近頃感じたこと
小川未明



 今年の夏になってからのことでした。私は庭のありを全滅してしまわなければならぬと考えました。日ごろから、ありは多くの虫のなかで、もっとも利口であり、また組織的な生活を営んでいる、感心な虫であることは、知っていましたが、木や、竹に、油虫をはこび、せっかく伸びた芽をいじけさせて、その上、根もとに巣をつくり、幹に穴などをあけるのでは、客観的にばかり、ながめてもいられなくなって、害虫として駆除しにかゝったのです。

 草花屋から、買ってきた殺虫液の効能書には、あり退治にもきくように記してあったが、なぜか、ありにはきくまいというような感じがしました。はたして、使用して見ると、その日だけは、ありの姿を消すが、あくる日になると、依然として、彼等は、木を上ったり、下ったりしているばかりでなく、竹の葉先などには、昨日よりも多くの白い油虫がついているのを認めたのでした。


 あるいは、草木にさわると思って、薬を加減したせいかもしれない。これならば、きかぬはずがあるまいと、次には、濃いのをかけて見ました。敏感なあり達は、すばしこく逃げたのであるが、薬のかゝったのだけは、よろめきながら歩いて、やがて、そのまま倒れてしまいました。

 けれど、翌日になって、来て見ると、前日に変りなく、かつて何事も起らなかったように、黒い、小さな影は、あたり一面に動いていました。いかに多数でも、かぎりがあるから、根絶やせないはずはない。やはり、薬がきかないのだと思って、いろ〳〵新しい薬を求めて来ました。どれにしても、ウエノトロン、もしくは、ニコチン製のものだったろうが、園芸の領野が広いだけに、沢山会社もあるものだと思いました。

 ついに、この種の薬は、他の虫にはきいても、ありだけには、絶対的の信用が置けぬことを悟りました。それは、ありが薬に抵抗力の強いばかりでなく、全く、薬を使用しきれぬ程の多数群であるのと、人間でも及ばぬ、堅ろうな組織を有するからでした。


 たま〳〵、学校へ出られる途すがら立寄られた横山博士に、何か、ありを退治する良い薬はないものですかとたずねたのです。博士は、敬虔な生物学者に共通の博愛心から、「かわいそうにな、ありは、勤勉な虫だが、どういうものか、みんなにきらわれる。熱湯でもかければ、死ぬには死ぬが……」と、答えられたのです。

「ありと蜂」の生活についてファーブルに比すべき研究のあったこの人に、かくのごとき質問をするのは、間違っていたと、私はすぐに気付いたのでした。


 その後でした。私は撒布液のはいった、器械を手に握って、木の下に立っていると、うしろから、「お父さん、いくらしたってだめよ。集団との戦いですもの、負けるにきまってゝよ」と、娘が、笑ったのでした。

 成程、そういえないこともなかった。彼等は、夜のうちに、死んだ友をことごとく片づけて、明くる日は、さらに新しく生活戦を開始すべく、立直っているように見えたからでした。

 昔、読んだスタンレーの探検記には、アフリカの蛮地で兇猛なあり群に襲われることが書いてあった。たしかに、猛獣に襲われるより怖しいことだったにちがいない。この、少しの反抗力をも有しない彼等に対してすら、その執拗と根気に怖れをなしているので、考えただけで、身震いがしました。


 こういうと、自分の行為に矛盾した話であるが、しばらく、利害の念からはなれて、害虫であろうと、なかろうと、それが有する生命の何たるかについて、深く考えたならば、誰しも殺生ということに、いゝ気持はしなかったでありましょう。かつて、私は、僧侶が、しゃくじょうを鳴らしながら、道を歩くのは、虫たちを逃がして、無益の殺生をしないがためだという話をきいて、ひどく感動したことがありました。正しく生存する姿は、決して、自然との闘争でなくして、調和であると信ぜられるが故、たとえ虫にもせよ、意識的に殺したと考えると、いい知れぬ、さびしい気がしたのです。

 学校へ行く男の子が、虫の標本をつくるといって、いろ〳〵のせみを苦心して、木から捕えて来ました。彼に、こうした興味を呼び起した動機は、偶然、野原かどこかで、小さな美しい草ぜみの死骸を見出したことからです。


「お父さん、ごらんなさい。こんな小さいせみがありますよ」

 と、示されたのを見た時に、自分も、おどろいたのでした。この年齢になるまでに、まだこのようなせみを見たこともなければ、その鳴き声に耳をすましてきいたこともなかった。全く、私にとって多彩なる自然界に対する、感歎をさらに深からしめたものです。それは別として、子供が、せみを捕るのを知って、だまっていられませんでした。

 私は、子供に、彼の偉大なるダーウィンが生きた虫を殺そうとせず、死骸をさがしてきて、標本をつくったという話をして聞かせました。

「そんなら、ひとりでに死んだのならいゝのですか」と、彼は問いかえしました。自然の死は、誰をとがむることもできないと私は答えた。すると、子供は、糸であまり遠く行かないようにして、せみを木にとまらせたのでした。


 すべて、生き得る条件の下に置かざるかぎり、たとえ形は異っても、同じく手にかけて殺すようなものだと私は、子供に向っていったのでした。

 しかし、眼前の社会においても、はなはだ原始的なる子供の本能と酷似した、残忍性のあるのを発見します。即ち、生き得る条件の下に置かれざる者にも、一律的に消費の義務をはたさせようとするが如き、これです。たとえば、失業者及びこれと近い生活をする者をして、日常の必要品たる、家賃を始め、ガス、水道、電気等の料金に至る迄、極めて規則的に強要しつつあるのは、解釈によっては、暴力の行使という他はありません。

 さらに、インフレーションにより、当然招来する物価の騰貴は、いよ〳〵彼等を死地に追いやるものとして、ありの群に、殺虫剤をかけると同じいものです。いままでも時代の不遇に泣く人々はあったが、しかし、今日彼等の群は、ありの群よりも多数者である。生きるも、死ぬも、これ等の集団は存在している。ありがもりもりと巣から出るように、地底から、気味悪い迫力をもって、社会の表面へ出ようとするのを感ぜずにはいられません。


 もう一つ、これと連想するものに、児童の問題があります。

 長い間、児童等の生活は、その責任と義務を、家庭と学校に委して、社会は、深く立入ることなくして過ぎて来ました。就中なかんずく、家庭において、支配する者の意志と感情が、直接支配される者の上に向けられぬはずはなかったのです。昔から、手の下の罪人ということわざの如く、強い者が、感情のまゝに弱い者に対する振舞というものは、暴虐であり、酷使であり、無理解であった場合が多かったようです。即ち、彼等の親達もしくは主人が、社会から受ける物質上、または精神上の貧困と絶望とは、無邪気な子供等にまで、いたましく反映するのを阻止することはできなかったでしょう。

 しかし、厳密にいえば、健全なる家庭生活以外には、家族制度の基礎がありとは、考えられないのであるが、すでに、家庭にしてかくのごとくとせば、学校がこれに代り、もしくは社会が、児童を擁護しなければならぬのは当然のことです。幼弱者虐待防止案といい、欠食児童救済事業といい、このあらわれに他ありません。これとて多数者でなかったら、恐らく見殺しにされて問題とはならなかったでしょう。これは、比較的外面の事実であるが、なほ、焦眉の応策を要するものに、思想問題がありました。一歩内面的なる、思想、人格、教化の如きに至っては、いかに強権の力でも、容易に左右することはできないのであります。


 思うに、このことは、たゞ児童等の反省と自治的精神によってのみ、その結果が期待されるものと信じます。そして、かゝる情操の素因をつくるものこそ、実に文芸の使命であり、人格的教育のたまものと考えています。殊に、文芸の必要なるべきは、少年期の間であって、すでに成人に達すれば、娯楽として文芸を求むるにすぎません。しからざれば、趣味としてにとゞまります。世間に出るに及んで、生活の規矩を政治、経済に求むるが、むしろ当然だからです。

 さらば、何故に児童文学が振わず、不純なるものすら等閑に付せられるか。そこに真実の批評なく、また与論なきがためです。たゞ、正純にして、多感的なる、人生の少年時代を温床となせる児童文学は、どの点より見ても、小型大衆小説にあらず、初歩の恋愛読本にあらず、従って、営利的商品にあらざることは論をちません。また、そうあっていゝ理由がないのであります。


 私達の希望する児童文学は、子供の世界のごとく、純情、素朴にして、その内部に、自から発達の機能を有する、純一の文学でなければならない。この意味において、既成の感情、常識を基礎とする、しかも廃頽的な大人の文学と対立するものでなければなりません。しかるに、指導的立場にあるものゝ無自覚と産業機関の合理化は、新興文学の出現とその発達を拒んでいます。

 しかし、このことも、幾千万児童の精神文化の問題であり、次代の新社会建設を約束するものなるが故に、解放の暁が迫っています。ひとり搾取の対象となった彼等の上に、近時、社会の眼が、ようやく正しく向いて来たのでした。

底本:「芸術は生動す」国文社

   1982(昭和57)年330日初版第1刷発行

底本の親本:「童話と随筆」日本童話協会出版部

   1934(昭和9)年910日初版

入力:Nana ohbe

校正:仙酔ゑびす

2011年1130日作成

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