空晴れて
小川未明



 山間さんかんさびしいむらには、あきはやくきました。一木々きぎ紅葉こうようして、さながらえついたようにうつくしかったのもつかのであって、をきるようなあらしのたびに、やまはやせ、やがて、そののちにやってくる、なが沈黙ちんもくふゆうつらんとしていたのです。そこにあった、みすぼらしい小学校しょうがっこうへは、とお隣村となりむらからかよってくる年老としとった先生せんせいがありました。ながなつのころは、さほどでもなかったが、じきにれかかるこのごろでは、かえりにとうげを一つすと、もうくらくなってしまうのでした。

先生せんせい天気てんきわりそうです。はやくおかえりなさらないといけません。」

 少年小使しょうねんこづかいの小田おだけん一は、いったのでした。子供こどもたちは、すべてってしまって、学校がっこうなかは、にもひとしかったのです。教員室きょういんしつには、老先生ろうせんせいが、ただ一人ひとりのこって、つくえうえをかたづけていられました。

小田おだくん、すこし、漢文かんぶんてあげよう。ようがすんだら、ここにきたまえ。」と、老先生ろうせんせいは、いわれた。

先生せんせい、しかし、あらしになりそうです。またくらくなって、おかえりにおこまりですから。」と、小田おだは、遠慮えんりょしたのでした。

 かれは、この小学校しょうがっこう卒業そつぎょうしたのだけれど、いえまずしくて、そのうえ学校がっこうへは、もとよりがることができなく、小使こづかいにやとわれたのでした。そして、よるは、この学校がっこうまって、留守番るすばんをしていました。ゆきがたくさんにもると、老先生ろうせんせいも、ふゆあいだだけ、学校がっこう寄宿きしゅくされることもありました。

 先生せんせいは、小田おだ忠実ちゅうじつであって、信用しんようのおける人物じんぶつであることは、とうからていられたので、かれに、学問がくもんをさしたら、ますます人間にんげんになるとおもわれたから、このごろ、ひまのあるときは、わざわざのこって「孝経こうきょう」をおしえていられたのです。

 ぱらぱらといって、が、かぜばされてきて、まどのガラスたるおとがしていました。

子曰夫孝天之経也しのたまわくそれこうはてんのけいなり地之義也ちのぎなり民之行也たみのこうなり。──このけいは、サダマリというのだ。そして、は、ここでは道理どうりという意味いみであって、たみすなわひとこうはこれをツトメというのだ。」と、老先生ろうせんせいは、おしえていられました。けん一は、あたまれて、書物しょもつうえつめて、先生せんせいのおっしゃることを、よくこころめいじてきいていました。

 やがて、講義こうぎわると、先生せんせいは、眼鏡めがねごしに、小田おだていられたが、

とき小田おだくん、きみはたしか三なんであったな。」と、きかれた。

「はい、そうです。」

「べつに、のうたすけるひとでないようだな。それなら、東京とうきょうはたらいてみないか。いや、みだりに都会とかいへゆけとすすめるのでない。」と、先生せんせいは、おっしゃられた。

先生せんせいわたしはまだそんなことをかんがえたことがございません。」

「いや、それにちがいない。どこも就職難しゅうしょくなんおなじい。ことに都会とかいはなおさらだときいている。それを、こういうのも、じつは、むかしわたしおしえたで、山本やまもとという感心かんしん少年しょうねんがあった。父親ちちおやは、なまもので、その教育きょういくができないために、行商ぎょうしょうにきたひとにくれたのが、いま一人前にんまえおとことなって、都会とかい相当そうとうみせしている。このあいだから、だれか信用しんようのおける小僧こぞうさんをさがしてくれと、わたしのところへたのんできているのだが、どうだな、苦労くろうもしてきた主人しゅじんだから、ゆけばきっと、きみのためになるとはおもうが。」と、先生せんせいは、いわれたのでした。

今夜こんや、ひとつよくかんがえてみます。」と、けん一ははっきりとこたえた。

 先生せんせいは、かえ仕度したくをなされた。かれは、途中とちゅうまで先生せんせいおくったのです。

 はしわたると、みずがさらさらといって、いわげきして、しろくだけていました。ところどころにある、つたうるしがになっていました。なんのとりか、ひとはなごえ足音あしおとおどろいて、こちらのきしから、びたって、かなたのきしのしげみにかくれた。かれは、先生せんせいわかれてから、ひととうげうえちました。まだそこだけはあかるく、あわただしく松林まつばやしあたまえて、うみほうくもけてゆくのがながめられたのでした。

 その小使こづかしつ障子しょうじやぶれから、つめたいかぜんできました。けん一はつねのごとくまくらにあたまをつけたけれど、ぐっすりとすぐにねむりにおちいることができなかった。

都会とかいが、いたずらに華美かびであり、浮薄ふはくであることをらぬのでない。自分じぶんは、かつて都会とかいをあこがれはしなかった。けれど、立身りっしん機会きかいは、つかまなければならぬ。なかるには、ただあせってもだめだ。けれど、また機会きかいというものがある。藤本先生ふじもとせんせいは、わたしに、機会きかいあたえてくださったのだ。先生せんせいのお言葉ことばしたがって、ゆくことにしよう。」と、おもったのでした。

 晩方ばんがたから、わりそうにえたそらは、夜中よなかから、ついに、はげしいしぐれとなりました。かれは、朝早あさはやきて、学校がっこうなかのそうじをきれいにすましました。そして、囲炉裏いろりこして、鉄瓶てつびんをかけて、先生せんせいたちがいらしたら、おちゃをあげる用意よういをしました。そのうち、もう生徒せいとたちがやってきました。やがて、いつものごとく授業じゅぎょうはじまりました。

 やすみの時間じかんに、かれは、老先生ろうせんせいまえへいって、東京とうきょうる、決心けっしんをしたことをげると、

きみがいってくれたら、山本やまもとくんもよろこぶだろう。ただ注意ちゅういすることは、だい一に、なにごとも忍耐にんたいだ。つぎに、男子だんしというものは、こころおもったことは、はきはきと返事へんじをすることをわすれてはならぬ。これは、使つかわれるものの心得こころえおくべきことだ。」といわれたのでした。

 けん一は、老先生ろうせんせいのお言葉ことばをありがたくおもいました。そして、この温情深おんじょうぶか先生せんせい膝下しっかから、とおはなれるのを、こころのうちで、どんなにさびしくおもったかしれません。

 こうして、かれは、ついに東京とうきょうひととなりました。

 きた当座とうざは、自転車じてんしゃるけいこを付近ふきんにいって、することにしました。また、電話でんわをかけることをならいました。まだ田舎いなかにいて、経験けいけんがなかったからです。山本薪炭商やまもとしんたんしょう主人しゅじんは、先生せんせいからきいたごとく、さすがに苦労くろうをしてきたひとだけあって、はじめて田舎いなかからてきたけん一のめんどうをよくみてくれました。まきすみや、石炭せきたん生産地せいさんちから直接ちょくせつ輸入ゆにゅうして、そのおろしや、小売こうりをしているので、あるときは、えき到着とうちゃくした荷物にもつろしを監督かんとくしたり、またリヤカーにんで、小売こうさきはこぶこともあれば、いくたびとなく自転車じてんしゃにつけて、得意先とくいさきとどけなければならぬこともありました。

 かれは、自転車じてんしゃのけいこをしながら、いつかあそんでいる近所きんじょ子供こどもたちと仲良なかよしになりました。子供こどもきなかれは、そこに田舎いなか都会とかいと、なんら純情じゅんじょうにおいて、差別さべつのあるのをいださなかったのでした。

「おにいさん、上手じょうずれるようになったのね。」と、おんなや、おとこらは、かれ周囲しゅういあつまってきていいました。

 けん一は、こうした子供こどもたちをるにつけ、もはや、ときどきは、しぐれとじってるであろう故郷こきょうむらに、毎日まいにち学校がっこうあつまってくるしたしみぶか生徒せいとらの姿すがたかべました。「こちらは、こんなにいい天気てんきだのになあ。」と、おな太陽たいようでありながら、その地方ちほうによって、あたえる恵慈けいじ相違そういかんがえずにはいられなかったのです。かれは、藤本先生ふじもとせんせいにも、

「こちらへきて、幸福こうふくの一つは、れわたったあおそらられることですが、それにつけ、いっそう、あのさびしい山国やまぐにで、はたらひとたちのことをおもいます。」と、いたのでありました。

 あるかれは、往来おうらいのはげしいにぎやかなみち自転車じてんしゃってはしっていました。このとき、よこあいからまえ老人ろうじんがあったが、ふいのことであり、かれは、この老人ろうじんきずつけまいとの一ねんから、とっさにハンドルをまわしたので、おりから疾走しっそうしてきた自動車じどうしゃれて、はねとばされたのでした。

 かれは、ただちに病院びょういんへかつぎまれました。きずさいわいにあし挫折ざせつだけであって、ほかはたいしたことがなく、もとより生命せいめいかんするほどではなかったのです。主人しゅじんはそれ以来いらいいくたびとなく、病院びょういんかれをみまいました。

今日きょうは、気分きぶんはどんなだね。」と、たずねました。

 けん一は、いたましくも、あたまから足先あしさきまで、しろいほうたいをして、よこになっていました。

「だいぶん、いたみがとれました。」と、かれは、こたえた。

「まあ、たいしたけがでなくてよかった。なにしろ、東京とうきょうでは、幾人いくにんということなく、自動車じどうしゃや、トラックの犠牲ぎせいとなっているから、こののちも、よくをつけなければならない。それにくらべると、田舎いなかは、安心あんしんしてみちあるけるし、しぜんひと気持きもちも、のんびりとしているのだね。」と、主人しゅじんは、いいました。

「そうだとおもいます。しかし、わたし不注意ふちゅういから、ご心配しんぱいをかけましてすみません。」

きみは、おばあさんをかばおうとしたばかりに、自分じぶんがけがをしたというはなしだが、わたしは、きみ誠実せいじつ感心かんしんするよ。」

「あのときは、ただ老人ろうじんをひいてはたいへんだというこころだけで、ほかのものがはいらなかったのです。」

 こういって、けん一は、まことに危険きけんだった当時とうじ追想ついそうしました。

きみがきてくれて、わたしは、いい協力者きょうりょくしゃができたとおもっている。ひとは、たくさんあっても、信用しんようのおけるひとというものは、存外ぞんがいすくないものだ。」と、いって、主人しゅじんけん一をはげましてくれました。けん一は、ただ、その厚情こうじょう感謝かんしゃしました。かれ負傷ふしょうしたことを故郷こきょうおやにも、老先生ろうせんせいにもらさなかったのです。孝経こうきょうなか身体髪膚受之父母しんたいはっぷこれをふぼにうく不敢毀傷孝之始也あえてきしょうせざるはこれこうのはじめなり。と、いってあった。

 かれは、自分じぶんいまいたらぬのをこころなかで、いたのでありました。

底本:「定本小川未明童話全集 10」講談社

   1977(昭和52)年810日第1刷発行

   1983(昭和58)年119日第6刷発行

※表題は底本では、「そられて」となっています。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:仙酔ゑびす

2012年716日作成

青空文庫作成ファイル:

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