古事記
校註 古事記
稗田の阿礼、太の安万侶
武田祐吉注釈校訂



古事記 かみつ卷 序并はせたり


〔序文〕


〔過去の時代

 やつこ安萬侶やすまろまをさく、それ混元既に凝りしかども、氣象いまだあつからざりしとき、名も無くわざも無く、誰かその形を知らむしかありて乾と坤と初めて分れて、參神造化のはじめ、陰と陽とここに開けて、二靈群品の祖となりたまひき所以このゆゑに幽と顯とに出で入りて、日と月と目を洗ふにあらはれたまひ、海水うしほに浮き沈みて、神と祇と身を滌ぐにあらはれたまひき。かれ、太素は杳冥えうめいたれども、本つ教に因りてくにはらみ島を産みたまひし時をり、元始は綿邈めんばくたれども、先の聖にりて神を生み人を立てたまひし世をあきらかにす。まことに知る、鏡を懸け珠を吐きたまひて、百の王相續き、劒ををろちを切りたまひて、萬の神蕃息はんそくせしことをやすかははかりて天の下をことむけ、小濱をばまあげつらひて國土を清めたまひき。ここを以ちて仁岐ににぎの命、初めて高千たかちたけあも神倭かむやまと天皇すめらみこと、秋津島に經歴したまひき。化熊川より出でて、天の劒を高倉に獲、生尾こみちさへきりて、大き烏吉野に導きき。まひを列ねてあたはらひ、歌を聞きて仇を伏しき。すなはち夢にさとりて神祇をゐやまひたまひき、所以このゆゑに賢后とまを一〇。烟を望みて黎元を撫でたまひき、今に聖帝と傳ふ一一。境を定め邦を開きて、ちか淡海あふみに制したまひ一二かばねを正し氏を撰みて、とほ飛鳥あすかしるしたまひき一三。歩と驟と、おのもおのも異に、文と質と同じからずといへども、古をかむがへて風猷ふういうを既にすたれたるにただしたまひ、今を照して典教を絶えなむとするに補ひたまはずといふこと無かりき。


一 過ぎし時代のことを傳え、歴代の天皇これによつて徳教を正しくしたことを説く。

二 この序文は、天皇に奏上する文として書かれているので、この句をはじめすべてその詞づかいがなされる。安萬侶は、太の安麻呂、古事記の撰者、養老七年(七二三)歿。

三 混元以下、中國の宇宙創生説によつて書いている。萬物は形と氣とから成る。形は天地に分かれ、氣は陰陽に分かれる。

四 アメノミナカヌシの神、タカミムスビの神、カムムスビの神の三神が、物を造り出す最初の神となつた。

五 イザナギ、イザナミの二神が、萬物を生み出す親となつた。

六 幽と顯とに以下、イザナギ、イザナミ二神の事蹟。

七 鏡を懸け以下、天照らす大神とスサノヲの命との事蹟。

八 安の河に以下、ニニギの命の事蹟。

九 神武天皇。

一〇 崇神天皇。

一一 仁徳天皇。

一二 成務天皇。

一三 允恭天皇。


〔古事記の企畫

 飛鳥あすか清原きよみはらの大宮に太八洲おほやしましらしめしし天皇の御世におよびて、潛龍元を體し、せん雷期にこたへき。夢の歌を聞きて業をがむことをおもほし、夜の水にいたりて基を承けむことを知らしたまひき。然れども天の時いまだいたらざりしかば、南の山に蝉のごとくもぬけ、人とことと共にりて、東の國に虎のごとく歩みたまひき。皇輿たちまちに駕して、山川を凌ぎ度り、六師雷のごとく震ひ、三軍電のごとく逝きき。杖矛ぢやうぼう威を擧げて、猛士烟のごとく起り、絳旗かうき兵を耀かして、凶徒瓦のごとく解けぬ。いまだ浹辰せふしんを移さずして、氣沴きれいおのづから清まりぬ。すなはち牛を放ち馬をいこへ、愷悌がいていして華夏に歸り、はたを卷きほこをさめ、儛詠ぶえいして都邑に停まりたまひき。ほしは大糜にやどり、月は夾鐘にあた、清原の大宮にして、昇りて天位にきたまひき。道は軒后にぎ、徳は周王にえたまへり。乾符をりて六合をべ、天統を得て八荒をねたまひき。二氣の正しきに乘り、五行のつぎてととのへ、あやしき理をけてひとすすめ、すぐれたるのりを敷きて國を弘めたまひき。重加しかのみにあらず智の海は浩汗として、ふかく上古を探り、心の鏡は煒煌として、あきらかに先の代を覩たまふ。ここに天皇詔したまひしく、「朕聞かくは、諸家のたる帝紀と本辭と既に正實に違ひ、多く虚僞を加ふといへり。今の時に當りて、その失を改めずは、いまだ幾年いくとせを經ずして、その旨滅びなむとす。こはすなはち邦家の經緯、王化の鴻基こうきなり。かれここに帝紀を撰録し、舊辭くじ討覈たうかくして、僞を削り實を定め、後葉のちのよつたへむとおもふ」と宣りたまひき。時に舍人とねりあり、姓は稗田ひえだ、名は阿禮あれ、年は二十八。人となり聰明にして、目にわたれば口にみ、耳にるれば心にしるす。すなはち阿禮に勅語して、帝皇の日繼ひつぎと先代の舊辭とを誦み習はしめたまひき。然れどもとき移り世異にして、いまだその事を行ひたまはざりき。


一 天武天皇が帝紀と本辭とを正して稗田の阿禮に授けたことを説く。

二 天武天皇。

三 酉の年の二月に。

四 帝紀は歴代天皇の事を記した書、本辭は前の世の傳えごと。この二種が古事記の材料となつている。

五 アメノウズメの命の子孫。男子説と女子説とがある。


〔古事記の成立

 伏しておもふに皇帝陛下、一を得て光宅くわうたくし、三に通じて亭育ていいくしたまふ。紫宸にいまして徳は馬のつめの極まるところにかがふり、玄扈げんこいまして化は船のいたるところを照したまふ。日浮びてひかりを重ね、雲散りてかすまず。えだを連ね穗をはすしるしふみひとしるすことを絶たず、とぶひを列ね、をさを重ぬるみつきみくらに空しき月無し。名は文命よりも高く、徳は天乙にまされりと謂ひつべし。ここに舊辭の誤りたがへるを惜しみ、先紀のあやまあやまれるを正さまくして、和銅四年九月十八日を以ちて、臣安萬侶に詔して、稗田の阿禮が誦める勅語の舊辭を撰録して、獻上せよと宣りたまへば、謹みて詔の旨に隨ひ、子細に採りひりひぬ。然れども上古の時、言と意とみなすなほにして、文を敷き句を構ふること、字にはすなはち難し。すでに訓に因りて述ぶれば、詞は心にいたらず。全く音を以ちて連ぬれば、事の趣更に長し。ここを以ちて今或るは一句の中に、音と訓とを交へ用ゐ、或るは一事の内に、全く訓を以ちてしるしぬ。すなはち辭理の見えがたきは、注を以ちて明にし、意況の解き易きは更にしるさず。また姓の日下くさかに、玖沙訶くさかと謂ひ、名の帶の字に多羅斯たらしといふ。かくの如き類は、本に隨ひて改めず。大抵記す所は、天地の開闢よりして、小治田をはりだの御世ふ。かれあめ御中主みなかぬしの神より以下しも日子波限建鵜草葺不合ひこなぎさたけうがやふきあへずみことよりさきを上つ卷とし、神倭伊波禮毘古かむやまといはれびこの天皇より以下、品陀ほむだの御世より前を中つ卷とし、大雀おほさざき皇帝すめらみことより以下、小治田の大宮より前を下つ卷とし、并はせて三つの卷にしるし、謹みて獻上たてまつる。臣安萬侶、誠惶誠恐かしこみかしこみ頓首頓首のみまをす。

和銅五年正月二十八日
正五位の上勳五等 おほ朝臣あそみ安萬侶やすまろ


一 古事記成立の過程、文章の用意方針。内容の區分を説く。

二 元明天皇、女帝。奈良時代の最初の天皇。

三 七一一年。

四 漢字の表示する意義によつて書くのが、訓によるものであり、漢字の表示する音韻によつて書くのが、音によるものである。歌謠および特殊の詞句は音を用い、地名神名人名も音によるものが多い。外に漢字の訓を訓假字として使つたものが多少ある。

五 讀み方の注意、および内容に關して註が加えられている。

六 固有名詞の類に使用される特殊の文字は、もとのままで改めない。これは材料として文字になつていたものをも使つたことを語る。

七 推古天皇の時代(‐六二八)

八 神武天皇から應神天皇まで。

九 仁徳天皇。


〔一、伊耶那岐の命と伊耶那美の命〕


〔天地のはじめ〕

 天地あめつち初發はじめの時、高天たかまはらに成りませる神のみなは、あめ御中主みなかぬしの神。次に高御産巣日たかみむすびの神。次に神産巣日かむむすびの神。この三柱みはしらの神は、みな獨神ひとりがみに成りまして、みみを隱したまひき

 次に國わかく、かべるあぶらの如くして水母くらげなすただよへる時に、葦牙あしかびのごとあがる物に因りて成りませる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遲うましあしかびひこぢの神。次にあめ常立とこたちの神。この二柱ふたはしらの神もみな獨神ひとりがみに成りまして、みみを隱したまひき。

上のくだり、五柱の神はことあまかみ

 次に成りませる神の名は、國の常立とこたちの神。次に豐雲野とよくものの神。この二柱の神も、獨神に成りまして、身を隱したまひき。次に成りませる神の名は、宇比地邇うひぢにの神。次に妹須比智邇いもすひぢにの神。次に角杙つのぐひの神。次に妹活杙いもいくぐひの神二柱。次に意富斗能地おほとのぢの神。次に妹大斗乃辨いもおほとのべの神。次に於母陀琉おもだるの神。次にいも阿夜訶志古泥あやかしこねの神。次に伊耶那岐いざなぎの神。次にいも伊耶那美いざなみの神一〇

上の件、國の常立の神よりしも伊耶那美いざなみの神よりさきを、并はせて神世かみよ七代ななよとまをす。上の二柱は、獨神おのもおのも一代とまをす。次に雙び
ます十神はおのもおのも二神を合はせて一代とまをす。


一 中心、中央の思想の神格表現。空間の表示であるから活動を傳えない。

二 以上二神、生成の思想の神格表現。事物の存在を「生む」ことによつて説明する日本神話にあつて原動力である。タカミは高大、カムは神祕神聖の意の形容語。この二神の活動は、多く傳えられる。

三 對立でない存在。

四 天地の間に溶合した。

五 葦の芽。十分に春になつたことを感じている。

六 葦牙の神格化。神名は男性である。

七 天の確立を意味する神名。

八 名義不明。以下神名によつて、土地の成立、動植物の出現、整備等を表現するらしい。

九 驚きを表現する神名。

一〇 以上二神、誘い出す意味の表現。


〔島々の生成〕

 ここに天つ神もろもろみことちて伊耶那岐いざなぎの命伊耶那美いざなみの命の二柱の神にりたまひて、この漂へる國を修理をさめ固め成せと、あめ沼矛ぬぼこを賜ひて、言依ことよさしたまひき。かれ二柱の神、あめ浮橋うきはしに立たして、その沼矛ぬぼこおろして畫きたまひ、鹽こをろこをろに畫きして、引き上げたまひし時に、その矛のさきよりしたたる鹽の積りて成れる島は、淤能碁呂おのごろなり。その島に天降あもりまして、あめ御柱みはしらを見立て八尋殿やひろどのを見立てたまひき。

 ここにその妹伊耶那美いざなみの命に問ひたまひしく、「が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、「が身は成り成りて、成り合はぬところ一處あり」とまをしたまひき。ここに伊耶那岐いざなぎの命りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り餘れるところ一處あり。かれこの吾が身の成り餘れる處を、汝が身の成り合はぬ處に刺しふたぎて、國土くに生み成さむと思ほすはいかに」とのりたまへば、伊耶那美いざなみの命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「然らばと、この天の御柱を行き𢌞めぐりあひて、美斗みと麻具波比まぐはひせむ」とのりたまひき。かくちぎりて、すなはち詔りたまひしく、「汝は右より𢌞り逢へ、は左より𢌞り逢はむ」とのりたまひて、ちぎへて𢌞りたまふ時に、伊耶那美の命まづ「あなにやし、えをとこを」とのりたまひ、後に伊耶那岐の命「あなにやし、え娘子をとめを」とのりたまひき。おのもおのものりたまひへて後に、その妹にりたまひしく、「女人をみな先立さきだち言へるはふさはず」とのりたまひき。然れども隱處くみどおこしてみこ水蛭子ひるこを生みたまひき。この子は葦船あしぶねに入れて流しりつ一〇。次に淡島あはしま一一を生みたまひき。こも子の數に入らず。

 ここに二柱の神はかりたまひて、「今、吾が生める子ふさはず。なほうべ天つ神の御所みもとまをさな」とのりたまひて、すなはち共にゐ上りて、天つ神のみことを請ひたまひき。ここに天つ神のみこと以ちて、太卜ふとまにうらへて一二のりたまひしく、「をみなの先立ち言ひしに因りてふさはず、また還りあもりて改め言へ」とのりたまひき。

 かれここに降りまして、更にその天の御柱を往き𢌞りたまふこと、先の如くなりき。ここに伊耶那岐いざなぎの命、まづ「あなにやし、えをとめを」とのりたまひ、後に妹伊耶那美いざなみの命、「あなにやし、えをとこを」とのりたまひき。かくのりたまひ竟へて、御合みあひまして、みこ淡道あはぢ狹別さわけの島一三を生みたまひき。次に伊豫いよ二名ふたなの島一四を生みたまひき。この島は身一つにしておも四つあり。面ごとに名あり。かれ伊豫の國を愛比賣えひめといひ、讚岐さぬきの國を飯依比古いひよりひこといひ、あはの國を、大宜都比賣おほげつひめといひ、土左とさの國を建依別たけよりわけといふ。次に隱岐おき三子みつごの島を生みたまひき。またの名はあめ忍許呂別おしころわけ。次に筑紫つくしの島を生みたまひき。この島も身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。かれ筑紫の國一五白日別しらひわけといひ、とよくに豐日別とよひわけといひ、くに建日向日豐久士比泥別たけひむかひとよくじひねわけ一六といひ、熊曾くまその國一七建日別たけひわけといふ。次に伊岐いきの島を生みたまひき。またの名は天比登都柱あめひとつはしらといふ。次に津島つしま一八を生みたまひき。またの名はあめ狹手依比賣さでよりひめといふ。次に佐渡さどの島を生みたまひき。次に大倭豐秋津おほやまととよあきつ一九を生みたまひき。またの名はあま御虚空豐秋津根別みそらとよあきつねわけといふ。かれこの八島のまづ生まれしに因りて、大八島おほやしま國といふ。

 然ありて後還ります時に、吉備きび兒島こじまを生みたまひき。またの名は建日方別たけひがたわけといふ。次に小豆島あづきしまを生みたまひき。またの名は大野手比賣おほのでひめといふ。次に大島おほしま二〇を生みたまひき。またの名は大多麻流別おほたまるわけといふ。次に女島ひめじま二一を生みたまひき。またの名は天一根あめひとつねといふ。次に知訶ちかの島二二を生みたまひき。またの名はあめ忍男おしをといふ。次に兩兒ふたごの島二三を生みたまひき。またの名はあめ兩屋ふたやといふ。吉備の兒島より天の兩屋
の島まで并はせて六島。


一 天神の命によつて若い神が降下するのは日本神話の基礎形式の一。祭典の思想に根據を有している。

二 りつぱな矛を賜わつて命を下した。

三 天からの通路である空中の階段。

四 海水をゴロゴロとかきまわして。

五 大阪灣内にある島。今の何島か不明。

六 家屋の中心となる神聖な柱を立てた。

七 結婚しよう。

八 アナニヤシ、感動の表示。エヲトコヲ、愛すべき男だ。ヲは感動の助詞。

九 ヒルのようなよくないものが、不合理な婚姻によつて生まれたとする。

一〇 蟲送りの行事。

一一 四國の阿波の方面の名。この部分は阿波方面に對してわるい感情を表示する。

一二 古代の占法は種々あるが、鹿の肩骨を燒いてヒビの入り方によつて占なうのを重んじ、これをフトマニといつた。これは後に龜の甲を燒くことに變わつた。

一三 淡路島の別名。ワケは若い者の義。

一四 四國の稱。伊豫の方面からいう。

一五 北九州。

一六 誤傳があるのだろう。肥の國(肥前肥後)の外に、日向の別名があげられているのだろうというが、日向を入れると五國になつて、面四つありというのに合わない。

一七 クマ(肥後南部)とソ(薩摩)とを合わせた名。

一八 對馬島。

一九 本州。

二〇 山口縣の屋代島だろう。

二一 大分縣の姫島だろう。

二二 長崎縣の五島。

二三 所在不明。


〔神々の生成〕

 既に國を生みへて、更に神を生みたまひき。かれ生みたまふ神の名は、大事忍男おほことおしをの神。次に石土毘古いはつちびこの神を生みたまひ、次に石巣比賣いはすひめの神を生みたまひ、次に大戸日別おほとひわけの神を生みたまひ、次にあめ吹男ふきをの神を生みたまひ、次に大屋毘古おほやびこの神を生みたまひ、次に風木津別かざもつわけ忍男おしをの神を生みたまひ、次にわたの神名は大綿津見おほわたつみの神を生みたまひ、次に水戸みなとの神名は速秋津日子はやあきつひこの神、次に妹速秋津比賣はやあきつひめの神を生みたまひき。大事忍男の神より秋津比賣
の神まで并はせて十神。

 この速秋津日子はやあきつひこ速秋津比賣はやあきつひめ二神ふたはしら、河海によりて持ち別けて生みたまふ神の名は、沫那藝あわなぎの神。次に沫那美あわなみの神。次に頬那藝つらなぎの神。次に頬那美つらなみの神。次にあめ水分みくまりの神。次にくに水分みくまりの神。次にあめ久比奢母智くひざもちの神、次にくに久比奢母智くひざもちの神。沫那藝の神より國の久比奢母
智の神まで并はせて八神。

 次に風の神名は志那都比古しなつひこの神を生みたまひ、次に木の神名は久久能智くくのちの神を生みたまひ、次に山の神名は大山津見おほやまつみの神を生みたまひ、次に野の神名は鹿屋野比賣かやのひめの神を生みたまひき。またの名は野椎のづちの神といふ。志那都比古の神より野
椎まで并はせて四神。

 この大山津見の神、野椎の神の二神ふたはしら、山野によりて持ち別けて生みたまふ神の名は、天の狹土さづちの神。次に國の狹土の神。次に天の狹霧さぎりの神。次に國の狹霧の神。次に天の闇戸くらとの神。次に國の闇戸の神。次に大戸或子おほとまどひこの神。次に大戸或女おほとまどひめの神天の狹土の神より大戸或女
の神まで并はせて八神。

 次に生みたまふ神の名は、鳥の石楠船いはくすぶねの神、またの名は天の鳥船とりぶねといふ。次に大宜都比賣おほげつひめの神を生みたまひ、次に夜藝速男やぎはやをの神を生みたまひき。またの名は炫毘古かがびこの神といひ、またの名は迦具土かぐつちの神といふ。この子を生みたまひしによりて、御陰みほとやかえてこやせり。たぐり一〇りませる神の名は金山毘古かなやまびこの神。次に金山毘賣かなやまびめの神。次にくそに成りませる神の名は、波邇夜須毘古はにやすびこの神。次に波邇夜須毘賣はにやすびめの神一一。次に尿ゆまりに成りませる神の名は彌都波能賣みつはのめの神一二。次に和久産巣日わくむすびの神一三。この神の子は豐宇氣毘賣とようけびめの神一四といふ。かれ伊耶那美いざなみの神は、火の神を生みたまひしに因りて、遂に神避かむさりたまひき。天の鳥船より豐宇氣毘賣
の神まで并はせて八神。
およそ伊耶那岐いざなぎ伊耶那美の二神、共に生みたまふ島壹拾とをまり四島よしま、神參拾みそぢまり五神いつはしら一五こは伊耶那美の神、いまだ神避りまさざりし前に生みたまひき。ただ意能
碁呂島は生みたまへるにあらず、また蛭子と淡島とは子の例に入らず。


一 以上の神の系列は、家屋の成立を語るものと解せられる。

二 風に對して堪えることを意味するらしい。

三 河口など、海に對する出入口の神。

四 海と河とで分擔して生んだ神。以下水に關する神。アワナギ、アワナミは、動く水の男女の神、ツラナギ、ツラナミは、靜水の男女の神。ミクマリは、水の配分。クヒザモチは水を汲む道具。

五 息の長い男の義。

六 木の間を潛る男の義。

七 山の神と野の神とが生んだ諸神の系列は、山野に霧がかかつて迷うことを表現する。

八 鳥の如く早く輕く行くところの、石のように堅いクスノキの船。

九 穀物の神。この神に關する神話が三五頁にある。

一〇 吐瀉物。以下排泄物によつて生まれた神は、火を防ぐ力のある神である。

一一 埴土の男女の神。

一二 水の神。

一三 若い生産力の神。

一四 これも穀物の神。以上の神の系列は、野を燒いて耕作する生活を語る。

一五 實數四十神だが、男女一對の神を一として數えれば三十五になる。


黄泉よみの國〕

 かれここに伊耶那岐の命のりたまはく、「うつくしき汝妹なにもの命を、子の一木ひとつけへつるかも」とのりたまひて、御枕方みまくらべ匍匐はらば御足方みあとべに匍匐ひて、きたまふ時に、御涙に成りませる神は、香山かぐやま畝尾うねをの木のもとにます、名は泣澤女なきさはめの神。かれその神避りたまひし伊耶那美の神は、出雲の國と伯伎ははきの國との堺なる比婆ひばの山をさめまつりき。ここに伊耶那岐の命、御佩みはかし十拳とつかの劒を拔きて、その子迦具土かぐつちの神のくびを斬りたまひき。ここにその御刀みはかしさきに著ける血、湯津石村ゆついはむらたばしりつきて成りませる神の名は、石拆いはさくの神。次に根拆ねさくの神。次に石筒いはづつの神。次に御刀の本に著ける血も、湯津石村に走りつきて成りませる神の名は、甕速日みかはやびの神。次に樋速日ひはやびの神。次に建御雷たけみかづちの神。またの名は建布都たけふつの神、またの名は豐布都とよふつの神三神。次に御刀の手上たがみに集まる血、手俣たなまたよりて成りませる神の名は、闇淤加美くらおかみの神。次に闇御津羽くらみつはの神。上の件、石拆の神より下、闇御津羽の神より前、并
はせて八神は、御刀に因りて生りませる神なり。

 殺さえたまひし迦具土かぐつちの神の頭に成りませる神の名は、正鹿山津見まさかやまつみの神。次に胸に成りませる神の名は、淤縢山津見おとやまつみの神。次に腹に成りませる神の名は、奧山津見おくやまつみの神。次にほとに成りませる神の名は、闇山津見くらやまつみの神。次に左の手に成りませる神の名は、志藝山津見しぎやまつみの神。次に右の手に成りませる神の名は、羽山津美はやまつみの神。次に左の足に成りませる神の名は、原山津見はらやまつみの神。次に右の足に成りませる神の名は、戸山津見とやまつみの神。正鹿山津見の神より戸山津
見の神まで并はせて八神。
かれ斬りたまへる刀の名は、天の尾羽張をはばりといひ、またの名は伊都いつの尾羽張といふ。

 ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉國よもつくにに追ひでましき。ここに殿とのくみ一〇より出で向へたまふ時に、伊耶那岐の命語らひて詔りたまひしく、「うつくしき汝妹なにもの命、吾と汝と作れる國、いまだ作りへずあれば、還りまさね」と詔りたまひき。ここに伊耶那美の命の答へたまはく、「くやしかも、く來まさず。吾は黄泉戸喫よもつへぐひ一一しつ。然れども愛しき我が汝兄なせの命、入り來ませることかしこし。かれ還りなむを。しまらく黄泉神よもつかみあげつらはむ。我をな視たまひそ」と、かく白して、その殿内とのぬちに還り入りませるほど、いと久しくて待ちかねたまひき。かれ左の御髻みみづらに刺させる湯津爪櫛ゆつつまぐし一二の男柱一箇ひとつ取りきて、ひとともして入り見たまふ時に、うじたかれころろぎて一三、頭には大雷おほいかづち居り、胸にはの雷居り、腹には黒雷居り、ほとにはさく雷居り、左の手にはわき雷居り、右の手にはつち雷居り、左の足にはなる雷居り、右の足にはふし雷居り、并はせて八くさの雷神成り居りき。

 ここに伊耶那岐の命、かしこみて逃げ還りたまふ時に、その妹伊耶那美の命、「吾にはぢ見せつ」と言ひて、すなはち黄泉醜女よもつしこめ一四を遣して追はしめき。ここに伊耶那岐の命、黒御鬘くろみかづら一五を投げてたまひしかば、すなはち蒲子えびかづら一六りき。こをひりむ間に逃げでますを、なほ追ひしかば、またその右の御髻に刺させる湯津爪櫛を引き闕きて投げてたまへば、すなはちたかむな一七りき。こを拔きむ間に、逃げ行でましき。また後にはかの八くさの雷神に、千五百ちいほ黄泉軍よもついくさたぐへて追はしめき。ここに御佩みはかし十拳とつかの劒を拔きて、後手しりへできつつ逃げ來ませるを、なほ追ひて黄泉比良坂よもつひらさか一八の坂本に到る時に、その坂本なるもも三つをとりて持ち撃ちたまひしかば、悉に逃げ返りき。ここに伊耶那岐の命、ももりたまはく、「いまし、吾を助けしがごと、葦原の中つ國にあらゆるうつしき青人草一九の、き瀬に落ちて、患惚たしなまむ時に助けてよ」とのりたまひて、意富加牟豆美おほかむづみの命といふ名を賜ひき。最後いやはてにその妹伊耶那美の命、みづから追ひ來ましき。ここに千引のいはをその黄泉比良坂よもつひらさかに引きへて、その石を中に置きて、おのもおのもき立たして、事戸ことどわたす時二〇に、伊耶那美の命のりたまはく、「うつくしき汝兄なせの命、かくしたまはば、いましの國の人草、一日ひとひ千頭ちかしらくびり殺さむ」とのりたまひき。ここに伊耶那岐の命、詔りたまはく、「愛しき我が汝妹なにもの命、みまし然したまはば、は一日に千五百ちいほ産屋うぶやを立てむ」とのりたまひき。ここを以ちて一日にかならず千人ちたり死に、一日にかならず千五百人なも生まるる。

 かれその伊耶那美の命になづけて黄泉津よもつ大神といふ。またその追ひきしをもちて、道敷ちしきの大神二一ともいへり。またその黄泉よみの坂にさはれる石は、道反ちかへしの大神ともいひ、へます黄泉戸よみどの大神ともいふ。かれそのいはゆる黄泉比良坂よもつひらさかは、今、出雲の國の伊賦夜いぶや二二といふ。


一 奈良縣磯城郡の天の香具山。神話に實在の地名が出る場合は、大抵その神話の傳えられている地方を語る。

二 うねりのある地形の高み。

三 香具山の麓にあつた埴安の池の水神。泣澤の森そのものを神體としている。

四 廣島縣比婆郡に傳説地がある。

五 十つかみある長い劒。

六 神聖な岩石。以下神の系列によつて鐵鑛を火力で處理して刀劒を得ることを語る。イハサクの神からイハヅツノヲの神まで岩石の神靈。ミカハヤビ、ヒハヤビは火力。タケミカヅチノヲは劒の威力。クラオカミ、クラミツハは水の神靈。クラは溪谷。御刀の手上は、劒のつか。タケミカヅチノヲは五六頁、七四頁に神話がある。

七 以下各種の山の神。

八 幅の廣い劒の義。水の神と解せられ、五六頁に神話がある。別名のイツは、威力の意。

九 地下にありとされる空想上の世界。黄泉の文字は漢文から來る。

一〇 宮殿の閉してある戸。殿の騰戸とする傳えもある。

一一 黄泉の國の火で作つた食物を食つたので黄泉の人となつてしまつた。同一の火による團結の思想である。

一二 髮を左右に分けて耳の邊で輪にする。それにさした神聖な櫛。櫛は竹で作り魔よけとして女がさしてくれる。

一三 蛆がわいてゴロゴロ鳴つて。トロロギテとする傳えがあるが誤り。

一四 黄泉の國の見にくいばけものの女。

一五 植物を輪にして魔よけとして髮の上にのせる。

一六 山葡萄。

一七 筍。

一八 黄泉の國の入口にある坂。黄泉の國に向つて下る。墳墓の構造から來ている。

一九 現實にある人間。

二〇 日本書紀には絶妻の誓とある。言葉で戸を立てる。別れの言葉をいう。

二一 道路を追いかける神。

二二 島根縣八束郡。


〔身禊〕

 ここを以ちて伊耶那岐の大神の詔りたまひしく、「はいなしこめ醜めききたなき國に到りてありけり。かれ吾は御身おほみまはらへせむ」とのりたまひて、竺紫つくし日向ひむかの橘の小門をど阿波岐あはぎに到りまして、みそはらへたまひき。かれ投げつる御杖に成りませる神の名は、船戸ふなどの神。次に投げ棄つる御帶に成りませる神の名は、みち長乳齒ながちはの神。次に投げ棄つる御嚢みふくろに成りませる神の名は、時量師ときはかしの神。次に投げ棄つる御けしに成りませる神の名は、煩累わづらひ大人うしの神。次に投げ棄つる御はかまに成りませる神の名は、道俣ちまたの神。次に投げ棄つる御冠みかがふりに成りませる神の名は、飽咋あきぐひ大人うしの神。次に投げ棄つる左の御手の手纏たまきに成りませる神の名は、奧疎おきざかるの神。次に奧津那藝佐毘古おきつなぎさびこの神。次に奧津甲斐辨羅かひべらの神。次に投げ棄つる右の御手の手纏に成りませる神の名は、邊疎へざかるの神。次に邊津那藝佐毘古へつなぎさびこの神。次に邊津甲斐辨羅へつかひべらの神。

右のくだり船戸ふなどの神より下、邊津甲斐辨羅の神より前、十二神とをまりふたはしらは、身にけたる物を脱ぎうてたまひしに因りて、りませる神なり。

 ここに詔りたまはく、「かみは瀬速し、しもつ瀬は弱し」とりたまひて、初めてなかつ瀬にかづきて、滌ぎたまふ時に、成りませる神の名は、八十禍津日やそまがつびの神一〇。次に大禍津日おほまがつひの神。この二神ふたはしらは、かの穢きき國に到りたまひし時の、汚垢けがれによりて成りませる神なり。次にそのまがを直さむとして成りませる神の名は、神直毘かむなほびの神。次に大直毘おほなほびの神一一。次に伊豆能賣いづのめ一二。次に水底みなそこに滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、底津綿津見そこつわたつみの神一三。次に底筒そこづつの命。中に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、中津綿津見なかつわたつみの神。次に中筒なかづつの命。水の上に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、上津綿津見うはつわたつみの神。次に上筒うはづつの命。この三柱の綿津見の神は、阿曇あづみむらじ等が祖神おやがみいつく神なり。かれ阿曇の連等は、その綿津見の神の子宇都志日金拆うつしひがなさくの命の子孫のちなり。その底筒の男の命、中筒の男の命、上筒の男の命三柱の神は、すみの三前の大神一四なり。

 ここに左の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、天照あまてらす大御神おほみかみ。次に右の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、月讀つくよみの命一五。次に御鼻を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、建速須佐たけはやすさの命一六

右の件、八十禍津日やそまがつびの神より下、速須佐はやすさの命より前、十柱の神一七は、御身を滌ぎたまひしに因りてれませる神なり。

 この時伊耶那岐の命いたく歡ばして詔りたまひしく、「吾は子を生み生みて、生みのはてに、三柱の貴子うづみこを得たり」と詔りたまひて、すなはちその御頸珠みくびたまの玉の緒ももゆらに取りゆらかして一八、天照らす大御神に賜ひて詔りたまはく、「汝が命は高天の原を知らせ」と、言依ことよさして賜ひき。かれその御頸珠の名を、御倉板擧みくらたなの神一九といふ。次に月讀の命に詔りたまはく、「汝が命はをす二〇を知らせ」と、言依さしたまひき。次に建速須佐たけはやすさの命に詔りたまはく、「汝が命は海原を知らせ」と、言依さしたまひき。

 かれおのもおのもよさし賜へる命のまにま知らしめす中に、速須佐の男の命、依さしたまへる國を知らさずて、八拳須やつかひげ心前むなさきに至るまで、啼きいさちき二一。その泣くさまは、青山は枯山なす泣き枯らし河海うみかはことごとに泣きしき。ここを以ちてあらぶる神の音なひ二二狹蠅さばへなす皆滿ち、萬の物のわざはひ悉におこりき。かれ伊耶那岐の大御神、速須佐の男の命に詔りたまはく、「何とかもいましは言依させる國をらさずて、哭きいさちる」とのりたまへば、答へ白さく、「ははの國堅洲かたす二三に罷らむとおもふがからに哭く」とまをしたまひき。ここに伊耶那岐の大御神、いたく忿らして詔りたまはく、「然らば汝はこの國にはなとどまりそ」と詔りたまひて、すなはち神逐かむやらひにやらひたまひき二四。かれその伊耶那岐の大神は、淡路の多賀たが二五にまします。


一 大變見にくいきたない世界。

二 九州の諸地方に傳説地があるが不明。アハギは樹名だろうが不明。日本書紀に檍原と書く。

三 道路に立つて惡魔の來るのを追い返す神。柱の形であるから杖によつて成つたという。

四 道路の長さの神。道路そのものに威力ありとする思想。

五 時置師の神とも傳える。時間のかかる意であろう。

六 疲勞の神靈。

七 二股になつている道路の神。

八 口をあけて食う神靈。魔物をである。

九 以下は禊をする土地の説明。

一〇 災禍の神靈。

一一 災禍を拂つてよくする思想の神格化。曲つたものをまつすぐにするという形で表現している。

一二 威力のある女。巫女である。

一三 以下六神、海の神。安曇系と住吉系と二種の神話の混合。

一四 住吉神社の祭神。西方の海岸にこの神の信仰がある。

一五 月の神、男神。日本書紀にはこの神が保食うけもちの神(穀物の神)を殺す神話がある。

一六 暴風の神であり出雲系の英雄でもある。

一七 實數十四神。イヅノメと海神の一組三神とを除けば十神になる。

一八 頸にかけた珠の緒もゆらゆらとゆり鳴らして。

一九 棚の上に安置してある神靈の義。

二〇 夜の領國。神話は傳わらない。

二一 長い髯が胸元までのびるまで泣きわめいた。以下暴風の性質にもとづく敍述。

二二 亂暴な神の物音。暴風のさわぎ。

二三 死んだ母の國。イザナミの神の行つている黄泉の國である地下の堅い土の世界。暴風がみずから地下へ行こうと言つたとする。

二四 神が追い拂つた。暴風を父の神が放逐したとする思想。

二五 眞福寺本には淡海の多賀とする。イザナギの命の信仰は、淡路方面にひろがつていた。


〔二、天照らす大神と須佐の男の命〕


誓約うけひ

 かれここに速須佐の男の命、まをしたまはく、「然らば天照らす大御神にまをして罷りなむ」とまをして、天にまゐ上りたまふ時に、山川悉にとよみ國土皆りき。ここに天照らす大御神聞き驚かして、詔りたまはく、「我が汝兄なせの命の上り來ますゆゑは、かならずうるはしき心ならじ。我が國を奪はむとおもほさくのみ」と詔りたまひて、すなはち御髮みかみを解きて、御髻みみづらに纏かして、左右の御髻にも、御かづらにも、左右の御手にも、みな八尺やさか勾璁まがたま五百津いほつ御統みすまるの珠を纏き持たして、そびらには千入ちのりゆきを負ひ、ひらには五百入いほのりゆきを附け、またただむきには稜威いづ高鞆たかともを取り佩ばして、弓腹ゆばら振り立てて、堅庭は向股むかももに蹈みなづみ、沫雪なすはららかして、稜威の男建をたけび、蹈みたけびて、待ち問ひたまひしく、「何とかも上り來ませる」と問ひたまひき。ここに速須佐の男の命答へ白したまはく、「きたなき心無し。ただ大御神の命もちて、僕が哭きいさちる事を問ひたまひければ、白しつらく、僕はははの國になむとおもひて哭くとまをししかば、ここに大御神みましはこの國になとどまりそと詔りたまひて、神逐かむやらひ逐ひ賜ふ。かれ罷りなむとするさまをまをさむとおもひて參ゐ上りつらくのみ。しき心無し」とまをしたまひき。ここに天照らす大御神詔りたまはく、「然らばみましの心の清明あかきはいかにして知らむ」とのりたまひしかば、ここに速須佐の男の命答へたまはく、「おのもおのもうけひて子生まむ」とまをしたまひき。かれここにおのもおのも天の安の河を中に置きてうけふ時に、天照らす大御神まづ建速須佐の男の命のかせる十拳とつかつるぎを乞ひわたして、三段みきだに打ち折りて、ぬなとももゆらに一〇あめ眞名井まなゐ一一に振り滌ぎて、さみにみて、吹き棄つる氣吹いぶき狹霧さぎりに成りませる神の御名一二は、多紀理毘賣たぎりびめの命、またの御名は奧津島比賣おきつしまひめの命といふ。次に市寸島比賣いちきしまひめの命、またの御名は狹依毘賣さよりびめの命といふ。次に多岐都比賣たぎつひめの命一三三柱。速須佐の男の命、天照らす大御神の左の御髻みみづらかせる八尺やさか勾珠まがたま五百津いほつ御統みすまるの珠を乞ひ度して、ぬなとももゆらに、あめの眞名井に振り滌ぎて、さ齧みに齧みて、吹き棄つる氣吹の狹霧に成りませる神の御名は、正勝吾勝勝速日まさかあかつかちはやびあめ忍穗耳おしほみみの命一四。また右の御髻に纏かせる珠を乞ひ度して、さ齧みに齧みて、吹き棄つる氣吹の狹霧に成りませる神の御名は、天の菩卑ほひの命一五。また御鬘みかづらに纏かせる珠を乞ひ度して、さ齧みに齧みて、吹き棄つる氣吹の狹霧に成りませる神の御名は、天津日子根あまつひこねの命一六。また左の御手にかせる珠を乞ひ度して、さ齧みに齧みて、吹き棄つる氣吹の狹霧に成りませる神の御名は、活津日子根いくつひこねの命。また右の御手に纏かせる珠を乞ひ度して、さ齧みに齧みて、吹き棄つる氣吹の狹霧に成りませる神の御名は、熊野久須毘くまのくすびの命一七并はせて
五柱。

 ここに天照らす大御神、速須佐はやすさの男の命にりたまはく、「この後にれませる五柱の男子ひこみこは、物實ものざね我が物に因りて成りませり。かれおのづから吾が子なり。先に生れませる三柱の女子ひめみこは、物實いましの物に因りて成りませり。かれすなはち汝の子なり」と、かくり別けたまひき。

 かれその先に生れませる神、多紀理毘賣たきりびめの命は、胷形むなかた奧津おきつ一八にます。次に市寸島比賣いちきしまひめの命は胷形の中津なかつ宮にます一九。次に田寸津比賣たぎつひめの命は、胷形の邊津へつ宮にます。この三柱の神は、胷形の君等がもちいつ三前みまへの大神なり。

 かれこの後にれませる五柱の子の中に、天の菩比ほひの命の子建比良鳥たけひらとりの命、こは出雲の國のみやつこ无耶志むざしの國の造、かみ菟上うなかみの國の造、しも菟上うなかみの國の造、伊自牟いじむの國の造、津島つしまあがたあたへ遠江とほつあふみの國の造等がおやなり。次に天津日子根あまつひこねの命は、凡川内おふしかふちの國の造、額田部ぬかたべ湯坐ゆゑむらじの國の造、やまとの田中のあたへ山代やましろの國の造、馬來田うまくたの國の造、みち尻岐閇しりきべの國の造、周芳すはの國の造、やまと淹知あむちみやつこ高市たけち縣主あがたぬし蒲生かまふ稻寸いなぎ三枝部さきくさべの造等が祖なり。


一 暴風の襲來する有樣で、歴史的には出雲族の襲來を語る。

二 男裝される。

三 大きな曲玉の澤山を緒に貫いたもの。曲玉は、玉の威力の發動の思想を表示する。

四 千本の矢を入れて背負う武具。

五 胸のたいらな所。

六 威勢のよい音のする鞆。トモは皮で球形に作り左の手にはめて弓を引いた時にそれに當つて音が立つようにする武具。

七 威勢のよい叫び。

八 神に誓つて神意を伺う儀式。種々の方法があり夢が多く使われる。ここは生まれた子の男女の別によつて神意を伺う。

九 高天の原にありとする川。滋賀縣の野洲やす川だともいう。明日香川の古名か。

一〇 玉の音もさやかに。

一一 神聖な水の井。

一二 以上の行爲は、身を清めるために行う。劒を振つて水を清めてその水を口に含んで吐く霧の中に神靈が出現するとする。以下は劒が玉に變つているだけ。

一三 以上の三女神は福岡縣の宗像むなかた神社の神。

一四 皇室の御祖先と傳える。

一五 出雲氏等の祖先。

一六 主として近畿地方に居住した諸氏の祖先。各種の系統の祖先が、この行事によつて出現したとするのは民族が同一祖から出たとする思想である。

一七 出雲の國の熊野神社の神。

一八 福岡縣の海上日本海の沖の島にある。

一九 福岡縣の海上大島にある。


〔天の岩戸〕

 ここに速須佐の男の命、天照らす大御神に白したまひしく、「我が心清明あかければ我が生める子手弱女たわやめを得つ。これに因りて言はば、おのづから我勝ちぬ」といひて、勝さびに天照らす大御神の營田みつくた離ち、その溝み、またその大にへ聞しめす殿にくそまり散らしき。かれ然すれども、天照らす大御神は咎めずて告りたまはく、「くそなすはひて吐き散らすとこそ我が汝兄なせの命かくしつれ。また田の離ち溝むは、ところあたらしとこそ我が汝兄なせの命かくしつれ」と詔り直したまへども、なほそのあらぶるわざ止まずてうたてあり。天照らす大御神の忌服屋いみはたやにましまして神御衣かむみそ織らしめたまふ時に、その服屋はたやむねを穿ちて、天の斑馬むちこま逆剥さかはぎに剥ぎて墮し入るる時に、天の衣織女みそおりめ見驚きて陰上ほとを衝きて死にき。かれここに天照らす大御神かしこみて、天の石屋戸いはやどを開きてさしこもりましき。ここに高天たかまの原皆暗く、葦原あしはらの中つ國悉に闇し。これに因りて、常夜とこよ往く。ここによろづの神のおとなひは、さばへなす滿ち、萬のわざはひ悉におこりき。ここを以ちて八百萬の神、天の安の河原に神集かむつどつどひて、高御産巣日たかみむすびの神の子思金おもひがねの神に思はしめて、常世とこよ長鳴ながなき一〇つどへて鳴かしめて、天の安の河の河上の天の堅石かたしはを取り、天の金山かなやままがねを取りて、鍛人かぬち天津麻羅あまつまらぎて、伊斯許理度賣いしこりどめの命におほせて、鏡を作らしめ、玉のおやの命に科せて八尺のまが璁の五百津いほつ御統みすまるの珠を作らしめて天の兒屋こやねの命布刀玉ふとだまの命をびて、天の香山かぐやま眞男鹿さをしかの肩を内拔うつぬきに拔きて一一、天の香山の天の波波迦ははか一二を取りて、占合うらへまかなはしめて一三、天の香山の五百津の眞賢木まさかき根掘ねこじにこじて一四上枝ほつえに八尺の勾璁の五百津の御統の玉を取りけ、中つ枝に八尺やたの鏡を取りけ、下枝しづえ白和幣しろにぎて青和幣あをにぎてを取りでて一五、この種種くさぐさの物は、布刀玉の命太御幣ふとみてぐらと取り持ちて、天の兒屋の命太祝詞ふとのりと言祷ことほぎ白して、天の手力男たぢからをの神一六、戸のわきに隱り立ちて、天の宇受賣うずめの命、天の香山の天の日影ひかげ手次たすきけて、天の眞拆まさきかづらとして一七、天の香山の小竹葉ささば手草たぐさに結ひて一八、天の石屋戸いはやど覆槽うけ伏せて一九蹈みとどろこし、神懸かむがかりして、胷乳むなちを掛き出で、ひもほとに押し垂りき。ここに高天の原とよみて八百萬の神共にわらひき。

 ここに天照らす大御神あやしとおもほして、天の石屋戸をほそめに開きて内よりりたまはく、「こもりますに因りて、天の原おのづからくらく、葦原の中つ國も皆闇けむと思ふを、なにとかも天の宇受賣うずめあそびし、また八百萬の神もろもろわらふ」とのりたまひき。ここに天の宇受賣白さく、「汝命いましみことまさりてたふとき神いますが故に、歡喜よろこわらあそぶ」と白しき。かく言ふ間に、天の兒屋の命、布刀玉の命、その鏡をさし出でて、天照らす大御神に見せまつる時に、天照らす大御神いよよあやしと思ほして、やや戸より出でて臨みます時に、そのかくり立てる手力男の神、その御手を取りて引き出だしまつりき。すなはち布刀玉の命、尻久米しりくめ二〇をその御後方みしりへき度して白さく、「ここより内にな還り入りたまひそ」とまをしき。かれ天照らす大御神の出でます時に、高天の原と葦原の中つ國とおのづから照り明りき。ここに八百萬の神共にはかりて、速須佐の男の命に千座ちくら置戸おきどを負せ二一、またひげと手足の爪とを切り、祓へしめて、神逐かむやらひ逐ひき。


一 自分が清らかだから女子を得たとする。日本書紀では反對に、男子が生まれたらスサノヲの命が潔白であるとしている。古事記の神話が女子によつて語られたとする證明になるところ。オシホミミの命の出現によつて勝つたとするのが原形だろう。

二 勝にまかせて。

三 田の畦を破り溝を埋め、また御食事をなされる宮殿に不淨の物をまき散らすので、皆暴風の災害である。

四 清淨な機おり場。

五 これも暴風の災害。

六 機おる時に横絲を卷いて縱絲の中をくぐらせる道具。

七 イハは堅固である意を現すためにつけていう。墳墓の入口の石の戸とする説もある。

八 永久の夜が續く。

九 思慮智惠の神格化。

一〇 鷄。常世は、恒久の世界の義で、空想上の世界から轉じて海外をいう。

一一 香具山の鹿の肩の骨をそつくり拔いて。

一二 樹名、カバノキ。これで鹿骨を燒く。

一三 占いをし適合させて。卜占によつて祭の實行方法を定める。

一四 香具山の繁つた木を根と共に掘つて。マサカキは繁つた常緑木で、今いうツバキ科の樹名サカキに限らない。神聖な清淨な木を引く意味で、山から採つてくる。

一五 サカキに玉と鏡と麻楮をつけるのは、神靈を招く意の行事で、他の例では劒をもつける。シラニギテはコウゾ、アヲニギテはアサ。

一六 力の神格。

一七 ヒカゲカズラを手次たすきにかけ、マサキノカズラをカヅラにする。神がかりをするための用意。

一八 小竹の葉をつけて手で持つ。

一九 中のうつろの箱のようなものを伏せて。

二〇 シメ繩。出入禁止の意の表示。

二一 罪を犯した者に多くの物を出させる。


〔三、須佐の男の命〕


〔穀物の種

 また食物をしもの大氣都比賣おほげつひめの神に乞ひたまひき。ここに大氣都比賣、鼻口また尻より、種種の味物ためつものを取り出でて、種種作り具へてたてまつる時に、速須佐の男の命、そのしわざを立ち伺ひて、穢汚きたなくして奉るとおもほして、その大宜津比賣おほげつひめの神を殺したまひき。かれ殺さえましし神の身にれる物は、頭に生り、二つの目に稻種いなだね生り、二つの耳に粟生り、鼻に小豆あづき生り、ほとに麥生り、尻に大豆まめ生りき。かれここに神産巣日かむむすび御祖みおやの命、こを取らしめて、種と成したまひき。


一 この一節は插入神話である。文章が前の章からよく接續しないことに注意。オホゲツヒメは穀物の女神。既出。

二 うまい物。


〔八俣の大蛇〕

 かれ避追やらはえて、出雲の國の肥の河上、名は鳥髮とりかみといふところあもりましき。この時に、箸その河ゆ流れ下りき。ここに須佐の男の命、その河上に人ありとおもほして、ぎ上り往でまししかば、老夫おきな老女おみなと二人ありて、童女をとめを中に置きて泣く。ここに「汝たちは誰そ」と問ひたまひき。かれその老夫、答へてまをさく「は國つ神大山津見おほやまつみの神の子なり。僕が名は足名椎あしなづちといひが名は手名椎てなづちといひ、むすめが名は櫛名田比賣くしなだひめといふ」とまをしき。また「汝の哭く故は何ぞ」と問ひたまひしかば、答へ白さく「我が女はもとより八稚女をとめありき。ここに高志こし八俣やまた大蛇をろち、年ごとに來てふ。今その來べき時なれば泣く」とまをしき。ここに「その形はいかに」と問ひたまひしかば、「そが目は赤かがちの如くにして身一つに八つのかしら八つの尾あり。またその身にこけまた檜榲ひすぎ生ひ、そのたけたに八谷を度りて、その腹を見れば、悉に常に垂りただれたり」とまをしき。ここに赤かがちと云へ
るは、今の酸醤なり。
ここに速須佐の男の命、その老夫に詔りたまはく、「これいましが女ならば、吾に奉らむや」と詔りたまひしかば、「恐けれど御名を知らず」と答へまをしき。ここに答へて詔りたまはく、「吾は天照らす大御神のいろせなり。かれ今天より降りましつ」とのりたまひき。ここに足名椎あしなづち手名椎てなづちの神、「然まさばかしこし、奉らむ」とまをしき。

 ここに速須佐の男の命、その童女をとめ湯津爪櫛ゆつつまぐしに取らして、御髻みみづらに刺さして、その足名椎、手名椎の神に告りたまはく、「汝等いましたち八鹽折やしほりの酒を、また垣を作り𢌞もとほし、その垣に八つの門を作り、門ごとに八つの假庪さずき、その假庪ごとに酒船一〇を置きて、船ごとにその八鹽折の酒を盛りて待たさね」とのりたまひき。かれ告りたまへるまにまにして、かくけ備へて待つ時に、その八俣やまた大蛇をろちまことに言ひしがごと來つ。すなはち船ごとにおのが頭を乘り入れてその酒を飮みき。ここに飮み醉ひて留まり伏し寢たり。ここに速須佐の男の命、その御佩みはかし十拳とつかの劒を拔きて、その蛇を切りはふりたまひしかば、の河血にりて流れき。かれその中の尾を切りたまふ時に、御刀みはかしの刃けき。ここに怪しと思ほして、御刀のさきもちて刺し割きて見そなはししかば、都牟羽つむはの大刀一一あり。かれこの大刀を取らして、しき物ぞと思ほして、天照らす大御神に白し上げたまひき。こは草薙くさなぎの大刀一二なり。

 かれここを以ちてその速須佐の男の命、宮造るべきところを出雲の國にぎたまひき。ここに須賀すが一三の地に到りまして詔りたまはく、「吾に來て、が御心清淨すがすがし」と詔りたまひて、其地そこに宮作りてましましき。かれ其地そこをば今に須賀といふ。この大神、初め須賀の宮作らしし時に、其地そこより雲立ち騰りき。ここに御歌よみしたまひき。その歌、

や雲立つ  出雲八重垣。

妻隱つまごみに  八重垣作る。

その八重垣を一四。  (歌謠番號一)

 ここにその足名椎の神をしてりたまはく、「いましをば我が宮のおびとけむ」と告りたまひ、また名を稻田いなだ宮主みやぬし須賀すが八耳やつみみの神と負せたまひき。


一 島根縣仁多郡、斐伊川の上流船通山。

二 日本書紀に奇稻田姫とある。

三 強暴な者の譬喩。また出水としそれを處理して水田を得た意の神話ともする。コシは、島根縣内の地名説もあるが、北越地方の義とすべきである。

四 タンバホオズキ。

五 身長が、谷八つ、高み八つを越える。

六 血がしたたつて。

七 女が魂をこめた櫛を男のミヅラにさす。これは婚姻の風習で、その神祕な表現。

八 濃い酒を作つて。

九 サズキは物をのせる臺。古代は綱で材木を結んで作るから、結うという。

一〇 酒の入物。フネは箱状のもの。

一一 ツムハは語義不明。都牟刈とする傳えもある。

一二 後にヤマトタケルの命が野の草を薙いで火難を免れたから、クサナギの劒という。もと叢雲むらくもの劒という。三種の神器の一。

一三 島根縣大原郡。

一四 や雲立つは枕詞。多くの雲の立つ意。八重垣は、幾重もの壁や垣の意で宮殿をいう。最後のヲは、間投の助詞。


〔系譜〕

 その櫛名田比賣くしなだひめ隱處くみどに起して、生みませる神の名は、八島士奴美やしまじぬみの神。また大山津見の神のむすめ名は神大市かむおほち比賣にひて生みませる子、大年おほとしの神、次に宇迦うか御魂みたま二柱みあに八島士奴美の神、大山津見の神の女、名ははな知流ちる比賣にひて生みませる子、布波能母遲久奴須奴ふはのもぢくぬすぬの神。この神淤迦美おかみの神の女、名は日河ひかは比賣に娶ひて生みませる子、深淵ふかふち水夜禮花みづやれはなの神。この神天の都度閇知泥つどへちねの神に娶ひて生みませる子、淤美豆奴おみづぬの神。この神布怒豆怒ふのづのの神の女、名は布帝耳ふてみみの神に娶ひて生みませる子、天の冬衣ふゆぎぬの神、この神刺國大さしくにおほの神の女、名は刺國若比賣に娶ひて生みませる子、大國主の神。またの名は大穴牟遲おほあなむぢの神といひ、またの名は葦原色許男あしはらしこをの神といひ、またの名は八千矛やちほこの神といひ、またの名は宇都志國玉うつしくにたまの神といひ、并はせて五つの名あり。


一 隱れた處に事を起して。婚姻して。以下スサノヲの命の子孫の系譜であるが大年の神とウカノミタマの神とは穀物の神で下の五二頁に出る系譜の準備になる。その條參照。

二 出雲國風土記に諸地方の土地を引いて來たという國引の神話を傳える八束水臣津野の命。

三 古代出雲の英雄で國土の神靈の意。代々オホクニヌシでありその一人が英雄であつたのだろう。以下の別名はそれぞれその名による神話がありすべてを同一神と解したものであろう。


〔四、大國主の神〕


〔菟と鰐〕

 かれこの大國主の神の兄弟はらから八十やそましき。然れどもみな國は大國主の神にりまつりき。避りし所以ゆゑは、その八十神おのもおのも稻羽いなば八上やかみ比賣よばはむとする心ありて、共に稻羽に行きし時に、大穴牟遲おほあなむぢの神にふくろを負せ、從者ともびととしてて往きき。ここに氣多けたさきに到りし時に、あかはだなるうさぎ伏せり。ここに八十神その菟に謂ひて云はく、「いましまくは、この海鹽うしほを浴み、風の吹くに當りて、高山の尾の上に伏せ」といひき。かれその菟、八十神の教のまにまにして伏しつ。ここにその鹽の乾くまにまに、その身の皮悉に風に吹きかえき。かれ痛みて泣き伏せれば、最後いやはてに來ましし大穴牟遲の神、その菟を見て、「何とかも汝が泣き伏せる」とのりたまひしに、菟答へて言さく「あれ淤岐おきの島にありて、このくにに度らまくほりすれども、度らむよしなかりしかば、海の鰐を欺きて言はく、われいましと競ひてやからの多き少きを計らむ。かれ汝はその族のありのことごとて來て、この島より氣多けたさきまで、みなみ伏し度れ。ここに吾その上を蹈みて走りつつ讀み度らむ。ここに吾が族といづれか多きといふことを知らむと、かく言ひしかば、欺かえてみ伏せる時に、吾その上を蹈みて讀み度り來て、今つちに下りむとする時に、吾、いましは我に欺かえつと言ひをはれば、すなはち最端いやはてに伏せる鰐、あれを捕へて、悉に我が衣服きものを剥ぎき。これに因りて泣き患へしかば、先だちて行でましし八十神の命もちてをしへたまはく、海鹽うしほを浴みて、風に當りて伏せとのりたまひき。かれ教のごとせしかば、が身悉にそこなはえつ」とまをしき。ここに大穴牟遲の神、その菟に教へてのりたまはく、「今くこの水門みなとに往きて、水もちて汝が身を洗ひて、すなはちその水門のかまはなを取りて、敷き散して、その上にまろびなば、汝が身本のはだのごと、かならずえなむ」とのりたまひき。かれ教のごとせしかば、その身本の如くになりき。こは稻羽いなば素菟しろうさぎといふものなり。今には菟神といふ。かれその菟、大穴牟遲の神に白さく、「この八十神は、かならず八上やがみ比賣を得じ。ふくろを負ひたまへども、汝が命ぞ獲たまはむ」とまをしき。

 ここに八上やがみ比賣、八十神に答へて言はく、「吾は汝たちの言を聞かじ、大穴牟遲の神にはむ」といひき。


一 多くの神。神話にいう兄弟は、眞實の兄弟ではない。

二 鳥取縣八頭郡八上の地にいた姫。

三 七福神の大黒天を大國主の神と同神とする説のあるのは、大國と大黒と字音が同じなのと、ここに袋を背負つたことがあるからであるが、大黒天はもとインドの神で別である。

四 島根縣氣高郡末恒村の日本海に出た岬角。

五 日本海の隱岐の島。ただし氣多の前の海中にも傳説地がある。

六 フカの類。やがてその知識に、蛇、龜などの要素を取り入れて想像上の動物として發達した。フカの實際を知らない者が多かつたからである。

七 カマの花粉。


〔𧏛貝比賣と蛤貝比賣〕

 かれここに八十神忿いかりて、大穴牟遲の神を殺さむとあひはかりて、伯伎ははきの國の手間てまの山本に至りて云はく、「この山に赤猪あかゐあり、かれ我どち追ひ下しなば、汝待ち取れ。もし待ち取らずは、かならず汝を殺さむ」といひて、火もちて猪に似たる大石を燒きて、まろばし落しき。ここに追ひ下し取る時に、すなはちその石に燒きかえてせたまひき。ここにその御祖みおやの命哭き患へて、天にまゐのぼりて、神産巣日かむむすびの命にまをしたまふ時に、𧏛貝きさがひ比賣と蛤貝うむがひ比賣とを遣りて、作り活かさしめたまひき。ここに𧏛貝比賣きさげ集めて、蛤貝比賣待ちけて、おも乳汁ちしると塗りしかばうるはしき壯夫をとこになりて出であるきき。


一 鳥取縣西伯郡天津村。

二 母の神。

三 赤貝の汁をしぼつてはまぐりの貝に受け入れて母の乳汁として塗つた。古代の火傷の療法である。


〔根の堅州國〕

 ここに八十神見てまた欺きて、山にて入りて、大樹を切り伏せ、茹矢ひめやをその木に打ち立て、その中に入らしめて、すなはちその氷目矢ひめやを打ち離ちて、ち殺しき。ここにまたその御祖、哭きつつぎしかば、すなはち見得て、その木をきて、取り出で活して、その子に告りて言はく、「汝ここにあらば、遂に八十神にころさえなむ」といひて、木の國大屋毘古おほやびこの神御所みもとに違へ遣りたまひき。ここに八十神ぎ追ひいたりて、矢刺して乞ふ時に、木のまたよりき逃れてにき。御祖の命、子に告りていはく、「須佐の男の命のまします堅州かたすにまゐ向きてば、かならずその大神はかりたまひなむ」とのりたまひき。かれ詔命みことのまにまにして須佐の男の命の御所みもとに參ゐ到りしかば、その女須勢理毘賣すせりびめ出で見て、目合まぐはひしてひまして、還り入りてその父に白して言さく、「いと麗しき神來ましつ」とまをしき。ここにその大神出で見て、「こは葦原色許男あしはらしこをの命といふぞ」とのりたまひて、すなはち喚び入れて、そのへみむろやに寢しめたまひき。ここにそのみめ須勢理毘賣すせりびめの命、蛇のひれをその夫に授けて、「その蛇はむとせば、このひれを三たびりて打ちはらひたまへ」とまをしたまひき。かれ教のごとせしかば、蛇おのづから靜まりぬ。かれやすく寢て出でましき。また來る日の夜は、呉公むかでと蜂とのむろやに入れたまひしを、また呉公むかで蜂のひれを授けて、先のごと教へしかば、やすく出でたまひき。また鳴鏑なりかぶらを大野の中に射入れて、その矢を採らしめたまひき。かれその野に入りましし時に、すなはち火もちてその野を燒き𢌞らしつ。ここに出づる所を知らざる間に、鼠來ていはく、「内はほらほら、はすぶすぶ」と、かく言ひければ、其處そこを踏みしかば、落ち隱り入りし間に、火は燒け過ぎき。ここにその鼠、その鳴鏑なりかぶらひて出で來て奉りき。その矢の羽は、その鼠の子どもみな喫ひたりき。

 ここにそのみめ須世理毘賣すせりびめは、はふりもの一〇を持ちて哭きつつ來まし、その父の大神は、すでにせぬと思ほして、その野に出でたたしき。ここにその矢を持ちて奉りし時に、家に率て入りて、八田間やたまの大室一一に喚び入れて、そのかしらしらみを取らしめたまひき。かれその頭を見れば、呉公むかでさはにあり。ここにその妻、むくの木の實と赤土はにとを取りて、その夫に授けつ。かれその木の實を咋ひ破り、赤土はにふくみてつばき出だしたまへば、その大神、呉公むかでを咋ひ破りて唾き出だすとおもほして、心にしとおもほしてみねしたまひき。ここにその神の髮をりて、その室のたりきごとに結ひ著けて、五百引いほびきいは一二を、その室の戸に取りへて、そのみめ須世理毘賣を負ひて、すなはちその大神の生大刀いくたち生弓矢いくゆみや一三またその天の沼琴ぬごと一四を取り持ちて、逃げ出でます時に、その天の沼琴樹にれて地動鳴なりとよみき。かれそのみねしたまへりし大神、聞き驚かして、その室を引きたふしたまひき。然れども椽に結へる髮を解かす間に遠く逃げたまひき。かれここに黄泉比良坂よもつひらさかに追ひ至りまして、はるかみさけて、大穴牟遲おほあなむぢの神を呼ばひてのりたまはく、「その汝が持てる生大刀生弓矢もちて汝が庶兄弟あにおとどもをば、坂の御尾に追ひ伏せ、また河の瀬に追ひはらひて、おれ一五大國主の神となり、また宇都志國玉うつしくにたまの神一六となりて、その我が女須世理毘賣を嫡妻むかひめとして、宇迦うかの山一七の山本に、底津石根そこついはねに宮柱太しり、高天の原に氷椽ひぎ高しりて一八居れ。このやつこ」とのりたまひき。かれその大刀弓を持ちて、その八十神を追ひくる時に、坂の御尾ごとに追ひ伏せ、河の瀬ごとに追ひ撥ひて國作り始めたまひき一九

 かれその八上比賣は先のちぎりのごとみとあたはしつ二〇。かれその八上比賣は、て來ましつれども、その嫡妻むかひめ須世理毘賣をかしこみて、その生める子をば、木のまたに刺し挾みて返りましき。かれその子に名づけて木の俣の神といふ、またの名は御井みゐの神といふ。


一 クサビ形の矢。氷目矢とあるも同じ。

二 紀伊の國(和歌山縣)

三 家屋の神。イザナギ、イザナミの生んだ子の中にあつた。ただしスサノヲの命の子とする説がある。

四 既出、地下の國。

五 互に見合うこと。

六 古代建築にはムロ型とス型とある。ムロは穴を掘つて屋根をかぶせた形のもので濕氣の多い地では蟲のつくことが多い。スは足をつけて高く作る。どちらも原住地での習俗を移したものだろうが、ムロ型は亡びた。

七 蛇を支配する力のあるヒレ。ヒレは、白い織物で女子が頸にかける。これを振ることによつて威力が發生する。次のヒレも同じ。

八 射ると鳴りひびくように作つた矢。

九 入口は狹いが内部は廣い。古墳のあとだろうという。

一〇 葬式の道具。

一一 柱間の數の多い大きな室。

一二 五百人で引くほどの巨石。

一三 生命の感じられる大刀弓矢。

一四 美しいりつぱな琴。

一五 親愛の第二人稱。

一六 現實にある國土の神靈。

一七 島根縣出雲市出雲大社の東北の御埼山。

一八 壯大な宮殿建築をする意の常用句。地底の石に柱をしつかと建て、空中に高く千木をあげて作る。ヒギ、チギともいう。屋上に交叉して突出している材。今では神社建築に見られる。

一九 國土經營をはじめた。

二〇 婚姻した。


〔八千矛の神の歌物語〕

 この八千矛やちほこの神高志こしの國の沼河比賣ぬなかはひめよばはむとしてでます時に、その沼河比賣の家に到りて歌よみしたまひしく、

八千矛やちほこの 神の命は、

八島國 妻ぎかねて、

遠遠し 高志こしの國に

さかを ありと聞かして、

くはを ありとこして、

よばひに あり立たし

婚ひに あり通はせ、

大刀が緒も いまだ解かずて、

おすひをも いまだ解かね

孃子をとめの すや板戸を

そぶらひ が立たせれば、

引こづらひ が立たせれば、

青山に ぬえは鳴きぬ。

つ鳥 雉子きぎしとよむ。

庭つ鳥 かけは鳴く。

うれたくも 鳴くなる鳥か。

この鳥も うちめこせね。

いしたふや一〇 天馳使あまはせづかひ一一

事の 語りごとも こをば一二。  (歌謠番號二)

 ここにその沼河日賣ぬなかはひめ、いまだ戸をひらかずて内より歌よみしたまひしく、

八千矛やちほこの 神の命。

ぬえくさの一三 にしあれば、

が心 浦渚うらすの鳥ぞ一四

今こそは 鳥にあらめ。

後は 汝鳥などりにあらむを、

命は なせたまひそ一五

いしたふや 天馳使、

事の 語りごとも こをば。  (歌謠番號三)

青山に 日が隱らば、

ぬばたまの一六 夜は出でなむ。

朝日の み榮え來て、

𣑥綱たくづの一七 白きただむき

沫雪の一八 わかやる胸を

だたき 叩きまながり

眞玉手 玉手差し

もも長に 宿さむを。

あやに な戀ひきこし一九

八千矛の 神の命。

事の 語りごとも こをば。  (歌謠番號四)

 かれその夜は合はさずて、明日くるつひの夜御合みあひしたまひき。

 またその神の嫡后おほぎさき須勢理毘賣すせりびめの命、いたく嫉妬うはなりねた二〇したまひき。かれその日子ひこぢの神二一びて、出雲よりやまとの國に上りまさむとして、裝束よそひし立たす時に、片御手は御馬みまの鞍にけ、片御足はその御鐙みあぶみに蹈み入れて、歌よみしたまひしく、

ぬばたまの 黒き御衣みけし

まつぶさに 取りよそ二二

おきつ鳥二三 むな見る時、

たたぎ二四も これはふさはず、

つ浪 そに脱きて、

鴗鳥そにどり二五 青き御衣みけし

まつぶさに 取り裝ひ

奧つ鳥 胸見る時、

羽たたぎも こもふさはず、

邊つ浪 そに脱きて、

山縣二六に きし あたねつき二七

そめ木がしるに 染衣しめごろも

まつぶさに 取り裝ひ

奧つ鳥 胸見る時、

羽たたぎも しよろし。

いとこやの二八 妹の命二九

むら鳥の三〇 が群れなば、

引け鳥三一の 吾が引け往なば、

泣かじとは は言ふとも、

山跡やまとの 一本ひともとすすき

うなかぶ三二 汝が泣かさまく三三

朝雨の さ三四霧にたむぞ。

若草の三五 つまの命。

事の 語りごとも こをば。  (歌謠番號五)

 ここにそのきささ 大御酒杯さかづきを取らして、立ち依りげて、歌よみしたまひしく、

八千矛の 神の命や、

が大國主。

こそは にいませば、

うち𢌞三六 島三七の埼埼

かき𢌞る 磯の埼おちず三八

若草の つま持たせらめ三九

はもよ にしあれば、

四〇 は無し。

を除て つまは無し。

文垣あやかきの ふはやが下に四一

蒸被むしぶすま にこやが下に四二

𣑥被たくぶすま さやぐが下に四三

沫雪あわゆきの わかやる胸を

𣑥綱たくづのの 白きただむき

だたき 叩きまながり四四

ま玉手 玉手差し

股長ももながに をしなせ。

豐御酒とよみき たてまつらせ四五。  (歌謠番號六)

 かく歌ひて、すなはちうきひして四六項懸うながけりて四七、今に至るまで鎭ります。こを神語かむがたり四八といふ。


一 多くの武器のある神の義。大國主の神の別名。三八頁參照。

二 北越の沼河の地の姫。ヌナカハは今の糸魚川町附近だという。

三 男子が夜間女子の家を訪れるのが古代の婚姻の風習である。

四 ヨバヒは、呼ぶ義で婚姻を申し入れる意。サは接頭語。アリタタシは、お立ちになつて。動詞の上につけるアリは在りつつの意。タタシは立つの敬語。

五 オスヒをもまだ解かないのに。オスヒは通例の服裝の上に著る衣服。禮裝、旅裝などに使用する。トカネは解かないのにの意。

六 ナスは寢るの敬語。ヤは感動の助詞で調子をつけるために使う。

七 押しゆすぶつて。

八 今トラツグミという鳥。夜間飛んで鳴く。

九 歎かわしいことに。

一〇 イ下フで、下方にいる意だろう。イは接頭語。ヤは感動の助詞。

一一 走り使いをする部族。アマは神聖なの意につける。この種の歌を語り傳える部族。

一二 この事をば。この通りです。

一三 譬喩による枕詞。なえた草のような。

一四 水鳥です。おちつかない譬喩。

一五 おなくなりなさるな。

一六 譬喩による枕詞。カラスオウギの實は黒いから夜に冠する。

一七 同前。楮で作つた綱は白い。

一八 同前。アワのような大きな雪。

一九 たいへんに戀をなさいますな。

二〇 第二の妻に對する憎み。

二一 夫の神。

二二 十分に著用して。

二三 譬喩による枕詞。水鳥のように胸をつき出して見る。

二四 奧つ鳥と言つたので、その縁でいう。身のこなし。

二五 譬喩による枕詞。カワセミ。青い鳥。

二六 山の料地。

二七 アタネは、アカネに同じというが不明。アカネはアカネ科の蔓草。根をついてアカネ色の染料をとる。

二八 イトコは親愛なる人。ヤは接尾語。

二九 女子の敬稱。

三〇 譬喩による枕詞。

三一 同前。空とおく引き去る鳥。

三二 首をかしげて。うなだれて。

三三 お泣きになることは。マクは、ムコトに相當する。

三四 眞福寺本、サに當る字が無い。

三五 譬喩による枕詞。

三六 このミルは、原文「微流」。微は、古代のミの音聲二種のうちの乙類に屬し、甲類の見るのミの音聲と違う。それで𢌞る意であり、ここは𢌞つているの意有坂博士で次の語を修飾する。

三七 シマは水面に臨んだ土地。はなれ島には限らない。

三八 磯の突端のどこでも。

三九 お持ちになつているでしよう。モタセ、持ツの敬語の命令形。ラ、助動詞の未然形。メ、助動詞ムの已然形で、上の係助詞コソを受けて結ぶ。

四〇 汝をおいては。

四一 織物のトバリのふわふわした下で。

四二 あたたかい寢具のやわらかい下で。

四三 楮の衾のざわざわする下で。

四四 叩いて抱きあい。

四五 めしあがれ。奉るの敬語の命令形。

四六 酒盃をとりかわして約束して。

四七 首に手をかけて。

四八 以上の歌の名稱で、以下この種の名稱が多く出る。これは歌曲として傳えられたのでその歌曲としての名である。この八千矛の神の贈答の歌曲は舞を伴なつていたらしい。


〔系譜〕

 かれこの大國主の神、胷形むなかた奧津宮おきつみやにます神、多紀理毘賣の命ひて生みませる子、阿遲鉏高日子根あぢすきたかひこねの神。次に妹高比賣たかひめの命。またの名は下光したて比賣ひめの命。この阿遲鉏高日子根の神は、今迦毛かもの大御神といふ神なり。

 大國主の神、また神屋楯かむやたて比賣の命に娶ひて生みませる子、事代ことしろ主の神。また八島牟遲やしまむぢの神の女鳥取とりとりの神に娶ひて生みませる子、鳥鳴海とりなるみの神。この神、日名照額田毘道男伊許知邇ひなてりぬかたびちをいこちにの神に娶ひて生みませる子、國忍富くにおしとみの神。この神、葦那陀迦あしなだかの神またの名は八河江比賣やがはえひめに娶ひて生みませる子、連甕つらみか多氣佐波夜遲奴美たけさはやぢぬみの神。この神、天の甕主みかぬしの神の女前玉比賣さきたまひめに娶ひて生みませる子、甕主日子みかぬしひこの神。この神、淤加美おかみの神の女比那良志ひならし毘賣に娶ひて生みませる子、多比理岐志麻美たひりきしまみの神。この神、比比羅木ひひらぎのその花麻豆美はなまづみの神の女活玉前玉いくたまさきたま比賣の神に娶ひて生みませる子、美呂浪みろなみの神。この神、敷山主しきやまぬしの神の女青沼馬沼押あをぬまぬおし比賣に娶ひて生みませる子、布忍富鳥鳴海ぬのおしとみとりなるみの神。この神、若晝女わかひるめの神に娶ひて生みませる子、天の日腹大科度美ひばらおほしなどみの神。この神、天の狹霧さぎりの神の女遠津待根とほつまちねの神に娶ひて生みませる子、遠津山岬多良斯とほつやまざきたらしの神。

右のくだり八島士奴美やしまじぬみの神より下、遠津山岬たらしの神より前、十七世とをまりななよの神といふ。


一 既出三〇頁參照。

二 以上二神、五七頁に神話がある。

三 光りかがやく姫の義。美しい姫。

四 奈良縣南葛城郡葛城村にある神社の神。

五 系統不明。

六 五七頁に神話がある。その條參照。

七 鳥耳の神、鳥甘の神とする傳えもある。

八 誤りがあつて、もと何の神の女の何とあつたらしいが不明。

九 水の神。


〔少名毘古那の神〕

 かれ大國主の神、出雲の御大みほ御前みさきにいます時に、波の穗より、天の羅摩かがみの船に乘りて、ひむしの皮を内剥うつはぎに剥ぎて衣服みけしにして、り來る神あり。ここにその名を問はせども答へず、また所從みともの神たちに問はせども、みな知らずとまをしき。ここに多邇具久たにぐく白してまをさく、「こは久延毘古くえびこぞかならず知りたらむ」と白ししかば、すなはち久延毘古を召して問ひたまふ時に答へて白さく、「こは神産巣日かむむすびの神の御子少名毘古那すくなびこなの神なり」と白しき。かれここに神産巣日御祖みおやの命に白し上げしかば、「こはまことに我が子なり。子の中に、我が手俣たなまたよりきし子なり。かれいまし葦原色許男あしはらしこをの命と兄弟はらからとなりて、その國作り堅めよ」とのりたまひき。かれそれより、大穴牟遲と少名毘古那と二柱の神相並びて、この國作り堅めたまひき。然ありて後には、その少名毘古那の神は、常世とこよの國に度りましき。かれその少名毘古那の神を顯し白しし、いはゆる久延毘古くえびこは、今には山田の曾富騰そほどといふものなり。この神は、足はあるかねども、天の下の事をことごとに知れる神なり。


一 島根縣八束郡美保の岬。

二 波の高みに乘つて。

三 カガミはガガイモ科の蔓草。ガガイモ。その果實は莢でありわれると白い毛のある果實が飛ぶ。それをもとにした神話。

四 蛾の皮をそつくり剥いで。

五 ひきがえる。谷潛りの義。

六 かがし。こわれた男の義。

七 海外の國。三三頁脚註參照。

八 かがしに同じ。


〔御諸の山の神〕

 ここに大國主の神愁へて告りたまはく、「吾獨して、如何いかにかもよくこの國をえ作らむ。いづれの神とともに、はよくこの國を相作つくらむ」とのりたまひき。この時に海をらして依り來る神あり。その神のりたまはく、「みまへをよく治めばあれよくともどもに相作り成さむ。もし然あらずは、國成りがたけむ」とのりたまひき。ここに大國主の神まをしたまはく、「然らば治めまつらむさまはいかに」とまをしたまひしかば答へてのりたまはく、「をばやまと青垣あをかきの東の山のいつきまつれ」とのりたまひき。こは御諸みもろの山の上にます神なり。


一 わたしをよく祭つたなら。神が現れていう時のきまつた詞。

二 大和の國の東方の青い山の上に祭れ。

三 奈良縣磯城郡三輪山の大神おおみわ神社の神。その神社の起原神話。


〔大年の神の系譜〕

 かれその大年の神神活須毘かむいくすびの神の女伊怒いの比賣に娶ひて生みませる子、大國御魂おほくにみたまの神。次にからの神。次に曾富理そほりの神。次に白日しらひの神。次にひじりの神五神。又香用かぐよ比賣に娶ひて生みませる子、大香山戸臣おほかぐやまとみの神。次に御年みとしの神二柱。また天知あめし迦流美豆かるみづ比賣に娶ひて生みませる子、奧津日子おきつひこの神。次に奧津比賣おきつひめの命、またの名は大戸比賣おほへひめの神。こは諸人のもちいつかまどの神なり。次に大山咋おほやまくひの神。またの名はすゑ大主おほぬしの神。この神は近つ淡海あふみの國の日枝ひえの山にます。また葛野かづのの松の尾にます鳴鏑なりかぶらちたまふ神なり。次に庭津日にはつひの神。次に阿須波あすはの神。次に波比岐はひきの神。次に香山戸臣かぐやまとみの神。次に羽山戸はやまとの神。次にには高津日たかつひの神。次に大土おほつちの神。またの名はつち御祖みおやの神

上の件、大年の神の子、大國御魂の神より下、大土の神より前、并せて十六神とをまりむはしら

 羽山戸の神、大氣都比賣おほげつひめの神に娶ひて生みませる子、若山咋わかやまくひの神。次に若年の神。次に妹若沙那賣わかさなめの神。次に彌豆麻岐みづまきの神。次に夏の高津日たかつひの神。またの名は夏のの神。次に秋毘賣あきびめの神。次に久久年くくとしの神。次に久久紀若室葛根くくきわかむろつなねの神。

上の件、羽山戸の神の子、若山咋の神より下、若室葛根の神より前、并はせて八神。


一 穀物のみのりの神靈。三八頁に出た。この神の系譜は、穀物の耕作の經過の表示。

二 これも穀物のみのりの神。

三 滋賀縣滋賀郡坂本の日枝神社。

四 京都市右京區にある松尾神社。

五 以上二神、家の敷地の神。祈年祭の祝詞に見える。


〔五、天照らす大御神と大國主の神〕


〔天若日子〕

 天照らす大御神の命もちて、「豐葦原の千秋ちあき長五百秋ながいほあき水穗みづほの國は、我が御子正勝吾勝勝速日まさかあかつかちはやひ天の忍穗耳おしほみみの命の知らさむ國」と、言依ことよさしたまひて、天降あまくだしたまひき。ここに天の忍穗耳の命、天の浮橋に立たして詔りたまひしく、「豐葦原の千秋の長五百秋の水穗の國は、いたくさやぎてありなり」とりたまひて、更に還り上りて、天照らす大御神にまをしたまひき。ここに高御産巣日たかみむすびの神、天照らす大御神の命もちて、天の安の河の河原に八百萬の神を神集かむつどへに集へて、思金の神に思はしめて詔りたまひしく、「この葦原の中つ國は、我が御子の知らさむ國と、言依さしたまへる國なり。かれこの國にちはやぶる荒ぶる國つ神どものさはなると思ほすは、いづれの神を使はしてか言趣ことむけなむ」とのりたまひき。ここに思金の神また八百萬の神たち議りて白さく、「天の菩比ほひの神、これ遣はすべし」とまをしき。かれ天の菩比の神を遣はししかば、大國主の神に媚びつきて、三年に至るまで復奏かへりごとまをさざりき。

 ここを以ちて高御産巣日の神、天照らす大御神、また諸の神たちに問ひたまはく、「葦原の中つ國に遣はせる天の菩比の神、久しく復奏かへりごとまをさず、またいづれの神を使はしてばけむ」と告りたまひき。ここに思金の神答へて白さく、「天津國玉あまつくにだまの神の子天若日子あめわかひこを遣はすべし」とまをしき。かれここにあめ麻迦古弓まかこゆみ天の波波矢ははや一〇を天若日子に賜ひて遣はしき。ここに天若日子、その國に降り到りて、すなはち大國主の神の女下照したて比賣ひめひ、またその國を獲むとおもひて、八年に至るまで復奏かへりごとまをさざりき。

 かれここに天照らす大御神、高御産巣日の神、また諸のかみたちに問ひたまはく、「天若日子久しく復奏かへりごとまをさず、またいづれの神を遣はして、天若日子が久しく留まれる所由よしを問はむ」とのりたまひき。ここに諸の神たちまた思金の神答へて白さく、「雉子きぎし鳴女なきめ一一を遣はさむ」とまをす時に、詔りたまはく、「いまし行きて天若日子に問はむ状は、汝を葦原の中つ國に遣はせる所以ゆゑは、その國の荒ぶる神たちを言趣ことむやはせとなり。何ぞ八年になるまで、復奏まをさざると問へ」とのりたまひき。

 かれここに鳴女なきめ、天よりり到りて、天若日子が門なる湯津桂ゆつかつら一二の上に居て、委曲まつぶさに天つ神の詔命おほみことのごと言ひき。ここにあめ佐具賣さぐめ一三、この鳥の言ふことを聞きて、天若日子に語りて、「この鳥はその鳴くこゑいと惡し。かれみづから射たまへ」といひ進めければ、天若日子、天つ神の賜へる天の波士弓はじゆみ天の加久矢かくや一四をもちて、その雉子きぎしを射殺しつ。ここにその矢雉子の胸より通りてさかさまに射上げて、天の安の河の河原にまします天照らす大御神高木たかぎの神一五御所みもといたりき。この高木の神は、高御産巣日の神のまたみななり。かれ高木の神、その矢を取らして見そなはせば、その矢の羽に血著きたり。ここに高木の神告りたまはく、「この矢は天若日子に賜へる矢ぞ」と告りたまひて、諸の神たちにせて詔りたまはく、「もし天若日子、みことたがへず、あらぶる神を射つる矢の到れるならば、天若日子になあたりそ。もしきたなき心あらば、天若日子この矢にまがれ一六」とのりたまひて、その矢を取らして、その矢の穴より衝き返し下したまひしかば、天若日子が、朝床一七に寢たる高胸坂たかむなさかに中りて死にき。こは還矢の
本なり。
またその雉子きぎし還らず。かれ今に諺に雉子の頓使ひたづかひ一八といふ本これなり。

 かれ天若日子が下照したて比賣ひめく聲、風のむた一九響きて天に到りき。ここに天なる天若日子が父天津國玉あまつくにたまの神、またその妻子めこ二〇ども聞きて、降り來て哭き悲みて、其處に喪屋もや二一を作りて、河鴈を岐佐理持きさりもち二二とし、さぎ掃持ははきもち二三とし、翠鳥そにどり御食人みけびと二四とし、雀を碓女うすめ二五とし、雉子を哭女なきめとし、かく行ひ定めて、日八日やか八夜やよを遊びたりき二六

 この時阿遲志貴高日子根あぢしきたかひこねの神まして、天若日子がを弔ひたまふ時に、天よりり到れる天若日子が父、またその妻みな哭きて、「我が子は死なずてありけり」「我が君は死なずてましけり」といひて、手足に取り懸かりて、哭き悲みき。そのあやまてる所以ゆゑは、この二柱の神の容姿かたちいと能くれり。かれここを以ちて過てるなり。ここに阿遲志貴高日子根の神、いたく怒りていはく、「我はうるはしき友なれ二七こそ弔ひ來つらくのみ。何ぞは吾を、穢きしに人にふる」といひて、御佩みはかしの十つかの劒を拔きて、その喪屋もやを切り伏せ、足もちてゑ離ち遣りき。こは美濃の國の藍見あゐみ二八の河上なる喪山もやまといふ山なり。その持ちて切れる大刀の名は大量おほばかりといふ。またの名は神度かむどの劒といふ。かれ阿治志貴高日子根の神は、忿いかりて飛び去りたまふ時に、その同母妹いろも高比賣たかひめの命、その御名を顯さむと思ほして歌ひたまひしく、

天なるや二九 弟棚機おとたなばた三〇

うながせる 玉の御統みすまる三一

御統に あな玉はや三二

たに ふたわたらす三三

阿遲志貴高日子根あぢしきたかひこねの神ぞ。  (歌謠番號七)

 この歌は夷振ひなぶり三四なり。


一 日本國の美稱。ゆたかな葦原で永久に穀物のよく生育する國の義。

二 たいへん騷いでいる。アリナリは古い語法。ラ行變格動詞の終止形にナリが接續している。

三 この神が加わるのは思想的な意味からである。

四 日本國。葦原の中心である國。

五 暴威を振う亂暴な土地の神。

六 誓約の條に出現した神。出雲氏の祖先神で、出雲氏の方ではよく活躍したという。古事記日本書紀は中臣氏系統の傳來が主になつているのでわるくいう。

七 天の土地の神靈。

八 天から來た若い男。傳説上の人物として後世の物語にも出る。

九 鹿の靈威のついている弓。

一〇 大きな羽をつけた矢。

一一 キギシの鳥名はその鳴聲によつていう。よつて逆にその名を鳴く女の意にいう。

一二 神聖な桂樹。野鳥である雉子などが門口の樹に來て鳴くのを氣にして何かのしるしだろうとする。

一三 實相を探る女。巫女で鳥の鳴聲などを判斷する。

一四 前に出た弓矢。ハジ弓はハジの木の弓。カク矢は鹿兒矢で鹿の靈威のついている矢。

一五 タカミムスビの神の神靈の宿る所についていうのだろう。

一六 曲れで、災難あれの意になる。

一七 胡床あぐらとする傳えもある。

一八 ひたすらの使、行つたきりの使。

一九 風と共に。

二〇 天における天若日子の妻子。

二一 葬式は別に家を作つて行う風習である。

二二 食物を入れた器を持つて行く者。

二三 ホウキで穢を拂う意である。

二四 食物を作る人。

二五 臼でつく女。

二六 葬式の時に連日連夜歌舞してけがれを拂う風習である。

二七 友だちだから。

二八 岐阜縣長良川の上流。

二九 ヤは間投の助詞。

三〇 若い機おり姫。機おりは女子の技藝として尊ばれていた。

三一 頸にかけている緒に貫いた玉。

三二 大きな珠。ハヤは感動を示す。

三三 谷を二つ同時に渡る。ミは美稱。

三四 歌曲の名。


〔國讓り〕

 ここに天照らす大御神の詔りたまはく、「またいづれの神を遣はしてけむ」とのりたまひき。ここに思金の神また諸の神たち白さく、「天の安の河の河上の天の石屋いはやにます、名は伊都いつ尾羽張をはばりの神、これ遣はすべし。もしまたこの神ならずは、その神の子建御雷たけみかづちの神、これ遣はすべし。またその天の尾羽張の神は、天の安の河の水をさかさまきあげて、道を塞き居れば、あだし神はえ行かじ。かれことに天の迦久かくの神を遣はして問ふべし」とまをしき。

 かれここに天の迦久の神を使はして、天の尾羽張の神に問ひたまふ時に答へ白さく、「かしこし、仕へまつらむ。然れどもこの道には、が子建御雷の神を遣はすべし」とまをして、貢進たてまつりき。

 ここに天の鳥船の神を建御雷の神に副へて遣はす。ここを以ちてこの二神ふたはしらのかみ、出雲の國の伊耶佐いざさ小濱をはまに降り到りて、十掬とつかの劒を拔きて浪の穗に逆に刺し立てて、その劒のさきあぐて、その大國主の神に問ひたまひしく、「天照らす大御神高木の神の命もちて問の使せり。うしはける葦原の中つ國に、が御子の知らさむ國と言よさしたまへり。かれ汝が心いかに」と問ひたまひき。ここに答へ白さく、「はえ白さじ。我が子八重言代主やへことしろぬしの神これ白すべし。然れども鳥の遊漁あそびすなどりして、御大みほさきに往きて、いまだ還り來ず」とまをしき。かれここに天の鳥船の神を遣はして、八重事代主の神をし來て、問ひたまふ時に、その父の大神に語りて、「かしこし。この國は天つ神の御子にたてまつりたまへ」といひて、その船を蹈み傾けて、天の逆手さかて青柴垣あをふしがきにうち成して、隱りたまひき

 かれここにその大國主の神に問ひたまはく、「今汝が子事代主の神かく白しぬ。また白すべき子ありや」ととひたまひき。ここにまた白さく、「また我が子建御名方たけみなかたの神一〇あり。これをきては無し」と、かく白したまふほどに、その建御名方の神、千引の石一一手末たなすゑささげて來て、「そ我が國に來て、しのび忍びかく物言ふ。然らば力競べせむ。かれあれまづその御手を取らむ一二」といひき。かれその御手を取らしむれば、すなはち立氷たちびに取り成し一三、また劒刃つるぎはに取り成しつ。かれここにおそりて退き居り。ここにその建御名方の神の手を取らむと乞ひわたして取れば、若葦を取るがごと、つかひしぎて、投げ離ちたまひしかば、すなはち逃げにき。かれ追ひ往きて、科野しなのの國の洲羽すはの海一四め到りて、殺さむとしたまふ時に、建御名方の神白さく、「かしこし、をな殺したまひそ。このところきては、あだところに行かじ。また我が父大國主の神の命に違はじ。八重事代主の神のみことに違はじ。この葦原の中つ國は、天つ神の御子の命のまにまに獻らむ」とまをしき。

 かれ更にまた還り來て、その大國主の神に問ひたまひしく、「汝が子ども事代主の神、建御名方の神二神ふたはしらは、天つ神の御子の命のまにまに違はじと白しぬ。かれが心いかに」と問ひたまひき。ここに答へ白さく、「が子ども二神の白せるまにまに、も違はじ。この葦原の中つ國は、命のまにまに既に獻りぬ。ただ僕が住所すみかは、天つ神の御子の天つ日繼知らしめさむ、富足とだる天の御巣みすの如一五、底つ石根に宮柱太しり、高天の原に氷木ひぎ高しりて治めたまはば、もも足らず一六八十坰手やそくまでに隱りてさもらはむ一七。また僕が子ども百八十神ももやそがみは八重事代主の神を御尾さき一八として仕へまつらば、違ふ神はあらじ」と、かく白して出雲の國の多藝志たぎし小濱をばま一九に、天の御舍みあらか二〇を造りて、水戸みなとの神のひこ櫛八玉くしやたまの神膳夫かしはで二一となりて、天つ御饗みあへ二二獻る時に、ぎ白して、櫛八玉の神鵜にりて、わたの底に入りて、底のはこひあがり出でて二三、天の八十平瓮びらか二四を作りて、海布からりて燧臼ひきりうすに作り、海蒪こもの柄を燧杵ひきりぎねに作りて、火をり出でて二五まをさく、「この我がれる火は、高天の原には、神産巣日御祖かむむすびみおやの命の富足とだる天の新巣にひす八拳やつか垂るまでき擧げ二六つちの下は、底つ石根に燒きこらして、𣑥繩たくなはの千尋繩うち二七、釣する海人あまが、口大の尾翼鱸をはたすずき二八さわさわにきよせげて、さき竹のとををとををに二九、天の眞魚咋まなぐひ三〇獻る」とまをしき。かれ建御雷の神返りまゐ上りて、葦原の中つ國を言向ことむやはしし状をまをしき。


一 イザナギの命の劒の神靈。水神。二四頁參照。

二 鹿の神靈。

三 二四頁參照。

四 二二頁參照。

五 島根縣出雲市附近の海岸。伊那佐の小濱とする傳えもある。日本書紀に五十田狹之小汀いたさのをばま

六 波の高みに劒先を上にして立てて。

七 言語に現れる神靈。大事を決するのに神意を伺い、その神意が言語によつて現れたことをこの神の言として傳える。八重は榮える意に冠する。

八 鳥を狩すること。

九 神意を述べ終つて、海を渡つて來た乘物を傾けて、逆手を打つて青い樹枝の垣に隱れた。逆手を打つは、手を下方に向けて打つことで呪術を行う時にする。青柴垣は神靈の座所。神靈が託宣をしてもとの神座に歸つたのである。

一〇 長野縣諏訪郡諏訪神社上社の祭神。この神に關することは日本書紀に無い。插入説話である。

一一 千人で引くような巨岩。

一二 手のつかみ合いをするのである。

一三 立つている氷のように感ずる。

一四 長野縣の諏訪湖。

一五 天皇がその位におつきになる尊い宮殿のように。神が宮殿造營を請求するのは託宣の定型の一である。

一六 枕詞。

一七 多くある物のすみに隱れておりましよう。

一八 指導者。

一九 島根縣出雲市の海岸。

二〇 宮殿。出雲大社のこと。その鎭座縁起。

二一 料理人。

二二 尊い御食事。

二三 海底の土を清淨としそれを取つて祭具を作る。

二四 多數の平たい皿。

二五 海藻の堅い部分を臼と杵とにして摩擦して火を作つて。

二六 富み榮える新築の家の煤のように長く垂れるほどに火をたき。

二七 楮の長い繩を延ばして。

二八 口の大きく、尾ひれの大きい鱸。

二九 魚のたわむ形容。さき竹のは枕詞。

三〇 尊い御馳走。


〔六、邇邇藝の命〕


〔天降〕

 ここに天照らす大御神高木の神の命もちて、太子ひつぎのみこ正勝吾勝勝速日まさかあかつかちはやび天の忍穗耳おしほみみの命にりたまはく、「今葦原の中つ國をことむへぬと白す。かれ言よさし賜へるまにまに、降りまして知らしめせ」とのりたまひき。ここにその太子正勝吾勝勝速日天の忍穗耳の命答へ白さく、「は、降りなむ裝束よそひせしほどに、子れましつ。名は天邇岐志國邇岐志あめにぎしくににぎしあま日高日子番ひこひこほ邇邇藝ににぎの命、この子を降すべし」とまをしたまひき。この御子は、高木の神の女萬幡豐秋津師比賣よろづはたとよあきつしひめの命にひて生みませる子、天の火明ほあかりの命、次に日子番ひこほ邇邇藝ににぎの命二柱にます。ここを以ちて白したまふまにまに、日子番の邇邇藝の命にみことおほせて、「この豐葦原の水穗の國は、いましらさむ國なりとことよさしたまふ。かれ命のまにまに天降あもりますべし」とのりたまひき。

 ここに日子番の邇邇藝の命、天降あもりまさむとする時に、天の八衢やちまたに居て、上は高天の原をらし下は葦原の中つ國を光らす神ここにあり。かれここに天照らす大御神高木の神の命もちて、天の宇受賣うずめの神に詔りたまはく、「いまし手弱女人たわやめなれども、いむかふ神と面勝おもかつ神なり。かれもはら汝往きて問はまくは、が御子の天降あもりまさむとする道に、誰そかくて居ると問へ」とのりたまひき。かれ問ひたまふ時に、答へ白さく、「僕は國つ神、名は猿田さるだ毘古の神なり。出で居る所以ゆゑは、天つ神の御子天降りますと聞きしかば、御前みさきに仕へまつらむとして、まゐ向ひさもらふ」とまをしき。

 ここにあめ兒屋こやねの命、布刀玉ふとだまの命、天の宇受賣の命、伊斯許理度賣いしこりどめの命、たまおやの命、并せて五伴いつともあかち加へて、天降あもらしめたまひき。

 ここにそのぎし八尺やさか勾璁まがたま、鏡、また草薙くさなぎの劒、また常世とこよの思金の神、手力男たぢからをの神、天の石門別いはとわけの神を副へ賜ひてりたまはくは、「これの鏡は、もはらが御魂として、吾が御前をいつくがごと、いつきまつれ。次に思金の神は、みまへことを取り持ちて、まつりごとまをしたまへ」とのりたまひき。

 この二柱の神は、拆くくしろ五十鈴いすずの宮いつき祭る。次に登由宇氣とゆうけの神、こはつ宮の度相わたらひにます神なり。次に天の石戸別いはとわけの神、またの名は櫛石窻くしいはまどの神といひ、またの名はとよ石窻の神といふ。この神は御門みかどの神なり。次に手力男の神は、佐那さなあがたにませり。

 かれその天の兒屋の命は、中臣の連等が祖。布刀玉の命は、忌部の首等おびとらが祖。天の宇受賣の命は猿女さるめの君等が祖。伊斯許理度賣の命は、鏡作の連等が祖。玉の祖の命は、玉の祖の連等が祖なり。

 かれここに天の日子番の邇邇藝の命、天の石位いはくらを離れ、天の八重多那雲やへたなぐもを押し分けて、稜威いつ別き道別きて一〇、天の浮橋に、浮きじまり、そりたたして一一竺紫つくし日向ひむかの高千穗のじふるたけ一二天降あもりましき。

 かれここに天の忍日おしひの命あま久米くめの命二人ふたり、天の石靫いはゆき一三を取り負ひ、頭椎くぶつちの大刀一四を取り佩き、天の波士弓はじゆみを取り持ち、天の眞鹿兒矢まかごや手挾たばさみ、御前みさきに立ちて仕へまつりき。かれその天の忍日の命、こは大伴おほともむらじ等が祖。天つ久米の命、こは久米の直等が祖なり。

 ここに詔りたまはく、「は韓國に向ひ笠紗かささ御前みさきにま來通りて一五、朝日のただす國、夕日の日照ひでる國なり。かれぞいと吉きところ」と詔りたまひて、底つ石根に宮柱太しり、高天の原に氷椽ひぎ高しりてましましき。


一 天上のわかれ道。

二 相對する神に顏で勝つ神だ。

三 五つの部族。トモノヲは人々の團體。この五神以下多くは皆天の岩戸の神話に出て、兩者の密接な關係にあることを示す。

四 岩戸の神話で天照らす大神を招いだ。

五 岩戸の神話における岩屋戸の神格。

六 天皇の御前にあつて政治をせよ。智惠思慮の神靈だからこのようにいう。

七 伊勢神宮の内宮。サククシロは、口のわれた腕輪の意で枕詞。

八 伊勢神宮の外宮。トユウケの神は豐受の神とも書き穀物の神。この神が從つて下つたともなく出たのは突然であるが豐葦原の水穗の神靈だから出したのである。外宮の鎭座は、雄略天皇の時代の事と傳える。

九 この二つの別名は、御門祭の祝詞に見える名で、門戸の神靈として尊んでいる。

一〇 天から御座を離れ雲をおし分け威勢よく道を別けて。

一一 天の階段から下に浮渚があつてそれにお立ちになつたと解されている。古語を語り傳えたもの。

一二 鹿兒島縣の霧島山の一峰、宮崎縣西臼杵郡など傳説地がある。思想的には大嘗祭の稻穗の上に下つたことである。

一三 堅固な靫。矢を入れて背負う。

一四 柄の頭がコブになつている大刀。實は石器だろう。

一五 外國に向つて笠紗の御前へ筋が通つて。カササの御前は、鹿兒島縣川邊郡の岬。高千穗の嶽の所在をその方面にありとする傳えから來たのであろう。


〔猿女の君〕

 かれここに天の宇受賣の命に詔りたまはく、「この御前に立ちて仕へまつれる猿田さるた毘古の大神は、もはら顯し申せるいまし送りまつれ。またその神の御名は、いまし負ひて仕へまつれ」とのりたまひき。ここを以ちて猿女さるめの君等、その猿田毘古の男神の名を負ひて、をみなを猿女の君と呼ぶ事これなり。かれその猿田毘古の神、阿耶訶あざかに坐しし時に、すなどりして、比良夫ひらぶにその手を咋ひ合はさえて海水うしほに溺れたまひき。かれその底に沈み居たまふ時の名を、そこどく御魂みたまといひ、その海水のつぶたつ時の名を、つぶ立つ御魂みたまといひ、そのあわ咲く時の名を、あわ咲く御魂みたまといふ。

 ここに猿田毘古の神を送りて、還り到りて、すなはち悉にはたの廣物鰭のを追ひ聚めて問ひて曰はく、「いましは天つ神の御子に仕へまつらむや」と問ふ時に、諸の魚どもみな「仕へまつらむ」とまをす中に、海鼠白さず。ここに天の宇受賣の命、海鼠に謂ひて、「この口や答へせぬ口」といひて、紐小刀ひもがたな以ちてその口をきき。かれ今に海鼠の口けたり。ここを以ちて、御世みよみよ、島の速贄はやにへ獻る時に、猿女の君等に給ふなり。


一 猿女の君は朝廷にあつて神事その他に奉仕した。

二 三重縣壹志郡。

三 不明。月日貝だともいう。

四 海底につく神靈。

五 大小の魚。

六 志摩の國から奉る海産のたてまつり物。


〔木の花の佐久夜毘賣〕

 ここにあま日高日子番ひこひこほ邇邇藝ににぎの命、笠紗かささ御前みさきに、かほよ美人をとめに遇ひたまひき。ここに、「誰が女ぞ」と問ひたまへば、答へ白さく、「大山津見おほやまつみの神の女、名は神阿多都かむあたつ比賣。またの名ははな佐久夜さくや毘賣とまをす」とまをしたまひき。また「汝が兄弟はらからありや」と問ひたまへば答へ白さく、「我が姉石長いはなが比賣あり」とまをしたまひき。ここに詔りたまはく、「吾、汝に目合まぐはひせむと思ふはいかに」とのりたまへば答へ白さく、「はえ白さじ。僕が父大山津見の神ぞ白さむ」とまをしたまひき。かれその父大山津見の神に乞ひに遣はしし時に、いたく歡喜よろこびて、その姉石長いはなが比賣を副へて、百取ももとり机代つくゑしろの物を持たしめて奉りしき。かれここにその姉は、いとみにくきに因りて、見かしこみて、返し送りたまひて、ただそのおとはな佐久夜さくや賣毘を留めて、一宿ひとよみとあたはしつ。ここに大山津見の神、石長いはなが比賣を返したまへるに因りて、いたく恥ぢて、白し送りてまをさく、「が女二人ふたり竝べたてまつれるゆゑは、石長比賣を使はしては、天つ神の御子のみいのちは、雪り風吹くとも、恆にいはの如く、常磐ときは堅磐かきはに動きなくましまさむ。またはな佐久夜さくや毘賣を使はしては、木の花の榮ゆるがごと榮えまさむと、うけひて貢進たてまつりき。ここに今石長いはなが比賣を返さしめて、はな佐久夜さくや毘賣をひとり留めたまひつれば、天つ神の御子の御壽みいのちは、木の花のあまひのみましまさむとす」とまをしき。かれここを以ちて今に至るまで、天皇すめらみことたちの御命長くまさざるなり。

 かれ後にはな佐久夜さくや毘賣、まゐ出て白さく、「はらみて、今こうむ時になりぬ。こは天つ神の御子、ひそかに産みまつるべきにあらず。かれまをす」とまをしたまひき。ここに詔りたまはく、「佐久夜毘賣、一宿ひとよにや妊める。こは我が子にあらじ。かならず國つ神の子にあらむ」とのりたまひき。ここに答へ白さく、「吾が妊める子、もし國つ神の子ならば、こうむ時さきくあらじ。もし天つ神の御子にまさば、幸くあらむ」とまをして、すなはち戸無し八尋殿を作りて、その殿内とのぬちに入りて、はにもちて塗りふたぎて、産む時にあたりて、その殿に火を著けて産みたまひき。かれその火の盛りにゆる時に、れませる子の名は、火照ほでりの命こは隼人阿多の
君の祖なり。
次に生れませる子の名は火須勢理ほすせりの命、次に生れませる子の御名は火遠理ほをりの命、またの名はあま日高日子穗穗出見ひこひこほほでみの命三柱


一 アタは地名。鹿兒島縣日置郡。

二 多數の机上に乘せる物。

三 戸の無い大きな家屋。分娩のために特に家を作りその中に入つて周圍を塗り塞ぐ。

四 出産後にその産屋を燒く風習のあるのを、このように表現している。

五 火の衰える意の名。

六 火の靜まる意の名。


〔七、日子穗穗出見の命〕


〔海幸と山幸〕

 かれ火照ほでりの命は、海佐知うみさち毘古として、はたの廣物鰭の物を取り、火遠理ほをりの命は山佐知やまさち毘古として、毛のあら物毛のにこを取りたまひき。ここに火遠理ほをりの命、そのいろせ火照ほでりの命に、「おのもおのも幸へて用ゐむ」とひて、三度乞はししかども、許さざりき。然れども遂にわづかにえ易へたまひき。ここに火遠理ほをりの命、海幸をもちて釣らすに、ふつに一つの魚だに得ず、またそのつりばりをも海に失ひたまひき。ここにそのいろせ火照の命その鉤を乞ひて、「山幸もおのが幸幸。海幸もおのが幸幸。今はおのもおのも幸返さむ」といふ時に、そのいろと火遠理の命答へて曰はく、「みましの鉤は、魚釣りしに一つの魚だに得ずて、遂に海に失ひつ」とまをしたまへども、その兄あながちに乞ひはたりき。かれその弟、御佩しの十拳の劒を破りて、五百鉤いほはりを作りて、つぐのひたまへども、取らず、また一千鉤ちはりを作りて、償ひたまへども、受けずして、「なほその本の鉤を得む」といひき。

 ここにその弟、泣き患へて海邊うみべたにいましし時に、鹽椎しほつちの神來て問ひて曰はく、「いかにぞ虚空津日高そらつひこの泣き患へたまふ所由ゆゑは」と問へば、答へたまはく、「我、兄とつりばりを易へて、その鉤を失ひつ。ここにその鉤を乞へば、あまたの鉤を償へども、受けずて、なほその本の鉤を得むといふ。かれ泣き患ふ」とのりたまひき。ここに鹽椎の神、「我、汝が命のために、善きたばかりせむ」といひて、すなはちなし勝間かつまの小船を造りて、その船に載せまつりて、教へてまをさく、「我、この船を押し流さば、ややしましいでまさば、御路みちあらむ。すなはちその道に乘りていでましなば、魚鱗いろこのごと造れる宮室みや、それ綿津見わたつみの神の宮なり。その神の御門に到りたまはば、傍の井の上に湯津香木ゆつかつらあらむ。かれその木の上にましまさば、そのわたの神の女、見てはからむものぞ」と教へまつりき。

 かれ教へしまにまに、少しでましけるに、つぶさにその言の如くなりき。すなはちその香木に登りてまします。ここにわたの神の女豐玉毘賣とよたまびめ從婢まかだち玉盌たまもひを持ちて、水酌まむとする時に、井にかげあり。仰ぎ見れば、うるはしき壯夫をとこあり。いとあやしとおもひき。ここに火遠理の命、そのまかだちを見て、「水をたまへ」と乞ひたまふ。婢すなはち水を酌みて、玉盌に入れて貢進たてまつる。ここに水をば飮まさずして、御頸のたまを解かして、口にふふみてその玉盌につばれたまひき。ここにその璵、もひに著きて一〇、婢璵をえ離たず、かれ著きながらにして豐玉毘賣の命に進りき。ここにその璵を見て、婢に問ひて曰く、「もしかどに人ありや」と問ひしかば、答へて曰はく、「我が井の上の香木の上に人います。いと麗しき壯夫なり。我が王にも益りていと貴し。かれその人水を乞はしつ。かれ水を奉りしかば、水を飮まさずて、この璵を唾き入れつ。これえ離たざれば、入れしまにまち來て獻る」とまをしき。ここに豐玉毘賣の命、奇しと思ほして、出で見て見感でて、目合まぐはひして、その父に、白して曰はく、「吾が門に麗しき人あり」とまをしたまひき。ここにわたの神みづから出で見て、「この人は、天つ日高の御子、虚空つ日高なり」といひて、すなはち内に率て入れまつりて、海驢みちの皮の疊八重一一を敷き、またきぬ疊八重一二をその上に敷きて、その上にせまつりて、百取の机代つくゑしろの物を具へて、御饗みあへして、その女豐玉とよたま毘賣にはせまつりき。かれ三年一三に至るまで、その國に住みたまひき。

 ここに火遠理の命、その初めの事を思ほして、大きなるなげき一つしたまひき。かれ豐玉とよたま毘賣の命、その歎を聞かして、その父に白して言はく、「三年住みたまへども、恆は歎かすことも無かりしに、今夜こよひ大きなる歎一つしたまひつるは、けだしいかなる由かあらむ」とまをしき。かれ、その父の大神、その聟の夫に問ひて曰はく、「今旦けさ我が女の語るを聞けば、三年坐しませども、恆は歎かすことも無かりしに、今夜大きなる歎したまひつとまをす。けだし故ありや。またに來ませる由はいかに」と問ひまつりき。ここにその大神に語りて、つぶさにその兄の失せにし鉤をはたれる状の如語りたまひき。ここを以ちて海の神、悉に鰭の廣物鰭の狹物を召び集へて問ひて曰はく、「もしこの鉤を取れる魚ありや」と問ひき。かれ諸の魚ども白さく、「このごろ赤海鯽魚たひぞ、のみとのぎ一四ありて、物え食はずと愁へ言へる。かれかならずこれが取りつらむ」とまをしき。ここに赤海鯽魚の喉を探りしかば、鉤あり。すなはち取り出でてぎて、火遠理の命に奉る時に、その綿津見の大神をしへて曰さく、「この鉤をその兄に給ふ時に、のりたまはむ状は、この鉤は、淤煩鉤おばち須須鉤すすち貧鉤まぢち宇流鉤うるちといひて一五後手しりへで一六に賜へ。然してその兄高田あげだを作らば、汝が命は下田くぼだつくりたまへ。その兄下田を作らば、汝が命は高田を營りたまへ一七。然したまはば、吾水をれば、三年の間にかならずその兄貧しくなりなむ。もしそれ然したまふ事を恨みて攻め戰はば、しほたま一八を出して溺らし、もしそれ愁へまをさば、しほたまを出していかし、かく惚苦たしなめたまへ」とまをして、鹽盈つ珠鹽乾る珠并せて兩箇ふたつを授けまつりて、すなはち悉に鰐どもをよび集へて、問ひて曰はく、「今天つ日高の御子虚空つ日高、うはくに一九でまさむとす。誰は幾日に送りまつりて、かへりごとまをさむ」と問ひき。かれおのもおのもおのが身の尋長たけのまにまに、日を限りて白す中に、一尋鰐二〇白さく、「は一日に送りまつりて、やがて還り來なむ」とまをしき。かれここにその一尋鰐に告りたまはく、「然らば汝送りまつれ。もしわた中を渡る時に、な惶畏かしこませまつりそ」とのりて、すなはちその鰐の頸に載せまつりて、送り出しまつりき。かれちぎりしがごと一日の内に送りまつりき。その鰐返りなむとする時に、佩かせる紐小刀二一を解かして、その頸に著けて返したまひき。かれその一尋鰐は、今に佐比持さひもちの神二二といふ。

 ここを以ちてつぶさにわたの神の教へし言の如、その鉤を與へたまひき。かれそれより後、いよよ貧しくなりて、更に荒き心を起して迫め。攻めむとする時は、鹽盈つ珠を出して溺らし、それ愁へまをせば、鹽乾る珠を出して救ひ、かく惚苦たしなめたまひし時に、稽首のみ白さく、「は今よ以後のち、汝が命の晝夜よるひる守護人まもりびととなりて仕へまつらむ」とまをしき。かれ今に至るまで、その溺れし時の種種のわざ、絶えず仕へまつるなり二三


一 海の幸のある男。サチは威力で、道具に宿つておりサチを有する者が獲物が多いのである。

二 獸類と鳥類。

三 海のサチの宿つている釣針。

四 海水の神靈。諸國の海岸にうち寄せるので物知りだとする。

五 日子穗穗出見の命。

六 すきまの無い籠の船。實際的には竹の類で編んで樹脂を塗つて作つた船であり、思想的には神の乘物である。

七 魚のうろこのように作つた宮殿。瓦ぶきの家で大陸の建築が想像されている。

八 井の傍の樹木に神が降るのは、信仰にもとづくきまつた型である。

九 美しい椀。

一〇 水を汲んだ椀に樹上にいた神の靈がついたのである。

一一 海獸アシカの皮の敷物を八重にかさねて。

一二 織つたままの絹の敷物八重をかさねて。

一三 この種の説話に出るきまつた年數。浦島も龍宮に三年いたという。

一四 のどにささつた骨があつて。

一五 鉤をわるく言つてサチを離れさせるのである。ぼんやり鉤、すさみ鉤、貧乏鉤、愁苦の鉤。

一六 手をうしろにしてあげなさい。呪術の意味である。

一七 毎年土地を選定して耕作するので、水の多い年には高田を作るに利あり、水の無い年はその反對である。

一八 海は潮が滿ち干するので、海の神は水のさしひきをつかさどるとし、それはその力を有する玉を持つているからと考えた。動詞乾るは古くは上二段活で、連體形はフル。

一九 人間の世界。上方にあると考えた。

二〇 人が左右に手をひろげた長さのワニ。ワニは三九頁參照。

二一 紐のついている小刀。

二二 鋤を持つている神。サヒは鋤であり武器でもある。

二三 隼人が亂舞をして宮廷に仕えることの起原説明。隼人舞はその種族の獨自の舞であるのを溺れるさまのまねとして説明した。


〔豐玉毘賣の命〕

 ここにわたの神の女豐玉とよたま毘賣の命、みづからまゐ出て白さく、「あれすでに妊めるを、今こうむ時になりぬ。こを念ふに、天つ神の御子、海原に生みまつるべきにあらず、かれまゐ出きつ」とまをしき。ここにすなはちその海邊の波限なぎさに、鵜の羽を葺草かやにして、産殿うぶやを造りき。ここにその産殿うぶや、いまだ葺き合へねば、御腹のきにへざりければ、産殿に入りましき。ここに産みます時にあたりて、その日子ひこぢに白して言はく、「およそあだし國の人は、こうむ時になりては、もとつ國の形になりて生むなり。かれ、妾も今もとの身になりて産まむとす。願はくは妾をな見たまひそ」とまをしたまひき。ここにその言を奇しと思ほして、そのまさに産みますを伺見かきまみたまへば、八尋鰐になりて、匍匐ひもこよひき。すなはち見驚き畏みて、遁げ退きたまひき。ここに豐玉とよたま毘賣の命、その伺見かきまみたまひし事を知りて、うらやさしとおもほして、その御子を生み置きて白さく、「あれ、恆は海道うみつぢを通して、通はむと思ひき。然れども吾が形を伺見かきまみたまひしが、いとはづかしきこと」とまをして、すなはち海坂うなさかきて、返り入りたまひき。ここを以ちてそのみませる御子に名づけて、あま日高日子波限建鵜葺草葺合ひこひこなぎさたけうがやふきあへずの命とまをす。然れども後には、その伺見かきまみたまひし御心を恨みつつも、ふる心にえへずして、その御子をひたしまつるよしに因りて、そのいろと玉依毘賣に附けて、歌獻りたまひき。その歌、

赤玉は 緒さへひかれど、

白玉の 君がよそひ

貴くありけり。  (歌謠番號八)

 かれその日子ひこぢ答へ歌よみしたまひしく、

おきつ鳥 鴨著く島に

我が率寢ゐねし 妹は忘れじ。

世のことごとに。  (歌謠番號九)

 かれ日子穗穗出見の命は、高千穗の宮に五百八拾歳いほちまりやそとせましましき。御はかはその高千穗の山の西にあり。


一 ヒコホホデミの命。

二 この種の説話の要素の一である女子の命ずる禁止であり、男子がその禁を破ることによつて別離になる。イザナミの命の黄泉訪問の神話にもこれがあつた。

三 大きなワニになつて這いまわつた。

四 白玉のような君の容儀。下のシは強意の助詞。

五 説明による枕詞。


〔八、鵜葺草葺合へずの命〕


 この天つ日高日子波限建鵜葺草葺合へずの命、そのみをば玉依毘賣の命に娶ひて、生みませる御子の名は、五瀬の命、次に稻氷いなひの命、次に御毛沼みけぬの命、次に若御毛沼わかみけぬの命、またの名は豐御毛沼とよみけぬの命、またの名は神倭伊波禮毘古かむやまといはれびこの命四柱。かれ御毛沼の命は、波の穗をみて、常世の國に渡りまし、稻氷の命は、ははの國として、海原に入りましき。


一 神武天皇。神武天皇の稱は漢風の諡號といい奈良時代に奉つたもの。

二 大和の國の磐余の地においでになつた御方の意。

三 亡き母豐玉毘賣の國。


古事記 上つ卷


古事記 中つ卷


〔一、神武天皇〕


〔東征〕

 神倭伊波禮毘古かむやまといはれびこの命、その同母兄いろせ五瀬の命と二柱、高千穗の宮にましましてはかりたまはく、「いづれのところにまさば、天の下の政を平けくきこしめさむ。なほ東のかたに、行かむ」とのりたまひて、すなはち日向ひむかよりたして、筑紫にでましき。かれ豐國の宇沙うさに到りましし時に、その土人くにびと名は宇沙都比古うさつひこ宇沙都比賣うさつひめ二人、足一騰あしひとつあがりの宮を作りて、大御饗おほみあへ獻りき。其地そこより遷りまして、竺紫つくしの岡田の宮に一年ましましき。またその國より上り幸でまして、阿岐あきの國の多祁理たけりの宮に七年ましましき。またその國より遷り上り幸でまして、吉備の高島の宮に八年ましましき。


一 九州の東方。

二 大分縣宇佐。

三 柱が一本浮き上つた宮殿。

四 福岡縣遠賀郡遠賀川の河口の地。

五 廣島縣安藝郡。

六 岡山縣兒島郡。


〔速吸の門〕

 かれその國より上り幸でます時に、龜のに乘りて、釣しつつ打ち羽振り來る人速吸はやすひに遇ひき。ここに喚びよせて、問ひたまはく、「いましは誰ぞ」と問はしければ、答へて曰はく、「は國つ神なり」とまをしき。また問ひたまはく「汝はうみを知れりや」と問はしければ、答へて曰はく、「能く知れり」とまをしき。また問ひたまはく「みともに仕へまつらむや」と問はしければ、答へて曰はく「仕へまつらむ」とまをしき。かれここにさをを指しわたして、その御船に引き入れて、槁根津日子さをねつひこといふ名を賜ひき。こは倭の國の造
等が祖なり。


一 勢いよくくる人。

二 潮のさしひきの早い海峽。豐後水道。岡山縣を出て難波に向うのに豐後水道を通つたとするは地理上不合理であるが、元來この一節は別に遊離していたものが插入されたので、このような形になつた。日本書紀では日向から出て直に速吸の門にかかつている。


〔五瀬の命〕

 かれその國より上りでます時に、浪速なみはやわたりを經て、青雲白肩しらかたの津てたまひき。この時に、登美とみ那賀須泥毘古ながすねびこ、軍を興して、待ち向へて戰ふ。ここに、御船に入れたる楯を取りて、り立ちたまひき。かれ其地そこに號けて楯津たてづといふ。今には日下くさか蓼津たでづといふ。ここに登美とみ毘古と戰ひたまひし時に、五瀬いつせの命、御手に登美毘古が痛矢串いたやぐしを負はしき。かれここに詔りたまはく、「吾は日の神の御子として、日に向ひて戰ふことふさはず。かれ賤奴やつこが痛手を負ひつ。今よは行き𢌞めぐりて、日を背に負ひて撃たむ」と、ちぎりたまひて、南の方より𢌞り幸でます時に、血沼ちぬの海に到りて、その御手の血を洗ひたまひき。かれ血沼の海といふ。其地そこより𢌞り幸でまして、の國の水門みなとに到りまして、詔りたまはく、「賤奴やつこが手を負ひてや、命すぎなむ」と男健をたけびしてかむあがりましき。かれその水門みなとに名づけての水門といふ。みはかは紀の國の竈山かまやまにあり。


一 難波の渡。當時は大阪灣が更に深く灣入し、大和の國の水を集めた大和川は、河内の國に入つて北流して淀川に合流していた。それを溯上して河内に入つたのである。

二 枕詞。

三 大阪府中河内郡、生駒山の西麓。

四 生駒山の東登美にいた豪族の主長。

五 大阪府泉南郡の海岸。

六 和歌山縣、紀の川の河口。

七 和歌山縣海草郡。


〔熊野より大和へ〕

 かれ神倭伊波禮毘古の命、其地そこより𢌞り幸でまして、熊野くまのの村に到りましし時に、大きなる熊髣髴ほのかに出で入りてすなはち失せぬ。ここに神倭伊波禮毘古の命倐忽にはかにをえまし、また御軍も皆をえて伏しき。この時に熊野の高倉下たかくらじ、一横刀たちをもちて、天つ神の御子こやせるところに到りて獻る時に、天つ神の御子、すなはちめ起ちて、「長寢ながいしつるかも」と詔りたまひき。かれその横刀たちを受け取りたまふ時に、その熊野の山のあらぶる神おのづからみな切りたふさえき。ここにそのをえ伏せる御軍悉に寤め起ちき。かれ天つ神の御子、その横刀たちを獲つるゆゑを問ひたまひしかば、高倉答へまをさく、「おのが夢に、天照らす大神高木の神二柱の神の命もちて、建御雷たけみかづちの神をびて詔りたまはく、葦原の中つ國はいたくさやぎてありなり。我が御子たち不平やくさみますらし。その葦原の中つ國は、もはらいまし言向ことむけつる國なり。かれ汝建御雷の神あもらさね」とのりたまひき。ここに答へまをさく、「やつこ降らずとも、もはらその國をことむけし横刀あれば、このたちを降さむ。この刀の名は佐士布都の神といふ。またの名は甕布都の神と
いふ、またの名は布都の御魂。この刀は石上の神宮に坐す。
この刀を降さむ状は、高倉下が倉のむねを穿ちて、そこより墮し入れむとまをしたまひき。かれ朝目く汝取り持ちて天つ神の御子に獻れと、のりたまひき。かれ夢の教のまにま、あしたにおのが倉を見しかば、まこと横刀たちありき。かれこの横刀をもちて獻らくのみ」とまをしき。

 ここにまた高木の大神の命もちて、さとし白したまはく、「天つ神の御子、こよ奧つ方にな入りたまひそ。荒ぶる神いとさはにあり。今天より八咫烏やたがらすつかはさむ。かれその八咫烏導きなむ。その立たむしりへより幸でまさね」と、のりたまひき。かれその御教みさとしのまにまに、その八咫烏の後よりでまししかば、吉野えしの河の河尻に到りましき。時にうへをうちて取る人あり。ここに天つ神の御子「いましは誰そ」と問はしければ、答へ白さく、「は國つ神名は贄持にへもつの子」とまをしき。こは阿陀の鵜
養の祖なり。
其地そこより幸でまししかば、尾ある人一〇井より出で來。その井光れり。「汝は誰そ」と問はしければ、答へ白さく、「僕は國つ神名は井氷鹿ゐひか」とまをしき。こは吉野の首
等が祖なり。
すなはちその山に入りまししかば、また尾ある人に遇へり。この人いはほを押し分けて出で。「汝は誰そ」と問はしければ、答へ白さく、「僕は國つ神名は石押分いはおしわくの子、今天つ神の御子でますと聞きつ。かれ、まゐ向へまつらくのみ」とまをしき。こは吉野の國巣
一一
が祖なり。
其地そこより蹈み穿ち越えて、宇陀うだ一二に幸でましき。かれ宇陀うだ穿うがちといふ。


一 和歌山縣南方の海岸一帶。

二 荒ぶる神が熊になつて現れたのでその毒氣を受けたとする。

三 病み疲れたまい。

四 神武天皇のこと。天つ神の御子として降下したとする。

五 惱んで居られるらしい。

六 奈良縣山邊郡の石上神宮。フツは劒の威力。物を斬る音という。

七 大きな烏。頭八つの烏とするは誤。ヤタは寸法。ヤアタの鏡のヤアタに同じ。この烏は鴨の建角身の命という豪傑だという。

八 大和の國内での吉野川の下流。

九 竹で編んで河に漬けて魚を取る漁法。

一〇 後部に垂れたもののある服裝の人。

一一 一三三頁に説話がある。

一二 奈良縣宇陀郡。大和の國の東部。


〔久米歌〕

 かれここに宇陀に、兄宇迦斯えうかし弟宇迦斯おとうかしと二人あり。かれまづ八咫烏を遣はして、二人に問はしめたまはく、「今、天つ神の御子でませり。いましたち仕へまつらむや」と問ひたまひき。ここに兄宇迦斯、鳴鏑なりかぶらもちて、その使を待ち射返しき。かれその鳴鏑の落ちしところを、訶夫羅前かぶらざきといふ。「待ち撃たむ」といひて、いくさを聚めしかども、軍をえ聚めざりしかば、仕へまつらむと欺陽いつはりて、大殿を作りて、その殿内とのぬち押機おしを作りて待つ時に、弟宇迦斯おとうかしまづまゐ向へて、をろがみてまをさく、「僕が兄兄宇迦斯、天つ神の御子の使を射返し、待ち攻めむとして軍を聚むれども、え聚めざれば、殿を作り、その内に押機おしを張りて、待ち取らむとす、かれまゐ向へて顯はしまをす」とまをしき。ここに大伴おほともむらじ等が祖みちおみの命、久米くめあたへ等が祖大久米おほくめの命二人、兄宇迦斯えうかしびて、りていはく、「が作り仕へまつれる大殿内とのぬちには、おれまづ入りて、その仕へまつらむとする状を明し白せ」といひて、横刀たち手上たがみとりしばほこゆけ矢刺して、追ひ入るる時に、すなはちおのが作れる押機おしに打たれて死にき。ここにき出して斬りはふりき。かれ其地そこを宇陀の血原といふ。然してその弟宇迦斯おとうかしが獻れる大饗おほみあへをば、悉にその御軍みいくさに賜ひき。この時、御歌よみしたまひしく、

宇陀の 高城たかきに 鴫羂しぎわな張る。

が待つや 鴫はさやらず、

いすくはし一〇 くぢさや一一

前妻こなみ一二が 乞はさば、

立柧棱たちそば一三の 實のけくを

こきしひゑね一四

後妻うはなり一五が 菜乞はさば、

いちさかき一六の大けくを

こきだひゑね一七  (歌謠番號一〇)

 ええ、しやこしや。こはいのごふぞ一八。ああ、しやこしや。こは嘲咲あざわらふぞ。かれその弟宇迦斯、こは宇陀の水取もひとり等が祖なり。

 其地そこより幸でまして、忍坂おさか一九の大室に到りたまふ時に、尾ある土雲二〇八十建やそたける、その室にありて待ちいなる二一。かれここに天つ神の御子の命もちて、御饗みあへ八十建やそたけるに賜ひき。ここに八十建に宛てて、八十膳夫かしはでけて、人ごとにたち佩けてその膳夫かしはでどもに、誨へたまはく、「歌を聞かば、一時もろともに斬れ」とのりたまひき。かれその土雲を打たむとすることをあかして歌よみしたまひしく、

忍坂おさかの 大室屋に

さはに 入り居り。

人多に 入り居りとも、

みつみつし二二 久米の子が、

頭椎くぶつつ二三 石椎いしつついもち

撃ちてしやまむ。

みつみつし 久米の子らが、

頭椎い 石椎いもち

今撃たばらし。  (歌謠番號一一)

 かく歌ひて、刀を拔きて、一時に打ち殺しつ。

 然ありて後に、登美毘古を撃ちたまはむとする時、歌よみしたまひしく、

みつみつし 久米の子らが

粟生あはふには 臭韮かみらもと二四

そねがもと そねつな二五

撃ちてしやまむ。  (歌謠番號一二)

 また、歌よみしたまひしく、

みつみつし 久米の子らが

もとに ゑし山椒はじかみ二六

口ひひく二七 われは忘れじ。

撃ちてしやまむ。  (歌謠番號一三)

 また、歌よみしたまひしく、

神風かむかぜ二八 伊勢の海の

大石おひしに はひもとほろふ二九

細螺しただみ三〇の、いはひもとほり

撃ちてしやまむ。  (歌謠番號一四)

 また兄師木えしき弟師木おとしき三一を撃ちたまふ時に、御軍しまし疲れたり。ここに歌よみしたまひしく、

楯並たたなめて三二 伊那佐いなさの山三三

の間よも い行きまもらひ三四

戰へば われはや三五

島つ鳥三六 鵜養うかひとも三七

けに來ね。  (歌謠番號一五)

 かれここに邇藝速日にぎはやびの命三八まゐきて、天つ神の御子にまをさく、「天つ神の御子天降あもりましぬと聞きしかば、追ひてまゐ降り來つ」とまをして、天つしるし三九を獻りて仕へまつりき。かれ邇藝速日にぎはやびの命、登美毘古が妹登美夜毘賣とみやびめに娶ひて生める子、宇摩志麻遲うましまぢの命。こは物部の連、穗積の
臣、婇臣が祖なり。
かれかくのごと、荒ぶる神どもを言向ことむけやはし、まつろはぬ人どもを退はらひて、畝火うねび白檮原かしはらの宮四〇にましまして、天の下らしめしき。


一 ウカチの地に居る人の義。兄弟とするのは首領と副首領の意。

二 所在不明。

三 二人稱の賤稱。

四 同前。既出。

五 大刀のつかをしかと握つて。

六 矛を向け矢をつがえて。

七 所在不明。

八 高い築造物。

九 ヤは間投の助詞。

一〇 枕詞。語義不明。

一一 朝鮮語に鷹をクチという。鯨とする説もある。この句まで譬喩。

一二 コナミは前に娶つた妻。古い妻である。

一三 ソバノ木、カナメモチ。

一四 語義不明の句。原文、「許紀志斐惠泥。」紀はキの乙類であるから、コキは動詞くとすれば上二段活になる。

一五 妻のある上に更に娶つた妻。

一六 ヒサカキ。

一七 語義不明の句。原文「許紀陀斐惠泥。」紀はキの乙類であるから、コキダは、許多の意のコキダクと同語では無いらしい。

一八 いばるのだ。靈異記に犬が威壓するのにイノゴフと訓している。イゴノフゾとする説は誤り。

一九 奈良縣磯城郡、泊瀬溪谷の入口。

二〇 穴居していた先住民。

二一 待ちうなる。

二二 敍述による枕詞。威勢のよい。

二三 既出の頭椎の大刀に同じ。イは語勢の助詞。イシツツイも同じ。石器である。

二四 くさいニラが一本。

二五 その根もとと芽とを一つにして。

二六 シヨウガは藥用植物で外來種であるからここはサンショウだろうという。

二七 口がひりひりする。

二八 枕詞。國つ神が大風を起して退去したからいうと傳える。

二九 這いまわつている。

三〇 ラセン形の貝殼の貝。肉は食料にする。

三一 磯城の地に居た豪族。

三二 枕詞。楯を並べて射るとイの音に續く。

三三 奈良縣宇陀郡伊那佐村。

三四 樹の間から行き見守つて。

三五 わたしは飢え疲れた。

三六 枕詞。

三七 前出の阿多の鵜養たち。鵜に助けに來いというのは魚を持つて來いの意である。

三八 系統不明。舊事本紀にはオシホミミの命の子とする。

三九 天から持つて來た寶物。

四〇 奈良縣畝傍山の東南の地。


〔大物主の神の御子〕

 かれ日向にましましし時に、阿多あた小椅をばしの君が妹、名は阿比良あひら比賣に娶ひて、生みませる子、多藝志美美たぎしみみの命、次に岐須美美きすみみの命、二柱ませり。然れども更に、大后おほぎさきとせむ美人をとめぎたまふ時に、大久米の命まをさく、「ここに媛女をとめあり。こを神の御子なりといふ。それ神の御子といふ所以ゆゑは、三島の湟咋みぞくひが女、名は勢夜陀多良せやだたら比賣、それ容姿麗かほよかりければ、美和の大物主の神、見でて、その美人をとめ大便くそまる時に、丹塗にぬりになりて、その大便まる溝より、流れ下りて、その美人の富登ほとを突きき。ここにその美人驚きて、立ち走りいすすぎき。すなはちその矢を持ち來て、床の邊に置きしかば、忽に麗しき壯夫をとこに成りぬ。すなはちその美人に娶ひて生める子、名は富登多多良伊須須岐比賣ほとたたらいすすきひめの命、またの名は比賣多多良伊須氣余理比賣ひめたたらいすけよりひめといふ。こはその富登といふ事を惡み
て、後に改へつる名なり。
かれここを以ちて神の御子とはいふ」とまをしき。

 ここに七媛女をとめ高佐士野たかさじのに遊べるに、伊須氣余理比賣いすけよりひめその中にありき。ここに大久米の命、その伊須氣余理比賣を見て、歌もちて天皇にまをさく、

やまとの 高佐士野を

なな行く 媛女をとめども、

誰をしまかむ。  (歌謠番號一六)

 ここに伊須氣余理比賣は、その媛女どものさきに立てり。すなはち天皇、その媛女どもを見て、御心に伊須氣余理比賣の最前いやさきに立てることを知らして、歌もちて答へたまひしく、

かつがつも いや先立てる をしまかむ。  (歌謠番號一七)

 ここに大久米の命、天皇の命を、その伊須氣余理比賣にる時に、その大久米の命のける利目とめを見て、あやしと思ひて、歌ひたまひしく、

天地あめつつ ちどりましとと などける利目とめ。  (歌謠番號一八)

 ここに大久米の命、答へ歌ひて曰ひしく、

媛女に ただに逢はむと が黥ける利目とめ。  (歌謠番號一九)

 かれその孃子をとめ、「仕へまつらむ」とまをしき。ここにその伊須氣余理比賣の命の家は、狹井さゐ一〇うへにあり。天皇、その伊須氣余理比賣のもとにでまして、一夜御寢みねしたまひき。その河を佐韋河といふ由は、その河の邊に、山百合草多くあり。かれその山
百合草の名を取りて、佐韋河と名づく。山百合草の本の名佐韋といひき。

 後にその伊須氣余理比賣いすけよりひめ宮内おほみやぬちにまゐりし時に、天皇、御歌よみしたまひしく、

葦原の しけしき小屋をや一一

菅疊すがたたみ いやさや敷きて一二

わが二人寢し。  (歌謠番號二〇)

 然してれませる御子の名は、日子八井ひこやゐの命、次に神八井耳かむやゐみみの命、次に神沼河耳かむななかはみみの命一三三柱


一 奈良縣磯城郡の三輪山の神。前に大國主の神の靈を祭るとしていた。大物主の神をも大國主の神の別名とするのだが、元來は別神だろう。

二 赤く塗つた矢。

三 立ち走り騷いだ。

四 香具山の附近。

五 マカムは纏かむで、手に卷こう。妻としよう。

六 わずかに。

七 目じりに入墨をして目を鋭く見せようとした。

八 語義不明。千人に勝れる人の義という。

九 直接に逢おうとして。

一〇 三輪山から出る川。

一一 きたない小舍に。

一二 菅で編んだ敷物をさつぱりと敷いて。

一三 綏靖天皇。


當藝志美美たぎしみみの命の變〕

 かれ天皇かむあがりまして後に、その庶兄まませ當藝志美美たぎしみみの命、その嫡后おほぎさき伊須氣余理比賣にへる時に、その三柱のおとみこたちをせむとして、謀るほどに、その御祖みおや伊須氣余理比賣、患苦うれへまして、歌もちてその御子たちに知らしめむとして歌よみしたまひしく、

狹井河よ 雲起ちわたり

畝火山 木の葉さやぎぬ。

風吹かむとす。  (歌謠番號二一)

 また歌よみしたまひしく、

畝火山 晝は雲とゐ

夕されば 風吹かむとぞ

木の葉さやげる。  (歌謠番號二二)

 ここにその御子たち聞き知りて、驚きて當藝志美美をせむとしたまふ時に、神沼河耳の命、そのいろせ神八井耳の命にまをしたまはく、「なねが命、つはものを持ちて入りて、當藝志美美を殺せたまへ」とまをしたまひき。かれつはものを持ちて、入りてせむとする時に、手足わななきてえ殺せたまはず。かれここにそのいろと神沼河耳の命、その兄の持てるつはものを乞ひ取りて、入りて當藝志美美をせたまひき。かれまたその御名をたたへて、建沼河耳たけぬなかはみみの命とまをす。

 ここに神八井耳の命、弟建沼河耳の命に讓りてまをしたまはく、「は仇をえ殺せず、が命は既にえ殺せたまひぬ。かれ吾は兄なれども、かみとあるべからず。ここを以ちて汝が命、上とまして、天の下らしめせ。やつこは汝が命をたすけて、忌人いはひびととなりて仕へまつらむ」とまをしたまひき。かれその日子八井の命は、茨田うまらたの連、手島の連が祖。神八井耳の命は、意富おほの臣小子部ちひさこべの連、坂合部の連、火の君、大分おほきたの君、阿蘇の君、筑紫の三家みやけの連、雀部さざきべの臣、雀部の造、小長谷をはつせの造、都祁つげの直、伊余の國の造、科野しなのの國の造、道の奧の石城いはきの國の造、常道ひたちの仲の國の造、長狹の國の造、伊勢の船木の直、尾張の丹波にはの臣、島田の臣等が祖なり。神沼河耳の命は天の下らしめしき。

 およそこの神倭伊波禮毘古の天皇、御年一百三十七歳ももちまりみそまりななつ御陵みはかは畝火山の北の方白檮かしの尾の上にあり。


一 トヰは、動搖する意の動詞。トヰナミ(萬葉集)のトヰと同語。

二 武器を持つて。

三 潔齋をして無事を祈る人。祭をおこなう人。

四 古事記の撰者太の安麻呂の系統。


〔二、綏靖天皇以後八代〕


〔綏靖天皇〕

 神沼河耳の命葛城かづらき高岡たかをかの宮にましまして、天の下らしめしき。この天皇、師木の縣主の祖、河俣かはまた毘賣にひて、生みませる御子、師木津日子玉手見しきつひこたまでみの命一柱。天皇、御年四十五歳よそぢあまりいつつ、御陵は衝田つきだの岡にあり。


一 綏靖天皇。以下八代は、多少の插入はあろうが、大體帝紀の形が殘つていると考えられる。

二 奈良縣高市郡。神武天皇陵の北にある。


〔安寧天皇〕

 師木津日子玉手見の命片鹽かたしほ浮穴うきあなの宮にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、河俣かはまた毘賣の兄縣主波延はえが女、阿久斗あくと比賣にひて、生みませる御子、常根津日子伊呂泥とこねつひこいろねの命、次に大倭日子鉏友おほやまとひこすきともの命、次に師木津日子しきつひこの命。この天皇の御子たち并せて、三柱の中、大倭日子鉏友の命は、天の下治らしめしき。次に師木津日子の命の御子二柱ます。一柱の子孫は、伊賀の須知の稻置いなき、那婆理の稻置、三野の稻置が祖なり。一柱の御子和知都美わちつみの命は、淡道あはぢ御井みゐの宮にましき。かれこのみこむすめ二柱ましき。いろねの名は繩伊呂泥はへいろね、またの名は意富夜麻登久邇阿禮おほやまとくにあれ比賣の命、いろとの名は繩伊呂杼はへいろとどなり

 天皇、御年四拾九歳よそぢあまりここのつ、御陵は畝火山の美富登みほとにあり。


一 安寧天皇。

二 奈良縣北葛城郡。

三 兵庫縣三原郡。

四 この二女王は、孝靈天皇の妃。

五 畝火山の南のくぼみにある。


〔懿徳天皇〕

 大倭日子鉏友おほやまとひこすきともの命かる境岡さかひをかの宮にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、師木の縣主の祖、賦登麻和訶ふとまわか比賣の命、またの名は飯日いひひ比賣の命に娶ひて、生みませる御子、御眞津日子訶惠志泥みまつひこかゑしねの命、次に多藝志比古たぎしひこの命二柱。かれ御眞津日子訶惠志泥みまつひこかゑしねの命は、天の下治らしめしき。次に當藝志比古の命は、血沼の別、多遲麻の竹の別、葦井の稻置が祖なり。

 天皇、御年四十五歳よそぢあまりいつつ、御陵は畝火山の眞名子谷まなごだにの上にあり。


一 懿徳天皇。

二 奈良縣高市郡。

三 畝火山の南。


〔孝昭天皇〕

 御眞津日子訶惠志泥みまつひこかゑしねの命、葛城の掖上わきがみの宮にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、尾張のむらじの祖、奧津余曾おきつよそが妹、名は余曾多本毘賣よそたほびめの命に娶ひて、生みませる御子、天押帶日子あめおしたらしひこの命、次に大倭帶日子國押人おほやまとたらしひこくにおしびとの命二柱。かれいろと帶日子國押人たらしひこくにおしびとの命は、天の下治らしめしき。いろせ天押帶日子あめおしたらしひこの命は、春日の臣、大宅の臣、粟田の臣、小野の臣、柿本の臣、壹比韋の臣、大坂の臣、阿那の臣、多紀の臣、羽栗の臣、知多の臣、牟耶の臣、都怒山の臣、伊勢の飯高の君、壹師の君、近つ淡海の國の造が祖なり。

 天皇、御年九十三歳ここのそぢまりみつ、御陵は掖上の博多はかた山の上にあり。


一 孝昭天皇。

二 奈良縣南葛城郡。

三 同前。


〔孝安天皇〕

 大倭帶日子國押人おほやまとたらしひこくにおしびとの命、葛城のむろ秋津島あきづしまの宮にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、姪忍鹿おしが比賣の命に娶ひて、生みませる御子、大吉備おほきび諸進もろすすの命、次に大倭根子日子賦斗邇おほやまとねこひこふとにの命二柱。かれ大倭根子日子賦斗邇おほやまとねこひこふとにの命は、天の下治らしめしき。

 天皇、御年一百二十三歳ももちあまりはたちみつ、御陵は玉手たまての岡のにあり。


一 孝安天皇。

二 奈良縣南葛城郡。

三 同前。


〔孝靈天皇〕

 大倭根子日子賦斗邇おほやまとねこひこふとにの命黒田くろだ廬戸いほどの宮にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、十市とをちの縣主の祖、大目おほめが女、名はくはし比賣の命に娶ひて、生みませる御子、大倭根子日子國玖琉おほやまとねこひこくにくるの命一柱。また春日かすが千千速眞若ちぢはやまわか比賣に娶ひて、生みませる御子、千千速ちぢはや比賣の命一柱。また意富夜麻登玖邇阿禮おほやまとくにあれ比賣の命に娶ひて、生みませる御子、夜麻登登母母曾毘賣やまととももそびめの命、次に日子刺肩別ひこさしかたわけの命、次に比古伊佐勢理毘古ひこいさせりびこの命、またの名は大吉備津日子おほきびつひこの命、次に倭飛羽矢若屋やまととびはやわかや比賣四柱。またその阿禮あれ比賣の命の弟、繩伊呂杼はへいろどに娶ひて、生みませる御子、日子寤間ひこさめまの命、次に若日子建吉備津日子わかひこたけきびつひこの命二柱。この天皇の御子たち、并はせて八柱ませり。男王五柱、
女王三柱。
かれ大倭根子日子國玖琉おほやまとねこひこくにくるの命は、天の下治らしめしき。大吉備津日子おほきびつひこの命と若建吉備津日子わかたけきびつひこの命とは、二柱相たぐはして、針間はりまかはさき忌瓮いはひべゑて、針間を道の口として、吉備の國言向ことむやはしたまひき。かれこの大吉備津日子の命は、吉備の上つ道の臣が祖なり。次に若日子建吉備津日子の命は、吉備の下つ道の臣、笠の臣が祖なり。次に日子寤間ひこさめまの命は、針間はりまの牛鹿の臣が祖なり。次に日子刺肩別ひこさしかたわけの命は、高志こし利波となみの臣、豐國の國前の臣、五百原の君、角鹿つぬがの濟の直が祖なり。

 天皇、御年一百六歳ももちまりむつ、御陵は片岡の馬坂うまさかの上にあり。


一 孝靈天皇。

二 奈良縣磯城郡。

三 兵庫縣加古郡。

四 清らかな酒瓶を置いて神を祭り行旅の無事を祈る。

五 播磨の國を道の入口として。

六 後の備前美作備中備後の四國の總稱。

七 奈良縣北葛城郡。


〔孝元天皇〕

 大倭根子日子國玖琉おほやまとねこひこくにくるの命かる堺原さかひはらの宮にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、穗積ほづみの臣等が祖、内色許男うつしこをの命が妹、内色許賣うつしこめの命に娶ひて、生みませる御子、大毘古おほびこの命、次に少名日子建猪心すくなひこたけゐごころの命、次に若倭根子日子大毘毘わかやまとねこひこおほびびの命三柱。また内色許男うつしこをの命が女、伊迦賀色許賣いかがしこめの命に娶ひて、生みませる御子、比古布都押ひこふつおしまことの命一柱。また河内の青玉あをたまが女、名は波邇夜須はにやす毘賣に娶ひて、生みませる御子、建波邇夜須毘古たけはにやすびこの命一柱。この天皇の御子たち、并はせて五柱ませり。かれ若倭根子日子大毘毘わかやまとねこひこおほびびの命は、天の下治らしめしき。その兄大毘古おほびこの命の子、建沼河別たけぬなかはわけの命は、阿部の臣等が祖なり。次に比古伊那許士別ひこいなこじわけの命、こは膳の臣が祖なり。比古布都押ひこふつおしまことの命、尾張をはりむらじ等が祖、意富那毘おほなびが妹、葛城かづらき高千那毘賣たかちなびめに娶ひて、生みませる子、味師内うましうち宿禰すくね、こは山代の内の臣が祖なり。またくにみやつこが祖、宇豆比古うづひこが妹、山下影やましたかげ日賣に娶ひて、生みませる子、建内たけしうち宿禰すくね。この建内の宿禰の子、并はせて九人ここのたり男七柱、
女二柱。
波多の八代の宿禰は、波多の臣、林の臣、波美の臣、星川の臣、淡海の臣、長谷部の君が祖なり。次に許勢こせ小柄をからの宿禰は、許勢の臣、雀部の臣、輕部の臣が祖なり。次に蘇賀そが石河いしかは宿禰すくねは、蘇我の臣、川邊の臣、田中の臣、高向の臣、小治田の臣、櫻井の臣、岸田の臣等が祖なり。次に平群へぐり都久つくの宿禰は、平群の臣、佐和良の臣、馬の御樴みくひの連等が祖なり。次につのの宿禰は、木の臣、都奴の臣、坂本の臣等が祖なり。次に久米くめ摩伊刀まいと比賣、次に伊呂いろ比賣、次に葛城かづらき長江ながえ曾都そつ毘古は、玉手の臣、的の臣、生江の臣、阿藝那の臣等が祖なり。また若子わくごの宿禰は、江野の財の臣が祖なり。

 この天皇、御年五十七歳いそぢあまりななつ、御陵はつるぎいけなかをかの上にあり。


一 孝元天皇。

二 奈良縣高市郡。

三 九四頁に事蹟がある。

四 一二〇頁以下に事蹟がある。この子孫は勢力を得たので、その子を詳記してあるが、帝紀としては加筆であろう。

五 奈良縣高市郡。


〔開化天皇〕

 若倭根子日子大毘毘わかやまとねこひこおほびびの命春日かすが伊耶河いざかはの宮にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、旦波たには大縣主おほあがたぬし、名は由碁理ゆごりむすめ竹野たかの比賣に娶ひて、生みませる御子、比古由牟須美ひこゆむすみの命一柱。また庶母みままはは伊迦賀色許賣いかがしこめの命に娶ひて、生みませる御子、御眞木入日子印惠みまきいりひこいにゑの命、次に御眞津みまつ比賣の命二柱。また丸邇わにの臣の祖、日子國意祁都ひこくにおけつの命が妹、意祁都おけつ比賣の命に娶ひて、生みませる御子、日子坐ひこいますの王一柱。また葛城かづらき垂見たるみの宿禰が女、わし比賣に娶ひて生みませる御子、建豐波豆羅和氣たけとよはつらわけの王一柱。この天皇の御子たち、并はせて五柱男王四柱、
女王一柱。
かれ御眞木入日子印惠みまきいりひこいにゑの命は、天の下治らしめしき。そのみこのかみ比古由牟須美ひこゆむすみの王の御子、大筒木垂根おほつつきたりねの王、次に讚岐垂根さぬきたりねの王二柱。この二柱の王の女、五柱ましき。次に日子坐ひこいますの王、山代やましろ荏名津えなつ比賣、またの名は苅幡戸辨かりはたとべに娶ひて生みませる子、大俣おほまたの王、次に小俣をまたの王、次に志夫美しぶみ宿禰すくねの王三柱。また春日かすが建國勝戸賣たけくにかつとめが女、名は沙本さほ大闇見戸賣おほくらみとめに娶ひて、生みませる子、沙本毘古さほびこの王、次に袁耶本をざほの王、次に沙本さほ毘賣の命、またの名は佐波遲さはぢ比賣、この沙本毘賣の命は伊久米
の天皇の后となりたまへり。
次に室毘古むろびこの王四柱。またちか淡海あふみ御上みかみはふりがもちいつくあめ御影みかげの神が女、息長おきなが水依みづより比賣に娶ひて、生みませる子、丹波たには比古多多須美知能宇斯ひこたたすみちのうしの王、次に水穗みづほ眞若まわかの王、次に神大根かむおほねの王、またの名は八瓜やつり入日子いりひこの王、次に水穗みづほ五百依いほより比賣、次に御井津みゐつ比賣五柱。またその母の弟袁祁都をけつ比賣の命に娶ひて、生みませる子、山代やましろ大筒木おほつつき眞若まわかの王、次に比古意須ひこおすの王、次に伊理泥いりねの王三柱。およそ日子坐ひこいますの王の子、并はせて十五王とをまりいつはしら。かれこのかみ大俣おほまたの王の子、曙立あけたつの王、次に菟上うがかみの王二柱。この曙立あけたつの王は、伊勢の品遲ほむぢ部、伊勢の佐那の造が祖なり。菟上うながみの王は、比賣陀の君が祖なり。次に小俣をまたの王は當麻の勾の君が祖なり。次に志夫美しぶみ宿禰すくねの王は佐佐の君が祖なり。次に沙本毘古さほびこの王は、日下部の連、甲斐の國の造が祖なり。次に袁耶本をざほの王は、葛野の別、近つ淡海の蚊野の別が祖なり。次に室毘古むろびこの王は、若狹の耳の別が祖なり。その美知能宇志みちのうしの王、丹波たにはの河上の摩須ます郎女いらつめに娶ひて、生みませる子、比婆須ひばす比賣の命、次に眞砥野まとの比賣の命、次におと比賣の命、次に朝廷別みかどわけの王四柱。この朝廷別みかどわけの王は、三川の穗の別が祖なり。この美知能宇斯みちのうしの王の弟、水穗みづほ眞若まわかの王は、近つ淡海の安の直が祖なり。次に神大根かむおほねの王は、三野の國の造、本巣の國の造、長幡部の連が祖なり。次に山代やましろ大筒木眞若おほつつきまわかの王、同母弟いろせ伊理泥いりねの王が女、丹波の阿治佐波あぢさは毘賣に娶ひて、生みませる子、迦邇米雷かにめいかづちの王、この王、丹波たには遠津とほつの臣が女、名は高材たかき比賣に娶ひて、生みませる子、息長おきながの宿禰の王、この王、葛城かづらき高額たかぬか比賣に娶ひて、生みませる子、息長帶おきながたらし比賣の命、次に虚空津そらつ比賣の命、次に息長日子おきながひこの王三柱。この王は吉備の品遲の君、針間の阿宗の君が祖なり。また息長おきながの宿禰の王、河俣かはまた稻依いなより毘賣に娶ひて、生みませる子、大多牟坂おほたむさかの王、こは多遲摩の國の造が祖なり。かみにいへる建豐波豆羅和氣たけとよはづらわけの王は道守の臣、忍海部の造、御名部の造、稻羽の忍海部、丹波の竹野の別、依網の阿毘古等が祖なり。

 天皇、御年六十三歳むそぢまりみつ、御陵は伊耶河いざかはの坂の上にあり。


一 開化天皇。

二 奈良市。

三 垂仁天皇。九八頁にこの皇后の物語がある。

四 滋賀縣野洲郡の三上の神職が祭る。

五 一〇二頁に物語がある。

六 以下の諸女王のこと、一〇四頁に物語があるが人數などに相違がある。

七 奈良市。


〔三、崇神天皇〕


〔后妃と皇子女〕

 御眞木入日子印惠みまきいりひこいにゑの命師木しき水垣みづかきの宮にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、木の國の造、名は荒河戸辨あらかはとべが女、遠津年魚目目微比賣とほつあゆめまくはしひめに娶ひて、生みませる御子、豐木入日子とよきいりひこの命、次に豐鉏入日賣とよすきいりひめの命二柱。また尾張をはりの連が祖意富阿麻おほあま比賣に娶ひて、生みませる御子、大入杵おほいりきの命、次に八坂やさか入日子いりひこの命、次に沼名木ぬなきの入日賣の命、次に十市とをちの入日賣の命四柱。また大毘古おほびこの命が女、御眞津みまつ比賣の命に娶ひて、生みませる御子、伊玖米入日子伊沙知いくめいりひこいさちの命、次に伊耶いざ眞若まわかの命、次に國片くにかた比賣の命、次に千千都久和ちぢつくやまと比賣の命、次に伊賀いが比賣の命、次に倭日子やまとひこの命六柱。この天皇の御子たち、并せて十二柱男王七、女
王五なり。
かれ伊久米伊理毘古伊佐知いくめいりびこいさちの命は、天の下治らしめしき。次に豐木入日子とよきいりひこの命は、上つ毛野、下つ毛野の君等が祖なり。妹豐鉏とよすき比賣の命は伊勢の大神の宮をいつき祭りたまひき。次に大入杵おほいりきの命は、能登の臣が祖なり。次に倭日子やまとひこの命は、この王の時に始めて陵に人垣を立てたり


一 崇神天皇。

二 奈良縣磯城郡。

三 人を埋めて垣とするもの。


〔美和の大物主〕

 この天皇の御世に「役病えやみさはに起り、人民おほみたから盡きなむとしき。ここに天皇愁歎うれへたまひて、神牀かむとこにましましける夜に、大物主おほものぬし大神おほかみ、御夢に顯はれてのりたまひしく、「こはが御心なり。かれ意富多多泥古おほたたねこをもちて、我が御前に祭らしめたまはば、神の起らず、國も安平やすらかならむ」とのりたまひき。ここを以ちて、驛使はゆまづかひ四方よもあかちて、意富多多泥古おほたたねこといふ人を求むる時に、河内の美努みのの村にその人を見得て、たてまつりき。ここに天皇問ひたまはく、「いましは誰が子ぞ」と問ひたまひき。答へて白さく「は大物主の大神、陶津耳すゑつみみの命が女、活玉依いくたまより毘賣に娶ひて生みませる子、名は櫛御方くしみかたの命の子、飯肩巣見いひがたすみの命の子、建甕槌たけみかづちの命の子、やつこ意富多多泥古」とまをしき。

 ここに天皇いたく歡びたまひて、詔りたまはく、「天の下平ぎ、人民おほみたから榮えなむ」とのりたまひて、すなはち意富多多泥古の命を、神主かむぬしとして、御諸山に、意富美和おほみわの大神の御前をいつき祭りたまひき。また伊迦賀色許男いかがしこをの命に仰せて、天の八十平瓮やそひらかを作り、天つ神くにかみの社を定めまつりたまひき。また宇陀うだ墨坂すみさかの神に、赤色の楯矛たてほこを祭り、また大坂おほさかの神一〇に、墨色の楯矛を祭り、またさか御尾みをの神、かはの神までに、悉に遺忘おつることなく幣帛ぬさまつりたまひき。これに因りて悉にみて、國家みかど安平やすらぎき。

 この意富多多泥古といふ人を、神の子と知れる所以ゆゑは、上にいへる活玉依いくたまより毘賣、それ顏好かりき。ここに壯夫をとこありて、その形姿かたち威儀よそほひ時にたぐひ無きが、夜半さよなかの時にたちまち來たり。かれ相感でて共婚まぐはひして、住めるほどに、いまだ幾何いくだもあらねば、その美人をとめはらみぬ。

 ここに父母、そのはらめる事を怪みて、その女に問ひて曰はく、「いましはおのづからはらめり。ひこぢ無きにいかにかもはらめる」と問ひしかば、答へて曰はく、「うるはしき壯夫をとこの、その名も知らぬが、ごとに來りて住めるほどに、おのづからにはらみぬ」といひき。ここを以ちてその父母、その人を知らむとおもひて、その女にをしへつらくは、「赤土はにを床の邊に散らし、卷子紡麻へそをを針にきて、その衣のすそに刺せ」とをしへき一一。かれ教へしが如して、旦時あしたに見れば、針をつけたるは、戸の鉤穴かぎあなよりき通りて出で、ただのこれる一二は、三勾みわのみなりき。

 ここにすなはち鉤穴より出でし状を知りて、絲のまにまに尋ね行きしかば、美和山に至りて、神の社に留まりき。かれその神の御子なりとは知りぬ。かれその三勾みわのこれるによりて、其地そこに名づけて美和みわといふなり。この意富多多泥古の命は、みわの君、鴨の君が祖なり。


一 神に祈つて寢る床。夢に神意を得ようとする。

二 神のたたり。

三 馬に乘つて行く使。

四 大阪府中河内郡。日本書紀には茅渟の縣の陶の村としている。これは和泉の國である。

五 神のよりつく人。

六 奈良縣磯城郡の三輪山。

七 多くの平たい皿。既出の語。

八 奈良縣宇陀郡。大和の中央部から見て東方の通路の坂。

九 奉ることによつて祭をする。神に武器を奉つて魔物の入り來るを防ごうとする思想。

一〇 奈良縣北葛城郡二上山の北方を越える坂。大和の中央部から西方の坂。

一一 人間ならざる者の正體を見現すために行う。ヘソヲは絲卷にまいた麻。

一二 絲卷に殘つた麻。


〔將軍の派遣〕

 またこの御世に、大毘古おほびこの命高志こしみちに遣し、その子建沼河別たけぬなかはわけの命をひむがしの方十二とをまりふたに遣して、そのまつろはぬ人どもを言向けやはさしめ、また日子坐ひこいますみこをば、旦波たにはの國に遣して、玖賀耳くがみみ御笠みかさこは人の
名なり。
らしめたまひき。

 かれ大毘古おほびこの命、高志こしの國に罷りでます時に、腰裳こしもせる少女をとめ、山代の幣羅坂へらさかに立ちて、歌よみして曰ひしく、

御眞木入日子みまきいりびこはや、

御眞木入日子はや、

おのがを ぬすせむと、

しりよ い行きたが

まへつ戸よ い行き違ひ

窺はく 知らにと

御眞木入日子はや。  (歌謠番號二三)

と歌ひき。ここに大毘古おほびこの命、怪しと思ひて、馬を返して、その少女に問ひて曰はく、「いましがいへる言は、いかに言ふぞ」と問ひしかば、少女答へて曰はく、「は言ふこともなし。ただ歌よみしつらくのみ」といひて、その行くも見えずして忽に失せぬ。かれ大毘古の命、更に還りまゐ上りて、天皇にまをす時に、天皇答へて詔りたまはく、「こは山代の國なる我が庶兄まませ建波邇安たけはにやすの王の、きたなき心を起せるしるしならむ。伯父、軍を興して、行かさね」とのりたまひて、丸邇わにおみの祖、日子國夫玖ひこくにぶくの命を副へて、遣す時に、すなはち丸邇坂わにさか忌瓮いはひべゑて、罷りでましき。

 ここに山代の和訶羅わから一〇に到れる時に、その建波邇安の王、軍を興して、待ち遮り、おのもおのも河を中にはさみて、き立ちて相いどみき。かれ其地そこに名づけて、伊杼美いどみといふ。今は伊豆美
といふ。
ここに日子國夫玖ひこくにぶくの命、「其方そなたの人まづ忌矢いはひやを放て」と乞ひいひき。ここにその建波邇安の王射つれどもえ中てず。ここに國夫玖くにぶくの命の放つ矢は、建波邇安の王を射てころしき。かれその軍、悉に破れて逃げあらけぬ。ここにその逃ぐる軍を追ひめて、久須婆くすばわたり一一に到りし時に、みな迫めらえたしなみて、くそ出でて、はかまに懸かりき。かれ其地そこに名づけて屎褌くそはかまといふ。今は久須婆
といふ。
またその逃ぐる軍を遮りて斬りしかば、鵜のごと河に浮きき。かれその河に名づけて、鵜河といふ。またその軍士いくさびとを斬りはふりき。かれ、其地に名づけて波布理曾能はふりその一二といふ。かくことむけ訖へて、まゐ上りてかへりごとまをしき。

 かれ大毘古おほびこの命は、先の命のまにまに、高志こしの國に罷りでましき。ここに東の方より遣しし建沼河別たけぬなかはわけ、その父大毘古おほびこと共に、相津あひづ一三に往き遇ひき。かれ其地そこ相津あひづといふ。ここを以ちておのもおのも遣さえし國の政をやはし言向けて、かへりごとまをしき。

 ここに天の下平ぎ、人民おほみたから富み榮えき。ここに初めてをとこ弓端ゆはず調みつき一四をみな手末たなすゑの調一五たてまつらしめたまひき。かれその御世をたたへて、はつ國知らしし一六御眞木みまきの天皇とまをす。またこの御世に、依網よさみの池一七を作り、またかる酒折さかをりの池一八を作りき。

 天皇、御歳一百六十八歳ももぢあまりむそぢやつ戊寅の年の十二月
に崩りたまひき。
御陵は、やまみちまがりをか一九にあり。


一 孝元天皇の御子。

二 十二國に同じ。伊勢(志摩を含む)、尾張、參河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武藏、總(上總、下總、安房)、常陸、陸奧の十二國であるという。

三 京都府の北部。

四 腰に裳をつけた少女。裳は女子の腰部にまとう衣服。

五 大和の國から山城の國に越えた所の坂。

六 崇神天皇。

七 後方の戸から人目をはずして。

八 窺うことを知らずにと、ニは打消の助動詞ヌの連用形。

九 神が少女に化して教えた意になる。

一〇 木津川の別名。

一一 大阪府北河内郡淀川の渡り場。

一二 京都府相樂郡。

一三 福島縣の會津。

一四 男子が弓によつて得た物の貢物。獸皮の類をいう。

一五 女子の手藝によつて得た物の貢物。織物、絲の類。

一六 新しい土地を領有した。

一七 大阪市東成區。

一八 奈良縣高市郡。

一九 奈良縣磯城郡。


〔四、垂仁天皇〕


〔后妃と皇子女〕

 伊久米伊理毘古伊佐知いくめいりびこいさちの命師木しき玉垣たまがきの宮にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、沙本毘古さほびこの命が妹、佐波遲さはぢ比賣の命に娶ひて、生みませる御子、品牟都和氣ほむつわけの命一柱。また旦波たには比古多多須美知能宇斯ひこたたすみちのうしの王が女、氷羽州ひばす比賣の命に娶ひて、生みませる御子、印色いにしき入日子いりひこの命、次に大帶日子淤斯呂和氣おほたらしひこおしろわけの命、次に大中津日子おほなかつひこの命、次にやまと比賣の命、次に若木わかき入日子いりひこの命五柱。またその氷羽州ひばす比賣の命が弟、沼羽田ぬばたいり毘賣の命に娶ひて、生みませる御子、沼帶別ぬたらしわけの命、次に伊賀帶日子いがたらしひこの命二柱。またその沼羽田ぬばたいり日賣の命が弟、阿耶美あざみ伊理いり毘賣の命に娶ひて、生みませる御子、伊許婆夜和氣いこばやわけの命、次に、阿耶美都あざみつ比賣の命二柱。また大筒木垂根おほつつきたりねの王が女、迦具夜かぐや比賣の命に娶ひて、生みませる御子、袁那辨をなべの王一柱。また山代の大國おほくにふちが女、苅羽田刀辨かりばたとべに娶ひて、生みませる御子、落別おちわけの王、次に五十日帶日子いかたらしひこの王、次に伊登志別いとしわけの王三柱。またその大國おほくにふちが女、弟苅羽田刀辨おとかりばたとべに娶ひて、生みませる御子、石衝別いはつくわけの王、次に石衝いはつく毘賣の命、またの名は布多遲ふたぢ伊理いり毘賣の命二柱。およそこの天皇の御子等、十六王とをまりむはしらませり。男王十三柱、
女王三柱。

 かれ大帶日子淤斯呂和氣おほたらしひこおしろわけの命は、天の下治らしめしき。御身のたけ一丈二寸、御脛
の長さ四尺一寸ましき。
次に印色いにしき入日子いりひこの命は、血沼ちぬの池を作り、また狹山さやまの池を作り、また日下くさか高津たかつの池を作りたまひき。また鳥取ととりの河上の宮にましまして、横刀たち仟口ちぢを作らしめたまひき。こをいそかみの神宮に納めまつる。すなはちその宮にましまして、河上部を定めたまひき。次に大中津日子おほなかつひこの命は、山邊の別、三枝の別、稻木の別、阿太の別、尾張の國の三野の別、吉備の石なしの別、許呂母の別、高巣鹿の別、飛鳥の君、牟禮の別等が祖なり。次にやまと比賣の命は、伊勢の大神の宮をいつき祭りたまひき。次に伊許婆夜和氣いこばやわけの王は、沙本の穴本あなほ部の別が祖なり。次に阿耶美都あざみつ比賣の命は、稻瀬毘古の王にひましき。次に落別おちわけの王は、小目の山の君、三川の衣の君が祖なり。次に日帶日子かたらしひこの王は、春日の山の君、高志の池の君、春日部の君が祖なり。次に伊登志和氣いとしわけの王は、子なきに因りて、子代として、伊登志部を定めき。次に石衝別いはつくわけの王は、羽咋はくひの君、三尾の君が祖なり。次に布多遲ふたぢ伊理いり毘賣の命は、倭建の命の后となりたまひき。


一 垂仁天皇。

二 奈良縣磯城郡。

三 沙本毘賣に同じ。開化天皇の皇女。

四 以下の三后妃は、開化天皇の卷に見え、また下に見える。その條參照。

五 大阪府泉南郡。

六 大阪府南河内郡。

七 大阪府泉南郡。

八 奈良縣山邊郡の石上の神宮。

九 人民の集團に縁故のある名をつけて記念とし、またこれを支配する。以下、何部を定めたという記事が多い。


〔沙本毘古の叛亂〕

 この天皇、沙本さほ毘賣を后としたまひし時に、沙本さほ毘賣の命のいろせ沙本毘古さほびこの王、その同母妹いろもに問ひて曰はく、「いろせとはいづれかしき」と問ひしかば、答へて曰はく「兄を愛しとおもふ」と答へたまひき。ここに沙本毘古さほびこの王、謀りて曰はく、「みましまことにあれを愛しと思ほさば、吾と汝と天の下治らさむとす」といひて、すなはち八鹽折やしほり紐小刀ひもがたなを作りて、そのいろもに授けて曰はく、「この小刀もちて、天皇のみねしたまふを刺しせまつれ」といふ。かれ天皇、その謀をらしめさずて、その后の御膝をきて、御寢したまひき。ここにその后、紐小刀もちて、その天皇の御頸おほみくびを刺しまつらむとして、三度りたまひしかども、かなしとおもふ情にえへずして、御頸をえ刺しまつらずて、泣く涙、御面おほみおもに落ちあふれき。天皇驚き起ちたまひて、その后に問ひてのりたまはく、「しきいめを見つ。沙本さほかたより、暴雨はやさめり來て、にはかに吾が面をぬらしつ。また錦色の小蛇へみ、我が頸にまつはりつ。かかる夢は、こは何のしるしにあらむ」とのりたまひき。ここにその后、爭ふべくもあらじとおもほして、すなはち天皇に白して言さく、「妾が兄沙本毘古さほびこの王、妾に、夫と兄とはいづれかしきと問ひき。ここにえ面勝たずて、かれ妾、兄を愛しとおもふと答へ曰へば、ここに妾にあとらへて曰はく、吾と汝と天の下を治らさむ。かれ天皇をせまつれといひて、八鹽折やしほりの紐小刀を作りて妾に授けつ。ここを以ちて御頸を刺しまつらむとして、三度りしかども、哀しとおもふ情忽に起りて、頸をえ刺しまつらずて、泣く涙の落ちて、御面を沾らしつ。かならずこのしるしにあらむ」とまをしたまひき。

 ここに天皇詔りたまはく、「吾はほとほとに欺かえつるかも」とのりたまひて、軍を興して、沙本毘古さほびこの王をちたまふ時に、その王稻城いなぎを作りて、待ち戰ひき。この時沙本毘賣さほびめの命、その兄にえへずして、しりつ門より逃れ出でて、その稻城いなぎりましき。

 この時にその后はらみましき。ここに天皇、その后の、懷姙みませるに忍へず、また愛重めぐみたまへることも、三年になりにければ、その軍を𢌞かへしてすむやけくも攻めたまはざりき。かく逗留とどこほる間に、そのはらめる御子既にれましぬ。かれその御子を出して、稻城いなぎの外に置きまつりて、天皇に白さしめたまはく、「もしこの御子を、天皇の御子と思ほしめさば、治めたまふべし」とまをしたまひき。ここに天皇りたまはく、「その兄をきらひたまへども、なほその后を愛しとおもふにえ忍へず」とのりたまひて、后を得むとおもふ心ましき。ここを以ちて軍士いくさびとの中に力士ちからびと輕捷はやきを選りつどへて、宣りたまはくは、「その御子を取らむ時に、その母王ははみこをもかそひ取れ。御髮にもあれ、御手にもあれ、取り獲むまにまに、つかみてき出でよ」とのりたまひき。ここにその后、あらかじめその御心を知りたまひて、悉にその髮を剃りて、その髮もちてその頭を覆ひ、また玉の緒をくたして、御手に三重かし、また酒もちて御衣みけしを腐して、全きみそのごとせり。かく設け備へて、その御子をうだきて、城の外にさし出でたまひき。ここにその力士ちからびとども、その御子を取りまつりて、すなはちその御祖みおやりまつらむとす。ここにその御髮をれば、御髮おのづから落ち、その御手をれば、玉の緒また絶え、その御衣みけしれば、御衣すなはち破れつ。ここを以ちてその御子を取り獲て、その御おやをばえとりまつらざりき。かれその軍士ども、還り來て、まをして言さく、「御髮おのづから落ち、御衣破れ易く、御手にかせる玉の緒もすなはち絶えぬ。かれ御祖を獲まつらず、御子を取り得まつりき」とまをす。ここに天皇悔い恨みたまひて、玉作りし人どもをにくまして、そのところをみなりたまひき。かれことわざに、ところ得ぬ玉作りといふなり。

 また天皇、その后に命詔みことのりしたまはく、「およそ子の名は、かならず母の名づくるを、この子の御名を、何とかいはむ」と詔りたまひき。ここに答へて白さく、「今火の稻城いなぎを燒く時に、中にれましつ。かれその御名は、本牟智和氣ほむちわけ御子みことまをすべし」とまをしたまひき。また命詔したまはく「いかにして日足ひたしまつらむ」とのりたまへば、答へて白さく、「御母みおもを取り、大湯坐おほゆゑ若湯坐わかゆゑを定めて、日足しまつるべし」とまをしたまひき。かれその后のまをしたまひしまにまに、日足ひたしまつりき。またその后に問ひたまはく、「みましの堅めしみづ小佩をひも一〇は、誰かも解かむ」とのりたまひしかば、答へて白さく、「旦波たには比古多多須美智能宇斯ひこたたすみちのうしみこが女、名は兄比賣えひめ弟比賣おとひめ、この二柱の女王ひめみこ、淨き公民おほみたからにませば、使ひたまふべし」とまをしたまひき。然ありて遂にその沙本比古さほひこの王をりたまへるに、その同母妹いろもも從ひたまひき。


一 色濃く染めた紐のついている小刀。この紐、下の錦色の小蛇というのに關係がある。

二 奈良市佐保。佐本毘古の王の居所。

三 あぶなくだまされる所だつた。ホトホトニは、ほとんど。

四 稻を積んだ城。俵を積んだのだろう。

五 かすめ取れ。

六 玉作りは、土地を持たないという諺のもとだという。

七 ホが火を意味し、ムチは尊稱、ワケは若い御方の義の名。

八 日を足して成育させる。

九 赤子の湯を使う人。そのおもな役と若い方の役。

一〇 妻が男の衣の紐を結ぶ風習による。ミヅは美稱。生氣のある意。


本牟智和氣ほむちわけの御子〕

 かれその御子をて遊ぶさまは、尾張の相津なる二俣榲ふたまたすぎ二俣小舟ふたまたをぶねに作りて、持ち上り來て、やまと市師いちしの池かるの池に浮けて、その御子をて遊びき。然るにこの御子、八拳鬚心前つかひげむなさきに至るまでにまこととはず。かれ今、高往くたづが音を聞かして、始めてあぎとひたまひき。ここに山邊やまべ大鶙おほたかこは人の
名なり。
を遣して、その鳥を取らしめき。かれこの人、その鵠を追ひ尋ねて、の國より針間はりまの國に到り、また追ひて稻羽いなばの國に越え、すなはち旦波たにはの國多遲麻たぢまの國に到り、東の方に追ひ𢌞りて、ちか淡海あふみの國に到り、三野みのの國に越え、尾張をはりの國より傳ひて科野しなのの國に追ひ、遂に高志こしの國に追ひ到りて、和那美わなみ水門みなとに網を張り、その鳥を取りて、持ち上りて獻りき。かれその水門に名づけて和那美わなみ水門みなとといふなり。またその鳥を見たまへば、物言はむと思ほして、思ほすがごと言ひたまふ事なかりき。

 ここに天皇患へたまひて、御寢みねませる時に、御夢にさとしてのりたまはく、「我が宮を、天皇おほきみ御舍みあらかのごと修理をさめたまはば、御子かならずまごととはむ」とかく覺したまふ時に、太卜ふとまにうらへて、「いづれの神の御心ぞ」と求むるに、ここにたたりたまふは、出雲いづもの大神の御心なり。かれその御子を、その大神の宮ををろがましめに遣したまはむとする時に、誰をたぐへしめばけむとうらなふに、ここに曙立あけたつの王うらへり。かれ曙立あけたつの王におほせて、うけひ白さしむらく一〇、「この大神を拜むによりて、まことしるしあらば、このさぎの池一一の樹に住める鷺を、うけひ落ちよ」と、かく詔りたまふ時に、うけひてその鷺つちに墮ちて死にき。また「うけひ活け」と詔りたまひき。ここにうけひしかば、更に活きぬ。また甜白檮あまがしさき一二なる葉廣熊白檮はびろくまがし一三をうけひ枯らし、またうけひ生かしめき。ここにその曙立あけたつの王に、やまと師木しき登美とみ豐朝倉とよあさくら曙立あけたつの王といふ名を賜ひき。すなはち曙立あけたつの王菟上うながみの王二王ふたばしらを、その御子に副へて遣しし時に、那良戸ならど一四よりはあしなへめしひ遇はむ。大阪戸一五よりもあしなへめしひ遇はむ。ただ木戸一六掖戸わきどの吉き戸一七と卜へて、いでましし時に、到りますところごとに品遲部ほむぢべを定めたまひき。

 かれ出雲いづもに到りまして、大神おほかみを拜みへて、還り上ります時に、の河一八の中に黒樔くろすの橋一九を作り、假宮を仕へまつりて、さしめき。ここに出雲いづもくにみやつこの祖、名は岐比佐都美きひさつみ、青葉の山をかざりて、その河下に立てて、大御食おほみあへ獻らむとする時に、その御子詔りたまはく、「この河下に青葉の山なせるは、山と見えて山にあらず。もし出雲いづも石𥑎いはくまの宮二〇にます、葦原色許男あしはらしこをの大神二一をもちいつはふりが大には二二か」と問ひたまひき。ここに御供に遣さえたるみこたち、聞き歡び見喜びて、御子は檳榔あぢまさ長穗ながほの宮二三にませまつりて、驛使はゆまづかひをたてまつりき。

 ここにその御子、肥長ひなが比賣に一宿ひとよ婚ひたまひき。かれその美人をとめ竊伺かきまみたまへば、をろちなり。すなはち見畏みて遁げたまひき。ここにその肥長ひなが比賣うれへて、海原をらして船より追ひ。かれ、ますます見畏みて山のたわより御船を引き越して、逃げ上りいでましつ。ここに覆奏かへりごとまをさく、「大神を拜みたまへるに因りて、大御子おほみこものりたまひつ。かれまゐ上り來つ」とまをしき。かれ天皇歡ばして、すなはち菟上うながみの王を返して、神宮を造らしめたまひき。ここに天皇、その御子に因りて鳥取部ととりべ鳥甘とりかひ品遲部ほむぢべ大湯坐おほゆゑ若湯坐わかゆゑを定めたまひき。


一 所在不明。

二 奈良縣磯城郡。

三 同高市郡。

四 アギと言つた。あぶあぶ言つた。

五 新潟縣西蒲原郡、また北魚澤郡に傳説地がある。ワナミは羂網の義。

六 二〇頁參照。

七 出雲大社の祭神。大國主の神。

八 開化天皇の子孫。

九 占いにかなつた。

一〇 神に誓つて神意を窺わしめることは。

一一 奈良縣高市郡。

一二 同郡飛鳥村にある。

一三 葉の廣いりつぱなカシの木。クマはウマに同じ。美稱。

一四 奈良縣の北部の奈良山を越える道。不具者に逢うことを嫌つた。

一五 二上山を越えて行く道。

一六 紀伊の國へ出る道。吉野川の右岸について行く。

一七 迂𢌞してゆく道でよい道。

一八 斐伊の川。

一九 皮つきの木を組んで作つた橋。

二〇 出雲大社の別名。

二一 大國主の神の別名。

二二 お祭する神職の齋場か。

二三 ビロウの木の葉を長く垂れて葺いた宮。


〔丹波の四女王〕

 またその后の白したまひしまにまに、美知能宇斯みちのうしの王の女たち比婆須ひばす比賣の命、次におと比賣の命、次に歌凝うたこり比賣の命、次に圓野まとの比賣の命、并はせて四柱を喚上めさげたまひき。然れども比婆須ひばす比賣の命、弟比賣おとひめの命、二柱を留めて、その弟王おとみこ二柱は、いと醜きに因りてもとくにに返し送りたまひき。ここに圓野まとの比賣やさしみて「同兄弟はらからの中に、姿みにくきによりて、還さゆる事、隣里ちかきさとに聞えむは、いとやさしきこと」といひて、山代の國の相樂さがらかに到りし時に、樹の枝に取りさがりて、死なむとしき。かれ其地そこに名づけて、懸木さがりきといひしを、今は相樂さがらかといふ。また弟國おとくにに到りし時に、遂にふかき淵に墮ちて、死にき。かれ其地そこに名づけて、墮國おちくにといひしを、今は弟國といふなり。


一 九〇頁の后妃皇子女に關する條參照。王女の數などが違うのは別の資料によるものであろう。

二 京都府相樂郡。

三 同乙訓郡。


〔時じくのかくの木の實〕

 また天皇、三宅みやけむらじ等が祖、名は多遲摩毛理たぢまもりを、常世とこよの國に遣して、時じくのかくを求めしめたまひき。かれ多遲摩毛理たぢまもり、遂にその國に到りて、その木の實を採りて、縵八縵矛八矛かげやかげほこやほこを、ち來つる間に、天皇既にかむあがりましき。ここに多遲摩毛理たぢまもり縵四縵矛四矛かげよかげほこよほこを分けて、大后に獻り、縵四縵矛四矛かげよかげほこよほこを、天皇の御陵の戸に獻り置きて、その木の實をささげて、叫びおらびて白さく、「常世の國の時じくのかくを持ちまゐ上りてさもらふ」とまをして遂におらび死にき。その時じくのかくの木の實は今の橘なり。

 この天皇、御年一百五十三歳ももちまりいそぢみつ、御陵は菅原すがはら御立野みたちのの中にあり。

 またその大后おほきさき比婆須ひばす比賣の命の時、石祝作いしきつくりを定め、また土師部はにしべを定めたまひき。この后は狹木さき寺間てらまの陵をさめまつりき。


一 天の日矛の子孫。系譜は一三九頁にある。

二 海外の國。大陸における橘の原産地まで行つたのだろう。

三 その時節でなく熟する香のよい木の實。

四 カゲは蔓のように輪にしたもの。矛は、直線的なもの。どちらも苗木。

五 奈良縣生駒郡。

六 石棺を作る部族。

七 奈良縣生駒郡。


〔五、景行天皇・成務天皇〕


〔后妃と皇子女〕

 大帶日子淤斯呂和氣おほたらしひこおしろわけの天皇纏向まきむく日代ひしろの宮にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、吉備きびの臣等の祖、若建吉備津日子わかたけきびつひこが女、名は針間はりま伊那毘いなび大郎女おほいらつめに娶ひて、生みませる御子、櫛角別くしつのわけの王、次に大碓おほうすの命、次に小碓をうすの命、またの名は倭男具那やまとをぐなの命、次に倭根子やまとねこの命、次に神櫛かむくしの王五柱。また八尺やさか入日子いりひこの命が女、八坂やさか入日賣いりひめの命に娶ひて、生みませる御子、若帶日子わかたらしひこの命、次に五百木いほき入日子いりひこの命、次に押別おしわけの命、次に五百木いほきいり日賣の命、またのみめの御子、豐戸別とよとわけの王、次に沼代ぬなしろ郎女いらつめ、またのみめの御子、沼名木ぬなき郎女いらつめ、次に香余理かぐより比賣の命、次に若木わかき入日子いりひこの王、次に吉備の兄日子えひこの王、次に高木比賣の命、次に弟比賣おとひめの命。また日向ひむか美波迦斯毘賣みはかしびめに娶ひて、生みませる御子、豐國別とよくにわけの王。また伊那毘いなび大郎女おほいらつめの弟、伊那毘の若郎女わかいらつめに娶ひて、生みませる御子、眞若まわかの王、次に日子人ひこひと大兄おほえの王。また倭建やまとたけるの命の曾孫みひひこ名は須賣伊呂大中すめいろおほなか日子ひこの王が女、訶具漏かぐろ比賣に娶ひて生みませる御子、大枝おほえの王。およそこの大帶日子おほたらしひこの天皇の御子たち、しるせるは廿一王はたちまりひとはしら、記さざる五十九王いそぢまりここのはしら、并はせて八十はしらいます中に、若帶日子の命と倭建やまとたけるの命、また五百木いほき入日子いりひこの命と、この三王みはしら太子ひつぎのみこの名を負はし、それよりほか七十七王ななまりななはしらのみこは、悉に國國の國の造、またわけ稻置いなぎ縣主あがたぬしに別け賜ひき。かれ若帶日子わかたらしひこの命は、天の下治らしめしき。小碓をうすの命は、東西の荒ぶる神、またまつろはぬ人どもをことむけたまひき。次に櫛角別くしつのわけの王は、茨田の下の連等が祖なり。次に大碓おほうすの命は守の君、太田の君、島田の君が祖なり。次に神櫛かむくしの王は、木の國の酒部の阿比古、宇陀の酒部が祖なり。次に豐國別とよくにわけの王は、日向の國の造が祖なり。

 ここに天皇、三野みのの國の造の祖、大根おほねの王が女、名は兄比賣えひめ弟比賣おとひめ二孃子ふたをとめ、それ容姿麗美かほよしときこしめし定めて、その御子大碓おほうすの命を遣して、し上げたまひき。かれその遣さえたる大碓の命、召し上げずて、すなはちおのれみづからその二孃子に婚ひて、更にあだをみなぎて、その孃子と詐り名づけて貢上たてまつりき。ここに天皇それあだをみななることを知らしめして、恆に長眼を經しめ、またひもせずて、たしなめたまひき。かれその大碓おほうすの命、兄比賣えひめに娶ひて生みませる子、押黒おしくろの兄日子の王。こは三野の宇泥須和氣が祖なり。また弟比賣に娶ひて生みませる子、押黒の弟日子の王。こは牟宜都の君等が祖なり。この御世に田部たべを定め、またあづまあは水門みなと一〇を定め、またかしはで大伴部おほともべを定め、またやまと屯家みやけ一一を定めたまひ、また坂手さかての池一二を作りて、すなはちその堤に竹を植ゑしめたまひき。


一 景行天皇。

二 奈良縣磯城郡。

三 ヤマトタケルの命。日本書紀に、父の天皇が皇子の誕生に當つて、石臼の上で躍つて喜んだから大碓の命、小碓の命というとある。

四 成務天皇。

五 皇子の曾孫の子だから、天皇の孫の孫の子に當りそれを妃としたというのは時間的に不可能である。ある氏の傳えをそのまま取り入れたものだろう。

六 後世のように皇太子を立てることは無かつたが、有力な后妃の生んだ皇子が次に帝位に昇るべき方として豫想されたのである。ヒツギのミコは、繼嗣の皇子の義。

七 いずれも古代の地方官で世襲である。

八 開化天皇の孫。

九 長く見て居させる。待ちぼうけさせる。

一〇 神奈川縣から千葉縣安房郡に渡る水路。

一一 大和の國の租税收納所。

一二 奈良縣磯城郡。


〔倭建の命の西征〕

 天皇、小碓をうすの命に詔りたまはく、「何とかもみましいろせあしたゆふべ大御食おほみけにまゐ出來でこざる。もはらみましねぎ教へ覺せ」と詔りたまひき。かく詔りたまひて後、五日に至るまでに、なほまゐ出でず。ここに天皇、小碓の命に問ひたまはく、「何ぞ汝の兄久しくまゐ出來ざる。もしいまだをしへずありや」と問ひたまひしかば、答へて白さく、「既にねぎつ」とまをしたまひき。また「いかにかねぎつる」と詔りたまひしかば、答へて白さく、「朝署あさけに厠に入りし時、待ち捕へつかひしぎて、その枝を引ききて、こもにつつみて投げてつ」とまをしたまひき。

 ここに天皇、その御子の建く荒き情をかしこみて、詔りたまひしく、「西の方に熊曾建くまそたける二人あり。これまつろはず、禮旡ゐやなき人どもなり。かれその人どもを取れ」とのりたまひて、遣したまひき。この時に當りて、その御髮みかみぬかに結はせり。ここに小碓をうすの命、そのみをば倭比賣やまとひめの命御衣みそ御裳みもを給はり、たち御懷ふところれていでましき。かれ熊曾建くまそたけるが家に到りて見たまへば、その家の邊に、いくさ三重に圍み、室を作りて居たり。ここに御室樂みむろうたげせむと言ひとよみて、をし物をけ備へたり。かれそのあたり遊行あるきて、そのうたげする日を待ちたまひき。ここにその樂の日になりて、童女をとめの髮のごとその結はせる髮をけづり垂れ、そのみをば御衣みそ御裳みもして、既に童女の姿になりて、女人をみなの中に交り立ちて、その室内むろぬちに入ります。ここに熊曾建くまそたける兄弟二人、その孃子を見でて、おのが中にせて、盛にうたげつ。かれそのたけなはなる時になりて、御懷より劒を出だし、熊曾くまそが衣のくびを取りて、劒もちてその胸より刺し通したまふ時に、そのおとたける見畏みて逃げ出でき。すなはちその室のはし一〇の本に追ひ至りて、背の皮を取り劒を尻より刺し通したまひき。ここにその熊曾建白して曰さく、「その刀をな動かしたまひそ。やつこ白すべきことあり」とまをす。ここにしまし許して押し伏せつ。ここに白して言さく、「が命は誰そ」と白ししかば、「纏向まきむく日代ひしろの宮にましまして、大八島國おほやしまぐにらしめす、大帶日子淤斯呂和氣おほたらしひこおしろわけの天皇の御子、名は倭男具那やまとをぐなの王なり。おれ熊曾建二人、まつろはず、ゐやなしと聞こしめして、おれを取りれと詔りたまひて、遣せり」とのりたまひき。ここにその熊曾建白さく、「信にしからむ。西の方に吾二人をきては、たけこはき人無し。然れども大倭おほやまとの國に、吾二人にましてたけき男はいましけり。ここを以ちて吾、御名を獻らむ。今よ後一一倭建やまとたけるの御子一二と稱へまをさむ」とまをしき。この事まをし訖へつれば、すなはち熟苽ほぞちのごと一三、振りきて殺したまひき。かれその時より御名を稱へて、倭建やまとたけるの命とまをす。然ありて還り上ります時に、山の神河の神また穴戸あなどの神一四をみな言向けやは一五してまゐ上りたまひき。


一 なだめ乞う。

二 どんなふうになだめ乞うたのか。

三 朝早く。

四 手足。

五 クマソは地名で、クマの地(熊本縣)とソの地(鹿兒島縣)とを合わせ稱する。タケルは勇者の義。物語では兄弟二人となつている。

六 男子少年の風俗。

七 父の妹に當る。

八 新築を祝う酒宴。

九 衣服の襟。

一〇 庭上におりる階段。

一一 今から後。ヨは助詞。ユ、ヨリに同じ。

一二 日本書紀には、日本武の尊と書く。

一三 熟した瓜のように。

一四 海峽の神。

一五 平定しおだやかにして。


出雲建いづもたける

 すなはち出雲の國に入りまして、その出雲いづもの國のたけるらむとおもほして、到りまして、すなはち結交うるはしみしたまひき。かれ竊に赤檮いちひのきもちて、詐刀こだちを作りて、御はかしとして、共に肥の河にかはあみしき。ここに倭建やまとたけるの命、河よりまづあがりまして、出雲建いづもたけるが解き置ける横刀たちを取り佩かして、「易刀たちかへせむ」と詔りたまひき。かれ後に出雲建河より上りて、倭建の命の詐刀こだちを佩きき。ここに倭建の命「いざ刀合たちあはせむ」とあとらへたまふ。かれおのもおのもその刀を拔く時に、出雲建、詐刀こだちをえ拔かず、すなはち倭建の命、その刀を拔きて、出雲建を打ち殺したまひき。ここに御歌よみしたまひしく、

やつめさす 出雲建いづもたけるが 佩けるたち

黒葛つづらさは さ無しにあはれ。  (歌謠番號二四)

 かれかくはらひ治めて、まゐ上りて、覆奏かへりごとまをしたまひき。


一 この物語は日本書紀には出雲振根がその弟飯入根を殺した話になつている。

二 にせの刀。木刀。

三 枕詞。八雲立つの轉訛。日本書紀にはヤクモタツになつている。

四 柄や鞘に植物の蔓を澤山卷いてある。

五 刀身が無いことだ。アハレは感動を表示している。


〔倭建の命の東征〕

 ここに天皇、またきて倭建やまとたけるの命に、「東の方十二道とをまりふたみちの荒ぶる神、またまつろはぬ人どもを、言向けやはせ」と詔りたまひて、吉備きびおみ等が祖、名は御鉏友耳建日子みすきともみみたけひこを副へて遣す時に、比比羅木ひひらぎ八尋矛やひろぼこを給ひき。かれ命を受けたまはりて、罷りでます時に、伊勢の大御神の宮に參りて、神の朝廷みかどを拜みたまひき。すなはちそのみをばやまと比賣の命に白したまひしくは、「天皇既に吾を死ねと思ほせか、何ぞ、西の方のあらぶるひとどもをりに遣して、返りまゐ上り來しほど幾時いくだもあらねば、軍衆いくさびとどもをも賜はずて、今更に東の方の十二道の惡ぶる人どもをことむけに遣す。これに因りて思へばなほ吾を既に死ねと思ほしめすなり」とまをして、患へ泣きて罷りたまふ時に、倭比賣の命、草薙くさなぎたちを賜ひ、また御嚢みふくろを賜ひて、「もしとみの事あらば、このふくろの口を解きたまへ」と詔りたまひき。

 かれ尾張の國に到りまして、尾張の國の造が祖、美夜受みやず比賣の家に入りたまひき。すなはちはむと思ほししかども、また還り上りなむ時に婚はむと思ほして、ちぎり定めて、東の國に幸でまして、山河の荒ぶる神又は伏はぬ人どもを、悉にことむやはしたまひき。かれここに相武さがむの國に到ります時に、その國の造、いつはりて白さく、「この野の中に大きなる沼あり。この沼の中に住める神、いとちはやぶる神なり」とまをしき。ここにその神を看そなはしに、その野に入りましき。ここにその國の造、その野に火著けたり。かれ欺かえぬと知らしめして、そのみをば倭比賣の命の給へるふくろの口を解き開けて見たまへば、そのうちに火打あり。ここにまづその御刀みはかしもちて、草を苅りはらひ、その火打もちて火を打ち出で、向火むかへびを著けて燒き退けて、還り出でまして、その國の造どもを皆切り滅し、すなはち火著けて、燒きたまひき。かれ今に燒遣やきづといふ。

 そこより入りでまして、走水はしりみづの海を渡ります時に、その渡の神、浪をてて、御船を𢌞もとほして、え進み渡りまさざりき。ここにその后名は弟橘おとたちばな比賣の命の白したまはく、「妾、御子にかはりて海に入らむ。御子は遣さえし政遂げて、覆奏かへりごとまをしたまはね」とまをして、海に入らむとする時に、菅疊すがだたみ八重やへ皮疊かはだたみ八重やへ絁疊きぬだたみ八重やへを波の上に敷きて一〇、その上に下りましき一一。ここにそのあらき浪おのづからぎて、御船え進みき。ここにその后の歌よみしたまひしく、

さねさし一二 相摸さがむ小野をの

燃ゆる火の 中に立ちて、

問ひし君はも。  (歌謠番號二五)

 かれ七日なぬかの後に、その后の御櫛みぐし海邊うみべたに依りき。すなはちその櫛を取りて、御陵みはかを作りて治め置きき一三

 そこより入りでまして、悉に荒ぶる蝦夷えみしども一四を言向け、また山河の荒ぶる神どもを平け和して、還り上りいでます時に、足柄あしがらの坂もとに到りまして、御かれひきこす處に、その坂の神、白き鹿になりて來立ちき。ここにすなはちそののこりのひるの片端もちて、待ち打ちたまへば、その目にあたりて、打ち殺しつ。かれその坂に登り立ちて、三たび歎かして詔りたまひしく、「吾嬬あづまはや」と詔りたまひき。かれその國に名づけて阿豆麻あづまといふなり。

 すなはちその國より越えて、甲斐に出でて、酒折さかをり一五の宮にまします時に歌よみしたまひしく、

新治にひばり 筑波つくは一六を過ぎて、幾夜か宿つる。  (歌謠番號二六)

 ここにその御火燒みひたき老人おきな、御歌に續ぎて歌よみして曰ひしく、

かがなべて一七 夜には九夜ここのよ 日には十日を。  (歌謠番號二七)

と歌ひき。ここを以ちてその老人を譽めて、すなはちあづまくにみやつこ一八を給ひき。

 その國より科野しなのの國一九に越えまして、科野の坂二〇の神を言向けて、尾張の國に還り來まして、先の日にちぎりおかしし美夜受みやず比賣のもとに入りましき。ここに大御食おほみけ獻る時に、その美夜受みやず比賣、大御酒盞さかづきを捧げて獻りき。ここに美夜受みやず比賣、そのおすひ二一すそ月經さはりのもの著きたり。かれその月經を見そなはして、御歌よみしたまひしく、

ひさかたの二二 あめ香山かぐやま

利鎌とかま二三に さ渡るくび二四

弱細ひはぼそ二五 手弱たわやかひな

かむとは あれはすれど、

むとは あれおもへど、

せる おすひすそ

月立ちにけり。  (歌謠番號二八)

 ここに美夜受みやず比賣、御歌に答へて歌よみして曰ひしく、

高光る 日の御子

やすみしし が大君二六

あら玉の二七 年が來經きふれば、

あら玉の 月は來經往きへゆく。

うべなうべな二八 君待ちがたに二九

せる おすひすそ

月立たなむよ三十。  (歌謠番號二九)

 かれここに御合ひしたまひて、その御刀みはかしの草薙のたちを、その美夜受みやず比賣のもとに置きて、伊服岐いぶきの山三一の神を取りに幸でましき。


一 九四頁脚註參照。

二 ヒイラギの木の柄の長い桙。ヒイラギは葉の縁にトゲがあり魔物に對して威力があるとされる。

三 神が諸事を執り行われる所の意。

四 相模の國に同じ。神奈川縣の一部。

五 暴威を振う神。

六 こちらから火をつけて向うへ燒く。野火に逢つた時には手元からも火をつけて先に野を燒いてしまつて難を免れる方法である。

七 燒津とする傳えもある。靜岡縣の燒津町がその傳説地であるが、相武の國の事としているので問題が殘る。

八 浦賀水道から千葉縣に渡ろうとした。

九 日本書紀に穗積氏の女とする。

一〇 波の上に多くの敷物を敷いて。

一一 海上で風波の難にあうのは、その海の神が船中の人または物の類を欲するからで、その神の欲するものを海に入れれば風波がしずまるとする思想がある。そこで姫が皇子に代つて海に入つて風波をしずめたのである。

一二 枕詞。嶺が立つている義だろうとする。嶺は靜岡縣とすれば富士山、神奈川縣とすれば大山である。

一三 所在不明。浦賀市走水に走水神社があつて、倭建の命と弟橘姫とを祭る。

一四 アイヌ族をいう。

一五 山梨縣西山梨郡。

一六 共に茨城縣の地名。

一七 日を並べて。

一八 東方の國の長官。實際上はそのような廣大な土地の國の造を置かない。

一九 信濃の國。今の長野縣。

二〇 長野縣の伊那から岐阜縣の惠那に通ずる山路。木曾路は奈良時代になつて開通された。

二一 四四頁脚註參照。

二二 枕詞。語義不明。日のさす方か。

二三 鵠の渡る線の形容か。

二四 クビは、クグヒに同じ。コヒ、コフともいう。白鳥。但し杙の義とする説もある。以上、たわや腕の譬喩。

二五 よわよわとして細い。修飾句。

二六 以上、天皇または皇子をたたえる。光りかがやく太陽のような御子、天下を知ろしめすわが大君。ヤスミシシ、語義不明。

二七 枕詞。みがかない玉の意。ト(磨ぐ)に冠する。月に冠するのは轉用。

二八 ほんとにとうなずく意の語。底本にウベナウベナウベナとする。

二九 カタニは、不能の意の助動詞。萬葉集に多くカテニの形を取り、ここはその原形。

三十 當然そうなるだろうの語意と見られる。この語形は、普通願望の意を表示するに使用されるのに、ここに願望になつていないのは特例とされる。ヨは間投の助詞。

三一 滋賀縣と岐阜縣との堺にある高山。


思國歌くにしのひうた

 ここに詔りたまひしく、「この山の神は徒手むなでただに取りてむ」とのりたまひて、その山にのぼりたまふ時に、山の邊に白猪逢へり。その大きさ牛の如くなり。ここに言擧して詔りたまひしく、「この白猪になれるは、その神の使者つかひにあらむ。今らずとも、還らむ時にりて還りなむ」とのりたまひて騰りたまひき。ここに大氷雨おほひさめらして、倭建の命を打ち惑はしまつりき。この白猪に化れるは、その神の使者にはあらずて、その神の正
身なりしを、言擧したまへるによりて、惑はさえつるなり。
かれ還り下りまして、玉倉部たまくらべ清泉しみづに到りて、息ひます時に、御心ややめたまひき。かれその清泉しみづに名づけて居寤ゐさめ清泉しみづといふ。

 其處そこよりたして、當藝たぎの上に到ります時に、詔りたまはくは、「吾が心、恆はそらかけり行かむと念ひつるを、今吾が足え歩かず、たぎたぎしくなりぬ」とのりたまひき。かれ其地そこに名づけて當藝たぎといふ。其地そこよりややすこし幸でますに、いたく疲れませるに因りて、御杖をかして、ややに歩みたまひき。かれ其地そこに名づけて杖衝坂つゑつきざかといふ。尾津のさきの一つ松のもとに到りまししに、先に、御食みをしせし時、其地そこに忘らしたりし御刀みはかしせずてなほありけり。ここに御歌よみしたまひしく、

尾張に ただに向へる

尾津の埼なる 一つ松、吾兄あせ一〇

一つ松 人にありせば、

大刀けましを きぬ着せましを。

一つ松、吾兄を。  (歌謠番號三〇)

 其地より幸でまして、三重の村一一に到ります時に、また詔りたまはく、「吾が足三重のまがり一二なして、いたく疲れたり」とのりたまひき。かれ其地に名づけて三重といふ。

 そこより幸でまして、能煩野のぼの一三に到ります時に、國しのはして歌よみしたまひしく、

やまとは 國のまほろば一四

たたなづく 青垣一五

ごもれる 倭し うるはし。  (歌謠番號三一)

 また、歌よみしたまひしく、

命の またけむ人は、

疊薦たたみこも一六 平群へぐりの山一七

熊白檮くまかしが葉を

髻華うずに插せ一八。その子。  (歌謠番號三二)

 この歌は思國歌くにしのひうた一九なり。また歌よみしたまひしく、

はしけやし二〇 吾家わぎへの方よ二一 雲居起ち來も。  (歌謠番號三三)

 こは片歌二二なり。この時御病いとにはかになりぬ。ここに御歌よみしたまひしく、

孃子をとめの 床の

が置きし つるぎの大刀二三

その大刀はや。  (歌謠番號三四)

 と歌ひへて、すなはちかむあがりたまひき。ここに驛使はゆまづかひたてまつりき。


一 退治しよう。

二 言い立てをして。

三 滋賀縣坂田郡の醒が井はその傳説地。

四 岐阜縣養老郡。

五 空中を飛んで行こうと思つたが。

六 びつこを引く形容。高かつたり低かつたりするさま。

七 三重縣三重郡。

八 三重縣桑名郡。サキは、海上陸上に限らず突出した地形をいう。ここは陸上。

九 じかに對している。

一〇 「あなたよ」という意の語で、歌詞を歌う時のはやしである。日本書紀には、アハレになつている。

一一 三重縣三重郡。

一二 餅米をこねて、ねじまげて作つた餅。

一三 三重縣鈴鹿郡。

一四 もつともすぐれたところ。マは接頭語。ロバは接尾語。日本書紀にマホラマ。

一五 重なり合つている青い垣。山のこと。

一六 枕詞。敷物にしたコモ(草の名)。ヘ(隔)に冠する。

一七 奈良縣生駒郡。

一八 美しい白檮の木の葉を頭髮にさせ。ウズは髮にさす飾。もと魔よけの信仰のためにさすもの。

一九 歌曲としての名。

二〇 愛すべき。愛しきに、助詞ヤシの接續したもの。ハシキヨシ、ハシキヤシともいう。

二一 わが家の方から。

二二 五音七音七音の三句の歌の稱。以上三首、日本書紀に景行天皇の御歌とする。

二三 普通ツルギは兩刃、タチは片刃の武器をいうが、嚴密な區別ではない。


〔白鳥の陵〕

 ここにやまとにます后たち、また御子たちもろもろ下りきまして、御陵を作りき。すなはち其地そこのなづき田匍匐はらば𢌞もとほりて、みねなかしつつ歌よみしたまひしく、

なづきの 田の稻幹いながらに、

稻幹いながらに ひもとほろふ 薢葛ところづら。  (歌謠番號三五)

 ここに八尋白智鳥しろちどりになりて、天翔あまがけりて、濱に向きて飛びいでます。ここにその后たち御子たち、その小竹しの苅杙かりばねに、足切り破るれども、その痛みをも忘れて、哭きつつ追ひいでましき。この時、歌よみしたまひしく、

淺小竹原あさじのはら こしなづむ

虚空そらは行かず、足よ行くな。  (歌謠番號三六)

 またその海水うしほに入りて、なづみでます時、歌よみしたまひしく、

海が行けば 腰なづむ。

大河原の 植草うゑぐさ

海がは いさよふ。  (歌謠番號三七)

 また飛びてその磯に居たまふ時、歌よみしたまひしく、

濱つ千鳥 濱よ行かず 磯傳ふ。  (歌謠番號三八)

 この四歌は、みなその御葬みはふりに歌ひき。かれ今に至るまで、その歌は天皇の大御葬おほみはふりに歌ふなり。かれその國より飛び翔り行でまして、河内の國の志幾しき一〇に留まりたまひき。かれ其地そこに御陵を作りて、鎭まりまさしめき。すなはちその御陵に名づけて白鳥の御陵といふ。然れどもまた其地より更に天翔りて飛び行でましき。およそこの倭建の命、國けに𢌞りでましし時、久米くめあたへが祖、名は七拳脛つかはぎつね膳夫かしはでとして御伴仕へまつりき。


一 能褒野の御陵。

二 御陵の周圍の田。

三 山の芋科の蔓草の蔓。譬喩で這いまつわる状を描く。

四 大きな白鳥。倭建の命の神靈が化したものとする。

五 小竹の刈つたあと。

六 腰が難澁する。

七 徒歩で行くよ。ナは感動の助詞。

八 ためらう。

九 濱からは行かないで。

一〇 大阪府南河内郡。


〔倭建の命の系譜〕

 この倭建の命、伊玖米いくめの天皇が女、布多遲ふたぢ伊理毘賣いりびめの命に娶ひて生みませる御子みこ帶中津日子たらしなかつひこの命一柱。またその海に入りましし弟橘おとたちばな比賣の命に娶ひて生みませる御子、若建わかたけるの王一柱。またちか淡海あふみやすの國の造の祖、意富多牟和氣おほたむわけが女、布多遲ふたぢ比賣に娶ひて、生みませる御子、稻依別いなよりわけの王一柱。また吉備きびの臣建日子たけひこが妹、大吉備おほきびたけ比賣に娶ひて、生みませる御子、建貝兒たけかひこの王一柱。また山代の玖玖麻毛理くくまもり比賣に娶ひて生みませる御子、足鏡別あしかがみわけの王一柱。またあるみめみこ息長田別おきながたわけの王。およそこの倭建の命の御子たち、并はせて六柱。かれ帶中津日子たらしなかつひこの命は、天の下治らしめしき。次に稻依別の王は、犬上の君、建部の君等が祖なり。次に建貝兒の王は、讚岐の綾の君、伊勢の別、登袁の別、麻佐の首、宮の首の別等が祖なり。足鏡別の王は鎌倉の別、小津の石代の別、漁田すなきだの別が祖なり。次に息長田別おきながたわけの王のみこ杙俣長日子くひまたながひこの王。この王の子、飯野いひの眞黒まぐろ比賣の命、次に息長眞若中おきながまわかなかつ比賣、次に弟比賣おとひめ三柱。かれ上にいへる若建の王、飯野の眞黒比賣に娶ひて生みませる子、須賣伊呂大中すめいろおほなか日子ひこの王。この王、淡海あふみ柴野入杵しばのいりきが女、柴野比賣に娶ひて生みませる子、迦具漏かぐろ比賣の命。かれ大帶日子おほたらしひこの天皇、この迦具漏比賣の命に娶ひて生みませる子、大江おほえの王一柱。この王、庶妹ままいもしろがねの王に娶ひて生みませる子、大名方おほながたの王、次に大中おほなかつ比賣の命二柱。かれこの大中おほなかつ比賣の命は、香坂かごさかの王、忍熊おしくまの王の御祖なり。

 この大帶日子おほたらしひこの天皇の御年、一百三十七歳ももちまりみそななつ、御陵は山の邊の道の上にあり。


一 垂仁天皇。

二 仲哀天皇。

三 この事、一一一頁に出ている。

四 奈良縣磯城郡。


〔成務天皇〕

 若帶日子わかたらしひこの天皇、近つ淡海あふみ志賀しがの高穴の宮にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、穗積ほづみの臣等の祖、建忍山垂根たけおしやまたりねが女、名は弟財おとたから郎女いらつめに娶ひて、生みませる御子和訶奴氣わかぬけの王。かれ建内の宿禰を大臣おほおみとして、大國小國の國の造を定めたまひ、また國國の堺、また大縣小縣の縣主を定めたまひき。

 天皇、御年九十五歳ここのそぢまりいつつ乙卯の年三月十五
日崩りたまひき。
御陵は、沙紀さき多他那美たたなみにあり。


一 成務天皇。

二 滋賀縣滋賀郡。

三 宮廷の臣中の最高の位置。この後、建内の宿禰の子孫がこれに任ぜられた。

四 諸國の意。

五 クニよりはアガタの方が小さい。

六 奈良縣生駒郡。


〔六、仲哀天皇〕


〔后妃と皇子女〕

 帶中たらしなか日子ひこの天皇穴門あなと豐浦とよらの宮また筑紫つくし訶志比かしひの宮にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、大江おほえの王が女、大中津おほなかつ比賣の命に娶ひて、生みませる御子、香坂かごさかの王、忍熊おしくまの王二柱。また息長帶おきながたらし比賣の命に娶ひたまひき。この太后の生みませる御子、品夜和氣ほむやわけの命、次に大鞆和氣おほともわけの命、またの名は品陀和氣ほむだわけの命二柱。この太子ひつぎのみこの御名、大鞆和氣おほともわけの命と負はせる所以ゆゑは、初め生れましし時に、鞆なすしし御腕みただむきに生ひき。かれその御名に著けまつりき。ここを以ちて腹ぬちにましまして國知らしめしき。この御世に、淡道あはぢ屯家みやけを定めたまひき。


一 仲哀天皇。

二 山口縣豐浦郡。

三 福岡縣糟屋郡香椎町。

四 神功皇后。開化天皇の系統。九〇頁參照。母系の系譜は一三九頁にある。

五 獸皮で球形に作り左の手につける。


〔神功皇后〕

 その太后息長帶日賣の命は、當時そのかみしたまひき。かれ天皇筑紫の訶志比かしひの宮にましまして熊曾の國を撃たむとしたまふ時に、天皇御琴をかして、建内の宿禰の大臣沙庭さにはに居て、神の命を請ひまつりき。ここに太后、神せして、言教へさとし詔りたまひつらくは、「西の方に國あり。くがねしろがねをはじめて、目耀まかがや種種くさぐさ珍寶うづたからその國にさはなるを、あれ今その國をせたまはむ」と詔りたまひつ。ここに天皇、答へ白したまはく、「高きところに登りて西の方を見れば、國は見えず、ただ大海のみあり」と白して、いつはりせす神と思ほして、御琴を押し退けて、控きたまはず、もだいましき。ここにその神いたく忿りて、詔りたまはく、「およそこの天の下は、汝の知らすべき國にあらず、汝は一道に向ひたまへ」と詔りたまひき。ここに建内の宿禰の大臣白さく、「かしこし、我が天皇おほきみ。なほその大御琴あそばせ」とまをす。ここにややにその御琴を取り依せて、なまなまに控きいます。かれ、幾時いくだもあらずて、御琴の音聞えずなりぬ。すなはち火を擧げて見まつれば、既にかむあがりたまひつ。

 ここに驚きかしこみて、あらきの宮にませまつりて、更に國の大幣おほぬさを取りて生剥いきはぎ逆剥さかはぎ阿離あはなち溝埋みぞうみ屎戸くそへ上通下通婚おやこたはけ馬婚うまたはけ牛婚うしたはけ鷄婚とりたはけ犬婚いぬたはけの罪の類を種種くさぐさぎて、國の大はらへして、また建内の宿禰沙庭さにはに居て、神のみことを請ひまつりき。ここに教へ覺したまふ状、つぶさにさきの日の如くありて、「およそこの國は、汝命いましみことの御腹にます御子の知らさむ國なり」とのりたまひき。

 ここに建内の宿禰白さく、「恐し、我が大神、その神の御腹にます御子は何の御子ぞも」とまをせば、答へて詔りたまはく、「男子をのこなり」と詔りたまひき。ここにつぶさに請ひまつらく、「今かく言教へたまふ大神は、その御名を知らまくほし」とまをししかば、答へ詔りたまはく、「こは天照らす大神の御心なり。また底筒そこつつ中筒なかつつ上筒うはつつ三柱の大神なり。この時にその三柱の大神
の御名は顯したまへり。
今まことにその國を求めむと思ほさば、あまかみくにかみ、また山の神海河の神たちまでに悉に幣帛ぬさ奉り、我が御魂を御船の上にませて、眞木まきの灰をひさごに納れ、また箸と葉盤ひらで一〇とをさはに作りて、皆皆大海に散らし浮けて、わたりますべし」とのりたまひき。

 かれつぶさに教へ覺したまへる如くに、いくさを整へ、船めて、度りいでます時に、海原の魚ども、大きも小きも、悉に御船を負ひて渡りき。ここに順風おひかぜいたく起り、御船浪のまにまにゆきつ。かれその御船の波、新羅しらぎの國一一に押しあがりて、既に國なからまで到りき。ここにその國主こにきし一二かしこみてまをしてまをさく、「今よ後、天皇おほきみの命のまにまに、御馬甘みまかひとして、年のに船めて船腹さず、柂檝さをかぢ乾さず、天地のむた、退しぞきなく仕へまつらむ」とまをしき。かれここを以ちて、新羅しらぎの國をば、御馬甘みまかひと定めたまひ、百濟くだらの國一三をば、わた屯家みやけ一四と定めたまひき。ここにその御杖を新羅しらぎ國主こにきしかなとに衝き立てたまひ、すなはち墨江すみのえの大神の荒御魂あらみたま一五を、國守ります神と祭り鎭めて還り渡りたまひき。


一 神靈をよせて教を受けること。

二 祭の場。

三 ひたすらに一つの方向に進め。

四 葬らない前に祭をおこなう宮殿。

五 穢が出來たので、それを淨めるために、その料として筑紫の一國から品物を取り立てる。その産物などである。

六 穢を生じたのは、種々の罪が犯されたからであるからまずその罪の類を求め出す。屎戸までは、岩戸の物語(三二頁)に出た。生剥逆剥は、馬の皮をむく罪。屎戸は、きたないものを清淨なるべき所に散らす罪。上通下通婚以下は、不倫の婚姻行爲。

七 一國をあげての罪穢を拂う行事をして。

八 住吉神社の祭神。二七頁參照。

九 木を燒いて作つた灰をヒサゴ(蔓草の實、ユウガオ、ヒョウタンの類)に入れて。これは魔よけのためと解せられる。

一〇 木の葉の皿。これは食物を與える意。

一一 當時朝鮮半島の東部を占めていた國。

一二 朝鮮語で王または貴人をいう。コニキシともコキシともいう。

一三 當時朝鮮半島の南部を占めていた國。

一四 渡海の役所。

一五 神靈の荒い方面。


〔鎭懷石と釣魚〕

 かれその政いまだ竟へざるほどに、はらませるが、れまさむとしつ。すなはち御腹をいはひたまはむとして、石を取らして、御裳みもの腰に纏かして、筑紫つくしの國に渡りましてぞ、その御子はれましつる。かれその御子の生れましし地に名づけて、宇美といふ。またその御裳にかしし石は、筑紫の國の伊斗いとの村にあり。

 また筑紫の末羅縣まつらがたの玉島の里に到りまして、その河の邊に御をししたまふ時に、四月うづき上旬はじめのころなりしを、ここにその河中の磯にいまして、御裳の絲を拔き取り、飯粒いひぼを餌にして、その河の年魚あゆを釣りたまひき。その河の名を小河といふ。また
その磯の名を勝門比賣といふ。
かれ四月の上旬の時、女ども裳の絲を拔き、飯粒を餌にして、年魚あゆ釣ること今に至るまで絶えず。


一 福岡縣糟屋郡。

二 同糸島郡。萬葉集卷の五にこの石を詠んだ歌がある。

三 佐賀縣東松浦郡の玉島川。


香坂かごさかの王と忍熊おしくまの王〕

 ここに息長帶日賣の命、やまとに還り上ります時に人の心うたがはしきに因りて、喪船を一つ具へて、御子をその喪船に載せまつりて、まづ「御子は既に崩りましぬ」と言ひ漏らさしめたまひき。かくして上りいでましし時に、香坂かごさかの王忍熊おしくまの王聞きて、待ち取らむと思ほして、斗賀野とがのに進み出でて、祈狩うけひがりしたまひき。ここに香坂かごさかの王、歴木くぬぎに騰りいまして見たまふに、大きなる怒り猪出でて、その歴木くぬぎを掘りて、すなはちその香坂かごさかの王をみつ。その弟忍熊の王、そのしわざかしこまずして、軍を興し、待ち向ふる時に、喪船にむかひてむなふねを攻めたまはむとす。ここにその喪船より軍を下して戰ひき。

 その時忍熊おしくまの王は、難波なには吉師部きしべが祖、伊佐比いさひの宿禰を將軍いくさのきみとし、太子ひつぎのみこの御方には、丸邇わにの臣が祖、難波根子建振熊なにはねこたけふるくまの命を、將軍としたまひき。かれ追ひ退けて山代に到りし時に、還り立ちておのもおのも退かずて相戰ひき。ここに建振熊の命たばかりて、「息長帶日賣の命は、既に崩りましぬ。かれ、更に戰ふべくもあらず」といはしめて、すなはち弓絃ゆづらを絶ちて、いつはりて歸服まつろひぬ。ここにその將軍既に詐りをけて、弓をはづし、つはものを藏めつ。ここに頂髮たぎふさの中よりけのゆづるり出で更に張りて追ひ撃つ。かれ逢坂あふさかに逃げ退きて、き立ちてまた戰ふ。ここに追ひめ敗りて、沙沙那美ささなみに出でて、悉にその軍を斬りつ。ここにその忍熊の王、伊佐比いさひの宿禰と共に追ひ迫めらえて、船に乘り、海に浮きて、歌よみして曰ひしく、

いざ吾君あぎ

振熊ふるくまが 痛手負はずは、

鳰鳥にほどり一〇の 淡海の海一一

かづきせなわ一二。  (歌謠番號三九)

と歌ひて、すなはち海に入りて共ににき。


一 兵庫縣武庫郡。

二 神に誓つて狩をして、これによつて神意を窺う。ここでは凶兆であつた。

三 山城に同じ。

四 頭上にてつかねた髮。

五 用意の弓弦。

六 京都府と滋賀縣との堺の山。

七 琵琶湖の南方の地。

八 琵琶湖。

九 さああなた。

一〇 カイツブリ。水鳥。敍述による枕詞。

一一 琵琶湖。

一二 水にもぐりましよう。ナは自分の希望を現す助詞。ワは感動の助詞。


氣比けひの大神〕

 かれ建内の宿禰の命、その太子ひつぎのみこまつりて、御禊みそぎせむとして、淡海また若狹の國を經歴めぐりたまふ時に、高志こしみちのくち角鹿つぬがに、假宮を造りてませまつりき。ここに其地そこにます伊奢沙和氣いざさわけの大神の命、夜のいめに見えて、「吾が名を御子の御名に易へまくほし」とのりたまひき。ここに言祷ことほぎて白さく、「恐し、命のまにまに、易へまつらむ」とまをす。またその神詔りたまはく、「明日あすあした濱にいでますべし。易名なかへみやじり獻らむ」とのりたまふ。かれその旦濱にいでます時に、鼻やぶれたる入鹿魚いるか、既に一浦に依れり。ここに御子、神に白さしめたまはく、「我に御食みけ給へり」とまをしたまひき。かれまたその御名をたたへて御食津みけつ大神とまをす。かれ今に氣比けひの大神とまをす。またその入鹿魚いるかの鼻の血くさかりき。かれその浦に名づけて血浦といふ。今は都奴賀つぬがといふなり。


一 水によつて穢を拂う行事。既出。

二 越前の國の敦賀市。

三 同市氣比神宮の祭神。

四 名をとりかえたしるしの贈り物。


酒樂さかくらの歌曲〕

 ここに還り上ります時に、その御祖みおや息長帶日賣の命、待酒を釀みて獻りき。ここにその御祖、御歌よみしたまひしく、

この御酒みきは わが御酒ならず。

くしかみ 常世とこよにいます

いはたす 少名すくな御神の、

神壽かむほき 壽きくるほし

豐壽とよほき 壽きもとほし

まつし 御酒みき

さずをせ。ささ。  (歌謠番號四〇)

 かく歌ひたまひて、大御酒獻りき。ここに建内の宿禰の命、御子のために答へて歌ひして曰ひしく、

この御酒を みけむ人は、

そのつづみ 臼に立てて一〇

歌ひつつ みけれかも一一

舞ひつつ みけれかも、

この御酒の 御酒の

あやに うただの一二。ささ。  (歌謠番號四一)

 こは酒樂さかくら一三の歌なり。

 およそこの帶中津日子たらしなかつひこの天皇の御年五十二歳いそぢまりふたつ壬戌の年六月十一
日崩りたまひき。
御陵は河内の惠賀ゑが長江ながえ一四にあり。皇后は御年一百歳にして崩りましき。狹城さき楯列たたなみの陵一五に葬めまつりき。


一 人を待つて飮む酒。

二 酒をつかさどる長官。原文「久志能加美」美はミの甲類の字であり、神のミは乙類であるから、酒の神とする説は誤。

三 永久の世界。また海外。スクナビコナは海外へ渡つたという。

四 石のように立つておいでになる。

五 スクナビコナに同じ。

六 祝い言をさまざまにして。

七 盃がかわかないようにつづけてめしあがれ。

八 はやし詞。

九 後世のツヅミの大きいもの。太鼓。

一〇 酒をかもす入れものとして。

一一 酒を作つたからか。疑問の已然條件法。

一二 大變にたのしい。

一三 歌曲の名。この二首、琴歌譜にもある。

一四 大阪府南河内郡。

一五 奈良縣生駒郡。


〔七、應神天皇〕


〔后妃と皇子女〕

 品陀和氣ほむだわけの命、輕島のあきらの宮にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、品陀の眞若まわかの王が女、三柱の女王ひめみこに娶ひたまひき。一柱の御名は、高木の入日賣の命、次に中日賣の命、次に弟日賣の命。この女王たちの父、品陀の眞若の王は、五百木の入日子の命の、尾張の連の祖、建伊那陀の宿禰が女、志理都紀斗賣に娶ひて、生める子なり。

 かれ高木の入日賣の御子、額田ぬかだ大中おほなか日子ひこの命、次に大山守おほやまもりの命、次に伊奢いざの眞若の命、次にいも大原の郎女いらつめ、次に高目たかもくの郎女五柱。中日賣の命の御子、の荒田の郎女、次に大雀おほさざきの命、次に根鳥ねとりの命三柱。弟日賣の命の御子、阿部の郎女、次に阿貝知あはぢ三腹みはらの郎女、次に木の菟野うのの郎女、次に三野みのの郎女五柱。また丸邇わに比布禮ひふれ意富美おほみが女、名は宮主矢河枝みやぬしやかはえ比賣に娶ひて生みませる御子、宇遲うぢ和紀郎子わきいらつこ、次に妹八田やたの若郎女、次に女鳥めどりの王三柱。またその矢河枝比賣が弟、袁那辨をなべの郎女に娶ひて生みませる御子、宇遲うぢわき郎女一柱。また咋俣長日子くひまたながひこの王が女、息長眞若中おきながまわかなかつ比賣に娶ひて、生みませる御子、若沼毛二俣わかぬけふたまたの王一柱。また櫻井さくらゐ田部たべむらじの祖、島垂根しまたりねが女、糸井いとゐ比賣に娶ひて、生みませる御子、速總別はやぶさわけの命一柱。また日向ひむかいづみなが比賣に娶ひて、生みませる御子、大羽江はえみこ、次に小羽江をはえの王、次に檣日はたびわか郎女三柱。また迦具漏かぐろ比賣に娶ひて生みませる御子、川原田かはらだの郎女、次に玉の郎女、次に忍坂おしさか大中おほなかつ比賣、次に登富志とほしの郎女、次に迦多遲かたぢの王五柱。また葛城かづらきの野の伊呂賣いろめに娶ひて、生みませる御子、伊奢いざ麻和迦まわかの王一柱。この天皇の御子たち、并はせて二十六王はたちまりむはしら男王十一、
女王十五。
この中に大雀の命は、天の下治らしめしき。


一 應神天皇。

二 奈良縣高市郡。

三 景行天皇の皇子。

四 仁徳天皇。


〔大山守の命と大雀の命〕

 ここに天皇、大山守の命と大雀の命とに問ひて詔りたまはく、「汝等みましたちは、兄なる子と弟なる子と、いづれかしき」と問はしたまひき。天皇のこの問を發したまへる故は、宇遲の和紀
郎子に天の下治らしめむ御心ましければなり。
ここに大山守の命白さく、「兄なる子をしとおもふ」と白したまひき。次に大雀の命は、天皇の問はしたまふ大御心を知らして、白さく、「兄なる子は、既に人となりて、こはいぶせきこと無きを、弟なる子は、いまだ人とならねば、こを愛しとおもふ」とまをしたまひき。ここに天皇詔りたまはく、「さざき吾君あぎことぞ、我が思ほすが如くなる」とのりたまひき。すなはち詔り別けたまひしくは、「大山守の命は、山海うみやまの政をまをしたまへ。大雀の命は、食國おすくにの政執りもちて白したまへ宇遲うぢ和紀わき郎子は、天つ日繼知らせ」と詔り別けたまひき。かれ大雀の命は、大君のみことたがひまつらざりき。


一 海山に關する事をつかさどりたまえ。ここは海はつけていうだけで、山林についてである。この大山守の命の物語は、山林の事を支配する部族が、そのおこりを語るのである。

二 天下の政治をおこないたまえ。

三 天皇の位につきたまえ。


葛野かづのの歌〕

 或る時天皇、近つ淡海あふみの國に越え幸でましし時、宇遲野うぢのの上に御立みたちして、葛野かづのみさけまして、歌よみしたまひしく、

千葉の 葛野かづのを見れば、

百千足ももちだる 家庭やにはも見ゆ

國の見ゆ。  (歌謠番號四二)

と歌ひたまひき。


一 滋賀縣。

二 京都府宇治郡。

三 京都市。今の桂川の平野。

四 枕詞。葉の多い意で、葛に冠する。

五 澤山充實している村邑も見える。ヤニハは、家屋のある平地。

六 國土のすぐれている所も見える。クニノホは、「國のまほろば」の接頭語接尾語の無い形。


〔蟹の歌〕

 かれ木幡こはたの村に到ります時に、その道衢ちまたに、顏き孃子遇へり。ここに天皇、その孃子に問ひたまはく、「いましは誰が子ぞ」と問はしければ、答へて白さく、「丸邇わに比布禮ひふれ意富美おほみが女、名は宮主矢河枝みやぬしやかはえ比賣」とまをしき。天皇すなはちその孃子に詔りたまはく、「吾明日あすのひ還りまさむ時、いましの家に入りまさむ」と詔りたまひき。かれ矢河枝比賣、委曲つぶさにその父に語りき。ここに父答へて曰はく、「こは大君にますなり。かしこし、が子仕へまつれ」といひて、その家を嚴飾かざりて、さもらひ待ちしかば、明日あすのひ入りましき。かれ大御饗みあへたてまつる時に、その女矢河枝やかはえ比賣の命に大御酒盞を取らしめて獻る。ここに天皇、その大御酒盞を取らしつつ、御歌よみしたまひしく、

このかに 何處いづくの蟹。

百傳ふ 角鹿つぬがの蟹。

よこさらふ 何處に到る。

伊知遲いちぢ島 き、

鳰鳥みほどり かづき息衝き、

しなだゆふ 佐佐那美道ささなみぢ

すくすくと ませばや、

木幡こはたの道に 遇はしし孃子をとめ

後方うしろでは 小楯をだてろかも

齒並はなみは 椎菱しひひしなす一〇

櫟井いちゐ一一 丸邇坂わにさを、

初土はつに一二 膚赤らけみ

底土しはには に黒き故、

三栗みつぐり一三 その中つ

頭著かぶつ一四 眞火には當てず

眉畫まよがき に書き垂れ

遇はししをみな

かもがと一五 が見し兒ら

かくもがと が見し兒に

うたたけだに一六 向ひるかも

ひ居るかも。  (歌謠番號四三)

 かくて御合みあひまして、生みませる御子、宇遲うぢ和紀郎子わきいらつこなり。


一 京都府乙訓郡。

二 丸邇氏は、奈良の春日に居住して富み榮え、しばしばその女を皇室に納れている。古事記の歌物語の多くが、この氏と關係がある。後に春日氏となつた。柿本氏もこの別れである。丸邇氏の歌物語については、角川源義君にその研究がある。

三 ヤは提示の助詞。蟹は鹿と共に古代食膳の常用とされ親しまれていたので、これらに扮裝して舞い歌われた。その歌は、そのものの立場において、歌うのでこれもその一つをもととしている。

四 枕詞。多くの土地を傳い行く意という。

五 横あるきをして。

六 いずれも所在不明。

七 枕詞。ニホドリノに同じ。

八 枕詞。段になつて撓んでいる意という。

九 うしろ姿は楯のようだ。ロは接尾語。

一〇 椎のみや菱のようだ。諸説がある。

一一 イチヒの木の立つ井のある。

一二 上の方の土。

一三 枕詞。

一四 頭にあたる。

一五 かようにありたいと。現に今あるようにと。次のかくもがとも同じ。

一六 語義不明。ウタタ(轉)を含むとすれば、その副詞形で、轉じて、今は變わつての意になる。


〔髮長比賣〕

 天皇、日向の國の諸縣もらがたの君が女、名は髮長かみなが比賣それ顏容麗美かほよしと聞こしめして、使はむとして、し上げたまふ時に、その太子ひつぎのみこ大雀の命、その孃子をとめの難波津にてたるを見て、その姿容かたち端正うつくしきでたまひて、すなはち建内たけしうち宿禰すくねの大臣にあとらへてのりたまはく、「この日向よりし上げたまへる髮長かみなが比賣は、天皇の大御所みもとに請ひ白して、あれに賜はしめよ」とのりたまひき。ここに建内の宿禰の大臣、大命おほみことを請ひしかば、天皇すなはち髮長かみなが比賣をその御子に賜ひき。賜ふ状は、天皇のとよあかり聞こしめしける日に、髮長比賣に大御酒のかしはを取らしめて、その太子に賜ひき。ここに御歌よみしたまひしく、

いざ子ども 野蒜のびる摘みに、

ひる摘みに わが行く道の

香ぐはし 花橘はなたちばなは、

上枝ほつえは 鳥居らし、

下枝しづえは 人取りらし、

三栗の 中つ枝の

ほつもり 赤ら孃子を、

いざささば らしな。  (歌謠番號四四)

 また、御歌よみしたまひしく、

たま 依網よさみの池

堰杙ゐぐひ打ちが 刺しける知らに

ぬなはり へけく一〇知らに、

吾が心しぞ いやをこにして 今ぞ悔しき。  (歌謠番號四五)

と、かく歌ひて賜ひき。かれその孃子を賜はりて後に、太子ひつぎのみこの歌よみしたまひしく、

道のしり一一 古波陀孃子こはだをとめ一二を、

かみのごと 聞えしかども

相枕あひまくらく。  (歌謠番號四六)

 また、歌よみしたまひしく、

道の後 古波陀孃子は、

爭はず 寢しくをしぞも一三

うるはしみおもふ。  (歌謠番號四七)

と歌ひたまひき。


一 酒宴をなされた日。

二 廣い葉に酒を盛つた。

三 さあ皆の者。子どもは目下の者をいう。

四 語義不明。秀つ守りで、高く守つている意か。目立つてよい意に赤ら孃子を修飾するのだろう。日本書紀にはフホゴモリとある。

五 さあなされたら。ササは、動詞爲の敬語の未然形だろう。動詞の敬語をナスという類。

六 敍述による枕詞。

七 大阪市東成區。

八 その池の水をたたえるヰのクヒをうつてあるのが。

九 ニは打消の助動詞ヌの連用形。

一〇 のびていること。ケは時の助動詞キの古い活用形だろうとされる。以上譬喩で、太子の思いがなされていたことをえがく。

一一 遠い土地の。

一二 コハダは日向の國の地名だろう。

一三 寢たことを。上のシは時の助動詞。クはコトの意の助詞。ヲシゾモ、助詞。


國主歌くずうた

 また、吉野えしの國主くずども、大雀の命のかせる御刀を見て、歌ひて曰ひしく、

品陀ほむだの 日の御子

大雀おほさざき 大雀。

佩かせる大刀、

本劍もとつるぎ すゑふゆ

冬木の すからがした木の さやさや。  (歌謠番號四八)

 また、吉野の白檮かし横臼よくすを作りて、その横臼に大御酒おほみきみて、その大御酒を獻る時に、口鼓くちつづみを撃ちわざをなして、歌ひて曰ひしく、

白檮かしに 横臼よくすを作り、

横臼に みし大御酒、

うまらに 聞こしもちをせ一〇

まろが一一。  (歌謠番號四九)

 この歌は、國主くずども大にへ獻る時時、恆に今に至るまで歌ふ歌なり。


一 吉野山中の住民。七六頁に國巣とある。

二 應神天皇の皇子樣。

三 劒の刃先が威力を現している。

四 冬の木の枯れている木の下の。この二句、種々の説がある。

五 劒の清明であるのをたたえた語。

六 白檮の生えているところ。

七 たけの低い臼。その臼で材料をついて酒をかもす。

八 太鼓のような聲を出して。

九 手ぶり物まねなどして。

一〇 うまそうに召しあがれ。ヲセは、食すの命令形。

一一 われらが父よ。


〔文化の渡來〕

 この御世に、海部あまべ山部やまべ山守部やまもりべ伊勢部いせべを定めたまひき。また劒の池を作りき。また新羅人しらぎひとまゐ渡り來つ。ここを以ちて建内の宿禰の命、引きて、堤の池に渡りて百濟くだらの池を作りき。

 また百濟の國主こにきし照古せうこ牡馬をま壹疋ひとつ牝馬めま壹疋を、阿知吉師あちきしに付けてたてまつりき。この阿知吉師は阿直あちの史等が祖なり。また大刀と大鏡とを貢りき。また百濟の國に仰せたまひて、「もしさかし人あらば貢れ」とのりたまひき。かれ命を受けて貢れる人、名は和邇吉師わにきし、すなはち論語十卷とまき、千字文一卷、并はせて十一卷とをまりひとまきを、この人に付けて貢りき。この和爾吉師は文の首等が祖なり。また手人韓鍛からかぬち名は卓素たくそ、また呉服くれはとり西素さいそ二人を貢りき。またはたみやつこの祖、あやあたへの祖、またみきむことを知れる人、名は仁番にほ、またの名は須須許理すすこり等、まゐ渡り來つ。かれこの須須許理、大御酒をみて獻りき。ここに天皇、この獻れる大御酒にうらげて一〇、御歌よみしたまひしく、

須須許理が みし御酒に われ醉ひにけり。

無酒咲酒なぐしゑぐし一一に、われ醉ひにけり。  (歌謠番號五〇)

 かく歌ひつつ幸でましし時に、御杖もちて、大坂一二の道中なる大石を打ちたまひしかば、その石走りりき。かれ諺に堅石かたしは醉人ゑひびとるといふなり。


一 以上、大山守の命に命じたことをいう。但し物語とは別の資料によつたのだろう。

二 奈良縣高市郡。既出。別傳か、修理か。

三 不明瞭で諸説がある。

四 奈良縣北葛城郡。

五 百濟の第十三代の近肖古王。

六 キシは尊稱。下同じ。日本書紀に阿直支あちき

七 廣く行われている周興嗣次韵の千字文はまだ出來ていなかつた。

八 工人である朝鮮の鍛冶人。

九 大陸風の織物工の西素という人。

一〇 浮かれ立つて。

一一 事の無い愉快な酒。クシは酒。

一二 二上山を越える道。


〔大山守の命と宇遲うぢ和紀郎子わきいらつこ

 かれ天皇かむあがりましし後に、大雀の命は、天皇の命のまにまに、天の下を宇遲の和紀郎子に讓りたまひき。ここに大山守の命は、天皇の命に違ひて、なほ天の下を獲むとして、その弟皇子おとみこを殺さむとする心ありて、みそかつはものけて攻めむとしたまひき。ここに大雀の命、その兄の軍を備へたまふことを聞かして、すなはち使を遣して、宇遲の和紀郎子に告げしめたまひき。かれ聞き驚かして、兵を河のに隱し、またその山の上に、絁垣きぬがきを張り、帷幕あげばりを立てて、詐りて、舍人とねりを王になして、あらは呉床あぐらにませて、百官つかさづかさゐやまひかよふ状、既に王子のいまし所の如くして、更にその兄王の河を渡りまさむ時のために、船かぢを具へ飾り、また佐那葛さなかづらの根を臼搗うすづき、その汁のなめを取りて、その船の中の簀椅すばしに塗りて、蹈みて仆るべくけて、その王子は、たへ衣褌きぬはかまて、既に賤人やつこの形になりて、かぢを取りて立ちましき。ここにその兄王、兵士いくさびとを隱し伏せ、鎧を衣の中にせて、河の邊に到りて、船に乘らむとする時に、その嚴飾かざれる處をみさけて、弟王その呉床あぐらにいますと思ほして、ふつにかぢを取りて船に立ちませることを知らず、すなはちその檝執れる者に問ひたまはく、「この山に怒れる大猪ありとつてに聞けり。吾その猪を取らむと思ふを、もしその猪を獲むや」と問ひたまへば、檝執れる者答へて曰はく、「得たまはじ」といひき。また問ひたまはく、「何とかも」と問ひたまへば、答へたまはく「時時よりより往往ところどころにして、取らむとすれども得ず。ここを以ちて得たまはじと白すなり」といひき。渡りて河中に到りし時に、その船をかたぶけしめて、水の中に墮し入れき。ここに浮き出でて、水のまにまに流れ下りき。すなはち流れつつ歌よみしたまひしく

ちはやぶる 宇治の渡に、

棹取りに はやけむ人し わがもこ。  (歌謠番號五一)

と歌ひき。ここに河の邊に伏し隱れたる兵、彼廂此廂あなたこなた一時もろともに興りて、矢刺して流しき。かれ訶和羅かわらさきに到りて沈み入りたまふ。かれかぎを以ちて、その沈みし處を探りしかば、その衣の中なるよろひかりて、かわらと鳴りき。かれ其所そこに名づけて訶和羅の前といふなり。ここにそのかばねを掛き出だす時に、弟王、御歌よみしたまひしく、

ちはや人 宇治の渡に、

渡瀬わたりぜに立てる 梓弓あづさゆみまゆみ

いきらむと一〇 心はへど、

い取らむと 心はへど、

本方もとべ一一は 君を思ひ

末方すゑへ一二は 妹を思ひ

いらなけく一三 そこに思ひ

かなしけく ここに思ひ

いきらずぞる。梓弓檀。  (歌謠番號五二)

 かれその大山守の命の骨は、那良なら山にをさめき。この大山守の命は土形ひぢかたの君、幣岐へきの君、榛原はりはらの君等が祖なり。

 ここに大雀の命と宇遲の和紀郎子と二柱、おのもおのも天の下を讓りたまふほどに、海人あまにへを貢りつ。ここに兄はいなびて、弟に貢らしめたまひ、弟はまた兄に貢らしめて、相讓りたまふあひだに既に許多あまたの日を經つ。かく相讓りたまふこと一度二度にあらざりければ、海人あまは既に往還ゆききに疲れて泣けり。かれ諺に、「海人あまなれや、おのが物から泣く一四」といふ。然れども宇遲の和紀郎子は早くかむさりましき。かれ大雀の命、天の下治らしめしき。


一 荒い絹の幕。

二 あげて張つた幕。天幕。

三 ビナンカズラ。

四 流れながら歌つたというのは、山守部のともがらの演出だからである。現在の昔話に、猿聟入りの話があり、聟の猿が川に落ちて流れながら歌うことがある。

五 枕詞。威力をふるう。ここは宇治川が急流なのでいう。

六 自分のなかまに來てくれ。

七 所在不明。

八 枕詞。つよい人。地名のウヂが、元來威力を意味する語なのであろう。

九 梓弓と檀弓。アヅサはアカメガシハ。マユミはヤマニシキギ。共に弓材になる樹。

一〇 イ切ルで、イは接頭語。切ろうと。

一一 弓の下の方。

一二 弓の上の方。

一三 心のいらいらする形容。

一四 海人だからか、自分の物ゆえに泣く。魚が腐り易いからだという。


あめ日矛ひぼこ

 また昔新羅しらぎ國主こにきしの子、名はあめ日矛ひぼこといふあり。この人まゐ渡り來つ。まゐ渡り來つる故は、新羅の國に一つの沼あり、名を阿具沼あぐぬまといふ。この沼の邊に、ある賤の女晝寢したり。ここに日の耀ひかりのじのごと、その陰上ほとに指したるを、またある賤の男、その状をあやしと思ひて、恆にその女人をみなの行を伺ひき。かれこの女人、その晝寢したりし時より、姙みて、赤玉を生みぬ。ここにその伺へる賤の男、その玉を乞ひ取りて、恆につつみて腰に著けたり。この人、山谷たにの間に田を作りければ、耕人たひとどもの飮食をしものを牛に負せて、山谷たにの中に入るに、その國主こにきしの子あめ日矛ひぼこに遇ひき。ここにその人に問ひて曰はく、「いまし飮食を牛に負せて山谷たにの中に入る。いましかならずこの牛を殺して食ふならむ」といひて、すなはちその人を捕へて、獄内ひとやに入れむとしければ、その人答へて曰はく、「吾、牛を殺さむとにはあらず、ただ田人の食を送りつらくのみ」といふ。然れどもなほ赦さざりければ、ここにその腰なる玉を解きて、その國主こにきしの子にまひしつ。かれその賤の夫を赦して、その玉を持ち來て、床のに置きしかば、すなはち顏美き孃子になりぬ。りてまぐはひして嫡妻むかひめとす。ここにその孃子、常に種種のためものを設けて、恆にそのひこぢに食はしめき。かれその國主こにきしの子心奢りて、りしかば、その女人の言はく、「およそ吾は、いましになるべき女にあらず。吾がみおやの國に行かむ」といひて、すなはちしのびて船に乘りて、逃れ渡り來て、難波に留まりぬ。こは難波の比賣碁曾の社にま
す阿加流比賣といふ神なり。

 ここに天の日矛、そのの遁れしことを聞きて、すなはち追ひ渡り來て、難波に到らむとするほどに、その渡の神へて入れざりき。かれ更に還りて、多遲摩たぢまの國てつ。すなはちその國に留まりて、多遲摩の俣尾またをが女、名は前津見まへつみひて生める子、多遲摩母呂須玖もろすく。これが子多遲摩斐泥ひね。これが子多遲摩比那良岐ひならき。これが子多遲摩毛理もり、次に多遲摩比多訶ひたか、次に清日子きよひこ三柱。この清日子、當摩たぎま咩斐めひに娶ひて生める子、酢鹿すが諸男もろを、次に妹菅竈由良度美すがかまゆらどみ、かれ上にいへる多遲摩比多訶、その姪由良度美に娶ひて生める子、葛城かづらき高額たかぬか比賣の命。こは息長帶比賣
の命の御祖なり。

 かれその天の日矛の持ち渡り來つる物は、たまたからといひて、珠二つら、またなみ比禮ひれなみる比禮、風振る比禮、風切る比禮、またおきつ鏡、つ鏡、并はせて八種なり。こは伊豆志の八前
の大神一〇なり。


一 日本書紀に垂仁天皇の卷に見え、播磨國風土記に、葦原シコヲの命との交渉を記している。

二 卵生説話の一。その玉が孃子に化したとする。この點からいえば神婚説話であつて、外來の形を傳えていると見られるのが注意される。

三 大阪市東成區。

四 兵庫縣の北部。

五 垂仁天皇の御代に常世の國に行つて橘を持つて來た人。一〇四頁參照。

六 神功皇后。

七 珠を緒に貫いたもの二つ。

八 以上四種のヒレは、風や波を起しまたしずめる力のあるもの。浪振るは浪を起す。浪切るは浪をしずめる。風も同樣。ヒレについては四二頁脚註參照。

九 二種の鏡は、海上の平安を守る鏡。オキツは海上遠く、ヘツは海邊。

一〇 兵庫縣出石郡の出石神社。


〔秋山の下氷壯夫したびをとこと春山の霞壯夫〕

 かれここに神の女、名は伊豆志袁登賣いづしをとめの神います。かれ八十神、この伊豆志袁登賣を得むとすれども、みなえよばはず。ここに二柱の神あり。兄の名を秋山の下氷壯夫したびをとこ、弟の名は春山の霞壯夫かすみをとこなり。かれその兄、その弟に謂ひて、「吾、伊豆志袁登賣を乞へども、え婚はず。いましこの孃子を得むや」といひしかば答へて曰はく、「易く得む」といひき。ここにその兄の曰はく、「もし汝、この孃子を得ることあらば、上下の衣服きものり、身のたけを量りてみかに酒を、また山河の物を悉に備へ設けて、うれづくをせむ」といふ。ここにその弟、兄のいへる如、つぶさにその母に白ししかば、すなはちその母、ふぢかづらを取りて、一夜のほどに、きぬはかま、またしたぐつくつを織り縫ひ、また弓矢を作りて、その衣褌等を服しめ、その弓矢を取らしめて、その孃子の家に遣りしかば、その衣服も弓矢も悉に藤の花になりき。ここにその春山の霞壯夫、その弓矢を孃子の厠に繋けたるを、ここに伊豆志袁登賣、その花をあやしと思ひて、持ち來る時に、その孃子の後に立ちて、その屋に入りて、すなはちまぐはひしつ。かれ一人の子を生みき。

 ここにその兄に白して曰はく、「は伊豆志袁登賣を得つ」といふ。ここにその兄、弟の婚ひつることをうれたみて、そのうれづくの物を償はざりき。ここにその母に愁へ白す時に、御祖の答へて曰はく、「我が御世の事、能くこそ神習はめ一〇。またうつしき青人草習へや、その物償はぬ一一」といひて、その兄なる子を恨みて、すなはちその伊豆志河いづしかはの河島の一節竹よだけ一二を取りて、荒籠あらこ一三を作り、その河の石を取り、鹽に合へて一四、その竹の葉に裹み、詛言とこひいはしめしく一五、「この竹葉たかばの青むがごと、この竹葉のしなゆるがごと、青み萎えよ。またこの鹽のるがごと、盈ちよ。またこの石の沈むがごと、沈み臥せ」とかくとこひて、へつひの上に置かしめき。ここを以ちてその兄八年の間にかわき萎え病み枯れき。かれその兄患へ泣きて、その御祖に請ひしかば、すなはちその詛戸とこひど一六を返さしめき。ここにその身本の如くに安平やすらぎき。こは神うれづくと
いふ言の本なり。


一 出石の神が通つて生んだ女子。

二 イヅシは地名、前項參照。

三 シタビは、赤く色づくこと。「秋山の下べる妹」(萬葉集)。秋の美を名とした男。春山の霞壯夫と對立する。

四 上下の衣服をぬいで讓り。

五 身長と同じ高さの瓶に酒をかもして。

六 賭事。ウレは、ウラナフ(占う)、ウラ(心)などのウラ、ウレタシ(心痛し)のウレと同語。ヅクは、カケヅク(賭づく)などのヅクで、それに就く意。占いごとで、成るか成らぬかを賭けたのである。

七 藤の蔓。

八 沓の中にはくもの。クツシタ。

九 藤の花が男子に化して婚姻した形になり神婚説話になる。

一〇 われわれの世界では、よく神の行爲に習うべきである。

一一 現實の人間にならつてか、負けたのに賭の物をよこさない。人間の世界は不信で、そのまねをしている。

一二 一節の長さの竹。ヨは竹の節と節との中間をいう。

一三 多くの目のあるあらい籠。

一四 海水の滿干を現すために鹽にまぜる。

一五 その子をして呪い言をさせて。

一六 呪咀の置物。


〔系譜

 またこの品陀ほむだの天皇の御子、若野毛二俣わかのけふたまたの王、その母の弟百師木伊呂辨ももしきいろべ、またの名は弟日賣眞若おとひめまわか比賣の命に娶ひて生みませる子、大郎子おほいらつこ、またの名は意富富杼おほほどの王、次に忍坂おさか大中津おほなかつ比賣の命、次に田井たゐの中比賣、次に田宮たみやの中比賣、次に藤原の琴節ことふし郎女いらつめ、次に取賣とりめの王、次に沙禰さねの王七柱。かれ意富富杼の王は三國の君、波多の君、息長の君、筑紫の米多の君、長坂の君、酒人の君、山道の君、布勢の君等が祖なり。また根鳥の王庶妹ままいも三腹みはらの郎女に娶ひて生みませる子、中日子なかひこの王、次に伊和島いわじまの王二柱。また堅石かたしはの王の子は、久奴くぬの王なり。

 およそこの品陀の天皇。御年一百三十歳ももぢまりみそぢ。甲午の年九月九日に崩りたまひき。御陵は、川内かふち惠賀ゑが裳伏もふしの岡にあり。


一 この系譜は、もとはじめの系譜に續いていたのを、中間に物語が插入されたので、中斷されたのであろう。

二 母の妹。

三 繼體天皇は、この王の子孫である。

四 應神天皇の皇子。

五 前に出ない。系統不明。

六 大阪府南河内郡。


古事記 中つ卷


古事記 下つ卷


〔一、仁徳天皇〕


〔后妃と皇子女〕

 大雀おほさざきの命、難波の高津の宮にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、葛城かづらき曾都毘古そつびこが女、いは日賣ひめの命大后ひて、生みませる御子、大江の伊耶本和氣いざほわけの命、次に墨江すみのえなかみこ、次にたぢひ水齒別みづはわけの命、次に男淺津間若子をあさづまわくごの宿禰の命四柱。また上にいへる日向ひむか諸縣むらがたの君牛諸うしもろが女、髮長比賣かみながひめひて、生みませる御子、波多毘はたびの大郎子、またの名は大日下くさかの王、次に波多毘の若郎女わきいらつめ、またの名は長目ながめ比賣の命、またの名は若日下部の命二柱。また庶妹ままいも八田やたの若郎女に娶ひ、また庶妹宇遲の若郎女に娶ひたまひき。この二柱は、御
子まさざりき。
およそこの大雀の天皇の御子たち并はせて六柱。男王五柱、
女王一柱。
かれ伊耶本和氣の命は、天の下治らしめしき。次に蝮の水齒別の命も天の下治らしめしき。次に男淺津間若子の宿禰の命も天の下治らしめしき。


一 仁徳天皇。

二 大阪市東區。今の大阪城の邊。

三 建内の宿禰の子。


ひじりの御世〕

 この天皇の御世に、大后いはの比賣の命の御名代みなしろとして、葛城部かづらきべを定めたまひ、また太子ひつぎのみこ伊耶本和氣の命の御名代として、壬生部にぶべを定めたまひ、また水齒別の命の御名代として、蝮部たぢひべを定めたまひ、また大日下の王の御名代として、大日下部を定めたまひ、若日下部の王の御名代として、若日下部を定めたまひき。

 またはたえだてて、茨田うまらたの堤と茨田の三宅みやけとを作り、また丸邇わにの池依網よさみの池を作り、また難波の堀江を掘りて、海に通はし、また小椅をばしの江を掘り、また墨江の津を定めたまひき。

 ここに天皇、高山に登りて、四方よもの國を見たまひて、りたまひしく、「國中くぬちに烟たたず、國みな貧し。かれ今より三年に至るまで、悉に人民おほみたから課役みつきえだちゆるせ」とのりたまひき。ここを以ちて大殿こぼれて、悉に雨漏れども、かつて修理をさめたまはず、一〇をもちてその漏る雨を受けて、漏らざる處に遷りりましき。後に國中くぬちを見たまへば、國に烟滿ちたり。かれ人民富めりとおもほして、今はと課役おほせたまひき。ここを以ちて、百姓おほみたから榮えて役使えだちに苦まざりき。かれその御世を稱へて聖帝ひじりの御世一一とまをす。


一 中國の秦の國人。

二 大阪府北河内郡。

三 大阪府南河内郡。

四 大阪市東成區。前に造つたことが出ている。改修か。

五 淀川の水を通じるために掘つたもので、今の天滿川である。

六 大阪市東成區。

七 大阪市住吉區。

八 食物を作ることが少いので烟が立たない。

九 ミツキはたてまつり物。エダチは勞役。

一〇 水を流す樋。

一一 ヒジリは、知識者の意から貴人をいうようになつたが、漢字の聖にこの語をあて、天皇の世をこのようにいうのは、漢文の影響を受けている。


吉備きびの黒日賣〕

 その大后いはの日賣の命、いたく嫉妬うはなりねたみしたまひき。かれ天皇の使はせるみめたちは、宮の中をもえのぞかず、言立てば、足も足掻あがかに妬みたまひき。ここに天皇、吉備きび海部あまべあたへが女、名は黒日賣くろひめそれ容姿端正かほよしと聞こしめして、喚上めさげて使ひたまひき。然れどもその大后の嫉みますをかしこみて、本つ國に逃げ下りき。天皇、高どのにいまして、その黒日賣の船出するを望み見て歌よみしたまひしく、

には 小舟つららく

くろざやの まさづこ吾妹わぎも

國へ下らす。  (歌謠番號五三)

 かれ大后この御歌を聞かして、いたく忿りまして、大浦に人を遣して、追ひ下して、かちよりやらひたまひき。

 ここに天皇、その黒日賣に戀ひたまひて、大后を欺かして、のりたまはく、「淡道島あはぢしま見たまはむとす」とのりたまひて、でます時に、淡道島にいまして、はろばろみさけまして、歌よみしたまひしく、

おしてるや、難波の埼よ

出で立ちて わが國見れば、

粟島 淤能碁呂島おのごろしま

檳榔あぢまさの 島も見ゆ。

佐氣都さけつ一〇見ゆ。  (歌謠番號五四)

 すなはちその島より傳ひて、吉備きびの國に幸でましき。ここに黒日賣、その國の山縣やまがたところ一一におほましまさしめて、大御飯みけ獻りき。ここに大御羮おほみあつもの一二を煮むとして、其地そこ菘菜あをなむ時に、天皇その孃子の採む處に到りまして、歌よみしたまひしく、

がたに 蒔けるあをなも、

吉備人と 共にし摘めば、

たのしくもあるか。  (歌謠番號五五)

 天皇上りでます時に、黒日賣、御歌、獻りて曰ひしく、

やまとに 西風にし吹きげて、

ばなれ そきりとも一三

われ忘れめや。  (歌謠番號五六)

また歌ひて曰ひしく、

やまとに 往くは誰がつま

隱津こもりづの 下よへつつ一四

往くは誰が夫。  (歌謠番號五七)


一 足をばたばたさせて。

二 小船が連なつている。

三 語義不明。枕詞だろう。

四 黒日賣の本名であろう。

五 枕詞。海の照り輝く意。

六 〓(「土へん+竒」)から。

七 阿波の方面から見た四國。

八 所在不明。一九頁脚註參照。

九 所在不明。アヂマサは、檳榔樹。

一〇 同前。

一一 山の料地。

一二 お吸物。

一三 雲が離れるように退いていても。「大和べに風吹きあげて雲ばなれ退き居りともよ吾を忘らすな」(丹後國風土記、浦島の物語の神女)

一四 地下水のように下を流れて。


〔皇后いは比賣ひめの命〕

 これより後、大后とよあかりしたまはむとして、御綱栢みつながしはを採りに、木の國に幸でましし間に、天皇、八田やた若郎女わかいらつめひましき。ここに大后は、御綱栢を御船に積みてて還りいでます時に、水取もひとりの司に使はゆる、吉備の國の兒島の郡の仕丁よぼろ、これおのが國に退まかるに、難波の大渡に、後れたる倉人女くらびとめの船に遇ひき。すなはち語りて曰はく、「天皇は、このごろ八田の若郎女に娶ひまして晝夜よるひる戲れますを。もし大后はこの事聞こしめさねかも、しづかに遊びいでます」と語りき。ここにその倉人女、この語る言を聞きて、すなはち御船に追ひ近づきて、その仕丁よぼろが言ひつるごと、ありさまをまをしき。ここに大后いたく恨み怒りまして、その御船に載せたる御綱栢は、悉に海に投げてたまひき。かれ其地そこに名づけて御津みつさきといふ。すなはち宮に入りまさずて、その御船を引ききて、堀江にさかのぼらして、河のまにまに山代やましろに上りいでましき。この時に歌よみしたまひしく、

つぎねふや 山代やましろ河を

川のぼり 吾がのぼれば、

河のに 生ひ立てる 烏草樹さしぶを。

烏草樹さしぶの樹、

が下に 生ひ立てる

葉廣 ゆつ眞椿まつばき

が花の 照りいまし

が葉の ひろりいますは、

大君ろかも。  (歌謠番號五八)

 すなはち山代より𢌞りて、那良の山口一〇に到りまして、歌よみしたまひしく、

つぎねふや 山代河を

宮上り 吾がのぼれば、

あをによし一一 那良を過ぎ、

小楯をだて一二 やまと一三を過ぎ、

が 見が欲し國一四は、

葛城かづらき 高宮たかみや一五

吾家わぎへのあたり。  (歌謠番號五九)

 かく歌ひて還らして、しまし筒木つつきから一六、名は奴理能美ぬりのみが家に入りましき。

 天皇、その大后は山代より上り幸でましぬと聞こしめして、舍人名は鳥山といふ人を使はして御歌を送りたまひしく、

山代に いしけ鳥山一七

いしけいしけ づまに いしき遇はむかも一八。  (歌謠番號六〇)

 また續ぎて丸邇わにの臣口子くちこを遣して歌よみしたまひしく、

御諸みもろ一九の その高城たかきなる

大猪子おほゐこが原二〇

大猪子が 腹にある二一

肝向ふ二二 心をだにか

おもはずあらむ。  (歌謠番號六一)

 また歌よみしたまひしく、

つぎねふ 山代女の

木钁こくは持ち 打ちし大根二三

根白の 白腕しろただむき

かずけばこそ二四 知らずとも言はめ。  (歌謠番號六二)

 かれこの口子くちこおみ、この御歌を白す時に、大雨降りき。ここにその雨をもらず、前つ殿戸とのどにまゐ伏せば、しりつ戸に違ひ出でたまひ、後つ殿戸にまゐ伏せば、前つ戸に違ひ出でたまひき。かれ匍匐はひ進起しじまひて、庭中に跪ける時に、水潦にはたづみ二五腰に至りき。その臣、あかひも著けたる青摺あをずりきぬ二六たりければ、水潦紅き紐に觸りて、青みなあけになりぬ。ここに口子の臣が妹口比賣くちひめ、大后に仕へまつれり。かれその口比賣くちひめ歌ひて曰ひしく、

山代の 筒木の宮に

物申す の君は、

涙ぐましも。  (歌謠番號六三)

 ここに大后、その故を問ひたまふ時に答へて曰さく、「僕が兄口子の臣なり」とまをしき。

 ここに口子の臣、またその妹口比賣、また奴理能美ぬりのみ、三人はかりて、天皇にまをさしめて曰さく、「大后の幸でませる故は、奴理能美がへる蟲、一度はふ蟲になり、一度はかひこになり、一度は飛ぶ鳥になりて、三くさかはあやしき蟲二七あり。この蟲を看そなはしに、入りませるのみ。更にしき心まさず」とかく奏す時に、天皇、「然らばあれも奇しと思へば、見に行かな」と詔りたまひて、大宮より上り幸でまして、奴理能美が家に入ります時に、その奴理能美、おのが養へる三種の蟲を、大后に獻りき。ここに天皇、その大后のませる殿戸に御立みたちしたまひて、歌よみしたまひしく、

つぎねふ 山代女の

木钁こくはち 打ちし大根、

さわさわに二八 が言へせこそ二九

うち渡す三〇 やがは三一なす

入り參ゐ來れ。  (歌謠番號六四)

 この天皇と大后と歌よみしたまへる六歌は、志都しつ歌の歌ひ返し三二なり。


一 酒宴。

二 御角柏とも書く。葉先が三つになつている樹葉。これに食物を盛る。ウコギ科の常緑喬木、カクレミノ。

三 岡山縣兒島郡から出た壯丁。

四 物の出し入れを扱う女。

五 御承知にならないからか。疑問の已然條件法。

六 淀川をさかのぼつて。

七 枕詞。語義不明。次々に嶺が現れる意かという。

八 シャクナゲ科の常緑喬木。シャシャンボ。

九 神聖な椿。神靈の存在を感じている。

一〇 淀川から上り、木津川を上つて奈良山の山口に來た。

一一 枕詞。語義不明。

一二 枕詞。山の姿の形容か。

一三 大和の國の平野の東方。山手の地。ヤマトの名は、もとこの邊の稱から起つた。

一四 わたしの見たい國は。その國は、奈良や倭を過ぎて行く葛城の地であるの意。

一五 葛城の高地にある宮。皇后の父君、葛城の襲津彦、母君葛城の高額姫、共にこの地に住まれた。

一六 京都府綴喜郡にいる朝鮮の人。

一七 追いつけよ、鳥山よ。

一八 追いついて遇いましよう。

一九 ミモロは、神座をいい、ひいて神社のある所をいふ。ここは葛城の三諸。

二〇 原の名。オホヰコは猪のこと。

二一 上の大猪子が原から引き出している。肝は腹にあるので次の句を修飾する。

二二 枕詞。腹の中には肝が向いあい、そこに心があるとした。

二三 打つて掘り出した大根。

二四 ケは、時の助動詞キの古い活用形で未然形。

二五 雨が降つて急に出る水。

二六 美裝で、雄略天皇の卷にも見える。アヲズリは、青い染料をすりつけて染めること。

二七 蠶である。蠶のはじめは三五頁の神話に見えているが、それは神話のことで、大陸や朝鮮との交通によつて養蠶がおこなわれるようになつたのである。

二八 さわぎ立てる形容。

二九 語法上問題がある。セは敬語の助動詞スの已然形とすれば、動詞言うの未然形に接續するはずであるのに、イヘセとなつているのは、言うが下二段活か。とにかく已然條件法であろう。

三〇 見渡したところの。

三一 茂つた木の枝のように。人々をつれて來入ることの形容。

三二 歌曲の名。志都歌があつて、それに附隨して歌い返す歌の意であろう。


〔八田の若郎女〕

 天皇、八田やた若郎女わかいらつめに戀ひたまひて、御歌を遣したまひき。その御歌、

八田の 一本菅ひともとすげは、

子持たず 立ちか荒れなむ。

あたら菅原すがはら

ことをこそ 菅原すげはらと言はめ。

あたらすが。  (歌謠番號六五)

 ここに八田の若郎女、答へ歌よみしたまひしく、

八田の 一本菅は 獨居りとも。

天皇おほきみし よしと聞こさば 獨居りとも。  (歌謠番號六六)

 かれ八田の若郎女の御名代として、八田部やたべを定めたまひき。


一 惜しい菅原だ。


速總別はやぶさわけの王と女鳥めとりの王〕

 また天皇、その弟速總別の王なかだちとして、庶妹ままいも女鳥めとりの王を乞ひたまひき。ここに女鳥の王、速總別の王に語りて曰はく、「大后のおずに因りて、八田の若郎女を治めたまはず。かれ仕へまつらじと思ふ。は汝が命のにならむ」といひて、すなはちひましつ。ここを以ちて速總別の王復奏かへりごとまをさざりき。ここに天皇、ただに女鳥の王のいます所にいでまして、その殿戸のしきみの上にいましき。ここに女鳥の王はたにまして、みそ織りたまふ。ここに天皇、歌よみしたまひしく、

女鳥の 吾がおほきみの ろすはた

たねろかも。  (歌謠番號六七)

 女鳥の王、答へ歌ひたまひしく、

高行くや 速總別の みおすひがね。  (歌謠番號六八)

 かれ天皇、その心を知らして、宮に還り入りましき。

 この時、そのひこぢ速總別の王の來れる時に、そのみめ女鳥の王の歌ひたまひしく、

雲雀ひばりは あめかけ

高行くや 速總別、

鷦鷯さざき取らさね。  (歌謠番號六九)

 天皇この歌を聞かして、軍を興して、りたまはむとす。ここに速總別の王、女鳥の王、共に逃れ退きて、倉椅山くらはしやまあがりましき。ここに速總別の王歌ひたまひしく、

梯立ての一〇 倉椅山を さがしみと

岩かきかねて一一 が手取らすも。  (歌謠番號七〇)

 また歌ひたまひしく、

梯立ての 倉椅山は 嶮しけど、

妹と登れば 嶮しくもあらず。  (歌謠番號七一)

 かれそこより逃れて、宇陀うだ蘇邇そに一二に到りましし時に、御軍追ひ到りて、せまつりき。

 その將軍いくさのきみ山部やまべ大楯おほたてむらじ、その女鳥の王の、御手にかせる玉釧たまくしろ一三を取りて、おのがに與へき。この時の後、豐のあかりしたまはむとする時に、氏氏の女どもみな朝參みかどまゐりす一四。ここに大楯の連が妻、その王の玉釧を、おのが手にきてまゐけり。ここに大后いはの日賣の命、みづから大御酒のかしはを取一五らして、もろもろ氏氏の女どもに賜ひき。ここに大后、その玉釧を見知りたまひて、御酒の栢を賜はずて、すなはち引き退けて、その夫大楯の連を召し出でて、詔りたまはく、「その王たち一六ゐやなきに因りて退けたまへる、こはしき事無きのみ。それの奴や、おのが君の御手に纏かせる玉釧を、膚もあたたけきに剥ぎ持ち來て、おのが妻に與へつること」と詔りたまひて、死刑ころすつみに行ひたまひき。


一 猛禽のハヤブサを名としている王。ハヤブサとサザキ(ミソサザイ)とが女鳥を爭つたという鳥類物語が原形だろう。

二 嫉妬づよく、もてあましている。

三 思うようになされない。

四 織らす機に同じ。お織りになつている機おり物。

五 ロは接尾語。

六 敍述による枕詞。

七 御おすいの材料。オスヒは既出。

八 高行くの譬喩。

九 奈良縣磯城郡の東方の山。

一〇 敍述による枕詞。階段を立てる意で倉を修飾する。

一一 岩に手をかけ得ないで。「霰ふる杵島きしまたけをさかしみと草とりかねて妹が手を取る」(肥前國風土記)。

一二 奈良縣宇陀郡。

一三 美しい腕輪。

一四 諸家の女たちが宮廷に出た。

一五 御酒を盛つた御綱栢。

一六 ハヤブサワケと女鳥の王。


〔雁の卵〕

 またある時、天皇豐のあかりしたまはむとして、日女ひめに幸でましし時に、その島にかり生みたり。ここに建内の宿禰の命を召して、歌もちて、雁の卵生める状を問はしたまひき。その御歌、

たまきはる 内の朝臣あそ

こそは 世の長人ながひと

そらみつ 日本やまとの國に

と 聞くや。  (歌謠番號七二)

 ここに建内の宿禰、歌もちて語りて白さく、

高光る 日の御子、

うべしこそ 問ひたまへ。

まこそに 問ひたまへ。

あれこそは 世の長人、

そらみつ 日本の國に

かりと いまだ聞かず。  (歌謠番號七三)

 かく白して、御琴を賜はりて、歌ひて曰ひしく、

みこや 終に知らむと、

雁は子産らし。  (歌謠番號七四)

と歌ひき。こは壽歌ほきうたの片歌なり。


一 大阪府三島郡。

二 枕詞。語義不明。

三 宮廷に仕える臣下。建内の宿禰のこと。

四 世の中に長くいる人。

五 枕詞。ニギハヤヒの命が天から降下する時に、大和の國を空中から見たことからはじまるとする傳えがある。

六 もつともなことに。シは強意の助詞。

七 マは眞實。

八 歌曲の名。


枯野からのといふ船〕

 この御世に、兔寸うきの西の方に、高樹たかきあり。その樹の影、朝日に當れば、淡道あはぢ島におよび、夕日に當れば、高安山を越えき。かれこの樹を切りて、船に作れるに、いとく行く船なりけり。時にその船に名づけて枯野からのといふ。かれこの船を以ちて、旦夕あさよひに淡道島の寒泉しみづを酌みて、大御もひ獻る。この船のやぶれたるもちて、鹽を燒き、その燒けのこりの木を取りて、琴に作るに、その音七里ななさとに聞ゆ。ここに歌よみて曰ひしく、

枯野からぬを 鹽に燒き、

あまり 琴に造り、

掻き彈くや 由良ゆら

門中となかの 海石いくり

振れ立つ 浸漬なづの木の、さやさや。  (歌謠番號七五)

 こは志都歌の歌ひ返しなり。

 この天皇の御年八十三歳やそぢあまりみつ丁卯の年八月十五
日崩りたまひき。
御陵は毛受もず耳原みみはらにあり。


一 所在不明。物語によれば大阪平野のうちである。

二 大阪府中河内郡。信貴山。

三 ヤは間投の助詞。

四 大阪灣口の由良海峽。(紀淡海峽)。

五 海中の石、暗礁。

六 海水に浸つている木のように。

七 音のさやかであること。

八 大阪府泉南郡。この御陵は、天皇生前に工事をした。その時に鹿の耳の中からモズが飛び出したから地名とするという。


〔二、履中天皇・反正天皇〕


〔履中天皇と墨江の中つ王〕

 みこ伊耶本和氣いざほわけの王伊波禮いはれ若櫻わかざくらの宮にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、葛城かづらき曾都毘古そつびこの子、葦田あしだの宿禰が女、名は黒比賣くろひめの命に娶ひて、生みませる御子、いち忍齒おしはの王、次に御馬みまの王、次に妹青海あをみの郎女、またの名は飯豐いひとよの郎女三柱

 もと難波の宮にましましし時に、大嘗おほにへにいまして、豐のあかりしたまふ時に、大御酒にうらげて大御寢おほみねましき。ここにその弟墨江すみのえの中つ王、天皇を取りまつらむとして、大殿に火を著けたり。ここにやまとあやあたへの祖、阿知あちの直、盜み出でて、御馬に乘せまつりて、やまとにいでまさしめき。かれ多遲比野たぢひのに到りて、寤めまして詔りたまはく、「何處いづくぞ」と詔りたまひき。ここに阿知の直白さく、「墨江の中つ王、大殿に火を著けたまへり。かれまつりて、倭にのがるるなり」とまをしき。ここに天皇歌よみしたまひしく、

丹比野たぢひのに 寢むと知りせば、

防壁たつごもも 持ちて來ましもの

寢むと知りせば。  (歌謠番號七六)

 波邇賦はにふに到りまして、難波の宮を見けたまひしかば、その火なほえたり。ここにまた歌よみしたまひしく、

波邇布はにふ坂 吾が立ち見れば、

かぎろひの一〇 燃ゆる家むら

つまいへのあたり。  (歌謠番號七七)

 かれ大坂の山口に到りましし時に、女人をみな遇へり。その女人の白さく、「つはものを持てる人ども、さはにこの山をへたれば、當岐麻道たぎまぢ一一より𢌞りて、越え幸でますべし」とまをしき。ここに天皇歌よみしたまひしく、

大坂に 遇ふや孃子をとめを。

道問へば ただにはらず一二

當岐麻路たぎまぢを告る。  (歌謠番號七八)

 かれ上り幸でまして、いそかみの宮一三にましましき。

 ここにその同母弟いろせ水齒別みづはわけの命一四、まゐきてまをさしめたまひき。ここに天皇詔りたまはく、「吾、汝が命の、もし墨江すみのえなかつ王とおやじ心ならむかと疑ふ。かれ語らはじ」とのりたまひしかば、答へて曰さく、「僕はきたなき心なし。墨江の中つ王とおやじくはあらず」と、答へ白したまひき。また詔らしめたまはく、「然らば、今還り下りて、墨江の中つ王を殺して、のぼり來ませ。その時に、あれかならず語らはむ」とのりたまひき。かれすなはち難波に還り下りまして、墨江の中つ王に近くつかへまつる隼人はやびと一五、名は曾婆加里そばかりを欺きてのりたまはく、「もし汝、吾が言ふことに從はば、吾天皇となり、汝を大臣おほおみになして、天の下治らさむとおもふは如何に」とのりたまひき。曾婆訶里答へて白さく「命のまにま」と白しき。ここにその隼人に物さはに賜ひてのりたまはく、「然らば汝の王をりまつれ」とのりたまひき。ここに曾婆訶里、己が王の厠に入りませるを伺ひて、ほこもちて刺してせまつりき。かれ曾婆訶里をて、やまとに上り幸でます時に、大坂の山口に到りて、思ほさく、曾婆訶里、吾がために大きいさをあれども、既におのが君を殺せまつれるは、不義きたなきわざなり。然れどもその功に報いずは、まこと無しといふべし。既にその信を行はば、かへりてその心をかしこしとおもふ。かれその功に報ゆとも、その正身ただみ一六を滅しなむと思ほしき。ここをもちて曾婆訶里に詔りたまはく、「今日はに留まりて、まづ大臣の位を賜ひて、明日上りまさむ」とのりたまひて、その山口に留まりて、すなはちかり宮を造りて、俄に豐のあかりして、その隼人に大臣の位を賜ひて、百官つかさづかさをしてをろがましめたまふに、隼人歡びて、志遂げぬと思ひき。ここにその隼人に詔りたまはく、「今日大臣とおやうきの酒を飮まむとす」と詔りたまひて、共に飮む時に、おもを隱す大まり一七にそのたてまつれる酒を盛りき。ここに王子みこまづ飮みたまひて、隼人後に飮む。かれその隼人の飮む時に、大鋺、面を覆ひたり。ここにむしろの下に置けるたちを取り出でて、その隼人が首を斬りたまひき。すなはち明日くるつひ、上り幸でましき。かれ其地そこに名づけてちか飛鳥あすか一八といふ。やまとに上り到りまして詔りたまはく、「今日は此處に留まりて、祓禊はらへ一九して、明日まゐ出でて、神宮かむみや二〇を拜まむ」とのりたまひき。かれ其地そこに名づけて遠つ飛鳥二一といふ。かれいそかみの神宮にまゐでて、天皇に「政既にことむけ訖へてまゐ上りさもらふ」とまをさしめたまひき。ここに召し入れて語らひたまひき。

 天皇、ここに阿知の直を、始めてくらつかさ二二けたまひ、また粮地たどころ二三を賜ひき。またこの御世に、若櫻部わかさくらべの臣等に、若櫻部といふ名を賜ひ、また比賣陀ひめだの君等に、比賣陀の君といふかばねを賜ひき。また伊波禮部いはれべを定めたまひき。

 天皇の御年六十四歳むそぢあまりよつ壬申の年正月三日
崩りたまひき。
御陵は毛受もずにあり。


一 履中天皇。

二 奈良縣磯城郡。

三 一六八頁・一八二頁・一八五頁に物語がある。

四 大嘗祭をなすつて。

五 浮かれて。

六 大阪府南河内郡。

七 コモを編んで風の防ぎとする屏風。

八 持つて來たろうに。假設の語法。

九 大阪府南河内郡から大和に越える坂。

一〇 譬喩による枕詞。カギロヒは陽炎。

一一 奈良縣北葛城郡の當麻たいま(古名タギマ)へ越える道で、二上山の南を通る。大坂は二上山の北を越える。

一二 まつすぐにとは言わないで。

一三 奈良縣山邊郡の石上の神宮。

一四 反正天皇。

一五 九州南方の住民。勇敢なので召し出して宮廷の護衞としている。

一六 その本身を。

一七 顏をかくすような大きな椀。

一八 大和の飛鳥に對していう。

一九 隼人を殺して穢を生じたので、それを拂う行事をして。

二〇 石上の神宮。天皇の御座所。

二一 奈良縣高市郡の飛鳥。

二二 物の出納をつかさどる役。

二三 領地。


〔反正天皇〕

 いろと水齒別みづはわけの命、多治比たぢひ柴垣しばかきの宮にましまして、天の下治らしめしき。天皇、たけ九尺二寸半ここのさかまりふたきいつきだ。御齒の長さ一、廣さ二きだ。上下等しくととのひて、既に珠をけるが如くなりき。天皇、丸邇わに許碁登こごとの臣が女、都怒つのの郎女に娶ひて、生みませる御子、甲斐かひの郎女、次に都夫良つぶらの郎女二柱。またおやじ臣が女、弟比賣に娶ひて、生みませる御子、たからの王、次に多訶辨たかべの郎女、并はせて四柱ましき。天皇御年六十歳むそぢ丁丑の年七月に
崩りたまひき。
御陵は毛受野もずのにありと言へり。


一 反正天皇。

二 大阪府南河内郡。

三 珠を緒にさしたようだ。


〔三、允恭天皇〕


〔后妃と皇子女〕

 弟男淺津間をあさづま若子わくごの宿禰の王、遠つ飛鳥あすかの宮にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、意富本杼おほほどの王が妹、忍坂おさか大中津おほなかつ比賣の命に娶ひて、生みませる御子、木梨きなしかるの王、次に長田の大郎女おほいらつめ、次にさかひの黒日子の王、次に穴穗あなほの命、次に輕の大郎女、またの御名は衣通そとほしの郎女、御名は衣通の王と負はせる所以は、
その御身の光衣より出づればなり。
次に八瓜やつりの白日子の王、次に大長谷はつせの命、次にたちばなの大郎女、次に酒見さかみの郎女九柱。およそ天皇の御子たち、九柱。男王五柱、
女王四柱。
この九柱の中に、穴穗の命は、天の下治らしめしき。次に大長谷の命も、天の下治らしめしき。


一 允恭天皇。


八十伴やそとも氏姓うぢかばね

 天皇初め天つ日繼知らしめさむとせし時に、いなびまして、詔りたまひしく「我は長き病しあれば、日繼をえ知らさじ」と詔りたまひき。然れども大后より始めて、諸卿まへつぎみたち堅く奏すに因りて、天の下治らしめしき。この時、新羅しらぎ國主こにきし御調物みつぎもの八十一艘やそまりひとふね獻りき。ここに御調の大使、名は金波鎭漢紀武こみはちにかにきむといふ。この人藥のみちを深く知れり。かれ天皇が御病を治めまつりき。

 ここに天皇、天の下の氏氏名名の人どもの、氏かばねたがあやまることを愁へまして、味白檮うまかし言八十禍津日ことやそまがつひさきに、玖訶瓮くかべを据ゑて、天の下の八十伴やそともの氏姓を定めたまひき。また木梨きなしかる太子ひつぎのみこの御名代として、輕部かるべを定め、大后の御名代として、刑部おさかべを定め、大后の弟田井たゐなかつ比賣の御名代として、河部かはべを定めたまひき。

 天皇御年七十八歳ななそぢまりやつ甲午の年正月十五
日崩りたまひき。
御陵は河内かふち惠賀ゑが長枝ながえにあり。


一 忍坂の大中津比賣。

二 金が姓、武が名。波鎭漢紀は、位置階級の稱。

三 ウヂは家の稱號、カバネは家の階級であつて朝廷から賜わるものである。家系を尊重した當時にあつては、これを社會組織の根本とした。しかるに長い間には、自然に誤るものもあり、故意に僞るものも出た。

四 飛鳥の地で、マガツヒの神を祭つてある所。この神の威力により僞れる者に禍を與えようとする。マガツヒの神は二七頁參照。

五 湯を涌かしてその中の物を探らせる鍋。

六 多くの人々。

七 大阪府南河内郡。


〔木梨の輕の太子〕

 天皇崩りまして後、木梨の輕の太子、日繼知らしめすに定まりて、いまだ位にきたまはざりしほどに、その同母妹いろも輕の大郎女にたはて、歌よみしたまひしく、

あしひきの 山田をつくり

だかみ 下をわしせ

(「娉」の「由」に代えて「叟-又」)ひに が〓(「娉」の「由」に代えて「叟-又」)ふ妹を

下泣きに 吾が泣く妻を

昨夜こぞこそは やすく肌觸れ。  (歌謠番號七九)

 こは志良宜しらげなり。また歌よみしたまひしく、

笹葉ささはに うつや霰の

たしだしに一〇 率寢ゐねてむのち

人はゆとも一一。  (歌謠番號八〇)

うるはしと一二 さしさ寢てば

ごも一三 亂れば亂れ。

さ寢しさ寢てば。  (歌謠番號八一)

 こは夷振ひなぶり上歌あげうた一四なり。

 ここを以ちてももつかさまた、天の下の人ども、みな輕の太子に背きて、穴御子みこ一五りぬ。ここに輕の太子畏みて、大前おほまえ小前をまへの宿禰一六大臣おほおみの家に逃れ入りて、つはものを備へ作りたまひき。その時に作れる矢は、その箭の同一七
銅にしたり。かれその矢を輕箭といふ。
穴穗あなほの御子もつはものを作りたまひき。その王子の作れる矢は、今時の
矢なり。そを穴穗箭といふ。
穴穗の御子みこ軍を興して、大前小前の宿禰の家をかくみたまひき。ここにそのかなと一八に到りましし時に大氷雨ひさめ降りき。かれ歌よみしたまひしく、

大前小前宿禰が

かな門陰とかげ かくね。

雨立ちめむ。  (歌謠番號八二)

 ここにその大前小前の宿禰、手を擧げ、膝を打ち、舞ひかなで一九、歌ひまゐ。その歌、

宮人の 足結あゆひ小鈴こすず二〇

落ちにきと 宮人とよむ二一

里人もゆめ二二。  (歌謠番號八三)

 この歌は宮人曲みやひとぶり二三なり。かく歌ひまゐ來て、白さく、「天皇おほきみの御子二四同母兄いろせの御子をなせたまひそ。もし殺せたまはば、かならず人わらはむ。あれ捕へて獻らむ」とまをしき。ここに軍をめて退きましき。かれ大前小前の宿禰、その輕の太子を捕へて、てまゐ出て獻りき。その太子、捕はれて歌よみしたまひしく、

二五 輕の孃子、

いた泣かば 人知りぬべし。

波佐はさの山二六の 鳩の二七

下泣きに泣く。  (歌謠番號八四)

 また歌よみしたまひしく、

天飛あまだむ 輕孃子かるをとめ

したたにも二八 倚りてとほれ二九

輕孃子ども。  (歌謠番號八五)

 かれその輕の太子をば、伊余いよ三〇に放ちまつりき。また放たえたまはむとせし時に、歌よみしたまひしく、

天飛あまとぶ 鳥も使ぞ。

たづの 聞えむ時は、

が名問はさね。  (歌謠番號八六)

 この三歌は、天田振あまだぶり三一なり。また歌よみしたまひしく、

大君を 島にはぶらば、

ふな餘り三二 いがへりこむぞ。

が疊ゆめ三三

言をこそ 疊と言はめ。

吾が妻はゆめ三四。  (歌謠番號八七)

 この歌は、夷振ひなぶり片下かたおろし三五なり。その衣通そとほしの王三六、歌獻りき。その歌、

夏草の三七 あひねの濱三八

蠣貝かきかひに 足踏ますな。

あかしてとほれ三九。  (歌謠番號八八)

 かれ後にまた戀慕しのひに堪へかねて、追ひいでましし時、歌ひたまひしく、

君が行き け長くなりぬ四〇

山たづの四一 むかへを行かむ四二

待つには待たじ。ここに山たづといへ
るは、今の造木なり
  (歌謠番號八九)

 かれ追ひ到りましし時に、待ちおもひて、歌ひたまひしく、

隱國こもりく四三 泊瀬はつせの山四四

大尾おほを四五には はたり立て、

四六には 幡張り立て、

大尾おほを四七よし ながさだめる四八

思ひ妻あはれ。

つく弓の四九 こやる伏りも五〇

梓弓五一 立てり立てりも、

後も取り見る五二 思ひ妻あはれ。  (歌謠番號九〇)

 また歌ひたまひしく、

隱國こもりくの 泊瀬はつせの川の

かみに 齋杙いくひ五三を打ち、

しもつ瀬に まくひを打ち、

齋杙いくひには 鏡を掛け、

ま杙には ま玉を掛け五四

ま玉なす ふ妹、

鏡なす ふ妻、

ありと いはばこそよ、

家にも行かめ。國をもしのはめ。  (歌謠番號九一)

 かく歌ひて、すなはち共にみづから死せたまひき。かれこの二歌は讀歌五五なり。


一 帝位につくべきにきまつて。

二 異母の兄弟の婚姻はさしつかえないが、同母の場合は不倫とされる。

三 枕詞。語義不明。

四 地下に木で水の流れる道を作つて。以上譬喩による序。

五 人に知らせないでひそかに問いよる妻。

六 心の中でわが泣いている妻。

七 この夜。今過ぎて行く夜。

八 歌曲の名。しり上げ歌の意という。

九 以上、譬喩による序。ヤは感動の助詞。

一〇 たしかに、しかと。

一一 あの子は別れてもしかたがない。

一二 愛する人と。

一三 枕詞。

一四 歌曲の名。夷振は五六頁に出た。

一五 安康天皇。

一六 物部氏。大前と小前との二人である。

一七 胴に同じ。矢の柄。但し異説がある。

一八 堅固な門。

一九 舞い躍つて。

二〇 袴を結ぶ紐につけた鈴。

二一 宮廷の人が立ちさわぐ。

二二 里の人もさわぐな。宮人がさわいでいるが、そんなに騷ぎを大きくするな。

二三 歌曲の名。

二四 天皇である皇子樣。

二五 枕詞。天飛ぶ雁の意に、カルの音に冠する。

二六 所在不明。

二七 鳩のように。

二八 したたかに。しつかりと。

二九 倚り寢て行き去れ。

三〇 愛媛縣の松山市の熅泉地。道後熅泉。

三一 歌曲の名。歌詞によつて名づける。

三二 その船の餘地で。

三三 わたしの座所をそのままにしておけ。タタミは敷物。人の去つた跡を動かすと、その人が歸つて來ないとする思想がある。

三四 わたしの妻に手をつけるな。

三五 歌曲の名。

三六 輕の大郎女。

三七 敍述による枕詞。

三八 所在不明。

三九 夜があけてからいらつしやい。

四〇 時久しくなつた。

四一 枕詞。次に説明があるが、それでもあきらかでない。ヤマタヅは、樹名今のニワトコで、葉が對生しているから、ムカヘに冠するという。「君が行きけ長くなりぬ山たづね迎へか行かむ待ちにか待たむ」(萬葉集)。

四二 ヲは間投の助詞。

四三 枕詞。山につつまれている處の意。

四四 奈良縣磯城郡。

四五 ヲは高い土地。

四六 サは接頭語。大尾と共にあちこちの高みのところに。以上、次の句の序。

四七 語義不明。上の大尾にと同語を繰り返してオヨソの意を現すか、または別の副詞か。

四八 あなたの妻ときめた。動詞定むが四段活になつている。

四九 枕詞。槻の木の弓。

五〇 伏しても。ころがる意の動詞コユが再活して、伏しまろぶ意にコヤルと言つている。

五一 枕詞。

五二 後も近く見る。

五三 清淨の杙。祭を行うために杙をうつ。

五四 以上序で、次の玉と鏡の二つの枕詞を引き出す。川中に柱を立てて玉や鏡を懸けるのは、これによつて神を招いて穢を拂うのである。「こもりくの泊瀬の川の、上つ瀬に齋杙をうち、下つ瀬にま杙をうち、齋杙には鏡をかけ、ま杙にはま玉をかけ、ま玉なすわが念ふ妹も、鏡なすわが念ふ妹も、ありと言はばこそ、國にも家にも行かめ、誰が故か行かむ」(萬葉集)。

五五 歌曲の名。


〔四、安康天皇〕


目弱まよわの王の變〕

 御子穴穗あなほの御子いそかみの穴穗の宮にましまして天の下治らしめしき。

 天皇、同母弟いろせ長谷はつせの王子のために、坂本さかもとおみ等がおやの臣を、大日下おほくさかの王のもとに遣して、詔らしめたまひしくは、「汝が命の妹若日下わかくさかの王を、大長谷の王子に合はせむとす。かれ獻るべし」とのりたまひき。ここに大日下の王四たび拜みて白さく、「けだしかかる大命おほみこともあらむと思ひて、かれ、にも出さずて置きつ。こは恐し。大命のまにまに獻らむ」とまをしたまひき。然れどもこともちて白す事は、それゐやなしと思ひて、すなはちその妹の禮物ゐやじろとして、押木の玉縵たまかづらを持たしめて、獻りき。根の臣すなはちその禮物ゐやじろ玉縵たまかづらを盜み取りて、大日下の王をよこしまつりて曰さく、「大日下の王は大命を受けたまはずて、おのが妹や、ひとうから下席したむしろにならむといひて、大刀の手上たがみとりしばて、怒りましつ」とまをしき。かれ天皇いたく怒りまして、大日下の王を殺して、その王の嫡妻むかひめ長田ながたの大郎女を取り持ち來て、皇后おほぎさきとしたまひき。

 これより後に、天皇神牀かむとこ一〇にましまして、晝みねしたまひき。ここにその后に語らひて、「いまし思ほすことありや」とのりたまひければ、答へて曰さく「天皇おほきみの敦きめぐみかがふりて、何か思ふことあらむ」とまをしたまひき。ここにその大后のさきの子目弱まよわの王一一、これ年七歳になりしが、この王、その時に當りて、その殿の下に遊べり。ここに天皇、そのわかみこの殿の下に遊べることを知らしめさずて、大后に詔りたまはく、「吾は恆に思ほすことあり。ぞといへば、いましの子目弱の王、人となりたらむ時、吾がその父王を殺せしことを知らば、還りてきたなき心一二あらむか」とのりたまひき。ここにその殿の下に遊べる目弱の王、このみことを聞き取りて、すなはち竊に天皇の御寢みねませるを伺ひて、そのかたへなる大刀を取りて、その天皇の頸をうち斬りまつりて、都夫良意富美つぶらおほみ一三が家に逃れ入りましき。天皇、御年五十六歳いそぢまりむつ。御陵は菅原すがはら伏見ふしみをか一四にあり。

 ここに大長谷の王、そのかみ童男おぐなにましけるが、すなはちこの事を聞かして、うれたみ怒りまして、そのいろせ黒日子のもとに到りて、「人ありて天皇を取りまつれり。いかにかもせむ」とまをしたまひき。然れどもその黒日子の王、驚かずて、怠緩おほろかにおもほせり。ここに大長谷の王、その兄をりて、「一つには天皇にまし、一つには兄弟はらからにますを、何ぞは恃もしき心もなく、その兄をりまつれることを聞きつつ、驚きもせずて、おほろかに坐せる」といひて、その衣くびを取りてき出でて、たちを拔きてうち殺したまひき。またその兄白日子しろひこの王に到りまして、ありさまを告げまをしたまひしに、前のごとおほろかに思ほししかば、黒日子の王のごと、すなはちその衣衿を取りて、引きて、小治田をはりだ一五來到きたりて、穴を掘りて、立ちながらに埋みしかば、腰を埋む時に到りて、二つの目、走り拔けてせたまひき。

 また軍を興して、都夫良意美つぶらおみ一六が家をかくみたまひき。ここに軍を興して待ち戰ひて、射出づる矢あしの如く來散りき。ここに大長谷の王、矛を杖として、その内を臨みて詔りたまはく、「我が語らへる孃子一七は、もしこの家にありや」とのりたまひき。ここに都夫良意美、この詔命おほみことを聞きて、みづからまゐて、佩けるつはものを解きて、八度をろがみて、白しつらくは、「先に問ひたまへる女子むすめ訶良から比賣は、さもら一八む。また五處の屯倉みやけ一九を副へて獻らむいはゆる五處の屯倉は、今
の葛城の五村の苑人なり。
然れどもその正身ただみまゐ向かざる故は、むかしより今に至るまで、臣連二〇の、王の宮にこもることは聞けど、王子みこやつこの家に隱りませることはいまだ聞かず。ここを以ちて思ふに、賤奴やつこ意富美は、力をつくして戰ふとも、更にえ勝つましじ。然れどもおのれを恃みて、いやしき家に入りませる王子は、いのち死ぬとも棄てまつらじ」とかく白して、またその兵を取りて、還り入りて戰ひき。

 ここに窮まり、矢も盡きしかば、その王子に白さく、「僕は痛手負ひぬ。矢も盡きぬ。今はえ戰はじ。如何にせむ」とまをししかば、その王子答へて詔りたまはく、「然らば更にせむすべなし。今は吾をせよ」とのりたまひき。かれ刀もちてその王子を刺し殺せまつりて、すなはちおのが頸を切りて死にき。


一 安康天皇。

二 奈良縣山邊郡。

三 雄略天皇。

四 仁徳天皇の皇子。

五 禮儀を現す贈物。

六 大きい木で作つた縵。玉は美稱。カヅラは、植物を輪にして頭上にのせる。二五頁參照。この縵、日本書紀に別名として、立縵、磐木縵いはきかづらの名をあげ、また後に根の臣がこれを附けて若日下部の王に見顯されて罪せられる話がある。

七 わしの妹が、同じ仲間の使い女になろうか。ならないの意。

八 刀の柄をしかとにぎつて。

九 允恭天皇の皇女で安康天皇の同母妹に當るから、何か誤傳があるのだろうという。日本書紀には中蒂姫なかしひめとある。

一〇 九二頁脚註參照。

一一 先の夫大日下の王の子。

一二 わるい心。自分を憎む心。

一三 日本書紀に葛城の圓の大臣。オホミは大臣で尊稱。

一四 奈良縣生駒郡。

一五 奈良縣高市郡。

一六 ツブラオホミに同じ。オミはオホミの約言。

一七 ツブラオミの女カラヒメ。

一八 前にお尋ねになつた女はさしあげます。

一九 註にあるように葛城の五村の倉庫。

二〇 臣や連が。共に朝廷の臣下。


〔市の邊の押齒の王〕

 これより後、淡海の佐佐紀ささきやまの君がおや、名は韓帒からふくろ白さく、「淡海の久多綿くたわた蚊屋野かやのに、鹿さはにあり。その立てる足は、すすき原の如く、げたるつのは、枯松からまつの如し」とまをしき。この時市の忍齒おしはの王相率あともひて、淡海にいでまして、その野に到りまししかば、おのもおのもことに假宮を作りて、宿りましき。

 ここに明くる旦、いまだ日も出でぬ時に、忍齒の王、つねの御心もちて、御馬みまに乘りながら、大長谷の王の假宮の傍に到りまして、その大長谷の王子の御伴人みともびとに詔りたまはく、「いまだも寤めまさぬか。早く白すべし。夜は既にけぬ。獵庭かりにはにいでますべし」とのりたまひて馬を進めて出で行きぬ。ここに大長谷の王の御許みもとに侍ふ人ども、「うたて物いふ御子なれば、御心したまへ。また御身をも堅めたまふべし」とまをしき。すなはちみその中によろひし、弓矢をばして、馬に乘りて出で行きて、忽の間に馬より往きならびて、矢を拔きて、その忍齒の王を射落して、またそのみみを切りて、馬ぶねに入れて、土と等しく埋みき

 ここに市の邊の王の王子たち、意祁おけの王、袁祁をけの王二柱。この亂を聞かして、逃げ去りましき。かれ山代やましろ苅羽井かりはゐに到りまして、御かれひきこしめす時に、ける老人來てその御かれひりき。ここにその二柱の王、「粮は惜まず。然れどもいましは誰そ」とのりたまへば、答へて曰さく、「は山代の豕甘ゐかひ一〇なり」とまをしき。かれ玖須婆くすばの河一一を逃れ渡りて、針間はりまの國一二に至りまし、その國人名は志自牟しじむが家一三に入りまして、身を隱して、馬甘うまかひ牛甘うしかひつかはえたまひき一四


一 佐佐紀の山の君の祖先。山の君はカバネ。

二 滋賀縣愛知郡。

三 履中天皇の皇子。

四 變つたものをいう皇子だから注意しなさい。

五 馬上で進んで並んで。

六 馬の食物を入れる箱。

七 土と共に埋めた。

八 後の仁賢天皇と顯宗天皇。

九 京都府相樂郡。

一〇 豚を飼う者。

一一 淀川。

一二 兵庫縣の南部。

一三 兵庫縣美嚢みなぎ志染しじみ村。

一四 馬や牛を飼う者として使われた。なおこの物語は一八二頁に續く。


〔五、雄略天皇〕


〔后妃と皇子女〕

 大長谷の若建わかたけの命長谷はつせ朝倉あさくらの宮にましまして、天の下治らしめしき。天皇、大日下の王が妹、若日下部の王にひましき。子ましま
さず。
また都夫良意富美が女、韓比賣からひめひて、生みませる御子、白髮しらがの命、次にいも若帶わかたらし比賣の命二柱。かれ白髮の太子みこのみこと御名代みなしろとして、白髮部しらがべを定め、また長谷部はつせべ舍人とねりを定め、また河瀬の舍人を定めたまひき。この時に呉人くれびとまゐ渡り來つ。その呉人を呉原くれはらに置きたまひき。かれ其地そこに名づけて呉原といふ。


一 雄略天皇。

二 奈良縣磯城郡。

三 中國南方の人。

四 奈良縣高市郡。


〔若日下部の王〕

 初め大后、日下にいましける時、日下の直越ただこえの道より、河内にでましき。ここに山の上に登りまして、國内を見けたまひしかば、堅魚かつをを上げて舍屋を作れる家あり。天皇その家を問はしめたまひしく、「その堅魚かつをを上げて作れる舍は、誰が家ぞ」と問ひたまひしかば、答へて曰さく、「志幾しき大縣主おほあがたぬしが家なり」と白しき。ここに天皇詔りたまはく、「奴や、おのが家を、天皇おほきみ御舍みあらかに似せて造れり」とのりたまひて、すなはち人を遣して、その家を燒かしめたまふ時に、その大縣主、かしこみて、稽首のみ白さく、「奴にあれば、奴ながらさとらずて、過ち作れるが、いと畏きこと」とまをしき。かれ稽首のみ御幣物ゐやじりを獻る。白き犬に布をけて、鈴を著けて、おのがやから、名は腰佩こしはきといふ人に、犬のつなを取らしめて獻上りき。かれその火著くることを止めたまひき。すなはちその若日下部の王の御許みもとにいでまして、その犬を賜ひ入れて、詔らしめたまはく、「この物は、今日道に得つるめづらしき物なり。かれ妻問つまどひの物」といひて、賜ひ入れき。ここに若日下部の王、天皇にまをさしめたまはく、「日にそむきていでますこと、いと恐し。かれおのれただにまゐ上りて仕へまつらむ」とまをさしめたまひき。ここを以ちて宮に還り上ります時に、その山の坂の上に行き立たして、歌よみしたまひしく、

日下部の 此方こちの山

疊薦たたみこも 平群へぐりの山の、

此方此方こちごち 山のかひ

立ちざかゆる 葉廣はびろ熊白檮くまかし

本には いくみだけ一〇生ひ、

すゑへは たしみ竹一一生ひ、

いくみ竹 いくみは寢ず一二

たしみ竹 たしには率宿ゐね一三

後もくみ寢む その思妻、あはれ。  (歌謠番號九二)

 すなはちこの歌を持たしめして、返し使はしき。


一 大阪府北河内郡生駒山の西麓。

二 生駒山のくらがり峠を越える道。大和から直線的に越えるので直越という。

三 屋根の上に堅魚のような形の木を載せて作つた家。大きな屋根の家。カツヲは、堅魚木の意。屋根の頂上に何本も横に載せて、葺草を押える材。

四 敬意を表するための贈物。

五 妻を求むる贈物。

六 今立つている山、生駒山。

七 枕詞。既出。

八 奈良縣生駒郡の山。既出。

九 あちこちの。

一〇 茂つた竹。

一一 しつかりした竹。

一二 密接しては寢ず。

一三 しかとは共に寢ず。


引田ひけた部の赤猪子あかゐこ

 またある時天皇いでまして、美和河みわがはに到ります時に、河の邊にきぬ洗ふ童女をとめあり。それ顏いと好かりき。天皇その童女に、「いましは誰が子ぞ」と問はしければ、答へて白さく「おのが名は引田部ひけたべ赤猪子あかゐことまをす」と白しき。ここに詔らしめたまひしくは「いましとつがずてあれ。今召さむぞ」とのりたまひて、宮に還りましつ。かれその赤猪子、天皇の命を仰ぎ待ちて、既に八十歳やそとせを經たり。ここに赤猪子「みことを仰ぎ待ちつる間に、已にあまたの年を經て、姿體かほかたちやさかかじけてあれば、更に恃むところなし。然れども待ちつる心を顯はしまをさずては、いぶせきにへじ」と思ひて、百取ももとり机代つくゑしろの物を持たしめて、まゐ出で獻りき。然れども天皇、先に詔りたまひし事をば、既に忘らして、その赤猪子に問ひてのりたまはく、「いましは誰しの老女おみなぞ。何とかもまゐ來つる」と問はしければ、ここに赤猪子答へて白さく、「それの年のそれの月に、天皇が命をかがふりて、大命を仰ぎ待ちて、今日に至るまで八十歳やそとせを經たり。今は容姿既に老いて、更に恃むところなし。然れども、おのが志を顯はし白さむとして、まゐ出でつらくのみ」とまをしき。ここに天皇、いたく驚かして、「吾は既に先の事を忘れたり。然れどもいまし志を守り命を待ちて、徒に盛の年を過ぐししこと、これいと愛悲かなし」とのりたまひて、御心のうちに召さむとおもほせども、そのいたく老いぬるを悼みたまひて、え召さずて、御歌を賜ひき。その御歌、

御諸みもろの 嚴白檮いつかしがもと

白檮かしがもと ゆゆしきかも

白檮原かしはら孃子をとめ  (歌謠番號九三)

 また歌よみしたまひしく、

引田ひけたの 若栗栖原くるすばら

若くへに 率寢ゐねてましもの。

老いにけるかも。  (歌謠番號九四)

 ここに赤猪子が泣く涙、そのせる丹摺にすりの袖一〇ことごとに濕らしつ。その大御歌に答へて曰ひしく、

御諸に くや玉垣たまかき一一

きあまし一二 にかも依らむ一三

神の宮人。  (歌謠番號九五)

 また歌ひて曰ひしく、

日下江くさかえ一四の 入江のはちす

花蓮はなばちす一五 身の盛人、

ともしきろかも。  (歌謠番號九六)

 ここにその老女おみなに物さはに給ひて、返し遣りたまひき。かれこの四歌は志都歌一六なり。


一 泊瀬川の、三輪山に接して流れる所。

二 心がはれないのに堪えない。

三 多くの進物。

四 神社の嚴然たる白檮の木の下。

五 憚るべきである。

六 白檮原に住む孃子。引田部の赤猪子を、その住所によつていう。

七 三輪山近くの地名。

八 若い栗の木の原。

九 若い時代に。

一〇 赤い染料ですりつけて染めた衣服の袖。

一一 ヤは感動の助詞。神社で作る垣。

一二 作り殘して。作ることが出來ないで。

一三 誰にたよりましようか。この歌、琴歌譜に載せ、垂仁天皇がお妃と共に三輪山にお登りになつた時の歌とする別傳を載せている。

一四 大和川が作つている江。

一五 以上譬喩。

一六 歌曲の名。


〔吉野の宮〕

 天皇吉野えしのの宮にいでましし時、吉野川の邊に、童女をとめあり、それ形姿美麗かほよかりき。かれこの童女を召して、宮に還りましき。後に更に吉野えしのにいでましし時に、その童女の遇ひし所に留まりまして、其處そこに大御呉床あぐらを立てて、その御呉床にましまして、御琴を彈かして、その童女に儛はしめたまひき。ここにその童女の好く儛へるに因りて、御歌よみしたまひき。その御歌、

呉床座あぐらゐの 神の御手もち

彈く琴に 儛するをみな

常世とこよにもがも。  (歌謠番號九七)

 すなはち阿岐豆野あきづのにいでまして、御獵したまふ時に、天皇、御呉床にましましき。ここに、あむ御腕ただむきひけるを、すなはち蜻蛉あきづ來て、そのあむひて、びき。ここに御歌よみしたまへる、その御歌、

吉野えしのの 袁牟漏をむろたけ

鹿伏すと、

たれぞ 大前に申す。

やすみしし が大君の

鹿待つと 呉床あぐらにいまし、

白栲しろたへの そで著具きそな

手腓たこむらに あむ掻き著き、

その虻を 蜻蛉あきづひ、

かくのごと 名に負はむと、

そらみつ やまとの國を

蜻蛉島あきづしまとふ。  (歌謠番號九八)

 かれその時より、その野に名づけて阿岐豆野あきづのといふ。


一 天皇の御手で。作者自身の事に敬語を使うのは、例が多く、これも後の歌曲として歌われたものだからである。

二 永久にありたい。常世は永久の世界。

三 吉野山中にある。藤原の宮時代の吉野の宮の所在地。

四 吉野山中の一峰だろうが、所在不明。

五 天皇の御前。

六 白い織物の衣服の袖を著用している。

七 腕の肉の高いところ。


〔葛城山〕

 またある時、天皇葛城かづらきの山の上に登り幸でましき。ここに大きなる猪出でたり。すなはち天皇鳴鏑なりかぶらをもちてその猪を射たまふ時に、その猪怒りて、うたき依り來。かれ天皇、そのうたきを畏みて、はりの木の上に登りましき。ここに御歌よみしたまひしく、

やすみしし が大君の

遊ばしし 猪の、

病猪やみししの うたき畏み、

わが 逃げ登りし、

あり はりの木の枝。  (歌謠番號九九)

 またある時、天皇葛城山に登りいでます時に、百官つかさつかさの人ども、ことごとあかひも著けたる青摺のきぬを給はりてたり。その時にその向ひの山の尾より、山の上に登る人あり。既に天皇の鹵簿みゆきのつらに等しく、またその束裝よそひのさま、また人どもも、相似て別れず。ここに天皇見けたまひて、問はしめたまはく、「このやまとの國に、あれきてまた君は無きを。今誰人かかくて行く」と問はしめたまひしかば、すなはち答へまをせるさまも、天皇のみことの如くなりき。ここに天皇いたく忿いかりて、矢刺したまひ、百官の人どもも、悉に矢刺しければ、ここにその人どももみな矢刺せり。かれ天皇また問ひたまはく、「その名をらさね。ここに名を告りて、矢放たむ」とのりたまふ。ここに答へてのりたまはく、「あれまづ問はえたれば、吾まづ名告りせむ。まが事も一言、善事よごとも一言、言離ことさかの神、葛城かづらき一言主ひとことぬしの大神なり」とのりたまひき。天皇ここに畏みて白したまはく、「恐し、我が大神、うつしおみまさむとは、らざりき」と白して、大御刀また弓矢を始めて、百官の人どものせる衣服きものを脱がしめて、拜み獻りき。ここにその一言主の大神、手打ちてその捧物ささげものを受けたまひき。かれ天皇の還りいでます時、その大神、山のにいはみて、長谷の山口に送りまつりき。かれこの一言主の大神は、その時に顯れたまへるなり。


一 口をあけて近づいてくる。

二 射とめたの敬語法。

三 そこにある岡の。

四 ヲは山の稜線。

五 天皇の行列と同樣に。

六 わしは凶事も一言、吉事も一言で、きめてしまう神の、葛城の一言主の神だ。この神の一言で、吉凶が定まるとする思想。これは託宣に現れる神であるが、この時に現實に出たとするのである。

七 現實のお姿があろうとは思いませんでした。ウツシは現實にある意の形容詞。オミは相手の敬稱。この語、原文「宇都志意美」。從來、現し御身の義とされたが、美はミの甲類の音で、身の音と違う。

八 山のはしに集まつて。

九 天皇の皇居である。


〔春日の袁杼比賣と三重の采女〕

 また天皇、丸邇わに佐都紀さつきの臣が女、袁杼をど比賣をよばひに、春日にいでましし時、媛女をとめ、道に逢ひて、すなはち幸行いでましを見て、岡邊をかびに逃げ隱りき。かれ御歌よみしたまへる、その御歌、

孃子をとめの いかくる岡を

金鉏かなすきも 五百箇いほちもがも

ぬるもの。  (歌謠番號一〇〇)

 かれその岡に名づけて、金鉏かなすきの岡といふ。

 また天皇、長谷の百枝槻ももえつきの下にましまして、豐のあかりきこしめしし時に、伊勢の國の三重のうねめ大御盞おほみさかづきを捧げて獻りき。ここにその百枝槻の葉落ちて、大御盞に浮びき。その婇、落葉の御盞みさかづきに浮べるを知らずて、なほ大御酒獻りけるに、天皇、その御盞に浮べる葉を看そなはして、その婇を打ち伏せ、御佩刀はかしをその頸に刺し當てて、斬らむとしたまふ時に、その婇、天皇に白して曰さく、「吾が身をな殺したまひそ。白すべき事あり」とまをして、すなはち歌ひて曰ひしく、

纏向まきむくの 日代ひしろの宮は、

朝日の 日る宮。

夕日の 日がける宮。

竹の根の 根足ねだる宮

の 根蔓ねばふ宮。

八百土やほによし い杵築きづきの宮

さく 日の御門、

新嘗屋にひなへやに 生ひてる

一〇 つきは、

は 天をへり。

中つ枝は あづまを負へり一一

下枝しづえは ひなを負へり。

の 末葉うらば

中つ枝に 落ち觸らばへ一二

中つ枝の 枝の末葉は

しもつ枝に 落ち觸らばへ、

しづ枝の 枝の末葉は

ありぎぬ一三 三重の子が

ささがせる 瑞玉盃みづたまうき一四

浮きしあぶら 落ちなづさひ一五

みなこをろこをろに一六

こしも あやにかしこし。

高光る 日の御子。

事の 語りごとも こをば一七。  (歌謠番號一〇一)

 かれこの歌を獻りしかば、その罪を赦したまひき。ここに大后一八の歌よみしたまへる、その御歌、

やまとの この高市たけち一九

小高こだかる いち高處つかさ二〇

新嘗屋にひなへやに 生ひてる

葉廣はびろ ゆつま椿つばき

そが葉の 廣りいまし、

その花の 照りいます

高光る 日の御子に、

豐御酒とよみき 獻らせ二一

事の 語りごとも こをば。  (歌謠番號一〇二)

 すなはち天皇歌よみしたまひしく、

ももしきの 大宮人おほみやひとは、

鶉鳥うづらとり二二  領布ひれ二三取り掛けて

鶺鴒まなばしら二四 尾行き合へ

庭雀にはすずめ二五、うずすまり居て

今日もかも さかみづくらし二六

高光る 日の宮人。

事の 語りごとも こをば。  (歌謠番號一〇三)

 この三歌は、天語あまがたり二七なり。かれとよあかりに、その三重の婇を譽めて、物さはに給ひき。

 この豐の樂の日、また春日の袁杼比賣をどひめが大御酒獻りし時に、天皇の歌ひたまひしく、

水灌みなそそ二八 おみ孃子をとめ

秀罇ほだり取らすも二九

秀罇取り 堅く取らせ。

下堅したがたく 彌堅やがたく取らせ。

秀罇取らす子。  (歌謠番號一〇四)

 こは宇岐うき三〇なり。ここに袁杼比賣、歌獻りき。その歌、

やすみしし 吾が大君の

朝戸あさと三一には い倚りたし、

夕戸には い倚りたす

脇几わきづき三二が 下の

板にもが。吾兄あせ三三を。  (歌謠番號一〇五)

 こは志都しづ三四なり。

 天皇、御年、一百二十四歳ももちまりはたちよつ己巳の年八月九日
崩りたまひき。
御陵は河内かふち多治比たぢひ高鸇たかわし三五にあり。


一 和邇氏の居住地で、奈良市の東部。

二 金屬の鋤もたくさんほしい。

三 枝のしげつた槻の木。

四 伊勢の國の三重の地から出た采女。ウネメは、地方の豪族の女子を召し出して宮廷に奉仕させる。後に法制化される。

五 景行天皇の皇居。長谷の朝倉の宮とは、離れている。この歌は歌曲の歌で、その物語を雄略天皇の事として取り上げたものだろう。

六 根の張つている宮。

七 枕詞。たくさんの土。

八 杵でつき堅めた宮。

九 新穀で祭をする家屋。

一〇 枝が茂つて充實している。

一一 東方をせおつている。

一二 續いて觸れている。

一三 枕詞。そこにある衣の三重と修飾する。

一四 ミヅは生氣のある。美しい盃。

一五 浮いた脂のように落ち漂つて。ナヅサヒは、水を分ける。

一六 水がごろごろして。この數句、天地の初發の神話に見える句で、その神話の傳え手との關係を思わせるものがある。

一七 四五頁參照。

一八 皇后。

一九 高いところ。

二〇 市の高み。

二一 奉るの敬語の命令形。

二二 譬喩による枕詞。鶉は頭から胸にかけて白い斑があるので、領布をかけるに冠する。

二三 四二頁參照。

二四 譬喩。セキレイ。

二五 譬喩による枕詞。

二六 酒宴をするらしい。

二七 歌曲の名。

二八 枕詞。オミ(大きい水、海)に冠する。

二九 たけの高い酒瓶をお取りになる。

三〇 歌曲の名。酒盃の歌の意。

三一 朝の御座。

三二 よりかかる机、脇息。

三三 はやし詞。

三四 歌曲の名。

三五 大阪府南河内郡。


〔六、清寧天皇・顯宗天皇・仁賢天皇〕


〔清寧天皇〕

 御子、白髮しらが大倭根子おほやまとねこの命伊波禮いはれ甕栗みかくりの宮にましまして、天の下治らしめしき。

 この天皇、皇后ましまさず、御子もましまさざりき。かれ御名代として、白髮部しらがべを定めたまひき。かれ天皇かむあがりまして後、天の下治らすべき御子ましまさず。ここに日繼知らしめさむ御子を問ひて、市の邊の忍齒別おしはわけの王の妹、忍海おしぬみの郎女、またの名は飯豐いひとよの王、葛城の忍海の高木の角刺つのさしの宮にましましき。


一 清寧天皇。

二 奈良縣磯城郡。

三 奈良縣南葛城郡。


〔志自牟の新室樂〕

 ここに山部やまべむらじ小楯をたて針間はりまの國のみこともちさされし時に、その國の人民おほみたから名は志自牟しじむが新室に到りてうたげしき。ここにさかりうたげて酒なかばなるに、次第つぎてをもちてみな儛ひき。かれ火たき小子わらは二人、かまどに居たる、その小子どもに儛はしむ。ここにその一人の小子、「汝兄なせまづ儛ひたまへ」といへば、その兄も、「汝弟なおとまづ儛ひたまへ」といひき。かく相讓る時に、そのつどへる人ども、その讓れるさまわらひき。ここに遂に兄儛ひ訖りて、次に弟儛はむとする時に、ながめごとしたまひつらく、

ものの、わが夫子せこが、取りける、大刀の手上たがみに、丹書にかき著け、その緒には、赤幡あかはたを裁ち、赤幡たちて見れば、い隱る、山の御尾の、竹を掻き苅り、末押し靡かすなす八絃やつをの琴を調しらべたるごと、天の下らしびし、伊耶本和氣いざほわけの天皇の御子、市の邊の押齒のみこの、やつこ御末みすゑ

 とのりたまひつ。ここにすなはち小楯の連聞き驚きて、とこより墮ちまろびて、その室の人どもを追ひ出して、その二柱の御子を、左右ひだりみぎりの膝のせまつりて、泣き悲みて、人民どもを集へて、假宮を作りて、その假宮にせまつり置きて、驛使はゆまづかひ上りき。ここにその御をば飯豐いひとよの王、聞き歡ばして、宮にのぼらしめたまひき。


一 播磨の國の長官。この物語は、一六八頁の市の邊の忍齒の王の殺された物語の續きになる。

二 朝廷に仕える部族。古くは武士には限らない。

三 大刀の柄に赤い畫をかき。

四 赤い織物を切つて。

五 竹の末をおし伏せるように。勢いのよい形容。

六 絃の多い琴をひくように。さかんにの形容。

七 履中天皇。

八 われらはその子孫である。


〔歌垣〕

 かれ天の下治らしめさむとせしほどに、平群へぐりの臣がおや、名は志毘しびの臣、歌垣うたがきに立ちて、その袁祁をけの命のよばはむとする美人をとめの手を取りつ。その孃子は、菟田うだおびと等が女、名は大魚おほをといへり、ここに袁祁の命も歌垣に立たしき。ここに志毘の臣歌ひて曰ひしく、

大宮の をとつ端手はたで すみかたぶけり。  (歌謠番號一〇六)

 かく歌ひて、その歌の末を乞ふ時に、袁祁の命歌ひたまひしく、

大匠おほたくみ 拙劣をぢなみこそ 隅傾けれ。  (歌謠番號一〇七)

 ここに志毘の臣、また歌ひて曰ひしく、

大君の 心をゆらみ

臣の子の 八重の柴垣

入り立たずあり。  (歌謠番號一〇八)

 ここに王子また歌ひたまひしく、

潮瀬しほぜの 波折なをりを見れば

遊び來る しび端手はたで

妻立てり見ゆ。  (歌謠番號一〇九)

 ここに志毘の臣、いよよ忿りて歌ひて曰ひしく、

大君の みこの柴垣、

八節結やふじまり しまりもとほし

れむ柴垣。燒けむ柴垣。  (歌謠番號一一〇)

 ここに王子また歌ひたまひしく、

大魚おふをよし しび海人あまよ、

があれば うらこほしけむ

鮪衝く鮪一〇。  (歌謠番號一一一)

 かく歌ひて、かがひ明して一一、おのもおのもあらけましつ。明くる旦時あした意祁おけの命、袁祁をけの命二柱はかりたまはく、「およそ朝廷みかどの人どもは、あしたには朝廷に參り、晝は志毘がかどつどふ。また今は志毘かならず寢ねたらむ。その門に人も無けむ。かれ今ならずは、謀り難けむ」とはかりて、すなはち軍を興して、志毘の臣が家をかくみて、りたまひき。

 ここに二柱の御子たち、おのもおのも天の下を讓りたまひき。意富祁おほけの命一二、その弟袁祁の命に讓りてのりたまはく、「針間はりま志自牟しじむが家に住みし時に、が命名を顯はさざらませば一三、更に天の下知らさむ君とはならざらまし。これ既にが命のいさをなり。かれ吾、兄にはあれども、なほ汝が命まづ天の下を治らしめせ」とのりたまひて、堅く讓りたまひき。かれえいなみたまはずて、袁祁の命、まづ天の下治らしめしき。


一 男女あつまつて互に歌をかけあう行事に出て。

二 あちらの出ている所。

三 大工が下手だから。

四 心がゆるいので。

五 海水の瀬にうちかかる波を見れば。ナヲリは、波がよせてくずれるもの。

六 多くの小間で結んで、結び𢌞らしてあるが。

七 枕詞。大きい魚よ。

八 シビは、マグロの大きいもの。ここは志毘の臣をいう。モリで突くから、シビツクという。

九 志毘があるので、姫が心中戀しく思われるだろう。

一〇 その鮪を突く、鮪を。この歌、宣長は、別の時の王子の歌といい、橘守部は、志毘の臣の歌だという。

一一 歌をかけ合つて夜を明かして。

一二 オケの命に同じ。仁賢天皇。元來、この兄弟は、オホ(大)、ヲ(小)を冠する御名になつているので、オケのオも大の意である。

一三 あなたが名を顯さなかつたとしたら。


〔顯宗天皇〕

 伊弉本別いざほわけの王の御子、市の邊の忍齒の王の御子、袁祁をけ石巣別いはすわけの命、近つ飛鳥の宮にましまして、八歳やとせ天の下治らしめしき。この天皇、石木いはきの王の女難波の王に娶ひしかども、御子ましまさざりき。

 この天皇、その父王市の邊の王の御骨みかばねぎたまふ時に、淡海あふみの國なる賤しき老媼おみなまゐ出て白さく、「王子の御骨を埋みし所は、もはら吾よく知れり。またその御齒もちて知るべし」とまをしき。御齒は三枝なす
押齒に坐しき。
ここに民をてて、土を掘りて、その御骨を求ぎて、すなはちその御骨を獲て、その蚊屋野のひむかしの山に、御陵作りてをさめまつりて、韓帒からふくろが子どもに、その御陵を守らしめたまひき。然ありて後に、その御骨を持ちのぼりたまひき。かれ還り上りまして、その老媼を召して、その見失はず、さだかにその地を知れりしことを譽めて、置目おきめ老媼おみなといふ名を賜ひき。よりて宮の内に召し入れて、あつく廣く惠みたまふ。かれその老媼の住む屋をば、宮の近く作りて、日ごとにかならず召す。かれ大殿の戸にぬりてを掛けて、その老媼を召したまふ時は、かならずそのぬりてを引き鳴らしたまひき。ここに御歌よみしたまへる、その歌、

淺茅原 小谷をだにを過ぎて

百傳ふ ぬてゆらくも。

置目らしも。  (歌謠番號一一二)

 ここに置目の老媼、「僕いたく老いにたれば、本つ國に退まからむとおもふ」とまをしき。かれ白せるまにまに、退まかりし時に天皇見送りて歌よみしたまひしく、

置目もや 淡海の置目、

明日よりは み山がくりて

見えずかもあらむ。  (歌謠番號一一三)

 初め天皇、わざはひに逢ひて、逃げましし時に、その御かれひりし猪甘ゐかひ老人おきなぎたまひき。ここに求ぎ得て、喚び上げて、飛鳥河の河原に斬りて、みなそのやからどもの膝の筋を斷ちたまひき。ここを以ちて今に至るまで、その子孫こども倭に上る日、かならずおのづからあしなへくなり。かれその老の所在ありかを能く見しめき。かれ其處そこ志米須しめす一〇といふ。

 天皇、その父王を殺したまひし大長谷おほはつせの天皇一一を深く怨みまつりて、その御靈一二に報いむと思ほしき。かれその大長谷の天皇の御陵をやぶらむと思ほして、人を遣す時に、その同母兄いろせ意祁おけの命奏してまをさく、「この御陵を壞らむには、あだし人を遣すべからず。もはら僕みづから行きて、大君の御心のごとやぶりてまゐ出む」とまをしたまひき。ここに天皇、「然らば命のまにまにいでませ」と詔りたまひき。ここを以ちて意祁おけの命、みづから下りいでまして、その御陵のかたへを少し掘りて還り上らして、復奏かへりごとしてまをさく、「既に掘り壞りぬ」とまをしたまひき。ここに天皇、その早く還り上りませることを怪みまして、「如何いかさまに壞りたまひつる」と詔りたまへば、答へて白さく、「その御陵の傍の土を少し掘りつ」とまをしたまひき。天皇詔りたまはく、「父王ちちみこの仇を報いまつらむと思へば、かならずその御陵をことごとに壞りなむを。何とかも少しく掘りたまひつる」と詔りたまひしかば、答へて曰さく、「然しつる故は、父王の仇を、その御靈に報いむと思ほすは、誠にことわりなり。然れどもその大長谷の天皇は、父の仇にはあれども、還りては一三我が從父をぢ一四にまし、また天の下治らしめしし天皇にますを、今ひとへに父の仇といふ志を取りて、天の下治らしめしし天皇の御陵を悉に壞りなば、後の人かならずそしりまつらむ。ただ、父王の仇は、報いずはあるべからず。かれその御陵の邊を少しく掘りつ。既にかく恥かしめまつれば、後の世に示すにも足りなむ」と、かくまをしたまひしかば、天皇、答へ詔りたまはく、「こもいと理なり。みことの如くてし」と詔りたまひき。かれ天皇崩りまして、すなはち意富祁おほけの命、天つ日繼知らしめき。

 天皇、御年三十八歳みそぢまりやつ八歳やとせ天の下治らしめしき。御陵は片岡の石坏いはつきの岡一五の上にあり。


一 顯宗天皇。

二 大阪府南河内郡。

三 先が三つに別れた大きい齒であつた。

四 一六八頁に出た佐佐紀の山の君の祖。

五 見ておいたお婆さん。

六 大形の鈴。

七 淺茅の原や谷を過ぎて。さまざまの地形を通つて。

八 方々傳つて。

九 置目と呼びかける語法。モヤは感動の助詞。この句、日本書紀に「置目もよ」。

一〇 所在不明。

一一 雄略天皇。

一二 既に崩ぜられたのでかくいう。

一三 また考えれば。

一四 雄略天皇と押齒の王とは仁徳天皇の孫で從兄弟であり、仁賢顯宗の兩天皇からは、雄略天皇は、父のいとこに當る。

一五 奈良縣北葛城郡。


〔仁賢天皇〕

 袁祁の王の兄、意富祁おほけの王いそかみの廣高の宮にましまして、天の下治らしめしき。天皇、大長谷の若建わかたけの天皇の御子、春日の大郎女に娶ひて、生みませる御子、高木の郎女、次にたからの郎女、次に久須毘くすびの郎女、次に手白髮たしらがの郎女、次に小長谷をはつせ若雀わかさざきの命、次に眞若まわかの王。また丸邇わに日爪ひのつまの臣が女、ぬか若子わくごの郎女に娶ひて、生みませる御子、春日の小田をだの郎女。この天皇の御子たち、并せて、七柱。この中、小長谷の若雀の命は天の下治らしめしき。


一 仁賢天皇。この天皇の記事には御陵の事がない。これから以下は、物語の部分が無く、帝紀の原形に近いようである。

二 奈良縣山邊郡。


〔七、武烈天皇以後九代〕


〔武烈天皇〕

 小長谷の若雀の命、長谷の列木なみきの宮にましまして、八歳天の下治らしめしき。この天皇、太子ひつぎのみこましまさず。かれ御子代として、小長谷部をはつせべを定めたまひき。御陵は片岡の石坏いはつきの岡にあり。天皇既に崩りまして、日續知らしめすべき王ましまさず。かれ品太ほむだの天皇五世いつつぎみこ袁本杼をほどの命を近つ淡海の國より上りまさしめて、手白髮たしらがの命に合はせて、天の下を授けまつりき。


一 武烈天皇。

二 奈良縣磯城郡。

三 奈良縣北葛城郡。

四 應神天皇。

五 オホホドの王の系統であるが、古事記日本書紀にはその系譜は記されない。ただ釋日本紀に引いた上宮記という今日亡んだ書にだけその系譜が見える。應神天皇─若野毛二俣の王─意富富杼の王─宇非の王─彦大人の王─袁本杼の王。


〔繼體天皇〕

 品太ほむだの王の五世の孫袁本杼をほどの命伊波禮いはれ玉穗たまほの宮にましまして、天の下治らしめしき。天皇三尾みをの君等が祖、名は若比賣に娶ひて、生みませる御子、大郎子おほいらつこ、次に出雲の郎女二柱。また尾張の連等が祖、おほしの連が妹、目子の郎女に娶ひて、生みませる御子、廣國押建金日ひろくにおしたけかなひの命、次に建小たけを廣國押楯の命二柱。また意富祁おほけの天皇の御子、手白髮の命こは大后
にます。
に娶ひて、生みませる御子、天國押波流岐廣庭あめくにおしはるきひろにはの命一柱。また息長おきなが眞手まての王が女、麻組をくみの郎女に娶ひて、生みませる御子、佐佐宜ささげの郎女一柱。また坂田の大俣おほまたの王が女、黒比賣に娶ひて、生みませる御子、神前かむさきの郎女、次に茨田うまらたの郎女、次に白坂しらさか活目いくめ子の郎女、次に小野をのの郎女、またの名は長目ながめ比賣四柱。また三尾みをの君加多夫かたぶが妹、やまと比賣に娶ひて、生みませる御子、大郎女、次に丸高まろたかの王、次にみみの王、次に赤比賣の郎女四柱。また阿部の波延はえ比賣に娶ひて、生みませる御子、若屋わかやの郎女、次に都夫良つぶらの郎女、次に阿豆あづの王三柱。この天皇の御子たち、并せて十九王とをまりここのはしら男王七柱、女
王十二柱。
この中、天國押波流岐廣庭の命は、天の下治らしめしき。次に廣國押建金日の命も天の下治らしめしき。次に建小廣國押楯の命も天の下治らしめしき。次に佐佐宜の王は、伊勢の神宮をいつきまつりたまひき。この御世に、竺紫つくしの君石井いはゐ、天皇の命に從はずしてゐや無きこと多かりき。かれ物部もののべ荒甲あらかひ大連おほむらじ大伴おほとも金村かなむらの連二人を遣はして、石井を殺らしめたまひき。

 天皇、御年四十三歳よそぢまりみつ丁未の年四月九日
崩りたまひき。
御陵は三島の藍の陵なり。


一 繼體天皇。

二 奈良縣磯城郡。

三 次に茨田の郎女以下、底本に「次田郎女次田郎女次白坂沽日子郎女次野郎女亦名長目比賣、二柱」とあり、古事記傳に「次茨田郎女次馬來田郎女三柱、又娶茨田連小望之女關比賣生御子茨田大郎女次白坂活日子郎女次小野郎女亦名長目比賣三柱」とする。

四 福岡縣久留米市の附近に居た豪族。

五 大阪府三島郡。


〔安閑天皇〕

 御子廣國押建金日ひろくにおしたけかなひの王まがり金箸かなはしの宮にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、御子ましまさざりき。乙卯の年三月十三
日崩りたまひき。
御陵は河内の古市ふるちの高屋の村にあり。


一 安閑天皇。

二 奈良縣高市郡。

三 大阪府南河内郡。


〔宣化天皇〕

 いろと建小廣國押楯たけをひろくにおしたての命檜坰ひのくま廬入野いほりのの宮にましまして、天の下治らしめしき。天皇、意祁おけの天皇の御子、橘の中比賣の命に娶ひて、生みませる御子、石比賣いしひめの命、次に小石比賣の命、次に倉の若江の王、また河内かふち若子わくご比賣に娶ひて、生みませる御子、の王、次に惠波ゑはの王。この天皇の御子たち并せて五王いつはしら男王三柱、
女王二柱。
かれ火の穗の王は、志比陀の君が祖なり。惠波の王は、韋那の君、多治比の君が祖なり。


一 宣化天皇。この天皇の記事にも御陵の事がない。

二 奈良縣高市郡。

三 欽明天皇。この天皇の記事にも御陵の事がない。


〔欽明天皇〕

 弟天國押波流岐廣庭あめくにおしはるきひろにはの天皇、師木島しきしまの大宮にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、檜坰ひのくまの天皇の御子、石比賣の命に娶ひて、生みませる御子、八田やたの王、次に沼名倉太玉敷ぬなくらふとたましきの命、次に笠縫かさぬひの王三柱。またその弟小石比賣の命に娶ひて、生みませる御子、かみの王一柱。また春日の日爪ひつまの臣が女、糠子ぬかこの郎女に娶ひて、生みませる御子、春日の山田の郎女、次に麻呂古まろこの王、次に宗賀そがの倉の王三柱。また宗賀の稻目いなめの宿禰の大臣が女、岐多斯きたし比賣に娶ひて、生みませる御子、橘の豐日の命、次に妹石坰いはくまの王、次に足取あとりの王、次に豐御氣炊屋とよみけかしぎや比賣の命、次にまた麻呂古の王、次に大宅おほやけの王、次に伊美賀古いみがこの王、次に山代の王、次に妹大伴おほともの王、次に櫻井のゆみはりの王、次に麻怒まのの王、次に橘の本の若子わくごの王、次に泥杼ねどの王十三
柱。
また岐多志比賣の命がをば小兄をえ比賣に娶ひて、生みませる御子、馬木うまきの王、次に葛城の王、次に間人はしひと穴太部あなほべの王、次に三枝部さきくさべの穴太部の王、またの名は須賣伊呂杼すめいろど、次に長谷部はつせべ若雀わかさざきの命五柱。およそこの天皇の御子たち并はせて二十五王はたちまりいつはしら、この中、沼名倉太玉敷の命は、天の下治らしめしき。次に橘の豐日の命も、天の下治らしめしき。次に豐御氣炊屋比賣の命も、天の下治らしめしき。次に長谷部の若雀の命も、天の下治らしめしき。并せて四王よはしら天の下治らしめしき。


一 奈良縣磯城郡。この皇居の地名から、しき島の大和というようになつた。

二 宣化天皇。


〔敏達天皇〕

 御子沼名倉太玉敷ぬなくらふとたましきの命をさ田の宮にましまして、一十四歳とをまりよとせ、天の下治らしめしき。この天皇、庶妹ままいも豐御食炊屋とよみけかしぎや比賣の命に娶ひて、生みませる御子、靜貝しづかひの王、またの名は貝鮹かひだこの王、次に竹田の王、またの名は小貝をがひの王、次に小治田をはりだの王、次に葛城の王、次に宇毛理うもりの王、次に小張をはりの王、次に多米ための王、次に櫻井のゆみはりの王八柱。また伊勢の大鹿おほかおびとが女、小熊をくま子の郎女に娶ひて、生みませる御子、布斗ふと比賣の命、次に寶の王、またの名は糠代ぬかで比賣の王二柱。また息長眞手おきながまての王が女、比呂ひろ比賣の命に娶ひて、生みませる御子、忍坂おさか日子人ひこひと太子みこのみこと、またの名は麻呂古の王、次に坂のぼりの王、次に宇遲うぢの王三柱。また春日のなか若子わくごが女、老女子おみなこの郎女に娶ひて、生みませる御子、難波の王、次に桑田の王、次に春日の王、次に大俣おほまたの王四柱。この天皇の御子たち并せて十七王とをまりななはしらの中に、日子人の太子、庶妹ままいも田村の王、またの名は糠代ぬかで比賣の命に娶ひて、生みませる御子、岡本の宮にましまして、天の下治らしめしし天皇、次に中つ王、次に多良たらの王三柱。またあやの王が妹、大俣の王に娶ひて、生みませる御子、智奴ちぬの王、次に妹桑田の王二柱。また庶妹ゆみはりの王に娶ひて、生みませる御子、山代やましろの王、次に笠縫の王二柱。并はせて七王ななはしら甲辰の年四月六日
崩りたまひき。
御陵は川内の科長しながにあり。


一 敏達天皇。

二 奈良縣磯城郡。

三 舒明天皇。この即位の事は、古事記の記事中もつとも新しい事實である。

四 大阪府南河内郡。


〔用明天皇〕

 弟橘の豐日とよひの命、池の邊の宮にましまして、三歳天の下治らしめしき。この天皇、稻目いなめの大臣が女、意富藝多志おほぎたし比賣に娶ひて、生みませる御子、多米ための王一柱。また庶妹間人の穴太部あなほべの王に娶ひて、生みませる御子、うへの宮の厩戸うまやど豐聰耳とよとみみの命、次に久米くめの王、次に植栗ゑくりの王、次に茨田うまらたの王四柱。また當麻たぎま倉首比呂くらびとひろが女、いひの子に娶ひて、生みませる御子、當麻の王、次にいも須賀志呂古すがしろこの郎女二柱

 この天皇丁未の年四月十五
日崩りたまひき。
御陵は石寸いはれの池の上にありしを、後に科長の中の陵に遷しまつりき。


一 用明天皇。

二 奈良縣磯城郡。

三 聖徳太子。

四 奈良縣磯城郡。


〔崇峻天皇〕

 弟長谷部はつせべ若雀わかさざきの天皇倉椅くらはし柴垣しばかきの宮にましまして、四歳よとせ天の下治らしめしき。壬子の年十一月十三
日崩りたまひき。
御陵は倉椅くらはしの岡の上にあり。


一 崇峻天皇。

二 奈良縣磯城郡。

三 同前。


〔推古天皇〕

 いも豐御食炊屋とよみけかしぎや比賣の命、小治田をはりだの宮にましまして、三十七歳みそとせまりななとせ天の下治らしめしき。戊子の年三月十五日癸
丑の日崩りたまひき。
御陵は大野の岡の上にありしを、後に科長しながの大陵に遷しまつりき。


一 推古天皇。

二 奈良縣高市郡。

三 奈良縣宇陀郡。

四 大阪府南河内郡。


古事記 下つ卷

底本:「古事記」角川文庫、角川書店

   1956(昭和31)年520日初版発行

   1965(昭和40)年92020版発行

底本の親本:「眞福寺本」

※底本は校注が脚註の形で配置されています。このファイルでは校註者が追加した標題ごとに、書き下し文、校注の順序で編成しました。その際、校注は二字下げとしました。

※〔〕は底本の親本にはないもので、校註者が補った箇所を表します。

※頁数を引用している箇所には校註者が追加した標題を注記しました。

※底本は書き下し文のみ歴史的かなづかいで、その他は新かなづかいです。なお拗音・促音は小書きではありません。

入力:川山隆

校正:しだひろし

2013年521日作成

青空文庫作成ファイル:

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