灯ともし頃
岸田國士
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荒廃した庭園の一隅。
藻屑に覆はれた池のほとり。
雑草の生ひ茂つた中に、枯れ朽ちた梅の老樹。
晩春──薄暮。
少年が一人、ぽつねんと蹲つてゐる。手に持つた竹竿で、時々、狂ほしく草叢を薙ぐ。顔は泣いてゐるが、涙は出てゐない。
帽子が傍らに脱ぎ棄てゝある。
少女の声が池の彼方に聞える。
──もう遅いから、あたし、帰るわ。
別の声が之に応へる。
──えゝ、ぢや、また明日ね。
ついで、
──さよなら。
──さよなら。
寂寞。
少年は、手で草を引き抜き、その茎を噛む。
かすかに、飴屋の囃し。
突然、太い男の声。
──一郎。
少年は、飛び立つやうに驚く。
──一郎。
少年は、おづおづ、梅の樹に縋る。
──一郎。
癇走つた女の声 ──あなたは、一郎を連れて、何処へでも行つて下さい。
男の声 ──おれにはおれの仕事がある。(間)暗い。ランプは誰がつけるんだ。
少年は、しくしく泣き出す。
女の声 ──三郎。(間)三郎。(間)お前は、また、なにしてるんだい、そんな暗い処で。早く兄さんを呼んでおいで。
男の声 ──電気はまだ来ないのか。
女の声 ──静かにして下さい。赤ん坊が眠てるんですよ。
男の声 ──黙つてろと云ふのか、よし、黙つてゝやる。一生、黙つてゝやる。
長い沈黙
「兄さん、兄さん」と呼ぶ声。弟らしき少年が現はれる。
三郎 兄さん、御飯。
一郎 …………
三郎 御飯だよ。すぐ来ないと、また叱られるよ。
一郎 …………
三郎 暗くなると、また道がわからなくなるよ。
一郎 僕たちがゐなくなつたら、お父さんやお母さんはどうすると思ふ。
三郎 …………
一郎 お前は、お父さんやお母さんが好きか。
三郎 …………
一郎 お前は、お父さんや、お母さんが怖いかい。
三郎 兄さんは怖くないの。
一郎 もう怖くない。
三郎 どうして。
一郎 いゝことを考へたんだ。二人で何処かへ隠れてやるんだ。池ん中へ落ちて死んだと思ふよ。びつくりするぜ。
三郎 またあとで叱られるよ、きつと。
一郎 さうしたら、ほんとに死んでやるさ。わけはないよ。
三郎 死んでどうするの。
一郎 わからないかなあ……。ほんとに死んだら、お母さんが泣くよ。お父さんはどうかなあ。やつぱり泣くよ。義ちやんが死んだとき、伯父さんが泣いてたぢやないか。
三郎 僕は、泣かないと思ふなあ。
間
三郎 なんだらう、あそこに動いてるのは。
一郎 どこで。
(二人は池の面を見つめる)
三郎 いつかの白いもの、まだゐるかねえ。
一郎 ゐるさ。
間
三郎 もう駄目だよ。今から帰ると……。きつと、燈火がついてるから……。僕のせいぢやないから、いゝや。
間
一郎 さ、早く隠れよう。(三郎の手を取る)
三郎 (躊躇しながら)また叱られるつてば。
一郎 馬鹿、叱られるのがそんなに怖いか。僕の云ふことを聴かないんだね。
三郎 だつて、お父さんが来るかも知れないよ。
一郎 お父さんが……。いゝから、裸足におなり(自分も下駄を脱ぐ)さ、おいでつたらおいでよ。(弟を引張る)泣くとひどいよ。
三郎 (無言のまゝ之に抵抗する。兄の手を振り放つて逃れようとする)
一郎 (追ひかけながら)よし、云ひつけるんだな。(弟を捕へる)
三郎 (死にもの狂ひに)おかあ……。
一郎 (その口を手で塞いで)三郎。
(長い沈黙。三郎は、後すざりをしながら、兄から遠ざかる。一郎は、ぢりぢりとつめ寄る。と、急に、二人は耳をそばだてる。跫音が聞える。三郎は、兄の腕に縋る。今度は、二人が、同時に、後すざりを始める。梅の樹の蔭に隠れる。やがて母らしい女が現はれる)
母 三郎。(間)一郎。
一郎 (姿を現はす)
母 いつまでも拗ねてるときかないよ。三郎はどうした。
一郎 …………
母 三郎は、こゝへ来なかつたかい。
一郎 来ないよ。
母 来ない。何さ、その顔は……。どうしたんだい、そんなに顫えて。
一郎 三郎はもうゐないよ。
母 何処に。
一郎 うちにゐないよ。
母 免倒臭いね、此の子は。さ、知つてるなら早くお云ひ、三郎は何処へ行つた。
一郎 死んぢやつたよ。
母 (半ば信じ、半ば疑ふものゝ如く、あたりを見まはす)一郎……お前は……(一郎の肩に手をかけようとする)
一郎 (素早く身をかはし)お母さんは、三郎がきらひなんぢやないか。
(息苦しい沈黙)
母 (強ひて穏かに)三郎はどうしたか、お云ひ(また、一郎の手を取らうとする)
一郎 (後すざりをしながら)池……池の中だよ、池の中へ落ちたんだよ。
母 (急に取乱して)え、お前が見てゝ……、何時だい、それは……(かう云ひながら池の岸に駈け寄る)何処で……え、何処で……なぜ、お前は……。
(此の時、梅の樹の蔭で、三郎のワツと泣き叫ぶ声。母は三郎を引摺り出す)
一郎 (絶望的な眼を、その方に投げる)
母 (唖然として一郎の顔を見つめる)
一郎 (此の刹那、母の視線を避けて、いきなり池を目がけて飛び込まうとする)
母 (それを抱き止め、厳かに)一郎。
一郎 (藻掻きながら)だから……だから……僕が死ぬよ、いま、死ぬんだよ……。(声をあげて泣く)
母 (一郎の頭をかゝへ、おろおろ声にて)一郎、どうしたのさ……お前は……。(一郎と三郎との泣き声が、交々母の言葉を途切らす)一郎や、後生だから、母さんの云ふことを聴いておくれ……。
(あたりが真暗になる。水面に微光がうかぶ)
底本:「岸田國士全集1」岩波書店
1989(平成元)年11月8日発行
底本の親本:「言葉言葉言葉」改造社
1926(大正15)年6月20日発行
初出:「女性 第七巻第四号」
1925(大正14)年4月1日発行
入力:kompass
校正:門田裕志
2012年1月4日作成
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