アパートで聞いた話
小川未明
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そのおじさんは、いつも考えこんでいるような、やさしい人でした。少年は、その人のへやへいきました。
「なにか、お話をしてくださいませんか。」と、たのみました。
「どんな話かね。」と、おじさんは、聞きました。
「どんな話でもいいのです。」と、少年がいうと、おじさんは、つぎのような話をしてくれたのです。
二、三日まえの新聞にあったが、街の中央へビルディングができるので、地を深くほりさげていると、動物の骨が出てきた。それを学者がしらべて、およそ二万年も前の人間の骨で、まだ若い二十歳前後の女らしいが、たぶん波にただよって、岸に死体がついたものだろう。この街のあるところが、当時は海岸であったのがわかるというのだ。
この記事を見て、私は考えさせられた。大和族より、もっとさきに住んでいた民族であろう。そのような遠い昔から、人類には悲しみや、不幸というものが、つきまとっていたのを知ったからだ。いかなる災難か、またなやみからで、その女は死んだのであるが、若い身でありながら、人生のよろこびも、たのしみも、じゅうぶん知らずして、死んでしまったのだ。
幾十世紀かの間には、海が陸となったり、また陸が海になったりして、おどろくような事実があるにちがいないが、それよりも、人間の生命のはかなさというものを、より強く感じられる。そして、いつの世でも、一生をぶじ幸福に生きるということは、容易のことでないらしい。
このアパートの、下のへやにいる娘さんをごらん。つとめに出るときは、お化粧をして、そのふうがりっぱなので、人目には、いきいきとして、美しくうつるので、さぞゆかいな日を送ってるだろうと思うけれど、家へ帰って、仕事をするときのすがたを見ると、つかれて顔色が青白いじゃないか。母親が病気で長くねていては、自分は気分がわるいからとて、休むことさえできないのだ。
ゆうべも、この窓から大空をながめると、数えきれないほどの、たくさんな星の群れだ。それらの星が、思い思い美しく光っている。なんとなく、見ていてうらやましい。おそらく、永久に夜ごと、こうしてさんらんとして輝くことだろう。それだのに、人間だけは、どうして、こんなにはかないのだ。
私は思った。人間には、みずからをまもり、あいてをとうとぶという美しい道があったのを忘れたからである。それで、破滅をいそぐような、自殺をしたり、戦争を起こしたりするのだ。
自然界に法則があれば、人間界にも法則がある。どの星を見ても、ほこらしげに、また安らけく輝くのは、天体の法則を守るからだ。もし、星が、軌道をあやまつなら、瞬間にして、くだけて、ちってしまったろう。
「おじさんは、星を見るのがすきですか。」と、少年は、聞きました。
「私は、子供の時分、星空を見るのが、なにより好きだった。神さまのかいた絵でも見るようで、いろいろふしぎな空想にふけったものだ。」
「どうも、ありがとうございました。」と、少年は、おじさんのへやを出ました。
つぎに少年は、元気な、ほがらかな青年に話を聞こうと思いました。
「お兄さん、なにか話をしてください。」と、たのみました。
「どんな話だい。」と、ふいにいわれたので、彼は、おどろいて、少年の顔を見ました。
「なにか、ためになるような。」と、少年がいうと、青年は、うなずきながら、
「それなら、感心したことがあるよ。それを聞いてもらおうか。」と、まえおきして、
「このあいだ、にぎやかな町の通りを歩いたのだ。せまい往来を自転車が走り、自動車が通り、ときどき道はばいっぱいの、トラックがいく。そのうえ、人間でごったがえしていた。じっさい、どこもかしこも、人間ばかりだという感じがした。両がわの店では、たがいにおなじような品物をならべて、競争をしあっている。どこを見ても、ただ自分だけは生きなければならぬとあせっているので、すこしものんびりとしたところがない。もし、おたがいに気持ちをかえて、生活を新しく出なおしでもしなければ、人間は、死ぬまで、この苦しみをつづけなければならぬだろうと、おそろしくなったよ。」
「しかし、お兄さんは、いつもゆかいそうに見えるがなあ。」と、少年は、いいました。なぜなら、頭はきれいにわけているし、くつはぴかぴか光っているし、口笛などふいて歩くし、どこにも、苦労なんか、なさそうだからでした。
「そんなに、ぼくが見えるかえ。」と、青年は笑って、話のあとをつづけました。
「それは、ぼくもたまには、ダンスをやるし、映画や、スポーツを見にもいくさ。なにしろ息づまるような世の中だもの、それくらいはしかたがないだろう。だが、そんなことしたって、なんにもならないよ。ただゆううつを感じるばかりだ。ところが、ほんとうに考えさせられることがあった。町を歩いていたときだ。とつぜん、頭の上の拡声器から、女の声が、がなりはじめて、夏ものの投げ売り宣伝や、駅前に喫茶店が開業した広告や、その他うるさくさえ思ったのを、なに町なん丁目のくつ店では、みなさまによい品をお安くサービスしますといったので、ぼくは、さっそくその店へいってみる気になった。それほどくつが必要にせまられていたのだ。すると、たしかにほかの店よりは、よい品物が安く買えるので、求めたのである。
『時節がら、みなさまの身にもなってみまして、てまえどもは、食べていければいいという精神で、ご奉公をしています。』と、主人は、いった。いまどきこんな考えをもつものがあろうかと、なんだか、うそのような気がしたけれど、無上にうれしかった。そして、急にこの世の中が明るくなったようで、希望がもてたのである。たとえ、食うために、身を機械にしてアナウンスしても、あの女までが、いい仕事をしているように見えて、ぼくは、自分を恥ずかしく思ったのだ。」
「お兄さん。すると、自分のことばかり考えず、他人のことも思うなら、この世の中は、明るくなるんですね。」と、少年は、聞きました。
「それも、一人や、二人ではだめだ。道を歩くもの、電車に乗るもの、めいめいが職場をもっている。そして、社会と関係のない仕事というものはないのだから、みんなが、その気になればいいと思うのだよ。」
二人の話を聞いて、その日から、少年に、アパートの人々を見なおす気がおこったのでした。
底本:「定本小川未明童話全集 14」講談社
1977(昭和52)年12月10日第1刷発行
1983(昭和58)年1月19日第5刷発行
底本の親本:「太陽と星の下」あかね書房
1952(昭和27)年1月
※表題は底本では、「アパートで聞いた話」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井裕二
2018年8月28日作成
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