人間性の深奥に立って
小川未明
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私は学校教育と云うものに就ては、現在の状況からすると小学校のそれに最も重きを置く。それは今日の状態にあっては大学及び其の他の専門学校と云うものは殆んど民衆にとってはこれと云う貢献がないと信ずるからである。何故かと云うに一般民衆にとって大学教育を受くると云うことは経済的に殆んど不可能の事であるし、今一つは大学教授と云うような人は自分の専門的の学科には忠実であろうが、学生の人格の養成や、或はどのような人間を作ろうかなど云うような事に就ては欠陥があるように思う。今の大学などでは殆んど一年の三分の一は休みであると云う状態で、あゝまで休んでいて何が出来るだろう。それに又月謝やその他の費用がとても民衆には払われるものでない。要するに金持の子弟の遊び場所にすぎないのである。──それに又其等の学校を出れば一定の職業を与えらるゝのが──在来の習慣若しくは形式になっている。此の如き大学の組織である以上、吾々にとっては殆んど無意味である。
そうすると如何しても今のところ小学校が一番重大な使命をもっている。又小学校の時分に与えられた感化程深刻なものはない。ほんとうの人間性や、美くしい感情や、正しい事の観念などは、感激性にとむ少年時代に於てのみよく養われるのではないかと思う。この意味からしても、小学校の教育が多分に精神的要素をもっていることは明かである。
小学校の教師も今日の経済組織の下に生活していては、それが職業化することは止むを得ぬ事であろう。とは云えあの子供たちの世話と云うものは決して愛がなくては出来るものではない。現在うみの親でさえ子供の世話には余程の困難を感ずるものである。これより深き注意と感化とを与えようと努力している点から之を眺めると、それは決して単なる職業とのみ観る訳には行かない。そこに深い社会奉仕の尊さが潜んでいると思う。
大学の教授たちが自分の専門に没頭して、只だそれを伝えると云うような事以外に、小学校の先生には更に教うる生徒に対して深い愛情がなければならぬ。
然し乍ら私は現在の小学校の先生方が皆かくの如き人格者のみであるとは思わない。丁度医者が昔から仁術であると云われていながら、その大抵は金とり主義になっているように、小学校教師にも自己の職務を余りに職業視している人があると思う。私はある時郷国の小学校に就て其の内幕をみるの機会を得たのであるが、其の風儀の壊廃は実に驚くに堪えたるものであった。それは矢張り政党等の内幕にあるような実情問題であった。何れの社会でも今日の状態ではきたない事はある。それが小学校に於て児童の事に関して存在するを見るのは誠に忌まわしいものだ。
小学校の教育が学術そのものよりも人間の感化にある事は何人も認めている事である。人間の感化とは生徒それ自身の有する各違った個性を成長させることに外ならぬ。今の教育は多くの生徒を一教場の内に集めて、与えられたる教科を教うるようであるが、それでは各個人に就て深い注意を与えて各の個性の開発伸長を計ることは誠に困難な事だ。
然しそれも教師の心得次第では全く出来ぬ事ではない。ここにして思えば昔の漢学塾など云うものは感化力が偉大であったわけだ。教うる人が人格者である許りでなく、一人一人の生徒を自分の前に置き、熱心に精神的教育を施したために偉大なる感化を与うることが出来たのは、寧ろ当然の事である。今日の小学校の教育殊に修身科の如きものに就て、教師が今までの与えられた処の概念をそのまゝ吹き込むことは何等の役にも立つものではない。例えば今日吾々の間に存在する日常の習慣や礼儀等はどれ程の価値あるものであろうか。試みに小学校の修身書を一瞥してもすぐ分ることであるが、その並べられた題目と、其れに関する概念的な口授式の教授ぶりとが、ほんとうの人間性の結晶と思っては大間違である。今日の習慣なり、風俗なり、礼儀なり、或は又道徳と云ったようなものは、今日の社会組織の約束の下になったものが多く、ほんとうな人間性のそれではないのである。
由来人間にはその時代に束縛せられず、又階級に拘束されずして、昔も今も人として立って行くべき上に、美くしい事、正しい事の感激がある。たゞその感激の表われが時代によっては違う。とにかくすべての人間は自然の上に対してある感激を有する。この美くしい事、正しい事に対する感激、又は自己犠牲の考こそほんとうの人間を作るに必要なものである。これを子供の心から呼び出して成長させることが一番大切な事である。そしてそれは形の上の教育では到底不可能なことである。
概念的な教育、束縛的な倫理観が、健全な真実な教育上にどれ程禍しているか分らない。又この頃自由教育云々に就てある知事とある教育者とが争った事があるが、今日に至ってまだ学校教育を政治の上から云為せんとするそれらの人が、どれだけ人間性の発達上又文化の開展上に禍して居るかは、誠に計り知れない。
恁う考えて来るとそんな強い力、立派な人格を備えた先生と云うものが果してそんなに沢山あるか疑われる。然しそんな先生が沢山なければ多数の幼き国民をどうしよう。この意味から云っても現在の知識階級が尤も眼ざめなくてはならぬ事である。私はこの点に関して特に小学校教師養成機関に就て論じたい事もあるが、今は割愛したい。
露西亜の現状に於て、外の事はともかく子供の教育上に於ては私は涙ぐましい気がする。大人はどんな苦しみをしても、その子供には不足を感ぜしめないようにし、国家が其の子供を養って行き、善と美とに対して、子供自身の裁断をまつように自由に教育することは、何と云ってもそれは好い教育である。
底本:「芸術は生動す」国文社
1982(昭和57)年3月30日初版第1刷発行
底本の親本:「人間性のために」二松堂書店
1923(大正12)年2月10日初版
入力:Nana ohbe
校正:仙酔ゑびす
2011年11月30日作成
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