取引にあらず
岸田國士
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人物
遠藤又蔵
妻 なほ
娘 きぬ
学生
床屋の主人
若い男
老紳士
隣の細君
職人
場所
東京の場末
時
冬のはじめ
煙草店の主人遠藤又蔵は、夕刊を読みながら、傍の娘きぬに話しかけてゐる。
又蔵 そんなこと云つて、お加代はあれでいくら取つてると思ふ。
きぬ 先月から三十円になつたのよ。
又蔵 だからさ、その三十円は、お前、みんな電車代とお化粧代になつちまうんだぜ。
きぬ 知つてるわ。
又蔵 知つてる……? 知つてるなら、なぜそんなことを云ふんだ。お前がかうして店の番をしてゐればこそ、こんな店でも、ぼつぼつお客の足がついて来たんだ。ほんとだよ。なにもそんな顔をするこたあありあしねえ。
きぬ だから、いやだつて云ふのよ。看板みたいに、こんなとこへ坐つてんの、あたしもういやなのよ。
又蔵 それも家のためぢやないか。お加代があゝしてよそへ働きに行くのも、云つて見れや、家のためだ。あそこはお袋一人で、財産もなし、兄哥が取つてくるだけぢや、どうにもやつて行けないと云ふので、しかたがなしに、あゝやつて他人の中へ働きに行くんだ。それがいゝことか、悪いことか、わしにやわかつとる。ろくなもんにやなりつこないさ、あの娘……。
きぬ かうしてゐたつて、ろくなもんになりつこないわ。煙草の名前なんか覚えたつて、誰もえらいつて云やしないし……。
又蔵 そんなことを云へば、毎朝、あの白粉をこてこてつけて出て行くお加代を見て、蔭口をきかないものがあるか。三十円の月給ぢや、あゝおめかしができるもんぢやないとか、何処か郊外の停車場で、男と二人電車を降りるところを見たとか……。
きぬ 人の噂なんか気にしたら、なんにも出来やしないわ。あたしは、自分で働いて、自分で食べて行けるやうにしたいの。今はそれや、そんな心配はないけれど、もうぢき困ることがきつとあると思ふわ。
又蔵 なに困ることがある。そのうちに、しつかりした養子でも取つたら、此の店はお前たちに預ける。おれはもつと気の利いた仕事をして金をこさへると……。どつちみちお前の世話にやなりはせん。
きぬ ぢや、どうしても駄目なの。
又蔵 駄目だ。おい、そんなことを云つてるひまに、さつきのチエリイを箱から出しとけ。おつ母さんはどうした。
きぬ (箱からチエリイを出して、罎に入れる)晩の仕度でせう。
又歳 ぼんやりした奴がゐるもんだなあ。自動車の中へ二千円忘れてつた男がゐるとよ。
きぬ (それに頓着なく)うちでも外国煙草を置くやうにしないと随分損だわ。此の頃毎日のやうにさういふお客さまがあつてよ。
又蔵 うちは国産奨励だつて、さう云つてやれ。外国煙草なんぞ吹かす奴にかぎつて、懐は素寒貧だ。やあ、玉淵総裁の邸へをわいを投げ込んだ犯人がつかまつたな。なるほどね、やつぱりさうか。
此の時、学生風の男が店先に近づき、棚の中を眺めまはしてゐる。
きぬ いらつしやいませ。
学生 ウエストミンスタアありますか。
きぬ (父親の方を見る)
又蔵 スタアですか、へえ、(きぬに)おい。
学生 ウエストミンスタアは……?
又蔵 ウエストの方はありませんが……。
学生 さうか、困つたなあ。そいぢや、何か……ほかに何がありますか、外国煙草……。
きぬ 外国煙草は、何にも御座いませんのですけれど……。
学生 なんにもないんですか。
又蔵 アルマかナイルぢや如何です。
学生 あいつあ、まづくて。そんなら、間に合せにバツトを一つ貰つとかう。
きぬ (バツトを渡し)有りがたう存じます。
学生去る。やゝ長き間。
やがて、床屋の主人、夕刊を持つたまゝ店先に現る。
床屋 たうとうつかまりましたね。
又蔵 つかまつたねえ。犯人はわしのにらんだ通りだ。
床屋 さうでしたつけかねえ。だが、警察つてものも、よく調べるもんですね。かなはないつて気がしますねえ。
又蔵 何しろ、世界で二番目てえんだから大したものさ。
床屋 二番目てえと……。
又蔵 一番は無論、独逸さね。
床屋 さうかねえ。
又蔵 二番目つて云へば、大きな声ぢや云へないが、歯医者も、日本は世界中で二番目だつてえ話だ。一番は、これや、亜米利加さ。
床屋 お隣の須田さん、あれで世界第二かね。
又蔵 世界第二でも、煙草代をかう溜められちや話にならないよ。時に、あの話は、どうなつた。
床屋 …………?
又蔵 あの売家の話さ。
床屋 あゝ、あの話ね、まだ決まらないんだつてさ。二千八百円たあ、買手もうまく値をつけたね。一方は、おいそれたあ、負けないさ。さうでせう、云ひ値が、なにしろ、三千六百円といふんだから……。
又蔵 手取り三千ならいゝんだらう。わしにまかしときや、売つてやるんだがなあ。
床屋 こんだ来たら話して見ませう。此の間、奥さんが、お隣の煙草屋さんでも札を出してくれないか知らなんて云つてましたから……。
又蔵 それから、あれは、例の売薬の話さ。
床屋 虫下しのね。あれや、あれきりでなんとも云つて来ないんですがね。諦めたんでせう。今、売薬はやかましいつて云ひますからね。
又蔵 当れや、儲かるんだがなあ。勿論、田舎へ持つてかなきあ……。
床屋 おきぬさん、昨夜はどうも……。
きぬ あら、なんでしたつけ……。
床屋 いやだなあ、知らばくれちや……。
きぬ だつて、わからないわ。あたし……。
床屋 わからなきや、いゝや。
又蔵 どうしたんだい。
床屋 うゝん、昨夜、若いもんを帰しちまつた後でね、もう客はなからうと思つて、喜楽軒へ行つて球を突いてたんですよ。さうしたら、生憎、留守へお馴染の客が来てね、そいつを、わざわざ、おきぬさん、知らせに来てくれたんだもの……。親切な人つてものは、さういふことをしといて、忘れちまうのだから……。
きぬ あら、さうぢやないわ。あんまり度々呼びに行かされるからよ。
床屋 ちえツ、にべも何もあつたもんぢやねえ。これぢや、手におへませんよ、お父ツつあん……。
又蔵 球は上達したかね。
床屋 青木堂の旦那と同じ、三十五。あたしの方が半年も後で始めたんですよ。
又蔵 向うは、その代り、中気病みぢやないか。
床屋 その上、老眼でね。だけどね、変なことがあるもんですぜ。奴さん、なにしろ、あの球場ぢや、大事なお客ですからね。それに、気前を見せるのが好きでね。ゲーム取りの女なんかに、鰻丼をおごつたりするんですよ。だもんだから、御覧なさい、あたしと勝負をしてもですよ、こつちの方が当りがいゝのに、時々、向うが先へゲームになる。可笑しいと思つて、それとなくゲームの取り方を見てるとね、あのあまつちよ、こつちの番には、十のところを七つぐらゐにしといて、向うの番にや、三つでも五つ入れるといふ風にするらしいんですよ。これぢや、勝負になりますまい。
又蔵 喜楽軒は、はやつてるかね。
床屋 近頃、下火のやうですね。いくらなんでも、お神がああうるさくつちやね。
又蔵 それがうれしいつていふお客もあるだらう。
床屋 さういふのは学生ぐらゐなもんですよ。学生なんてえのは、あんな婆アからでも、ちやほやされりや、それでいいらしいね。なんとかさん、ちよつと、此処へいらつしやいな。どうしたの、この袴のほころびは……なんて云はれると、にやにや笑つてますよ。
又蔵 うまいね、芳さんは……。
此の時、若い男がはひつて来る。
又蔵 いらつしやい。
若い男 あの、僕、今一寸、持ち合せがないんですが、家へ帰つてすぐ持つて来ますから、バツトを二つばかり貸しといてくれませんか、その代り、これ、尺八ですけれど、それまでお預けしときますから……。
又蔵 さやうですか。お家は、どちらで……。
若い男 すぐそこです。蓮華寺の横町です。家へ帰つて出直して来てもいゝんですけれど、僕、それまで我慢ができないんです。ぢや、一つでもよござんすから……。この尺八、まさかバツト一つぐらゐぢや放せませんよ。
又蔵 (ちよつと床屋の方を見て)なに、さういふわけぢやありませんが、どなたにも現金制度といふことにしてあるもんですからね……。なに、よろしうござんす、……バツト一つぐらゐ……。おい、出してあげろ。
きぬ (バツトを若い男に渡す)お一つでよろしうございますか。
若い男 えゝ、結構です。これで助かつた。(かう云ひながら、一本抜いて火をつける)全く、かうなると、病気ですね。ぢや、すぐ持つて来ます。(行きかけて)あ、さう、さう、これ、そいぢや、預つといて下さい。
きぬ そんなこと、よろしうございますわ。
又蔵 折角、あゝおつしやるんだから、お気の済むやうに、お預りしといたらいゝぢやないか。
きぬ でも……。(さう云ひながら、差出されるまゝに、袋入りの尺八を受け取る)
若い男 ちよつと、なかを見てください。竹の棒ぢやありませんよ。
又蔵 (袋を受け取り)なに、拝見したつて、手前どもにや、わかりやしません。
若い男 それだつて、一円や一円五十銭にや売れますよ。そんなら、どうぞ……。(去る)
間
又蔵 見たことのない人だね。
きぬ この辺の人なら、大概わかるんだけど……。
床屋 近頃越して来た人かも知れませんよ。蓮華寺の横丁つて云や、陽明館もあるし……。下宿にごろごろしてる書生なんてものは、今日ゐたと思ふと明日はもうゐなかつたり、昨日まで見かけない男が、今日は手拭をぶらさげて髪を刈りに来たりしますからね。
又蔵 尺八をカタに煙草を貸りてくつて話は聞いたことがないね。(袋から尺八を抜き出し)こいつばかりは、わしには、火吹竹同然だ。芳さんは、吹けるのかね。
床屋 火吹竹にしちや、艶がよすぎらあ。(受け取つて、吹く真似をする)心細い音を出しやがる。
此の時、堂々たる風采の老紳士が店先に現れる。
きぬ いらつしやいませ。
老紳士 葉巻はないかね。
きぬ お生憎さま、ございませんのですが……。
老紳士 さうか。此の辺には、さういふ店はあるまいね。
きぬ 此の先の停留場までいらつしやれば、一軒、ございますけれど。大きな煙草屋が……。
老紳士 はあ、さうか。ぢや、まあ、折角だから敷島でも一つ、貰つて置かうか。
きぬ いゝえ、そんなことして頂きませんでも……。
又蔵 欲しいとおつしやるものなら、差上げたらいゝぢやないか。
老紳士 (尺八に眼をつけ)それは、失礼だが、こちらのなにかね。ちよつと、拝見……。(受け取り、つくづく眺め入り)何処でお求めになつた。
又蔵 いや、なに、実は、今、何処かの若い方が、これを預かつてくれとおつしやいましてね、ぢき、取りに見える品なんでございます。
老紳士 (驚きの色をあらはし)これを、黙つて預けて行つたの。
又蔵 へえ。
老紳士 (緊張した面持ちに、やゝ皮肉な微笑を浮べ)その方も多分御存じあるまいと思ふが、この尺八は、筍玉管と云つてね、初代紫煙の作だ。節の長さ、管の太さ、反り、何れも苦心をして一定の律に合せたものだ。節の長さが、かういふ割合に行つてるものは、昔から珍らしいとされてゐる。
又蔵 なるほどね。
老紳士 日本にも十管とはない尺八でせう。これはたいした代物ですよ。誰の手から渡つて来たのか、それだけでも知りたいと思ふのだが、その方にお会ひすることはできまいかね。
又蔵 さあ、お処さへわかつてゐればなんですが……。尤も、ついそこにお住ひだつていひますから、しばらくお待ちになつて……。
老紳士 此処でぼんやり待つてるわけにも行かんから、それぢや、その方が来られたら住所とお名前を聞いて置いて下さい。何れ出直して来るから……。
又蔵 さやうですか。承知いたしました。
老紳士 わたしは若い時から、これが道楽でね、日露戦争の時、明月の夜に浅間の甲板で尺八を吹いたといふ例の蘆野大将ね、あれもわたしの友人でね。あの人の持つてた尺八は、わたしから餞別に贈つたものだが、これはまた、四十七士の神崎与五郎が持つてゐたもので、討入の晩に吉良の門前に落ちてゐたといふ稀代の逸品だ。
床屋 へえ。
老紳士 さういふわけで、日頃、いゝ尺八には目をつけてゐるんだがね。しかし、近頃こんな掘り出し物は、めつたにないよ。多分関東地方の名家に伝はつたものと思ふが、門外不出の宝とも云ふべきものがどうしてそんな人の手に渡つたか……。処が、その人がどんな人か、わたしは知らんのだが……。
又蔵 かう申しちやなんですが……。それ程の方とも思へませんのですがなあ……。何しろ、バツトを買ふ金の持ち合せがないとおつしやつて、これを預けておいでになつたんですからなあ。でも、金はすぐ持つて来るつておつしやいましたからね、兎に角、お預りしたやうな次第です……。わからんもんですなあ。えゝ、おい、芳さん……。
床屋 まつたくね、さう云へば、この袋なんかも昔のもんですね。
老紳士 いや、それは、間に合せもんだらう。これで、金襴の袋にでもはひつてゐれば、また、出処もわかるんだらうが……。何れにしても、中味は、間違ひなしの筍玉管だ。
床屋 名前を聞いたばかりぢやわからねえが、どれくらゐの値打のものでせうか。
老紳士 さう云へば、御主人、あんたに一つ御相談があるんだが、もしも、その方が、これを相当の値段で譲つてもいゝと云ふお考へなら、わたしが、是非譲つて貰ひたいのだが、その辺のことも、一つ匂はして置いて下さらんか。相手の方がどういふ方か、それがわからんので話がしにくいけれど、何も知らずにをられるんだと、あまり欲しがつて、手許を見られてもつまらんし、値のつけ方で瞞すやうなことになつても申わけないが、わたしなら、先づ、三百円ぐらゐ出すつもりだ。これだけ含んで置いて下さい。お話次第では、もう少し奮発してもいゝ。わたしがぢかに掛合ふより、あんたから、それとなく切出して貰つた方が、先方でも放し安からうと思ふが、どうでせう。
又蔵 さあ、どんなものですか、では、なんでせうか、手前が仲にはひりましてもよろしうございませうか。
老紳士 そりやもう、さうして頂ければ、手数がかゝらんで、なによりです。申すまでもないことだが、わたしが来るまで、ほかの人には見せんやうにして下さい。世間は盲ばかりぢやないから……はゝゝゝゝ。では、何時頃、来たらよからうか。
又蔵 すぐ来るとおつしやつてましたんですから、もう見える頃と想ひますが、それでは、一時間もたつたら、おいでを願ひませうか。
きぬ あら、向うからいらしつたわ。
又蔵 さうか。それでは、どうしませう。暫く、何処か近所でお待ちを願つて……。
老紳士 さう、それぢや、そこの球突屋で球でも突いてることにしよう。話が済んだら迎ひを寄越して下さい。(去る)
入れ違ひに、さつきの若い男が現れる。
若い男 どうも有りがたう。丁度友達が来てたもんだから遅くなつて……。ぢや、これで、バットをもう二つばかり下さい。
きぬ はい。(バツトを渡し、金を受け取る)
又蔵 ぢや、お預りの品はたしかに……。おい、きぬや、お前は奥へ行つてな。
きぬ (奥に去る)
又蔵 芳さんも、かういふ話だから、ちよつと、外してくれないか。
床屋 あ、さう、さう。ぢや、何れまた……。(去る)
又蔵 ぶしつけなお話ですが、此の尺八、手前に一つ、お譲り願へませんでせうか。
若い男 (驚いて)これをですか。
又蔵 だしぬけでおわかりになりますまいが、実はね、手前、余程前から、尺八を習はうと思ひましてね。今更、先生につくのも可笑しうござんすからね。幸ひ近所にどうかかうか音を出す人がゐるししますから、自分で一本持つてさへすれや、いゝわけなんで……。ところが、こいつ、買ふとなると、見わけがつかず、人に頼むとすれや、さう安物をといふわけにも行かずで、いゝ加減苦労してゐたところなんですよ。そこへ、今日、あなたが見えて、これを持つておいでになつた。お見かけするところ、御自分でなさるに違ひない。さういふ方のお使ひになつたものなら、兎も角たしかに相違ないと、かう思ひましてね、どれくらゐするものだか見当はつきませんが、さつき一寸伺つたやうにも思ひましたし、それくらゐで譲つていたゞけるならと、まあ、お話をすれや、さういふわけで、御相談するわけなんですが、如何なもんでせう。
若い男 あゝ、さつきは、なるほど、あんなことを云ひましたけど、ほんとを云ふと、これ、そんな安物ぢやないんです。
又蔵 さうでせうな。
若い男 僕、吹く方はまだ駄目ですけど、尺八だけは、祖父の代から伝はつたもんで、これだけは手放したくないんです。僅かの金には代へられないもんですから。
又蔵 はゝあ、御尤……。しかし……。
若い男 しかし、そのなあに、一月分の下宿代が出るなんて云ふなら、これや、格別ですがね。(笑ふ)
又蔵 しますと……。
若い男 だけど、買ひ手にして見れや、こんな値打のもんぢやありませんよ。まあ、その話は打切りにしませう。
又蔵 それにしてもですな、手前は、さういふ由緒のある尺八が欲しかつたんですよ。と云ひますのはね、値段ばかり高くつたつて、新しいものは、これや、ざらにあるわけですからね。時代がついたものは、さう楽には手にはひりませんよ。手前も、年寄りらしい道楽の一つや二つあつてもいゝ年配ですが、道具類は、これで、多少、集めてをりますし、さう承はると、なほさら未練が残りますなあ。どうです、手前が、その、一月分の下宿代をお出ししようぢやありませんか、何も御縁です。取引をするばかりが能ぢやありません。おつしやつて下さい。一月分の下宿料、いくら御入用ですか。
若い男 真面目なんですか、それ……。担いぢやいけませんよ。別に、さうまでして手放したくもないんだけど、面白いから、御相談に乗つて見ませう。いやだつたら、いやと云つて下さい。御遠慮はいりませんから……。
又蔵 よろしい。御相談、伺ひませう。
長い間
若い男 少し変だなあ。
又蔵 かまひません。一月分の下宿料、かまひません。
若い男 ほんとにいゝですか。ぢや、百円はどうです。
又蔵 (眼をみはり)百円……。
やゝ長い沈黙…
若い男 驚いたでせう。
又蔵 一月分ですか、それや……。
若い男 尺八の値段ですよ。
又蔵 なるほど……。(考へ込む)
やゝ長い間
若い男 さよなら……。冗談ですよ、今のは……。(笑ひながら去らうとする)
又蔵 一寸、一寸、それではね、五十円だけ今お渡ししといて、あとの五十円は、明日と、これで如何です。
若い男 そんなにまでしていたゞかなくつていゝんですよ。僕、なにも商売をしに来たんぢやないんだから……。こんな尺八、何処にだつてありますよ。二三円も出せば、もつといゝのがあるかも知れませんよ。
又蔵 いや、いや、手前は、それでなくちやならないわけがあるんです。惚れた因果だ、えゝいツ、出しちまへ。(かう云ひながら、手提金庫の蓋をあけて、紙幣や銀貨を取り交ぜ、百円だけ若い男に渡す)お調べ下さい。
若い男 (きまり悪るげに)さうですか。さうおつしやるなら、仕方がありません。そいぢや、おやぢの形見の尺八、大事にして下さい。(尺八を恭々しく又蔵に渡す)
長い間
若い男 さあ、これで、当分、遊べる。また、時々、そいつに会ひに来ますからね。
又蔵 (黙つてうなづく。一心に尺八を見つめてゐる)
若い男が去つた後、また長い沈黙が続く。
又蔵 (思ひ出したやうに)きぬや、さつきの方を呼んで来な。喜楽軒へ行つてもういゝつて、さう云つて来な。
きぬ (奥から顔を出し)どうだつた。
又蔵 いゝから、早く迎ひに行つて来な。
妻のなほが現れる。
なほ もう御飯ですけれど、御風呂を先になさいますか。
又蔵 おい、聞いたか。
なほ 尺八の話ですか。そんな夢見たいな話つてあるもんですか。
又蔵 まあ、見とれ、一晩に二百円は、ぼろい儲けぢやないか。
なほ そいぢや、あんたが仲にはひつて、二百円も……。
又蔵 こら、大きな声を出す奴があるか。きぬはもう行つたか。
なほ なんだか、ぶつぶつ云ひながら出て行きましたよ。
又蔵 ぶつぶつ云ふこたあないぢやないか。全く無智といふ奴ぐらゐ恐ろしいものはないよ。つまり、人を知らず、天を知らず、己れを知らずと云ふやつだ。ところで、此のおれはどうだ。他人を益して、己れも亦利する。これ、処世の第一義だ。さうぢやないか。
何時の間にか、なほの姿は見えない。
又蔵 (それに気づき、別に何といふ事もなく)三百円で買つたと云つては、余り出来がよすぎるから、四百円と云はうかな。それとも三百七十円まで値切つたと云つてやるか。
床屋の主人が、またやつて来る。
床屋 どうでした。物になりましたか。
又蔵 いやはや、骨を折らしたよ、奴さん。
床屋 感づいたかね。
又蔵 感づいたどころぢやない。ちやんと、値打を知つてござるよ。
床屋 さうかね。油断のならねえもんだね。渡さないか。
又蔵 そこを、うまく、やつたさ。と、云つても、三百ぢや、梃でも動かない。
床屋 よくしたもんさ。やつぱり、盲ばかりはゐないね。それで、つまるところ……。
又蔵 あとで話す。もう、やつて来るよ。今呼びにやつた。
床屋 あたしや、また、ゐない方がいゝね。
又蔵 こんだはゐてくれ。一切、見てた、聴いてたといふことにしといてくれ。それでないとね、いや、その方が、向うでも安心すらあね。あんたも、この話に縁のある人だ。御利益があるかも知れないよ。
床屋 顔は出しとくもんだね、何処へでも……。
丸髷に結つた隣の細君が現れる。
又蔵 いらつしやい……。
細君 今日は……。随分寒いのね……。
又歳 もう十二月ですからなあ。今朝は、なんです、あれや、大声で喚めいてた人は……。
細君 何処からか初めて来た人なのよ、弱虫つたらないの。注射の時から、痛い痛いつて騒ぐのよ。しまひに、うちの人の髪の毛をつかんで、放さないんですもの、そばで見て、可笑しくなつちやつたわ。
床屋 大人でせう。
細君 大人ですとも……洋服のポケツトから紫のハンケチなんかのぞかせて、それや気取屋なの。それはさうと、また敷島を十ばかりいたゞいて行くわ。
又蔵 十ですか。(数へて渡す)
細君 ぢや、これ、つけといて頂戴ね。
又蔵 へえ、へえ。
隣の細君急いで去る。
床屋 なるほど、図々しいもんだね。
又蔵 それだけならいゝが、うちのおきぬに、顔さへ見れや、金歯を入れろつて勧めるんだとさ。
床屋 特別に安くしとくつて云ふんですね。尤も、おきぬさんなら金歯は似合ふね。きつと……。
又蔵 おい、まだ来ないかね。一寸、向うを覗いて見てくれ。
床屋 (外へ出てその方を見る)見えないね。一ゲームすまして来るつもりかな。
又蔵 おきぬはなにしてるんだ。
床屋 珍しいからそばで見てるんでせう。
又蔵 さつさと先へ帰つて来れやいゝのに……。
床屋 あゝ見えた、見えた。
又蔵 二人とも。
床屋 いや、おきぬさんだけ……。
又蔵 一人かい。
床屋 後ろを向き向き走つて来る。
又蔵 ようし……。すぐ来るかどうか訊いてくれ。
床屋 おきぬさんにかね。
さういつてるひまに、表から、きぬが帰つて来る。
きぬ ゐないわよ、あの人……。
又蔵 (跳上らんばかりに)なに、ゐない?
きぬ 訊いても、そんな人、来なかつたつて……。どつか、ほかへ行つたんぢやない。
床屋 此の辺にや、あそこ一軒しきやないよ。
又蔵 をかしいなあ、そんな筈ないがなあ。芳さん、すまないが、あんた、行つて訊いて見てくれないか。こいつぢやわからん。
床屋 よし来た。
きぬ あたし、ちやんと訊いたのよ。
床屋走り去る。
又蔵 あそこにゐないとすると、何処へ行つたんだらう。遠くへ行く筈はないが……、あ、カフエエ・ウラルへ行つて、中をのぞいて来て御覧。ひよつとしたら、あそこで、アイスクリームでも飲んでらつしやるかも知れん。
きぬ 中をのぞくだけでいゝの。
又蔵 見えなかつたら、帳場で訊いて見るのさ。髭を生やした立派な紳士つて云へばすぐわかる。此の辺に、あんな堂々たる老人は一人もゐやせん。
きぬ、出て行く。
なほ、奥より現はれる。
なほ 御飯はもう出来てるんですけどねえ。
又蔵 飯なんか食つてる場合ぢやない。お前には、今、おれがどういふ気持でゐるといふことがわからんのか。百円捨てるか、二百円儲けるか、どつちか一つといふ瀬戸ぎはぢやないか。
なほ おや、今度は、百円捨てることになつたんですか。
又蔵 まだ、なりやせん。なんだつてまた、お前は、さう、何事にも熱がないんだ。
なほ あなたの云ふことをいち〳〵、真に受けてた日にや、一日中に何度、赤くなつたり青くなつたりしなけれやならないかわかりませんもの……。おきぬはまだ帰らないんですか。
又蔵 おきぬが帰つても、こつちに用がある。お前、一人で、膳ごしらへぐらゐできないのか。
なほ、引込む。
職人体の客が来る。
客 朝日一つ……。
又蔵 どうぞお持ちなすつて……。
客 おつりだ。
又蔵 おいくら……。
客 五円で……。
又蔵 細いのをみんな出しちまつたんですが……。
客 そいぢやしかたがない。(去る)
床屋が帰つて来る。
又蔵 わからんか。
床屋 わかつた。あのね、朝日タクシイで訊いたらね、その人なら、さつき、巣鴨まで送つてつたとさ。
又蔵 巣鴨の何処……。
床屋 停車場だつて……。
きぬが帰つて来る。
きぬ ゐないわ。だけどね、帳場で訊いたらね、そのひとなら、お昼ごろ、二人連れでしばらく休んでつたんですつて……。もう一人のひとつて云ふのはね、若い、色の白い男ですつて……。なんか細長い袋へ入れたものを持つてたんですつて……。それから、帽子を被らずに、毛を蓬々に生やして……。
又蔵 (遮るやうに)それぢや、お前、あの男ぢやないか。
きぬ (平気で)えゝ、さうらしいわ。
又蔵 馬鹿! さうらしいですませるか。下駄を出せ、下駄を……早く下駄を……。(かう云ひながら、起ち上つて、店先へ走り出る)
きぬは中腰になつて履き物を探す。
床屋 (うろうろしながら、つひに、自分の履いてゐる草履を脱ぎ)おとつつあん、これ、これ。
底本:「岸田國士全集4」岩波書店
1990(平成2)年9月10日発行
底本の親本:「新選岸田國士集」改造社
1930(昭和5)年2月8日発行
初出:「キング 第五巻第一号」
1929(昭和4)年1月1日発行
入力:kompass
校正:門田裕志
2012年2月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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