古事記
校註 古事記
稗田の阿礼、太の安万侶
武田祐吉注釈校訂
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臣安萬侶二言さく、それ混元既に凝りしかども、氣象いまだ敦からざりしとき、名も無く爲も無く、誰かその形を知らむ三。然ありて乾と坤と初めて分れて、參神造化の首と作り四、陰と陽とここに開けて、二靈群品の祖となりたまひき五。所以に幽と顯と六に出で入りて、日と月と目を洗ふに彰れたまひ、海水に浮き沈みて、神と祇と身を滌ぐに呈れたまひき。故、太素は杳冥たれども、本つ教に因りて土を孕み島を産みたまひし時を識り、元始は綿邈たれども、先の聖に頼りて神を生み人を立てたまひし世を察にす。寔に知る、鏡を懸け珠を吐きたまひて、百の王相續き、劒を喫み蛇を切りたまひて、萬の神蕃息せしことを七。安の河に議りて天の下を平け、小濱に論ひて國土を清めたまひき。ここを以ちて番の仁岐の命、初めて高千の巓に降り八、神倭の天皇九、秋津島に經歴したまひき。化熊川より出でて、天の劒を高倉に獲、生尾徑を遮きりて、大き烏吉野に導きき。儛を列ねて賊を攘ひ、歌を聞きて仇を伏しき。すなはち夢に覺りて神祇を敬ひたまひき、所以に賢后と稱す一〇。烟を望みて黎元を撫でたまひき、今に聖帝と傳ふ一一。境を定め邦を開きて、近つ淡海に制したまひ一二、姓を正し氏を撰みて、遠つ飛鳥に勒したまひき一三。歩と驟と、おのもおのも異に、文と質と同じからずといへども、古を稽へて風猷を既に頽れたるに繩したまひ、今を照して典教を絶えなむとするに補ひたまはずといふこと無かりき。
一 過ぎし時代のことを傳え、歴代の天皇これによつて徳教を正しくしたことを説く。
二 この序文は、天皇に奏上する文として書かれているので、この句をはじめすべてその詞づかいがなされる。安萬侶は、太の安麻呂、古事記の撰者、養老七年(七二三)歿。
三 混元以下、中國の宇宙創生説によつて書いている。萬物は形と氣とから成る。形は天地に分かれ、氣は陰陽に分かれる。
四 アメノミナカヌシの神、タカミムスビの神、カムムスビの神の三神が、物を造り出す最初の神となつた。
五 イザナギ、イザナミの二神が、萬物を生み出す親となつた。
六 幽と顯とに以下、イザナギ、イザナミ二神の事蹟。
七 鏡を懸け以下、天照らす大神とスサノヲの命との事蹟。
八 安の河に以下、ニニギの命の事蹟。
九 神武天皇。
一〇 崇神天皇。
一一 仁徳天皇。
一二 成務天皇。
一三 允恭天皇。
飛鳥の清原の大宮に太八洲しらしめしし天皇二の御世に曁びて、潛龍元を體し、洊雷期に應へき。夢の歌を聞きて業を纂がむことをおもほし、夜の水に投りて基を承けむことを知らしたまひき。然れども天の時いまだ臻らざりしかば、南の山に蝉のごとく蛻け、人と事と共に給りて、東の國に虎のごとく歩みたまひき。皇輿たちまちに駕して、山川を凌ぎ度り、六師雷のごとく震ひ、三軍電のごとく逝きき。杖矛威を擧げて、猛士烟のごとく起り、絳旗兵を耀かして、凶徒瓦のごとく解けぬ。いまだ浹辰を移さずして、氣沴おのづから清まりぬ。すなはち牛を放ち馬を息へ、愷悌して華夏に歸り、旌を卷き戈を戢め、儛詠して都邑に停まりたまひき。歳は大糜に次り、月は夾鐘に踵り三、清原の大宮にして、昇りて天位に即きたまひき。道は軒后に軼ぎ、徳は周王に跨えたまへり。乾符を握りて六合を摠べ、天統を得て八荒を包ねたまひき。二氣の正しきに乘り、五行の序を齊へ、神しき理を設けて俗を奬め、英れたる風を敷きて國を弘めたまひき。重加智の海は浩汗として、潭く上古を探り、心の鏡は煒煌として、あきらかに先の代を覩たまふ。ここに天皇詔したまひしく、「朕聞かくは、諸家の賷たる帝紀と本辭四と既に正實に違ひ、多く虚僞を加ふといへり。今の時に當りて、その失を改めずは、いまだ幾年を經ずして、その旨滅びなむとす。こはすなはち邦家の經緯、王化の鴻基なり。故ここに帝紀を撰録し、舊辭を討覈して、僞を削り實を定め、後葉に流へむと欲ふ」と宣りたまひき。時に舍人あり、姓は稗田、名は阿禮五、年は二十八。人となり聰明にして、目に度れば口に誦み、耳に拂るれば心に勒す。すなはち阿禮に勅語して、帝皇の日繼と先代の舊辭とを誦み習はしめたまひき。然れども運移り世異にして、いまだその事を行ひたまはざりき。
一 天武天皇が帝紀と本辭とを正して稗田の阿禮に授けたことを説く。
二 天武天皇。
三 酉の年の二月に。
四 帝紀は歴代天皇の事を記した書、本辭は前の世の傳えごと。この二種が古事記の材料となつている。
五 アメノウズメの命の子孫。男子説と女子説とがある。
伏して惟ふに皇帝陛下二、一を得て光宅し、三に通じて亭育したまふ。紫宸に御して徳は馬の蹄の極まるところに被り、玄扈に坐して化は船の頭の逮るところを照したまふ。日浮びて暉を重ね、雲散りて烟まず。柯を連ね穗を并はす瑞、史は書すことを絶たず、烽を列ね、譯を重ぬる貢、府に空しき月無し。名は文命よりも高く、徳は天乙に冠れりと謂ひつべし。ここに舊辭の誤り忤へるを惜しみ、先紀の謬り錯れるを正さまくして、和銅四年三九月十八日を以ちて、臣安萬侶に詔して、稗田の阿禮が誦める勅語の舊辭を撰録して、獻上せよと宣りたまへば、謹みて詔の旨に隨ひ、子細に採り摭ひぬ。然れども上古の時、言と意と並朴にして、文を敷き句を構ふること、字にはすなはち難し。已に訓に因りて述ぶれば、詞は心に逮らず。全く音を以ちて連ぬれば、事の趣更に長し。ここを以ちて今或るは一句の中に、音と訓とを交へ用ゐ、或るは一事の内に、全く訓を以ちて録しぬ四。すなはち辭理の見え叵きは、注を以ちて明にし、意況の解き易きは更に注さず五。また姓の日下に、玖沙訶と謂ひ、名の帶の字に多羅斯といふ。かくの如き類は、本に隨ひて改めず六。大抵記す所は、天地の開闢よりして、小治田の御世七に訖ふ。故天の御中主の神より以下、日子波限建鵜草葺不合の尊より前を上つ卷とし、神倭伊波禮毘古の天皇より以下、品陀の御世より前八を中つ卷とし、大雀の皇帝九より以下、小治田の大宮より前を下つ卷とし、并はせて三つの卷に録し、謹みて獻上る。臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首す。
一 古事記成立の過程、文章の用意方針。内容の區分を説く。
二 元明天皇、女帝。奈良時代の最初の天皇。
三 七一一年。
四 漢字の表示する意義によつて書くのが、訓によるものであり、漢字の表示する音韻によつて書くのが、音によるものである。歌謠および特殊の詞句は音を用い、地名神名人名も音によるものが多い。外に漢字の訓を訓假字として使つたものが多少ある。
五 讀み方の注意、および内容に關して註が加えられている。
六 固有名詞の類に使用される特殊の文字は、もとのままで改めない。これは材料として文字になつていたものをも使つたことを語る。
七 推古天皇の時代(‐六二八)
八 神武天皇から應神天皇まで。
九 仁徳天皇。
天地の初發の時、高天の原に成りませる神の名は、天の御中主の神一。次に高御産巣日の神。次に神産巣日の神二。この三柱の神は、みな獨神三に成りまして、身を隱したまひき四。
次に國稚く、浮かべる脂の如くして水母なす漂へる時に、葦牙五のごと萠え騰る物に因りて成りませる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遲の神六。次に天の常立の神七。この二柱の神もみな獨神に成りまして、身を隱したまひき。
上の件、五柱の神は別天つ神。
次に成りませる神の名は、國の常立の神。次に豐雲野の神八。この二柱の神も、獨神に成りまして、身を隱したまひき。次に成りませる神の名は、宇比地邇の神。次に妹須比智邇の神。次に角杙の神。次に妹活杙の神二柱。次に意富斗能地の神。次に妹大斗乃辨の神。次に於母陀琉の神。次に妹阿夜訶志古泥の神九。次に伊耶那岐の神。次に妹伊耶那美の神一〇。
上の件、國の常立の神より下、伊耶那美の神より前を、并はせて神世七代とまをす。上の二柱は、獨神おのもおのも一代とまをす。次に雙び
ます十神はおのもおのも二神を合はせて一代とまをす。
一 中心、中央の思想の神格表現。空間の表示であるから活動を傳えない。
二 以上二神、生成の思想の神格表現。事物の存在を「生む」ことによつて説明する日本神話にあつて原動力である。タカミは高大、カムは神祕神聖の意の形容語。この二神の活動は、多く傳えられる。
三 對立でない存在。
四 天地の間に溶合した。
五 葦の芽。十分に春になつたことを感じている。
六 葦牙の神格化。神名は男性である。
七 天の確立を意味する神名。
八 名義不明。以下神名によつて、土地の成立、動植物の出現、整備等を表現するらしい。
九 驚きを表現する神名。
一〇 以上二神、誘い出す意味の表現。
ここに天つ神諸の命以ちて一、伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、この漂へる國を修理め固め成せと、天の沼矛を賜ひて、言依さしたまひき二。かれ二柱の神、天の浮橋三に立たして、その沼矛を指し下して畫きたまひ、鹽こをろこをろに畫き鳴して四、引き上げたまひし時に、その矛の末より滴る鹽の積りて成れる島は、淤能碁呂島五なり。その島に天降りまして、天の御柱を見立て六八尋殿を見立てたまひき。
ここにその妹伊耶那美の命に問ひたまひしく、「汝が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一處あり」とまをしたまひき。ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り餘れるところ一處あり。故この吾が身の成り餘れる處を、汝が身の成り合はぬ處に刺し塞ぎて、國土生み成さむと思ほすはいかに」とのりたまへば、伊耶那美の命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「然らば吾と汝と、この天の御柱を行き𢌞りあひて、美斗の麻具波比せむ七」とのりたまひき。かく期りて、すなはち詔りたまひしく、「汝は右より𢌞り逢へ、我は左より𢌞り逢はむ」とのりたまひて、約り竟へて𢌞りたまふ時に、伊耶那美の命まづ「あなにやし、えをとこを八」とのりたまひ、後に伊耶那岐の命「あなにやし、え娘子を」とのりたまひき。おのもおのものりたまひ竟へて後に、その妹に告りたまひしく、「女人先立ち言へるはふさはず」とのりたまひき。然れども隱處に興して子水蛭子を生みたまひき九。この子は葦船に入れて流し去りつ一〇。次に淡島一一を生みたまひき。こも子の數に入らず。
ここに二柱の神議りたまひて、「今、吾が生める子ふさはず。なほうべ天つ神の御所に白さな」とのりたまひて、すなはち共に參ゐ上りて、天つ神の命を請ひたまひき。ここに天つ神の命以ちて、太卜に卜へて一二のりたまひしく、「女の先立ち言ひしに因りてふさはず、また還り降りて改め言へ」とのりたまひき。
かれここに降りまして、更にその天の御柱を往き𢌞りたまふこと、先の如くなりき。ここに伊耶那岐の命、まづ「あなにやし、えをとめを」とのりたまひ、後に妹伊耶那美の命、「あなにやし、えをとこを」とのりたまひき。かくのりたまひ竟へて、御合ひまして、子淡道の穗の狹別の島一三を生みたまひき。次に伊豫の二名の島一四を生みたまひき。この島は身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。かれ伊豫の國を愛比賣といひ、讚岐の國を飯依比古といひ、粟の國を、大宜都比賣といひ、土左の國を建依別といふ。次に隱岐の三子の島を生みたまひき。またの名は天の忍許呂別。次に筑紫の島を生みたまひき。この島も身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。かれ筑紫の國一五を白日別といひ、豐の國を豐日別といひ、肥の國を建日向日豐久士比泥別一六といひ、熊曾の國一七を建日別といふ。次に伊岐の島を生みたまひき。またの名は天比登都柱といふ。次に津島一八を生みたまひき。またの名は天の狹手依比賣といふ。次に佐渡の島を生みたまひき。次に大倭豐秋津島一九を生みたまひき。またの名は天つ御虚空豐秋津根別といふ。かれこの八島のまづ生まれしに因りて、大八島國といふ。
然ありて後還ります時に、吉備の兒島を生みたまひき。またの名は建日方別といふ。次に小豆島を生みたまひき。またの名は大野手比賣といふ。次に大島二〇を生みたまひき。またの名は大多麻流別といふ。次に女島二一を生みたまひき。またの名は天一根といふ。次に知訶の島二二を生みたまひき。またの名は天の忍男といふ。次に兩兒の島二三を生みたまひき。またの名は天の兩屋といふ。吉備の兒島より天の兩屋
の島まで并はせて六島。
一 天神の命によつて若い神が降下するのは日本神話の基礎形式の一。祭典の思想に根據を有している。
二 りつぱな矛を賜わつて命を下した。
三 天からの通路である空中の階段。
四 海水をゴロゴロとかきまわして。
五 大阪灣内にある島。今の何島か不明。
六 家屋の中心となる神聖な柱を立てた。
七 結婚しよう。
八 アナニヤシ、感動の表示。エヲトコヲ、愛すべき男だ。ヲは感動の助詞。
九 ヒルのようなよくないものが、不合理な婚姻によつて生まれたとする。
一〇 蟲送りの行事。
一一 四國の阿波の方面の名。この部分は阿波方面に對してわるい感情を表示する。
一二 古代の占法は種々あるが、鹿の肩骨を燒いてヒビの入り方によつて占なうのを重んじ、これをフトマニといつた。これは後に龜の甲を燒くことに變わつた。
一三 淡路島の別名。ワケは若い者の義。
一四 四國の稱。伊豫の方面からいう。
一五 北九州。
一六 誤傳があるのだろう。肥の國(肥前肥後)の外に、日向の別名があげられているのだろうというが、日向を入れると五國になつて、面四つありというのに合わない。
一七 クマ(肥後南部)とソ(薩摩)とを合わせた名。
一八 對馬島。
一九 本州。
二〇 山口縣の屋代島だろう。
二一 大分縣の姫島だろう。
二二 長崎縣の五島。
二三 所在不明。
既に國を生み竟へて、更に神を生みたまひき。かれ生みたまふ神の名は、大事忍男の神。次に石土毘古の神を生みたまひ、次に石巣比賣の神を生みたまひ、次に大戸日別の神を生みたまひ、次に天の吹男の神を生みたまひ、次に大屋毘古の神を生みたまひ一、次に風木津別の忍男の神二を生みたまひ、次に海の神名は大綿津見の神を生みたまひ、次に水戸の神三名は速秋津日子の神、次に妹速秋津比賣の神を生みたまひき。大事忍男の神より秋津比賣
の神まで并はせて十神。
この速秋津日子、速秋津比賣の二神、河海によりて持ち別けて生みたまふ神の名四は、沫那藝の神。次に沫那美の神。次に頬那藝の神。次に頬那美の神。次に天の水分の神。次に國の水分の神。次に天の久比奢母智の神、次に國の久比奢母智の神。沫那藝の神より國の久比奢母
智の神まで并はせて八神。
次に風の神名は志那都比古の神五を生みたまひ、次に木の神名は久久能智の神六を生みたまひ、次に山の神名は大山津見の神を生みたまひ、次に野の神名は鹿屋野比賣の神を生みたまひき。またの名は野椎の神といふ。志那都比古の神より野
椎まで并はせて四神。
この大山津見の神、野椎の神の二神、山野によりて持ち別けて生みたまふ神の名は、天の狹土の神。次に國の狹土の神。次に天の狹霧の神。次に國の狹霧の神。次に天の闇戸の神。次に國の闇戸の神。次に大戸或子の神。次に大戸或女の神七。天の狹土の神より大戸或女
の神まで并はせて八神。
次に生みたまふ神の名は、鳥の石楠船の神八、またの名は天の鳥船といふ。次に大宜都比賣の神九を生みたまひ、次に火の夜藝速男の神を生みたまひき。またの名は火の炫毘古の神といひ、またの名は火の迦具土の神といふ。この子を生みたまひしによりて、御陰やかえて病み臥せり。たぐり一〇に生りませる神の名は金山毘古の神。次に金山毘賣の神。次に屎に成りませる神の名は、波邇夜須毘古の神。次に波邇夜須毘賣の神一一。次に尿に成りませる神の名は彌都波能賣の神一二。次に和久産巣日の神一三。この神の子は豐宇氣毘賣の神一四といふ。かれ伊耶那美の神は、火の神を生みたまひしに因りて、遂に神避りたまひき。天の鳥船より豐宇氣毘賣
の神まで并はせて八神。およそ伊耶那岐伊耶那美の二神、共に生みたまふ島壹拾四島、神參拾五神一五。こは伊耶那美の神、いまだ神避りまさざりし前に生みたまひき。ただ意能
碁呂島は生みたまへるにあらず、また蛭子と淡島とは子の例に入らず。
一 以上の神の系列は、家屋の成立を語るものと解せられる。
二 風に對して堪えることを意味するらしい。
三 河口など、海に對する出入口の神。
四 海と河とで分擔して生んだ神。以下水に關する神。アワナギ、アワナミは、動く水の男女の神、ツラナギ、ツラナミは、靜水の男女の神。ミクマリは、水の配分。クヒザモチは水を汲む道具。
五 息の長い男の義。
六 木の間を潛る男の義。
七 山の神と野の神とが生んだ諸神の系列は、山野に霧がかかつて迷うことを表現する。
八 鳥の如く早く輕く行くところの、石のように堅いクスノキの船。
九 穀物の神。この神に關する神話が三五頁にある。
一〇 吐瀉物。以下排泄物によつて生まれた神は、火を防ぐ力のある神である。
一一 埴土の男女の神。
一二 水の神。
一三 若い生産力の神。
一四 これも穀物の神。以上の神の系列は、野を燒いて耕作する生活を語る。
一五 實數四十神だが、男女一對の神を一として數えれば三十五になる。
かれここに伊耶那岐の命の詔りたまはく、「愛しき我が汝妹の命を、子の一木に易へつるかも」とのりたまひて、御枕方に匍匐ひ御足方に匍匐ひて、哭きたまふ時に、御涙に成りませる神は、香山一の畝尾二の木のもとにます、名は泣澤女の神三。かれその神避りたまひし伊耶那美の神は、出雲の國と伯伎の國との堺なる比婆の山四に葬めまつりき。ここに伊耶那岐の命、御佩の十拳の劒五を拔きて、その子迦具土の神の頸を斬りたまひき。ここにその御刀の前に著ける血、湯津石村六に走りつきて成りませる神の名は、石拆の神。次に根拆の神。次に石筒の男の神。次に御刀の本に著ける血も、湯津石村に走りつきて成りませる神の名は、甕速日の神。次に樋速日の神。次に建御雷の男の神。またの名は建布都の神、またの名は豐布都の神三神。次に御刀の手上に集まる血、手俣より漏き出て成りませる神の名は、闇淤加美の神。次に闇御津羽の神。上の件、石拆の神より下、闇御津羽の神より前、并
はせて八神は、御刀に因りて生りませる神なり。
殺さえたまひし迦具土の神の頭に成りませる神の名は、正鹿山津見の神七。次に胸に成りませる神の名は、淤縢山津見の神。次に腹に成りませる神の名は、奧山津見の神。次に陰に成りませる神の名は、闇山津見の神。次に左の手に成りませる神の名は、志藝山津見の神。次に右の手に成りませる神の名は、羽山津美の神。次に左の足に成りませる神の名は、原山津見の神。次に右の足に成りませる神の名は、戸山津見の神。正鹿山津見の神より戸山津
見の神まで并はせて八神。かれ斬りたまへる刀の名は、天の尾羽張といひ八、またの名は伊都の尾羽張といふ。
ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉國九に追ひ往でましき。ここに殿の縢戸一〇より出で向へたまふ時に、伊耶那岐の命語らひて詔りたまひしく、「愛しき我が汝妹の命、吾と汝と作れる國、いまだ作り竟へずあれば、還りまさね」と詔りたまひき。ここに伊耶那美の命の答へたまはく、「悔しかも、速く來まさず。吾は黄泉戸喫一一しつ。然れども愛しき我が汝兄の命、入り來ませること恐し。かれ還りなむを。しまらく黄泉神と論はむ。我をな視たまひそ」と、かく白して、その殿内に還り入りませるほど、いと久しくて待ちかねたまひき。かれ左の御髻に刺させる湯津爪櫛一二の男柱一箇取り闕きて、一つ火燭して入り見たまふ時に、蛆たかれころろぎて一三、頭には大雷居り、胸には火の雷居り、腹には黒雷居り、陰には拆雷居り、左の手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴雷居り、右の足には伏雷居り、并はせて八くさの雷神成り居りき。
ここに伊耶那岐の命、見畏みて逃げ還りたまふ時に、その妹伊耶那美の命、「吾に辱見せつ」と言ひて、すなはち黄泉醜女一四を遣して追はしめき。ここに伊耶那岐の命、黒御鬘一五を投げ棄てたまひしかば、すなはち蒲子一六生りき。こを摭ひ食む間に逃げ行でますを、なほ追ひしかば、またその右の御髻に刺させる湯津爪櫛を引き闕きて投げ棄てたまへば、すなはち笋一七生りき。こを拔き食む間に、逃げ行でましき。また後にはかの八くさの雷神に、千五百の黄泉軍を副へて追はしめき。ここに御佩の十拳の劒を拔きて、後手に振きつつ逃げ來ませるを、なほ追ひて黄泉比良坂一八の坂本に到る時に、その坂本なる桃の子三つをとりて持ち撃ちたまひしかば、悉に逃げ返りき。ここに伊耶那岐の命、桃の子に告りたまはく、「汝、吾を助けしがごと、葦原の中つ國にあらゆる現しき青人草一九の、苦き瀬に落ちて、患惚まむ時に助けてよ」とのりたまひて、意富加牟豆美の命といふ名を賜ひき。最後にその妹伊耶那美の命、身みづから追ひ來ましき。ここに千引の石をその黄泉比良坂に引き塞へて、その石を中に置きて、おのもおのも對き立たして、事戸を度す時二〇に、伊耶那美の命のりたまはく、「愛しき我が汝兄の命、かくしたまはば、汝の國の人草、一日に千頭絞り殺さむ」とのりたまひき。ここに伊耶那岐の命、詔りたまはく、「愛しき我が汝妹の命、汝然したまはば、吾は一日に千五百の産屋を立てむ」とのりたまひき。ここを以ちて一日にかならず千人死に、一日にかならず千五百人なも生まるる。
かれその伊耶那美の命に號けて黄泉津大神といふ。またその追ひ及きしをもちて、道敷の大神二一ともいへり。またその黄泉の坂に塞れる石は、道反の大神ともいひ、塞へます黄泉戸の大神ともいふ。かれそのいはゆる黄泉比良坂は、今、出雲の國の伊賦夜坂二二といふ。
一 奈良縣磯城郡の天の香具山。神話に實在の地名が出る場合は、大抵その神話の傳えられている地方を語る。
二 うねりのある地形の高み。
三 香具山の麓にあつた埴安の池の水神。泣澤の森そのものを神體としている。
四 廣島縣比婆郡に傳説地がある。
五 十つかみある長い劒。
六 神聖な岩石。以下神の系列によつて鐵鑛を火力で處理して刀劒を得ることを語る。イハサクの神からイハヅツノヲの神まで岩石の神靈。ミカハヤビ、ヒハヤビは火力。タケミカヅチノヲは劒の威力。クラオカミ、クラミツハは水の神靈。クラは溪谷。御刀の手上は、劒のつか。タケミカヅチノヲは五六頁、七四頁に神話がある。
七 以下各種の山の神。
八 幅の廣い劒の義。水の神と解せられ、五六頁に神話がある。別名のイツは、威力の意。
九 地下にありとされる空想上の世界。黄泉の文字は漢文から來る。
一〇 宮殿の閉してある戸。殿の騰戸とする傳えもある。
一一 黄泉の國の火で作つた食物を食つたので黄泉の人となつてしまつた。同一の火による團結の思想である。
一二 髮を左右に分けて耳の邊で輪にする。それにさした神聖な櫛。櫛は竹で作り魔よけとして女がさしてくれる。
一三 蛆がわいてゴロゴロ鳴つて。トロロギテとする傳えがあるが誤り。
一四 黄泉の國の見にくいばけものの女。
一五 植物を輪にして魔よけとして髮の上にのせる。
一六 山葡萄。
一七 筍。
一八 黄泉の國の入口にある坂。黄泉の國に向つて下る。墳墓の構造から來ている。
一九 現實にある人間。
二〇 日本書紀には絶妻の誓とある。言葉で戸を立てる。別れの言葉をいう。
二一 道路を追いかける神。
二二 島根縣八束郡。
ここを以ちて伊耶那岐の大神の詔りたまひしく、「吾はいな醜め醜めき穢き國一に到りてありけり。かれ吾は御身の禊せむ」とのりたまひて、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原二に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。かれ投げ棄つる御杖に成りませる神の名は、衝き立つ船戸の神三。次に投げ棄つる御帶に成りませる神の名は、道の長乳齒の神四。次に投げ棄つる御嚢に成りませる神の名は、時量師の神五。次に投げ棄つる御衣に成りませる神の名は、煩累の大人の神六。次に投げ棄つる御褌に成りませる神の名は、道俣の神七。次に投げ棄つる御冠に成りませる神の名は、飽咋の大人の神八。次に投げ棄つる左の御手の手纏に成りませる神の名は、奧疎の神九。次に奧津那藝佐毘古の神。次に奧津甲斐辨羅の神。次に投げ棄つる右の御手の手纏に成りませる神の名は、邊疎の神。次に邊津那藝佐毘古の神。次に邊津甲斐辨羅の神。
右の件、船戸の神より下、邊津甲斐辨羅の神より前、十二神は、身に著けたる物を脱ぎうてたまひしに因りて、生りませる神なり。
ここに詔りたまはく、「上つ瀬は瀬速し、下つ瀬は弱し」と詔りたまひて、初めて中つ瀬に降り潛きて、滌ぎたまふ時に、成りませる神の名は、八十禍津日の神一〇。次に大禍津日の神。この二神は、かの穢き繁き國に到りたまひし時の、汚垢によりて成りませる神なり。次にその禍を直さむとして成りませる神の名は、神直毘の神。次に大直毘の神一一。次に伊豆能賣一二。次に水底に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、底津綿津見の神一三。次に底筒の男の命。中に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、中津綿津見の神。次に中筒の男の命。水の上に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、上津綿津見の神。次に上筒の男の命。この三柱の綿津見の神は、阿曇の連等が祖神と齋く神なり。かれ阿曇の連等は、その綿津見の神の子宇都志日金拆の命の子孫なり。その底筒の男の命、中筒の男の命、上筒の男の命三柱の神は、墨の江の三前の大神一四なり。
ここに左の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、天照らす大御神。次に右の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、月讀の命一五。次に御鼻を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、建速須佐の男の命一六。
右の件、八十禍津日の神より下、速須佐の男の命より前、十柱の神一七は、御身を滌ぎたまひしに因りて生れませる神なり。
この時伊耶那岐の命大く歡ばして詔りたまひしく、「吾は子を生み生みて、生みの終に、三柱の貴子を得たり」と詔りたまひて、すなはちその御頸珠の玉の緒ももゆらに取りゆらかして一八、天照らす大御神に賜ひて詔りたまはく、「汝が命は高天の原を知らせ」と、言依さして賜ひき。かれその御頸珠の名を、御倉板擧の神一九といふ。次に月讀の命に詔りたまはく、「汝が命は夜の食國二〇を知らせ」と、言依さしたまひき。次に建速須佐の男の命に詔りたまはく、「汝が命は海原を知らせ」と、言依さしたまひき。
かれおのもおのもよさし賜へる命のまにま知らしめす中に、速須佐の男の命、依さしたまへる國を知らさずて、八拳須心前に至るまで、啼きいさちき二一。その泣く状は、青山は枯山なす泣き枯らし河海は悉に泣き乾しき。ここを以ちて惡ぶる神の音なひ二二、狹蠅なす皆滿ち、萬の物の妖悉に發りき。かれ伊耶那岐の大御神、速須佐の男の命に詔りたまはく、「何とかも汝は言依させる國を治らさずて、哭きいさちる」とのりたまへば、答へ白さく、「僕は妣の國根の堅洲國二三に罷らむとおもふがからに哭く」とまをしたまひき。ここに伊耶那岐の大御神、大く忿らして詔りたまはく、「然らば汝はこの國にはな住まりそ」と詔りたまひて、すなはち神逐ひに逐ひたまひき二四。かれその伊耶那岐の大神は、淡路の多賀二五にまします。
一 大變見にくいきたない世界。
二 九州の諸地方に傳説地があるが不明。アハギは樹名だろうが不明。日本書紀に檍原と書く。
三 道路に立つて惡魔の來るのを追い返す神。柱の形であるから杖によつて成つたという。
四 道路の長さの神。道路そのものに威力ありとする思想。
五 時置師の神とも傳える。時間のかかる意であろう。
六 疲勞の神靈。
七 二股になつている道路の神。
八 口をあけて食う神靈。魔物をである。
九 以下は禊をする土地の説明。
一〇 災禍の神靈。
一一 災禍を拂つてよくする思想の神格化。曲つたものをまつすぐにするという形で表現している。
一二 威力のある女。巫女である。
一三 以下六神、海の神。安曇系と住吉系と二種の神話の混合。
一四 住吉神社の祭神。西方の海岸にこの神の信仰がある。
一五 月の神、男神。日本書紀にはこの神が保食の神(穀物の神)を殺す神話がある。
一六 暴風の神であり出雲系の英雄でもある。
一七 實數十四神。イヅノメと海神の一組三神とを除けば十神になる。
一八 頸にかけた珠の緒もゆらゆらとゆり鳴らして。
一九 棚の上に安置してある神靈の義。
二〇 夜の領國。神話は傳わらない。
二一 長い髯が胸元までのびるまで泣きわめいた。以下暴風の性質にもとづく敍述。
二二 亂暴な神の物音。暴風のさわぎ。
二三 死んだ母の國。イザナミの神の行つている黄泉の國である地下の堅い土の世界。暴風がみずから地下へ行こうと言つたとする。
二四 神が追い拂つた。暴風を父の神が放逐したとする思想。
二五 眞福寺本には淡海の多賀とする。イザナギの命の信仰は、淡路方面にひろがつていた。
かれここに速須佐の男の命、言したまはく、「然らば天照らす大御神にまをして罷りなむ」と言して、天にまゐ上りたまふ時に、山川悉に動み國土皆震りき一。ここに天照らす大御神聞き驚かして、詔りたまはく、「我が汝兄の命の上り來ます由は、かならず善しき心ならじ。我が國を奪はむとおもほさくのみ」と詔りたまひて、すなはち御髮を解きて、御髻に纏かして二、左右の御髻にも、御鬘にも、左右の御手にも、みな八尺の勾璁の五百津の御統の珠三を纏き持たして、背には千入の靫四を負ひ、平五には五百入の靫を附け、また臂には稜威の高鞆六を取り佩ばして、弓腹振り立てて、堅庭は向股に蹈みなづみ、沫雪なす蹶ゑ散して、稜威の男建七、蹈み建びて、待ち問ひたまひしく、「何とかも上り來ませる」と問ひたまひき。ここに速須佐の男の命答へ白したまはく、「僕は邪き心無し。ただ大御神の命もちて、僕が哭きいさちる事を問ひたまひければ、白しつらく、僕は妣の國に往なむとおもひて哭くとまをししかば、ここに大御神汝はこの國にな住まりそと詔りたまひて、神逐ひ逐ひ賜ふ。かれ罷りなむとする状をまをさむとおもひて參ゐ上りつらくのみ。異しき心無し」とまをしたまひき。ここに天照らす大御神詔りたまはく、「然らば汝の心の清明きはいかにして知らむ」とのりたまひしかば、ここに速須佐の男の命答へたまはく、「おのもおのも誓ひて子生まむ八」とまをしたまひき。かれここにおのもおのも天の安の河九を中に置きて誓ふ時に、天照らす大御神まづ建速須佐の男の命の佩かせる十拳の劒を乞ひ度して、三段に打ち折りて、ぬなとももゆらに一〇、天の眞名井一一に振り滌ぎて、さ齧みに齧みて、吹き棄つる氣吹の狹霧に成りませる神の御名一二は、多紀理毘賣の命、またの御名は奧津島比賣の命といふ。次に市寸島比賣の命、またの御名は狹依毘賣の命といふ。次に多岐都比賣の命一三三柱。速須佐の男の命、天照らす大御神の左の御髻に纏かせる八尺の勾珠の五百津の御統の珠を乞ひ度して、ぬなとももゆらに、天の眞名井に振り滌ぎて、さ齧みに齧みて、吹き棄つる氣吹の狹霧に成りませる神の御名は、正勝吾勝勝速日天の忍穗耳の命一四。また右の御髻に纏かせる珠を乞ひ度して、さ齧みに齧みて、吹き棄つる氣吹の狹霧に成りませる神の御名は、天の菩卑の命一五。また御鬘に纏かせる珠を乞ひ度して、さ齧みに齧みて、吹き棄つる氣吹の狹霧に成りませる神の御名は、天津日子根の命一六。また左の御手に纏かせる珠を乞ひ度して、さ齧みに齧みて、吹き棄つる氣吹の狹霧に成りませる神の御名は、活津日子根の命。また右の御手に纏かせる珠を乞ひ度して、さ齧みに齧みて、吹き棄つる氣吹の狹霧に成りませる神の御名は、熊野久須毘の命一七并はせて
五柱。
ここに天照らす大御神、速須佐の男の命に告りたまはく、「この後に生れませる五柱の男子は、物實我が物に因りて成りませり。かれおのづから吾が子なり。先に生れませる三柱の女子は、物實汝の物に因りて成りませり。かれすなはち汝の子なり」と、かく詔り別けたまひき。
かれその先に生れませる神、多紀理毘賣の命は、胷形の奧津宮一八にます。次に市寸島比賣の命は胷形の中津宮にます一九。次に田寸津比賣の命は、胷形の邊津宮にます。この三柱の神は、胷形の君等がもち齋く三前の大神なり。
かれこの後に生れませる五柱の子の中に、天の菩比の命の子建比良鳥の命、こは出雲の國の造、无耶志の國の造、上つ菟上の國の造、下つ菟上の國の造、伊自牟の國の造、津島の縣の直、遠江の國の造等が祖なり。次に天津日子根の命は、凡川内の國の造、額田部の湯坐の連、木の國の造、倭の田中の直、山代の國の造、馬來田の國の造、道の尻岐閇の國の造、周芳の國の造、倭の淹知の造、高市の縣主、蒲生の稻寸、三枝部の造等が祖なり。
一 暴風の襲來する有樣で、歴史的には出雲族の襲來を語る。
二 男裝される。
三 大きな曲玉の澤山を緒に貫いたもの。曲玉は、玉の威力の發動の思想を表示する。
四 千本の矢を入れて背負う武具。
五 胸のたいらな所。
六 威勢のよい音のする鞆。トモは皮で球形に作り左の手にはめて弓を引いた時にそれに當つて音が立つようにする武具。
七 威勢のよい叫び。
八 神に誓つて神意を伺う儀式。種々の方法があり夢が多く使われる。ここは生まれた子の男女の別によつて神意を伺う。
九 高天の原にありとする川。滋賀縣の野洲川だともいう。明日香川の古名か。
一〇 玉の音もさやかに。
一一 神聖な水の井。
一二 以上の行爲は、身を清めるために行う。劒を振つて水を清めてその水を口に含んで吐く霧の中に神靈が出現するとする。以下は劒が玉に變つているだけ。
一三 以上の三女神は福岡縣の宗像神社の神。
一四 皇室の御祖先と傳える。
一五 出雲氏等の祖先。
一六 主として近畿地方に居住した諸氏の祖先。各種の系統の祖先が、この行事によつて出現したとするのは民族が同一祖から出たとする思想である。
一七 出雲の國の熊野神社の神。
一八 福岡縣の海上日本海の沖の島にある。
一九 福岡縣の海上大島にある。
ここに速須佐の男の命、天照らす大御神に白したまひしく、「我が心清明ければ我が生める子手弱女を得つ一。これに因りて言はば、おのづから我勝ちぬ」といひて、勝さび二に天照らす大御神の營田の畔離ち、その溝埋み、またその大嘗聞しめす殿に屎まり散らしき三。かれ然すれども、天照らす大御神は咎めずて告りたまはく、「屎なすは醉ひて吐き散らすとこそ我が汝兄の命かくしつれ。また田の畔離ち溝埋むは、地を惜しとこそ我が汝兄の命かくしつれ」と詔り直したまへども、なほその惡ぶる態止まずてうたてあり。天照らす大御神の忌服屋四にましまして神御衣織らしめたまふ時に、その服屋の頂を穿ちて、天の斑馬を逆剥ぎに剥ぎて墮し入るる五時に、天の衣織女見驚きて梭六に陰上を衝きて死にき。かれここに天照らす大御神見畏みて、天の石屋戸七を開きてさし隱りましき。ここに高天の原皆暗く、葦原の中つ國悉に闇し。これに因りて、常夜往く八。ここに萬の神の聲は、さ蠅なす滿ち、萬の妖悉に發りき。ここを以ちて八百萬の神、天の安の河原に神集ひ集ひて、高御産巣日の神の子思金の神九に思はしめて、常世の長鳴鳥一〇を集へて鳴かしめて、天の安の河の河上の天の堅石を取り、天の金山の鐵を取りて、鍛人天津麻羅を求ぎて、伊斯許理度賣の命に科せて、鏡を作らしめ、玉の祖の命に科せて八尺の勾璁の五百津の御統の珠を作らしめて天の兒屋の命布刀玉の命を召びて、天の香山の眞男鹿の肩を内拔きに拔きて一一、天の香山の天の波波迦一二を取りて、占合まかなはしめて一三、天の香山の五百津の眞賢木を根掘じにこじて一四、上枝に八尺の勾璁の五百津の御統の玉を取り著け、中つ枝に八尺の鏡を取り繋け、下枝に白和幣青和幣を取り垂でて一五、この種種の物は、布刀玉の命太御幣と取り持ちて、天の兒屋の命太祝詞言祷ぎ白して、天の手力男の神一六、戸の掖に隱り立ちて、天の宇受賣の命、天の香山の天の日影を手次に繋けて、天の眞拆を鬘として一七、天の香山の小竹葉を手草に結ひて一八、天の石屋戸に覆槽伏せて一九蹈みとどろこし、神懸りして、胷乳を掛き出で、裳の緒を陰に押し垂りき。ここに高天の原動みて八百萬の神共に咲ひき。
ここに天照らす大御神怪しとおもほして、天の石屋戸を細に開きて内より告りたまはく、「吾が隱りますに因りて、天の原おのづから闇く、葦原の中つ國も皆闇けむと思ふを、何とかも天の宇受賣は樂し、また八百萬の神諸咲ふ」とのりたまひき。ここに天の宇受賣白さく、「汝命に勝りて貴き神いますが故に、歡喜び咲ひ樂ぶ」と白しき。かく言ふ間に、天の兒屋の命、布刀玉の命、その鏡をさし出でて、天照らす大御神に見せまつる時に、天照らす大御神いよよ奇しと思ほして、やや戸より出でて臨みます時に、その隱り立てる手力男の神、その御手を取りて引き出だしまつりき。すなはち布刀玉の命、尻久米繩二〇をその御後方に控き度して白さく、「ここより内にな還り入りたまひそ」とまをしき。かれ天照らす大御神の出でます時に、高天の原と葦原の中つ國とおのづから照り明りき。ここに八百萬の神共に議りて、速須佐の男の命に千座の置戸を負せ二一、また鬚と手足の爪とを切り、祓へしめて、神逐ひ逐ひき。
一 自分が清らかだから女子を得たとする。日本書紀では反對に、男子が生まれたらスサノヲの命が潔白であるとしている。古事記の神話が女子によつて語られたとする證明になるところ。オシホミミの命の出現によつて勝つたとするのが原形だろう。
二 勝にまかせて。
三 田の畦を破り溝を埋め、また御食事をなされる宮殿に不淨の物をまき散らすので、皆暴風の災害である。
四 清淨な機おり場。
五 これも暴風の災害。
六 機おる時に横絲を卷いて縱絲の中をくぐらせる道具。
七 イハは堅固である意を現すためにつけていう。墳墓の入口の石の戸とする説もある。
八 永久の夜が續く。
九 思慮智惠の神格化。
一〇 鷄。常世は、恒久の世界の義で、空想上の世界から轉じて海外をいう。
一一 香具山の鹿の肩の骨をそつくり拔いて。
一二 樹名、カバノキ。これで鹿骨を燒く。
一三 占いをし適合させて。卜占によつて祭の實行方法を定める。
一四 香具山の繁つた木を根と共に掘つて。マサカキは繁つた常緑木で、今いうツバキ科の樹名サカキに限らない。神聖な清淨な木を引く意味で、山から採つてくる。
一五 サカキに玉と鏡と麻楮をつけるのは、神靈を招く意の行事で、他の例では劒をもつける。シラニギテはコウゾ、アヲニギテはアサ。
一六 力の神格。
一七 ヒカゲカズラを手次にかけ、マサキノカズラをカヅラにする。神がかりをするための用意。
一八 小竹の葉をつけて手で持つ。
一九 中のうつろの箱のようなものを伏せて。
二〇 シメ繩。出入禁止の意の表示。
二一 罪を犯した者に多くの物を出させる。
また食物を大氣都比賣の神に乞ひたまひき。ここに大氣都比賣、鼻口また尻より、種種の味物二を取り出でて、種種作り具へて進る時に、速須佐の男の命、その態を立ち伺ひて、穢汚くして奉るとおもほして、その大宜津比賣の神を殺したまひき。かれ殺さえましし神の身に生れる物は、頭に蠶生り、二つの目に稻種生り、二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰に麥生り、尻に大豆生りき。かれここに神産巣日御祖の命、こを取らしめて、種と成したまひき。
一 この一節は插入神話である。文章が前の章からよく接續しないことに注意。オホゲツヒメは穀物の女神。既出。
二 うまい物。
かれ避追えて、出雲の國の肥の河上、名は鳥髮といふ地一に降りましき。この時に、箸その河ゆ流れ下りき。ここに須佐の男の命、その河上に人ありとおもほして、求ぎ上り往でまししかば、老夫と老女と二人ありて、童女を中に置きて泣く。ここに「汝たちは誰そ」と問ひたまひき。かれその老夫、答へて言さく「僕は國つ神大山津見の神の子なり。僕が名は足名椎といひ妻が名は手名椎といひ、女が名は櫛名田比賣二といふ」とまをしき。また「汝の哭く故は何ぞ」と問ひたまひしかば、答へ白さく「我が女はもとより八稚女ありき。ここに高志の八俣の大蛇三、年ごとに來て喫ふ。今その來べき時なれば泣く」とまをしき。ここに「その形はいかに」と問ひたまひしかば、「そが目は赤かがち四の如くにして身一つに八つの頭八つの尾あり。またその身に蘿また檜榲生ひ、その長谷八谷峽八尾を度り五て、その腹を見れば、悉に常に血垂り六爛れたり」とまをしき。ここに赤かがちと云へ
るは、今の酸醤なり。ここに速須佐の男の命、その老夫に詔りたまはく、「これ汝が女ならば、吾に奉らむや」と詔りたまひしかば、「恐けれど御名を知らず」と答へまをしき。ここに答へて詔りたまはく、「吾は天照らす大御神の弟なり。かれ今天より降りましつ」とのりたまひき。ここに足名椎手名椎の神、「然まさば恐し、奉らむ」とまをしき。
ここに速須佐の男の命、その童女を湯津爪櫛に取らして、御髻に刺さして七、その足名椎、手名椎の神に告りたまはく、「汝等、八鹽折の酒を釀み八、また垣を作り𢌞し、その垣に八つの門を作り、門ごとに八つの假庪を結ひ九、その假庪ごとに酒船一〇を置きて、船ごとにその八鹽折の酒を盛りて待たさね」とのりたまひき。かれ告りたまへるまにまにして、かく設け備へて待つ時に、その八俣の大蛇、信に言ひしがごと來つ。すなはち船ごとに己が頭を乘り入れてその酒を飮みき。ここに飮み醉ひて留まり伏し寢たり。ここに速須佐の男の命、その御佩の十拳の劒を拔きて、その蛇を切り散りたまひしかば、肥の河血に變りて流れき。かれその中の尾を切りたまふ時に、御刀の刃毀けき。ここに怪しと思ほして、御刀の前もちて刺し割きて見そなはししかば、都牟羽の大刀一一あり。かれこの大刀を取らして、異しき物ぞと思ほして、天照らす大御神に白し上げたまひき。こは草薙の大刀一二なり。
かれここを以ちてその速須佐の男の命、宮造るべき地を出雲の國に求ぎたまひき。ここに須賀一三の地に到りまして詔りたまはく、「吾此地に來て、我が御心清淨し」と詔りたまひて、其地に宮作りてましましき。かれ其地をば今に須賀といふ。この大神、初め須賀の宮作らしし時に、其地より雲立ち騰りき。ここに御歌よみしたまひき。その歌、
や雲立つ 出雲八重垣。
妻隱みに 八重垣作る。
その八重垣を一四。 (歌謠番號一)
ここにその足名椎の神を喚して告りたまはく、「汝をば我が宮の首に任けむ」と告りたまひ、また名を稻田の宮主須賀の八耳の神と負せたまひき。
一 島根縣仁多郡、斐伊川の上流船通山。
二 日本書紀に奇稻田姫とある。
三 強暴な者の譬喩。また出水としそれを處理して水田を得た意の神話ともする。コシは、島根縣内の地名説もあるが、北越地方の義とすべきである。
四 タンバホオズキ。
五 身長が、谷八つ、高み八つを越える。
六 血がしたたつて。
七 女が魂をこめた櫛を男のミヅラにさす。これは婚姻の風習で、その神祕な表現。
八 濃い酒を作つて。
九 サズキは物をのせる臺。古代は綱で材木を結んで作るから、結うという。
一〇 酒の入物。フネは箱状のもの。
一一 ツムハは語義不明。都牟刈とする傳えもある。
一二 後にヤマトタケルの命が野の草を薙いで火難を免れたから、クサナギの劒という。もと叢雲の劒という。三種の神器の一。
一三 島根縣大原郡。
一四 や雲立つは枕詞。多くの雲の立つ意。八重垣は、幾重もの壁や垣の意で宮殿をいう。最後のヲは、間投の助詞。
その櫛名田比賣を隱處に起して一、生みませる神の名は、八島士奴美の神。また大山津見の神の女名は神大市比賣に娶ひて生みませる子、大年の神、次に宇迦の御魂二柱。兄八島士奴美の神、大山津見の神の女、名は木の花知流比賣に娶ひて生みませる子、布波能母遲久奴須奴の神。この神淤迦美の神の女、名は日河比賣に娶ひて生みませる子、深淵の水夜禮花の神。この神天の都度閇知泥の神に娶ひて生みませる子、淤美豆奴の神二。この神布怒豆怒の神の女、名は布帝耳の神に娶ひて生みませる子、天の冬衣の神、この神刺國大の神の女、名は刺國若比賣に娶ひて生みませる子、大國主の神三。またの名は大穴牟遲の神といひ、またの名は葦原色許男の神といひ、またの名は八千矛の神といひ、またの名は宇都志國玉の神といひ、并はせて五つの名あり。
一 隱れた處に事を起して。婚姻して。以下スサノヲの命の子孫の系譜であるが大年の神とウカノミタマの神とは穀物の神で下の五二頁に出る系譜の準備になる。その條參照。
二 出雲國風土記に諸地方の土地を引いて來たという國引の神話を傳える八束水臣津野の命。
三 古代出雲の英雄で國土の神靈の意。代々オホクニヌシでありその一人が英雄であつたのだろう。以下の別名はそれぞれその名による神話がありすべてを同一神と解したものであろう。
かれこの大國主の神の兄弟八十神一ましき。然れどもみな國は大國主の神に避りまつりき。避りし所以は、その八十神おのもおのも稻羽の八上比賣二を婚はむとする心ありて、共に稻羽に行きし時に、大穴牟遲の神に帒を負せ、從者として率て往きき三。ここに氣多の前四に到りし時に、裸なる菟伏せり。ここに八十神その菟に謂ひて云はく、「汝爲まくは、この海鹽を浴み、風の吹くに當りて、高山の尾の上に伏せ」といひき。かれその菟、八十神の教のまにまにして伏しつ。ここにその鹽の乾くまにまに、その身の皮悉に風に吹き拆かえき。かれ痛みて泣き伏せれば、最後に來ましし大穴牟遲の神、その菟を見て、「何とかも汝が泣き伏せる」とのりたまひしに、菟答へて言さく「僕、淤岐の島五にありて、この地に度らまくほりすれども、度らむ因なかりしかば、海の鰐六を欺きて言はく、吾と汝と競ひて族の多き少きを計らむ。かれ汝はその族のありの悉率て來て、この島より氣多の前まで、みな列み伏し度れ。ここに吾その上を蹈みて走りつつ讀み度らむ。ここに吾が族といづれか多きといふことを知らむと、かく言ひしかば、欺かえて列み伏せる時に、吾その上を蹈みて讀み度り來て、今地に下りむとする時に、吾、汝は我に欺かえつと言ひ畢れば、すなはち最端に伏せる鰐、我を捕へて、悉に我が衣服を剥ぎき。これに因りて泣き患へしかば、先だちて行でましし八十神の命もちて誨へたまはく、海鹽を浴みて、風に當りて伏せとのりたまひき。かれ教のごとせしかば、我が身悉に傷はえつ」とまをしき。ここに大穴牟遲の神、その菟に教へてのりたまはく、「今急くこの水門に往きて、水もちて汝が身を洗ひて、すなはちその水門の蒲の黄七を取りて、敷き散して、その上に輾い轉びなば、汝が身本の膚のごと、かならず差えなむ」とのりたまひき。かれ教のごとせしかば、その身本の如くになりき。こは稻羽の素菟といふものなり。今には菟神といふ。かれその菟、大穴牟遲の神に白さく、「この八十神は、かならず八上比賣を得じ。帒を負ひたまへども、汝が命ぞ獲たまはむ」とまをしき。
ここに八上比賣、八十神に答へて言はく、「吾は汝たちの言を聞かじ、大穴牟遲の神に嫁はむ」といひき。
一 多くの神。神話にいう兄弟は、眞實の兄弟ではない。
二 鳥取縣八頭郡八上の地にいた姫。
三 七福神の大黒天を大國主の神と同神とする説のあるのは、大國と大黒と字音が同じなのと、ここに袋を背負つたことがあるからであるが、大黒天はもとインドの神で別である。
四 島根縣氣高郡末恒村の日本海に出た岬角。
五 日本海の隱岐の島。ただし氣多の前の海中にも傳説地がある。
六 フカの類。やがてその知識に、蛇、龜などの要素を取り入れて想像上の動物として發達した。フカの實際を知らない者が多かつたからである。
七 カマの花粉。
かれここに八十神忿りて、大穴牟遲の神を殺さむとあひ議りて、伯伎の國の手間の山本一に至りて云はく、「この山に赤猪あり、かれ我どち追ひ下しなば、汝待ち取れ。もし待ち取らずは、かならず汝を殺さむ」といひて、火もちて猪に似たる大石を燒きて、轉し落しき。ここに追ひ下し取る時に、すなはちその石に燒き著かえて死せたまひき。ここにその御祖の命二哭き患へて、天にまゐ上りて、神産巣日の命に請したまふ時に、𧏛貝比賣と蛤貝比賣とを遣りて、作り活かさしめたまひき。ここに𧏛貝比賣きさげ集めて、蛤貝比賣待ち承けて、母の乳汁と塗りしかば三、麗しき壯夫になりて出であるきき。
一 鳥取縣西伯郡天津村。
二 母の神。
三 赤貝の汁をしぼつて蛤の貝に受け入れて母の乳汁として塗つた。古代の火傷の療法である。
ここに八十神見てまた欺きて、山に率て入りて、大樹を切り伏せ、茹矢一をその木に打ち立て、その中に入らしめて、すなはちその氷目矢を打ち離ちて、拷ち殺しき。ここにまたその御祖、哭きつつ求ぎしかば、すなはち見得て、その木を拆きて、取り出で活して、その子に告りて言はく、「汝ここにあらば、遂に八十神に滅さえなむ」といひて、木の國二の大屋毘古の神三の御所に違へ遣りたまひき。ここに八十神覓ぎ追ひ臻りて、矢刺して乞ふ時に、木の俣より漏き逃れて去にき。御祖の命、子に告りていはく、「須佐の男の命のまします根の堅州國四にまゐ向きてば、かならずその大神議りたまひなむ」とのりたまひき。かれ詔命のまにまにして須佐の男の命の御所に參ゐ到りしかば、その女須勢理毘賣出で見て、目合して五婚ひまして、還り入りてその父に白して言さく、「いと麗しき神來ましつ」とまをしき。ここにその大神出で見て、「こは葦原色許男の命といふぞ」とのりたまひて、すなはち喚び入れて、その蛇の室六に寢しめたまひき。ここにその妻須勢理毘賣の命、蛇のひれ七をその夫に授けて、「その蛇咋はむとせば、このひれを三たび擧りて打ち撥ひたまへ」とまをしたまひき。かれ教のごとせしかば、蛇おのづから靜まりぬ。かれ平く寢て出でましき。また來る日の夜は、呉公と蜂との室に入れたまひしを、また呉公蜂のひれを授けて、先のごと教へしかば、平く出でたまひき。また鳴鏑八を大野の中に射入れて、その矢を採らしめたまひき。かれその野に入りましし時に、すなはち火もちてその野を燒き𢌞らしつ。ここに出づる所を知らざる間に、鼠來ていはく、「内はほらほら、外はすぶすぶ九」と、かく言ひければ、其處を踏みしかば、落ち隱り入りし間に、火は燒け過ぎき。ここにその鼠、その鳴鏑を咋ひて出で來て奉りき。その矢の羽は、その鼠の子どもみな喫ひたりき。
ここにその妻須世理毘賣は、喪つ具一〇を持ちて哭きつつ來まし、その父の大神は、すでに死せぬと思ほして、その野に出でたたしき。ここにその矢を持ちて奉りし時に、家に率て入りて、八田間の大室一一に喚び入れて、その頭の虱を取らしめたまひき。かれその頭を見れば、呉公多にあり。ここにその妻、椋の木の實と赤土とを取りて、その夫に授けつ。かれその木の實を咋ひ破り、赤土を含みて唾き出だしたまへば、その大神、呉公を咋ひ破りて唾き出だすとおもほして、心に愛しとおもほして寢したまひき。ここにその神の髮を握りて、その室の椽ごとに結ひ著けて、五百引の石一二を、その室の戸に取り塞へて、その妻須世理毘賣を負ひて、すなはちその大神の生大刀と生弓矢一三またその天の沼琴一四を取り持ちて、逃げ出でます時に、その天の沼琴樹に拂れて地動鳴みき。かれその寢したまへりし大神、聞き驚かして、その室を引き仆したまひき。然れども椽に結へる髮を解かす間に遠く逃げたまひき。かれここに黄泉比良坂に追ひ至りまして、遙に望けて、大穴牟遲の神を呼ばひてのりたまはく、「その汝が持てる生大刀生弓矢もちて汝が庶兄弟をば、坂の御尾に追ひ伏せ、また河の瀬に追ひ撥ひて、おれ一五大國主の神となり、また宇都志國玉の神一六となりて、その我が女須世理毘賣を嫡妻として、宇迦の山一七の山本に、底津石根に宮柱太しり、高天の原に氷椽高しりて一八居れ。この奴」とのりたまひき。かれその大刀弓を持ちて、その八十神を追ひ避くる時に、坂の御尾ごとに追ひ伏せ、河の瀬ごとに追ひ撥ひて國作り始めたまひき一九。
かれその八上比賣は先の期のごとみとあたはしつ二〇。かれその八上比賣は、率て來ましつれども、その嫡妻須世理毘賣を畏みて、その生める子をば、木の俣に刺し挾みて返りましき。かれその子に名づけて木の俣の神といふ、またの名は御井の神といふ。
一 クサビ形の矢。氷目矢とあるも同じ。
二 紀伊の國(和歌山縣)
三 家屋の神。イザナギ、イザナミの生んだ子の中にあつた。ただしスサノヲの命の子とする説がある。
四 既出、地下の國。
五 互に見合うこと。
六 古代建築にはムロ型とス型とある。ムロは穴を掘つて屋根をかぶせた形のもので濕氣の多い地では蟲のつくことが多い。スは足をつけて高く作る。どちらも原住地での習俗を移したものだろうが、ムロ型は亡びた。
七 蛇を支配する力のあるヒレ。ヒレは、白い織物で女子が頸にかける。これを振ることによつて威力が發生する。次のヒレも同じ。
八 射ると鳴りひびくように作つた矢。
九 入口は狹いが内部は廣い。古墳のあとだろうという。
一〇 葬式の道具。
一一 柱間の數の多い大きな室。
一二 五百人で引くほどの巨石。
一三 生命の感じられる大刀弓矢。
一四 美しいりつぱな琴。
一五 親愛の第二人稱。
一六 現實にある國土の神靈。
一七 島根縣出雲市出雲大社の東北の御埼山。
一八 壯大な宮殿建築をする意の常用句。地底の石に柱をしつかと建て、空中に高く千木をあげて作る。ヒギ、チギともいう。屋上に交叉して突出している材。今では神社建築に見られる。
一九 國土經營をはじめた。
二〇 婚姻した。
この八千矛の神一、高志の國の沼河比賣二を婚はむとして幸でます時に、その沼河比賣の家に到りて三歌よみしたまひしく、
八千矛の 神の命は、
八島國 妻求ぎかねて、
遠遠し 高志の國に
賢し女を ありと聞かして、
麗し女を ありと聞こして、
さ婚ひに あり立たし四
婚ひに あり通はせ、
大刀が緒も いまだ解かずて、
襲をも いまだ解かね五、
孃子の 寢すや六板戸を
押そぶらひ七 吾が立たせれば、
引こづらひ 吾が立たせれば、
青山に 鵼八は鳴きぬ。
さ野つ鳥 雉子は響む。
庭つ鳥 鷄は鳴く。
うれたくも九 鳴くなる鳥か。
この鳥も うち止めこせね。
いしたふや一〇 天馳使一一、
事の 語りごとも こをば一二。 (歌謠番號二)
ここにその沼河日賣、いまだ戸を開かずて内より歌よみしたまひしく、
八千矛の 神の命。
ぬえくさの一三 女にしあれば、
吾が心 浦渚の鳥ぞ一四。
今こそは 吾鳥にあらめ。
後は 汝鳥にあらむを、
命は な死せたまひそ一五。
いしたふや 天馳使、
事の 語りごとも こをば。 (歌謠番號三)
青山に 日が隱らば、
ぬばたまの一六 夜は出でなむ。
朝日の 咲み榮え來て、
𣑥綱の一七 白き腕
沫雪の一八 わかやる胸を
そ叩き 叩きまながり
眞玉手 玉手差し纏き
股長に 寢は宿さむを。
あやに な戀ひきこし一九。
八千矛の 神の命。
事の 語りごとも こをば。 (歌謠番號四)
かれその夜は合はさずて、明日の夜御合したまひき。
またその神の嫡后須勢理毘賣の命、いたく嫉妬み二〇したまひき。かれその日子ぢの神二一侘びて、出雲より倭の國に上りまさむとして、裝束し立たす時に、片御手は御馬の鞍に繋け、片御足はその御鐙に蹈み入れて、歌よみしたまひしく、
ぬばたまの 黒き御衣を
まつぶさに 取り裝ひ二二
奧つ鳥二三 胸見る時、
羽たたぎ二四も これは宜はず、
邊つ浪 そに脱き棄て、
鴗鳥の二五 青き御衣を
まつぶさに 取り裝ひ
奧つ鳥 胸見る時、
羽たたぎも こも宜はず、
邊つ浪 そに脱き棄て、
山縣二六に 蒔きし あたねつき二七
染木が汁に 染衣を
まつぶさに 取り裝ひ
奧つ鳥 胸見る時、
羽たたぎも 此しよろし。
いとこやの二八 妹の命二九、
群鳥の三〇 吾が群れ往なば、
引け鳥三一の 吾が引け往なば、
泣かじとは 汝は言ふとも、
山跡の 一本すすき
項傾し三二 汝が泣かさまく三三
朝雨の さ三四霧に立たむぞ。
若草の三五 嬬の命。
事の 語りごとも こをば。 (歌謠番號五)
ここにその后 大御酒杯を取らして、立ち依り指擧げて、歌よみしたまひしく、
八千矛の 神の命や、
吾が大國主。
汝こそは 男にいませば、
うち𢌞る三六 島三七の埼埼
かき𢌞る 磯の埼おちず三八、
若草の 嬬持たせらめ三九。
吾はもよ 女にしあれば、
汝を除て四〇 男は無し。
汝を除て 夫は無し。
文垣の ふはやが下に四一、
蒸被 柔が下に四二、
𣑥被 さやぐが下に四三、
沫雪の わかやる胸を
𣑥綱の 白き臂
そ叩き 叩きまながり四四
ま玉手 玉手差し纏き
股長に 寢をしなせ。
豐御酒 たてまつらせ四五。 (歌謠番號六)
かく歌ひて、すなはち盞結ひして四六、項懸けりて四七、今に至るまで鎭ります。こを神語四八といふ。
一 多くの武器のある神の義。大國主の神の別名。三八頁參照。
二 北越の沼河の地の姫。ヌナカハは今の糸魚川町附近だという。
三 男子が夜間女子の家を訪れるのが古代の婚姻の風習である。
四 ヨバヒは、呼ぶ義で婚姻を申し入れる意。サは接頭語。アリタタシは、お立ちになつて。動詞の上につけるアリは在りつつの意。タタシは立つの敬語。
五 オスヒをもまだ解かないのに。オスヒは通例の服裝の上に著る衣服。禮裝、旅裝などに使用する。トカネは解かないのにの意。
六 ナスは寢るの敬語。ヤは感動の助詞で調子をつけるために使う。
七 押しゆすぶつて。
八 今トラツグミという鳥。夜間飛んで鳴く。
九 歎かわしいことに。
一〇 イ下フで、下方にいる意だろう。イは接頭語。ヤは感動の助詞。
一一 走り使いをする部族。アマは神聖なの意につける。この種の歌を語り傳える部族。
一二 この事をば。この通りです。
一三 譬喩による枕詞。なえた草のような。
一四 水鳥です。おちつかない譬喩。
一五 おなくなりなさるな。
一六 譬喩による枕詞。カラスオウギの實は黒いから夜に冠する。
一七 同前。楮で作つた綱は白い。
一八 同前。アワのような大きな雪。
一九 たいへんに戀をなさいますな。
二〇 第二の妻に對する憎み。
二一 夫の神。
二二 十分に著用して。
二三 譬喩による枕詞。水鳥のように胸をつき出して見る。
二四 奧つ鳥と言つたので、その縁でいう。身のこなし。
二五 譬喩による枕詞。カワセミ。青い鳥。
二六 山の料地。
二七 アタネは、アカネに同じというが不明。アカネはアカネ科の蔓草。根をついてアカネ色の染料をとる。
二八 イトコは親愛なる人。ヤは接尾語。
二九 女子の敬稱。
三〇 譬喩による枕詞。
三一 同前。空とおく引き去る鳥。
三二 首をかしげて。うなだれて。
三三 お泣きになることは。マクは、ムコトに相當する。
三四 眞福寺本、サに當る字が無い。
三五 譬喩による枕詞。
三六 このミルは、原文「微流」。微は、古代のミの音聲二種のうちの乙類に屬し、甲類の見るのミの音聲と違う。それで𢌞る意であり、ここは𢌞つているの意有坂博士で次の語を修飾する。
三七 シマは水面に臨んだ土地。はなれ島には限らない。
三八 磯の突端のどこでも。
三九 お持ちになつているでしよう。モタセ、持ツの敬語の命令形。ラ、助動詞の未然形。メ、助動詞ムの已然形で、上の係助詞コソを受けて結ぶ。
四〇 汝をおいては。
四一 織物のトバリのふわふわした下で。
四二 あたたかい寢具のやわらかい下で。
四三 楮の衾のざわざわする下で。
四四 叩いて抱きあい。
四五 めしあがれ。奉るの敬語の命令形。
四六 酒盃をとりかわして約束して。
四七 首に手をかけて。
四八 以上の歌の名稱で、以下この種の名稱が多く出る。これは歌曲として傳えられたのでその歌曲としての名である。この八千矛の神の贈答の歌曲は舞を伴なつていたらしい。
かれこの大國主の神、胷形の奧津宮にます神、多紀理毘賣の命一に娶ひて生みませる子、阿遲鉏高日子根の神。次に妹高比賣の命二。またの名は下光る比賣の命三。この阿遲鉏高日子根の神は、今迦毛の大御神四といふ神なり。
大國主の神、また神屋楯比賣の命五に娶ひて生みませる子、事代主の神六。また八島牟遲の神の女鳥取の神七に娶ひて生みませる子、鳥鳴海の神。この神、日名照額田毘道男伊許知邇の神八に娶ひて生みませる子、國忍富の神。この神、葦那陀迦の神またの名は八河江比賣に娶ひて生みませる子、連甕の多氣佐波夜遲奴美の神。この神、天の甕主の神の女前玉比賣に娶ひて生みませる子、甕主日子の神。この神、淤加美の神九の女比那良志毘賣に娶ひて生みませる子、多比理岐志麻美の神。この神、比比羅木のその花麻豆美の神の女活玉前玉比賣の神に娶ひて生みませる子、美呂浪の神。この神、敷山主の神の女青沼馬沼押比賣に娶ひて生みませる子、布忍富鳥鳴海の神。この神、若晝女の神に娶ひて生みませる子、天の日腹大科度美の神。この神、天の狹霧の神の女遠津待根の神に娶ひて生みませる子、遠津山岬多良斯の神。
右の件、八島士奴美の神より下、遠津山岬帶の神より前、十七世の神といふ。
一 既出三〇頁參照。
二 以上二神、五七頁に神話がある。
三 光りかがやく姫の義。美しい姫。
四 奈良縣南葛城郡葛城村にある神社の神。
五 系統不明。
六 五七頁に神話がある。その條參照。
七 鳥耳の神、鳥甘の神とする傳えもある。
八 誤りがあつて、もと何の神の女の何とあつたらしいが不明。
九 水の神。
かれ大國主の神、出雲の御大の御前一にいます時に、波の穗より二、天の羅摩の船三に乘りて、鵝の皮を内剥ぎに剥ぎて四衣服にして、歸り來る神あり。ここにその名を問はせども答へず、また所從の神たちに問はせども、みな知らずと白しき。ここに多邇具久五白して言さく、「こは久延毘古六ぞかならず知りたらむ」と白ししかば、すなはち久延毘古を召して問ひたまふ時に答へて白さく、「こは神産巣日の神の御子少名毘古那の神なり」と白しき。かれここに神産巣日御祖の命に白し上げしかば、「こは實に我が子なり。子の中に、我が手俣より漏きし子なり。かれ汝葦原色許男の命と兄弟となりて、その國作り堅めよ」とのりたまひき。かれそれより、大穴牟遲と少名毘古那と二柱の神相並びて、この國作り堅めたまひき。然ありて後には、その少名毘古那の神は、常世の國七に度りましき。かれその少名毘古那の神を顯し白しし、いはゆる久延毘古は、今には山田の曾富騰八といふものなり。この神は、足はあるかねども、天の下の事を盡に知れる神なり。
一 島根縣八束郡美保の岬。
二 波の高みに乘つて。
三 カガミはガガイモ科の蔓草。ガガイモ。その果實は莢でありわれると白い毛のある果實が飛ぶ。それをもとにした神話。
四 蛾の皮をそつくり剥いで。
五 ひきがえる。谷潛りの義。
六 かがし。こわれた男の義。
七 海外の國。三三頁脚註參照。
八 かがしに同じ。
ここに大國主の神愁へて告りたまはく、「吾獨して、如何かもよくこの國をえ作らむ。いづれの神とともに、吾はよくこの國を相作らむ」とのりたまひき。この時に海を光らして依り來る神あり。その神の言りたまはく、「我が前をよく治めば一、吾よくともどもに相作り成さむ。もし然あらずは、國成り難けむ」とのりたまひき。ここに大國主の神まをしたまはく、「然らば治めまつらむ状はいかに」とまをしたまひしかば答へてのりたまはく、「吾をば倭の青垣の東の山の上に齋きまつれ二」とのりたまひき。こは御諸の山の上にます神三なり。
一 わたしをよく祭つたなら。神が現れていう時のきまつた詞。
二 大和の國の東方の青い山の上に祭れ。
三 奈良縣磯城郡三輪山の大神神社の神。その神社の起原神話。
かれその大年の神一、神活須毘の神の女伊怒比賣に娶ひて生みませる子、大國御魂の神。次に韓の神。次に曾富理の神。次に白日の神。次に聖の神二五神。又香用比賣に娶ひて生みませる子、大香山戸臣の神。次に御年の神二柱。また天知る迦流美豆比賣に娶ひて生みませる子、奧津日子の神。次に奧津比賣の命、またの名は大戸比賣の神。こは諸人のもち拜く竈の神なり。次に大山咋の神。またの名は末の大主の神。この神は近つ淡海の國の日枝の山にます三。また葛野の松の尾にます四、鳴鏑を用ちたまふ神なり。次に庭津日の神。次に阿須波の神。次に波比岐の神五。次に香山戸臣の神。次に羽山戸の神。次に庭の高津日の神。次に大土の神。またの名は土の御祖の神九
神。
上の件、大年の神の子、大國御魂の神より下、大土の神より前、并せて十六神。
羽山戸の神、大氣都比賣の神に娶ひて生みませる子、若山咋の神。次に若年の神。次に妹若沙那賣の神。次に彌豆麻岐の神。次に夏の高津日の神。またの名は夏の賣の神。次に秋毘賣の神。次に久久年の神。次に久久紀若室葛根の神。
上の件、羽山戸の神の子、若山咋の神より下、若室葛根の神より前、并はせて八神。
一 穀物のみのりの神靈。三八頁に出た。この神の系譜は、穀物の耕作の經過の表示。
二 これも穀物のみのりの神。
三 滋賀縣滋賀郡坂本の日枝神社。
四 京都市右京區にある松尾神社。
五 以上二神、家の敷地の神。祈年祭の祝詞に見える。
天照らす大御神の命もちて、「豐葦原の千秋の長五百秋の水穗の國一は、我が御子正勝吾勝勝速日天の忍穗耳の命の知らさむ國」と、言依さしたまひて、天降したまひき。ここに天の忍穗耳の命、天の浮橋に立たして詔りたまひしく、「豐葦原の千秋の長五百秋の水穗の國は、いたくさやぎてありなり二」と告りたまひて、更に還り上りて、天照らす大御神にまをしたまひき。ここに高御産巣日の神三、天照らす大御神の命もちて、天の安の河の河原に八百萬の神を神集へに集へて、思金の神に思はしめて詔りたまひしく、「この葦原の中つ國四は、我が御子の知らさむ國と、言依さしたまへる國なり。かれこの國にちはやぶる荒ぶる國つ神五どもの多なると思ほすは、いづれの神を使はしてか言趣けなむ」とのりたまひき。ここに思金の神また八百萬の神等議りて白さく、「天の菩比の神六、これ遣はすべし」とまをしき。かれ天の菩比の神を遣はししかば、大國主の神に媚びつきて、三年に至るまで復奏まをさざりき。
ここを以ちて高御産巣日の神、天照らす大御神、また諸の神たちに問ひたまはく、「葦原の中つ國に遣はせる天の菩比の神、久しく復奏まをさず、またいづれの神を使はしてば吉けむ」と告りたまひき。ここに思金の神答へて白さく、「天津國玉の神七の子天若日子八を遣はすべし」とまをしき。かれここに天の麻迦古弓九天の波波矢一〇を天若日子に賜ひて遣はしき。ここに天若日子、その國に降り到りて、すなはち大國主の神の女下照る比賣に娶ひ、またその國を獲むと慮ひて、八年に至るまで復奏まをさざりき。
かれここに天照らす大御神、高御産巣日の神、また諸の神たちに問ひたまはく、「天若日子久しく復奏まをさず、またいづれの神を遣はして、天若日子が久しく留まれる所由を問はむ」とのりたまひき。ここに諸の神たちまた思金の神答へて白さく、「雉子名鳴女一一を遣はさむ」とまをす時に、詔りたまはく、「汝行きて天若日子に問はむ状は、汝を葦原の中つ國に遣はせる所以は、その國の荒ぶる神たちを言趣け平せとなり。何ぞ八年になるまで、復奏まをさざると問へ」とのりたまひき。
かれここに鳴女、天より降り到りて、天若日子が門なる湯津桂一二の上に居て、委曲に天つ神の詔命のごと言ひき。ここに天の佐具賣一三、この鳥の言ふことを聞きて、天若日子に語りて、「この鳥はその鳴く音いと惡し。かれみづから射たまへ」といひ進めければ、天若日子、天つ神の賜へる天の波士弓天の加久矢一四をもちて、その雉子を射殺しつ。ここにその矢雉子の胸より通りて逆に射上げて、天の安の河の河原にまします天照らす大御神高木の神一五の御所に逮りき。この高木の神は、高御産巣日の神の別の名なり。かれ高木の神、その矢を取らして見そなはせば、その矢の羽に血著きたり。ここに高木の神告りたまはく、「この矢は天若日子に賜へる矢ぞ」と告りたまひて、諸の神たちに示せて詔りたまはく、「もし天若日子、命を誤へず、惡ぶる神を射つる矢の到れるならば、天若日子にな中りそ。もし邪き心あらば、天若日子この矢にまがれ一六」とのりたまひて、その矢を取らして、その矢の穴より衝き返し下したまひしかば、天若日子が、朝床一七に寢たる高胸坂に中りて死にき。こは還矢の
本なり。またその雉子還らず。かれ今に諺に雉子の頓使一八といふ本これなり。
かれ天若日子が妻下照る比賣の哭く聲、風のむた一九響きて天に到りき。ここに天なる天若日子が父天津國玉の神、またその妻子二〇ども聞きて、降り來て哭き悲みて、其處に喪屋二一を作りて、河鴈を岐佐理持二二とし、鷺を掃持二三とし、翠鳥を御食人二四とし、雀を碓女二五とし、雉子を哭女とし、かく行ひ定めて、日八日夜八夜を遊びたりき二六。
この時阿遲志貴高日子根の神到まして、天若日子が喪を弔ひたまふ時に、天より降り到れる天若日子が父、またその妻みな哭きて、「我が子は死なずてありけり」「我が君は死なずてましけり」といひて、手足に取り懸かりて、哭き悲みき。その過てる所以は、この二柱の神の容姿いと能く似れり。かれここを以ちて過てるなり。ここに阿遲志貴高日子根の神、いたく怒りていはく、「我は愛しき友なれ二七こそ弔ひ來つらくのみ。何ぞは吾を、穢き死人に比ふる」といひて、御佩の十掬の劒を拔きて、その喪屋を切り伏せ、足もちて蹶ゑ離ち遣りき。こは美濃の國の藍見河二八の河上なる喪山といふ山なり。その持ちて切れる大刀の名は大量といふ。またの名は神度の劒といふ。かれ阿治志貴高日子根の神は、忿りて飛び去りたまふ時に、その同母妹高比賣の命、その御名を顯さむと思ほして歌ひたまひしく、
天なるや二九 弟棚機三〇の
うながせる 玉の御統三一、
御統に あな玉はや三二。
み谷 二わたらす三三
阿遲志貴高日子根の神ぞ。 (歌謠番號七)
この歌は夷振三四なり。
一 日本國の美稱。ゆたかな葦原で永久に穀物のよく生育する國の義。
二 たいへん騷いでいる。アリナリは古い語法。ラ行變格動詞の終止形にナリが接續している。
三 この神が加わるのは思想的な意味からである。
四 日本國。葦原の中心である國。
五 暴威を振う亂暴な土地の神。
六 誓約の條に出現した神。出雲氏の祖先神で、出雲氏の方ではよく活躍したという。古事記日本書紀は中臣氏系統の傳來が主になつているのでわるくいう。
七 天の土地の神靈。
八 天から來た若い男。傳説上の人物として後世の物語にも出る。
九 鹿の靈威のついている弓。
一〇 大きな羽をつけた矢。
一一 キギシの鳥名はその鳴聲によつていう。よつて逆にその名を鳴く女の意にいう。
一二 神聖な桂樹。野鳥である雉子などが門口の樹に來て鳴くのを氣にして何かのしるしだろうとする。
一三 實相を探る女。巫女で鳥の鳴聲などを判斷する。
一四 前に出た弓矢。ハジ弓はハジの木の弓。カク矢は鹿兒矢で鹿の靈威のついている矢。
一五 タカミムスビの神の神靈の宿る所についていうのだろう。
一六 曲れで、災難あれの意になる。
一七 胡床とする傳えもある。
一八 ひたすらの使、行つたきりの使。
一九 風と共に。
二〇 天における天若日子の妻子。
二一 葬式は別に家を作つて行う風習である。
二二 食物を入れた器を持つて行く者。
二三 ホウキで穢を拂う意である。
二四 食物を作る人。
二五 臼でつく女。
二六 葬式の時に連日連夜歌舞してけがれを拂う風習である。
二七 友だちだから。
二八 岐阜縣長良川の上流。
二九 ヤは間投の助詞。
三〇 若い機おり姫。機おりは女子の技藝として尊ばれていた。
三一 頸にかけている緒に貫いた玉。
三二 大きな珠。ハヤは感動を示す。
三三 谷を二つ同時に渡る。ミは美稱。
三四 歌曲の名。
ここに天照らす大御神の詔りたまはく、「またいづれの神を遣はして吉けむ」とのりたまひき。ここに思金の神また諸の神たち白さく、「天の安の河の河上の天の石屋にます、名は伊都の尾羽張の神一、これ遣はすべし。もしまたこの神ならずは、その神の子建御雷の男の神、これ遣はすべし。またその天の尾羽張の神は、天の安の河の水を逆に塞きあげて、道を塞き居れば、他し神はえ行かじ。かれ別に天の迦久の神二を遣はして問ふべし」とまをしき。
かれここに天の迦久の神を使はして、天の尾羽張の神に問ひたまふ時に答へ白さく、「恐し、仕へまつらむ。然れどもこの道には、僕が子建御雷の神三を遣はすべし」とまをして、貢進りき。
ここに天の鳥船の神四を建御雷の神に副へて遣はす。ここを以ちてこの二神、出雲の國の伊耶佐の小濱五に降り到りて、十掬の劒を拔きて浪の穗に逆に刺し立てて六、その劒の前に趺み坐て、その大國主の神に問ひたまひしく、「天照らす大御神高木の神の命もちて問の使せり。汝が領ける葦原の中つ國に、我が御子の知らさむ國と言よさしたまへり。かれ汝が心いかに」と問ひたまひき。ここに答へ白さく、「僕はえ白さじ。我が子八重言代主の神七これ白すべし。然れども鳥の遊漁八して、御大の前に往きて、いまだ還り來ず」とまをしき。かれここに天の鳥船の神を遣はして、八重事代主の神を徴し來て、問ひたまふ時に、その父の大神に語りて、「恐し。この國は天つ神の御子に獻りたまへ」といひて、その船を蹈み傾けて、天の逆手を青柴垣にうち成して、隱りたまひき九。
かれここにその大國主の神に問ひたまはく、「今汝が子事代主の神かく白しぬ。また白すべき子ありや」ととひたまひき。ここにまた白さく、「また我が子建御名方の神一〇あり。これを除きては無し」と、かく白したまふほどに、その建御名方の神、千引の石一一を手末に擎げて來て、「誰そ我が國に來て、忍び忍びかく物言ふ。然らば力競べせむ。かれ我まづその御手を取らむ一二」といひき。かれその御手を取らしむれば、すなはち立氷に取り成し一三、また劒刃に取り成しつ。かれここに懼りて退き居り。ここにその建御名方の神の手を取らむと乞ひ歸して取れば、若葦を取るがごと、搤み批ぎて、投げ離ちたまひしかば、すなはち逃げ去にき。かれ追ひ往きて、科野の國の洲羽の海一四に迫め到りて、殺さむとしたまふ時に、建御名方の神白さく、「恐し、我をな殺したまひそ。この地を除きては、他し處に行かじ。また我が父大國主の神の命に違はじ。八重事代主の神の言に違はじ。この葦原の中つ國は、天つ神の御子の命のまにまに獻らむ」とまをしき。
かれ更にまた還り來て、その大國主の神に問ひたまひしく、「汝が子ども事代主の神、建御名方の神二神は、天つ神の御子の命のまにまに違はじと白しぬ。かれ汝が心いかに」と問ひたまひき。ここに答へ白さく、「僕が子ども二神の白せるまにまに、僕も違はじ。この葦原の中つ國は、命のまにまに既に獻りぬ。ただ僕が住所は、天つ神の御子の天つ日繼知らしめさむ、富足る天の御巣の如一五、底つ石根に宮柱太しり、高天の原に氷木高しりて治めたまはば、僕は百足らず一六八十坰手に隱りて侍はむ一七。また僕が子ども百八十神は八重事代主の神を御尾前一八として仕へまつらば、違ふ神はあらじ」と、かく白して出雲の國の多藝志の小濱一九に、天の御舍二〇を造りて、水戸の神の孫櫛八玉の神膳夫二一となりて、天つ御饗二二獻る時に、祷ぎ白して、櫛八玉の神鵜に化りて、海の底に入りて、底の埴を咋ひあがり出でて二三、天の八十平瓮二四を作りて、海布の柄を鎌りて燧臼に作り、海蒪の柄を燧杵に作りて、火を鑽り出でて二五まをさく、「この我が燧れる火は、高天の原には、神産巣日御祖の命の富足る天の新巣の凝烟の八拳垂るまで燒き擧げ二六、地の下は、底つ石根に燒き凝して、𣑥繩の千尋繩うち延へ二七、釣する海人が、口大の尾翼鱸二八さわさわに控きよせ騰げて、拆竹のとををとををに二九、天の眞魚咋三〇獻る」とまをしき。かれ建御雷の神返りまゐ上りて、葦原の中つ國を言向け平しし状をまをしき。
一 イザナギの命の劒の神靈。水神。二四頁參照。
二 鹿の神靈。
三 二四頁參照。
四 二二頁參照。
五 島根縣出雲市附近の海岸。伊那佐の小濱とする傳えもある。日本書紀に五十田狹之小汀。
六 波の高みに劒先を上にして立てて。
七 言語に現れる神靈。大事を決するのに神意を伺い、その神意が言語によつて現れたことをこの神の言として傳える。八重は榮える意に冠する。
八 鳥を狩すること。
九 神意を述べ終つて、海を渡つて來た乘物を傾けて、逆手を打つて青い樹枝の垣に隱れた。逆手を打つは、手を下方に向けて打つことで呪術を行う時にする。青柴垣は神靈の座所。神靈が託宣をしてもとの神座に歸つたのである。
一〇 長野縣諏訪郡諏訪神社上社の祭神。この神に關することは日本書紀に無い。插入説話である。
一一 千人で引くような巨岩。
一二 手のつかみ合いをするのである。
一三 立つている氷のように感ずる。
一四 長野縣の諏訪湖。
一五 天皇がその位におつきになる尊い宮殿のように。神が宮殿造營を請求するのは託宣の定型の一である。
一六 枕詞。
一七 多くある物のすみに隱れておりましよう。
一八 指導者。
一九 島根縣出雲市の海岸。
二〇 宮殿。出雲大社のこと。その鎭座縁起。
二一 料理人。
二二 尊い御食事。
二三 海底の土を清淨としそれを取つて祭具を作る。
二四 多數の平たい皿。
二五 海藻の堅い部分を臼と杵とにして摩擦して火を作つて。
二六 富み榮える新築の家の煤のように長く垂れるほどに火をたき。
二七 楮の長い繩を延ばして。
二八 口の大きく、尾ひれの大きい鱸。
二九 魚のたわむ形容。さき竹のは枕詞。
三〇 尊い御馳走。
ここに天照らす大御神高木の神の命もちて、太子正勝吾勝勝速日天の忍穗耳の命に詔りたまはく、「今葦原の中つ國を平け訖へぬと白す。かれ言よさし賜へるまにまに、降りまして知らしめせ」とのりたまひき。ここにその太子正勝吾勝勝速日天の忍穗耳の命答へ白さく、「僕は、降りなむ裝束せし間に、子生れましつ。名は天邇岐志國邇岐志天つ日高日子番の邇邇藝の命、この子を降すべし」とまをしたまひき。この御子は、高木の神の女萬幡豐秋津師比賣の命に娶ひて生みませる子、天の火明の命、次に日子番の邇邇藝の命二柱にます。ここを以ちて白したまふまにまに、日子番の邇邇藝の命に詔科せて、「この豐葦原の水穗の國は、汝の知らさむ國なりとことよさしたまふ。かれ命のまにまに天降りますべし」とのりたまひき。
ここに日子番の邇邇藝の命、天降りまさむとする時に、天の八衢一に居て、上は高天の原を光らし下は葦原の中つ國を光らす神ここにあり。かれここに天照らす大御神高木の神の命もちて、天の宇受賣の神に詔りたまはく、「汝は手弱女人なれども、い向ふ神と面勝つ神なり二。かれもはら汝往きて問はまくは、吾が御子の天降りまさむとする道に、誰そかくて居ると問へ」とのりたまひき。かれ問ひたまふ時に、答へ白さく、「僕は國つ神、名は猿田毘古の神なり。出で居る所以は、天つ神の御子天降りますと聞きしかば、御前に仕へまつらむとして、まゐ向ひ侍ふ」とまをしき。
ここに天の兒屋の命、布刀玉の命、天の宇受賣の命、伊斯許理度賣の命、玉の祖の命、并せて五伴の緒三を支ち加へて、天降らしめたまひき。
ここにその招ぎし四八尺の勾璁、鏡、また草薙の劒、また常世の思金の神、手力男の神、天の石門別の神五を副へ賜ひて詔りたまはくは、「これの鏡は、もはら我が御魂として、吾が御前を拜くがごと、齋きまつれ。次に思金の神は、前の事を取り持ちて、政まをしたまへ六」とのりたまひき。
この二柱の神は、拆く釧五十鈴の宮七に拜き祭る。次に登由宇氣の神、こは外つ宮の度相にます神八なり。次に天の石戸別の神、またの名は櫛石窻の神といひ、またの名は豐石窻の神九といふ。この神は御門の神なり。次に手力男の神は、佐那の縣にませり。
かれその天の兒屋の命は、中臣の連等が祖。布刀玉の命は、忌部の首等が祖。天の宇受賣の命は猿女の君等が祖。伊斯許理度賣の命は、鏡作の連等が祖。玉の祖の命は、玉の祖の連等が祖なり。
かれここに天の日子番の邇邇藝の命、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、稜威の道別き道別きて一〇、天の浮橋に、浮きじまり、そりたたして一一、竺紫の日向の高千穗の靈じふる峰一二に天降りましき。
かれここに天の忍日の命天つ久米の命二人、天の石靫一三を取り負ひ、頭椎の大刀一四を取り佩き、天の波士弓を取り持ち、天の眞鹿兒矢を手挾み、御前に立ちて仕へまつりき。かれその天の忍日の命、こは大伴の連等が祖。天つ久米の命、こは久米の直等が祖なり。
ここに詔りたまはく、「此地は韓國に向ひ笠紗の御前にま來通りて一五、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。かれ此地ぞいと吉き地」と詔りたまひて、底つ石根に宮柱太しり、高天の原に氷椽高しりてましましき。
一 天上のわかれ道。
二 相對する神に顏で勝つ神だ。
三 五つの部族。トモノヲは人々の團體。この五神以下多くは皆天の岩戸の神話に出て、兩者の密接な關係にあることを示す。
四 岩戸の神話で天照らす大神を招いだ。
五 岩戸の神話における岩屋戸の神格。
六 天皇の御前にあつて政治をせよ。智惠思慮の神靈だからこのようにいう。
七 伊勢神宮の内宮。サククシロは、口のわれた腕輪の意で枕詞。
八 伊勢神宮の外宮。トユウケの神は豐受の神とも書き穀物の神。この神が從つて下つたともなく出たのは突然であるが豐葦原の水穗の神靈だから出したのである。外宮の鎭座は、雄略天皇の時代の事と傳える。
九 この二つの別名は、御門祭の祝詞に見える名で、門戸の神靈として尊んでいる。
一〇 天から御座を離れ雲をおし分け威勢よく道を別けて。
一一 天の階段から下に浮渚があつてそれにお立ちになつたと解されている。古語を語り傳えたもの。
一二 鹿兒島縣の霧島山の一峰、宮崎縣西臼杵郡など傳説地がある。思想的には大嘗祭の稻穗の上に下つたことである。
一三 堅固な靫。矢を入れて背負う。
一四 柄の頭がコブになつている大刀。實は石器だろう。
一五 外國に向つて笠紗の御前へ筋が通つて。カササの御前は、鹿兒島縣川邊郡の岬。高千穗の嶽の所在をその方面にありとする傳えから來たのであろう。
かれここに天の宇受賣の命に詔りたまはく、「この御前に立ちて仕へまつれる猿田毘古の大神は、もはら顯し申せる汝送りまつれ。またその神の御名は、汝負ひて仕へまつれ」とのりたまひき。ここを以ちて猿女の君等、その猿田毘古の男神の名を負ひて、女を猿女の君一と呼ぶ事これなり。かれその猿田毘古の神、阿耶訶二に坐しし時に、漁して、比良夫貝三にその手を咋ひ合はさえて海水に溺れたまひき。かれその底に沈み居たまふ時の名を、底どく御魂四といひ、その海水のつぶたつ時の名を、つぶ立つ御魂といひ、その沫咲く時の名を、あわ咲く御魂といふ。
ここに猿田毘古の神を送りて、還り到りて、すなはち悉に鰭の廣物鰭の狹物五を追ひ聚めて問ひて曰はく、「汝は天つ神の御子に仕へまつらむや」と問ふ時に、諸の魚どもみな「仕へまつらむ」とまをす中に、海鼠白さず。ここに天の宇受賣の命、海鼠に謂ひて、「この口や答へせぬ口」といひて、紐小刀以ちてその口を拆きき。かれ今に海鼠の口拆けたり。ここを以ちて、御世、島の速贄六獻る時に、猿女の君等に給ふなり。
一 猿女の君は朝廷にあつて神事その他に奉仕した。
二 三重縣壹志郡。
三 不明。月日貝だともいう。
四 海底につく神靈。
五 大小の魚。
六 志摩の國から奉る海産のたてまつり物。
ここに天つ日高日子番の邇邇藝の命、笠紗の御前に、麗き美人に遇ひたまひき。ここに、「誰が女ぞ」と問ひたまへば、答へ白さく、「大山津見の神の女、名は神阿多都比賣一。またの名は木の花の佐久夜毘賣とまをす」とまをしたまひき。また「汝が兄弟ありや」と問ひたまへば答へ白さく、「我が姉石長比賣あり」とまをしたまひき。ここに詔りたまはく、「吾、汝に目合せむと思ふはいかに」とのりたまへば答へ白さく、「僕はえ白さじ。僕が父大山津見の神ぞ白さむ」とまをしたまひき。かれその父大山津見の神に乞ひに遣はしし時に、いたく歡喜びて、その姉石長比賣を副へて、百取の机代の物二を持たしめて奉り出しき。かれここにその姉は、いと醜きに因りて、見畏みて、返し送りたまひて、ただその弟木の花の佐久夜賣毘を留めて、一宿婚しつ。ここに大山津見の神、石長比賣を返したまへるに因りて、いたく恥ぢて、白し送りて言さく、「我が女二人竝べたてまつれる由は、石長比賣を使はしては、天つ神の御子の命は、雪零り風吹くとも、恆に石の如く、常磐に堅磐に動きなくましまさむ。また木の花の佐久夜毘賣を使はしては、木の花の榮ゆるがごと榮えまさむと、誓ひて貢進りき。ここに今石長比賣を返さしめて、木の花の佐久夜毘賣をひとり留めたまひつれば、天つ神の御子の御壽は、木の花のあまひのみましまさむとす」とまをしき。かれここを以ちて今に至るまで、天皇たちの御命長くまさざるなり。
かれ後に木の花の佐久夜毘賣、まゐ出て白さく、「妾は妊みて、今産む時になりぬ。こは天つ神の御子、私に産みまつるべきにあらず。かれ請す」とまをしたまひき。ここに詔りたまはく、「佐久夜毘賣、一宿にや妊める。こは我が子にあらじ。かならず國つ神の子にあらむ」とのりたまひき。ここに答へ白さく、「吾が妊める子、もし國つ神の子ならば、産む時幸くあらじ。もし天つ神の御子にまさば、幸くあらむ」とまをして、すなはち戸無し八尋殿三を作りて、その殿内に入りて、土もちて塗り塞ぎて、産む時にあたりて、その殿に火を著けて四産みたまひき。かれその火の盛りに燃ゆる時に、生れませる子の名は、火照の命こは隼人阿多の
君の祖なり。次に生れませる子の名は火須勢理の命五、次に生れませる子の御名は火遠理の命六、またの名は天つ日高日子穗穗出見の命三柱。
一 アタは地名。鹿兒島縣日置郡。
二 多數の机上に乘せる物。
三 戸の無い大きな家屋。分娩のために特に家を作りその中に入つて周圍を塗り塞ぐ。
四 出産後にその産屋を燒く風習のあるのを、このように表現している。
五 火の衰える意の名。
六 火の靜まる意の名。
かれ火照の命は、海佐知毘古一として、鰭の廣物鰭の狹物を取り、火遠理の命は山佐知毘古として、毛の麤物毛の柔物二を取りたまひき。ここに火遠理の命、その兄火照の命に、「おのもおのも幸易へて用ゐむ」と謂ひて、三度乞はししかども、許さざりき。然れども遂にわづかにえ易へたまひき。ここに火遠理の命、海幸三をもちて魚釣らすに、ふつに一つの魚だに得ず、またその鉤をも海に失ひたまひき。ここにその兄火照の命その鉤を乞ひて、「山幸もおのが幸幸。海幸もおのが幸幸。今はおのもおのも幸返さむ」といふ時に、その弟火遠理の命答へて曰はく、「汝の鉤は、魚釣りしに一つの魚だに得ずて、遂に海に失ひつ」とまをしたまへども、その兄強に乞ひ徴りき。かれその弟、御佩しの十拳の劒を破りて、五百鉤を作りて、償ひたまへども、取らず、また一千鉤を作りて、償ひたまへども、受けずして、「なほその本の鉤を得む」といひき。
ここにその弟、泣き患へて海邊にいましし時に、鹽椎の神四來て問ひて曰はく、「何にぞ虚空津日高五の泣き患へたまふ所由は」と問へば、答へたまはく、「我、兄と鉤を易へて、その鉤を失ひつ。ここにその鉤を乞へば、多の鉤を償へども、受けずて、なほその本の鉤を得むといふ。かれ泣き患ふ」とのりたまひき。ここに鹽椎の神、「我、汝が命のために、善き議せむ」といひて、すなはち間なし勝間の小船六を造りて、その船に載せまつりて、教へてまをさく、「我、この船を押し流さば、やや暫いでまさば、御路あらむ。すなはちその道に乘りていでましなば、魚鱗のごと造れる宮室七、それ綿津見の神の宮なり。その神の御門に到りたまはば、傍の井の上に湯津香木八あらむ。かれその木の上にましまさば、その海の神の女、見て議らむものぞ」と教へまつりき。
かれ教へしまにまに、少し行でましけるに、つぶさにその言の如くなりき。すなはちその香木に登りてまします。ここに海の神の女豐玉毘賣の從婢、玉盌九を持ちて、水酌まむとする時に、井に光あり。仰ぎ見れば、麗しき壯夫あり。いと奇しとおもひき。ここに火遠理の命、その婢を見て、「水をたまへ」と乞ひたまふ。婢すなはち水を酌みて、玉盌に入れて貢進る。ここに水をば飮まさずして、御頸の璵を解かして、口に含みてその玉盌に唾き入れたまひき。ここにその璵、器に著きて一〇、婢璵をえ離たず、かれ著きながらにして豐玉毘賣の命に進りき。ここにその璵を見て、婢に問ひて曰く、「もし門の外に人ありや」と問ひしかば、答へて曰はく、「我が井の上の香木の上に人います。いと麗しき壯夫なり。我が王にも益りていと貴し。かれその人水を乞はしつ。かれ水を奉りしかば、水を飮まさずて、この璵を唾き入れつ。これえ離たざれば、入れしまにま將ち來て獻る」とまをしき。ここに豐玉毘賣の命、奇しと思ほして、出で見て見感でて、目合して、その父に、白して曰はく、「吾が門に麗しき人あり」とまをしたまひき。ここに海の神みづから出で見て、「この人は、天つ日高の御子、虚空つ日高なり」といひて、すなはち内に率て入れまつりて、海驢の皮の疊八重一一を敷き、また絁疊八重一二をその上に敷きて、その上に坐せまつりて、百取の机代の物を具へて、御饗して、その女豐玉毘賣に婚はせまつりき。かれ三年一三に至るまで、その國に住みたまひき。
ここに火遠理の命、その初めの事を思ほして、大きなる歎一つしたまひき。かれ豐玉毘賣の命、その歎を聞かして、その父に白して言はく、「三年住みたまへども、恆は歎かすことも無かりしに、今夜大きなる歎一つしたまひつるは、けだしいかなる由かあらむ」とまをしき。かれ、その父の大神、その聟の夫に問ひて曰はく、「今旦我が女の語るを聞けば、三年坐しませども、恆は歎かすことも無かりしに、今夜大きなる歎したまひつとまをす。けだし故ありや。また此間に來ませる由はいかに」と問ひまつりき。ここにその大神に語りて、つぶさにその兄の失せにし鉤を徴れる状の如語りたまひき。ここを以ちて海の神、悉に鰭の廣物鰭の狹物を召び集へて問ひて曰はく、「もしこの鉤を取れる魚ありや」と問ひき。かれ諸の魚ども白さく、「このごろ赤海鯽魚ぞ、喉に鯁一四ありて、物え食はずと愁へ言へる。かれかならずこれが取りつらむ」とまをしき。ここに赤海鯽魚の喉を探りしかば、鉤あり。すなはち取り出でて清洗ぎて、火遠理の命に奉る時に、その綿津見の大神誨へて曰さく、「この鉤をその兄に給ふ時に、のりたまはむ状は、この鉤は、淤煩鉤、須須鉤、貧鉤、宇流鉤といひて一五、後手一六に賜へ。然してその兄高田を作らば、汝が命は下田を營りたまへ。その兄下田を作らば、汝が命は高田を營りたまへ一七。然したまはば、吾水を掌れば、三年の間にかならずその兄貧しくなりなむ。もしそれ然したまふ事を恨みて攻め戰はば、鹽盈つ珠一八を出して溺らし、もしそれ愁へまをさば、鹽乾る珠を出して活し、かく惚苦めたまへ」とまをして、鹽盈つ珠鹽乾る珠并せて兩箇を授けまつりて、すなはち悉に鰐どもをよび集へて、問ひて曰はく、「今天つ日高の御子虚空つ日高、上つ國一九に幸でまさむとす。誰は幾日に送りまつりて、覆奏さむ」と問ひき。かれおのもおのもおのが身の尋長のまにまに、日を限りて白す中に、一尋鰐二〇白さく、「僕は一日に送りまつりて、やがて還り來なむ」とまをしき。かれここにその一尋鰐に告りたまはく、「然らば汝送りまつれ。もし海中を渡る時に、な惶畏せまつりそ」とのりて、すなはちその鰐の頸に載せまつりて、送り出しまつりき。かれ期りしがごと一日の内に送りまつりき。その鰐返りなむとする時に、佩かせる紐小刀二一を解かして、その頸に著けて返したまひき。かれその一尋鰐は、今に佐比持の神二二といふ。
ここを以ちてつぶさに海の神の教へし言の如、その鉤を與へたまひき。かれそれより後、いよよ貧しくなりて、更に荒き心を起して迫め來。攻めむとする時は、鹽盈つ珠を出して溺らし、それ愁へまをせば、鹽乾る珠を出して救ひ、かく惚苦めたまひし時に、稽首白さく、「僕は今よ以後、汝が命の晝夜の守護人となりて仕へまつらむ」とまをしき。かれ今に至るまで、その溺れし時の種種の態、絶えず仕へまつるなり二三。
一 海の幸のある男。サチは威力で、道具に宿つておりサチを有する者が獲物が多いのである。
二 獸類と鳥類。
三 海のサチの宿つている釣針。
四 海水の神靈。諸國の海岸にうち寄せるので物知りだとする。
五 日子穗穗出見の命。
六 すきまの無い籠の船。實際的には竹の類で編んで樹脂を塗つて作つた船であり、思想的には神の乘物である。
七 魚のうろこのように作つた宮殿。瓦ぶきの家で大陸の建築が想像されている。
八 井の傍の樹木に神が降るのは、信仰にもとづくきまつた型である。
九 美しい椀。
一〇 水を汲んだ椀に樹上にいた神の靈がついたのである。
一一 海獸アシカの皮の敷物を八重にかさねて。
一二 織つたままの絹の敷物八重をかさねて。
一三 この種の説話に出るきまつた年數。浦島も龍宮に三年いたという。
一四 のどにささつた骨があつて。
一五 鉤をわるく言つてサチを離れさせるのである。ぼんやり鉤、すさみ鉤、貧乏鉤、愁苦の鉤。
一六 手をうしろにしてあげなさい。呪術の意味である。
一七 毎年土地を選定して耕作するので、水の多い年には高田を作るに利あり、水の無い年はその反對である。
一八 海は潮が滿ち干するので、海の神は水のさしひきをつかさどるとし、それはその力を有する玉を持つているからと考えた。動詞乾るは古くは上二段活で、連體形はフル。
一九 人間の世界。上方にあると考えた。
二〇 人が左右に手をひろげた長さのワニ。ワニは三九頁參照。
二一 紐のついている小刀。
二二 鋤を持つている神。サヒは鋤であり武器でもある。
二三 隼人が亂舞をして宮廷に仕えることの起原説明。隼人舞はその種族の獨自の舞であるのを溺れるさまのまねとして説明した。
ここに海の神の女豐玉毘賣の命、みづからまゐ出て白さく、「妾すでに妊めるを、今産む時になりぬ。こを念ふに、天つ神の御子、海原に生みまつるべきにあらず、かれまゐ出きつ」とまをしき。ここにすなはちその海邊の波限に、鵜の羽を葺草にして、産殿を造りき。ここにその産殿、いまだ葺き合へねば、御腹の急きに忍へざりければ、産殿に入りましき。ここに産みます時にあたりて、その日子一ぢに白して言はく、「およそ他し國の人は、産む時になりては、本つ國の形になりて生むなり。かれ、妾も今本の身になりて産まむとす。願はくは妾をな見たまひそ」とまをしたまひき二。ここにその言を奇しと思ほして、そのまさに産みますを伺見たまへば、八尋鰐になりて、匍匐ひもこよひき三。すなはち見驚き畏みて、遁げ退きたまひき。ここに豐玉毘賣の命、その伺見たまひし事を知りて、うら恥しとおもほして、その御子を生み置きて白さく、「妾、恆は海道を通して、通はむと思ひき。然れども吾が形を伺見たまひしが、いと怍しきこと」とまをして、すなはち海坂を塞きて、返り入りたまひき。ここを以ちてその産みませる御子に名づけて、天つ日高日子波限建鵜葺草葺合へずの命とまをす。然れども後には、その伺見たまひし御心を恨みつつも、戀ふる心にえ忍へずして、その御子を養しまつる縁に因りて、その弟玉依毘賣に附けて、歌獻りたまひき。その歌、
赤玉は 緒さへ光れど、
白玉の 君が裝し四
貴くありけり。 (歌謠番號八)
かれその日子答へ歌よみしたまひしく、
奧つ鳥五 鴨著く島に
我が率寢し 妹は忘れじ。
世の盡に。 (歌謠番號九)
かれ日子穗穗出見の命は、高千穗の宮に五百八拾歳ましましき。御陵はその高千穗の山の西にあり。
一 ヒコホホデミの命。
二 この種の説話の要素の一である女子の命ずる禁止であり、男子がその禁を破ることによつて別離になる。イザナミの命の黄泉訪問の神話にもこれがあつた。
三 大きなワニになつて這いまわつた。
四 白玉のような君の容儀。下のシは強意の助詞。
五 説明による枕詞。
この天つ日高日子波限建鵜葺草葺合へずの命、その姨玉依毘賣の命に娶ひて、生みませる御子の名は、五瀬の命、次に稻氷の命、次に御毛沼の命、次に若御毛沼の命一、またの名は豐御毛沼の命、またの名は神倭伊波禮毘古の命二四柱。かれ御毛沼の命は、波の穗を跳みて、常世の國に渡りまし、稻氷の命は、妣の國三として、海原に入りましき。
一 神武天皇。神武天皇の稱は漢風の諡號といい奈良時代に奉つたもの。
二 大和の國の磐余の地においでになつた御方の意。
三 亡き母豐玉毘賣の國。
古事記 上つ卷
神倭伊波禮毘古の命、その同母兄五瀬の命と二柱、高千穗の宮にましまして議りたまはく、「いづれの地にまさば、天の下の政を平けく聞しめさむ。なほ東のかたに、行かむ」とのりたまひて、すなはち日向一より發たして、筑紫に幸でましき。かれ豐國の宇沙二に到りましし時に、その土人名は宇沙都比古、宇沙都比賣二人、足一騰の宮三を作りて、大御饗獻りき。其地より遷りまして、竺紫の岡田の宮四に一年ましましき。またその國より上り幸でまして、阿岐の國の多祁理の宮五に七年ましましき。またその國より遷り上り幸でまして、吉備の高島の宮六に八年ましましき。
一 九州の東方。
二 大分縣宇佐。
三 柱が一本浮き上つた宮殿。
四 福岡縣遠賀郡遠賀川の河口の地。
五 廣島縣安藝郡。
六 岡山縣兒島郡。
かれその國より上り幸でます時に、龜の甲に乘りて、釣しつつ打ち羽振り來る人一、速吸の門二に遇ひき。ここに喚びよせて、問ひたまはく、「汝は誰ぞ」と問はしければ、答へて曰はく、「僕は國つ神なり」とまをしき。また問ひたまはく「汝は海つ道を知れりや」と問はしければ、答へて曰はく、「能く知れり」とまをしき。また問ひたまはく「從に仕へまつらむや」と問はしければ、答へて曰はく「仕へまつらむ」とまをしき。かれここに槁を指し度して、その御船に引き入れて、槁根津日子といふ名を賜ひき。こは倭の國の造
等が祖なり。
一 勢いよくくる人。
二 潮のさしひきの早い海峽。豐後水道。岡山縣を出て難波に向うのに豐後水道を通つたとするは地理上不合理であるが、元來この一節は別に遊離していたものが插入されたので、このような形になつた。日本書紀では日向から出て直に速吸の門にかかつている。
かれその國より上り行でます時に、浪速の渡一を經て、青雲二の白肩の津三に泊てたまひき。この時に、登美の那賀須泥毘古四、軍を興して、待ち向へて戰ふ。ここに、御船に入れたる楯を取りて、下り立ちたまひき。かれ其地に號けて楯津といふ。今には日下の蓼津といふ。ここに登美毘古と戰ひたまひし時に、五瀬の命、御手に登美毘古が痛矢串を負はしき。かれここに詔りたまはく、「吾は日の神の御子として、日に向ひて戰ふことふさはず。かれ賤奴が痛手を負ひつ。今よは行き𢌞りて、日を背に負ひて撃たむ」と、期りたまひて、南の方より𢌞り幸でます時に、血沼の海五に到りて、その御手の血を洗ひたまひき。かれ血沼の海といふ。其地より𢌞り幸でまして、紀の國の男の水門六に到りまして、詔りたまはく、「賤奴が手を負ひてや、命すぎなむ」と男健して崩りましき。かれその水門に名づけて男の水門といふ。陵は紀の國の竈山七にあり。
一 難波の渡。當時は大阪灣が更に深く灣入し、大和の國の水を集めた大和川は、河内の國に入つて北流して淀川に合流していた。それを溯上して河内に入つたのである。
二 枕詞。
三 大阪府中河内郡、生駒山の西麓。
四 生駒山の東登美にいた豪族の主長。
五 大阪府泉南郡の海岸。
六 和歌山縣、紀の川の河口。
七 和歌山縣海草郡。
かれ神倭伊波禮毘古の命、其地より𢌞り幸でまして、熊野の村一に到りましし時に、大きなる熊二、髣髴に出で入りてすなはち失せぬ。ここに神倭伊波禮毘古の命倐忽にをえまし三、また御軍も皆をえて伏しき。この時に熊野の高倉下、一横刀をもちて、天つ神の御子四の伏せる地に到りて獻る時に、天つ神の御子、すなはち寤め起ちて、「長寢しつるかも」と詔りたまひき。かれその横刀を受け取りたまふ時に、その熊野の山の荒ぶる神おのづからみな切り仆さえき。ここにそのをえ伏せる御軍悉に寤め起ちき。かれ天つ神の御子、その横刀を獲つるゆゑを問ひたまひしかば、高倉下答へまをさく、「おのが夢に、天照らす大神高木の神二柱の神の命もちて、建御雷の神を召びて詔りたまはく、葦原の中つ國はいたく騷ぎてありなり。我が御子たち不平みますらし五。その葦原の中つ國は、もはら汝が言向けつる國なり。かれ汝建御雷の神降らさね」とのりたまひき。ここに答へまをさく、「僕降らずとも、もはらその國を平けし横刀あれば、この刀を降さむ。この刀の名は佐士布都の神といふ。またの名は甕布都の神と
いふ、またの名は布都の御魂。この刀は石上の神宮に坐す。この刀を降さむ状は、高倉下が倉の頂を穿ちて、そこより墮し入れむとまをしたまひき六。かれ朝目吉く汝取り持ちて天つ神の御子に獻れと、のりたまひき。かれ夢の教のまにま、旦におのが倉を見しかば、信に横刀ありき。かれこの横刀をもちて獻らくのみ」とまをしき。
ここにまた高木の大神の命もちて、覺し白したまはく、「天つ神の御子、こよ奧つ方にな入りたまひそ。荒ぶる神いと多にあり。今天より八咫烏七を遣はさむ。かれその八咫烏導きなむ。その立たむ後より幸でまさね」と、のりたまひき。かれその御教のまにまに、その八咫烏の後より幸でまししかば、吉野河の河尻八に到りましき。時に筌九をうちて魚取る人あり。ここに天つ神の御子「汝は誰そ」と問はしければ、答へ白さく、「僕は國つ神名は贄持の子」とまをしき。こは阿陀の鵜
養の祖なり。其地より幸でまししかば、尾ある人一〇井より出で來。その井光れり。「汝は誰そ」と問はしければ、答へ白さく、「僕は國つ神名は井氷鹿」とまをしき。こは吉野の首
等が祖なり。すなはちその山に入りまししかば、また尾ある人に遇へり。この人巖を押し分けて出で來。「汝は誰そ」と問はしければ、答へ白さく、「僕は國つ神名は石押分の子、今天つ神の御子幸でますと聞きつ。かれ、まゐ向へまつらくのみ」とまをしき。こは吉野の國巣
一一が祖なり。其地より蹈み穿ち越えて、宇陀一二に幸でましき。かれ宇陀の穿といふ。
一 和歌山縣南方の海岸一帶。
二 荒ぶる神が熊になつて現れたのでその毒氣を受けたとする。
三 病み疲れたまい。
四 神武天皇のこと。天つ神の御子として降下したとする。
五 惱んで居られるらしい。
六 奈良縣山邊郡の石上神宮。フツは劒の威力。物を斬る音という。
七 大きな烏。頭八つの烏とするは誤。ヤタは寸法。ヤアタの鏡のヤアタに同じ。この烏は鴨の建角身の命という豪傑だという。
八 大和の國内での吉野川の下流。
九 竹で編んで河に漬けて魚を取る漁法。
一〇 後部に垂れたもののある服裝の人。
一一 一三三頁に説話がある。
一二 奈良縣宇陀郡。大和の國の東部。
かれここに宇陀に、兄宇迦斯弟宇迦斯一と二人あり。かれまづ八咫烏を遣はして、二人に問はしめたまはく、「今、天つ神の御子幸でませり。汝たち仕へまつらむや」と問ひたまひき。ここに兄宇迦斯、鳴鏑もちて、その使を待ち射返しき。かれその鳴鏑の落ちし地を、訶夫羅前二といふ。「待ち撃たむ」といひて、軍を聚めしかども、軍をえ聚めざりしかば、仕へまつらむと欺陽りて、大殿を作りて、その殿内に押機を作りて待つ時に、弟宇迦斯まづまゐ向へて、拜みてまをさく、「僕が兄兄宇迦斯、天つ神の御子の使を射返し、待ち攻めむとして軍を聚むれども、え聚めざれば、殿を作り、その内に押機を張りて、待ち取らむとす、かれまゐ向へて顯はしまをす」とまをしき。ここに大伴の連等が祖道の臣の命、久米の直等が祖大久米の命二人、兄宇迦斯を召びて、罵りていはく、「儞三が作り仕へまつれる大殿内には、おれ四まづ入りて、その仕へまつらむとする状を明し白せ」といひて、横刀の手上握り五、矛ゆけ矢刺して六、追ひ入るる時に、すなはちおのが作れる押機に打たれて死にき。ここに控き出して斬り散りき。かれ其地を宇陀の血原七といふ。然してその弟宇迦斯が獻れる大饗をば、悉にその御軍に賜ひき。この時、御歌よみしたまひしく、
宇陀の 高城八に 鴫羂張る。
我が待つや九 鴫は障らず、
いすくはし一〇 鷹ら障る一一。
前妻一二が 菜乞はさば、
立柧棱一三の 實の無けくを
こきしひゑね一四。
後妻一五が 菜乞はさば、
柃實一六の大けくを
こきだひゑね一七 (歌謠番號一〇)
ええ、しやこしや。こはいのごふぞ一八。ああ、しやこしや。こは嘲咲ふぞ。かれその弟宇迦斯、こは宇陀の水取等が祖なり。
其地より幸でまして、忍坂一九の大室に到りたまふ時に、尾ある土雲二〇八十建、その室にありて待ちいなる二一。かれここに天つ神の御子の命もちて、御饗を八十建に賜ひき。ここに八十建に宛てて、八十膳夫を設けて、人ごとに刀佩けてその膳夫どもに、誨へたまはく、「歌を聞かば、一時に斬れ」とのりたまひき。かれその土雲を打たむとすることを明して歌よみしたまひしく、
忍坂の 大室屋に
人多に 來入り居り。
人多に 入り居りとも、
みつみつし二二 久米の子が、
頭椎い二三 石椎いもち
撃ちてしやまむ。
みつみつし 久米の子らが、
頭椎い 石椎いもち
今撃たば善らし。 (歌謠番號一一)
かく歌ひて、刀を拔きて、一時に打ち殺しつ。
然ありて後に、登美毘古を撃ちたまはむとする時、歌よみしたまひしく、
みつみつし 久米の子らが
粟生には 臭韮一莖二四、
そねが莖 そね芽繋ぎ二五て
撃ちてしやまむ。 (歌謠番號一二)
また、歌よみしたまひしく、
みつみつし 久米の子らが
垣下に 植ゑし山椒二六、
口ひひく二七 吾は忘れじ。
撃ちてしやまむ。 (歌謠番號一三)
また、歌よみしたまひしく、
神風の二八 伊勢の海の
大石に はひもとほろふ二九
細螺三〇の、いはひもとほり
撃ちてしやまむ。 (歌謠番號一四)
また兄師木弟師木三一を撃ちたまふ時に、御軍暫疲れたり。ここに歌よみしたまひしく、
楯並めて三二 伊那佐の山三三の
樹の間よも い行きまもらひ三四
戰へば 吾はや飢ぬ三五。
島つ鳥三六 鵜養が徒三七、
今助けに來ね。 (歌謠番號一五)
かれここに邇藝速日の命三八まゐ赴きて、天つ神の御子にまをさく、「天つ神の御子天降りましぬと聞きしかば、追ひてまゐ降り來つ」とまをして、天つ瑞三九を獻りて仕へまつりき。かれ邇藝速日の命、登美毘古が妹登美夜毘賣に娶ひて生める子、宇摩志麻遲の命。こは物部の連、穗積の
臣、婇臣が祖なり。かれかくのごと、荒ぶる神どもを言向けやはし、伏はぬ人どもを退け撥ひて、畝火の白檮原の宮四〇にましまして、天の下治らしめしき。
一 ウカチの地に居る人の義。兄弟とするのは首領と副首領の意。
二 所在不明。
三 二人稱の賤稱。
四 同前。既出。
五 大刀のつかをしかと握つて。
六 矛を向け矢をつがえて。
七 所在不明。
八 高い築造物。
九 ヤは間投の助詞。
一〇 枕詞。語義不明。
一一 朝鮮語に鷹をクチという。鯨とする説もある。この句まで譬喩。
一二 コナミは前に娶つた妻。古い妻である。
一三 ソバノ木、カナメモチ。
一四 語義不明の句。原文、「許紀志斐惠泥。」紀はキの乙類であるから、コキは動詞扱くとすれば上二段活になる。
一五 妻のある上に更に娶つた妻。
一六 ヒサカキ。
一七 語義不明の句。原文「許紀陀斐惠泥。」紀はキの乙類であるから、コキダは、許多の意のコキダクと同語では無いらしい。
一八 いばるのだ。靈異記に犬が威壓するのにイノゴフと訓している。イゴノフゾとする説は誤り。
一九 奈良縣磯城郡、泊瀬溪谷の入口。
二〇 穴居していた先住民。
二一 待ちうなる。
二二 敍述による枕詞。威勢のよい。
二三 既出の頭椎の大刀に同じ。イは語勢の助詞。イシツツイも同じ。石器である。
二四 くさいニラが一本。
二五 その根もとと芽とを一つにして。
二六 シヨウガは藥用植物で外來種であるからここはサンショウだろうという。
二七 口がひりひりする。
二八 枕詞。國つ神が大風を起して退去したからいうと傳える。
二九 這いまわつている。
三〇 ラセン形の貝殼の貝。肉は食料にする。
三一 磯城の地に居た豪族。
三二 枕詞。楯を並べて射るとイの音に續く。
三三 奈良縣宇陀郡伊那佐村。
三四 樹の間から行き見守つて。
三五 わたしは飢え疲れた。
三六 枕詞。
三七 前出の阿多の鵜養たち。鵜に助けに來いというのは魚を持つて來いの意である。
三八 系統不明。舊事本紀にはオシホミミの命の子とする。
三九 天から持つて來た寶物。
四〇 奈良縣畝傍山の東南の地。
かれ日向にましましし時に、阿多の小椅の君が妹、名は阿比良比賣に娶ひて、生みませる子、多藝志美美の命、次に岐須美美の命、二柱ませり。然れども更に、大后とせむ美人を求ぎたまふ時に、大久米の命まをさく、「ここに媛女あり。こを神の御子なりといふ。それ神の御子といふ所以は、三島の湟咋が女、名は勢夜陀多良比賣、それ容姿麗かりければ、美和の大物主の神一、見感でて、その美人の大便まる時に、丹塗矢二になりて、その大便まる溝より、流れ下りて、その美人の富登を突きき。ここにその美人驚きて、立ち走りいすすぎき三。すなはちその矢を持ち來て、床の邊に置きしかば、忽に麗しき壯夫に成りぬ。すなはちその美人に娶ひて生める子、名は富登多多良伊須須岐比賣の命、またの名は比賣多多良伊須氣余理比賣といふ。こはその富登といふ事を惡み
て、後に改へつる名なり。かれここを以ちて神の御子とはいふ」とまをしき。
ここに七媛女、高佐士野四に遊べるに、伊須氣余理比賣その中にありき。ここに大久米の命、その伊須氣余理比賣を見て、歌もちて天皇にまをさく、
倭の 高佐士野を
七行く 媛女ども、
誰をしまかむ五。 (歌謠番號一六)
ここに伊須氣余理比賣は、その媛女どもの前に立てり。すなはち天皇、その媛女どもを見て、御心に伊須氣余理比賣の最前に立てることを知らして、歌もちて答へたまひしく、
かつがつも六 いや先立てる 愛をしまかむ。 (歌謠番號一七)
ここに大久米の命、天皇の命を、その伊須氣余理比賣に詔る時に、その大久米の命の黥ける利目七を見て、奇しと思ひて、歌ひたまひしく、
天地 ちどりましとと八 など黥ける利目。 (歌謠番號一八)
ここに大久米の命、答へ歌ひて曰ひしく、
媛女に 直に逢はむと九 吾が黥ける利目。 (歌謠番號一九)
かれその孃子、「仕へまつらむ」とまをしき。ここにその伊須氣余理比賣の命の家は、狹井河一〇の上にあり。天皇、その伊須氣余理比賣のもとに幸でまして、一夜御寢したまひき。その河を佐韋河といふ由は、その河の邊に、山百合草多くあり。かれその山
百合草の名を取りて、佐韋河と名づく。山百合草の本の名佐韋といひき。
後にその伊須氣余理比賣、宮内にまゐりし時に、天皇、御歌よみしたまひしく、
葦原の しけしき小屋に一一
菅疊 いや清敷きて一二、
わが二人寢し。 (歌謠番號二〇)
然して生れませる御子の名は、日子八井の命、次に神八井耳の命、次に神沼河耳の命一三三柱。
一 奈良縣磯城郡の三輪山の神。前に大國主の神の靈を祭るとしていた。大物主の神をも大國主の神の別名とするのだが、元來は別神だろう。
二 赤く塗つた矢。
三 立ち走り騷いだ。
四 香具山の附近。
五 マカムは纏かむで、手に卷こう。妻としよう。
六 わずかに。
七 目じりに入墨をして目を鋭く見せようとした。
八 語義不明。千人に勝れる人の義という。
九 直接に逢おうとして。
一〇 三輪山から出る川。
一一 きたない小舍に。
一二 菅で編んだ敷物をさつぱりと敷いて。
一三 綏靖天皇。
かれ天皇崩りまして後に、その庶兄當藝志美美の命、その嫡后伊須氣余理比賣に娶へる時に、その三柱の弟たちを殺せむとして、謀るほどに、その御祖伊須氣余理比賣、患苦へまして、歌もちてその御子たちに知らしめむとして歌よみしたまひしく、
狹井河よ 雲起ちわたり
畝火山 木の葉さやぎぬ。
風吹かむとす。 (歌謠番號二一)
また歌よみしたまひしく、
畝火山 晝は雲とゐ一、
夕されば 風吹かむとぞ
木の葉さやげる。 (歌謠番號二二)
ここにその御子たち聞き知りて、驚きて當藝志美美を殺せむとしたまふ時に、神沼河耳の命、その兄神八井耳の命にまをしたまはく、「なね汝が命、兵を持ちて二入りて、當藝志美美を殺せたまへ」とまをしたまひき。かれ兵を持ちて、入りて殺せむとする時に、手足わななきてえ殺せたまはず。かれここにその弟神沼河耳の命、その兄の持てる兵を乞ひ取りて、入りて當藝志美美を殺せたまひき。かれまたその御名をたたへて、建沼河耳の命とまをす。
ここに神八井耳の命、弟建沼河耳の命に讓りてまをしたまはく、「吾は仇をえ殺せず、汝が命は既にえ殺せたまひぬ。かれ吾は兄なれども、上とあるべからず。ここを以ちて汝が命、上とまして、天の下治らしめせ。僕は汝が命を扶けて、忌人三となりて仕へまつらむ」とまをしたまひき。かれその日子八井の命は、茨田の連、手島の連が祖。神八井耳の命は、意富の臣四、小子部の連、坂合部の連、火の君、大分の君、阿蘇の君、筑紫の三家の連、雀部の臣、雀部の造、小長谷の造、都祁の直、伊余の國の造、科野の國の造、道の奧の石城の國の造、常道の仲の國の造、長狹の國の造、伊勢の船木の直、尾張の丹波の臣、島田の臣等が祖なり。神沼河耳の命は天の下治らしめしき。
およそこの神倭伊波禮毘古の天皇、御年一百三十七歳、御陵は畝火山の北の方白檮の尾の上にあり。
一 トヰは、動搖する意の動詞。トヰナミ(萬葉集)のトヰと同語。
二 武器を持つて。
三 潔齋をして無事を祈る人。祭をおこなう人。
四 古事記の撰者太の安麻呂の系統。
神沼河耳の命一、葛城の高岡の宮にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、師木の縣主の祖、河俣毘賣に娶ひて、生みませる御子、師木津日子玉手見の命一柱。天皇、御年四十五歳、御陵は衝田の岡二にあり。
一 綏靖天皇。以下八代は、多少の插入はあろうが、大體帝紀の形が殘つていると考えられる。
二 奈良縣高市郡。神武天皇陵の北にある。
師木津日子玉手見の命一、片鹽の浮穴の宮二にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、河俣毘賣の兄縣主波延が女、阿久斗比賣に娶ひて、生みませる御子、常根津日子伊呂泥の命、次に大倭日子鉏友の命、次に師木津日子の命。この天皇の御子等并せて、三柱の中、大倭日子鉏友の命は、天の下治らしめしき。次に師木津日子の命の御子二柱ます。一柱の子孫は、伊賀の須知の稻置、那婆理の稻置、三野の稻置が祖なり。一柱の御子和知都美の命は、淡道の御井の宮三にましき。かれこの王、女二柱ましき。兄の名は繩伊呂泥、またの名は意富夜麻登久邇阿禮比賣の命、弟の名は繩伊呂杼なり四。
天皇、御年四拾九歳、御陵は畝火山の美富登五にあり。
一 安寧天皇。
二 奈良縣北葛城郡。
三 兵庫縣三原郡。
四 この二女王は、孝靈天皇の妃。
五 畝火山の南のくぼみにある。
大倭日子鉏友の命一、輕の境岡の宮二にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、師木の縣主の祖、賦登麻和訶比賣の命、またの名は飯日比賣の命に娶ひて、生みませる御子、御眞津日子訶惠志泥の命、次に多藝志比古の命二柱。かれ御眞津日子訶惠志泥の命は、天の下治らしめしき。次に當藝志比古の命は、血沼の別、多遲麻の竹の別、葦井の稻置が祖なり。
天皇、御年四十五歳、御陵は畝火山の眞名子谷の上三にあり。
一 懿徳天皇。
二 奈良縣高市郡。
三 畝火山の南。
御眞津日子訶惠志泥の命一、葛城の掖上の宮二にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、尾張の連の祖、奧津余曾が妹、名は余曾多本毘賣の命に娶ひて、生みませる御子、天押帶日子の命、次に大倭帶日子國押人の命二柱。かれ弟帶日子國押人の命は、天の下治らしめしき。兄天押帶日子の命は、春日の臣、大宅の臣、粟田の臣、小野の臣、柿本の臣、壹比韋の臣、大坂の臣、阿那の臣、多紀の臣、羽栗の臣、知多の臣、牟耶の臣、都怒山の臣、伊勢の飯高の君、壹師の君、近つ淡海の國の造が祖なり。
天皇、御年九十三歳、御陵は掖上の博多山の上三にあり。
一 孝昭天皇。
二 奈良縣南葛城郡。
三 同前。
大倭帶日子國押人の命一、葛城の室の秋津島の宮二にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、姪忍鹿比賣の命に娶ひて、生みませる御子、大吉備の諸進の命、次に大倭根子日子賦斗邇の命二柱。かれ大倭根子日子賦斗邇の命は、天の下治らしめしき。
天皇、御年一百二十三歳、御陵は玉手の岡の上三にあり。
一 孝安天皇。
二 奈良縣南葛城郡。
三 同前。
大倭根子日子賦斗邇の命一、黒田の廬戸の宮二にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、十市の縣主の祖、大目が女、名は細比賣の命に娶ひて、生みませる御子、大倭根子日子國玖琉の命一柱。また春日の千千速眞若比賣に娶ひて、生みませる御子、千千速比賣の命一柱。また意富夜麻登玖邇阿禮比賣の命に娶ひて、生みませる御子、夜麻登登母母曾毘賣の命、次に日子刺肩別の命、次に比古伊佐勢理毘古の命、またの名は大吉備津日子の命、次に倭飛羽矢若屋比賣四柱。またその阿禮比賣の命の弟、繩伊呂杼に娶ひて、生みませる御子、日子寤間の命、次に若日子建吉備津日子の命二柱。この天皇の御子たち、并はせて八柱ませり。男王五柱、
女王三柱。かれ大倭根子日子國玖琉の命は、天の下治らしめしき。大吉備津日子の命と若建吉備津日子の命とは、二柱相副はして、針間の氷の河の前三に忌瓮を居ゑて四、針間を道の口として五、吉備の國六を言向け和したまひき。かれこの大吉備津日子の命は、吉備の上つ道の臣が祖なり。次に若日子建吉備津日子の命は、吉備の下つ道の臣、笠の臣が祖なり。次に日子寤間の命は、針間の牛鹿の臣が祖なり。次に日子刺肩別の命は、高志の利波の臣、豐國の國前の臣、五百原の君、角鹿の濟の直が祖なり。
天皇、御年一百六歳、御陵は片岡の馬坂の上七にあり。
一 孝靈天皇。
二 奈良縣磯城郡。
三 兵庫縣加古郡。
四 清らかな酒瓶を置いて神を祭り行旅の無事を祈る。
五 播磨の國を道の入口として。
六 後の備前美作備中備後の四國の總稱。
七 奈良縣北葛城郡。
大倭根子日子國玖琉の命一、輕の堺原の宮二にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、穗積の臣等が祖、内色許男の命が妹、内色許賣の命に娶ひて、生みませる御子、大毘古の命三、次に少名日子建猪心の命、次に若倭根子日子大毘毘の命三柱。また内色許男の命が女、伊迦賀色許賣の命に娶ひて、生みませる御子、比古布都押の信の命一柱。また河内の青玉が女、名は波邇夜須毘賣に娶ひて、生みませる御子、建波邇夜須毘古の命一柱。この天皇の御子たち、并はせて五柱ませり。かれ若倭根子日子大毘毘の命は、天の下治らしめしき。その兄大毘古の命の子、建沼河別の命は、阿部の臣等が祖なり。次に比古伊那許士別の命、こは膳の臣が祖なり。比古布都押の信の命、尾張の連等が祖、意富那毘が妹、葛城の高千那毘賣に娶ひて、生みませる子、味師内の宿禰、こは山代の内の臣が祖なり。また木の國の造が祖、宇豆比古が妹、山下影日賣に娶ひて、生みませる子、建内の宿禰四。この建内の宿禰の子、并はせて九人男七柱、
女二柱。波多の八代の宿禰は、波多の臣、林の臣、波美の臣、星川の臣、淡海の臣、長谷部の君が祖なり。次に許勢の小柄の宿禰は、許勢の臣、雀部の臣、輕部の臣が祖なり。次に蘇賀の石河の宿禰は、蘇我の臣、川邊の臣、田中の臣、高向の臣、小治田の臣、櫻井の臣、岸田の臣等が祖なり。次に平群の都久の宿禰は、平群の臣、佐和良の臣、馬の御樴の連等が祖なり。次に木の角の宿禰は、木の臣、都奴の臣、坂本の臣等が祖なり。次に久米の摩伊刀比賣、次に怒の伊呂比賣、次に葛城の長江の曾都毘古は、玉手の臣、的の臣、生江の臣、阿藝那の臣等が祖なり。また若子の宿禰は、江野の財の臣が祖なり。
この天皇、御年五十七歳、御陵は劒の池の中の岡の上五にあり。
一 孝元天皇。
二 奈良縣高市郡。
三 九四頁に事蹟がある。
四 一二〇頁以下に事蹟がある。この子孫は勢力を得たので、その子を詳記してあるが、帝紀としては加筆であろう。
五 奈良縣高市郡。
若倭根子日子大毘毘の命一、春日の伊耶河の宮二にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、旦波の大縣主、名は由碁理が女、竹野比賣に娶ひて、生みませる御子、比古由牟須美の命一柱。また庶母伊迦賀色許賣の命に娶ひて、生みませる御子、御眞木入日子印惠の命、次に御眞津比賣の命二柱。また丸邇の臣の祖、日子國意祁都の命が妹、意祁都比賣の命に娶ひて、生みませる御子、日子坐の王一柱。また葛城の垂見の宿禰が女、鸇比賣に娶ひて生みませる御子、建豐波豆羅和氣の王一柱。この天皇の御子たち、并はせて五柱男王四柱、
女王一柱。かれ御眞木入日子印惠の命は、天の下治らしめしき。その兄比古由牟須美の王の御子、大筒木垂根の王、次に讚岐垂根の王二柱。この二柱の王の女、五柱ましき。次に日子坐の王、山代の荏名津比賣、またの名は苅幡戸辨に娶ひて生みませる子、大俣の王、次に小俣の王、次に志夫美の宿禰の王三柱。また春日の建國勝戸賣が女、名は沙本の大闇見戸賣に娶ひて、生みませる子、沙本毘古の王、次に袁耶本の王、次に沙本毘賣の命、またの名は佐波遲比賣、この沙本毘賣の命は伊久米三
の天皇の后となりたまへり。次に室毘古の王四柱。また近つ淡海の御上の祝がもちいつく四、天の御影の神が女、息長の水依比賣に娶ひて、生みませる子、丹波の比古多多須美知能宇斯の王、次に水穗の眞若の王、次に神大根の王、またの名は八瓜の入日子の王、次に水穗の五百依比賣、次に御井津比賣五柱。またその母の弟袁祁都比賣の命に娶ひて、生みませる子、山代の大筒木の眞若の王、次に比古意須の王、次に伊理泥の王三柱。およそ日子坐の王の子、并はせて十五王。かれ兄大俣の王の子、曙立の王五、次に菟上の王二柱。この曙立の王は、伊勢の品遲部、伊勢の佐那の造が祖なり。菟上の王は、比賣陀の君が祖なり。次に小俣の王は當麻の勾の君が祖なり。次に志夫美の宿禰の王は佐佐の君が祖なり。次に沙本毘古の王は、日下部の連、甲斐の國の造が祖なり。次に袁耶本の王は、葛野の別、近つ淡海の蚊野の別が祖なり。次に室毘古の王は、若狹の耳の別が祖なり。その美知能宇志の王、丹波の河上の摩須の郎女に娶ひて、生みませる子、比婆須比賣の命六、次に眞砥野比賣の命、次に弟比賣の命、次に朝廷別の王四柱。この朝廷別の王は、三川の穗の別が祖なり。この美知能宇斯の王の弟、水穗の眞若の王は、近つ淡海の安の直が祖なり。次に神大根の王は、三野の國の造、本巣の國の造、長幡部の連が祖なり。次に山代の大筒木眞若の王、同母弟伊理泥の王が女、丹波の阿治佐波毘賣に娶ひて、生みませる子、迦邇米雷の王、この王、丹波の遠津の臣が女、名は高材比賣に娶ひて、生みませる子、息長の宿禰の王、この王、葛城の高額比賣に娶ひて、生みませる子、息長帶比賣の命、次に虚空津比賣の命、次に息長日子の王三柱。この王は吉備の品遲の君、針間の阿宗の君が祖なり。また息長の宿禰の王、河俣の稻依毘賣に娶ひて、生みませる子、大多牟坂の王、こは多遲摩の國の造が祖なり。上にいへる建豐波豆羅和氣の王は道守の臣、忍海部の造、御名部の造、稻羽の忍海部、丹波の竹野の別、依網の阿毘古等が祖なり。
天皇、御年六十三歳、御陵は伊耶河の坂の上七にあり。
一 開化天皇。
二 奈良市。
三 垂仁天皇。九八頁にこの皇后の物語がある。
四 滋賀縣野洲郡の三上の神職が祭る。
五 一〇二頁に物語がある。
六 以下の諸女王のこと、一〇四頁に物語があるが人數などに相違がある。
七 奈良市。
御眞木入日子印惠の命一、師木の水垣の宮二にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、木の國の造、名は荒河戸辨が女、遠津年魚目目微比賣に娶ひて、生みませる御子、豐木入日子の命、次に豐鉏入日賣の命二柱。また尾張の連が祖意富阿麻比賣に娶ひて、生みませる御子、大入杵の命、次に八坂の入日子の命、次に沼名木の入日賣の命、次に十市の入日賣の命四柱。また大毘古の命が女、御眞津比賣の命に娶ひて、生みませる御子、伊玖米入日子伊沙知の命、次に伊耶の眞若の命、次に國片比賣の命、次に千千都久和比賣の命、次に伊賀比賣の命、次に倭日子の命六柱。この天皇の御子たち、并せて十二柱男王七、女
王五なり。かれ伊久米伊理毘古伊佐知の命は、天の下治らしめしき。次に豐木入日子の命は、上つ毛野、下つ毛野の君等が祖なり。妹豐鉏比賣の命は伊勢の大神の宮を拜き祭りたまひき。次に大入杵の命は、能登の臣が祖なり。次に倭日子の命は、この王の時に始めて陵に人垣を立てたり三。
一 崇神天皇。
二 奈良縣磯城郡。
三 人を埋めて垣とするもの。
この天皇の御世に「役病多に起り、人民盡きなむとしき。ここに天皇愁歎へたまひて、神牀一にましましける夜に、大物主の大神、御夢に顯はれてのりたまひしく、「こは我が御心なり。かれ意富多多泥古をもちて、我が御前に祭らしめたまはば、神の氣起らず二、國も安平ならむ」とのりたまひき。ここを以ちて、驛使三を四方に班ちて、意富多多泥古といふ人を求むる時に、河内の美努の村四にその人を見得て、貢りき。ここに天皇問ひたまはく、「汝は誰が子ぞ」と問ひたまひき。答へて白さく「僕は大物主の大神、陶津耳の命が女、活玉依毘賣に娶ひて生みませる子、名は櫛御方の命の子、飯肩巣見の命の子、建甕槌の命の子、僕意富多多泥古」とまをしき。
ここに天皇いたく歡びたまひて、詔りたまはく、「天の下平ぎ、人民榮えなむ」とのりたまひて、すなはち意富多多泥古の命を、神主五として、御諸山六に、意富美和の大神の御前を拜き祭りたまひき。また伊迦賀色許男の命に仰せて、天の八十平瓮七を作り、天つ神地つ祇の社を定めまつりたまひき。また宇陀の墨坂八の神に、赤色の楯矛を祭り九、また大坂の神一〇に、墨色の楯矛を祭り、また坂の御尾の神、河の瀬の神までに、悉に遺忘ることなく幣帛まつりたまひき。これに因りて役の氣悉に息みて、國家安平ぎき。
この意富多多泥古といふ人を、神の子と知れる所以は、上にいへる活玉依毘賣、それ顏好かりき。ここに壯夫ありて、その形姿威儀時に比無きが、夜半の時にたちまち來たり。かれ相感でて共婚して、住めるほどに、いまだ幾何もあらねば、その美人姙みぬ。
ここに父母、その姙める事を怪みて、その女に問ひて曰はく、「汝はおのづから姙めり。夫無きにいかにかも姙める」と問ひしかば、答へて曰はく、「麗しき壯夫の、その名も知らぬが、夕ごとに來りて住めるほどに、おのづからに姙みぬ」といひき。ここを以ちてその父母、その人を知らむと欲ひて、その女に誨へつらくは、「赤土を床の邊に散らし、卷子紡麻を針に貫きて、その衣の襴に刺せ」と誨へき一一。かれ教へしが如して、旦時に見れば、針をつけたる麻は、戸の鉤穴より控き通りて出で、ただ遺れる麻一二は、三勾のみなりき。
ここにすなはち鉤穴より出でし状を知りて、絲のまにまに尋ね行きしかば、美和山に至りて、神の社に留まりき。かれその神の御子なりとは知りぬ。かれその麻の三勾遺れるによりて、其地に名づけて美和といふなり。この意富多多泥古の命は、神の君、鴨の君が祖なり。
一 神に祈つて寢る床。夢に神意を得ようとする。
二 神のたたり。
三 馬に乘つて行く使。
四 大阪府中河内郡。日本書紀には茅渟の縣の陶の村としている。これは和泉の國である。
五 神のよりつく人。
六 奈良縣磯城郡の三輪山。
七 多くの平たい皿。既出の語。
八 奈良縣宇陀郡。大和の中央部から見て東方の通路の坂。
九 奉ることによつて祭をする。神に武器を奉つて魔物の入り來るを防ごうとする思想。
一〇 奈良縣北葛城郡二上山の北方を越える坂。大和の中央部から西方の坂。
一一 人間ならざる者の正體を見現すために行う。ヘソヲは絲卷にまいた麻。
一二 絲卷に殘つた麻。
またこの御世に、大毘古の命一を高志の道に遣し、その子建沼河別の命を東の方十二道二に遣して、その服はぬ人どもを言向け和さしめ、また日子坐の王をば、旦波の國三に遣して、玖賀耳の御笠こは人の
名なり。を殺らしめたまひき。
かれ大毘古の命、高志の國に罷り往でます時に、腰裳服せる少女四、山代の幣羅坂五に立ちて、歌よみして曰ひしく、
御眞木入日子六はや、
御眞木入日子はや、
おのが命を 竊み殺せむと、
後つ戸よ い行き違ひ七
前つ戸よ い行き違ひ
窺はく 知らにと八、
御眞木入日子はや。 (歌謠番號二三)
と歌ひき。ここに大毘古の命、怪しと思ひて、馬を返して、その少女に問ひて曰はく、「汝がいへる言は、いかに言ふぞ」と問ひしかば、少女答へて曰はく、「吾は言ふこともなし。ただ歌よみしつらくのみ」といひて、その行く方も見えずして忽に失せぬ九。かれ大毘古の命、更に還りまゐ上りて、天皇にまをす時に、天皇答へて詔りたまはく、「こは山代の國なる我が庶兄、建波邇安の王の、邪き心を起せる表ならむ。伯父、軍を興して、行かさね」とのりたまひて、丸邇の臣の祖、日子國夫玖の命を副へて、遣す時に、すなはち丸邇坂に忌瓮を居ゑて、罷り往でましき。
ここに山代の和訶羅河一〇に到れる時に、その建波邇安の王、軍を興して、待ち遮り、おのもおのも河を中にはさみて、對き立ちて相挑みき。かれ其地に名づけて、伊杼美といふ。今は伊豆美
といふ。ここに日子國夫玖の命、「其方の人まづ忌矢を放て」と乞ひいひき。ここにその建波邇安の王射つれどもえ中てず。ここに國夫玖の命の放つ矢は、建波邇安の王を射て死しき。かれその軍、悉に破れて逃げ散けぬ。ここにその逃ぐる軍を追ひ迫めて、久須婆の渡一一に到りし時に、みな迫めらえ窘みて、屎出でて、褌に懸かりき。かれ其地に名づけて屎褌といふ。今は久須婆
といふ。またその逃ぐる軍を遮りて斬りしかば、鵜のごと河に浮きき。かれその河に名づけて、鵜河といふ。またその軍士を斬り屠りき。かれ、其地に名づけて波布理曾能一二といふ。かく平け訖へて、まゐ上りて覆奏しき。
かれ大毘古の命は、先の命のまにまに、高志の國に罷り行でましき。ここに東の方より遣しし建沼河別、その父大毘古と共に、相津一三に往き遇ひき。かれ其地を相津といふ。ここを以ちておのもおのも遣さえし國の政を和し言向けて、覆奏しき。
ここに天の下平ぎ、人民富み榮えき。ここに初めて男の弓端の調一四、女の手末の調一五を貢らしめたまひき。かれその御世を稱へて、初國知らしし一六、御眞木の天皇とまをす。またこの御世に、依網の池一七を作り、また輕の酒折の池一八を作りき。
天皇、御歳一百六十八歳、戊寅の年の十二月
に崩りたまひき。御陵は、山の邊の道の勾の岡の上一九にあり。
一 孝元天皇の御子。
二 十二國に同じ。伊勢(志摩を含む)、尾張、參河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武藏、總(上總、下總、安房)、常陸、陸奧の十二國であるという。
三 京都府の北部。
四 腰に裳をつけた少女。裳は女子の腰部にまとう衣服。
五 大和の國から山城の國に越えた所の坂。
六 崇神天皇。
七 後方の戸から人目をはずして。
八 窺うことを知らずにと、ニは打消の助動詞ヌの連用形。
九 神が少女に化して教えた意になる。
一〇 木津川の別名。
一一 大阪府北河内郡淀川の渡り場。
一二 京都府相樂郡。
一三 福島縣の會津。
一四 男子が弓によつて得た物の貢物。獸皮の類をいう。
一五 女子の手藝によつて得た物の貢物。織物、絲の類。
一六 新しい土地を領有した。
一七 大阪市東成區。
一八 奈良縣高市郡。
一九 奈良縣磯城郡。
伊久米伊理毘古伊佐知の命一、師木の玉垣の宮二にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、沙本毘古の命が妹、佐波遲比賣の命三に娶ひて、生みませる御子、品牟都和氣の命一柱。また旦波の比古多多須美知能宇斯の王が女、氷羽州比賣の命四に娶ひて、生みませる御子、印色の入日子の命、次に大帶日子淤斯呂和氣の命、次に大中津日子の命、次に倭比賣の命、次に若木の入日子の命五柱。またその氷羽州比賣の命が弟、沼羽田の入毘賣の命に娶ひて、生みませる御子、沼帶別の命、次に伊賀帶日子の命二柱。またその沼羽田の入日賣の命が弟、阿耶美の伊理毘賣の命に娶ひて、生みませる御子、伊許婆夜和氣の命、次に、阿耶美都比賣の命二柱。また大筒木垂根の王が女、迦具夜比賣の命に娶ひて、生みませる御子、袁那辨の王一柱。また山代の大國の淵が女、苅羽田刀辨に娶ひて、生みませる御子、落別の王、次に五十日帶日子の王、次に伊登志別の王三柱。またその大國の淵が女、弟苅羽田刀辨に娶ひて、生みませる御子、石衝別の王、次に石衝毘賣の命、またの名は布多遲の伊理毘賣の命二柱。およそこの天皇の御子等、十六王ませり。男王十三柱、
女王三柱。
かれ大帶日子淤斯呂和氣の命は、天の下治らしめしき。御身のたけ一丈二寸、御脛
の長さ四尺一寸ましき。次に印色の入日子の命は、血沼の池五を作り、また狹山の池を作り、また日下の高津の池六を作りたまひき。また鳥取の河上の宮七にましまして、横刀壹仟口を作らしめたまひき。こを石の上の神宮八に納めまつる。すなはちその宮にましまして、河上部を定めたまひき九。次に大中津日子の命は、山邊の別、三枝の別、稻木の別、阿太の別、尾張の國の三野の別、吉備の石旡の別、許呂母の別、高巣鹿の別、飛鳥の君、牟禮の別等が祖なり。次に倭比賣の命は、伊勢の大神の宮を拜き祭りたまひき。次に伊許婆夜和氣の王は、沙本の穴本部の別が祖なり。次に阿耶美都比賣の命は、稻瀬毘古の王に嫁ひましき。次に落別の王は、小目の山の君、三川の衣の君が祖なり。次に五十日帶日子の王は、春日の山の君、高志の池の君、春日部の君が祖なり。次に伊登志和氣の王は、子なきに因りて、子代として、伊登志部を定めき。次に石衝別の王は、羽咋の君、三尾の君が祖なり。次に布多遲の伊理毘賣の命は、倭建の命の后となりたまひき。
一 垂仁天皇。
二 奈良縣磯城郡。
三 沙本毘賣に同じ。開化天皇の皇女。
四 以下の三后妃は、開化天皇の卷に見え、また下に見える。その條參照。
五 大阪府泉南郡。
六 大阪府南河内郡。
七 大阪府泉南郡。
八 奈良縣山邊郡の石上の神宮。
九 人民の集團に縁故のある名をつけて記念とし、またこれを支配する。以下、何部を定めたという記事が多い。
この天皇、沙本毘賣を后としたまひし時に、沙本毘賣の命の兄、沙本毘古の王、その同母妹に問ひて曰はく、「夫と兄とはいづれか愛しき」と問ひしかば、答へて曰はく「兄を愛しとおもふ」と答へたまひき。ここに沙本毘古の王、謀りて曰はく、「汝まことに我を愛しと思ほさば、吾と汝と天の下治らさむとす」といひて、すなはち八鹽折の紐小刀一を作りて、その妹に授けて曰はく、「この小刀もちて、天皇の寢したまふを刺し殺せまつれ」といふ。かれ天皇、その謀を知らしめさずて、その后の御膝を枕きて、御寢したまひき。ここにその后、紐小刀もちて、その天皇の御頸を刺しまつらむとして、三度擧りたまひしかども、哀しとおもふ情にえ忍へずして、御頸をえ刺しまつらずて、泣く涙、御面に落ち溢れき。天皇驚き起ちたまひて、その后に問ひてのりたまはく、「吾は異しき夢を見つ。沙本二の方より、暴雨の零り來て、急に吾が面を沾しつ。また錦色の小蛇、我が頸に纏はりつ。かかる夢は、こは何の表にあらむ」とのりたまひき。ここにその后、爭ふべくもあらじとおもほして、すなはち天皇に白して言さく、「妾が兄沙本毘古の王、妾に、夫と兄とはいづれか愛しきと問ひき。ここにえ面勝たずて、かれ妾、兄を愛しとおもふと答へ曰へば、ここに妾に誂へて曰はく、吾と汝と天の下を治らさむ。かれ天皇を殺せまつれといひて、八鹽折の紐小刀を作りて妾に授けつ。ここを以ちて御頸を刺しまつらむとして、三度擧りしかども、哀しとおもふ情忽に起りて、頸をえ刺しまつらずて、泣く涙の落ちて、御面を沾らしつ。かならずこの表にあらむ」とまをしたまひき。
ここに天皇詔りたまはく、「吾はほとほとに欺かえつるかも三」とのりたまひて、軍を興して、沙本毘古の王を撃ちたまふ時に、その王稻城四を作りて、待ち戰ひき。この時沙本毘賣の命、その兄にえ忍へずして、後つ門より逃れ出でて、その稻城に納りましき。
この時にその后姙みましき。ここに天皇、その后の、懷姙みませるに忍へず、また愛重みたまへることも、三年になりにければ、その軍を𢌞して急けくも攻めたまはざりき。かく逗留る間に、その姙める御子既に産れましぬ。かれその御子を出して、稻城の外に置きまつりて、天皇に白さしめたまはく、「もしこの御子を、天皇の御子と思ほしめさば、治めたまふべし」とまをしたまひき。ここに天皇詔りたまはく、「その兄を怨ひたまへども、なほその后を愛しとおもふにえ忍へず」とのりたまひて、后を得むとおもふ心ましき。ここを以ちて軍士の中に力士の輕捷きを選り聚へて、宣りたまはくは、「その御子を取らむ時に、その母王をも掠ひ取れ五。御髮にもあれ、御手にもあれ、取り獲むまにまに、掬みて控き出でよ」とのりたまひき。ここにその后、あらかじめその御心を知りたまひて、悉にその髮を剃りて、その髮もちてその頭を覆ひ、また玉の緒を腐して、御手に三重纏かし、また酒もちて御衣を腐して、全き衣のごと服せり。かく設け備へて、その御子を抱きて、城の外にさし出でたまひき。ここにその力士ども、その御子を取りまつりて、すなはちその御祖を握りまつらむとす。ここにその御髮を握れば、御髮おのづから落ち、その御手を握れば、玉の緒また絶え、その御衣を握れば、御衣すなはち破れつ。ここを以ちてその御子を取り獲て、その御祖をばえとりまつらざりき。かれその軍士ども、還り來て、奏して言さく、「御髮おのづから落ち、御衣破れ易く、御手に纏かせる玉の緒もすなはち絶えぬ。かれ御祖を獲まつらず、御子を取り得まつりき」とまをす。ここに天皇悔い恨みたまひて、玉作りし人どもを惡まして、その地をみな奪りたまひき。かれ諺に、地得ぬ玉作り六といふなり。
また天皇、その后に命詔したまはく、「およそ子の名は、かならず母の名づくるを、この子の御名を、何とかいはむ」と詔りたまひき。ここに答へて白さく、「今火の稻城を燒く時に、火中に生れましつ。かれその御名は、本牟智和氣七の御子とまをすべし」とまをしたまひき。また命詔したまはく「いかにして日足しまつらむ八」とのりたまへば、答へて白さく、「御母を取り、大湯坐、若湯坐九を定めて、日足しまつるべし」とまをしたまひき。かれその后のまをしたまひしまにまに、日足しまつりき。またその后に問ひたまはく、「汝の堅めし瑞の小佩一〇は、誰かも解かむ」とのりたまひしかば、答へて白さく、「旦波の比古多多須美智能宇斯の王が女、名は兄比賣弟比賣、この二柱の女王、淨き公民にませば、使ひたまふべし」とまをしたまひき。然ありて遂にその沙本比古の王を殺りたまへるに、その同母妹も從ひたまひき。
一 色濃く染めた紐のついている小刀。この紐、下の錦色の小蛇というのに關係がある。
二 奈良市佐保。佐本毘古の王の居所。
三 あぶなくだまされる所だつた。ホトホトニは、ほとんど。
四 稻を積んだ城。俵を積んだのだろう。
五 かすめ取れ。
六 玉作りは、土地を持たないという諺のもとだという。
七 ホが火を意味し、ムチは尊稱、ワケは若い御方の義の名。
八 日を足して成育させる。
九 赤子の湯を使う人。そのおもな役と若い方の役。
一〇 妻が男の衣の紐を結ぶ風習による。ミヅは美稱。生氣のある意。
かれその御子を率て遊ぶ状は、尾張の相津一なる二俣榲を二俣小舟に作りて、持ち上り來て、倭の市師の池二輕の池三に浮けて、その御子を率て遊びき。然るにこの御子、八拳鬚心前に至るまでにま言とはず。かれ今、高往く鵠が音を聞かして、始めてあぎとひ四たまひき。ここに山邊の大鶙こは人の
名なり。を遣して、その鳥を取らしめき。かれこの人、その鵠を追ひ尋ねて、木の國より針間の國に到り、また追ひて稻羽の國に越え、すなはち旦波の國多遲麻の國に到り、東の方に追ひ𢌞りて、近つ淡海の國に到り、三野の國に越え、尾張の國より傳ひて科野の國に追ひ、遂に高志の國に追ひ到りて、和那美の水門五に網を張り、その鳥を取りて、持ち上りて獻りき。かれその水門に名づけて和那美の水門といふなり。またその鳥を見たまへば、物言はむと思ほして、思ほすがごと言ひたまふ事なかりき。
ここに天皇患へたまひて、御寢ませる時に、御夢に覺してのりたまはく、「我が宮を、天皇の御舍のごと修理めたまはば、御子かならずま言とはむ」とかく覺したまふ時に、太卜に占へて六、「いづれの神の御心ぞ」と求むるに、ここに祟りたまふは、出雲の大神七の御心なり。かれその御子を、その大神の宮を拜ましめに遣したまはむとする時に、誰を副へしめば吉けむとうらなふに、ここに曙立八の王卜に食へり九。かれ曙立の王に科せて、うけひ白さしむらく一〇、「この大神を拜むによりて、誠に驗あらば、この鷺の巣の池一一の樹に住める鷺を、うけひ落ちよ」と、かく詔りたまふ時に、うけひてその鷺地に墮ちて死にき。また「うけひ活け」と詔りたまひき。ここにうけひしかば、更に活きぬ。また甜白檮の前一二なる葉廣熊白檮一三をうけひ枯らし、またうけひ生かしめき。ここにその曙立の王に、倭は師木の登美の豐朝倉の曙立の王といふ名を賜ひき。すなはち曙立の王菟上の王二王を、その御子に副へて遣しし時に、那良戸一四よりは跛、盲遇はむ。大阪戸一五よりも跛、盲遇はむ。ただ木戸一六ぞ掖戸の吉き戸一七と卜へて、いでましし時に、到ります地ごとに品遲部を定めたまひき。
かれ出雲に到りまして、大神を拜み訖へて、還り上ります時に、肥の河一八の中に黒樔の橋一九を作り、假宮を仕へ奉りて、坐さしめき。ここに出雲の國の造の祖、名は岐比佐都美、青葉の山を餝りて、その河下に立てて、大御食獻らむとする時に、その御子詔りたまはく、「この河下に青葉の山なせるは、山と見えて山にあらず。もし出雲の石𥑎の曾の宮二〇にます、葦原色許男の大神二一をもち齋く祝が大庭二二か」と問ひたまひき。ここに御供に遣さえたる王たち、聞き歡び見喜びて、御子は檳榔の長穗の宮二三にませまつりて、驛使をたてまつりき。
ここにその御子、肥長比賣に一宿婚ひたまひき。かれその美人を竊伺みたまへば、蛇なり。すなはち見畏みて遁げたまひき。ここにその肥長比賣患へて、海原を光らして船より追ひ來。かれ、ますます見畏みて山のたわより御船を引き越して、逃げ上りいでましつ。ここに覆奏まをさく、「大神を拜みたまへるに因りて、大御子物詔りたまひつ。かれまゐ上り來つ」とまをしき。かれ天皇歡ばして、すなはち菟上の王を返して、神宮を造らしめたまひき。ここに天皇、その御子に因りて鳥取部、鳥甘、品遲部、大湯坐、若湯坐を定めたまひき。
一 所在不明。
二 奈良縣磯城郡。
三 同高市郡。
四 アギと言つた。あぶあぶ言つた。
五 新潟縣西蒲原郡、また北魚澤郡に傳説地がある。ワナミは羂網の義。
六 二〇頁參照。
七 出雲大社の祭神。大國主の神。
八 開化天皇の子孫。
九 占いにかなつた。
一〇 神に誓つて神意を窺わしめることは。
一一 奈良縣高市郡。
一二 同郡飛鳥村にある。
一三 葉の廣いりつぱなカシの木。クマはウマに同じ。美稱。
一四 奈良縣の北部の奈良山を越える道。不具者に逢うことを嫌つた。
一五 二上山を越えて行く道。
一六 紀伊の國へ出る道。吉野川の右岸について行く。
一七 迂𢌞してゆく道でよい道。
一八 斐伊の川。
一九 皮つきの木を組んで作つた橋。
二〇 出雲大社の別名。
二一 大國主の神の別名。
二二 お祭する神職の齋場か。
二三 ビロウの木の葉を長く垂れて葺いた宮。
またその后の白したまひしまにまに、美知能宇斯の王の女たち一、比婆須比賣の命、次に弟比賣の命、次に歌凝比賣の命、次に圓野比賣の命、并はせて四柱を喚上げたまひき。然れども比婆須比賣の命、弟比賣の命、二柱を留めて、その弟王二柱は、いと醜きに因りて本つ土に返し送りたまひき。ここに圓野比賣慚みて「同兄弟の中に、姿醜きによりて、還さゆる事、隣里に聞えむは、いと慚しきこと」といひて、山代の國の相樂二に到りし時に、樹の枝に取り懸りて、死なむとしき。かれ其地に名づけて、懸木といひしを、今は相樂といふ。また弟國三に到りし時に、遂に峻き淵に墮ちて、死にき。かれ其地に名づけて、墮國といひしを、今は弟國といふなり。
一 九〇頁の后妃皇子女に關する條參照。王女の數などが違うのは別の資料によるものであろう。
二 京都府相樂郡。
三 同乙訓郡。
また天皇、三宅の連等が祖、名は多遲摩毛理一を、常世の國二に遣して、時じくの香の木の實三を求めしめたまひき。かれ多遲摩毛理、遂にその國に到りて、その木の實を採りて、縵八縵矛八矛四を、將ち來つる間に、天皇既に崩りましき。ここに多遲摩毛理、縵四縵矛四矛を分けて、大后に獻り、縵四縵矛四矛を、天皇の御陵の戸に獻り置きて、その木の實を擎げて、叫び哭びて白さく、「常世の國の時じくの香の木の實を持ちまゐ上りて侍ふ」とまをして遂に哭び死にき。その時じくの香の木の實は今の橘なり。
この天皇、御年一百五十三歳、御陵は菅原の御立野五の中にあり。
またその大后比婆須比賣の命の時、石祝作六を定め、また土師部を定めたまひき。この后は狹木の寺間の陵七に葬めまつりき。
一 天の日矛の子孫。系譜は一三九頁にある。
二 海外の國。大陸における橘の原産地まで行つたのだろう。
三 その時節でなく熟する香のよい木の實。
四 カゲは蔓のように輪にしたもの。矛は、直線的なもの。どちらも苗木。
五 奈良縣生駒郡。
六 石棺を作る部族。
七 奈良縣生駒郡。
大帶日子淤斯呂和氣の天皇一、纏向の日代の宮二にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、吉備の臣等の祖、若建吉備津日子が女、名は針間の伊那毘の大郎女に娶ひて、生みませる御子、櫛角別の王、次に大碓の命、次に小碓の命三、またの名は倭男具那の命、次に倭根子の命、次に神櫛の王五柱。また八尺の入日子の命が女、八坂の入日賣の命に娶ひて、生みませる御子、若帶日子の命四、次に五百木の入日子の命、次に押別の命、次に五百木の入日賣の命、またの妾の御子、豐戸別の王、次に沼代の郎女、またの妾の御子、沼名木の郎女、次に香余理比賣の命、次に若木の入日子の王、次に吉備の兄日子の王、次に高木比賣の命、次に弟比賣の命。また日向の美波迦斯毘賣に娶ひて、生みませる御子、豐國別の王。また伊那毘の大郎女の弟、伊那毘の若郎女に娶ひて、生みませる御子、眞若の王、次に日子人の大兄の王。また倭建の命の曾孫五名は須賣伊呂大中つ日子の王が女、訶具漏比賣に娶ひて生みませる御子、大枝の王。およそこの大帶日子の天皇の御子たち、録せるは廿一王、記さざる五十九王、并はせて八十王います中に、若帶日子の命と倭建の命、また五百木の入日子の命と、この三王は太子六の名を負はし、それより餘七十七王は、悉に國國の國の造、また別、稻置、縣主七に別け賜ひき。かれ若帶日子の命は、天の下治らしめしき。小碓の命は、東西の荒ぶる神、また伏はぬ人どもを平けたまひき。次に櫛角別の王は、茨田の下の連等が祖なり。次に大碓の命は守の君、太田の君、島田の君が祖なり。次に神櫛の王は、木の國の酒部の阿比古、宇陀の酒部が祖なり。次に豐國別の王は、日向の國の造が祖なり。
ここに天皇、三野の國の造の祖、大根の王八が女、名は兄比賣弟比賣二孃子、それ容姿麗美しときこしめし定めて、その御子大碓の命を遣して、喚し上げたまひき。かれその遣さえたる大碓の命、召し上げずて、すなはちおのれみづからその二孃子に婚ひて、更に他し女を求ぎて、その孃子と詐り名づけて貢上りき。ここに天皇それ他し女なることを知らしめして、恆に長眼を經しめ九、また婚ひもせずて、惚めたまひき。かれその大碓の命、兄比賣に娶ひて生みませる子、押黒の兄日子の王。こは三野の宇泥須和氣が祖なり。また弟比賣に娶ひて生みませる子、押黒の弟日子の王。こは牟宜都の君等が祖なり。この御世に田部を定め、また東の淡の水門一〇を定め、また膳の大伴部を定め、また倭の屯家一一を定めたまひ、また坂手の池一二を作りて、すなはちその堤に竹を植ゑしめたまひき。
一 景行天皇。
二 奈良縣磯城郡。
三 ヤマトタケルの命。日本書紀に、父の天皇が皇子の誕生に當つて、石臼の上で躍つて喜んだから大碓の命、小碓の命というとある。
四 成務天皇。
五 皇子の曾孫の子だから、天皇の孫の孫の子に當りそれを妃としたというのは時間的に不可能である。ある氏の傳えをそのまま取り入れたものだろう。
六 後世のように皇太子を立てることは無かつたが、有力な后妃の生んだ皇子が次に帝位に昇るべき方として豫想されたのである。ヒツギのミコは、繼嗣の皇子の義。
七 いずれも古代の地方官で世襲である。
八 開化天皇の孫。
九 長く見て居させる。待ちぼうけさせる。
一〇 神奈川縣から千葉縣安房郡に渡る水路。
一一 大和の國の租税收納所。
一二 奈良縣磯城郡。
天皇、小碓の命に詔りたまはく、「何とかも汝の兄、朝夕の大御食にまゐ出來ざる。もはら汝ねぎ一教へ覺せ」と詔りたまひき。かく詔りたまひて後、五日に至るまでに、なほまゐ出でず。ここに天皇、小碓の命に問ひたまはく、「何ぞ汝の兄久しくまゐ出來ざる。もしいまだ誨へずありや」と問ひたまひしかば、答へて白さく、「既にねぎつ」とまをしたまひき。また「いかにかねぎつる二」と詔りたまひしかば、答へて白さく、「朝署三に厠に入りし時、待ち捕へ搤み批ぎて、その枝四を引き闕きて、薦につつみて投げ棄てつ」とまをしたまひき。
ここに天皇、その御子の建く荒き情を惶みて、詔りたまひしく、「西の方に熊曾建二人五あり。これ伏はず、禮旡き人どもなり。かれその人どもを取れ」とのりたまひて、遣したまひき。この時に當りて、その御髮を額に結はせり六。ここに小碓の命、その姨倭比賣の命七の御衣御裳を給はり、劒を御懷に納れていでましき。かれ熊曾建が家に到りて見たまへば、その家の邊に、軍三重に圍み、室を作りて居たり。ここに御室樂八せむと言ひ動みて、食物を設け備へたり。かれその傍を遊行きて、その樂する日を待ちたまひき。ここにその樂の日になりて、童女の髮のごとその結はせる髮を梳り垂れ、その姨の御衣御裳を服して、既に童女の姿になりて、女人の中に交り立ちて、その室内に入ります。ここに熊曾建兄弟二人、その孃子を見感でて、おのが中に坐せて、盛に樂げつ。かれその酣なる時になりて、御懷より劒を出だし、熊曾が衣の矜九を取りて、劒もちてその胸より刺し通したまふ時に、その弟建見畏みて逃げ出でき。すなはちその室の椅一〇の本に追ひ至りて、背の皮を取り劒を尻より刺し通したまひき。ここにその熊曾建白して曰さく、「その刀をな動かしたまひそ。僕白すべきことあり」とまをす。ここに暫許して押し伏せつ。ここに白して言さく、「汝が命は誰そ」と白ししかば、「吾は纏向の日代の宮にましまして、大八島國知らしめす、大帶日子淤斯呂和氣の天皇の御子、名は倭男具那の王なり。おれ熊曾建二人、伏はず、禮なしと聞こしめして、おれを取り殺れと詔りたまひて、遣せり」とのりたまひき。ここにその熊曾建白さく、「信に然らむ。西の方に吾二人を除きては、建く強き人無し。然れども大倭の國に、吾二人にまして建き男は坐しけり。ここを以ちて吾、御名を獻らむ。今よ後一一、倭建の御子一二と稱へまをさむ」とまをしき。この事白し訖へつれば、すなはち熟苽のごと一三、振り拆きて殺したまひき。かれその時より御名を稱へて、倭建の命とまをす。然ありて還り上ります時に、山の神河の神また穴戸の神一四をみな言向け和一五してまゐ上りたまひき。
一 なだめ乞う。
二 どんなふうになだめ乞うたのか。
三 朝早く。
四 手足。
五 クマソは地名で、クマの地(熊本縣)とソの地(鹿兒島縣)とを合わせ稱する。タケルは勇者の義。物語では兄弟二人となつている。
六 男子少年の風俗。
七 父の妹に當る。
八 新築を祝う酒宴。
九 衣服の襟。
一〇 庭上におりる階段。
一一 今から後。ヨは助詞。ユ、ヨリに同じ。
一二 日本書紀には、日本武の尊と書く。
一三 熟した瓜のように。
一四 海峽の神。
一五 平定しおだやかにして。
すなはち出雲の國に入りまして一、その出雲の國の建を殺らむとおもほして、到りまして、すなはち結交したまひき。かれ竊に赤檮もちて、詐刀二を作りて、御佩しとして、共に肥の河に沐しき。ここに倭建の命、河よりまづ上りまして、出雲建が解き置ける横刀を取り佩かして、「易刀せむ」と詔りたまひき。かれ後に出雲建河より上りて、倭建の命の詐刀を佩きき。ここに倭建の命「いざ刀合はせむ」と誂へたまふ。かれおのもおのもその刀を拔く時に、出雲建、詐刀をえ拔かず、すなはち倭建の命、その刀を拔きて、出雲建を打ち殺したまひき。ここに御歌よみしたまひしく、
やつめさす三 出雲建が 佩ける刀、
黒葛多纏き四 さ身無しにあはれ五。 (歌謠番號二四)
かれかく撥ひ治めて、まゐ上りて、覆奏まをしたまひき。
一 この物語は日本書紀には出雲振根がその弟飯入根を殺した話になつている。
二 にせの刀。木刀。
三 枕詞。八雲立つの轉訛。日本書紀にはヤクモタツになつている。
四 柄や鞘に植物の蔓を澤山卷いてある。
五 刀身が無いことだ。アハレは感動を表示している。
ここに天皇、また頻きて倭建の命に、「東の方十二道一の荒ぶる神、また伏はぬ人どもを、言向け和せ」と詔りたまひて、吉備の臣等が祖、名は御鉏友耳建日子を副へて遣す時に、比比羅木の八尋矛二を給ひき。かれ命を受けたまはりて、罷り行でます時に、伊勢の大御神の宮に參りて、神の朝廷三を拜みたまひき。すなはちその姨倭比賣の命に白したまひしくは、「天皇既に吾を死ねと思ほせか、何ぞ、西の方の惡ぶる人どもを撃りに遣して、返りまゐ上り來し間、幾時もあらねば、軍衆をも賜はずて、今更に東の方の十二道の惡ぶる人どもを平けに遣す。これに因りて思へばなほ吾を既に死ねと思ほしめすなり」とまをして、患へ泣きて罷りたまふ時に、倭比賣の命、草薙の劒を賜ひ、また御嚢を賜ひて、「もし急の事あらば、この嚢の口を解きたまへ」と詔りたまひき。
かれ尾張の國に到りまして、尾張の國の造が祖、美夜受比賣の家に入りたまひき。すなはち婚はむと思ほししかども、また還り上りなむ時に婚はむと思ほして、期り定めて、東の國に幸でまして、山河の荒ぶる神又は伏はぬ人どもを、悉に平け和したまひき。かれここに相武の國四に到ります時に、その國の造、詐りて白さく、「この野の中に大きなる沼あり。この沼の中に住める神、いとちはやぶる神五なり」とまをしき。ここにその神を看そなはしに、その野に入りましき。ここにその國の造、その野に火著けたり。かれ欺かえぬと知らしめして、その姨倭比賣の命の給へる嚢の口を解き開けて見たまへば、その裏に火打あり。ここにまづその御刀もちて、草を苅り撥ひ、その火打もちて火を打ち出で、向火を著けて六燒き退けて、還り出でまして、その國の造どもを皆切り滅し、すなはち火著けて、燒きたまひき。かれ今に燒遣七といふ。
そこより入り幸でまして、走水の海八を渡ります時に、その渡の神、浪を興てて、御船を𢌞して、え進み渡りまさざりき。ここにその后名は弟橘比賣の命九の白したまはく、「妾、御子に易りて海に入らむ。御子は遣さえし政遂げて、覆奏まをしたまはね」とまをして、海に入らむとする時に、菅疊八重、皮疊八重、絁疊八重を波の上に敷きて一〇、その上に下りましき一一。ここにその暴き浪おのづから伏ぎて、御船え進みき。ここにその后の歌よみしたまひしく、
さねさし一二 相摸の小野に
燃ゆる火の 火中に立ちて、
問ひし君はも。 (歌謠番號二五)
かれ七日の後に、その后の御櫛海邊に依りき。すなはちその櫛を取りて、御陵を作りて治め置きき一三。
そこより入り幸でまして、悉に荒ぶる蝦夷ども一四を言向け、また山河の荒ぶる神どもを平け和して、還り上りいでます時に、足柄の坂下に到りまして、御粮聞し食す處に、その坂の神、白き鹿になりて來立ちき。ここにすなはちその咋し遺りの蒜の片端もちて、待ち打ちたまへば、その目に中りて、打ち殺しつ。かれその坂に登り立ちて、三たび歎かして詔りたまひしく、「吾嬬はや」と詔りたまひき。かれその國に名づけて阿豆麻といふなり。
すなはちその國より越えて、甲斐に出でて、酒折一五の宮にまします時に歌よみしたまひしく、
新治 筑波一六を過ぎて、幾夜か宿つる。 (歌謠番號二六)
ここにその御火燒の老人、御歌に續ぎて歌よみして曰ひしく、
かがなべて一七 夜には九夜 日には十日を。 (歌謠番號二七)
と歌ひき。ここを以ちてその老人を譽めて、すなはち東の國の造一八を給ひき。
その國より科野の國一九に越えまして、科野の坂二〇の神を言向けて、尾張の國に還り來まして、先の日に期りおかしし美夜受比賣のもとに入りましき。ここに大御食獻る時に、その美夜受比賣、大御酒盞を捧げて獻りき。ここに美夜受比賣、その襲二一の襴に月經著きたり。かれその月經を見そなはして、御歌よみしたまひしく、
ひさかたの二二 天の香山
利鎌二三に さ渡る鵠二四、
弱細二五 手弱腕を
枕かむとは 吾はすれど、
さ寢むとは 吾は思へど、
汝が著せる 襲の襴に
月立ちにけり。 (歌謠番號二八)
ここに美夜受比賣、御歌に答へて歌よみして曰ひしく、
高光る 日の御子
やすみしし 吾が大君二六、
あら玉の二七 年が來經れば、
あら玉の 月は來經往く。
うべなうべな二八 君待ちがたに二九、
吾が著せる 襲の裾に
月立たなむよ三十。 (歌謠番號二九)
かれここに御合ひしたまひて、その御刀の草薙の劒を、その美夜受比賣のもとに置きて、伊服岐の山三一の神を取りに幸でましき。
一 九四頁脚註參照。
二 ヒイラギの木の柄の長い桙。ヒイラギは葉の縁にトゲがあり魔物に對して威力があるとされる。
三 神が諸事を執り行われる所の意。
四 相模の國に同じ。神奈川縣の一部。
五 暴威を振う神。
六 こちらから火をつけて向うへ燒く。野火に逢つた時には手元からも火をつけて先に野を燒いてしまつて難を免れる方法である。
七 燒津とする傳えもある。靜岡縣の燒津町がその傳説地であるが、相武の國の事としているので問題が殘る。
八 浦賀水道から千葉縣に渡ろうとした。
九 日本書紀に穗積氏の女とする。
一〇 波の上に多くの敷物を敷いて。
一一 海上で風波の難にあうのは、その海の神が船中の人または物の類を欲するからで、その神の欲するものを海に入れれば風波がしずまるとする思想がある。そこで姫が皇子に代つて海に入つて風波をしずめたのである。
一二 枕詞。嶺が立つている義だろうとする。嶺は靜岡縣とすれば富士山、神奈川縣とすれば大山である。
一三 所在不明。浦賀市走水に走水神社があつて、倭建の命と弟橘姫とを祭る。
一四 アイヌ族をいう。
一五 山梨縣西山梨郡。
一六 共に茨城縣の地名。
一七 日を並べて。
一八 東方の國の長官。實際上はそのような廣大な土地の國の造を置かない。
一九 信濃の國。今の長野縣。
二〇 長野縣の伊那から岐阜縣の惠那に通ずる山路。木曾路は奈良時代になつて開通された。
二一 四四頁脚註參照。
二二 枕詞。語義不明。日のさす方か。
二三 鵠の渡る線の形容か。
二四 クビは、クグヒに同じ。コヒ、コフともいう。白鳥。但し杙の義とする説もある。以上、たわや腕の譬喩。
二五 よわよわとして細い。修飾句。
二六 以上、天皇または皇子をたたえる。光りかがやく太陽のような御子、天下を知ろしめすわが大君。ヤスミシシ、語義不明。
二七 枕詞。みがかない玉の意。ト(磨ぐ)に冠する。月に冠するのは轉用。
二八 ほんとにとうなずく意の語。底本にウベナウベナウベナとする。
二九 カタニは、不能の意の助動詞。萬葉集に多くカテニの形を取り、ここはその原形。
三十 當然そうなるだろうの語意と見られる。この語形は、普通願望の意を表示するに使用されるのに、ここに願望になつていないのは特例とされる。ヨは間投の助詞。
三一 滋賀縣と岐阜縣との堺にある高山。
ここに詔りたまひしく、「この山の神は徒手に直に取りてむ一」とのりたまひて、その山に騰りたまふ時に、山の邊に白猪逢へり。その大きさ牛の如くなり。ここに言擧して二詔りたまひしく、「この白猪になれるは、その神の使者にあらむ。今殺らずとも、還らむ時に殺りて還りなむ」とのりたまひて騰りたまひき。ここに大氷雨を零らして、倭建の命を打ち惑はしまつりき。この白猪に化れるは、その神の使者にはあらずて、その神の正
身なりしを、言擧したまへるによりて、惑はさえつるなり。かれ還り下りまして、玉倉部の清泉三に到りて、息ひます時に、御心やや寤めたまひき。かれその清泉に名づけて居寤の清泉といふ。
其處より發たして、當藝の野四の上に到ります時に、詔りたまはくは、「吾が心、恆は虚よ翔り行かむと念ひつるを五、今吾が足え歩かず、たぎたぎしく六なりぬ」とのりたまひき。かれ其地に名づけて當藝といふ。其地よりややすこし幸でますに、いたく疲れませるに因りて、御杖を衝かして、ややに歩みたまひき。かれ其地に名づけて杖衝坂七といふ。尾津の前八の一つ松のもとに到りまししに、先に、御食せし時、其地に忘らしたりし御刀、失せずてなほありけり。ここに御歌よみしたまひしく、
尾張に 直に向へる九
尾津の埼なる 一つ松、吾兄を一〇。
一つ松 人にありせば、
大刀佩けましを 衣着せましを。
一つ松、吾兄を。 (歌謠番號三〇)
其地より幸でまして、三重の村一一に到ります時に、また詔りたまはく、「吾が足三重の勾一二なして、いたく疲れたり」とのりたまひき。かれ其地に名づけて三重といふ。
そこより幸でまして、能煩野一三に到ります時に、國思はして歌よみしたまひしく、
倭は 國のまほろば一四、
たたなづく 青垣一五、
山隱れる 倭し 美し。 (歌謠番號三一)
また、歌よみしたまひしく、
命の 全けむ人は、
疊薦一六 平群の山一七の
熊白檮が葉を
髻華に插せ一八。その子。 (歌謠番號三二)
この歌は思國歌一九なり。また歌よみしたまひしく、
はしけやし二〇 吾家の方よ二一 雲居起ち來も。 (歌謠番號三三)
こは片歌二二なり。この時御病いと急になりぬ。ここに御歌よみしたまひしく、
孃子の 床の邊に
吾が置きし つるぎの大刀二三、
その大刀はや。 (歌謠番號三四)
と歌ひ竟へて、すなはち崩りたまひき。ここに驛使を上りき。
一 退治しよう。
二 言い立てをして。
三 滋賀縣坂田郡の醒が井はその傳説地。
四 岐阜縣養老郡。
五 空中を飛んで行こうと思つたが。
六 びつこを引く形容。高かつたり低かつたりするさま。
七 三重縣三重郡。
八 三重縣桑名郡。サキは、海上陸上に限らず突出した地形をいう。ここは陸上。
九 じかに對している。
一〇 「あなたよ」という意の語で、歌詞を歌う時のはやしである。日本書紀には、アハレになつている。
一一 三重縣三重郡。
一二 餅米をこねて、ねじまげて作つた餅。
一三 三重縣鈴鹿郡。
一四 もつともすぐれたところ。マは接頭語。ロバは接尾語。日本書紀にマホラマ。
一五 重なり合つている青い垣。山のこと。
一六 枕詞。敷物にしたコモ(草の名)。ヘ(隔)に冠する。
一七 奈良縣生駒郡。
一八 美しい白檮の木の葉を頭髮にさせ。ウズは髮にさす飾。もと魔よけの信仰のためにさすもの。
一九 歌曲としての名。
二〇 愛すべき。愛しきに、助詞ヤシの接續したもの。ハシキヨシ、ハシキヤシともいう。
二一 わが家の方から。
二二 五音七音七音の三句の歌の稱。以上三首、日本書紀に景行天皇の御歌とする。
二三 普通ツルギは兩刃、タチは片刃の武器をいうが、嚴密な區別ではない。
ここに倭にます后たち、また御子たちもろもろ下りきまして、御陵一を作りき。すなはち其地のなづき田二に匍匐ひ𢌞りて、哭しつつ歌よみしたまひしく、
なづきの 田の稻幹に、
稻幹に 蔓ひもとほろふ 薢葛三。 (歌謠番號三五)
ここに八尋白智鳥四になりて、天翔りて、濱に向きて飛びいでます。ここにその后たち御子たち、その小竹の苅杙五に、足切り破るれども、その痛みをも忘れて、哭きつつ追ひいでましき。この時、歌よみしたまひしく、
淺小竹原 腰なづむ六。
虚空は行かず、足よ行くな七。 (歌謠番號三六)
またその海水に入りて、なづみ行でます時、歌よみしたまひしく、
海が行けば 腰なづむ。
大河原の 植草、
海がは いさよふ八。 (歌謠番號三七)
また飛びてその磯に居たまふ時、歌よみしたまひしく、
濱つ千鳥 濱よ行かず九 磯傳ふ。 (歌謠番號三八)
この四歌は、みなその御葬に歌ひき。かれ今に至るまで、その歌は天皇の大御葬に歌ふなり。かれその國より飛び翔り行でまして、河内の國の志幾一〇に留まりたまひき。かれ其地に御陵を作りて、鎭まりまさしめき。すなはちその御陵に名づけて白鳥の御陵といふ。然れどもまた其地より更に天翔りて飛び行でましき。およそこの倭建の命、國平けに𢌞り行でましし時、久米の直が祖、名は七拳脛、恆に膳夫として御伴仕へまつりき。
一 能褒野の御陵。
二 御陵の周圍の田。
三 山の芋科の蔓草の蔓。譬喩で這いまつわる状を描く。
四 大きな白鳥。倭建の命の神靈が化したものとする。
五 小竹の刈つたあと。
六 腰が難澁する。
七 徒歩で行くよ。ナは感動の助詞。
八 ためらう。
九 濱からは行かないで。
一〇 大阪府南河内郡。
この倭建の命、伊玖米の天皇一が女、布多遲の伊理毘賣の命に娶ひて生みませる御子帶中津日子の命二一柱。またその海に入りましし弟橘比賣の命三に娶ひて生みませる御子、若建の王一柱。また近つ淡海の安の國の造の祖、意富多牟和氣が女、布多遲比賣に娶ひて、生みませる御子、稻依別の王一柱。また吉備の臣建日子が妹、大吉備の建比賣に娶ひて、生みませる御子、建貝兒の王一柱。また山代の玖玖麻毛理比賣に娶ひて生みませる御子、足鏡別の王一柱。またある妾の子、息長田別の王。およそこの倭建の命の御子たち、并はせて六柱。かれ帶中津日子の命は、天の下治らしめしき。次に稻依別の王は、犬上の君、建部の君等が祖なり。次に建貝兒の王は、讚岐の綾の君、伊勢の別、登袁の別、麻佐の首、宮の首の別等が祖なり。足鏡別の王は鎌倉の別、小津の石代の別、漁田の別が祖なり。次に息長田別の王の子、杙俣長日子の王。この王の子、飯野の眞黒比賣の命、次に息長眞若中つ比賣、次に弟比賣三柱。かれ上にいへる若建の王、飯野の眞黒比賣に娶ひて生みませる子、須賣伊呂大中つ日子の王。この王、淡海の柴野入杵が女、柴野比賣に娶ひて生みませる子、迦具漏比賣の命。かれ大帶日子の天皇、この迦具漏比賣の命に娶ひて生みませる子、大江の王一柱。この王、庶妹銀の王に娶ひて生みませる子、大名方の王、次に大中つ比賣の命二柱。かれこの大中つ比賣の命は、香坂の王、忍熊の王の御祖なり。
この大帶日子の天皇の御年、一百三十七歳、御陵は山の邊の道の上四にあり。
一 垂仁天皇。
二 仲哀天皇。
三 この事、一一一頁に出ている。
四 奈良縣磯城郡。
若帶日子の天皇一、近つ淡海の志賀の高穴穗の宮二にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、穗積の臣等の祖、建忍山垂根が女、名は弟財の郎女に娶ひて、生みませる御子和訶奴氣の王。かれ建内の宿禰を大臣三として、大國小國四の國の造を定めたまひ、また國國の堺、また大縣小縣五の縣主を定めたまひき。
天皇、御年九十五歳乙卯の年三月十五
日崩りたまひき。御陵は、沙紀の多他那美六にあり。
一 成務天皇。
二 滋賀縣滋賀郡。
三 宮廷の臣中の最高の位置。この後、建内の宿禰の子孫がこれに任ぜられた。
四 諸國の意。
五 クニよりはアガタの方が小さい。
六 奈良縣生駒郡。
帶中つ日子の天皇一、穴門の豐浦の宮二また筑紫の訶志比の宮三にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、大江の王が女、大中津比賣の命に娶ひて、生みませる御子、香坂の王、忍熊の王二柱。また息長帶比賣の命四に娶ひたまひき。この太后の生みませる御子、品夜和氣の命、次に大鞆和氣の命、またの名は品陀和氣の命二柱。この太子の御名、大鞆和氣の命と負はせる所以は、初め生れましし時に、鞆五なす宍、御腕に生ひき。かれその御名に著けまつりき。ここを以ちて腹中にましまして國知らしめしき。この御世に、淡道の屯家を定めたまひき。
一 仲哀天皇。
二 山口縣豐浦郡。
三 福岡縣糟屋郡香椎町。
四 神功皇后。開化天皇の系統。九〇頁參照。母系の系譜は一三九頁にある。
五 獸皮で球形に作り左の手につける。
その太后息長帶日賣の命は、當時神歸せ一したまひき。かれ天皇筑紫の訶志比の宮にましまして熊曾の國を撃たむとしたまふ時に、天皇御琴を控かして、建内の宿禰の大臣沙庭二に居て、神の命を請ひまつりき。ここに太后、神歸せして、言教へ覺し詔りたまひつらくは、「西の方に國あり。金銀をはじめて、目耀く種種の珍寶その國に多なるを、吾今その國を歸せたまはむ」と詔りたまひつ。ここに天皇、答へ白したまはく、「高き地に登りて西の方を見れば、國は見えず、ただ大海のみあり」と白して、詐りせす神と思ほして、御琴を押し退けて、控きたまはず、默いましき。ここにその神いたく忿りて、詔りたまはく、「およそこの天の下は、汝の知らすべき國にあらず、汝は一道に向ひたまへ三」と詔りたまひき。ここに建内の宿禰の大臣白さく、「恐し、我が天皇。なほその大御琴あそばせ」とまをす。ここにややにその御琴を取り依せて、なまなまに控きいます。かれ、幾時もあらずて、御琴の音聞えずなりぬ。すなはち火を擧げて見まつれば、既に崩りたまひつ。
ここに驚き懼みて、殯の宮四にませまつりて、更に國の大幣を取りて五、生剥、逆剥、阿離、溝埋、屎戸、上通下通婚、馬婚、牛婚、鷄婚、犬婚の罪の類を種種求六ぎて、國の大祓七して、また建内の宿禰沙庭に居て、神の命を請ひまつりき。ここに教へ覺したまふ状、つぶさに先の日の如くありて、「およそこの國は、汝命の御腹にます御子の知らさむ國なり」とのりたまひき。
ここに建内の宿禰白さく、「恐し、我が大神、その神の御腹にます御子は何の御子ぞも」とまをせば、答へて詔りたまはく、「男子なり」と詔りたまひき。ここにつぶさに請ひまつらく、「今かく言教へたまふ大神は、その御名を知らまくほし」とまをししかば、答へ詔りたまはく、「こは天照らす大神の御心なり。また底筒の男、中筒の男、上筒の男三柱の大神八なり。この時にその三柱の大神
の御名は顯したまへり。今まことにその國を求めむと思ほさば、天つ神地つ祇、また山の神海河の神たちまでに悉に幣帛奉り、我が御魂を御船の上にませて、眞木の灰を瓠に納九れ、また箸と葉盤一〇とを多に作りて、皆皆大海に散らし浮けて、度りますべし」とのりたまひき。
かれつぶさに教へ覺したまへる如くに、軍を整へ、船雙めて、度りいでます時に、海原の魚ども、大きも小きも、悉に御船を負ひて渡りき。ここに順風いたく起り、御船浪のまにまにゆきつ。かれその御船の波、新羅の國一一に押し騰りて、既に國半まで到りき。ここにその國主一二、畏ぢ惶みて奏して言さく、「今よ後、天皇の命のまにまに、御馬甘として、年の毎に船雙めて船腹乾さず、柂檝乾さず、天地のむた、退きなく仕へまつらむ」とまをしき。かれここを以ちて、新羅の國をば、御馬甘と定めたまひ、百濟の國一三をば、渡の屯家一四と定めたまひき。ここにその御杖を新羅の國主の門に衝き立てたまひ、すなはち墨江の大神の荒御魂一五を、國守ります神と祭り鎭めて還り渡りたまひき。
一 神靈をよせて教を受けること。
二 祭の場。
三 ひたすらに一つの方向に進め。
四 葬らない前に祭をおこなう宮殿。
五 穢が出來たので、それを淨めるために、その料として筑紫の一國から品物を取り立てる。その産物などである。
六 穢を生じたのは、種々の罪が犯されたからであるからまずその罪の類を求め出す。屎戸までは、岩戸の物語(三二頁)に出た。生剥逆剥は、馬の皮をむく罪。屎戸は、きたないものを清淨なるべき所に散らす罪。上通下通婚以下は、不倫の婚姻行爲。
七 一國をあげての罪穢を拂う行事をして。
八 住吉神社の祭神。二七頁參照。
九 木を燒いて作つた灰をヒサゴ(蔓草の實、ユウガオ、ヒョウタンの類)に入れて。これは魔よけのためと解せられる。
一〇 木の葉の皿。これは食物を與える意。
一一 當時朝鮮半島の東部を占めていた國。
一二 朝鮮語で王または貴人をいう。コニキシともコキシともいう。
一三 當時朝鮮半島の南部を占めていた國。
一四 渡海の役所。
一五 神靈の荒い方面。
かれその政いまだ竟へざる間に、妊ませるが、産れまさむとしつ。すなはち御腹を鎭ひたまはむとして、石を取らして、御裳の腰に纏かして、筑紫の國に渡りましてぞ、その御子は生れましつる。かれその御子の生れましし地に名づけて、宇美一といふ。またその御裳に纏かしし石は、筑紫の國の伊斗の村二にあり。
また筑紫の末羅縣の玉島の里三に到りまして、その河の邊に御食したまふ時に、四月の上旬なりしを、ここにその河中の磯にいまして、御裳の絲を拔き取り、飯粒を餌にして、その河の年魚を釣りたまひき。その河の名を小河といふ。また
その磯の名を勝門比賣といふ。かれ四月の上旬の時、女ども裳の絲を拔き、飯粒を餌にして、年魚釣ること今に至るまで絶えず。
一 福岡縣糟屋郡。
二 同糸島郡。萬葉集卷の五にこの石を詠んだ歌がある。
三 佐賀縣東松浦郡の玉島川。
ここに息長帶日賣の命、倭に還り上ります時に人の心疑はしきに因りて、喪船を一つ具へて、御子をその喪船に載せまつりて、まづ「御子は既に崩りましぬ」と言ひ漏らさしめたまひき。かくして上りいでましし時に、香坂の王忍熊の王聞きて、待ち取らむと思ほして、斗賀野一に進み出でて、祈狩二したまひき。ここに香坂の王、歴木に騰りいまして見たまふに、大きなる怒り猪出でて、その歴木を掘りて、すなはちその香坂の王を咋ひ食みつ。その弟忍熊の王、その態を畏まずして、軍を興し、待ち向ふる時に、喪船に赴ひて空し船を攻めたまはむとす。ここにその喪船より軍を下して戰ひき。
その時忍熊の王は、難波の吉師部が祖、伊佐比の宿禰を將軍とし、太子の御方には、丸邇の臣が祖、難波根子建振熊の命を、將軍としたまひき。かれ追ひ退けて山代三に到りし時に、還り立ちておのもおのも退かずて相戰ひき。ここに建振熊の命權りて、「息長帶日賣の命は、既に崩りましぬ。かれ、更に戰ふべくもあらず」といはしめて、すなはち弓絃を絶ちて、欺りて歸服ひぬ。ここにその將軍既に詐りを信けて、弓を弭し、兵を藏めつ。ここに頂髮四の中より設けの弦五を採り出で更に張りて追ひ撃つ。かれ逢坂六に逃げ退きて、對き立ちてまた戰ふ。ここに追ひ迫め敗りて、沙沙那美七に出でて、悉にその軍を斬りつ。ここにその忍熊の王、伊佐比の宿禰と共に追ひ迫めらえて、船に乘り、海八に浮きて、歌よみして曰ひしく、
いざ吾君九、
振熊が 痛手負はずは、
鳰鳥一〇の 淡海の海一一に
潛きせなわ一二。 (歌謠番號三九)
と歌ひて、すなはち海に入りて共に死にき。
一 兵庫縣武庫郡。
二 神に誓つて狩をして、これによつて神意を窺う。ここでは凶兆であつた。
三 山城に同じ。
四 頭上にてつかねた髮。
五 用意の弓弦。
六 京都府と滋賀縣との堺の山。
七 琵琶湖の南方の地。
八 琵琶湖。
九 さああなた。
一〇 カイツブリ。水鳥。敍述による枕詞。
一一 琵琶湖。
一二 水にもぐりましよう。ナは自分の希望を現す助詞。ワは感動の助詞。
かれ建内の宿禰の命、その太子を率まつりて、御禊一せむとして、淡海また若狹の國を經歴りたまふ時に、高志の前の角鹿二に、假宮を造りてませまつりき。ここに其地にます伊奢沙和氣の大神の命三、夜の夢に見えて、「吾が名を御子の御名に易へまくほし」とのりたまひき。ここに言祷ぎて白さく、「恐し、命のまにまに、易へまつらむ」とまをす。またその神詔りたまはく、「明日の旦濱にいでますべし。易名の幣四獻らむ」とのりたまふ。かれその旦濱にいでます時に、鼻毀れたる入鹿魚、既に一浦に依れり。ここに御子、神に白さしめたまはく、「我に御食の魚給へり」とまをしたまひき。かれまたその御名をたたへて御食津大神とまをす。かれ今に氣比の大神とまをす。またその入鹿魚の鼻の血臭かりき。かれその浦に名づけて血浦といふ。今は都奴賀といふなり。
一 水によつて穢を拂う行事。既出。
二 越前の國の敦賀市。
三 同市氣比神宮の祭神。
四 名をとりかえたしるしの贈り物。
ここに還り上ります時に、その御祖息長帶日賣の命、待酒一を釀みて獻りき。ここにその御祖、御歌よみしたまひしく、
この御酒は わが御酒ならず。
酒の長二 常世三にいます
石立たす四 少名御神五の、
神壽き 壽き狂ほし
豐壽き 壽きもとほし六
獻り來し 御酒ぞ
乾さずをせ七。ささ八。 (歌謠番號四〇)
かく歌ひたまひて、大御酒獻りき。ここに建内の宿禰の命、御子のために答へて歌ひして曰ひしく、
この御酒を 釀みけむ人は、
その鼓九 臼に立てて一〇
歌ひつつ 釀みけれかも一一、
舞ひつつ 釀みけれかも、
この御酒の 御酒の
あやに うた樂し一二。ささ。 (歌謠番號四一)
こは酒樂一三の歌なり。
およそこの帶中津日子の天皇の御年五十二歳。壬戌の年六月十一
日崩りたまひき。御陵は河内の惠賀の長江一四にあり。皇后は御年一百歳にして崩りましき。狹城の楯列の陵一五に葬めまつりき。
一 人を待つて飮む酒。
二 酒をつかさどる長官。原文「久志能加美」美はミの甲類の字であり、神のミは乙類であるから、酒の神とする説は誤。
三 永久の世界。また海外。スクナビコナは海外へ渡つたという。
四 石のように立つておいでになる。
五 スクナビコナに同じ。
六 祝い言をさまざまにして。
七 盃がかわかないようにつづけてめしあがれ。
八 はやし詞。
九 後世のツヅミの大きいもの。太鼓。
一〇 酒をかもす入れものとして。
一一 酒を作つたからか。疑問の已然條件法。
一二 大變にたのしい。
一三 歌曲の名。この二首、琴歌譜にもある。
一四 大阪府南河内郡。
一五 奈良縣生駒郡。
品陀和氣の命一、輕島の明の宮二にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、品陀の眞若の王三が女、三柱の女王に娶ひたまひき。一柱の御名は、高木の入日賣の命、次に中日賣の命、次に弟日賣の命。この女王たちの父、品陀の眞若の王は、五百木の入日子の命の、尾張の連の祖、建伊那陀の宿禰が女、志理都紀斗賣に娶ひて、生める子なり。
かれ高木の入日賣の御子、額田の大中つ日子の命、次に大山守の命、次に伊奢の眞若の命、次に妹大原の郎女、次に高目の郎女五柱。中日賣の命の御子、木の荒田の郎女、次に大雀の命四、次に根鳥の命三柱。弟日賣の命の御子、阿部の郎女、次に阿貝知の三腹の郎女、次に木の菟野の郎女、次に三野の郎女五柱。また丸邇の比布禮の意富美が女、名は宮主矢河枝比賣に娶ひて生みませる御子、宇遲の和紀郎子、次に妹八田の若郎女、次に女鳥の王三柱。またその矢河枝比賣が弟、袁那辨の郎女に娶ひて生みませる御子、宇遲の若郎女一柱。また咋俣長日子の王が女、息長眞若中つ比賣に娶ひて、生みませる御子、若沼毛二俣の王一柱。また櫻井の田部の連の祖、島垂根が女、糸井比賣に娶ひて、生みませる御子、速總別の命一柱。また日向の泉の長比賣に娶ひて、生みませる御子、大羽江の王、次に小羽江の王、次に檣日の若郎女三柱。また迦具漏比賣に娶ひて生みませる御子、川原田の郎女、次に玉の郎女、次に忍坂の大中つ比賣、次に登富志の郎女、次に迦多遲の王五柱。また葛城の野の伊呂賣に娶ひて、生みませる御子、伊奢の麻和迦の王一柱。この天皇の御子たち、并はせて二十六王男王十一、
女王十五。この中に大雀の命は、天の下治らしめしき。
一 應神天皇。
二 奈良縣高市郡。
三 景行天皇の皇子。
四 仁徳天皇。
ここに天皇、大山守の命と大雀の命とに問ひて詔りたまはく、「汝等は、兄なる子と弟なる子と、いづれか愛しき」と問はしたまひき。天皇のこの問を發したまへる故は、宇遲の和紀
郎子に天の下治らしめむ御心ましければなり。ここに大山守の命白さく、「兄なる子を愛しとおもふ」と白したまひき。次に大雀の命は、天皇の問はしたまふ大御心を知らして、白さく、「兄なる子は、既に人となりて、こは悒きこと無きを、弟なる子は、いまだ人とならねば、こを愛しとおもふ」とまをしたまひき。ここに天皇詔りたまはく、「雀、吾君の言ぞ、我が思ほすが如くなる」とのりたまひき。すなはち詔り別けたまひしくは、「大山守の命は、山海の政をまをしたまへ一。大雀の命は、食國の政執りもちて白したまへ二。宇遲の和紀郎子は、天つ日繼知らせ三」と詔り別けたまひき。かれ大雀の命は、大君の命に違ひまつらざりき。
一 海山に關する事をつかさどりたまえ。ここは海はつけていうだけで、山林についてである。この大山守の命の物語は、山林の事を支配する部族が、そのおこりを語るのである。
二 天下の政治をおこないたまえ。
三 天皇の位につきたまえ。
或る時天皇、近つ淡海の國一に越え幸でましし時、宇遲野二の上に御立して、葛野三を望けまして、歌よみしたまひしく、
千葉の四 葛野を見れば、
百千足る 家庭も見ゆ五。
國の秀も六見ゆ。 (歌謠番號四二)
と歌ひたまひき。
一 滋賀縣。
二 京都府宇治郡。
三 京都市。今の桂川の平野。
四 枕詞。葉の多い意で、葛に冠する。
五 澤山充實している村邑も見える。ヤニハは、家屋のある平地。
六 國土のすぐれている所も見える。クニノホは、「國のまほろば」の接頭語接尾語の無い形。
かれ木幡の村一に到ります時に、その道衢に、顏美き孃子遇へり。ここに天皇、その孃子に問ひたまはく、「汝は誰が子ぞ」と問はしければ、答へて白さく、「丸邇の比布禮の意富美二が女、名は宮主矢河枝比賣」とまをしき。天皇すなはちその孃子に詔りたまはく、「吾明日還りまさむ時、汝の家に入りまさむ」と詔りたまひき。かれ矢河枝比賣、委曲にその父に語りき。ここに父答へて曰はく、「こは大君にますなり。恐し、我が子仕へまつれ」といひて、その家を嚴飾りて、候ひ待ちしかば、明日入りましき。かれ大御饗獻る時に、その女矢河枝比賣の命に大御酒盞を取らしめて獻る。ここに天皇、その大御酒盞を取らしつつ、御歌よみしたまひしく、
この蟹や三 何處の蟹。
百傳ふ四 角鹿の蟹。
横さらふ五 何處に到る。
伊知遲島 美島六に著き、
鳰鳥の七 潛き息衝き、
しなだゆふ八 佐佐那美道を
すくすくと 吾が行ませばや、
木幡の道に 遇はしし孃子、
後方は 小楯ろかも九。
齒並は 椎菱なす一〇。
櫟井の一一 丸邇坂の土を、
初土は一二 膚赤らけみ
底土は に黒き故、
三栗の一三 その中つ土を
頭著く一四 眞火には當てず
眉畫き 濃に書き垂れ
遇はしし女。
かもがと一五 吾が見し兒ら
かくもがと 吾が見し兒に
うたたけだに一六 向ひ居るかも
い副ひ居るかも。 (歌謠番號四三)
かくて御合まして、生みませる御子、宇遲の和紀郎子なり。
一 京都府乙訓郡。
二 丸邇氏は、奈良の春日に居住して富み榮え、しばしばその女を皇室に納れている。古事記の歌物語の多くが、この氏と關係がある。後に春日氏となつた。柿本氏もこの別れである。丸邇氏の歌物語については、角川源義君にその研究がある。
三 ヤは提示の助詞。蟹は鹿と共に古代食膳の常用とされ親しまれていたので、これらに扮裝して舞い歌われた。その歌は、そのものの立場において、歌うのでこれもその一つをもととしている。
四 枕詞。多くの土地を傳い行く意という。
五 横あるきをして。
六 いずれも所在不明。
七 枕詞。ニホドリノに同じ。
八 枕詞。段になつて撓んでいる意という。
九 うしろ姿は楯のようだ。ロは接尾語。
一〇 椎のみや菱のようだ。諸説がある。
一一 イチヒの木の立つ井のある。
一二 上の方の土。
一三 枕詞。
一四 頭にあたる。
一五 かようにありたいと。現に今あるようにと。次のかくもがとも同じ。
一六 語義不明。ウタタ(轉)を含むとすれば、その副詞形で、轉じて、今は變わつての意になる。
天皇、日向の國の諸縣の君が女、名は髮長比賣それ顏容麗美しと聞こしめして、使はむとして、喚し上げたまふ時に、その太子大雀の命、その孃子の難波津に泊てたるを見て、その姿容の端正に感でたまひて、すなはち建内の宿禰の大臣に誂へてのりたまはく、「この日向より喚し上げたまへる髮長比賣は、天皇の大御所に請ひ白して、吾に賜はしめよ」とのりたまひき。ここに建内の宿禰の大臣、大命を請ひしかば、天皇すなはち髮長比賣をその御子に賜ひき。賜ふ状は、天皇の豐の明聞こしめしける日一に、髮長比賣に大御酒の柏を取二らしめて、その太子に賜ひき。ここに御歌よみしたまひしく、
いざ子ども三 野蒜摘みに、
蒜摘みに わが行く道の
香ぐはし 花橘は、
上枝は 鳥居枯らし、
下枝は 人取り枯らし、
三栗の 中つ枝の
ほつもり四 赤ら孃子を、
いざささば五 好らしな。 (歌謠番號四四)
また、御歌よみしたまひしく、
水渟る六 依網の池七の
堰杙打ち八が 刺しける知らに九、
蒪繰り 延へけく一〇知らに、
吾が心しぞ いやをこにして 今ぞ悔しき。 (歌謠番號四五)
と、かく歌ひて賜ひき。かれその孃子を賜はりて後に、太子の歌よみしたまひしく、
道の後一一 古波陀孃子一二を、
雷のごと 聞えしかども
相枕纏く。 (歌謠番號四六)
また、歌よみしたまひしく、
道の後 古波陀孃子は、
爭はず 寢しくをしぞも一三、
愛しみ思ふ。 (歌謠番號四七)
と歌ひたまひき。
一 酒宴をなされた日。
二 廣い葉に酒を盛つた。
三 さあ皆の者。子どもは目下の者をいう。
四 語義不明。秀つ守りで、高く守つている意か。目立つてよい意に赤ら孃子を修飾するのだろう。日本書紀にはフホゴモリとある。
五 さあなされたら。ササは、動詞爲の敬語の未然形だろう。動詞寢の敬語をナスという類。
六 敍述による枕詞。
七 大阪市東成區。
八 その池の水をたたえるヰのクヒをうつてあるのが。
九 ニは打消の助動詞ヌの連用形。
一〇 のびていること。ケは時の助動詞キの古い活用形だろうとされる。以上譬喩で、太子の思いがなされていたことをえがく。
一一 遠い土地の。
一二 コハダは日向の國の地名だろう。
一三 寢たことを。上のシは時の助動詞。クはコトの意の助詞。ヲシゾモ、助詞。
また、吉野の國主一ども、大雀の命の佩かせる御刀を見て、歌ひて曰ひしく、
品陀の 日の御子二、
大雀 大雀。
佩かせる大刀、
本劍 末ふゆ三。
冬木の すからが下木の四 さやさや五。 (歌謠番號四八)
また、吉野の白檮の生六に横臼七を作りて、その横臼に大御酒を釀みて、その大御酒を獻る時に、口鼓を撃ち八、伎をなして九、歌ひて曰ひしく、
白檮の生に 横臼を作り、
横臼に 釀みし大御酒、
うまらに 聞こしもちをせ一〇。
まろが父一一。 (歌謠番號四九)
この歌は、國主ども大贄獻る時時、恆に今に至るまで歌ふ歌なり。
一 吉野山中の住民。七六頁に國巣とある。
二 應神天皇の皇子樣。
三 劒の刃先が威力を現している。
四 冬の木の枯れている木の下の。この二句、種々の説がある。
五 劒の清明であるのをたたえた語。
六 白檮の生えているところ。
七 たけの低い臼。その臼で材料をついて酒をかもす。
八 太鼓のような聲を出して。
九 手ぶり物まねなどして。
一〇 うまそうに召しあがれ。ヲセは、食すの命令形。
一一 われらが父よ。
この御世に、海部、山部、山守部、伊勢部一を定めたまひき。また劒の池二を作りき。また新羅人まゐ渡り來つ。ここを以ちて建内の宿禰の命、引き率て、堤の池に渡りて三、百濟の池四を作りき。
また百濟の國主照古王五、牡馬壹疋、牝馬壹疋を、阿知吉師六に付けて貢りき。この阿知吉師は阿直の史等が祖なり。また大刀と大鏡とを貢りき。また百濟の國に仰せたまひて、「もし賢し人あらば貢れ」とのりたまひき。かれ命を受けて貢れる人、名は和邇吉師、すなはち論語十卷、千字文七一卷、并はせて十一卷を、この人に付けて貢りき。この和爾吉師は文の首等が祖なり。また手人韓鍛八名は卓素、また呉服西素九二人を貢りき。また秦の造の祖、漢の直の祖、また酒を釀むことを知れる人、名は仁番、またの名は須須許理等、まゐ渡り來つ。かれこの須須許理、大御酒を釀みて獻りき。ここに天皇、この獻れる大御酒にうらげて一〇、御歌よみしたまひしく、
須須許理が 釀みし御酒に われ醉ひにけり。
事無酒咲酒一一に、われ醉ひにけり。 (歌謠番號五〇)
かく歌ひつつ幸でましし時に、御杖もちて、大坂一二の道中なる大石を打ちたまひしかば、その石走り避りき。かれ諺に堅石も醉人を避るといふなり。
一 以上、大山守の命に命じたことをいう。但し物語とは別の資料によつたのだろう。
二 奈良縣高市郡。既出。別傳か、修理か。
三 不明瞭で諸説がある。
四 奈良縣北葛城郡。
五 百濟の第十三代の近肖古王。
六 キシは尊稱。下同じ。日本書紀に阿直支。
七 廣く行われている周興嗣次韵の千字文はまだ出來ていなかつた。
八 工人である朝鮮の鍛冶人。
九 大陸風の織物工の西素という人。
一〇 浮かれ立つて。
一一 事の無い愉快な酒。クシは酒。
一二 二上山を越える道。
かれ天皇崩りましし後に、大雀の命は、天皇の命のまにまに、天の下を宇遲の和紀郎子に讓りたまひき。ここに大山守の命は、天皇の命に違ひて、なほ天の下を獲むとして、その弟皇子を殺さむとする心ありて、竊に兵を設けて攻めむとしたまひき。ここに大雀の命、その兄の軍を備へたまふことを聞かして、すなはち使を遣して、宇遲の和紀郎子に告げしめたまひき。かれ聞き驚かして、兵を河の邊に隱し、またその山の上に、絁垣一を張り、帷幕二を立てて、詐りて、舍人を王になして、露に呉床にませて、百官、敬ひかよふ状、既に王子のいまし所の如くして、更にその兄王の河を渡りまさむ時のために、船檝を具へ飾り、また佐那葛三の根を臼搗き、その汁の滑を取りて、その船の中の簀椅に塗りて、蹈みて仆るべく設けて、その王子は、布の衣褌を服て、既に賤人の形になりて、檝を取りて立ちましき。ここにその兄王、兵士を隱し伏せ、鎧を衣の中に服せて、河の邊に到りて、船に乘らむとする時に、その嚴飾れる處を望けて、弟王その呉床にいますと思ほして、ふつに檝を取りて船に立ちませることを知らず、すなはちその檝執れる者に問ひたまはく、「この山に怒れる大猪ありと傳に聞けり。吾その猪を取らむと思ふを、もしその猪を獲むや」と問ひたまへば、檝執れる者答へて曰はく、「得たまはじ」といひき。また問ひたまはく、「何とかも」と問ひたまへば、答へたまはく「時時往往にして、取らむとすれども得ず。ここを以ちて得たまはじと白すなり」といひき。渡りて河中に到りし時に、その船を傾けしめて、水の中に墮し入れき。ここに浮き出でて、水のまにまに流れ下りき。すなはち流れつつ歌よみしたまひしく四、
ちはやぶる五 宇治の渡に、
棹取りに 速けむ人し わが伴に來む六。 (歌謠番號五一)
と歌ひき。ここに河の邊に伏し隱れたる兵、彼廂此廂、一時に興りて、矢刺して流しき。かれ訶和羅の前七に到りて沈み入りたまふ。かれ鉤を以ちて、その沈みし處を探りしかば、その衣の中なる甲に繋かりて、かわらと鳴りき。かれ其所に名づけて訶和羅の前といふなり。ここにその骨を掛き出だす時に、弟王、御歌よみしたまひしく、
ちはや人八 宇治の渡に、
渡瀬に立てる 梓弓檀九。
いきらむと一〇 心は思へど、
い取らむと 心は思へど、
本方一一は 君を思ひ出、
末方一二は 妹を思ひ出、
いらなけく一三 そこに思ひ出、
愛しけく ここに思ひ出、
いきらずぞ來る。梓弓檀。 (歌謠番號五二)
かれその大山守の命の骨は、那良山に葬めき。この大山守の命は土形の君、幣岐の君、榛原の君等が祖なり。
ここに大雀の命と宇遲の和紀郎子と二柱、おのもおのも天の下を讓りたまふほどに、海人大贄を貢りつ。ここに兄は辭びて、弟に貢らしめたまひ、弟はまた兄に貢らしめて、相讓りたまふあひだに既に許多の日を經つ。かく相讓りたまふこと一度二度にあらざりければ、海人は既に往還に疲れて泣けり。かれ諺に、「海人なれや、おのが物から音泣く一四」といふ。然れども宇遲の和紀郎子は早く崩りましき。かれ大雀の命、天の下治らしめしき。
一 荒い絹の幕。
二 あげて張つた幕。天幕。
三 ビナンカズラ。
四 流れながら歌つたというのは、山守部のともがらの演出だからである。現在の昔話に、猿聟入りの話があり、聟の猿が川に落ちて流れながら歌うことがある。
五 枕詞。威力をふるう。ここは宇治川が急流なのでいう。
六 自分のなかまに來てくれ。
七 所在不明。
八 枕詞。つよい人。地名のウヂが、元來威力を意味する語なのであろう。
九 梓弓と檀弓。アヅサはアカメガシハ。マユミはヤマニシキギ。共に弓材になる樹。
一〇 イ切ルで、イは接頭語。切ろうと。
一一 弓の下の方。
一二 弓の上の方。
一三 心のいらいらする形容。
一四 海人だからか、自分の物ゆえに泣く。魚が腐り易いからだという。
また昔新羅の國主の子、名は天の日矛といふあり一。この人まゐ渡り來つ。まゐ渡り來つる故は、新羅の國に一つの沼あり、名を阿具沼といふ。この沼の邊に、ある賤の女晝寢したり。ここに日の耀虹のごと、その陰上に指したるを、またある賤の男、その状を異しと思ひて、恆にその女人の行を伺ひき。かれこの女人、その晝寢したりし時より、姙みて、赤玉を生みぬ二。ここにその伺へる賤の男、その玉を乞ひ取りて、恆に裹みて腰に著けたり。この人、山谷の間に田を作りければ、耕人どもの飮食を牛に負せて、山谷の中に入るに、その國主の子天の日矛に遇ひき。ここにその人に問ひて曰はく、「何ぞ汝飮食を牛に負せて山谷の中に入る。汝かならずこの牛を殺して食ふならむ」といひて、すなはちその人を捕へて、獄内に入れむとしければ、その人答へて曰はく、「吾、牛を殺さむとにはあらず、ただ田人の食を送りつらくのみ」といふ。然れどもなほ赦さざりければ、ここにその腰なる玉を解きて、その國主の子に幣しつ。かれその賤の夫を赦して、その玉を持ち來て、床の邊に置きしかば、すなはち顏美き孃子になりぬ。仍りて婚して嫡妻とす。ここにその孃子、常に種種の珍つ味を設けて、恆にその夫に食はしめき。かれその國主の子心奢りて、妻を詈りしかば、その女人の言はく、「およそ吾は、汝の妻になるべき女にあらず。吾が祖の國に行かむ」といひて、すなはち竊びて小船に乘りて、逃れ渡り來て、難波に留まりぬ。こは難波の比賣碁曾の社三にま
す阿加流比賣といふ神なり。
ここに天の日矛、その妻の遁れしことを聞きて、すなはち追ひ渡り來て、難波に到らむとする間に、その渡の神塞へて入れざりき。かれ更に還りて、多遲摩の國四に泊てつ。すなはちその國に留まりて、多遲摩の俣尾が女、名は前津見に娶ひて生める子、多遲摩母呂須玖。これが子多遲摩斐泥。これが子多遲摩比那良岐。これが子多遲摩毛理五、次に多遲摩比多訶、次に清日子三柱。この清日子、當摩の咩斐に娶ひて生める子、酢鹿の諸男、次に妹菅竈由良度美、かれ上にいへる多遲摩比多訶、その姪由良度美に娶ひて生める子、葛城の高額比賣の命。こは息長帶比賣六
の命の御祖なり。
かれその天の日矛の持ち渡り來つる物は、玉つ寶といひて、珠二貫七、また浪振る比禮、浪切る比禮、風振る比禮、風切る比禮八、また奧つ鏡、邊つ鏡九、并はせて八種なり。こは伊豆志の八前
の大神一〇なり。
一 日本書紀に垂仁天皇の卷に見え、播磨國風土記に、葦原シコヲの命との交渉を記している。
二 卵生説話の一。その玉が孃子に化したとする。この點からいえば神婚説話であつて、外來の形を傳えていると見られるのが注意される。
三 大阪市東成區。
四 兵庫縣の北部。
五 垂仁天皇の御代に常世の國に行つて橘を持つて來た人。一〇四頁參照。
六 神功皇后。
七 珠を緒に貫いたもの二つ。
八 以上四種のヒレは、風や波を起しまたしずめる力のあるもの。浪振るは浪を起す。浪切るは浪をしずめる。風も同樣。ヒレについては四二頁脚註參照。
九 二種の鏡は、海上の平安を守る鏡。オキツは海上遠く、ヘツは海邊。
一〇 兵庫縣出石郡の出石神社。
かれここに神の女一、名は伊豆志袁登賣の神二います。かれ八十神、この伊豆志袁登賣を得むとすれども、みなえ婚はず。ここに二柱の神あり。兄の名を秋山の下氷壯夫三、弟の名は春山の霞壯夫なり。かれその兄、その弟に謂ひて、「吾、伊豆志袁登賣を乞へども、え婚はず。汝この孃子を得むや」といひしかば答へて曰はく、「易く得む」といひき。ここにその兄の曰はく、「もし汝、この孃子を得ることあらば、上下の衣服を避四り、身の高を量りて甕に酒を釀み五、また山河の物を悉に備へ設けて、うれづく六をせむ」といふ。ここにその弟、兄のいへる如、つぶさにその母に白ししかば、すなはちその母、ふぢ葛七を取りて、一夜の間に、衣、褌、また襪八、沓を織り縫ひ、また弓矢を作りて、その衣褌等を服しめ、その弓矢を取らしめて、その孃子の家に遣りしかば、その衣服も弓矢も悉に藤の花になりき。ここにその春山の霞壯夫、その弓矢を孃子の厠に繋けたるを、ここに伊豆志袁登賣、その花を異しと思ひて、持ち來る時に、その孃子の後に立ちて、その屋に入りて、すなはち婚しつ九。かれ一人の子を生みき。
ここにその兄に白して曰はく、「吾は伊豆志袁登賣を得つ」といふ。ここにその兄、弟の婚ひつることを慨みて、そのうれづくの物を償はざりき。ここにその母に愁へ白す時に、御祖の答へて曰はく、「我が御世の事、能くこそ神習はめ一〇。またうつしき青人草習へや、その物償はぬ一一」といひて、その兄なる子を恨みて、すなはちその伊豆志河の河島の一節竹一二を取りて、八つ目の荒籠一三を作り、その河の石を取り、鹽に合へて一四、その竹の葉に裹み、詛言はしめしく一五、「この竹葉の青むがごと、この竹葉の萎ゆるがごと、青み萎えよ。またこの鹽の盈ち乾るがごと、盈ち乾よ。またこの石の沈むがごと、沈み臥せ」とかく詛ひて、竈の上に置かしめき。ここを以ちてその兄八年の間に干き萎え病み枯れき。かれその兄患へ泣きて、その御祖に請ひしかば、すなはちその詛戸一六を返さしめき。ここにその身本の如くに安平ぎき。こは神うれづくと
いふ言の本なり。
一 出石の神が通つて生んだ女子。
二 イヅシは地名、前項參照。
三 シタビは、赤く色づくこと。「秋山の下べる妹」(萬葉集)。秋の美を名とした男。春山の霞壯夫と對立する。
四 上下の衣服をぬいで讓り。
五 身長と同じ高さの瓶に酒をかもして。
六 賭事。ウレは、ウラナフ(占う)、ウラ(心)などのウラ、ウレタシ(心痛し)のウレと同語。ヅクは、カケヅク(賭づく)などのヅクで、それに就く意。占いごとで、成るか成らぬかを賭けたのである。
七 藤の蔓。
八 沓の中にはくもの。クツシタ。
九 藤の花が男子に化して婚姻した形になり神婚説話になる。
一〇 われわれの世界では、よく神の行爲に習うべきである。
一一 現實の人間にならつてか、負けたのに賭の物をよこさない。人間の世界は不信で、そのまねをしている。
一二 一節の長さの竹。ヨは竹の節と節との中間をいう。
一三 多くの目のあるあらい籠。
一四 海水の滿干を現すために鹽にまぜる。
一五 その子をして呪い言をさせて。
一六 呪咀の置物。
またこの品陀の天皇の御子、若野毛二俣の王、その母の弟二、百師木伊呂辨、またの名は弟日賣眞若比賣の命に娶ひて生みませる子、大郎子、またの名は意富富杼の王三、次に忍坂の大中津比賣の命、次に田井の中比賣、次に田宮の中比賣、次に藤原の琴節の郎女、次に取賣の王、次に沙禰の王七柱。かれ意富富杼の王は三國の君、波多の君、息長の君、筑紫の米多の君、長坂の君、酒人の君、山道の君、布勢の君等が祖なり。また根鳥の王四、庶妹三腹の郎女に娶ひて生みませる子、中日子の王、次に伊和島の王二柱。また堅石の王五の子は、久奴の王なり。
およそこの品陀の天皇。御年一百三十歳。甲午の年九月九日に崩りたまひき。御陵は、川内の惠賀の裳伏の岡六にあり。
一 この系譜は、もとはじめの系譜に續いていたのを、中間に物語が插入されたので、中斷されたのであろう。
二 母の妹。
三 繼體天皇は、この王の子孫である。
四 應神天皇の皇子。
五 前に出ない。系統不明。
六 大阪府南河内郡。
古事記 中つ卷
大雀の命一、難波の高津の宮二にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、葛城の曾都毘古三が女、石の日賣の命大后に娶ひて、生みませる御子、大江の伊耶本和氣の命、次に墨江の中つ王、次に蝮の水齒別の命、次に男淺津間若子の宿禰の命四柱。また上にいへる日向の諸縣の君牛諸が女、髮長比賣に娶ひて、生みませる御子、波多毘の大郎子、またの名は大日下の王、次に波多毘の若郎女、またの名は長目比賣の命、またの名は若日下部の命二柱。また庶妹八田の若郎女に娶ひ、また庶妹宇遲の若郎女に娶ひたまひき。この二柱は、御
子まさざりき。およそこの大雀の天皇の御子たち并はせて六柱。男王五柱、
女王一柱。かれ伊耶本和氣の命は、天の下治らしめしき。次に蝮の水齒別の命も天の下治らしめしき。次に男淺津間若子の宿禰の命も天の下治らしめしき。
一 仁徳天皇。
二 大阪市東區。今の大阪城の邊。
三 建内の宿禰の子。
この天皇の御世に、大后石の比賣の命の御名代として、葛城部を定めたまひ、また太子伊耶本和氣の命の御名代として、壬生部を定めたまひ、また水齒別の命の御名代として、蝮部を定めたまひ、また大日下の王の御名代として、大日下部を定めたまひ、若日下部の王の御名代として、若日下部を定めたまひき。
また秦人一を役てて、茨田の堤二と茨田の三宅とを作り、また丸邇の池三、依網の池四を作り、また難波の堀江五を掘りて、海に通はし、また小椅の江六を掘り、また墨江の津七を定めたまひき。
ここに天皇、高山に登りて、四方の國を見たまひて、詔りたまひしく、「國中に烟たたず八、國みな貧し。かれ今より三年に至るまで、悉に人民の課役九を除せ」とのりたまひき。ここを以ちて大殿破れ壞れて、悉に雨漏れども、かつて修理めたまはず、楲一〇をもちてその漏る雨を受けて、漏らざる處に遷り避りましき。後に國中を見たまへば、國に烟滿ちたり。かれ人民富めりとおもほして、今はと課役科せたまひき。ここを以ちて、百姓榮えて役使に苦まざりき。かれその御世を稱へて聖帝の御世一一とまをす。
一 中國の秦の國人。
二 大阪府北河内郡。
三 大阪府南河内郡。
四 大阪市東成區。前に造つたことが出ている。改修か。
五 淀川の水を通じるために掘つたもので、今の天滿川である。
六 大阪市東成區。
七 大阪市住吉區。
八 食物を作ることが少いので烟が立たない。
九 ミツキはたてまつり物。エダチは勞役。
一〇 水を流す樋。
一一 ヒジリは、知識者の意から貴人をいうようになつたが、漢字の聖にこの語をあて、天皇の世をこのようにいうのは、漢文の影響を受けている。
その大后石の日賣の命、いたく嫉妬みしたまひき。かれ天皇の使はせる妾たちは、宮の中をもえ臨かず、言立てば、足も足掻かに一妬みたまひき。ここに天皇、吉備の海部の直が女、名は黒日賣それ容姿端正しと聞こしめして、喚上げて使ひたまひき。然れどもその大后の嫉みますを畏みて、本つ國に逃げ下りき。天皇、高臺にいまして、その黒日賣の船出するを望み見て歌よみしたまひしく、
沖方には 小舟つららく二。
くろざや三の まさづこ四吾妹、
國へ下らす。 (歌謠番號五三)
かれ大后この御歌を聞かして、いたく忿りまして、大浦に人を遣して、追ひ下して、歩より追ひたまひき。
ここに天皇、その黒日賣に戀ひたまひて、大后を欺かして、のりたまはく、「淡道島見たまはむとす」とのりたまひて、幸でます時に、淡道島にいまして、遙に望けまして、歌よみしたまひしく、
おしてるや五、難波の埼よ六
出で立ちて わが國見れば、
粟島七 淤能碁呂島八、
檳榔の 島九も見ゆ。
佐氣都島一〇見ゆ。 (歌謠番號五四)
すなはちその島より傳ひて、吉備の國に幸でましき。ここに黒日賣、その國の山縣の地一一におほましまさしめて、大御飯獻りき。ここに大御羮一二を煮むとして、其地の菘菜を採む時に、天皇その孃子の菘採む處に到りまして、歌よみしたまひしく、
山縣に 蒔ける菘も、
吉備人と 共にし摘めば、
樂しくもあるか。 (歌謠番號五五)
天皇上り幸でます時に、黒日賣、御歌、獻りて曰ひしく、
倭方に 西風吹き上げて、
雲離れ そき居りとも一三、
吾忘れめや。 (歌謠番號五六)
また歌ひて曰ひしく、
倭方に 往くは誰が夫。
隱津の 下よ延へつつ一四
往くは誰が夫。 (歌謠番號五七)
一 足をばたばたさせて。
二 小船が連なつている。
三 語義不明。枕詞だろう。
四 黒日賣の本名であろう。
五 枕詞。海の照り輝く意。
六 〓(「土へん+竒」)から。
七 阿波の方面から見た四國。
八 所在不明。一九頁脚註參照。
九 所在不明。アヂマサは、檳榔樹。
一〇 同前。
一一 山の料地。
一二 お吸物。
一三 雲が離れるように退いていても。「大和べに風吹きあげて雲ばなれ退き居りともよ吾を忘らすな」(丹後國風土記、浦島の物語の神女)
一四 地下水のように下を流れて。
これより後、大后豐の樂一したまはむとして、御綱栢二を採りに、木の國に幸でましし間に、天皇、八田の若郎女に婚ひましき。ここに大后は、御綱栢を御船に積み盈てて還りいでます時に、水取の司に使はゆる、吉備の國の兒島の郡の仕丁三、これおのが國に退るに、難波の大渡に、後れたる倉人女四の船に遇ひき。すなはち語りて曰はく、「天皇は、このごろ八田の若郎女に娶ひまして晝夜戲れますを。もし大后はこの事聞こしめさねかも五、しづかに遊びいでます」と語りき。ここにその倉人女、この語る言を聞きて、すなはち御船に追ひ近づきて、その仕丁が言ひつるごと、状をまをしき。ここに大后いたく恨み怒りまして、その御船に載せたる御綱栢は、悉に海に投げ棄てたまひき。かれ其地に名づけて御津の前といふ。すなはち宮に入りまさずて、その御船を引き避きて、堀江に泝らして、河のまにまに六、山代に上りいでましき。この時に歌よみしたまひしく、
つぎねふや七 山代河を
川のぼり 吾がのぼれば、
河の邊に 生ひ立てる 烏草樹八を。
烏草樹の樹、
其が下に 生ひ立てる
葉廣 ゆつ眞椿九、
其が花の 照りいまし
其が葉の 廣りいますは、
大君ろかも。 (歌謠番號五八)
すなはち山代より𢌞りて、那良の山口一〇に到りまして、歌よみしたまひしく、
つぎねふや 山代河を
宮上り 吾がのぼれば、
あをによし一一 那良を過ぎ、
小楯一二 倭一三を過ぎ、
吾が 見が欲し國一四は、
葛城 高宮一五
吾家のあたり。 (歌謠番號五九)
かく歌ひて還らして、しまし筒木の韓人一六、名は奴理能美が家に入りましき。
天皇、その大后は山代より上り幸でましぬと聞こしめして、舍人名は鳥山といふ人を使はして御歌を送りたまひしく、
山代に いしけ鳥山一七、
いしけいしけ 吾が愛し妻に いしき遇はむかも一八。 (歌謠番號六〇)
また續ぎて丸邇の臣口子を遣して歌よみしたまひしく、
御諸一九の その高城なる
大猪子が原二〇。
大猪子が 腹にある二一、
肝向ふ二二 心をだにか
相思はずあらむ。 (歌謠番號六一)
また歌よみしたまひしく、
つぎねふ 山代女の
木钁持ち 打ちし大根二三、
根白の 白腕、
纏かずけばこそ二四 知らずとも言はめ。 (歌謠番號六二)
かれこの口子の臣、この御歌を白す時に、大雨降りき。ここにその雨をも避らず、前つ殿戸にまゐ伏せば、後つ戸に違ひ出でたまひ、後つ殿戸にまゐ伏せば、前つ戸に違ひ出でたまひき。かれ匍匐進起ひて、庭中に跪ける時に、水潦二五腰に至りき。その臣、紅き紐著けたる青摺の衣二六を服たりければ、水潦紅き紐に觸りて、青みな紅になりぬ。ここに口子の臣が妹口比賣、大后に仕へまつれり。かれその口比賣歌ひて曰ひしく、
山代の 筒木の宮に
物申す 吾が兄の君は、
涙ぐましも。 (歌謠番號六三)
ここに大后、その故を問ひたまふ時に答へて曰さく、「僕が兄口子の臣なり」とまをしき。
ここに口子の臣、またその妹口比賣、また奴理能美、三人議りて、天皇に奏さしめて曰さく、「大后の幸でませる故は、奴理能美が養へる蟲、一度は匐ふ蟲になり、一度は殼になり、一度は飛ぶ鳥になりて、三色に變る奇しき蟲二七あり。この蟲を看そなはしに、入りませるのみ。更に異しき心まさず」とかく奏す時に、天皇、「然らば吾も奇しと思へば、見に行かな」と詔りたまひて、大宮より上り幸でまして、奴理能美が家に入ります時に、その奴理能美、おのが養へる三種の蟲を、大后に獻りき。ここに天皇、その大后のませる殿戸に御立したまひて、歌よみしたまひしく、
つぎねふ 山代女の
木钁持ち 打ちし大根、
さわさわに二八 汝が言へせこそ二九、
うち渡す三〇 やがは枝三一なす
來入り參ゐ來れ。 (歌謠番號六四)
この天皇と大后と歌よみしたまへる六歌は、志都歌の歌ひ返し三二なり。
一 酒宴。
二 御角柏とも書く。葉先が三つになつている樹葉。これに食物を盛る。ウコギ科の常緑喬木、カクレミノ。
三 岡山縣兒島郡から出た壯丁。
四 物の出し入れを扱う女。
五 御承知にならないからか。疑問の已然條件法。
六 淀川をさかのぼつて。
七 枕詞。語義不明。次々に嶺が現れる意かという。
八 シャクナゲ科の常緑喬木。シャシャンボ。
九 神聖な椿。神靈の存在を感じている。
一〇 淀川から上り、木津川を上つて奈良山の山口に來た。
一一 枕詞。語義不明。
一二 枕詞。山の姿の形容か。
一三 大和の國の平野の東方。山手の地。ヤマトの名は、もとこの邊の稱から起つた。
一四 わたしの見たい國は。その國は、奈良や倭を過ぎて行く葛城の地であるの意。
一五 葛城の高地にある宮。皇后の父君、葛城の襲津彦、母君葛城の高額姫、共にこの地に住まれた。
一六 京都府綴喜郡にいる朝鮮の人。
一七 追いつけよ、鳥山よ。
一八 追いついて遇いましよう。
一九 ミモロは、神座をいい、ひいて神社のある所をいふ。ここは葛城の三諸。
二〇 原の名。オホヰコは猪のこと。
二一 上の大猪子が原から引き出している。肝は腹にあるので次の句を修飾する。
二二 枕詞。腹の中には肝が向いあい、そこに心があるとした。
二三 打つて掘り出した大根。
二四 ケは、時の助動詞キの古い活用形で未然形。
二五 雨が降つて急に出る水。
二六 美裝で、雄略天皇の卷にも見える。アヲズリは、青い染料をすりつけて染めること。
二七 蠶である。蠶のはじめは三五頁の神話に見えているが、それは神話のことで、大陸や朝鮮との交通によつて養蠶がおこなわれるようになつたのである。
二八 さわぎ立てる形容。
二九 語法上問題がある。セは敬語の助動詞スの已然形とすれば、動詞言うの未然形に接續するはずであるのに、イヘセとなつているのは、言うが下二段活か。とにかく已然條件法であろう。
三〇 見渡したところの。
三一 茂つた木の枝のように。人々をつれて來入ることの形容。
三二 歌曲の名。志都歌があつて、それに附隨して歌い返す歌の意であろう。
天皇、八田の若郎女に戀ひたまひて、御歌を遣したまひき。その御歌、
八田の 一本菅は、
子持たず 立ちか荒れなむ。
あたら菅原一。
言をこそ 菅原と言はめ。
あたら清し女。 (歌謠番號六五)
ここに八田の若郎女、答へ歌よみしたまひしく、
八田の 一本菅は 獨居りとも。
天皇し よしと聞こさば 獨居りとも。 (歌謠番號六六)
かれ八田の若郎女の御名代として、八田部を定めたまひき。
一 惜しい菅原だ。
また天皇、その弟速總別の王一を媒として、庶妹女鳥の王を乞ひたまひき。ここに女鳥の王、速總別の王に語りて曰はく、「大后の強き二に因りて、八田の若郎女を治めたまはず三。かれ仕へまつらじと思ふ。吾は汝が命の妻にならむ」といひて、すなはち婚ひましつ。ここを以ちて速總別の王復奏さざりき。ここに天皇、直に女鳥の王のいます所にいでまして、その殿戸の閾の上にいましき。ここに女鳥の王機にまして、服織りたまふ。ここに天皇、歌よみしたまひしく、
女鳥の 吾が王の 織ろす機四、
誰が料ろかも五。 (歌謠番號六七)
女鳥の王、答へ歌ひたまひしく、
高行くや六 速總別の みおすひがね七。 (歌謠番號六八)
かれ天皇、その心を知らして、宮に還り入りましき。
この時、その夫速總別の王の來れる時に、その妻女鳥の王の歌ひたまひしく、
雲雀は 天に翔る八。
高行くや 速總別、
鷦鷯取らさね。 (歌謠番號六九)
天皇この歌を聞かして、軍を興して、殺りたまはむとす。ここに速總別の王、女鳥の王、共に逃れ退きて、倉椅山九に騰りましき。ここに速總別の王歌ひたまひしく、
梯立ての一〇 倉椅山を 嶮しみと
岩かきかねて一一 吾が手取らすも。 (歌謠番號七〇)
また歌ひたまひしく、
梯立ての 倉椅山は 嶮しけど、
妹と登れば 嶮しくもあらず。 (歌謠番號七一)
かれそこより逃れて、宇陀の蘇邇一二に到りましし時に、御軍追ひ到りて、殺せまつりき。
その將軍山部の大楯の連、その女鳥の王の、御手に纏かせる玉釧一三を取りて、おのが妻に與へき。この時の後、豐の樂したまはむとする時に、氏氏の女どもみな朝參りす一四。ここに大楯の連が妻、その王の玉釧を、おのが手に纏きてまゐ赴けり。ここに大后石の日賣の命、みづから大御酒の栢を取一五らして、諸氏氏の女どもに賜ひき。ここに大后、その玉釧を見知りたまひて、御酒の栢を賜はずて、すなはち引き退けて、その夫大楯の連を召し出でて、詔りたまはく、「その王たち一六、禮なきに因りて退けたまへる、こは異しき事無きのみ。それの奴や、おのが君の御手に纏かせる玉釧を、膚も熅けきに剥ぎ持ち來て、おのが妻に與へつること」と詔りたまひて、死刑に行ひたまひき。
一 猛禽のハヤブサを名としている王。ハヤブサとサザキ(ミソサザイ)とが女鳥を爭つたという鳥類物語が原形だろう。
二 嫉妬づよく、もてあましている。
三 思うようになされない。
四 織らす機に同じ。お織りになつている機おり物。
五 ロは接尾語。
六 敍述による枕詞。
七 御おすいの材料。オスヒは既出。
八 高行くの譬喩。
九 奈良縣磯城郡の東方の山。
一〇 敍述による枕詞。階段を立てる意で倉を修飾する。
一一 岩に手をかけ得ないで。「霰ふる杵島が嶽をさかしみと草とりかねて妹が手を取る」(肥前國風土記)。
一二 奈良縣宇陀郡。
一三 美しい腕輪。
一四 諸家の女たちが宮廷に出た。
一五 御酒を盛つた御綱栢。
一六 ハヤブサワケと女鳥の王。
またある時、天皇豐の樂したまはむとして、日女島一に幸でましし時に、その島に雁卵生みたり。ここに建内の宿禰の命を召して、歌もちて、雁の卵生める状を問はしたまひき。その御歌、
たまきはる二 内の朝臣三、
汝こそは 世の長人四、
そらみつ五 日本の國に
雁子産と 聞くや。 (歌謠番號七二)
ここに建内の宿禰、歌もちて語りて白さく、
高光る 日の御子、
諾しこそ六 問ひたまへ。
まこそに七 問ひたまへ。
吾こそは 世の長人、
そらみつ 日本の國に
雁子産と いまだ聞かず。 (歌謠番號七三)
かく白して、御琴を賜はりて、歌ひて曰ひしく、
汝が王や 終に知らむと、
雁は子産らし。 (歌謠番號七四)
と歌ひき。こは壽歌八の片歌なり。
一 大阪府三島郡。
二 枕詞。語義不明。
三 宮廷に仕える臣下。建内の宿禰のこと。
四 世の中に長くいる人。
五 枕詞。ニギハヤヒの命が天から降下する時に、大和の國を空中から見たことからはじまるとする傳えがある。
六 もつともなことに。シは強意の助詞。
七 マは眞實。
八 歌曲の名。
この御世に、兔寸河一の西の方に、高樹あり。その樹の影、朝日に當れば、淡道島におよび、夕日に當れば、高安山二を越えき。かれこの樹を切りて、船に作れるに、いと捷く行く船なりけり。時にその船に名づけて枯野といふ。かれこの船を以ちて、旦夕に淡道島の寒泉を酌みて、大御水獻る。この船の壞れたるもちて、鹽を燒き、その燒け遺りの木を取りて、琴に作るに、その音七里に聞ゆ。ここに歌よみて曰ひしく、
枯野を 鹽に燒き、
其が餘 琴に造り、
掻き彈くや三 由良の門四の
門中の 海石五に
振れ立つ 浸漬の木の六、さやさや七。 (歌謠番號七五)
こは志都歌の歌ひ返しなり。
この天皇の御年八十三歳。丁卯の年八月十五
日崩りたまひき。御陵は毛受八の耳原にあり。
一 所在不明。物語によれば大阪平野のうちである。
二 大阪府中河内郡。信貴山。
三 ヤは間投の助詞。
四 大阪灣口の由良海峽。(紀淡海峽)。
五 海中の石、暗礁。
六 海水に浸つている木のように。
七 音のさやかであること。
八 大阪府泉南郡。この御陵は、天皇生前に工事をした。その時に鹿の耳の中からモズが飛び出したから地名とするという。
子伊耶本和氣の王一、伊波禮の若櫻の宮二にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、葛城の曾都毘古の子、葦田の宿禰が女、名は黒比賣の命に娶ひて、生みませる御子、市の邊の忍齒の王三、次に御馬の王、次に妹青海の郎女、またの名は飯豐の郎女三柱。
もと難波の宮にましましし時に、大嘗にいまして四、豐の明したまふ時に、大御酒にうらげて五、大御寢ましき。ここにその弟墨江の中つ王、天皇を取りまつらむとして、大殿に火を著けたり。ここに倭の漢の直の祖、阿知の直、盜み出でて、御馬に乘せまつりて、倭にいでまさしめき。かれ多遲比野六に到りて、寤めまして詔りたまはく、「此處は何處ぞ」と詔りたまひき。ここに阿知の直白さく、「墨江の中つ王、大殿に火を著けたまへり。かれ率まつりて、倭に逃るるなり」とまをしき。ここに天皇歌よみしたまひしく、
丹比野に 寢むと知りせば、
防壁七も 持ちて來ましもの八。
寢むと知りせば。 (歌謠番號七六)
波邇賦坂九に到りまして、難波の宮を見放けたまひしかば、その火なほ炳えたり。ここにまた歌よみしたまひしく、
波邇布坂 吾が立ち見れば、
かぎろひの一〇 燃ゆる家群、
妻が家のあたり。 (歌謠番號七七)
かれ大坂の山口に到りましし時に、女人遇へり。その女人の白さく、「兵を持てる人ども、多にこの山を塞へたれば、當岐麻道一一より𢌞りて、越え幸でますべし」とまをしき。ここに天皇歌よみしたまひしく、
大坂に 遇ふや孃子を。
道問へば 直には告らず一二、
當岐麻路を告る。 (歌謠番號七八)
かれ上り幸でまして、石の上の宮一三にましましき。
ここにその同母弟水齒別の命一四、まゐ赴きてまをさしめたまひき。ここに天皇詔りたまはく、「吾、汝が命の、もし墨江の中つ王と同じ心ならむかと疑ふ。かれ語らはじ」とのりたまひしかば、答へて曰さく、「僕は穢き心なし。墨江の中つ王と同じくはあらず」と、答へ白したまひき。また詔らしめたまはく、「然らば、今還り下りて、墨江の中つ王を殺して、上り來ませ。その時に、吾かならず語らはむ」とのりたまひき。かれすなはち難波に還り下りまして、墨江の中つ王に近く事へまつる隼人一五、名は曾婆加里を欺きてのりたまはく、「もし汝、吾が言ふことに從はば、吾天皇となり、汝を大臣になして、天の下治らさむとおもふは如何に」とのりたまひき。曾婆訶里答へて白さく「命のまにま」と白しき。ここにその隼人に物多に賜ひてのりたまはく、「然らば汝の王を殺りまつれ」とのりたまひき。ここに曾婆訶里、己が王の厠に入りませるを伺ひて、矛もちて刺して殺せまつりき。かれ曾婆訶里を率て、倭に上り幸でます時に、大坂の山口に到りて、思ほさく、曾婆訶里、吾がために大き功あれども、既におのが君を殺せまつれるは、不義なり。然れどもその功に報いずは、信無しといふべし。既にその信を行はば、かへりてその心を恐しとおもふ。かれその功に報ゆとも、その正身一六を滅しなむと思ほしき。ここをもちて曾婆訶里に詔りたまはく、「今日は此處に留まりて、まづ大臣の位を賜ひて、明日上りまさむ」とのりたまひて、その山口に留まりて、すなはち假宮を造りて、俄に豐の樂して、その隼人に大臣の位を賜ひて、百官をして拜ましめたまふに、隼人歡びて、志遂げぬと思ひき。ここにその隼人に詔りたまはく、「今日大臣と同じ盞の酒を飮まむとす」と詔りたまひて、共に飮む時に、面を隱す大鋺一七にその進れる酒を盛りき。ここに王子まづ飮みたまひて、隼人後に飮む。かれその隼人の飮む時に、大鋺、面を覆ひたり。ここに席の下に置ける劒を取り出でて、その隼人が首を斬りたまひき。すなはち明日、上り幸でましき。かれ其地に名づけて近つ飛鳥一八といふ。倭に上り到りまして詔りたまはく、「今日は此處に留まりて、祓禊一九して、明日まゐ出でて、神宮二〇を拜まむ」とのりたまひき。かれ其地に名づけて遠つ飛鳥二一といふ。かれ石の上の神宮にまゐでて、天皇に「政既に平け訖へてまゐ上り侍ふ」とまをさしめたまひき。ここに召し入れて語らひたまひき。
天皇、ここに阿知の直を、始めて藏の官二二に任けたまひ、また粮地二三を賜ひき。またこの御世に、若櫻部の臣等に、若櫻部といふ名を賜ひ、また比賣陀の君等に、比賣陀の君といふ姓を賜ひき。また伊波禮部を定めたまひき。
天皇の御年六十四歳壬申の年正月三日
崩りたまひき。御陵は毛受にあり。
一 履中天皇。
二 奈良縣磯城郡。
三 一六八頁・一八二頁・一八五頁に物語がある。
四 大嘗祭をなすつて。
五 浮かれて。
六 大阪府南河内郡。
七 コモを編んで風の防ぎとする屏風。
八 持つて來たろうに。假設の語法。
九 大阪府南河内郡から大和に越える坂。
一〇 譬喩による枕詞。カギロヒは陽炎。
一一 奈良縣北葛城郡の當麻(古名タギマ)へ越える道で、二上山の南を通る。大坂は二上山の北を越える。
一二 まつすぐにとは言わないで。
一三 奈良縣山邊郡の石上の神宮。
一四 反正天皇。
一五 九州南方の住民。勇敢なので召し出して宮廷の護衞としている。
一六 その本身を。
一七 顏をかくすような大きな椀。
一八 大和の飛鳥に對していう。
一九 隼人を殺して穢を生じたので、それを拂う行事をして。
二〇 石上の神宮。天皇の御座所。
二一 奈良縣高市郡の飛鳥。
二二 物の出納をつかさどる役。
二三 領地。
弟水齒別一の命、多治比の柴垣の宮二にましまして、天の下治らしめしき。天皇、御身の長九尺二寸半。御齒の長さ一寸、廣さ二分。上下等しく齊ひて、既に珠を貫けるが如く三なりき。天皇、丸邇の許碁登の臣が女、都怒の郎女に娶ひて、生みませる御子、甲斐の郎女、次に都夫良の郎女二柱。また同じ臣が女、弟比賣に娶ひて、生みませる御子、財の王、次に多訶辨の郎女、并はせて四柱ましき。天皇御年六十歳。丁丑の年七月に
崩りたまひき。御陵は毛受野にありと言へり。
一 反正天皇。
二 大阪府南河内郡。
三 珠を緒にさしたようだ。
弟男淺津間の若子の宿禰一の王、遠つ飛鳥の宮にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、意富本杼の王が妹、忍坂の大中津比賣の命に娶ひて、生みませる御子、木梨の輕の王、次に長田の大郎女、次に境の黒日子の王、次に穴穗の命、次に輕の大郎女、またの御名は衣通の郎女、御名は衣通の王と負はせる所以は、
その御身の光衣より出づればなり。次に八瓜の白日子の王、次に大長谷の命、次に橘の大郎女、次に酒見の郎女九柱。およそ天皇の御子たち、九柱。男王五柱、
女王四柱。この九柱の中に、穴穗の命は、天の下治らしめしき。次に大長谷の命も、天の下治らしめしき。
一 允恭天皇。
天皇初め天つ日繼知らしめさむとせし時に、辭びまして、詔りたまひしく「我は長き病しあれば、日繼をえ知らさじ」と詔りたまひき。然れども大后一より始めて、諸卿たち堅く奏すに因りて、天の下治らしめしき。この時、新羅の國主、御調物八十一艘獻りき。ここに御調の大使、名は金波鎭漢紀武二といふ。この人藥の方を深く知れり。かれ天皇が御病を治めまつりき。
ここに天皇、天の下の氏氏名名の人どもの、氏姓が忤ひ過て三ることを愁へまして、味白檮の言八十禍津日の前四に、玖訶瓮五を据ゑて、天の下の八十伴の緒六の氏姓を定めたまひき。また木梨の輕の太子の御名代として、輕部を定め、大后の御名代として、刑部を定め、大后の弟田井の中比賣の御名代として、河部を定めたまひき。
天皇御年七十八歳。甲午の年正月十五
日崩りたまひき。御陵は河内の惠賀の長枝七にあり。
一 忍坂の大中津比賣。
二 金が姓、武が名。波鎭漢紀は、位置階級の稱。
三 ウヂは家の稱號、カバネは家の階級であつて朝廷から賜わるものである。家系を尊重した當時にあつては、これを社會組織の根本とした。しかるに長い間には、自然に誤るものもあり、故意に僞るものも出た。
四 飛鳥の地で、マガツヒの神を祭つてある所。この神の威力により僞れる者に禍を與えようとする。マガツヒの神は二七頁參照。
五 湯を涌かしてその中の物を探らせる鍋。
六 多くの人々。
七 大阪府南河内郡。
天皇崩りまして後、木梨の輕の太子、日繼知らしめすに定まりて一、いまだ位に即きたまはざりしほどに、その同母妹輕の大郎女に姧け二て、歌よみしたまひしく、
あしひきの三 山田をつくり
山高み 下樋をわしせ四、
下〓(「娉」の「由」に代えて「叟-又」)ひに 吾が〓(「娉」の「由」に代えて「叟-又」)ふ妹を五、
下泣きに 吾が泣く妻を六、
昨夜七こそは 安く肌觸れ。 (歌謠番號七九)
こは志良宜歌八なり。また歌よみしたまひしく、
笹葉に うつや霰の九、
たしだしに一〇 率寢てむ後は
人は離ゆとも一一。 (歌謠番號八〇)
うるはしと一二 さ寢しさ寢てば
刈薦の一三 亂れば亂れ。
さ寢しさ寢てば。 (歌謠番號八一)
こは夷振の上歌一四なり。
ここを以ちて百の官また、天の下の人ども、みな輕の太子に背きて、穴穗の御子一五に歸りぬ。ここに輕の太子畏みて、大前小前の宿禰一六の大臣の家に逃れ入りて、兵を備へ作りたまひき。その時に作れる矢は、その箭の同一七を
銅にしたり。かれその矢を輕箭といふ。穴穗の御子も兵を作りたまひき。その王子の作れる矢は、今時の
矢なり。そを穴穗箭といふ。穴穗の御子軍を興して、大前小前の宿禰の家を圍みたまひき。ここにその門一八に到りましし時に大氷雨降りき。かれ歌よみしたまひしく、
大前小前宿禰が
かな門陰 かく寄り來ね。
雨立ち止めむ。 (歌謠番號八二)
ここにその大前小前の宿禰、手を擧げ、膝を打ち、舞ひかなで一九、歌ひまゐ來。その歌、
宮人の 足結の小鈴二〇。
落ちにきと 宮人とよむ二一。
里人もゆめ二二。 (歌謠番號八三)
この歌は宮人曲二三なり。かく歌ひまゐ來て、白さく、「我が天皇の御子二四、同母兄の御子をな殺せたまひそ。もし殺せたまはば、かならず人咲はむ。僕捕へて獻らむ」とまをしき。ここに軍を罷めて退きましき。かれ大前小前の宿禰、その輕の太子を捕へて、率てまゐ出て獻りき。その太子、捕はれて歌よみしたまひしく、
天飛む二五 輕の孃子、
いた泣かば 人知りぬべし。
波佐の山二六の 鳩の二七、
下泣きに泣く。 (歌謠番號八四)
また歌よみしたまひしく、
天飛む 輕孃子、
したたにも二八 倚り寢てとほれ二九。
輕孃子ども。 (歌謠番號八五)
かれその輕の太子をば、伊余の湯三〇に放ちまつりき。また放たえたまはむとせし時に、歌よみしたまひしく、
天飛ぶ 鳥も使ぞ。
鶴が音の 聞えむ時は、
吾が名問はさね。 (歌謠番號八六)
この三歌は、天田振三一なり。また歌よみしたまひしく、
大君を 島に放らば、
船餘り三二 い歸りこむぞ。
吾が疊ゆめ三三。
言をこそ 疊と言はめ。
吾が妻はゆめ三四。 (歌謠番號八七)
この歌は、夷振の片下三五なり。その衣通の王三六、歌獻りき。その歌、
夏草の三七 あひねの濱三八の
蠣貝に 足踏ますな。
明してとほれ三九。 (歌謠番號八八)
かれ後にまた戀慕に堪へかねて、追ひいでましし時、歌ひたまひしく、
君が行き け長くなりぬ四〇。
山たづの四一 迎へを行かむ四二。
待つには待たじ。ここに山たづといへ
るは、今の造木なり (歌謠番號八九)
かれ追ひ到りましし時に、待ち懷ひて、歌ひたまひしく、
隱國の四三 泊瀬の山四四の
大尾四五には 幡張り立て、
さ小尾四六には 幡張り立て、
大尾四七よし ながさだめる四八
思ひ妻あはれ。
槻弓の四九 伏る伏りも五〇、
梓弓五一 立てり立てりも、
後も取り見る五二 思ひ妻あはれ。 (歌謠番號九〇)
また歌ひたまひしく、
隱國の 泊瀬の川の
上つ瀬に 齋杙五三を打ち、
下つ瀬に ま杙を打ち、
齋杙には 鏡を掛け、
ま杙には ま玉を掛け五四、
ま玉なす 吾が思ふ妹、
鏡なす 吾が思ふ妻、
ありと いはばこそよ、
家にも行かめ。國をも偲はめ。 (歌謠番號九一)
かく歌ひて、すなはち共にみづから死せたまひき。かれこの二歌は讀歌五五なり。
一 帝位につくべきにきまつて。
二 異母の兄弟の婚姻はさしつかえないが、同母の場合は不倫とされる。
三 枕詞。語義不明。
四 地下に木で水の流れる道を作つて。以上譬喩による序。
五 人に知らせないでひそかに問いよる妻。
六 心の中でわが泣いている妻。
七 この夜。今過ぎて行く夜。
八 歌曲の名。しり上げ歌の意という。
九 以上、譬喩による序。ヤは感動の助詞。
一〇 たしかに、しかと。
一一 あの子は別れてもしかたがない。
一二 愛する人と。
一三 枕詞。
一四 歌曲の名。夷振は五六頁に出た。
一五 安康天皇。
一六 物部氏。大前と小前との二人である。
一七 胴に同じ。矢の柄。但し異説がある。
一八 堅固な門。
一九 舞い躍つて。
二〇 袴を結ぶ紐につけた鈴。
二一 宮廷の人が立ちさわぐ。
二二 里の人もさわぐな。宮人がさわいでいるが、そんなに騷ぎを大きくするな。
二三 歌曲の名。
二四 天皇である皇子樣。
二五 枕詞。天飛ぶ雁の意に、カルの音に冠する。
二六 所在不明。
二七 鳩のように。
二八 したたかに。しつかりと。
二九 倚り寢て行き去れ。
三〇 愛媛縣の松山市の熅泉地。道後熅泉。
三一 歌曲の名。歌詞によつて名づける。
三二 その船の餘地で。
三三 わたしの座所をそのままにしておけ。タタミは敷物。人の去つた跡を動かすと、その人が歸つて來ないとする思想がある。
三四 わたしの妻に手をつけるな。
三五 歌曲の名。
三六 輕の大郎女。
三七 敍述による枕詞。
三八 所在不明。
三九 夜があけてからいらつしやい。
四〇 時久しくなつた。
四一 枕詞。次に説明があるが、それでもあきらかでない。ヤマタヅは、樹名今のニワトコで、葉が對生しているから、ムカヘに冠するという。「君が行きけ長くなりぬ山たづね迎へか行かむ待ちにか待たむ」(萬葉集)。
四二 ヲは間投の助詞。
四三 枕詞。山につつまれている處の意。
四四 奈良縣磯城郡。
四五 ヲは高い土地。
四六 サは接頭語。大尾と共にあちこちの高みのところに。以上、次の句の序。
四七 語義不明。上の大尾にと同語を繰り返してオヨソの意を現すか、または別の副詞か。
四八 あなたの妻ときめた。動詞定むが四段活になつている。
四九 枕詞。槻の木の弓。
五〇 伏しても。ころがる意の動詞コユが再活して、伏しまろぶ意にコヤルと言つている。
五一 枕詞。
五二 後も近く見る。
五三 清淨の杙。祭を行うために杙をうつ。
五四 以上序で、次の玉と鏡の二つの枕詞を引き出す。川中に柱を立てて玉や鏡を懸けるのは、これによつて神を招いて穢を拂うのである。「こもりくの泊瀬の川の、上つ瀬に齋杙をうち、下つ瀬にま杙をうち、齋杙には鏡をかけ、ま杙にはま玉をかけ、ま玉なすわが念ふ妹も、鏡なすわが念ふ妹も、ありと言はばこそ、國にも家にも行かめ、誰が故か行かむ」(萬葉集)。
五五 歌曲の名。
御子穴穗の御子一、石の上の穴穗の宮二にましまして天の下治らしめしき。
天皇、同母弟大長谷の王子三のために、坂本の臣等が祖根の臣を、大日下の王四のもとに遣して、詔らしめたまひしくは、「汝が命の妹若日下の王を、大長谷の王子に合はせむとす。かれ獻るべし」とのりたまひき。ここに大日下の王四たび拜みて白さく、「けだしかかる大命もあらむと思ひて、かれ、外にも出さずて置きつ。こは恐し。大命のまにまに獻らむ」とまをしたまひき。然れども言もちて白す事は、それ禮なしと思ひて、すなはちその妹の禮物五として、押木の玉縵六を持たしめて、獻りき。根の臣すなはちその禮物の玉縵を盜み取りて、大日下の王を讒しまつりて曰さく、「大日下の王は大命を受けたまはずて、おのが妹や、等し族の下席にならむ七といひて、大刀の手上取り八て、怒りましつ」とまをしき。かれ天皇いたく怒りまして、大日下の王を殺して、その王の嫡妻長田の大郎女九を取り持ち來て、皇后としたまひき。
これより後に、天皇神牀一〇にましまして、晝寢したまひき。ここにその后に語らひて、「汝思ほすことありや」とのりたまひければ、答へて曰さく「天皇の敦き澤を被りて、何か思ふことあらむ」とまをしたまひき。ここにその大后の先の子目弱の王一一、これ年七歳になりしが、この王、その時に當りて、その殿の下に遊べり。ここに天皇、その少き王の殿の下に遊べることを知らしめさずて、大后に詔りたまはく、「吾は恆に思ほすことあり。何ぞといへば、汝の子目弱の王、人となりたらむ時、吾がその父王を殺せしことを知らば、還りて邪き心一二あらむか」とのりたまひき。ここにその殿の下に遊べる目弱の王、この言を聞き取りて、すなはち竊に天皇の御寢ませるを伺ひて、その傍なる大刀を取りて、その天皇の頸をうち斬りまつりて、都夫良意富美一三が家に逃れ入りましき。天皇、御年五十六歳。御陵は菅原の伏見の岡一四にあり。
ここに大長谷の王、その時童男にましけるが、すなはちこの事を聞かして、慨み怒りまして、その兄黒日子のもとに到りて、「人ありて天皇を取りまつれり。いかにかもせむ」とまをしたまひき。然れどもその黒日子の王、驚かずて、怠緩におもほせり。ここに大長谷の王、その兄を詈りて、「一つには天皇にまし、一つには兄弟にますを、何ぞは恃もしき心もなく、その兄を殺りまつれることを聞きつつ、驚きもせずて、怠に坐せる」といひて、その衣矜を取りて控き出でて、刀を拔きてうち殺したまひき。またその兄白日子の王に到りまして、状を告げまをしたまひしに、前のごと緩に思ほししかば、黒日子の王のごと、すなはちその衣衿を取りて、引き率て、小治田一五に來到りて、穴を掘りて、立ちながらに埋みしかば、腰を埋む時に到りて、二つの目、走り拔けて死せたまひき。
また軍を興して、都夫良意美一六が家を圍みたまひき。ここに軍を興して待ち戰ひて、射出づる矢葦の如く來散りき。ここに大長谷の王、矛を杖として、その内を臨みて詔りたまはく、「我が語らへる孃子一七は、もしこの家にありや」とのりたまひき。ここに都夫良意美、この詔命を聞きて、みづからまゐ出て、佩ける兵を解きて、八度拜みて、白しつらくは、「先に問ひたまへる女子訶良比賣は、侍は一八む。また五處の屯倉一九を副へて獻らむいはゆる五處の屯倉は、今
の葛城の五村の苑人なり。然れどもその正身まゐ向かざる故は、古より今に至るまで、臣連二〇の、王の宮に隱ることは聞けど、王子の臣の家に隱りませることはいまだ聞かず。ここを以ちて思ふに、賤奴意富美は、力をつくして戰ふとも、更にえ勝つましじ。然れどもおのれを恃みて、陋しき家に入りませる王子は、命死ぬとも棄てまつらじ」とかく白して、またその兵を取りて、還り入りて戰ひき。
ここに窮まり、矢も盡きしかば、その王子に白さく、「僕は痛手負ひぬ。矢も盡きぬ。今はえ戰はじ。如何にせむ」とまをししかば、その王子答へて詔りたまはく、「然らば更にせむ術なし。今は吾を殺せよ」とのりたまひき。かれ刀もちてその王子を刺し殺せまつりて、すなはちおのが頸を切りて死にき。
一 安康天皇。
二 奈良縣山邊郡。
三 雄略天皇。
四 仁徳天皇の皇子。
五 禮儀を現す贈物。
六 大きい木で作つた縵。玉は美稱。カヅラは、植物を輪にして頭上にのせる。二五頁參照。この縵、日本書紀に別名として、立縵、磐木縵の名をあげ、また後に根の臣がこれを附けて若日下部の王に見顯されて罪せられる話がある。
七 わしの妹が、同じ仲間の使い女になろうか。ならないの意。
八 刀の柄をしかとにぎつて。
九 允恭天皇の皇女で安康天皇の同母妹に當るから、何か誤傳があるのだろうという。日本書紀には中蒂姫とある。
一〇 九二頁脚註參照。
一一 先の夫大日下の王の子。
一二 わるい心。自分を憎む心。
一三 日本書紀に葛城の圓の大臣。オホミは大臣で尊稱。
一四 奈良縣生駒郡。
一五 奈良縣高市郡。
一六 ツブラオホミに同じ。オミはオホミの約言。
一七 ツブラオミの女カラヒメ。
一八 前にお尋ねになつた女はさしあげます。
一九 註にあるように葛城の五村の倉庫。
二〇 臣や連が。共に朝廷の臣下。
これより後、淡海の佐佐紀の山の君が祖一、名は韓帒白さく、「淡海の久多綿の蚊屋野二に、猪鹿多にあり。その立てる足は、荻原の如く、指擧げたる角は、枯松の如し」とまをしき。この時市の邊の忍齒の王三を相率ひて、淡海にいでまして、その野に到りまししかば、おのもおのも異に假宮を作りて、宿りましき。
ここに明くる旦、いまだ日も出でぬ時に、忍齒の王、平の御心もちて、御馬に乘りながら、大長谷の王の假宮の傍に到りまして、その大長谷の王子の御伴人に詔りたまはく、「いまだも寤めまさぬか。早く白すべし。夜は既に曙けぬ。獵庭にいでますべし」とのりたまひて馬を進めて出で行きぬ。ここに大長谷の王の御許に侍ふ人ども、「うたて物いふ御子なれば、御心したまへ四。また御身をも堅めたまふべし」とまをしき。すなはち衣の中に甲を服し、弓矢を佩ばして、馬に乘りて出で行きて、忽の間に馬より往き雙びて五、矢を拔きて、その忍齒の王を射落して、またその身を切りて、馬樎六に入れて、土と等しく埋みき七。
ここに市の邊の王の王子たち、意祁の王、袁祁の王八二柱。この亂を聞かして、逃げ去りましき。かれ山代の苅羽井九に到りまして、御粮きこしめす時に、面黥ける老人來てその御粮を奪りき。ここにその二柱の王、「粮は惜まず。然れども汝は誰そ」とのりたまへば、答へて曰さく、「我は山代の豕甘一〇なり」とまをしき。かれ玖須婆の河一一を逃れ渡りて、針間の國一二に至りまし、その國人名は志自牟が家一三に入りまして、身を隱して、馬甘牛甘に役はえたまひき一四。
一 佐佐紀の山の君の祖先。山の君はカバネ。
二 滋賀縣愛知郡。
三 履中天皇の皇子。
四 變つたものをいう皇子だから注意しなさい。
五 馬上で進んで並んで。
六 馬の食物を入れる箱。
七 土と共に埋めた。
八 後の仁賢天皇と顯宗天皇。
九 京都府相樂郡。
一〇 豚を飼う者。
一一 淀川。
一二 兵庫縣の南部。
一三 兵庫縣美嚢郡志染村。
一四 馬や牛を飼う者として使われた。なおこの物語は一八二頁に續く。
大長谷の若建の命一、長谷の朝倉の宮二にましまして、天の下治らしめしき。天皇、大日下の王が妹、若日下部の王に娶ひましき。子ましま
さず。また都夫良意富美が女、韓比賣に娶ひて、生みませる御子、白髮の命、次に妹若帶比賣の命二柱。かれ白髮の太子の御名代として、白髮部を定め、また長谷部の舍人を定め、また河瀬の舍人を定めたまひき。この時に呉人三まゐ渡り來つ。その呉人を呉原四に置きたまひき。かれ其地に名づけて呉原といふ。
一 雄略天皇。
二 奈良縣磯城郡。
三 中國南方の人。
四 奈良縣高市郡。
初め大后、日下一にいましける時、日下の直越の道二より、河内に出でましき。ここに山の上に登りまして、國内を見放けたまひしかば、堅魚を上げて舍屋を作れる家三あり。天皇その家を問はしめたまひしく、「その堅魚を上げて作れる舍は、誰が家ぞ」と問ひたまひしかば、答へて曰さく、「志幾の大縣主が家なり」と白しき。ここに天皇詔りたまはく、「奴や、おのが家を、天皇の御舍に似せて造れり」とのりたまひて、すなはち人を遣して、その家を燒かしめたまふ時に、その大縣主、懼ぢ畏みて、稽首白さく、「奴にあれば、奴ながら覺らずて、過ち作れるが、いと畏きこと」とまをしき。かれ稽首の御幣物四を獻る。白き犬に布を縶けて、鈴を著けて、おのが族、名は腰佩といふ人に、犬の繩を取らしめて獻上りき。かれその火著くることを止めたまひき。すなはちその若日下部の王の御許にいでまして、その犬を賜ひ入れて、詔らしめたまはく、「この物は、今日道に得つる奇しき物なり。かれ妻問の物五」といひて、賜ひ入れき。ここに若日下部の王、天皇に奏さしめたまはく、「日に背きていでますこと、いと恐し。かれおのれ直にまゐ上りて仕へまつらむ」とまをさしめたまひき。ここを以ちて宮に還り上ります時に、その山の坂の上に行き立たして、歌よみしたまひしく、
日下部の 此方の山六と
疊薦七 平群の山八の、
此方此方の九 山の峽に
立ち榮ゆる 葉廣熊白檮、
本には いくみ竹一〇生ひ、
末へは たしみ竹一一生ひ、
いくみ竹 いくみは寢ず一二、
たしみ竹 たしには率宿ず一三、
後もくみ寢む その思妻、あはれ。 (歌謠番號九二)
すなはちこの歌を持たしめして、返し使はしき。
一 大阪府北河内郡生駒山の西麓。
二 生駒山のくらがり峠を越える道。大和から直線的に越えるので直越という。
三 屋根の上に堅魚のような形の木を載せて作つた家。大きな屋根の家。カツヲは、堅魚木の意。屋根の頂上に何本も横に載せて、葺草を押える材。
四 敬意を表するための贈物。
五 妻を求むる贈物。
六 今立つている山、生駒山。
七 枕詞。既出。
八 奈良縣生駒郡の山。既出。
九 あちこちの。
一〇 茂つた竹。
一一 しつかりした竹。
一二 密接しては寢ず。
一三 しかとは共に寢ず。
またある時天皇いでまして、美和河一に到ります時に、河の邊に衣洗ふ童女あり。それ顏いと好かりき。天皇その童女に、「汝は誰が子ぞ」と問はしければ、答へて白さく「おのが名は引田部の赤猪子とまをす」と白しき。ここに詔らしめたまひしくは「汝、嫁がずてあれ。今召さむぞ」とのりたまひて、宮に還りましつ。かれその赤猪子、天皇の命を仰ぎ待ちて、既に八十歳を經たり。ここに赤猪子「命を仰ぎ待ちつる間に、已に多の年を經て、姿體痩み萎けてあれば、更に恃むところなし。然れども待ちつる心を顯はしまをさずては、悒きに忍へじ二」と思ひて、百取の机代三の物を持たしめて、まゐ出で獻りき。然れども天皇、先に詔りたまひし事をば、既に忘らして、その赤猪子に問ひてのりたまはく、「汝は誰しの老女ぞ。何とかもまゐ來つる」と問はしければ、ここに赤猪子答へて白さく、「それの年のそれの月に、天皇が命を被りて、大命を仰ぎ待ちて、今日に至るまで八十歳を經たり。今は容姿既に老いて、更に恃むところなし。然れども、おのが志を顯はし白さむとして、まゐ出でつらくのみ」とまをしき。ここに天皇、いたく驚かして、「吾は既に先の事を忘れたり。然れども汝志を守り命を待ちて、徒に盛の年を過ぐししこと、これいと愛悲し」とのりたまひて、御心のうちに召さむと欲ほせども、そのいたく老いぬるを悼みたまひて、え召さずて、御歌を賜ひき。その御歌、
御諸の 嚴白檮がもと四、
白檮がもと ゆゆしきかも五。
白檮原孃子六 (歌謠番號九三)
また歌よみしたまひしく、
引田七の 若栗栖原八、
若くへに九 率寢てましもの。
老いにけるかも。 (歌謠番號九四)
ここに赤猪子が泣く涙、その服せる丹摺の袖一〇を悉に濕らしつ。その大御歌に答へて曰ひしく、
御諸に 築くや玉垣一一、
築きあまし一二 誰にかも依らむ一三。
神の宮人。 (歌謠番號九五)
また歌ひて曰ひしく、
日下江一四の 入江の蓮、
花蓮一五 身の盛人、
ともしきろかも。 (歌謠番號九六)
ここにその老女に物多に給ひて、返し遣りたまひき。かれこの四歌は志都歌一六なり。
一 泊瀬川の、三輪山に接して流れる所。
二 心がはれないのに堪えない。
三 多くの進物。
四 神社の嚴然たる白檮の木の下。
五 憚るべきである。
六 白檮原に住む孃子。引田部の赤猪子を、その住所によつていう。
七 三輪山近くの地名。
八 若い栗の木の原。
九 若い時代に。
一〇 赤い染料ですりつけて染めた衣服の袖。
一一 ヤは感動の助詞。神社で作る垣。
一二 作り殘して。作ることが出來ないで。
一三 誰にたよりましようか。この歌、琴歌譜に載せ、垂仁天皇がお妃と共に三輪山にお登りになつた時の歌とする別傳を載せている。
一四 大和川が作つている江。
一五 以上譬喩。
一六 歌曲の名。
天皇吉野の宮にいでましし時、吉野川の邊に、童女あり、それ形姿美麗かりき。かれこの童女を召して、宮に還りましき。後に更に吉野にいでましし時に、その童女の遇ひし所に留まりまして、其處に大御呉床を立てて、その御呉床にましまして、御琴を彈かして、その童女に儛はしめたまひき。ここにその童女の好く儛へるに因りて、御歌よみしたまひき。その御歌、
呉床座の 神の御手もち一
彈く琴に 儛する女、
常世にもがも二。 (歌謠番號九七)
すなはち阿岐豆野三にいでまして、御獵したまふ時に、天皇、御呉床にましましき。ここに、虻、御腕を咋ひけるを、すなはち蜻蛉來て、その虻を咋ひて、飛びき。ここに御歌よみしたまへる、その御歌、
み吉野の 袁牟漏が嶽四に
猪鹿伏すと、
誰ぞ 大前五に申す。
やすみしし 吾が大君の
猪鹿待つと 呉床にいまし、
白栲の 袖著具ふ六
手腓七に 虻掻き著き、
その虻を 蜻蛉早咋ひ、
かくのごと 名に負はむと、
そらみつ 倭の國を
蜻蛉島とふ。 (歌謠番號九八)
かれその時より、その野に名づけて阿岐豆野といふ。
一 天皇の御手で。作者自身の事に敬語を使うのは、例が多く、これも後の歌曲として歌われたものだからである。
二 永久にありたい。常世は永久の世界。
三 吉野山中にある。藤原の宮時代の吉野の宮の所在地。
四 吉野山中の一峰だろうが、所在不明。
五 天皇の御前。
六 白い織物の衣服の袖を著用している。
七 腕の肉の高いところ。
またある時、天皇葛城の山の上に登り幸でましき。ここに大きなる猪出でたり。すなはち天皇鳴鏑をもちてその猪を射たまふ時に、その猪怒りて、うたき依り來一。かれ天皇、そのうたきを畏みて、榛の木の上に登りましき。ここに御歌よみしたまひしく、
やすみしし 吾が大君の
遊ばしし二 猪の、
病猪の うたき畏み、
わが 逃げ登りし、
あり岡の三 榛の木の枝。 (歌謠番號九九)
またある時、天皇葛城山に登りいでます時に、百官の人ども、悉に紅き紐著けたる青摺の衣を給はりて著たり。その時にその向ひの山の尾四より、山の上に登る人あり。既に天皇の鹵簿に等しく五、またその束裝のさま、また人どもも、相似て別れず。ここに天皇見放けたまひて、問はしめたまはく、「この倭の國に、吾を除きてまた君は無きを。今誰人かかくて行く」と問はしめたまひしかば、すなはち答へまをせるさまも、天皇の命の如くなりき。ここに天皇いたく忿りて、矢刺したまひ、百官の人どもも、悉に矢刺しければ、ここにその人どももみな矢刺せり。かれ天皇また問ひたまはく、「その名を告らさね。ここに名を告りて、矢放たむ」とのりたまふ。ここに答へてのりたまはく、「吾まづ問はえたれば、吾まづ名告りせむ。吾は惡事も一言、善事も一言、言離の神、葛城の一言主の大神六なり」とのりたまひき。天皇ここに畏みて白したまはく、「恐し、我が大神、現しおみまさむとは、覺らざりき七」と白して、大御刀また弓矢を始めて、百官の人どもの服せる衣服を脱がしめて、拜み獻りき。ここにその一言主の大神、手打ちてその捧物を受けたまひき。かれ天皇の還りいでます時、その大神、山の末にいはみて八、長谷の山口九に送りまつりき。かれこの一言主の大神は、その時に顯れたまへるなり。
一 口をあけて近づいてくる。
二 射とめたの敬語法。
三 そこにある岡の。
四 ヲは山の稜線。
五 天皇の行列と同樣に。
六 わしは凶事も一言、吉事も一言で、きめてしまう神の、葛城の一言主の神だ。この神の一言で、吉凶が定まるとする思想。これは託宣に現れる神であるが、この時に現實に出たとするのである。
七 現實のお姿があろうとは思いませんでした。ウツシは現實にある意の形容詞。オミは相手の敬稱。この語、原文「宇都志意美」。從來、現し御身の義とされたが、美はミの甲類の音で、身の音と違う。
八 山のはしに集まつて。
九 天皇の皇居である。
また天皇、丸邇の佐都紀の臣が女、袁杼比賣を婚ひに、春日一にいでましし時、媛女、道に逢ひて、すなはち幸行を見て、岡邊に逃げ隱りき。かれ御歌よみしたまへる、その御歌、
孃子の い隱る岡を
金鉏も 五百箇もがも二。
鉏き撥ぬるもの。 (歌謠番號一〇〇)
かれその岡に名づけて、金鉏の岡といふ。
また天皇、長谷の百枝槻三の下にましまして、豐の樂きこしめしし時に、伊勢の國の三重の婇四、大御盞を捧げて獻りき。ここにその百枝槻の葉落ちて、大御盞に浮びき。その婇、落葉の御盞に浮べるを知らずて、なほ大御酒獻りけるに、天皇、その御盞に浮べる葉を看そなはして、その婇を打ち伏せ、御佩刀をその頸に刺し當てて、斬らむとしたまふ時に、その婇、天皇に白して曰さく、「吾が身をな殺したまひそ。白すべき事あり」とまをして、すなはち歌ひて曰ひしく、
纏向の 日代の宮五は、
朝日の 日照る宮。
夕日の 日陰る宮。
竹の根の 根足る宮六。
木の根の 根蔓ふ宮。
八百土よし七 い杵築の宮八。
ま木さく 日の御門、
新嘗屋九に 生ひ立てる
百足る一〇 槻が枝は、
上つ枝は 天を負へり。
中つ枝は 東を負へり一一。
下枝は 鄙を負へり。
上つ枝の 枝の末葉は
中つ枝に 落ち觸らばへ一二、
中つ枝の 枝の末葉は
下つ枝に 落ち觸らばへ、
下枝の 枝の末葉は
あり衣の一三 三重の子が
捧がせる 瑞玉盃一四に
浮きし脂 落ちなづさひ一五、
水こをろこをろに一六、
こしも あやにかしこし。
高光る 日の御子。
事の 語りごとも こをば一七。 (歌謠番號一〇一)
かれこの歌を獻りしかば、その罪を赦したまひき。ここに大后一八の歌よみしたまへる、その御歌、
倭の この高市一九に
小高る 市の高處二〇、
新嘗屋に 生ひ立てる
葉廣 ゆつま椿、
そが葉の 廣りいまし、
その花の 照りいます
高光る 日の御子に、
豐御酒 獻らせ二一。
事の 語りごとも こをば。 (歌謠番號一〇二)
すなはち天皇歌よみしたまひしく、
ももしきの 大宮人は、
鶉鳥二二 領布二三取り掛けて
鶺鴒二四 尾行き合へ
庭雀二五、うずすまり居て
今日もかも 酒みづくらし二六。
高光る 日の宮人。
事の 語りごとも こをば。 (歌謠番號一〇三)
この三歌は、天語歌二七なり。かれ豐の樂に、その三重の婇を譽めて、物多に給ひき。
この豐の樂の日、また春日の袁杼比賣が大御酒獻りし時に、天皇の歌ひたまひしく、
水灌く二八 臣の孃子、
秀罇取らすも二九。
秀罇取り 堅く取らせ。
下堅く 彌堅く取らせ。
秀罇取らす子。 (歌謠番號一〇四)
こは宇岐歌三〇なり。ここに袁杼比賣、歌獻りき。その歌、
やすみしし 吾が大君の
朝戸三一には い倚り立たし、
夕戸には い倚り立たす
脇几三二が 下の
板にもが。吾兄三三を。 (歌謠番號一〇五)
こは志都歌三四なり。
天皇、御年、一百二十四歳。己巳の年八月九日
崩りたまひき。御陵は河内の多治比の高鸇三五にあり。
一 和邇氏の居住地で、奈良市の東部。
二 金屬の鋤もたくさんほしい。
三 枝のしげつた槻の木。
四 伊勢の國の三重の地から出た采女。ウネメは、地方の豪族の女子を召し出して宮廷に奉仕させる。後に法制化される。
五 景行天皇の皇居。長谷の朝倉の宮とは、離れている。この歌は歌曲の歌で、その物語を雄略天皇の事として取り上げたものだろう。
六 根の張つている宮。
七 枕詞。たくさんの土。
八 杵でつき堅めた宮。
九 新穀で祭をする家屋。
一〇 枝が茂つて充實している。
一一 東方をせおつている。
一二 續いて觸れている。
一三 枕詞。そこにある衣の三重と修飾する。
一四 ミヅは生氣のある。美しい盃。
一五 浮いた脂のように落ち漂つて。ナヅサヒは、水を分ける。
一六 水がごろごろして。この數句、天地の初發の神話に見える句で、その神話の傳え手との關係を思わせるものがある。
一七 四五頁參照。
一八 皇后。
一九 高いところ。
二〇 市の高み。
二一 奉るの敬語の命令形。
二二 譬喩による枕詞。鶉は頭から胸にかけて白い斑があるので、領布をかけるに冠する。
二三 四二頁參照。
二四 譬喩。セキレイ。
二五 譬喩による枕詞。
二六 酒宴をするらしい。
二七 歌曲の名。
二八 枕詞。オミ(大きい水、海)に冠する。
二九 たけの高い酒瓶をお取りになる。
三〇 歌曲の名。酒盃の歌の意。
三一 朝の御座。
三二 よりかかる机、脇息。
三三 はやし詞。
三四 歌曲の名。
三五 大阪府南河内郡。
御子、白髮の大倭根子の命一、伊波禮の甕栗の宮二にましまして、天の下治らしめしき。
この天皇、皇后ましまさず、御子もましまさざりき。かれ御名代として、白髮部を定めたまひき。かれ天皇崩りまして後、天の下治らすべき御子ましまさず。ここに日繼知らしめさむ御子を問ひて、市の邊の忍齒別の王の妹、忍海の郎女、またの名は飯豐の王、葛城の忍海の高木の角刺の宮三にましましき。
一 清寧天皇。
二 奈良縣磯城郡。
三 奈良縣南葛城郡。
ここに山部の連小楯、針間の國の宰一に任さされし時に、その國の人民名は志自牟が新室に到りて樂しき。ここに盛に樂げて酒酣なるに、次第をもちてみな儛ひき。かれ火燒の小子二人、竈の傍に居たる、その小子どもに儛はしむ。ここにその一人の小子、「汝兄まづ儛ひたまへ」といへば、その兄も、「汝弟まづ儛ひたまへ」といひき。かく相讓る時に、その會へる人ども、その讓れる状を咲ひき。ここに遂に兄儛ひ訖りて、次に弟儛はむとする時に、詠したまひつらく、
物の部二の、わが夫子が、取り佩ける、大刀の手上に、丹書き著け三、その緒には、赤幡を裁ち四、赤幡たちて見れば、い隱る、山の御尾の、竹を掻き苅り、末押し靡かすなす五、八絃の琴を調べたるごと六、天の下治らし給びし、伊耶本和氣の天皇七の御子、市の邊の押齒の王の、奴、御末八。
とのりたまひつ。ここにすなはち小楯の連聞き驚きて、床より墮ち轉びて、その室の人どもを追ひ出して、その二柱の御子を、左右の膝の上に坐せまつりて、泣き悲みて、人民どもを集へて、假宮を作りて、その假宮に坐せまつり置きて、驛使上りき。ここにその御姨飯豐の王、聞き歡ばして、宮に上らしめたまひき。
一 播磨の國の長官。この物語は、一六八頁の市の邊の忍齒の王の殺された物語の續きになる。
二 朝廷に仕える部族。古くは武士には限らない。
三 大刀の柄に赤い畫をかき。
四 赤い織物を切つて。
五 竹の末をおし伏せるように。勢いのよい形容。
六 絃の多い琴をひくように。さかんにの形容。
七 履中天皇。
八 われらはその子孫である。
かれ天の下治らしめさむとせしほどに、平群の臣が祖、名は志毘の臣、歌垣に立ちて一、その袁祁の命の婚はむとする美人の手を取りつ。その孃子は、菟田の首等が女、名は大魚といへり、ここに袁祁の命も歌垣に立たしき。ここに志毘の臣歌ひて曰ひしく、
大宮の をとつ端手二 隅傾けり。 (歌謠番號一〇六)
かく歌ひて、その歌の末を乞ふ時に、袁祁の命歌ひたまひしく、
大匠 拙劣みこそ三 隅傾けれ。 (歌謠番號一〇七)
ここに志毘の臣、また歌ひて曰ひしく、
大君の 心をゆらみ四、
臣の子の 八重の柴垣
入り立たずあり。 (歌謠番號一〇八)
ここに王子また歌ひたまひしく、
潮瀬の 波折を見れば五、
遊び來る 鮪が端手に
妻立てり見ゆ。 (歌謠番號一〇九)
ここに志毘の臣、いよよ忿りて歌ひて曰ひしく、
大君の 王の柴垣、
八節結り 結りもとほし六
截れむ柴垣。燒けむ柴垣。 (歌謠番號一一〇)
ここに王子また歌ひたまひしく、
大魚よし七 鮪衝く八海人よ、
其があれば うら戀しけむ九。
鮪衝く鮪一〇。 (歌謠番號一一一)
かく歌ひて、鬪ひ明して一一、おのもおのも散けましつ。明くる旦時、意祁の命、袁祁の命二柱議りたまはく、「およそ朝廷の人どもは、旦には朝廷に參り、晝は志毘が門に集ふ。また今は志毘かならず寢ねたらむ。その門に人も無けむ。かれ今ならずは、謀り難けむ」とはかりて、すなはち軍を興して、志毘の臣が家を圍みて、殺りたまひき。
ここに二柱の御子たち、おのもおのも天の下を讓りたまひき。意富祁の命一二、その弟袁祁の命に讓りてのりたまはく、「針間の志自牟が家に住みし時に、汝が命名を顯はさざらませば一三、更に天の下知らさむ君とはならざらまし。これ既に汝が命の功なり。かれ吾、兄にはあれども、なほ汝が命まづ天の下を治らしめせ」とのりたまひて、堅く讓りたまひき。かれえ辭みたまはずて、袁祁の命、まづ天の下治らしめしき。
一 男女あつまつて互に歌をかけあう行事に出て。
二 あちらの出ている所。
三 大工が下手だから。
四 心がゆるいので。
五 海水の瀬にうちかかる波を見れば。ナヲリは、波がよせてくずれるもの。
六 多くの小間で結んで、結び𢌞らしてあるが。
七 枕詞。大きい魚よ。
八 シビは、マグロの大きいもの。ここは志毘の臣をいう。モリで突くから、シビツクという。
九 志毘があるので、姫が心中戀しく思われるだろう。
一〇 その鮪を突く、鮪を。この歌、宣長は、別の時の王子の歌といい、橘守部は、志毘の臣の歌だという。
一一 歌をかけ合つて夜を明かして。
一二 オケの命に同じ。仁賢天皇。元來、この兄弟は、オホ(大)、ヲ(小)を冠する御名になつているので、オケのオも大の意である。
一三 あなたが名を顯さなかつたとしたら。
伊弉本別の王の御子、市の邊の忍齒の王の御子、袁祁の石巣別の命一、近つ飛鳥の宮二にましまして、八歳天の下治らしめしき。この天皇、石木の王の女難波の王に娶ひしかども、御子ましまさざりき。
この天皇、その父王市の邊の王の御骨を求ぎたまふ時に、淡海の國なる賤しき老媼まゐ出て白さく、「王子の御骨を埋みし所は、もはら吾よく知れり。またその御齒もちて知るべし」とまをしき。御齒は三枝なす三
押齒に坐しき。ここに民を起てて、土を掘りて、その御骨を求ぎて、すなはちその御骨を獲て、その蚊屋野の東の山に、御陵作りて葬めまつりて、韓帒四が子どもに、その御陵を守らしめたまひき。然ありて後に、その御骨を持ち上りたまひき。かれ還り上りまして、その老媼を召して、その見失はず、さだかにその地を知れりしことを譽めて、置目の老媼五といふ名を賜ひき。よりて宮の内に召し入れて、敦く廣く惠みたまふ。かれその老媼の住む屋をば、宮の邊近く作りて、日ごとにかならず召す。かれ大殿の戸に鐸六を掛けて、その老媼を召したまふ時は、かならずその鐸を引き鳴らしたまひき。ここに御歌よみしたまへる、その歌、
淺茅原 小谷を過ぎて七、
百傳ふ八 鐸搖くも。
置目來らしも。 (歌謠番號一一二)
ここに置目の老媼、「僕いたく老いにたれば、本つ國に退らむとおもふ」とまをしき。かれ白せるまにまに、退りし時に天皇見送りて歌よみしたまひしく、
置目もや九 淡海の置目、
明日よりは み山隱りて
見えずかもあらむ。 (歌謠番號一一三)
初め天皇、難に逢ひて、逃げましし時に、その御粮を奪りし猪甘の老人を求ぎたまひき。ここに求ぎ得て、喚び上げて、飛鳥河の河原に斬りて、みなその族どもの膝の筋を斷ちたまひき。ここを以ちて今に至るまで、その子孫倭に上る日、かならずおのづから跛くなり。かれその老の所在を能く見しめき。かれ其處を志米須一〇といふ。
天皇、その父王を殺したまひし大長谷の天皇一一を深く怨みまつりて、その御靈一二に報いむと思ほしき。かれその大長谷の天皇の御陵を毀らむと思ほして、人を遣す時に、その同母兄意祁の命奏して言さく、「この御陵を壞らむには、他し人を遣すべからず。もはら僕みづから行きて、大君の御心のごと壞りてまゐ出む」とまをしたまひき。ここに天皇、「然らば命のまにまにいでませ」と詔りたまひき。ここを以ちて意祁の命、みづから下りいでまして、その御陵の傍を少し掘りて還り上らして、復奏して言さく、「既に掘り壞りぬ」とまをしたまひき。ここに天皇、その早く還り上りませることを怪みまして、「如何に壞りたまひつる」と詔りたまへば、答へて白さく、「その御陵の傍の土を少し掘りつ」とまをしたまひき。天皇詔りたまはく、「父王の仇を報いまつらむと思へば、かならずその御陵を悉に壞りなむを。何とかも少しく掘りたまひつる」と詔りたまひしかば、答へて曰さく、「然しつる故は、父王の仇を、その御靈に報いむと思ほすは、誠に理なり。然れどもその大長谷の天皇は、父の仇にはあれども、還りては一三我が從父一四にまし、また天の下治らしめしし天皇にますを、今單に父の仇といふ志を取りて、天の下治らしめしし天皇の御陵を悉に壞りなば、後の人かならず誹りまつらむ。ただ、父王の仇は、報いずはあるべからず。かれその御陵の邊を少しく掘りつ。既にかく恥かしめまつれば、後の世に示すにも足りなむ」と、かくまをしたまひしかば、天皇、答へ詔りたまはく、「こもいと理なり。命の如くて可し」と詔りたまひき。かれ天皇崩りまして、すなはち意富祁の命、天つ日繼知らしめき。
天皇、御年三十八歳、八歳天の下治らしめしき。御陵は片岡の石坏の岡一五の上にあり。
一 顯宗天皇。
二 大阪府南河内郡。
三 先が三つに別れた大きい齒であつた。
四 一六八頁に出た佐佐紀の山の君の祖。
五 見ておいたお婆さん。
六 大形の鈴。
七 淺茅の原や谷を過ぎて。さまざまの地形を通つて。
八 方々傳つて。
九 置目と呼びかける語法。モヤは感動の助詞。この句、日本書紀に「置目もよ」。
一〇 所在不明。
一一 雄略天皇。
一二 既に崩ぜられたのでかくいう。
一三 また考えれば。
一四 雄略天皇と押齒の王とは仁徳天皇の孫で從兄弟であり、仁賢顯宗の兩天皇からは、雄略天皇は、父のいとこに當る。
一五 奈良縣北葛城郡。
袁祁の王の兄、意富祁の王一、石の上の廣高の宮二にましまして、天の下治らしめしき。天皇、大長谷の若建の天皇の御子、春日の大郎女に娶ひて、生みませる御子、高木の郎女、次に財の郎女、次に久須毘の郎女、次に手白髮の郎女、次に小長谷の若雀の命、次に眞若の王。また丸邇の日爪の臣が女、糠の若子の郎女に娶ひて、生みませる御子、春日の小田の郎女。この天皇の御子たち、并せて、七柱。この中、小長谷の若雀の命は天の下治らしめしき。
一 仁賢天皇。この天皇の記事には御陵の事がない。これから以下は、物語の部分が無く、帝紀の原形に近いようである。
二 奈良縣山邊郡。
小長谷の若雀の命一、長谷の列木の宮二にましまして、八歳天の下治らしめしき。この天皇、太子ましまさず。かれ御子代として、小長谷部を定めたまひき。御陵は片岡の石坏の岡三にあり。天皇既に崩りまして、日續知らしめすべき王ましまさず。かれ品太の天皇四五世の孫五、袁本杼の命を近つ淡海の國より上りまさしめて、手白髮の命に合はせて、天の下を授けまつりき。
一 武烈天皇。
二 奈良縣磯城郡。
三 奈良縣北葛城郡。
四 應神天皇。
五 オホホドの王の系統であるが、古事記日本書紀にはその系譜は記されない。ただ釋日本紀に引いた上宮記という今日亡んだ書にだけその系譜が見える。應神天皇─若野毛二俣の王─意富富杼の王─宇非の王─彦大人の王─袁本杼の王。
品太の王の五世の孫袁本杼の命一、伊波禮の玉穗の宮二にましまして、天の下治らしめしき。天皇三尾の君等が祖、名は若比賣に娶ひて、生みませる御子、大郎子、次に出雲の郎女二柱。また尾張の連等が祖、凡の連が妹、目子の郎女に娶ひて、生みませる御子、廣國押建金日の命、次に建小廣國押楯の命二柱。また意富祁の天皇の御子、手白髮の命こは大后
にます。に娶ひて、生みませる御子、天國押波流岐廣庭の命一柱。また息長の眞手の王が女、麻組の郎女に娶ひて、生みませる御子、佐佐宜の郎女一柱。また坂田の大俣の王が女、黒比賣に娶ひて、生みませる御子、神前の郎女、次に茨田の郎女、次に白坂の活目子の郎女、次に小野の郎女、またの名は長目比賣四柱三。また三尾の君加多夫が妹、倭比賣に娶ひて、生みませる御子、大郎女、次に丸高の王、次に耳の王、次に赤比賣の郎女四柱。また阿部の波延比賣に娶ひて、生みませる御子、若屋の郎女、次に都夫良の郎女、次に阿豆の王三柱。この天皇の御子たち、并せて十九王。男王七柱、女
王十二柱。この中、天國押波流岐廣庭の命は、天の下治らしめしき。次に廣國押建金日の命も天の下治らしめしき。次に建小廣國押楯の命も天の下治らしめしき。次に佐佐宜の王は、伊勢の神宮をいつきまつりたまひき。この御世に、竺紫の君石井四、天皇の命に從はずして禮無きこと多かりき。かれ物部の荒甲の大連、大伴の金村の連二人を遣はして、石井を殺らしめたまひき。
天皇、御年四十三歳。丁未の年四月九日
崩りたまひき。御陵は三島の藍の陵五なり。
一 繼體天皇。
二 奈良縣磯城郡。
三 次に茨田の郎女以下、底本に「次田郎女次田郎女次白坂沽日子郎女次野郎女亦名長目比賣、二柱」とあり、古事記傳に「次茨田郎女次馬來田郎女三柱、又娶茨田連小望之女關比賣生御子茨田大郎女次白坂活日子郎女次小野郎女亦名長目比賣三柱」とする。
四 福岡縣久留米市の附近に居た豪族。
五 大阪府三島郡。
御子廣國押建金日の王一、勾の金箸の宮二にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、御子ましまさざりき。乙卯の年三月十三
日崩りたまひき。御陵は河内の古市の高屋の村三にあり。
一 安閑天皇。
二 奈良縣高市郡。
三 大阪府南河内郡。
弟建小廣國押楯の命一、檜坰の廬入野の宮二にましまして、天の下治らしめしき。天皇、意祁の天皇の御子、橘の中比賣の命に娶ひて、生みませる御子、石比賣の命、次に小石比賣の命、次に倉の若江の王、また河内の若子比賣に娶ひて、生みませる御子、火の穗の王、次に惠波の王。この天皇の御子たち并せて五王。男王三柱、
女王二柱。かれ火の穗の王は、志比陀の君が祖なり三。惠波の王は、韋那の君、多治比の君が祖なり。
一 宣化天皇。この天皇の記事にも御陵の事がない。
二 奈良縣高市郡。
三 欽明天皇。この天皇の記事にも御陵の事がない。
弟天國押波流岐廣庭の天皇、師木島の大宮一にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、檜坰の天皇二の御子、石比賣の命に娶ひて、生みませる御子、八田の王、次に沼名倉太玉敷の命、次に笠縫の王三柱。またその弟小石比賣の命に娶ひて、生みませる御子、上の王一柱。また春日の日爪の臣が女、糠子の郎女に娶ひて、生みませる御子、春日の山田の郎女、次に麻呂古の王、次に宗賀の倉の王三柱。また宗賀の稻目の宿禰の大臣が女、岐多斯比賣に娶ひて、生みませる御子、橘の豐日の命、次に妹石坰の王、次に足取の王、次に豐御氣炊屋比賣の命、次にまた麻呂古の王、次に大宅の王、次に伊美賀古の王、次に山代の王、次に妹大伴の王、次に櫻井の玄の王、次に麻怒の王、次に橘の本の若子の王、次に泥杼の王十三
柱。また岐多志比賣の命が姨、小兄比賣に娶ひて、生みませる御子、馬木の王、次に葛城の王、次に間人の穴太部の王、次に三枝部の穴太部の王、またの名は須賣伊呂杼、次に長谷部の若雀の命五柱。およそこの天皇の御子たち并はせて二十五王、この中、沼名倉太玉敷の命は、天の下治らしめしき。次に橘の豐日の命も、天の下治らしめしき。次に豐御氣炊屋比賣の命も、天の下治らしめしき。次に長谷部の若雀の命も、天の下治らしめしき。并せて四王天の下治らしめしき。
一 奈良縣磯城郡。この皇居の地名から、しき島の大和というようになつた。
二 宣化天皇。
御子沼名倉太玉敷の命一、他田の宮二にましまして、一十四歳、天の下治らしめしき。この天皇、庶妹豐御食炊屋比賣の命に娶ひて、生みませる御子、靜貝の王、またの名は貝鮹の王、次に竹田の王、またの名は小貝の王、次に小治田の王、次に葛城の王、次に宇毛理の王、次に小張の王、次に多米の王、次に櫻井の玄の王八柱。また伊勢の大鹿の首が女、小熊子の郎女に娶ひて、生みませる御子、布斗比賣の命、次に寶の王、またの名は糠代比賣の王二柱。また息長眞手の王が女、比呂比賣の命に娶ひて、生みませる御子、忍坂の日子人の太子、またの名は麻呂古の王、次に坂騰の王、次に宇遲の王三柱。また春日の中つ若子が女、老女子の郎女に娶ひて、生みませる御子、難波の王、次に桑田の王、次に春日の王、次に大俣の王四柱。この天皇の御子たち并せて十七王の中に、日子人の太子、庶妹田村の王、またの名は糠代比賣の命に娶ひて、生みませる御子、岡本の宮にましまして、天の下治らしめしし天皇三、次に中つ王、次に多良の王三柱。また漢の王が妹、大俣の王に娶ひて、生みませる御子、智奴の王、次に妹桑田の王二柱。また庶妹玄の王に娶ひて、生みませる御子、山代の王、次に笠縫の王二柱。并はせて七王。甲辰の年四月六日
崩りたまひき。御陵は川内の科長四にあり。
一 敏達天皇。
二 奈良縣磯城郡。
三 舒明天皇。この即位の事は、古事記の記事中もつとも新しい事實である。
四 大阪府南河内郡。
弟橘の豐日の命一、池の邊の宮二にましまして、三歳天の下治らしめしき。この天皇、稻目の大臣が女、意富藝多志比賣に娶ひて、生みませる御子、多米の王一柱。また庶妹間人の穴太部の王に娶ひて、生みませる御子、上の宮の厩戸の豐聰耳の命三、次に久米の王、次に植栗の王、次に茨田の王四柱。また當麻の倉首比呂が女、飯の子に娶ひて、生みませる御子、當麻の王、次に妹須賀志呂古の郎女二柱。
この天皇丁未の年四月十五
日崩りたまひき。御陵は石寸の池の上四にありしを、後に科長の中の陵に遷しまつりき。
一 用明天皇。
二 奈良縣磯城郡。
三 聖徳太子。
四 奈良縣磯城郡。
弟長谷部の若雀の天皇一、倉椅の柴垣の宮二にましまして、四歳天の下治らしめしき。壬子の年十一月十三
日崩りたまひき。御陵は倉椅の岡の上三にあり。
一 崇峻天皇。
二 奈良縣磯城郡。
三 同前。
妹豐御食炊屋比賣一の命、小治田の宮二にましまして、三十七歳天の下治らしめしき。戊子の年三月十五日癸
丑の日崩りたまひき。御陵は大野の岡の上三にありしを、後に科長の大陵四に遷しまつりき。
一 推古天皇。
二 奈良縣高市郡。
三 奈良縣宇陀郡。
四 大阪府南河内郡。
古事記 下つ卷
底本:「古事記」角川文庫、角川書店
1956(昭和31)年5月20日初版発行
1965(昭和40)年9月20日20版発行
底本の親本:「眞福寺本」
※底本は校注が脚註の形で配置されています。このファイルでは校註者が追加した標題ごとに、書き下し文、校注の順序で編成しました。その際、校注は二字下げとしました。
※〔〕は底本の親本にはないもので、校註者が補った箇所を表します。
※頁数を引用している箇所には校註者が追加した標題を注記しました。
※底本は書き下し文のみ歴史的かなづかいで、その他は新かなづかいです。なお拗音・促音は小書きではありません。
入力:川山隆
校正:しだひろし
2013年5月21日作成
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