希望
小川未明
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夏の晩方のことでした。一人の青年が、がけの上に腰を下ろして、海をながめていました。
日の光が、直射したときは、海は銀色にかがやいていたが、日が傾くにつれて、濃い青みをましてだんだん黄昏に近づくと、紫色ににおってみえるのでありました。
海は、一つの大きな、不思議な麗しい花輪であります。青年は、口笛を吹いて、刻々に変化してゆく、自然の惑わしい、美しい景色に見とれていました。
「昨夜も同じ夢を見た。はじめは白鳥が、小さな翼を金色にかがやかして、空を飛んでくるように思えた。それが私を迎えにきた船だったのだ。」
青年は、だれか知らぬが、海のかなたから自分を迎えにくるものがあるような気がしました。そして、それが、もう長い間の信仰でありました。この不自由な、醜い、矛盾と焦燥と欠乏と腹立たしさの、現実の生活から、解放される日は、そのときであるような気がしたのです。
「おれは、こんな形のない空想をいだいて、一生終わるのでないかしらん。いやそうでない。一度は、だれの身の上にもみるように、未知の幸福がやってくるのだ。人間の一生が、おとぎばなしなのだから。」
彼は、ロマンチックな恋を想像しました。また、あるときは、思わぬ知遇を得て、栄達する自分の姿を目に描きました。そして、毎日このがけの上の、黄昏の一時は、青年にとってかぎりない幸福の時間だったのであります。
奇蹟が、あらわれるときは、かつて警告というようなものはなかったでしょう。そして、それは、やはり、こうした、ふだんの日にあらわれたにちがいありません。
青年は、今日もまた空想にふけりながら、沖をながめていました。ふと、その口笛は止まって、瞳は水平線の一点に、びょうのように、打ちつけられたのです。いましも、金色に縁どられた雲の間から、一そうの銀色の船が、星のように見えました。そして、その船には、常夏の花のような、赤い旗がひらひらとしていました。
「あの船だ!」
青年は、夢の中で見た船を思いだしました。とうとう、幻が現実となったのです。そして幸福が、刻々に、自分に向かって近づいてくるのでありました。
見ていると、銀色の小舟は、波打ちぎわにこいできました。入り陽が、赤い花弁に燃えついたように、旗の色がかがやいて、ちょうど風がなかったので、旗は、だらりと垂れていました。船の中で、合図をしているように思われました。彼は、がけをおりようかと思いましたが、ほんとうに、自分を迎えにきてくれたのなら、何人か、ここまでやってくるにちがいない。すべて、運命や奇蹟というものは、そうなければならぬものだと考えられたからであります。
それで、彼は、じっとして見守っていました。船から、人がおりて、汀を歩いて、小さな箱を波のとどかない砂の上におろしました。そして、その人影は、ふたたび船にもどると音もなく、船はどこへともなく去ってしまったのです。
青年は、赤い旗が、黄昏の海に、消えるのを見送っていました。まったく見えなくなってから、彼はがけからおりたのであります。砂の上に、ただ一つ、黙って置かれている、小さな箱の方に向かって歩きました。小さな黒い箱は、すぐ近くになりました。このとき、思いがけなく、白いひげをのばした老人が、そばから、青年に呼びかけたのです。
「若いの、あの箱を拾う勇気があるかの。」
おじいさんの言葉は、なんとなく、意味ありげでした。
この刹那、青年の頭のうちには、幸福と正反対の死ということがひらめいたのでした。
「おれは、まだ死んではならない。もうすこしで、あぶないものをつかむところだった!」
彼は、せっかく、箱に近づいたかかとを、後方に引き返しました。ふり向くと、夕闇の中に、老人の姿は消えて、黒い箱だけが、いつまでも砂の上にじっとしていました。
夜中に、目をさますと、すさまじいあらしでした。海は、ゴウゴウと鳴っていました。青年は、待ちに待った船が、遠くから持ってきてくれた箱のことを思い出しました。
「あの箱の中には、なにがはいっていたろう?」
夜の明けるのを待ちました。やがて、あらしの名残をとめた、鉛色の朝となりました。浜辺にいってみると、すでに箱は波にさらわれたか、なんの跡形も残っていません。
その後青年は、この話を人にしました。
「君は、夢を見たのだ。」と、だれも信じてくれませんでした。そのうちに、彼の青春も去ってしまったのであります。
底本:「定本小川未明童話全集 10」講談社
1977(昭和52)年8月10日第1刷発行
1983(昭和58)年1月19日第6刷発行
※表題は底本では、「希望」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:仙酔ゑびす
2012年5月6日作成
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