童話を書く時の心
小川未明
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自由性を多分に持つものは、芸術であります。こう書くべきものだとか、こう書かなければならぬとかいうことは定っていません。いま、私は、自分の書く時の態度について、語りたいと思います。
かりに、書くかわりに、語るとして、童話について考えて見ます。私が、何か子供達に向ってお話をするとしたら、まず、それがどんな子供達であるかを知ろうとするでしょう。次に、いくつ位であるかを見ます。それによって話を選び、よく分るようにしたいがためです。
子供の時分には、いかなる種類の話にも大抵興味を持つものです。空想し易く、ものを見るのに比較的無差別であり、何ものにも同情し易いからにもよるが、それにしても、いろいろな意味で、境遇に従って話の題材を選ぶことは自然であると考えられるからです。また、題材の如何が、子供達に与える興味に関係することも勿論であるが、より重要なものは、語る人の態度にあろうと思います。
いかなる話が語られるにせよ、語る人の態度が真面目でなかったなら、子供の心を確実に掴むことはできません。従って、語る人と聴く者との心の接触から生ずる同化が大切であるのであります。
真実というものが、いかに相手を真面目にさせるか、熱情というものが、いかに相手の心を打つか、こうした時に分るものです、それであるから、語る人の態度は、自から聴く人の態度を、改めることになるのであります。
「面白い話や、おかしい話や、また怖しい話をしたら、みんなだまってよく聞くじゃないか。だから、そういう話を選んで、子供達にきかしてやればいゝのだ」
こういう説も出るでありましょう。もし、単に子供達に聴かせるということ、面白がらせるということが目的であるなら、まさにその通りでありましょう。
私が、お話をしてきかせるというのは、そういう意味からでない。面白がらせるということも、願望の中にないことはないが、もっと、どうかいゝ人間になってもらいたいということが、お話をする第一目的であるのであります。
多勢の子供のために、お話をする時は、子供という一般的の通性を観察して、それを基礎に語られますが、もし少数の場合であり、たびたび、繰返して話すことが出来る場合であったら、恐らく一人一人の性質を知ることができて、ある時は、その子供達の持つ欠点を正しく直さんがために、また足らざるものを補わんがために話の題材を選ぶこともあれば、その心持で語られるでありましょう。また、ある時は、その子供の持つ善いところを、ます〳〵成長し伸さんがために奨励の心をもって語られたでありましょう。そこに、語る人の真の愛が見出されるのであります。
愛のなきところには、芸術もなければ、教育もないのであります。強制、強圧を排して、自治、自得に重きを置くはこのためです。
その最もいゝ例は、おじいさんや、おばあさんが、毎日、毎夜同じお話を孫達に語ってきかせて、孫達は、いくたびそれを聞いても、そのたびに新しい興味を覚えて飽きるを知らざるも、魂の接触と純朴なる愛情のつながりから、童話の世界に同化するがためです。おじいさんや、おばあさんは、その可愛い孫の我儘とか癇癪持とか、或は、臆病とかの欠点をよく知っています。お話のなかに、自然とそれを自得して直すように、面白く語られるうちにも用意を忘れません。真に、愛がなくてはできぬことです。そして、この教化は、小さき者達に、果して将来幾何の効果をもたらしたでありましょうか。
私が、もし、童話を子供達に向って語るとせば、この態度、この心をもってします。そして、書く場合に於ても、何等、それと異なるところがないでありましょう。
だが、書く場合に、私の良心は、もっと他の方面に対しても働くにちがいない。
徒らに、笑わせたり、面白がらせたりすることを目的とする者は、芸術への奉仕でなく、所謂、職業話術家のなすことであります。自分の書いたものが、どういう階級の子供達に読まれるか、恐らく、金持の家の子供達にも貧乏な家の子供にも読まれることゝ思っています。
良家に生れて、不足なく育った子供等は、自分の欲望を満足するには、もっと美しい金殿玉楼に住んだとか、栄達をしたとかいう話をきいて、夢想することによって喜びを感ずるにちがいない。それは、事実そうあるべき筈だからです。その心持を察してそういう贅沢な生活を送るような子供を主人公として童話を書いたとしたら、お嬢さんや坊ちゃん方は喜ぶかも知れない。或は、貧しい家に生れて、常に不足勝ちに育った子供等の中でも、こうした種類の童話を喜ぶものがあるかもしれない。けれど、私は、そうした金殿玉楼に住んで、人生の欲望に満足し、また自分の善いことをした行為が酬いられて栄達を遂げたような童話を書こうとは思わないのであります。なぜなら、人間の本当の幸福は、そうしたところにあるのでなく、たとえそれが童話であるとしても、そうした、これまでの世の中の見方、考方には、少なからざる誤りがあると信ずるがためです。
たとえ、自分達は、衣食に苦しまず、仕合にその日を送っているとしても、一歩外へ出て、あたりをながめれば、道を歩いても、電車に乗っても、いかに貧しく、不幸に暮す人達が多いかを発見するでしょう。そして、そういう人々を見た時に、やさしい、利巧な同情深い坊ちゃんや、お嬢さん達だったら、きっといろ〳〵のことを考え、また知りたいと思うでありましょう。こゝに、本当の人間としての本能があり、愛があり、良心があるのを、うかゞわれるのであります。
さらに、貧しい家に生れ、不遇に育った少年にしたところが、幸福の生活ということは、金持になることであり、また名誉を得るということは、立派な役人になることだけだと解するようなことがあってはならない。なぜなら、幸福とか名誉とかを思う者は人類のために働き、誠実に生きるということを忘れて、功利的に考え易いからです。徒らに、特権階級に媚びる文学は、小説といわず、少年少女の教育に役立つ読物といわず、またこの弊に陥っています。そのことが、いかに、純情、無垢な彼等の明朗性を損うことか分らないのみならず、真の勇気を阻止し、権力の前に卑屈な人間たらしめることになるのであります。
考うるだに慨歎すべきことです。この種の読物こそ、階級闘争の種子を蒔き、その激化を将来に誘発する因となるものです。
すべて、人間は、良心ある生活を送らなければならぬ。そして正直に生きなければならぬ。また、愛し扶け合わなければならぬし、正義のためには自己を犠牲にして戦わなければならぬ。
かくの如きは、人類の努力と憧憬とによってはじめて到達する理想の社会であります。またこの社会を矛盾と醜悪の現実の彼岸に幻に描くことによって、私達の生活は頽廃と絶望から救われ、意義あるものとされているのであります。
何を措いても児童たちに、理想社会の全貌を彷彿させることが肝要であり、また芸術や、教育の任務でなければなりません。そして、児童の読物に於ては、誤れる現実の喜悲を清算して、真にこれを感じて尊重しなければならぬ人類の名誉、幸福のいかなるものであるかについて、知らしめ、意識せしめ、それに向って鼓舞せしめなければならぬものです。同時に、正純な美について、愛について、また平和について、寸時も関心を怠ってはならぬと思うのであります。この種の児童文学こそ、次の新社会を建設する者のために、実に存在しなければならぬものでありながら、いまだに華々しくは出現しない。その原因は、社会が、芸術家が、教育家が、いまだ、真にこれを重要視せざるにあると考えています。
底本:「芸術は生動す」国文社
1982(昭和57)年3月30日初版第1刷発行
底本の親本:「童話と随筆」日本童話協会出版部
1934(昭和9)年9月10日初版
入力:Nana ohbe
校正:仙酔ゑびす
2011年11月30日作成
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