草を分けて
小川未明
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兄さんの打った球が、やぶの中へ飛び込むたびに辰夫くんは、草を分けてそれを拾わせられたのです。
「なんでも、あのあたりだよ。」と、兄の政二くんは指図をしておいて、自分は、またお友だちとほかの球で野球をつづけていました。
「困ったなあ。」と、思っても、しかたがなかったので、辰夫くんは、しげった草を分けて、ボールをさがしにやぶの中へ入りました。
さっきまで、はるぜみが、どこかで鳴いていました。その声が、ぴたりと止まってしまいました。
「あの、やさしい声のはるぜみをつかまえたいな。」と、思いました。そして、背の高い草を分けて、下の方を見ると、そこには、不思議な、静かな緑色の世界があって、土には、きれいな帽子をかぶった茸がはえていますし、葉の上には、花びらのついているように、珍しい蛾が休んでいますし、また生まれたばかりの、おはぐろとんぼが、うすい、すきとおる羽をひらひらさして飛んでいますし、青い、青い色をした、きりぎりすのような虫もいますし、よく見ると、名を知らない草が、かわいらしい花を咲かしたりしていました。
「きれいだなあ。」と、辰夫くんは、ボールを探すことも忘れて、はじめて気のついた、異った世界の景色に、うっとりと見とれたのです。そして、じっとそこにうずくまって、
「僕も、お仲間に入れてくれない?」と、いいますと、蛾は相談をしにいくのか、ちらちらと飛んで、あっちのしげみに入ってゆきました。すると、おはぐろとんぼも、あわてて逃げ出しそうにしましたから、
「僕は、生まれたばかりの、君なんかつかまえはしないよ。」と、辰夫くんは、おはぐろとんぼを呼びとめました。
おはぐろとんぼは、はじめて安心したように、大きな目をくるくるさせて、
「いま、蛾さんが帰ってきますから、すこしお待ちください。」と、いって、自分は、大きな葉の蔭に姿を隠してしまいました。
たぶん、蛾がいって相談したのでありましょう。ジイー、ジイーといって、すぐ近くで、はるぜみの鳴く声がしました。
「いいなあ、僕こんなところに、いつまでもじっとしていたいな。」と、辰夫くんは、思いました。そして、もう、ボールなど探しに入って、この小さいお友だちを驚かしたりしたくはなかったのです。
このとき、兄の政二くんのかけてくる足音がして、
「辰夫、まだ見つからない?」と、いいましたので、辰夫くんは、
「見つからないよ。」と答えました。
「おかしいな。」と、いって、政二くんは、大きなくつで、草の上を遠慮なしに踏んで入ってきました。虫たちは、どんなに驚いたかしれません。たちまち大騒ぎとなりました。
「なければ、いいよ。もうお昼だから、お家へ帰ろう。」と、政二くんは、いって、やぶの中から出ました。辰夫くんも、つづいて出ました。
「兄さん、午後から釣りにいくの?」と辰夫くんはききました。
「いくかもしれない。」
「つれていってね。」
しかし兄さんはだまっていました。ご飯を食べてしまうと、政二くんは、釣りざおを出して用意をしました。
「兄さん、僕もつれていってね。」と、辰夫くんは、また頼んだのです。
「みみずを取っておいで、つれていってやるから。」
辰夫くんは、すぐにみみずを取りにいきました。しばらくするとぼんやりと帰ってきて、
「どこにも、みみずはいないよ。」と、いいました。
「じゃ、つれていかない。」と、政二くんがいいました。
辰夫くんは、泣き出してしまいました。天気がつづいて、みみずのいそうなところを探してもいなかったのでした。
さっきから、このようすを見ていたお姉さんは、
「なんで、そんな意地悪をするんですか。釣りにいくときは、道具をみんな小さな弟に持たせるくせに、機嫌よくつれていかれないのですか?」と、政二くんにおっしゃいました。
「いっても、じきに帰るというから、いやなのだよ。」と、政二くんは、答えました。
「うそだい、僕に、さおを一本も貸してくれないんだもの、僕つまらないから、帰るといったんだよ。」
「なぜ、一本ぐらいさおを貸してやらないのです。」
「釣れはしないんだ。ただ、針を引っかけて糸を切ってしまうばかりだもの。」
こう、政二くんがいうと、辰夫くんは顔を赤くして、
「だれが、もうボールなど拾ってやるものか。」といいました。
「だれが、釣りになど、つれていってやるものか。」と、政二くんがいいました。
「辰夫さん、つれていってもらわなくても、晩に、お姉さんが、夜店へつれていってあげるから。」と、お姉さんがおっしゃいました。
辰夫くんの機嫌は、すぐに直ってしまいました。兄さんたちが、釣りにいった後で、原っぱで、ほかのお友だちと遊びながら、晩になるのを楽しみに待っていました。晩になりました。政二くんはお姉さんと辰夫くんが出かけるのを見ても、やせ我慢をして、つれていってくれといいませんでした。
「辰夫、金魚を買ってもらってこいよ。」と、ただ一言、政二くんは、いったきりです。
辰夫くんとお姉さんは、明るい金魚屋の前へ立ちました。たくさんの色とりどりの金魚が浅いおけの中で泳いでいました。
「まあきれいなこと。」と、お姉さんはおっしゃいました。しかし、ほんとうなら、日が暮れると、すべての魚たちは、水草の蔭に隠れて、じっとして眠るのであるが、この金魚たちは電燈の光に照らされて、子供らの出す、さおの先についている針に追いまわされているのでした。
「辰夫さん、あんたも釣ってごらんなさい。」と、お姉さんはおっしゃいました。
辰夫くんは、無理やりに、針の先にひっかけて、金魚を釣る気になれなかったのです。
「かわいそうだもの、僕、金魚をほしくないよ。」といって、辰夫くんは、その前からはなれたのでした。
「せっかくきて、つまらないじゃないの、なにかほかのものを買ってあげましょうか。」と、お姉さんはおっしゃいました。
二人は、並んだ店を見ながら、歩いていました。
「あれは、なんですか?」
「海ほおずきよ、きれいですね。」
「僕、あんなの、ほしいけど。」
「女の子の持つものよ。」
「買っては、おかしい?」
「おほほほ、ほしければ、私が買ってあげますから。」
「僕、ここに待っているよ。お姉さん、買ってきておくれ。」と、辰夫くんはいいました。
「まあ、恥ずかしがりやね、そんならここに待っていらっしゃい。」と、いって、お姉さんは、海ほおずきを売る店の前へいかれました。
辰夫くんは、今日、やぶの中で見た、不思議な世界のことを思い出していました。
貝がらのような蛾、赤い茸、おはぐろとんぼ、いい声で唄をうたうはるぜみなど。そして、またこの海ほおずき。なんという美しいことであろう。しかし、金魚を買わずに、海ほおずきを買って帰ったら、きっとお兄さんが笑うとは思ったけれど、辰夫くんは、やはり、金魚をいじめたくなかったのでした。
底本:「定本小川未明童話全集 11」講談社
1977(昭和52)年9月10日第1刷発行
1983(昭和58)年1月19日第5刷発行
底本の親本:「ドラネコと烏」岡村商店
1936(昭和11)年12月
初出:「せうがく三年生 13巻3号」
1936(昭和11)年6月
※表題は底本では、「草を分けて」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井裕二
2016年6月10日作成
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