命を弄ぶ男ふたり(一幕)
岸田國士

人物

眼鏡をかけた男

繃帯をした男



鉄道線路の土手──その下が、材木の置場らしい僅かの空地、黒く湿つた土の、ところどころに、踏み躙られた雑草。

遠くに、シグナルの赤い灯。

どこかに、月が出てゐるのだらう。


眼鏡をかけた男──二十四五ぐらゐに見える──が、ぽつねんと、材木に腰をかけてゐる。考へ込む。

溜息をつく、洟をかむ。眼鏡を外して拭く。髪の毛をむしる。腕組みをする。服の皺を伸ばす。舌を出す。


繃帯をした男が現はれる。つまり、顔中繃帯で包んでゐるわけであるが、両方の眼と、鼻の孔と、口の全部、それだけが切り抜いてある。

眼鏡をかけた男の前を行つたり来たりする。そこに人がゐるのを知らないやうにも思はれる。土手の上にあがるが、すぐ降りて来る。


眼鏡  君、君、踏切はもつと先ですよ。

繃帯  (別段驚いた様子もなく)さうですか。踏切はもつと先ですか。(独言のやうに)踏切はもつと先……と(眼鏡をかけた男と並んで腰をかける)

眼鏡  どこかへいらつしやるんですか。

繃帯  行かうと思ふんですがね。君も、どつかへいらつしやるんですか。

眼鏡  行かうか、どうしようかと思つてるんです。

繃帯  なるほど。行くのもいゝが、どんなものですかね。うまく、一と思ひに、行けますかね。

眼鏡  さあ、行つて見ないことにや、わかりませんな。


(長い沈黙)


繃帯  君は、どう思ひます、此の辺ぢや、やつぱり、此処でせうな。

眼鏡  さうですな、まあ、此処らあたりでせうな。

繃帯  迷ふことはないんだが、さて、迷ひますな。

眼鏡  いろいろ考へるからですな。どうにもしようがないといふ場合に、これですからな。

繃帯  僕は、かう見えて、センチメンタルなことは嫌ひな男ですがね。書置一つしてないんです。それといふのが、理由ははつきりしてゐるし、これがまた、至極、散文的でしてね。

眼鏡  いや、その点では、僕なども同様ですよ。それや、人によつては、別の道を選ぶかも知れませんが、結局、なほらない疵は癒らないんですからね。

繃帯  君の云はれることは、どうもよくわかりませんが、さういふ意味でなく、僕は、死といふことによつて、或る問題を解決しようとしてゐるのではなく、既に死人に等しい自分のからだを、自分で始末しようとしてゐるだけなのです。だから、何も、今更、英雄的な覚悟や、非現実的な空想で、此の一瞬間を、悲壮な物語りに作り上げる必要はないのです。

眼鏡  僕も、それを云ふのです。どうせ自分は意気地なしだ。人生の敗残者だ。運命の犠牲者だ。さう思へばこそ……。

繃帯  いや、いや、君はわかつてゐないんです。それや、その筈だ。君は、かう云つちやなんだが、一時の出来心でせう。恋人に捨てられたとか、会社の金を遣ひ込んだとか、誤つて人を殺したとか……。

眼鏡  はゝゝゝゝ。さう見えますかね。いや、もう何んにも云ひますまい。人の苦しみを、一人の男の苦しみを、さう簡単に片づけられちや、たまらない。

繃帯  ちがひますか。まあ、それならそれでいゝ。お互に、かうして、偶然、同じ死に場所を選んで、そこへ同時刻に落ち合つた、ただそれだけの事実に、さうこだはることはない。どうぞ、僕にはおかまひなく……。

眼鏡  いや、君の方こそ、どうぞ……。然し、僕もまだ血の通つてゐる人間です。眼の前で、勝手なことをされては迷惑です。踏切りも、そんなに遠くはない。どうです。人を呼びませうか。

繃帯  人を呼ぶ……。呼んでどうするんです。(間)邪魔はしつこなしにしようぢやありませんか。

眼鏡  かう見えて、僕は、人一倍、物事を考へる方なんです。軽率だとか、向ふ見ずだとか云はれることが、一番不愉快なんです。

繃帯  あゝ、それだからですね、ぢや、一つ、その理由といふやつを、伺ふことにしませうか。

眼鏡  それはお話してもよござんすがね。それより、君は一体、どういふんです。さう深い事情も、おありにならないやうだが……。

繃帯  さう見えますか。それならそれでかまひませんがね。はゝゝゝゝ、此の繃帯がわかりませんか。

眼鏡  火傷やけどでもなすつたんですか。

繃帯  さうあつさり云つてのけられたんぢやね……。まあ、よしませう。

眼鏡  火傷には、実によく効く薬があるんですがね。

繃帯  火傷なら、火傷として置きませう。それが癒つたら、どうなるんです。

眼鏡  いゝぢやありませんか。

繃帯  顔中にひツつりが出来ても……。二た眼とは見られない顔になつても……。

眼鏡  御商売は。

繃帯  僕は商売人ぢやないんです。応用化学の研究をしてゐる、つまり、学者なんです。人造ダイヤモンドの発明に没頭してゐたんです。もう九分九厘まで成功しかけてゐたんです。処が、一寸したことから、薬品が爆発しましてね。

眼鏡  それなら、猶更ぢやありませんか。折角九分九厘まで出来上つてゐる、その研究の方を続けておやりになれば、それが出来ないことはないんでせう。顔がなんです。男振りがなんです。元来、君のやうな仕事をやつてをられる方は、却つて……。

繃帯  まあ、お待ちなさい。僕は、これで、まだ独り者なんです。

眼鏡  丁度いゝぢやありませんか。

繃帯  許嫁があるんです。

眼鏡  その人はどう云ふんです。

繃帯  かまはないと云ふんです。

眼鏡  そんなら、何も云ふことはないぢやありませんか。なあんだ、それぢや、君、第一……。

繃帯  それと云ふのが、その女は、僕を愛してゐるんです。

眼鏡  さうでせうとも。

繃帯  僕は、或る時、思ひきつて、繃帯を取つて、此の顔を見せてやつたんです。

眼鏡  それでもいゝつて云ふんでせう。

繃帯  (うなづいて)さうして、僕の胸に顔を押しあてて、泣くんです。悲しくはないつて云ひながら泣くんです。

眼鏡  わかりますね、その気持は。

繃帯  僕にはわからない。


(やや長い沈黙)


眼鏡  わかるぢやありませんか。

繃帯  わかるとすれば、彼女が嘘をついてゐるといふことです。


(やや長い沈黙)


僕は、決心しました。決心したといふよりもあきらめました。さうです、諦めたんです。

眼鏡  さう、諦めたんですなあ。

繃帯  ね、さうでせう。頗る簡単です。(間)僕は、かう見えて、センチメンタルなことが、嫌ひな男なんです。

眼鏡  僕も、かう見えて、人一倍、物事を考へるたちなんです。僕は俳優です、まあ名前を云へば、御承知かも知れませんが、それはいひますまい、僕は俳優なんです。新劇の方では、相当認められてゐる俳優なんです。八歳の時に両親を失くして、伯父にあたる──これも名前を云へば御承知かも知れませんが、まあ、云はずに置きませう──その伯父の家に引取られたのですが、そこに、一人、娘がありましてね。

繃帯  もうその先は、伺はなくつてもわかるやうな気がしますが、それぢや、ただの恋愛事件ですね。

眼鏡  ただのとは、どういふんです。ぢや、君のは何んです、そんな、つまらない義理立てぐらゐで、人が参ると思ふんですか。

繃帯  参るとか参らんとかは問題ぢやないでせう。それで、結局、どうなつたんです。

眼鏡  その先がわかつてゐるなら、云ふ必要はないでせう。

繃帯  まあ、さう怒り給ふな。

眼鏡  話を始めるか始めないうちに、それで結局どうなつたなんて聞く法がありますか。張合ひもなにもあつたもんぢやない。

繃帯  さうまた、張合ふこともないわけですね、話が話なんだから。つまり、その娘さんと添ひ遂げられなくなつた。それで悲観の末、と、かういふところらしいな。

眼鏡  何が、ところらしいんです。違ふも違ふも大違ひだ。はゝゝ、人のことつていふものはわからんもんだなあ。その娘は、たうとう病気で死んだんです。(涙ぐんで)可哀さうなことをしました。その病気も、僕が種をつくつたやうなものなんです。僕が、或る女優と、どうのかうのつていふ噂が立つた。そんなことは絶対にないんです。それを苦にして、つまり、ほんとだと思つて、日夜煩悶したんです。一人で、小さな胸を痛めたんです。その女優が、一座の座頭と、名を云へば御承知でせう、然し、それは云ひますまい、その座頭と結婚した、そのことが新聞に出るまで、その女は僕の云ふことを信用しなかつたのです。然し、疑ひが晴れた時は、もう遅かつた。彼の女は、病院のベツトの上に、瘠せ衰へたからだを横たえてゐたのです。(涙を拭き、鼻を啜り)僕は馬鹿でした。意気地なしでした。今から考へると、なぜ、その時、すぐに、役者なんかして、これ御覧と云つてやらなかつたか、それを思ふと、なまじ、芸術がどうのかうのと夢中になつて、下らない台詞なんかばかり、覚えようとしてゐた、あの時の自分が、情けなくもあり、憎らしくもあり……僕は、遅まきながら、死んだ女の心持ちを、自分の心の中に活かさう、さうして、その女の後を追はうと決心したのです。

繃帯  そいつは、つまらない考へだな。君が死んだら、どうなるんです。その娘さんのそばに、行けるとでも思つてるんですか。まさか、さういふわけぢやないでせう。なるほど、君の悲しみは、十分察しられる。然し、決して、永久に忘れることの出来ない悲しみぢやない。今は、それや、さうは考へられないでせう。そこがまた、君の美しい処なんだ。処で、君はいくつです。

眼鏡  いくつに見えます。(間)

繃帯  いくつでもいゝ。君はまだ若い。人生の花は、これからぢやありませんか。

眼鏡  君はいくつです。

繃帯  僕ですか。あてて御覧なさい、と云つたら、君は困るだらう。三十五ですよ。だが、僕の場合、年は問題ぢやない。


(やや長い沈黙)


眼鏡  誰か来たやうですよ。見つかると厄介だ。(起ち上る)

繃帯  線路巡視ですね。どれ、隠れるかな。


(両人、姿をかくす。

土手の上を、人が通る。安全燈の火影が、さつと、舞台をかすめる。

汽笛。

汽車の音近づく)


眼鏡  (姿を現はし)もう、大丈夫ですよ。

繃帯  (続いて現はれ)くだりですね。

眼鏡  神戸行の急行です。

繃帯  (腰を卸し)君こそ、思ひ止まるんですね。早まつたことはしないがいゝ。


(汽車が土手の上を通る。両人、それを見送る)


眼鏡  込んでゐるやうです。

繃帯  込んでましたか。夜汽車は陰気だなあ。(間)

眼鏡  あなたこそ、立派な仕事がおありなんだから、それだけで、生きてゐる甲斐がありさうなもんですがなあ。

繃帯  生存の意義なんかどうでもいゝ。仕事は仕事、人生は人生です。君なんか、まだこれから、どんな仕事でも出来る。どんな恋でもできる。殊に、芸術家と云へば、仕事そのものが恋人ぢやないんですか。まあ、さう云つたやうなもんぢやないんですか。僕らにや、よくは飲み込めないが、かう、なんと云ふか、一種のヴオルルストと云ふかな、さういふもんがあるんぢやないんですか。からだのすくむやうな、ぞくぞくするやうな、ろけ込むやうな、さういふ状態に、何時でもなれるんぢやないんですか。

眼鏡  そんなことなら、あなた方のお仕事でも、やつぱり、恋人に対するやうな心持ちになれるでせう。食ふことや寝ることを忘れてまで、仕事に熱中するなんていふこと……世間のことや、家庭のことを全く棄てて顧みないつていふことや、よくそんな話を聞くぢやありませんか。

繃帯  そりや違ひますよ。それはなるほど、学者の一面には、さういふところもある。もう一面を見ないとわからない。つまり、人間の問題ですよ。理窟ぢやない。さうでせう、君と同じ境遇にある、もう一人の青年に聞いて御覧なさい。その青年は、君と同じ悲しみ、君と同じ悩みを、君のやうな方法で解決するかどうかわからない。いや、寧ろ、さうしないのが普通でせう。しない方が正しいんだ。

眼鏡  正しいとは限りません。

繃帯  僕は飽くまで反対するな。(間)どうです、警察へ引渡しませうか。

眼鏡  警察へ……。さうして、どうするんです。(間)お互に、邪魔をしつこなしにしようぢやありませんか。僕こそ、あなたの不心得を諭してあげたいくらゐなんだ。

繃帯  諭す諭さないは別として、君こそ、家へ帰つたらどうです。悪いことは云ひませんよ。年長者の言葉を信用し給へ。


(汽笛、汽車の音)


眼鏡  (起ち上り)もう、何んにも云はないで下さい(土手の上に駈け上らうとする)

繃帯  (その袖をとらへ)よし給へ、君。それや、なんにもならんよ。

眼鏡  (振り放さうと藻掻きながら)放して下さい。僕のからだは僕のものです。勝手にさして下さい。

繃帯  それや、君のものさ、君のからだは。だから、つまらんことはせと云ふんだ。僕は、かう見えて、センチメンタルなことは嫌ひな男だ。死なしていゝものなら死なせるさ。(突然声を荒らげて)馬鹿! しつかりしろ! (引摺りおろす)

眼鏡  (此の語勢に気を抜かれて)それぢや、あなたは、どうなさるんです。

繃帯  (此のひまに、相手を突き退け)僕は、かうする(土手の上に走り上る)


(此の刹那、汽車が通る。繃帯をした男の姿が消える)


眼鏡  あツ、やつたな。(間)たうとう、やりやがつた。畜生。


(さう云つてゐると、土手の上から、繃帯をした男が、のつそり降りて来る)


眼鏡  なあんだ、やらなかつたのか。

繃帯  やつたさ、やつたけれど、早すぎたんだ。正確に云へば、勢をつけ過ぎたんだ。線路の向うへ飛び込んだんだ。しくじつた。此の次だ(息をはづませてゐる)

眼鏡  だから、僕に先へやらせればいゝのに。

繃帯  さうはいかんさ。君に先へやらせちや、僕の顔が立たん。君の自殺には、僕は反対なんだ。見て見ないふりは出来ない。僕は、自分のことさへどうでもよけりや、君をうちへ送り届けるなり、警察へ引渡すなりする処だ。然し、それができない。君が僕の言ふことを聞かない以上、君のやりたいことは、僕のゐない処でやり給へ。場所も此処と限つたわけぢやないんだらうから。

眼鏡  此処を先へ見つけたのは僕なんだ。

繃帯  あと先の話をしてるんぢやない。僕が生きて居る間、君を殺すわけには行かないから、さう思ひ給へ。

眼鏡  ぢや、僕を生かす為めに、あなたも生きることを考へたらどうです。それなら、話はわかる。

繃帯  さうか、君は、ほんとに死ぬ気はないんだな。さうだらう。それでわかつた。それならそれで、こんな処に、何時までもゐるのはよし給へ。もう、君、遅いぜ。今のが十時の浜松行だ。

眼鏡  死ぬ気がないのは、あなたのことでせう。鉄道自殺のやり損ひなんていふのは、あんまり流行らないからな。


(この時、また汽笛が響く、と、やがて、列車の近づく音)


繃帯  よし、そんなら、見てろ(土手を登りかける)

眼鏡  今度は、僕だ(繃帯をした男を引摺りおろす)

繃帯  なにするんだ。

眼鏡  (この間に、素早く土手の上に駈け上る。汽車が通る。姿が消える)

繃帯  たうとう、やりやがつた。ほんとに、やりやがつた。畜生。こいつは、やつぱり、後ぢや、工合が悪い。


(かう呟く、が不図、土手の上を見ると、眼鏡をかけた男が、眼をこすりながら、とぼとぼと降りて来る)


繃帯  おや、こいつも擦れ違ひか。

眼鏡  駄目だ、貨物列車だ。

繃帯  貨物……?

眼鏡  あゝ、痛え(眼をこする)煤がはひりやがつた。こいつはいかん。とても痛い。あいたた た……(間)

すみませんが、ちよつと、見て下さい。

繃帯  (見ながら)見るのはいゝが、此の明りぢや、君……。どら、もつと、上を向き給へ。さう瞼に力を入れちや駄目だよ。

眼鏡  (瞼を両手で引きあげるやうにして)ありましたか、右の方ですよ。

繃帯  見えるもんか。これぢや。


(汽笛、汽車の音)


さ、来た、一人でゆつくり取り給へ(土手の上にあがらうとする)

眼鏡  痛い、痛い(繃帯をした男に縋りつき)後生だから、こいつを取つてからにして下さい。

繃帯  だつて、君……(もう一度、眼の中をのぞき込みながら)見えないものをとれたつて、それや無理だらう。


(汽車の音近づく)


痛いついでに、それぢや、一と思ひにやつて来たまへ、丁度いゝや。

眼鏡  そんな無茶なことを云はないで、どうかして下さい。これぢやどうすることもできやしない。


(汽車が土手の上を通り過ぎる。弁当の空が二人の傍に飛んで来る)


繃帯  (それを拾ひあげて)綺麗に食つてあらあ。

眼鏡  あいたた、あいたた……。さ、早く……。

繃帯  (弁当の空を棄て)どら、厄介な男だなあ、ハンケチかなんか出し給へ。

眼鏡  ポケツトにはいつてるやつを出して下さい。

繃帯  (ポケツトからハンケチを引き摺り出す)これでいゝの(そのはづみに、写真のやうなものが落ちる)おや、何か出たぜ(あたりを探す。一枚の写真を拾ひあげる)写真だな。どれ……(明りにすかしながら)なるほど、これか。桃割れだね。や、これや素敵だ、どうだい。この笑ひ方は……。

眼鏡  さ、そんなことを後にして……。

繃帯  まあ、待ち給へ、これが第一ぢやないか。しかし、いゝ眼だなあ。これだけの眼は、君、一寸ないよ。

眼鏡  さうでせうか。(間)その眼が、もう永久に眠つてるんです。

繃帯  この眼がね、惜しいことをしたもんだなあ。此の口元だつて、大したもんだよ。此の年にしちや、珍しく蠱惑的だね。

眼鏡  その口が、堪忍して頂戴と云つたんです(泣声になる)それが最後でした。

繃帯  この口がね。

眼鏡  えゝ、さう云つたんです。

繃帯  それが、此の手を見たまへ。何んといふ、あどけなさだ。お手玉を握るためにできてゐる手だ。

眼鏡  いゝえ、それが、僕の手を握つたんです(声をあげて泣く)か、か、堪忍、堪忍、して頂戴、かう云ひながら、両、両手で、僕の手を、に、握り締めるんです。もう、もう、力が、力が、な、ないんです(泣き崩れる)

繃帯  この手でね(かう云つたかと思ふと、手に持つたハンケチで、自分の眼をおさへ)畜生、涙みたいなものが出て来やがる。(間)

眼鏡  僕は、かう見えて、人一倍、物事を考へるたちなんです。この決心をするには、それだけの理由があるんです。

繃帯  これぢや、なるほど、無理もない。君に取つちや、生きてゐるといふことは無意味だ。そこへ行くと、僕なんかは、なんと云つても、まだ、問題はこれからなんだ。つまり、僕は、自分の立場を悲観的に解釈してゐる。そこなんです、事の起りは。僕が、許嫁の心持を忖度するにしても、考へやうによつては、もつと、積極的に、有利に、素直に、考へて見ることも出来るわけなんです。自分の存在が、相手の幸福を妨げるといふ考へ、これや、もう、理窟ぢやない。自分がさう思つても、相手はさう思つてゐないかも知れない。現に、この手紙です(ポケツトから一通の手紙を取り出し)まあ、読んで御覧なさい。

眼鏡  (それを受け取る。開いて読まうとするが、よく見えない)

繃帯  見えませんか。(手紙を見ずに)かう書いてあるんです。「お手紙拝見いたしました。あなたは誤解をしていらつしやるんです。そりや、あのときは、ただ何となく涙が出ました。泣くといふことが、それほど単純な気持からだと思つていただいては困ります。一番心配してゐたあなたのお眼が、元の通り完全に見える、さうなつたことだけでも、泣きたいほどうれしいのです。お顔の疵がなんです。あなたの肉体が、若し、わたくしに取つて大切なものであるなら、それは、ただ、あなたのお心が、そこにあるといふ目印としてなのです。」

「お別れしてゐた五年間、二十の春から二十五の秋まで、わたくしは、あなたの御写真を一度も出して見ませんでした。今だから申します。それは、物を言はない影、心に触れられない姿が、どんなにつまらないものかといふことを知つてゐたからです。あなたは、やつぱり独逸にいらつしやる。伯林大学の研究室で、せつせと勉強していらつしやる。さう思つてゐるだけが、せめてもの慰めだつたのです。時たま下さる、あの電報のやうなあのお端書、あれが、あなたのお声、あなたからの愛の言葉だつたのです。あなたと云ふ方は、わたくしには、一つの神秘な存在です。いつでも、何か考へておいでになる、あのお顔は、決して、女に親しみを感じさせる顔ではありません。ですから、わたくしは、あなたが、あなたのお書斎で、何かお仕事をなさる、その時を選んで、あなたの後姿を、いつも見に行くことにしてゐました。両手で頭をかゝへて、本を読んでおいでになる、その頸筋から肩へ、肩から腰へ、その余念のない後姿の、そこから感じられる落ちついた息づかひ、お笑ひになつてはいやですわ、ただそれだけが、わたくしのものといふ気がしたのです、それと、あのお声、今もちつとも変らないあのお声、『美いちやん、お茶』つておつしやるあのお声……。あれもわたくしのものよ。」(だんだん声がうるんで来る)こゝだけ、「よ」で結んである。

眼鏡  実に感心な方ですね、その方は。然しどんなものですかね。そいつをそのまゝ受け取るのは、なるほど、虫がよすぎますね。聞いてゐても胸がつまる。それだけ、その手紙の一句一句には苦しい努力が匿されてゐる。あなたとしては、やつぱり、その方を自由にしてあげる義務がありますね。それでよく事情がわかりました。あなたは、生きてゐちやいけない。

繃帯  (その辺を歩きまはりながら)どうして、世の中の女は、もつと冷酷に出来てゐないんでせう。君の、此の娘さんにしても、僕の、此の許嫁にしても、あんまり温すぎる。僕たちを苦しめるのは、その温い心なのです。少くとも、その思ひ出なのです。

眼鏡  さうとばかりも云へません。随分冷たい心をもつた女もゐます。

繃帯  さういふ女は男を悩まさない。男がなやまされない。一度或る女の、温い心に触れたら、その女が、どんなに冷酷な態度を示さうと、男の心は、その女から離れきることが出来ない、それはつまり、女といふものが、優しすぎるんです。生れつき温い心の持主なんです。僕はつくづくさう思ひました。さうして、その女のうちでも、僕の許嫁は特別な女なんです。まあ、此の手紙をしまひまで読んで御覧なさい。

眼鏡  えゝ、もうわかつてます。

繃帯  わかつてるでせう。わからなければ嘘だ。何と書いてあります。「あなたが御自分の姿を、それほど醜いと思召すなら、わたくしも、自分が醜くなるやうに努めます。世間に対してならば、どんなことでもします。炭を顔に塗つて外へも出ます。しかし、わたくしは、女です。少しでも美しく、さう思つて大事にする見目かたちは、ただあなたへのささやかな心尽しなのです。わたくしが美しくないといふことは、あなたに才能がないといふことほど、恐ろしいことなのです。二人にとつて恐ろしいことなのです。それ以外のことは、ただ心と心との問題です。わたくしの、空つぽな頭を、あなたは軽蔑もしずにゐて下さる。あなたのお顔や、お姿を、それが、わたしに敵意を示したものでさへなければ、何んで、美しいとか醜いとか申しませう。」どうです。こゝに至つて、僕はもう返す言葉がない。僕は、これでも不幸でせうか。僕は何を苦しんでゐるのだ。僕は、なぜ死ななければならないんだ。

眼鏡  そこが、男の意地ですよ。与へるといふものを、受け取つてはならないことがある。あなたは、世間の男のやうに、エゴイストではない。エゴイストでありたくない。さういふ信念をもつてをられればこそ、かういふ決心ができたのです。しかし、実に偉大ですよ、そのへんは。

繃帯  だが、君のやうに、純な気持ちぢやない。そこが、僕自身も不満なんです。「堪忍して頂戴」……桃割の少女が、死に臨んで、若い恋人のむなもとに囁いたこの一句は、男一人の命には代へられない。君が──それは何時のことだか知らないが──今夜まで生きのびてゐたこと、そのことが既に不思議なくらゐだ。幻を追ふものは山を見ず、谷を見ず……まして汽車くらゐなんだ。

眼鏡  そんなことはありませんよ。僕なんかこそ、云はば自由なんですからね。その幻なら幻を、絶えずかうして頭の中に描いてゐること、それがもう、一つの意義のある生き方なんですからね。僕達二人の間には、例の一件を除いては、何も暗い思ひ出といふものはない。最後までの一と月は、その中でも楽しい、そして静かな、初恋の思ひ出に応はしい朝夕でした。ミルクをかけた苺を、あの、小さな心臓のやうな苺を、僕が、一つ一つ、匙であの唇にはさませてやりました。さうすると、例の、あの眼を細くして『サンキユー』といふんです。『サンキユー』あゝ、サンキユー、サンキユー、こればかりは、幾度聞いても聞き飽きません。あの苺一つで、口が一杯になるらしいんです。『サンキユー』が、時とすると『チヤンピユー』と聞えたり、『シヤンチユー』と聞えたりするんです。それから、また、それを云ふ口つきです。あゝ、たまらない、たまらない。僕は、それが面白さに、どれだけ苺を食べさせたでせう。

繃帯  (独言のやうに)苺か……。


(長い沈黙)


眼鏡  さう、云はば僕は自由なんです。ただ自分の気持だけなんですからね。それが、あなたの場合だと、苟くも一人の女を、これから幸福にするか、不幸にするかの問題なんだから、まるで、決心のつけ方が違ひますよ。さう云ふ風なら、事は早い方がいゝですね。

繃帯  やらうと思や、いつでもやれるさ。


(やや長い沈黙)


眼鏡  然し、やつぱり、話は聞いて見ないとわからんもんですね。

繃帯  処で、眼の方は、もういゝのかい。

眼鏡  さつき、泣いたもんですから、どつかへ行つちまひました。


(間)


繃帯  今夜は、偶然、君といふ人に会つて、いろいろ話をしたが、兎に角、死ぬといふことは理窟ぢやいかんのだし、これから次の汽車を待つにしても、また後先の争ひが起るにきまつてゐるんだから、どうです。その辺で一杯やつて、何れそのうち、別々にやることにしようぢやないか。

眼鏡  別々にね。(間)なんなら、今夜は、あんたがおやりになつて、僕が見届け役になつてもいゝな。

繃帯  見届け役か、そいつはいゝな。どうだい、君が先にやつちや。


(間。両人笑ふ)


眼鏡  しかし、笑ひごとぢやない。


(長い沈黙。両人、また笑ふ)


繃帯  こんなことをするのにや、見物はない方がいゝだらう、いくら御商売が御商売でも……。

眼鏡  つまらんことになるもんだなあ。

繃帯  かうなると命なんていふものは、誰のもんだかわからなくなるね。

眼鏡  人のものでないことは慥かだ。

繃帯  たしかですか、それが。(間)

眼鏡  まあ、もう少し考へさせて下さい。(間)一体、僕は、何にしに此処に来たんです。

繃帯  さあ、自分の命が人の命よりも大事だといふことを知りに来たんだね。

眼鏡  僕はどうしても自分の命が、そんなに大事なものだとは思へない。

繃帯  君にとつて、それよりもつともつと大事でない命が、もう一つ此処にあるわけなんだ。

眼鏡  さうか知ら。しかし、僕は、あれほど決心してゐたんです。


(汽笛。つゞいて汽車の音が聞える)


繃帯  ぢや、その決心を断行し給へ。さ、僕がゐて邪魔なら、僕は帰るよ。それとも、元気をつけてあげようか。


(汽車の音、次第に近づく)


眼鏡  (しほしほと起ち上り)その写真を下さい(写真を受け取つて、つくづく眺めながら)さうだ、こんな意気地のないことぢや駄目だ。(急に繃帯をした男の手を取り)さあ、あなたも一緒に来て下さい。一緒に死にませう。

繃帯  (引張られながら)さう云はずに、まあ君からやり給へ。僕は急ぐ必要はないんだ。いろいろ計画もあるしするから……。

眼鏡  (無理矢理に相手を引摺り上げようとして)なんです、今になつて、卑怯な。

繃帯  卑怯なのは君のことだ。(相手の手を振りはらつて、後ろへ廻り、腰に手をかけて土手の上に押し上げながら)愚図々々してないで、さつさと行き給へ。

眼鏡  (押し上げられようとするからだを手と足で突つ張り)それや無茶だ。そんな法はない。

繃帯  (かまはずに、どんどん押し上げる)

眼鏡  そ、そ、そんな馬鹿な……そこは痛いんだ、痛い、痛い、痛いつたら……。


(汽車の音、いよいよ近づく)


繃帯  (手を放し)さ、今だ。

眼鏡  (転がるやうに駈け降り)あんまり乱暴ぢやありませんか。

繃帯  (どつかと材木に腰を卸し)失敬、失敬。


(汽車が、土手の上を通過する)


眼鏡  (黙つて、うつむいたまま、これも材木の上に腰をかける)


(長い沈黙)


繃帯  もういゝだらう、君。(起ちあがり、促すやうに)さ、そろそろ引上げよう。

眼鏡  (機械的に起ち上り、ふらふらと歩き出す)

繃帯  (その後を追ふやうに、眼鏡をかけた男に寄り添ひ)僕はかう見えて、センチメンタルなことは嫌ひな男だ。(しんみり)しかし、なんですよ、今、君を死なせるくらゐなら、僕が先へ死にますよ。ほんとですよ。


──幕──

底本:「岸田國士全集1」岩波書店

   1989(平成元)年118日発行

底本の親本:「昨今横浜異聞」四六書院

   1931(昭和6)年210日発行

初出:「新小説 第三十巻第二号」

   1925(大正14)年21日発行

入力:kompass

校正:門田裕志

2011年124日作成

2016年413日修正

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