がん
小川未明
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若いがんたちが、狭い池の中で、魚をあさっては争っているのを見て、年とったがんが歎息をしました。
「なぜ、こんなところに、いつまでもいるのだろうか。」
これを聞いた、りこうそうな一羽の若いがんが答えて、
「おじいさん、どこへゆけば、私たちは幸福に暮らされるというのですか。この池へおちつくまで、私たちはどんなに方々の沼や、潟を探索したかしれません。けれど、どこにもすばしこい猟犬の鳴き声をきくし、狡猾な人間の銃をかついだ姿を見受けるし、安心して、みんなの休むところがなかったのです。そして、ようやく、この禁猟区の中のこの池を見いだしたというようなわけです。」と、老いたるがんに向かって、いいました。
「そのことは、私にもよくわかっている。だから、人間がめったにゆかないところを探すのだ。もっと遠い、寒い国へ向かって旅立ちをするのだ。私がまだ子供の時分、親たちにつれられて通ったことのある地方は、山があり、森があり、湖があり、そして、海の荒波が、白く岸に寄せているばかりで、さびしい景色ではあったが、人間や猟犬の影などを見なかったのだ。あの記憶に残っているところを、もう一度探しに出かけるのだ。」
「おじいさん、なんだか夢のような話ではあるが、そこをはっきりと覚えていますか。」と、若いがんがたずねました。
「小さい時分のことを、どうして、よく覚えていよう。かすかな記憶にしか残っていない。しかし、そこを探し出すのだ。」と、年とったがんはいいました。
りこうな若いがんは、みんなを呼び集めて、その夜、月の下で協議を開くことにしました。するといろいろの説が出ました。
「人間のみずから設けた禁猟区にいて、こちらの身の安全をはかるということは、なんと賢明なやり方ではないか。もしここを飛び出したが最後、自分たちは、いつどこで、どんな危険にさらされないともかぎらないだろう。」と、Bがんが、いいました。
「その心配は道理である。が、おじいさんは、ほんとうにそうした理想の世界を知っているのだろうか。」と、冒険好きな、Kがんがいいました。
「小さな時分に、旅をする途中で見たというのだ。そしていま、その記憶はかすかになったけれど、おじいさんは、探せばかならず見いだせるという強い信念を有しているのだ。」と、この禁猟区に、はじめてみんなを導いた、りこうながんがいいました。
「そんなら、俺たちは、おじいさんに案内を頼んで、出かけることにしようじゃないか。」と、中でも、もっとも野生を有していた、Kがんが、さっそくこの説に賛成しました。
「幾百里か、飛んでいって、それが無いといって帰ってくることができるだろうか?」と、Bがんが、むしろ、反対の意見をもらしました。
「そのことだ。ただ、この頼りない希望のために、この安全なすみかを捨ててゆくということが考えものなのだ。おそらく、もう二度ともどってくることはできなかろう。」と、りこうそうながんが、考え深い顔つきをしてBのいったことに答えました。
「人間の与えた安全が、なんでいつまで頼りになろう。いまから、私たちは、それを探しに出ても遅くはないのだ。」と、Kがんがいいました。
しかし、こうした話が持ち上がると、自由を慕う本能が、みんなの心の中に目覚めたのでした。
「ゆこう、ゆこう、ここで、こうして意気地なく、この冬を送るよりか、翼の力のつづくかぎり、広い、自由な、そして、安全な世界を探しに出かけようじゃないか。」と、ついにみんなの意見が、一致しました。
「おじいさん、どうぞ道案内を頼みます。」と、彼らはいいました。
このときまで黙って、月を見上げていた、年とったがんは、
「ここから、北へ、北へと飛んでゆけば、その地方へ出られるような気がする。ゆくなら今夜にでも、すぐに立とうではないか。」といいました。どのがんも、これに対して不平をいったり、反対するものはありませんでした。みんなは、月の光を浴びながら、めいめいつばさをひろげて、羽ならしをしていました。そして、拍子を合わせて、二度、三度羽ばたきをしました。これから、長旅に出かける前のあいさつであります。
つぎの瞬間に、彼らは、空へ舞い上がりました。そして、池の上を、なつかしそうに一周したかと思うと、ここを見捨てて、陣形を造って、たがいに鳴き交わしながら、かなたへと消えていってしまったのであります。
年とったがんが、彼らの先達でありました。つぎにりこうなSがんと、勇敢なKがんがつづきました。そして、しんがりを注意深いBがんがつとめ、弱いものをば列の真ん中にいれて、長途の旅についたのであります。
冬へかけての旅は、烈しい北風に抗して進まなければならなかった。年とったがんは、みんなを引き連れているという責任を感じていました。同時に若いものの勇気を鼓舞しなければならぬ役目をもっていました。彼は、風と戦い、山野を見下ろして飛んだけれど、ややもすると翼が鈍って、若いものに追い越されそうになるのでした。
「おじいさん、ゆっくり飛びましょう。」
若いがんたちは、いくばくもなくして、この年とったがんを冒険の旅路の案内にさせたことは、無理であり、また、気の毒であったことを感じました。けれど、どうすることもできません。そして、こういたわると、年とったがんは、若いものにみずからの力の衰えと、弱気を見せまいと努力に努力をつづけて飛んでいました。
しかし、彼らは、ある山中の湖の上を通ったときに、ついにそこへ降りなければなりませんでした。
先達の老いたがんは、もうまったく飛ぶことができなかったからです。
「私たちは、ここへ飛んできたことが、無謀であった。」と、Sがんがいいました。
「いや、けっしてそうでない。この湖水を見いだしただけでもこの旅はむだではなかった。あのすばらしい四辺の山々を見るがいい。」と、元気な、Kがんが、いいました。
「それにちがいない。いま、忘れていた記憶がすっかり甦えってきた。これから、もっと、もっと、北へさしてゆくと私のいった理想の土地へ出られるのだ。しかし、私の力は、もうそこまでゆくことができない。どうか私をここに残してみんなは、早く旅を急いだがいい。」と、年とった、哀れながんがいいました。
「おじいさん、そんな気の弱いことをいってはいけない。私たちは、おじいさんを捨てて、どうしてゆくことができよう。二日でも、三日でも、おじいさんの体がなおるまで待つことにします。」と、Bがんがいうと、Kがんも、Sがんも、みんながその言葉に賛成しました。
しかし、年とったがんにとって、この山中の湖は彼のしかばねを葬るところとなりました。まだ、湖の上が鉛色に明けきらぬ、寒い朝、彼は、ついに首垂れたまま自然との闘争の一生を終わることになりました。
その日は、終日がんたちは、湖上に悲しみ泣き叫んでいました。そして、夜になると彼らの一群は、しばらく名残を惜しむように、低く湖の上を飛んでいたが、やがて、Kがんを先頭に北をさして、目的の地に到達すべく出発したのであります。それは、星影のきらきらと光る、寒い晩のことでありました。
底本:「定本小川未明童話全集 10」講談社
1977(昭和52)年8月10日第1刷発行
1983(昭和58)年1月19日第6刷発行
初出:「民政」
1934(昭和9)年11月
※初出時の表題は「雁」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:仙酔ゑびす
2012年7月16日作成
2012年9月27日修正
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