囚われたる現文壇
小川未明
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いかなる主義と雖も現実から出発していないものはない。現実を有りのまゝの静止したもの、固定したものと見做すのが間違っている。現実はどうともすることの出来ない客観的の実在であると同時に、また極めて主観的な実在である。我々が懐く凡ゆる感情、例えば怒り、憎しみ、または愛にもせよ、凡ての感激、冒険といったようなものは、人生及び自然から生起してくる刺戟である。この人生及び自然の存在を措いて、現実はない筈である。それであるから現実に徹することは、自己の生活に徹するに外ならないのである。もし其処に似而非現実主義というものがあると仮定すれば、それは自己のない生活である。個性のない生活である。而してそうした生活から生れる所の芸術は、形式の芸術、模倣の芸術である。
今の文壇が平凡だというのは、必ずしも作者が平凡を以て主義としているからではない。また現代の作家が斯くの如き感激に乏しい生活に人生の深い意義を見出そうとして、ものを書いているわけでもない。要するに、作者自身の生活に感激がないから、その作品が凡庸に堕するのである。私は現実というものがそんな平凡無味なものと信じないと共に、また如何に作の形式ばかりが変ったからとてそれが直ちに現実を超越したものだとも考えない。現実主義は言い換えれば人間主義である。人は一面、保守的であると同時に、またそれを破壊し行く冒険性を持っているものだ。本当の意味に於ける人間生活の歴史は、平和にしろ、革命にしろ、みな現実主義に立脚している。我々は未だ曾て現実に立脚しない仕事の成功した例を聞かない。例えば如何なる運動でも如何なる主義でも。
多くの人心を魅してその中に惹き入れるところのものは、その主張なり傾向なりが深く現実に根ざしているからである。信念の在る処、信仰の存する処、悉くこれ現実に立脚していると言えよう。どんな破壊的な行為でも、またどんなに平凡に見える行為でも、それに信仰と信念とがあって、十分な自覚の上に起っていさえするものであったなら、それは立派な人間性の現われでありまた現実性を持ったものであると言って差支えない。文芸ばかりでなく、絵画に於てもそうであるが、たゞその形とか色とか、乃至は題材とか技巧とか、そういった外面的のものにはそれ自身に本当の感激を与える力はないものだ。我々が本当の感激をうけるのは、それらのものゝ背後に潜んでいる、作者自身の精神によるのである。
本当の芸術は現在の生活から飛躍した生活を暗示するものでなくてはならない。卑近な眼界からヨリ遠い人間生活の視野を望ましめるものでなくてはならぬ。此の力を欠いているものは謂わゆる現実性を欠いた芸術である。現実性のある文芸のみが、民衆の文芸として生き得るであろう。此人生や自然はどんな人にも感激を与え慰藉を与えまた苦痛や悲嘆を与えている。そうして瞬時も人間にその姿の全体を掴ませない。然しその中には何か知ら我々を引摺って行く所の力がある。それは即ち現実そのものに外ならない。我々が永久に此の現実を究めつくすことが出来ないにも繋わらず、而かも恒にそれに対して絶大の愛着を感じ、どうしてもそれから離れる事の出来ないのは、現実が即ち無限の力だからである。
現実は説明の出来ない力であるが、若し芸術家が真に此の現実の前に謙遜であり、それを熱愛し、それを痛感しているならば、其の人の芸術は必ず民衆の胸を衝き、誰れにでも強い感激を与え得るに違いない。何となれば芸術は凡ての現実の極度だからである。信念の欠けた生活や、信仰の伴わない空虚な言葉、それらが何んで現実的であり得よう。
どんな人間でも年から年中、異常な感激を持すことは、困難な事である。不断の感激を心に持するということは、其の人が特殊な理想主義者でなければならない。人間性の為めの勇敢な戦士であらねばならぬ。現実が極めて安意な無目的の状態に見えるのも、或いは希望の光りに輝いて見えるのも畢竟、主観的の問題である。其の人を離れて現実なく、其の人の主観を離れて現実の意味をなさぬのも、要するに以上の理由による。
今の作家の書くものが、特に或る階級の者にだけ興味を与え、その他の階級者には何等の興味をも与えぬというのは、それが偉大なる感激性に欠けているからだ。そうしてこれは同時に芸術の堕落を意味するものである。
例えば私たちが展覧会へ行って多くの画の前に立った時、我々の生活と没交渉なものゝ余りに多過ぎる事を痛感する。勿論、これらの作と雖も或る特殊階級の人々には必要なものかも知れぬが、然し此等の作品が民衆的であるべき目的を度外視して、或る特殊な有産階級とか知識階級の為めにのみ作られるということは、頗る不合理だと思うのである。
トルストイの芸術はどんな階級の者にでも一様にフレッシュな痛烈な感激を与えている。独りトルストイばかりでなく、真の芸術家によって作られた作品は、決して特殊な階級にのみ限られた芸術でない。其作品の中には急進主義者の姿もあれば、時として保守主義者の姿の現われてくる事もある。然しそれ〴〵の主義にはそれ〴〵の信念があるもので、作品決してそれを見逃がしてはいない。信念の在るところ、容易にその善悪を定めにくい場合が多い。優れた芸術家は常に人生の両面を観ているのみならず、いつも敬虔の心と固い信念とを以て作を続けている。そうして其等の人たちは現実には楽しみもあれば苦しみもあり、またヨリ多くの苦痛のあることも知っているし、平和の姿もあれば争闘の姿もあるということを知りぬいているので、決して片寄った観方をしない。稀れに傾向の著るしい作家があって、虚無主義に立ったり厭世主義に立ったり若しくは享楽主義に立ったりしても、其処にはそれ〴〵固い信念と強い主張と深い哲学とがある。斯くて人間性の生面に深く徹して行くことを忘れない。
今の我が文壇には右の如き心持ちを懐いて筆を執っているものが果して幾人あるか。徒らに生活に妥協して、自ら深く生に徹して行こうとする勇気を欠いてはいないか。容易なだらけ切った気持ちで有るが儘の世相の外貌を描いただけで、尚お且つ現実に徹した積りでいるなど、真に飽きれ果てた話だ。こんなものが何んで現実主義といえよう。
前述の如く、純芸術的の作品が民衆に感動を与えるのは何の為めかというに、それは其の作家が現実の苦痛を苦痛とする犠牲的精神をもっているからである。トルストイを見よ、ミレーを見よ、みな斯くの如き信仰の下に戦いを戦って来ているではないか。
然しながら現文壇の斯うした安易なだらけ切った状態はそう何時までも永続し得るものではない。何人もが世界平等の苦痛を共に嘗め、共に味わなくてはならないように、各人の生活内容が変ってきた時、其処から初めて新しい感激が湧き、本当の愛が生れてくるだろう。然し私は、社会改造の事実は各人の信念にその根底を置くものだと考えている。そうして此の信念を民衆の頭に植えつけるのは真の民衆芸術家の為すべき務めであると考えている。独り永久に人間性の為めに戦わなければならないのは、芸術家の義務である。
底本:「芸術は生動す」国文社
1982(昭和57)年3月30日初版第1刷発行
底本の親本:「生活の火」精華書院
1922(大正11)年7月10日初版
入力:Nana ohbe
校正:仙酔ゑびす
2011年11月30日作成
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