海のまぼろし
小川未明
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浜辺に立って、沖の方を見ながら、いつも口笛を吹いている若者がありました。風は、その音を消し、青い、青い、ガラスのような空には、白いかもめが飛んでいました。
ここに、また二人の娘があって、一人の娘は、内気で思ったことも、口に出していわず、悲しいときも、目にいっぱい涙をためて、うつむいているというふうでありましたから、心で慕っていた若者のいうことは、なんでもきいたのであります。
「その指にはめている、指輪をくれない?」と、あるとき、若者がいいました。
彼女は、ほんとうに、若者が、自分を愛しているので、そういったのだろうと思って、指にはめている指輪をぬいてやりました。それは、死んだお母さんからもらった、だいじにしていたものです。
その後のこと、あるうららかな日でした。
「こんど、遠い船出をして、帰ってきたら、結婚をしようと思っているが、だれか、約束をしてくれる女はないだろうか。」と、若者がいいました。彼女は、もとより驚きました。そして、恥ずかしさのために、ほおを赤くして、うつむいていたのであります。
彼女にくらべて、友だちの娘は、平常、はすっぱといわれるほどの、快活の性質でありましたから、これをきくと、すぐに、
「私が、お約束をいたします。勇ましい、遠い船出から、あなたのお帰りなさる日を、氏神にご無事を祈って、お待ちしています。」といいました。
こう女にいわれて、喜ばぬ男はなかったでありましょう。若者は、大いにはしゃいで、このあいだもらって、秘蔵していた指輪を、その娘に与え、指にはめてやりました。そばでこれを見たときは、いかに、おとなしい娘でも、さすがにそこにいたたまらず、胸を裂かれるような気持ちがしたのです。
遠い水平線は、黒く、黒く、うねりうねって、見られました。空を血潮のように染めて、赤い夕日は、幾たびか、波の間に沈んだけれど、若者の船は、もどってきませんでした。はすっぱの娘は、はじめのうちこそ、その帰りを待ったけれど、生死がわからなくなると、はやくも、あきらめてしまいました。なぜなら、秋から、冬にかけて、すさまじい風が吹きつのって、沖が暴れ狂ったからでした。彼女は、いつしか、他の青年を恋するようになりました。
「その指輪は、だれからもらったのか。」と、その青年は、問うたのであります。いつか、約束にもらった指輪は、いまはかえって、邪魔となったのでした。彼女は、顔を赤くして、指輪をぬくと、海の中へ投げてしまいました。
「これで、いいのですか。」
かれらは朗らかに笑いました。内気の娘は、その後も、浜辺にきて、じっと沖の方をながめて、いまだに帰ってこない、若者の身の上を案じていました。しかし、何人も、彼女の苦しい胸のうちを知るものがなかったのです。北国の三月は、まだ雪や、あられが降って、雲行きが険しかったのであります。あわれな娘の兄は、こうした寒い日にも、生活のために、沖へ出て漁をしていました。ちらちらと、横なぐりに、雪は、波の上に落ちると、たちまち消えてしまいました。ふとそのとき、水の底に、茫として、怪しい影のようなものが見えたのであります。
「なんだろう?」と、彼が、瞳をこらすと、破れた帆を傾けて、一そうの、難破船が、水の中を走っていたのです。
「あ、船幽霊だ!」と、叫ぶと、ぎょっとしました。
「なんだか、気味が悪いし、もう引き上げよう。」といって、わずか二、三びきしか釣れなかったたらをかごにいれて、兄は、家へもどってきました。
たらの色は、黒々として、大きな目玉が光っていました。娘は、その一ぴきを晩のさかなにしようと庖丁をいれました。魚の肉は、雪よりも白く、冷たかったのです。そして、腹を割ると、真っ赤な、桃のつぼみが出たと思いました。
「どこで、桃のつぼみを、のんだのだろう。」といって、娘は、つまみ上げてから、「まあ!」と、目をみはったまま、ふるえ出したのでした。それは、永久になくしてしまったと思っていた、お母さんの形見の指輪でありました。
底本:「定本小川未明童話全集 10」講談社
1977(昭和52)年8月10日第1刷発行
1983(昭和58)年1月19日第6刷発行
※表題は底本では、「海のまぼろし」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:仙酔ゑびす
2012年2月19日作成
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