれを知らうとなさるのは、どんなものでせう。

留雄  そんならそれでいいのです。それだけのことでもわかれば、僕は満足します。(次第に晴やかな面持になる)ルイーズさん、あの人は、僕を少しでも愛してくれてゐるでせうか。

ルイーズ  さあ、そんなこと、あたしに聞いたつて……。

留雄  (返事を待たないで)愛してくれることがあるでせうか。(留雄、ルイーズに近づく)

ルイーズ  そんなことがわかるもんですか。


(いきなり立ち上り、呼鈴を押す)


下女  (現はる)

ルイーズ  帽子屋へは行つてくれた。

下女  はい、あの……四時までには、是非お届けするつて申しましたんですけれど……。

ルイーズ  (時計を見て)だつて、もう四時よ。

下女  ほんとに、どうして……。

ルイーズ  御苦労だけれど、もう一度催促して来てくれない。

下女  畏こまりました。一方だけでも出来てをりましたら、わたくしが貰つて参りませうか。

ルイーズ  さうね。さうしておくれ。白い羽根の附いたのが、急ぐんだけれど……。でも、少し位なら待つてて、両方とも貰つておいでよ。もう一度くらべて見ないと、……(留雄の方を見て、媚びのある笑ひ方をする)

下女  さう致しませう。

ルイーズ  (留雄に)あなた、お茶はいらない。

留雄  いりません。(画架に近づき、絵を見る)

ルイーズ  (下女に)ぢや、大急ぎでね。

下女  はい。(退場)


(長い沈黙)


ルイーズ  何にしていらつしやるの、そんなとこで。

留雄  絵を見てるんです。

ルイーズ  (快活に)どう。

留雄  どうつて、別に……。

ルイーズ  お気に入らない。

留雄  僕の気に入る必要はないでせう。

ルイーズ  (いくらか気まづげに)もちろん。

留雄  (卒直に、而し、気がとがめるらしく)しかし、絵としては、なかなか面白い。

ルイーズ  いいのよ、そんな褒め方をして下さらなくつても。

留雄  でも、実際なんだから……。


(外で、呼鈴が鳴る。続いて小走りに廊下を伝ふ足音)


下女の声  あら、今、あたしが行かうと思つてゐたとこなの。お嬢様がそれやお待ち兼ねで、さつきからお出ましのお仕度をすつかりなすつて……ぢや、両方ともね、それでよかつた。一寸待つて頂戴。

ルイーズ  (立ち上り、戸口に近づき)御免なさい。すぐ来るから……(出で去る)

留雄  どうだ。(空想に微笑みながら、室内を歩きまはる)


(長い間)


ルイーズ  (髪を手で押へながら入り来る)どうも失礼。

留雄  ちつとも。そろそろ出掛けなくつてもいいんですか。

ルイーズ  まだ早いわ。歩いたつてぢきなんですもの、ここから。今日はどんな人が来てるか知ら。

留雄  僕は、あの人が来ると思ひます。まあ一度、見て下さい。僕がこれほど想つてゐる相手が、どんな人か、あなたに是非知つて頂きたいんです。

ルイーズ  (笑ひを抑へて)綺麗な方。

留雄  あなたのやうに。(溜息)

ルイーズ  (天井を見たまま)髪は。

留雄  ブロンド。

ルイーズ  (眼をつぶつて)眼は。

留雄  (ルイーズの方につめ寄り)空色、どうかすると紫。(ルイーズの手を取らうとする)

ルイーズ  (静かに立ち上がり)声は。

留雄  (慌てて)声。声はね……(苦しまぎれに)銀の鈴。(かう云つて頭をかかへる)

ルイーズ  オホヽヽヽヽ、あなたもなかなか話せるわね。(戸口に近づき)待つてて頂戴、仕度をするから。(出で去らうとする)

留雄  ルイーズさん。

ルイーズ  (振り返つて)なあに。

留雄  その人はね、僕を愛してゐてくれるんなら、きつと、今日、あそこへ、白い羽根のついた帽子を冠つて来ます。

ルイーズ  (ギヨツとして)白い羽根のついた帽子。(常談のやうに)そんなことわかるもんですか。(急ぎ去る)

留雄  (ぼんやり考へ込む)

下女  (笑ひながら入り来る)あの、お嬢様は、少し、お仕度に手間がお取れになるさうで御座いますから、すみませんが一足お先へどうぞ……。

留雄  (驚いて)御一緒に出掛けることになつてるんです。

下女  はい、それはもう。ただ、あんまり長くお待たせするのもつておつしやいますんで……。

留雄  よう御座んす、いくらでもお待ちしますつて、さう云つて下さい。どうぞ、御ゆつくりつて……。

下女  (しかたがなしに去る)

留雄  (室内を歩きまはる)

下女  (再び現はれ)甚だ失礼で御座いますけれども、あの、探しものをなすつていらつしやいますから、それが出ませんうちは……。

留雄  出るまで待ちます。

下女  (当惑さうに)でも……。

留雄  出るまで待ちますよ。どうせ出ないものぢやないんでせう。

下女  それはさうで御座いますけれど……。

留雄  一寸、お嬢さんにお顔をお見せ下さいつて、さう云つて下さい。御話しがあるからつて……。

下女  (笑ひながら去る)

留雄  (ぢれつたさうに歩きまはる)

下女  (手で顔を押へながら入り来る)只今、お召替の最中で、当分、こちらへはおいでになれませんさうで御座います。

留雄  探しものは出たんですか。

下女  さあ、どうで御座いますか。伺つて参りませうか。

留堆  いいんですよ。(思ひ切つて)ぢや、僕は帰ります。お嬢さんにね、僕は帰りますつて云つて下さい。(下女の方に近づき、小声で何か云はうとして、それをやめ、出口に近づく)

ルイーズの声  何をぐづぐづしてるの。早く行かないと遅くなつてよ。

留雄  (努めて平気に)ぢや、向ふでお待ちしてゐます。(退場)

下女  (胸を撫で下ろし、静に戸を閉める)



第二場


手塚の家の応接間。午後五時。


房子  (独りで本を読んでゐる、時々、戸口の方に眼をやる)

留雄  (下女に案内されて入り来る)おや、まだだれも来ないんですか。

房子  (立ち上り)今日はどなたもいらつしやらないかと思つてましたの、ようこそ。

留雄  先達は失礼。

房子  わたくしこそ。(改まつた調子に気がついて笑ふ)

留雄  手塚君は。

房子  (留雄に椅子をすすめながら)今朝、帰つて参りましたの。今、一寸役所へ顔を出して来るつて出掛けましたが、もう戻つて来る頃なんですよ。

留雄  ルイーズさんも後から来るさうです。

房子  今日もお会ひになりまして。

留雄  毎日会つてます。

房子  ほんとにさうでしたわね。お仕事は進みますか。

留雄  こつちの仕事は一向進みません。近頃は、モデルが専門で……

房子  あたしも誰かモデルに使つてくれないか知ら。

留雄  いい画家のモデルにならなくてもよう御座んすね。

房子  あなたならいいわ。(かう云つて、あわてて)モデルも楽な商売ぢやなささうね。

留雄  苟も外交官夫人がへつぽこ画家のモデルになつたとあつてはね。

房子  さう云へば、外交官の処なんか、懲り懲りだわ。

留雄  一度で沢山ですか。

房子  まあ、ひどい。(間)ああ、さうさう、お妹さんからのお手紙をお目にかけませうね。(立ち上る)

留雄  (腰を浮かせて、半ば常談の如く)ぢや、僕は帰ります。

房子  どうして。いけないの。あなた、ほんとに見たくないの。(責めるやうに留雄の顔を見つめる)

留雄  許してください。僕は年寄りが可哀想だと思ひます。然し、それは、どうすることも出来ないんです。僕は、過ぎ去つたことを一切忘れてしまふ為めに、また、これからつまらないことで内輪揉めを起さないやうに、こんな放浪生活をしてゐるんです。日本に帰つて、おやぢと顔をつき合せてゐたら、きつと双方で面白くないことがあるに違ひありません。そればかりでなく、僕の周囲には、誰一人僕の気持ちがわかつてくれるものがないんです。僕のすることは何んでも邪魔をしようとかかつてゐるんです。そこへ行くと外国にゐれば自由が利きます。人が自分に注意してゐないと云ふことは、それほど苦しいことぢやありません。

房子  外国でなら……あなたはさうおつしやるけれど、仏蘭西なら仏蘭西にいらつして、こつちの習慣になれておしまひになつたとしたところで、ほんたうの幸福が、ここで求められるかどうか、それはなんだか当てにならないやうな気がしますわね。早い話が、いつぞや、あなたは、もう外国人の家へ行くのがいやになつたつておつしやつたでせう。

留雄  さう云ふ外国人の家もあると云つただけです。

房子  それから、第一に、町やなんかでキヨロキヨロ顔を見られるのがいやだつておつしやらなかつた。

留雄  さう云ふ場合もあると云つただけです。

房子  あなたが、いつか、日本人の悪口を、さんざん聞かせて下すつた時に、あたしが、常談半分に、それぢや、なぜ、そんなにお嫌ひな日本人の家へなんぞいらつしやるんですつて、さう伺つたら、あなたは、かうおつしやつたわ。それは、好奇心の満足と、お世辞の安売を、唯一の接待法と心得てゐる、外国人の家よりもましだつて……。(笑ふ)

留雄  僕がそんなことを云ひましたか。

房子  ええ、おつしやつてよ。だから、あたしが、それでは、やつぱり、日本人がましなのねえつて云ふと、日本人の家だから来るんぢやない、自分を外国人扱ひにしない人間の家だからだつて、そんな苦しい理由があるもんですか。

留雄  全くさうなんだから……。

房子  そんな瘠せ我慢はおよしになつた方がいいわ。

留雄  それや勿論、手塚君とあなたとお二人で作つてをられる或る特殊な雰囲気、手塚君からだけでもなく、あなたからだけでもなく、僕の気持ちに触れて来る或る温かい感じが、此の家の中にあつて、それが僕には懐かしいと云ふ理由もあります。あなた方お二人が、此の部屋の中で静かに話しをしておいでになる……それを僕が、どこか隅の方で、黙つて聞いてゐる、と云ふよりも、それを感じてゐれば、それでもう、のどかな気持ちになれるのです。かう云ふ気持ちは、あなたにわかるか知ら。

房子  それやわかるわ。つまり、あなたの生活に、どこか欠けた処があるのね。一口に云へば、物足らないんでせう。淋しいつて云つちやいけないかも知れないけれど。

留雄  その欠けてゐるものは、何んだと思ひます。なぜ物足らないんでせう。(間)僕はしたいことをしてゐるんです。したいと思ふことで、出来ないことはないんだけれど……。

房子  (相手の不誠実を責るやうに、また、その高慢さを憐むやうに、黙つて、留雄を見据ゑてゐる)

留雄  (相手の視線を避けるやうに)わかつた。あなたは、僕の生活に温か味が欠けてゐるとおつしやるんでせう。

房子  温か味ね。それから落ち着き。

留雄  落ち着きがね。(考へ込む。何か思ひ出したやうに、あらはではないが、そはそはしはじめる)然し、生活と云ふものが、そんなに落ち着いたものぢやないんでせう。戦ひだとも云へ、お祭りだとも云へるんぢやないんですか。

房子  それやさうだわ、だから、なほ、落ち着いて、疲れたからだと魂とを、休めることが必要なんぢやなくつて。あなたは、戦ひとお祭に疲れていらつしやるんだわ。

留雄  ぢや、どうすれば、その落ち着きが得られるんです。

房子  そんなことは、あたしが云はなくつたつてわかるでせう。

留雄  わかるやうな気もします。


(稍長い沈黙)


房子  温かい心に触れて、それを、温かいと感じることが出来ないやうになれば、もうおしまひよ。


(長い間)


留雄  僕は、まだ、望みがありますか。

房子  そろそろあぶないわね。(淋しく笑ふ)


(呼鈴が鳴る)


留雄  (思はず立ち上り、戸口の方を見る)

房子  帰つたやうだわ。

手塚  (慌ただしく入り来る)や、失敬。君一人。(房子に)今日はまた晩飯に呼ばれちやつてね。お前も一緒につて云ふことだつたが(一寸留雄の方を見て)もう遅いから困るか。

房子  どなた。

手塚  なに、大使さ。僕は留守のつもりで、横田夫婦を入れてあつたのが、また妻君が急病でね、お鉢の逆戻りさ。僕一人なら、誰かもう一人都合するつて云ふから、今日はやめてもいいよ。

房子  さう、ぢややめるわ。(留雄の方を見て笑ふ。手塚に)あなた、それで、もうすぐお出かけ。

手塚  うん、だつて返事をしなくつちや。まあ、もう少し話して行くか。(腰を卸ろす)房さん、白川君に夕食でも何したらどうだ。

留雄  いいえ、僕はすぐ御暇します。

手塚  まあ、いいぢやないですか。僕もおつき合ひが出来るといいんだけれど……。

房子  (手塚に)ルイーズさんもいらつしやるさうだから、(留雄に)御差支がなかつたらあの方も御一緒に、ね。

手塚  さうか、それや丁度いい。

留雄  まあ、先生が来てからのことにしませう。

房子  さう云へば随分遅いわね、いらつしやり方が。

留雄  (無言のまま時計を出して見る)

手塚  (思ひ出したやうに)君は御存じでせう、西村と云ふ絵かき。

留雄  知つてます。どうして。

手塚  (事もなげに間)なに、今日役所へ警察から問ひ合せに来たんですがね、何んでも、女を殴つたとか、蹴つたとかで調べられてゐるらしいんです。そんな人ですか。

房子  まあ。

留雄  そんな人かどうか知りませんが、……。怪我でもさせたんですか。

手塚  頤がはづれたつて云ふんだから、まあ問題にはなりますね。

房子  ひどいことをしたのね。

留雄  勇敢だなあ、先生。

房子  ちつとも勇敢ぢやないわ。

留雄  勇敢ですよ。毛唐になら、唾をひつかけられても黙つてゐさうな手合が多いんだから……。(間)

房子  でも、相手が女なんですもの。

手塚  言葉が通じないんで困るつて云つてました。まだ来たてと見えますね。

留雄  一年位にはなるんでせう。さうだなあ、うまく云ひ開きが出来るか知ら。誰か通弁に行つたんですか。

手塚  役所の方ぢや、そんなことを一々かまつてゐられませんからね、どうかなるでせう。それに、相手の女が女だし、うつかり手出しをすると巻きぞへをくひますしね、まあ、さう云ふ事件には、あんまり関係しないことにしてるんです。迷惑ですよ。

房子  迷惑なんですつて。(留雄の方を見て笑ふ)

留雄  僕なんかも迷惑をかけさうだな。

房子  どうして。

手塚  こつちへ来て、日本人の体面にかかはるやうなことをしてくれるとね、それが一番困るんです、われわれが。

房子  それやほんとね、だけど、日本人の体面も、いい加減なものよ。一とかど立派な日本人のつもりでゐる人が、一も西洋、二も西洋なんですからね。そのくせ、それが、取つて附けの西洋で、随分滑稽なすまし方をしてゐるんですもの。

手塚  お前にそれがわかるか。

房子  あたしにわかる位だから、こつちの人が見たら、とても……。

手塚  然し、そんな事は大した問題ぢやないさ。

房子  問題よ。西洋人の前に出ると、先づどうしたら相手に笑はれないで済むかつて云ふ心配で、胸をわくわくさせてゐるんでせう。丸で、自然な処がなくなつてゐるの。笑はれまいと努めれば努めるほど、ぎごちなくなるのはあたり前だわ。(間)此の人なんか、それがひどいんですからね。

手塚  (まごついて)馬鹿云へ。

留雄  (笑ひながら)そこへ行くと日本の女は得だなあ。

房子  なあぜ。

留雄  自分のものを自分のものとして、どこへ行つても発表が出来、それがそのまま、完成された生活様式になつてゐるんですからね。これに反して、日本の男は、完全に西洋人の真似も出来ず、さうかと云つて、個有の生活様式からも遠ざかつてゐるんだから、どつちにしても、殺風景なわけです。全然日本風に洗錬された女はあつても、全然日本風に洗錬された男は、今時まづ無いと云つてもいいでせう。それだけ日本の男は、今、非芸術的な活き方をしてゐるんです。

房子  それや、女だつて大部分は、調和も統一もない生活をしてゐますけれど、あたしの云ふのは、西洋人の前だからつて、何もびくびくしたり、まごまごしたりする必要はないつて云ふことなの。

手塚  成る程、お前の云ふことも尤もだ。黙つて小さくなつてゐれば、それで済まないこともないんだらうがね。(房子の方をチラリと見、復讐的な笑ひ方をする)

房子  その方がよつぽどましよ。

手塚  さうかも知れん。(戸口の方を振り返つて)誰か来たやうだぜ。

房子  ルイーズさんよ。


(長い沈黙)


下女  (茶器を運び来り)あの、マドムアゼル・モープレからのお使ひで、お嬢さまは、今日急にお差支が出来まして、こちらへ伺へませんから、どうか皆様によろしくつて、さうお断りで御座いました……。

留雄  差支が出来たんですつて、ただそれだけ。

下女  はい。それだけで御座います。

留雄  うまいこと云つてら……。

房子  どうしたの。

留雄  人を馬鹿にするもんぢやありませんつて。……(間)あ、僕がさう云はう、女中さんでせう。(立ち上る)

下女  はい、でも、もう帰りまして御座います。

留雄  さうですか、ぢや、仕方がない。

房子  およしなさいよ、そんなこと云ふのは。差支は差支よ。(下女に)いいわ。

下女  (退場)

留雄  気まぐれだなあ。

房子  さうとばかり云へないわ。あなたもわからない方ね。

手塚  (房子に)お前の方がわからないのかも知れないぜ。白川君の待ち方は、お前の待ち方と違ふんだらう。

房子  ほんと。(留雄の方に笑ひかける)

留雄  (笑ひながら)来ると云つて来ない法があるもんですか。

房子  行くと云つても行けない時があるわ。

留雄  ありません。来ようと思つたら、どうしてでも来られる筈です。

房子  ここへ来ることより以上に、あの方を惹きつける何かがほかにあれば仕方がないぢやありませんか。(留雄の心を探るやうにその顔を見据ゑる)

留雄  それやさうだけれど……。

手塚  それぢや済まない訳があるんでせう。

房子  (留雄に)そんな訳なんかあるものですか。

留雄  あるかも知れませんよ。(さりげなく笑ふ)

手塚  さあ、それやまあ、あるとして置いて、僕はぼつぼつ出掛けます。

房子  あなた、それでいいの。

手塚  いいんだ。ぢや、ごゆつくり。(立ち上る)

留雄  いや、僕もそろそろ……(立ち上る)

房子  あなた一寸待つて頂戴、御話しがあるからね。(立ち上る)

留雄  急ぐお話し。

房子  ええ。

留雄  (黙つて立つてゐる)

手塚  (穏やかに)用事のある人を無暗に引留めるんぢやないぜ、いくら淋しくつたつて……。

房子  (笑ひながら)ええ、わかつててよ。

手塚  いづれまた、そのうち。(退場)

房子  (手塚と共に退場)

留雄  (待ち遠しさうに室内を歩きまはる)

房子  (いそいそと入り来り)留雄さん、ほんとにまだいいんでせう。夕食を召上つていらつしやいね。

留雄  駄目です、今日は。このつぎにして下さい。

房子  (留雄の傍に寄り添ひ、しんみりと)どうして。(間)あたし、今日は、ゆつくりあなたに聞いて頂きたいことがあるんだけれど…………。

留雄  ゆつくり。ぢや、それも此のつぎにして頂けませんか。今夜は、どうしても行かなければならないところがあるんです。

房子  今夜何時から。

留雄  今、すぐ。

房子  (しばらく留雄の顔を見つめ、訴へるやうに)ぢや、もう一時間。ね、後生だから。

留雄  一時間。(間)一時間ならよござんす。(着席)

房子  うれしい。(留雄に近く座を占める)


(長い沈黙)


留雄  どうしたんです。

房子  あたし、手塚と別れようと思ひますの。

留雄  (驚いて)手塚君と。(間)理由は。

房子  理由。あたし、あの人を愛することが出来ないから。

留雄  それで。

房子  それで……(間)独りで日本へ帰らうと思ひますの。

留雄  日本へ。(間)さうして、どうなさるんです。

房子  (低く)どうするかわかりません。(間)どうにかなりますわ。

留雄  手塚君はあなたを愛してゐるんでせう。

房子  愛してゐるつもりでせう。

留雄  つもりとは。

房子  あの人から愛されてゐることが、あたしには苦痛なの。恥かしいとさへ思ふわ。

留雄  さう云ふことがあるでせうね。然し、手塚君が可哀さうだとは思ひませんか。

房子  可哀想なやうな気もするんですの。

留雄  (暫く考へた後)あなたが、さう云ふ決心をなさるについて、別段僕の意見をお求めになるわけではないでせう。

房子  (相手の心持ちを読みかねて)伺つて置きますわ。

留雄  さうぢやないんです。僕は、あなたの一身上の問題に啄を容れる資格はないんです。若し意見を求められれば、自分の考へだけは云ひますけれど……。


(稍長き沈黙。)


房子  かう云ふ問題はもともと理論外ですからね。(間)直接此の問題についてでなく、もつと将来の問題で、あなたの御意見を承はりたいとは思つてゐるんですの。

留雄  手塚君と別れてから後のことですか。

房子  ええ。


(長い沈黙)


留雄  将来の問題と云ふと、生活問題ですか。

房子  (急に調子をかへて、快活に)まあ、それは今日でなくつていいのよ。今はただ、このことをお耳に入れて置くだけ、ね。びつくりなすつた。

留雄  別にびつくりもしません。僕は夫婦関係と云ふものを、随分あやふやなものだと思つてゐるんですから、大かたはね。

房子  ほんとに、あやふやなものよ。(間。唇を噛む)

留雄  成る程、むつかしいもんだなあ。

房子  なに、結婚。

留雄  結婚でも、恋愛でもね。

房子  むつかしいんぢやないわ。運よ。


(長い沈黙)


留雄  運か。

房子  あなた西洋の女をどうお思ひになつて。

留雄  どうとは。

房子  女として。(間)男は幸福でせうか。

留雄  男によりますね。

房子  女にもよるでせうけれど……。(笑ふ)

留雄  だから、そんなことは一概に云へませんね。

房子  ぢや、男はあなたとして、典型的な西洋の女はどう。もつと限つて、仏蘭西の女。その女が、あなたを愛するとしたら、どんな愛し方をするでせう。その愛し方に、あなたは満足なされる。

留雄  つまり、西洋の女が一般に有つてゐる恋愛観念に、僕が同感出来るかどうかと仰しやるんですね。

房子  さうよ。

留雄  出来さうですね。あなたは例外かも知れないが、僕は日本の女の大部分が考へてゐるやうに、男の為めなら、どんなことでもすると云つたやうな愛し方を、そんなに尊いものだとは思つてゐません。

房子  「愛する男の為めになら」でなければ駄目だわ。さう云ふ心持ちならいいんでせう。

留雄  その「どんなことでもする」が、いけないんです。

房子  どうして。

留雄  与へると云ふ態度は恋愛には禁物です。欲しいものを与へられる前に、相手から思ふままつかみ取るんでなければ恋愛の陶酔境にははひれないんです。与へたいものを与へる前に、相手がそれをつかみ取りに来なければ、相手の愛は完全でない、まあ、さう見ても差支ないでせう。

房子  (痛ましげに留雄の顔を見つめる)

留雄  お互にしたいことをして、それが偶然にお互の気に入るやうな、さう云ふ二人だけが、ほんたうに愛し合つてゐるんです。

房子  そんなうまいことがあるもんですか。

留雄  だから、滅多に恋は出来ないんです。

房子  お互に望んでゐるものを、進んで与へ合ふ、それでも立派に愛が成り立つと思ふわ。与へることが、与へられるのと同じ悦びなんだから……。

留雄  恋愛は宗教でも道徳でもありません。与へることが相手を悦ばすと思ふのは、人間の本性を無視した考へ方です。そこに投げ出されたものを、与へられたものだと思ふ人間があれば、僕はその人間を馬鹿だと云ひます。


(稍長い沈黙)


房子  あたし、実を云ふと、あなたはお気の毒な方だと思つてゐましたの。それが、なぜだか、急に、あなたが羨やましいやうな気がして来ましたわ。

留雄  (いくらか、たじろいて)さうですか。

房子  ぢや、日本の女を愛するなんて云ふことは、とてもあなたにはお出来にならないわね。

留雄  (笑ひながら)それやどうだかわかりません。現に、僕は日本の女を熱烈に愛したことがあります、六七年前に。

房子  (顔を伏せて)知つてますわ。然し、それは昔のことでせう。(間)その女は、あなたの愛に背いた冷酷な女でした。その頃のあなたは、また、相手から与へられるまで、それを待つておいでになるあなたでしたわね。(淋しく笑ふ)あなたから愛されてゐることをはつきり感じながら、その女は、それに酬いる方法さへ知らなかつたんですもの。(長い沈黙。)

留雄  (静かに起ち上つて窓ぎはに近づく)

房子  その女は、あなたのお口から、ただの一度も、期待してゐた言葉を聞かされないうちに、気まぐれな運命の手に浚はれて行きました。

留雄  房子さん、もうその話はよして下さい。僕達の友情は、もつと以前の、もつと楽しい思ひ出で繋がつてゐるんぢやありませんか。(間)あれは何時頃のことだつたか。僕がブランコから落ちて額に怪我をした時、そばで、風船をついて遊んでゐたあなたが、あわてて、その紙の風船で、僕の額を押へながら、「お馬鹿さんねえ」かう云つて、僕をうちへ連れて行つて下すつたのを覚えておいでですか。今のあなたは、その頃のあなたなんです。僕に取つて……。ね、さうでせう。

房子  いいえ、違ひます。その頃のあたしは、どんなことでも、平気であなたに云へたのが、今のあたしは、思つてゐることの半分も、あなたに云へなくなつてゐるんですもの。

留雄  それや、人間が年を取れば、分別と云ふ変なやつが、心臓の鍵を握るやうになりますからね、お互に。


(重苦しい沈黙。)


房子  (溜息ついて)分別ばかりぢやないのね。

留雄  (笑ひながら。)分別顔をした無分別と云ふ奴もありますね。僕なんかには、大分それがありさうです。

房子  ほんとよ。

留雄  あなたにどうしてそれがわかります。

房子  (しみじみと)しばらくの間に、随分あなたも変つておしまひになつたわね。

留雄  どう変つたんです。(房子に近づく)

房子  どうつて、それや、もとからさうだとおつしやればそれまでだけれど、なんだかあなたとお話しをしてゐると、あたしの云ふことが、いちいち的から外れるやうな気がしますの。(間)また、実際、外れてしまふんですわ。(笑ひながら)よくねらつたつもりでも……。

留雄  それや困りましたね。(間。声をおとして)その的とはなんです。

房子  何に限らずですわ。

留雄  例へば……。

房子  例へば……(間)例へば……(抑へきれないものをうつちやるやうに。)留雄さん、お願ひだからあたしをそんなにいぢめないで頂戴。ええ、あたしが馬鹿なの、こんなことを云ひ出すなんて……。でも、あなたはあたしの苦しい告白をもつと素直に聞いて下さるだらうと思つたんです。(泣きながら)あたしはどうしたらいいんでせう。(両手で顔を覆ふ)

留雄  (房子の肩に手をかけ)もつと早くあなたに云つて置けばよかつた。僕は、或る女を愛してゐるのです。

房子  (極く低く)ルイーズさんでせう。

留雄  その愛は遂げられない愛かもわかりません。あの人から愛の保証を得ることさへまだ出来ずにゐるのです。しかし、僕の心は囚はれてゐます。あなたが僕を想つてゐて下さる、さう知つて、心が……乱れはしても、僕はあなたから差し延べられた手を……すぐに取ることが出来ない、それはわかつて下さるでせうね。

房子  (黙つて肯く。長い沈黙)

留雄  話しをわき道にそらさうとした僕の態度は、たしかに卑怯でした。僕の取るべき道を教へて下さい。

房子  (淋しく笑ひながら)いいのよ、そんなこと。あたしにはかまはないで、あなたはあなたの道をお歩きなさい。ぢや、今日はこれでお別れしませうね。(静かに立ち上り)あなたが昔お苦しみになつただけ、あたしも苦しみますわ。(戸を開ける)

留雄  (頭を垂れ、力なく退場)

房子  (送つて出ながら)やつぱり、毎週金曜日には、いらしつて下さいね。(やがて、両手にて顔をおほひ、入り来り、急いでピヤノを開け、静かにセレナタを弾く)



第三場


前場と同じ場面。


ルイーズ  (白い羽根のついた帽子。いくらか落ちつかぬ様子にて)ぢや、使が来てからすぐね、白川さんのおかへりになつたのは。

下女  すぐでも御座いませんでした。旦那様がお出掛けになつてからも、しばらく奥様とお話しをなすつていらつしやいましたから。

ルイーズ  おや、さう。(間)使をよこした時、白川さんはなんとか云つてらつしやらなかつた。

下女  (笑ひながら)いいえ、別になんとも。

ルイーズ  (信じないやうに)怒つてらしつたでせう。(軽く笑ふ)ぢや、奥さんにさうおつしやつて頂戴ね、すぐお暇しますからつて。(傍の椅子にかける)

下女  はい、畏こまりました。(退場)

房子  (静かに扉を開き、強いて笑顔を作りながら、ルイーズの方に近づく。)

ルイーズ  (立ち上り)今日は。

房子  (日本風に会釈して)いらつしやいませ。もう、御用はおすみになりましたの。(ルイーズに椅子をすすめ、自分もかける)

ルイーズ  ええ。今日はもう遅いからと思ひましたけれど……(間)まだ、どなたかいらつしやるかと思つて……。

房子  白川さんは、たつた今、お帰りになりましたわ。

ルイーズ  さうですつてね。お約束をしといて、すまなかつたけれど……。これからどこへいらつしやるつて云ふやうなことをおつしやつてませんでしたか。

房子  いいえ、伺ひませんでした。

ルイーズ  今日はどなたか珍しい方が御見えになりましたの。

房子  いいえ、どなたも。


(稍長い沈黙)


ルイーズ  先達はどうもありがたう。御蔭で愉快な日を過しましたわ。

房子  却つて御迷惑だつたでせう、暑くつて。

ルイーズ  あ、それから、あの時の写真、わざわざ。お上手ですわ、ほんとに。

房子  なんですか、あんなことばかりに凝つて……。


(稍長い沈黙)


ルイーズ  あなた、白川さんのおうちの方とも御懇意になすつていらつしやるんでせう。

房子  ええ、ずつと以前から。

ルイーズ  お父さまは宮内省とかに勤めていらつしやるんですつてね。

房子  お家柄なんですの、なかなか。

ルイーズ  まあ。ぢや、立派なお暮しをなすつていらつしやるのね、おうちでは。

房子  さうですとも。

ルイーズ  お父さまと仲たがひをしていらつしやるつて云ふぢやありませんか。

房子  仲たがひつて云ふわけぢやないんでせう。詳しいことはなんですけれど、やつぱりあの方がおうちの相続はなさるんでせうから。

ルイーズ  御長男ですわね。

房子  さうですよ。

ルイーズ  おうちのことはちつともおつしやらないのね、あの方。

房子  お身分を鼻にかけるやうな方ぢやありませんわ。

ルイーズ  ええ、それやわかつてますわ。(間)さうですか。


(稍長い沈黙。次第に暗くなる)


ルイーズ  変なことを伺ふやうですけれど、白川さんはまだお一人なんでせうね。

房子  え。

ルイーズ  いいえね、お国の方に奥さんでもいらつしやるんぢやないかと思つて……。そんなことはありませんわね。

房子  さあ、(長い間)あたしはただ、あの方が結婚していらつしやらないことは知つてゐます。

ルイーズ  と、おつしやると……。

房子  そのことなんでせう、お尋ねになつたのは。

ルイーズ  ええ、さうですの。


(間。)


房子  立派な方ですわ、白川さんは。


(長い沈黙)


ルイーズ  何かあの方がおつしやつたんでせう、あたしのことについて。

房子  あなたを愛しておいでになるつて云ふことだけ……(声がかすかにふるへる)

ルイーズ  まあ。今日。

房子  いいえ、もうずつと前のことですわ。そのお話しがあつたのは。(ルイーズの方に近づく。)あの方は、あなたから早くいい御返事を聞きたがつていらつしやるんですわ。


(房子、そつと電燈をつける。ルイーズの夢みるやうな眼を、房子の悩ましげな眼が見据ゑてゐる。二人は急に、笑顔を作る)


ルイーズ  びつくりした。

房子  暗い方がよござんしたわね。



第四場


サヴワ地方。ホテルのバルコニー。午後一時。


留雄  昨夜、雨が降つたんですか。

女中  いいえ、時々、夜露でこんなになることが御座います。(欄干を拭く)

留雄  今朝は随分寒かつた。

女中  お天気のよろしい日には、夏でも、きまつて、朝は寒う御座います。(間)先月は、ずつと雨で御座いましたから、今月はきつとお天気が続きませうと思ひます。お客様も、今月になつて急に殖えたんで御座いますからね。

留雄  冬は淋しいでせうね、此の辺は。

女中  どう致しまして。却つて冬の方が賑ひますの、スケートで。

留雄  ああ、さうか。(間)春秋は静かでせう。雪もまだ積らず、木の葉も出揃はないつて云ふ頃は。

女中  さうで御座いますね。十月と四月はひまな月として御座いますけれど、日和さへよければ、手前どもなんかは、お客様が絶えません、温泉も御座いますし……。(掃除を終りて)あの、お昼から、お二人とも、また御出掛けで御座いませうか。

留雄  多分。どうして。

女中  いいえ、まだ御部屋がそのままになつておりますから……。今日はつい手が廻りませんで……。

留雄  かまはないから、後にして下さい。どうせ晩までには散歩に出るから。

女中  畏こまりました。(カクシより髷ピンを取り出し)ここにこれが落ちておりました。奥さまので御座いませう。(留雄に渡さうとする)

留雄  その辺に置いといたらいいでせう。

女中  では、ここへ。(テーブルの上に置く)御免下さいませ。(退場)

留雄  (急に暗い顔をして、欄干に倚る)

ルイーズの声  あなた、そこにゐるの。

留雄  (聞えないふりをしてゐる)

ルイーズ  (毛糸のジヤケツトに手を通しながら出で来り)どうして置いてきぼりにするの。

留雄  (背を向けたまま)話しが長くなると思つたから……。

ルイーズ  あなたを紹介しようと思つてゐたのに、いつの間にかゐなくなつてゐるんですもの。

留雄  (ルイーズの方を向いて)それは失礼。誰です、あれは。

ルイーズ  あたしの学校友達よ。綺麗でせう。(間)もう結婚して五年になるの。旦那さんは田舎の大地主だけれど、ずつと巴里にゐて、交際社会にも顔の売れた人。あれでもう四十なのよ。気取つてるから若く見えるわね。

留雄  今日来たんですね。

ルイーズ  此の土地へは一週間前から来てるんですつて。パラースに泊つてるの。ここへかはつて来るらしいわ、食事を褒めてたから……。

留雄  僕のことは知つてるんですか。

ルイーズ  それがね、詳しい話をしようと思つてるうちに、何だか、変な工合になつて……(間)でも、日本の画家で、あたしの親しいお友達だつて、さうは云つて置いたんだけれど……。

留雄  さうですか。(ぷいと背を向ける)

ルイーズ  今日お茶に呼ばれてるから、その時よく話をするわ。


(長い沈黙)


留雄  (ルイーズに背を向けたまま、スケツチブツクを取り出して、写生をしはじめる)

ルイーズ  (留雄により添ひ、なだめるやうに)少し歩いて見ない。

留雄  僕はもうここにゐるのがいやになつた。

ルイーズ  どうして。

留雄  だんだん人がやつて来て、うるさいぢやありませんか。

ルイーズ  今時分は、何処へ行つたつてこれ位の人はゐるわ。避暑地で、こんなにひつそりした処は、めつたにないことよ、(間)ここなら、ホテルを一足出れば、殆ど誰とも顔を合はせなくつていいんぢやありませんか。(間)深い静かな森もあるし……(間)これから、あの谷を越えて、向ふの丘に登つて見ない。あの丘の麓に美しい湖水があるんですつて。道が悪いから、あんまり人が行かないつて、昨日の馬車屋が云つてたわ。

留雄  あなたも人と顔を合はすのがいやなんですか。

ルイーズ  あたしはかまはないけれど……あなたが……(椅子に掛ける)

留雄  ええ、僕はいやです。殊に、さつき昼飯の時に出くわしたやうな眼附は、たまらなくいやです。

ルイーズ  どんな眼附よ。

留雄  さつき、食堂で、あなたが向ふに行つて話しをしてゐる間、あの連中が、どんな眼附をして僕の方を見てゐたか、あなたは知つてゐますか。

ルイーズ  あの人達が。

留雄  どんな立派な人達か知らないが、あの眼附はなんです、無礼きはまる。(写生帳をしまひ、成る可くルイーズを見ないやうに歩きまはる)

ルイーズ  人の眼附なんぞ、どうだつていいぢやありませんか。珍しいから見てるんだわ。

留雄  珍しいから見る、成る程ね。あの人達に限らず、僕一人の時なら、まあ、さう取れないこともない。さうとばかりも云へませんがね。(間)然し、あなたと一緒の時は、僕だけが見られてゐるんぢやないんですからね。あなたと一緒にゐる僕と云ふものが興味の中心になる。(間)興味だか何んだか知らないけれど……。(間)西洋の女を連れてゐる東洋の男が、どう云ふ意味で人の注意を惹くかが問題です。

ルイーズ  注意を惹くのは男の方と限つてゐないでせう。あたし達の場合なら……。

留雄  そこなんです。冷静に考へて見ようぢやありませんか。

ルイーズ  そんなこと考へたつて何んにもならないわ。

留雄  なつてもならなくつてもいいんです。世の中に不釣合な夫婦と云ふやつがありますね。なんだつてあんな男を、さう云はれる女も、好い気持ちはしますまいが、あれでよく女の方が、かう思はれる男こそ、いい面の皮ですからね。(間)僕達の方に注がれてゐる眼附が、ただ珍らしいものを見る眼附だと思ふのは、どうですかね。(間)僕の方には、少くも、その眼附が、「こん畜生、黄色いくせに生意気な」、かう云つてゐるのが明かにわかるんです。

ルイーズ  留雄さん、つまらないことを云ふのはよしませうね。(間)今だから云ふけれど、あたしと一緒に人前に出ることを、あなたが、何だか憚つていらつしやるやうな様子が見えて来たので、あたし、不思議に思つてゐたの。それも、ここへ来てからよ。

留雄  つまり二人がかうなつてからでせう。さうです、僕は、自分自身がさう云ふ眼で見られることよりも、あなたが、僕と一緒にゐる為めに、気まづい思ひをなさりはしないかと、その方が気になるんです。それから惹いて、あなたの僕に対する心持ちに、暗い影がさすつて云ふやうなことが、ないとも限りませんからね。


(長い沈黙)


ルイーズ  人の思惑や、世間の口の端で、心がはりをするやうな女なら、棄ててしまつても惜しくはないぢやありませんか。(間)実を云へば、あたしも、はじめの二三日は、人からじろじろ顔を見られるのが、何だか気恥かしいやうな心持がしましたけれど、あたしがあなたのものであり、あなたがあたしのものだと云ふ気持ちが、だんだんはつきりして来るにつれて、今迄は、自分を世間のうちに置いて、いくらか人ごとのやうにあたし達の関係を見てゐたのが、こんどは、自分を全く二人きりの世界に置いて、そこから、平気で世間が眺められるやうになつつたの。だから、人がどんな眼で見やうと、こつちからさう云ふ人達の眼を嗤つてやるだけの余裕が出来てゐるわ。(間)あなたはあんまり考へ過ぎるのよ。あたし達が不釣合だとすれば、あたしの方に寧ろ足らない処があるんだわ。

留雄  常談をおつしやい。あなたに欠点があれば、それは美し過ぎると云ふ欠点でせう。

ルイーズ  そんなことはまあ別として、第一日本の女でないことが欠点よ。

留雄  僕が仏蘭西人でないと云ふことはどうなるんです。

ルイーズ  それがあたしの望みなんだからいいぢやないの。

留雄  僕もあなたが日本の女でないことを幸ひに思つてゐるんです。

ルイーズ  そんなら、それでいいぢやありませんか。

留雄  あなたは、僕を日本人だから愛するんぢやないと云ひましたね。

ルイーズ  それは、あなたが、日本人だから愛すると云ふ愛し方ならいやだとおつしやつたからだわ。

留雄  さうでしたね。あなたが、日本と云ふ国に対して有つておいでになる執着が、日本人である僕に対する好意、更に愛情になつたのではないかと、僕はただそれを恐れてゐました。あなたの空想で築き上げられた殿堂が、どんなに美しいものであつても、僕がその殿堂の庭に生えた草かなんぞのやうに、あなたの感傷的な気まぐれを満たす為めに摘み取られることだけはいやだと思ひました。

ルイーズ  まあ、そんな……。

留雄  僕の云ふことを終ひまで聴いて下さい、処が、近頃になつて、やつとさう云ふ気持ちが薄らいで来たのです。それと云ふのも、近頃のあなたには、僕を透して日本を見ようと云ふやうな態度が、殆どなくなつたからです。少くとも、かうして二人きりでゐるやうな時は、僕は、あなたが仏蘭西人だと云ふことも、僕が日本人だと云ふことも全く忘れてゐます。(間)ただ、どうかしたはづみに、僕が外国人であること、殊に、色々な点で隔りの多い人種に属してゐる人間であることに気がついた時、二人の間には、今迄知らなかつた大きな溝が、今迄感じなかつた大きな空虚が出来てゐるのです。さう云ふ時、あなたの顔は、まあ、頼りなさとでも云ふやうな感情で、ひとりでに暗くなる。いいえ、それはほんとうです、(間)かうなつたら何もかも云はして下さい。あなたが僕と話しをしてゐて、例へば日本人のことを呼ぶのに、もう例の「あなた方」と云ふ呼び方はなさらなくなつた。然し、そのかはり、第三者に僕の話しをなさる時のあなたは、決して、僕の腕に抱かれてゐる時のあなたではありません。あなたの心のうちに、或る戦ひが起る。その戦ひがどんな戦ひか、僕にはわかつてゐます。その戦ひを黙つて見てゐる僕は、自分の身を焼かれるよりもつらいのです。(間)今更こんなことを云ふのも馬鹿げてゐますが、黄色人種に対して有つてゐる白人の感情は、一般に、吾れわれが甘んじて受け容れられる性質のものではありません。ただ、どうすることも出来ないのは、肉体的の弱点です。猿のやうな顔面の骨格や、土のやうな皮膚の色は勿論、あなたが、よく、頸の短い、肩の怒つた、尻の細い、脚の曲つた男の後姿を見て、あれは日本人ぢやないかとおつしやるほど見すぼらしい体格、それは白人でない僕自身でさへも、全く滑稽に感じ、軽蔑さへしたくなるほどの醜さです。(間)さう云ふ男の一人と腕を組んで歩くだけでも、白人の女にとつては、大きな屈辱であるべき筈です。

ルイーズ  (キツとなり)屈辱ですつて。(間)あなたは、御自分をどんなに卑下なすつても、まあそれはかまはないとして、あたしが夫を選ぶ為めに、総ての自由を与へられてゐることだけは忘れないで下さい。(間)あなたが、どう云ふわけで、そんなことをおつしやり出したか、あたしにはよくわかりませんけれど、若し二人の結婚に何か不満をもつておいでになるなら、はつきり、さうおつしやつて頂戴ね。(間)あたしが普通の女だつたら、世間並に、ただ女好きのする男、さう云ふ男にでもからだを委せたかも知れません。成るほど、異人種の結婚は、余程慎重に考へなければならない問題に違ひありませんけれど、あたし達二人は、お互に、先づそれぞれ相手の国を理解し、二人の間には、しつかりした心のつながりが出来てゐる以上、少し位の障碍はこれから立派に取り除けられるものと思つてゐました。あなたのおつしやるやうなことは、ほかの女ならいざ知らず、少くとも、日本人の美しさ、精神的ばかりでなく、肉体的にも特殊な美しさを認めてゐるあたしには、丸で縁の遠いことですわ。それや、いくらか人の前で、あなたにも気づかれるほどの……心の戦ひは大袈裟だけれど、まあ、努力と云へば努力をすることもあります。然し、それは、決して、あなたに対する不満から生れるのではなく、あなたがさつきおつしやつたやうな、白人の偏見から、どうかして、あなたを救ひたい、──言葉は悪う御座んすよ──どうかして、日本人であるあなたの真価に尊敬を払はせたい、まあ、これもつまらない自尊心からでせうけれど、さう云つた心づかひが、ついふだんの落ち着きを失はせるのかも知れません。そんなことを、あなたが一々気に留めていらしつたら、それこそ、人前には出られないわ。それもあたしがそんなことを苦にしてゐれば別だけれど、さう云ふ一種のヴァニテは、誰にだつてあるんですからね。──(優しく笑ひながら)殊に女にはね。

留雄  (いく分おだやかに)あなたの心持がそれだけわかれば、何も云ふことはありません。

ルイーズ  さ、もう何も云ふことがなけれや此処へいらつしやい。(別の椅子を引き寄せ、くつつけるやうに並べる)

留雄  (間の悪るさうに腰を卸ろす)

ルイーズ  散歩に出る。

留雄  僕はよしませう。(顔をそむける)

ルイーズ  またそんな……(留雄の手を取つて)こつちを見て御覧なさい。

留雄  (そつとルイーズの方を見る)

ルイーズ  (留雄の両手を取り、笑ひながら)さ、それで笑つて御覧なさい。

留雄  (しかたがなささうに微笑む)

ルイーズ  (満足げに)さう、その通り。(留雄の方に顔を近づけ、声をひそめて)一寸よ。

留雄  (極めて軽くルイーズの頬に唇をあてる)

ルイーズ  駄目、そんな。(更に顔を近づけ、留雄の眼を見上げる)



第五場


前場と同じ場面。月夜。


留雄  (椅子に倚り、瞑想に耽つてゐる)


(オーケストラの舞踏曲が止むと、笑声、拍手の音が交々聞える)


ルイーズ  (夜会服にて現はれ、留雄を見つけて)いや、また置いてきぼりにして。くたびれたの。(後ろより留雄の頚に腕を捲きつける)

留雄  僕はもうあんな場所へ出るのはいやです。

ルイーズ  わかつててよ。あたしだつて好きで出るんぢやないわ。(間)ぢや、もうここにゐませう、ね。(留雄の傍に座を占める)好い月だこと。


(長い沈黙)


留雄  僕にかまはないで、あなた踊つてらつしやい。あの連中に悪いでせう。

ルイーズ  いいのよ。(間)虫が鳴いてる。


(稍長い沈黙)


留雄  寒くはありませんか。

ルイーズ  ええ、少し。(肩をすぼめる)

留雄  (立ち上り、奥に入る)

ルイーズ  何処へ行くの。


(オーケストラの音が再び起る)


留雄  (ルイーズのヂヤケツトを持ちて出で来る)これでいいんですか。

ルイーズ  ええ、ありがたう。(立ち上る)

留雄  (ヂヤケツトをルイーズに着せかける)

ルイーズ  (着終りて、留雄の手を握る)熱い手、熱があるんぢやない。(腰を卸ろす)

留雄  (立つたまま)チヨコレートはまだあつたか知ら。

ルイーズ  もうないわ。あたしがみんな食べた。(間)おなかがすいたの。(間)何か取つたら。


(稍長い沈黙)


留雄  ねむい。

ルイーズ  これぢやねられないわね。(間)どうして、そんな処に立つてるの。

留雄  (腰を卸ろす)

ルイーズ  踊れるんでせう、あなた。

留雄  馬鹿々々しくつて。

ルイーズ  でも、たまには面白いことよ。考へちや出来ないわ、あんなこと。(間)やつぱり生活次第ね、なぐさみなんて云ふものは。

留雄  一時、努めてやつて見ようと思つたこともありますけれど、こればかりは、どうしても気がひけて……。

ルイーズ  日本人独特の自己批判ね。いいことだけれど……損もするわね。

留雄  或る程度まで自分を忘れることによつて、却つて自分の存在をはつきり掴むと云ふやうなことも、考へて見たことがあります、パラドクサルな云ひ方だけれど。

ルイーズ  それはほんとね。

留雄  強く活きる為めに、生活意識ほど邪魔になるものはないと思ひます。

ルイーズ  さうとも云へないわ。日本人の有つてゐる鋭敏な生活意識は、欧羅巴の生活に織り込まれてゐるやうな強烈な刺激には堪へられないのよ。

留雄  さうかと云つて、日本人の多くが今でも棄てられないでゐる概念的な感情の遊戯には、僕だつて、あきたらないんですがね。

ルイーズ  つまり、古い玩具を棄てて、新しい玩具の方に手は出したものの、扨て、その玩具で遊ぶ段になると、どうも勝手が違つて、面白くないつて云ふわけね。(間)あたしは、その二つの玩具で面白く遊ぶことを知つてゐるの。


(オーケストラの音止み、一としきり、拍手、笑声が聞える)


留雄  日本には、御存じの通り和洋折衷と云ふ言葉があります。

ルイーズ  折衷と云ふことは、必ずしも、ちぐはぐと云ふことではないでせう。(間)怒つちやいやよ、折衷主義をけなすあなたが、現在一番ちぐはぐな生活をしていらつしやるんぢやなくつて。(間)西洋の生活を肯定なさるあなたの思想は、日本人としてあなたが有つておいでになる伝統的な感情、それは恐らく世の中で最も洗錬された感情よ──その感情と背中合せをしてゐるんだと思ふわ。日本人の美しい感情生活を土台にして、西洋の論理的な思想生活を築き上げることは、あたし達にはそんな六ヶ敷いことぢやないでせう。ただ、それには、一方の生活を全然棄ててしまふと云ふやうな間違つた考へを、起してはならないのよ。(間)それからまた、さう云ふ新しい生活が、比較的動きつつある日本の社会に、生れる可能性が多いと云ふことも考へて見る必要があるわ。

留雄  それで、日本に行かうとおつしやるんでせう。(相手の心中を見破つた誇り、さう云ふ誇りを示した笑ひ方をする)

ルイーズ  (ためらひながら)まあ、さう云ふことになるわね。(間)あなた、どう思つて。

留雄  僕達はどこへ行つても、此処に居る以上の自由は得られないと思ひます。自分を脅かし束縛する社会に、どんな優れたものが潜んでゐようと、その社会は全体として自分を活かしはしません。あなたが憧れておいでになる日本と、僕が惜しげもなく棄てた日本との間に、どれだけの隔りがあるか、それは、僕だけが知つてゐて、あなたには分らないんです。旧い日本の事は云ひますまい。又、将来の日本がどうならうと、そんな事は僕達の知つた事ぢやない。僕達は、ただ、現在の日本が、どの点から見ても、矛盾と破綻に満ちた住み心地の悪い社会であることを知つてゐるだけで沢山です。あなたの美しい空想をぶちこはすだけでも、今、日本に行くことは考へものです。現実の日本が、あなたにどんな印象を与へるか、それを思ふと、僕は、自分が日本人であることを情けなく思ひます。目のあたり赤裸々な日本人の生活を御覧になつて、あなたは、きつと、日本人を夫に有つた事を後悔なさるに違ひありません。その時、此の僕はどうなるんです。

ルイーズ  (笑ひながら)大丈夫よ、留雄さん。あたしは、現在の日本を最も正しく視る方法を父から教はつてゐます。その点は誰よりもあたしを信じて下さい。

留雄  われわれは、学者や芸術家のやうな態度で、常に自分の周囲に接することは出来ませんからね。

ルイーズ  出来ない筈はないでせう。

留雄  出来ません。

ルイーズ  出来ます。(挑むやうに留雄の顔を見つめて笑ふ)出来てよ。

留雄  あなたが日本に行かうとおつしやるのは、外に理由があるんでせう。

ルイーズ  どんな理由。

留雄  あなたはやつぱり、ここで僕達に注がれてゐる世間の眼を怖れてゐるんですね。日本に行けば、さう云ふ眼から遁れることが出来ると思つておいでになるんでせう。

ルイーズ  あなたはさうお思ひにならない。

留雄  あなたは、僕と一緒に此処にゐるのが、そんなに辛いんですか。(立ち上つて、ルイーズの側を離れる)

ルイーズ  まあ驚いた。あなたはさう云ふものの考へ方をなさるの。(間)あたしが怖れてゐるのは、世間の眼ではなくつて、それを怖れておいでになるあなたの眼よ。(間)だから、あなたが、御自分と同じ周囲に取巻かれると云ふことが、あなたに取つても、あたしに取つても、結局幸福ぢやないかと思ふんだわ。

留雄  僕にとつて自分と同じ周囲が、あなたに取つてはどうか、それはわかつておいででせうね。

ルイーズ  日本に居る外国人は、みんな日本人の慎み深い待遇に満足してゐます。あたしは、日本に行つて、あなたが欧羅巴で遭遇なさるやうな──それもいくらか、あなたの思ひ過しがあるにはあるけれど──さう云ふ眼附で見られるやうなことは先づないと思ひますわ。

留雄  成る程、さうでせう。白人種の優れた特質が、黄色人種の社会で、一層光つて見えるのは当り前ですからね。

ルイーズ  (嘆願するやうに)留雄さん。

留雄  僕は日本に行きません。(間)行くのはいやです。(間)僕は仏蘭西の、自由な生活だけが、人として、また芸術家としての僕を寛大に育ててくれることを信じてゐるのです。さうして、その生活の中で、仏蘭西人であるあなたの濃やかな情熱が僕の魂を焼きつくしてくれることを望んでゐるのです。


(オーケストラの音、更に起る)


ルイーズ  (瞬きもせずに、遠くの何ものかを見つめてゐる)

留雄  (ルイーズの傍らに腰を卸ろし)ルイーズさん。日本に行くことだけは思ひ止まつて下さい。

ルイーズ  ぢや、しばらくでいいから、兎も角日本を見せて頂戴。永住しなくつてもいいから、旅行者として、日本を訪ねるだけね、それならいいでせう。いやになつたら何時でもこつちへ帰つて来ることにして、一と先づ、此の土地を離れて見ませう。

留雄  どう云ふ理由があつても、僕は日本の土を踏みたくありません。(間)そんなに行きたければ、あなた一人で行つたらどうです。

ルイーズ  あたし一人で。(かう云つて、殆ど脅迫的な身構へをする)

留雄  だつて、さうするよりしかたがないぢやありませんか。

ルイーズ  (憤りを抑へて)よう御座んす。さうしませう。(唇を噛む)

留雄  僕の云ひ方が悪かつたかも知れません。一人で行けと云つたのは、勝手にしろと云ふ意味ぢやなかつたんです。日本を見たいと云ふあなたの御望みは、早晩実現させなければならない。僕は色々の事情で一緒に行くことは出来ないけれど、幸ひあなたは旅行にも慣れておいでになるし、時機を見て、長くとも一年か二年、……

ルイーズ  いいえ。(間)あなたが日本に行くのがいやだとおつしやるなら、あたしは仏蘭西にゐるのがいやだとも云へるんですからね、二人の違つた欲望を同時に満たすことが出来ないとすれば、道理に道を譲る外はないと思ひます。あなたは御自分のかたくなな自尊心で、二人の生活を破壊しようとなさるんですね。

留雄  さうでせうか。あなたこそ、御自分の見栄と気まぐれで、二人の愛を傷けようとなさるんぢやありませんか。

ルイーズ  (努めて冷やかに)さあ、どうでせう。(間)あなたも、わからない方ね。


(長い沈黙)


留雄  此の問題は僕達二人だけで解決できる問題ではないと思ひます。

ルイーズ  第三者に相談のできる問題でもないでせう。

留雄  だから、此の問題はそのままにしておいて、もつと根本から二人の立場をはつきりさせて置かうぢやありませんか。

ルイーズ  立場と云ふと……。

留雄  僕達は自由なんですからね。

ルイーズ  (息づまるやうに)それはわかつてるわ。(間)ぢや、やつぱり、勝手にしろとおつしやるのね。(涙ぐむ)

留雄  さう云ふものの云ひ方はよしませう。お互に自由を尊重することは、お互のすることに無関心であるのとは違ひます。二人の愛が、しつかりした根柢の上に築かれてゐるものなら、離れてゐる二人を何時かまた結び附けるでせう。僕達は先づ信じ合はなければなりません。

ルイーズ  (泣きながら)その愛がほんたうの愛なら、今二人を引離す筈はないと思ひますわ。愛よりも強い何ものかが、あなたを支配してゐるんです。信じ合はなければならないとおつしやるけれど、あたしは、あなたをどう信じていいのかわからないぢやありませんか。

留雄  あなたも少し虫がよすぎはしませんか。仮に、僕があなたに譲歩するとします。あなたはそれを愛の実証となさるでせうが、僕は何によつてあなたの愛を確めることが出来るのです。

ルイーズ  (情けなさうに)だから、あなたはわからないつて云ふの。あなたは、あなた御自身のことばかりしか考へていらつしやらないけれど、あたしは、あたし達二人、殊にあなたの為めを考へてゐるんだわ。

留雄  それが実際、僕達の為めにも僕の為めにも、ならなかつたらどうします。(間)あなたもやつぱり、そんなことで人が悦ぶと思つてゐるんですね。

ルイーズ  なんの意味、それは。

留雄  なんでもありません。

ルイーズ  (むつとして)あたしは、それがきらひ。ちやんと云つたらいいぢやないの。

留雄  (黙りこくつてゐる)

ルイーズ  (脅かすやうに)なによ。(間)云はないの。

留雄  僕の為めだなどと云はずに、あなた御自身の為めに、日本に行くなら、やつぱり一人でいらつしやい。(間)一時でも二人が別れてゐることは、僕達にとつて尊い試錬です。僕だけは、甘んじて、その試錬を受ける覚悟をしました。

ルイーズ  あなたの冷たい覚悟で、どうやらあたしの決心も眼をさましたやうです。この決心が鈍らないうちに、早く旅の仕度をしませう。(立ち上つて、欄干に倚る)


(オーケストラの音止み、更に激しい拍手と、けたたましい笑声が起る)



第六場


留雄の画室。午後十時。

留雄、寝台に寝てゐる。


留雄  (房子の差し出す茶碗を受け取り)ありがたう、あなたは。

房子  あたし、あとで。濃すぎやしない。

留雄  (茶を飲みかけて)熱い。

房子  あら、ごめんなさい。(笑ふ)

留雄  もう遅いでせう。

房子  まだいいわ。どうせ帰つたつて、なんにもすることはないんだから……。

留雄  手塚君が心配するといけない……。

房子  いいのよ、ここに来てることがわかつてるんですもの……。


(稍長き沈黙)


留雄  何時です。

房子  十時よ。ルイーズさんは今頃どの辺か知ら……。船があしたの朝だから忙しいわね。でも元気ね、あの方。やつぱり西洋の女はえらいと思ふわ。どこへでも一人で平気で行けるんだから……(間)あかり、もつと小さくしませうか。

留雄  あかりもあかりだけれど、窓掛をしめて下さい。いやに暗い空だなあ。

房子  月が無いんですもの、今夜は。(立ち上り、窓掛を引き、ランプを細めて座に着く)

留雄  ほんとに、僕にかまはないで、もう帰つて下さい。

房子  (黙つて氷嚢に手をのせる)

留雄  僕の心は今、落ちつく処に落ちついてゐます。孤独と云ふ深い洞穴がそれです。自分の声だけが自分の耳に響いて来る、それをぢつと聴きすましてゐるほど、安らかな生活がどこにあります。

房子  さ、もうそんなことは考へないで、静かにおやすみなさい。

留雄  僕の心はもうあの女から離れてゐます。僕は誰からも可哀さうだと思はれるやうな人間ではありません。

房子  わかつててよ。駄目よ、そんなに興奮なすつちや。

留雄  僕は女を恋する力もなく、女から恋される資格もない男です。

房子  (たしなめるやうに)をかしいわ、そんなことおつしやつちや。

留雄  あなた、日本に帰ることはどうなりました。

房子  (黙つて顔を伏せる)

留雄  こんなことを聞くんぢやなかつた。

房子  もう、何にも云ひつこなし、ね。あなたは熱があるんだから、話をなすつちやいけないの。

留雄  僕、もう眠ますから、通りが賑やかなうちお帰りなさい。タクシイがなくなりますよ。

房子  ええ、おやすみになつたら帰るわ。(傍らの書物をひろげて読む。時々、留雄の汗を拭いたり、氷嚢の位置を直したりする)

留雄  房子さん。

房子  え。

留雄  僕は、あなたの前に跪いて、宥しを乞ひたいやうな気がします。(間)なんにもならないでせうか。

房子  (極く低く)そんなことなさらない方がいいわ。


(長い沈黙)


留雄  僕はかうして、あなたの親切を受けてゐるのが苦しいんです。あなたの気高さを気高さとして享け容れることが、どうしてもできないんです。さう云ふ僕の心持ちは、不純なものでせうか。

房子  さあ、それはあたしにはわかりませんわ。こんな場合に、友情がどんな役目をつとめるか、あなたはそれを御存じないのね。

留雄  その友情が、普通の友情から見て、もつと運命的なものだとは思ひませんか。

房子  さう思はなくつたつていいわ。

留雄  思つても差支へないでせう。

房子  いいえ、それはいけません。

留雄  どうしていけないんです。

房子  あたしは、女としてあなたに会はせる顔はないんですからね。あなたも、男として、あたしに物をおつしやることはできない筈よ。いいえ、意地ぢやないの。さう云ふものよ。

留雄  だから僕はあやまつてゐるんです。もう遅いとおつしやるんでせう。あなたは、僕が昔苦しんだだけ苦しむとおつしやつた。こんだはまた僕が苦しむ番ですか。

房子  あなたのおつしやることがほんとなら、あたしも一緒に苦しみますわ。どつちの苦しみが永く続くか、こんどこそほんとにそれがわかるわけ。さ。もうおしまひ、この話は。

留雄  待つて下さい。あなたは苦しむために苦しむと云ふことが、つまらないことだと思ひませんか。

房子  だからいいのよ……あなたに此の気持ちがわかる筈はないし……。(間)それに、まだルイーズさんのことをお忘れになるのは早いわ。そんなものぢやなくつてよ。ルイーズさんは、今日、あなたが停車場へいらつしやらないことを不思議に思つていらしつたわ、汽車が出るまで、改札口の方ばかり見て……。


(稍長き沈黙)


留雄  もうなんにも云ひますまい。此の問題は時が解決してくれるでせう。ただ、僕が一人ぽつちだと云ふことだけ信じて下さい。

房子  あたしも一人ぽつち……。

留雄  (憐みを求めるやうに房子の顔を見る)

房子  だけど、あたしは、一月前のあたしぢやなくつてよ。どんなことがあつても……。

留雄  房子さん。(泣いてゐる)

房子  さ、何んにも云はないで眠ておしまひなさい……。涙なんか出して……お馬鹿さんね。(留雄の涙を拭いたハンケチで、そつと自分の涙を拭く)


──幕──

底本:「岸田國士全集1」岩波書店

   1989(平成元)年118日発行

底本の親本:「チロルの秋」第一書房

   1927(昭和2)年615日訂正第3刷発行

初出:「演劇新潮 第一年第三号」

   1924(大正13)年31日発行

※底本の親本は第2刷まで、「岸田國士戯曲集」とされていました。

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:kompass

校正:門田裕志

2011年124日作成

2016年413日修正

青空文庫作成ファイル:

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