お母さんは僕達の太陽
小川未明
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子供は、自分のお母さんを絶対のものとして、信じています。そのお母さんに対して、註文を持つというようなことがあれば、それは、余程大きくなってからのことでありましょう。たとえば、お母さんに頼んだことを、きちんとしてもらいたいとか、また、他の教養あるお母さんのように、話が分ってほしいとか、もっと様子を綺麗にしてもらいたいとか、言葉使いなど上品にしてもらいたいとか、恐らく、この種のものでしたら、多々あることでしょう。しかし、要求を心の中に持つ場合があっても、冷かに批判的にお母さんを見るようなことはない。いつになっても、子供には、自分のお母さんが、絶対なものに見えるのであります。そして、それがほんとうと思われるのであります。
殊に、幼児の時分には、お母さんは、全く太陽そのものであって、なんでもお母さんのしたことは、正しくあればまた美しくもあり、善いことでもあったでありましょう。実に、子供の眼には、お母さんは、人間性そのものゝ化身の如く感ぜられるのです。お母さんの善いところは、汲んでも、汲み尽されない、その愛情にあります。お母さんは、子供のためなら、どんな苦しいことでも、厭といわれたことはない。正しくさえあれば、必ずして下さいます。
美しいといえば、お母さんのお顔です。そのお顔は、どれ程見ても、飽きないばかりか、しばらくそのお顔を見なければ、寂しさに堪えられなかったのです。そのお母さんに対して、何の註文のあろう筈がありましょうか。
もし、子供に、望みというものがあったら、それはいつもお母さんが、自分の傍にいて下さることだけです。世の中のお母さんは、すべて、この子供の心をよく知らなければならない。これを知ったなら、お母さんは、いつも公正であるであろうし、やさしくあるでありましょう。
子供が、外から家へ入って来る時、どれ程こみ上げる程のなつかしさを持っていたか知れない。戸口を跨ぐや否や「お母さん!」と、呼ばずにはいられないのです。
「はーい」と、いう、お母さんのやさしい声をきく時、ほんとうにうれしく、心に満足を覚えるでありましょう。
また、学校にいて、半日、お母さんの顔を見ないことは子供にとっては、苦しいことであります。帰りを急ぐのも早くお母さんのお顔を見たいためでした。たゞ、家へ帰れば、その願いがとどくと信じたのに、
「お母さん、只今」と、呼んでも、お母さんの返事がなかったら、その時は、どんなであろうか。二たび呼んで見る、三たび呼んで見る、その時の失望が思いやられる。それが果してお母さんに分るであろうか。
私が、子供の代弁をして、お母さんたちに望むところは止むを得ざるかぎり、家にいてもらいたい、そしてやさしい返事をして下さい。日本の家庭がみんなそう出来るなら、子供たちは、どんなに幸福なことであろうか。麗わしい家族制度のためにも、私は、お母さんが、いつも家庭の人たらんこと望むのであります。しかし、それはいまのところ出来ぬ話でありますが、お母さんが、家にいる時、仕事に気を取られていたとする。或は、何か考え事などあって、子供の返事どころでなかったとする。二度も、三度も、子供が呼んでから、やっと、
「なんですか」と、いうような、情味のない返事であったら、その言葉は、子供の期待にそむいて、いかなる感銘を与えるであろうか。それを思えば、お母さんは、機嫌買であってはならぬのです。子供は、いつも真剣であるのだから、子供の期待にそむかぬようにするのが、実に母たるものゝつとめであります。そうしたところに、子供の素直な発達が遂げられるのであります。
お母さんのいない家庭は、光りの射さない家庭のようにさびしいものです。たとえば、病気の時、お母さんは、子供の傍にいて、夜も碌々眠らずに、看病をして下さる。子供は、お母さんに抱かれていれば、烈しい熱があっても苦しさを感じない。たゞお母さんの胸に顔を当てていれば、たとえ死の苦しみが迫って来ても堪ることが出来る。お母さんだけが、いつも自分と共にあることを信ずるし、お母さんだけが、最後まで、自分の味方だと信ずるからです。子供は、お母さんとなら、火の中へでも、水の中へでも、いっしょに入るであろうし、お母さんだけが、また火の中へでも、水の中へでも入って下さると信じている。自分が、大きくなったら、お母さんのためにはどんなことでもすると思っている。また、お母さんのためなら、一身を犠牲にしても厭わないと感じている。何と母親の力は偉大ではないか。どの子供も、そう思うのを見れば、母の愛ばかりは、無限であるということが出来る。現在に於て、その力が大なるばかりでなく、たとえ母が死んでしまった後でも愛だけは残るのであります。そして、いつまでも、子供を見守っているのです。どれ程、その力が強くして、貴いものであるか分らない。これこそ、真に日本の母性の輝かしい姿なのであります。
望むらくは、すべてのお母さんが、子供のために、犠牲となる覚悟を持ってもらいたいのです。家庭の事情によりては、母親は、常に子供といっしょにいられぬものもありましょう。他に仕事を持ち、働かなければならぬものもありましょう。けれど、子供を持ったならば、子供のためにはかることが第一であり、仕事を第二となすべきです。それがまた日本女性としての誇りでもあり、真のつとめでもあります。他人の手に子供を委すべく余儀なくされても、母たるの自覚を失ってはならぬ。姿が見えると否とにかゝわらず子供の心は常に母親と共にあるのであるから、仕事を第一とし、子供を第二とするようなことがあってはならぬのであります。世には、我が子が、病気の時にも、自から看護をせず、看護婦や、家政婦の如き、人手を頼んでこれに委して、平気でいるものがないではない。その方が手がとゞくからという考えが伏在するからです。金というものがいかばかり人間の魂を堕落に導いたか知れない。そして、自分は、人のためとか、世の中のためとかいって、出歩いている矛盾した母親もありますが、子供の立場から見る時愛情の薄きに対して、不平を禁じ得ないでありましょう。
前にもいうが如く、子供は、母親を真とも善とも美とも見るのであります。即ち、母親の言葉は、即ち将来への指導となり、その愛情に満ちた温顔は、美の標準となり、また、母のしたことはすべて正しいと信じ、それが子供の心となり、血となるからです。
されば、聡明な母親は、子供のために、自からの向上を怠ってはならぬ。言うこと、なすことについて、深く反省する必要があります。たとえば、その一例として挙げれば、子供が友達と遊んでいたとする、その子供の様子が汚いからといって、また、その子供の親の職業が低いからといって、「あの子供と遊んではいけません」というが如きは、それであります。公正にして、純情な子供の心に、階級的な観念を植付けるものは、その親達でありました。中には小さな利己的な潔癖から、自分の家へ友達を呼んで来るのを厭うような母親もあるが、そうしたことが、子供をして将来、個人主義者たらしめたり、会社へ出ても、他と共に協力の出来ぬ、憐れむべき人間にする結果となります。
これから教育は、家庭に於ける子供というよりは、国家の子供として、国家に役立つ人間を造らなければならない。国家が栄えれば自然国民も栄えるからです。国家が強く富まなければ、国民は、決して幸福になれよう筈がない。お母さんは、その心掛けで、子供を教育しなければなりません。先ず、学問よりは体の健康が第一です。ある学科が不出来だからといって、必ずしもやかましく子供を叱るに当らない。子供は、自分の好きな学科を修得し、それによって伸びる決意を有しています。しかるに、その子供に人生の希望と高貴な感激を与えて、真に愛育することを忘れて、つまらぬ虚栄心のために、むずかしいと評判されるような学校へ入れようとしたり、子供の力量や、健康も考えずに、顔さえ見れば、勉強! 勉強! というが如きは、却って、其の親達の心事をば悲しまずにいられません。
かゝる無理な場合でも、子供は、母親に対し、不明な教師に対して、抗議する何等の力を持っていない。それ故に母親が自から改めなければ、強権の力を頼んでも試験勉強の如きを廃して、幾百万の児童を救ってもらいたいと思うのであります。
お母さんだけが、いつの場合にでも、子供のほんとうの味方でありましょう。そのお母さんが、もし子供の人格を重んぜず、打算的に自分の都合だけしか考えなかったら、果して、どうであろうか。お母さんは、どの意味からいっても子供にとっての太陽であります。
底本:「芸術は生動す」国文社
1982(昭和57)年3月30日初版第1刷発行
底本の親本:「新しき児童文学への道」フタバ書院成光館
1942(昭和17)年2月15日初版
入力:Nana ohbe
校正:仙酔ゑびす
2011年12月31日作成
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