黒いちょうとお母さん
小川未明
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このごろ毎日のように昼過ぎになると、黒いちょうが庭の花壇に咲いているゆりの花へやってきます。
最初、これに気がついたのは、兄の太郎さんでした。
「大きい、きれいなちょうだな。小鳥ぐらいあるかしらん。弟が見つけたら、きっとつかまえてしまうだろう、今年の夏は、すばらしい昆虫の標本をつくるのだといっていたから。弟の帰らないうちに、はやく逃げていってしまえばいいにな。」
太郎さんは、こう思いながら、白いゆりの花にとまってみつを吸っているくろあげはを見守っていました。ちょうは、すこしの不安もなく、さもたのしそうに、花にたわむれているごとく見えました。
そのうちに、十分、みつを吸ってしまったので、ひらひらと重そうに、翅をふって垣根を越えて、まぶしい、空のかなたへ、飛んでいってしまいました。
翌日は、土曜日で、二郎さんも早く学校から帰ってきました。そして、みんなが、お縁側で話をしていました。
「うちのゆりは、やまゆりだろう。あの種子はどうしたのだろうね。」
二郎さんは日の光に、銀色にかがやいているゆりを見ていいました。
「お父さんが、田舎から、持っていらしたのだ。」と、太郎さんが教えました。
「山へいくとたくさん咲いているのだろうね。田舎へいってみたいもんだな。」
「年数の古いものほど、花がたくさん咲くのだそうだ。」
「うちのは、いくつついているかしらん。」
こんなことを兄弟が、話し合っているときに、ちょうど昨日の黒いちょうが、どこからかゆりの花を目ざして飛んできました。
「あ、くろあげはだ。静かにしていておくれ、僕いま網を持ってきて、つかまえるのだから……。」と、これを見つけた二郎さんは、目の色を変えて起ち上がりました。
「ばかなちょうだな、飛んでこなければいいのに……。」と、兄の太郎さんは舌打ちをしました。
「なにをいってんだい。僕いろいろな虫を採集して標本を造るんじゃないか。」
二郎さんは、はや、捕虫網を持ってきました。すると、突然お母さんが、
「あのちょうを捕ってはいけませんよ。あの黒いちょうは、毎日いまごろ、ゆりの花に飛んでくるのです。お母さんは、とうから気がついていました。」
これをきくと、太郎さんは、昨日ばかりでないのかと思いました。
「なぜ、とっていけないのですか。」と、二郎さんがたずねました。
「あのちょうは、お母さんですから。」と、お母さんがいわれたので、二人は、びっくりして、お母さんの顔を見つめたのであります。
「お話をしてあげますから……。」と、お母さんがおっしゃったので、二郎さんは、捕虫網をそこに投げ捨て、太郎さんとお行儀よく並んで、お母さんの前にすわりました。
お母さんは、お話をおはじめになりました。
「あるところに、四つばかりのかわいらしい女の子がありました。毎日お昼過ぎになると、いつのまにか、大きなげたをはいて、お家からぬけ出しました。
日のかんかん照らすほかには遊ぶお友だちもいません。あちらの野原の方を見ると、草の葉が光ってかすんでいました。
『おじいちゃんのとこへ、いこうかな。』と、ぼんやり立っていますと、
『お母ちゃんにしかられるからよしたがいい。』と、電線にとまっているつばめが幾羽も、口々にさえずりながら止めたのであります。
けれど、おじいさんのところへゆくのを思いとどまりませんでした。大きなげたをひきずって野原を歩いていきました。いろいろな花が咲いて、ちょうが飛んだり、とんぼがとんだりしていました。
野原の中に、小舎がありました。少女は前にくると、
『おじいちゃん、あそびにきた。』といいました。するとおじいさんが、顔を出して、
『おお、よくやってきた。』といって、少女を抱き上げてくれました。
『おじいちゃん、それなんにするの……。』
『このからすはもうじき、川開きがくる、そのとき上げる花火の中にいれるのだ。』
おじいさんが仕事をしながらおもしろい話をしてくれるのを少女は、そばでおとなしくしてきいていました。
そのうちに、遠くで、雷の音がゴロゴロとしました。
『うちで心配しているといけないから、もう帰りな。おじいちゃんが送ってやる。』と、おじいさんは、花火を造っている小舎から出て、屋根の見える町まで少女を送ってくれました。
おうちへ帰ると、お母さんが、
『あれほど、あぶないから、花火小舎へいってはいけないといったのに。』と怖い顔をしてしかりましたので、少女は泣き出しました。
すると祖母さんが出てきて、
『子供はりくつをいったってわからない。かわいがるもののところへいくものだ。』といわれたのです。おまえたちは、その女の子をだれだと思うの、お母さんなんですよ。このごろ、ちょうが、毎日ゆりの花へくるのを見て、お母さんは昔の自分のことを思い出していたのです。ああしてなにも知らずに喜んでくるものを、捕ったり、殺したりなどしてはいけません。」
お母さんは、お話をして、こうおっしゃったのでした。太郎さんも、二郎さんもお母さんの子供の時分の姿を空想しました。そして愛と光につつまれた世界をなつかしく思いました。けれど、そのときの自然と、いまの自然とどこにちがいがあろう。そう思ってふり向くと、花壇には平和な日の光が満ちていました。
底本:「定本小川未明童話全集 10」講談社
1977(昭和52)年8月10日第1刷発行
1983(昭和58)年1月19日第6刷発行
※表題は底本では、「黒いちょうとお母さん」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:仙酔ゑびす
2011年12月1日作成
2012年9月28日修正
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