作家としての問題
小川未明



 もし、その作家が、真実であるならば、どんな小さなものでも、また、どんな力ないものでも、これを無視しようとは思わないでありましょう。

 個人は、集団に属するのが本当だというようなことから、なんでも、集団的に、階級的に見ようとするのは、この人生は、常に、唯物的に闘争しつゝあるという見解のもとに、疑いを抱かない、肯定的な議論であります。社会科学としては、それも重きをなす学説にちがいありません。そして、それを信ずることは、その人の勝手です。しかし、芸術には、その他の場合があるばかりでなく、芸術本来の精神は、もっと自由なものであり、その自由の教化に於てこそ存在の理由があるのだと思います。

 政治に於ては、党派によって、敵味方に分れていますが、芸術は、そんな不自由なものでない。自から不自由の中に軌範の立ち籠って、政治の前衛をもって任ずるものは、自から異いますが、なるべく、多くの異彩ある作家が輩出して、都会を、農村をいろ〳〵の眼で見、描写しなければならぬと思います。

 作家は、何ものにも囚われてはなりません。もし、囚われた時は、自由人でありません。さなきだに、今の作家は容易に自由人たることを許されていない。芸術家が、精神の自由を得なかった時は、もう死んだも同じようなものです。

 この故に、芸術家たり、作家たることは容易でありません。たとえ学説や主義に囚われなくとも、資本主義の重圧に堪えることは、より以上に困難な時代であるからです。

 いまこゝでは、資本家等の経営する職業雑誌が、大衆向きというスローガンを掲げることの誤謬であり、また、この時代に追従しなければならぬ作家等が、資本家の意志を迎えて、いつしか真の芸術を忘れるに至ったことを指摘しようと思います。

 先ず、芸術は、真の教化でなければならないことです。真実にものを見た作家の叫びでなければならないことです。実に、その芸術が、かゝる真実の表現であったら必ずや、その聞こうとするものがあるを当然とします。もし、芸術が真の発見であり、創意であり、作家の熱烈なる要求であることの代りに、通俗への合流に過ぎぬとしたら、何の教化ということもないでありましょう。

 芸術は、凡俗生活に対する反抗からはじまったと見るべきが本当であります。今日の文化が、かくもこゝまで至ったのには、この向上生活のいたした集積ともいうべきです。政治に依る強権は、一夜にして、社会の組織を一新することができるでありましょう。しかし、一夜に人間を改造することはできない。人間を改造するものは、良心の陶冶とうやに依るものです。芸術の使命が、宗教や、教育と、相俟ってこゝに目的を有するのは言うまでもないことです。

 一人の心から、他の心へ、一人の良心から、他の良心へと波動を打って、民衆の中にはいって行くものが、真の芸術です。そこに、精神の自由の下に、人格の改善が行われます。彼等はそれによって、芸術的、社会革新の信念を得ようとします。同じ人類の理想、思想の下に結合しようとします。それが最初少数の信者であったにしても、その熱意の存するかぎり、永久に働きかけるものです。真の芸術の強味はこゝにあります。芸術戦線の戦士は、すべからくこの信念に生きなければならぬものです。

 都会に、多くの作家があり、農村に多くの作家があるべき筈である。そして、彼等は、各の接触するところのものを真実に描かなければならぬ。そして、時に彼等の代弁となり、時に彼等の忠言者たらなければならぬものである。これを称して、私は、大衆作家と言い、或は民衆作家とも呼ぼうとします。

 しかるに、今日は、『大衆に向くものを』という意図のもとに文芸が創作されつゝあります。

 いったい誰に、それが売れないのであるか? 或は、そういう作品は、誰に読まれないというのか?

 過去のいかなる時代に於ても、真の芸術は理解する人達にしか求められなかった。それは、むしろ自然であります。そう一人の作家が多くの読者を有するものでなく、また、そう真面目な芸術が多くの人々に容易に理解されるものでもないのは、不思議ではありません。言い換えれば、このためにこそ文化機関の必要があると言えるのです。

 卑近の例を取って言えば、民衆を教育せんがために、多くの学校は建てられたのである。教育ということが、何よりも第一の目的たることは疑わない。しかるに、教化というものが第二であり、第一にそれ等の経営者が営利を目的とするとしたら何うでありましょうか。もはや、そこには、教育の精神も教化の精神も、死んでしまったと言わなければなりません。民衆教化の精神を失った芸術は、真の芸術ではない筈です。

 自由競争時代の文化機関には、まだこの良心があったが故に、各の異彩ある作家は自己の作品を自由に発表することができたのであったが、今日は、『大衆に向くものを』という資本家の意志によって、全く職業的に作家は書く以外の自由を有しないのであります。

 これは、一面に、読者層の中心がこれまで知識階級であり、その批判もまた知識階級によってなされたがためであるが、今日の批判は、多数の無知識階級であり、そのためには、彼等に分り易く書かなければならぬというのであります。

 多くの大衆作家が、また、そう思っているらしい。そして、常識にまで、芸術を低下することを意としないらしい。むしろそれが時勢に適応することだと思っているらしい。

 少し作家的反省と自負とがあるならば、これは、単に、資本家の意図にしかすぎないことを知るのである。真の大衆は、最も彼等の生活に親しみのある。いろ〳〵な真実の言葉を聞こうと欲するにちがいない。常識にまで低下して、何等の詩なく、感激なき作品が、たゞ面白いというだけで、また取りつき易いというだけでは、彼等と雖も、決して、これをいゝとは思っていないであろう。また、たとい、それに何が書かれていようと、すでに精神に於て、民衆を教化するとは言えなかろうと思います。

 これまでの大衆文芸がそれであり、また、機械的に政治と合流せんとする大衆文芸も同じでありましょう。これ故に、今日以後、真の作家たらんとする者は、いずれよりも解放された新人でなければならない。特に、今日の資本主義に反抗して、芸術を本来の地位に帰す戦士でなければなりません。かゝる芸術の受難時代が、いつまでつゞくか分りませんが、考えようによって、アムビシャスな作家には、興味ある時代であります。

底本:「芸術は生動す」国文社

   1982(昭和57)年330日初版第1刷発行

底本の親本:「常に自然は語る」日本童話協会出版部

   1930(昭和5)年1220日初版

入力:Nana ohbe

校正:仙酔ゑびす

2011年1130日作成

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