名もなき草
小川未明
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名も知らない草に咲く、一茎の花は、無条件に美しいものである。日の光りに照らされて、鮮紅に、心臓のごとく戦くのを見ても、また微風に吹かれて、羞らうごとく揺らぐのを見ても、かぎりない、美しさがその中に見出されるであろう。
思うに、見出そうとすれば、美は、この地上のどんなところにも存在する。たゞ見る人が謙虚にして、それに対して考うるだけの至誠があれば足りるものだ。凡そ、そこには、子供と成人の区別すらないにちがいない。
真に、美しいもの、また正しいものは、いつでも、無条件にそうあるのであって、それは、理窟などから、遙かに超越する。そして、直ちに、人間の感情に迫るのである。
独り、それは、花の美ばかりでないだろう。たとえば、いゝ音にしてもそうだ。必ずしも、それは、高価な楽器たるを要しない。また、それを弾ずる人の名手たるを要しない。無心に子供の吹く笛のごときであってもいゝ。また、林に鳴る北風の唄でもいゝ。小鳥の啼声でもいゝ。時に、私達は、恍惚として、それに聞きとられることがある。そして、それは、また音楽について、教養あるがために、自然の声から、神秘を聞き取るという訳ではないのだ。
たゞ、どこにでもあるであろう、いゝ音色は、同じく、無条件に、人間の魂を捕えずに置かないというにしか過ぎない。
野蛮人は、殊に、音に対して、鋭敏な感覚を有している。いゝ音色に聞きとれている時には、背後から頸を斬られるのも知らずにいるとさえ言われている。
美しいものや、正しいものは、常に、この地上の到るところに存在するであろう。しかし、これを感ずる人は、常に、どこにでもあるとはいわれない。なぜなら、その人はまた、謙虚にして、誠実であり、美や、正義に対して、正直に、それを受けいれることのできる人でなければならぬからだ。
すべて、芸術といわれるものが、良心の結晶であるかぎり、かくのごとき普遍性を有するものである。そして、それを感ずる人は、又かくのごとき自由性に、置かれている。与うるにも、受けるにも、そこに何等の条件と理論とを必要としないのである。
自然にあっても、芸術にあっても、いつでもこうして、美しいものや、正しいものは、人間の魂を清らかにする。そればかりでなく、現実から、遠いところへ彼等を、誘って行くものだ。一茎の花に、それだけの力があったら、真の詩人の情熱から、感激から、発生するそれ等の芸術にして、何ものかを心の上に残して行かない筈はない。こゝに、芸術の魅力があり、尊貴がある。
即ち、純粋なる良心と、正義感の発生によって、描かれたる、希望の多い、明日の社会や、生活は、我等にとって、力強いユートピアでなくてなんであろう。
我等は、これを信ずるがために、今日の苦しい戦を、戦いつゞけるのだ。
どんなに、小さくとも、また、名がなくとも、純粋で、美しかったら、正しかったら、天地の間に、何ものかの力を賦与している。また、何ものの力をもってしても、何うすることもできない。それは、確乎たる存在である。
もし、それが詩人であったなら、また、他の芸術家であったなら、いずれでもいゝ固く自己の本領を守って、犯されずに、存在することが、力であるのだ。即ち、それが正義であるのだ。その存在は、たとえ、小さな火であっても、いつか人生の核心を焼きつくすに足るからである。
毎日、幾何の人間が、深き省察のなかったがために、また自からを欺いたがために社会の空しき犠牲となりつゝあるか。そして、彼等の狂騒と私等は、この人生にとって畢竟、いかなる意義を有したであろうか。
たゞ人生の意義は、たゞちに、美と正義に向って突き進む力の中にだけ見出されなければならぬ。そして、それ以外には、恐らく、見出されないものだろう。
秋霜にひしがれ枯れた、名もない草は、早くも、来年の夏を希望する。そして、その刹那から人知れず孜々として、更生の準備にとりかゝりつゝあるのを見よ。
人生は、また希望である。
底本:「芸術は生動す」国文社
1982(昭和57)年3月30日初版第1刷発行
底本の親本:「常に自然は語る」日本童話協会出版部
1930(昭和5)年12月20日初版
入力:Nana ohbe
校正:仙酔ゑびす
2011年11月30日作成
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