自由なる空想
小川未明
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最近は、政治的に行きつまり、経済的にも、また行きつまっている様な気がする。その反映は文芸の上にも現われていないことはない。だが、この時にこそ、文芸は、展開せられるのでもある。我々は、常に、思想の自由を有している。空想し、想像することの自由を有している。外的関係が、心までを萎縮するとはかぎらない。
現実の上に、真美の王国を築くことのできないものはこれを常に心の上で築くことである。芸術は、即ち、その表現である。恍洋たるロマンチシズムの世界には、何人も、強制を布くことを許さぬ。こゝでは、自由と美と正義が凱歌を奏している。我等は、文芸に於てこそ、最も自由なるのではないか。誰か、文芸は、政治に従属しなければならぬという?
ふたゝび、ロマンシズムの運動は、起るのでなかろうか。また、このすべての方面に行きつまった時に、我等は、ロマンチシズムの運動を起さなければならぬ。先ず文芸に於て。自由に空想し、自由に想像し、自由に悦楽し、自由に反抗せよ!
新緑の好季節に、雑司ヶ谷の墓畔を散歩すると、そこには、幾何の詩人、作家、批評家が地下に眠っている。私は、共に歩いて来た、長い過去の文壇を願望する。
しかし、この中で、真に、何人か、よく自分の天分を知り、その境地に生きて来たであろうか。思うに、この世の中に於て、栄誉を負へる多くの人々とは、真に、自からの生活に生きず、そして時代の道化者だったり、また、ジャーナリズムの機械人形に過ぎなかったのであった。もとより、今日の資本主義下に、全く、煩はされざる自身の生活というものはあり得ないが、それを自覚すると、せざるとによって、その人に対する印象が異るであろう。
これに較べて、無名の自適な詩人に、また田舎で暮す百姓の中に、誠に、人間らしく、自分の生活に生きている人がある。その方が、どれ程、私には、羨ましく、貴いか知れないのである。
春になって、花が咲いても、初夏が至って、新緑に天地はつゝまれても、心から、自然を味い、また、愛する余裕を持たず、その慈愛心もなく、いたずらに、虚名につながれている輩の如き、いかに卑しいことか。私は、いまにして、生活の意義を考えるのである。
誤れる社会に、正しい歴史の文献はあり得ない。いかに、今日、人事に対する批評判断のいゝ加減なることよ。これが、たゞちに記録となって、将来の歴史を編成するのである。
誠実に、生きるものは、もとより記録を残すと否とについて考えない筈だ。たゞ俗人のみが、すべてに於て、計画的であるであろう。同じく、芸術は、作家が、自から生きることの炎だ。その人の生活を離れて、芸術を論ずることはできぬ。作品から受ける感激は、その作家の人格であろう。
世に、相許さざるものがある。強権と友愛、所有と無欲、これである。平和への手段として、強権を肯定することは、畢竟、暴力の讃美に他ならない。この意味に於て平和への途は、強権を否定して、他の真理に道を見出すことである。所有することに於て、幸福を見出すものと、無欲に帰することによって、幸福の本質を異にするからだ。
いかなる場合にも、自からを偽ることなく、朗らかな気持になって、勇ましく、信ずるところに進んでこそ、人間の幸福は感ぜらるゝ。しかるに矛盾に生き、相愛さなければならぬと知りながら、日々、陰鬱なる闘争を余儀なくさせられるのは、抑も、誰の意志なのか? これ、自からの信仰に生きずして、権力に、指導されるからではあるまいか。
底本:「芸術は生動す」国文社
1982(昭和57)年3月30日初版第1刷発行
底本の親本:「常に自然は語る」日本童話協会出版部
1930(昭和5)年12月20日初版
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana ohbe
校正:仙酔ゑびす
2011年11月30日作成
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