文化線の低下
小川未明
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バーンズの詩の中に、野鼠について、うたったのがある。人間は、お前達が、畠のものを食べるといって、目の敵にするけれど、同じく地から産れたものでないか。その生命をつなぐために、沢山な麦束の中から、僅かな一穂をとったからとて、決して罪になるものでない。却って、私は、お前達を憐れむというような詩です。これは人間の独裁的な支配を憎んだのですが、人間の社会に於て、貧しい者と富める者と、あることは、ある程度まで、仕方のないことゝしても、全く食うに欠け、着るに物がないとしたら、それは、自然の理法を誤っていることであって、組織の罪に帰さなければならないでありましょう。
私が、いまこゝにいう貧富というのは、絹物を被るものと木綿物を被るものと、もしくは、高荘な建物に住む者と、粗末な小舎に住む者という程度の相違をいうのであったらそれによって、人間の幸福と不幸福とは判別されるものでないといわれるでありましょう。なぜなら、幸福の解釈は、各人の考え様如何にあるのであって、その人が、生活の上に、また哲学を有するか否かに原因するものであります。
かゝる場合は、決して、物質が、その人の幸福を決定する物指とはならない。野鼠に於けるがごとく、人間が着て食べて行くだけなら、たゞそれだけなら、幾何も要するものでない。むしろ、他の贅沢な欲望のためになやんでいるのです。そして、かゝるなやみは、また、物質によって決して、満たされるものでありません。欲望には、限りがないからです。
余計なものを持たない。必要なものだけで足れりとした時に、却って、内面的の生活は開けて来る。この意味から、幸福を決定するものは、精神であるともいえます。階級闘争から、同胞の相互扶助に、うつり行くのも、この理でなければなりません。婦人に於ても、男子に於ても、そうでありますが、自分のことだけを考えて、社会について顧みないようなものは、論外であるとして、また家庭について考えず、子供について考えないようなものが、階級について考えるということは、滑稽、矛盾も甚しいではありませんか。階級というものは、単に、言葉だけでは、真理とか、正義とか、言う場合のごとく抽象的なものです。真に、最も親しき者に対してすら、純一ならざるものが、他の何人に対して、よく純一であり得ましょうか。我が階級のためという言葉を疑わざるを得ません。
物質文化は、日に進みつゝあるにかゝわらず、この世の中が、人間的に向上したと言えないのは、真の道徳的社会から、却って、遠ざかりつゝあるがためです。この意味に於て、世の中は、進歩したと言えぬばかりでなく、精神的方面を閑却するために、文化戦線は低下したと言えるでありましょう。人間は、善美の理想に向って、克己奮闘する時こそ、進歩も向上も見られるけれど、雷同し、隷属化された時は、自分自身の行くべき道すら見失うものであります。
人生の進路も、生活の形態も、一元的に決定することはできないであろう。故に、一つの主義が勃興すれば、それと対蹠的な主義が生起する。かくして、その相剋の間に真理は見出されるのを常とします。しかし、真の殉教者は、そのいずれに於ても、狂信的なるものである。即ち新社会を建設する上に於て、貴い犠牲者でもあります。
しかし、こゝに、政治運動が流行すれば、皆なその方に向って行き、他を顧みないという風があります。また新しい思想が入って来れば、それを検討せずに、たゞちに信ずるという風があります。けれど、それが自分達のものとなるには、それに伴う特異性のあることも考えなければならない。そうした認識と批判とを没しさせる、最大な原因は、今日の資本主義に基点を置く、ヂャナリズムの然らしめることです。この悪い風潮は黙々として、自己の生産に従事しつゝある、あらゆる階級にまで瀰漫せんとしつゝあります。
私は、児童芸術に没頭していますが、真に、児童の世界を擁護し、児童のためにつくす施設に乏しいのを感ぜずにいられません。浅薄なイデオロギーによって、児童を在来の文化に囚えんとするもの、もしくは、政治的目的意識によって階級観念を植付けんとするもの等であって、人間の全的の感情を養い套習の覊絆から解放し、自由の何たるかを知らせんとする、真の文学の絶無といってもいゝのを慨かずにいられないのであります。
底本:「芸術は生動す」国文社
1982(昭和57)年3月30日初版第1刷発行
底本の親本:「童話雑感及小品」文化書房
1932(昭和7)年7月20日初版
入力:Nana ohbe
校正:仙酔ゑびす
2011年11月30日作成
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