葉桜(一幕)
岸田國士
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人物 母 娘
時 四月下旬の真昼
所 母の居間──六畳 |
開け放された正面の丸窓から、葉桜の枝が覗いてゐる。
母は、縫ひものをしてゐる。
娘は、その傍らで、雑誌の頁を繰つてゐる。
──間。
娘 (顔をあげ、無邪気らしく)あたし、どうでもいゝわ。
母 (わざと素気なく)母さんもどうでもいゝ。(間)どうでもいゝことはないよ。(間)お前も少しはかんがへたら……?
娘 考へるつて……だから、あたし、母さんのいゝやうにするわ。
母 母さんは別に異存はないよ。たゞお前の気持さ、大事なのは……。
娘 ……。
母 それと、あの人の態度……わからないのはね……。見合をした、気に入つた、貰はう、それで、こつちにもすぐ返事をしろ……、これぢや、お前、あんまり、お手軽すぎるからね。あれから、もう一月にもなるんだし、なんとか、本人から……話がありさうなもんぢやないか、そのことについてさ……。それとも、直接お前に、何か云ふことは云つたのかい。お前の気持を訊いてみるつていふやうなことはしたの……?
娘 (首を振る)
母 ぢや、お前と二人つきりの時は、どんな話をするの。
娘 どんな話つて……黙つてる時の方が多いわ。それよりね、変なのよ、あの人。それや、可笑しいの。
母 何が。
娘 それがね、二人つきりの時は、まあ、いゝのよ。あたり前なの……。ところが、あの人のうちへ行くと、急に態度を変へちまふの。お母さんや妹さんのそばだとよ。まるであたしに素気なくするの。
母 どういふ風に……。
娘 第一、口を利かないの。それから、顔も見ないの。
母 へえ。
娘 なんていつていゝかしら……。とてもつまらなさうな様子をするの。すぐ欠伸なんかして……。
母 へえ。
娘 一昨日だつてさうだわ。ダリヤの球根を持つて行つてあげた時ね、あん時なんか、みんなお庭にゐたのよ、それにあの人だけ、あたしの方を振り向きもしないの。おまけに云ふことが云ふことなのよ。「そんなものを貰つたつて、植ゑるところがないや」──かうなの。あたし泣きたくなつたわ。
母 随分をかしな人だね。でも、二人つきりの時は、そんなでもないんだらう。
娘 (うなづく)
母 優しくすることはするんだらう。
娘 優しくつて……?
母 いゝえさ、いくらかお前の機嫌を取るやうにしやしないかい。
娘 機嫌を取るやうにつて……?
母 つまり、お前が好きだとか嫌ひだとか云ひさうなもんぢやないか。
娘 そんなこと、云はないわ。
母 云はないことがあるもんか。
娘 だつて、云はないんですもの……。
母 それぢや、お前、どうにもならないぢやないか。
娘 だから、それでいゝわ。(雑誌に顔を近づける)
母 なにがいゝのさ。
娘 どうにもならなくつても……。
沈黙。
母 是非つて云はれたところで、向うのお母さんばかりがその気になつてゐて、肝腎の本人がそれぢや、頼りなくつてしやうがないぢやないか。(間)ぢや、いゝから、あの人がお前にどんなことを云つたか、それを残らず云つて御覧。云つた通りにだよ。お前たち二人つきりで話をしたのは、一度、二度……、それから、一昨日、帰る途中と、それだけだね。さ、初めの日は……。
娘 待つて頂戴よ。あん時は、たつた五分かそこらなんですもの……。話す暇なんかありやしないわ。(考へながら)さうさう、でも、こんなことを云つたわ──「学校生括が懐しくはありませんか」つて。──「えゝ」つて云つたら、「はゝゝゝゝ」つて笑ふの。
母 なぜ。
娘 なぜだか……。それから、あたしが、「此の辺はお静かでよろしう御座いますわね」つて云つたら、「よその家へ行くとさういふ気がするんですよ」だつて……。それから、「ラヂオをお引きになりませんの」つて訊いたら、誰でもする事はしたくないんですつて。少し? (と云つて、頭の横へ指で旋毛を書く)
母 さう云ふ処があるかも知れないね。それだけかい。
娘 初めの日は、それだけよ。その次は、こゝでよ、母さんが、そら、買ひ物にいらしつたお留守よ。帰る帰るつて云ひながら、二時間もゐるの。
母 それで、大分話ができたわけだね。
娘 さうでもないの。あたしの方から何か云はれなけれや、黙つてるの、煙草ばつかり喫つて……。(笑ひをこらへて)あの人、一つ癖があるの、かういふ癖……。(と云ひながら人さし指で鼻の頭を撫で)それが、たゞさうするだけならいゝのよ。さうしたあとで、きつと、鼻の頭をかう摘んどくの。
母 馬鹿だね、お前は。それより、あの人の云つたことをすつかり云つて御覧。
娘 あの人はね、かういふの──「僕はまだ結婚なんかしたくないんだけれど、お袋が──さうさう、お袋つていふのよ──お袋がやかましく云ふものだから……」つて。
母 それぢや、お前……。
娘 えゝ、だからよ、それぢや、あたしいやだつて云はうかと思つたの。
母 思つただけぢやしやうがないぢやないか。(間。独言のやうに)やつぱりさうなんだね。
娘 そのくせ、あたしに、ぶらぶら遊んでる男は嫌ひだらうつて訊くから、嫌ひつていふこともないけれど、自分で働いて、自分の力で生活できる人の方が頼み甲斐があるつて云つたら……。
母 そんなことを云つたのかい。
娘 えゝ、さうしたら……。
母 さうしたら……。
娘 さうしたら、僕もそのうち、何か仕事を見つけようかなあつて、誰につていふことなしに云つて見たりするの。
母 さういふ処を見ると、万更でもないんだね。(縫物の一端を娘の方に差出し)さ、一寸こゝを持つてゝおくれ。だけど、をかしいぢやないか、もう、その気でゐるのか知ら……返事を聞かないうちから……。
娘 さうよ。
母 まだ何か云つたの?
娘 日本間が好きか、西洋間が好きかつてあたしに訊くから、そりや西洋間が好きだつて云つたら、そんなら離れを西洋間にしようかなあつて云ふの。
母 なんでも、「なあ」ぢやないか、あの人は。
娘 さうよ。
間。
母 どうしたもんだらうね。別に相談をするつていふ人もないし、何しろお前がしつかりしてゐてくれなくつちや困るよ。(間)貰つてやらうぢや、いやだ、あたしは。本人が是非呉れと云ふんでなくつちや……。そこがどうもはつきりしないね。
娘 そのことはお母さんに委してあるらしいのよ。
母 さうして安心してるのかい。
娘 安心してるかどうか知らないけれど……。
母 自分はどうでもいゝつていふやうな顔がしたいんだらう。
娘 あたしだつて、母さんがいゝつていふやうにするんぢやないの。
母 お前は違ふよ。(間)だからさ、こんだ、お前から訊いて御覧よ──一体、あたしを呉れつておつしやるのは、あなたなのですか、それとも、あなたのお母さんなのですかつて……。
娘 いやよ、あたし、そんなこと訊くのは。
沈黙。
母 ね。お前も女ぢやないか。母さんの云ふことはわかるだらう。(間)男の御機嫌を取つて一生を暮すやうなことは、お前だけにはさせたくない、ね。いゝかい。どんな女でも、生涯に一度は、自分をほんたうに愛してくれる男に出会ふ筈だ……。その男は、お前のためにお前を愛してくれる男でなけれや……(間)今日は、お前に、あたしの昔噺をして聴かせよう。──あたしが、お前のお父さんのところへ来たのは、丁度お前と同い年、十九の春だつた。もちろんその時分だから、結婚前の交際なんていふことは、誰も考へてゐやしなかつた。あたしは、夢うつゝでお嫁入をさせられてしまつたのさ。見合ひね……それや、したにはしたけれど、形ばかり……。婚礼の日に、始めて知つたくらゐだもの、お父さんのお眼が、片一方、あんな風だつていふことを……。それだけなら、まだいゝのさ。その晩、お父さんは、お酒に酔つて、お友達と一緒に、どつかへ行つておしまひになるつていふ騒ぎ……。なに、それが、わざとなのさ、見栄なのさ……。つまらないお芝居さ……。(間)そして、そのお芝居が、最後まで続いたんだからね。こんな奴は眼中にないんだ、さういふところを、人に見せたくつてしやうがない、そのために、誰かゐる時に限つて、あたしと口を利くことを避けようとなさる、そればかりか、用があつておそばにゐると、「いゝいゝ、あつちへ行つてろ……」かうなのさ……。何か伺つても返事もろくになさらないつていふ始末なの。あたしも、初めのうちは、どうしても諦めがつかなかつた。別に乱暴な取りあつかひを受けるといふではなし、ゐたゝまらないほど苦しい目に遭ふといふんではないけれど、これではなんのために夫と名のつく人のそばにゐるのかわからなかつた……。幾度、里へ帰らうと思つたか知れない……。それでも、たうとう辛棒したよ……。お前ができたからさ。
娘 そんなだつたの……。あたし、ちつとも知らなかつたわ。
母 お前には、それでも、優しいお父さんだつたよ。だから今でも、悪い方だとは思つてやしない。たゞ、お前にあたしのやうな苦労をさせたくない、それだけさ。(間)あれがおほかた男の病気かも知れない……。
娘 でも、それは昔のことでせう。今の男の人は、そんなぢやないわ。そんなぢやないと思ふわ。活動だつて見てるんですもの……。
母 活動か……西洋はいゝね。
娘 いゝわね。あゝいふ風にされゝば、女だつて悧巧になるわ。
母 いや、もつと、ちやんと引張つてなくつちや……。
娘 あの人ね、あたしのことを母さんそつくりだつて云つたわよ。
母 さう云つときや間違ひはないからね。
娘 ……。
母 母さんの理想を云へば、あの人がぢかにあたしんところへ来てさ、「どうか美禰子さんを僕に下さい、きつと世の中で一番幸福な女にして見せます」つて云ふのさ。そこで、あたしが、「あれは御覧の通り我儘で、遊ぶことだけしか知らない娘ですから」つて云ふと、「それは百も承知です、僕は奴隷のやうに従順な女はいやなんです。遊ぶことさへ知つてゐて下されば、働くことは僕がします。女が働いて男が遊んでゐる社会は呪ふべき社会です」──と、かういふだらう。それで、あたしも、「さうまでおつしやるなら差上げないこともありませんが、たとへ、あなたのところへ伺つても、あの子はやつぱりあたくしの娘なんですから、あたくしが会ひたいと思ふ時には、何時でも会へるやうに、あんまり遠方へ連れて行かないで下さい」つていふと、「それはもちろん、さうなれば、あなたは僕達の大事なお母さんなんですから、おろそかにするもんですか。美禰子さんは、僕と一緒に散歩に行く時のほかは、片時もお母さんのおそばを離れないでせう」つて云つてくれるの。(涙声になる)
娘 いやな母さん。
母 をかしいかい、こんなことを云つちや……? ぢや、よさう。よすかはり、今度の縁談は、一と思ひに断つてしまはうぢやないか。ね、いゝだらう。
娘 さうしてどうするの。
母 もう少し待つて見るさ……。
沈黙。
娘 (だんだん顔を伏せる)
母 此の間だつて、あたしや、もう少しで云つてやるところだつた……。何さ、一体、あの返事は……。ちつとでも親しみがつくと思つて、人が折角芝居を誘へば、家で寝てた方がましだなんて……。そんなら行かないのかと思へば、あの通りついて来るぢやないか。(間)それに、なにさ、あの顔は……。此処へ来るのにも髭を剃つて来たことはないぢやないか。若い娘のゐる家へ、それも、かういふ話のある家へ来るのに、いくらかまはないつたつて、あんまり人を馬鹿にしてゐるぢやないか。若い男には、若い男らしい嗜みつていふものがある。失礼だよ、第一……。お前は、あゝいふところを見ても、なんともないかい。だから、男が好い気になるんだ。およし、およし、思ひ切つておしまひ……。あたしや真平だ、あんな男は。
長い沈黙。
娘 母さんは、あの人、嫌ひなんでせう。
母 母さんはどうだつていゝぢやないか、お前さへよければ。どんな人だつてかまはないよ。行く気があるなら、行けばいゝぢやないか。
娘 (あつけに取られて)母さん。
間。
母 (気を鎮めようと努めてゐるらしい。大きな溜息)
娘 あたしは、どうだつていゝのよ。
母 ぢや、断るよ。いゝかい、後でかれこれ云ふまいね。
娘 (黙つてうつむく)
母 (いくぶん穏かに)それとも、何か、母さんの納得するやうな──つまり、お前がこの人ならと思ふやうな、さういふところが、あの人のどこかにあるなら云つて御覧。(間)ぢや、あの人のどういふ処がお前の気に入つたのか、それを云つて御覧。お前に対する素振りやなにかを考へて見てだよ……。
娘 何処つて……別に……。
母 ぢや、たゞ、あの人が好きか嫌ひか、どつちなの。
娘 (低く)嫌ひぢやないわ。
長い沈黙。
母 (娘を見つめながら)さうか、そんなら好きなんぢやないか。
娘 (雑誌で顔をかくすやうにして)好きつていふんでもないけれど……。
母 まあ、好きなんだらう。(畳についた物差しがぐいとしなふ)
娘 はつきり云へないわ、そんなこと……。
母 それがはつきり云へなけりや、しかたがない。ことわるんだね。
娘 ……。
母 母さんになんにもかくしてやしまいね。
娘 どんなこと……。
母 かくしてなけれや、それでいゝ。(間)たかがあんな男一人の為に、お前の心がもう母さんから離れて行くかと思ふと……。いゝえ、お前はそんな理想の低い女ぢやない、ね。さうだらう、此の人ならと思ふ男の手に、お前の生涯を委ねることができたら、母さんはその日から、お前に棄てられてもかまはない。
娘 ……。(雑誌の口絵の上に涙が一滴落ちる。それを慌てて手で拭き取る)
母 どうして泣くのさ……。何がそんなに悲しいのさ。ただ話をしてるんぢやないか。(沈黙)窓を閉めておいで。
娘 (窓を閉めに行く)
母 さ、あたしの云ひ方がわるかつた。もつと、こつちへお寄り……。途中から変なことになつてしまつたけれど、もつと詳しく聞いて置きたいことがあるの。母さんは、決して、お前の為にならないやうなことはしないんだから、なんでも、本当のことを云ふんですよ、いゝかい。お前にはわからないことでも、母さんにはわかることがある。その代り、母さんの知らないことを、お前は知つてゐるんだから、いろいろ話をして見ないとわからない、さうだらう。(間)処で、男が、女に向つて、かういふ話を持ち出した時が、一番、その女によく思はれようとする時だ、普通から云へばね……。ところが、その時から、もう向うの出方に不満があるとすると、これから先、その不満は、いつ満たされるだらう……。さうぢやないか。
娘 不満つて……たゞ、うちの人がそばにゐるときだけなのよ、素気なくするのは……。恥かしいからよ、きつと……。
母 さう云つてしまへば、それまでさ。ぢや、あの人が、お前を想つてくれてるといふ証拠がどこにある。さういふことについて、あの人がお前に何か云つたかい。二人が一緒になれたら幸福だとか、何時までもお前を可愛がるとかなんとか、さういふやうなことを云つたかい。
娘 それが、さういふやうなことは、ちつとも云はないの。
母 ぢや、なんて云ふのさ。さうさう、一昨日の晩、送つてくれる途中、どんな話をしたのさ。
娘 二人さへ信じ合つてゐれば、どんなことでも恐れる必要はないつて……。
母 何時さ、それは……。
娘 送つてくれる途中で……。
母 なんだつてさ……。どんな話をしてたの、それまで……。
娘 よく覚えてないけれど、やつぱり、さういふ話をしてたの……。それから、あたしを、お嫁さんなんかになれさうもないつて……。
母 なぜ……。
娘 可哀さうだつて……。
母 ……?
娘 色んなことをさせるのは勿体ないつて……。だから、あたし、うちでなんでも御用をしてるつて云つたの。さうしたら、うちの御用とは違ふつて云ふの……。
母 (首をふり)さつぱりわからない……。お前たちの話は……。
沈黙。
娘 あたし、そんなにいやぢやないの、あの人なら……。
母 まあ、お待ち……。もつと色んなことを云つて御覧。それから、どんな話をしたの、向うの家を出てからのことを詳しく云つて御覧。
娘 向うのお母さんが、あの人に、お前送つて行つてお上げつておつしやつたら、そりや変な顔をするの、泣きたいやうな笑ひたいやうな……。
母 (笑ふ)
娘 あたし、気の毒でしやうがなかつたわ。でも、そとへ出たら、そんなでもないの。もう日が暮れかゝつてたでせう……。停車場へ来るまでの、あの桜の並木ね、花は散つてしまつてるの。だけど、そら、トンネルのやうな青葉ね、あの下を歩いてるとき、「何時までも、此処に、かうしてゐたいなあ」つて云ふのよ……。(間)をかしいつたらないの……。
母 それから……。
娘 あたし、なんとも云はなかつたわ。(母の肩に縋るやうにして)真暗になりさうなんでせう。あたし、気が気ぢやないの。それに、あの人、ゆつくりゆつくり歩くの……。深呼吸なんかしながら……。
母 (息を吸ひ込む真似をして)……つてかい?
娘 えゝ。そのうち、たうとう、日が暮れちまつたわ。停車場の燈火が、まだ遠くに見えるの。それでも、いくらか、人通りはあつたわ……。(間)水溜りや、石ころがあるたんびにさう云つて気をつけてくれるの。子供だとおもつてるのね。
母 ……。
娘 だつて……。(間)切符をどうしても人に買はせないのよ。(間)狡いの、それや……。
母 それだけかい、途中の話は……。
娘 えゝ、それだけ……。あゝ。それから、あの人、帽子を被らずに来たの……。それに、あたしが、左様ならつてお辞儀をしたら、帽子を取らうとするの。そしたら……ね、気まりが悪かつたんでせう、走つて逃げてつたわ……。
母 逃げなくつたつていゝじやないか。妙だね。
娘 さういふところがあるのよ、あの人……。あたし、ちやんとわかるの。
母 しかし、もつとその途中で、何か、かう優しい、お前のよろこびさうなことを云ひさうなもんぢやないか。それより、先づ第一に、お前の心持を知らうとしさうなもんぢやないか。まるでそんな話には触れやうとしないんだね。
娘 (うなづく)
母 二人で、さうして、静かな道を歩いてゐるのが、楽しいことは楽しさうなんだね。
娘 (知らないわといふやうなからだのゆすぶり方をする)
母 それぢや、なんだらう、どうかした拍子に、向うからお前の……手を……握つたりなんか、それくらゐのことはしたんだらう。
娘 (頭を振る)
母 ほんとのことをお云ひよ。それで、すつかり向うの出方がわかるんだから……。お前をほんとに想つてゐるかどうかゞわかるんだから……。ね、手を握つたらう、一寸ぐらゐ……。(声が微かにふるへる)
娘 (力なく頭をふる)
母 母さんはそんなこと怒りはしないよ。却つて安心するんだから……。さ、お云ひ、そんなら、手がさはつたことはあつたね……。
娘 (決心したやうにうなづくと、そのまゝ、顔を母の胸に押しあてる)
母 さうだらう、さうだらうと思つた。お前は、それで、なにかい……。(語調がわれ知らず乱れる)さうされて、黙つてゐたのかい……。ぢつと、されるまゝにしてたのかい。
娘 (からだを母の方に摺り寄せる)
母 (それを邪慳に突きのけて)あゝ、馬鹿だよ、お前は……。
娘 (その声をまともに浴びながら、母の膝に取り縋り、訴へるやうに)うそよ、母さん、今のは、うそ……。
間。
母 (娘の視線を避けながら)うそなもんか。
娘 (涙声になり)いゝえ、うそなの……。あれはね……。
母 (急に、今度は、娘を抱くやうに膝の上に引寄せ)よし、よし、いゝんだよ……。母さんは、もう、なんにも云はない……。そんなつもりぢやなかつたの。何をしたつていゝんだよ……。ね、母さんは、とうから、お前をあの人に……お前たち二人を一緒にするつもりでゐたんだ……。(泣いてゐる)
娘 (母の胸に顔をうづめ)母さん……。
母 いゝとも、いゝとも、なんにも心配することはない……。さ、あつちへ行つて、顔をなほしておいで……。
娘 (咽び泣く)
間。
母 母さんがわるかつた。ね、堪忍しておくれ……。どら、母さんが直してあげよう。(立ち上つて、鏡台の前に行く)さ、こゝへ来て御覧。
娘 (素直に立つて行く。が、母の手より刷毛を受け取ると、今度は、いつまでも、それに白粉を含ませてゐる)
母 (しばらく娘のすることを見てゐたが、それからぷいと眼を反らすと、やゝ荒々しく座を起ち、丸窓をいつぱいに引開け、ぐつたりと片肱を窓によせて、そこへ坐る。勿論娘には背を向けてゐる)
娘 (此の間、ぢつと、鏡を見つめてゐる)
長い沈黙。
母 お前も、何か習つとくんだつたね……。あの人は三味線が好きだつて云つてたぢやないか。
娘 ……。
母 ほんとに、どうして今迄、ぶらぶらしてたんだらう……近頃は、お花にも行かないしさ……。
娘 ……。
母 お針はきらひと……。(間)あゝあ、なんて蒸すんだらう、今日は……。(間)あの毛虫……。
娘 (静かに顔をなほしはじめる)
母 式は、この秋にするんだね……。それとも、向うぢや、すぐにつて云ふか知ら……。(間)秋がいゝよ、同じことなら……。それから、新婚旅行は、京都かい。(間)伊豆あたりの温泉もいゝね……。熱海には、母さんも、娘時代に一度行つたことがある……お前の祖父さんと……。まあ処なんか何処だつていゝ……。あんまり騒々しくないやうな……。だが、淋し過ぎても困るだらう、二人つきりぢやね……。(間)ほんとを云ふと、序に、西洋へでも行つて来るといゝんだけれどね……、あの人は英語は駄目なのか知ら……。
娘 独逸語よ。
母 え、あゝ、さうか、独法だつたね……。独逸だつていゝさ……。(間)あたしも一緒に行かうか知ら……。連れてつてくれるかい……。(間)憲二が学校を出て、一人でフランスへでも行くことになつたら、あたし、ついて行かうと思ふの、どうだらうね……。夫婦で洋行するのもいゝだらうけれど、親子同志は親子同志でまた、いゝぢやないか……。息子の留学に母親が附添つて行くなんてことは、人が聞いたつて可笑しくないだらう。可笑しくつたつていゝさ。憲二さへ迷惑でなかつたら……。(間)あゝあ、母さんが、巴里へでかけるなんて、もうそんな世の中になつたのかね……。(娘の方を振りかへる。娘は、相変らず鏡に向つて丹念に化粧をしなほしてゐる。そして、時々、手を休めて、自分の姿に見惚れる)お前、その襟の白粉はどう……その附け方は……。
娘 だつて、よく伸びないんですもの……。
母 濃すぎるのさ、第一……。
娘 うそよ、さうぢやないのよ……。(かう云ひながらなほす)
母 十九か……。しつかりしなくつちや……。(沈黙)お前もこれから……母さんも、これからだ……。(溜気をつく)
娘 ……。
母 (淋しく)これで大丈夫つていふのは、何時のことやら……。
娘 あたし……?
母 (力なく)さうさ……。(間)いけない、いけない、こんなことぢや……。何もかも、これからだのに……。
娘 (静かに立ち上つて、そのまゝ母の後に佇む)
母 (背後に近づくものゝ気配を感じて、それとなく、その方に不安な眼を向ける)
沈黙。
娘 (思ひ出したやうに、袖で顔を蔽ふ。そして、いきなり母の傍に泣き伏す)
底本:「岸田國士全集1」岩波書店
1989(平成元)年11月8日発行
底本の親本:「昨今横浜異聞」四六書院
1931(昭和6)年2月10日発行
初出:「女性 第九巻第四号」
1926(大正15)年4月1日発行
入力:kompass
校正:門田裕志
2012年1月4日作成
2016年4月13日修正
青空文庫作成ファイル:
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