春風遍し
小川未明



 春先になれば、古い疵痕きずあとに痛みを覚える如く、軟かな風が面を吹いて廻ると、胸の底に遠い記憶が甦えるのであります。

 まだ若かった私は、酒場の堅い腰掛の端にかけて、暖簾のれんの隙間から、街頭に紅塵こうじんを上げて走る風に眼を遣りながら独り杯を含んでいました。そして、迫り来る春昏の愁しみを洩らすによしなかったのです。その頃から、出不精の癖がついて、花が咲いたときいても、見物に出かけることもなく、いつも歩くちまたの通りを漫然と散歩して、末にこんな処へ立寄り、偶々たまたま、罎にさした桜の花が、傍の壁の鏡に色の褪せた姿をうつすのをながめて、書きかけている作品の構想に耽るようなこともありました。思えば自然主義から、浪漫主義時代にかけ、その頃の世の中の空気がなつかしいものに感ぜられます。

 店に居た彼女等は、何うしたであろう。もういい加減のお婆さんでいるにちがいない。空想には、時間も空間もないから、生々として、黒い瞳や、紅い唇が、眼の前に彷彿とするのであります。そればかりでなく、今も巷にさえ出かければ、どこかのレストランに、そのままの姿で働いている彼女達を見られるような気がするのであります。

「あなたは、どなたでしたか」と、相手の顔が分らぬので、はなはだ失礼な話であるがよく問うたことがある。それが昔親しかった人であったりする。しかし顔を見ても思い出せないのが、寧ろ当然であって、頭の中にあるその人の姿は、いつも若くして、別れてから決して年をとっていないのだから。こんな時は、驚くよりか一層の寂しさを感ずるのが常でありました。

「おれも、同じく年をとった筈だ」とはじめて自分が反省されるのでした。

 そう感ずると、自分の経験の貧困に対して、悔恨の情が湧くのであります。高い山に登らなかったのが、その一つでした。山岳美に恵まれた日本に生れながら、しかも子供の時より国境の山々を憧憬したものを。なぜ足の達者なうちに踏破を試みなかったか、ここにも無性が祟っている。畳の上に臥転んで、山の案内記を読み、写真をながめて空想に耽ることが、一層楽しかったからでもあります。夏の日郊外の植木屋を訪ねて、高山植物を求め帰り道に、頭上高く飛ぶ白雲を見て、この草の生えていた岩石重畳たる峻嶺を想像して、無心の草と雲をなつかしく思い、童話の詩材としたこともありました。一生のうちには、山へもいつか上る機会があるように漠然と考えていたのが、後悔を生ずる原因だったのです。しかし今は何もかもおそいという感じがします。そしてこれまで朧気おぼろげにしか意識に上らなかった死というものが、この頃何を見る目にもつきまとって来たように感じられるのであります。若いうちは、ベクリンの描いた如く、孤独な、また暗い、深淵のような感じを死に対して持ったが、この頃年をとってからは、大分ちがって灰色にはちがいないが、永遠の休息とでもいう安らけささえ感じられるのでした。いま盛なる人と雖も、やがては後から来るであろうという一種の悟りに似たような冷淡を覚えるのであります。曾ては金持や、資本家というものを仮借なく敵視した時代もあったが、これ等の欲深者も死ぬ時には枕許に山程の財宝を積みながら、身には僅かに一枚の経帷衣きょうかたびらをつけて行くに過ぎざるのを考えると、おかしくなるばかりでなく、こうした貯蓄者があればこそ地上の富が保存されるのであって、いつかはまた縁なき者の手に渡るのでここに常ならぬ人生の姿がある訳であります。自分は貧乏なればこそ物に囚れず、従ってこの気安さがあり、自然の美に親しむことが出来るのでありましょう。

 いま私は陣々たる春風に顔を吹かせて、露台に立っています。

 そして水盤の愛する赤い石をながめながら我が死後、幾何の間、石はこのままの姿を存するであろうかと空想するのでした。

 するとこの松は如何、この蘭は如何という風にすべて生命あるものの齢について考えられるのでした。

 中にも独り老木の梅が大事にする恩償として、今年も沢山花をつけて見せたが、目立つ枯枝にうたた憐憫の情を催おさざるを得なかったのであります。

底本:「芸術は生動す」国文社

   1982(昭和57)年330日初版第1刷発行

底本の親本:「新日本童話」竹村書房

   1940(昭和15)年6月初版

入力:Nana ohbe

校正:仙酔ゑびす

2011年1130日作成

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