単純化は唯一の武器だ
小川未明
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ガンヂイーのカッダール主義は、単なる生活の単純化でないであろう。それには、多分に政治的の意味が含まれているからだ。しかし、それに、私達は、教えられるところがないだろうか。
私の子供時分には、まだ、周囲に封建時代の風習も、生活様式も残っていた。女達は、自から糸車を廻わして、糸をつむぎ、機に織って、それを着たのも珍らしくなかった。資本主義の波が、村々を襲って来たのは、それからである。この人達の、質実、素朴な生活の有様を、今から思い起すと、何となしになつかしい気がするばかりでなく、そこにのみ本当の生活があったような気さえされるのである。
もし、人々がすべてかくのごとく、自から耕し、自から織り、それによって生活すべく信条づけられていたなら、そして、虚栄から、虚飾から、また不正の欲望から生ずる一切のものを排除することができたなら、彼等は、搾取されることもなく、また、搾取することもなかったに、ちがいない。そして、この人生は、平和であり得たであろう。
たとえ、それがために、現在のごとき、燦然たる機械文明は見られなくとも、また大量的な生産機関に発達しなくとも、そのかわり、相殺し、相陥ることから全く救われていたと言える。しかるに、資本主義的文化によって、人類の富は、平等を欠き、平和は、失われた。そして生活の複雑になったことは、それだけ、幸福の内容を増したことにはならなかった。のみならず、いままで持っていたものまでなくしたのである。その上、多くの犠牲者を生じ、不見者を出した。
人類が、もし、失われたる幸福を取り返えさんためには、この物質主義的文明を拒否すればいいのだ。一言にすれば、虚飾を排することだ。しかも、これを拒否する自由は、誰にもある。
やはり、芸術に於てもそうだ。複雑なる主義に、たとえば、政治に、経済に、既成の哲学に、依拠し、隷属しなければならぬとするごときは迷蒙である。こうしたことによって何等か、感激を呼び起した場合がなかったと言わない。しかし、いまは、この重圧のために、空想を、想像を、拘束されているではないか。
人類の真の平和が、強権下には、決して、見られないであろうごとく、主義に囚えられたる芸術に、いつの日か、吾人は、人生に対する自由の使徒たることを信じ得よう。
過去に於て、我等を魅し、勇気づけたものは、かかる知識的なそれでなかった。実に刹那に起り来る、表現であり、刺戟的な形式、それであった。要は、様式の何たるかの問題でない。我等に、生甲斐を感じさせ、悦楽と向上の念とを与え、力強く生活の一歩を進めるものであったなら、芸術として、詩として、それは絶対のものでなければならぬ。
況んや、今日の生活は、目的への手段でもなければ、未来への段階と解すべき筈のものでもない。それ自から、全的の価値を有するものだ、たゞ、我等に、犠牲的精神あるのは、共感を信じ、光明を未来に信ずるためだ。
かくのごとくにして、人生は、常にロマンチシズムによって、更新される。また、芸術形式単純化は、即ち、資本主義的文化、強権主義的文化に対する、唯一つ反逆なのだ。
底本:「芸術は生動す」国文社
1982(昭和57)年3月30日初版第1刷発行
底本の親本:「常に自然は語る」日本童話協会出版部
1930(昭和5)年12月20日初版
入力:Nana ohbe
校正:仙酔ゑびす
2011年11月30日作成
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