谷にうたう女
小川未明
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くりの木のこずえに残った一ひらの葉が、北の海を見ながら、さびしい歌をうたっていました。
おきぬは、四つになる長吉をつれて、山の畑へ大根を抜きにまいりました。やがて、冬がくるのです。白髪のおばあさんが、糸をつむいでいるように、空では、雲が切れたり、またつながったりしていました。
下の黒土には、黄ばんだ大根の葉が、きれいに頭を並べていました。おきぬは子供がかぜぎみであることを知っていました。持ってくるはずのねんねこを忘れてきたのに気がついて、
「長吉や、ここに待っておいで、母ちゃんは、すぐ家へいってねんねこを持ってくるからな。どこへもいくでねえよ。」
子供は、だまって、うなずきました。
おきぬは、ゆきかけて、またもどってきました。
「ほんとうに、どこへもいくでねえよ。そこにじっとして待っていれや。」
そういって、彼女は、坂道を駈け下りるようにして、急ぎました。
あたりには人の影もなかったのです。くりの木のこずえについていた枯れた葉は、今夜の命も知らぬげに、やはり、ひらひらとして、風の吹くたびに歌をうたっていました。そしてふもとの水車場から、かすかに車の音がきこえてきました。
すこしの間が、小さな長吉にとっては、堪えられないほどの長い時間でした。
「おっかあ。」といって、子供は、母を呼んで泣き出しました。
しかし、いくら呼んでも、この子供の声は、下の村へは達しなかったでありましょう。
このとき、どこからか、笛と太鼓の音がきこえてきました。それは、村の祭りのときにしかきかなかったものです。山の林に鳴く、もずや、ひよどりでさえ、こんないい声は出し得なかったので、長吉は、ぼんやりと、その音のする方を見ると、山へ登ってゆく道を、赤い旗を立て、青い着物をきた人たちが列をつくって歩いてゆきました。そして、その後から、にぎやかな子供たちの話し声などがしてくるので、泣くのを忘れて見とれていると、葉の落ちて、裸となった林の間から、その列がちらちらと見えたのです。長吉は、いそいで、その後を追いかけました。
二、三度も彼はころんだけれど、泣きもせずその後を追いかけてゆきました。
空で、糸をつむいでいた、白髪のおばあさんの姿が見えなくなって、風が募ってきました。おきぬが畑にもどってきたときには、くりのこずえにしがみついて歌をうたっていた葉が、くるくるとまわって、がけの底の方へ落ちていったのです。
「長吉や、長吉や、長吉はどこへいったろう?」
彼女は、あらしのうちを、さがしまわりました。
山の上へとつづいている道は、かすかにくさむらの中に消えていました。そして、山の頂は灰色に曇って、雲脚が、速かったのです。
村じゅうが、大騒ぎをして、長吉をさがしたけれど、ついにむだでありました。年寄りたちは、
「前にも一度こういうことがあった。人さらいにつれていかれたか、たぬきにでもばかされたのであろう。」と、囲炉裏に粗朶をたきながら話しました。
それから、後のことです。村の人たちは、髪を乱して、素足でうたって歩くおきぬを見ました。
「ねんねん、ころころ、ねんねしな。
なかんで、いい子だ、ねんねしな。」
子供を失った悲しみから、気の狂ったおきぬは、昼となく、夜となく、こうしてうたいながら、村道を歩いて山の方へとさまよっていました。
村にあられが降り、みぞれが降りました。そして、山に雪がくると、いろいろの小鳥たちが、里を慕って下りるように、村の娘たちもまた都会を慕ったのです。おかよは、こうして彼女が十六のときに奉公に出ました。
旅に立つ前夜のこと、うれしいやら、悲しいやらで、胸がいっぱいになって、戸の外にすさぶあらしの音をきいていると、ちょうどおきぬの前をうたって通る、子守唄が、ちぎれちぎれに耳へ入ったのでした。なんという、いじらしいことかと、彼女は少女心にも深く感じたのでありました。
月日は、足音をたてずにすぎてゆきました。
くりの木のこずえで、海の方を見ながら、歌をうたっていた枯れ葉も、いつか地に落ちて朽ちてしまえば、村を出たおかよは、もう二年もたって、すっかり都のふうにそまったころです。
ある日おかよは、お嬢さまのおへやへ入ると、ストーブの火が燃えて、フリージアの花が香り、そのうちは、さながら春のようでした。そして、蓄音機は、静かに、鳴りひびいていました。しばらく、うっとりとして、彼女はお嬢さまのそばで、その音にききとれていると、目の前に広々とした海が開け、緑色の波がうねり、白馬は、島の空をめがけて飛んでいる、なごやかな景色が浮かんで見えたのであります。
お嬢さまは、窓のところへ歩み寄ると、はるかに建物の頭をきれいに並べている街の方をごらんになりました。そして、自分でも、その歌の一節を口ずさみなさいました。
「ねえ、おかよや、おまえ、この子守唄をきいたことがあって?」といって、箱の中から一枚のレコードを抜いて、盤にかけながら、
「私は、この唄をきくと悲しくなるの、東京に生まれて、田舎の景色を知らないけれど、白壁のお倉が見えて、青い梅の実のなっている林に、しめっぽい五月の風が吹く、景色を見るような気がするのよ。」といわれました。
やがて、蓄音機のうたい出したのは、
「ねんねん、ころころ、ねんねしな。
坊やは、いい子だ、ねんねしな。
…………」
という、子守唄でありました。
おかよは目に涙をうかべて、きいていました。哀れな、子供を失って気の狂った、おきぬのことを思い出したからです。
「どう? あんたが泣くくらいだから、やはりいいんだわ。この声楽家は、有名な方なのよ。」
「いえ、お嬢さま、どうか、今年の夏、私の生まれた村へいらしてください。谷にはべにゆりが咲いていますし、あの悲しい子守唄をおきかせしたいのでございますから。」
おかよは哀れなおきぬの話をしてきかせたのでした。
都会で、はなやかな生活を送っていらっしゃるお嬢さまは、高い窓からかなたの空をながめて、遠い、知らぬ海の向こうの国々のことなどを、さまざまに想像して、悲しんだり、あこがれたりしていられたのですが、いま、おかよの話をきくと、このところへは、ほんとうにいってみる気になりました。朝、汽車に身を委せればその日の中にもおかよの村へ着くのだから。
また、月日は、足音をたてずに、とっとと過ぎてしまいました。
地球の上は、やわらかな風と緑の葉に被われています。うぐいすは林に鳴いて、がけの上には、らんの花が香っていました。
気の狂ったおきぬは、その後、すこしおちついたけれど、もうこの村には用のない人とされて、山一つ越した、あちらの漁村の実家へ帰ってしまったそうです。
「お嬢さま、せっかくおつれもうして、あの女のうたう子守唄をおきかせすることができません。」と、おかよは、なげきました。それをききたいばかりに、わざわざここまで旅行をしたお嬢さまの失望を思ったからです。
しかし、お嬢さまは、都にいらしたときのように、ここへきても笑っていらっしゃいました。
「だけど、いいわ。ここへやってきたかいがあってよ。山も谷も、私が、夢で見たよりか美しいんですもの。」
このとき、谷で鳴くうぐいすの声が、かすかにきこえてきました。そして、がけの上では、らんの花が咲いて、今朝から、金色の羽を輝かしながら、小さなはちが、幾たびもそのまわりを飛んでいたのでした。
「まだ、あちらの山には、雪が光っていること。」と、おかよが、ぼんやりと、その方に見とれていたときでした。
「ねんねん、ころころ、ねんねしな──。」
彼女は、たちまち谷に起こる、きき覚えのある、おきぬの声をきいたので、びっくりしたのです。
しかし、それは、そうでなかった。なにか美しい花を見つけて草のしげった、細い道を下りていった、お嬢さまが、高らかにうたった歌の声だったのであります。
底本:「定本小川未明童話全集 10」講談社
1977(昭和52)年8月10日第1刷発行
1983(昭和58)年1月19日第6刷発行
※表題は底本では、「谷にうたう女」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:仙酔ゑびす
2012年7月16日作成
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